「ほら、しっかりしろ」
私はやすなに肩を貸しつつ、身体に手を添え支えてやる。
私達が歩を進める度に、砂利ついたコンクリートのずりずりと鳴く音が裏路地に響いていた。
耳障りだと思いながらも、私達にはそうする他にない。
ふと、足元を駆け抜ける影が一つ。
そいつは数歩先で立ち止まり、私達を一瞥していった。
こいつらにとっては望み通りの状況なのかもしれないな。豪勢な食事がそこら中に転がっているのだから。
だが御生憎様だな。私達は奴等じゃない。
次に汚ならしいその目を向けてくるのなら、ナイフの餌食に云々。
さっさと何処かに消えてくれ、そんな私の意思やら脅しやらが通じたのか、尻尾を巻いて逃げていった。
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「ごめんね、ソーニャちゃん」
私の位置からでは、俯くやすなの表情は分からない。
しかし、垂れ下がる前髪の隙間からは、やすなの白い歯が電灯の明かりを映していた。
やすなの足取りは覚束無く、私の支え無しではとても歩けはしないだろう。
暗さのせいか、それとも怖さのせいなのか。何度も地面の物や者の躓きかけるので、私はその度に足元への注意を促した。
それでもやすなの反応は鈍く、時折に共々転びそうになるのを何とか踏ん張り堪えては歩き続けた。
「こんなだから、噛まれちゃうんだよね」
「相変わらずノロマな奴め」
へへへ、とやすなは小さく身体を揺らす。思わず口から出てしまった軽口を、文字通りに受け取ってしまったのだろうか。
胸の端っこで寂しさを感じつつも、私は前を向く。思えばやすなの察しが良い時なんて、ろくなことはなかったなと一人思い返しながら。
肩に回したやすなの腕はあまりにも冷たく、しっかりと手を握ろうが十分な熱は感じられない。
一方で吐息は荒く、肩での呼吸が大きくなっている。とはいえ、今までの戦闘や逃走劇を繰り広げたの私の身体も対して差は無いだろう。
このやすなを支えながらの移動は非常に堪えるものがあり、まるで全身の間接に鉛が押し詰まっているかの如く、身体が言うことを利かなくなってきている。
それでも一歩、また一歩と地面を蹴った。
こんな所でくたばるのは死んでもごめんだ。生きてるからこそなおごめんだ。
物陰や生きた電灯がある道を見つけ、角を曲がる。
何とかやすなを支え寄せながら、再び足を振り進む。
滴る汗が目に入り、酷くしみた。
「ソーニャちゃん。なんだか、痛くなくなってきたかも。楽になってきたよ。さっすが私だね、丈夫さだけには自信があるから」
流石だな、その台詞が喉で詰まったきり出て来ない。
今口を開けば、心ない言葉が心配を押しのけて、やすなを傷つけてしまいそうで。
どこまで私は、何というか。不器用なんだろう。認めたくはないが。
言葉とは裏腹に、やすなの動きは歩けば歩いた分だけ動きが鈍くなっていた。
私自身の体力も限界に近い。これ以上外で気を張り続けていたら、あの時の様な失敗があるのは火を見るよりも明らかだ。
「ちょっと待ってろ」
やすなを壁にもたれさせ、私はこの路に面したドアノブを手当たり次第に引いていく。
試みて三つ目の扉には鍵が掛かっておらず、その隙間から内部を視認する。天井の蛍光灯がちらちらと明暗を繰り返しているから、電気は生きているのだろう。見たところ奴等の姿もなければ気配もない。
随分と古ぼけた低階ビルではあるが、その方がかえって都合が良い。こんなところに逃げ込む物好きはそういないだろう。
例え人間でも、今のやすなを見て何をしてくるかは分からない。また、いつ目の前の人間が奴等に、なんてことも起こりうる。
それに、二人だけで在りたかったから。
私は再びやすなに肩を貸し、ビルの中へと足を踏み入れる。
すぐに逃げられる様に、侵入口でもある裏口の鍵は掛けないでおく。外から侵入するには扉を引く必要がある。もし奴等に扉を引くといった知能が備わっていたとしたら、もはや鍵を掛けようが掛けまいがおしまいだ。
とにかくやすなを休ませたかった。無理をしてまでも浮かべる笑顔を、これ以上見ていられる自信がない。
休める部屋を探しながら、私達は慎重に進んでいった。
本来なら二階や三階の部屋に入り少しでも外の危険から距離を取るのが理想だが、エレベーターのないこのビルでは、今のやすなを支えながら階段を上る必要があり、とても可能だとは思えない。
一階の部屋でなるべくビル中央の部屋を探すべく歩を進める。奴等の襲撃時、柔軟に逃走ルートを確保する為に。
おそらく最も中心にあるだろう部屋の扉に手を掛ける。左右どちらからも出入り口へと繋がる廊下があり、幸い鍵も掛かっていなかった。
やすなを再び廊下で待たせ、私独りで部屋に侵入する。素早く照明のスイッチを押し部屋を見渡すが、人影はなく、金属の棚や段ボールが乱雑に山積まれていた。資材倉庫とでも呼ぶのが相応しいだろうか。
二人分のスペースを確保する為に、その煩雑とした物々をどけていく。段ボールを蹴飛ばしていたつもりが途中、棚まで蹴り倒してしまったものだから、耳障りな金属音が部屋を駆け巡った。おまけに足も悲鳴をあげた。
何してんだ、私。奴等に聞かれたらどうする。
普段では有り得なかったミスに、想像以上に焦っている事を痛感させられる。私自身隅々まで気を張り巡らせているつもりが、どうにも感覚が鈍い。
そんなのだから、やつらにやすなが。
私がしっかりしていれば、まだやすなを。
私のせいで、私のせいでやすなは。
腹の底から込み上げる不快感が私を更に苛立たせる。いくら手のひらに爪が食い込ませても、私を満足させる程の痛みは訪れない。
沸騰しそうな頭を震わせるも、得られたのは情けなさと憤りの念だけで、ぐるぐると胸の中を巡り暴れる衝動を抑えることは叶わない。
私は段ボールを二度、三度と蹴飛ばし、殴りつけ、言葉にもならない呻き声を叫び捨てた。
「くそっ!!」
こんなことしても、何も変わらないのは私が一番分かっているはずなのに。非合理的な行動は、目的の達成を邪魔するだけ。
合理的な理想と非合理的な感情が、私の中でねじれ、分かれては、絡み合う。
ぎりぎりとこめかみを膨らませながら振り向くと、少しだけ扉が開いて、やすなが重たげな顔だけ覗かせた。
「お、大きな音がしたから」
「……ごめん。なんでもない」
私は手で合図を送り、やすなを部屋に招き入れた。のろのろとしたやすなに再び肩を貸し、適当な棚を背もたれにして座らせた。
私は先程散々な目に遭わせた箱々や棚を漁り、薬や治療器具がないか探す。しかし中にはどうでもいい書類ばかりで、使えそうなものは見当たらない。
またしても様々蹴飛ばしそうになる衝動を堪えながら物々の山を目でなぞっていると、銀の棚々の隙間に不似合いな木目が見えた。
なんとか隙間から手を伸ばし引き抜くと、その木目は取っての付いた箱であり、金具の付いた前面には赤い十字が描かれていた。
「それって」
私はやすなの隣に片膝をつき、救急箱をひっくり返した。
中身は決して新しいものではないものの、包帯や消毒液、三角巾や飲み薬と一式揃っている。
私は消毒液やら包帯やらを掴み取り、やすなにシャツを脱がすように促した。
肺まで鉄臭さで埋め尽くされる感覚に歯を食いしばる。その臭いに胃の中をかき混ぜられながらも、やすなの上腕の傷を視診する。
奴等の顎は、やすなの腕の肉をシャツもろとも囓り千切っていた。
表面は紅黒く、やすなが息をする度に傷口から血を滲ませている。
「少し、しみるぞ」
私は消毒液のスプレーヘッドもろとも外し、液体としてやすなの傷口に振り掛けていく。
「……っ」
やすなは少しだけ身体を強張らせたものの、それ以上は痛みを感じる仕草を見せることはない。
私はガーゼで傷口周りの汚れや血を拭き取っていく。丁寧さの欠片もなかったが、やすなは特に口にすることはなかった。
傷口周りが綺麗になった分だけ、やすなの傷の深刻さを思い知らされた。所々肉に裂傷が入っていて、部分的にも白い骨が見える箇所もある。
先程とは異なる不快感が、胃からこみ上げてくる。こんなもの見慣れてきたはずなのに。やすなが私に笑いかけてくるものだから、更に吐き気が大きくなる。
「ごめんね。迷惑掛けちゃって」
「……そうだな」
普段と変わらないやすなの声。ある種の鬱陶しさを含んだ黄色い声。
この薄暗い部屋にはひどく場違いで、くすんだ白い壁紙に吸収されることなく、部屋を転々と反響しているように聞こえた。
傷口にガーゼをあてがい、その上から包帯を巻いていく。
銃器を扱うかの如く、今度は丁寧さと丁重さを意識しながら。
巻き終わり、私はやすなのシャツの片袖を落とす。部屋にはろくに着られそうな物も無く、何より血の滲みで包帯を汚したくなかった。
「でも、もう少し。もう少しだけ、迷惑掛けちゃうかも」
やすなは私の目を見ながら、申し訳なさそうに頬を緩ませた。
「今更だな。お前と居ると散々な目に遭うのはいつものことだ」
私はやすなの視線を受け止めることが出来ず、顔を逸らした。
それでも錆び付く喉を必死にこじ開けて、言葉を続けた。
「状況が状況だからな。切り刻むのはこの街を出た時にしてやる。だから今は体力を少しでも」
「なんだかソーニャちゃん、優しいね」
そんなことない、気のせいだ。普段の台詞が出て来ない。ソーニャちゃんとしての言葉が、出て来なかった。
やすながそっと私の手を握った。
「楽しかったよ。ソーニャちゃんと一緒に居られて本当に楽しかった」
「口を開くな。喋ると無駄に」
「本当はもっと一緒が良かったんだけど、ちょっと無理そうかな」
「おい」
「だからさ、お願いです」
「私のことを」
「やすな!!」
覚悟はしていた。それなのに。
胸がはち切れそうになった私は、やすなに顔も向けもせずに叫んだ。
やすなのとは違って、私の声は壁の汚れや煤けに溶けていく。
まるで水中から太陽を羨む様に、私の声は沈んでいった。
「やっぱりずるいよね。私だけなんて」
未だに顔を背けている私には分からない。けど、やすなはきっと笑っているのだろう。
いつもの笑顔を浮かべながら、言っているのだろう。
「ごめんね。わがままだよね」
それでも少しだけ。少しだけしゃがれた声で、やすなは続けた。
「ごめんなさい」
それから数分。いや、数十分かもしれない。
短くも永い間、私達は座っていた。
私達はただ居るだけ。どちらともなく私達は手を握り続けて、お互いの体温を感じていた。
そこにあるのは他愛もない普段と変わらぬ会話。
この前のテレビがどうだとか、駅前のケーキ屋がどうだとか。
それに一言二言簡単な返事をするだけの、今の世界には不似合いな私達らしい会話だった。
その最中も、やすなの冷めていく手を暖めるように、私の掌は必死に握り続けた。
「なんかお腹すいてきちゃった」
「そんな話してたら自業自得だろ」
「ステーキが食べたい。ソーニャちゃんのおごりで」
「なんで私が」
やすなから熱が逃げていく。
「食べに行こうよ」
「今度な」
「今度?」
「あぁ」
やすなが私の手を強く握り返す。
「今」
「どうやって」
「い、今がいい」
「やすな?」
「いまたべたい」
「おなかへった、ごめんえ、いまたえたい」
「そーにゃちゃん」
私は、やすなに抱き締められた。
普段通りやすなの手首を外しても良かったが、今はとてもそんな気分ではない。
これで良い。これで良いんだ。
首元に焼け付く様な熱が走る。
目の前が歪んでぼやけるのも、きっとその熱さのせいだ。
肺に広がる鉄の焦げた臭いの中で感じた、やすなのニオイ。
呻き声の中でも確かに聞こえた、やすなの声。
いつもと変わらない、やすなの温もり。
私はそれを引き剥がすと、流れるように弾丸を撃ち込んだ。
震える身体だろうが、視界がぼやけていようが、私は最期まで殺し屋だった。
きっと今回だけ。今回だけなら、やすなだって喜んでくれたはずだ。
そして私の腕に感嘆を上げるのだ。
すごいよソーニャちゃん、と。
私もなんだかお腹が空いてきた。
そりゃあそうだろう。昨日から大したものを口にしていないのだから。
まぁ、そんなことはすぐにどうでもよくなるけども。
何が食べたいのだろう。
オムライスか。ロールキャベツか。それともパフェかクレープか。
いや、違う。
焼きそばパン。
やっぱり私は、焼きそばパンが良い。
普段は主役を気取っている癖に、パンに挟まれれば大人しくおかずを演じる憎めない味。
つくづく、誰かさんと似ているじゃないか。
そんな焼きそばパン二つを持って。そうだな、屋上が良い。校舎の屋上。
青空の下で、二人でぱくつくのだ。
大したことはない美味しさに、ちょっとだけ。
ちょっとだけ頬を緩ませながら。
部屋の銃声を聴いたのは、床に転がった拳銃だけ。
黒く、紅く、身体を濡らしながら、冷たい光を放ち続けていた。
ありがとう、キルミーベイベー
そしてごめんなさい、ソやーすニなャ
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