遠子「たとえば、電子書籍の需要が高まっていって、そう遠くない未来……、そうね、二十年後くらいに紙媒体の書籍がなくなるとするでしょう?」
心葉「ええ」
一応、形になった原稿を推敲していると、昼食を作ってくれていた遠子先輩がキッチンカウンターから顔を覗かせて、ダイニングテーブルで仕事をしていた僕に話の水を差し向ける。
べつに、それを邪魔だとは思わない。
遠子先輩の声は耳に心地が良かったし、何か作業をしていても構わず声をかけてくるのは昔からのことであったから、僕はといえばすっかり慣れたものだった。
遠子「それでね、心葉くん。電子書籍が横行する世の中になってしまうと、私は何を食べていけばいいのかしら。画面で美味しそうな物語を見ることはできるのに、実際にいただくことはできないのよ。これって酷い生殺しよね」
心葉「まあ、いいじゃないですか。遠子先輩が食べるものは僕が書けばいいんですから、どんな未来になったとしても、この世から先輩が食べるものがなくなることはないですよ」
実際に、遠子先輩と同棲を始めて二年になるが、その間、朝に昼に晩と一日に最低三度、多い日には一日に五度ほども、彼女のために物語を書いている。
もしも遠子先輩が言うように、紙媒体の書籍というものがなくなってしまったとしても、僕が存命のうちは彼女に食べ物の不自由をさせることはないだろう。
遠子「いえ、もちろん、心葉くんがお話を書いてくれるおかけで食いっぱぐれの心配はないわけだけれど……」
心葉「だけど?」
言葉尻を捕まえて問い返すと、遠子先輩は何事か言い難そうに視線をさまよわせた。
遠子「その、気を悪くしないで聞いてね?」
心葉「なんですか? 僕が気を悪くするようなことなんですか?」
遠子「す、すでに心葉くんが怖い顔してる!」
心葉「そんなことありませんよ。ほら、笑ってるじゃないですか。ね?」
遠子先輩が怯えた様子でキッチンカウンターから顔を引っ込めてしまうので、努めて笑顔を浮かべ、彼女に「怖くないよ」とアピールする。
すると、遠子先輩は安堵した様子で、ひょこりと再び顔をのぞかせる。
はっ、ちょろい。
遠子「あっ、心葉くんが悪い顔をしてる!」
と、油断したのがいけなかったのか、危険を敏感に察知した遠子先輩が再び隠れてしまう。
それから、そろりと顔を出して、様子をうかがう。
遠子「あのね、心葉くんのご飯は美味しいし、大好きなのよ? ……でも、たまには別の人が作ったお料理もいただきたいなって思うの。わかる?」
心葉「……遠子先輩、それは浮気ですか?」
遠子「やっぱり怒った! 浮気でもないし! 心葉くん、独占欲が強いよ」
心葉「いいじゃないですか、文学的で。破滅的な愛にこそ物語が生まれるものです。好きでしょう?」
遠子「好きだけれど、我が身に降りかかるとなると話は別よ。心葉くんだって、私の料理ばかりでは飽きるでしょう? たまには料理屋さんで食べたいなぁとか、お義母様のご飯を食べたいなぁとか、そういう気分のときってあるじゃない」
心葉「いいえ? 全然? まったく? 僕は一生遠子先輩のご飯だけで生きていけますけど?」
遠子「……っ! 卑怯だわ、心葉くん。そう言ってくれるのは嬉しいけれど、心葉くんが百点満点の答えをしてしまうと、私が我が儘を言っているようじゃない」
心葉「事実、そうじゃないですか。……いえ、流石に遠子先輩のみならず、先輩の食まで束縛しようだなんて少ししか考えていないですから、他の作家の物語を食べても構わないんですけどね」
遠子「……心葉くんは、食に関しても少なからず束縛したいと思っているのね」
心葉「大丈夫です、思っているだけですから。ちょっとした言葉の綾です」
遠子「作家なのだから、言葉に間違いがあるのはダメよ、心葉くん。もぅ」
心葉「会話にまで赤を入れないでください。赤が入るのは原稿だけで十分です」
犬も食わないようなやりとりを繰り広げている間にも、遠子先輩は昼食を盛り付けてくれてダイニングに運んでくれる。
遠子「はい、心葉くんが大好きな私の手料理よ」
本人的には嫌味のつもりなのか、少し唇を尖らせながらチクリと言うが、事実、僕は遠子先輩の手料理が大好きなので、彼女の口撃に臆することはない。
そもそも遠子先輩に嫌味だなんて向いていないし、柄でもない。なんなら嫌味が下手な遠子先輩が可愛らしく思える。
心葉「ありがとうございます」
印刷して推敲していた原稿を適当な場所に置くと、手を合わせて「いただきます」と遠子先輩に一声かける。
遠子先輩「はい、どうぞ」
物語ほど美味しく食べられないとのことではあるが、生物として生命を維持する必要があるため、遠子先輩も普通の食事を摂る。
昼食に遠子先輩が作ってくれたのは、ナポリタンにサラダ、オニオンスープ。なんだか個人店のカフェメニューのようで、ついコーヒーが欲しくなってしまう。
心葉「うん、美味しい」
料理を一口食べて、それが相変わらず美味しいことに満足するのだけれど、やっぱりそのあとで不思議に思ってしまう。
遠子先輩は、所謂、普通の人が言うところの料理に関しては全くの味音痴であるのに、しかし、彼女が作る料理は絶品なのである。
これは一体どういう理屈か。
心底謎である。
――食後――
昼食を食べ終えて、すでに日課となっている、遠子先輩に提供するためのデザートを作ることにする。
デザートの材料を探してくるのは遠子先輩。
新聞や雑誌のページを適当に繰って、目についた単語を三つ選ぶ。
今日は、ぬいぐるみ、破産、バドミントン。
学生の時分、文芸部の部室で毎日三題噺を書いていたが、あのときには遠子先輩に物語を書き続ける日々が来ようとはまるで夢想だにしていなかった。
遠子先輩は、僕が話を書いている最中も傍らに張り付いていて、楽しそうに経過を見守っている。
ダイニングテーブルの下で、遠子先輩が足をパタパタと揺らしている気配を感じる。時折、勢いよく足を振り過ぎて、その拍子にポトリと足からスリッパが抜け落ちてしまう。
天野遠子、二十五歳。
僕の書く物語を楽しみにしてくれるのは嬉しいし、なんだか尻尾をふりふりしている犬を彷彿させて愛らしくもあったけれど、年齢と彼女の行動を照らし合わせて鑑みるに、これで本当にいいのかとも思う。
もう少し落ち着いても……、とは思ったが、ちらりと遠子先輩の顔に視線を向けると、無防備にふにゃっと笑っているさまが映って、もう可愛いのでなんでもいいかと考えることを諦めた。
心葉「遠子先輩」
遠子「なに、心葉くん? あ、できた?」
心葉「いえ、まだです。そうではなくて、さっき電子書籍がどうとか言っていたじゃないですか」
せっかくの遠子先輩との休日なのだ。なんだか黙々と作業をしていると、時間が勿体ないように感じる。
だから、三題噺の執筆が仕上げに入ったこともあり、食前にしていた話を遠子先輩に振ってみた。
遠子「うん。電子書籍がどうかした?」
心葉「知っていますか。電子書籍を愛用する層って、高齢者が少なくない割合を占めているんですよ。少し意外じゃないですか?」
遠子「ふふん。これでも編集者の端くれだもの、当然知っているわ。老眼が進んだ高齢者の方にとって、文字を拡大できる電子書籍は使い勝手がいいのよね」
心葉「流石に知っていましたか」
遠子「もちろん、文学少女だもの。えっへん」
得意満面で胸を張る遠子先輩。
うーん。
心葉「無い胸を張っちゃってまぁ……」
胸を張っているのに出っ張りがないところが切ない。
遠子「なっ!」///
怒りか、羞恥か、おそらくは両方だろうが、顔を赤らめた遠子先輩が、キッと僕を睨み付ける。
遠子「女性の身体的特徴を揶揄するなんて、心葉くん最低よ!」
心葉「いえ、揶揄してはいないですよ。悪く言った覚えもないですし。……ただ無いなぁと思っただけで」
言った瞬間、テーブルの下で、遠子先輩の蹴りが脛に炸裂する。
遠子先輩が手加減してくれているということもあるが、モコモコとしたスリッパのおかけで全く痛くない。
遠子「私の胸、大好きなくせに。……そんな意地悪な心葉くんにはもう触らせてやらないんだから」
器用に椅子の上で三角座りをすると、膝に顎を乗せて、不満顔でそっぽを向いてしまう。
挙げ句の果てには、鼻息ではなく口で「ふんっ!」と言う始末である。
いちいち可愛い。
ちょうど三題噺を書き終えたので、テーブルの上を滑らせて、遠子先輩に上梓する。
遠子「……」チラチラ
怒っていますよアピールを崩したくない一方で、三題噺も気になっているものだから、落ち着きなくそわそわと体を揺すっている。
心葉「遠子先輩、すみませんでした。……つまらないものですが、よかったらこれで仲直りしてくれませんか?」
遠子「……」チラチラ
もともと三題噺が気になっていたこともあり、すぐに仲直りを受け入れて読みたいに違いないが、そうしてしまうと、貢ぎ物一つで簡単に許してしまう女と思われてしまう。それはなんだか癪だなぁ、などと考えているさまがありありと見てとれて、表情をコロコロと変える遠子先輩は見ていて面白い。何より愛らしい。
ここはもう一押し。
すでに三題噺という餌には食いついている。
僕が折れてみせることで、すぐに釣れるだろう。
心葉「遠子先輩、僕が悪かったです。僕は小さかったとしても遠子先輩の胸が好きです。だから、特別に注意を傾けていませんでしたが、まさか遠子先輩がコンプレックスに思っていたとは……。これからは気を付けますから、仲直りしてくれませんか?」
ちらり、と。
こちらを伺う遠子先輩。
すでに顔に怒りの翳はない。どころか、視線はちらちらと三題噺の上を走っていて、今や関心はそちらに移っているようだ。
遠子「心葉くん、本当に反省してる?」
心葉「はい。もちろん」
遠子「本当に本当?」
心葉「本当に本当です」
遠子「じゃ、じゃあ、今回は特別に許してあげます。以降、気を付けるように」
心葉「はい。気を付けます」
遠子「で、では、心葉くんが仲直りにと差し出してくれたわけだし、せっかくだから……、そう、せっかくだから、心葉くんの三題噺をいただきます」
すぐに気持ちを切り替えてみせたのではあまりにもゲンキンなものだから、必死に「仕方なく仲直りの印に三題噺を食べる私」というポーズをとってみせる。
――食後――
遠子「ごちそうさまでした」
心葉「はい。お粗末様でした」
食後、ほくほく顔の遠子先輩が満足げに頭を下げる。その拍子に形の良い頭の旋毛が見えて、ほとんど条件反射で遠子先輩の頭を撫でていた。
相変わらず遠子先輩は黙って食べるということを知らず、ぱくぱくと原稿を口にしながら、物語をあれやこれやと食べ物に例えて説明してくれた。
そうした遠子先輩の食事風景を見るにつけ、語彙は豊富だし、感受性も豊かだし、彼女こそ作家に向いているのではないかと思う。
しかし、遠子先輩にそのことを伝えると、「美食家が必ずしも最高の料理人になれるとはかぎらない」と、わかるようなわからないようなことを決まって口にするのだった。
もっとも、実際に遠子先輩が自ら物語を書くようになると、僕の存在意義がなくなってしまうのではないかという恐れがあるため、僕が物語を書いて、遠子先輩がそれを食べるという今の形が幸せなのかもしれなたあ。
心葉「遠子先輩って、アン・シャーリーにどことなく似ている気がします」
遠子「そうかしら。でも、そのうち一軒家を建てるなら、緑の屋根のお家がいいなとは思っていたの」
心葉「それはいいですね」
赤毛のアンの主人公、アン・シャーリー。彼女は想像力豊かで、幼少の時分にはお喋りなところもあり、物語ることへの貪欲さと快活さ、そして何より聡明さを感じさせる語り口は、読むたびに遠子先輩を連想させた。
遠子先輩とは遠距離恋愛をしている期間が長かったため、先輩に会えなくて寂しい ときには、よくアンシリーズを読んだものだ。そうすると、不思議と遠子先輩が傍にいてくれるような気がして、心が落ち着くのであった。
遠子「そうすると、心葉くんはギルバート・ブライス?」
心葉「僕、遠子先輩に意地悪したことなんてないですよ?」
ギルバートはのちにアンの夫になる男性であるが、幼少の頃にはアンが気になるあまり、つまらないことでちょくちょく彼女に意地悪をしていたのだった。
遠子「嘘よ。心葉くん、文芸部に入りたての頃なんか、よく私に意地悪してたじゃない。ほんとはとっても面白い物語をかけるに違いないのに、わざと美味しくない物語を書いたりして……」
心葉「それは遠子先輩が無理に書かせようとするからです。でも、遠子先輩は全部食べてくれましたよね」
遠子「もちろん。文学少女たる者、どんな物語であっても残すわけにはいかないわ。えっへん」
心葉「そういうものですか」
遠子「ええ。それに心葉くんが書いてくれたものだったから、残すのも憚られたのだもの」
心葉「そうですか。なんだかくすぐったいですね」
遠子「まあ、くすぐったいのは私の方だと思うけれど……」
遠子先輩がデザートを食べ終えた後からずんやりと頭を撫で続けていたら、流石に恥ずかしくなってきたのか、彼女が顔を赤らめて身をよじり始めた。
遠子「ちょっと、心葉くん? 三つ編みをほどかないで」
心葉「まあまあ。なんだか眠たくなってしまったので、三つ編みをほどいて一緒にお昼寝をしましょう」
遠子「心葉くん、食後すぐに寝ると牛さんになってしまうのよ」
心葉「でも、もう三つ編みをほどいてしまいましたし。それに仕事も一段落つきましたから、少しイチャイチャしたいなぁって」
遠子「……ここ数年、心葉くんが素直になってくれたのは嬉しいけど、あまりにストレートに言われると少し照れてしまうわ」
心葉「遠子先輩、三つ編みをほどくと印象が変わりますよね。なんだか艶やかと言いますか、……大人っぽい雰囲気にドキドキします」
遠子「髪をほどこうがほどくまいが大人だもの、当然です」
心葉「いや、それはどうでしょうか」
表情豊かなこともあって、普段は子どもっぽいところの方が強調されがちであると思うのだけれど……。
遠子先輩の髪をほどいてしまうと、今まで三つ編みにしていた跡がついて、腰まで伸ばした長髪が緩やかにウェーブしていた。
遠子先輩の手を取ると、リビングまで誘導して、板敷きの床に敷いたカーペットにころりと転がす。僕もその横に寝そべると、クッションを頭に昼寝の体勢を整えた。
心葉「遠子先輩、こっちです」
伸ばした腕の中程を、もう片方の手でぽんぽんと叩いて、遠子先輩を招き寄せる。
遠子「心葉くん、恥ずかしいんだけど……」
心葉「誰に見られているわけでもないですし、構わないじゃないですか。麻姫先輩が見ているというなら、迂闊に隙は見せられませんから、話は別かもしれませんけど」
遠子「恐ろしいことを言わないで、心葉くん」
麻姫先輩の名前が出ただけで、びくりと肩を上げて、きょろきょろと周りを確認する遠子先輩。
二人は控え目に言っても仲が良いけれど、過去の様々は因縁から、どうにも遠子先輩は麻姫先輩を恐れている節があった。
心葉「大丈夫。ここにはいないですって」
遠子「そ、それなら……、お邪魔します」
白い肌を耳まで赤くした遠子先輩が、僕の腕の上にそろりと頭を乗せる。それから寝返りをうち、僕の方へと体を向けた。
じんわりと遠子先輩の頬の熱が接する腕に伝わって、伝播し、僕の頬も熱くなるようだった。
遠子「も、もう、同棲を始めて二年だし、そろそろ慣れてもいいと思うんだけど……」
心葉「慣れませんよね……」
僕も遠子先輩も互いに顔を赤くしながら、何か気恥ずかしくなってしまって、思わず目をそらしてしまう。
遠子「心葉くん、その……、もう少し、そっちに寄ってもいい?」
心葉「ええ、どうぞ。……たぶんですけど、こういうことはいちいち許可を取らなくても大丈夫ですよ。遠子先輩にされて嫌なことなんてありませんから」
じりじりと距離を詰めて、腕の半ばから付け根の辺りまで遠子先輩の頭が移動する。
僕が少し頭を横に傾げるだけで唇が触れてしまいそうな距離であった。
お昼寝とは言ったけれど、こうしているとかえって目が冴えてくる。遠子先輩を強く感じたいものだから、あらゆる感覚が研ぎ澄まされていき、眠気が遠退いてしまうのだ。
心葉「あの、遠子先輩。……キスしてもいいですか?」
遠子「……そういうこともいちいち許可を取らなくてもいいと思うわ。もっと流れに任せてスマートに済ませてもいいと思うの」
心葉「いえ、でも遠子先輩に嫌われたくないですし……」
遠子「大丈夫よ。私だって、心葉くんにされて嫌なことなんてないもの」
心葉「ありがとうございます。じゃあ、失礼して……」
顔を寄せると、そっと遠子先輩が目を瞑る。長い睫毛が微かに震えていて、彼女の緊張が伝わってくるようだ。
触れる程度の口付けだったが、それでも遠子先輩の唇は柔らかくて、離れるときに感じた一瞬の弾力に、再び唇を奪いたいという欲が刺激される。もう一度、今度は最初より長く口付けるが、やはり柔らかくて甘い。もう一度。もう一度。さらにもう一度。
口付けをするごとに深く魅力されて、ぼんやりと思考力が鈍るのがわかる。
遠子「ちょ、ちょっと、んっ、心葉くんっ、ストップ、ストップ!」
ぱしぱしと肩を叩く感触。
はっとして遠子先輩から距離を置くと、そこには涙目で頬を上気させた先輩の姿があった。
遠子「もう! 好きにしてもいいとは言ったけれど、あのまま心葉くんに任せていたら、お昼時からとんでもないことになっていたわ!」
ぷんぷんと怒ってみせる遠子先輩だが、その実、どうやら恥ずかしさを誤魔化すために憤慨してみせているようである。
心葉「すみません、つい……」
たしかに、あの調子だと、昼間から深夜なことになっていたかもしれない。
反省して、遠子先輩を抱き寄せる。
心葉「お昼寝しましょう、お昼寝」
遠子「心葉くんのえっち」
心葉「ぐー」
遠子「寝たふりをしてもダメよ、心葉くん。だいたい心葉くんはいびきをかかないじゃない。いつもあまりにも静かに寝ているものだから、たまにちゃんと生きているのか不安になって、胸に耳を当てたりしているんだから」
心葉「そんなことしてたんですか……」
話を聞いて、少し納得するところがあった。
朝目覚めたとき、度々遠子先輩が僕の胸の上に顔を乗せて寝ていることがあって、どういう寝相をしているのかと訝しんでいたのだけれど、これで得心がいった。
おそらく、僕の心臓の音を確かめているうちに、安心してそのまま寝てしまっていたのだろう。
なんだか可愛らしい。
心葉「よしよし」
頭を撫でると、驚いた様子の遠子先輩がわずかに身を固くする。
が、僕に邪な意図がないと感じとったのか、安心した遠子先輩さんは体の硬直を解き、そのまま寄り添うように体を預けてきた。
遠子「はあ、平和ね……」
心葉「はい、長閑です……」
遠子「ねえ、心葉くん」
心葉「なんですか?」
遠子「あのね、えっと、遠子って呼んでみて?」
いや、えっと……。
心葉「遠子先輩」
遠子「遠子」
心葉「遠子さん」
遠子「遠子」
心葉「遠子ちゃん」
遠子「遠子っ!」
頑なに僕が遠子と呼ばないものだから、ついに業を煮やした遠子先輩が僕の腕にかぷっと噛みついた。
噛みついたとは言っても、軽く歯形が残る程度ではあるが。
遠子「もう、なぜ名前で呼びたがらないの?」
心葉「いや、だって、恥ずかしいじゃないですか」
これまで十年弱、「遠子先輩」と呼んでいたものを「遠子」だなんて呼び捨てにしてしまうと、改めて男女の仲になったんだなと実感してしまう。たしかに男女の仲にはなったものの、それを強く実感すると無性に恥ずかしい心持ちがしたので、遠子先輩を名前で呼び捨てることには抵抗があった。
遠子「でも、そのうち子どもができたとして、そのときにも心葉くんは私のことを遠子先輩って呼ぶつもりなの?」
心葉「いえ、子どもが混乱してしまいそうなので、それは流石にないですけど……」
遠子「でしょう?」
心葉「なので、その場合には、子どもの目線に立って、遠子先輩のことはお母さんと呼ぶことにします」
遠子「なるほど、そうきたのね。じゃあ、私も心葉くんのことをお父さんと呼ぶべきなのかしら」
心葉「なんだか、こそばゆいですね」
遠子「ね。なんだか照れてしまうわ」
心葉「お母さん」
遠子「なーに、お父さん」
心葉「遠子お母さん、行って来ます」
遠子「心葉お父さん、行ってらっしゃい」
心葉「……なんかいいですね」
遠子「……そうね。でも、なんだか妄想が捗ってしまいそうで怖くもあるけど」
遠子先輩が恥ずかしそうに頬を掻きながら苦笑いを浮かべる。
心葉「しかし、妄想とは言わず、いつか子どもが欲しいものですね」
遠子「えっと、それって……。いえ、でも、その前に心葉くんには私を井上遠子にしてもらわないと。ね?」
ほとんど触れ合うような例の距離で、遠子先輩が何か期待するような目を向けてくる。
遠子先輩に想いを伝えたのは、彼女が高校を卒業するときであったから、すでにあれから七年ほどの歳月が流れている。さらに同棲するようになってから二年が経っていた。
人として一廉の者となるまでは結婚などとは言えまいと考えていたが、有り難いことに作家業も軌道に乗ってきたので、今のところ経済的な不安はない。特に、大きく売れた一作目、二作目の印税にはほとんど手をつけていないから、妻子を持ったとしても養っていく算段はついている。
だが。
心葉「そろそろ頃合いかと僕も思っていました。ですが、人生の一大事を寝そべったまま済ませるというのも間が抜けていますから、後日、格好のつく形で改めてもいいですか?」
遠子「それは……、とりあえず井上遠子の内定をもらえたということでいいの?」
心葉「はい。そう解釈してもらって構いません」
遠子「心葉くん!」
感極まった様子の遠子先輩の瞳が湿り気を帯びて、うるっと光が細波のように揺らめいた。
遠子「心葉くんっ!」
心葉「うぐっ、どおご先輩、苦しい!」
喜色満面の遠子先輩が勢いよく首に腕を回して抱きついてくるため、首が絞まって、慌てて「まいった、まいった」と遠子先輩の肩をタップする。
遠子「あ、ごめんなさい。嬉しくって、つい」
心葉「いえ、まあ、……待たせ過ぎた自覚はありますから、遠子先輩を責めるのも憚られますけど。その、なんですか、これからもよろしくお願いします」
遠子「はい。心葉くん。不束者ですが、こちらこそよろしくお願いします」
ふと頬に柔らかい感触があって、視界の中いっぱいに遠子先輩がふにゃりと笑った顔が広がる。
近頃、流人くんに会う度、結婚はまだかまだかと圧力をかけられていて、いい加減まいっていたけれど、遠子先輩がここまで喜んでくれるなら、流人くんの圧力に屈してよかったかなと思える。
遠子「私ね、不束者ですが……、というのを一度やってみるのが夢だったの。叶えてくれてありがとうね、心葉くん」
心葉「僕は言われるのが夢でしたから、こちらこそありがとうございます」
遠子「えへへ。心葉くんのお家にも挨拶に行かないとね」
心葉「そうですね。まあ、うちの母も妹も昔から遠子先輩贔屓なので、挨拶に行くなら泊まりの用意をして出向いた方がいいかもしれません。歓待のあまり、その日のうちには帰してくれない可能性が高いです」
中学生の頃、美羽の一件があり、引きこもりになって、高校に入学した後も鬱々とした生活をしていた僕に再び活力を与えてくれたのは遠子先輩だ。
そのことを父も母も知っていたので、遠子先輩とは恋人関係になる以前から、うちの家族は遠子先輩に好感を持っていた。僕の恩人でもある遠子先輩の家族ウケは頗る良好で、結婚報告などした曉にはお祭り騒ぎになることだろう。
腕に遠子先輩の重みを感じながら、これからは僕がこの重みを背負っていくのだと決意を固める。
幸せを噛みしめながら、ようやく当初の眠気が戻って来て、遠子先輩と重なるようにして微睡んでいると、不意にインターホンが鳴り響いた。
急なことだったから驚いて、思わず肩が跳ねてしまう。
心葉「せっかくの遠子先輩との休日が……。誰だろう。仕事関係ならまずは電話があるだろうし、流人くんあたりだろうか?」
遠子「いえ、急な訪問なら、麻姫という可能性も……」
アポもなしに訪ねて来る人間の顔をいくつか思い浮かべて、僕と遠子先輩は神妙な顔で押し黙る。
遠子「心葉くん、提案があるんだけど……」
心葉「奇遇ですね。僕からも提案があります」
遠子「居留守を使いましょう」
心葉「ここは居留守の一手です」
僕と遠子先輩の声が重なる。満場一致で可決であった。
一定の間隔をあけてインターホンが鳴っていたが、しばらく居留守を使っていると鳴り止んでしまった。
借りているマンションはエントランスにオートロック式のドアがあるタイプなので、玄関の覗き窓を見ても来訪者が去ったかどうかは分からない。
が、間もなく来訪者の素性と一緒に、その者がまだ近くにいることが分かった。
電話がかかってきたのだ。
電話のディスプレイには「井上舞花」と表示されている。
どうやら来訪者は妹のようだった。
心葉「遠子先輩。どうも妹だったみたいです」
遠子「そうなの? それだったら居留守を使ってたら悪いわ。出迎えないと」
のそりと上体を起こす遠子先輩。少し眠たいのか、ぐしぐしと目元をこすっている。
腕の中から遠子先輩の温もりが消えて、物寂しいような気分になってしまう。
心葉「……出迎えないとダメ、ですか?」
遠子「ダメです。流人や麻姫あたりならともかく、舞花ちゃんや菜乃ちゃんなんかは無視すると可哀想だわ」
心葉「まあ、そうですかね。……日阪さんの場合、無視すると単純にうるさそうですから、それなら最初から相手をする方が無難という説が濃厚ですけど」
遠子「とかなんとか言って、心葉くんってば後輩に懐かれて満更でもないくせに。私の前だからって気を遣って悪態をついてみせなくてもいいのよ?」
心葉「いえ、気を遣ってなんていませんよ。本人の前でもだいたいこんな感じですし」
遠子「えっと、それはそれでどうなの、心葉くん……」
たぶん日坂さんは少しマゾっ気があるのではないかと思っている。
そうでなければ、決して折れない不屈の精神を持ち合わせているのだろう。
僕だったら、こうも冷たくあしらわれたらきっとめげている。
改めて我が身に置き換えて考えてみるに、やはり日坂さんの雑草魂には見習うべきところがあった。
まあ、面白い後輩のことはさておき。
遠子先輩が無視をしては可哀想だと言うので、仕方なく舞花からの電話に出た。
ああ、本当は遠子先輩とのんびりしていたかったのだけれど……。
実は、遠子先輩の休みに合わせて原稿が一段落するように、この一週間根を詰めて仕事をしていたのだ。
舞花に恨みはないし、どこに出しても恥ずかしくない自慢の妹だけれど、ピンポイントで休日に遊びに来てしまう間の悪さは嫌いだ。
噂をすれば影が射すとは言うが、結婚の話題になったとき、つい家族のことも考えてしまったのがいけなかったのだろうか。
電話越しに在宅していることを伝え、居眠りをしていたからインターホンに出られなかったことを詫びる。
それからエントランスのオートロックを解除して、舞花に部屋まで上がってもらうことにした。
間もなく、チャイムが鳴って、遠子先輩が玄関まで迎えに行く。
舞花「お邪魔します、遠子さん。お兄ちゃんも久し振り」
やぁ、と手を挙げてみせる舞花。
リビングに通された舞花の姿を見るに、余所行きの格好をしていて、どこかに遊びに行ったついでに寄ったものと思われる。気を遣わなくても構わないのに、一丁前にケーキなどを土産に提げて来るあたり、妹の成長が感じられて、嬉しいような寂しいような複雑な心境になってしまう。
心葉「久し振りって、最低でも週に一度は一緒にご飯を食べているじゃないか」
それも、舞花が選んだ結構いい値がするご飯屋さんに僕持ちで食べに行くのだ。
舞花に懐かれているのか、たかられているのか、判断が難しいところだけれど、お陰様で、この妹、年齢のわりには舌が肥えている。
舞花「一時期、私がお兄ちゃんの通い妻をしていた頃に比べれば、久し振りって言っても間違えではないよ」
心葉「たしかに」
遠子先輩と同棲する前、しばらく一人暮らしをしている時期があって、そのときには舞花が足しげく通ってはあれやこれやと世話を焼いてくれたのだ。
舞花があまりにも入り浸っているものだから、当時のご近所さんには幼な妻か何かと思われていた節があって、何やら生暖かい目で見られていたようだ。
また、あるときには、舞花が泊まりに来ているところに、突然遠子先輩が遊びに来て、浮気を疑われた挙げ句にちょっとした修羅場になったことまである。
なので、たしかに一時期に比べれば、一週間に一度であっても、久し振りの範疇に入るのかもしれない。
本人にも自覚はないし、僕もそうとは思わないけれど、美羽に言わせれば舞花はブラコンということになるらしい。
が、そう言われても仕方がないほどには、これまで一緒にいる時間が長かったのである。
舞花「急に押しかけてすみません。遠子さん、今日はお休みですか?」
遠子「ええ。今日はお休みなの。心葉くんもね」
舞花「お兄ちゃんも?」
心葉「僕の場合は専業作家だから毎日家にいるし、休みも自分の匙加減一つなんだけどね。今日は遠子先輩が休みだったみたいなので、それに合わせて自主休日です」
舞花「そっかー」
僕の話を聞くと何度か頷いて、ふと舞花が難しい顔をしてみせた。
舞花「自主休日って難しくない? 何時から何時まできっちり働きなさいって縛りがないと、ついつい自分に甘くなりそう。お兄ちゃん、すごいね」
感心した様子で舞花が言うので、いやいやと手を振る。
心葉「例えば叶子さんあたりは違っているだろうけど、普通は自分に甘くなってしまうものだよ。だからこそ、締め切りや編集がいるわけだからね。……特に僕には優秀な編集がついているので、オンオフの切り替えに困ることはないかなって」
遠子「えっへん」
照れ隠しなのだろう、わざと得意顔を浮かべて、大きなリアクションをとってみせる遠子先輩だが、よくよく見ると頬に仄かな朱が射していて、恥ずかしがっていることがわかる。
舞花「そうすると、せっかくの休日みたいだけど、お兄ちゃんたちは何をしてたの? ずっとお家?」
きょとんと首を傾げて舞花が訊ねる。
若い舞花にはわからないかもしれないが、休みの日に遊びに行くと翌日の仕事に響くので、休みになったからといって学生の頃ほど遊びに出ることはなくなるのだ。
心葉「今日は遠子先輩とだらだらしてたよ」
遠子「そうね。お話したり、お昼寝したりして過ごしていたわ」
舞花「ふんふん、なるほど。……あの、訊こうか訊くまいか悩んでいたんだけど、気付いてしまうと気になって仕方がないので、思いきって訊きます」
心葉「改まってどうしたの?」
舞花「遠子さんのほどけた三つ網から今まで横になっていたことが推測……、いえ、想像できます。それはお兄ちゃんと遠子さんの衣服が寝乱れていて、横になったとき特有の皺ができていることからも明らか。そして、私が一番気になっているのは……、お兄ちゃんの右腕についている歯形。歯形の痕から想像するに自分で腕を噛んだってことはないよね。女の人の口の大きさだし、それは遠子さんが噛んだ痕だと想像するのが自然。……お兄ちゃん、もう一度訊くけど、今日は遠子さんと何をしてたの?」
なかなか鋭い洞察力。
逞しい想像力。
心葉「舞花は探偵みたいだね」
舞花「いいえ。ただの文学少女よ」ドヤァ
遠子「あっ、私の決め台詞がっ!」
心葉「なかなか面白い推理だったよ。推理作家にでもなればいいんじゃないかな?」
遠子「心葉くんが悪役っぽいことを言ってる」
舞花「というより、作家はお兄ちゃんだし……。なんか話を誤魔化そうとしてない?」
じとっとした目を向ける舞花。
なんだか想像力が豊かなところといい、確実に遠子先輩の影響を受けているわけだけれど、しかし、こればかりは全くの誤解である。
それに誤解でなかったとしても、こういうことはデリケートな話なので、何かに薄々勘づくことがあっても深く掘り下げるべきものでもない。
心葉「いや、舞花、それは誤解だよ。舞花が考えているようなことはしていない。未遂はあったけれど」
舞花「未遂はあったんだ……」
心葉「さすがに昼時だしね。少し睦み合っていたくらいだよ。腕の噛み痕もじゃれ合って噛まれただけ。舞花が想像したことは全くの外れというわけでもないけど、少し正解の上をとおり過ぎていたかな」
舞花「そうなんですか? 遠子さん」
遠子「ええ。あっ、それと、私の名誉のために言っておくんだけれど、未遂を起こしたのは心葉くんの方だから!」
舞花「お兄ちゃん、何やってんの……」
心葉「いや、だから、何もやってないんだってば。しかし、そんなことを気にかけるなんて、舞花もお年頃だね」
噛み痕を見たらそういうことを想像してしまう年齢にまで育ったのだ。昔の舞花であれば、首に唇ほどの鬱血痕を見ても虫刺されを心配してくれたものだが、きっと今はすごい目で見られることになるのだろう。
舞花「いや、お年頃というか……。もしも、お兄ちゃんたちが、その、あー、そう、いつもよりとっても仲良ししているところに押しかけてしまったなら、私ってばとんでもないKYだなって。だから、そうではないとわかって少し安心したというか……」
遠子「いつ来てくれても大丈夫よ、舞花ちゃん。むしろ近いうちにこちらから井上家にお伺いするつもりだったのだし……。ね、心葉くん?」
心葉「そうですね、遠子先輩」
遠子先輩の言葉に、再び何かを想像したであろう舞花がぴくりと反応する。
何事か考える間があって、舞花が僕と遠子先輩の顔を交互に見つめた。
舞花「えっと、おめでとうございます?」
心葉「正解」
今度の推理……、いや、遠子先輩の流儀で言うところの想像は当たっていたことだろう。
遠子「とりあえず、貰えたのは内定だけなんだけどね」
舞花「内定?」
心葉「近いうちにプロポーズしますからねってプロポーズをしました」
舞花「え、なに、そのマトリョーシカみたいなプロポーズ」
プロポーズの中にプロポーズがあるのか。
心葉「あまりプロポーズに向いたシチュエーションではなかったから、後日日を改めてって形にしたんだ。休日にお昼寝しながら、腕枕をしている相手にプロポーズというのもなんだか緊張感がないじゃないか」
舞花「そうかな。私はなんでもない雰囲気のときに何気ない調子で言われたらドキドキするけど」
心葉「若い感性的にはそうなの?」
舞花「いや、好みの問題だと思う」
心葉「少女漫画でも読んでみようかな」
遠子「勉強?」
心葉「そんなたいそうなものではないですけどね。でも、やっぱり僕は男性ですから、小説に登場する女性にはどうしても嘘が入るんです。だから、嘘が混じることはもうどうしようもないんですけど、せめて嘘が小さくなるように女性の考え方を学ぶ必要があるのかなって」
舞花「でも、そういうものの考え方自体が、かなり男性的な気がする」
遠子「心葉くんは今でこそ作家だけれど、そもそも得意科目は理数系だったものね。……私が数学嫌いなのをいいことに、よくいじめてきたものね?」
心葉「そんなことないですよ」
遠子「ありましたっ!」
遠子「遠子先輩、こんな簡単な問題もわからないんですか? 一学年下の僕でもわかりますよ? 仕方ないですから教えてさしあげましょうか?」
遠子「……って、意地悪されたんだから!」
心葉「よくそんなこと覚えてましたね。意外と根に持つタイプ?」
遠子「違いますー、心葉くんとの会話は宝物だから覚えてるだけですー」
遠子「」
唇をつんと尖らせて遠子先輩はそっぽを向いてしまうのだけれど、僕はというとなんだかにやけてしまう。
心葉「まあ、ギルバート的には多少の意地悪もご愛敬ですよね」
遠子「私に構ってほしかったということ?」
心葉「ええ。遠子先輩が好きでしたから、つい……」
遠子「そっか。そういうことなら心葉くんに意地悪されるのもいいかも」
心葉「では、これからも意地悪してもいいですか?」
遠子「ええ、もちろんよ。よろしくね、心葉くん」
そして遠子先輩はぺこりと頭を下げてみるのだが、よくよく考えてみると何かおかしくって、今になって「あれれ?」と首をひねっている。
舞花「自分から押しかけておいてなんだけど、目の前でイチャイチャされると、どうしていいのかわからなくなるよ」
心葉「ああ、ごめん、舞花。とりあえず、舞花が持ってきてくれたケーキでも食べようか」
遠子「あ、心葉くんは座ってて。私が……」
ケーキを取り分ける食器類を持って来るついでに、コーヒーでも煎れようかと立ち上がると、遠子先輩がそれを引き留めて代わりを申し出てくれる。
しかし。
心葉「僕が行きますよ。遠子先輩は久し振りの休みなんだから座っていてください」
遠子「そう? それならお言葉に甘えようかしら」
舞花「せっかくのお休みというなら、お兄ちゃんもでしょ? キッチンを使うことを許してもらえるんだったら、私が用意してくるよ?」
通い妻歴の長い舞花が気を利かせてくれる。
心葉「いや、一応お客さんだから……」
舞花「べつにいいよ? だって、お兄ちゃんが結婚しちゃったら、もう世話を焼く機会もなくなるんだもん。今のうちに、ね?」
心葉「じゃあ、お願いするよ」
遠子「ありがとう、舞花ちゃん」
舞花「いえいえ」
舞花はスカートの裾を気にしながら立ち上がると、「ケーキを食べながらプロポーズの経緯を詳しく聞きたいな」といたずらっぽい笑みを浮かべてキッチンに向かう。
心葉「かなり恥ずかしいんだけどなぁ……」
隣の遠子先輩の様子を窺ってみると、彼女も困り顔で笑っていた。
遠子「でも、結婚にこぎつけるまでに舞花ちゃんにはたくさん気を揉ませてしまったから、最後まで報告しないと。ね?」
心葉「そうですね。うん。どうせなら舞花がうんざりするくらい惚気話を聞かせてあげましょう」
遠子「全て明け透けに語ってしまうのは恥ずかしいから、ほどほどにかいつまんでね?」
赤くなった頬をぽりぽりと掻きながら、遠子先輩が困ったように笑ってみせる。
全て包み隠さず話すと兄としての威厳も失いかねないし、僕としても遠子先輩の意見には賛成だ。
心葉「その、これからもよろしくお願いしますね、遠子」
遠子「うん。これからもよろしくね、心葉くん。……え? あれ、心葉くん、今なんて……?」
目をぱちくりとさせて、遠子先輩がぽけーっと僕の顔を凝視する。
遠子「ねえ、心葉くん、今なんて言ったの……?」
心葉「いえ、ですから、これからもよろしくお願いしますね、遠子先輩、と」
遠子「違うわ、心葉くん」
心葉「違わないですよ」
遠子「違いますー!」
すっとぼける僕に、遠子先輩がむくれてみせる。ぷっくりと膨らました頬をつつくと、唇の隙間からふしゅーっと空気が漏れて面白い。しかし、当の遠子先輩はむくれてみせるのに必死なので、何度頬をつつかれても頬を膨らまし続ける。これは可愛い。
遠子「心葉くん、さっき遠子って呼んでくれたじゃない。もう一度呼んで?」
心葉「どうしようかな。お願いを一つ聞いてくれたら考えますけど……」
と、僕が持ちかければ、器用にもざざっと座ったままの状態で飛び退いた遠子先輩が、自分の体を抱くようにしてこちらを眇めていた。
遠子「心葉くんのえっち」
心葉「いや、まだ何も言ってないじゃないですか」
遠子「ちょっと名前を呼ぶくらいで交換条件を出そうとは烏滸がましいわ」
心葉「いえ、たいした交換条件ではないのですが……」
遠子「一応聞くけれど、交換条件って?」
心葉「はい」
すすっと遠子先輩に詰め寄り、耳元に唇を近づける。
心葉「先程の小説のために女性の勉強をするという話ですが……。今晩、遠子先輩が僕に女性を教えてくれてもいいんですよ?」
遠子「なっ!」///
驚いた遠子先輩の肩が大きく跳ねて、顔を寄せていた僕の顎に突き刺さる。
心葉「あいたっ!」
耳元を押さえて真っ赤になる遠子先輩が、わずかに潤んだ瞳で僕をねめつける。
遠子「やっぱりそういう話じゃない! 心葉くんのえっち!」
心葉「ちょっと、遠子先輩、声が大きい! キッチンの舞花に聞こえちゃう!」
遠子「問答無用! えいっ!」
遠子先輩が飛びついて来て、その重みで体が後方に傾ぐ。そのままマウントをとられた僕は脇腹をくすぐられてしまう。
心葉「と、遠子先輩、ギブ、ギブです!」
遠子「やめてほしくば名前を呼びなさいっ!」
心葉「あはは、くすぐったいッ、わかった、わかりました、呼びますからっ! と、遠子!」
遠子「心葉くん、もう一回!」
心葉「遠子!」
遠子「愛してる?」
心葉「あ、愛してる! 愛してるからギブですって!」
遠子「世界一?」
心葉「世界どころか、宇宙一愛していますから!」
遠子「心葉くんっ!」
心葉「ぐふっ!」
感極まった遠子先輩が仰向けの僕に飛び乗って来て、その衝撃によって肺の空気が一瞬で口の外に漏れる。
決して厚くない僕の胸板に頬を擦りつけて、遠子先輩がぴったりと体を密着させる。
遠子「心葉くん、私も心葉くんのことを宇宙一愛してるわ。これからも、ずっと」
遠子先輩こそ正真正銘本物の文学少女だと確信しているが、その一方で、所謂、世間が文学少女に持つイメージに彼女はそぐわない。おしとやかで線の細い美少女という一面も確かにあるけれど、そのわりにはすぐにムキになるし、表情もころころと変わる。挙げ句の果てには、男である僕を組敷くほどのエネルギーを秘めているのである。
しかし、僕はそんな遠子先輩が大好きだ。世に女性は数多いるけれど、遠子先輩以外の女性との未来は考えられないほどに惚れている。
だから、遠子先輩を腕におさめながら、こんな幸せがずっと続けばいいなと夢見心地に思った。
なお、お盆に食器とコーヒーを入れた舞花がリビングに戻って来て、「お兄ちゃん、何やってんの」としらぁっとした目で見られてようやく夢から覚めるのであった。
おわり
以上です。
ありがとうございました。
文学少女で一番可愛いのは心葉くん、異論は認めない。
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