安部菜々「鋼のロンリーハート」 (111)
「歌って踊れる声優アイドル目指して、ナナはウサミン星からやってきたんですよぉっ!
キャハっ! メイドさんのお仕事しながら夢に向かって頑張ってまーすっ!」
私は一息にまくしたてて、ポーズをとった。
喫茶店のお客は急に席を立った私へ冷えた目を向けていたけれど、そんな目にはもう慣れっこだった。
前回のオーディションも、前々回のオーディションも、
前々々回だって前々々々回だって私は同じセリフを言って、同じポーズをとった。
審査員を務める誰々さんは毎度毎度違う人だったけれど、
私に見せる表情は毎度毎度同じで、この喫茶店のお客と似ていた。
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さて、肝心のプロデューサーさんはテーブルの向かいで身じろぎ一つせず、
私の自己紹介に苦笑いするでもなく呆れるでもなく「ふむ」と軽く頷いただけだった。
「僕の受け取ったデータには、まったく記録されていませんでした」
私はその言葉の意味を解くようにポーズをやめて、ストンと腰を下ろした。
それから気まずく「あのですね」と口を開いた。
「えーと、わかってると思いますけど、ウサミン星っていうのは……」
「僕、その星を知らないんですよ」
プロデューサーさんは真面目な顔をして
「もしよければ、ウサミン星の小惑星番号を教えてくれませんか」と言った。
「はあ……番号ですか」
「ここで言う小惑星というのは岩の塊ではなく天体のことなんですけれども、
小惑星センターに正式登録された天体には小惑星番号っていうのがあるんですよ。それで、ご存知だったら……」
「え、えーっと……すみません、ご存知じゃないです」
「そうですか。それかあるいは、未発見の天体ってことですかね。
ウサミン星から地球まで来るのは大変だったでしょう」
「大変って言っても、電車で一時間……」
「それは銀河鉄道のようなものですか?」
どうも埒があかない。
私は誤解を解くことを早々に諦めて、本題である仕事について訊いた。
プロデューサーさんは先ほどのとぼけ具合から打って変わって、丁寧に仕事の説明をした。
彼の話を聞いているうちに、胸の辺りがジーンと熱くなり、鼻がツンとしてきた。
――私、本当にアイドルになれるんだ。
ピー年間の紆余曲折を経て、ようやく夢を叶えたという実感がわいてきた。
これで最後と受けたオーディション(毎回これで最後と思っていたけれど)、ほとんど意地でウサミン星人の口上を述べた。
数日後に自宅へ届いた封筒の中には採用通知が入っていて、思わず歓喜の叫びを上げると、お隣さんに壁を叩かれてしまった。
今日は初のミーティングとのことで、担当につく人がどんな人かと少し緊張していたけれど、
プロデューサーさんは見ての通り、悪い人ではなさそうだ。
「それで、これからのスケジュールですが……」
プロデューサーさんは一通りの話を終えると、ホチキスで留めた紙束をテーブルへ出した。
これが恐ろしかった。彼は「最初のライブへの出演を目処に」と前置いて、紙束を捲りながら一日刻みのスケジュールを説明した。
この日は何時から何時までどこで何のレッスンをして、次の日は……という具合に。
最初の二週間まではちゃんと聞いていたけれど、そこから先は段々と混乱してきた。
「なにか、質問や要望があれば」
「はっ」と顔を上げる。
ライブ当日のスケジュールでさえ細かく決まっていて、少し汗をかいてしまったけれど、
実際にはスケジュールの第一日目も来ていないのだった。
私は姿勢を正して「ひとつだけいいですか」と言った。
「月曜日と水曜日と日曜日のレッスンは、時間をずらしてもらっても、いいでしょうか」
「では午前中にレッスンをするということですか?」
「できたらで、いいんですけど……その曜日、アルバイトがあって」
プロダクションの採用通知を受け取ってからも、私は引き続きメイド喫茶で働いていた。
私がアイドルを目指していることを店長や他のメンバーは知っていたし、今回のオーディションのことを喜んでくれた。
それでシフトも減らしてもらったけれど、しばらく辞めるつもりはない。
「先ほども説明しましたけど、プロダクションから給料は出ますよ」
「あ、はい……それは、わかってます」
私に支給されるらしい給料の額は高くないけれど、私のような候補生へ出すには恐らく破格の金額だった。
もじもじとして黙ったままの私に、プロデューサーさんは「わかりました」と言ってくれた。
「月曜日と水曜日と日曜日ですね」
「……お願いします」
「では、こちらのスケジュール表は印刷し直してからお渡しします」
「すみません、ありがとうございます」
プロデューサーさんは紙束を鞄にしまった。
あの細密なスケジュールは彼自身が作ったものなのだろう。
それを淡々と説明する彼は、どこか人間的な温かみを拒絶するような雰囲気があった。
スマートで背が高く、整った顔立ちではあるけれど、そのマネキンのような顔がニコリと笑うのは想像しづらい。
「プロデューサーさんって、……なんだかロボットみたいですね」
私は「よく言われます」なんて返事を期待して言ったのだけれど、
プロデューサーさんは真面目な顔を崩さずに「ああ、そうなんですよ」と言った。
「言いそびれてしまいましたけど、僕、ロボットなんです」
「は……」と、私はポカンと口を開けた。
「改めて、よろしく。ナナさん」
差し出された手を条件反射的に握る――と体温が伝わってくる。
「プロデューサーさんの手、あったかいですけど……」
本当にロボットなら、当然その手は冷たいはず。
「バッテリーの放熱を利用しているんです」
私は彼の手を握ったまま返すべき言葉を考えて、結局「よろしくお願いします」と無難なことを言って手を離した。
そのあと喫茶店を出て、彼と別れた。
帰路の途中、彼の体温を覚えた手のひらを見て、私に負けず劣らず変な人だな、と思った。
――――
今日から始まったレッスンは、ほとんどスケジュール通りに実行された。
レッスンといえばトレーナーの人が一緒につくイメージがあったけれど、
プロデューサーさんと私の他にスタジオには誰も来る気配はなく、
それとなく訊くと「僕が居るから十分です」と彼は言った。
「事前に学習は済ませてありますから、ご心配なく」
前置きもそこそこにいざレッスンを始めると、基礎練習からすでに息が上がってしまった。
今まで自分なりに体力作りはしているつもりだっただけに、少しばかり落ち込んだ。
プロデューサーさんが「では、もう一度」と言いかけるのを制して、私は手を上げた。
「す、すっ、すみません! ちょ、ちょっと……!」
「なんでしょう?」
「あ、あの、ちょっとだけ、休ませてくれませんか……」
「予定していた休憩の時刻までは、まだ時間があります」
プロデューサーさんは時計も見ずに言った。
「そ、それは……わかってるんですけどぉ……」
「すみません、僕のミスです。ナナさんの体力を見誤っていた」
「あ、いや……ナナこそ、ごめんなさい。もっと、しっかりしてたら……」
「十分、休憩にしましょう」
私は壁に寄りかかって、ズルズルと重力任せに腰を下ろした。
「プロデューサーさんって、優しいんですね」
「優しい」と、彼はオウム返しにした。
「スケジュール絶対主義かと思って」
「僕がロボットだからですか」
「あはは、ですかね」
「それほどに融通の利かないロボットは時代遅れですよ」
彼が胸を張ってそう言うので、本当の最新型のロボットに見えてくる。
「へぇ。プロデューサーさんはいつ生まれたんですか?」
「それは……秘密です」
彼はそう言って、自分の口元に人差し指をやった。
「あははっ、まさか未来生まれじゃないですよね?」
「まさか。ドラえもんさんじゃあるまいし」
「ドラえもん『さん』ですか」
彼が真面目な顔をして言うので、私は頬を緩めた。
ふっと、今までのオーディションで出会った審査員のことが頭に浮かぶ。
苦笑混じりに「今どき、流行らないよ」とか言われるのはいいほうで、
嫌悪感を隠そうともせず「バカじゃないか」と言われたこともある。
「……プロデューサーさんは、私がウサミン星から来たウサミン星人だって、信じてくれるんですよね?」
そう言うと、彼は「違うんですか?」と首を傾げた。
私は心の底からおかしくなって「いいえ、私はウサミン星からはるばるやって来たウサミン星人です!」と答えた。
すると、彼は十分の休憩が終わったことを告げた。本当にロボットみたいな人だと思った。
そうしてレッスンが終わったあと、再度スケジュールの確認のため二人で事務所へ向かった。
面接で一度来たことはあったけれど、オフィスに入るのは初めてだったので、少し緊張した。
デスクのパソコンに二人で顔を寄せて、スケジュールの最終確認をした。
「このスケジュールで、大丈夫です。無理を言って、すみませんでした」
「無理のうちに入らない。印刷してくるから、座って待っててください」
「はい、ありがとうございます」
と、印刷機に向かった彼を見送ってから、デスクの椅子に恐る恐る腰を下ろした。
そんな様子を面白がってか、隣のデスクに座った男性が「どうですか」と話しかけてきた。
「あのプロデューサー、やりにくくない?」
「あ、いえ……全然、そんなことはないです。むしろ、似た者同士っていうか……」
「へえ、菜々ちゃんもロボットなの?」
「いえ、ナナはウサミン星人ですよ」
キャハッ、とポーズをとって見せると、彼は「いいじゃん」と言って笑った。
「宇宙人とロボットってのは、いい組み合わせかもね」
「えへへ……プロデューサーさんって、本当にロボットみたいなときありますよね」
「だってさ? ロボ助」
ふっと振り返ると、背後にプロデューサーさんが居た。
彼の手には真新しい紙束があった。スケジュール表の印刷が終わったのだろう。
「そうです、僕はロボットですよ」
私はスケジュール表を受け取りつつ、クスリと笑った。
「プロデューサーさんって面白いですよね」
「僕って面白いんですかね」
プロデューサーさんは相変わらずの真面目顔で言った。
隣のデスクの彼は「面白いよ」と笑った。
このまま話していたい気持ちを抑えて私はバッグにスケジュール表の束を突っ込むと腰を上げた。
「それじゃ、仕事のお邪魔になりそうですし、ナナはこれで失礼しますねっ。どうもありがとうございました」
ペコリと頭を下げて、私はデスクを離れた。
プロデューサーさんは私のほうへ手を振ると、デスクの椅子へ座ってパソコンと向き合い、
物凄い速さでキーボードを叩き始めた。
――――
しばらくするとレッスンにも慣れてきて、ライブで歌う予定の曲の練習も始まった。
基礎練習が嫌いというわけではないけれど、ようやくアイドルらしいレッスンを受けられて、胸の内側で泉が湧くような気持ちがしていた。
今日も今日とてスケジュール通りのレッスンを終えると、プロデューサーさんが「ところで」と口を開いた。
「ナナさんがウサミン星人ということを、機密にしたほうがいいのではないかと意見をいただいたのですが、
ナナさんはそうするべきだと思いますか」
私はふっと泡が浮かぶように笑った。
彼がいかにも真面目な顔をして、ウサミン星のことを話すのが、私は好きだった。
だから、プロデューサーさんの言った言葉の意味をすぐには飲み込めなかった。
はっと、その意味に気づいて、私は表情を選びきれず、泡が消えるように言った。
「プロデューサーさんはどう思います?」
私がウサミン星人であることを機密にする――つまり、このキャラをやめるということに違いない。
誰がそんなことをプロデューサーさんに言ったのだろう、このあいだ話した隣のデスクの彼だろうか。
「宇宙人であることを隠さず活動している例もありますよ」
プロデューサーさんはわかっているのか、わかっていないのか、真面目な顔をして言う。
私は遠慮も忘れて深いため息を吐いた。
「少し考えてみます。……今日はこれで、お疲れ様でした」
私はペコリと頭を下げて、スタジオを出た。それからアルバイト先のメイド喫茶へ向かった。
そのあいだずっと、プロデューサーさんの言葉を思い浮かべていた。
人生、思い通りにならないことは少なからずある。
少なからずというか、思い通りにならないことばっかりだ。
やっとアイドルとして採用されたけれど、プロダクションは「ウサミン星人のナナ」ではなく「普通の菜々」を見込んでいたらしい。
それは喜ぶべきことかもしれないけれど、私を採用したプロダクションも結局はウサミン星を信じてくれなかった。
私にはそれが、たまらなく寂しかった。
メイド喫茶につく頃にはすっかりナーバスになっていて、仲間の一人に心配させてしまった。
更衣室で着替えている最中も(そんなにひどく落ち込んでいるように見えたのか)、私のことをずっと気遣ってくれた。
「菜々、大丈夫? ツラかったら無理して出なくてもいいからね」
私は「平気」と返事をして、制服の袖に腕を通した。
私と彼女は何年も前からこの店で一緒に働いている。
歳は少し(ほんの少しばかり)離れているけれど、気の合う友達だ。
思えば、私がウサミン星人であることを真面目に聞いてくれたのは、プロデューサーさんの他に、彼女だけだった。
「今日、店長は来てる?」
「来てると思う。休みの日はお客として来てるし」
彼女が冗談めかして言うのを聞いて、私はようやく笑うことができた。
「なに? やっと辞めるの?」
「すぐじゃないけど、話だけは先にしておこうと思って」
「やっぱり忙しいんだ。お金は大丈夫?」
「当分は。安いけど、一応お給料も出てるし……そうだ、今度ライブもやるって」
「ライブ! すごいじゃん、菜々! いつ、いつ?」
彼女は自分のことのように喜んだ。
ぴょんぴょんと跳ねたせいで、せっかく撫でつけた癖っ毛がバタバタした。
私は一瞬ためらい、口の中でもぐもぐとライブの日時を咀嚼したあと「決まってない」と言うことに決めた。
「まだ決まってない。でも、きっとやるって」
「そっか、決まったら教えてね! ノルマとかあるのかなぁー、とりあえずあたしの分は絶対確保しといてね!」
それから彼女は「よっしゃ!」と気合を入れて、ホールへ出て行った。
私はなんとなく、罪悪感が気怠い胸に残っているようだった。
「アイドルか」と、鏡の前で呟く。
今のプロダクションで売れなかったら、すぐに解雇されてしまうだろうか。
あるいはちょっと売れたくらいでも、売れ続けなければお払い箱だろうか。
プロダクションを追い出されても、もう一度アイドルを目指す気力が私に残っているだろうか。
ウサミン星人のナナは世間に受け入れられるのだろうか。
鏡の中で、私は静かに首を振っていた。
「……よしっ」
なにが「よし」なのかよくわからないまま、私はホールへと向かった。
店を辞めたいことを話すと、店長は快く承諾してくれた。
「新しくバイトを雇わなくっちゃな」
そう笑ってすぐ、「でも菜々みたいな子はそう居ないんだろうな」と寂しそうにした。
その日の勤務が終わると、癖っ毛の彼女から飲みに誘われた。
私は誘いに乗って、彼女のおすすめの店までついて行った。
そして――案の定飲み過ぎた。翌朝は自宅の玄関で目を覚ました。
気分が落ち込んでいると、むやみに飲んでしまっていけない。
ガリガリと痛む頭を起こして時計を見ると、すでにレッスンの開始時刻を過ぎていた。
最悪だった。
「すみませんでしたー!」と、慌ててスタジオに駆け込む。
プロデューサーさんはいたって冷静に「なにかありました?」と訊いた。
まさか「飲み過ぎました、てへへ」なんて答えるわけにもいかず、「寝坊しちゃいました」と下を向いた。
「とやかくは言いませんよ。誰しも、遅刻くらいするものですから」
そう言うプロデューサーさんは一度も遅刻したことがない。
「す、すみません……」
「見たところ、体調がすぐれないようですが、今日はやめにしますか?」
「あ、いえっ、大丈夫です! レッスンしましょう!」
「ナナさんがそう言うなら」
プロデューサーさんは表情を変えなかったけれど、どこか渋々という風に言った。
「えっと、今からレッスン始めて、どれくらい時間ありますか?」
「いつもの半分もないですね」
「そ、そうですよね……あの、延長は……」
「スタジオの予約状況を見るに、できないことはないですけど」
プロデューサーさんは珍しく中途半端に言葉を切った。
私は胸の辺りが熱くなるのを感じた。感情か、アルコールか。
「いや……あの、遅刻しといてなんですけど、私、練習しなきゃ……」
プロデューサーさんは少し間をおいてから、静かに頷いた。
そうして始めたはいいものの、レッスンはひどい有様だった。
昨日できていたことができない。身体が思うように動かない。
飲み過ぎたなぁ、なんてノンキなことを考える余裕も段々と失われていった。
やっと基礎練習を終えると、始めてレッスンをしたときみたいに息が上がった。
長めに休憩をとったあとも、調子は上がらないでいた。
簡単な振りのダンスも同じところで間違えては、何度もやり直した。
「ナナさん」とプロデューサーさんが言うのを「もう一度お願いします」と遮った。
間違えて、やり直して、繰り返すあいだに体力が尽きかけた。
汗が冷たくなり始めた。もう何回目かわからない間違いをして、私は足を止めた。
「も……」
私は「もう一度」と言いかけて、喉の辺りが塞がった気がした。
あ、ヤバい――そう思ったときには遅くて、おえっと、それ(平たく言えばゲロ)が滴る形容したくない音。
ひとしきり吐いたあとで、私は「も、もう一度お願いします……」と言った。
プロデューサーさんはこんなときだって冷静だった。
スタジオのスタッフに事情を説明してバケツとモップを借りるとすぐ、床の掃除にとりかかった。
すっかり元気を失った私は口をゆすいできたあとも、彼が掃除している横でもじもじするしかなかった。
「すみません……」
「謝らなきゃいけないのは、僕です」と、プロデューサーさんは黙々と床を拭った。
「ナナさんの体調を考えたら、はっきりと止めるべきだった」
「……すみません、昨日、飲み過ぎたんです」
思いの外、素直に言葉が出たけれど、私は情けない気持ちがした。
プロデューサーさんはモップの先から目を上げて、私を見た。
彼が責任を感じるようなことではないのだと思う。
「今日はもうやめにしましょう。僕が掃除しておくので、先に帰って大丈夫です」
「あ……ナナも手伝います!」
私はもう一本モップを借りてきて、プロデューサーさんと一緒に床を擦った。
しかし、男の人に自分のゲロを掃除してもらうなんて――深いため息が出る。
アイドルとして、いやそれ以前に女としてダメダメだ。
「ごめんなさい、プロデューサーさん」
泣きそうになるけれど、必死こいて我慢した。なんか、泣いちゃダメな気がした。
「吐物のことですか」と、プロデューサーさんが聞き返すので、私は「そうです、吐物のことです」と言った。
「こんな、汚いの、掃除させちゃって……」
「元を辿れば清潔な食べ物ですし、唾液や胃酸はただの消化液ですから、そう汚いものでもないです」
プロデューサーさんの調子の狂いそうな返答に、私はなぜか物凄く安心した。
彼はゲロを片づけているときでさえ、彼のままだったから。
そんな調子でスタジオの床を綺麗に掃除して、念のため消毒用アルコールをぶちまけたあと、
改めてスタッフの方に謝りに行った。
「前にも二回くらいありましたから」と慰めなのかよくわからないが、
とにかく一件落着したということで、スタジオを出た。
すでに夜になりかけていた。
地平線の上には夕焼け雲が残っているけれど、頭上にはチカチカと星が光っている。
歩き出してしまう前に、私はプロデューサーさんのほうへ向き直って頭を下げた。
「今日は、本当に、すみませんでした」
プロデューサーさんは私の謝罪に対して、もうなにも言わなかった。
代わりに「家まで送ります」と言った。断りかけたけれど、素直に甘えることにした。
「ところで、私がウサミン星人ってことなんですけど」
プロデューサーさんは「はい」と返事をした。私はタイミングをはかるように呼吸した。
「機密、という、ことにしようかと、思いまして」
少し間をおいて「機密にするんですか」とプロデューサーさんの声が聞こえた。
彼の表情が見えなかったせいで、その声は無機質な感じがした。
「そもそも、宇宙人がアイドルって……変だし。自分でも、イタいってわかってますから」
あはは、と乾いた笑いが出た。
「そうでしょうか」
「そうじゃないんですか?」
「ロボットがプロデューサーをやる時代ですよ」
「真面目に聞いてください!」
自分の声の大きさに自分で驚いて、私は口をつぐんだ。自分だって、よくわからないんだ。
「ホントのナナは、ただの普通の子なんです」
私が立ち止まると、プロデューサーさんもすぐに足を止めた。
「……普通とは?」
そう、プロデューサーさんは言った。
もやもやとした夕闇に埋もれる中で、彼の目だけが星のように光っていた。
「だから、プロデューサーさんに意見した人とか、世間一般とか、そういう人たちの言う、普通です」
「履歴書に書いていた安部菜々のことですか?」
「……その安部菜々はウサミン星人じゃない、っていうことです」
喉で引っかかったまま言えずにいたことを、ようやく口にした。
プロデューサーさんは首を傾げた。
「嘘をついていたということですか?」
「ち、違います、嘘なんかじゃない!」
「じゃあ、貴方はウサミン星人なんですか?」
「そういうことにしてたんですっ」
「そういうこととは?」
「私は、本当は……」
本当の私とは一体なんなのか。俯くと、それきりなにも言えなくなってしまった。
私に「ナナ」を捨てきる覚悟は、まだできていなかった。捨てたことにして、まだ持っている。
ウサミン星人のナナ、アイドルになった菜々、その二人はたぶん別人だけれど私はどっちだろう。
いや、問題はそうじゃない。今はそう――どっちになるべきなのか、ということだ。
「本当とは?」
私が黙ったままだからか、プロデューサーさんが質問を重ねた。私はつい声を荒立てた。
「ロボットかアンタは!」
私の言葉に、プロデューサーさんは悲しい表情を浮かべた気がした。
気がしただけで、暗闇が彼の顔を覆っていたから、よくわからなかった。
「地球が美しいのは、ここからは見えないウサミン星が、どこかで回っているからだね」
じっとりとした沈黙を、彼の声がようやく払った。
「……星の王子さまですか?」
私はやっと、それだけ言った。
「一番大切なことは、目に見えないそうです。心で見るとか」
心で見る――無邪気に信じられるような歳でもない。
それなのに、私は行ったこともないウサミン星へ無性に帰りたくなった。
「僕は羨ましい。僕には心がないから」
「どうしてですか」と、私は驚いて言った。
「嫌な顔ひとつせず他人のゲロを掃除する人に、どうして心がないんですか!」
「ロボットだもの」
つまづいたっていいじゃないか。
私の胸にふっと感情が湧いた。凪の海を寂しく撫でる南風のような。
「……ロボットだろうと、オバケだろうと、プロデューサーさんに心がないなんて、ありえませんよ」
私がそう言うと、プロデューサーさんは「そうかな」と短く言った。
「ロボットには心がないものだとばかり思ってた」
「アトムとかドラえもんとか、いるじゃないですか」
それから、私が再び歩き始めると、プロデューサーさんも並んで歩き始めた。
アパートまで付き添ってもらうのは申し訳ないからと、駅で別れた。
結局「ナナ」については決着のつかないままだった。
別れたあとも、私はプロデューサーさんのことばかり考えて、コンセントの抜けたこたつのように寂しくなった。
ガタゴトと電車に疲れた身体を揺らしているあいだ、
彼の手の温かさ(まだ覚えていた)とゲロのことを交互に思い出して、赤くなったり青くなったりした。
家に帰ると、ごはんを食べて、シャワーを浴びて――さて寝るかというところで、
またプロデューサーさんのことを考えてため息をついた。
「あ、これが恋か……」
布団の中で気づいたはいいけれど、すぐに私は眠ってしまった。
ちょ
っと
休憩してから後半投下します。少々お待ち下さい。
再
開
します。
――――
私がプロデューサーさんに恋をしても、日常に変わりはなかった。
スケジュール通りのレッスン、宿題の譜面読みなど、淡々とこなしていく。
彼は相変わらず真面目な顔をして、私と接する。まるで、ゲロのことなんかなかったように。
それはありがたいと思う一方で、ちょっと寂しい気もした。
でも「ゲロを片づけてもらってから好きになりました」なんて告白じゃ様にならないのも確かで、
青春の堂々巡りを今さらになって味わっている気がしてならない。
それはさておき、ライブの日が近づいていた。
緊張するまいと思っても、ライブのことを考えると肺が縮むような思いがする。
プロデューサーさんはそんな私の様子を見てか、一度ステージを借りて練習をしようかと提案してくれた。
その提案に私は一も二もなく頷いたのだけれど、ステージホールのあるスタジオは予約が埋まっていて、
すぐには借りられないということだった。
今日はお昼まで寝ているつもりだったのだけれど、思わぬモーニングコールで目を覚ました。
慌てて電話を取ると、相変わらず真面目な口ぶりのプロデューサーさんの声が聞こえた。
「おはようございます……」
「今日はスタジオに直行せず、一旦プロダクションへ来てください」
あくびを噛みつつ「はい、わかりましたぁ」と言って、私は携帯電話を枕元へ置いた。
薄目を開けて時刻を確認すると、まだ七時にもなっていなかった。
「こんな時間から居るんだ……」
私は布団から這い出して、ふらふらと立ち上がった。
カーテンを開けると、外は土砂降りの大雨のようだった。
私はうーんと伸びをして、それから身繕いを始めた。
窓越しに見たときよりも雨は大迫力で、アスファルトに跳ね返す飛沫は燃えるようだった。
私が家を出る頃には、道路はちょっとした川のようになっていて、
それを長靴でジャブジャブと歩いて行くのは少しだけ楽しかった。
予定の時刻よりずっと早くプロダクションに着いて挨拶をすると、
プロデューサーさんは珍しく驚いたような表情を見せた。
この頃、彼の表情がなんとなくわかるようになってきている。
「あははっ、早すぎましたかね」
「おはようございます。……温かい飲み物でも淹れましょう」
そう言って、プロデューサーさんはデスクを立った。
「あ、お構いなく……」
窓越しに聴こえる雨の音は相変わらずで、つい身震いしてしまう。
身の置き所がなく突っ立ってぼんやり待っていると、じきにプロデューサーさんがカップを手に戻ってきた。
「どうぞ、座ってください」
と、カップを隣のデスクに置きつつ言うので、私はそーっと椅子に座った。
カップの中身はローズヒップティーだった。
「今日はみなさん、忙しいんですか」
オフィスのほとんどのデスクが空席で、ポツポツと残った数人のキーボードを打つ音が軽く響いている。
プロデューサーさんは各デスクの不在の理由を淡々と話した。
「草野さんはロケ、三輪さんは撮影、田村さんと崎山さんは営業……」
「……もしかして、暇なのって私だけですか?」
「今に忙しくなりますよ」
少しして、デスクに置かれた携帯電話が鳴った。
プロデューサーさんは電話を取ると、手短にやりとりして通話を切った。
そして、私のほうへ振り向いて「ステージホールを借りられました」と言った。
「本当ですか!」
「この雨ですから、きっとキャンセルが出ると思いまして」
「ああ、この雨ですもんね……」
私は窓のほうを振り返って見て「車ですよね?」と続けた。
「車?」
「移動手段」
「ああ、移動手段ですか」
プロデューサーさんは「免許がないもので」と言って、謝った。
彼が運転免許を持っていないことは、少し意外だった。
訊くと、例のごとく彼は「ロボットですから」と言った。
「ところでナナさん」と、彼はパソコンを操作しつつ、私のほうへ振り返った。
「これは今度のライブのセットリストです。なにか、意見や要望があれば遠慮せず言ってください」
少し身を乗り出してパソコンの画面を覗く。
「歌う時間より、トークのほうが長いんですね」
「今から曲を増やすのは、少し無理がありますけど……」
「あっ、いや、それはわかってますよ! ……で、あの、トークってなに喋ったらいいんですか?」
「デビューライブですから、自己紹介とアピールでしょうか」
「アピール……」と、私はぐるぐる考えてみて、もじもじしながら「プロデューサーさんが、トークを考えてくれませんか」と頼んだ。
プロデューサーさんは渋々といった様子で「僕は構いませんけど」と言った。
「僕は面白味のないトークしか書けませんよ」
「それでもいいので……こう、普通って感じのトークを……」
「わかりました、十分ほど待ってください」
そう言うなり、プロデューサーさんは物凄い速さでキーボードを叩き始めた。
私が呆気にとられているあいだに(十分とかからず)トークの原稿を書き上げてしまった。
印刷された原稿を読んでみると、その内容は彼が照れくさそうにするほど無難で面白味に欠けていた。
彼は「だから言ったじゃないですか」と私がなにも言わないうちから、ふてくされたように口を尖らせた。
「やっぱり、ナナさんが考えたほうがいいです」
「あ、いや……ナナはウサミンしかできませんから」
「ウサミンではいけませんか?」
「それ、こっちのセリフですよ」
私はついカチンときて、語調を強めて言った。
「プロダクションの人は、フツーの菜々のほうがいいって思っているんですから」
「でも、それで売れるとは限りませんよ」
「あの……プロデューサーさん、どっちの味方なんですか?」
プロデューサーさんは答えなかった。
途端にシンとした中で、誰かがキーボードを叩く音は耳障りだった。
「プロデューサーさんはどう思うんですか? ナナをどんなアイドルにするつもりなんですか?」
「ナナさんは?」
「今はあなたに訊いてるんです」
「……僕はナナさんを、ナナさんの望むアイドルにする」
プロデューサーさんはそう言って、デスクを立った。
「行きましょう、時間です」
雨はよりひどくなる一方だった。傘を使っていてもすぐに濡れてしまう。
もう歩道と車道の境も曖昧な水の中を、三十分も歩いて行くと、やっとスタジオに到着できた。
「この雨ン中、よくきましたね」
スタッフは口に出さないものの、少しばかり恨めしそうな目をしていた。
スケジュールには、私たちの名前だけしか書かれていなかった。
つまり私たちが来なければ、スタジオを閉めておけたわけだ。
「あ、あはは……よろしくお願いします~」
正直、気まずかった。
プロデューサーさんのほうはさすがで、ホールの鍵を受け取ると速やかに機材のセッティングを終えて、
私にステージへ上がるよう言った。そして、何度かマイクチェックをすると、すぐに練習が始まった。
例え狭いホールでも、ステージで歌うのは練習スタジオで歌うのと大違いだった。
自分の声が遠くへ行ったまま帰ってこない。少しだけ怖かった。
ステージの下でプロデューサーさんが私に指示を出した。私はそれに合わせて歌う、また指示が出る。
繰り返しているうちに、段々とステージにも慣れてくる。
本番で歌う予定の曲をさらったあと、休憩を挟んで、もう一度ステージに立った。
「ナナさん。歌だけじゃなく、トークの練習もしましょう」
「ト、トークですか。えと、書いてもらったやつで構いませんか?」
「今日のところは」
私はプロデューサーさんから原稿を受け取ると、丁寧に読み上げた。
それは「ウサミン星のナナ」の言葉ではなく、「普通の菜々」の言葉だ。
「どうでしょうか、プロデューサーさん」
原稿を読み終えて、私は彼のほうを見た。
「うん」と、彼は頷いた。「悪くはない」
「……良くもないですよね。ナナも、それはなんとなくわかります」
俯きかけて、はっと顔を上げる。ぶるぶると首を振って、私は一度大きく呼吸した。
「もう一度やってみます」
彼が静かに頷くのを合図に、私はもう一度原稿を読み上げた。
けれど、うまくはいかなかった。何度もやり直した。
そこにはプロデューサーさんしか居なかったけれど、たくさんのファンを相手にするつもりで読んだ。
曲を歌ってからトークへ繋ぐのも練習した。
気がつくと部屋の時計はぐるぐると何周もしていた。
曲はいい、ダンスもいい、トークだけがなにか浮いてしまっている。
私はため息をついて、ステージを降りた。
「なんだか、ダメですね。ダメダメです」
「やはり、ウサミンではいけませんか?」
「でも……」
「ナナさん」と、プロデューサーさんは私をまっすぐに見据えて言った。
「地球の人に遠慮する気持ちはわかります。
でも、ウサミン星人であることを隠す必要はないと思う。ナナさんはありのままでいていいんですよ」
「え、ええーと、そうですよね。はい……」
「僕はふざけて言っているわけではないんです」
彼はずいっと、真面目な顔を私の真ん前に突き出した。
それがあんまり急だったので、私は仰け反ってしまう。
「ああ、すみません」と、プロデューサーさんは顔を引っ込めた。
「……さて、もうじき練習終了の時刻です。
どうしましょうか、他に借りている組もなさそうですから、時間を延長するのも構いませんが……」
プロデューサーさんはそう言って踵を返したけれど、
ホールの出口に立つ笑顔のスタッフを見つけて「無理そうですね」と機材の片付けを始めた。
私たちがスタジオをあとにする頃には、分厚い黒雲と大雨のせいでほとんど夜は一層暗く立ち込めていた。
時折、雷が激しく咲いた。
「行きましょう」とプロデューサーさんは傘を開いた。
しかしやはり、この豪雨の中ではあまり意味がなかった。
ようやくプロダクションのそばの交差点へ差しかかった頃には、二人とも全身びしょ濡れだった。
私たちのために信号だけが赤くなったり青くなったりした。
「ふー、やっと着きましたね!」
横断歩道を渡り終えて、プロダクションの目前まで来ると、思わずホッとため息が出た。
プロデューサーさんはじっと黙っていた。
彼はあまり口数の多いほうではないし、それ自体は不思議なことでもないけれど、
彼の傘を持つ手が震えているのに気がついて、私は彼を覗きこむように傘を傾けた。
「プロデューサーさん?」
呼ぶと、彼は私のほうを振り向き、そして傘を落とした。
「ナナ……さん……」
プロデューサーさんは、いきなり歩道へぶっ倒れた。
ガラスが砕けるように水を跳ね返して、雨が彼のスーツに染みていった。
私はあまりのことに、ポカンと口を開けて立ちすくんでしまった。
私ははっとして、濡れるのも構わずプロデューサーさんのそばへ屈みこんだ。
「プロデューサーさん! だ、大丈夫ですかっ!」
「す……すみません、事務所まで運んでください」
「救急車呼ばないと!」
「お願いします、……事務所まで、運んでください」
プロデューサーさんは冷たい手で私の手を握ると、弱々しく言った。
「で、でも……」
「お願いします」
私は少し迷いながらも頷いて、彼に肩を貸して抱き起こした。
「お、重いっ! プロデューサーさん、なんとか力入れてもらっていいですか!」
「すみません、精一杯です」
「うう、こんなとこで死にたくない……!」
私は雷雨の中、十数メートルも彼を引きずって、ようやくプロダクションの玄関までたどり着いた。
けれど、ドアの鍵が開いていなかった。
「プロデューサーさん、どうしましょう!」
「鍵、内ポケットに……」
「わ、わかりました! えっと……失礼します」
彼のスーツを探ると、ぞっとした。
彼の身体はまるで金属のように冷えきっていた。
私はようやく鍵を取ると、プロダクションのドアを開けた。
そして、プロデューサーさんの身体をやっとの思いで引きずって、玄関に寝かせた。
彼の目は半分閉じかかっていた。
「プロデューサーさん!」
私が呼びかけても彼はほとんど反応を示さず、かろうじて「コンセント」と呟くと目を閉じてしまった。
「プ、プロデューサーさーん! 死んじゃ嫌だーっ!」
パニックで呼吸がうまくできない。髪から伝う雨水のせいで、視界が滲む。
やはり、すぐに救急車を呼ぶべきだった。今からでも遅くはない。
私は携帯電話を取り出しかけ、はっとその手を止めた。
「あ、あの……プロデューサーさん、たびたび、失礼します」
私は断ってから(彼には聞こえないだろうけれど)、彼のスーツの上着を脱がした。
濡れた上着はずしりと重い、畳んでわきへ置いておく。
ワイシャツもびしょ濡れで、彼の肌に引っ付いて透けていた。
透けて見える肌はほとんど人間と変わりがない。
けれど、一ヶ所、人間だったら変なところがある――お腹の辺りに黒い板がくっついていた。
「えー、えっと、えっと……すみません! 失礼しますよ!」
私は顔が熱くなるのを嫌でも意識しながら、彼のワイシャツのボタンを外した。
お腹の黒い板は金属でできていて、指で触れてみるとキリリと冷たい。
「わっ」
私が触ったからか、板がかちりと音を立てて傾いた。
それはなにかの蓋らしかった。見ると中にはコンセントに差し込むプラグが収まっている。
試しにつまんで引っ張ると、それは掃除機のコードのようにしゅるしゅると伸びた。
私はしばらくのあいだ、プラグを手に持ったまま固まっていた。
「ほ、本当にロボットだったんだ……!」
プラグをコンセントに差し込んでからしばらくすると、プロデューサーさんは目を覚ました。
起き上がるには動力が足りないらしく、寝転がったまま「どうもすみません」と言った。
「予期せぬバッテリー切れでした」
「あ、いや、全然、気にしてないです、はい……」
「ナナさんには迷惑をかけた」
「な、ナナは、プロデューサーさんのお役に立てて、嬉しいですよ!」
えへへ、と笑ってみせるけれど、私はまだ混乱していた。
今まで散々ロボット扱いしていた手前、今さら「ロボットだったんですね」なんて言えなかった。
「……ナナさん、本当にありがとう」
プロデューサーさんはそう言って、試すように片手を動かした。
「あとは大丈夫です。充電は一晩で終わります」
「本当に大丈夫ですか?」
「ええ、戸締まりは僕の仕事ですし、いつも事務所に居ました。ナナさんはどうぞ構わず、先に帰ってください」
「……無理は、しないでくださいね」
私は傘を手に立ち上がった。
そして、雨の夜を見てから、プロデューサーさんのほうを振り返って「おやすみなさい」と言った。
プロデューサーさんは片手をそっと挙げて、独り言のように呟いた。
「僕は今、君の心で動いているな」
――――
私の恋心が日常を変えなかったように、彼がロボットだという事実も、私の恋心を変えられなかった。
好きなものは好きということで、しょうがないと思う。
けれど、変わったことも少しある。
私は「ウサミン星のナナ」としてステージに立つことを決意した。
それは同時に、普通の女の子である安部菜々として立つことでもあると思う。
開き直りではなく、諦めでもない、私はどう振る舞おうと私なのだから。
初めてのライブは数日後にまで迫っている。
告知はすでにされていて、プロデューサーさんのところへ直接、チケットを買いに来てくれた人もいるらしい。
素直に喜べなかったのは、私がすでに緊張でいっぱいになっているからだった。
練習でも堅くなりすぎて失敗することがあって、実際にステージに上がることを想像すると怖くなった。
「早めに切り上げて、お茶でも飲みに行きませんか」
今日も調子の出ないレッスン、プロデューサーさんはのんきそうに言った。
「お茶ですか……?」
「喫茶店で、紅茶でも」
私は気分転換をするのもいいかと、その誘いを承諾した。
それに、彼とお茶をするのは素敵だと思ったし、聞きたいこともあった。
プロデューサーさんに連れられた喫茶店は、以前ミーティングで訪れた店だった。
私はローズヒップティーを、プロデューサーさんはダージリンティーを注文した。
「あ……」
と、彼に運ばれてきたカップを見て、つい声を上げる。
「どうしました?」
「いえ……その、飲んで平気なのかな、と」
「平気です。人間の胃に相当する器官にしまいこみ、あとで廃棄しなければなりませんが」
プロデューサーさんはカップを持ち上げて、紅茶を口に含んだ。
「味もわかりません。けれど、ナナさんとこうしてお茶を飲むのは、楽しい」
私はくらくらと混乱しかけてくる。
彼がロボットだという事実と、こういう人間らしい仕草が噛み合わない。
私もまたカップを持ち上げて、紅茶を飲んだ。
ローズヒップティーは酸味があり、飲み込んだあと、鼻からふっと匂いが通り抜けていく。
「プロデューサーさんは、どうして……プロデューサーになったんですか?」
私が訊くと、彼はカップを置いた。
「愛を知るために」
「プロデューサーさんには愛する人がいるんですか?」
「違いますよ。多くの人から愛されるアイドルを、いわば研究しているんです」
「……でも、そしたら、自分でアイドルになるほうが効率はいいんじゃないですか?」
「僕は表情が完璧ではないので、それは無理だと判断されました」
私はその答えについ「なるほど」と納得してしまった。
たとえ彼がかわいい女の子に変身しても、この鉄面皮のままではいけないだろう。
そういう意味では、プロデューサーとして仕事をするのはいい選択に違いない。
「ナナさんは表情が豊かで、羨ましいです」
「そうですか?」
「ええ、気がつくと目を回している」
「その言い方、なんか引っかかるんですけど」
私が笑うと、プロデューサーさんは「すみません」と言った。
「……でも、私が目を回せるのは、みんなのおかげですから」
「みんな?」
「家族とか、友達とか。プロデューサーさんもその中に入ってますよ」
そう言って私が手を差し出すと、彼はその意味を確かめるように私の目をじっと見て、
それからそっと手を握ってくれた。彼の手は温かかった。
「プロデューサーさんの手、あったかいですよ」
「バッテリーの放熱を利用しているんです」
「それ、前にも聞きましたよ」
私はつい笑ってしまうけれど、彼の胸にあるバッテリーの正体を知っていただけに、切ない気持ちになった。
――――
ライブ当日。小さいライブハウスとは言え、私はそこへ足を踏み入れた瞬間から緊張しっぱなしだった。
どうにかこうにかリハーサルを終えても、まだ震えが止まらない。
事前に話は聞いていたけれど、自分以外のアイドルが出演するということにプレッシャーを受けてしまう。
プロデューサーさんと積み上げてきた自分は、他のアイドルと比べてどこまでも儚く見える。
出番の時刻が近づいてくるにつれ、胃の辺りが重苦しくなってくる。
自分で気づかないうちに椅子を立ったり、あるいは座ったりしている。
おとなしくしていようと思えば、ステージ衣装のリボンを結んだり解いたりして、コントロールができない。
出番の十分前にもなると焦り始めて深呼吸をするけれど、うまくいかず過呼吸気味になる。
見るに見かねたプロデューサーさんが、私の肩をポンと叩いた。
「なるようになります」
彼のらしくない言葉に、私は素っ頓狂な声を上げた。
「あ、あ、あなたっ、ホントにロボットですか!」
プロデューサーさんは私の肩から手を離すと、その手を私の頭にポンと載せ、真面目な顔をして言った。
「今までウサミン星人がアイドルデビューした例はあるんでしょうか」
彼の手が緊張を払うように、私の髪をなでた。
そしてようやく、私は引き攣らない笑顔を浮かべることができた。
「ふ……あははっ、どうでしょうね。うーん、同胞が地球でアイドルデビューしたって話は聞いたことがありませんね」
「それじゃあ、ナナさんが初めて地球デビューしたウサミン星人ですね」
「しかも、担当プロデューサーはロボットですよ」
そのとき、ステージのほうから拍手が起こった。
そして、マイクを通した「ありがとう」の声。ついに出番だ。
私とプロデューサーさんは一度顔を見合わせると、それきりなにも言わなかった。
直前の出演者と入れ替わるように、私は、ナナは――安部菜々はステージへと上がった。
「みなさーん! こんにちはーっ!」
まだ、緊張していた。けれど、嫌な緊張ではない。
張り詰めた心から元気いっぱいに声を出す。
「こんにちはー!」と、元気な挨拶が客席から返ってくる。
はっと視線を下げたその先に、バイト先の癖っ毛の子が照れくさそうに手を振っていた。
私は嬉しいよりも先に「あっ、ライブのこと言いそびれてた」と息が止まる思いだった。
数秒だけ変な間が空いたところを、彼女は癖っ毛をぴょんぴょん跳ねかせて「ウサミーン!」と叫んだ。
他の客は不思議そうに顔を見合わせた。
私は「なるようになれ」と、マイクをぐっと持ち直した。
「ウサミンパワーでカラフルメイドにメルヘンチェンジ!
夢と希望を両耳に、ファンのために全力で頑張るから、応援よろしくねーっ!
さぁ、いっしょにーっ! ブイッ♪」
ライブの時間は、まさに夢中で過ぎていった。
歌ではところどころ音を外したし、トークでは噛んだり、声が裏返ったり。
「ハートウェーブ送信ーっ! ピリピリンッ!」
完璧じゃないデビューライブだけれど、私はかつて思い描いていた夢の世界に存在していた。
ステージの上で、私は、ウサミン星人のナナだった。
両手を上げ、拍手を全身に浴びる。
「ありがとうございましたー!」
ライブ中に私を「ウサミン」と呼んだのは、癖っ毛の子だけじゃなかった。
だから、ウサミン星は私だけの幻想ではなくなった。
汗が頬を伝うのをそっと拭って、私はステージを降りた。
入れ替わるように、次に出演するアイドルがステージへ上がって行った。
「ナナさん」
薄暗い中からプロデューサーさんの声がする。
照明の当たるステージと違って、この舞台裏は隙間明かりの他になにもない。
私は慎重に彼のほうへと歩いて、ようやく彼の手を掴まえた。
「お疲れ様でした、ナナさん」
「あ、アイドル……」
「……ナナさん、ステージはどうでしたか」
「アイドル、楽しいです」
「それは、よかった」
ふっと顔を上げると、私は「あ」と口を開けて、間抜けな表情をしてしまった。
プロデューサーさんが笑っていた。
「プロデューサーさん……笑ってる」
「あは……不気味だから笑うな、って言われたこともあるんですけれど」
プロデューサーさんは照れくさそうに言った。
私は間抜けな表情から一転して、満面に笑顔を浮かべて「全然、不気味じゃないです」と言った。
「チャーミングですよ、いい笑顔です」
「本当ですか?」
「本当です。笑っていてください、ずっと」
プロデューサーさんは「ナナさんが言うなら」と笑顔のままでいた。
少しのあいだ、二人でステージから漏れてくるアイドルソングを聴きながら、薄暗がりの温かさに身を委ねていた。
「ところで、ナナさん。僕は話しておかなければ、いけないことがあります」
そう言うプロデューサーさんは笑顔を崩さなかったけれど、表情にどこか悲しい色を混ぜていた。
それは薄暗がりの色だろうか。
「僕はロボットです。今度、定期検診を受けに行ってきます」
「定期検診、ですか?」
「簡単に言えば、収集したデータを一度スキャンして、必要、重要なデータはコピーして中枢に記憶し直すんです」
「えっと……つまり、記憶がなくなっちゃう、ってことですか?」
昔、漫画でそんな話を読んだ覚えがある。
「いえ、プロデューサー業は継続して行いますから、記憶は消去されません。
バックアップを取って、解析したのちアップグレードするんです」
「それじゃ、問題はないんじゃないですか?」
「その通り、問題はありません。ナナさんのことは忘れませんし、僕はより高度なロボットになっているでしょう」
プロデューサーさんはそこで言葉を止めると、笑顔を消してしまった。
「……プロデューサーさん?」
「僕は、僕なんだろうか」
彼は顔を上げて、私をじっと見つめた。その目は星のように光っていた。
「僕はロボットです。一度すべてを忘れたとしても、
そっくりに記憶をコピーすれば、外見や仕草はまったく同じでしょう」
けれど、と彼は続けた。
「それは、僕なんでしょうか」
プロデューサーさんはあくまで淡々と話していたけれど、私は彼の目に言いようもない寂しさを感じた。
「ナナさんが次に会う僕は、僕じゃないかもしれません」
ああ、と私はため息が出そうになる。彼に心がないなんて、嘘だ。
彼が感じているだろう寂しさは、きっと心あるものすべての寂しさだった。
私は胸がきゅっとなった。
「プロデューサーさん、少し屈んでください」と、自分の身長が恨めしい。
彼はわかっているのかわかっていないのか、そっと身を屈めてくれた。
そして、私はプロデューサーさんとキスをした。
彼の唇は温かく、きっとバッテリーの放熱を利用しているんだろうと思う。
「鋼のロンリーハート」 終
以上です。読んでいただきありがとうございました。
ドモ アリガト ミスター ロボット
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マタ アウ ヒ マデ
ドモ アリガト ミスター ロボット
ヒミツ ヲ シリタイ
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