なんだか、夏場だというのにひどく寒く感じた。けれども、窓を閉める気にもならない
鎮痛剤で動かない頭を引きずりながら手帳にペンで書きつける。
それでも、腕を動かすたびに身体に走る痛覚の電流は、字に不自然なハネをつけた。
昨日鎮守府付近で検出された電磁波は、微弱ながらも独特な波長を持っており、
艦娘の特定の人物に対する感情を極端に悪化させ、暴力行為さえを許容させる。二種類の波長、範囲の狭い波と広い波が存在し、
前者を浴びたものを後者でコントロールする。(当鎮守府はすべての艦娘が前者を浴びた)
初期症状は対象者にのみ見分けがつく。散見された際には、提督は距離をとって速やかに報告するように――
発生源、発生源。潜水艦と目されているが、潰したところで元に戻るのだろうか?
……現在、この国の防衛システムは殆ど艦娘に依存している。それが、こんなにも簡単に。
本来ならあってはならない鎮守府で被害が発生したことは、思いの外幸運だったのかもしれない。
少し、書き続けるのが、つらくなってきた。ベットに体重を預け身を崩す。
兎にも角にも、早く対抗手段が生み出されることを祈るしかない。優秀であるらしいから、さっさと成果はでるだろう。
そうでなければ、この国は艦娘に対する信頼を失っていく。此処まで容易い兵器だったのかと、そう思ったのなら……
これ以上は今考えることではない。現在最も重要な課題は、解除時のこの鎮守府の艦娘の精神的回復だ。
どうにか、しなければ、回転数の減った頭を必死でまわしていると、ふと、分厚かった扉が半開きになっている。
開いている窓に向かって流れている風に今気がついた。隙間から覗かれる広がっていく闇の中に見覚えのある姿を捉える。
初期からいる艦娘の姿。感情表現は不得手だったが、ぶっきらぼうな中にも優しさが感じ取れる者だった。
酷く信頼していたように思う女性の一人だ。そこに立っていた。見たこともないような笑顔を浮かべて。
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月明かりは差し込まない。ただ、ライトの光が下からその端正な顔を照らし出している。
色も形も普段と何ら変わりはない。ただ表情だけがある種の残酷さだけを湛えて微笑む。
何がそんなにうれしいのだろうか。聞いてみても返答はなく、静けさを保ったままで傍らにまで歩いてくる。
「……提督、私、感情表現が、上手ではありません」
でも、今は、嬉しくてたまらないわ。言いながら、左手がこちらの首に向かって伸びてきた。
鎮静剤と痛みで、抵抗することもままならないなかで、たどり着いた腕は、徐々に力をかけて。
血液の流れが滞り始め、気道が閉鎖され始めた。頭の中で行き場を失ったものがぐるぐると渦巻き始める。
「がまんできないの、こんなものが、この世に存在すること自体が」
中身の入っていない左袖に代わって、のろのろと右腕で、首の縛めを解こうとした。
しかし、容易にやってきた右手に阻止され、そのままその滑らかな指がこちらの指に絡んだ。
だから、自分で消すのよ。あまり、というよりまったく触りたくはないのだけれど。
緩慢な抵抗を無視して、弓道のように艦載機を飛ばしてきたその手は、軽々と一番短い指をへし折った。
小指から上がって来る灼熱の感覚が、喉に伝わって飛び出そうだった。堰き止められていなければ、叫び声が出たに違いない。
濡れた擦れるような音が、喉からわずかに出る。それを見て、その美しい容貌に浮かぶ笑みを加賀は、一瞬だけ歪ませた。
「醜いわね」
橙色の朝日、総員起こしの少し前である。太陽の昇る東の空を見ると雲一つなく、
今日も晴天になりそうだった。西は見なかったのだけれども。
身支度を整えて、遠征に出ていた部下たちを迎えに行く。白い軍服には皺はよってなさそうだった。
人気もなかったので気を遣わず階段を降りる。軽く音はなるが、誰にも聞きとがめられないだろう。
そのまま調子に乗って一階まで下りていく。踊り場に差し掛かったところで、白いスカートが見えた。
降りてくる音を聞きつけたのか、二本の三つ編みがぴょこぴょこ振り返る。
「おはよう。磯波」
後ろでくくったのが吹雪、ふたくくりが白雪、長い三つ編みが磯波だ。この辺は後姿がどうにも似ている。
前に一度間違えて、怒りながらぽこぽこ怒りながら抗議された。何度も間違えると泣き出してしまうかもしれない。
挨拶を受けた磯波は、しかし、酷く軽蔑するようににらみつけると、そのまま振り返って足早に去っていく。
こちらは、思いもよらない事態に思考が一瞬停止してしまう。あの、大人しい磯波が……何かあったのだろうか?
声を出すまえに、たれ目の少女は曲がり角を曲がって、こちらの視界から姿を消していた。
一人残されたこちらの、届かないだろう理由を問う間抜けな声が、早朝の廊下にむなしく響く。
「どうかしたか、磯波ー」
トイレの鏡で自分の姿を確認する。別に染みもついていないし、値段シールがついていることもない。
朝から出会う駆逐艦たちは、怯えるか睨むかすると、遠巻きになってそのまま逃げてしまう。
何かあったのだろうか。心当たりはほとんどないが、気に障るようなことでもしてしまったのか。
肩を落としながら化粧室から出ると、今度は一つくくった吹雪が見えた。
逃げられない距離にまで近づいて、問いただして見ようか。そろそろと足音を立てずに近づいた。
寄ってみた吹雪は、機嫌がよさそうに鼻歌まで歌っている。これなら話ができるかもしれない。
過剰かもしれないが肩に手を置いて、話しかけた瞬間――
「――ッ!」
すぐに振り向いた吹雪は、素早くその手を振り下ろし、こちらの手を思いっきり払いのけた。
そしてこちらを見上げると、汚らわしくて仕方がないといった表情で、鋭い目線を向けてくる。
さもあれば、なにも言うことができないでいるこちらに、胸底から出したような低い声で詰り始めた。
「気持ち悪い……見るだけでもそうなのに、まさか触るなんて……」
そう言って自らの肩を見て泣きそうな顔をする。取れそうもない汚れを押し付けられたかのように。
気持ち悪い、気持ち悪い、何でこんな人が……、皆も、あなたのせいで、気分を悪くしてるんですよ。
まとめると、そういうようなことを言った吹雪は、やがて、静かに頭を下げて。
「お願いですから、いなくなってください。もう、耐えられません」
言い切って泣きそうな顔でこちらを睨む。それから仲のいい駆逐達がこぞってこちらに来て、
こちらに殺意すら混ざった視線を向けつつ、しゃっくり上げる吹雪と一緒に去って行く。
その姿を見送りながらも、しかし、その場にぼんやりと突っ立っていることしかできなかった。
幾らの精神的動揺があったとしても、それでも執務はとらねばならない。
入った執務室はいつもと変わらず、左側から日光が差し込んでいる。鏡の世界に来たわけでもなさそうだ。
ならば、あまり考えたくもないことだが、今までの対応は不快ながらも上官であるからで、
表面の裏に貯めてきた不安がついに爆発した。……そこまでの演技ができるとは思えないな。
本日やらねばならない書類を待つ。なかなか来ないので、ネガティブな考えに頭を支配され始めた。
それこそ取り返しのつかないことをしたならば、注意してくれるような性格の娘はいっぱいにいる。
ならば、……解明されていない何らかの艦娘的特質が、外部的要因によって――
根拠なき推論ばかりが頭を巡り続けた。やがて、いくら待っても来ないので、本日の秘書艦のところを当たる。
けれども、聞く相手聞く相手、とりあわず蔑むか、気色が悪いと泣き出す。結局気分を下げて戻ると、
認可以外済まされた書類が積立てられていた。こちらの判断を仰がないことを注意しなければならない。
椅子のカバーに仕掛けられていた棘を見つけた。気分が憂鬱に沈み込んでいく。
……一番憂鬱なことは、同じような態度をとるだろう艦娘たちに、注意しなければいけないことである。
流石に面と向かって、あの書類は、この鎮守府の運営における提督の必要性の証明です、と言われると、
突き刺さるものがある。これから会議に出席してもらう必要もありません。ただできる限り速やかに、交代の人員を、
未だに現状が把握できていない。もしかしたら、幻覚か何かをみているのではないか。
が、しかし、夢ではない。妄想の産物でもない。拭き取った棘にさした指の痛みは、それを鋭敏に感じ取らせた。
ただの針であったのに、毒が塗られているか深刻に考えてしまった。やはり人間敵意を向けられ続けると疲労するものだ。
そもそも刺そうと思わなければよかったのであるが、それほどまで今までとは異なっていたのだ。
確かめずにはいられなかった。現状は本当に現実なのか? 結果は無残なものだったが。
鬱屈とした精神状態でいると、その時々の時間感覚はのろく感じる癖に、全体では大きく過ぎる。
仕事もそこそこにぼんやりとして、気がつけば正午から数時間も経っていた。日の方向はわからなくなっている。
腹部は空腹を訴えかけていたが、食堂に行く気にはならない。不安感が首をもたげている。
「失礼するよー」
自らの不安に対する臆病さに、海軍軍人としての資質が欠けているのではないかと考え始めたころ、
不動だった執務室の扉が音を立てて開き、よく絡んできたツンツン頭の少女が入って来る。
料理片手に動く足取りはしっかりとしていて、どうやら今は酒を飲んではいないようだった。
隼鷹の表情は、いつもと変わらないようだ。いつものような快活さで、いつものような軽口を叩く。
持ってきてくれた料理はカレーだった。漂ってくる匂いは、こちらの気分を少しは上向かせてくれた。
しかし、それ以上に、隼鷹が変わらぬ態度で接してくれたことが喜ばしかった。
銀色のスプーンを手に取り、少し躊躇した後、ひとすくい掬って口に運ぶ。隼鷹の表情は変わらない。
美味しさが舌に広がる。妙な味もしないし、どうやら抱いた疑念は取り越し苦労だったようだ。
もしかしたら隼鷹はいつも通りで、こちらを気づかってくれたのか。そう思いながらもうひと……
「――ッ?!」
隼鷹がいつものように笑い始める。カレーの味に、鉄の香りが混ざり始めた。痛みで顔が歪む。
尖った金属片か何かが混ぜ込まれていたようだ。突然のことで、眦に涙が滲んだ。
隼鷹は笑いながら、扉を塞ぐように立って、愉快でたまらなくて、もう止めることもできないらしい。
どうにかしようともがくこちらに、ゼヒゼヒと呼吸を整えた隼鷹は、
「いやー、提督としては最低だし、見ているだけで嫌になるね!」
そう言うと隼鷹は表情を凍り付かせた。こんな表情ができたのかと思うほどの冷たい表情だった。
そうしてそのまま、さっさと辞めな、と言うと、スッと後ろを向いて出ていった。
草木も眠りこけた深夜。にわか雨がしとどに鎮守府を濡らしている。異変が起きてから数日が経過した。
この間、間宮も影響を受けていたようで、隙を見て持ってきた食事に下剤を仕込まれた。
幸い最悪の事態は免れたものの、それから売店でも仕込みが見えて、食事を口にできていない。
艦娘たちの症状……と言っていいのかは疑問だが、ともかくそれは、日を追うごとに悪化。
初期は言葉と態度、それから細やかな悪戯程度だったものが、だんだんと暴力的な度合いを増してきた。
現在に至っては自室が荒らされている形跡がみられたので、外で朝の訪れを待っている。
原因の、究明は、明日の朝に調査員が到着することになっている。こちらに理由があれば、
海軍を辞めて終わりだが、深海棲艦の手によるものならば、国家存亡の危機になりかねない。
もしも、全ての人間相手に、このような態度をとるように仕向けられればれば……
今、鎮守府に留まっているのは、対象が一人なのか、明らかでないからだ。
鎮守府の運営については滞りがなく、遠征、任務の遂行などは普段通り行われている。異変は見られない。
しかし、もし此方が抜けて調査員やほかの関係者に敵意が向いた場合、最悪、処分されてしまうだろう。
いや、このまま、悪化がつづいていったならば、どっちにせよ変わらないか。
そう考えると、一方では深海棲艦のせいだと思いたいくせに、一方では自分の行いのせいだとも思いたい。
あのような態度の原因が自分にあるとは考えたくないが、あいつらと会えなくなることは御免だ。
連日の疲労と空腹であまり意義のある思考ができなくなってきた。ふと、酷く寂しくなる。
頭が冷えていく感覚がして両手で首を覆う。なにもかも、ぶちまけてしまいたくなった。
実感として変わることはあっても、本来時間の流れは一定のものである。
この鎮守府に調査員が到着するまで、何らかの糸口がつかめるまで、依然として数時間残っていた。
鎮守府の運動場、周囲のライトは深夜も点灯していたそこをのなるべく潜むように歩き続ける。
視界を遮るものは特にはなく、時に吹く風と自らの足音以外は物音が鳴ることもない。
とりあえず、朝までは物を投げつけられてもどうにか対応できそうだ。職務が果たされている以上、
明かりが消されることもない。そうやって、ぼんやりと光を見つめていた。
気が抜けていた。疲労と空腹もこちらの判断力をひどく削ぎ落としていた。
だから、やはり、幸運だった。後ろから風が吹いて違和感を感じ取れなければ、その凶器は……
振り返った先には、殺意を今にも振り下ろそうとする龍田。寸でのところで背後に飛びのけた。
まったく気がついていなかった。休息を求めている頭がふらふらと揺れて、思わず倒れこみそうになる。
龍田は冷たい笑みを浮かべながら、動きを休めず凶器を振りかぶってきた。
「あは、躱さないでよ~。皆のために、害虫を駆除しないといけないんだから」
天龍ちゃんにそんなこと、やらせるわけにはいかないでしょう? 話す龍田からわき目も振らず逃げ出す。
疲労のためもつれる身体を必死に叱咤しながら、迫りくる殺意から逃れ続ける。
やはり、悪化していた。こちらに向けていた敵意は、なんとしても除こうとするまでに膨れていた。
地面を蹴って逃げる、龍田はつかず離れずの位置からこちらを追いかけ続けていた。
走る床は砂と土からアスファルトに変わって、鎮守府の建物の近くにまで到達する。
ここで、やっと気がついた。今の消耗した自分の体力に、艦娘が追いつくことなどわけもないはずであることに。
額に衝撃が走る。染み出てきた熱は鼻を伝って流れ落ちて、崩れ落ちる前にまた衝撃が顎に響いた。
完全に脳を揺らされ、立つことも困難になりながらも、視界は暗がりの少女を捉えた。
振られたのはどうやら鉄パイプ。振ったのは……重巡、か?
「んっとーにウザイな! こそこそこそこそ逃げ回ってさあ」
ま、や、か。追撃で飛んできた胴への一撃でなすすべもなく地べたを舐める。
平衡感覚を失って無様に転がりながら、吐き気を堪えるような息をした。
ふたりとも責任感は強い方だった。だから率先して行動に出たのだろう。
もはや、どこで思考しているかもわからなくなりながら考える。二人の足がすぐ近くにまで来ていた。
摩耶がこちらの背中を踏みつけ、龍田が凶器を振り下ろそうとする。
やっと気がついた。圧のかかる胸中を後悔が満たす。こいつらが洗脳か、それに等しいものを受けていると考えていたのだ。
少なくとも、どんなに気に入らなくとも、人を手にかけるような者たちではないはずであるとも知っていたのに。
報告は、洗脳されている、とするべきだったのだ。そうすれば即座に調査員は来ていたし、この数日の事態も避けられた。
それを妨げたのは、こちらの、自身の落ち度だったのだ。
適切とは言えない報告をあげさせた、中途半端な艦娘への信頼。心の奥底にあった、艦娘たちへの不信。
それに初期段階での動揺を招いた心の弱さ。ここまで事態を悪化させた責任は、すべて俺自身にあったのだ。
明かりに照らされた凶器が、こちらの首に向かって振り下ろされて――!
今日はこれで終わります。続きは後日投下させていたただきます。二三回で終わります。
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