どうあがいても絶望(25)

これは小さな奇跡の物語。

最初に言っておくことがあります。
「私は悲劇のヒロインじゃありません」

哀れまれるのはキライです。
同情されるのもキライです。
それが私です。
姫神(ひめがみ)小鳥(ことり)は頑張る子。
わたしはよくそう言われます。
外見は赤いフレームのメガネにお下げ髪。料理は破壊的に駄目。体重とウエストは…………うぅ……秘密です。というか記憶の底にでも埋れさせたいです。
ちなみに入学してから一ヶ月の高校一年生です。
「高校生かぁー、ワクワクします」
季節は春。入る部活はまだ決めていません。
ついでに言っておくと、わたしはマンガやアニメの主人公とは違い、普通の女の子なので普通に学校に通っています。
「涼子ちゃん、おはよー」
隣りの席の女の子は涼子ちゃん。
今日も羊の髪飾りが似合っています。憂いを帯びた仕草や黒い長髪など、見た目は深窓のお嬢様。
机に胡坐(あぐら)をかいて座っていなければ、ですけど。
「はろー、姫神小鳥」
眠そうなわたしと違い、涼子ちゃんは元気いっぱいといった感じでわたしのフルネームを呼びます。
小鳥、と。

眠そうなわたしと違い、涼子ちゃんは元気いっぱいといった感じでわたしのフルネームを呼びます。
小鳥、と。
小さい鳥、と。
最初にチラッと言ったような気がしますが、姫神小鳥。これがわたしの本名です。
うーん、名前に小さいという文字が入っているからわたしは高校生になってまでキャミソールなのでしょうか。ブラが必要ないなんて…………恨みますよ名付け親。
「はぅー。せめて大菩薩くらいの名前の方が胸が大きくなったのでしょうか……」
大仏とか大納言とか、大豆もありだと思います。
そのくらい切実な悩みなんです。
はぁー、早くおっきくなりたいなー。
「ほら、巨乳はみんなの夢が詰まってるから大きい。貧乳はみんなに夢を与えているから小さいって言うし、大丈夫。毒舌天然系貧乳メガネっ子の姫神にもちゃんと一部の人に需要があるよ」
何より姫神はわたしのストライクゾーンだぜ! と、親指を突き出してくる涼子ちゃん。
「親切なフォローありがとーです」

だけど、需要がある人は明らかに危険な人だと思います。
わたしや涼子ちゃんのパンツをコトコト煮てハァハァする危ない趣味をお持ちの変態さんだと思います。
「それに、……男の人は怖いです。坊主の人とか、ずっとニヤニヤと笑っている人とか、自家発電をしている人や自宅警備をしている人とか……」
ひとつのことに打ち込む姿はなんとなく格好良さそうだとも思いますけど。男の人はやっぱり生理的に無理です。
体育会系の男子生徒とか、触れたら即座に気絶しそうで恐いです。
「大丈夫。だいたい男なんてピーでピーしてれば満足するだろ。それに男同士の恋愛がピーで……」
あわわわ。涼子ちゃんがだんだんアブノーマルな話に……。
柔らかに言えばナイフ&フォーク。連想した人、アウトです!
「わーわー、聞こえません。わたしには聞こえません」
耳を塞ぎ必死に脳内をもこもこ可愛い羊さんで埋め尽くします。聞こえません。今の姫神小鳥には何も聞こえません! 男の人同士であんなことするなんて、そんな|心の聖域を壊す悪魔の囁きなんて聞こえません!
「くっくっくっ。姫神は反応が楽しいのおー」
「きゃあぁー。涼子代官様、お助けをー」
「やだ!」「ふにぁ!」
そんなふうにじゃれあって、その日は幸せに過ぎていったのでした。

放課後。下校の準備をしていたわたしは授業ノートが何冊か無くなっていることに気付きました。
「あれ? おっかしーですね?」
ガサゴソ。がさごそ。
机の中。ロッカー。落し物入れ。
一通り探し回ると、再びロッカーに戻ったわたしはプリントを丸めてメガホンを作り、呼びかけます。
「現国さ~ん。日本史さ~ん。無駄な抵抗はやめて出て来て下さ~い」
……………………シーン。
「まあ、当たり前……ですよね」
実際に返事されたら恐いですし。
「姫神、何やってんの?」
腰を屈めて自分のロッカーに向かってノートの武装解除と投降を求めていたわたしに、部活が終わったらしい涼子ちゃんが声を掛けてきました。
「りりりりりり涼子ちゃん!? あははは、どうしたの?」
「姫神こそどうしたのさ?」
むー。どうしましょう?
このままではわたしはロッカーに話し掛けている電波さんです。なんとか誤魔化さなければ。
「ぇ~っ……な、名前? そう、名前を付けているんです。わたしってほら、道具に愛着を抱くいたいけな乙女じゃないですか。だから教科書とかノートに名前付けようかな~なんて?」
閃(ひらめ)きグッド!
こんなわたしはまさにゴッド!
流石はわたし。グッドでナイスな判断です。
「へぇ~。じゃあこいつは?」
涼子ちゃんがわたしのロッカーから世界史の資料集(やたら分厚い漬物石野郎)を取り出しました。
な、名前なんてあるわけないじゃないですか! うにゃー、どうしましょう!?
「姫神? 大丈夫? 汗びっしょりだよ」
涼子ちゃんはニヤニヤといじらしく笑いながら世界史の資料集をぷらぷらさせました。
妖しく輝く涼子ちゃんアイズ。
あ、あれはわたしが嘘をついたことを知りつついじるsの目です。
ああなった涼子ちゃんは止まりません。
だけど、この嘘だけはバレるわけにはいきません! わたしのプライド的に!!

「ま、マイケル。マイケル君ですっ!」
凌(しの)いだ。流石はわたし。やれば出来るじゃないですか。
しかし、涼子ちゃんのsは止まりません。
「じゃあこれ? 保健体育」
「ジェニファー!」
「この子は? 日本史」
「与那国(よなぐに)さん!」
「ふーん、じゃあ……」
まだやるつもりですかこの鬼畜! 人でなし!
こうなったら最後の手段しかありません。
「わたしが悪う御座いました。だからこれ以上はやめてぇ!」
わたしのhpはゼロを楽々突破してマイナスに振り切れましたよ!
全力で息を吐きながらスカートを手でまとめつつ靴を足を振った慣性で後ろに飛ばしつつ正確に身体を下げる。これこそ姫神小鳥の必殺技、土下座です。
しかし、更に前のめりになり、頭を床にぶち当てる勢いで下げます。そう、この格好こそ………………。
「どうですか涼子ちゃん! わたしが苦心して編み出したゼロタイムdogezaは?」
「……っけー」
「??」
「かっけー! 感動したぜ姫神!」
「この技に感動するとは、流石は涼子ちゃんです!」
何だかよくわからないまま手と手でガシッと、わたしたちは友情を確かめ合ったのでした。

家に帰るとすぐに着替えてバイトです。
そう、わたしは有名なキャバクラ店の────。
「姫神ちゃん。この金型を戻して来てくれるかい。それと晩の弁当の業者さんがもうすぐ来るから弁当をみんなに配ってあげて」
何かの歯車を作っていた男の人がわたしに使い終わった直後の金型を手渡しました。
「はーい」
現実は残酷です。
姫神小鳥は下請け会社の倉庫の在庫を整理する肉体労働系バイトなのです。もっと簡単に言えば雑用係。
今も重い、それは重~い金型、もとい鉄くずを運んでいる最中です。
金型は一個一キロもありますし、その数なんと二万点。これなんて蟹漁船(かにぎょせん)?
「……日本のモノづくり大国を支えているのが、こんなか弱い乙女だなんて……先進国の悲しい現実ですぅ……」
シクシクと声だけで泣きながら金具を運びます。
乙女は惚れた相手以外には涙を見せないんです。
「この前は『こんなクソの役にも立たない鉄くず運ぶだけで時給千円なんて、天職ですぅ~』って言ってなかったか?」
………………てへっ☆

「ありがとー御座いました」
「姫神ちゃん。さよなら~」
バイトが終わるとすぐに自宅に帰ります。
「はぁー、憂鬱です。姫神小鳥の憂鬱の始まり始まりー、です」
時刻は八時くらい。わたしの鬱な日常はここからなのです。
わたしの家は親子四人で暮らしています。
「ただいま~。………………おかえり~」
誰もおかえりを言ってくれないので自分で出迎えをするって、やってみると結構虚しいですね。
部屋の明かりは弟の部屋しかついていません。省エネ?
わたしは弟の部屋に近づかないように、そぉっと自分の部屋へ、
「小鳥ぃ! ……ってなんで俺をシカトしてんだよ!」
ゲームをしながらぎゃははと笑っている弟を無視……するとやっぱり怒りますよね。
「はいはい何ですかー? 一応わたしの方が年上なんだから敬意とかもう少しほしいなーって思っている小鳥お姉ちゃんに何か用ですかー」
弟と血は繋がってませんけど。わたしは前の母親の連れ子だそうです。ちなみに弟は今の母親の連れ子です。
「腹減った。メシ作って……」
弟は何気なくとんでもないことを言いました。
「っ!?」
喧嘩売っているんでしょうかこの子!? わたしの唯一にして決定的な弱点、『料理が破壊的に苦手』を知っているくせに────。
「────そんなに死にたいだなんて……学校でいじめっ子にでもいじめられましたか?」
蝶のように舞い、蜂のように刺す。それがわたしの料理共通の戦闘スタイルです。どうです、ひとくちで死んだお爺さんとかに出会えますよ?

「ちげーよ!? カップ麺だよ! お湯入れて三分、死の危険なんてこれっぽっちもねぇよ!」
「……ちぇっ」
お料理は楽しいのに、苦手なだけで……。カレーとか、焼きそばとか、おにぎりとか。
「ちぇっ、じゃねーよ! 誰があんな生物兵器食べるか!!」
「……せ、生物兵器だなんて!」
そんな生易しいモノを創った憶えはありません。
料理で世界を狙ってます。世界征服的な、バイオハザード的な感じで。
「まあ、カップ麺なら失敗のしようがありませんし。いいですよ」
「新作の塩味のヤツ作って」
「はいはい」
弟はカップ麺すら作れないんです。カップ麺から新たな生命すら創れないわたしと同じくらい駄目ですね。
「できましたよー。カップ麺」
「ありがとねぇーちゃん」
「えへへ。わたしこれでもカップ麺には自信あるんですよー」
「ねぇーちゃん自慢しちゃ駄目だって」
「あはは」「うふふ」
なんて家族愛溢れる会話がなされるわけもなく、
「小鳥! てめーな、オイ! なんで新作が無いんだよ! オヤジが喰った? なら買って来いよ! 売り切れ? 舐めた口きいてんじゃネェぞ! 聞いてんのかコラッ!」
「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」
頭を抱えガクガクブルブル。弟恐い。お茶の後のまんじゅうくらい恐いです。いや、冗談じゃなく。
「謝って済むなら警察はいらねーんだよ! 小鳥がカップ麺すら作れねーのが悪いんだろぉーが! ったく、怒らせた分は身体で払えよ」
強引に髪を掴まれると、もう一方の手で胸のあたりを弄されました。
だから、男の人はキライなんです。
「っい! やめて! お願い! お願いします! やめてください!」
涼子ちゃんには効果があった土下座も弟にすれば、ほら。
頭に弟の足がのせられ、床とキス。
「家の中で良かったな。外だったら靴を舐めさせてたところだ。俺って優しい。な?」
「ぁ、足を」
「ん?」
「足をどけてください」

わたしは頑張る子。負けません!
「口ごたえしてんじゃねーぞ小鳥!」
視界に火花が飛び散りました。
それは弟がわたしの頭を蹴りつけたのだと感じたときには手遅れでした。
わたしの意識は暗くフェードアウトしていきました。
「ったく。小鳥がカップ麺すら作れねーのが悪いんだからな。ほら、ごめんなさいって言ってみろ」
わたしが目を覚ますと、台所ではなく弟の部屋でした。
わたしは学校の制服のまま。
変わったところといえば、後ろ手にガムテープでぐるぐる巻きに縛られていることと、首にメガネとお揃いの赤い首輪がつけられていることでした。
「んっー! んっ~!?」
あと、わたしの口もガムテープで塞がれています。
首輪には鎖がついていて、その先は弟の手に続いていました。
正直気持ち悪いし、吐き気すらします。
「ガムテープがじゃまだよな。あぁ、俺って優しい」
ガムテープの拘束が解けた瞬間、わたしは大きく息をしました。
床の臭い空気も、酸欠気味の身体にはご褒美です。
「さっさと謝れよ!」
怒り気味の弟。
「ごめんなさい」
とっとと終わらせて帰ろう。
わたしは頭を床にこすりつけるように、弟に謝りました。
「駄目。もっと誠意を見せろよ」
身体を足蹴りにされながら、わたしは何度も謝りました。
「ごめんなさい」
「ごめんなさい」
弟が何気なく落とした足が、わたしの右足へ直撃した瞬間、脳に痛みの奔流みたいなのが迸りました!
「ぎゃあぁぁぁ!!」
「うるせーだろうが!」

「ご……め…………ん……なさ……い……」
わたしの身体が危険だと感じたのか、それから先の記憶は飛んでいました。
弟に一方的にキレられサンドバッグにされ、結果。
惨敗。

「…………ったた」
お風呂で身体中にできたアザなどを見つつ、傷口が結構染みるなぁ、なんて暗い気持ちで目を閉じました。
右足、骨折。経験則からですけど、三日もほっとけば治るでしょう。
お腹はどこかの内臓が破裂しているらしく、じーんときます。
気絶したわたしに弟がいつものようにナイフでつけた切り傷や、打撲は論外として、お腹はちょっとヤバイかもです。
まだ微妙に胃液が残る口を濯ぎます。
十発くらいの蹴りで胃液吐かせるんて、やっぱり中学生ってかなり力があるんですね。あんなに蹴りたいんならボールでも蹴ったらいいと思います。って言ったら更に意識飛ぶまで殴られ続けましたが……。
「……アザになるような怪我はちゃんと服で隠せる場所にしたんですね」
いつもわたしが父親に嬲られ、殴られ、蹴られているのを見て、ちゃんと学習しているんですね。
父親、あの男がいなかったら、わたしは今もお母さんと仲良く暮らせていたのでしょうか。せめて、もっとマシな死に方で死ねたかもしれません。わたしもきっと毎日包帯や絆創膏のお世話にならずにすんだのでしょうか。
「っ! ……大変! 若干シリアスになっちゃってました! さっきのは姉と弟のコミュニケーションですよね! 二度としたくありませんけど!」
これぞ現実逃避です。ルビは『逃避? 否、これは明日への前進だ』です。ふっふっふ、ギャグな雰囲気に持っていけばこのくらいの怪我、大したことないのです。
「帰ったぞー」
「っ!?」
父親、帰宅。
「おい、小鳥。酒持ってこい!」
わたし、涙目。
それから、父親は仕事のイライラを原動力にわたしに愚痴を言い続けました。
その後すぐに帰ってきた母親ですが、帰って来てすぐに風呂入って寝ちゃいました。

弟は音楽を聞いています。
『きっと、きっと抱き締めて!i・l・o・v・e・m・e!』
「……わたしはわたしが好きって斬新な歌詞ですね」
『フライパン~、メロンパン~、脳髄スープの赤ニシン~、食べたい気持ち~、止められない。やめられない。イエー!』
しかし、弟の流すアニメソングや電波ソングは大音量過ぎてわたしの声は弟に届いていないみたいです。
音楽……嫌いだなぁ……。
結局寝たのは三時。
明日は今日より幸せになれますように。

火曜日
「うーん。よく寝ました!?」
古代ローマで流行った髪型によく似た寝ぐせを整え、登校の準備をします。
「アザは制服で隠してっと……、ふわぁぁ。眠いです」
眠さを抑えつつ、無事に登校。
「どしたの? ゲームのやり過ぎ?」
学校では涼子ちゃんがわたしがぽわ~、としているのを見かけてそんな質問をしました。
「うーん? ある意味ゲームですね」
あの窓がビリビリ振動するレベルの騒音を聞きながら寝れるかというゲームですけど。
「元気ないぞー!」
涼子ちゃんは相変わらず元気が有り余る感じでわたしに飛び掛ってきました。
「んぎゃー! 涼子ちゃん重いです」
「重くない! 四十キロもないし!」
傍目にはうら若い少女ふたりがじゃれあっているように見えますが、実際は過酷です。主に腰とか。めちゃくちゃ重いです涼子ちゃん。
「んじゃ、またな」
「涼子ちゃん。また明日~」
そんなこんなで放課後です。
「…………あれ? 与那国さん(日本史資料集)がいない?」

水曜日
「ひーめがみ! ふふふ、受け取れこのやろー!」
満面の笑みと共に、涼子ちゃんが差し出したのは仔犬くらいの大きさの可愛らしい羊さんでした。
「フェルトで作ったんだけどさ。もしよかったら………………やるよ」
涼子ちゃんの指に絆創膏が貼られているのに今さらのように気付いたわたしは、今日が何の日かやっと思い出しました。
「誕生日プレゼントありがとー、ですよ。涼子ちゃん」
羊のプラスチックの目がわたしを見つめていました。

木曜日
「黒羽(くれは)は可愛いのです。黒羽の抱き心地は最高です~」
「いや~、そこまで気に入ってもらえるなんて作り手冥利に尽きるねぇ~。でも家に持って帰らなくていいのかい?」
「(なでなで~)」
昨日、羊さんの名前が決まりました。
その名は黒羽。性別はメスです。
首や手足が短くお腹がデカい、いわゆるメタボ体型なのですが、これはフェルトの身体に綿が詰まっているアニマルズの宿命なのです。

放課後、男子のひとりに呼び出されました。
「姫神……。オレ、お前のことが……好きだ」
これで告白されたのは何回目でしょうか。
「ごめんなさい。あなたはいい人なんです。だからクラスメイトとしては好き、なんですけど。それ以上はちょっと……生理的に無理です」

金曜日
「こおォーとおォーりいィー!!」
「ひぃぃぃ!?」
父親が少テストの成績でわたしを叱りました。
成績が低い理由は無くなったノートの代わりのノートを毎日五時まで作っていたからです。
正直に言って黒羽と飛び降り自殺をしようか真剣に迷いましたが、結局涼子ちゃんのことを思い出し『わたしの死を悲しむ人がいるんだ……』と踏みとどまりました。

土曜日
弟が修学旅行に行きました。
両親は仕事の用事。バイトは休みです。
「はぁ……」
残金9円で塩を舐めて水道水を飲んで飢えを凌ぎます。
前にもこんなことあったな……。
わたしには昔、黒羽という優しいお姉さんがいました。
今はいません。
幼稚園児のわたしを悪ガキから守ってくれたのです。

月曜日。
弟や両親はまだ帰ってきません。
お昼はありませんでした。

火曜日。
父親、母親、弟帰宅。家族の喧嘩の巻き添えでわたしの黒羽がズタズタに引き裂かれました。
喧嘩の理由はわかりません。
もしかしたら理由なんていらなかったのかもしれません。
ただ、疑問だったの八つ裂きになった黒羽の中からわたしの教科書が出てきたことでした。
その時わたしは涼子ちゃんが探してくれたんだと感激したのです。

水曜日
涼子ちゃんに黒羽のお礼を言いました。
「いいって別に、……あっ、そうだ!?」
涼子ちゃんはわたしからメガネを取り上げました。
『姫神はわたしの最高の友達だよ』
抱きあうふたり。
涼子ちゃんはわたしのたった一人の友達です。

金曜日
放課後。涼子ちゃんとの会話だけを頼りに生きてきたわたしは、教室から聞こえてくる会話に戦慄しました。
「にしてもさぁー。涼子が姫神いじめようって言ったときはまさかこんな上手くいくなんて思わなかったよー。トモダチ役お疲れー」
……………………………………はっ!?

タッタッタッ!
わたしが廃ビルの螺旋《らせん》階段を駆け上がる音が無機質に響きわたりました。
わたしの手は|羊のぬいぐるみ《黒羽》を大切に抱き抱え、屋上を目指していっきに駆け上がりました。
「はあ、はあ、はぁ」
錆び付いていた扉を強引に開けて、わたしは星ひとつない真っ暗な空の下に出ました。
「うぅ……涼子ちゃん。涼子ちゃんが、涼子ちゃんが……」
いまだに信じられません。
まさか、あの涼子ちゃんが、わたしをいじめていたひとりだったなんて…………。
そんなそぶりは前からありました。
けど、バカなわたしは見ないふりをして、友達を疑うなんておかしいって思ってて、でもそれは涼子ちゃんの演技で────
「うわぁあああぁぁぁあああんんん!!!!」
イヤだ。
考えたくない。
分かりたくない。
信じたくない。
だって、
涼子ちゃんはいじめっ子だった。
たくさんひどいことをした。
わたしのことも嫌いだって思う。
けれど、
「楽しかったんだもん! 今までで一番、誰よりも一番。涼子ちゃんと一緒が一番楽しかったんだもん!」
途中から涙と、鼻水が出てきて、人が見ていなくて良かったなんて考えるヒマもなくて、わたしはただただ、泣き続けました。
『ハロー、姫神小鳥』
わたしに毎日ちょっかいを出していた涼子ちゃん。
『姫神はメガネ外した方が可愛いと思う』
強引だけど、本気で嫌なことはしなかった涼子ちゃん。
『姫神はわたしの最高の友達だよ』
満面の笑みで抱きついてきた涼子ちゃん。
そんな彼女を、わたしは、
「……嫌いになんて、なれるわけないよ」

だから、わたしは綺麗なまま、そんな涼子ちゃんとずっと友達でいたいんだ。
わたしは屋上で羊のぬいぐるみ────黒羽に語り掛けた。
今のわたしの、たったひとりで最後の友達に。
「わたし、頑張ったよね?」
『そうね』
聞こえるはずのない声。幻聴。だけど、わたしは確かに聞こえた。
昔と同じ、黒羽の風鈴のような透き通った声。
わたしも、他人からはこう聞こえていたりするのかな、なんて雰囲気を読まずに思ってみたりする。
「わたし、精一杯生きたよね?」
『ええ、全力で生きた』
「じゃあ、わたし────姫神小鳥は少しお休みしていいよね? ズル休みじゃないよね?」
たぶん、休みは少しじゃなくなるけど。
『ええ。お休みなさい、小鳥』
黒羽は笑っているような気がして、わたしは黒羽に涙を見せないように、笑って言った。
これがわたしの最期の強がり。
「ありがとう。じゃあ少し休むことにするね。さっきから、身体が自分の身体じゃないみたいで、ふわふわと軽いんだ。きっと、この足を一歩前に踏み出せば楽になれる」
堕ちて。墜ちて。こんなバカなわたしは天国には行けないだろうけど、黒羽は一緒だよ。
ごめんね、黒羽。これがわたしの初めてのわがまま。わたしがひとりで寂しいから、あなたも連れて行くことにしたんだ。
「さようなら、お母さん、お父さん、弟、以下略。……あと涼子ちゃん」
ありがとう。みんながいたから、みんなと出会えたからこそ、わたしはこの一歩を踏み出すことができる。
右足を一歩、踏み出した。
右足は空を踏み、身体のバランスを失う。
『さよなら、小鳥』
メガネが地面に落ちて、わたしの意識は急速に遠退いていった。
「わたし…………」 
こうして、わたしのどうあがいても絶望な日々は幕を降ろしたのでした。

後日談。
涼子ちゃんは明日もいつも通りに学校に行きました。

めでたしめでたし。

終わり……がいいですか?

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