女「ネガティブだったりします」(36)
男「こんにちは」
女「こんにちは」
男「あの、なんで後ろ向きで歩いているのですか?」
女「わかりません」
男「そうですか」
女「はい」
男「びっくりしましたよ」
女「すいません」
男「構いません」
女「お優しいんですね」
男「こちらを見て言ってください」
女「こちらとはどちらでしょうか」
男「あなたの前にいます」
女「すいません、後ろ向きなので」
男「では、声がする方です」
女「こっちでしょうか」
男「そっちは後ろです」
女「すいません、後ろ向きなので」
男「僕は左にいます」
女「こっちですね」
男「すいません、僕から見て左です」
女「だからこっちでしょう?」
男「いいえ、後ろ向きなあなたから見ても左です」
女「左というと、お茶碗を持つ方ですね」
男「左手がついている方です」
女「わかりやすいです。こっちですね」
男「そっちは後ろです」
女「なんと」
男「あなたの左手はどこについているんですか」
女「すいません、後ろ向きなもので」
男「元気を出してください」
女「がんばります」
男「僕もがんばります」
女「もっとわかりやすく言ってもらえませんか」
男「そうですね、方角は北です」
女「北というと、東を向いたときの左側ですね」
男「そうともいいます」
女「わかりやすいです。こっちですね?」
男「そっちは下です」
女「なんと」
男「あなたは方向オンチですね」
女「本当にそうでしょうか?」
男「間違いありません」
女「考えてみてください」
男「はい」
女「私の顔が向いている方向が、私にとっての前ではないでしょうか」
男「いえ、そっちは下です」
女「なるほど。下は前ではありませんね」
男「いい加減顔を上げてください」
女「はい。するとそこにはあなたの顔が」
男「そっちは上です」
女「空がとても綺麗です」
男「ええ。空はいいものです」
女「しかし、あなたの姿は見えません」
男「それはそうでしょう。僕はこっちです」
女「今、心が通じ合いました。こっちですね?」
男「そっちは後ろです」
女「ですよね」
男「期待した僕がバカでした」
女「すいません。後ろ向きなもので」
男「前を向きたくないのですか?」
女「向きたいです」
男「ならばがんばりましょう」
女「がんばれば向けるでしょうか」
男「向けます。僕も剥けましたから」
女「それは心強いです」
男「あ、はい。そうですか」
女「さて、どうしたら向けるでしょうか」
男「いったん整理しましょう」
女「名案です」
男「今あなたは僕の前にいます」
女「ふむふむ」
男「しかしあなたは後ろを向いているのです」
女「なんと、それは失礼ですね」
男「でしょう? つまり、あなたの後ろに僕がいるんですよ」
女「だったら話は簡単です」
男「気づきましたか?」
女「ええ。私が今後ろを向けば、そっちが前です」
男「そのとおりです。聡明ですね」
女「ありがとうございます。では、せーので向きますね」
男「はい」
女「せーの」
男「感動のご対面のはずです」
女「しかし、あなたはいません」
男「何故ならそっちは後ろだからです」
女「私は生粋の後ろ向きなんでしょうね」
男「恐ろしいことに気づきました」
女「おや、なんでしょう」
男「実は、僕があなたの前から移動しているんではないのでしょうか」
女「そんなことをしているのですか?」
男「いえ、していませんが」
女「じゃあ違うじゃないですか」
男「あ、はい。そうですね」
女「つまらないことを言わないでください」
男「ごめんなさい」
女「む、頭の中の電球が光りました」
男「おや、なんでしょうか」
女「あなたが私を振り向かせればいいのではないのでしょうか?」
男「ずっとやっていますよ」
女「そうなのですか?」
男「ええ。でもあなたは頑なにこちらを向きません」
女「すいません、後ろ向きなので」
男「あなたは前を向きたいんですか?」
女「そうですね。向きたいです」
男「ならば向けばいいじゃないですか」
女「しかし前がどっちかわからないのです」
男「さっき、あなたが後ろ向きに進んでいた方向」
女「ええ、はい」
男「あれが前なのですよ」
女「なんと、私は前に進んでいたのですか」
男「はい。いくら後ろを向いていても、体は止まってくれないのです」
女「むむ、不思議です。それはなぜですか?」
男「僕もわかりません。でも、生きているからではないでしょうか」
女「ふむふむ」
男「今こうしている間にも、どんどん進んでいますよ」
女「言われてみれば、ムーンウォーク」
男「かっこいいです」
女「えへへ、照れます」
男「お世辞です」
女「ショックです。ますます後ろを向いてしまいます」
男「マイケルです」
女「ジャクソンですか?」
男「ジョーダンです」
女「そうでしたか。少し前を向ける気がしました」
男「その調子です」
女「聞いていいですか?」
男「はい」
女「なぜあなたはあそこにいたのでしょうか」
男「と、言うと?」
女「さっき言いました。人は進むものなんでしょう?」
男「僕の持論です」
女「あなたは、私を待っていてくれたのですか?」
男「人は立ち止まれないのですよ?」
女「でも、歩みを遅くすることはできると思うのです」
男「そうですね」
女「いつもそうやって、私のそばまで来てくれていたのですね」
男「やっと気づきましたか」
女「すいません。後ろ向きなもので」
男「上を向いたとき」
女「はい」
男「空は青くて綺麗だったでしょう?」
女「はい。すごく澄んでいました」
男「下を向いたとき、あなたの足が動いているのが見えたでしょう?」
女「そういえば、二本の美しい足が動いていました」
男「それ、あなたのですよ」
女「なんと」
男「後ろを向いているだけでは、見えない物も多いのです」
女「私は美脚だったのですね」
男「それはどうでもいいです」
女「またまた」
男「足だけ綺麗でも意味ないです」
女「そうですよね。私意味ないですよね」
男「失言でした」
女「すいません、後ろ向きなもので」
男「もうそれ、やめませんか?」
女「そうですね。でも、たまにはいいでしょう?」
男「たまになら、いいですよ」
女「ありがとうございます」
男「いいえ」
女「最後に一つだけ、いいでしょうか」
男「なんでしょうか?」
女「私が向かう先に、私の前に、あなたはいてくれますか?」
男「ずっといましたよ。あなたが無視していただけで」
女「これからも、いてくれるんですか?」
男「ええ、もちろんです」
女「ならば、せーので振り向きます」
男「期待します」
女「……せーの――」
――コンッ、コン
女(ノックの音が聞こえた)
女(いつもなら不快にしか感じないその音が、今日はとても優しく響いた気がしたから)
女(私はゆっくりと、ドアを開けた)
男「――久しぶり」
女「……おかしいね」
男「うん?」
女「……家の中なのに、こんなに眩しいなんて」
男「外はもっと明るいよ。空は澄み渡っているし、地面も力強い」
女「……うん」
男「さあ、行こう」
女(――私、これからは少しポジティブになれそうです)
おわり
読んでくれた人乙
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