男「僕の大嫌いな彼女の話」(79)

昔話をしようか。

 僕の大嫌いな彼女と、

 彼女の大嫌いな僕の、

 どうしようもなく愛し合った二人の、

 話。

 そこまで書いてから、僕はすっかり習慣となった夢日記のノートをとじた。

 かわりばえのしない朝だ。

 両親共にすでに稼ぎに出ていて、家には自分しかいない。いつも通り。
 生ぬるい水道水で顔を洗い、しわだらけの制服に着替える。いつも通り。
 冷凍された食パンを一枚トーストして、なにもつけず食べる。いつも通り。

 パソコンでニュースサイトのヘッドラインだけチェックする。いつも通り。
  携帯電話と財布と文庫本を一冊、通学鞄に滑り込ませる。いつも通り。
 戸締りを確認して扉を開けて外へ出て、そして鍵をかける。いつも通り。

 いくつかの「いつも通り」を済ませて、僕はその一日を始める。それすらもいつも通りだ。

 駅まで歩いている間も、電車に揺られている間も、僕は考えている。
 なぜ学校に行くのか。
 そして結論はでない。いつも通り。

 始業の十五分前に学校に到着する。すぐそばを自転車通学の生徒が通り過ぎて行く。いつも通り。

 教室に入っても、誰も僕には気づかない。
 いつも通り。

 違う。
 気づかないのではない。
 気づかないふりをしているだけだ。
 喧騒のなか、誰もが雑談しながら、こちらを「見ている」。
 けれど、「見ていない」ふりをする。

 ならば僕はあえて何もするまい。

 すべきことがないのもいつも通りだ。
 だから時間を持て余した僕は本を読む。
 昨日の続き。旅の勇者が魔族四天王の三人目を倒したところから。
 ありきたりな話だ。
 気楽な読者の立場からそう思う。
 でも他にやることもなく仕方なく読み続ける。

「アンタ、いつの間に学校来てたのよ」
 勇者はいよいよ四人目が待つ部屋の荘厳な扉を開く。
「早く今日の連絡見に行きなさいよ」
 敵の冗長な台詞に耳を傾け、丁寧に反論する勇者。
「聞いてんの?」
 ついに二人は剣を抜く。
「返事しなさいよ」
 どちらともなく走りだし、一気に間合いを詰め、衝突する。
「仕事しろって言ってんのよ」
 その瞬間ーー。

 爆発した。
 終わり。

 くだらない話だった。
 僕の日常と同じくらいにはくだらない。
 でも暇つぶしにはなった。
 今度はあとがきを読むことする。
「何かいいなさいよっ」
 彼女はいよいよ手をのばして、本を取り上げようとする。
 当然僕は肘でそれを防ぐ。
 手が当たった彼女は、熱湯に触れてしまったかのように声をあげて、腕をひっこめた。

 彼女が取り落とした学級日誌を拾い上げる。
 そのまま教室を出た。
 そのとき、気持ち悪い、最低、消えろ、などといった悪意ある言葉が後方から聞こえてきた。
 どうやらあのクラスではいじめがあるらしい。
 いったい誰が標的なのだろう。

 廊下は空気がひんやりと冷たくて気持ちいい。
 日誌を連絡黒板脇の定位置に戻し、突き当たりの階段を降りる。
 後ろから、とっとっとっ、とリズミカルな足音が聞こえてきた。
 きっとその人も保健室に用事があるのだろう。
 その保健室はちょうど教室の真下にあたる。
 ノックしないで入ろうとしたところで、声をかけられた。

「……男くん」
 ふり返ると、そこに一人の女生徒がいた。
「……あのね」
 何か用だろうか。いや、きっと人違いだろう。
「もしよかったら……」
 困った。この人はきっと僕を他の誰かと勘違いしたまま話している。
 言ってあげた方がいいのだろうか。
「……今日の放課後、作業、手伝ってもらえないかな」
 そこでやっと僕は気がついた。
 この人は「僕」に話しかけている。

 さらに、よく見ると、その人は知っている人間だった。
「今日は何をするんですか」
 僕は聞く。
「……新しく入った本の、紹介ポスターを……」
 女さんは答えた。
「分かりました。授業が終わったら向かいます」
「……あ、あの……」
「……何か?」
 まだ用件があるのだろうか。
「……いえ、やっぱり、いいです」
 女さんは首を横にわずかにふった。
「そうですか。ではまた後で」
「……はい……また、後で……」
 最後まで聞こえるか聞こえないかのうちに、僕は引き戸を開けて部屋に入った。

 保健室には誰もおらず、当然ベッドは三つとも空いていた。
 僕は一番気に入っている窓側のベッドを選んだ。
 間もなくチャイムが鳴る。
 遅刻しまいと校庭を走る生徒たちの姿が見えた。
 そんなに急いでいいことでもあるのだろうか。

 目を閉じる。

 今日は待ちに待った彼女とのデートだ。
 いつも忙しい彼女が、いつもはみんなのために働く彼女が。
 今日は僕が独り占めしていいんだ。

 ……。

 自分で言うのもなんだが気持ち悪い。
 いくら何でも「独り占め」はない。
 一度言ってみたかったことは実際言わない方がいいことも結構あるようだ。

 彼女の前じゃなくてよかった。
 口に出して言わなくてよかった。
 人間として大事なものを失うところだった。
 ……緊張、しているのかな。
 いや、恥ずかしい。デートくらいで緊張してるなんて恥ずかしいぞ。
 自分に言い聞かせる。

 そろそろ出発しよう。
 待ち合わせの時間まではまだ余裕があるけれど、一回目なのだから、万が一にも遅刻したくない。
 早めに出ても損はない。
 それに、待つのも楽しいものだ。
 好きな人を待つなら。

 なんだろう、すごくそわそわする。
 不安で、何度も手帳と携帯電話を確認する。
 日付も、時刻も、間違っていない。
 時計も確認したが、今日であっている。

 彼女に何かあったのだろうか。

 突然心配が心中に沸き起こり、一瞬で埋め尽くしていく。
 今すぐ、探しに、迎えにいきたい。
 けれど、もし行き違いになったらどうしよう。

「男っ」
 声がする。
 彼女がいた。

「……はぁ、はぁ…………」
 走ってきた彼女は息を切らしていて、呼吸が整うまでしゃべれなかった。
「ごめんなさい、あの」
 妙におどおどしている。
 彼女らしくもない。
「昨日、楽しみで、寝付けなくて」

「寝坊しちゃって、それで慌ててたから携帯も忘れちゃって……」
 必死に弁明する彼女。
 すごくかわいい。
 普段は冷静で、勉強と仕事を完璧にこなし、どちらかというとかっこいい印象が強い彼女だけれど、今日は全く違った。
「ごめんなさいっ」
 もう一回謝った。

「大丈夫だよ、僕も今来たところだから」
 大嘘である。
 しかしこれは彼女のためにつく嘘だから問題ない。
「それは嘘よ」
 見抜かれた。
 なんで?
「ペットボトルのお茶、だいぶ減ってる」
 なるほど。
「これは家から持って来たんだよ。電車の中で飲んだ」
「そこのコンビニのシール貼ってあるよ」
 やっぱり見抜かれた。

「……ごめん」
「こちらこそごめんなさい。でも」
 彼女は微笑む。
「いくら私のためでも、嘘はよくないな」
 ですよね。
「私の遅刻と、君の嘘とでおあいこ。ノーカウント」
 釈然としない。
「今から嘘ついてたら、結婚後はどうなるのかしら」

 ……。

 今何か聞こえたかな。
「浮気とかされたら、私、泣いちゃうよ?」
 ええっと。
 結婚、と。言ったらしい。

「気が早くないですか?」
 僕たちまだ高校生だけど。
「もう高校生なのよ。進路とか考えないと」
 それはあくまで進学先や就職先を検討するところまでではないのだろうか。
 「うん、だから、大学出たら、君の妻になる」

「それは……もしかして」
「プロポーズね。男くん」
 彼女が少し前に出て、くるりとふり返る。
「私と結婚してください」

 ……うう。
 本当は、僕の方から言いたかったんだけどな……。
「ダメ?」
「そんなことない」
 ちょっと悔しいだけ。
 先に言いたかっただけ。
「喜んでお受けします」
「よかった」

「じゃあ行こうか」
「うん」
 現実感がなく、ふわふわとした足どりで映画館に向かったのを覚えている。
 ポップコーンがおいしかった。

 目覚めは最悪だ。
 嫌な夢を見た。
 こんなのは夢日記に書きたくない。

 寝過ぎた。
 嫌いな一時間目の授業だけ休むつもりだったのに、うっかり午前中いっぱい寝過ごしてしまった。
 だからあんな嫌な夢を見るのだ。
 時計で時刻を確認する。
 現在午後零時二十分。昼休みはすでに始まっている。

 ひどく気分が悪い。
 食欲はあまりない。
 昼食は抜いても問題ないだろう。

 保健室にはやはり誰もいない。
 保険医は何をしているんだ。仕事しろ。
 もういい。移動しよう。
 行くとしたら図書室だろうか。きっと屋上はなんだかんだで人が多い。
 図書室にはあの人以外いないはずだ。
 いや、あの人もいないかもしれないな。

 ひと気のない北校舎の廊下をゆっくり歩く。
 今度は自分の足音しか聞こえない。
「他の階と違って照明もついていないので薄暗い。
 唯一採光するはずの窓ガラスは、半分が積み上げられたダンボール箱に遮られ、もう半分は埃と水垢と蜘蛛の巣に遮られ、役割をはたしていなかった。
 どのクラスにも掃除を担当されていないらしい」
 一人でそんなことをつぶやいても、それを聞く人も、それが聞こえる人もいなかった。
 だから言ったのだが。

 図書室の扉に何かはさまっていた。
 手紙である。
 封はされていない。
 味気ない無地白色の封筒だった。他意なく開ける。

 中身はルーズリーフが一枚。
 黒のボールペンでこう走り書きされていた。

「id腹筋
 回数=idに含まれる数字の合計×8」

 意味がわからない。
 誰かのいたずらだろうか。
 もしくはメモ書きを落としたのかもしれない。
 部屋に入ってから、手紙を元通りに扉にはさませておいた。

「女さんですか?」
 いた。
 昼休みなのに。
「何がですか?」
「あの手紙です」
「ああ、あれですか」
「あれです」
「あれはですね」
「あれは?」
「あれだったんです」
「あれとは?」
「あれ?」
「え?」
「忘れました」
「えっ」
「えっ」

「冗談です」
 ひどくわかりづらい。
「はさまっていたので、元通りにしておきました」
「そうですか」
 彼女ではないらしい。本当に何だったのだろう。
「ご飯食べたんですか?」
 僕は尋ねる。
「食べましたよ」
「栄養ゼリーは食べたうちに入りませんよ?」
「……」
 ……。
「……食べたんですか?」
「……」
 ……食べてないらしい。

 だからこんなに早く来ていたのか。
「男くんは?」
「体調が悪いので」
「あまりよくありませんよ?」
「回復したら食べます」
「そうですか」

 それきり、彼女は口を閉ざす。
 図書室は、僕が来る前の静かな状態に戻る。

 彼女はハードカバーの分厚い本をじっくりと読んでいた。
 邪魔をしては悪いので、僕も黙って本を読むことにする。
 時計の音だけが響く。

 そのうちチャイムが鳴った。

 彼女は僕に一声かけてから図書室を出ていった。
 午後の授業が二時間続きの体育であることを思い出した僕は、暇をつぶす場所を探すことにした。
 今日はバスケットボールをしたい気分ではなかった。

 保健室に戻ってまた眠ることも考えたが、今行ったら保険医がいるかもしれない。
 顔を合わせたくない。
 それに、保健室に入り浸っている病弱な生徒と思われるのもいやだ。
 もう人はいなくなっただろう屋上へ。

 そのためには南校舎の廊下を通らなければならない。
 今は五限目の授業中なので、恐らく誰もいないだろうが。
 巡回中の教師に見つかったら厄介だ。不良扱いされるかもしれない。
 かといってこそこそするのも性にあわない。
 むしろ堂々としていた方がいいだろう。

「何してるの?」
 ふり返る。
 誰もいない。
 おかしいな。
「今授業中よ?」
 また声がする。
 放送かな?
 周りを見てもスピーカーはない。
「アンタに言ってんのよっ」
 あ、そうですか。

「教室に戻りなさいよ」
「体育」
「なら着替えてグラウンドに行きなさい」
 困ったな。
 教師よりよっぽど厄介で不愉快だった。
 だいたいここにいるのは彼女も同じだろう。
「お前は?」
 ふっ、と嘲笑された。
「私は空き時間よ、授業はないわ」
 あ、そうですか。

 一応言ってみる。
「僕も授業ないけど」
 大嘘である。
 しかしこれは自分のためにつく嘘だから問題ない。
「それは嘘よ」
 見抜かれた。
 なんで?
「クラスメイトの時間割くらい暗記していて当然でしょう?」
 なるほど。
「記憶違いかもしれないだろう」
「体育は必修」
 やっぱり見抜かれた。

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