男「幸せ屋さん……?」(49)

幼女「んー。しあわせにするよー」

男「ええと、具体的にはどうやって」

幼女「ぐた……?」

男「……どういう風にして僕を幸せにしてくれるのか、説明してくれるかな」

幼女「えっとねー。私が『しあわせ』をぽんって作って、それを食べさせてあげるの」

男「……なるほどー」

男(さっぱりわからない)

幼女「一回千円だからお得、らしいよー」

男「なるほどー」

男(……おままごとか何かかな)

幼女「あ、そーだ」

幼女「ちょっとまってねー」ごそごそ

男(綺麗に折りたたまれたコピー用紙。台本まであるとはこってるな)

幼女「『私が販売するのは概念レベルの幸せです。効き目に個人差は無く、服用によってどんな人でも幸福感を得られます』」

男「……、は?」

幼女「『麻薬や覚醒剤、危険ドラッグなどとは異なり、成分が引き起こす依存性は皆無です』」

幼女「『私が販売する幸せそのものによる副作用は一切ございません』」

男「ちょっと待って」

幼女「なにー?」

男「意味わかって言ってる?」

幼女「わかんない」えへー

幼女「でも、しあわせになれるのはしってるよー」

男「ああうん、そうだね」

男(あの台本、この子が書いたものじゃあないだろう)

男「上手に読めたね」

幼女「うんっ。おねーちゃんにつくってもらったの」

男(姉? ……謎は深まるばかり)

幼女「で、買う?」

男「ええと」

男「ごめん、今日はちょっと遠慮しておくよ」

男(うさんくさいにもほどがあるし)

幼女「うぇー? ……あ、ちょっとまってね」ごそっ

男(今度は何だ)


幼女「よいしょ」ことん

 幼女がポケットから取り出したのは、空の小瓶であった。
 僕が掴めば、片手で包み隠せてしまいそうなほど小さなものである。

 彼女はその瓶の口にはまっていたコルク栓をくいくいと引っ張って取り外すと、自らの左手人差し指を瓶の中に入れる。
 そして起きたことを、僕は見た。

 瓶の中にある彼女の指から、真っ白な液体がぽたり、ぽたりと垂れていた。
 一定の間隔で、時を刻むように、ぽたり、ぽたりと小瓶を満たしていく。

 牛乳のようとも、絵の具のようとも、木工用ボンドのようとも形容しがたいそれは、何故だか血に見えた。

 そして――

幼女「んし、これでよーし」きゅっ

 幼女の声を聞いて、僕は自分が彼女の指から垂れる白に見蕩れていたことに気づいた。


幼女「おためし版ー。もってってー」

 柔らかな笑みを浮かべて小瓶を差し出す幼女。
 その手には、傷も、白い液体の残滓も見当たらない。

男「あ、ああ、うん」

 何が起こっているのか分からず混乱したまま、僕はそれを受け取ってしまう。
 おためし、ということは、コレが彼女の言う『幸せ』なのだろうか。

幼女「のみものにまぜてもいいしー、そのままのんでもいいしー」

 とりあえず、塗り薬ではなく内服薬のようだ。
 薬といって良いのか不明だけれど。

男「……うん、ありがと」

幼女「またきてねー」

――夜、男宅

男「ごちそうさまでした」

母「あ、男。……それ、お願い」

 食卓には、空になった僕の食器と、半分ほど食べ終わった両親の食事。
 そして、手をつけられていないまま、ゆっくりと冷めていく食事が一人分。

男「……ああ、うん」

 内心、やりたくはないのだけれど。
 それは両親も同じことだと思うと、なかなか断りづらい。

 お盆の上に一人分の食事をのせ、階段を登る。
 そのままつきあたりにある、鍵のかかった扉に向かおうとして、ふと足が止まった。

男「……飲み物に混ぜたり、ねぇ」

 足をぐいと上げると、ポケットの中にある小瓶が自己主張する。
 ……そもそも、まあ、このために胡散臭いチラシに釣られて幸せ屋に行ったんだけど。

 『幸せ、売ります』というポップ体の文字と住所だけが書かれたチラシ。
 道端で靴跡をつけられていたソレに興味を持ってしまったのは、姉がこんな調子だからだ。


男「……」コトッ

 お盆を床に置くと、電灯の光を受けたコップが、その中にある水が輝いた。
 水面は静かに揺れている。

男「……まあ、なんかあっても、姉貴だし」

 小瓶のコルクを外し、中にある真っ白な液体を一滴、水に垂らす。
 その白は着水と同時にすぐに霧散してその存在感を消すが、あまり多く入れると色がつくかもしれない。

 ……色がついたわけではないのに、改めてみると、何故だか、普通の水には見えなくなっていた。
 先ほどよりもきらめいているような、無臭のはずなのに甘いにおいがするような、……得体の知れない、魅力のようなものを感じてしまう。

男「……飯、おいておくぞ」

 再度小瓶に栓をして、ドアに声をかけてから、僕は自室に向かった。

――翌朝

男「これでいいよな」

 ハムとレタスを載せた食パンを一枚、その脇に牛乳入りのコップを載せたお盆を手に言う。
 母は、お願い、と短くこたえて、父は静かに頷いた。

男「……」

 鍵のかかったドアまでの道中、小瓶の中身をまた一滴、牛乳に垂らす。
 水のときと同様、一切外見は変わらないが、誰がどう見ても普通のソレとは違うと分かる。

 僕にそう思わせているのは何なのか、とじっくり観察してみたり、においをかいで見たりしたけれど分からない。
 味見をするのは、少し抵抗があるし。

男「置いておくぞ」

 小瓶に栓をしてから、いつもどおりドアの前に食事を置く。
 さて僕は身支度を済ませなければ、とドアに背を向けて歩き出そうとして、

「――あの」

 何か音が聞こえたような気がして、

「――あり、がと」

 それが姉の声だと分かるのに、数分かかったような気さえした。

男「お、う」


男「……」

 前回、姉の声を聞いたのはいつだったろうか。
 泣き声だか鳴き声だか分からない叫びを最後に聞いたのが二、三ヶ月前だ。

 となれば、まともな言葉は半年振りくらいか。
 言葉のやり取り(今朝のをそう呼ぶかは疑問だが)となると、一年ぶりくらいになるのだろうか。

母「どしたの、男」

 精気の枯れた顔で、母は僕に声をかける。
 なんでもないよと答えて、身支度を再開した。

 僕には何も無かったのだから、特に何か報告する必要は無かろう。
 今、この家で、僕に何かあってはいけないのだ。

 ポケットの中で、小瓶が重くなった気がした。

――夜、男宅

男「……」

 食後、いつものように鍵の閉まったドアの前に夕飯を置く。
 ……ポケットに手を突っ込むと、つるりとした瓶の手触りを感じた。

 具体的にどうとはいえないが、この『幸せ』には確かに何らかの効果がある。
 必要最低限以外、絶対にあのドアは開かない。何か変化が起こるきっかけとしてありえるのは、食事に盛った『幸せ』だけだ。

 これを、また水に混ぜるべきか。
 入れるとしたら、どの程度の量か。

 ……数滴で、あんなのに変化が出るなら。
 僕が一口飲めばどうなるか。

男「……、いや、駄目だ」

 結局、コップの水に一滴だけ垂らす。
 その場から立ち去ろうとして、

姉「男、ありがとう」

 はっきりと、姉の声が聞こえた。

……

男「……これ、本当に何なんだ」

 授業の予習を終わらせた後、学習机の上で小瓶を転がす。
 手のひらでそれを止めると、中身の真っ白な液が揺れた。

 蛍光灯の光を浴びて輝くそれを、あの子は『幸せ』だと言った。
 わずかながらそれを服用した姉は、明らかに変化している。恐らく、ポジティブな方に。

 理屈も分からず、効果だけが現れている。
 このまま姉に与え続ければどうなるのか、ある日突然与えなくなればどうなるのか。

 何が起こっているのか、まるでわからない。
 ……いっそ自分で飲めば何か分かるのだろうか、と一瞬考えた時、

男「――、っ」

 音がした。
 ドアが開いて、閉まる音。


 恐る恐る自室を見回すが、当然僕以外に誰もいない。
 音が出たのは、あの、鍵がかかった、姉の部屋のドア。

 ぺと、ぺと、ぺと。
 すこししっとりとした足の裏が、フローリングから離れる音。

 姉が、自分の部屋を出て、廊下を歩いている。
 
 絶対に僕の部屋には来ない。来るはずがない。来る理由がない。
 けれどもし、飲み物に何か混ぜていると気づいて、それについて聞くつもりだとしたら。

 ぺた、ぺた、という足音が僕の部屋の前まで来て――、去っていく。

男「っ、ぶ、は」

 唇から妙な音を出しながら息を吐いて、自分がそれまで息を止めていたことに気づいた。


男「……何してたんだ、あれ」

 時計を見ると、日付は変わっていないが深夜であった。
 この時間に、姉が部屋から出たことはない。

 これまで一切部屋から出たことが無かった、というのは流石にないだろう。
 食事を受け取るには一度ドアを開ける必要があるし、……排泄物の処理も、するだろうし。

男「……、?」

 遠くで、さぁぁぁぁ、と音が聞こえる。
 雨音のような……いや、これは、シャワー。

 入浴している。
 姉にとって、入浴は必要なものだろうか。

男「……そういや、風呂好きだったな」

 ふと、引きこもりになる前の姉の姿を思い出して。
 なぜだか嫌になって、八つ当たりするように布団に飛び込んだ。

――翌朝、男宅。

TV『最近ネットで話題になっているこの動画が――』

 静寂があった。
 ニュースなのかバラエティなのかよく分からない番組が流れていたが、確かに食卓は沈黙していた。

 かつかつと皿に箸が触れる音も、唇の奥で響く咀嚼音も、新聞がすれる音も。
 母と父、そして僕が、手を止め、思考を止め、一点を見つめていた。

姉「……」

 姉が、いた。
 やや髪がはねて、襟の伸びたシャツを着た姉が、リビングの手前に。

姉「……っお、はよ」

 ドアにさえぎられること無く、姉の声が、食卓に通る。
 数秒の後、口を開いたのは父だった。

父「……おはよう。冷めないうちに食べなさい」

 それを聞いて、姉は笑顔を見せる。
 
――なぜだか、少しだけ、視界が明るくなったように錯覚した。

――夕方、幸せ屋前

男「絶対に、コレだよなあ」

 自分の部屋の外部との接触を殆ど断っていた姉にとって、変わるきっかけがあるとすれば食事に盛られた『幸せ』だけだ。
 確か姉はパソコンも持っていたけれど、ネット内の交流やら自己啓発でどうにかなるなら長期間引きこもることもないだろう。

男「……」

 おためしとして受け取った『幸せ』の残りは、小瓶の半分ほど。
 確かめなければならない。これを飲むと、実際にどうなるのか。

 何か問題が発生すれば、そのまま目の前の幸せ屋に飛び込んで文句を言う。
 身体に害が残りそうであれば、適切な処置も要求しよう。

男「……、ええい、南無三!」

 ぽん、とコルクを外し、そのまま小瓶を口元へ運び、ぐいと傾ける。
 『幸せ』が、僕の口内に、舌の上に、のどの奥に、流れ込む。


男「ほ、ふぅ」

 思わずため息が出た。
 幸せ、としか形容できない感情が、感動が、先ほどまでの不安を塗りつぶしていく。

 穏やかで、少しだけ眠くて、いつまでも続いて欲しいような。
 激しくて、意識が鋭敏になって、この瞬間を全力で楽しみたいような。

 そんな矛盾すら一切気にならない。
 全てについて全く心配していない今の自分を客観的に見て、恐ろしいとも思わない。

 ただ、幸せだった。

 あの白い『幸せ』の味がよかったとか、そういう話ではない。
 ただただ、幸福感が湧き上がってくる。

 大好物をたらふく食べているとか、期待している映画の試写会が当たったとか。
 苦手な教科を死ぬほど勉強してテストで高得点を取ったとか、ひいきにしているスポーツ選手が世界一になったとか。

 どのように例えても、この幸せを形容できない。
 程度ではなく、質的に最適なたとえがあるとは思えない。

男「概念、レベルって、そういう」


 僕が恐れていたのは、『幸せ』を摂取した後のこと。
 効果時間があったとして、それが切れてしまえばまた欲しくなってしまうのではないかという不安。

 けれども、それが訪れる気配はまるでない。
 幸福感は収まってきたが、それに代わって現れたのは満足感だった。

男「こりゃあ、変わるわ」

 僕が飲んだのは瓶の半分で、姉に飲ませたのはほんの数滴。
 量による差はあるだろうが、効き目は本物だ。

 今なら何だって許せる。
 姉が突然遊びに誘ってきてもそれに乗ってやれる。

 ――けれど。
 こんなにもすばらしいものが、一回千円で手に入っていいのだろうか。

――幸せ屋

幼女「いらっしゃー……!」ぱあっ

男(……のんびりとして、感情の変化があんまりないタイプかと思ったけど)

男(案外分かりやすく喜ぶんだなあ)

幼女「どうだった? どうだった?」そわそわ

男「確かに、あれは『幸せ』としか言いようがないよ」

幼女「ねー」にへー

男「……でも、これってずっと千円なの?」

幼女「んー?」

男「何回も買うと値段が上がったりしない?」

幼女「しないよー。ほんとはタダでもいいんだけどー、おねーちゃんがお金とれって」

男(だから何者なんだ、おねーちゃん)


幼女「で、買う? 買う?」にこにこ

幼女「お金なかったらただでもいいよー」

男(いいのかそれ。……いや、でも)

男「ごめん。僕はそれを買えない」

幼女「……、っえ?」

男「なんというか、その」

男「……そんなにお手軽に、幸せになれるべきじゃないって思うんだ」

幼女「……ん」しょんぼり

男「とりあえず、瓶だけ返して帰るよ」ことっ

幼女「ん、っあ、……また着てね!」

男「……うん。たまに遊びに来るよ」

――幸せ屋前

バタン

男「……ああ、何か後味悪い」

男(でも、千円で何度でも買えてしまう幸せは、まずいだろう)

「――いったい、何がまずいというのでしょう」

 声がした。
 幸せ屋に背を向けて歩き出したところで、背後から声が聞こえた。

 よく通る澄んだ声で、けれども挑発的で高圧的な口調だ、と感じる。同時に、得体の知れない怖気も。
 ただそれらの感想は、振り返って声の主を見た瞬間に、強大なインパクトによって消し飛ばされる。

巨乳「こんばんは、男さん。幼女さんがお世話になっています」たぷん

 胸が、異様に、大きい。


男「……あの子が言うおねーちゃんっていうのは」

巨乳「ええ。私のことです」ぷにぷに

男(っていうか俺、『まずい』って口に出てたか?)

巨乳「細かいことは気にしないでくださいね。あの子の力も見ているでしょうし」

男「……すみません、理解が追いつかなくて」

巨乳「ええ。ゆっくりお話しましょうね」ぽよん

男「それで、何がまずい、っていうと」

巨乳「――男さん、本当の幸せとは何ですか?」


男「本当の、幸せ」

 どうにもはっきりと答えづらいような質問だ、と思う。
 けれども、幼女が売る『幸せ』を否定した僕だ。それなりの根拠、手に入れてもいい幸せとは何か、答えなければならない。

男「……その、努力して手に入る幸せ、とか」

 歯切れの悪い言い方になってしまったが、悪くない答えだろう。
 頑張って勉強していい点をとれれば幸せだし、それを望ましいと僕は思う。

巨乳「なるほど、なるほど」

巨乳「では、頑張っても頑張っても満足のいく結果が得られない人は、幸せになってはいけないと?」

 ――、は?

巨乳「同じだけ頑張っても差は出ますよ。自力ではどうしようもないこともありますし、考え方の違いもありますし」

巨乳「……そうですね。男さんの例にのっかりますと」

巨乳「いくら勉強を頑張っても、テストが簡単で誰でも満点を取れるようなものならば満足いく結果は得られないでしょうし」

巨乳「かなり難しいテストで上位数パーセントの得点ができても、満点を取りたかった人は不満でしょう」

巨乳「そもそもテストの点数に興味がない人が、周囲に無理やり勉強させられて高得点をとっても満足するのは周囲の人だけですしね」


 まるで僕がどんな風に答えるか分かっていて、そのために準備していたかのように。
 次から次へと、例外を口にしていく。

巨乳「仕事に例えると、どれだけ働いても収入もプライベートな時間も生命の維持で精一杯な人は?」

男「……、それは、そんなところでしか働けない、これまでの努力が足りてないからで」

 僕は一言しか口にしていないのにここまで言われるのに腹が立って。
 反射的に、噛み付いてしまう。

巨乳「そうかもしれませんね。けれど、どれだけ頑張っていてもそうなることはあるんですよ」

巨乳「生まれつき複雑な作業が苦手とか、事故で何らかのハンデを背負うことになって、とか」

巨乳「あとはブラック企業にだまされて、とか」

巨乳「職場に問題が無くても、身内の借金を負ってしまっているとかですかね」

男「――お前が、言っているのは!」

 ただの例外だ、ただの少数派だ、と僕が言う前に。

巨乳「――例外でも少数派でも、確かに存在する個人なんですよ?」

 目の前のそれは、薄ら笑いを浮かべながら、僕の考えを踏み潰す。


巨乳「本当の幸せ、というのは非常に難しいものです」

巨乳「何を幸せに感じるかもその人次第、何をしたって幸せになれない人だっています」

巨乳「――であれば」

男「……」

巨乳「誰にとっても平等に感じることができ、誰でも手に入れることのできる」

巨乳「彼女が作り出す『幸せ』こそが、本当の幸せといえるのではないですか?」ぷにょん

――夜、男宅

男「……」

 突然現れて僕をえらそうに否定しつくした巨乳は、笑顔のままあの場を去っていった。
 いくらそのことが気に食わなくても、何もできなかった僕が帰宅すると。

姉「っ、お、かえり」

 台所に、姉貴が居た。

母「あ、お帰り、男。手伝ってもらってるのよー」

 姉貴の隣でにへらと母が笑う。
 うれしくて仕方がない、幸せの絶頂だといわんばかりの顔で。

男「……ああ、そう」

 その隣ではにかむ姉貴の顔から目をそらし、背を向け、僕は自室に向かう。

……

男「……なんだ、これ」

 味のない夕飯の後、僕は自室で机に突っ伏している。
 額に課題のプリントが張り付いている感覚。汚れそうだ、と思いながら、それでも身体を起こす気になれない。

 心臓が痒いような感覚。自然と呼吸が荒くなる。
 眉間にしわがよっているのをなんとなく感じる。

 これは多分、いらだっているのだろう。
 今起こっている全てに。

 幸せを安売りする幼女に。
 突然現れて僕を遠慮なく否定した巨乳に。

 そして、これまで散々迷惑をかけておきながら。
 あっさり出てきて、父さんや母さんに受け入れられている姉貴に。

姉「――男、入るよ」

 背筋がびくりと痙攣し、その拍子に学習机の棚に頭をぶつける。
 べり、とはがれたのがプリントだけでよかった。

男「い、づぅ」

姉「……ごめ、びっくりした?」


男「……何、姉貴」

姉「えっと、その」

姉「前までいろいろしてもらった分の、お礼を改めて言いたいなって」

 いろいろ。
 ああ、食事を運んだり食べ終わったのを下げたりしたことか。二ヶ月ほど。

 それ以前は母さんがやっていたのだから、まず頭を下げるべきはそちらだろうに。
 いや、もしかするとあの台所での様子を見る限りその辺は済んでいるのかもしれない。

男「……別に良いよ。言われてやってただけだし」

 言ってから、思った以上に苛立ちが声に出てしまっていることに気づき、またうつむく。
 ……ああ、姉のことは嫌いなんだ。だからこうなっても仕方ないことだ。

姉「……そう、だよね。でも、ごめん、ありがと」

 けれど。
 姉貴は僕の声を聞いて、おびえるように、僕の部屋から出ていく。


男「……」

 何だ。まるで、僕が悪いような。
 僕が姉を追い返したような。

 確かに姉に『幸せ』を渡したのは僕だ。
 我が家の膿と化している姉を何とかしたくて、結果、なんとかなった。

 原因を作ったのも現在の状況を望んだのも僕だ。
 だからこそ、憤りを姉にぶつけるわけにはいかない。

 僕は姉が嫌いだ。自分の都合でヒステリーを起こして暴れて家族に迷惑をかけて。
 その後ひきこもって家全体の雰囲気を暗くして。

 その姉がヒステリーを起こさなくなってひきこもらなくなっても、だからといって許せるわけじゃあないんだ。
 だからといって怒りをぶつけようものなら、両親が黙っていないだろう。

 僕に嫌われることで、ストレスをぶつけられることで姉がまたひきこもらないか心配だろうし。
 ひきこもらせてしまったことへのリベンジも含めて、僕を攻撃して姉の味方になろうとするだろう。


 ふと、暴れだしてしまおうかと思った。
 引きこもる直前の姉がそうしていたように、モノにも人にも当り散らしてしまおうか。

 けれどそれも駄目だ。
 仮に姉以外にストレスをぶつけたとしても、僕がかつての姉のようになってしまえば両親への負荷が大きくなる。

 そもそも僕が姉に『幸せ』を盛った理由が、この家の暗い雰囲気を何とかしたかったから。
 元凶であった姉をなんとかしたところで、その後で僕が元凶となってしまっては元も子もない。

 つまり、僕は。
 この状況を受け入れて、妥協して、耐えるしかない。

男「……」

 ああ。
 幸せは、どうしたって手に入らないときはあるのだ、と今更ながら実感する。

――数日後、幸せ屋前

男「……結局、こうか」

 面と向かって、彼女の売る幸せを否定してあまり日がたっていないけれど。
 白状すれば、もう無理だ。

 姉貴が部屋から出るようになって、気づいてしまった。
 この苛立ちは、姉に対する優越感が失われたことによるもの。

 姉がクズで、引きこもりで、厄介者だったから僕は姉の上に立つことができた。
 けれどそれが今、逆転しているように感じている。

 もちろん、姉はそうは思っていないだろう。
 今までのことを感謝してくれていたし、一言ではあったが謝罪もあった。

 だからこそ。
 僕は、そう感じてしまう僕自身に対して苛立つ。


ガチャ

男「……!」

 ドアノブにいざ触れようとした瞬間に聞いた音で、思わず手が引っ込む。
 ゆっくりと開いたその戸の先には、想像に違わず、彼女の姿があった。

幼女「……あれー、いらっしゃいませー」ぱあっ

男「あ、あ」

 笑顔を見るのが、辛い。
 そういえば、また来てね、といわれていたなあ。

幼女「……どう、したの?」

 幼女が不安げに首をかしげる。
 こんな小さい子からでも、見れば分かるほど酷い顔をしているのだろうか。


男「……限界、なんだ」

 声が、震える。
 自分が言ったことを、こうも簡単に変えてしまうのが惨めで、無様で、怖い。

 けれど。
 惨めも無様も、今更のこと。

男「……『幸せ』を、売ってくれ」

 言った。
 破裂寸前の風船から徐々に空気を抜いていくように、ゆっくりと体の強張りが抜けていく。

 自分は弱い、と声に出してしまったような気がしたけれど。


幼女「あ、えっと、あの」

男「……?」

 何故、どもるのだ。
 あれほど幸せを売ろうとしていた彼女が、何故――

幼女「……これで、がんばれる?」

男「――!」

 『幸せ』を買うことで、その後頑張れるか。
 そんなこと、今は関係ないのに。タダでも構わないといって僕に『幸せ』を押し付けようとした彼女が。

男「……うん、頑張るよ」

 察して頷くと、彼女は花が咲くように笑う。

……

 ぽたり、ぽたりと瓶が満ちていく。
 彼女が生み出す『幸せ』が、透明を白く輝かせる。

 僕と巨乳の話を扉越しに聞いていたのか、あるいは後から何か言われたのか。
 わからないけれど、少しだけ幼女は変わったように思える。

幼女「……できたー」

 上機嫌に言うその声は、どこか歌うようにも聞こえた。
 彼女が差し出した小瓶を手に取り、僕はそのまま中身を嚥下する。

 最初に飲んだときと、同じように。
 純粋な『幸せ』によって、心が満たされていく。

 幼女が変わったように、姉が変わろうとしているように。
 今なら僕も、すこし成長できるような、そんな気がした。

おわり

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