揺杏「ちいさなコイのハナシ」 (72)

 一

 普段は誓子にべったりな成香が、どう云う訳か、私と一緒に散歩したいと言って来た。

 かく言う私も、普段は爽とつるんでばかりなので、成香とはあまり二人っきりになったことがなかった。

 それが今日は珍しく、成香の方から散歩の誘いを持ちかけてきたのだ。

 時期は、もう春の陽射が照りはじめて、外をぶらりと散歩するには好い心地だ。

 私と成香は、校舎の裏にある森林を歩くことにした。

 そこの林道を中程まで行った処に滝があり、それが中々見事だ。

 森林をぶらりと――となれば大体滝まで歩き、そこで魚でも眺めて来た道を戻る、というのが散歩の通例だった。

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 見晴らしの良い高台を望もうにも、どこまで行っても鬱蒼と繁る杉に覆われているし、珍しい動植物が生息している訳でもない。

 一応滝を越えて登った上流には、中央に大きな岩がある泉があるけど、そこまでは遠くて山歩きに慣れないか弱い女子高生が行くような場所ではない。

 それでも、爽はよくそこまで散歩しに行くようだ。

 私も着いて行ったことがあるけど、やはり着く頃にはへとへとになっていた。

 流石に成香にはそんな馬鹿体力はないだろう。

 道の傍を流れる川のせせらぎを背景音に、私と成香は他愛も無い会話をしながら歩いた。

 時折、川の水面から小魚が跳ねたりすると、成香はそれを見付けて無邪気にはしゃいだりした。

 成香の笑顔は、陽を反射して光る川面の煌めきの面影をその小さな口の端にちらつかせる。

 それがなんだかとても眩しくて。

 とても恋しくて。

 とても愛おしくて。

 なるほど――チカセンが夢中になる筈だ。

 暫く行くと、散歩の目的である滝に行き当たった。

 滝は、その雄大な肩幅に対して、以外と低い背丈から落ちて、機織り機の様に規則正しく、ざざざと音を立ててゆっくりと流れていた。

 いつも私は、もっと勢い善く、もっと轟音を響かせて、ここの滝が流れていたように想像していた。

 だからいつも実物を見る度に、少し拍子抜けをする。

 私の滝のイメージは、華厳の滝だとか、那智の滝だとかの雄大なそれなのだ。

 ここだって、滝が行き着く滝壺や、川や崖などの周囲の雰囲気は、音に聞こえる名所の滝にだって負けてない筈だ。

 ただ、滝だけが、そんな自然に反してのんきに流れているだけだ。

 そんなのんびりとした滝でも、

成香「揺杏ちゃん、素敵ですね」

 と言って、キャッキャとはしゃぐ成香の横顔は、やっぱり女の私から見ても可愛かった。

 私は何だか恥ずかしくなって、照れ隠しに、

揺杏「おい、魚が一杯いるぜ」

 と言って、滝に夢中になる成香に呼びかけた。

 そうすると、成香は滝から魚に目をやり、素敵ですと言って、また同じように感動するのだった。

 私が手づかみで取れそうだと言うと、

成香「危険ですよ、滝壺だって、結構深いんですから」

 と、心配して諫める。

 私はわかってるよそんなこと、と軽口で返した。

揺杏「あっちの川なら、まだ浅いから大丈夫だろ?」

 私は、滝から川の方へ指を指した。

成香「そうですね。でも揺杏ちゃん、お魚さんを捕まえられるんですか?」

 成香が聞き返す、

揺杏「まさか、爽じゃなし、アタシは花の女子高生だよ?生きた魚を手づかみだなんて」

 そう言って私と成香は、川沿いを伝って少し歩いた。

 川には魚を食べに来た野鳥が、その中州で羽を折り畳んで休んでいる。

 私達が川に近づくと、驚いて河岸の向こうの山へと飛び去ってしまった。

成香「ここにもお魚さんが一杯いますね」

揺杏「本当だ。爽なら、『今晩は川魚の塩焼きだ』なんて言って、嬉しそうに川の中へ魚を手づかみに行ったんだろうな」

 と言うと、なんだか少し成香が不機嫌になった。

 私がどうしたのか聞くと、

成香「揺杏ちゃん、何だかさっきから爽ちゃんの話ばかりです。せっかく、二人っきりで散歩に来たのに」

 と言って、むくれていた。

揺杏「ごめん。なんだかさ、そう…」

 なんだろうなぁ……。

 成香と二人っきりになる、ということが余りなかったからか、少し緊張しているのだろうか。

 知り合ってから半年くらい経つのだが、なかなかこういう場面は少なかったので、なんだか気恥ずかしい気持もあったのかもしれない。

 ――そんな時、

成香「あ、あそこにぐったりとした鯉さんが居ますよ?」

 と成香は浅瀬に打ち上げられた一匹の鯉を見付けた。

揺杏「本当だ、傷だらけだ、死んでるのか?」

 目を凝らして鯉をよく観察してみる。

 死んでいるなら、あまりお近づきにはなりたくないからだ。

 ところがどっこい、鯉は生きているようだ。

 心ない釣り人に釣られて、そのまま捨てられたのだろうか。

 鯉は川の浅瀬に息も絶え絶えに横たわっていた、鱗は処どころ傷つき、またそれを反射した陽の光が仄めくので、余計にありありと傷口が見え、それがとても痛々しかった。

 あの傷では、川の中へと帰る元気もないだろう。

成香「鯉さん、可哀想です…」

 と成香が言う。

揺杏「見てな、あの魚なら手づかみで捕れるぜ」

 そう言って、私は腕まくりして鯉へ近づいた。

 鯉は、両手で持ち上げると、捕まるものかとばしゃばしゃと尾っぽを跳ね始めた。

 私は、それを制服が濡れるのも構わず、覆い被さるように両手で掴んだ。

 大きな鯉だったので、なかなか苦労したが、それでもなんとか川の中へと返すことが出来た。

成香「やりました。揺杏ちゃん、凄いです」

 喜ぶ成香の様子に、なんだか私は嬉しくなった。
 
 私はへへん、と自分の鼻を撫でた。

 鯉は、そのままゆるりと川を廻ると、何か忘れ物をしたのか、それとも私達に礼が言いたいのか、こちらへと向って泳いで来た。

 そうして、水面からちょこんと顔を出すと、

「ありがとう、助かったわ」

 と言った――。
 
 ファッ!?

 と、その瞬間、私と成香は、まるで牛乳を拭いた雑巾が発酵し溜まったガスが洩れるような、間抜けな声を上げた。

「あなた達のおかげで、なんとか助かることが出来たのよ。あなた達は私の命の恩人ね」

 鯉が――喋った。

 幻聴か。

 そんなオカルトはありえない。

 鯉は、喋る訳が無い、淡水魚だもの。

 いや、海水魚だって喋りはしないだろ。

 それこそ魚じゃなくったってミミズだってオケラだってアメンボだって喋ったりしない。

 言葉によるコミュニケーションは、私達人類にのみ許されたものだ。多分。

 そうか。

 妖怪の所為なのね、そうなのね。

 大変だ、今すぐ妖怪ポストへ手紙を届けて怪物くんにご足労願わなくては……。

 呪文は何だっけ、慥か、

『エロイムエッサイム我は求め訴えたり』

 だったよなぁ……。

成香「お、落ち着いてください!し、深呼吸して背伸びすれば、鯉が喋るなんていう幻は消えますよ!」

 なるほど。

 成香は冷静だなぁ……。

 流石は『今、森野達弥に描いて貰いたい咲キャラNo.1』なだけはある。

 私は言われた通りに、眼を閉じてラジオ体操を始めた。

 何度も何度も、入念にあの深呼吸の部分を繰り返す。

 こうすれば。

 馬鹿な幻なんて、消え失せる筈だ。

 ほら、眼を開ければそこにはなんの変哲も無い、ただの傷だらけの鯉が居るだけだ。

「あの…もしかして、私が喋るのに驚いているのかしら?」

 マ行の音、『マ・ミ・ム・メ・モ』は、一般に『唇音』と呼ばれていると聞いた。

 その名の通り、これは唇を持つ哺乳類動物だけが発音出来る、謂わば特権のようなものなのだ。

 だから。

 唇を持たない魚が、難なくこの特権を行使出来るのは、それは自然の意に反している。
 
 いや。

 そもそも、喋ること自体がおかしい。

 いやいや。

 そもそも鯉は喋る動物で――あぁ、なんだか頭がふっとーしそうだよぉ……。

 混乱する私を見て、鯉は、

「そうよね…喋る鯉なんて、気持悪いわよね…」

 とかなしそうに言った。

 成香は、それを聞いて可哀想になったのか、

成香「あ、可愛いです」

 と鯉を癒なめた。

「お、可愛いか」

 それに鯉は、ニタァと笑顔で返す。

「可愛いって言われちゃった」

 なんだ鯉……。

 まじきめぇ……。

 と、なんだかこの不思議な状況が、とても馬鹿馬鹿しく思えて来た。

成香「鯉さんは、どうして喋れるんですか?」

 ついに尋いちゃうかそれを……。

「話せば、長くなるわね…」

 と、鯉は私達に自分の半生を語って聞かせた。

 今は昔――。

 元々、この鯉は人間だったらしい。

 鯉には恋人が居たが、多情だった鯉は、色々な女の子を口説いては遊び回っていた。

 恋人は、それに心を痛めて、毎晩あの上流にある泉の処で泣きはらしていた。

 その頃は、まだ泉は影も形も無く、但、広い原っぱがあるだけだった。

 恋人は、その原っぱで来る日も来る日も泣いて、とうとう岩に姿を変えてしまったのだ。

 そして、岩になってもなお、泣き続けた。

 その泪がやがて水溜まりとなり、泉となった。

 この泉と滝が出来たのはその頃からである。

 それを知った鯉は、たいそう後悔した。

 後悔して――。

 魚の鯉に姿を変えた。

 そうして鯉は、再び岩になった恋人に逢う為に、来る日も滝を登り続けたのだった。

揺杏「へぇ…それで滝を登り続けて傷だらけに…」

「えぇ、私は一刻も早く滝を登り切って、ミホコに逢いに行かなければならないの」

 鯉は、その身をぷかぷかとたゆらせながら言った。

成香「そう云えば、鯉さんには名前があるんですか?」

 成香が尋ねる。

ヒサ「私?私の人間の頃の名前は『ヒサ』よ。あなた達は?」

 と言われ、

揺杏「えっ?あ、アタシは岩館揺杏、こっちは…」

成香「本内成香です」

 鯉に自己紹介するなんて、傍から見ればおかしな女子高生だよなぁ……。

 と私は自嘲気味に考えた。

ヒサ「よろしくね」

揺杏「はぁ…よろしく」

成香「よろしく御願いします」

 川の水面は陽の光を受け、爛々と乱反射していた。

 それが時折、眩し過ぎる程に顔にぎらついて来ると、私はそこから少し瞳を逸らしたくなった。

ヒサ「っと…あまり長話もしてられないのよね」

成香「登るんですか、滝?」

ヒサ「えぇ、早く登らないとミホコに逢えないしね」

 鯉はそう言った。

 この状況に馴れて来たとは言え、ペットでもない鯉を名前で呼ぶのは些か抵抗がある。

 それを、成香はいとも簡単に馴染んでしまったようだ。

 まあ、小動物好きの成香なら、喋る鯉なんてメルヘンでオカルトなものにも抵抗は少ないのかなぁ、それとも、小動物は小動物同士、何かシンパシーを感じたのかな、と私は変な納得をした。

ヒサ「それじゃあ、楽しかったわ。さようなら」

 と身をひるがえし、私達に尾ヒレを振って滝まで泳いでゆく。

 その傷だらけの体で、なんとも見事に泳ぐものだと、何だか無駄に感心してしまった。

 私と成香は、そのまま滝壷まで行って、鯉が滝を登るのを見届けることにした。

 鯉は、滝の中程まで昇ると、流れに負けて真っ逆さまに落ちてしまった。

 いくら私達から見て、あきれる程緩やかな滝とは言え、小さな鯉にとってはとてつもなく大きな滝だろう。

 そうして、滝の岩脈に撫でられたり、滝口の岩にぶつけたりしながら、勢いよく滝壺の底へ沈んでしまった。

 そしてすぐに滝壺から浮び上がると、また滝へと挑戦する。

 この傷は、そうやって出来たんだろうと、容易に考え至った。

 成香は、それをただ、心配そうに見つめる。

 鯉は、私達に見られるのもお構いなしなのか、何度も何度も滝へと挑戦し続けた。

 それが、鯉の体表にある傷口の由来を周囲に知らしめ、それが余計に痛々しかった。

 もう、何時間経ったか判らない程、私と成香は健気な鯉の挑戦を見守り続けていた。

 辺りはもう、薄暮て来ていた。

 その頃になると、やっと諦めたのか鯉は滝へ昇るのを止めた。

 いや。

 単に、野生の本分である、餌の採取に取りかかったのだろう。

揺杏「私達も帰ろうか…」

 と私は成香に呼びかけた。

 あまり昏くなると、森の中は危ないし、誓子達に心配される。

成香「ちょっと待って下さい」

 成香は、持って来た鞄をまさぐった。

 そして、本来ならお午に食べるはずであった、お弁当のサンドウイッチを少し千切り、それを川の方へと投げた。

 サンドウィッチの屑は、暫く波をたゆとうと、ひょいっとヒサの口の中へ入った。

ヒサ「成香ちゃん、ありがとうね」

 ヒサは礼を言った。

成香「いいんですよ。私、明日もここへ来ますんで、その時また、何か食べるものを持って来ますね」

ヒサ「そんな、悪いわよ…そこまでして貰っちゃ…」

成香「いいんです。私、ヒサさんの何かお役に立つようなことがしたいんです」

 と言うと、ヒサは背ヒレをなびかせまた礼を言った。

揺杏「明日も来る気かよ?」

 と私が聞くと、成香は強くうなずいた。

 やれやれ、とは言ったが、私も何だかこの鯉を応援したくなってきていた。

 ヒサの事は、爽達には内緒に――とのことであった。

 変に騒がれても、ヒサに迷惑がかかるだろうし、第一人語を喋る鯉だなんて、信じてもらえないだろう。

 この事は、私と成香だけの秘密だ――。

 何だか、それを考えると何だか心がこしょばゆいよいうな、それでいてぽやぽやと温かくなったような気がして仕方が無かった。
 
 それは、他の仲間はおろか誓子ですら知らない、成香と私だけの秘密であった。

 そしてそれは成香と、私だけの小さな約束でもあった。

今回はここまでです。


ヒグマに食われたりしないだろうな…

 二

 次の日、部室を覗けば、爽が釣り竿を磨いていた。

 私は、滝の傍で遭った鯉の顔を思い出し、心配になった。

 私が何を釣るのかと聞くと爽は、

爽「鰻を釣るのさ」

 と答えた。

 それをユキはそれをそばで聞いて、

由暉子「麻雀も碌にしないで、鰻釣りに精を出すなんて、とても立派な先輩ですね」

 と、皮肉を言った。

揺杏「鰻?この時期にか?」

 私は爽に言った。

爽「ノンノン。四月にでもなればもう鰻のシーズンさ。そもそも鰻を夏の土用の日に食べる風習は、江戸時代に平賀源内が夏になると暇になる鰻屋の為に宣伝したことだよ。ちなみに脂っこい魚を忌み嫌っていた江戸庶民に、油の乗った鰻が定着したのも江戸中期頃らしいぞ」

 爽がそう答えると、私と一緒にいた成香が

成香「蒲焼きにするんですか?」

 と爽に聞いた。

爽「そう、蒲焼きには頭を切って…」

 と手刀を作り、トンと軽く叩く動作をして見せた。

由暉子「背から包丁を入れるんですよね?」

爽「そうそう。武士文化の強い関東は、腹開きは切腹を連想させるとして、背開きが定着したそうだ。ちなみに『腹を割って話す』商人文化の関西は、関東とは逆に腹開きが一般的だそうだぞ」

 しなやかな竹の竿は、爽がハンカチで磨くと、敏捷にその先を弾き、今にも飛沫が舞うような幻覚を私は抱いた。

 その時。

 丁度、チカセンが遅れて部活にやって来た。

誓子「でもほら、鰻のタレはどうするの?」

 どうやら、話を少し立ち聞いていたようだ。

 爽は誓子の居るドアに一瞬目を遣って、

爽「ん、タレなら自分で作れるからな。醤油とみりん、そして砂糖を加え、鰻の頭や骨と一緒に煮詰めればそこらへんの鰻屋に負けないくらい美味しい鰻のタレができるぞ」

 と言って、また竿を磨き続けた。

成香「爽ちゃんは鰻釣りの名人なんですね」

 成香がそう言うと、爽は調子に乗ってへへんと鼻を鳴らした。

 なんだか、それが無性に腹が立って、

揺杏「なんてことないな、爽も鰻と同じってことさ」

 と言う。

誓子「どういうこと?」

揺杏「鰻と同じで、穴を見れば入れたがるスケベってことさ」

 と言うと、成香や誓子は笑い出した。

 爽は、先輩に向ってスケベとはなんだと、巫山戯て私の首を締めてくる。

 私は、ギブギブと叫んで爽の腕を振り払おうとした。

 ったく……可愛い後輩のジョークぐらいでそんなにムキになるなよな。

 部室には、主に爽が中心になって作り出した朗らかなムードが漂った。

 由暉子は、さっきから顔を真っ赤にしてうつむいている。
 
 こういう話になると、案外成香の方が平気なようで、コロコロと笑ってくれる。

 由暉子は、あんなおもちをお持ちな癖してうぶなのか、何も言えなくなって、ただ瞳を伏せてしまう。

 それに気づいた爽は、うつむく由暉子をからかった。

 由暉子が、

由暉子「そ、そんなくだらない話より、部活です!」

 その小さな体で、大きな声を張り詰めると、頬を膨らませて麻雀を一人ジャラジャラと鳴らし始めた。

由暉子「特に爽先輩は、牌も触らずに釣り竿ばかり磨いている程ですし、さぞ余裕があるのでしょうね?この私にみっちり指導を御願いしますよ」

 なおも不機嫌そうに言放った。

 爽を名指ししたのは、先ほどからかわれた事を根に持ってのことだろう。

 爽は、うへぇといった顔をしながら、渋々由暉子が待ち構える卓へと向った。

 私と成香とチカセンも、ぷりぷりしたユキを宥めるように、卓へ着いた。

 部活後、私と成香は、滝までヒサに逢いに行った。

 その日も二日続けての快晴で、散歩にはもってこいの日和であった。

 滝にはやはり鯉が居た。

 やはり、何度も昇り続けている。

 昨日私達が帰った後も、滝へ挑戦したのか、また新しい傷がその身に湛えていた。

 それがなんとも痛々しく感じ私は、

揺杏「なあ?少し休んだらどうだ?」

 と声をかけた。

 気づかないのか、また滝へと昇り始めた。

 また、滝口から落ちて来た処を見計らい、

成香「ヒサさーん!来ましたよー!」

 と成香が声を張り上げると、ようやくヒサも気づいたようだった。

 ヒサは、その場で身をひるがえしてこちらを向いて、

ヒサ「あら?あなた達は――–ごめんなさいね、滝に昇るのに必死で、全然気づかなかったわ」

 と言った。

揺杏「いや、別に構わないけどさ…」

 と私は応えた。

 成香は、

成香「ご飯持って来ました」

 と言って、鞄から出したコッペパンをちぎって川へと投げた。

 水面に漂う二三片のパン屑を、ヒサは顔を出してぱくぱくと食べた。

ヒサ「ありがとう。助かるわ」 

成香「いえ、いいんですよ」

 いつものように成香に礼を言うと、すぐに滝の方へと戻って行った。

 私は新たに背ヒレが欠けているのを、見て取った。

 見る度に確実に傷が増えているのが判る。

 それほど――–。

 それほど早く、恋人に会いたいのだろうか。

 いや。

 自身の罪への悔恨の思いがそうさせているのか。

 いずれにせよ、私達の制止する声は、ヒサには届かないであろうことは、もう私と成香には痛いほどわかっていた――–。

 その思いの差が、鯉と人間との種族の違い以上に、私達とヒサとの間に大きな壁となって立ち塞がっているような気がした。

 会いたい人に会えないのは、寂しいもんな――–。

 と、私は何故か成香の横顔を見た。

成香「ヒサさん、滝昇れるといいですね…」

 成香の言葉に、

揺杏「あぁ…」
 
 と私は首肯いた。

 ――遠くで、野鳥の啼き声が、山々の樹木の間隙を縫うようにして木霊した。

 私は、ノスリの声だろかと思い、空を仰ぎ見た。

 凪いだ空には、春の雲がゆったりと、時が止ったように漂泊していただけだった。

今日はここまでです。


漫の蒲焼とか美味そうだな


なんだか不思議な話で引き込まれてしもた

 三

 その日は、まだ陽が沈まないうちにヒサと別れた。

 あまり時間をかけると、他のみんなに怪しまれることを恐れたのもあるし、私と成香が見ていることで、ヒサに妙なプレッシャーをかけることになることを心配したからだった。

 その次の日も、またその次の日もやっぱり二人で滝まで出掛けたのだった。

 雨が降ろうが、風が吹きすさぼうが、ヒサは滝へ昇るのを止めなかったし、私と成香もそんなヒサへ餌を持って来るのを一日も休まなかった。

 ヒサは、日に日にその傷を増やしていった。

 私と成香は当然、その事を気にかけていたのだが、これと言ってどうすれば良いのか思いつかない。

 捕獲して、治療してみれば良いのではないかと考えついたが、果たしてどうやって捕獲すればいいのか――–。

 ヒサに言ったって聞いては貰えないし、釣ると言ったって針で余計に傷つけるだけだ。

 爽に話して、手で捕まえてもらおうかとも考えたが、流石の爽でもあの鯉を捕まえるのは難しいし、第一滝壺を泳ぐのは危険だ。

 私と成香は考えあぐね、ただ傷つくヒサをただ見守るしか出来なかった。

 そんなある日――–。

 いつものように滝まで近づき、

成香「ヒサさーん!来ましたよ!」

 と成香が叫んだ。

 しかし、ヒサの声は返って来ない。

 私もたまらなくなり、

揺杏「おーい!ヒサー!」
 
 と叫んだがまったく梨の礫である。

 私と成香は、もしかしたらもう滝を登り切って、上流の泉に辿り着いたのかもしれないと思い、普段は行かない泉の方まで足を運んでみた。

 私は一度、爽に着いて泉まで行ったことがあるが、成香は行くのは初めてだった。

 山道は足場が酷く、悪所も悪所であったが、成香は脇目も振らず、黙々と進んで行った。

 やがて、泉に到着する。

 泉には中央に大きな岩と、その端に看板のようなものが立てかけてある。

 看板には、岩にまつわる伝承のようなものと、最後にこの山で鯉を取ってはならない云々の忠告文が記されていた。

 泉には、魚がうようよと居たが、ヒサの姿は無く、どれだけ呼びかけても、返事は返ってこなかった。

 やはり、ここにも居なかった。

 成香は、心配で泣き潰れそうな顔になっていた。

 そんな成香に私は、

揺杏「なぁ、今日はもう帰らないか?もしかしたら、自分の寝床で眠り耽ってるのかもしれないしさ。そうだったら、こんなに叫び続けて悪いだろ?」

 と声をかける。

 成香は、渋々了解したのか、小さく首肯いた。
 
 その次の日も、また次の日も、ヒサは現れることはなかった。

揺杏「どこ行ったんだろうな…」

 と私は言った。

 成香は、ただ俯向いていた。

 今日は--。

 天気予報でも、あまり良い天気ではないと言っていた為、私は正直早く帰りたかった。

 だから、

揺杏「もう帰ろう…」

 と成香に言った。

 すると成香は、滝の方を見詰めたまま、

成香「私は…もう少し捜してみる…」

 とだけ言った。

 成香にとって、ヒサはそんなに大切な鯉だったのか--。

 それでも、雨の中を成香ひとりで残らせる訳にはいかない。

 私は必死で川底を覗く成香に、

揺杏「なあ、もういいだろ?こんなに捜しても出てこないんだから、今日はもう居ないんだよ」

 と言った。

 成香はこちらを見詰め、

成香「で、でも…もしかしたら、困って動けないかもしれないし…」

 と悲しそうに言う。

揺杏「だからさ、こんなに探しても居ないんだから、もう無駄だって」

成香「無駄じゃない!」

 成香はますます依怙地になる。

揺杏「ヒサだって野生の鯉だろ?」

 なんだか、私は成香のその態度に苛々して、

揺杏「どっかの動物に…食べられたのかもしれないし…」

 と今まで、頭に浮んできてもそれだけは言うまいとしていた言葉を、つい口走ってしまった。

 ――その瞬間。

 成香は泣いてしまった。

 私は、しまった――と思った。

 わんわんと泣く成香の姿を見て、私はどうして良いか判らず、さっきからおろおろとしっぱなしであった。

 成香は、睫から大粒の涙を流している。

 そうして、

成香「チカちゃん…」

 と誓子の名前を呟いた。

 誓子か――。

 こんな時でも、やっぱり誓子かよ。

 私がそばに居るのに、私しか成香との秘密は知らないのに――それでも、成香が呼ぶのは、やっぱり誓子だった。

 なんだかそれが、たまらなく悔しかった。

 悔しくて、

揺杏「そうかい。だったら誓子と二人で探せばいいだろ!私はもう帰るから!」

 と、つい成香に辛く当ってしまった。

 私はそのまま、泣きじゃくる成香を背に、一人ずかずかと林道を引き返した。

 森の出口に着く頃には、ぽつりぽつりと小雨が降り出していた。

 その雨糸が、鼻先を撫でたので、なおさら苛々してきた。

 そして、私は傘を持って来ていない事を思い出し、近くのコンビニに寄って傘を二本、買って行くことにした。

 二本買ったのは、しばらくすれば成香が森から泣きながら出て来るだろうと思ったからだ。

 さすがに、そのまま成香を置いて一人で帰れば、激怒した誓子に殺されるだろう――。

 それは怖い。

 それはとても恐ろしい。

 昔、一度だけ誓子を怒らせたことがある。

 あれは、小さい頃、爽から貰ったというマグカップを誤って落とした時のことかな――いや、成香の右目を無理矢理見ようとした時だったかもしれない。

 いや、一度だけじゃなかったかもしれない……。

 とにかく、ぶち切れたチカセンは、イエス・キリストも裸足で湖を駈け逃げる程、怖かった。

 戻って来たら、成香に謝らなきゃなぁ……。

 と、そんなことを考えている間に、雨足は小雨から滝のような本降りの雨になってきた。

 まるで海と空をひっくり返したような、大雨だ。
 
 それでも、成香は戻ってはこない。

 こちらへ帰って来るには、この出口しか無い筈である。

 まさか、成香は一人で上流まで見に行ったんじゃないだろうな。 

 やばいな。

 あそこまでは、なかなかの険路であり、かつ、山路を分けるいくつかの岐路がある。

 一つ間違えればとんでもない処に出ることとなる。

 私は、爽に連れられた時に、覚えたが一度行ったきりの成香一人では道に迷うこととなるだろう。

 うっかり深い場所へ入れば、野生の熊なんかも出るかもしれない。

 そうしたら――。

 ああ、もう――。

 しょうがない奴だな、成香は。

 私は居ても立っても居られなくなり、傘を二本持ったまま、森の中へと駈け出した。

 道はすっかり泥濘んでおり、駈ける度、泥がぴちゃぴちゃと跳ね、靴の中が泥だらけになった。

 気持悪くはあったが、今は成香の事が気がかりで、そんなことを気にする余裕はなかった。

 滝までは、そんなにかからずに着けた。

 やっぱり、居ない。

 泉まで行ってみるか。

 少し行ったところでふと、足下を見てみた。

 足跡だ、雨で路が泥濘んだ為、成香の足跡が出来ている、これはしめたぞ……。

 私は足跡を辿ってみることにした、案の定、泉とは違う路を通っている。

「おーい!成香!」

 と私は掛け声をあげてみた。

 返事はない。

 もう少し、遠くへ行ったようだ。

 傘を差してはいたが、それでも足下から肩まで、びっしょりと濡れていた。

 山の雨は、その身に冷たい、成香も今頃びっしょりと濡れて寒さに震えているだろう。

今日はここまでです。

乙!

どうなる

 雨はますます激しく降る。

 道端の足跡もかき消すほどの大雨と暴風である。

 あの馬鹿、早く見付けないと。

 足も棒のようになってきた、普段の倍以上は歩いているから、もうへとへとだ。

揺杏「成香ー!返事しろ!」

 暫く行くと、山路の向こうに小さな影が見えた。

 成香だ。

成香「あ、揺杏ちゃん!」

 成香がこちらを振向き返事をした。

 散々泣きはらしたであろう顔は、雨に濡れてぐしゃぐしゃになっていた。

揺杏「馬鹿!」

成香「ごめんなさい…」

 と私が言うと成香は泣きそうになって俯いた。

揺杏「でもよ…」

成香「揺杏ちゃん?」

 言わなければならないのに、言葉は喉元をつっかえたように、なかなか出て来なかった。

 成香は、泣きそうな目で私を見つめ、首をかしげた。

 ええい、ままよ。

 私は意を決して、その言葉を吐き出した。

揺杏「さっきは、悪かったな…あんなこと言って」

 成香は、それを聞くとやっと笑顔を取り戻した。

成香「ううん、私こそごめんね。勝手にこんなところまで来ちゃって」

 あんなに暗雲が立ち籠めていた心の中が、すっと晴朗になった気がした。

 こんな天気だと言うのに、見るものすべてが清彩を放っている。

 クソ、我ながら臭いな。

 でも悪くない――。

 と私は思った。

 ほう、青春だね。
 
 と私の中の小さな爽がはやし立てる、私はそれにうるせぇ、と心の中でつぶやいた。

揺杏「そうだ、さっさと帰るぞ」

 と私は成香の手を引いた。

 自分でも驚くほど、自然に成香の手を握っていて、気付けば少しドキドキしていた。

 クソ、馴れないことするから何だか変な気分になってきたじゃないか。

 私は照れ臭さを隠すため、つっけんどんな態度で来た道をずかずかと戻って行く。

 来た事がない道だが、足跡を逆に辿ればきっと戻れるはず……。

 あれ?

 ここはどこだ?

 成香が、心配そうに顔をのぞいた。

 足跡は……雨にかき消されている。

 げっろ……。

 やっべ、道に迷った――。

成香「揺杏ちゃん?どうしたんですか?」

揺杏「どうしようここどこだっけ?」

 成香の問いかけに、私は情けない声で答えた。

 歩けども歩けども、見た事のないような場所に出て来る。

 成香は、また悲しそうな顔になり、

成香「ごめんなさい……私がわがまま言ったばっかりに……」

 と言った。

揺杏「ああ、もう……仕方ないだろ。泣くなよ……」

 とは言ったが、私も大分心細くなり少し泣きたくなって来た。

 ああ、神様仏様誓子様――。

 もう、爽と一緒にムカつく教師に悪戯なんかしません、麻雀卓の上でジンギスカンも焼きません、ユキにセクハラもしません――だから助けてください。

 と私の頭の中は、礼拝の時にも祈らなかった神様への祈りの気持で一杯であった。

 しばらく歩くと、大きな分かれ道に行き当たった。

 やはりこんな場所、見覚えがないぞ……。

 成香にも聞いてみたが、やはり覚えはない場所らしい。

揺杏「どっちが正解の道なんだ?」

成香「うぅ……ごめんなさい。私にもわかりません」

 私は、両方の道を見比べてみる。

 よく見ると、右側の道の傍には、道祖神だか石仏のようなものと、石で出来た小さな家のようなものが並べられていた。

 明らかに人の手の入ったものだろう。

 ならば、右側には人の居る場所へ行き当たる可能性があるぞ。

 私の心は、道端の石像に励まされ、少しだけ希望が持てるような気がした。

 私と成香は、考え至った結果、右の道へ進むことにした。

 威厳的なのかそうではないのか、全く判らない石像の神々に見送られ、山道に歩を進める。

 しかし、暫く行ったが、

成香「ここ、どこなんですかね?」

 行けども行けども、人の影なんて全く見えて来ない。

揺杏「え?さぁ…」

 それどころか、もっと深い場所に来てしまったような気がする。

 山道はますます険しくなり、深い叢や樹木のむれには、人の姿どころか影さえ感じさせない。

成香「引き返しましょう」

揺杏「あぁ…」

 しょうがない、これ以上行っても余計に迷うだけだと、私と成香はさっきの岐路まで引き返すことにした。

 しかし。

 来た道を戻れども、段々と山は深くなる。

 全然見覚えのない場所へ行き当たる。

 道端にあった石像も、どこにも見当たらない。

 そんな。

 そんな訳はない、ここから分かれ道まで、一本道の筈だった。

 横道なんて、どこにもなかったはずだ、なのに、まるで狐につままれたかのように、山路をぐるぐる廻っているような気がする。

揺杏「どうしよう、どうしよう……」

 さっきから、私は同じ言葉ばかり口走っている。

 歩けば歩くほど、判らない。

 不安になって、泣きたくなる。

 どうしよう……。

成香「揺杏ちゃん…?」

 そんな不安気な様子を、成香に見つめられ、

揺杏「どうしよう…ごめんな、成香…」

 と言った瞬間、塞き止めていたものが決壊したかのように、涙があふれて来た。

 成香のことも気にせず、大声をあげて泣いてしまった。

揺杏「どこだよここ」

成香「揺杏ちゃん、落ち着いて…」

 すぐそばで成香が宥めてくれるのが、すこし暖かかった。

 暖かくて余計に、涙が出て来た。

成香「少し休もう?」

 と成香が提案してきた。

 私は、何も言えずに云と頷くだけだった。

 雨と風は、止む気配を見せなかった。

 それどころか、どんどん強くなってくる。

 まるで山全体が怒っているようだ。

 辺りもすっかり陽が落ちて来た、どうしよう、帰れなくなる。

 それに、もしかしたら熊に行き逢うかもしれない。

 一応、ここら辺で熊を見たという話は聞いてはいない。

 だが、まったく居ないとも聞いた事がない。

 そうだ、熊だ。

 襲って来たらどうしよう。

 そう思うと、叢の僅かな揺れにも、恐ろしい熊の影の痕跡を幻視せずにはいられなかった。

今日はここまでにします


小さな爽を想像したら可愛かった

続きまってた!乙

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