万里花を愛でるニセコイSS「モウドク」 (18)

「いやー、大漁大漁」
最近始めたばかりの趣味の釣りだったが、思いがけない釣果に一条楽は満足そうな声を上げた。

「しかしこんなところでフグなんて釣れるもんなんだな」
釣った魚を納めたクーラーボックスには、タイやアジなどの魚の他に、大きなフグが三匹ほど収まっていた。
通常フグといえば釣り人からは忌避されることが多いが、楽が釣り上げたのはフグ料理屋などで供される高級魚のトラフグだった。

「小さいクサフグなんかだったら逃がしてやるとこだけど……」
この大きさのトラフグ、買えばいくらになることか。
得意としている料理の腕が鳴る、と言いたいところだったが、しかし素人が猛毒を持つフグを調理するわけにはいかない。
どこかの料亭に持ち込もうかと考えていた時、楽はふとあることを思い出した。

「そういえば、橘のやつ、フグ調理師の免許持ってるって言ってたっけ」

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「まあ、立派なトラフグですわね!」
一条家の厨房にドンと置かれたクーラーボックスの中身を見て、橘万里花は両手をパチンと合わせながら嬉しそうな声を上げた

「どうだ、捌けそうか?」
「もちろんですわ」

そう言うと万里花は懐からフグ調理師の免許証を取り出してドヤ顔をしてみせる。
いつもであれば的外れであることも多いその顔も、今度ばかりはまさにその価値があった。

フグ調理師の免許は都道府県ごとに発行されるため、取得する条件こそまちまちだが、調理師免許を持っていることやフグ料理店での数年単位の実務経験を必要とするなど、その難易度は非常に高い。
まだ高校生である万里花がどのようにしてその免許の交付を受けたかは謎だったが、聞いてもさらなるドヤ顔が返ってくるだけな気がしたので楽はそれ以上は掘り下げないことにしていた。

「これだけあれば、お刺身と鍋にしてもたっぷり10人分は取れそうですわ。楽様にもきっとご満足いただけるであろう、フグのフルコースをこしらえることにしましょうか」
「あー、それがな、橘。実は……」

実は釣りをしていた港からの帰り道、楽はケーキバイキング帰りだという桐崎千棘と小野寺小咲に偶然出会い、事の成り行きをすっかり話してしまっていた。
降って湧いたトラフグという高級食材は乙女の胃袋にとっては別腹に入るものに分類されるらしく、いつものメンバーをかき集めてのフグパーティーの開催が即断即決される運びとなった。

「……というわけで、多分10人ぐらい集まるんじゃないかな」
「むー、楽様と二人きり、というわけではないのですか。それは少し残念ですけれど、でも調理の間は楽様と二人の共同作業になるわけですし、よしとしましょう!」

今回だけはくれぐれも千棘、小咲を厨房に近付けないこと、という万里花の厳命を、言われるまでもなく楽も死守するつもりだった。
何の変哲もない食材を劇物に変貌させる魔法のような料理の腕を持つあの二人が、ただでさえ猛毒を抱えるフグの調理に関わろうものなら一体どんな生物兵器がこの世に誕生してしまうか想像もつかない。

「それに、せっかく楽様が釣り上げた獲物ですもの。二人の初めての共同作業ということで、とびきり美味しく仕上げましょうね」

にっこりと向けられた万里花の笑顔はとても眩しくて。
楽は照れながら「おう」と返すと、ちょっとだけ目を隠すように三角巾を締め直した。


「では楽様はそちらのお野菜を切ってくださいますか?」
「おう。こっちの出汁はどうする?」
「それは少し置いて粗熱をとりましょう。私はこちらのフグを捌いてしまいますので……」

来客も揃い、楽の部屋からはワイワイと賑やかな声が聞こえる中、万里花の仕切りで調理は着々と進んでいた。
普段から自分でも料理をするだけに、万里花の手際とその迷いのない調理の流れには舌を巻く思いだった。

楽や鶇もたいがいの料理上手ではあるが、万里花のそれはもはやプロの域に達している。
特別意識をすることもなく食材を最もよいタイミングで、もっともよい状態に仕上げていく。
万里花のテキパキとした指示は隣で包丁を振るう楽の動きすら全て見計らっているかのようで、まるで二人が渾然一体となりながら一つの料理を作り上げているような、そんな不思議な感覚を楽は味わっていた。

誰かと一緒に料理を作ることがこんなに楽しいなんて。いつだったか小咲と一緒に温泉宿で厨房の手伝いをしたときはまた違う、グイグイと強く遥かな高みへと引っ張り上げられていくような高翌揚感。
頬を紅潮させながら、さらに素早く包丁を振るい始めた楽の横顔をこっそりと横目で盗み見て、万里花も微笑みを浮かべていた。


「ダーリンおかわり!」
「だーっ、お前食い過ぎだろ!」

「一条楽、なにやらフグ料理の中にはヒレ酒、というものがあるそうだが……」
「お前たちには絶対飲ません!」

「一条くん、あの、私も何か手伝った方が……」
「い、いいからいいから! 小野寺は今日ゲストなんだから気とか遣わなくてホントに大丈夫だから!」

そんなやりとりを繰り返しながら、次々とテーブルに運ばれては消えていくフグ料理。

透き通った身が大輪の華のように美しく盛りつけられた刺身から、フグの身をカラッと揚げた唐翌揚げ、皮を湯引きにしてポン酢で和えたものや白子の天ぷら、季節の野菜と一緒に煮込んだてっちりと呼ばれる鍋に、特製の出汁でフグの身とご飯をふっくら炊き上げたフグ飯まで。

誰もがその一品一品に舌鼓を打ちながら、あれもこれもと箸を迷わせる。
そんな思いつく限りのフグ料理のフルコースが終わる頃には、集まった面々はすっかり腹がくちくなっていた。
一人、また一人と、まるで膨らんだフグのように、満腹のお腹を抱えてゴロゴロと横になっていく。

どうにか料理を仕上げて提供し終わった楽は、端から端まで平らげられてすっかり空になったテーブルの上の皿を見てほっと安堵の息をもらしていた。
さすがに万里花と二人でこの人数分の料理を仕上げていくのは大変だったけれど、どうやら皆には満足してもらえたようだ。

また今度、魚がいっぱい釣れたらこんな風に皆に振る舞うのも悪くはない。
そんなことを考えかけた時、楽はふと重大なことに気がついた。
自分と万里花の分の料理が、どこにも残っていなかった。


自分はともかく、万里花に申し訳が立たない。
わざわざ手伝いにきてくれて、あんなに働いてくれたのに。まさかあの量を全部食べ尽くされてしまうとは。
千棘や宮本るりの胃袋の容量を甘く見ていたことを反省しながら、楽は重い足取りで厨房へと引き返していた。万里花に何と切り出したものか。

考え込んだまま楽が厨房の暖簾をくぐると、万里花が金属製の容器に何かを詰め込んで蓋をしていた。

「橘、何やってんだ?」

声をかけられて初めて楽に気付いた万里花が振り返る。

「フグの毒のある部位の処分ですわ。飲食店でフグを取り扱う場合、調理後に残された毒がある部位はこうして厳重に保管しておいてから、キチンと決められた手順に従って処分をしないといけないのです」
まあ、今回は業務ではないので厳密なものではありませんが、万が一のことがあっては大変ですから、と続ける万里花。

軽い気持ちで頼み事をしてしまったことを、楽は少し後悔した。
自分が能天気に料理に没頭して達成感に浸っている間にも、万里花はこんなにも気を遣ってくれていたなんて。
その上、せっかく作った料理はもう残っていないのだ。

「あのさ……橘」
「はい、なんでしょう?」
「実はその……作った料理、みんなあいつらが平らげちまったみてえで……俺たちの分、残ってないんだ。ホントにスマン、こんなに一生懸命手伝ってくれたってのに……」

頭を下げる楽をキョトンとした様子で見つめていた万里花だったが、ふと何かに気付いたように、パチンと両手を合わせた。
「それなら大丈夫です。そんなこともあろうかと……」

そう言うと、厨房の片隅から万里花はいくつかのお皿を持ってきた。その上に並んでいるのは、食べ尽くされたはずの料理。

「こうして、楽様の分をキチンと取り分けておきました。お鍋の具材も残してありますから、今から温め直しますね」
ニコニコ笑いながら鍋を火にかけ直す万里花を見て、敵わないなと楽も苦笑を浮かべる。

「橘はホントすげえよな。料理の腕も手際もいいし、こうやってちょっとした気遣いも忘れてねえ。俺も料理や家事は得意なつもりだったけど及びもつかねえよ」
「あら、このぐらいのこと、楽様の許嫁としては当然のことですわ」

お皿に掛けられたラップを外しながら、こともなげに万里花が応える。

「いや、でもそれにしたって、フグみたいな猛毒を持った魚の調理師免許まで取るなんて……」
「ふふ、そんなことありません。フグの毒なんて、たかが知れてますもの」

温め直されたてっちりの小鍋からは、フグのアラから取った出汁の良い香りと湯気が立ち上っている。
ずらりと目の前に並べられた料理の数々。自分も手伝っていたとは言え、あらためて見ると壮観だった。

「たかが知れてるって……フグの毒って、確か食べると死んだりするんだろ?」
「テトロドトキシン、と言いまして、致死量わずか2ミリグラム。摂取すると痺れや目眩が出て、神経が麻痺して呼吸器系の障害が出るのです」
「く、詳しいな」
「フグ調理師の試験には学科試験もありますので」

興味のあることにしかそのエネルギーが向かないだけで、万里花は実際は頭も要領も非常によい。
そのフグの試験も気合いと努力で乗り切ったのだろう。

実際、最近は学力もメキメキと伸びているのだとか。その理由が自分と同じ大学に行くため、というのだから、楽としては呆れながらも頬を染めずにはいられなかった。

「それでも、私からすればフグ毒なんて恐るるに足りませんわ」
だって、と万里花は続ける。

「私はもっともっと、恐ろしい猛毒に冒されているのですから」


「も、猛毒!?」
南の島で見た、万里花が倒れ臥している姿が楽の脳裏をよぎる。
そんな心配を読み取ってか、万里花はニコリと笑みを浮かべながら言う。

「ええ、楽様の……愛、という名の猛毒ですわ」

その言葉に楽はガクリと脱力する。
ホントにもう、コイツは時々こういう冗談を言う。
妙なことを言うもんじゃないと一言言ってやろうと顔を上げると、万里花はじっと、真剣な表情で楽を見つめていた。

「た、橘……?」
「冗談ではありません。愛というのは、この世のどんな毒物よりも、強く、激しく、でもそれでいて甘美な猛毒……」

まるで万里花の視線に絡めとられたかのように、楽は身動きができなくなっていた。

「一度それを知ってしまえば、もう二度と元に戻ることはできません。愛する人のためならば、どんなことだってできる。愛する人のためにこそ、生きる意味がある。胸は焦がれ、その身は震え、その愛を失うようなことになれば、きっと呼吸をすることだってできなくなってしまう……」

少しだけ芝居がかかった様子に照れたのか、くすりと笑う万里花。

「……なんて、そんな風になってしまうものなのですわ。それにフグの毒もそうですけれど、愛にも特効薬はありませんから」

ですから、と呟いて。

「こうして楽様と一緒に過ごして、少しでも楽様分を補給しませんと、ね?」

ぎゅっと楽に抱きついてくる万里花。

結局のところ冗談めかして茶化されたようで、楽はただ照れるばかりでロクに反応もできない。
何しろ自分は愛どころか、恋のことさえさっぱり理解できていないのだから。

「楽様は楽様のペースでよろしいのです」

抱きついたまま、まるで楽の心を見透かしたように万里花が言う。

「私はたまたま、昔に楽様からいろいろなものをいただいて、それからずっと、一人で考え続ける時間が長かっただけですから。楽様もきっと、そのうち愛を知って、その毒が身体中に回る時が来るはずですわ」

もちろんそれは私の愛に決まってますけれど、と付け加えると、万里花は抱きついていた身体を離して楽に向き直る。

「そんなことより、ささ、楽様。また冷めてしまわないうちにいただきましょう」
湯気を上げながら、ごちそうたちが食べられる時を今か今かと待ち構えていた。

鍋も、フグ飯も、天ぷらも、その味はまさしく絶品だった。
これは自分たちの分を残さず平らげられても仕方がないと、楽も納得せざるを得ない。

向かいでは幸せそうな表情で、万里花をぱくぱくと料理を口に放り込んでいる。
九州の一部やフグの本場下関では、縁起をかついでフグのことを「ふく」という、と料理をしている最中に万里花が教えてくれたけれど、まさしく食べた人に福を運んでくる幸福の魚に違いなかった。

この一杯を平らげたらおかわりしよう、と思いながらご飯をかき込む楽を、そっと下から万里花が覗き込む。

もっと自信を持っても良さそうなのに、ちょっとだけ照れくさそうにしながら楽に尋ねる。

「らっくん……おいしかと?」
「う、美味いに決まってるだろ……」
「ふふ、よかった」

その様子があまりにも可愛くて、楽は自分の心臓の鼓動が早まるのを感じていた。


そっけない自分の反応にも本当に嬉しそうに笑う万里花の笑顔を見ていると、頬が火照り、胸がドキドキする。
まるで全身が痺れたようで、呼吸が苦しくなって――。


これはもしてかしてフグの毒なのだろうか?


いや、違う。

きっとこれが――。


愛の猛毒……なのかもしれない。


息を詰まらせて顔を赤くしながら、ほんの少しだけ愛の味が分かった気がした楽の目の前で、万里花は幸せそうに微笑んでいた。


おしまい

本誌に合わせてたまにはマリーのターン!

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