岡崎泰葉「私は、アイドル」 (95)
子どもの頃から、ずっと芸能界で生きてきた。
だから、芸能界が華やかなだけの世界じゃないってわかってる。
SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1429167774
前作
城ヶ崎美嘉「美嘉先輩のカリスマ★相談室」【岡崎泰葉編】
城ヶ崎美嘉「美嘉先輩のカリスマ★相談室」【岡崎泰葉編】 - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1429097989/)
前作では泰葉、美嘉、そして彼女たちの担当プロデューサーに不快な思いをさせてしまい申し訳ありませんでした。
その償いにもならないとは思いますが、昔、他で書いた作品を投稿させていただきます。
SSというよりは小説であり、地の文が多くなりますが、この作品を書いていた頃はまだ泰葉にきちんと向き合えていたと思います。
前作のようなものを書いた人間の作品ではありますが、読んでいただければ幸いです。
1
芸能界に入った経緯については、もう覚えていない。それくらい小さい頃に、いつの間にか、芸能界に入っていた。
そう、入った頃……あの頃は、まだ、この仕事を楽しんでいたように思う。
芸能界が華やかなだけの世界だと思っていたあの時は、私もこの仕事を楽しんでいた。
その時は、演技じゃなく、心から、この仕事を楽しんでいた。
今ならわかる。あの時の私は、まさしく『理想的』だった、って。『大人が望む子ども』の、そのままの姿だった、って。
芸能界において、『子ども』の存在は貴重だ。芸能界という世界では、いつも『子ども』が不足している。いつでも『子ども』を求めている。
それはもちろん、視聴者が『子ども』を求めているからだ。
基本的に、人は『子ども』のことが好きだ。
純粋で、愛らしく、ちょっとだけ生意気な。
そんな『子どもらしい子ども』を求めている。
この世界に入った頃の私は、まさしく『それ』だった。
その結果、私は売れた。最初はモデルだったけれど、事務所の方針で、子役もやった。バラエティ番組や教育番組にも出たけれど、この『子役をやった』というのが、私がこうなってしまった原因だった。
幸か不幸か、どちらかはわからないけれど、私には役者の才能があった。演技の才能があった。それが拍車をかけて、私はさらに有名になって、人気が出て、TVにひっぱりだこの存在になった。
そこまでいくと、私も何となく『わかる』ようになっていった。
芸能界が華やかなだけの世界じゃない、って。
そのことに、気付いてしまっていた。
いわゆる『消えた子役』というのは、ここでやさぐれてしまった人のことを言うのだろう。
ちやほやされたことにあぐらをかいて、生意気になり過ぎてしまったり。
小さい頃から他の子どもとは比較にならないほどの経験を積んだからか、大人びて、ませてしまって、TVが求める『子ども』じゃなくなってしまったり。
そんな子どもの中でも精一杯『子供らしく』あろうとして、TVではその通り子供らしい笑顔を振りまいておいて、でも、ツメが甘かったり。
喫煙や、飲酒をしちゃったり。
その頃の私は、もう『大人びていた』と思う。自分で言うのもなんだけれど、私は、他の子どもとは比較にならないほどに『大人びていた』と思う。
芸能界が、視聴者が、世間が、何を、望んでいるのか。
それがわかる程度には、大人びていた。
そして、わかった上で、その『理想の子ども』を演じることができるだけの演技力が身についてしまっていた。
結果として、私は『理想的な子ども』としての地位を確立した。
芸能界において必要不可欠な子ども。その中でも最も『子どもらしい子ども』として。
ある時はモデルとして。ある時は子役として。
私は『子ども』になった。
『子ども』で在った。
……そして、そうやって芸能界の階段をどんどん駆け上がっていっていた、その頃。
私は、自分があることに気付いた。あることを、思ってしまった。
――どうして私は、こんなことをしているんだろう。
そう思うと、ダメだった。
もう、何もできる気がしなかった。
そんな私の不調に、事務所はすぐに気付き、適当な理由を付けて仕事を休ませた。
それまで私はTVの画面上だけでなく、芸能界の大人たちに対しても『子どもらしく』あった。
それだからか、私が仕事を休んでも、素直に心配してくれた。優しく納得してくれた。
もし私が生意気な子どもだったとすれば、私はすぐに干されることになってしまっていただろう。
また『我がまま』かと思われて、呆れられてしまっていただろう。
でも、私が『子どもらしく』あったが故に、私の休業は許されたのだ。
世間は『子ども』を求めている。それは芸能界の大人たちも例外ではない。大人たちも、私のことを『子ども』として見ていたのだ。
いくら華やかではないと言っても、芸能界の人間も、同じ人間だ。それなら、子どもには優しくても、『理想的な子ども』には優しくても、きっと、おかしくないだろう。
そうして私はTVに出ることがほとんどなくなった。どうしてか、モデルとしての仕事は続けさせられた。事務所にも何らかの考えがあるのだろう。でも、そんなことを考えても仕方ない。私は、大人の思うままに、大人が理想とする子どもでいるだけだ。
モデルを中心に、たまに、TVやドラマに。
それが、私。
岡崎泰葉。
そんな名前の、『子ども』だった。
……私が『彼』と出会ったのは、そんな頃のことだった。
2
その日は、久しぶりにTV出演の日だった。
私は既に十六歳になっていた。
そうなると昔とは求められる『子ども像』も変わっていたけれど、『理想的な十六歳』を演じる程度の演技力は備わっていたので問題なかった。
大人が言うままに、求められる姿を。やることは、いつもと同じだ。モデルの時も、子役の時も。やることは大して変わらない。求められる姿を演じるだけだ。
共演者は……といつものように読み上げられる。
もう知っているけれど。万が一知らない人が居たならば、その人について調べておかなければならない。
その人があまり有名でなくとも、いやむしろ、有名でない時の方が、『知っている』ということは非常に大きい。
業界での噂……まで調べることは私個人では難しいので知らないことも多いが、表面的なことだけでも、『知っている』ということは有益なのだ。
こういった姿勢は、ひょっとしたら『子どもらしくない』と思われるかもしれないが、私が演じているのは『礼儀正しい良い子』だ。
十六歳になってもなお昔の純粋さを保った少女。
真面目過ぎて空回りすることもあるような、普段はしっかりしている、そんな子ども。
だから、こういった姿勢を知られたとしても、私の名前が落ちることはない。私を応援してくれる人たちを幻滅させることはないし、迷惑をかけることはないのだ。
共演者の名前は、先日聞いたものと何の違いもなかった。サプライズで誰かが出てくる可能性もあるが、そういった人物は有名か、あるいは誰も知るはずのないような人物しか居ないと断言してもいいので問題ない。
共演者についてちょっとしたことを話される。
このマネージャーさんは、私の本性を知らない。
私の仕事がモデル中心になってきた頃に付いたマネージャーさんだ。
歳は二十代後半。
私に付いた頃はまだ新人で、今考えても、どうして彼女が私に付いたのかわからない。
あの頃は『何も知らないお姉さん』といった印象だったけれど、今はもうだいぶしっかりしている。
……と言っても、彼女から話された情報くらいなら、私も既に知っているのだけれど。
今なら彼女にぜんぶを任せてもいいと思える。
でも、それはつまり、私が今までそんなことをしていたと話すということ。
それは、できれば、避けたいのだ。
彼女には、私のことを『理想的な子ども』だと思い続けてほしい。彼女を幻滅させたくはないのだ。
そうして、撮影時間が迫る。共演者への挨拶などは既に済ませている。
『今日はよろしくお願いします』といった定型文にいくつかの装飾を加えた言葉。
それから少しの世間話。
何も難しくはない、本当に、ただの挨拶だ。
むしろ、久しぶりに会った人とは話せて嬉しいこともある。
中には苦手な人も居るけれど、だからと言って、することは変わらない。
私はただ子どもらしく。理想の子どもの演技をする。それだけだ。
収録は滞りなく終わった。
私を含めて色んな人物を集めて色々なことを話させるというバラエティ番組。
出演していたのは俳優や女優、芸人さん、アイドルなど。
どういう編集になるかはわからないが、顔ぶれを見る限り、ある程度の視聴率は確保するだろう。
収録が終わって、マネージャーさんを探すが、見当たらない。
きょろきょろと辺りを見回していると、スタッフさんが近付いてきて、彼女はトイレに行ったのだろうという旨を伝えられる。
わざわざトイレで離れると話したのかと訝しく思ったけれど、スタッフさん曰く、あからさまなほどにトイレを我慢している風だったから、だそうな。
……マネージャーさん、しっかり、していますか?
しかし、こうなると私がすることは一つに決まる。
マネージャーさんが来るまでは、今回の番組に関わったできるだけ多くの人に『お疲れ様』の旨を伝えていく。
スタッフさんにもそうだし、出演者にもそうだ。
その中にはもちろん、私が苦手な人も含まれている。
「いやぁ、やっぱり泰葉ちゃんは良かったよ。ドールハウス、だったっけ? あんな細かい作業ができるなんて、さすが業界に長くいるだけのことはある」
壮年の男性。芸能界ではまあまあの権力を持っている人。普段はとても気さくな良い人。
でも、一つだけ欠点があって、私はそこが、正直苦手だ。
「細かい作業、好きなんです。あと、業界に長くいることは、関係ないですよ」
「まあそうだね。俺は泰葉ちゃんより芸歴も長いけれど、あんな細かい作業はできない」
男性は言って、その視線をわざとらしく私の胸元や臀部を沿うようにして動かす。
「しかし、泰葉ちゃん。前に会った時よりも女らしくなったね。正直、イケるよ」
そう。彼の欠点、それはこのセクハラだ。
正直なところ、私は性的魅力といった点では同世代に比べても劣っていると思うのだけれど、彼は女と見れば誰であってもこのようなセクハラを仕掛けるのだ。
彼にとって、これはただの挨拶と同じだ。
それは理解しているのだが、それでも私は彼が苦手だ。
と言っても、苦手なだけで対応できないわけではない。
このような場合の対応ができないわけもない。
そもそも彼のものなんて、ひどい人と比べたらセクハラとも言えないようなものなのだ。
私は受けた経験もないが、そんなひどいセクハラが存在していることくらいは知っている。
この程度のものは、まったく問題ない。いつもはマネージャーさんが居るからマネージャーさんがあわあわしながら対応してくれるが、今は私がやるしかない。
いつも通りに、ちょっと困るような顔をして、恥ずかしがっているような顔をして。
そうすれば彼は満足してくれる。それを私は知っている。
さあ、表情を動かそう。
――そんなことをして、楽しい?
どこかで、そんな声がした。
「……ぁ」
……あれ? どうしてだろう。表情が動かない。声が出ない。どうしてだろう。
――どうして、私はこんなことをしているんだろう。
「いやぁ、泰葉ちゃんも結婚できる年齢なんだよね。結婚を申し込んでともに夜を過ごしたいね」
そんな軽口に、私は何も答えられない。
まだ彼が話し続けてくれているから問題ないが、終わるまでには、表情を動かせるようにしなければ、不自然に思われてしまう。それはいけない。そうしたらダメだ。迷惑がかかってしまう。それは、ダメだ――
――と、
「すみません、少し、お時間よろしいでしょうか?」
彼の後ろから、そんな声がした。
「ん? ああ、君は、確か……」
彼の後ろに立っていた男性はすかさず名刺を差し出した。
「346プロのPです。今回共演させていただいた島村、渋谷、本田のプロデューサーをやっております」
「ああ、ニュージェネの。彼女たちも良かったよ。また共演したいね」
「ありがとうございます」
それからは、彼らの間で話が続いた。Pと名乗った彼はなかなかに話上手だった。
そうして彼らの間で話していると、壮年の方の男性、そのマネージャーさんが近付いてきて、何か耳打ちした。
あのマネージャーさんの様子を見ればわかる。時間だ。
彼は眉を寄せ、
「すまない、時間らしい。まだまだ話していたかったんだけど、マネージャーさんが許してくれそうもなくてね。また会おう」
「はい、是非」
「泰葉ちゃんも、またね」
「はい。またお会いできる日を、楽しみにしてます」
私は笑みをつくって言った。そして、男性は去って行った。
「……ふぅ」
横を見ると、Pと名乗った男性が息を吐いていた。
私のマネージャーさんと同年代くらいだろうか。
私と同じ346プロの所属ではあるが、彼はアイドル部(私は一応モデル部に所属している。さらに正確に言えば、彼はアイドル部と言うよりはアイドルプロデュース部とでも言うべき部署に所属している)なので、見たことは何度かあっても、面識はあまりない。
その様子を見ると、彼がずっと気を張り詰めていたことは明白だった。私は彼が何をしたかわかっていた。
「……少し、聞いてもいいですか?」
でも、不思議だった。
私を助けても、何のメリットもないはずなのに。
それなのに、どうして危険を侵したのか。
あの人がやったことはセクハラと言えなくもないけれど、それほどいやらしいセクハラとは言えない。見るに堪えない、というほどではなかったはずだ。
だから、彼の行動は解せない。
346プロのプロデューサー。彼は何度か見たことがあった。
私が見る限り、彼はアイドルと非常に良い信頼関係を築いている。
アイドルのことが大切で大切で仕方ないという様子だった。
もしあれが演技だったとすれば、彼は私以上の役者となれるだろう。
それくらいに心からアイドルのことを大切に思っている。
でも、それなら尚更彼がしたことは解せないのだ。
彼がしたことは、自分のアイドルたちに迷惑をかけるかもしれないことだ。
同じ346プロとは言っても、部署の壁は厚いし、そもそもが芸能人というものは『個々』に判断される。
このプロデューサーが失態を犯せば彼のアイドルたちは干される可能性もあるが、私はそうならないだろう。
だから、彼がしたことは、アイドルたちに『だけ』迷惑をかけるかもしれないこと、なのだ。
大切なものがある人ほど、こういうことはできないはずだ。
優しい人ほど、こういうことはできないはずだ。
自分の周囲に居る人々に迷惑をかけないために。
それこそが最も優先されることだとわからない人なんて、少ないから。
だから、この業界には『こういったこと』が後を絶たないのだ。芸能界の闇。その一部。
まずほとんどの人が保身からそれを見逃す。
それを見逃せないほどの優しい人は、優しいが故に、自分の周囲の人たちにかかる迷惑のことを考えて努めて見て見ぬ振りをする。
それなのに。
そのはずなのに。
彼は、それをした。
それが、とても不思議だった。
「どうして、こんなことを?」
私は訊ねた。彼の顔を見上げて、彼の顔を見て、訊ねた。
「どうして、と言われましても、私は彼に挨拶を、と思っただけで……」
彼は私から視線を逸らして言う。明らかに嘘だ。思ったよりも嘘が下手な人らしい。
「挨拶なら、私の後でもできたはずです。……あと、敬語で話されると、なんだか、変な感じです。だから、普通に話して下さい」
私が言うと、彼は困ったような顔をした。これ以上は長引かせるだけだと判断したのだろう、彼はあきらめたように息を吐いて言った。
「……見ていられなかった、じゃ、ダメか?」
「あなたには大切なアイドルが居るでしょう。彼女たちのことを考えられないあなたじゃないはずです」
「……考えた上で、それでも、見ていられなかったんだ」
「どうして、ですか?」
「それは――」
と彼が口を開いた瞬間、
「泰葉ちゃーん! い、いなくなっちゃってごめんなさい」
と、私のマネージャーさんが来た。
「って、あなたは、アイドル部門の……。その、すみません。時間が、なくて」
「え、ええ」
「じゃあ、泰葉ちゃん、行きましょう」
「は、はい」
そうして私は彼女に連れられて帰ることになった。
……マネージャーさん、ちょっと、タイミング悪いです。
3
「プロデューサー。どうだった?」
「どうだった、って……何がだ?」
「それは私が聞きたいよ。だから、聞いたんだよ」
「……まあ、結果だけを言うなら、微妙かな」
「……それだけ言われても、わからないんだけど」
「まあまあ、しぶりん、落ち着いて」
「そうですよ。でも、まさか本物の泰葉ちゃんと会えるなんて、思わなかったなぁ……」
「本物、って……。しまむー、偽物なんて居るの?」
「そういう意味じゃありませんよ。もう、未央ちゃんったら」
「……もしかしたら、会える、なんてどころではなくなるかもしれないけどな」
「? プロデューサー、何か言った?」
「いや、何でもない」
「嘘。プロデューサー、嘘、下手なんだから、言わない方がいいよ」
「はは……まあ、成功してのお楽しみ、ってことで」
「なになにー? プロデューサー、何か隠してるの?」
「えっ、何ですか?」
「……言えることがあるとすれば、先輩が増えるかもしれない、ってくらいだな」
「……よくわかりませんね」
「しまむー、まさか本当にわからないの!?」
「え!? 未央ちゃん、わかるんですか!?」
「わからないけど!」
「えっ……もう! 未央ちゃん!」
「あははっ、ごめんって、しまむー」
「……そういうこと」
「えっ。しぶりん、わかったの?」
「わかったんですか、凛ちゃん!?」
「……予想でしかないけどね。まあ、まだわからないらしいから、言わないけど」
「むー……気になるなぁ」
「私も、気になります」
「……プロデューサー。それ、急いだ方がいいよ。私、この二人に迫られてずっと言わないなんてこと、できそうにないから」
「……善処する」
4
「……アイドル、か」
「何? 泰葉ちゃん?」
「あっ……何でもありません」
移動中の車の中。窓の外の風景を見ながら、いつの間にか私は声を出してしまっていたらしい。
ミラー越しのマネージャーさんは怪訝に首を傾げていたが、「そう」と言うだけでそれ以上のことは言わなかった。マネージャーさんのこういうところには感謝しかない。
――ありがとうございます。
心の中でそう言って、私はもう一度思いに耽る。
――アイドル、か。
アイドル。
それは私にとっての憧れだ。いつも明るくて楽しそうで。そんな姿を、昔から見ていた。
――私は、違うけれど。
私は違う。アイドルとは違う。彼女たちとは違う。
芸能界の華やかでない部分を知って。演技することを知って。
私は、そうなっちゃ、いけないんだ、って。そう思って。
……アイドルである彼女たちが、どうして、あんなに明るくて楽しそうなのか。今までわからなかったけれど、少し、わかったかもしれない。
今のマネージャーさんがダメだとは言わない。私は彼女に救われている。
でも、アイドル部のプロデューサー。あの人は、何か、違う。
そして、あの人みたいな人がプロデューサーだから、アイドルも明るくて楽しそうなんだ。
――そう言えば、結局、彼の答えは聞けなかった。
彼は、何と答えるつもりだったんだろう。
彼は、何と答えたんだろう。
彼なら、何て言ってくれたんだろう。
そんなことを思いながら、私は目蓋を閉じる。
――また、会う日があれば、聞いてみよう。
そんなことを思いながら、十数分間の眠りに落ちる。
次の仕事に、備えるために。
5
仕事がない時は、仕事の準備や勉強をすることがほとんどだ。それらが終わればドールハウスに手を付けるけれど、いつもできるとは限らない。
346プロにある346カフェで、私は待ち合わせをしていた。私の方が先に着いたようだったので、私は勉強をしていた。
それから数分もしない内に、
「遅れてすまない。眼鏡、かけるんだね」
という声が上から聞こえてきた。「勉強している間だけ、ですけれど」と言って私は眼鏡を外し、彼を見る。
「今日は、何の用ですか?」
そう。今日私を呼んだのは他でもない彼だ。マネージャーさんを通じて、呼ばれたのだ。
「話がしたい、と思ってね」
「先日の続き、ですか?」
「まあ、そうだね。他にもありはするけれど……」
「他に?」
「ああ。だけど、それは俺が話すべきことじゃあないと思うから、やめておくよ」
「……そうですか」
私がそう言うと、彼はなぜか驚いたように目を丸くした。
「どうかしたんですか?」
そう尋ねると、彼は「いや……」と苦笑し、
「先日、君と仕事をした三人、覚えているかい?」
「はい。ニュージェネレーションの島村卯月さん、渋谷凛さん、本田未央さん」
「そうそう。で、彼女たちなら『やめておく』って言ったら、絶対に『何のことか』って問いただしてきただろう、って思ってね。実際、ちょっと前もそうだったから」
「……そうなんですか」
それが、普通の女子高生、なのだろうか。
私は『理想の十六歳』、『求められている姿』ならわかるが、『普通の女の子』がどういうものなのかはあまり知らない。
聞き分けが良すぎるのも、不自然ということだろうか。
「さて、本題に移ろうか。と言っても、君の聞きたいことは、さっき言ったように俺が言うべきことじゃあないから言わないでおくけれど」
「えっ……なら、何を」
私は先日の答えを教えてくれると思っていたのだ。それが違うとなれば、驚くことも仕方ないだろう。
しかし、先日の答えでないのなら……先日の続きとは、どういうことなのだろう。
私が考えていると、彼はすぐにその答えを言ってくれた。
「君の意見を聞きたいと思ったんだ。そうだな……先輩に教えを乞う、ってところかな」
「先輩、なんて」
「先輩だよ。俺はプロデューサーになって十年も経っていない若輩者だ。そんな俺が岡崎さんを先輩と呼ぶのは、あまりおかしいことじゃあないと思うが」
……はっきり言って『先輩』と呼ばれることには大きな違和感があったけれど、これ以上は何も言わないことにした。何を言っても、うまく言いくるめられる気がする。
私が黙っていると、彼は続ける。
「で、だ。聞きたいことは単純だ。岡崎さん、君の、『君自身の答え』を聞きたい」
私、自身の。
『理想』ではなく、私、自身の?
その言葉に、私は驚いていた。でも、そんなことには構わず、それに気付いておきながら、その上で、彼は言った。
「君は、『アイドル』について、どう思う?」
その瞬間、私は固まった。
「……アイ、ドル」
と、そのような言葉しか出なかった。彼は続ける。
「そう。アイドルだ。岡崎泰葉さん。君の思いを聞きたい。『アイドル』という存在に対する、君の、思いを」
彼は私の目をまっすぐに見ていた。それは、まるで、私の心が見透かされているようで……。
「……私は、アイドルに、憧れています」
いつの間にか、私はそんなことを言っていた。
「いつも明るくて、楽しそうで。そんな、彼女たちに、憧れています」
そう、本心を語ってしまう。
「……君は、違うのか?」
彼は言う。
「いつも見る君は、明るくて、楽しそうだ。でも、違うのか?」
「……それは」
私は目を伏せて、考える。こんなことを言ってもいいの? マネージャーさんのように付き合いが長いわけでもない、この人に。
……違う。この人だから、言うんだ。付き合いが長いわけでもない、彼だからこそ。
あまり知らない人だからこそ、言えるんだ。
「違います。いえ、普段のお仕事が楽しくないわけじゃないし、楽しいことは、楽しいんです。でも、アイドルの皆さんとは、違います」
顔を上げて、彼の目を見て、私は言う。
「だから、アイドルは私の憧れなんです。いつか、私も、彼女たちのように……」
そこまで言った、その時、
――私には、無理だ。
私の奥底から、そんな声が聞こえて。
「……彼女たちのようになれたら、って、思っています。これが、私のアイドルに対する思いです」
「そうか」
プロデューサーは言った。
「ありがとう。参考にさせてもらうよ」
6
それからはまたいつも通りの日々に戻った。
大人たちの言う通り、ただただ仕事を繰り返していくだけの毎日。
プロデューサーに言ったことは嘘じゃない。この仕事は楽しいことは楽しいのだ。
――本当に?
自分の内からそんな声が聞こえる。でも、これに対しては自信をもって答えられる。
この仕事は楽しい。
これは、本心だ。
確かに、最近は自分が本当に楽しんでいるのかどうかわからなくなってきた。こんなことをして意味があるのかなんて悩むこともある。でも、だからと言って、この仕事がまったく楽しくないかと言えば、それはまた別の話だ。
――彼女たちより、楽しんでいる?
……それは、わからない。いや、楽しんでいないだろう。アイドルである彼女たちに比べれば、私は楽しめていないのかもしれない。
でも、比べても意味はない。
私と彼女たちは、違うのだから。
私は、彼女たちのようには、なれないのだから。
7
車の中。
事務所に帰る時のことだ。私はマネージャーさんが運転する車に乗っていた。
いつも通り仕事をこなした、何の変哲もない日だった。
――ここまでは。
「泰葉ちゃん。ちょっと、いい?」
マネージャーさんが言った。私は勉強していたところだったが、中断できないことでもなかったので、
「はい、大丈夫です」
と答えた。マネージャーさんは、「ありがと」と言って笑った。
「なんですか?」
「聞きたいことがあって」
「聞きたいこと?」
「うん」
私はマネージャーさんの顔色を窺おうとするが、位置的な関係で見えない。ミラー越しにも、ちょうど目が見えない位置だ。動いている口だけが見える。
「泰葉ちゃん、あなたはアイドルについて、どう思う?」
そう言われた瞬間、私は声を失ってしまった。先日、プロデューサーにも聞かれたことだったからだ。
「それ、プロデューサー……アイドル部のPさんにも聞かれましたよ。何か、あるんですか?」
私がそう言った瞬間、マネージャーさんの口元が強張ったように見えた。しかしマネージャーさんは数秒だけ沈黙し、
「……そう。わかった。じゃあ、それはPさんに聞いておくわ」
そしてマネージャーさんは、もう一度、今度は別の質問を投げかける。
「なら、泰葉ちゃん。モデルの仕事は……今の仕事は、楽しい?」
「楽しいです」
私は即答した。これは本心だった。今の仕事が楽しくないなんてことはない。
マネージャーさんの口元がふっとゆるんだ。
「……『それ』は、本心なんだね」
「えっ?」
いったいどういうことだ。その言葉は、まるで……
私の動揺が収まるより前に彼女は続ける。
「ねぇ、泰葉ちゃん。『アイドル』に、興味はない?」
そう問われて、でも、私はすぐには答えられなかった。
「どういう、意味ですか?」
やっと口に出せたのは、そんな言葉だった。そんな言葉しか言えなかった。
「……ううん、聞いてみただけ。気にしないで」
彼女の口元は優しげに微笑んでいる。でも、その真意は見えない。
彼女は続ける。
「ただ、そろそろ、そういうスカウトみたいなものが、あると思うの。移籍、というよりは、部署の異動、かな。そういう話が持ちかけられると思うの」
「それは……」
「でもね、泰葉ちゃん。このまま、今の仕事を続けるか。アイドルになるか。選ぶのは、あなた。……私としても、会社としても、どちらを選んでも大丈夫だってことだけ、伝えておこうと思って」
「……マネージャーさんは」
「それを言っちゃうと、泰葉ちゃんは、その通りにしちゃうでしょう? ……泰葉ちゃん。あなたは優しいわ。とても、とても優しい。でもね、泰葉ちゃん。その優しさが、あなた自身を傷付けたら意味がないの。そんなことは、私も……いえ、あなたの周囲のみんなが嫌なの」
「……私、は」
「……泰葉ちゃん。あなたは、我がままを言ってもいいんだよ。私たちの言うことを聞くだけが、正しいことじゃないの。……それだけは、覚えておいてほしい」
「……わかり、ました」
8
あの後、私はマネージャーさんに連れられて事務所に帰り、それから自宅に帰った。
マネージャーさんの言ったことの意味がわからないほど、私はバカじゃない。
アイドルになるか、このままの仕事を続けるか。
どちらかを、自分で選べ、と。
思えば、マネージャーさんの目が見えなかったのは、彼女が調整してのことだろう。
私は比較的人の表情を読める人間だから、私に与える情報を、出来る限り少なくしたかった。
自分が何を考えているか、出来る限り、隠したかった。
私自身に、決めさせるために。私に、本心を言わせるために。
確かに、もしもマネージャーさんがどちらかにした方がいいと言ったのならば、私はその通りにしてしまったのだろう。
私は今まで、大人の言う通りにしてきた。
でも、それじゃあダメなんだ。
これは、私で決めなければならないことなのだ。
マネージャーさんは、そう教えてくれたのだ。
大人の言う通りにしてきた私に、大人の言う通りにしないことを、教えてくれた。
『大人の言う通りにすることはこれで最後だ』と約束するように。
……だから、私はその通りにする。
マネージャーさんの言うことに、従うことにする。
マネージャーさんの言うことに従って、これからは、大人の言うことをただ聞くだけはやめよう。
マネージャーさんが、最後だ。
これで、最後だ。
これからは、私が決めよう。
私がしたいことをしよう。
――私は、彼女たちのようにはなれない。
そうかもしれない。
でも、だからと言って、このままでいることがいいことだとは思わない。
私は、人形じゃない。
人形を、やめるんだ。
そのためには――
9
数日後。
私はまた346カフェに来ていた。今度は彼が先に到着していた。
「おはようございます」
「ああ、おはよう、岡崎さん」
私は席に着き、彼の顔を見る。
「用件は、なんですか?」
「……その顔。そうか、もう、聞いているのか」
プロデューサーは言った。私は驚いたりしない。わかっていると思っていたから。
「じゃあ、率直に言おう。岡崎泰葉さん。君をアイドルにスカウトしたい」
「……それは、部署の異動、ということですよね」
「そうだ。既に各所の了解はとっている。答えは一つ。『岡崎泰葉に任せる』というものだ。君がしたいようにしろ、ということだった。だから、俺は君をスカウトしようと思ったんだ。ここに入った頃から、君のことをアイドルにしたいと思っていたからね」
「えっ」
それに関しては初耳だったので、思わず声が出てしまった。
「どうして、私を……」
「どうして? そんなの、わざわざ言うまでもないことだと思うけどな。モデルとして、子役として、既に十分な地位を築いている君だけれど、今は『アイドル』の時代だ。君ほどの素質を持つ人材をスカウトしたいと思わないわけもないだろう」
プロデューサーさんは言う。本心だ。すぐにわかる。素直にすべてをさらけ出している。
「それで、掛け合ったこともあるんだけど……まあ、無理だと言われたね。そりゃそうだ。現在成功しているような人間をわざわざ新しいところに、なんて、それは大きなリスクだ。そこでリスクよりもリターンの方が大きいとプレゼンするのが俺の仕事なんだが……なかなか納得してもらわずにずるずると今まで来た」
その話を聞いて、私は驚いていた。そんな前から……。
彼は続ける。
「しかし、数年前、君のことをTVで見ることが少なくなった。最初は気のせいかと思ったが、どうやらモデル中心に仕事をシフトしていったとわかった。でも、俺には納得し難かった。君はモデルとしても大成できるが、どちらかと言えば子役に向いていると思っていたんだ。……いちばん向いているのはアイドルだとも、ね」
いちばん向いているのはアイドル。
そんな言葉を言われるとは思わなかった。私が、アイドルに向いている……? そんな姿、想像もつかない。
「その理由を聞いてみると、『彼女のことを考えて』という答えが返ってきた。俺は意味がわからなかった。でも、君を実際に見る機会があって……そんな機会が何度かあって、ようやくわかった。……岡崎泰葉さん。君は、今の仕事に、疲れてきている」
「……はい」
それは、見抜かれているだろうと思っていた。私は今までずっと隠せていると思っていたけれど、そうじゃなかったのだ。マネージャーさんが見破っていたように、この人も、私が演技をしていたと見破っていた。
「すごい演技力だよ。あれが演技だとは、普通なら気付かないと思う。でも、ずっと見ていたら、さすがに気付く。そして、それでわかったんだ。『彼女のことを考えて』という言葉の意味に。……君の負担を、少しでも減らすため、だったんだ」
それはわかっていた。感謝しても感謝しきれないし、とても、申し訳ない。あの頃の私はまさしく『売り出し時』だったのに、そんな時に仕事を減らすなんて……。
しかし、彼の受け取り方は違うようだった。
「ここで君を辞めさせなかった、というのが、この業界の辛いところだね。君を手放すことは会社としても辛かった。子どもに無理をさせるなんて、と思っていながらも、会社は君を手放せなかったんだ。妥協点としてモデル中心の仕事へ、ということだったが、本来なら、この仕事が君を傷付けていると気付いた時点で仕事を辞めさせるべきだったんだ。……これに関しては、俺からも、謝罪するべきだろうね。今まで無理に働かせて、すまなかった」
「そ、そんな。私は、好きで、やっていたことですから……」
謝られるとは思っていなかったので動揺した。確かに、数年前から、私は仕事の意味に悩んだりしたけれど、でも、それは謝られるようなことではない。それは、私自身の問題なのだから。
「君がそう思っていても、俺たちは謝らなければならないんだ。……でも、君のことだ。謝り過ぎても、ダメなんだろう。これ以上は、自己満足だ」
「本題に戻ろう。俺はそれからもずっと君のことを見ていた。と言っても、俺にも担当のアイドルが居たから、彼女たちを優先してはいたが……結果的に、それが功を奏した。俺が担当するアイドルが、君と共演した時のことだ。君を見た時に、俺は気付いた。この子は、アイドルに憧れているのではないか、ってね」
ずばり言い当てられて、びくりとした。どうして、それを……私が訝しんでいると、彼は笑った。
「俺は仮にもプロデューサーだからな。繊細な女の子たちを相手にしてきた経験を活かせば、君が何を考えているかだいたいのことをわかるようになっていたんだ。……君をアイドルとしてスカウトしようと躍起になっていた頃、君のことを調べ尽くして、それからも、君のことを見続けてきていた、というのもあるんだろうけどね」
君のことを見続けてきていた、なんて言われると、恥ずかしくなってしまう。そういう意味ではないということはわかっているのだけれど、それでも。
そんな私に気付いているのか気付いていないのかわからないけれど、彼は続ける。
「君がアイドルに憧れているとわかった時、俺はとても嬉しかったよ。これで、と思った。これで、君をアイドルにできる、って。君の負担を軽くできるかもしれないということがわかったなら、それを材料にすれば、大丈夫だろう、って。それで色々と交渉を続けて、結果、今に至る、ってわけだ。あとは、君に聞くだけの、今に」
彼は私のことをまっすぐに見つめた。
答えを求めるように。まっすぐに。
……でも。
私には、まだ聞きたいことがあった。
あと一つだけ、私には、聞かなければならないことがあったのだ。
「……その前に、聞きたいことがあるんですが、いいですか?」
「もちろんだ」
プロデューサーは即答した。安心して聞いてくれと言っているようだった。
その厚意に感謝して、私は言った。
「私は、本当に、アイドルになれますか?」
「なれる。俺が約束する」
「……もし、無理だったら?」
「無理……?」
「あなたの期待とは違って、私に、アイドルの素質がなかったら……?」
そう。
私は、それが心配だった。
私はアイドルに憧れていた。
でも、だからこそ、自分がアイドルになれるとは思っていなかった。
自分があんな風に明るく楽しくしている姿が、想像できなかったのだ。
だから、聞きたかった。
私が、アイドルになれるような人間じゃなかったら。
もしそうなら、どうするのか。
それだけが、聞きたかった。
それを聞いてから、決めようと思ったのだ。
それを聞かなければ、決めてはいけないと思ったのだ。
でも。
「そんなの、決まってるだろ」
彼は、何でもないことのように、微笑んで。
「万が一、君にアイドルの素質がなかったとしても。俺がアイドルにしてみせる。それが俺の仕事なんだから。それが、プロデューサーという仕事なんだから」
はっきりと、そう言った。
――この人なら。
その瞬間。
私の覚悟は、決まった。
「……プロデューサー」
彼の目を、まっすぐに見て、私は言った。
「私を、プロデュース、してくれますか?」
彼は即答した。
「もちろんだ。岡崎泰葉。俺は、君をプロデュースする。君をアイドルに――必ず、トップアイドルにしてみせる」
そして、この時。
そう、この時だ。この時、この瞬間。
346プロの、346カフェ。
ここから、私の――岡崎泰葉の、『アイドル』としての時間が、始まった。
岡崎泰葉は、アイドルになるための、小さくて、大きな一歩を踏み出した。
10
「……マネージャーさん」
「……アイドルに、なるの?」
「……はい」
「そう」
「……わかってたんですか?」
「ええ。……ううん、嘘。わかってなかった。Pさんに言われて、それで、気付いたの。……私、ダメだね。ずっと一緒に居たのに、気付かなかった」
「そんなこと、ないです」
「あるの。……私は大人で、あなたは子ども。『大人』とか『子ども』とかで話をする人はあまり好きではないけれど、それでも、大人は子どもを守らなければならないって、大人になった、今だからこそ思う。子どもを守ることは、大人の義務なの。……私は、その義務を果たせなかった」
「……マネージャーさんが居たから」
「え?」
「マネージャーさんが居たから、私は、ここまで歩いてくることができました。……あなたは気付いていないかもしれませんが、今まで、何度、あなたに救われてきたか。あなたが居たから、今の私があるんです」
「……泰葉ちゃん」
「だから、今まで、ありがとうございました。今まで、お世話になりました」
「……ねぇ、泰葉ちゃん。最後に、一つだけ、お願いがあるの」
「……なんですか?」
「私を、あなたのファン一号にしてくれる? 『アイドル』としての、岡崎泰葉の」
「……もちろん、です」
11
数日後。
私はPさんに連れられて事務所に来ていた。アイドルの事務所なのだから賑やかなのだろう……という私の予想よりも賑やかな事務所だった。
聞くところによると、仕事があるわけでもなくレッスンがあるわけでもないのに事務所に居るアイドルがほとんどらしい。……どういうことなの?
事務所に入ってまず出迎えてくれたのは緑の蛍光色をした服を着た女性だった。
……え? 緑の蛍光色? 普通に考えたらありえない服装のはずだけれど……どうしてか、とても似合っている。不思議な人だ。
「あ、お帰りなさい、プロデューサーさん――って、え!? 泰葉ちゃん!? 泰葉ちゃんじゃないですか! ど、どうしたんですか!?」
彼女は私を見てとても驚いているようだった。……ぷ、プロデューサー? もしかして、私がここに異動するって、連絡してないんですか?
しかし、プロデューサーは呆れたように息を吐き、
「いや、ちひろさん。前に言ったじゃないですか。『岡崎泰葉がウチに来る』って」
「た、確かに言ってましたが……冗談だと思ってました」
「冗談じゃなかったんですよ。書類上もしっかりウチの所属になってます。……でも、珍しいですね。あのちひろさんが……」
「あの、って、どのですか? ……仕方ないじゃないですか。私、泰葉ちゃんのファンなんです。そりゃあ、動揺もしますよ」
彼女は唇を尖らせて言った。どこかマネージャーさんを思わせる人だな、と思った。
「あ、挨拶がまだでしたね。岡崎泰葉さん、私は千川ちひろと言います。これから、よろしくお願いしますね」
「あ、はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
千川、ちひろさん……なんだか、楽しい人だ。
私に挨拶をして、彼女はそのまま「あ!」と嬉しそうに手を合わせた。
「それだったら、私、泰葉ちゃんのファン一号になれるんじゃないですか!? アイドルとしての岡崎泰葉。その、ファン一号に!」
興奮した様子で彼女は言ったが、「それは無理です」とプロデューサー。
「なんでですか」
「俺がファン一号だからです。ちひろさんは、二号ということで」
「えー……ずるいですよ、プロデューサーさん」
「プロデューサーがアイドルのファン一号になるのは、当然のことですから」
そんな会話を勝手に続けるプロデューサーと千川さんだったが、それに関しては言わなければならないことがあった。
「それは違います、プロデューサー、千川さん。私のファン一号は、もう他に居ます」
「えっ?」
「……それは俺も初耳なんだが、もしかして」
千川さんは驚いて、プロデューサーは苦い顔をして。
「はい。たぶん、プロデューサーが思っている通りです」
「そうか。……ったく、最後になんてことをしてくれてるんだ」
プロデューサーは苦笑した。マネージャーさんのことを考えているんだろう。しかし、千川さんは何のことかわからないようで、「え? いったい、どういうことですか?」と首を傾げている。
「まあ、つまり、俺がファン二号で、ちひろさんは三号、ってことですよ」
「……納得いきませんが、これ以上聞いても答えてくれそうにないですね」
「さすが。察しが良い」
「……嬉しくないです」
……この二人、仲が良いな。私が思ったことはそんなことだった。このプロデューサーは、アイドルだけでなく、事務員さんとも仲が良いんだ。
「それと、泰葉ちゃん。私のことは『ちひろ』でいいですよ」
「あ、はい。ちひろさん」
「そうそう。……泰葉ちゃんに名前呼ばれちゃった」
……この人、私のファンの中でも熱心な方かもしれない。
「ああ、そう言えば、泰葉。勘違いしているだろうから言うが、ちひろさんはアイドルでなければ事務員でもないぞ」
「えっ……じゃ、じゃあ、何なんですか?」
「アシスタントだ」
「アシスタント……?」
「よくわからないかもしれないが、とにかく、アシスタントなんだ」
「……よくわからないですが、とにかく、アシスタントなんですね」
とりあえず納得しておいたが、はっきり言って納得しているとは言い難い。アシスタント。アシスタントってなんだ。事務員ではないのか。不思議だ。
それから事務所の中に進んでいくと、数人のアイドルが近付いてきた。
「お帰りなさい、プロデューサー。……泰葉。やっぱり、入ったんだ」
「おかえりなさい、プロデューサー★ ――って、泰葉ちゃん!? え? なんで?」
「泰葉チャン!? ど、どういうことにゃ? みく、聞いてないよ?」
渋谷さん、城ヶ崎さん、それに、前川さんだ。渋谷さんは落ち着いているが、あとの二人はかなり動揺している。プロデューサーは笑い、
「当然だ。言ってないからな。紹介しよう。今日からウチの所属になる岡崎泰葉だ」
「よろしくお願いします」
私がぺこりとお辞儀すると、
「よろしく、泰葉」
と渋谷さんは微笑み、
「よ、よろしく、泰葉ちゃん」
と城ヶ崎さんは戸惑った様子で、
「まだ納得できてないケド……よろしくにゃ、泰葉チャン」
と前川さんは戸惑いと微笑みの中間のような表情を浮かべた。
そこに。
「おっ、やすやす! 今日だったんだ。ようこそようこそー」
「泰葉ちゃん! 今日だったんですね。これからよろしくお願いします!」
本田さんと島村さんが笑顔でこちらに向かってくる。この二人は既に知っていたらしい。が、そのことに最も驚いているのは私ではなく城ヶ崎さんと前川さんだった。
「未央チャンも卯月チャンも知ってたのかにゃ!? っていうか、凛チャンも知ってたみたいだったし……美嘉チャンは知らなかったみたいだケド」
「……プロデューサー。どうしてニュージェネの三人だけ知ってるの? ヒイキ?」
前川さんと城ヶ崎さんがプロデューサーを睨む。プロデューサーは嘆息し、
「べつに教えたわけじゃない。凛が勝手に勘付いたんだよ。それでそのことに勘付いた未央と卯月に迫られて、凛が教えてしまった、ってトコだろうな」
「べつに口止めされたわけじゃないし、いいでしょ? プロデューサー」
「……まあ、いいんだが」
プロデューサーは諦観めいた様子で言った。付き合いの長い、信頼し合っている人たち特有の空気というものが感じられた。
「……プロデューサー」
そこに城ヶ崎さんが苛立ちを含んだ声を出す。
「今回のお礼に、今度、どこかに連れてってよね」
「……は?」
城ヶ崎さんの言葉に、プロデューサーは固まる。意味がわからないといった様子だ。
プロデューサーの硬直が解けるより早く、前川さんが身を乗り出し、
「それは良い提案にゃ! みくも連れていってもらおうかな~」
「あ、みくちゃんはダメだよ?」
「なんでにゃ!?」
城ヶ崎さんの言葉に前川さんは涙目だった。しかし城ヶ崎さんは「違う違う」と笑い、
「みくちゃんと一緒に行くのが嫌ってわけじゃないの。せっかくだから、プロデューサーと二人きりで行きたいって思ったんだよ★」
「二人きり……じゃ、じゃあ、みくも二人きりを希望するよ! Pチャンと二人きりで猫カフェを巡るの!」
「……いや、まだいいと言った覚えは」
「二人とも、それはずるいなぁ。なら私も、ってことで、プロデューサーくん、私のショッピングに付き合いなさい」
「あっ、なら私も! ちょっとだけでいいですから、時間、欲しいですね」
「みんな、プロデューサーが困るからやめなよ。……あ、私も忘れないでね、プロデューサー」
「……はぁ」
……思っていた以上に仲が良いらしい。というか、仲が良いにも程があるような気もする。アイドルも一人の女の子、ってこと、なの?
「そう言えば、未央。『やすやす』、って、何?」
渋谷さんが訊ねる。私も気になっていた。いや、推測できないわけではないが……。
「そりゃあもちろん泰葉ちゃんのコトだよ☆ 『泰葉』だから『やすやす』。どう?」
「どう、って……泰葉。泰葉はどう思う?」
「えっ、私、ですか?」
そう言われても私はどう答えるべきなのかわからない。……答える『べき』? ううん、違う。ただ本心を、言えばいい。
「べつに、構いません。本田さんの呼びたいように――」
――して下さい。そう言おうと瞬間、
「あー!」
と本田さんが大変なものを見付けてしまった時のように声を上げた。
「な、なんですか?」
突然声を上げられたものだから、私はびっくりしてしまう。他の皆さんも同様だ。本田さんのことを不思議そうに見ている。
「やすやす。今、私のことをなんて呼んだ?」
しかし、その瞬間、他の皆さんの表情から疑問が消え、納得したような表情に戻る。
私は意味がわからない。
「本田さん、と……」
私は言う。そう言った瞬間の本田さんの不機嫌そうな表情、そして、今まで接してきてわかってきた彼女の性格から考えて、彼女が何を望んでいるのかわかった。
そして私がそれを理解した瞬間に、本田さんは言う。
「その呼び方。それ、ダメだよー? 私のことは気軽に未央ちゃんと呼んでくれたまえ」
「あ、それならアタシも。莉嘉が居るからややこしいしね。泰葉ちゃん、アタシのことは美嘉って呼んでね★」
「みくのこともみくにゃんって呼んでくれたら嬉しいにゃ!」
「私も、卯月、でお願いします!」
「私も、凛、って呼んでほしいな」
立て続けに言われて、私は目を回してしまう。しかし、やっとのことで、
「は、はい。わかりました。未央ちゃん、美嘉さん、みくちゃん、卯月さん、凛ちゃん」
と言うことができた。
「……どうしてアタシと卯月だけ『さん』付けなワケ?」
美嘉さんが不機嫌そうに唇をつんと上げる。
「そんなの聞くまでもないでしょ。美嘉ねーとしまむーが十七歳だからだよっ!」
未央ちゃんが言う。確かにそうだった。
「えー? でも、凛はアタシのコト呼び捨てじゃん? おかしくない?」
「しぶりんは割りと誰でも呼び捨てだから例外だよ」
「それもそっか」
「ちょっと。なんで納得してるの、二人とも」
凛ちゃんが言う。未央ちゃんと美嘉さんは笑いながら、
「だって、凛って友紀ちゃんすら呼び捨てじゃん。あの人、一応二十歳なんだよ?」
「……今、美嘉ねーは思い切り『ちゃん付け』だったけどね」
「……自分で言っていて何だけど、友紀ちゃんは例外でしょ」
「……うん」
友紀……姫川さんのことだろうか。確かに、あの人は二十歳に見えない。
「もう……。あと、泰葉。敬語もしなくていいから。プロデューサーには……どっちでもいいけど、私たちには、ね」
凛ちゃんが言う。その言葉に反応したプロデューサーが「おい、どっちでもいいってなんだ」と言い、「べつにいいでしょ」と返され、「……いいけど」と納得していた。
敬語をしなくてもいい……確かに、そうかもしれない。今まで、周りは大人ばかりだったから、敬語じゃない話し方っていうのには違和感があるけれど、でも、本来ならそっちの方が自然なんだ。そんな当然のことに、今更気付いた。
でも。
「……ごめんなさい。私は、こっちの方が、慣れていて」
「……そう。じゃあ、いいよ。ごめんね、泰葉」
「いえ。そんなことは……」
そんな風に私たちが話していると、未央ちゃんとみくちゃんがこそこそと、しかし私にも聞こえるくらいの声量で話していた。
「改めて考えると、しぶりん、なんだか偉そうだね」
「確かに……。正直、みくは凛チャンが大御所の人たちに失礼なことを言っちゃわないかいつも心配しているにゃ。『ふーん、あんたが今日の司会者? ……まあ、悪くないかな。私は渋谷凛。今日はよろしくね』みたいなことを言っちゃわないか、って」
その言葉を聞いた凛ちゃんは突然顔を真っ赤に染め、
「ちょっ、みく! なんでそれ知ってるの!?」
「Pチャンから聞いたにゃ」
平然と答えるみくちゃんに、凛ちゃんは恐ろしいほどに冷たい表情を浮かべ、
「……プロデューサー」
冷えきった声で、プロデューサーを呼んだ。
「……なんだ?」
「どうして、教えたの?」
「……ちょっと、聞かれて」
「聞かれて? いったい、何を? 私との初対面の時の話?」
「いや、違う」
「じゃあ、何を――」
と凛ちゃんが話しているその時、
『ふーん、あんたが私のプロデューサー? ……まあ、悪くないかな。私は渋谷凛。今日からよろしくね』
という凛ちゃんの声が、未央ちゃんの携帯から聞こえた。
「……え?」
凛ちゃんは意味がわからないといった様子で未央ちゃんの方を見る。未央ちゃんは素知らぬ顔で携帯から顔を上げ、
「あ、ごめんごめん。……続けて、どうぞ」
「続けられるわけないでしょ!」
凛ちゃんが顔を真っ赤にして叫ぶ。そんな凛ちゃんを「まあまあ」と卯月さんが微笑み宥めている。……凛ちゃん、クールな子だと思っていたけれど、こんなところもあるんだ。
「というか、ちょっと遅くなるけど、泰葉チャン。みくのことはどうしてみく『にゃん』じゃなくてみく『ちゃん』って呼んだの? みくは抗議を申し立てるにゃ!」
「本当に遅いね、みくにゃん」
「未央チャンは口を出さないで! ……で、どうなんだにゃ?」
それを聞かれても……私は困るが、正直に答えることにする。
「その……みく『にゃん』というのは、ちょっと、恥ずかしくて」
もちろん仕事ならする。でも、仕事じゃないのなら避けたいことだ。
「恥ずかしくなんてないよ! 泰葉チャンも猫キャラになればわかるにゃ。さあ、今すぐこれを付けてみくのことをみくにゃんって呼んで!」
みくちゃんがどこからともなく取り出した猫耳を――どこから出したの!? というか、どうして持ってるの!?
「え、そ、それは……」
困った私はプロデューサーの方を見る。凛ちゃんに先程の件について追及されていたプロデューサーは私の方を見てにっこりと笑う。
「泰葉。これもアイドルの仕事だ!」
「……仕事なら」
私はみくちゃんから猫耳を受け取り、装着。そして、
「にゃんにゃん♪ これでいいですかにゃ、みくにゃん?」
猫を擬態したポーズを取って、微笑み、小首を傾げる。
すると、
「……プロだにゃ」
「……プロだ」
「……プロだね」
「……プロです」
「……プロだ」
と感心される。……あ。うっかりやってしまった。でも、これでもう――
『にゃんにゃん♪ これでいいですかにゃ? みくにゃん』
プロデューサーの持った機器からそんな声が聞こえた。
「よし。録音成功」
プロデューサーがぐっと拳を握り言う。……って、
「何してるんですか! プロデューサー!」
顔が熱い。恥ずかしい。な、なんで、そんな……!
しかしプロデューサーは平然として、
「ん? 今のを録音したんだ。あ、もちろん動画も撮ってるから心配するな」
「動画も!?」
「ああ。ちひろさん!」
「はい!」
呼ばれて現れたのはちひろさん。彼女の手にはやけに本格的なカメラが……。
「そ、そんなの、いったいどこに……」
そんなに大きいものに気付かないはずがない。それなのに、気付かなかった。いったいどうして……。
「ちひろさんだからな」
プロデューサーが言う。そんなことで納得――
「ちひろさんならありえるね」
「ちひろさんだからね」
「ちひろさんだもんね」
「ちひろさんですからね」
「ちひろチャンならありえるにゃ」
……え? ちひろさんって、いったい、何者……?
私が考えていると、プロデューサーが事務所に備え付けの時計を見て、
「おっと、もうこんな時間か。ずいぶん話しこんでるが、泰葉。まだまだ案内は終わってない。事務所を案内してからはレッスン場に行く。時間はまだあるが……」
その時、
「事務所の案内? なら、私たちがやるよ」
と凛ちゃんが言う。プロデューサーは、「しかし」と難色を示すが、
「てゆーか、アタシたちもこの後レッスンだし、その時一緒に行けばいーじゃん★」
「そうそう。だから、今はみくたちに任せるにゃ」
「そうですよ。プロデューサーさんは、ゆっくり休んで下さい」
「いやいやしまむー……休むなんてちひろさんが許すわけないでしょ?」
「許しますよ! 泰葉ちゃんの前でなんてことを言ってくれてるんですか!」
「えっ、許してくれるんですか!?」
「仕事が終われば」
「……はい」
と、このようにしてちひろさんに机に連行されていった。
――忙しいんだなあ。
と私が思っているのも束の間、
「じゃあ、行こうか、泰葉。そんなに時間もないしね」
「ねえねえ美嘉ねー、今、事務所に誰が居るっけ?」
「莉嘉は居るハズだけど……割りと居るんじゃない?」
「オフでも、結構来るからにゃあ……。みくもよく来るし」
「まあ、案内していたらきっと会えますよ」
……この後、私は彼女たちに事務所を案内され、想像を遥かに超える数のアイドルと会うことになるのだが、この話はまた、機会があれば。
12
「泰葉。最初は見学にするか? それとも、参加するか?」
プロデューサーに連れられて、私はレッスン場に来ていた。
凛ちゃんたちも一緒に来ており、彼女たちのレッスンを見ておくか、彼女たちのレッスンに参加するか。どちらにするかを聞かれているところだった。
「トレーニングウェアは既に用意してある。本来なら、最初から凛たちと一緒にレッスンなんて無茶な話だが……泰葉、お前が決めてくれ」
凛ちゃんたちは今着替えに行っている最中だ。彼女たち曰く、「かなりキツい練習」とのことだが……。
迷ったが、私は答える。
「……参加、させて下さい」
「わかった。じゃあ、着替えてこい」
「はい」
プロデューサーはその答えがわかっていたかのようにすぐにトレーニングウェアを渡して、私を着替えに行かせた。更衣室に入ると、凛ちゃんたちは驚いていた。
「いいの? いきなりは……泰葉でも、無理だと思うけど」
「いいんです。私は、アイドルになるんですから」
その答えに凛ちゃんたちは複雑な表情を浮かべていたが、
「まあ、泰葉がいいなら、いいよ。ただ、キツくなったらすぐに言ってね」
「はい。……ありがとう、凛ちゃん」
「どういたしまして」
そうして、レッスンが始まった。
今日のレッスンはダンスレッスン。……私は、あまり経験がない。
歌なら歌わせてもらったことがあって、それからある程度の練習は積んでいるが、ダンスに関してはからっきしだ。子役時代にほんの少しならやったが、アイドルのダンスとはまったく別のものだろう。
でも、それでも。
私は、アイドルになるんだ。
だから、がんばらなきゃいけない。
アイドルになるために、がんばらなきゃいけないんだ。
13
数十分は経っただろうか。私の意識は既に朦朧としていた。
新品だったトレーニングウェアが汗でびっしょりと濡れ、床に水たまりのようなものができている。
他のアイドルたちも同様だが、私ほどは息も乱れていない。
――がんばらなきゃ。
私は思う。アイドルになるためには、もっとがんばらないといけない。
脚が痛い。腕が痛い。苦しくて、辛い。
でも、それでも、アイドルになるためには、彼女たちのような、アイドルになるためには――
「ストップだ」
プロデューサーが言った。私たちは動きを止め、一斉に彼の方に振り向く。
「泰葉。お前、もう限界だろ。休め」
「……いえ。疲れてはいますが、まだ、大丈夫です。トレーナーさんが止めていないのが、証拠ですよ」
そう言うとプロデューサーはトレーナーさんの方を向く。
トレーナーさんは私の様子をちらりと見て、一度こくりとうなずいてから、
「はい。……確かに疲れてはいるでしょうが、それなら他のアイドルも同じです。まだ、大丈夫だと思います」
「……そうですか」
プロデューサーは言った。しかし、その顔に納得の色は見られない。
彼はずんずんと私の方に近付いてきて、つん、と私の額を押した。
その瞬間、私は全身から力が抜け、その場に崩れ落ちてしまった。
「やっぱりな。……泰葉、意識的にかどうかはわからないが、こんな時まで演技をするな」
呆れたように、プロデューサーは言った。……演技していたつもりではなかったけれど、どうやら、無意識に、強がっていたみたいだ。
その後、私は簡単なマッサージを受け、プロデューサーと一緒にレッスン場の端で、凛ちゃんたちのレッスンを見学していた。私がマッサージを受けている間も続けていると考えると、彼女たちは私が倒れた数倍のレッスンをこなしていることになる。
――やっぱり、私に、アイドルなんか……。
私がそうして落ち込んでいると、プロデューサーはそんな私の心を見透かしているように、口を開く。
「泰葉。お前は演技力という点では我が事務所でも随一だ。というか、ビジュアル面でお前を超えるアイドルは今のところ居ないよ。モデルと子役。ビジュアル面の最前線でずっと主力級を担ってきたお前だ。将来的には今のお前を超えるアイドルも出てくるし、そうしたいところだが、現時点では、我が事務所にビジュアル面でお前を超えるアイドルは居ない」
突然、そんなことを言われて、私は戸惑っていた。どうして、今、そんなことを……。
プロデューサーは続ける。
「でもな、泰葉。ボーカルとダンスという点では、まだまだで当然なんだ。レッスンも積んでないのに、凛たちのレッスンに付いて行けるわけがない。これは、当然のことだ。……凛たちだって、最初からこんなレッスンができたわけじゃない、なんて、そんなことは泰葉もわかっているだろう?」
それは、わかっている。……いや、たぶん、わかっていなかった。
「泰葉。お前もそうだ。ゆっくりと歩いていけ。時間は有限だが、そこまで切羽詰まったもんでもない。少しずつ、歩いていけばいいんだ。小さな一歩を積み重ねた上で、今のあいつらの姿がある。――泰葉、今は、ただ、あいつらを見ておけ。そう遠くない内に、お前もこうなる。俺が、そうする」
そう言ったきり、プロデューサーは一言も話すことなく、じっと凛ちゃんたちのレッスンを見ていた。
だから、私も彼女たちのことを見ることにした。ずっと続けているはずなのに、とても疲れているはずなのに、彼女たちは動き続ける。
――私が、こんな風に。
ほんの少し前の私なら、きっと信じられなかっただろう。
でも、この人の言葉なら。
今の私なら。
それも、信じられるような気がした。
「……プロデューサー」
私は言った。今の私の、本心を込めて。
「信じますから」
プロデューサーはただ、「ああ」と答えた。
14
――それから。
私は毎日のようにレッスンを受け続けた。辛いかった。キツかった。でも、それでも、そうしたかったのだ。そうしたかったから、そうしたのだ。
そして一ヶ月が経った頃だろうか。
レッスン終了後、プロデューサーが言った。
「泰葉。お前の初ライブが決まった。さすがに単独ライブとはいかないが、ソロもある。……いけるか?」
私の答えは一つだけだった。
「はいっ!」
15
ライブ当日。
私はライブ会場に居た。私以外にも見知った多くのアイドルが居る。346プロで、ともにレッスンをこなしてきた仲間たち。
――仲間たち?
そんな言葉を自然に使っている自分に気付き、びっくりする。
……仲間。そう、仲間なんだ。
芸能界は、敵だけの世界じゃない。相手を蹴落とすだけじゃない。
そういう側面がないとは言わないし、少なくとも、私には言えない。
だけど、仲間も居るんだ。
そんなことを、今更、きちんと自覚したように思える。
昔から……そう、モデルをやっていた頃も、マネージャーさんや、他にも、私の仲間は居たはずなのに。
……私も何か変わった、ということだろうか。
こんなことをプロデューサーに聞くと、どう答えるだろう。変わってないと答える姿も、変わったと答える姿も。どちらも容易に想像できて、想像できない。
この数ヶ月間、私はずっと彼と居た。『ずっと』と言うのは語弊があるし、実際にいちばん長く一緒に居たのはトレーナーさんか同じレッスンを受けてきたアイドルたちかもしれないけれど、それでも、私からすれば、私はずっと彼と居たのだ。
最初の一ヶ月。仕事はほとんどなく、(正確にはプロデューサーが『受けなかった』のだろうが)、レッスン漬けの毎日だった。
プロデューサーにはプロデューサーの仕事があったし、いつもレッスンを見てくれるということはなかったけれど、それでも、レッスン中、私はいつも彼の視線を感じていた。
そうしてレッスンに慣れた頃、私はプロデューサーに初ライブが決定したと伝えられた。
それからは、初ライブに向けてのレッスン。初ライブを成功させるためのレッスンだ。
他のアイドルたちとの合同レッスンも多かった。全体曲ならチームワークが大事だった。他のアイドルたちとの親交を深めていった。
その頃からは私の仕事も入ってきた。『岡崎泰葉のライブ』というのは大きな話題性を呼ぶほどではないが、ワイドショーのちょっとしたネタになる程度の話題性はあったのだ。
私のためだけではなく、事務所のアイドル全体のために、ライブ成功のために、というのが彼らしい。
ライブの告知をして、レッスンをして。そんな多忙の日々だった。
そして、今。
私は、ライブ会場に居る。
ずっと憧れてきたアイドル。そのアイドルが輝く場所。そのステージ側に居る。
とても、緊張する。ステージには慣れている。
……慣れている、はずだ。でも、それでも、緊張する。ひどく、ひどく。
周囲のざわめきが少しずつ遠ざかる。視界が狭まっていく。感覚が鈍化していく。
心臓の音が聞こえる。どくん、どくん。自らの緊張を教えるように鼓動が高鳴る。
周囲の音が消え去り、血液が循環する音だけが響いている。
どくん、どくん。大きな鼓動。ドクンドクン。早い鼓動。
ちらちらと、光が瞬く。光が閃く。光が煌めく。暗闇の中に、何かが光る。
耳は塞いでいない。でも、心臓の音と、自分の息に音しか聞こえない。
目は開いている。でも、暗闇の中にたまに閃く光以外には何も見えない。
――こわい。
初めて、こんなことを思った。
もしかしたら、私も覚えていないような小さい頃、その頃の私は、こんなことを感じていたのかもしれない。
でも、そんなことは覚えていない。
だから、これは私にとっては初めてだ。
――成功、するだろうか。
そんなことを考える。自信がないわけではない。……いや、自信がないのだろう。どれだけの努力を積んでも、どれだけのレッスンをしてきても、疑念が消えない。自分を信じることができない。
私は違う、って、ずっと、そう思っていた。
私は彼女たちとは違う。
私はアイドルとは違う。
ずっと、そう思っていたから。
その思いが、未だに消えない。
この思いは、未だに消えない。
疑念が底にこべりついている。焦げ付いている。
ステージを目前にして、それなのにこんなことでどうするんだ。
自分でもそう思う。でも、いくら消え去れと願っても、それでも消えない。
早く、準備しなくちゃいけないのに。こんなことではいけないのに。
早く、早く、早く、早く――
「泰葉」
はっと顔を上げる。目の前にプロデューサーの顔がある。
「緊張、しているか?」
すべてをわかったような微笑みを浮かべ、そんなことを訊ねてきて。
それで、私は、何を答えるべきなのかわかって。
だから、私は言う。
「ステージには慣れてますから、平気です」
バレている、とわかった上で、そんなことを言う。
強がりだと自覚した上で、そんなことを言う。
……ううん、これはもう、強がりじゃない。
私は、私のことを信じられない。
どれだけ努力してきたとしても、まだ何もできていない自分を、信じられるわけがない。
でも、この人なら。
この人の言葉なら、信じられる。
プロデューサーは言った。
私をアイドルにしてくれると。
なら、私はその言葉を信じよう。
その言葉を信じて、小さな一歩を踏み出そう。
「見ていて下さい、プロデューサー」
私は言う。
プロデューサーに。
私をずっと見ていてくれた人に。
「私が、アイドルになるところを」
「……ああ」
プロデューサーは、力強くうなずいた。
「行ってこい、泰葉」
「はい!」
16
「みんな、準備はいい?」
「もちろんだよ」
「大丈夫です!」
「じゃあ、残していこうか、私たちの足跡……! みんな、行くよ!」
「「「はい!」」」
「346プロ、ファイトー!」
「「「オーッ!」」」
17
そして、ライブが始まった。
まずは、全体曲。
イントロがかかった瞬間に、ファンの歓声が上がる。
びりびりと、身体の芯に響いてくる。それは声が大きいというだけではなく、もっと、もっと、深いところに。全身が震えて、心が震える。心に響く。
――わぁ……。わぁ……!
今まで受けてきた歓声とは種類が違うそれに、私は驚いてしまう。
しかしそんな私を待つわけもなく、イントロが終わり、卯月さんから歌い始める。
ダンスだ。そう思う前に、身体が勝手に動いている。まるで、ファンの歓声が、私の身体を動かしてくれているかのように。
ニュージェネレーションの三人が歌い始め、スポットライトが広がっていく。
そして、私にも、光が当たり――
その瞬間。
私は目を開く。
目を開き、前を向いて、ファンを見て、歌い始める。
光が私を照らしている。眩い光。でも、それなのに、不快じゃない。
ファンの顔がすぐ近くにある。ファンの顔が見える。
サイリウムの光が星空のように輝いている。
私たちの歌に合わせて揺らめいて、私たちを応援してくれている。
――これが、アイドル。
歌に合わせて、ファンの歓声が鳴り響く。私たちの歌を邪魔しないタイミングで、声が、響いて。それがファンの優しさに満ち満ちたものだとわかって。思いやりに溢れたものだとわかって。私は嬉しくなってしまう。
――これが、アイドルなんだ。
自然と、顔がほころんでいるのを感じる。踊りながら歌うことはとても疲れる。でも、それでも、顔が自然とほころんでしまう。
――これが、これが……!
私は、歌う。
精一杯、声を、張り上げて。
精一杯、身体を、動かして。
私は、踊る。
歌い、踊る。
――これが、アイドル!
ファンのために。
仲間のために。
プロデューサーのために。
私を応援してくれる、みんなのために!
私は、歌い、踊るんだ!
人形としてではなく、『岡崎泰葉』として!
――ああ、きっと、きっと……!
今、私は、アイドルなんだ。
今、私は、アイドルになったんだ。
ファンのおかげで。
仲間のおかげで。
プロデューサーのおかげで。
私を応援してくれている、みんなのおかげで!
――ずっと憧れてきたアイドルに、なれたんだ……!
18
全体曲が終わり、舞台裏に引っ込む。水を飲み、休む。
すぐに出番があるアイドルたちは忙しなく動いている。そんな中、私は、興奮が冷めず、初めての感覚に戸惑い、ただ、ステージに思いを馳せていた。
「……どうだ? 初めての、アイドルとしての、ステージは」
気が付けば、隣に、プロデューサーが居る。
その、彼の顔を見て。
優しげな微笑みを浮かべる、彼の顔を見て。
「……私は、芸能界が華やかなだけの世界じゃないって、気付きました」
何かが緩んで、ぽろぽろと、何かが零れてしまう。
「あれが、いつだったかは覚えてません。でも、それがわかってからは……」
私は首を振る。そうじゃない。そこじゃない。
「ううん、違います。わかっても、私は、同じように仕事を続けていました。……それで、ある日。私は思ったんです。『どうして私は』って。どうして、私はこんなことを続けているんだろう、って」
プロデューサーは黙っている。黙って、私の話を聞いてくれている。
「それから、私の仕事がモデル中心のものに変わって……そして、今、私は」
私は口を噤んでしまう。さっきは自信を持てた。確信していた。でも……。
「……プロデューサー。芸能界って、アイドルって、何だと思いますか?」
私はそんなことを聞いてしまう。今はそんな場合じゃないってわかってる。でも、これを聞かなきゃいけないって思った。堰を切ったように、思いが溢れ出してしまう。この思いをどうにかしなきゃ、これを、聞かなきゃ、私は……。
「……泰葉。お前の言う通り、芸能界は華やかなだけの世界じゃない。アイドルもそうだ」
プロデューサーが言った。その言葉は私が思っているものとは、望んでいるものではなかった。プロデューサーも、やっぱり……。
しかし、その言葉には続きがあった。
「でもな、泰葉。芸能界は、アイドルは、悪いところだけでもないんだよ。お前も、もう、わかっているはずだ。いや、ずっと前からわかっていたはずだ。苦しいこともある。辛いこともある。競争もある。黒いところもある。納得できないこともあるし、不自然だと思うこともある。華やかなだけじゃなくて、その裏には、ドロドロとして、汚いところもある。それが、この業界だ。でも、それでも、芸能界はそんなものだけでもないんだ。汚いものだけじゃない。芸能界は、華やかなところも、良いところも、いっぱいあるんだ」
プロデューサーは言う。私に、真摯に向き合ってくれる。
「辛くて苦しい。でも、それ以上に楽しいから。だから、俺は、俺たちは、この業界に居るんだ。みんなは、アイドルを続けているんだ。今、この時、この瞬間。このライブのために、俺たちは、辛くて苦しい時間を乗り越えているんだ」
プロデューサーは、訊ねる。
「泰葉。お前は、今、どんな気持ちだ?」
そんなことを、訊ねられて。
私は、ついさっきの、今の私の気持ちを、思って。
その気持ちを、正直に、答える。
「辛いです。苦しいです。疲れて、身体が、震えてきます」
「それだけか?」
「いえ……辛くて苦しいのに。疲れていて、身体が震えてきているのに。それなのに、とても……楽しくて、楽しくて、仕方ありません!」
私は言う。楽しい。そうだ、今、私は楽しい。楽しんだ。
楽しいから、私はこの業界に居るんだ。
芸能界に居るんだ。
アイドルに、なったんだ。
「そうか」
プロデューサーは微笑み、備え付けられている画面を見る。みくちゃんのソロ曲だ。ということは、そろそろ、私の出番だ。
「疲れているところ悪いが、まだまだ、お前の出番を待ち望んでいるファンが居る。泰葉、いけるか?」
「はい!」
「じゃあ、行ってこい!」
「はい!」
19
初めてのソロだ。
緊張する。でも、大丈夫だ。緊張より、楽しさの方が、上だから。
「……泰葉」
ステージに向かう途中、汗を流した凛ちゃんとすれ違う。
「ソロ、がんばってね」
「……うん。がんばります。見ていて下さい」
そう言うと、凛ちゃんは一瞬だけ目を丸くして、すぐにふっと柔らかい笑みを浮かべる。
「うん。見てる。私も、プロデューサーも、ファンのみんなも。行ってらっしゃい、泰葉」
「行ってきます、凛ちゃん」
そして。
みくちゃんの曲が終わり、ファンの歓声が上がり。
私の番がくる。
私のソロが、始まる。
20
さっきはみんなが一緒に居た。
でも、今回は一人だ。
――本当に?
違う。一人じゃない。
すぐそこに、みんなが居る。プロデューサーが居る。
ファンが居る。
だから、私は一人じゃない。
イントロがかかる。ファンの歓声が上がる。サイリウムが光る。
青白い光が、会場を包む。
私の色。
私の、アイドルとしての、イメージカラー。
会場が、青白い色に染まる。
私を包み込むように、私を応援してくれているかのように。
私は歌い始める。踊りながら、歌い始める。
私のソロ曲に関して、プロデューサーが悩んでいたことを思い出す。大人しめの歌か、どうするか。そこでかなり悩んでいた。
結果として、プロデューサーが選んだのは、『アイドル』らしい曲だった。
少し古臭いと思われるほどの、ド直球の『アイドル』曲。
私自身、自分がこんな曲を歌えるかどうかはわからなかった。
でも、私は、アイドルになるんだ。
だから、その決意を込めて、この曲を歌う。
私はアイドルなのだと宣言するように、歌い、踊る。
ファンの顔が見える。近くのファンから、遠くのファンまで。
みんなの顔が見える。いちばん端まで、みんな、見える。
気分が高翌揚する。心臓の音がする。息が乱れそうになる。
――楽しい。
身体を動かす。腕を振り、脚を動かす。表情を作り、演技をする。
精一杯の演技と本音を、すべてを出す。
――楽しい。
気分が乗ってきて、少しだけアドリブをしてしまう。間奏中、ファンに向かって手を振って、すると、ファンの歓声が上がる。身体の芯にまで、心の奥底にまで、ファンの声が、気持ちが響きわたる。沁みわたる。
――楽しい!
ファンを煽るように振り付けをアレンジする。
こんな勝手なことをすると、怒られるだろうか。……怒られてもいいや。
今は、ただ、このステージを、もっともっと楽しい場所に。
もっともっと楽しい、最高のステージにするために!
みんなと一緒に、楽しむために!
感覚がなくなっていく。ファンの声だけが聞こえている。ファンの顔とサイリウムの光だけが見えている。自分がどう動いているのかわからない。痛みも疲れも消えている。
ただ、楽しい。
ただただ、楽しい。
芸能界は華やかなだけの世界じゃない。
でも、それ以上に楽しいから。
プロデューサーの言葉を思い出す。
その通りだ。
この瞬間があれば。
この瞬間のために。
辛いことも、苦しいことも。
この瞬間があれば、この瞬間のためならば。
何度でも、乗り越えられる。
そう、確信できる。
――ああ、そろそろ、終わってしまう。
曲が終盤に差し掛かる。
まだ終わらないでほしい。
ずっと、この瞬間に居ていたい。
永遠に、ここに居たい。
でも、いくらそんなことを願っても、曲はやがて終わってしまう。
――なら。それなら。
それなら、せめて、最高の終わりにしよう。
この瞬間を共有してくれた、みんなのために。
この瞬間を作り上げてくれた、みんなのために。
私にできる、すべてを込めて。
私のすべてを出し切るんだ。
みんなの心に、私の足跡を残すんだ。
私がここに居たということを証明するために。
みんながこの瞬間に居たということを証明するために。
みんなが、この瞬間を、ずっと、ずっと、覚えてくれるように。
私の全力を、出し尽くすんだ――
――そして。
曲が終わる。私の初めてのソロが終わる。
ライトが消え、ファンの歓声が上がり、サイリウムの星空が揺れる。
私は舞台裏に下がる。
意識が朦朧として、今までにない感覚が全身を支配している。
――楽しかった。
ただ、ただ、そう思った。
それしか、なかった。
21
「じゃあ、行きましょう、泰葉ちゃん」
舞台裏。卯月さんが言う。
「え?」
何のことかわからなくて、私は首を傾げてしまう。
「あいさつだよ、あいさつ!」
未央ちゃんが言う。
「アタシたちを応援してくれたファンに、あいさつしなきゃね★」
美嘉さんが言う。
「このライブを応援してくれたファンのみんなに、感謝のあいさつにゃ」
みくちゃんが言う。
あいさつ……そうだ、あいさつだ。どうしてか、ぜんぶが終わったと思ってしまっていた。大事なことなのに、忘れてしまっていた。
そんな私を見て、凛ちゃんは言う。
「行こう、泰葉。みんなのところに、ファンのところに。私たちを応援してくれた、みんなのところに。今日のライブを成功させてくれたみんなに、お礼を言いに」
「……はいっ!」
私は歩く。
ファンのみんなに、お礼を言いに。
今日の感謝を、伝えるために。
22
「「「ありがとうございました!」」」
そんなあいさつをすると、ファンの声が上がる。
「卯月―!」「凛ちゃーん!」「未央ー!」「美嘉ちゃーん!」「みくにゃーん!」
そんな、今回出演した様々なアイドルの名前が呼ばれて。
その中に、
「泰葉ちゃーん!」
という、声が、聞こえて。
その瞬間、私は、泣きそうになって。
でも、懸命に、それを、こらえて。
笑顔を、つくって。
一度、深く、深く、礼をして。
私たちは、ステージを後にした。
間髪を入れず、
「これにて本日のステージは終了になります……」
という言葉から始まる、ちひろさんの声が聞こえて。
そうして、私の初ライブは幕を閉じた。
23
「プロデューサー」
「なんだ、泰葉」
「私は、アイドルに、なれたでしょうか?」
「……ああ。立派な、アイドルだったよ」
「……ありがとう、ございます」
24
後日。
私は346カフェに居た。待ち合わせをしていたのだ。今日は私の方が早かったらしい。
「早いな、泰葉」
プロデューサーが言った。初めてきちんと話したこの場所で、また話し合うことになったのだ。
「どうして、ここなんですか? 事務所でも……」
私が言うと、プロデューサーは頬笑み、
「事務所にも二人きりで話せる場所はあるが……後で色々と聞かれるだろうからな。でもここなら、そういうこともないと思ってな」
確かに、未央ちゃんあたりならそうしそうだ。その光景が容易に思い浮かんで、くすりと笑ってしまう。
「泰葉、笑うようになったな」
そんな私を見て、プロデューサーが言う。私は微笑み、
「そうですね。自然と、笑えるようになったと思います」
「……俺みたいな奴じゃないと、自然かどうかなんてわからないと思うけどな」
プロデューサーは苦笑する。しかし、私は言う。
「プロデューサー以外にも、言われるようになりましたよ。……笑顔が柔らかくなった、って」
「誰に?」
「家族に」
「そりゃ勝てないな」
「そうかもしれませんね」
実際のところ、どっちの方が上なのかはわからない。そもそも、どちらが『上』などという話ではないのかもしれないけれど。
「前、マネージャーさんに会ったよ」
プロデューサーが言った。『マネージャーさん』。私たちの間でその言葉が指すのは一人だけだ。
「……どうでしたか?」
「ライブが最高だったことを伝えて欲しい、って言われたよ。あと、ファン一号ってことを自慢された」
「そう、ですか……」
マネージャーさんのことを思い出して、少し、涙腺が緩んでしまう。……良かった。本当に、良かった。
それから、互いに飲み物を頼んで、ちょっとしたケーキを勧められたのでそれも頼んで、私たちは静かな時間を過ごした。
「……マネージャーさんと会った、ってだけ、ですか?」
私は訊ねた。その話をするためだけに、私をここに呼んだのだろうか。
プロデューサーはばつが悪そうな顔をして、視線を逸らす。しかし、私がずっと見ていると限界になったようで息を吐き、私に向き直った。
「……泰葉。俺たちの関係は、ここから始まったよな」
プロデューサーが言う。確かに、そうだ。私の、アイドルとしての時間は、ここから始まったのだ。
「俺は、お前をアイドルにすると誓った。そして、お前は立派なアイドルになった」
そうだ。私は、プロデューサーの言う通り、アイドルになった。
「……それで、ちょっと、聞きたかったんだ。ここまで、俺は俺の勝手で、泰葉をアイドルにした。お前の意志を尊重するようでいて、俺は、俺の勝手でお前をアイドルにした。お前を丸め込んで、それで、無理やりアイドルにしたようなもんだ」
プロデューサーは言う。いつもとは違って、自信なさげに。
その言葉の続きがわかった。
だから、私はそれを遮って、言う。
「プロデューサー。私は、感謝しています。あなたに、感謝しているんです。だから、そんなこと言わないで下さい。あなたが言ったんですよ、アイドルは楽しい。そして、実際、そうだったんです。……今更、そんな風に自分の言葉を曲げないで下さい」
「……すまない」
プロデューサーは言う。自責するように額に手を付け。
「こんなの、ずるいな。あんなことを言ったくせに、今更、こんなことを言うなんて、卑怯だよな。……俺は、俺が楽になりたかっただけなんだろう。本当に、すまない」
「……そうですよ」
私は言う。微笑みとともに、言ってやる。
「あんな世界を見せたくせに、こんな楽しい世界を見せたくせにそんなことを言うなんて、ずるいです。卑怯ですよ。……だから、その責任は、とって下さい」
「……責任?」
プロデューサーの顔が当惑に染まる。私は言う。
「プロデューサー。私はアイドルになりました。人形のようだった私は、自分の足で歩き始めました。あなたに支えられて、初めて、歩くことができるようになりました。あなたのせいで、私は歩くことの楽しさを知ってしまったんです。だから、その責任をとって下さい。私のことを、ずっと、支え続けて下さい」
プロデューサーの顔を見て、私は言う。
「私のことを、この世界で、輝かせて下さい」
そして。
プロデューサーは、顔を、大きく歪ませて。
「……ああ。最初に約束したように、いつか、必ず、お前をトップアイドルにしてみせる」
大きく歪んだその顔を、覚悟に引き締めて。
「この世界の、一番星にしてみせる」
プロデューサーは、そう言ってくれた。
「……はい」
私は言う。
笑顔で。
笑って。
心からの、笑みを浮かべて。
「プロデューサー」
今、万感の思いを込めて。
「これからもプロデュース、よろしくお願いします!」
25
――これが、私、岡崎泰葉がアイドルになるまでの物語である。
これからどうなるかはわからない。
ただ一つわかることは、これからも私は彼と居るということだ。
プロデューサーと一緒に、歩き続けるということだ。
この世界の一番星を目指して。
この世界で、最も輝く存在になるために。
そのための、小さな一歩を積み重ねていく。
プロデューサーと――みんなと、一緒に。
この空を、満天の星で輝かせるために。
26
アイドルは私の憧れだった。いつも明るくて楽しそうで。そんな姿を、昔から見ていた。
昔は、私は違うって思ってた。でも今は、いてもいいんだって……。
そして、その世界で輝かせてくれたのは、他でもない――
END
これにて終了となります。ありがとうございました。
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