律「朝起きたら澪がマンドリルになってた」 (121)
季節外れの肌寒さに震えて目を覚ますと、隣にけむくじゃらの塊があった。
夢か。
だよな。
二度寝するかな。
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それにしても寒い。喉もカラカラだ。
それもそのはず、扇風機のおやすみタイマーをうっかり忘れたせいで、わたしの身体に風が当たりっぱなしだった。
スイッチを切って時計を見ると、長針が10のところを指していた。早朝6時前。澪の目覚ましが鳴り出す少し前の時間。
朝早くからセミの鳴き声がやかましい。
ああ、もう起きないと。朝ごはん作らなきゃ。二度寝してる時間はない。身体を起こしてカーディガンを羽織る。
ベットから出る前にもう一度眠い目をこすって隣を見た。けむくじゃらの塊はさっきと変わらず塊のままだ。
しばらく凝視していると、塊が寝返りを打ってこちらを向いた。
マンドリル「おはよ」
正真正銘のマンドリルだった。
*
昨晩用意しておいた味噌汁を温めなおしていると、マンドリルがリビングにやってきた。
既に着替えを済ませている。
そうしていつも通り鏡台の前に座り、化粧を始める。
青白い頬に挟まれた長くてデカイ真っ赤な鼻。
ぴょんぴょん伸びた細いヒゲ。
ド派手な顔。
化粧いらねーだろ。
これ以上何か手を加える必要ねえよ。
鏡をみても自分の変化に気がつかないのか?
それとも気づいてるけどなんとも思ってないだけなのか?
念入りに鏡とにらみあい、丁寧に化粧をしてたようだけど、わたしの目には何も変わってないようにしか見えない。
箸の使い方も見事なもんだった。
左手で箸を持ち、ぬか漬けをつかんで口へ運ぶ。
長皿に乗せられた焼き魚の身と骨の部分を丁寧により分けていく。
咀嚼のたびに上顎に生えている2本の鋭い歯が見え隠れしてギョッとする。
几帳面に三角食べをする様子は澪そのものだ。
今日のぬか漬けの浸かり方は絶妙だな、なんて、バアさんみたいなことを言う。
お米一粒も残さず朝ごはんを食べ終え、愛用の湯のみで麦茶を飲み干す。
手と手を合わせて、ごちそうさま、とマンドリルは言った。おそまつさま、とわたしは答えた。
マンドリル「…律。今ちょっといいか?」
コップに注いだ牛乳を飲もうとする手を止めて、マンドリルを見た。
律「ん?なに?わたしはいいけど。そろそろ家でる時間じゃ、」
、と言ってから気がつく。
このまま送り出したらマズイんじゃないか。
こんなケモノを野に放っていいものか。とんでもないトラブルになるんじゃ…。
律「なぁ、澪。今日は会社休んでもいいんじゃね?」
マンドリル「は?バカ言うな。そんな無責任な真似できるわけないだろ」
律「そ、そうか…」
黄土色したマンドリルの四白眼がわたしを睨んだ。
怖すぎて、それ以上何も言い返せない。
マンドリル「まだちょっと時間あるから話すぞ。夜は疲れてゆっくり話せないから」
澪が帰ってくるの大抵23時過ぎ。かるく夜食をとってお風呂入ったらすぐ寝ちゃう。
休日も仕事に出かけることが少なくない。
律「なんだよ。あらたまって」
わたしは食べ終えた二人分の食器をシンクへ運びながら答えた。
マンドリル「来月でこのマンションの契約が切れる。これからは別々に暮らそう」
乾いた笑い声がTVから響く、空調の効き過ぎた室内。
ひやりと冷たい風が首筋に当たり、わたしの体温を奪っていった。
*
唯「病院行こっか」
店内には落ち着いたジャズ風の音楽がゆるやかに流れている。
氷のいっぱい入ったアイスティーを、ストローでカラカラ回しながら唯が言った。
律「行かねーよ。おかしいこと言ってるってのは自分でもわかってんだよ」
唯「いやー…しかし、2年も留年してる時点で頭よくないって、わかってたけど…」
唯「ほんもののばかだったんだね、りっちゃん」
律「うるせー!」
唯「久しぶりにふたりっきりで会いたい、って言うからたのしみしてたらこれだもんなー。澪ちゃんの話ばっかりなんだもん。さみしいよ…」
律「誤解されるような言い方するなっ。こっちは真剣に悩んでるんだ」
唯「悩んでるっていうはどっちのこと?澪ちゃんがマンドリルになっちゃったこと?澪ちゃんに捨てられそうなこと?」
律「そりゃ両方だけど…どっちかっつーとマンドリルの方が深刻だな。あと捨てられるわけじゃないから」
唯「まぁ確かにね。わたしはりっちゃんの頭が心配だね」
うるさいよ。でも確かにわたしも自分の頭が心配だ。
これは悪い夢だと決めつけてあの後二度寝を決め込んだけれど、帰って来た澪もやっぱりマンドリルだった。
あの日、いつものように遅く帰って来た澪にわたしは聞いた。
律『きょうはどうだった?』
マンドリル『どうだったって…なにが?』
律『いやその…会社のひとの様子とか…おかしくなかった?』
マンドリル『は?……いつもどおりだけど。むしろ今のお前の様子がヘンだ』
職場に突然マンドリルが現れるんだぞ。
マンドリルがタイムカード押して入って来るんだぞ。
マンドリルがパワポで企画書作ってプレゼンするんだぞ。
マンドリルが営業回りしてるんだぞ…。
みんな無視かよ…。
休みの日に近所のスーパーへ買い物出かけた時も、わたしはまわりの視線が気になって仕方がなかった。だけど、周囲は全くマンドリルに気を留めない。
マンドリル『おい、どうしたんだよ?キョロキョロして…』
律『あ、いや。別に』
マンドリルがバナナを品定めしてる様子を見ている時は腹筋つらかったな。
なんだかいつも以上に選定に時間をかけてたように思えた。
めちゃくちゃ面白い絵面だっていうのに、まわりのおばちゃんたちは全く目もくれない。
中高生やサラリーマンの兄ちゃんおじさんたちがこっちをチラチラみてくるのはいつも通りだった。(澪は美人だから)
どうやら澪がマンドリルに見えているのはわたしだけらしい。
こんなわけのわからないことを相談できる奴は限られている。
唯「そんなこと相談されてもね…なんて言っていいかわかんないじゃん」
律「まぁそうだよなー」
唯「ムギちゃんには相談してみたの?」
律「………いや」
唯「…最近会ってるの?」
律「………いや」
唯「メールとか電話とか」
わたしは黙って首を横に振る。
唯「同じ学校行ってるんだから毎日会えばいいのに。ムギちゃん、会いたがってると思うよ」
同じ学校、つっても留年学部生と大学院生じゃ立場がぜんぜん違うんだよ。
律「どーだかね…」
唯「そんなに避けなくてもいいのに。なに?もしかしてまだケンカしてるの?」
律「なぁ唯、この店ちょっとクーラー効きすぎじゃね?」
唯「そういえばりっちゃんが頼んだミルクティーのホット、まだ来てないね。あ、わたし追加でチョコパフェた~べよっ!りっちゃんゴチになりまーす☆ …で、どうなの?」
話題を反らすのに失敗し、かつ財布が少しさみしくなった。
律「…忙しくて会うことも連絡とることもできないだけだよ」
唯「りっちゃんヒマじゃん」
律「ムギは忙しいんだよ」
唯「あー………、わかった!」
唯「りっちゃんがムギちゃんに一方的に嫌われてるんだ。それで同じ大学なのに避けられてるんだ。それならナットクだよ」
律「そうそう。そーゆーこと」
案外簡単に引き下がった唯は、勝手に想像を膨らませて勝手に一人で納得して、コクコクと頷いている。
律「…それよりせっかく相談してるんだ。お前も友達ならなんかアドバイスくらいないのかよ?」
唯「アドバイスねぇ…じゃあ澪ちゃんに追い出されたらわたしと住む?」
律「いや……そういうことじゃなくて……」
本格的に家なしになったらたぶん頼るけど…。
唯「りっちゃんと同棲したら毎日楽しそうだし、おいしいごはん作ってくれそうだし、わたしはぜんぜん構わないよー」
律「そうじゃなくて澪の怒りを鎮めるにはどうしたらいいか、だよ」
唯「澪ちゃん怒ってるんだっけ?」
律「怒ってなかったら出てけなんて言わないだろ」
唯「出てけ、じゃなくて別々に暮らそう、でしょ」
律「おんなじ意味だろ」
唯「そうかな?でもわたしたちもう大人じゃん。一人暮らしなんて普通のことでしょ」
唯のくせに正論を言う。
律「ま、まぁ…だけどそれにしたって唐突だ。何か怒らせたのかもしれんだろ」
唯「えー、澪ちゃんのことはりっちゃんがいちばんよく知ってるじゃん。りっちゃんがわかんないなら、わたしにわかるわけないよ」
律「それはほら…ちょっと離れた立場の人間だからわかることってのもあるじゃんか」
唯「うーんそうだなぁ……あ、りっちゃん。もしかして澪ちゃんになにか隠し事とかしてない?」
話の合間に通りかかった店員を呼び止めた唯は、メニュー表の中でもいちばん大きくていちばん高くていちばんカロリーの高そうなパフェを注文した。
チョコパフェじゃねーのかよっ。
唯「ほら…言わなきゃいけないことなのに黙ってることとか」
律「…………ない」
唯「ほんとに?澪ちゃんのお気に入りのCDこっそり割っちゃった!とか、ないの?」
律「それはない、断言できる」
唯「そっかーそれなら…」
唯は胸の前で両腕を組みつつうんうん言いながら首を左右にひねる。
…こんなに一生懸命考えてもらうと、それはそれで申し訳ない気持ちになるなぁ…。
唯「今年も卒業できそうにない。あーんど、まともに就職できそうもない」
律「ああ、その辺は大丈夫なんだよ。単位取れてるし」
唯「就職は?」
律「一応一個内定もらってる……つまりそーゆーわかりやすい理由で思い当たる節がないから悩んでるんだ」
唯はわざとらしくため息をついた後、突然笑い出した。
律「なんだよぉ……!」
唯「ごめんごめん。正直ね、わたしも卒業とか就職とか、そんなことが原因じゃないと思う」
律「どういうことだ?」
唯「だってりっちゃんがこういう人間だ、ってこと、澪ちゃんが知らないわけないじゃん。だからまた留年したりとか卒業しても就職浪人したりとか…仮にそういうダメダメだったとしても…まぁ大事なことだとは思うけど…そんなことで澪ちゃんがりっちゃんに愛想尽かすとは思えないんだよね」
律「じゃあなんだってんだよ…」
唯「うーんわかんない。…あ、そういえば思い出した、こんなときお悩みを解決するとっておきの必殺技があったのです!」
律「なんだよそれ!そんなのあるならさっさと教えろよ!」
唯「………りっちゃん。それが人にものを教わる態度?」
律「すみません。教えて下さい、お願いします」
唯「ははっ、わかったよそこまで言うなら……えーっとねぇ………」
ちょっとだけ残ったアイスティーを一気に吸い上げると唯は顔を上げた。
両手をテーブルにつけて身を乗り出し、顔をわたしに近づける。
クーラーの風に前髪が揺れた。
もう、昔みたいに髪留めはつけていない。
一瞬、隠れていた額が露わになる。
栗色がかった瞳に視線を合わせると、目をそらすことができなくなった。
唯「チューしてみたら、いーんじゃない?」
そう言って唯は笑った。
桜色の唇から白い歯がこぼれた。
律「………あ」
唯「あれ?なになに?なーにりっちゃん、まさかドキドキしちゃった?」
律「そ、そんなんじゃねーし…」
唯「あはは、そんなだから澪ちゃんに捨てられちゃうんだよ」
律「まだ捨てられてねーし!それにわたしと澪は……そういうのじゃないから」
唯「・・・そっか」
唯はTシャルの上にカーディガンを羽織って、そのVネックの襟元から鎖骨が見えている。
昔、増えも減りもしないと言っていた体重は、少し落ちたように見えた。
唯「マンドリルの方だけど」
律「ん?あ、ああ…」
唯「話聞いてる?マンドリルのことだけどさ。わたし自身澪ちゃんに会ってみないことにはなんとも言えないと思うんだ。わたしにもマンドリルに見えるかもしれないし、見えないかもしれないし」
律「まぁそうだな」
唯「でさ。卒業してからは…あ、りっちゃんはまだしてないけどそれはさておいて…最近みんなと会ってないじゃん。だからいい機会だし、みんなで集まらない?」
律「それはいいと思うけど…梓とか無理じゃね?アイツがいちばん忙しそうだろ」
唯「無理なら仕方ないけどさ。声かけるだけかけてみようよ。スケジュールは澪ちゃんとりっちゃんに合わせるからさ。ま、りっちゃんはいっつも暇だと思うけど」
一言多いよ。これでもバイトもしてるし、授業にも出てるし、家事だってやってんだ。
律「わかった。じゃあ澪にはわたしから伝えとく。ムギには……唯から頼むよ」
唯「りっちゃんから連絡してよ。部長だしリーダーだしお姉ちゃんでしょ」
律「いまのわたしは部長でもリーダーでもない、お姉ちゃんではあるが、元々お前らは妹じゃない。したがって連絡は唯隊員、お前に任せる」
唯「…」
ちょっとふざけてみたのに、唯の反応は思いも寄らないものだった。
黙ったまま小さく笑って頷くだけだった。
律「…そうだ。集まる、ってどこにする?どっか行きたいとこあるか?」
唯「えへへ~、あるんだな、それが」
律「ふーん、どこだよ?」
唯「どうぶつえん!マンドリルといっしょに動物園、っな~んておもしろそうじゃない?」
こいつふざけてやがる。
唯「ほら、マンドリルとマンドリルを会わせたらなにか起こるかもしれないでしょ?この際なんでもやってみなくちゃわかんないよ」
律「…それもそうか」
唯「そうそう」
唯はたのしそうに笑う。どこまで真剣なのかはわからない。いや、澪がマンドリルになったと言ってるわたしの話を真剣に聞くやつなんていないかもしれない。
店内の音楽がそれまでのジャズ風からアイドルっぽい曲に変わった。
律「ところで唯、ギター、今でも触ってるか?」
お手洗い行ってくるね。唯はやさしい声でそう言うと、席を立った。
ホットミルクティーは、まだやってこない。
*
紬「わぁっ、あれ見て!レッサーパンダが立ってる!」
マンドリル「えっ、ほんとうかっ」
ふたりは駆け出す。
四つ足で駆けるマンドリルとムギ。うーん美女と野獣。
マンドリルが園内をうろうろしてたらパニックになって捕まえられて檻に入れられちゃうんじゃないかって思ったけどそんな事態は起こらず、わたしたちはのんびり歩きながら動物園を堪能していた。
律「なぁ…レッサーパンダはもういいだろ?次行かないか?」
紬「あ、そうだね。じゃあ次は…」
律「…マンドリルでも、見に行かないか?」
マンドリル「え?マンドリル?」
律「あ、ああ…」
紬「い、いいんじゃないかしら~…わ、わたしもみた~い……」
マンドリル「えー…マンドリルかぁ…」
紬「澪ちゃんは…マンドリル嫌い?」
マンドリル「そういうわけじゃないけど…でもマンドリルって顔こわくないか?少なくともかわいいとは思えないし」
お前が言うな、って言葉がすぐそこまで出かかって、必死で食い止めた。
律「まぁちょっとだけでもいいからさ。珍しい動物だし。せっかくだから見てみたいんだよ」
自分で言ってて思う。全然珍しくなんてない。だって毎日見てるから。一緒に暮らしてるから。つーか今わたしの目の前にいるから。
しぶしぶ、といった調子でマンドリルはレッサーパンダから離れて、わたしたちはマンドリルの檻へ向かうことになった。
檻を通してマンドリルとマンドリルが見つめ合う構図はなんとも言えない味わいがある。
マンドリル「…」
紬「…」
律「…」
マンドリルをマンドリルに会わせたら何か反応があるんじゃないかって思ったのだけど、特別なにかが起こることもない。マンドリルと同じくマンドリルも特に反応を示すわけでもなかった。
マンドリル「…律。わたし、ちょっとお手洗い行ってくる」
律「え、あ、うん。わかった。ここで待ってる」
マンドリル「いや…もうマンドリルはいいだろ。わたし、カピバラ見たいから。そっちで落ち合おう。先に行っててくれる?」
律「…ああ、わかった」
紬「行ってらっしゃい」
檻の中のマンドリルは、見慣れたウチのマンドリルに比べて、汚いし、獣くさい。顔つきも荒々しくて、品がない。知性も感じられない。
…と、動物の顔を見分けられるようになってる自分に気がついて首を振った。そもそも比べるのが間違ってるんだ。片方は澪だぞ?大事な親友、幼なじみ、同居人。それに……。
紬「…りっちゃん?」
隣のムギが心配そうにわたしを覗き込む。
律「ごめん。大丈夫」
ムギが笑いながら差し出した日傘を、わたしは笑って拒絶した。
律「どう?なにか変わったように見えた?」
紬「ごめんりっちゃん。わたしには前とおんなじ澪ちゃんにしか見えないわ」
律「そっか」
紬「…ごめんね、力になれなくて」
律「いや…こっちこそごめん。おかしなことに巻き込んじゃって」
紬「ううん。わたしは楽しいから。久しぶりにりっちゃんに会えて。唯ちゃんと梓ちゃんが来れなかったのはとっても残念だけど」
言い出しっぺのくせに唯はこなかった。客商売は不定休だからそれは仕方がない。
忙しくしてる梓もやっぱり来れなかった。
唯からのメール。『これを機会に仲直りしてね!!』余計なことしやがって。
紬「なかなかみんなで集まれないね」
こっちから行こうよ、園内の地図を見たムギが言う方に連れて、わたしたちはゆっくり歩き出す。
律「こないだ唯とも話してたんだけど、5人で集まるのって難しいよな」
紬「そうだね。わたし、澪ちゃんに会うのだって久しぶりだもん。りっちゃんは?唯ちゃんや梓ちゃんとは連絡とってる?」
律「唯とはたまに。梓とは全然」
紬「ライブのお知らせとか、来ないの?」
律「来るけど…行ったことない」
紬「そっか。わたしはたまに行くよ」
律「一人で、か?」
紬「……さぁね。りっちゃんも一度くらい行ってあげたら?頑張ってるよ、梓ちゃん」
律「……考えとく」
白いポロシャツの開いた首元から、きらりと光るネックレスが見えた。
見たことのない、わたしの知らないネックレスだった。
律「なぁ、ムギ。今でも曲作ること、あるか?」
紬「…どうだろうね」
ムギの首筋を汗が伝って流れていく。
そこに赤く虫刺されの痕のようなものが見えた。
いい匂いがする。懐かしい匂い。昔と変わらない。ムギはいつだっていい匂いがする。
彼女の匂いに誘われて、どんな虫が彼女の首を刺し、血をむさぼったのか。
でもそれはきっと、わたしの知らない虫だ。
*
『本気で武道館、目指してみないか』
澪がそう言いだしたのはわたしたちが大学3回生になったばかりの春のことだった。
あのとき、食堂の壁に蛾が張り付いていたことがなぜだか忘れられない。
その年の秋が過ぎる頃には、就職活動の準備も始まる。
高校から続くこの時間がそろそろ終わりにさしかかっていることはわかっていたけれど、今度はもう、延長不可能だってこともわかっていた。
律『それってどういう…』
澪『つまりだから…』
梓『本気でプロを目指す、ってことですか!?』
澪『……ああ、そうだ』
唯『……プロ。わたしたちが……?』
澪『どうせなら、できる限り頑張ってみて…それでダメなら仕方ないし…』
紬『それってもしうまくいったら…』
澪『うん。これからも…大学を卒業してもずっとみんなで音楽続けられるな』
但し期限は約半年間。
年内いっぱい頑張ってメジャーデビューのきっかけさえつかめなければ、そのときは潔く諦める。同じ諦めるにしたって、全力で頑張って無理なら諦めだってつくさ。
でもわたしたちはなんとかなるんじゃないか、受験のときみたいにみんな頑張ればまたずっと一緒にいられるんじゃないかって、そんな風に思った。
なんだかプロを目指すって決めただけでもうプロデビューを果たしたような気分になっちゃって、その晩みんなで木屋町に繰り出して、吐くまで飲んだ。
終バスを乗り過ごし、タク代も尽きるまで飲みつくしたわたしたちは、鴨川沿いを歩いて帰った。
飲みすぎて眠り込んだ梓を唯が背負い、同じくしんだように眠る澪をわたしが背負い、等間隔にい居並ぶカップルたちをよそ目に川辺を歩いていく。
川沿いに連なる店々の明かりが暗い川面を照らし、きらきらと光が溢れている。
こんなところに長時間座ってて飽きないものかと思っていたけれど、光る川の流れを見て、わたしはその考えを変えた。
わたしもいつか誰かとここに座って時間を過ごす…そんなことがあるんだろうか。
紬『卒業するまでにはここで誰かと一緒に座ってみたいって思ってたけど・・・』
律『まだあと2年くらいあるだろ。ムギならその気になればすぐだよ』
紬『誰でもいいってわけじゃないよ。好きなひととでなきゃ』
眉間をしかめ、ムッとした口調で頬を膨らませる。
紬『もし…もしだけど、好きなひとと一緒にここに座れたら…』
まるで誰か、本当に好きなひとがいるみたいな口ぶりで喋る。
紬『しあわせすぎてしんじゃうかも』
そういうムギは笑っていた。
律『しぬな』
紬『じゃあ泣いちゃう』
律『泣くなよ。泣くのはツラいときだろ?』
”ツラいのはよっぽどでなきゃガマンできるけど、うれしすぎるのはガマンできない”ってムギは続けた。
昔、バイトでちょっとミスったくらいで泣いてたくせに。ムギも成長したな。
頑張れよ、ムギならきっとうまくいくさ。
そうね、頑張るわ。りっちゃん、ありがと。
わたしは軽く言った。ムギは川をみつめたまま、振り向かず答えた。
途中、澪が目を覚ましてわたしから降りると、『わたしもおんぶしたい!』と言い出したムギが今度はわたしを背負って歩いた。あったかい背中だった。
次の日揃って二日酔いになったわたしたちはみな一限をサボり、それまで授業を欠席したことのなかった澪はちょっとだけ落ち込んでた。
わたしたちはプロのミュージシャンになるんだ、大学の授業なんてカンケーねぇ!って言ったわたしに澪の特大ゲンコツが落ちたことは言うまでもない。
…。
こんな日がずっと続くと思っていた。
そんな甘い思い込みはもろくも崩れ去る。
それから。
今までとは比べものにならないくらい練習熱心になったわたしたちは、ライブハウスで演奏しまくり、いろんなコンテストに出まくり、知ってる限りのレコード会社にCDも送りまくった。けれどどこからもなんの返答もなかった。
澪『なぁ、律。わたしたちの音楽って、そんなに価値がないのかな』
律『バカ。音楽をわかってないやつが多いだけなんだよ』
澪『はは。そうかもな。でもどんなにいい音楽でも誰にもわかってもらえなかったら意味ないよな』
わたしは何も言えなかった。
気づけば澪をからかうことも、澪がわたしを殴ることもなくなっていた。
その年の秋の暮。
わたしは高校の軽音部のOGにライブハウスに勤めている先輩がいたことを思い出した。もしかしてあの人なら、レコード会社の知り合いとか…いるかもしれない。藁にもすがる思いだった。
ケータイに登録されてた番号をプッシュする。着信音が響く。よかった。どうやら番号は変わっていなかったらしい。コール音が4度鳴り響き、相手の声が聞こえた。
できるだけ丁寧に、かつ手短にわかりやすく意図を伝える。
反応は悪くなかった。
レコード会社に勤めている知り合いがいる。今度ライブがあれば日程を伝えておく。できるだけ見に行くよう頼んでみる。
それと一言。
わたしが知ってるのは高校時代のあなたたちの演奏だけど、わるくなかったと思うよ。
あのライブハウスで育って、その後プロデビューしていったバンドをたくさん知ってる人がそう言うのだから、わたしは嬉しくなった。
やった…わたしたちにはまだ希望が残ってる…。
年内最後のライブに、レコード会社の人が来てくれることが決まった日、わたしはそれをみんなに伝えた。もうみんな諦めムードになっていたから、思わぬいいニュースが入ってきて顔色が一気に明るくなる。
気合い入れていこうぜっ。
このライブに人生がかかってるんだからな。
レコード会社の担当の人は、身長が180cmくらいあってガタイがよく、少し目つきの悪い、二十代後半くらいの男性だった。
人相は悪かったけどそれに似合わず口ぶりは丁寧で、学生のわたしたちに対しても終始敬語で接してくれた。
この春から作り始めた自作の名刺を渡す。
今までこれが役に立ったことは一度もない。いいよ、この最後のチャンスで役に立ってくれさえすれば。
本番直前、舞台袖で円陣を組む。緊張で喉がカラカラだ。高校最後の学祭を思い出したけれど懐かしい気分に浸ってる場合じゃない。みんな顔に闘志がみなぎっている。全力を尽くそう。結果はどうあれ後悔だけはしないように。
そうして舞台の幕があがった。
*
二人分のアイスミルクティーを買って戻ると、ムギが知らない男二人と会話していた。
戻ってきたわたしに気づくとムギはこちらを見て手をあげた。
ツムギちゃんまたね~、気安くムギの下の名前を呼びながら、男たちは離れていった。
ムギも笑って手を振る。
律「ナンパ?」
紬「うん。そうみたい」
律「ごめんな。ひとりっきりにして。ヘンな奴らじゃなかったか?」
紬「そうでもないよ。連絡先交換しちゃった。気が向いたら会うかもね」
律「お、おいおい…」
紬「さ、行きましょ」
事も無げに言うと、そのままムギは歩き出す。
紬「何年だっけ?りっちゃんと澪ちゃんが一緒に暮らし始めて」
律「一年と…ちょっと」
紬「じゃありっちゃんとこうして会うのも、喋るのも、それくらい久しぶりなのね」
律「……………」
紬「……元気そうで、よかった」
律「ま、澪にも愛想つかされそうなんだけどな」
紬「”にも”?あのとき愛想つかしたのはりっちゃんの方でしょ」
留年が確定して、行く末不安定極まりないわたしを、澪は一緒に暮らそうと誘った。
澪『律を一人にしておいたら、何年留年しても卒業できそうにないからな。わたしが面倒みてやる』
それまでの単位取得ペース、とくに終盤の落ち込み具合を見れば、澪以外のみんなもそんな未来を予測してたと思う。
家賃は7:3。昔プロになったらギャラは…って冗談言ってたがべつの意味でそれは実現した。逆だけど…。学費以外の仕送りは差し止めになったから、わたしはバイトして稼いで毎月澪に手渡しした。
わたしの負担額はかなり安かった。逆算すると、そんな家賃でこの広さのマンションを借りられるなんてちょっとおかしいんじゃないか、って気がつきそうなものだけど、最初の頃のわたしはそんなこと全く考えてもみなかった。
とにかく勉強しろ、単位取れ、卒業しろ、就職しろ。まともになって、それからお金を返してくれればいい。澪はそう言った。
社会人してる澪と一緒に生活してるから、生活リズムは真っ当なものだったし、授業も出れたし、単位も驚くほど取れた(普通にやればこんなに簡単に取れるものかと本当に驚いた)。ただ一年まともに勉強に励んでも卒業できないくらい単位不足のわたしは、留年二年目に突入する。
おかげでどうやら今年度末でなんとか卒業はできそうだし、一応就職も決まってた。
澪から言われる通り規則正しい生活を送りやるべきことやり、かつ朝早く夜遅い澪のために料理、洗濯、掃除は全部こなしているわたしが、三行半を突きつけられる覚えはない。
むしろ澪にとってもわたしとの暮らしは有益と言っていいはずだ。
紬「澪ちゃんが求めてたのはそういうことじゃないんじゃないかな」
律「じゃあ何なんだよ。卒業や就職以外なんの目的があるんだ」
紬「………バーカ」
律「聞こえてるぞ。…唯にも言ったけど、わたしと澪はそういうカンケーじゃないから」
紬「……ふぅん。でも澪ちゃんがどう思ってるかはわかんないでしょ」
律「アイツはそんなじゃねーよ。・・・まったくなんでおっきな問題がふたつも同じタイミングで…」
紬「案外ふたつは繋がっているのかも。りっちゃんが知らない間に澪ちゃんを怒らせてて、それが原因で澪ちゃんはマンドリルになっちゃって、りっちゃんに三行半を突きつけて…」
唯もムギも似たようなことを言う。
でも人間がマンドリルに変わるなんて空前絶後のできごとだ。相談したって、参考になる答えが簡単に得られるわけない。こうして聞いてくれるだけでありがたい。
カピバラの檻まではまだ遠い。こんなに距離があったっけ?さっき見た地図ではそれほど離れてなかったように思ったけど。
紬「気づいた?わざと遠回りしてたの」
紬「だって…りっちゃんと二人でデートしたかったんだもん」
律「いや…澪がいるだろ」
紬「今は…ふたりきりだよ」
ムギがわたしの左手をつかんだ。
ムギと手をつなぐなんていつ以来だろう。
急に体温が上がって、背中を汗が流れていくのがわかった。
ムギのバッグの中から軽快な着信音が響きだす。
けれどムギはそれを気にする素振りも見せない。
律「いいのか、電話」
紬「うん、いいよ」
律「彼氏…だったりして」
紬「りっちゃん。わたしに彼氏なんて、いると思う?」
化粧の仕方の変化に、会わない時間の長さを感じた。
あんな風に男としゃべるムギは、はじめて見た。
さっきと逆の首元にも、赤い虫刺されの痕があった。
ムギが手を離した。着信音は止まらない。
律「……ごめん」
紬「……仲のいい男の子の友達が何人かいるだけ。あ、あそこだよ。カピバラ」
ムギが指を指した先にはすでにマンドリルがいた。
せっかく買ったけれど口をつけないままのアイスミルクティーはすっかりぬるくなっている。
やっぱり随分遠回りしてきたみたいだった。
わたしたちは小走りに駆け出す。昔と違ってマンドリルになった澪に殴られたらマジで命の危険がありそうだからな。
紬「そうそうりっちゃん、ひとつわかったことがあったの」
律「なんだ?」
走りながらムギが笑って言う。
紬「セックスを愉しむのにね、愛なんて少しもいらなかったよ」
電話はいつのまにか、切れてたみたいだった。
*
けたたましい音を立てて、ケータイが鳴った。
年末最後の授業をサボり、しけこんだ喫煙ルーム。
……あの人からだ。
自分に集中する視線にむけて頭を下げながら扉を開き、電話に出る。
冷たい空気が肌を切り裂くように頬に触れた。
梓『連絡…ありましたか』
律『…ん、まだ』
梓『そうですか』
唯『りっちゃん。今日の忘年会、どうする?』
律『いや…やめとく。もしかしたら電話かかってくるかもしれねーし』
紬『別に飲んでても電話くらい…』
律『酔っ払った状態で大事なこと聞き逃したら大変だろ?それに居酒屋だとうるさくて電話もしにくいし…』
梓『…そうですね』
澪『みんな。聞いて欲しいことがあるんだけど』
期限の半年はもう過ぎた12月22日。
年内の講義も終わって明日からは冬休み。けれど仕事納めまではあと少し。あの人が来てくれたライブから2週間が経っていた。
唯『なぁに…澪ちゃん。あ、そのコートもしかして新しいやつじゃない?いいねーどこでk』
澪『唯。話を聞いてくれ』
梓『…』
15時を回った学生食堂。12月の少ない日差しを雲が覆い隠しているせいか、地下室に閉じ込められたみたいに思えた。
澪『あきらめよう』
誰かが言い出すのを待ってた。
本当はバンドリーダーのわたしが言うべきだったのかもしれない。
でもそれを言ってしまうと今までわたしたちが続けてきた音楽が、高校時代から積み重ねてきたこと、楽しい時間までも全部が否定されて終わっちゃう気がして怖かった。みんな同じだったと思う。だからみんな誰もが言い出せなかったんだと思う。
澪は続けた。
最初に決めたことだろ。けじめをつけなきゃいけないんだ。
今の自分たちにできることを精一杯やって無理だったんだ。仕方ないじゃないか。
唯もムギも梓も黙ったまま何も言わない。
だからと言って泣き出すわけでもない。
12月の食堂の空気は、からからに乾いている。
渇きに耐えられず、わたしは紅茶をひと口含んだ。
あの頃みたいに質のいいものじゃない、安っぽい自販機の紅茶。すかすかの味。すっかり冷めたニセモンの味。ひと口で飲む気が失せた。
誰も一言も発しない時間がしばらく続く。
隣に座るムギが、テーブルの下のわたしの手を握った。
いつもどおりの温もりにちょっとだけ安心して何か言おうとしたとき、わたしより先に唯が口を開いた。
唯『プロデビューは無理でも…放課後ティータイムはこれでおしまいってわけじゃないからね!』
澪『ああ…もちろんだ。バンドを解散するわけじゃない』
紬『そうよね!バンドがなくなっちゃうわけじゃないもんね…みんなバラバラになっちゃうわけじゃないもんね…!』
唯『そうだよ!お茶飲んで演奏してライブして…プロにならなくったって音楽は続けられるよ!』
梓『…みなさんは本当に諦められるんですか』
澪『……あずさ?』
梓『すみませんわたし……やっぱり音楽続けたいんです。本気でやりたいんです』
澪『でもそれは…最初に決めただろ。半年頑張っても無理だったら諦めるって』
梓『それはそうですけど…諦められないものは諦められないです』
澪『わがまま言うなっ!』
閑散とした食堂に澪の声が反響した。
澪『そんなこと言っていつまでもずっと……無理だろ。就活だってあるし…』
梓『それくらいで諦めちゃうんですか』
澪『なんだよそれくらいって…社会に出るってそんなに甘くは…』
梓『諦めるための言い訳でしょっ。就活しながらバンドも続けたらいいじゃないですか!いつかきっと誰かわたしたちの音楽をわかってくれる人が…』
澪『いないよ!いるわけないよ!いないから今こうなってるんだろ!』
律『落ち着け澪っ!』
唯『あずにゃんっ』
今にも飛び掛かりそうになる澪と梓を押さえつけた。
紬『落ち着こう…落ち着いて、わたしたちのこれからのこと、考えようよ…』
これからわたしたちはどうなっちゃうんだろう。
いつまでもこれまでとおんなじにやっていけるわけないなんてわかっているけれど、
でもなんとなくなんとかなっちゃうだろうって思ってた。
重苦しい空気が5人を包む中、わたしはまだみんなに伝えられていないことがあった。
電話は、かかってきていたのだ。
ぜひウチのレコード会社からデビューしてほしいと。
とても喜ばしい内容だったのだ。
でもわたしはそれを誰にも伝えられなかった。
だって・・・
認められたのは澪一人だけだったから。
*
一人きりで来た久しぶりのライブハウスはうるさいばっかだった。
よくこんなとこでしょっちゅう演奏してたもんだ。
梓「律先輩、飲んでますか?」
律「あー飲んでる飲んでる」
…と答えたはいいもの、さっき注文したカルーアミルクはまだ運ばれてきていない。
梓「ならいいんですけど。…で、どうした?”わたしたちのバンド”」
”わたしたちのバンド”か。
律「ああ、よかったんじゃね。CD買ったぞ」
梓「気の無い返事ですね…元放課後ティータイムリーダーとしてなんかアドバイス的なこととかないんですか?あ、CDどもです」
律「今のわたしから梓に何かアドバイスなんてできるわけないだろ」
梓「そんなこと、ないと思いますけど」
答えながら梓はハイボールの大ジョッキを傾けた。
酒強くなったなコイツ。昔はすぐ真っ赤になってたのによ。
梓「最近、どうです?」
律「どうってまぁ…ぼちぼち」
梓「らしいですね。マンドリルと一緒に住んでるんですって?今」
思わずつくねを吹き出した。
憎たらしい表情でニヤつく梓。
律「…誰から聞いた?」
梓「唯先輩に決まってるじゃないですか。あの人しょっちゅう…っていうか毎日メール送ってくるんですよ」
律「仲のよろしいことで…でも元気そうでよかったよ。こうして顔見るのいつ以来だっけ?」
梓「わたしが大学やめてから一度も会ってませんから…たぶん2年くらいになりますかね」
高校大学と、ほとんど毎日顔を合わせていた間柄っていうのは不思議なもので、もう2年も梓に会っていなかったなんて信じられない。
律「頑張ってるんだな」
梓「まぁ、それなりに」
大したもんだと思う。
梓のバンドは音楽専門誌に取り上げられることもあるみたいだし、地方へライブツアーみたいなこともしてるらしい。今日のライブの盛り上がりも中々なものだった。わたしたちの演奏で客席があんなに沸いたことは…あっただろうか。
梓「言っとくけどフル単だったんですからね?律先輩とは違いますから。わたしは自ら退路を断ったんです」
律「わかってるよ」
梓が店員さんを呼び止めて、ハイボールのおかわりを頼んでいる。
わたしもさっきの注文がちゃんと通っていたのか確認する。あ、通ってるのね。よかった、じゃ、よろしく。
”しっかしカルーアミルクって・・・律先輩って相変わらず女子っぽいの好きなんですね”って言われたから一発頭を小突いてやった。
梓「ほんとは律先輩たちとステージに立っていたかったんですよっ わかってますかっ」
律「酔ってる酔ってる」
梓「酔ってないっ ちゃんと聞いてるんですかっ」
律「きーてるきーてる」
梓「きーてないっ ちゃんと聞けっ」
前言撤回。やっぱり梓は酒に強くない。わたし一応センパイだよ?忘れてないよな。
梓「そんなんだから澪先輩もマンドリルになっちゃうんですよっ」
律「いやいや…それとこれとは関係ないだろ」
梓「ありますよっ。大体あのときだって律先輩が黙ったまま何にも言ってくれないから…。わたしたち待ってたんですよ。律先輩が決めてくれるの」
梓「律先輩がまだ諦めない、って言ってくれてたらきっと、澪先輩も納得してくれてましたよ。律先輩が潔く諦めるぞ、って言ってくれたら…わたしだって…」
ハイボールの大ジョッキとカルーアミルクがいっぺんにやってきた。
すると梓は何を思ったかわたしのカルーアミルクを掴み取って一気に飲み干した。
律「おいそれわたしの…!」
梓「うるさいっ」
ドンッ。
勢いよく叩きつける音が響いて、通りすがりの店員が振り返った。
グラスは割れていない。軽く頭を下げたわたしを見て、店員は去っていった。
梓「いい機会だから聞きます。なんで黙ってたんですか。あのときの律先輩、サイテーでした。ズルいです。卑怯です。大ッキライです」
なんで2年ぶりに会う後輩にここまでなじられにゃならんのだろう…。
いや、わたしはなじられたって仕方ない。
梓「正直に言っちゃえばよかったんですよ。ヘンに隠すからおかしくなるんです。本当のことを言ってくれたらよかったんです。どうせ隠してなんておけないんだから」
律「…梓。お前、何を知ってる?」
梓「律先輩のことはお見通しです。嘘が下手なんだから」
律「だから何を知ってるってんだよ!」
梓「澪先輩一人だけがスカウトされてたってことですよ!澪先輩本人も、唯先輩もムギ先輩もみんな知ってますよ!」
わたしは財布からありったけの現金を掴み取るとテーブルに叩きつけ、一滴のアルコールも飲まずにそのまま外に飛び出した。
*
紬「……りっちゃん」
律「……ムギ。こんなとこで何してんだ」
マンションの自動扉が開くと同時にセミが飛び出した。なにかのタイミングで入り込んでしまっていたんだろう。
点滅を繰り返す蛍光灯の下には、ムギがしゃがみこんでいた。
紬「どうしたの?息を切らして」
律「…別に。ムギこそどうしたんだよ」
紬「…行くってメールしたんだけど……見てない?」
律「……あ、ああ…ちょっとバタバタしてから。澪、帰ってない?」
紬「……さっき帰ってきてた」
律「声かけなかったのかよ」
蛍光灯の周りに蛾が二匹たかっている。
今夜は風がない。嫌な湿気が身体にまとわりつく。
律「さっさと部屋に行こうぜ」
紬「いい。りっちゃんと二人で話したいから」
律「澪がいたらマズイのか」
紬「言わせないで」
そのままマンションを離れて歩き出した。
紬「誤解を解いておきたかったの」
ガチャン、と大きな音を立てて発泡酒の缶が転げ落ちた。
紬「これ、自分でつねって作っただけだから」
そう言ってムギは首をつねって見せた。
自販機のおぼろげな光が首筋を白く照らしている。
わたしは発泡酒をポイっと投げて渡す。
ムギは真顔で受け取った。
紬「もうちょっとショック受けてくれると思ったのに」
律「十分ショックだったよ。だから安心した」
紬「うそ」
律「うそじゃないって。なんかムギが誰とでもそういうことするの…ヤだから」
紬「うそ」
律「うそじゃねーって」
ムギは右手に缶を握ったまま、プルトップに手をかけていない。
なんだかわたしも飲む気が起こらない。
紬「誰とでもってわけじゃないけど。何人か、かっこいい男の子とはしてみたよ」
わたしは思わず立ち止まる。
紬「あれ?傷ついた?」
先を行くムギも歩みを止めた。ゆっくりとこっちを振り向く。
紬「う・そ♪」
紬「ふふ…でもうれしい。ちょっとはわたしのこと、考えてくれてるんだ」
夜の大通りの信号機。中心の黄色がパカパカと点滅している。
律「あんまり人をからかうなよ。怒るぞ」
紬「からかってるのはりっちゃんじゃない」
ムギが歩行者用信号機のボタンを押した。点滅していた信号機が赤色に変わる。
紬「なんでそんな、わたしのことちょっと気にしてみたりするわけ?今は澪ちゃんがいるのに」
律「なに言ってたんだ…一体なんのことだよ」
紬「…澪ちゃんに何もしてない、ってうそついてる」
律「ああ…そのことか。ほんとだよ。何度も言うけど、わたしと澪はそんなんじゃない」
紬「じゃあわたしとりっちゃんは?」
律「……」
紬「ねぇどうなの?」
律「……友達だよ。だいじな友達。だからムギには自分を大事にしてほしい」
紬「だいっっっきらい!」
ムギが大声で叫んで手に持った缶をしゃかしゃか振り出すと、わたしの方にむけて一気にプルトップを引き上げた。
プシュウッ!と勢い良く飛び出したアルコールがわたしの顔に降りかかる。
律「うわっバカっ!なにすんだよっ!」
紬「バカはりっちゃんじゃないっ」
紬「わたしの気持ち、知ってるくせにっ!なんでそんなこと言うの!」
紬「嫌いって言ってよ!顔も見たくないって言ってよ!
……さいってい」
そうしてムギはそのまま座り込んでしまった。
信号が青に変わった。
きょうは何回最低って言われるんだろう。事実だからしょうがないか。
わたしはムギに声をかけられないまま、発泡酒まみれの顔も拭わずに立ち尽くしていた。
*
紬『りっちゃん起きた?』
うだるような暑さに目を覚ます。
ブラインド越しに降り注ぐ真昼の日差しをムギが遮って、長い影が伸びている。
TVからはおなじみお昼の情報番組のOP曲が流れている。
律『まーたやきそばー?』
紬『だって、食べたかったんだもん。りっちゃん、やきそば嫌い?』
律『ううん。好き。ムギが作るやきそば、おいしーから好き』
紬『えへへ…』
じゅうじゅうとフライパンの音が鳴る。
髪をアップにまとめたムギの白いうなじには、玉のような汗がいっぱい。
首筋には一点の赤。虫刺されのような痕。
わたしは冷蔵庫から発泡酒を取り出すと、ムギの首筋にピタッとくっつけた。
紬『わっ!』
律『へへっ、気持ちいいだろ?』
紬『だめよ。お料理中なんだから…』
律『だって暑そうだったからさ』
プルタブを引き上げて、ひと口。
渇いた喉に、冷えたアルコールが流れ込んでくるのがきもちいい。
紬『夏だもん。仕方ないよ』
律『やきそば作るからだろ』
紬『りっちゃん、わたしのやきそば、好きって言った』
律『好きだよ?やきそば。ムギがつくってくれるものはなんだって』
紬『……もぅ、りっちゃんたら。でもあっついね』
律『クーラーのない、わたしの部屋に泊まるからだよ』
紬『好きなんだもん、仕方ないよ』
律『暑いのが?それともわたしのことが?』
答えを聞く前に、わたしはムギにキスをした。
ミルクみたいな甘い匂いに混じって、汗の匂い。それと、ちょっと焦げ臭い匂い。
やきそば、焦げたな。
くちびるが離れると、ムギはちいさな声でりょうほう…って真っ直ぐ目を見て呟いた。
わたしは笑ってムギから離れると、首振りで動いてた扇風機をムギの方に向けて固定する。
風の流れが変わった。
大学四回生、夏。
寮を出たわたしは、ムギと一緒に暮らしてた。
*
律『ムギってもう就職決まったんだっけ』
扇風機が首を振りながらぬるい空気をかきまわしている。
タンクトップ姿で缶ビールを飲みながら、文庫本を読んでいたムギがこっちを向いた。
紬『ううん、まだ。珍しいね、りっちゃんがそういうこと気にするの』
律『あ、うん。いやさ、最近リクルートスーツ着てるとこみないから。あれ、就職決まったんだったかなーって』
紬『うーん実はね、就職しないかも』
…ん?
自分の親の会社に勤めるという最終手段があるとはいえ、ムギはそういうことを嫌がるタイプだったから、割と熱心に就活してたはずなのに。
紬『大学院に行こうと思って』
律『へぇ…好きなんだなぁ、勉強。わたしにはムリだー』
紬『違うよ。好きなのは勉強じゃなくて…その、りっちゃんと一緒の時間、増えるでしょ?』
律『そーゆー決め方ってよくないと思うんですけど』
紬『むっ。留年確定してるりっちゃんには言われたくありません!』
律『…ま、そーね』
わたしに他人のことをどうこういう資格なんて、1ミリもない。
紬『わたしはりっちゃんの側にいられたら、他にな~~んにもいらないから』
そう言いながら文庫を放り投げると、わたしのほうにしな垂れかかり、両腕を首に回してくる。
そのまま体重をこちらに預けてくるままに任せてふたり、汗にまみれてベットに倒れこむ。
ムギの舌がわたしの耳の中に入り込んでくる。耐え切れず、吐息を漏らす。ムギが笑う。今度は耳をまるごと食べるように口の中に含んだ。
その間わたしはずっと、ムギの髪を撫で続けていた。
ムギがうらやましい。
どうしてそんなに素直に自分の気持ちを口にできるんだろう。素直に行動できるんだろう。
*
年が明けてしばらくして、わたしは寮を出た。
それ以来、大学には一度も行っていない。だから講義には全く出ていない。
軽音部にも一切顔を出していない。
ドラムにも触っていない。
音楽も全く聴いていない。
そもそも外に出ることがない。
たまに唯や澪やムギが様子を見にやってきても、大抵しらんぷり。気が向いたら時々招き入れた。
メールや電話には時々返事を返す。大学には行けたら行く、と適当に答えた。
4回生になった。最終学年になると講義がなくても就活や院試やゼミやらで忙しいらしく、3人もあまり軽音部には顔を出していないようだった。
梓からは一切連絡がなかった。
梅雨に入ったある日。
いつものように昼過ぎに目を覚ますと、外は雨模様だった。
午後から澪がやってくると、前日に連絡があったことを思い出す。この雨の中ご苦労なことだと思う。滅多に外に出かけないわたしにとって、外の天気がどうであろうと大した意味はない。
点滅に気がついてケータイを開く。ムギからのメールだ。着信もある。1時間ほど前。寝ていて気づかなかった。
”出先で雨に降られちゃって。ちょっと雨宿りさせてもらっていい?”
澪が来る予定の時間まで、まだ少し余裕があった。
雨に濡れた友人を放っておくほど人間腐っちゃいなかった。
わたしは気楽に返事を返すと、すぐにドアをノックする音が聞こえた。
紬『えへへ…実はもう来ちゃってたりして』
ドアを開けた先には、ずぶ濡れのムギが立っていた。
律『わるい、全然気がつかなくて』
紬『ううん、こっちこそごめんね。急に家に押しかけたりして』
濡れた髪は頬に張り付いて、雨に打たれた白のポロシャツは身体に密着してボディラインを明らかにしていた。うっすら下着が透けているのが見えて思わず目を逸らす。
律『とにかくあがって。タオルと着替え、とってくる』
紬『ありがとう』
真正面から見ていられなくて、わたしは中に引っ込んだ。
律『コーヒーでいい?紅茶、ないから』
紬『ありがとう。あ、わたし自分でやるよ』
律『じゃあお願いしちゃっていいかな。インスタントしかないけど。冷蔵庫の上に置いてあるから。わたし、洗濯機回してくるよ』
紬『ごめんね、りっちゃん。なにからなにまで』
律『いいよいいよ。雨はまだ止みそうにないし。服が乾くまでウチにいなって』
ムギにとってはサイズの小さめなわたしのTシャツ。
ちょっと刺激が強い。
…何考えてんだ。友達相手に。馬鹿だな、わたし。
紬『りっちゃん、今日は何してた?』
律『…寝てた』
紬『ふぅん。昨日は?』
律『寝てた』
紬『一昨日』
律『寝てた』
紬『じゃあ明日は?』
律『明日もほとんど寝てるだろうなぁ…』
紬『明後日も』
律『絶対寝てるわ』
紬『じゃあわたしも今日はりっちゃんと寝ようかなぁ…』
律『ダメダメ。わたしと同じ生活してたら人間ダメになっちゃうぞ』
ムギをわたしみたいに、したくない。
紬『そうかしら?でもりっちゃんと一緒なら寝てるだけでもたのしそう』
律『たのしくねーって。だって寝てるだけだぞ。1日平均12時間は寝てるんだから』
紬『うーん。そんなに寝てるならたのしく有意義な寝方しないともったいないね』
律『そんなもんねぇよ。わたしは時間をドブに捨ててるだけなの。若者らしくない不健康なことしてるだけなの』
紬『りっちゃん』
急に真面目な顔になってムギが言う。
紬『眠るのって実は体力がいるらしいの。ほら、おばあちゃんになるほど早起きでしょ?
だからね、りっちゃんってきっととっても健康なのよ。よかったね』
相変わらず反応に困る微妙なボケだ。
つっこまないのもかわいそうだし、一応やっておくか。
かるく握った拳をあげた瞬間、雷が鳴った。
ドォン!
驚いた拍子にゴミ袋に足を取られてつんのめる。
前のめりに倒そうになるわたしをムギが助けようとして体勢を崩し、そのままふたり一緒に倒れこんだ。
律『いたた…ごめんムギ、大丈夫だっ……』
瞳が、わたしをまっすぐに見つめていた。
紬『りっちゃん』
きっと外国の血が混じってるのだろうその青い瞳。
紬『ねぇ、りっちゃん』
暗い部屋の中でも、不思議に輝いて見える青い瞳。
紬『わたし…愉しい寝方知ってるよ』
熱を帯びた青い瞳はわたしの視線を引き付けて離してくれない。
紬『わたし…りっちゃんと一緒に寝てみるの、夢だったの』
ムギはそのまましがみつくようにわたしの首に手を回した。
紬『りっちゃんは?わたしとじゃ……いや?』
ふたりの頬と頬が触れ合い、ムギは耳元で囁くように言った。
紬『わたしと……寝てみる?』
もう一度、雷が鳴った。
雨は変わらず降り続けている。
パチン、と音を立てて電気ケトルが沸騰を告げた。
全部、どこか遠く、別の世界の音みたいに思えた。
身体が熱い。息が苦しい。
遠くでチャイムの音が聞こえたような気がしたけれど、
そのときのわたしたち二人の世界を邪魔できるものなんて、なにもありはしなかった。
*
空き缶が2つ、夜の歩道に転がっている。
紬「澪ちゃんに追い出されるって聞いて、いい気味だと思ったわ。これでりっちゃんも捨てられる方の気持ちがわかったでしょ」
かけられた発泡酒はとっくに乾いていた。
よく見たらムギの顔が赤い。随分飲んでからここに来たのか。
あのままじゃ本当にムギが、ダメになると思った。
ムギは澪と違ってわたしに対してうるさいことを何一つ言わなかったし、大学院に進学が決まるとわたしと同じようにろくに大学に行くこともなくなった。
昼過ぎに起きて、遅い昼食を一緒に食べる。それからムギはバイトに出かける。なんのバイトかは知らない。曜日によってまちまちだったから、いくつか掛け持ちしていたのかもしれない。わたしはその間マンガや雑誌を読みながら過ごした。
ときどき、天気が良い日は散歩に出かけて買い物をする。
ある夏の日。気まぐれにスイカを丸ごと買って帰ると、ムギは目を輝かせて喜んだ。
大きなスイカを1/4にカットして、豪快にむしゃぶりつく。
窓際にふたり並んで座り、がぶりがぶりとカブりつきながら、ぷっ、ぷっ、と黒い種を吐き出して遊んだ。
種は放物線を描いて飛んでは、ベランダに散らばった。
コンクリートに落ちた種は、芽吹くことなどありえない。
”でも成長しちゃっても困るでしょ?育てられないから仕方ないよ”ムギは真顔で言った。
こうやって食べるのが夢だったの、と無邪気はしゃぐムギも、後半はかなりムリしてるのがわかった。わたしも結構キツイ。でも残すのがもったいなくてムリして食べた。そして仲良くお腹を下す。
お腹にやさしいものがいいでしょ、その晩、ムギはホットミルクを入れてくれた。
あったかい。汗をかきながら、ふたりで飲んだ。
ふたりでよく、銭湯に通った。
アパートの小さなユニットバスと違って思う存分足を伸ばせる大きな湯船。
お金を払った以上、元は取らないと、って貧乏くさく1時間も2時間も粘ってた。
お風呂上がりには瓶入りの牛乳を飲む。
ムギはコーヒー牛乳。”えへへ、コレ飲むの夢だったの。腰に手を当てて飲むんだよね?”
夜風の涼しい帰り道を、手をつないで歩く。まだ乾ききっていない濡れ髪のムギ。身体にまとったミルク石鹸の匂いが、風に吹かれて漂っていた。
ふと気が向けば料理をしてムギの帰りを待つ。
わたしが晩御飯を作ると、ムギはとても喜んだ。
りっちゃんって本当にお料理が上手よね。
出汁の取り方、お米炊き方ひとつとっても、わたし全然敵わないもん…。
ちゃんと真ん中までしっかり火の通ったハンバーグ。ムギは小さく切り分けながら、ゆっくりひと切れひと切れ味わうように食べてくれた。
夜にあんまり食べすぎると太るぞ、っていうわたしの言葉を聞かず、笑顔でたくさんおかわりをねだった。
その笑顔を見た次の日は、絶対晩御飯を作らなかった。
帰って来たムギが、ベットに寝転んだわたしを見て少し残念そうな顔をする。
そんなときわたしは眉ひとつ動かさずムギを見つめる。
何も言わない。
そんなわたしを見てムギは謝る。
変だよな、何も悪いことしてないのに。悪いのはわたしの方なのに。
そのうちムギが帰ってくる時間には家に帰らず、冬の夜空の下、公園のベンチでタバコを吸っていることが増えた。
日付が変わる頃、ムギが迎えにやってくる。
タバコの火が目印になるね、りっちゃんがここにいるってわかったよ。
そう言いながらムギが隣に腰掛けて、わたしの手を握ろうとした。
とっさに振りほどく。
『わたしの手、冷たいから』
反対の手からタバコが滑り落ちて、音もなく火は消えた。
いつだってムギは、わたしが帰るまでご飯を食べずにずっと待っていた。
わたしが帰るころには、すっかり冷えきった晩ご飯を二人で食べる。
”いっしょに食べると、なんだかとってもおいしく感じるよね。”
いつか、そんなことを言っていた。
その日はTVから流れる乾いた笑い声だけが、六畳一間のアパートに響いていた。
ムギが淹れてくれた紅茶には口をつけず、冷めた缶コーヒーばかり飲んだ。
起きがけにつくってくれる得意な焼きそばは、箸をつけることすらしなくなった。
夏には毎日一緒に通った銭湯に行くことはなくなり、冬もシャワーで済ませた。
クリスマスは、ネカフェで一晩を過ごした。
肌に触れなくなった。
キスをしなくなった。
頭を撫でなくなった。
手を繋がなくなった。
目を合わせなくなった。
会話すら、なくなった。
ムギはいつも謝ってた。
けれど涙は一度も見せなかった。
春が来て、同級生が卒業すると同時にわたしの留年が確定し、無視し続けた親からの電話に出ると、聞こえてきたのは説教と罵倒ではなくて泣き声だった。
その後しばらくしてから澪がやってきてなにか言った。
よく覚えていないけど、言われるままあのアパートを出たのは間違いない。
そうして澪のところに転がり込んだ。
それからムギがどうしたか知らない。
わたしたちが住んでたアパートの契約がどうなったのかも。
ムギもとっくに寮からは引き払ってたはずだ。どこに引っ越したのか、住所も聞いてない。
院に進学したはずだから同じキャンパスにいるはずなのに、一度も姿を見かけたことはない。
”来年もりっちゃんと同じキャンパスに通えるね”そう言ってたのに。
律「わたしなんかと一緒にいたら、ムギがダメになると思ったんだ」
紬「勝手に決めないでよ。わたしのこと勝手に決めつけないでよ」
律「ごめん」
紬「なんで今になって謝るの?あの頃は一言も謝ってくれなかったのに」
律「ごめん…」
紬「バカ……キライ。大ッキライ。りっちゃんなんか大キライ」
よかった。ようやくムギに嫌われた。
これでよかったんだ。
わたしなんか嫌われちまった方がいい。
わたしみたいな奴はムギにふさわしくないんだ。
ずっとそうなればいいと思っていたことが実現したというのに、わたしはわたしで随分傷ついてるみたいで、そんな自分に気がついて嫌気がさした。
律「……ムギ?」
泣いていた。
あんなにひどいことをしても、一度も泣いたことのないムギが。
紬「ダメ……やっぱりダメ、ムリ…」
律「ムギ……?」
紬「好きなの……あれからも一年以上経ってるのに……今でも好きなの。大好き。嫌いになんてなれない。りっちゃん好き、大好き。お願い、帰ってきて」
律「ムギ…」
紬「わたしね、ずっと待ってるんだよ。あのアパートで。ずっと、今でも」
紬「待ってるの。りっちゃんが帰ってくるの。だからね、お願い…」
耐えきれなくて、わたしはムギをギュッと抱きしめた。
昔よりちょっとやせたほそい身体。
アルコールに混じって漂う懐かしいミルクのような甘い香り。
あったかい。このあったかさはずっと覚えている。ムギはいつだってあったかい。
知らない間にわたしまで泣いていた。
散々ひどいことをしてきたのはわたしなのに。
涙を流す権利なんてこれっぽっちもありはしないのに。
それでも涙を止められなかった。
わたしの涙に気づいたのか、ムギがつよくわたしを抱き返してくれた。
ただムギの体温がうれしくて、このあったかさをずっと感じていたかった。
信号機の青い明かりが夜の闇を照らしている。
雲が月明かりを隠して、遠くの空ではゴロゴロと不穏な音を響かせていた。
律「ムギ、もう少しだけ時間をくれないか。アパートで待っててくれ。必ず行くから」
紬「うそ、そんなのうそよ。行かないで、お願い。そばにいて」
律「行くよ。ゼッタイ行く。約束する。だから待ってて」
紬「……ゼッタイ?」
律「ああゼッタイ」
紬「……約束…してくれる?」
律「ああ、約束する」
青い瞳が潤んでいる。せがむようにわたしを見つめるムギをなだめ、小指と小指を絡ませる。
指切りげんまん。
ムギから離れて、わたしは走り出した。
今度こそ、澪のところに行かなくちゃ。
途中振り返るとムギはまだこっちを見つめていた。
わたしは大きく手を振った。
ムギが小さくふり返す。
遠くの空がピカッと光った。
雨の匂いが、鼻腔をついた。
*
マンドリル「遅かったな。梓、元気そうだったか?」
お風呂あがりらしいマンドリルは、シャンプーのいい匂いを漂わせながら、頭にタオルを巻いてソファーにくつろいでいた。
律「聞いたよ。知ってたんだな」
マンドリル「は?なんだ突然。なんのことだよ?」
レコード会社の営業マンは言った。
…ー今のままではプロのバンドとしてやっていくのは難しいと思います。ですが…
…ーあのベースの子。彼女がもし、ソロでもやっていきたいと思っているなら話ができないでしょうか。
…。
澪に聞いてみます。
そう答えたまま、それ以来かかってきた電話に出ることは一度もなかった。
不在着信には気づいていたけれど、何度かけてきても電話に出ないわたしに見切りをつけたのだろう。年が明けてしばらくすると、もう連絡が来ることはなくなった。
律「澪。今でもベース弾いてるよな」
マンドリル「たまにちょっと触る程度だよ」
律「ちょっとじゃねーだろ。わたしがいないときに結構ちゃんと練習してるだろ。わかるんだよ。ベース触ってるときの指の動き見てりゃ」
マンドリル「…何が言いたい」
律「今からでも遅くねーよ。挑戦してみろよ」
マンドリル「いまさら何言ってんだ。もう終わったことだ」
律「澪には才能がある。今からでも遅くない」
律「知ってたんだろ。自分だけ認めてもらえたことも。わたしがそれを黙ってみんなに言わなかったことも」
マンドリル「…」
マンドリルは黙ったまま麦茶を口に含んだ。カランと氷がグラスを響かせた。
左右に首を振りながら動く扇風機の風が、時折風鈴を揺らした。そのたび涼しい音が鳴る。
マンドリル「わたしはな、律」
マンドリル「別にプロになんかならなくてもよかったんだ」
律「澪が言い出したんじゃねーか、プロ目指そうって」
マンドリル「わたしはただ…」
マンドリル「みんなと一緒にいたかっただけだ。少しでも長く、みんな一緒に音楽をしていたかっただけなんだ」
マンドリルの赤い鼻と青い頬、黄土色の瞳からは感情が読み取れない。
律「わたしだってそうだよ。だから澪だけ…一人だけプロになっちゃうなんてイヤだった」
澪が離れていくのが怖かった。
これまで5人みんな一緒にやってきたのに、澪が一人だけプロになってしまうことで、わたしたちの関係が決定的に変わってしまうようで、怖くて、わたしは嘘をついた。
マンドリル「そんなつもりなかったよ。だからあのとき律に本当のことを打ち明けられても断るつもりだった」
年明けにあの営業の人から直接電話がかかってきて、正式に断った。マンドリルはそう言った。
律「なんで言ってくれなかったんだ」
マンドリル「その言葉、そっくりそのままお前に返すよ」
梓たち、他の三人がどういう経緯でこのことを知ったかはわからない。
あの営業マンが桜高軽音部OGとつながりがあるんだから、たぶんそこから漏れたんだろう。
でもそんなこと、いまさらどうだっていい。
わたしも澪も、5人の関係を壊したくなくて、大事なことを黙っていた。
その結果がこれだ。
もしあの頃、わたしたちのどちらかが本当のことを告げていたら、なにかが変わっていただろうか。
いまさら遅い。
マンドリル「ごめん。わたしのせいだな」
律「わたしのせいだろ」
マンドリル「ちがうよ。わたしのせいだ。わたしがプロを目指そうなんて言わなきゃよかったんだ。あのままなにも変わらずに音楽を続けていれば…」
激しい音を立てて雨が降り始めた。
ムギはちゃんとあのアパートに帰っただろうか。
マンドリル「わたしのせいで律がおかしくなってくの見てるのが辛かった」
マンドリル「それでみんなバラバラになっていくのを見てるのが辛かった。律が留年したのだってわたしのせいだ。おせっかいだってわかってたけど、律を放っておけなかったんだ」
律「自分を追い詰めるなよ、澪のせいじゃない。わたしがだらしないのはわたしのせいだ」
マンドリル「でも律、苦しかったんだろ?」
律「そんなことないよ」
マンドリル「あるよ。だって律、ちっとも笑わなくなったじゃないか…」
澪、わたしに笑う資格なんてないんだよ。
わたしが澪の可能性を奪った。
いちばん大事な親友の可能性を、未来を奪った。
自分になかった才能を持った親友を妬んだ。
わたしの些細な嫉妬が、軽音部を、だいじな場所や仲間を、そして自分自身まで壊した。
マンドリル「ずっと一緒にいたかったけど、わたしが側にいたら律はずっと苦しみ続けるって思ったんだ。だからわたし…」
マンドリル「だからわたし、こんな姿になったんだ」
*
律「澪…おまえ………」
マンドリル「はは…醜いだろ?気持ち悪いだろ?こんな姿見てられないだろ?一緒に暮らしていたくなくなったろ……」
律「そんなことない。醜くなんてないよ。わたし澪のこと、そんな風に思ったこと、一度もない」
マンドリル「嘘はよせよ。自分がどれだけ醜いかなんて、わたし自身がいちばんよくわかってるよ」
律「…なんで…どうしてだよ………」
マンドリル「わからない。ある朝起きたらこの姿になってた。でもな、自分でも不思議なくらい落ち着いて受け入れられたよ。ああ、これは罰なんだ、ってすぐにわかったから」
マンドリル「初めは誰も気づいてなかった。律、お前も」
マンドリル「お前が気づいたのはこうなってから…一週間くらいだったかな。反応を見たらすぐわかった。律はすごいな、って思ったよ。だって同居人がマンドリルになったのに、全然動揺を見せないし、こんな姿なのにわたしだってわかってるみたいだったから」
そういえば、朝起きて隣にマンドリルが寝てるのを見たとき、なぜかすぐに澪だってわかった。
なんでだろう。付き合いの長さのせいか?
でも澪だってわかってたから、動揺したけど大丈夫だと思えたんだ。
どんな姿に変わったとしても、澪は澪だ。
マンドリル「いよいよ言わなくちゃ、って思った。決めてたんだ。律がわたしの姿に気がついたらそうするって。思ってたより受け入れてくれたのは嬉しかったけどさ、決めてたから。………お別れするって」
赤い鼻をすんすん言わせながらマンドリルは語り続けた。
表情の変化を読み取ることができない。
けれど声の震えから、澪が泣いているとわかった。
バカ。バカ澪。
苦しめてたのはやっぱりわたしのほうじゃないか。
律「戻してやるよ!わたしが澪を元の姿に戻す!」
マンドリル「はは…無理だよ。そんな顔するな。心配いらないよ。この姿に見えてるのはどうやらわたしと律だけみたいなんだ。だからこれからも普通に生活していく分にはなにも困ることはなさそうだ」
律「嫌だ!わたしは困る!」
マンドリル「わがまま言うなよ。わたしだって戻りたいのはやまやまだけど、戻っちゃだめなんだ。だってこれは罰だからさ」
律「それなら…それならわたしだって罰を受けなきゃいけないだろ!」
マンドリル「……罰って、なにをだよ?」
澪。わたしたちは一緒だった。小さいころから、今まで、ずっと。
だからお前が罰を受けるなら…一人にしておくわけにはいかない。
お前が人間に戻れないならわたしも…
律「わたしもマンドリルになってやるっ!」
*
雷が何度も落ちた。
目の前に激しく泣いている人がいるとかえって自分が泣けなくなっちゃうみたいに、わたしは思いの外冷静さを取り戻して夜の空を眺めていた。
取り外された風鈴が机の上に転がっている。
カーテンが大きく揺れて、網戸越しに床を濡らした。
冷房のない部屋に住むわたしにとっては、どんな雨だって恵みの雨だ。
雨音に混じってチャイムが響く。
わたしは聞こえなかったフリをする。
しばらく時間をおいてもう一度。
無視。
また鳴った。
出ない。
鳴る。
知らんぷり。
そのうちチャイムは鳴らなくなって、ドンドンと扉を叩く音に代わる。
それも無視。
ぶるぶるっとケータイが震えた。
『出先で雨に降られちゃって。ちょっと雨宿りさせてもらっていい?』
わたしは鍵を外して扉を開けた。
扉の先にいたのは、あの日のわたしみたいに雨に濡れた・・・
マンドリル2号「よかった・・・帰ってきてて。待たせてごめん」
ちがった。人間じゃない。
*
マンドリル2号「・・・と言うわけなんだけど」
紬「…」
目の前のテーブルに、カップがふたつ。
雨に濡れたわたしのために淹れてくれた、ホットミルクティー。
一気にしゃべり終えたわたしは、カップを手に取り渇いた喉を潤す。
ムギは終始神妙な顔つきをして、じっとわたしの瞳を見つめている。
久々の我が家は以前と変わらない風通りの悪さで、熱気と湿気が充満していた。
マンドリル2号「まさかわたしまで本当にマンドリルになっちゃうなんて思ってもみなくて…」
マンドリル2号「澪のやつそれですっかり怒っちゃって…」
マンドリル2号「『この…バカりつ!そんなことしてどうなるんだよ!』…って」
マンドリル2号「でもさー、澪ひとりだけこんな姿させとくわけにはいかないじゃん。元は言えばわたしのせいなんだし」
マンドリル2号「だからわたしも…って思ったのによー…澪ったらひどいと思わないか?
あれ?ムギ、聞いてる?……」
こくりと頷く。
わたしがこんな姿になったせいで澪と大げんか。そのまま家を飛び出した。
マンドリル2号「それにしてもムギ、よくわたしのことがわかったなー…つーかマンドリルには見えてるのね」
ムギはまた黙ったまま頷いた。
試しに途中で寄ったコンビニ。店員も立ち読み客も、ずぶ濡れのわたしにギョッとした反応は見せたけれどそれっきり。
たぶん人間に見えてたんだろう。マンドリルが深夜のコンビニに入ってきたら、大騒ぎだろうから。
マンドリル2号「とりあえず澪とムギと…ああわたし自身もだけど…それ以外の連中には普通の人間に見えてるみたいだし、大して問題もないっちゃないな」
紬「元に戻りたいと思わないの?」
はじめてムギが口を開いた。
マンドリル2号「ん。まぁ戻れるならな。さすがにこの顔を毎日鏡で見るのはキツそうだ。…ただでもこれ、罰みたいなもんだと思うんだよ。だからしょーがねーなーって思ってる」
紬「カッコつけたがりだね。りっちゃんは」
マンドリル2号「…うっ」
紬「澪ちゃんの言うとおりよ。それでなにか解決した?してないよね?」
マンドリル2号「…」
紬「でもいい気味。醜い姿になっちゃって。ざまーみろって思っちゃった」
マンドリル2号「…はは」
紬「…けど、ズルい」
マンドリル2号「…ん。何が?」
紬「こんなときでも澪ちゃんと一緒なんだもん」
マンドリル2号「一緒ならなんでもいいわけじゃないだろ」
紬「りっちゃんのバカ。アホ。マヌケ。カッコつけ!リューネン!!マンドリル!!!………キライよ」
マンドリル2号「そんなこと言われてもなぁ…戻り方わかんないし」
紬「じゃあわたしも…」
マンドリル2号「待て!カンタンに口にするな!何が起こるかわかんねーぞ!」
ムギは不満そうに頬を膨らませた。
紬「りっちゃんと一緒がいい」
紬「罰って言うならわたしも同じよ。だってわたしもりっちゃんを苦しめたんだもの」
マンドリル2号「ムギはなんにもわるくないよ」
紬「うそ。わたしわかってたもん。わたしがりっちゃんの側にいると、りっちゃん苦しいんだろうなってこと、わかってた。けど…どうしても離れたくなかったの」
紬「どうしても一緒にいたかったの…わたしのワガママでりっちゃんを苦しめちゃってた。……ごめんね」
マンドリル2号「謝ることじゃないよ」
紬「ううん、謝らせて。わたし、ズルいの。言わなきゃいけないことがある、ってこともわかってたの。けど…言えなかった。……嫌われるのが、こわくて」
紬「でもね。そうやって色々考えたりもするんだけど……それでもやっぱりりっちゃんと一緒にいたい、って思っちゃう。だからわたしも罰を受ける」
マンドリル2号「バカ。いいわけないだろ……マンドリルだぞ?今のわたしの顔、見てみろよ。ヘンだろ、気持ちワルイだろ、なに考えてるかわかんないだろ」
紬「気持ち悪くないよ。それにりっちゃんの考えてること、なんとなくわかる気がするし。
…たしかに顔はヘンだね。でもね、好き。大好き。りっちゃんとずっと一緒なら、わたしどんな姿になってもかまわないわ。だって……」
紬「どんな姿でもりっちゃんはりっちゃんだし、わたしはわたしだもん」
マンドリル2号「ムギ…」
紬「もう一度聞くよ。人間に戻れるなら戻りたいの?」
マンドリル2号「…いや、いい。わたしにはそんな資格なんてない」
紬「…まーたカッコつけちゃって」
マンドリル2号「うっせ」
雨は降りやまない。
部屋の中を見渡す。久々の我が家は思った以上に変わりない。
家具の配置も何一つ変わらない。
住人が変わっても特別装飾が変わったところは見られない。
紬「…あ」
マンドリル2号「…どした?」
紬「…わかっちゃったかも。りっちゃんが元に戻れる方法」
マンドリル2号「…なに?」
紬「わたしじゃダメかもしれないけど…ためしてみても、いい?」
そう言い終わらないうちにムギはぐいっとわたしに近づいて、勢いそのままに押し倒した。
マンドリル2号「………え?」
紬「…あれ?抵抗しないんだ。もしかして、押し倒されたかった?」
ムギの長い髪が顔にかかってくすぐったい。
薄暗い部屋の中でムギの唇がつやつやと光っているのが見えた。
紬「りっちゃん。身体冷たい」
マンドリル2号「雨に………濡れたからだよ」
紬「ううん、りっちゃんの身体、いつも冷たかった。今も変わんないね」
マンドリル2号「脂肪が………少ないからだよ」
紬「あら?こんなときにイヤミ?」
マンドリル2号「…はは。ごめん」
紬「いいよ、わたしがあっためてあげる」
くちびるは、少しづつ近づいてくる。
熱い。ムギの吐息が頬にかかる。
紬「…抵抗、しないんだ。いつも成り行きまかせだね」
マンドリル2号「そんなこと…ねーよ」
わたしはムギの肩を掴んだ。
あと5センチ、というところでムギの唇が止まる。
マンドリル2号「…何する気だ」
紬「…ナニ、したいの?」
マンドリル2号「つまんない冗談はやめろ」
紬「ほら、定番じゃない。お姫様のキッスで……」
マンドリル2号「……バカ」
紬「……試してみる価値くらい、あるんじゃない?もしそれで」
紬「もしそれでりっちゃんが元に戻れば、証明できるわ」
マンドリル2号「何をだよ」
紬「わたしがりっちゃんのお姫様、ってこと」
青い瞳に吸い込まれそうになる。
吸い込まれるのが怖くて、見つめるのをやめた瞳。
一度囚われてしまえば、もう目が離せない。
マンドリル2号「待って」
紬「なに」
マンドリル2号「わたしも証明したい」
紬「なにを?」
律「成り行き任せじゃ、ないってこと。
ムギと一緒にいて苦しくなんか、ないってこと。
ムギのことが大好きだって、こと」
紬「…はじめて、好きって言ってくれたね」
律「…ごめん」
紬「…謝らないで」
ひと粒の滴がムギの瞳からこぼれて、わたしの頬に落ちた。
紬「ねぇ、お願いがあるの」
律「…なに?」
紬「…もう一度言って」
律「好きだ。」
言い終わると同時にくちびるを塞いだ。
ミルクティーの、味がした。
大きな音を立てて雷が落ち、灯りが消えた。暗闇が部屋を包む。
身体が熱いのは、蒸し暑さのせいだけじゃない、ってそんなことわかってる。
雨は一層勢いを増して、夜は更けていく。
*
なぁ。
ーー美女と野獣、ってどんな話か知ってる?
ーーお姫様のキスで王子様が野獣から人間の姿に戻る、って話でしょ。
うーん、間違ってないんだけど、ちょっと違うな。
唯「うーんどうだろう」
梓「いやーどうかと思います」
唯「継続は力なり、って言ったもんだねぇ」
梓「そうですねぇ…サボってたのは隠せないですねぇ…ていうか唯先輩、よく知ってましたねそのことわざ」
唯「まあね~…あ、でも最後らへんは悪くなかったんじゃない?」
梓「いえ、あれは単にバテてただけだと思います」
唯「厳しいねぇあずにゃん」
梓「ふつうですよ」
唯「じゃあ、ひとことで言うと…?」
梓「じゃあ、ひとことで言えば…」
唯梓「「走り過ぎ」」
うっさい!
久々の演奏でこれだけできたことを褒める、って選択肢はないのかよ。
梓「澪先輩たち、なかなか戻ってきませんね」
唯「女の子同士ってなんで一緒におトイレ行きたがるんだろうね」
梓「先輩も女の子でしょ」
背中にTシャツが張り付くくらい汗をかいたのは、いつ以来だろう。
唯と梓のやりとりは昔と何一つ変わりなくて、まるで高校生の頃に戻ったような気になって、時間の感覚がおかしくなる。
唯「もしかして二人だけでお茶してたんじゃ…お茶飲んだらおトイレ近くなっちゃうもん!ズルい!」
梓「あの二人に限ってそんなことないでしょう。想像が意地汚いですねぇ…そういえば高校の頃、せっかくスタジオ借りたのにお茶飲んでばっかで全然練習できなかった~、なんてことありましたね」
『今度、都合合わせてみんなで集まらないか?久しぶりにドラム叩きたくなってさ』
わたしがメールを送信すると、ものの5分もしないうちに全員から返信がきた。
なんだ。
すっげー簡単だったじゃん。
そうか。
みんな、わたしを待っていたんだ。
わたしがその気になれば、みんなはすぐに集まれたんだ。
肝心のわたしが、わたしだけがそのことに気がついていなかった。
そうだよ、わたしはけいおん部の部長で、放課後ティータイムのリーダーなんだから。
唯「ムギちゃん、やたらと大きなカバン持ってたよね。もしかしてすっごいお菓子持ってきてくれたんじゃ…」
梓「中にスイカが入ってるの、ちらっと見ちゃいました……」
あの頃とは違う。
みんなバラバラで、毎日一緒にいられない。
唯「まさかスタジオでスイカ割り……」
梓「それがわたしの夢だったの~…なんて」
毎日集まって、
演奏することも、お茶することも、ふざけてじゃれあうことも、できない。
…。
わたしはさ。実はそれほど音楽が好きってわけじゃなさそうなんだ。
毎日ドラムを触っていなくたって生きていける、ってわかっちゃったんだ。
それがなくちゃ生きていけない、ってほど大事なものじゃなかったみたいだ。
うっすらわかっていたことだけど、認めるのはさみしいことだけど、どうしようもない真実なんだ。
こんなわたしがプロになれるわけないじゃん。元からわかってたよ、そんなこと。
そうだよ。本当はプロになりたいわけじゃなかった。
プロになれば、わたしたちの演奏が仕事になる。
バンドで生活していけるようになれば、毎日一緒にいられる。
離れ離れにならずに済む。
ずっとずっと、みんなと一緒だ。
変わらない生活が、そこにあるって思えた。
わたしはずっとこの日常が永遠に続くことを願ってた。
それなのに。
プロになれなくて、
いちばん大事な友達の未来を奪って、
なにより大切にしたかった毎日を自分で壊した。
あのとき、澪に真実を告げなかったとき、わたしは決定的に終わってしまった。
終わっちまったわたしはその罰をずっと背負って生きていかなきゃいけないんだと、
自分で勝手に十字架を背負った気分になって…ああもう、サイテーだ。
カッコつけたわたしがやったことは、澪とムギを傷つけて、放課後ティータイムを壊しただけだ。
あの晩はアパートに泊まって次の日澪のところに戻ると、なぜだか澪は人間の姿に戻ってた。
久しぶりに見る人間の澪はびっくりするくらいキレイで、しばらく唖然としてしまった。
澪『さっぱり理由はわからないんだけど、朝起きたら人間に戻ってたんだ』
………よかった。
身体中の力が抜けて、ヘナヘナと座り込んでしまった。
澪『律も元に戻れたんだな。よかった…よかった…』
泣きながら澪が抱きついてきて、久しぶりに頭を撫でた。
マンドリル2号『ああよかった…よかったよ…』
澪が元に戻れてホントによかった。
いつまでもここにいていい。引越しはやめるから。
澪はそう言ってくれたけれど、わたしはもう心に決めていた。
これからも甘えるわけにはいかないし、それにわたしには帰らなくちゃいけない場所がある。
ずっと待ってくれてる人がいるんだ。
頑張れよ、今度はちゃんと上手くいくよう応援してるから。澪は笑って言った。
なんだ。なにもかもお見通しだった、ってわけかよ。
梓「律先輩、何ぼーっとしてるんですか?ほら、練習再開しますよ」
マンドリル2号「へいへい…でも澪とムギ、まだ戻ってきてないだろ」
澪「なに言ってんだよ。とっくに戻ってきてるよ」
あれ?いつの間に。
マンドリル3号「おまたせ、じゃあはじめよっか」
声が聞こえて振り向くともう一匹のマンドリルが、そこにいた。
ーー美女と野獣、ってどんな話か知ってる?
ーーお姫様のキスで王子様があるべき姿に変わる、って話だよ。
じゃあもし、お姫様が野獣だったら?
どうやらお姫様は、わたしだったみたいだ。
ま、ふたり一緒ならどんな姿だっていいさ。
それにしても暑いな。このスタジオ、冷房効いてるのか?
水筒に入ったムギ特製のミルクティーを口に含む。
よっしゃ、気合十分。それじゃあいくか!
マンドリル2号「ワン、ツー、スリー!」
わたしたちの演奏がまた、はじまった。
おわり。
長々と失礼いたしました。
もうすぐ8月21日。りっちゃんのお誕生日です。
というわけで内容は誕生日関係ないけど、誕生日を記念してりっちゃん主役のSSを書きました。
フライングですがりっちゃんお誕生日おめでとう。これからも元気でね。
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