【艦これ】摩耶「二番目に大切な自由」【SS】 (142)
「自由になりたいんだ」
「俺は、そのために戦いを終わらせたい」
「どうして自由になりたいかだって?」
「??夢だからさ」
SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1425031969
眠れない。
摩耶が目を開けると、そこはまた暗闇であった。月明かりもない夜だったので、全くといっていいほど何も見えない。ここがどこなのか、摩耶は一瞬分からなくなった。
ピチャリ、と水滴の弾ける音がなる。静寂の中ではその音はとても反響した。摩耶はここがどこなのか思い出す。
ここは、牢屋だ。闇の中では何も見えないが、四方は打ちっ放しのコンクリートで囲まれている。その他には洗面台と、トイレ、そして薄汚れた簡易ベッドがあるだけだ。驚くほど何もないこの部屋は、罪人を捕らえておくために作られたもので、彼女は罪人であった。
捕らえられたのは先週のことだ。事あるごとに上官へ暴言を吐き、命令無視を繰り返していた摩耶だったが、ある作戦行動中に命令を無視して暴走した結果、味方に甚大な被害を与えてしまった。そのことが大本営からも問題視され、ついに反逆罪として身柄を拘束されたのだった。これからどのような処罰をされるのかはまだ分からない。おそらく雷撃処分だろうな、と他人事のように思う。
死ぬのは怖くなかった。今まで何度も死にそうな目にあってきて慣れていることもあったし、死んだ方がマシに思えるほどの恐怖を味わったこともあるからだ。その時の恐怖の記憶が寝るたびに悪夢として現れるほどで、それは彼女のトラウマであった。だからこそ、彼女は眠れない。
舌打ちをした。苛立ちがこみ上げてくる。睡眠不足は摩耶の精神を確実に蝕んでいた。寝たいのに、寝れば悪夢を見る。かといって起きていれば体が崩れそうなほどの疲労と極限のストレスに苛まれてしまう。寝ても覚めても悪夢だな、と彼女は思った。
また水滴が落ちた。音の波紋が暗闇に広がる。
摩耶「……、終わりか」
摩耶は呟いた。
この悪夢の終焉は、即ち死ぬことであった。
それでようやく、彼女は自身を縛っている全てのものから解放されるのだ。摩耶にとって自由とは、生との決別であった。
終わりが、彼女の求めた答えだった。
摩耶「いや……」
摩耶は口元を吊り上げて笑った。
もうとっくに終わっていたな、と自嘲する。ここにいるのは殺意に支配された、血塗られた獣でしかない。夢も自由も求める資格などとっくの昔に失ったのだ。朽ち果て、黒い炎を燃やし続ける薪となった。
憎悪という、黒い炎を——。
摩耶「……」
遠くから足音が聞こえた。階段を登っている。足音は二つ。どちらも大人の男である。
摩耶の独房は、階段から一番離れたところに位置しており、数十メートル以上離れている。いくら静謐な監獄内であってもその音は聞き取れるはずがない。驚異的な聴覚だった。
ガチャリ、と鍵を開ける音がした。看守が、この牢屋に続く廊下に設けられた扉を開けたのだろう。ついに来たか、と摩耶は思う。緊張も安堵も何もなかった。
足音がゆっくりと近づいてくる。やがて、摩耶の独房の前で止まった。
看守「起きろ! 『狂獣』!」
看守が怒鳴った。寝てねえよ、と思いながら摩耶は横たえていた身体を起こした。老朽化した簡易ベッドはよく軋んだ。
声がした方を睨む。闇のせいで姿形がほとんど隠れていたが、薄っすらと二つの影だけが見えた。どちらも、大柄な男である。
摩耶「んだよ。夜食を頼んだ覚えはねえぞ?」
摩耶の冗談に、看守は取り合わなかった。
看守「お前に面会だ!」
摩耶「面会?」
摩耶は首を傾げる。もうとっくに面会時間は過ぎているはずだ。そもそも面会を申し入れた人間がいることに、彼女は驚いていた。
看守「お前のような罪人にはお会いすることすら勿体無いほどの方だ。くれぐれも失礼のないようにしろ!」
摩耶はその言葉に苛立ちを覚えた。
摩耶「誰だよ?」
看守「特別大将殿だ!」
摩耶「ああ、冬木のおっさんか」
看守「なっ……」
看守「き、貴様ぁっ! 特別大将殿に対してそのような口を!」
看守が激昂する。摩耶は溜息をついた。どうしてこう、軍人というのは一々そう仰々しいのか。
冬木「構わない」
その声は決して大きいわけではないのに、闇を揺るがす存在感があり、威厳に満ち溢れていた。コンセントが抜かれたテレビのように、看守は癇癪を治めた。摩耶も思わず、声のした方を見遣る。
直立不動の影が、闇を凌駕していた。
看守「し、しかし、冬木大将……」
冬木「構わないといっているんだ。聞き分けろ」
特別大将は海軍で二番目に偉い地位だ。その男の命令は、軍人にとって神の声に等しいものである。
看守は慌てたように敬礼した。
看守「は、はっ!」
冬木「さて……」
影の意識が自分に向いたのを感じる。摩耶は息を飲んだ。
冬木「重巡洋艦摩耶。君の処分が決まった」
摩耶「……はっ、ようやくかよ」
摩耶は吐き捨てるように言った。
摩耶「相変わらず仕事が遅えな大本営様は」
それは皮肉だった。看守が再び短気を爆発させようとしたが、冬木が手で制した。
冬木「君に言われたら敵わんね」
顔は見えないが、冬木はおそらく苦笑していた。
摩耶「それで? 雷撃処分にでもなったのか?」
冬木「いや、左遷だ」
その言葉に、摩耶は目を白黒させた。
摩耶「は……? 左遷ってどういうことだよ?」
冬木「納得いかなかったか?」
摩耶「当たり前だろ。あたしは反逆罪で捕まったんだぜ? 普通なら処刑されても文句は言えねえよ。それがどうしたら、そんな軽い処罰になるってんだ」
冬木「そうだな、普通なら雷撃処分が妥当だろう。実際、提督会議の中でもそうした意見が殆どを占めた」
摩耶「ならなんで……」
冬木「私が反対したんだよ。元帥閣下もな」
摩耶「なに?」
耳を疑う。
冬木「命令無視や上官への態度は頂けないが、君は極めて優秀な艦娘だ。撃沈数は東野の神通にも負けるとも劣らず、とくに艦載機の撃墜数に至っては他の追随を許さない。南西諸島の沖ノ島海域へ単騎出撃して生還したという目を疑うような実績もある。普通なら特別勲章ものの活躍だ」
冬木は一旦言葉を切って、続けた。
冬木「処刑するにはあまりにも惜しい戦力、私も閣下もそう判断したのだよ。それに、君は唯一の『生き証人』だからな」
冬木はわざと言葉を濁していた。特別秘密事項に抵触する内容であったため、看守に聞かれないよう配慮したのだ。
摩耶(……なるほど、疑われているわけか。相変わらず鋭いおっさんだな)
摩耶は内心で舌を巻く。だが表情には微塵も出さず、逆に卑屈な笑みを浮かべた。
摩耶「はっ、あたしはまだ利用価値があるって判断された訳か……。で、他の連中はそれで納得したのか?」
冬木「したさ。合理的だからな」
影が動いた。肩を竦めている。
冬木「このことを一早く君に伝えたくてな。こうして無理を通して会いに来た」
摩耶「冗談だろ」
摩耶は一笑した。
冬木「本当だよ。わざわざ私が出向いてきたことが何よりの証拠だ」
摩耶「白々しいおっさんだぜ、相変わらず……」
冬木「よく言われる」
冬木は小さく笑っていた。看守がぎょっとしているのが何となく分かった。普段は鉄面皮を被った冬木が笑うとは思わなかったのだろう。
冬木「さて、話は以上だ。手続きは今日のうちにすでに済ましたから、明日には出所できると思う」
摩耶「そうかい」
摩耶は短い息を吐いた。このカビ臭い牢屋ともこれでおさらばか。そう考えると、小さな安堵と何処か惜しいような気持ちもした。
どうやらまだ、生きなければならないらしい。生きて、『奴ら』を殺さねばならない。
生きてるうちは終わりじゃない。過去に、大切な人から聞いた言葉を思い浮かべる。今となっては、それは間違いだと思えた。
もう、始まりはしない。いつだって終わっている。
摩耶「……で、あたしの配属先はどこだよ?」
摩耶は尋ねた。
冬木「ああ、それを伝えるのを忘れていた。君の左遷先は新しく出来た鎮守府だ。名前は——」
冬木「——南野鎮守府」
投下終了。以下説明。
・摩耶が主人公のSSです。
・独自設定多数あり。気に入らないかもしれませんがご容赦を。
・グロテスク、残酷な表現あり。基本シリアス。
・前書いていたSSを書き直した奴です。大筋は変わりませんが、設定変わっているところあるかも。
・前のSS読んでくれていた方ごめんなさい。見切り発車で始めた自分の責任です。
バイトから帰ってきたら、前のスレに誘導を貼って、HTML化以来出します。
乙
単純に続きをこのスレに移し替えたってこと?
>>11
いえ、このまま書き直します。設定をちゃんと組み立てて、新しくやるつもりです。
桜が舞っている。
提督は川沿いにある並木道を歩いていた。見事に咲き誇るソメイヨシノの美しさに感嘆する。足取りは心持ち軽やかだった。
空は青い。暖かな風に揺られて落ちるピンクの花弁は、季節も天気も間違えた粉雪のようであった。川のせせらぎも風情があって、雀の鳴き声がさらに爽やかな印象を与えていた。
清々しい。提督は小さく息を吸う。水辺の澄んだ空気が胸の昂りに触れて、気持ち良かった。
桜が咲くのは、始まりの季節——。
子供がランドセルを背負い出し、生徒が学生になり、学生が社会の階段を登り出す。多くの人が浮き足立ち、新しい生活に期待と少しの不安を感じるようになる。
提督にとっても、例外ではない。
辛い思い出ばかりの海兵学校を四年かけて卒業し、横須賀鎮守府での二年に渡る研修を経て、彼はようやく「提督」となることができたのだ。苦節の六年であったと彼は振り返る。楽しいことなど、ほとんどなかった。悲しいことも、あった。
だが、心削られる六年を乗り越え、彼はついに掴んだのだった。鎮守府に着任するという誇るべき名誉を。
「あ、兵隊さんだっ!」
幼い大きな声がした。提督は声のした方を見やる。
童女が老婆の手を引っ張りながら、指差していた。忙しなく首を動かし、興奮した様子で提督と老婆を見ている。
「お婆ちゃん、兵隊さん! 兵隊さんだよっ!」
「これこれ、指を差すんじゃないよ。失礼だろう。……孫がすいませんねえ」
提督「いえいえ」
提督は微笑む。
提督「可愛いお孫さんですね。君、名前は?」
「楓!」
童女、楓は手を上げて元気一杯に答えた。
提督「そうか、楓ちゃんか。楓ちゃんはお婆ちゃんと散歩かい?」
楓「うん! 桜を見に来たの!」
提督「綺麗だもんね。楓ちゃんは桜が好き?」
楓は大きく頷いた。何も言わず、提督は笑顔を返した。
「なあ、あんたもしかして……」
老婆が目を見開きながら、口に手を当てていた。目線は、提督の胸元についた銀色の階級章に向かっていた。その階級章は士官以上の地位を示し、研修が終わった時に大本営から与えられたものだ。
ああ、と呟く。
提督「はい、こちらの鎮守府に配属となりました提督です」
「はあ〜、あんたが……。あんたが南野鎮守府の提督さんかい……」
老婆が栗みたいに丸い目を輝かせた。まるで、有名人に出会ったかのような面持ちだった。
楓「おばあちゃん、兵隊さんのこと知ってるの?」
「知ってるも何も……。最近、南野海岸近くに大きな建物ができただろう? この人は、そこで一番偉い人だよ」
楓「ええ!?」
楓は大袈裟に驚いた。
楓「兵隊さん、偉いんだ!?」
提督「まあ……」
一応、大佐だ。海軍の中では偉い方だろう。
楓「冬木タイショーとどっちが偉いの?」
提督「冬木せんせ……いや、冬木大将の方が偉いよ。あの人は、海軍で二番目に偉いからね」
冬木の名前を聞いて、提督は苦笑する。流石は数々の伝説を残した冬木特別大将。帝国民から絶大な人気を誇っている彼は、子供にも知られているようだ。
「ところで、あんた……」
老婆はジロジロと提督を観察する。
「こう言ったらなんだが、あまり軍人っぽくないねえ……」
提督「……そうでしょうか?」
「ああ。悪く言うつもりはないんだけどさ、なんというか……軍人にしては華やかというか……」
提督「華やか、ですか」
「美男子じゃないか。背が低かったら女と間違えちまいそうだよ」
提督「女……」
提督は肩を落とした。女顔のせいで舐められた経験が多いし、軍人ぽく見られないことも良くあったので、昔から気にしているのだ。
提督が落ち込んだのを見て、老婆は慌てたように手を振る。
「気に障ったようで、すまないねぇ。予想してたのとあまりにも違かったから、つい。てっきり、西野鎮守府の平賀大将みたいな武骨な人が来るもんだと……」
提督「いえ、大丈夫です。昔から、言われていることですので……」
愛想笑いを浮かべた提督を、バツが悪そうに見る老婆。少しの間、沈黙が降りた。
それを破ったのは、楓だった。
楓「ねえ、兵隊さん?」
提督「なんだい?」
楓「兵隊さんも桜を見に来たの?」
提督「んー、それもあるけど……。お兄さんはね、この街を見るために散歩していたんだ」
楓が小首を傾げている。提督の言葉の意味が、今一理解できないのだろう。
提督「楓ちゃんは知らないかな? この街では、昔……といっても、たった十二年前のことなんだけどね。大きな空襲があったんだ」
提督は川の向かい側を眺めた。憂いを帯びた黒い瞳が、水晶のように澄んだ景色を写す。晴天の下に広がるのは、霧がかった美しい山際と無数に織り成す建物であった。耳を澄ませば、電車の音が聞こえてくる。かつて、災厄に見舞われた場所とは思えないほどに穏やかで平和な光景だ。
帝国歴二十七年、『南野市大空襲』。それは、深海棲艦が出現してより起こった二度目の空襲である。敵機動部隊の艦爆が爆弾と焼夷弾を撒き散らし、この街は火の海に沈んだ。多くの家々が焼け落ち、火災や爆発によって約四万人ほどの尊い命が理不尽なまでに失われた。艦娘制度が開始する、たった二ヶ月前のことである。
提督「多くの人が亡くなったんだよ」
提督は、悔やみを滲ませて言った。知らず知らず、拳を握り込んでいた。
提督「お家もたくさん焼けた。みんな、一晩で帰るべき場所を失ったんだ」
提督「でも……、この街は何とか活気を取り戻した。艦娘……軍艦のお姉ちゃんたちの活躍と、多くの帝国民が復興に手を尽くしたおかげでね。僕は、空襲から立ち直ったこの街が見たくて、こうして歩いていたんだ」
風が、桜並木を撫でた。
さわさわと静寂に溶ける音。それはあまりにも優しく、しかし力強い暖かさがあった。
「私も……」
口火を切ったのは老婆だった。悲哀でシワが寄り、孫を見つめる丸い瞳には涙が溜まっている。
「空襲の時、火事で夫と息子を……」
提督「……、そうですか……」
提督は自分の迂闊さを悔いた。少し想像力を働かせれば、彼女が空襲の被害を受けているかもしれないことは気付けたはずだ。
提督「すいません、不躾でしたね……」
「いいのよ……」
老婆は小さく笑った。堪え切れず目尻から零れた一筋の結晶が、痛々しくも高潔なものだと心から思えた。
楓「お婆ちゃん、泣いてるの?」
心配そうに見上げる楓。シワシワの小さな手が、楓の頭の上に置かれた。
「泣いてないわ。大丈夫」
楓「でも……」
「楓。今は、私にはあなたのパパとママがいる。それに、あなたもね」
撫でる。その手つきは、慈愛に満ちていた。
楓「ん……」
「だから、大丈夫」
提督は目頭を押さえた。込み上げてくるものを、懸命に堪える。桜とともに咲き誇る家族愛が、あまりにも美し過ぎた。
守らなければならない。提督は改めて強く思う。この光景を壊さないために。
もう、誰も悲しまない世界を作るために。
提督「……」
空を仰いだ。海のごとき壮大な青い世界、その先を見据えるように見続けた。
ここから、提督の夢が始まる。
投下終了。
このSSは、(SS内の世界で)過去にあった出来事や事件が複雑に絡んできます。なので、混乱を避けるために、「帝国歴」という歴を採用しています。
後、文明が現代より数十年ほど遅れている設定です。パソコンや携帯は出てこないです。車も、庶民には普及していません。
提督は楓たちと別れた後、桜道を越えて海辺の方へと向かった。その際も、多くの人達から注目され、あるいは声をかけられた。皆、提督が南野鎮守府に着任する予定の士官であると知っては、一様に驚いていた。驚き方が全員同じだったので、少し可笑しかった。
防風林で作られた林道を抜けると、大きな護岸が目の前にあった。コンクリートで作られた無機質な壁は、長身の提督より数十センチほど高い。提督は壁の淵に手を掛ける。太陽光を吸い込んでいるためか微かな熱が、手袋越しから伝わってきた。
短く息を吐き、ぐっと腕に力をかけてあっさりよじ登る。毎日懸垂を欠かさない提督には、この程度朝飯前であった。
護岸に立つ。
提督「……」
目の前には、広大な海があった。その青さは快晴の空を映す鏡であり、揺れ動く白波は高速で流れる雲のようだ。横長に伸びた砂浜へ押し寄せては引き、それを繰り返す。潮騒が、淡い空気によく溶けた。
漂う潮の香り。嗅ぎなれていた筈のその匂いに、包み込むような安心感を覚えた。不思議な感覚だ。
提督はしばらく海を眺める。少し冷たい浜風が、提督の制帽を飛ばしかけた。慌てて手で抑えつけ、彼は目線を右へと滑らせる。
ここよりやや離れた場所に、大きな港があった。すぐ側には、赤レンガで出来た洋風の建物が鎮座している。かなり立派な洋館だった。財閥の別荘だと説明しても、疑うものはいないだろう。
提督「あそこか……」
提督は呟く。高い声は、期待と不安を含んでいた。
胸ポケットから地図と指令書を取り出す。入念に何度も見直した。
間違いない。あそこが、南野鎮守府だ。
提督の城となる場所だ。
提督は紙を畳んで、護岸から軽やかに降りると、南野鎮守府へと歩き出した。歩行ペースはやや早い。
ぐにゃりと歪んだ海岸沿いを十数分進むと、鎮守府の正面入り口に辿りついた。鉄格子の扉の奥に、巨大な洋館がそびえ立っている。近くで見ると、まるで迫力が違った。安易に近づいてはならないと思わせる、何処か浮世離れした雰囲気すらある。
提督は、息を呑んだ。
これでも、広大な横須賀鎮守府と比べると小さい方だが、自分が率いる鎮守府であると考えると、実際よりも大きく感じた。心理的な圧迫感があるのだ。
まだ中に入ってすらないのに、鎮守府を任されるという意味とその責任の大きさを味わった気分だった。
「あの、あんた誰?」
声をかけられた。鉄格子の側にある小さな建物の窓から、制帽を被った恰幅のいい男が身を乗り出していた。年は、五十代といったところか。脂が乗った顔に、僅かな皺が刻まれている。
男は守衛だった。提督を不信げに睨んでいる。
「ここは関係者以外立ち入り禁止だよ。見たところ軍人みたいだけど……、田中大佐に用があるならまだ来られていないよ」
しっしっ、と追い払うような手振りをした。その横暴な態度に少し苛立ちを覚えたが、ふと、ちょっとした悪戯心が浮かんできた。
にやり、と意地悪く提督は笑う。
提督「そうですか……。田中大佐はまだ来られていないでありますか。それならば、仕方ありませんね……」
守衛「そうそう。だからまた後日にでも出直してくれ。たくっ、そもそも来るなら話し通しといてよ……。聞いてないよ、今日軍関係者が来るなんて」
提督「おかしいですなあ。ちゃんと、話は通しているはずなんですが……」
守衛は眉を潜めた。
守衛「そんなはずないよ。誰が訪ねて来るかは、全部私のところに連絡がくるようになってるから。おたくがちゃんと申請しなかったんじゃない?」
提督「いえ、大本営から入場許可証をちゃんと頂きましたよ」
守衛「なら、見せてよ」
提督「はい、分かりました」
提督は階級章を胸から取って、守衛の前に翳した。
目があまり良くないのかもしれない。守衛はさらに身を乗り出し、猫のように目を細めた。そして、ピタリと固まる。
赤みを帯びていた顔が、さっと青ざめた。
守衛「ま、まさか……」
提督「そのまさかだよ」
提督はしてやったりと思った。
提督「私が、その田中大佐だ」
守衛「も、申し訳ありません!」
守衛が弾かれたように体を起こした。背筋をピンと伸ばし、敬礼する。
守衛「た、田中大佐とは知らず飛んだご無礼を!! てっきり、お車で来られるものだと……」
言い訳を始めた守衛を、提督は厳しい目付きで見た。内心では、守衛の言い分は最もだなと思いながら。まさか、海軍の士官が一人で歩いてくるなんて、誰が思おうか。
提督「感心せんな。階級章の確認をしないうちからそのような横柄な態度を取るなど……。いや、そもそも訪ねてきたものが誰であろうと関係ない。少々、礼儀に欠くのではないかね?」
守衛「は、はっ! 仰る通りであります!」
提督「この鎮守府は立ち上がったばかりで、まだまだ信用も浅い。地元住民と『艦娘支援の会』の強い要望と協力でできた鎮守府なのだから、信頼を得ることが大切なのは君も分かるだろう? 君の態度は、不信感を抱かれかねない」
守衛「はっ!」
提督「さて、上官に逆らったことと職務怠慢で罰を与えねばならんな。どうしたものか……」
提督の言葉に、守衛は泣きそうな顔をした。
提督は顎に手を当てて、小さく笑った。
提督「そうだな……。こういうのはどうだろう?」
提督「次の勤務から眼鏡をかけろ」
守衛は、ポカンとした。口を半開きにし、瞬きを繰り返す。
提督「私の階級章が見えてなかったのは、視力が悪いからだろう? 違うか?」
守衛「あ……はっ、はい。最近、目が近くて……」
提督は溜息を吐いた。
提督「あのな、軍曹。守衛という人を見なければいけない仕事をしているのに、眼鏡を掛けないのは良くないぞ。それだけで立派な職務怠慢だ」
守衛「……」
提督「分かったなら次から掛けろ。いいな、これは命令だ。……今回の件はそれで水に流してやる」
守衛「あ、ありがとうございます! 必ず、必ず約束します!」
大袈裟に頭を下げる守衛。窓際に額がくっつきそうであった。緊張が行き過ぎたのか、息を切らせている。
海軍だけではなく、軍隊は総じて上下関係に厳しい。下士官と士官ともなれば、その差は天と地ほどのものであった。士官に無礼を働けばタダですまないことは、火を見るよりも明らかである。最悪、職を失うことにもなりかねない。
守衛が呼吸を乱すのも頷けた。提督は少しだけ悪いことをした気分になった。
提督「あー、まあ顔を上げろ。この件はこれで終わりだ。……いい教訓になっただろう?」
守衛「は、はい……」
提督「さて、そろそろ通してもらおうか。少し遅刻しているからな、急いでくれ」
守衛「はい! す、少しお待ち下さい」
守衛は慌てて書類にサインすると、扉を開けた。大きな鉄格子の扉が、重々しい音を立てて開いていく。
提督は、守衛に微笑みかけた。
提督「孫が生まれたばかりなんだ。もっと自分を大切にしたまえ、軍曹」
そう言って、鎮守府の中に入って行った。
守衛は、再び口を開けた。
守衛(……どうして、私の孫が生まれたことを……?)
正面入り口から入ってすぐ、提督は感嘆の息を溢した。
まず、洋風の庭園が提督を出迎えた。大理石で出来た道の両端は、彩豊かなバラの生垣があり、奥に見える噴水までの道を真っ直ぐ示している。ビスタと呼ばれる透視的遠近法の一種で、庭を奥深く見せて広く感じられるようにする造りだ。
平面幾何学庭園。フランスで起こった庭園の形式だ。流石に本場のものと比べると見劣りするが、それでもかなりのものだ。まさかこんなところでお目通りかかろうとは。提督は驚きを隠せなかった。
先程の桜道も乙なものであったが、洋風趣味がある提督の好奇心を大いにくすぐったのはこちらであった。彼は圧倒されながらも、心の昂まりに震える。
着任そうそういいものを見せてもらった。これは、人に自慢したいくらいだ。養父に写真付きの葉書でも送ろうかと思ったが、養父は和風趣味であったのを思い出し考え直した。
提督は忙しなく首を動かし、庭を楽しみながら進む。薔薇の芳しさが鼻腔を擽り、気分を盛り上げる。奥に設えられた庭木から小鳥が飛び立った。爽やかな羽ばたきが、静寂を柔らかく叩いた。
しばらく静謐な時間が流れたが、徐々に噴水の音が大きくなり始めた。不快な音ではない。癒される響きだ。
噴水に辿り着く。囲うような生垣があり、側にはベンチがあった。そこに、一人の少女が座っている。手持ち無沙汰なのか、退屈そうに足をぷらぷらさせていた。
少女はセーラー服を着ていた。年頃は十三か十四くらいであろう。短い黒髪を小さく後ろ結びにしており、顔立ちは素朴な可愛らしさがあった。田舎の中学生みたいだ、と提督は思う。この庭園よりも、畦道に座っている方がしっくり来る、そんな見た目だった。
「あ」
少女が気づいた。瞬きを数回し、提督の顔と胸元の階級章を確認して、焦ったように立ち上がった。
「あ、あなたがもしかして……」
提督「ああ、本日付で着任となった田中大佐だ」
「や、やっぱり! は、初めまして吹雪ですっ!」
吹雪は敬礼した。動きの一つ一つがブリキのおもちゃのように固い。
提督は表情を緩ませる。
提督「緊張しなくていい。君が吹雪か……。お父様にはお世話になっているよ」
吹雪「は、はい。あなたがお父さんの弟子である田中大佐……。お話は聞いていましたが……」
おずおずとこちらを見る吹雪。目が合うと、彼女は少しだけ顔を赤らめて目をそらした。その純な反応に、提督は苦い笑顔を浮かべかけた。
提督「それより、待たせてすまなかったな。少しだけ遅刻してしまったよ」
吹雪「いえいえ! 遅刻といってもそんな……。たったの十数分程でしたので」
提督「大きなロスだよ。軍人たるもの、時間は守らなければならない。僅か数分、数秒の遅れが勝負を決することもあるからね。私の遅刻は許されるものではない」
吹雪は困った顔をした。上官がいきなり謝った挙句、自責し始めたのだから、戸惑ってしまったようだ。
提督「……まあ、素直に謝罪を受けておいてくれ」
吹雪「わ、わかりました。あ、あの田中大佐、一つ尋ねても宜しいでしょうか?」
提督「ん?」
吹雪「お付きの人は居ないようですが一体……?」
提督「ああ。実は一人で来たんだ」
吹雪「ええ!? お一人でですか!?」
吹雪が驚いたように叫んだ。信じられないとでも言いたげな顔である。
提督「そうだ。この街をしっかり見物したくてな。車を断わって歩いてきた」
吹雪「あ、歩いてって……」
提督「遅刻したのはそれが原因だ。色々な人から声をかけられてしまって、困ったよ」
吹雪「……」
提督「吹雪?」
吹雪「あ、すいません。何ていうか、その……」
吹雪の口が何かを言いたげに動いていた。何を言いたいのか何となく理解した提督は、溜息をついた。
提督「軍人っぽく見えないか?」
吹雪「い、いえっ! そうではなくてですね!」
図星をつかれた吹雪は、アタフタと手を振った。目が泳いでいる。分かりやすい子だ、と提督は思った。悪戯したい気持ちがふつふつと湧いてくる。
提督「いいさ、良く言われるから。女顔のなよっちい奴ってね」
口を尖らせて拗ねた振りをすると、吹雪は面白いほどに慌て始めた。「ど、どうしよう!」と呟いて、目に涙を溜めている。
提督「はあ、これから部下になる者からさえそう思われるのか……。上手くやっていけるだろうか。ああ、不安だなあ」
吹雪「あ、あの」
提督は噴き出した。
提督「……なんてな。冗談だ」
吹雪「え?」
提督「君の反応があまりに面白かったのでな。からかわせて貰った」
吹雪は呆然とした。茶色味を帯びた瞳が、提督の美しい顔を映している。目尻が下がり、整った唇が小さく歪んでいた。
からかわれたことに気付いた吹雪は、ムッと頬を膨らませる。
吹雪「酷いです、田中大佐。気に障ったのかと思って冷や冷やしたんですからね」
提督「それは悪かった」
吹雪「もう。折檻されたらどうしようかと……」
胸を撫で下ろす吹雪。
彼女の心配は杞憂でしかない。特別大将の娘相手に手を上げることができるやつなど、海軍には一人もいないからだ。そもそも、吹雪が冬木の娘であろうとなかろうと、提督には折檻するつもりなど毛頭ないが。
提督「それより、吹雪」
吹雪「は、はい!」
提督「もう一人はどうした? 初期艦として配属になるのは二名だと聞いていたが……」
吹雪「あー。その、もう一人の方はですね……」
吹雪の言い方はどうにも歯切れが悪かった。提督は眉を顰める。
提督「まさか、まだ来てないのか?」
吹雪「い、いえ。もう来られているんですが……。田中大佐の出迎えに行こうと誘ったら断られちゃったんです」
提督「なに……?」
上官の出迎えを断る?
そいつはどんな阿保だ。
提督は不愉快な気分になった。部下に冗談を言ったり、失態を笑って許したりする大らかな彼であっても、その常識の無さには怒りを覚えた。
感情が表に出てしまったようで、吹雪が申し訳なさそうに眉を下げる。
吹雪「ごめんなさい。私が、ちゃんと説得して連れて来れば」
提督「いや、君のせいではない。その不届き者は何処にいる?」
吹雪「ええと……、確か、波止場の方に……」
提督「分かった。それでは此方から出向いてやろうではないか。吹雪、案内頼めるか?」
吹雪「は、はい!」
吹雪の案内に従って、提督は肩を怒らせながら歩いた。眼つきは鋭く、前に向いている。あれ程感じ入っていた庭の景色は、ただ漠然と流れた。
庭から出ると、赤レンガを基調とした鎮守府本館が見えた。その横を抜け、別館との間にある中庭を素通りする。途中、職員らしき女性と出くわしたが、泣きそうな吹雪と眉間に皺を寄せた提督を見てぎょっとしていた。あまりに驚いたせいか、挨拶はなかった。
提督たちが別館を通り過ぎると、ついに港へと出た。海は静かに波打ち、シトシトと音を立てている。遠くから見ている時より、穏やかに見えた。
南野鎮守府は、深海棲艦に制海権を取られたために、漁業が不況となった煽りで廃れた漁港を改良したものである。昔は、フェリー乗り場としても使われていたためか、面積はそれなりにあった。
提督は目を走らせる。
漁港の時の名残が随所に見られる。テトラポッドに、灯台、おそらくは漁業で使う道具を収納していた小屋。側には、ウキのついた網が放置されていた。
不届きものは、防波堤の端にある灯台の下に腰掛けていた。
提督「あいつか……」
提督は呟いた。尋ねたわけではなかったが、吹雪が肩を震わせながら答える。
吹雪「は、はい。間違いありません!」
提督「あれがもう一人の初期艦……。確か、名前は摩耶だったか」
吹雪「そ、そうです。艦種は重巡洋艦です」
提督は吹雪の言葉を無視した。早足で、摩耶へと近づく。後ろから慌てて吹雪が続いた。
摩耶の真後ろに立った。肩で切り揃えられた黒髪と、しなやかな曲線を描いた背中を睨みつける。
提督(こいつが、重巡洋艦摩耶……)
提督は、着任が決定してすぐにした冬木との会話を思い出していた。横須賀鎮守府の執務室で、冬木から吹雪と摩耶を任せたいということを伝えられたのだった。
吹雪の話は早々に済んだ。しかし、摩耶の話になると、冬木の背中から伝わる重圧は途端に凄みを増した。
——君に、もう一人ある艦娘を任せたい。
——ご令嬢だけでなく、もう一人ですか?
——そうだ。その子は、高尾型重巡洋艦の三番艦。突出した戦闘能力を有しており、特に対空能力においては秋月並に秀でている。艦載機の撃墜数は空母を除いた全艦娘中一位だ。
——そんな戦力を私に? 何故でしょう?
——お前以外にはおそらく御しきれないからだよ。実は、性格にかなり難があってな。前に勤めていた鎮守府で問題行動を繰り返していた。上官に暴言を吐いたり、命令無視をしたりな。つい最近、作戦行動中に暴走し、そのせいで同じ部隊の駆逐艦が一隻轟沈した。それが問題となり、反逆罪で現在拘留中の身だ。
——反逆罪で……。それなら、その子は雷撃処分されるのでは?
——それが残等だが、今失うにはあまりにも惜しい戦力だ。私が皆を説得し、何とか左遷で済ませようと思う。
——納得して頂けるでしょうか?
——するさ。せざるおえない。
——随分、はっきりと言い切りますね。
——事情があるのだよ。実は、あの子は——
提督「……」
冬木とのやり取りを振り返り、成る程と納得する。確かに、こいつはとんでもないじゃじゃ馬だ。上官の出迎えを拒否するなど、普通考えられない。
提督「おい」
提督は、やや威圧的に言った。
摩耶がゆっくりと振り返る。提督は、彼女の顔を見て思わず息を呑んだ。
全てが、張り詰めていた。
目付きは鷹のように鋭く、青黒く濁った瞳は血走り、殺気が満ち溢れていた。目元は分厚い隈で黒く染まり、穴もたずにも引けを取らない凶暴性を感じさせる。肌は乾燥しきり、唇に至っては干上がって割れていた。
女の顔ではなかった。果実のごとき瑞々しさや初々しさは一切ないし、かと言って大人びた艶やかさがあるわけでもない。何かに取り憑かれ、狂った人間の顔だった。そうでなければ、普通の人間がこんな形相をできる筈がない。
提督の手が汗ばんだ。背中も濡れてシャツが張り付く。ただ見つめられただけで、提督は恐怖を覚えた。
『狂獣』摩耶。
理性を失ったように戦場で暴れ回る姿からつけられた渾名である。彼女の仲間だった艦娘たちが畏怖と侮蔑を込めて呼び始めたものが、広まって定着したのだ。
狂った獣とは、よく言う。
じゃじゃ馬なんてレベルではない。
摩耶「……」
摩耶は刺すような目線で、提督を睨んだ。威嚇は元より、値踏みしているような雰囲気がある。
ふっ、と鼻を鳴らした。
摩耶「んだよ……、ただのモヤシか」
第一声は、提督への罵倒であった。女顔で線の細い提督を、彼女はそう評した。
摩耶「冬木のおっさんがあんだけ言うから、どんな骨のあるやつが来るかと思えば……。スカスカじゃねえか。くだらねえ」
提督は何も言えず、後ろで吹雪が「おっさん……」と絶句していた。
摩耶「なんか用か、提督さんよ。アタシは今海を眺めることで忙しい。さっさと済ませろ」
あからさまな挑発だった。暴言などというレベルを軽く越えている。提督は流石に鼻白んだ。だが、湧き上がる憤りを必死で抑える。
怒れば思うツボだ。
提督「君が、重巡洋艦の摩耶か……?」
声が震えそうになる。
摩耶「ああ、アタシが摩耶様だ。悪名高き『狂獣』っていや、聞こえはいいか?」
ゲラゲラと摩耶は笑う。女性が出していると思えないほど、不快な笑い声だった。
提督「……私が本日より着任した田中大佐だ。以後、よろしく頼む」
摩耶「そーかい。で、んなことよりよ」
心底どうでも良さそうに摩耶は言った。暗い目を細める。獲物を探す肉食獣のように。
摩耶「出撃させろ、出撃」
提督「は……?」
言葉を失う。
摩耶「戦わせろつってんだよ。いつまでもこんな青くせえ場所にいられるか。さっさと戦場に出せ」
吹雪「あ、あなた何言ってるんですか? 配属初日から出撃なんて!」
摩耶「餓鬼は黙ってろ。殺すぞ」
その一言で、吹雪は封殺される。「ひっ」と小さな悲鳴を上げていた。
提督「……何故、そんなに戦いたいんだ?」
摩耶「あ? 決まってんだろ。アタシが艦娘で、アタシの居場所は戦場にしかねえからだよ」
その言葉に、提督は顔を歪めた。
彼女の台詞は、戦うこと以外に己の存在意義はないと言っているようなものだ。それはある意味で正しく、そしてある意味で間違っている。
艦娘は軍艦の記憶を持った、戦士だ。戦士は、戦場にいるからこそそう呼ばれるのであり、その意味では戦うことがアイデンティティと言っていい。
だが、ずっと戦い続けたいと全員が全員思っている訳ではない。むしろ、ほとんどの人間が戦い終わった後に帰ることができる居場所を求める。戦いは殺し合いであり、精神を著しく消耗する。削れた精神を癒せる場所を、安心できる居場所を求めるのは当然の心理だ。
だから、戦場だけが居場所にはなり得ない。もし、戦場だけが居場所になってしまったものが居たとしたら、そいつは安らぎを欲する人間の本能を超越した存在であり、即ち戦いに囚われた狂人に他ならない。
摩耶は、その狂人であった。
どうしたら、そんな風に狂うのか。
何が彼女を狂わせたのか。
提督は、その答えを概ね知っていた。
提督(憎悪……あまりにも、深い憎しみ)
提督(これほどまで……)
提督「……悪いが、出撃はできない。大本営から初期資源が送られてくるのは明日だからな」
摩耶「けっ。なら、明日は出撃できるんだな?」
提督「……ああ」
元よりそのつもりだ、と提督は思った。二人の実力を確かめるために、近海に出撃させるつもりだったのだ。
摩耶は立ち上がった。
摩耶「じゃあ、もう用はねえな。今日は戦えねえなら、昼寝でもさせてもらうぜ」
ひらひらと手を振って去っていく。その背中を提督も吹雪も黙って見送るしかなかった。
去りゆく摩耶の後ろ姿を、提督は注視した。目を凝らし、彼女の背中から何かを読み取ろうとするかのように。
提督(……)
提督(馬鹿な、そんなことがあり得るのか……)
提督は愕然とした。
提督(何も……何も視えない……)
投下終了。これ、終わるまでどんだけ掛かるんだろ……。
後、浜風のSSと同様、卒業旅行でしばらく更新できません。申し訳ない。
まとめの方で浜風のSSについて教えて欲しいという意見がありましたので、載せておきます。
【艦これ】提督「風病」【SS】
【艦これ】提督「風病」【SS】 - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1423330282/)
夜の執務室は静かだった。
開かれた窓から風が流れ込み、提督の髪を優しく撫でる。春の夜風は、まだ少し冷たかった。フワリと靡いたカーテンを見ながら、提督は溜息をついた。
とんでもない娘を任されたものだ。
摩耶の張り詰めた顔を思い出して、提督は憂鬱な気持ちになる。冬木はお前なら任せられると言ってくれたが、その期待に答えられる自信が彼にはなかった。
概ね聞いた通りの娘ではあった。上官を迎えに来ることもなければ、挑発まがいの暴言を吐き、その上出撃させろと迫ってくる始末。
最悪なファーストコンタクトだった。よく怒らなかったものだと自分でも関心する。女性を怒るということに慣れていない彼であっても、摩耶の態度は憤慨ものであった。
何故提督が怒らずにいられたか。それは、彼女が歪んでしまった理由を知っているからに他ならない。だが、その仔細な内容を知っているわけではなく、あくまで上辺の情報でしかない。
それだけでも、提督が怒れなくなる程の事情が、彼女にはあった。
その仔細な内容は、実は誰も知らない。提督は勿論、摩耶を任せた冬木であっても。知っているのは摩耶だけで、彼女はその内容を誰にも話そうとはしなかった。彼女が秘匿していることを聞き出すことも、提督が冬木から頼まれた仕事の一つであった。
時間がかかりそうだ、と提督は思う。
摩耶からその情報を聞き出すには、彼女の信頼を得ることが必要不可欠だからだ。それは、かなりの難事であることは容易に想像できた。例えるなら、凶暴な野生の熊を飼いならすようなものだ。
提督は、もう一度息を吐いた。
マホガニーの机に肘をおいて、資料の山から一枚の紙を拾い上げた。摩耶の経歴書である。
その一枚の紙切れには、彼女が歩いてきた人生が箇条書きにされていた。
児童施設出身で、帝国歴二十九年に艦娘の適性が出て、三十年に養成学校に入学、その後三年足らずで学校を卒業。わずか十三歳でだ。卒業までに通常五年かかる養成学校の重巡洋艦クラスで、これは驚異的な速さと言っていい。
そして、十三歳の時にある鎮守府に配属されることとなる。この経歴書に、その鎮守府の名前は書かれていない。これ以降の経歴はほとんど偽装されたものだ。
その鎮守府は、ある凄惨な事件の舞台となり、今はもう存在しない場所である。
名を、佐世保鎮守府と言った。
提督(……あの事件について知らないものはいない)
提督(摩耶は……)
その時、木を叩く音が二回響いた。誰かが扉をノックしたのだ。
提督は経歴書を裏返しに置いて、返事をした。
提督「入れ」
吹雪「失礼します!」
入ってきたのは吹雪だった。音を立てないように扉を閉めてから、背筋をピンと伸ばして敬礼する。
吹雪「夜遅くに申し訳ありません、司令官」
彼女の呼び方は、いつの間にか田中大佐から司令官になっていた。認められたような気がして、少し嬉しくなる。
提督「どうしたんだ?」
吹雪「その、今日はすいませんでした!」
突然、吹雪は頭を下げた。意味が分からなかった提督は、瞬きを繰り返した。
提督「……何故謝る?」
吹雪「あ、あの……今日摩耶さんが出迎えに行きませんでしたよね?」
提督「そうだな」
吹雪「それで、その……私がもう少しちゃんと注意してればよかったなと思って」
提督「……ああ」
思わず苦笑した。
なんて律儀で謙虚な子だろうか。冬木大将の娘なのだから多少尊大に振る舞うくらい許されるものであるが。どうやら、冬木大将はしっかりとした教育をなさっていたようだ、と感心する。
提督「別に君のせいではないだろう。どう考えても悪いのは摩耶だ。謝る必要はないよ」
吹雪「しかし……」
提督「吹雪」
提督は優しい口調を意識して、微笑みかけた。
提督「もういいよ。気にしてくれてありがとう」
礼を言われるとは思っていなかったようで、吹雪は目を見開いていた。小さな口が開きっ放しになっている。
提督は噴き出した。悪戯好きの彼には、吹雪の素直な反応は好ましいものであった。
提督「やっぱり君は面白いな」
吹雪「そ、そうですか……?」
吹雪は喜んでいいのか迷ったようで、微妙な顔をした。
提督「ああ、面白いよ。君はとても表情豊かで見ていて飽きない」
吹雪「なんか、馬鹿にされてるような気がします……」
提督「馬鹿にはしてないさ。ただ、からかっているだけだ」
吹雪「尚更酷いです!」
ムッとした顔で抗議する吹雪を、提督は楽しげに見ていた。吹雪とは上手くやっていけそうだな、と思う。彼は礼儀正しく、しかし子供らしい素直さをもった吹雪のことを気に入った。
ふと、提督は吹雪を視てみようと思った。正確には彼女の心中に秘められた記憶の断片を。
提督には特別な力があった。と言っても、そんなに大それた力ではなく、非常に限定的な透視能力である。
透視対象者の一番幸せな記憶。それが、一枚の写真のように視えるというものだ。守衛に孫がいることを当てたのも、この能力のおかげである。
能力を使うにあたり、透視対象者とある程度コミュニケーションを取らなければならないという条件がある。吹雪の場合、朝の段階で条件はすでに満たしていた。
ピンボケしたように吹雪の実像が霞む。能力を使うと、いつも対象者が希薄に見える。ぼんやりとした小さな影、その中心から一枚の絵が浮上した。
それは広い部屋の中だった。シャンデリアの淡い光のすぐ下に、グランドピアノが黒く輝き、荘厳な存在感を放っていた。そこに座る赤いドレスを着た少女が、そばに寄り添う男性に頭を撫でられながら照れたように笑っていた。
少女は吹雪だ。今より、ずっと幼い。ランドセルを背負い始めたか始めてないかくらいである。吹雪を見下ろす男性は、冬木だ。普段は鉄面皮の男が微かに口元を吊り上げ、慈愛に目尻を下げている。
その絵は、父親に褒められて喜ぶ娘の姿を映したものであり、吹雪の最も幸せな記憶であった。
提督「……」
絵が再び吹雪の心底へと沈む。すると、彼女を覆い隠していた靄もすっと無くなり、そわそわと落ち着きのない彼女が姿を見せた。
吹雪「あ、あの……司令官?」
提督「……なあ、吹雪」
吹雪「は、はい!」
提督「君は、父上が好きか?」
吹雪「え?」
唐突に尋ねられた吹雪は驚いていた。小首を傾げ、怪訝そうに眉を顰める。だが、すぐに花が咲くような笑顔を浮かべた。今日一番の嬉しそうな表情だった。
吹雪「はい! 大好きです!」
明日は出撃が備えていたため、提督は吹雪に早く寝るよう言い聞かせ、下がらせた。
再び戻ってきた静寂の中、提督は瞑目する。
提督(吹雪の記憶は問題なく視えた……。だとすると、能力が鈍ったわけではない)
提督(なら、何故だ。何故——)
摩耶の記憶は、何も視えなかったんだ。
その疑問を無意識に呟いた。答えるものは誰も居らず、風の音だけが靡く。
摩耶が去って行く時、提督は能力を使用して彼女の記憶を視ようとした。しかし、浮上したのは額縁すらない真っ黒な絵だった。
全てが、一切、隙間なく、黒い。
白紙に墨を塗りたくって闇を描いたのか、それとも最初から何も描かれていない黒い紙なのか。その何れかは分からないが、はっきりしているのは、摩耶には幸せな記憶がないということだ。
今まで一人として、この能力で記憶が視えなかったものはいなかった。鬼の目にも涙というのは語弊があるかもしれないが、どんなに性格が悪いものにも必ず幸福の思い出はあった。だからこそ、提督は性善説を信じていられたし、誰に対しても大らかに接することができたのだ。
こんなことは初めてだった。あまりにも困惑が大きかったせいで、提督はまず自分の能力が衰えた可能性を疑ったくらいである。だが、その可能性は吹雪の記憶が正常に透視できたことで否定された。
提督は信じたくなかった。否定する気持ちは摩耶の過去を知っているからか、とても強かった。
あまりにも大きすぎる悲運によって、摩耶は憎しみに狂い、戦うことに依存するようになってしまった。だからこそ、せめて幸福の思い出だけはあって欲しかった。悲境だけが彼女の人生を彩っているわけではないと、思いたいから。
提督は目を開いて、裏返しになった経歴書に視線を落とした。黒水晶の美しい瞳は、この紙に書かれていない事実を見通すようで、暗澹に暮れていた。
きっと、調子が悪かったのだ。まだそれほどコミュニケーションを取っていなかったから、使用条件を満たせなかっただけ。
そうに違いない。そうであって、欲しい。
静かに目を閉じて、提督は願う。それが都合のよい正当化だと理解しながらも、そうした考えは大抵悪い結果に結びつくことを知っていながらも、思わずにはいられない。
絶望に沈んだ精神に、一輪のベゴニアが咲いていることを所望する。
明日、もう一度確かめよう——。
投下終了
ベゴニア
花言葉は「親切」「片思い」「丁寧」
それと「幸福な日々」、か
翌日の朝、予定より少し遅れて大本営から初期資源が送られてきた。
燃料と鋼材、弾薬、そしてボーキサイトが約二週間分である。それに加えて、開発部(大本営の下部組織。兵器開発と研究、妖精の発見などを担当する)から技術妖精数体と二人の艤装が届けられた。
必要な手続きや妖精たちとの顔合わせを済ませ、彼らに艤装の点検を依頼したところで、時間は十二時になっていた。時間は想定していたものより少し遅いが、これで出撃に行くための前準備は全て終わった。
提督は吹雪と摩耶を執務室に呼び出した。
提督「これから出撃を行う」
提督が告げると、吹雪は緊張したように喉を鳴らした。
吹雪「い、いよいよですね……」
提督「吹雪は今回が初めての出撃になるんだったな」
吹雪「はい。緊張します……」
提督「緊張するのは分かるが、あまり肩の力を入れ過ぎないようにな。君は今年の養成学校の駆逐艦クラスを主席で卒業しているんだ。自分の実力を信じてやれば大丈夫さ」
吹雪「そ、そうですよね……が、頑張ります」
提督の言葉に頷く吹雪だったが、表情は固いままである。こればかりは、場数を踏んで慣れていくしかないからしょうがない。
摩耶「で? 作戦内容は?」
摩耶が焦れたように急かしてきた。
提督「鎮守府近海の敵勢力調査が主な内容だが、接敵した場合の迎撃も行ってもらおうと思う」
摩耶「威力偵察かよ。けっ、ガキの使いみたいなことさせやがって」
提督「最初はこんなものさ。それに、威力偵察も重要な任務だ」
不満さを隠さず、摩耶は舌打した。熟練した戦士である彼女からすると、鎮守府近海の威力偵察なんて子供のお使いのように感じてしまうのだろう。
吹雪「あれ? そういえば、ここら辺の海域って、元々はお隣の前浜鎮守府が担当していたはずですよね? 近海の敵勢力図とか引き継いでないんですか?」
吹雪が小首を傾げながら尋ねてくる。
提督「一応、前浜からこの近海のデータは送られてきている」
吹雪「それなら、偵察する必要ってあるのでしょうか? 何処にどのくらいの敵が出るとかすでに前浜が調べているんですから」
摩耶「馬鹿かてめえ」
すかさず摩耶が毒を吐いた。
吹雪「……どういう意味ですか?」
ムッとした吹雪を見て、摩耶が溜息を吐いた。馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
摩耶「お前、相手を将棋の駒かなんかと勘違いしてんじゃねえか? 奴らは生きてんだからよ、必ずしもこっちの思い通りに動いてくれるわけじゃねえ。前浜が事前に調査してるからって、調査結果通りの敵勢力がいる保証なんてねえんだよ。調査結果を信じて出撃して、それよりも強い敵や多勢に出くわしちまったら笑い話にもならなんねえぞ?」
摩耶は一旦言葉を切って続ける。
摩耶「だからこその威力偵察なんだろ。先行調査の結果を元に、自分らでも更に調査をして情報の信憑性を高める。それに、アタシらはまだこの海域に慣れてないどころか、出たことすらねえからな。慣れを養う上での出撃でもあるんだろうぜ。違うか?」
摩耶が提督に顔を向けて言った。提督は内心で舌を巻きながら頷く。
提督「摩耶の言う通りだ。前浜の情報を信用しないわけではないが、それでも偵察はやりすぎるに越したことはないからな。それに、海を知らないのは危険だ。万が一はぐれた場合、方向感覚が掴みづらい海上では自力で帰還するのは困難だからだ。そういう時にものを言うのが『海に対する慣れ』なんだよ。だからこそ、最初は簡単な威力偵察に留めた出撃を行うのさ」
成る程、と感心したように吹雪が言い、未熟な唸り声を上げた。
摩耶「おめえ、本当に主席で卒業したのかよ?」
吹雪「……しましたよ。悪かったですね」
吹雪がいじける。
提督「まあ何にせよ、勉強になっただろう?」
吹雪「は、はい。まだまだ勉強が足りませんでした……」
提督「これからちょっとずつ学んでいってくれればいい。君も私もまだまだ駆け出しだからな、一緒に切磋琢磨していこう」
吹雪「そうですね! が、頑張りましょう」
摩耶「はあ、先が思いやられるぜ……」
せっかく綺麗に纏めようとしたのに余計なことを言うな、と提督は思った。そんな心情など知らない摩耶は、卑屈に笑ってこう言った。
摩耶「まあ、アタシからすると、威力偵察なんざする必要はねえんだけどな」
先ほどまで威力偵察の必要性を説明していた人間の言葉とは思えなかった。提督は清々しいまでの手のひら返しに、若干の苛立ちを覚える。
提督「……慢心は身を滅ぼすぞ?」
摩耶「別に慢心じゃねえよ。そこが戦場なら、場所がどこだろうと、どれだけ敵が強くて多勢だろうと関係ねえってことさ。やることは変わらねえ」
摩耶は歯を剥き出しにした。
摩耶「目の前に現れた奴は、全て食い殺す。それだけだ」
提督「……」
青黒い瞳に、殺意の業火を見た。炎は黒い。目の下に深く刻まれた隈が、今にも燃え尽きようとする屍肉のような不吉で歪なおぞましいものに映り、提督は思わず目を逸らした。
嫌な光景を思い出してしまう。あの、燃え盛る世界と悲鳴と絶叫の合唱を——。
摩耶「じゃ、もう用はねえな。そろそろ行くぜ」
提督「……ああ。工廠室に艤装があるから、まずそちらに行って準備してくれ」
摩耶「必要ねえよ。自前がある」
吹雪「自前って……」
吹雪が驚いたように言う。摩耶が艤装を専有していることを知らなかった提督も、目を見開いていた。
通常、艤装は鎮守府で保管することが決まりであり、所持を許される艦娘は数少ない。横須賀の大和や一航戦の赤城加賀、『戦鬼』という異名を持つ東野の神通など、極めて優秀な戦績を残したものにだけ許される名誉なのだ。
すなわち、摩耶は選ばれた英傑の一人ということだ。彼女の経歴を知っている提督はすぐに納得したが、何も知らない吹雪は驚愕が冷めないようで、目を輝かせて摩耶を見ていた。
提督「そういうことはちゃんと報告して欲しい」
摩耶「あーはいはい。次から気ーつけるよ」
取り合う気がないことは丸分かりだった。ひらひらと後ろ手を振って、摩耶は部屋を出た。乱暴に閉まる扉。
吹雪も慌てて追いかける。扉を開く前に、思い出したかのように提督へ振り返って敬礼した。
吹雪「それでは司令官、失礼しました!」
提督「ああ、頑張って来い」
投下終了。
摩耶改二来ましたね、やったぜ。
それより、どうしましょ。正直改二にすることを考えてなかったんですよねー。ま、話を進めながら考えますか。
海が鏡のごとく陽光を乱反射し、彼方の水平線に銀の揺らめきが起こっていた。その美しい光景へ向かうように、吹雪は動力機関をいっぱいに吹かせて航走する。
波を切る感触が足を伝わり、後ろへと流れていく音は木々のざわめきを思わせた。爽やかな音に被さるように向かい風が騒いだが、身体を覆う透明な膜が音を抑制してくれるおかげで、不快さはない。
この透明な膜は艤装装着と同時に展開され、頭から足先に至る全身を覆い尽くす。これが、所謂『装甲』と呼ばれるものだ。砲撃や雷撃、また様々な振動や抵抗から艦娘を守る役割をもつ他、爆発や風から目と耳を保護するヘルメットのような機能もある。
装甲によって、吹雪は身を打つ潮風の影響をほとんど受けずに済んでいた。もし装甲がなければ、激しい走行風でマトモに目も開けていられないだろう。
高速で流れる海の情景は進めど進めど変わらず、遙かに見える銀の煌きには決して届かないように思えた。
養成学校の時に飽きるほどさせられた練習航海の最中、これまた飽きる程抱いた感慨だった。見慣れた味気ない景色を、吹雪は呆然と眺める。
これが初めての本格的な出撃だというのに、どこか上の空な心持ちであった。執務室で感じていた不安が霧散している。
これから自分が人類を脅かす怪物と戦争をするということに、どうしても現実感を抱けないでいる。まるで、SF映画の世界に入り込みでもしたかのようだ、と吹雪は思った。
引き締まらない意識の中で、吹雪はちらりと目を横へ遣った。視線の先には波飛沫を蹴散らしながら進む摩耶がいる。
その動きは、驚くほど滑らかなものだった。姿勢に一切の無駄がないせいか、背中の脚線が芸術品のような秀美さを放っていた。
感嘆に息が零れる。
吹雪(綺麗……。やっぱり、『艤装持ち』の艦娘は違うなあ……)
吹雪(この人が居れば、多分大丈夫だよね。そんな危ないことには)
ならないよね。あやふやな結論付けをしようとした瞬間、摩耶の腕が後ろに伸びた。
手の平をこちらに翳している。『止まれ』のハンドシグナルだった。
吹雪は緩んだ意識を少し張って、慎重に減速した。急に止まると、慣性の法則が働いて身体が吹き飛ばされてしまうからだ。ゆっくりと速度を落として止まるのが基礎であった。
摩耶も慣れた感じで足を動かし、速度を緩め止まった。減速に入ってから停止までの時間がとんでもなく速い。何の前触れもなく止まったようにさえ見えてしまった。またも吹雪は驚嘆に目を見開く。
摩耶は振り返って吹雪を見ると、ぶっきらぼうに親指で何かを指差した。吹雪はその先を目で追いかける。すぐ近くに、カラフルなソフトクリームみたいなものがいくつも浮かんでいるのを見つけた。
目印のブイだ。
摩耶「チェックポイントに着いたぞ」
手で耳を押さえ、摩耶は言った。吹雪に語りかけた訳ではなく、作戦室にいる提督へ無線を入れたのだ。
提督『了解。そのままAのルートに進んでくれ』
摩耶「十一時の方角だな」
提督『そうだ。これより先は深海棲艦の生息域に入る。気を引き締めてかかれ』
提督の言葉は吹雪の耳にも届いている。心臓が大きく跳ねた。モノクロだった現実に色彩が戻っていき、緩んでいた糸が緊張でピンと張り詰めた。
身体が強張る。
ここから先は、敵が姿を見せる。ついに戦争をするのだ。自分が砲雷撃を打ち、人類の敵を打ち取らなければならない。
失敗しないだろうか。吹雪は不安になる。摩耶の足を引っ張ってしまわないだろうか。もし、初戦でミスをしてしまえば、自分にかかっている周囲の期待を裏切ることになりかねない。父の顔に泥を塗ることにも……。
提督『吹雪』
名前を呼ばれ、はっとする。吹雪の緊張は提督に見抜かれていたようで、呼びかける口調は優しかった。
提督『大丈夫、自分を信じて。この海域の敵はそんなに強くないから心配することはないよ』
吹雪「司令官……」
提督『それに、もし危なくなっても摩耶が守ってくれるさ』
摩耶「おい、モヤシ。何勝手抜かしてやがる」
提督『勝手ではない。君の役目は初出撃の吹雪をサポートすることだ。君が吹雪を守るのは当然だろう』
摩耶「知るかよ。ガキのお守りなんざ——」
摩耶は吐き捨てようとしたが、不安に目を潤ませた吹雪を見るや言葉を止めた。舌打ちを鳴らす。
摩耶「ち、分かったよ……。しょうがねえからサポートだけはしてやらあ」
吹雪は胸を撫で下ろした。摩耶のような熟練した兵士が守ってくれると思うと、不穏さで翳った心がほんの少しだけ晴れた気がした。
吹雪「あ、ありがとうございます。司令官、そのあなたの言うとおり自信を持って、精一杯頑張ってみます」
提督『うむ、その息だ。ただ、慌てず落ち着いてやるようにしなさい』
吹雪「はい!」
気合いを入れて吹雪は返事した。
摩耶「おら、そろそろ行くぞ」
摩耶が急かしてきた。エンジンを震わせて返事をすると、小さく頷いた。
先行する摩耶に着いていきながら、吹雪は息を吸う。潮の香りは、郷愁さえ感じる冷たさで、腹の中に蟠る気持ち悪さを和らげた。息を吐き捨てる。
大丈夫、やれる。今までの努力を信じてやれば駆逐艦の一匹や二匹程度なら撃沈できるはずだ。司令官の言う通り自信を持て。
吹雪(私は、冬木特別大将の娘なんだ…….)
吹雪(やってやる!)
気合いを入れ直した吹雪は前を見据える。変わらないはずの海が、更に広がって見えた気がした。
二人は無言で航海を続ける。
十数分走った頃だろうか。周囲を警戒していた摩耶が、首の動きをぴったりと止めた。再び手を後ろにやって、人差し指をクルクルと回した。旋回しろということだ。方向は左。
減速し、摩耶の動きに沿うように旋回した。白く美しい二本の軌跡が、海上に刻まれる。
摩耶が声を張り上げた。
摩耶「敵だ!」
吹雪は驚いた。辺りを見回しても吹雪には敵が発見できなかった。
吹雪「い、一体どこですか!?」
摩耶「もうすぐ現れる。ここから直線上に数は三匹だ」
吹雪「え!?」
提督『その座標なら確かに接敵してもおかしくはないが、もうすぐ現れるとはどういうことだ? 敵の姿を捉えたわけではないのか?』
提督が尋ねてきた。
摩耶「ああ。ただの勘だからな」
提督『勘だと? そんなあやふやなもので報告されては困るぞ』
その指摘はもっともだ。しかし、摩耶は確信しているようで、目つきの鋭さを一切変えない。
摩耶「信じらんねえだろうが、アタシの勘はよく当たんだよ。まあ、見てろ」
摩耶が言った直後だった。やや遠方で、不自然な気泡がふつふつと起こり始めた。泡は三つあり、徐々に湧き上がる勢いが強くなる。まるで、そこだけ急激に熱せられているようだ。
吹雪(海底火山……?)
いや、違う。この辺りに海底火山などないはずだ。だとするとあれは何だ。
摩耶「構えろ、芋ガキ」
鉄が擦れる音。摩耶が、連装砲を構えた。
摩耶「来るぞ」
瞬間、三つの爆発が水柱を巻き上げた。
まるで砲撃を弾いたかのような爆発だった。爆音に大気が震え、飛沫が吹雪のところにまで届いた。装甲が濡れる。
一体、何が起こったのか。混乱する吹雪だったが考える暇もなく事態は律動する。
水柱の中で何かが動いた。それが凶悪に暴れ回り、柱を突き破って姿を見せた。その生物は鯨のような形をしているが、剥き出しになった巨大な歯は肉食獣のようで、まごうことなき異形であった。
吹雪「あ、ありがとうございます。司令官、そのあなたの言うとおり自信を持って、精一杯頑張ってみます」
提督『うむ、その息だ。ただ、慌てず落ち着いてやるようにしなさい』
吹雪「はい!」
気合いを入れて吹雪は返事した。
摩耶「おら、そろそろ行くぞ」
摩耶が急かしてきた。エンジンを震わせて返事をすると、小さく頷いた。
先行する摩耶に着いていきながら、吹雪は息を吸う。潮の香りは、郷愁さえ感じる冷たさで、腹の中に蟠る気持ち悪さを和らげた。息を吐き捨てる。
大丈夫、やれる。今までの努力を信じてやれば駆逐艦の一匹や二匹程度なら撃沈できるはずだ。司令官の言う通り自信を持て。
吹雪(私は、冬木特別大将の娘なんだ…….)
吹雪(やってやる!)
気合いを入れ直した吹雪は前を見据える。変わらないはずの海が、更に広がって見えた気がした。
二人は無言で航海を続ける。
十数分走った頃だろうか。周囲を警戒していた摩耶が、首の動きをぴったりと止めた。再び手を後ろにやって、人差し指をクルクルと回した。旋回しろということだ。方向は左。
減速し、摩耶の動きに沿うように旋回した。白く美しい二本の軌跡が、海上に刻まれる。
摩耶が声を張り上げた。
摩耶「敵だ!」
吹雪は驚いた。辺りを見回しても吹雪には敵が発見できなかった。
吹雪「い、一体どこですか!?」
摩耶「もうすぐ現れる。ここから直線上に数は三匹だ」
吹雪「え!?」
提督『その座標なら確かに接敵してもおかしくはないが、もうすぐ現れるとはどういうことだ? 敵の姿を捉えたわけではないのか?』
提督が尋ねてきた。
摩耶「ああ。ただの勘だからな」
提督『勘だと? そんなあやふやなもので報告されては困るぞ』
その指摘はもっともだ。しかし、摩耶は確信しているようで、目つきの鋭さを一切変えない。
摩耶「信じらんねえだろうが、アタシの勘はよく当たんだよ。まあ、見てろ」
摩耶が言った直後だった。やや遠方で、不自然な気泡がふつふつと起こり始めた。泡は三つあり、徐々に湧き上がる勢いが強くなる。まるで、そこだけ急激に熱せられているようだ。
吹雪(海底火山……?)
いや、違う。この辺りに海底火山などないはずだ。だとするとあれは何だ。
摩耶「構えろ、芋ガキ」
鉄が擦れる音。摩耶が、連装砲を構えた。
摩耶「来るぞ」
瞬間、三つの爆発が水柱を巻き上げた。
まるで砲撃を弾いたかのような爆発だった。爆音に大気が震え、飛沫が吹雪のところにまで届いた。装甲が濡れる。
一体、何が起こったのか。混乱する吹雪だったが考える暇もなく事態は律動する。
水柱の中で何かが動いた。それが凶悪に暴れ回り、柱を突き破って姿を見せた。その生物は鯨のような形をしているが、剥き出しになった巨大な歯は肉食獣のようで、まごうことなき異形であった。
途中ですが、今日はここまで。
ミスして二回上げてしまった。申し訳ないです。
最近、ちょっとスランプ気味で描写がクソ単調になってるような気がします……。
駆逐艦イ級。深海棲艦の一種だ。
三匹のイ級が歯をすり合わせ、低く唸った。地獄の住人の怨嗟にも似た悍ましい響きに、吹雪は原始的な恐怖を覚えた。
それは産声であった。
イ級がこちらを見た。獲物を見つけたと言わんばかりに目を光らせる。青い輝きを撒き散らしながら、イ級がこちらに突撃してきた。
吹雪「ひっ——」
小さな悲鳴を上げ、吹雪はあたふたと連装砲を構える。しかし、腕が震えて上手く照準が取れない。
トビウオのように水上を跳ねるイ級は、あっという間に吹雪へ接近した。
口を大きく開いて、吹雪に襲いかかる。
吹雪「きゃあああっ!」
叫ぶ吹雪。逆流する恐怖が彼女を突き動かした。
本能的に身を屈ませる。イ級の牙突が空を切り、空気を噛み砕く音がした。
後方で水が跳ねる音がして、吹雪は慌てて首を巡らせた。攻撃をかわされたイ級が同じく振り返り、口を開けている。舌がナメクジのように動き、中から銀の飛沫とともに一門の砲身が勢いよく飛び出した。
単装砲の暗い穴に、意識が呑まれる。
戦慄は遅れてやってきた。暴力的な音とともに、イ級の口元から黒煙が巻き上がる。耳元に風切音が駆け抜けた。
撃たれた。
遠くで上がった着弾音が、嫌に大きく聞こえた。
間違いなく、撃たれた。
撃ち返さないと。撃ち返さないと、殺される——。
頭が真っ白になった。とにかく必死で、吹雪は連装砲の照準を取ろうと足掻いた。尻餅をついたままの砲撃姿勢はみっともない。しかし、体裁を気にする余裕など微塵もなかった。
遮二無二、引き金を指で押した。衝撃が身体を揺さぶり下腹まで震える。彼女は初めて敵を撃った。だが、その初弾は見当違いな所へ飛んでいく。
イ級が歯をすり合わせていた。枝が折れるような乾いた音は、無様に初弾を外した吹雪に対する嘲笑か。
訳の分からない怒りを感じた。激しい感情の昂りに逆らう術はなく、呼吸すら忘れて、連続で引き金を叩いた。
しかし、一撃も当たらない。イ級は思ったよりも素早かった。すくみ上がり、固定砲台と化した吹雪では到底当てられない。それが、更なる苛立ちを生んだ。
ちくしょう、当たれ!
普段の吹雪からは想像もつかない乱暴な思考だった。だが、その怒りは外れ続ける砲弾と同様に虚しく空回りする。
ついにイ級の反撃が来た。今度は外れなかった。吹雪の肩口辺りに鈍い衝撃が走り抜ける。瞬間、砲弾が炸裂。巻き起こった爆発で吹き飛ばされた吹雪は、何度も水面を跳ねてやがて止まった。
吹雪「かはっ……」
耐えきれず、息をこぼしてしまう。全身が焼けるように痛い。特に、砲弾が直撃した肩は激痛に襲われ痺れていた。肩の装甲に窓を殴りつけたような皹ができ、破片がパラパラと崩れ落ちていた。
何とか立ち上がろうともがく。しかし、撃たれたショックと慣れない痛みで身体が反応してくれない。足が震えている。
怒りは受けた衝撃の重みで、瞬時に消し飛んでいた。ただただ、恐ろしい。これが実戦なのか、と吹雪は慄然と思った。駆逐艦の一隻や二隻沈めてやろうと考えていたことが、恥ずかしくなる程の現実感がそこにはあった。
イ級が、恐ろしげな声を上げる。弱ったネズミを弄ぶ猫のような瞳が青く輝いていた。単装砲が向けらるのを、爆発のせいで火花が明滅する視界の中で見た。
逃げなければ。でも、身体が言うことを聞かない。
吹雪(嫌、お父さん……っ!)
吹雪は祈る。しかし、敬愛し崇拝する父はそこにはいない。莫大な死の予感を前に、彼女の心を支える柱に小さな亀裂が生じようとしていた。
その時だった。
吹雪を狙っていたイ級が、爆発とともに吹き飛んだ。
吹雪(え——)
驚愕のあまり、一瞬何が起こったのか分からなかった。
イ級は苦悶の絶叫を上げ、暴れ回った。頭が半分ほど抉れ、そこから煙りとともに血が噴き出している。
苦しむイ級に、しかし容赦のない次弾が突き刺さった。金属がぶつかり合うような重い音がなり、砲弾が炸裂、イ級は叫ぶ間も無く頭を完全に砕かれた。
吹雪「……」
摩耶「……撃破。敵艦隊壊滅」
ふぅ、と短く息を吐いた摩耶が言った。
吹雪はようやく理解した。摩耶があのイ級を仕留めたのだということを。
そして、それだけではない。摩耶が全ての敵艦を一人で撃破したことにも気付いた。やや離れた位置から、二つの煙が上がっている。髪を撫でる潮風に乗せて、肉の焼け焦げる悪臭が鼻腔をついた。それは、彼女が初めて触れた死の匂いだった。
吐き気がした。吹雪は口を抑えたが、唐突に襲った気持ち悪さに耐えきれず激しく嘔吐いた。喉からせり上がった胃液が手の隙間からスルリと零れ、口の中だけで処理できなかったものが鼻まで逆流する。鼻と口に、苦味を帯びた酸味が広がった。
全て吐き出しても気味悪さは取れず、嫌な後味が口と鼻腔に残留した。
少し落ち着いて顔を上げると、暗い摩耶の瞳がこちらを見ていた。あまりにも冷たい。くだらないものでも見るような目つきだ。びくり、と肩が跳ねる。
摩耶「へ、貞操を守れて良かったな」
それはこれ以上ないほど辛辣な皮肉だった。心を抉られる。何もできなかった事実があるだけに、言い返すことなどできるはずもなかった。反抗する気力すらない。
提督『そういう冗談はよせ』
提督が注意した。波音のように爽やかな声には、やや不快さが含まれていた。
摩耶は肩を竦めた。
摩耶「あーはいはい。モヤシ提督はお優しいことで」
提督『当然のことを言ったまでだ。君はデリカシーというものがなさすぎる』
摩耶「なんだそりゃ、食えんのか?」
提督『……もういい』
提督はやや低い声で吐き捨てた。相手にするのも馬鹿馬鹿しいと言う風だった。
提督『吹雪、大丈夫か?』
答えられない。
今、吹雪の中は様々な感情が渦巻き混乱の極みに陥っていた。戦いが終わって、じわりじわりと広がる安堵は例えるなら凪。そこに今だ冷めぬ恐怖が雨を落とし波紋を作っている。静けさを消す心のざわめきは、しかしそれだけではなかった。
何もできなかった。その事実が何よりも彼女を苛んだ。敵に一撃を叩き込むことさえ叶わず、あまつさえ悲鳴を上げ無様に腰を抜かしてしまった。それらの事実は、幼い吹雪に耐えられるものではなかった。羞恥と情けなさに、感情が昂ぶり身体が震える。
吹雪はきゅっと唇を噛んだ。目尻が熱くなり、ついには涙が溢れた。
吹雪「司令官、私……私……っ。何も、できませんでした……!」
提督『……』
吹雪「ごめんなさいっ! あんなにも、自信を持てっていってくれたのに! 私、冷静じゃいられなくて!」
提督『……初めは皆そんなものだよ。戦争は、死と隣り合わせの狂気の世界だ。君はその世界に今日初めて足を踏み入れた。怖くて当たり前だし、平静を保てないのはしょうがない』
吹雪「でも、私はお父さんの娘なんです。こんな無様な……」
提督『いいかい吹雪』
提督は、涙声で自分を責め続ける吹雪の言葉を遮った。
提督『何でも言えることだが、初めて経験することは得てして上手くいかないものだ。余程の天才なら違うのかもしれないが、君は正直言って天才ではないと思う。努力して積み重ねていく秀才だ。違うか?』
吹雪「……はい」
提督『なら、焦る必要はないんだ。さっき執務室でも言っただろう。ゆっくり学んでいこうって。急がば回れ。焦ってもいい事はないぞ』
吹雪「……そう、ですね」
提督『とくに戦場ではな。いくら勉強しても、いくら実戦演習を重ねても、実戦での恐怖や理不尽は経験しないと理解できないものだ。馬の乗り方を本で学んだからって、すぐに乗馬できるようになるわけはない。馬はそれぞれ個性があって、知能も高いから自分を乗りこなしてくれるものを選ぶ。だから、馬に気に入られないうちは何度も振り落とされる。地面にぶつかる背中の痛みを何度も味わって、ようやく乗れるようになっていくんだ』
提督は一呼吸置いて、続ける。
提督『戦争もそれと一緒だ。経験が物を言うし、全てと言ってもいい。恐怖や不安は、残酷だが何度も味わって慣れていくしかないんだよ。みんな、そうやって一人前の兵士になっていくんだ』
吹雪「……」
提督『分かったかい? 君は、自分を責める必要はないんだ。ただ、今日のことは教訓として学び、反省するように。今さっき吐いたゲロの味はどうだった? 美味かったか?』
吹雪「……いいえ。とても、気持ち悪くてまずかったです」
提督『そうか。なら、そのマズさを忘れるな』
そう言って、提督は楽しげに笑った。彼は冗談を言うのが好きな子供っぽい一面がある。目を見張るほど美しい容姿のくせに、そうした茶目っ気はギャップを生んでいた。なんだか可笑しくて、吹雪も笑ってしまう。
泣いていたせいで鼻声だった。鼻を啜り、目尻を拭いながら彼女はもう一度笑った。
不思議な人だな、と吹雪は思った。今まで負の感情と苦悩に侵され曇天がかった心情が、提督が話をしてくれただけで晴れやかになってしまったのだから。彼には、人を元気にする力があるのかもしれない。きっと、女性にモテるに違いないだろう。
提督『……さて、どうするか。吹雪はこれ以上戦えそうもないし、今日のところは引き上げようか』
摩耶「は? 冗談じゃねえぞ。あんなししゃもを数匹殺した程度で下がれるかボケ」
吹雪(し、ししゃも……)
提督『言うと思ったよ。まあ、君も久しぶりの出撃だったから、フラストレーションが溜まっているんだろう。だが、随伴艦の吹雪が戦えなくなったんだ。旗艦としては大人しく引くのが英断だと思うがね』
摩耶「知るかよ。だったら、そいつだけ下がらせりゃいいじゃねえか。あたしは一人でも十分だ」
途中ですが、投下終了。
摩耶ははっきりと言い切ってしまった。
あまりに傲慢過ぎないか、と吹雪は思った。確かに、まともに戦えず足を引っ張るだけの吹雪が、戦力的にプラスどころかマイナスであることは明らかな事実だ。しかし、だからと言って、戦争は一人でするものではない。いくら簡単な海域だからといっても、必ず二人以上で出撃させることが原則であり常識なのだ。
戦場では予測不能の事態が起こることが往々にしてある。さっきのイ級の出現にしたって、ほぼ不意打ちに近かった。必ずバディで出撃しなければいけないのは、その事態が起こってもすぐさま対応できるようにするためである。
戦場では常に予測不能の事態が起こると、つい先刻執務室で指摘したのは誰か。無論、摩耶だ。自分で指摘しておいて、慢心しているとしか思えない台詞を吐くなど考えられることではない。ましてや、上官に対して。
優しい提督ではあるが、いくらなんでもこれは怒るだろう。吹雪は戦闘していた時とは別の意味で、緊張を強めた。
沈黙が耳に痛い。提督は言葉を探しているようだ。無線の無機質な音響が耳朶を流れ、やや不快であった。
小さい溜息。
提督『……君なら、そう思ってしまうんだろうな』
摩耶「……」
提督『君の実力は実績から見ても素晴らしいものだ。だが、戦争は一人でするものではない。君が優秀だからと言って、一人で戦うことは承服しかねる。いや、絶対に許さない』
提督は厳しい口調で摩耶の発言を否定した。そこに怒りはなかったが、彼の強い意思のようなものが吹雪には感じられた。
提督『だから、今日のところは帰って来い。いいか、これは命令だ』
摩耶「ふん、随分アタシのことに詳しそうな口ぶりじゃねえか。大方、冬木のおっさんに聞いたんだろ?」
提督『……ああ、そうだ。君の経歴は粗方知っている』
提督が肯定すると、摩耶は卑屈に鼻を鳴らした。
摩耶「成る程ねえ……。おめえ、随分あのおっさんに信用されてるみたいじゃねえか。モヤシのくせによ」
見下しながら笑う摩耶に、提督は沈黙で対応していた。
話について行けず、置いてけぼりをくらう吹雪は、表情を曇らせていた。摩耶のあからさまな挑発を諌めた方がいいだろうと思ったが、蚊帳の外であることを自覚しているため割って入ろうにも遠慮してしまう。
踏み込むタイミングに悩んでいる間にも、摩耶の挑発は続く。
摩耶「それなら、アタシがこういう時どう返答するかも分かるよなあ?」
摩耶「——断る。食前酒だけ呑んで店を出る馬鹿は居ねえだろが。前菜すら食ってねえのに、ノコノコ帰れるかよ」
提督『何が食前酒だ!』
ついに提督が声を荒げた。
提督『戦争を会食で例えるなどナンセンスだぞ! お前は、殺し合いをゲームか何かと勘違いしているだろう!?』
摩耶「別に勘違いなんかしてねえよ。ここが戦場なのは疑いようもねえだろ。なら、慢心はねえ」
提督『いけしゃあしゃあとよく言うやつだな……! お前のその態度のどこに慢心がない!?』
摩耶「おめえ、虫けら相手に気張るのかよ。踏み潰す時に、反撃されるかもとか考えるか? 考えねえだろ。つまり、そういうことだ」
提督『そういう考えが慢心と言うんだ!』
摩耶「……ち、グダグダうるせえやつだな。モヤシはモヤシらしくタンスの中で大人しく萎れてろ!」
提督『何だと!?』
吹雪「ふ、二人とも落ち着いてください!」
だんだんヒートアップする二人を大人しく見ているのも限界だった。吹雪は出せる限りの声を出して言い争いを遮る。
摩耶「ああ!? 芋ガキは引っ込んで——」
突然、恫喝しようとした摩耶が動きを止めた。時が凍りついたと思えるほど、本当にぴったりと止まった。
吹雪「ま、摩耶さん……?」
おかしい。一体どうしたというのか。
摩耶「……」
吹雪の問いかけは無視された。摩耶は、首を動かして上空を睨んだ。
摩耶「ち、気づかなかったなんてな。勘が鈍ってやがる」
悪態をついて頭を掻き毟る摩耶に、吹雪は首を傾げた。何を言っているのだろう、と訝りながら同じく空を見た。
そして、目を見開いた。
空を飛ぶ海鳥の群れより、やや上方向。明らかに生物的ではない黒い影が飛んでいる。ゆるりとした動きで、真っ直ぐ飛ぶ姿は優雅ですらあった。
吹雪「あ、あれは……でも、そんなはず!」
提督『……どうしたんだ、一体?』
吹雪「て、偵察機です! 敵の偵察機が——」
提督『な!?』
提督が絶句した。
提督『間違いないのか!?』
摩耶「間違いねえよ。あの艦載機の形、軽空母じゃねえな。となると、正規空母か」
吹雪「せ、正規空母!?」
提督『空母、ヲ級……! 機動艦隊か! 馬鹿な、ここは鎮守府近海だぞ!?』
摩耶「知るかよ。居るもんは居るんだから」
摩耶の憮然とした返答など、吹雪には聞こえていなかった。
吹雪(空母、空母ヲ級……)
吹雪(そんな……)
イ級と戦っている時とは比べものにならない絶望感だった。落ち着けていた恐怖が、蓋を開けて飛び出した煙のように忽ち立ち込める。目の前が真っ暗になった。
吹雪は前のめりに倒れた。何とか手をついて四つん這いの姿勢を保てた。しかし、膝が笑って立ち上がることもできない。呼吸が乱れ、汗がとめどなく溢れた。ぶり返した恐怖は、先ほど死ぬ思いをしただけにあまりにもリアルであった。
空母ヲ級。それは、有名すぎるほど有名な存在だった。今まで帝国を襲った三度の空襲全てに関わり、帝国民を最も多く殺した深海棲艦として怖れられている。そして、最も憎悪を向けられる存在でもあった。
子供向けの番組の中にはヒーローが空母ヲ級を倒すものもあり、軍事サスペンスの本などでも、空母ヲ級に憎しみを抱く主人公はベタな設定として扱われる程だ。どれほど、人類が空母ヲ級を恐れ憎んでいるかは分かるだろう。
イ級などとは比べものにならない巨悪である。初出撃の吹雪が相手をするには、荷が勝ち過ぎていた。
提督『撤退だ……!』
提督の声は震えていた。
提督『急いで撤退しろ! 今の我々が戦える相手ではない!』
提督はその場にいないのに、吹雪は恐々と頷いた。そうするしかない。空母ヲ級が引き連れて来る機動部隊は最低でも四隻以上である。戦力差で見ても倍以上だ。戦いになるはずがない。
摩耶「弱気だなァ」
からかうように摩耶が肩を竦めた。
どうしてこの人はこんな状況でも余裕なのだろうか。ひょっとして馬鹿なのではないか。
あまりに呑気な摩耶に提督も苛立ったようだ。歯ぎしりの音が、無線越しから聴こえてくる。
提督『何を言っている! 戦力差を考えろ! いや、それ以前に空母の直衛機無しで敵の機動部隊と戦える訳がないだろう!!』
至極真っ当な指摘であった。直衛機とは、艦隊の護衛につく艦上戦闘機のことで、近づいて来た敵航空部隊を追い払う役割を持っている。直衛機無しでは、長距離から一方的な攻撃を受けてしまう。対空砲火などほとんど当たらないし、焼け石に水のような効果しかないから、航空部隊に襲われれば全滅は必至だ。
そんなこと、養成学校の教科書に載っているほどの常識である。吹雪には、摩耶が狂人に見えた。
そして、その認識は間違いではない——。
摩耶は提督の指摘を一笑した。
摩耶「直衛機? いらないねえ、そんなもの」
吹雪「は?」
摩耶「芋ガキ、お前帰れ。後はアタシが一人でやる」
吹雪「え、ちょっと——」
提督『正気かお前!?』
叫び声が、鼓膜を破らんばかりに響いた。
提督『戦いにならないと言っているだろうが! ましてや一人で戦うなど……口が裂けても言うな! いいからさっさと撤退しろ! 後は前浜の航空部隊に討伐を依頼する!』
提督『思い上がりも大概にしろ!』
摩耶「は、思い上がってんのはお前だろ?」
提督『貴様いいかげんに——』
摩耶「おい」
摩耶は提督の言葉を遮った。
摩耶「たかがコモンの機動部隊ごときにオタついてんじゃねえよ、モヤシ」
摩耶の表情が、変わった。
そして、声質も。
あれほど語気を荒げていた提督が、その一言だけで押し黙ってしまった。ドスが効いた声に気圧されたのだ。無線越しの提督ですらこうである。直接摩耶の表情を見た吹雪は、小さく悲鳴をこぼし、後退った。
摩耶の表情は悪魔的なほど凶悪であった。口が大きく釣り上がり、剥き出しになった歯は、猛獣の牙そのものである。見開かれた両目は血走り、乾いた大地に走る亀裂を思わせた。殺気に満ちた獣の本性がありありと現れている。
イ級が置物に思えてしまった。それほど摩耶が恐ろしい。
吹雪「う、あ……」
摩耶「そいつらは前菜だ」
底冷えする声。
摩耶「邪魔したら殺す」
それだけ言って、摩耶は上空をもう一度見上げた。視線の先、遥か遠くに、無数の渡り鳥がいる。艦載機という、狂気と殺戮の鳥が。
絶望が帳を下ろした。提督が何かを叫んだ。だが、吹雪には聞こえない。おそらく摩耶にも。吹雪はただ、狂獣と化した摩耶の背中と、青い空、迫り来る艦載機群を一枚の絵のように呆然と眺めた。
その光景を、美しいと思ってしまった。
何故かは、分からなかった。
投下終了します。
ごめんなさい。しばらく書き溜めたいので、投下遅れると思います。許してください。
迫り来る艦載機群を前にして、摩耶は愉悦を感じていた。鎖から解き放たれた獣、そう呼ぶに相応しい形相である。
空母ヲ級の機動部隊。普通は一隻で挑むような相手ではない。そんなこと彼女も当然理解していた。常識外の言動ばかり繰り返す彼女であるが、そのくせ常識を指摘する提督や吹雪以上に、戦場における定石を熟知していた。
だが、それはあくまで常識の枠内にいるものたちの話だ。その枠からはみ出した力を持ったものに、当てはまるものではない。
摩耶は、己がその枠外にいることを自覚していた。
だから、提督の怒声を、分かりきった忠告の一切を無視できるのだ。
湧き上がる殺意は、濁ってはいない。牢屋生活で鈍ったものは勘だけのようだ。むしろ、戦いから離れていただけに餓えと渇きは一層増しているようにも思えた。
丁度いい。抑え付けていた黒い欲望を撒き散らすには。肩慣らしついでに、憂さ晴らしといこう。
摩耶は、獣の叫びを上げた。
それを起爆剤に、水面を激しく蹴り上げ、疾駆する。目一杯回した動力機関が悲鳴を散らし、摩耶の速力はすぐ様最大に到達。
あまりにも速い。まるで、矢のようだ。
迫り来る艦載機群が、高度を下げ始めた。迫り来る摩耶に狙いを定めたのだ。
摩耶は、弾かれそうな振動と激しい向かい風を受けながらも、空を睨む。
摩耶(艦爆と艦攻を中心に置いた編成。数は十六)
摩耶(艦戦がほとんどねえ。空母がいねえし数もすくねえから舐めてやがるな)
目にもの見せてやる。摩耶は口元を吊り上げた。
連装砲と機銃を上空へ向ける。走りながら、対空砲火の準備に入った。
艦爆が唸りを上げて摩耶を討たんと、先行してきた。滑らかで、それでいて鋭い動きは狩りを始めた鷹のようである。摩耶は臆さない。機銃を撃った。
甲高い音とともに、曳光弾が空を裂いた。敵の艦爆は旋回して、やり過ごそうとする。だが、その動きに合わせて摩耶は連装砲の角度を微妙に変えながら、数度撃った。
上空で爆発が起こる。敵の艦爆は、吸い込まれるように摩耶が放った砲弾の方へと動いたのだ。全てが、面白いように砲弾をくらい、錐揉みしながら落ちていく。
木の葉のように落ち行く艦爆の間を、摩耶は抜ける。もう摩耶の血走った目は、艦攻と残った艦戦に向いていた。
艦攻の有効射程に入るか入らないかの距離に来たところで、敵の艦攻が急降下した。魚雷投下の姿勢に入ったのだ。艦爆が羽虫のごとく全て墜とされたことに動揺しているのだろう。摩耶には、敵の慌てふためく姿が艦載機を通して笑えるくらいに視えた。
電流のような狂喜が、腹の底まで走った。
水面に近づいていた艦攻が急上昇する。無数の白い雷跡が、巨大な怪物の爪のように摩耶へと向かっていく。摩耶一人に向けられるには大袈裟な量の魚雷。一撃でも喰らえばそれだけで致命傷だ。だが、摩耶は全く速度を落とさず、ジクザグに動いてその全てをかわしてしまった。そしてかわしながら砲撃して、艦攻と艦戦をまたしてもほとんど落とした。
神業と言わざるおえない。
速度を落とさず複雑な回避行動をするなど、簡単にできるものではない。バランス感覚、筋力、三半規管がかなり鍛えられてないと到底不可能な芸当である。その上で正確に艦載機を撃ち落とすなど、もはや人の次元を超えていた。
水面を強く噛み締め、瞬きほどの間に一呼吸すると、摩耶は再び矢となった。
霞んでいて見えなかった敵の姿が、近づくにつれ明確になる。数は六隻。重巡リ級二隻に、軽巡ホ級一隻、駆逐イ級二隻、そして、後方に空母ヲ級――。
やはり、ただの「色なし」どもか。摩耶は少々落胆しながらそう思った。これでは、肩慣らしにもなりそうにないな、と。
駆逐イ級二隻が前に出てきた。飛び跳ねながら、四方に動き回り、撹乱しようとしてくる。
馬鹿が。摩耶は内心で吐き捨て、すぐ様二隻に砲弾を見舞い、撃ち殺した。目にも留まらぬ早業である。
陽動も早々に失敗した残りの四隻は、狼狽を顔に滲ませた。
空母ヲ級が頭についている口を開き、そこから艦載機を出した。それに合わせて、軽巡ホ級、重巡リ級計三隻の連装砲が火を噴いた。爆音が何度も激しく大気を揺さぶる。
その連続攻撃を、またしても摩耶は驚愕すべき速さで避けた。しかも、紙一重で。体を掠める風切り音に、興奮がさらに加速していく。空母ヲ級の第二次攻撃隊が迫ってきたが、今度は攻撃すらさせずに摩耶は全てを撃墜した。獣の嗤い声が口から溢れて止まらない。
摩耶(ああ、落ちつく。やはりここが、アタシの居場所だ)
摩耶(化け物どもを殺す時こそ、生きている実感が湧いてくる。もっとだ。もっと撃ってこい。全部かわして、貴様らの面を恐怖に変えて――)
その上で、殺してやる。
摩耶「アハハハハハハッ!」
怪物達の顔が恐怖に変わった。悪魔じみた力を発揮する摩耶に、化け物達でさえ恐れを抱いたのだ。重巡リ級二隻と軽巡ホ級が、悲鳴を上げながら遮二無二連装砲を撃ってくる。その爆発はかなりのもので、巨大な水柱の連なりによって視界がなくなるほどだった。
大量の飛沫を受けながら、摩耶は怯まず突き進む。停止するということは思考の外にあった。ただひたすらに前へと進む。地雷原であろうとも全力で走るのが彼女である。
一撃が頬を掠め、装甲に微細なヒビが生じた。しかしそれ以外は全て避け、彼女は水柱を突き破ると、連装砲の引き金を引いた。
二つの爆発が起こり、軽巡ホ級と重巡リ級一隻の頭が粉々になった。断末魔を上げる間もなく、二隻は沈黙する。
残りの重巡リ級が叫んだ。
砲身を摩耶へと向けようとしたが、すでにそこには摩耶の姿はなかった。首を振って必死で探す重巡リ級を嘲笑うかのように、摩耶はすでにリ級の背後へと回っていた。リ級が気づいた時にはもう遅い。摩耶は、背中から何かを抜き放った。それは紫に光る刀であった。
紫色の軌跡が空を走り、リ級を肩から切り裂いた。袈裟斬りにされたリ級は、噴水のように血を撒き散らしながら倒れる。二つに分かれた身体から臓物がはみ出し、生暖かい輝きを放っていた。
返り血を受け、赤く染まった摩耶。狂気を孕んだ赤い眼光を、最後に残ったヲ級へと向ける。蛇に睨まれた蛙とはこのことだろう。顔を引きつらせたヲ級が、後退り、逃げようとしていた。
摩耶は足を撃った。炸裂し、ヲ級の左膝から下が消失する。雷鳴のごとき絶叫が轟いた。片足を失ったヲ級は、身体を引き摺りながら尚逃げようとする。その無様な姿に、摩耶は脳髄が焼き切れそうなほどの、熱のこもった甘い悦楽を覚えた。
摩耶「逃げんなよ」
無慈悲に告げる。だが、ヲ級は止まらない。
背中に刀を突き立てた。青い血が噴き出し、肉を突き破る感触と生々しい抵抗が伝わってきた。潰れた蛙のような声を出すヲ級。摩耶は嗤いながら、さらに力を込めて刀を減り込ませた。
「ギャアアアアアアァァァッ!!」
摩耶「ははっ、痛えかよ。なあ?」
グリグリと、摩耶は刀を動かした。中身を掻き回し、ヲ級を一方的に甚振る。
摩耶「てめえの殺してきた人間たちの痛みはこんなもんじゃねえぜ。だらかよ」
摩耶「もっと踊ってみせろ」
刀を引き抜くと、また刺した。そして、また引き抜いて、刺した。刺した。刺した。刺した。刺した。刺した。刺した。刺した。刺した。刺した。刺した――。
止まらない嗤いに突き動かされるように。
ヲ級が血を噴きながら悶え苦しみ、やがて動かなくなっても。
摩耶は、刺し続けた。
無用な虐殺であった。もはや、どちらが怪物なのか分からない。
否、嗤いながらヲ級を傷つけ続ける摩耶こそが怪物だった。
吹雪「どうして……」
ヲ級をいたぶる摩耶を呆然と眺めながら、吹雪は呟いた。声は、慄然と震えている。
どうしてそこまでするのだろう、と吹雪は思った。もうヲ級は事切れている。これ以上、刀を突き立てる必要などないはず。これではただの死体蹴りではないか。こんな卑劣な行いをどうして、そんなに楽しそうにできるというのだろう――。
憎悪の一切を抱いたことのない吹雪には、摩耶が嗤いながらそれを実行している意味が、まるで理解できなかった。嫌悪と、摩耶に対する恐怖しか湧かない。冷や汗が頬を伝う。
吹雪は、摩耶につけられた渾名を思い出していた。
吹雪「狂獣……」
その名の通りだ。理性や道徳の欠片すら、摩耶にはないように思えた。あれは、ヒトの形をした別の何かだ。
提督『……吹雪、終わったのか?』
怒鳴っていたためか、提督の声は掠れ、何処か疲れを匂わせていた。摩耶が戦い始めた頃、もう提督は制止を諦めていたようで、その時から今まで無言であった。
吹雪「は、はい……。終わったはずです……」
提督『終わったはず?』
吹雪「あ、いえ。……終わりました。摩耶さんが一人で機動部隊を全滅させました。でも、摩耶さんはまだヲ級を……死んだはずのヲ級を刀で刺し続けています……」
提督が黙った。その沈黙を吹雪が不安に思い始めたくらいになって、提督は深く息を吐いた。
提督『そう、か……』
吹雪「あ、あの止めた方が……」
提督『止めても無駄だ。どうせ、聞きはしない』
吹雪「やっぱり、そうですよね……」
吹雪は諦めたように言う提督に同意した。
吹雪「司令官」
提督『どうした?』
吹雪「摩耶さんは、どうしてあの人はあんな酷いことができるんですか? はっきり言って、あまりいい気分はしません……」
提督『……、……そうだな。君にはまだ、分からないのかもしれないな』
提督は、言葉を切って続けた。
提督『出来ることなら、理解して欲しくはないがな。しかし、戦場に立つ以上今後のために知っておいた方がいい。――憎悪だ。今、君が目にしている摩耶の姿こそ、戦場の狂気と憎しみに囚われたものの姿だよ』
吹雪「憎悪、ですか」
提督『ああ。悪いけど、これ以上は教えることはできない。しかし、摩耶が「ああ」なってしまったのには理由があるということだけ、理解しておいてくれないか』
吹雪「……」
提督『私には今の摩耶の姿は見えないが、声は聞こえているから、大体想像がつく。もし目の当たりにしたら、胸糞悪くなるに違いないだろう。だが、私には摩耶を嫌うことはできないだろうな』
吹雪「私も別に嫌いになったわけじゃないんです。摩耶さんが凄いのは事実で、そこは尊敬できると思います。それに、私は何も役に立っていませんから……摩耶さんに対して口出しなんてできません」
吹雪は一度言葉を止めて摩耶を見た。彼女は、もうヲ級に刀を突き立ててはいなかった。もはや原型が分からなくなった無残な肉塊を静かに見下ろしている。遠すぎてここからでは表情までは判別がつかない。どうせ、達成感に歪んだ顔でもしているのだろうな、と吹雪は軽蔑しながら思った。
吹雪「でも、摩耶さんの行動はどうしても受け入れられません。あんなの、人がすることじゃないと思います。何か理由があるんでしょうけど、それでも……」
吹雪「それでも私には、摩耶さんが理性を失った怪物にしか見えません」
潮風がびゅうっと、装甲を一撫でした。装甲に弾かれるため髪は揺れない。分かるのは臭いだけだ。しかし、潮の香りはしなかった。口と鼻にこべりつく吐瀉物の残り香と、戦場の血と肉の焼ける悪臭だけしかない。もう胃に何も残ってないから吐き気はこないが、それでも慣れたわけではなかった。
ただ、ただ気分が悪い。こんなところで笑える日は一生来ないだろう。
提督『怪物、か……』
ポツリと溢れた提督の声は、空襲によって変わり果てた故郷の情景でも見ているかのような悲哀に満ちていた。
提督『確かにその通りなのかもしれないな。ただ、摩耶が感情を持った人であることも間違いない。摩耶が「ああ」なるのはおそらく、深海棲艦に対してだけだ。私たちに接しているときは、態度は悪いがそれでも人としての形はしっかり保っていた』
吹雪「それは、そうかもしれませんが……」
提督『摩耶も、元は人なんだよ。感情をもち、一定の理性を持ち合わせた立派な人間のはずだ。途中で心の中に凶悪な怪物が住み着いてしまっただけなんだ。もし、人の中にそんなものが住み着くのだとしたら――』
それは、地獄を見たときだけだろうな。
提督の言葉は、再び吹いた風とともに吹雪の耳に残った。
投下終了です。
やっぱ、戦闘シーン書くの苦手ですね。
第一章「黒いベゴニア」
それは昔、微睡みの中で見た夢であった。
夕陽が海に沈み、絹のように柔らかな光が水平線に刻まれている。そこから溢れた赤い残滓が、凪の起こった海面に散り散りと輝く。それが、空に下りかけた夜の帳との間に黒と赤の境界線を作っていた。
芸術家が絵の題材にしそうな光景だ。
幻想的で、引き込まれる。
遠くで海鳥が鳴いた。餌をねだる猫のように、甲高い声で。
「知ってるか摩耶。綺麗な景色ってよ、よく宝石で表現されるんだぜ」
口火を切ったのは、岸辺に腰掛けている女だった。表情は見えない。見えるのはすらりと伸びた背中と、輝きの中でも色褪せない紫の髪。女は、ただ黒く染まりゆく目の前の景色を見つめていた。
摩耶は返事をしなかった。
これから始まるのは独り語りだと、知っていたから。
「この景色もいいよなあ。海が赤く焼けてんのに、空は黒くてよ……。なんかこのアンバランスさが逆に綺麗でさ。龍田のやつは『黒曜石とファイヤーオパールみたい』だとかなんと言ってたっけな」
摩耶「……」
「世界にはよ、これと同じくらい、いやこれ以上に綺麗な景色がいっぱいあるんだってな。信じられねえよな、ホント……。ぜってえ見てえよ」
女は、空に向かって手を伸ばした。掴めるはずもない夕陽を手に入れたいと言わんばかりに、握りしめた。
「だから、俺は戦争を終わらせてえ。深海棲艦のせいで海も空も安全じゃなくなっちまったし、そもそも艦娘になって鎮守府から出れねえからな。まず奴らを全部ぶっ倒して、艦娘の使命から解放されなくちゃいけない。平和を取り戻して、『自由』を手に入れて、世界を渡り歩いてやるんだ」
女が語るのはあまりにも壮大な夢だった。
深海棲艦は、戦死した怨念が沈んだ船の部品に取り憑き形を成したものだと言われているが、その数は不明である。確かなことは、途方も無い程に湧いて出てくるということであり、そのせいでこの戦には終わりが見えないということだ。それは、艦娘に選ばれた誰しもが知っている常識である。故に、艦娘は皆「終わり」を見ようともしないし、そもそも思いつきもしない。
ただ、深海棲艦を倒すという使命を果たすため、明日を生きるために皆戦っている。
それが、終わりが見えない戦場に立つ艦娘たちの宿命。世界の果てにあるゴールテープを切りにいくように、果てしない旅に出かけているのだ。皆、その道程で「終幕」を諦め、夢を捨て、生涯神に仕えると誓った巡礼者のごとく己の全てを戦いに捧げる。
女の夢物語は他の艦娘たちからすれば笑い話にも酒の肴にもならないほど、馬鹿げたものだ。鼻で笑われて後ろ指を指されて終わるに違いない。
だけど、摩耶は笑うことも馬鹿にすることもしなかった。いや、できなかった。
どうかしてる、とは思いながらも。
戦場では夢なんて馬のクソより役に立たないことを知っていながらも。
摩耶は、女の語る大きくて無邪気な夢物語が好きだった。この時話を聞いているときだけ、己が戦場にいることを忘れてしまう。自分でも言い表せない熱い高鳴りが、胸を揺るがして満たす。
己も、夢を見たいと思ってしまうのだ。
「なあ、摩耶」
女がゆっくりと振り返った。
何処か美男子にも見える中性的な容姿であった。その端正な顔には、眼帯がかけられている。かつて戦場で至近弾の破片を受けて失くしたらしい。彼女は戦争の残酷さを知らない訳ではない。むしろ、誰よりも知っているのだ。
知っていて、語るのだ。
女が、小さく微笑んだ。道端に咲いた一輪の花を目にした少女のように。
「お前も俺と一緒に来いよ。世界を――宝石みてえな景色てやつをいっぱい見てみようぜ」
これは、かつて見た暖かい夢。
そしてもう、終わった夢。
今は微睡みの中でさえ、見ることは叶わない。
短いですが、投下終了。
只今就活で忙しく、中々ssが進んでません。申し訳ありません。
後、一つ聞きたいことがあります。摩耶の過去編を何れやるつもりですが、早目にやるかやらないかで迷っています。早目に見たいですか?
多分、それなりに長くなります。
他の作者様と酉が被ったので、酉変えます。
申し訳ありません。
早朝の港に、波を切る音が風とともに吹き抜ける。水平線から顔を出したばかりの太陽が淡く輝き、海に小さな光の粒を幾重にもばら撒いていた。その連なりに小さな影が横切った。それは、艤装を背負い海を走る船。少女の形をした軍艦だった。
吹雪は真剣な顔で前を見据える。朝方の冷たい風と波飛沫を装甲が弾いた。結露がついた窓のように曖昧な視界は上下左右に激しくブレながら高速で流れていく。
吹雪は航行訓練をしていた。速度は第一戦速。通常航行時は原速で走るが、彼女は意図的に速度を上げていた。
まだだ。吹雪は唾を飲み込みながら思う。まだ足りない。
連装砲のグリップを握り締めた。手が汗で滲んでいる。緊張を強めながら、吹雪は徐々にスロットルを引き絞った。第二戦速、第三戦速と加速し、やがて最大戦速へ。振動が一気に激しくなっていき、視界がどんどん狭まっていく。
今日は大潮だからか波は強く、身体にかかる揺れはいつも以上だった。しかし、この程度の振動は吹雪には屁でもない。航行訓練は血の混じった胃液を吐くほどにさせられてきたから慣れていた。
問題はここから。
吹雪はちらりと斜向かいに目を走らせる。そこには、赤色のブイが等間隔に幾つも浮かんでいた。
息を吐いて、吸い、内太ももに力を込めてなるだけ姿勢を安定させる。そして彼女はゆっくりと身体を傾けた。
吹雪「――!」
まるで、ドリルでも手にしたかのように痺れを帯びた揺れが襲った。身体を持っていかれそうになる。しかし、吹雪は強く歯を噛んで、全身の筋肉という筋肉に力を込めて踏ん張ろうとした。
一つ目のブイを何とか曲がり切る。しかし、二つ目に差し掛かったところで、急激な反動の変化に堪えられず、吹雪はバランスを崩した。足がもつれ、浮遊感が襲ったかと思うと、今度は固い水面に何度も何度も叩きつけられる。その度に視界が明滅を起こした。
水切り石のように吹き飛んだ吹雪の悲鳴が、朝露の静かな空気を叩いた。
吹雪「……つ」
気づけば空が視界にあった。海鳥が群れをなし、気持ち良さそうに飛んでいる。倒れた身体に白波が幾度かぶつかって砕け散り、水滴が弾けた。ゆっくりと体が横に押し流されるのを感じながら、吹雪は口をへの字にした。
吹雪「……くそぉ、また失敗した」
体を起こし、尻餅をついた体勢をとる。
波間を割く航跡を目で追いかけ、ブイの位置を確かめると、さっきの位置から二十メートル以上離れていることが分かった。全速による機動は、やはりかなりの反動がかかる。前進や時間をかけての旋回なら問題ないが、急速旋回となると、正味な話耐えられるものではない。
これが本物の軍用船なら話は別だ。魚雷や砲撃に晒された際のような緊急性を要する場合、両舷全速にし、最大戦速で回避行動をとる。それが定石だ。しかし、それは支える面が広く、海上でも高い安定性を約束された船だからこそ可能なこと言える。艦娘は軍艦の生まれ変わりであるが、あくまでその形は二足歩行をする人とほとんど変わらないし、大きさも軍艦の数千分の一に満たない。脚部ユニットが反動を抑制してくれるといっても、安定性は元の船と雲泥の差があった。全力で動けば、抵抗や反動の強さに耐えられずバランスを崩してしまう。
だから、回避運動や急激な機動をおこなう際は、かならず速度を抑制しなくてはならない。だいたいの艦娘は第二戦速で動くが、稀に熟練した者の中には第三戦速で動けるものもいる。しかし、最大戦速での機動は不可能と言われていた。吹雪も、養成学校ではそのように教わっていた。
だが、何事にも例外はいる。
摩耶だ。
吹雪は、悪魔のような摩耶の顔を思い出して顔を顰めた。あの出撃から三日経ったが、あまりにも強烈な体験だったためか、まるで昨日のことのように頭から離れない。
特に、摩耶の暴走は彼女にとってトラウマものであった。毎晩のようにヲ級を嗤いながら刺し殺す摩耶が出てくるくらいだ。そのせいで、寝不足気味でもある。
正直忘れてしまいたい記憶であった。でも、反面忘れるには惜しいと感じる記憶もある。戦う摩耶は禍々しくも……美しかった。向かってくる艦載機を素早く叩き伏せ、紫電のように走り抜け、敵砲弾を全てかい潜り、敵を圧倒していく。
獣の雄叫びは胃が縮むほど悍ましかった。
敵の血を被り薄く笑いながら戻って来たときは、悲鳴を上げそうになった。
しかしそれでも。恐怖を心に刻まれつつも――目を離すことはできなかった。
恐怖しながら、見惚れていた。それは不思議な感覚だった。血に濡れ、臓物を噛みちぎる獣を美しいと感じるようなものだから。
認めたくはなかった。あの摩耶に、憧憬を抱いてしまったことを――。
吹雪は頭を振って立ち上がり、港の方へ帰ることにした。その途中、防波堤の先端にある灯台に背中を預けて座る人影が見えた。袖の短い制服を身につけ、男のように堂々たる座り方をした女。
思わず、げっと嫌な声が出てしまった。あれは摩耶だ。まさか、訓練していたところを見られてしまったか? だとしたら恥ずかしい。
摩耶は気怠げな表情で半ば睨むように吹雪を見ていた。墨色の重々しい隈が、獰猛さを強調している。血走った目に怯んだ吹雪だったが、何も言わず立ち去るのもどうかと思い、挨拶することにした。
吹雪「おはようございます……。今朝は早いですね」
声が上擦る。
摩耶「ああ」
気返事だった。どこか、疲れた調子が声に含まれているのは寝不足だからだろうか。
吹雪「あの、もしかして見てましたか?」
摩耶「何を?」
吹雪「私の訓練です」
摩耶「あぁ、ありゃ訓練だったのか。てっきりコントの練習でもしてるかと思ったぜ」
吹雪はむっとする。
どうしてこう、いちいち癇に障るようなことをいうのか。悪口を言わなければ死ぬ病気にでもかかっているだろうか。
吹雪「……コントじゃありませんよ。そりゃ、コケてばかりでしたけど、ちゃんと回避運動の練習をしてました」
摩耶「回避運動の練習ねぇ。それにしては、随分ときばって速度を上げまくってたじゃねえか。回避運動は減速しないといけないって、学校でお勉強しなかったのか?」
吹雪「あれは……」
反論しようとして口をつぐんだ。
もちろん、そんなこと吹雪だって分かっている。基礎の基礎だし、伊達に主席で養成所を出ているわけではないのだ。吹雪があのように無謀な試みをしていた訳は、単純に摩耶の動きを真似してみたいと思ったからである。自分にも、もしかしたらできるのではないか、と。それは一種の投影であり、つまり摩耶への憧れに他ならない。
貴女の戦う姿に魅入られて真似してみたかったんです。そんなこと言いたくはない。
言葉に詰まった吹雪を静かに見下ろす摩耶が、怪訝そうに眉を顰めていた。
摩耶「……たぶんだけどよ。お前、アタシの真似をしてたんだろ?」
図星を突かれてしまい、心臓が跳ね上がる。やはり摩耶には分かってしまうか。
摩耶は一度呆れたように息を吐いた。
摩耶「やめとけよ。自分で言うのはなんだけどよ、アタシの動きなんて真似するもんじゃねえ。一朝一夕で身につくもんでもねーし、アタシだって何年もアホみてえに戦場に出て、血反吐を吐きまくってようやく身についたんだからな。駆け出しのお前がやってもできるわけねえだろ」
吹雪「……」
ぐっ、と唇を噛み締めた。痛いところを突かれてしまい、悔しさに眉根が寄る。
次には罵倒されるに違いない。お前の転ける姿は傑作だったぜ、なんて言われてしまうのだ。しかし、すべては自分の未熟さが原因である。甘んじて受け入れよう、と覚悟を決めた。
摩耶「……いいか、芋ガキ。焦りは禁物だぜ」
吹雪「え?」
思わず間抜けな声がこぼれた。今、なんと言った?
摩耶「焦んなって言ってんだよ。てめえはまずやらねえといけないことがあんだろ。とにかく戦場に慣れることと、基礎を磨くことだ。お前は主席ってだけあって動きはそこそこだがな、まだまだ世辞でもできているとは言えねえ。逆上がりすらできないガキが、いきなり月面宙返りをできるようになるわけないだろ? お前、優先順位を間違えんなよ。今はできることを少しずつコツコツやるのが賢いぜ」
吹雪「……」
摩耶「回避運動は第二戦速を維持しろ。お前の身体じゃそれくらいに抑えないと反動に耐えらない。敵の前で転べば、狙い撃ちにされてバラバラの肉片になっちまうぜ? それが嫌なら動ける速度で、無理せず動きな」
吹雪「……」
摩耶「……んだよ、その目」
目を白黒させて固まった吹雪を見て、摩耶が鋭く目を細めた。吹雪は我に帰り慌てて訂正する。
吹雪「い、いえ! アドバイスされると思ってませんでしたから……」
摩耶「アドバイスつーか、見て思ったことを指摘しただけだ。それに、さっきみてえに戦ってる最中に転けてぶつかられても困っしな」
それをアドバイスと言うのではないか。そう思ったが指摘はしなかったし、する勇気もなかった。
吹雪「あの、それでも、ありがとうございます。……私も分かってはいたんですけど、どうしても試してみたくなっちゃったんです」
摩耶「そうかい。で、なんでだ?」
吹雪「え?」
摩耶「なんで、アタシの真似しようと思ったんだよ」
吹雪は答えるべきか逡巡した。十秒ほど迷って、正直に言うことにした。
吹雪「摩耶さんが、格好よかったからです」
摩耶「はあ?」
吹雪「……だから、摩耶さんの戦っているときの姿が格好よくて綺麗だったから。いいなと思って、真似してみたくなったんですよ」
摩耶が小さく口を開けていた。何度か瞬きしている。やっぱり変に思われちゃうよなあ、と自分の発言を後悔していると、信じられないものを目にした。
摩耶の頬が、赤く染まっていたのだ。そして、吹雪から照れ臭そうに目を逸らしている。
あまりの衝撃に、今度は吹雪が固まった。あの摩耶が褒められて恥ずかしがっている? まさか。
摩耶「……お前の目、アイスピックかなんかで穴でも開けてんじゃねえのか? どこをどう見たらそう見えんだよ」
吹雪「そ、そうですかね……。動きに無駄が一切なくて、すごく綺麗だったと思いましたけど」
摩耶が頭を掻いていた。照れ隠しのつもりだろうか。心なしか、さっきよりも顔が赤い。
摩耶「てめえの目は節穴だ。間違いねえ」
吹雪「でも――」
摩耶「でももクソもあるかよ。私の動きは血と硝煙の中棺桶に片足突っ込みながら叩き上げてきたもんだぜ? 泥臭くて汚ねえもんだ。それを綺麗ってお前さんの感性はだいぶ歪んでるんじゃねえかおい一度医者にかかることをお勧めするぜ」
罵倒をしてくるが、口から出てくる言葉はとても早かった。今度は癇に障りはしない。狂暴な獣だと思っていたあの摩耶が、褒められて照れ隠しをしている。それが意外で、ちょっとだけおかしかった。
摩耶「何がおかしいんだよ、あ?」
憮然と、しかし脅すように摩耶が声のトーンを変える。ほんのちょっと前ならそれだけですくみ上がり、顔を青ざめただろうが、不思議と怖さが湧いて来ない。
吹雪は提督の言葉を思い出していた。摩耶が『狂獣』の貌を現すのは深海棲艦の前だけであり、日常では人としての心を保っているということを。乱暴でガサツなのは相変わらずだが、少しだけ彼の言っていた意味がわかった気がした。
途中ですが、投下終了です。
軍事に関することは、情けない話まだまだ勉強が足りてないのが現状です。もしおかしい点とかあれば、ご指摘してくれると嬉しいです。
摩耶「何がおかしいんだよ、あ?」
憮然と、しかし脅すように摩耶が声のトーンを変える。ほんのちょっと前ならそれだけですくみ上がり、顔を青ざめただろうが、不思議と怖さが湧いて来ない。
吹雪は提督の言葉を思い出していた。摩耶が『狂獣』の貌を現すのは深海棲艦の前だけであり、日常では人としての心を保っているということを。乱暴でガサツなのは相変わらずだが、少しだけ彼の言っていた意味がわかった気がした。
緩んだ口元を戻し、弁明しようとしたとき、白い制服と制帽を被った美しい男が近づいて来るのに気づいた。歩くだけでも絵になるその男は、吹雪たちの上司である。
吹雪「あ、司令官」
吹雪は呟いた。そして、摩耶の表情が一気に引き締まった厳しいものへと変わったのを見て、しまったと思った。
あの出撃以来、提督と摩耶の関係性はかなりギスギスしたものとなっていたのだ。原因は、あの命令無視を提督が咎めたときにある。無論、命令無視を提督が厳しく注意するのは当たり前だし、摩耶を営倉に叩き入れたり解体処分をしたりしても何もおかしくはない。提督は結果的に謹慎という軽い処罰で済ませたから、内容についてはおそらく摩耶も不満はないだろう。
問題は、提督のある発言にあった。
――お前の気持ちは分からなくはない。
その瞬間だった。摩耶が激昂したのは。「お前に何が分かる!」と鼻息を荒くしながら、提督に掴みかかったのだ。その時点で反逆罪であり、普通の艦娘なら恐れ多くてそんなことはできないが、摩耶の怒りはそんなことは関係ないと言わんばかりに激しいものだった。
深海棲艦に向けていた刃のような瞳で提督を睨めつけ、顔を間近に近づけ唾を飛ばした。一触即発。そのまま殴りかかりそうな勢いだった。
提督も最初は目を剥いて驚いていたが、すぐに静かな顔で摩耶の恫喝を見据えていた。あの摩耶から殺気を向けられながら、冷静でいられるのは大した胆力である。そのまま彼は摩耶の罵倒を無言で受け続けていた。瞳は徐々に、悲しげになっていた。
さすがに吹雪は看過できず止めに入った。怖かったが、何とか摩耶を宥めることに成功し、さいわい大事には至らなかった。だが、それをきっかけに提督と摩耶の間には大きな溝が生まれてしまった。
摩耶が、提督を露骨に避けるようになったのだ。提督はあのときのことは不問にし、普通に接しようとしているのだが、徹底的に無視。吹雪も、その空気の悪さに胃を痛めていた。
摩耶が舌打ちして立ち上がり、その場を去る。すれ違う摩耶と提督。摩耶は挨拶どころか提督に一瞥もくれなかった。しなやかな背中が、遠のいてゆく。
その後ろ姿を、提督が見つめていた。「やはり、何もないんだな……」と目を細めながら独りごちる。
吹雪「あの、司令官……おはようございます」
何だか居た堪れなくて、挨拶した。
提督「おはよう。今朝は早いな、訓練か?」
吹雪「はい……。この前の出撃で何もできませんでしたから、少しでも強くならなきゃって思いまして」
提督「いい心がけだな。もしかして、摩耶に教わっていたのか?」
吹雪「そう、ですね。教わってたというか、もっと基本を大事にして、ゆっくり応用を学んでいけってアドバイスをもらいました」
提督は意外そうに「へえ」と言った。
提督「あの摩耶が……。真っ当な助言じゃないか」
吹雪は苦笑した。
吹雪「私もちょっと驚きましたよ。まさか、普通にアドバイスを貰えるなんて思ってもいませんでしたから」
提督「助言よりも、ちぐはぐな部分をいちいち馬鹿にしてきそうなイメージがあるよな」
吹雪「ええ、私もそう思います」
吹雪が答えると、提督は少しだけ嬉しそうに微笑み、後ろを振り返った。もう、摩耶の姿はどこにもない。部屋へと戻ったのだろうか。
提督「……」
吹雪「……司令官」
提督「ん?」
提督がこちらに向き直る。
何故、司令官はそんなに摩耶さんに優しくするのでしょうか? 喉から出かかった言葉を、すんでのところで吹雪は飲み込んだ。
この鎮守府に来てから、摩耶は数多くの問題行動をしてきた。上官への無礼な言葉遣いや、暴力じみた行い、そして命令無視――。普通なら憤慨してシゴキを加えてもいいところだ。だが、提督は注意はしても手をあげることはもちろん、厳しい罰を与えようともしない。
前回の命令無視にしても、たった一週間の謹慎だ。しかも、暴力紛いの件については完全に不問である。少々、甘すぎるのではないか?
摩耶があらゆる面で優遇される『艤装持ち』であることや、「魔の海域」を単艦で攻略したという英雄じみた凄まじい経歴を持っていることが、特別扱いする理由なのだろうか? いや、いくらなんでもそれだけでは理由が弱すぎる。
だとするとやはり――、自分が知らない摩耶の過去が関係しているのだろうか。深海棲艦へ並ならぬ憎悪を抱き、人格が変わってしまったというほどの過去が。
提督「吹雪?」
吹雪「あ、はい。すいません……」
提督「どうしたんだ、一体?」
吹雪「……いえ、やっぱりなんでもないです」
たぶん、聞いてもはっきりとした答えは返ってこないだろうと判断して、吹雪はお茶を濁した。
提督は怪訝そうに眉を顰めたが、それ以上追及して来なかった。その代わりに、別の話題を持ち出してきた。
提督「それより吹雪。これからなんだが、少し仕事を頼まれてはくれないだろうか?」
吹雪「仕事ですか?」
提督「ああ。今日、新しく配属される艦娘たちが来るだろう? その子達の案内を頼もうと思ってな」
なるほど。吹雪は納得した。提督は吹雪と摩耶のどちらかに仕事を頼むため、ここに来たようだ。そして、摩耶が引き受けることはまずあり得ないから、必然的に仕事の依頼は吹雪の元へとやってくることとなる。
提督「それで、悪いんだが……案内役を引き受けてくれないだろうか?」
吹雪「ええ、大丈夫ですよ。引き受けます」
ありがとう。そう言って、提督は柔らかい表情を作った。ただちょっと微笑んだだけなのに、少し心臓が騒いだ。これだから性別に関わらず、美人は卑怯と言われるのである。
吹雪は動揺を悟られたくなくて、早口にならないよう気をつけながら尋ねた。
吹雪「それで何人来られるのでしょうか?」
提督「四名だ。君たちと合わせて、ギリギリ艦隊一つを作れる人数だな。艦種は重巡洋艦一隻に、残りは駆逐艦。一応空母を要請したのだがね、案の定『建造部』から断られた」
提督は肩をすくめる。
空母を要請したのは、空母機動部隊が出現した件を考慮したためであろう。しかし、南野近海のように比較的深海棲艦の活動が沈静的な場所には、空母の配備が遅れているのが現状だった。空母は数が少なく、戦略上重要な位置に占めるため、激戦区に送られることが多いからだ。まだ開設したばかりで、何の経歴もない南野鎮守府には、貴重な空母は送れない。そう判断されたのだろう。
吹雪「分かりました。空母、来て欲しかったですね」
そう言いながら、内心で「いらないような気もする」と思った。摩耶がいれば事足りるのではないか。そう思えなくはないからだ。
提督「まあ、仕方ない。空母は貴重だからな」
吹雪「ですよね……」
提督は腕時計に目を落とした。
提督「さてと、そろそろ時間だな。艤装を脱いで、準備してくれ。正門のそばに集合するよう指示を出しているから、その近くで待機してもらえるかい?」
吹雪「了解しました」
吹雪は敬礼して答えた。
投下終了です。
遅れて申し訳ありませんでした
「えっと……あそこだよね」
南野海岸沿いを歩く少女が、岬の先端を見ながら呟いた。視線の先には、赤いレンガの立派な建物が見える。一件成金の別荘にも見えなくないその建物は、南野鎮守府であった。
ブラウンのブレザーとスカートを身につけている少女は、キャリーバッグを片手に引きずっている。修学旅行で自由行動をしている女子高生のようであるが、共通点は年齢だけであり、彼女は学生でもなければ、普通の人間でさえない。
風が吹き抜け、彼女のエメラルドグリーンの長髪を揺らした。防風林のざわめきが調和し、美しく踊る青草のようにも見えなくはないだろう。
少女は反射的に目を細め、髪を抑える。せっかく整えた髪が乱れるのはよろしくないが、潮風の香りは嫌いではなかった。塩を焼いたような浜辺の香りも嫌いじゃない。
安らかな郷愁の呼び水となるからだ。まだ普通の幼女だった頃、小さな小さな妹の手を引っ張り、浜辺で遊んだ時のことを思い出す。暖かい時期は夕日が沈みかけるまで毎日のように遊んだものだ。服を濡らし、砂まみれにしたものだから、両親からはよく怒られていた。でも、とても楽しかった。
少女はふと、微笑みを浮かべた。
帰ってきたのだな。少女はあらためてそう思った。
懐かしき生まれ故郷。空襲で多くの人が死んだこの場所を守る。それは、少女の長年の夢であった。遠くに見える洋館が、その夢を実現する場所であり、彼女の職場となるのだ。
これから、少女の桜が花開こうとしていた。
遅咲きの染井吉野ではあるが、それでもその秀麗さには遜色はない。桜は、桜。夢は、夢。
「よおし、頑張りますか!」
少女は声を張り上げ、期待と興奮を胸に抱きながら目的地へと急いだ。
入り組んだ道を進み、林の中に入る。そのまま林道を歩けば、妖精が出てくる湖に辿り着くのではないかと思ったが、そんなことはない。すぐに、赤煉瓦の大きな洋館が姿を現した。鳥の意匠が目立つ、鉄格子の正門が浮世離れした独特な存在感を放っている。
「うひゃ……」
思わず、間抜けな声が溢れた。
間近で見ると、遠巻きから眺めていたときとは全然、印象が変わるものだ。
息を飲み込んで、しばらくぼうっと突っ立っていると、
守衛「あんた、そこで何してんの?」
野太い声色であった。少女が驚いて声のした方を見ると、そこには小屋があった。小さな窓から二重顎の男が、ぬっと顔を覗かせていた。まるで童話でよく目にする年老いた亀のようだ。
男はどうやら守衛らしい。黒縁の分厚い眼鏡から、黒ずんだドングリを思わせる瞳が訝しげに光っていた。
守衛「この鎮守府に用事かい? 見た所高校生のようだけど……ここは軍事施設だよ。悪いけど、一般人は立ち入り禁止だ」
守衛の言い方は少しぞんざいだった。だが、少女は別に気にしなかった。制服を着用しているから、女子高生に間違われても仕方ないと自覚していたためだ。
「あー違うよおじさん。私、女子高生じゃないよ〜」
守衛「……となると、今日配属予定の艦娘かい? 証明書みせて」
少女は鞄から一枚の紙を取り出して、守衛に手渡した。
守衛はその紙をしばらく眺めた。
守衛「……確認したよ。名前は最上型重巡洋艦の『鈴谷』ね」
鈴谷「よろしくねぃ、おじさん!」
少女、鈴谷は親指を立てて快活に笑ってみせた。その人懐っこい様子が気に入ったのか、シワの刻まれた守衛の顔が優しく綻ぶ。まるで突き立ての餅みたいだ。鈴谷はそんな感想を抱いた。
守衛「じゃ、門を開けるから。ちょっと待っててくれな」
守衛はそう言うと、固定受話器を手にとった。おそらく中にいる警備員にでも電話をかけて、門を開けてもらうのだろう。鈴谷が思った通り、守衛が電話を切って1分もかからずに門が重たい音を立てて動き始めた。
鈴谷は守衛に手を振って、中へと入った。
正門を抜けてすぐ、またしても感嘆が息と一緒にこぼれ出た。まるで、外国の城にありそうな庭園が待ち構えていたからだ。
初めて目にする庭園に、鈴谷は興奮を抑えきれず、やや落ち着きがない様子で首を巡らせていた。目に入ってくる全てが、新鮮で、胸に燻った期待感がより一層掻き立てられる。
テーマパークに入った子供のようにはしゃいでいると、
吹雪「あ、今日配属の方ですね!」
声をかけられた。前方の噴水の側に、セーラー服を見に包んだ少女がいた。容姿は一言でいうなら地味で、いかにも真面目そうな見た目をしていた。
鈴谷「ええと、貴女は……」
吹雪「特型駆逐艦の吹雪といいます! 田中大佐……ここの司令官さんの命令で本日の案内役を勤めさせていただきます!」
鈴谷「おお、よろしくねぃ! 私は最上型重巡洋艦の鈴谷だよ」
吹雪「よろしくお願いします!」
吹雪はピシリと敬礼した。その礼儀正しさに感心しながら、鈴谷も敬礼を返した。
鈴谷「ところで他の子たちはまだなのかな? 鈴谷、集合時間ギリギリについたはずだし、もうみんな居るのかと思ったんだけど……」
吹雪「あー……」
吹雪が苦笑いを浮かべて、頬をかいた。
鈴谷「まさか、全員来てないとか?」
吹雪「いえ、もう来てるんですけど、ちょっとトラブルがありまして」
鈴谷「トラブル?」
吹雪「事故というかなんというか。電ちゃんと深雪っていう二人の駆逐艦娘がぶつかっちゃったんです。それで頭を打って気絶したんですよね……」
鈴谷「え、どういうことなの?」
鈴谷は何度か瞬きをしながら尋ねた。頭の中には困惑が広がっている。配属初日に衝突? どうしてそんなことに?
吹雪「私が集合場所に来たときにはすでに事後だったので、詳しいことはよく……。ただ、もう一人の暁ちゃんの話だと、どうやら電ちゃんが転んで深雪ちゃんとおでこ同士をぶつけちゃったのが原因だそうです。深雪ちゃんが『やっぱりこうなるよなあ……』と言い残して気絶したそうで」
鈴谷「……」
なんだそのコントは。
聞きながら鈴谷は、頭痛を気にするようにこめかみを触った。まさかこれから同じ釜を食う仲間がこんな間抜け……もといドジな子たちだとは思いもしなかった。少しだけ、先が思いやられるような気分になる。
息を吐いて、気を取り直し、鈴谷は言った。
鈴谷「……経緯はなんとなく分かったよ。それで、もう一人の暁ちゃんだっけ? その子はどこにいるの?」
吹雪「ああ、暁ちゃんならあちらに」
吹雪が指をさした方向を見遣ると、そこには噴水があった。透明な水のアーチから吹雪とは違う形のセーラー服が見えた。
鈴谷に見られたのに気づいたのか、噴水の影へ隠れるように、紫がかった黒髪がびくりと揺れ動いた。まるで、人間に直視された野良猫が驚いて逃げ出すようである。
ずいぶん人見知りが激しい子のようだ。
鈴谷「えーと……」
鈴谷(なんというか、人のことはあまり言えないけど、鈴谷の同僚はクセ者揃いみたいだね……)
吹雪「暁ちゃーん! こっちに来てくださいー」
吹雪が呼んだが、暁に出てくる気配はなかった。
こっそりと鈴谷を伺っては、目が合うとすぐに隠れてしまう。それを何度か繰り返したが、どうにも暁の警戒心は解けそうになかった。
吹雪も何度か声をかけていたが、やがて諦めたのか溜息をついて、誤魔化すように笑った。
吹雪「こんな感じでちょっとグダクダですけど、気を取り直してそろそろ行きましょうか」
鈴谷「う、うん……」
鈴谷(大丈夫かなあ、ここ……)
投下終了です。
すいません。
時間がかかっていますが、もう少しで投下できますのでお待ちください
鈴谷は執務室で提督への挨拶を済ませた後、鎮守府を見回ってみることにした。吹雪に案内を頼もうかと考えたが、彼女はどうやら医務室に運ばれたという電と深雪の様子を見に行くそうで、断わられてしまった。
鈴谷も医務室に向かおうと思った。しかし、吹雪の背中にピッタリと張り付いた暁がいて、どうにも付いて行きづらかったのだ。
はやく警戒を解いて仲良くなりたい。だが、まだ初日だし焦ることはないだろう。きっとすぐに慣れてくれる。基本的に楽観的でポジティブな彼女は、そう考えて暁についてはあまり気にしないようにした。
鈴谷「さて、どこから行こうかな?」
鈴谷は提督から預かった鎮守府の地図を広げ、目を走らせる。鎮守府本館、別館、艦娘寮、工廠……などなど様々な多岐にわたる情報が載っている。その中で彼女の目を引いたのは、艦娘寮であった。
やはり自分が生活する部屋のある場所を真っ先に見たかった。しかし、それだけではない。この寮のすぐ側にある「甘味処 間宮」と書かれた小さな建物に惹かれたのだ。甘いものとカレーが何より大好きな鈴谷には、その存在を無視できるはずがなかった。
間宮の噂は養成学校でもよく聞いたし、実際に講義で試食したこともあるからその味も知っている。あれは、忘れられない美味しさであった。それがまた味わえるのかと考えただけで、鈴谷がそこに足を向けることを決断するには充分すぎた。
鈴谷は鎮守府本館を出て、「間宮」へと向かった。
四月の日差しは優しくて、昼寝をしたくなるほどに心地の良いものだ。時折、港から吹き付ける風が少しだけ冷たい。手にした地図がバタバタとせわしなく揺れるので、飛ばされないようにしっかりと握った。
海鳥の甲高い鳴き声が空をうつ。すぐ近くに戦場があるとは思えない平穏さだ。
ふと、提督のことが頭に浮かんだ。
自分の上司になる人なのだから、当然どのような人物なのか気になってはいた。平賀大将みたいに武人然とした人だろうか、もしくは工藤少将みたいに温和な人だろうか、などと色々な人物像を空想していたのだ。だが、提督はそのどれにも当てはまらなかった。
あまりにも綺麗で中性的な容姿をしていた。正直、初めて目にしたとき性別が分からなかったくらいだ。まるで彫刻でも目にしたかのようで、鈴谷は衝撃を受けてしまった。
軍人といえば、総じて体格が良くて、厳しい目つきをした人か、そうでなくても男性的な色合いが濃ゆいイメージが強い。提督はあまりにもそのイメージから逸脱していた。まるで軍人らしくないのである。安楽椅子に座って、紅茶を飲みながら優雅にクラシックを嗜む姿がひどく似合う。そう、貴族の御曹司だ。それに近い。
挨拶自体は至って普通に終わり、あまり話す機会はなかったから人柄はまだ分からない。だが、何も言ってないのに、鈴谷たちが迷わなくていいよう吹雪という案内役をつけ、地図まで用意してくれたあたり、部下にも気遣いを忘れない紳士さが垣間見えていた。
きっと悪い人ではないだろうな、と鈴谷は判断し、安堵した。同僚は少し変わっているものの、上司がまともな人ならばここでの暮らしに不安を感じなくて良さそうだ。
艦娘寮が見えた。その向かいに見えるのが、お目当ての「間宮」である。小さく造られた日本庭園をこさえた、奥ゆかしさを感じさせる木造の建物だった。いかにも和菓子屋らしい雰囲気が、甘い香りを伴って漂ってくるようだ。
鈴谷は入り口を開け、一言挨拶をした。
「はいはい、ちょっと待っててくださいね」
割烹着を着た女性が、台所の奥から現れた。おそらくこの女性が「間宮」であろう。
「間宮」とは給料艦の艦娘たちの総称であり、戦闘能力は皆無である。しかし、他の艦娘たちにはない特殊な力を持っている。彼女たちの『料理』は、それを食べた艦娘に強い活力を与えることができるのだ。さながら栄養ドリンクのようなものであるが、効用はその比ではない。一日の疲労がすべて消し飛んで、清々しいほどやる気に満ち溢れる。
だが、その『料理』を作るためには凄まじい集中力がいるようで、一日に作ることができる量は限られているそうだ。ただ、能力を使わず普通に調理するのは問題ないそうで、多くの鎮守府では修行と艦娘たちへの慰安を兼ねて、「間宮」が食事処を開いている。「間宮」の個性に左右され、蕎麦屋だったり洋食屋だったりする。この鎮守府は、甘味処だった。
間宮「見ない顔ねえ。あ、もしかして提督が言っていた今日配属される子?」
間宮が手を叩いて、尋ねてきた。
鈴谷「そうだよ〜。重巡洋艦の鈴谷っていうの。よろしくねぃ」
間宮「鈴谷さんか……。こちらこそよろしくね。まあ、立ち話もなんですし、空いているところに適当に座ってくださいな」
間宮の勧めに従って、鈴谷はカウンター席に腰を下ろした。まだ六人しかいない鎮守府だからか、席は見事に空いていた。店を貸し切りにしたような感じがして、少しだけ気分が良い。
間宮が苦笑して、
間宮「出来たばかりの鎮守府って最初は暇だ、とは聞いていたんだけど、本当に暇なのよねえ。お客さんが来てくれて良かったわあ」
鈴谷「まあ、まだまだ全然メンバーが揃ってないから、しょうがないよね〜」
間宮「そうそう。今日でようやく六人になったし、これから増えてくれると嬉しいんだけど……」
ここの間宮はずいぶんフランクなようだ。鈴谷より数歳年上という見た目だが、雰囲気は下町の食堂にいるおばさんのそれに近い。つい数分前にあったばかりだが、すぐに仲良くなれそうだった。
鈴谷「それじゃあ、注文しようかな。メニューはどこにあるのかな?」
間宮「あら、ごめんなさい。出すの忘れていたわ」
間宮がメニュー表を戸棚から取り出して、渡してくれた。「どれどれ」と呟きながら目を落とすと、魅力的な言葉がたくさん並んでいるのが見えた。
鈴谷はしばらく悩み、無難に黒蜜きな粉パフェを選んだ。
間宮「了解。出来上がるまでちょっと待ってて」
鈴谷「いくらでも待つよ〜」
間宮が調理を始め、することのない鈴谷は黙ってその様子を見つめることにした。
黒蜜きな粉パフェが段々、上へ上へと出来上がっていく。お菓子作りの素人である鈴谷にも、それが物凄い手際の良さだとわかった。関心し、半ば見惚れていると、
間宮「ねえ」
間宮が声をかけてきた。
鈴谷「なに?」
間宮「鈴谷さんって重巡洋艦って言ってたわよね?」
鈴谷「うん、最上型重巡洋艦の三番艦だよ」
間宮「最上型か……。型は違うけど、重巡洋艦ならあの子と同じね」
鈴谷「あの子って?」
鈴谷は訊いた。
間宮「この鎮守府にもう一人重巡洋艦がいるじゃない。その子のことよ」
鈴谷「ああそういえば。でも鈴谷、まだその人と会ってないんだよね〜。どんな人なんだろ?」
間宮は意外そうな顔をこちらに向けた。
間宮「あれ? 顔合わせしたんじゃないの?」
鈴谷「その場に居なかったんだよねえ。何故かは知らないけどさ」
きっと風邪でも引いて出てこれなかったのだろう。まさか深雪と電みたいに間抜けなトラブルを起こして来れなくなった、なんてことは考えにくい。
間宮が少しだけ呆れたように笑った。
間宮「たぶんサボりよ。……あの子らしい」
鈴谷「サ、サボり? いや、さすがにそれはないでしょ」
間宮「あの子なら十分あり得るわ。いや、それだけしか可能性がないわね」
鈴谷「えぇ……」
鈴谷は少しだけ引いてしまった。
鈴谷「その人って不良かなにかなの?」
間宮「それに近いような、そうでもないような……。でも、凄い子なのよ。『艤装持ち』だしね」
鈴谷「え、『艤装持ち』!?」
驚きのあまり、鈴谷は声を荒げてしまった。艤装の専有をしているということは、かなりの実力者の証だ。艦娘たちにとっては憧れであり、最高峰の名誉でもある。
鈴谷「ど、どうしてそんな人が、言っちゃ悪いけどこんな開設して間もない鎮守府にいるの? 普通、もっと大きな鎮守府にいるはずだよね?」
間宮「さあ、私もよくは知らないわ。何か事情がありそうな感じではあるけど……。それよりできたわよ。お待ちどう」
間宮がパフェをカウンターの上へと置いた。無数に積み上げられたアイスクリームの上に、わらび餅や白玉や餡子がトッピングされ、さらにきな粉と黒蜜が絡められている。冷たく、甘やかな香りが鈴谷の鼻腔をくすぐった。
鈴谷「わあ、美味しそう……。いただきます!」
スプーンですくい、一口。
鈴谷「あっまー! やばい、やばいよこれ! 無茶苦茶美味しい!」
間宮「お粗末様です」
鈴谷「ん〜! なんていうの? バニラの優しい甘さの中に、黒蜜のほろ苦さがあって、きな粉の舌触りがまた堪らないねぃ。あんま上手に言えてないけど」
間宮「無理にレビューしなくてもいいわよ。美味しいの一言を聞けただけでも私は満足なんだから」
間宮は心の底から嬉しそうに相好を崩した。まるで、子どもを見つめる母親のようだ。
鈴谷はゆっくりと味わう。口に運ぶごとにコロコロ表情を変え、大袈裟なくらい感動しながら、彼女はパフェを崩していった。
半分くらい食べたところで、鈴谷はさっきの話題を復活させた。
鈴谷「『艤装持ち』の人、どんな感じなのか気になってきたなあ。まさか配属初日でそんな大物に会えるかもしれないなんて思わなかったよ」
間宮「鈴谷さん、今年卒業なのね」
鈴谷「そうそう。『艤装持ち』は講師として来た神通さんを見たのが初めてなんだけど、びっくりした。なんかオーラが違うんだよね。どっしりと構えていて、いかにも大物って感じがしたなあ。その人もそんな感じなのかな?」
間宮「ある意味……大物だとは思うわ。ある意味ね」
間宮の意味深な言い方に、鈴谷は怪訝な顔を浮かべた。
その時だった。引き戸が軽快な音を立てて開き、カウベル代わりの風鈴が揺れ動いた。
鈴谷はそちらに顔を向け、固まった。
恐ろしく顔を強張らせた女が入ってきたからだ。ネコ科の肉食獣が狩りをするときのように目つきは鋭利で、濁った光を瞳に蓄えている。寝不足なのだろうか、目元にドス黒い隈があった。
息を飲まずにはいられない。その女は、異質だった。まるでこの小さな和菓子屋を戦場と思っているかのごとく、全身から殺気が漲っている。
間宮「あら、摩耶さん。いらっしゃい」
驚愕する鈴谷と違って、間宮は普通に挨拶した。
摩耶「ああ」
摩耶と呼ばれた女が、無愛想に言った。ズカズカと店内を進み、鈴谷には一瞥もくれず、カウンター席の一番奥に腰を下ろした。
間宮「今日は何頼む?」
摩耶「杏仁豆腐」
むっつりした顔で摩耶は告げた。
間宮が短く返事をして、さっそく調理に取りかかった。
鈴谷「あのさ、あの人がまさか」
鈴谷は小声で言った。
間宮「そう、あの子が『艤装持ち』よ。高雄型重巡洋艦の摩耶さん」
鈴谷「へぇ……」
ちらっと、摩耶の方を見た。テーブルに肩肘をついて、つまらなさそうな、それでいて油断のない血走った瞳を虚空に向けている。
恐ろしげな女性だ。というのが、鈴谷の抱いた摩耶に対する第一印象だった。気圧されてしまっているためか、話しかけてみようという気にはなれなかった。
ゆっくりパフェを掬いながら、不自然にならないよう摩耶を観察する。
形相は張り詰めているものの、美人である。衣服から覗いた手足にはしなやかな筋肉がついている。適度な背筋はすっと伸び、大きな胸をしているのにウエストがしまっていてスレンダーだ。正直、羨ましいと思えた。
ふと、目があった。見ていることに気づかれたらしい。鈴谷は驚いて思わず固まってしまった。
摩耶の油断ない目が、鋭く細められる。
摩耶「何ジロジロ見てんだコラ」
鈴谷「あ、いや……すいません」
鈴谷がおっかなびっくり謝ると、摩耶は舌打ちした。
摩耶「次ガン飛ばしてきたらぶっ殺すからな? 分かったか?」
睨んだつもりはない、とは言えなかった。怖すぎて言い返せない。鈴谷は頭をブンブン振って肯定した。
摩耶が興味を失ったように視線を前へと戻した。一難去ったと言わんばかりに胸を撫で下ろしていると、
間宮「できたわよ、はい」
間宮がカウンターに杏仁豆腐を運んできた。上にサクランボが乗った、よく見かけるシンプルな杏仁豆腐である。
摩耶はスプーンを取って、さっそく食べ始めた。一定のペースで機械的に食べ進めている。さながらベルトコンベアでの作業を見ているような感じだ。
間宮「美味しい?」
摩耶「まあな」
間宮「そう、良かったわ。おかわりもあるから、食べ足りなかったら言ってね」
摩耶「わかった」
摩耶の生返事に、間宮は何故か満足したような顔をして厨房へと引っ込んだ。鈴谷の対面へと戻り、笑いを堪えるように口元を手で押さえ、摩耶の方向へ小さく指差しをした。
眉をひそめながら鈴谷は目を送り、固まった。
同一のペースで食べていたはずの摩耶が手を止めていた。微かにだが口元を緩め、空腹を満たしたライオンのような平穏な瞳を杏仁豆腐へ向けている。
それは普通の光景だった。甘いもの美味しいものを口にしたとき、人は幸せを感じるものである。だから思わず笑顔を浮かべたとしても、おかしなことではないはずだ。だがどうしてか、そうだと理解していても、鈴谷は呆気にとられてしまった。
間宮を見る。彼女はしてやったりとでもいいたげだった。それでいて、喧しく吠える犬の後ろに、子犬が数匹丸まっているのを見たかのような、暖かな優しさを瞳にたたえている。鈴谷はなんだか可笑しくなって、吹き出しそうになった。柔らかい明かりを受けて、親しみという小さな花が咲く。
鈴谷「好きなの? 杏仁豆腐」
思わず話しかけてしまった。摩耶が慌てて表情を引き締め、もう一度凶暴な面をこちらへ向けたが、ぜんぜん取り繕えてなくて、それがまた面白かった。なんとか笑わずにすんだ。間宮は堪えきれなかったようで、押し殺した笑い声をあげていた。
摩耶が目つきをさらにキツくした。しかし、少しだけ頬の色が濃くなっている。
摩耶「何笑ってんだよてめえら。なめてんのか?」
低い声にも迫力がない。
間宮「そういうつもりはないわよ〜。ただ、摩耶さんがとても美味しそうに食べていたから嬉しくて」
鈴谷「そうだね。なんか、可愛いかった」
間宮の言葉に鈴谷が同意すると、虚を突かれたように摩耶はぽかんと口を開け、やがてみるみるうちに顔を赤らめていった。すぐにそっぽをむいて、子供のようないじけた声を出す。
摩耶「……別に。嫌いだよこんなもの」
間宮「毎日食べに来てるのに?」
摩耶「うるせえ!」
鈴谷(毎日食べてるんだ……)
鈴谷はとうとう噴き出してしまった。間宮も同じように笑っている。
摩耶「ブチ殺すぞてめえら!」
摩耶の怒鳴り声が飛んでも、しばらく二人は笑っていた。
投下終了です。
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