男「死が二人を分かつまで」(135)
「良き時も悪き時も」
「富める時も貧しき時も」
「病める時も健やかなる時も」
「共に歩み、他の者に依らず」
「死が二人を分かつまで」
「愛を誓い、想い、添うことを」
「神聖なる婚姻の契約のもとに、誓いますか?」
『はい、誓います』
ビルの立ち並ぶ街で、ビルの隙間から微かに見える夕陽を見ながら、
ふと僕の頭に思い浮かんだのは、ずっと昔の遊びのことだった。
僕には子どもの頃、具体的にいえば小学生の頃、熱中していた遊びがある。
もちろん小学生なりにドッジボールや鬼ごっこ、けん玉にベーゴマに携帯ゲームにも熱中した。
そういえばドッジボールのドッジは「避ける」という意味があると先生から聞いた時は驚いた。
僕は人を当てるのはそれほどうまくはなかったが、避けるのは得意だった。
至近距離で当てられそうになると子どもは普通ジャンプして避けるが、
それで股間を強打して保健室送りになった友人を見てからというものの、僕は真横に避ける方法を身につけた。
真横に避ける僕はいつも最後まで残ったものだ。
そんな僕がドッジボールにおいて「正しい」プレーをしていると言われた気がしたのだ。
そりゃあ驚くし、何より嬉しかった。
今ではもう、そんな得意なんて関係ないのだけれど。
そんな一般的な小学生だった僕が、みんなとは違う遊びに熱中していたことがある、という話だ。
それは「結婚の誓いごっこ」だ。
このことを人に言うと、失笑されることもしばしばあったが、僕は真剣だった。
真剣というか、とにかくその遊びが好きだった。
まず結婚の誓いを交互に言っていく。
ゆっくりと、かまないように、一言ずつ大事に言っていく。
そして言い始めた方が、最後に「神聖なる婚姻の契約のもとに、誓いますか?」と聞く。
一息、タイミングを計り、そして同時にこう言うのだ。
『はい、誓います』
もちろん誰彼構わずこの遊びに巻き込んでいたわけではない。
小学生なりに、僕はこの遊びが普通ではないとわかっていたし、
しかしわかっていたからと言ってやりたいことを我慢できるほど大人でもなかった。
僕には大切な人がいる。
この遊びに最後まで付き合っていてくれた女の子である。
けらけらと笑う、元気で素敵な子だった。
いつも僕の方が彼女にものを教え、彼女はそれを面白がる。
そうやっていつも僕は彼女を引っ張っていたつもりだったし、
彼女は僕といると安心するようだった。
いつも二人で家に帰り、いつも二人で遊んだ。
「結婚の誓いごっこ」は、小学校の4年生の頃まで続いた。
4年生と言えば10歳だ。
年齢が二桁に達することで、子ども心に大きな転換点を感じていたように思う。
結婚という言葉、誓いという言葉に憧れ、希望を抱き、
大人のいる未来という世界に様々な思いをはせている頃だ。
二桁の年齢を重ねることで、自分が少し大人になったような、そんな気がしていた。
女の子だって多感な時期だ。
「ちょっと男子ー」
とか言い出すのもこの頃である。
そういう意味では、彼女が結婚の誓いごっこにまだ付き合ってくれていたこの時期は、
かなりギリギリのラインだったのだろう。
今でも当時の話をすると、彼女は恥ずかしそうに笑っている。
最初は純粋に好きだった。
小学校の恋なんて、そういうものだ。
いや、違うな。
結婚の誓いごっこをするうち、いつのまにか好きになっていった。
小学校の恋なんて、そういうものだ。
あるとき僕の両親が急な用事で出かけるというので、
彼女はお留守番という形で僕の家に来た。
まだ小学校に上がるか上がらないか、そんな頃だったのではないだろうか。
今思えば、両親は真っ黒な服に身を包み、悲しそうに出かけていったので、
葬式か何かだったのだろう。しかし当時の僕らにはそれがわからなかった。
まあ、わかっていたところでどうということもないのだが。
最初は人形やらブロックやらで遊んでいたのだが、
偶然テレビでやっていた映画に僕たちはくぎ付けになった。
タイトルは忘れてしまったが、というか、最初からタイトルなんて知らなかったが、
とにかく映っていたのは若い男女が結婚の誓いをたてているシーンだった。
「死が二人を分かつまで」
「愛を誓い、想い、添うことを」
「神聖なる婚姻の契約のもとに、誓いますか?」
『はい、誓います』
その言葉を聞き、僕と彼女は顔を見合わせた。
まるで謀ったかのように、一寸狂いなく同じタイミングだった。
その後のシーンは友人に祝福されたり、誓いのキスをしたり、ライスシャワーを浴びたり、
まだ幸せな姿が続くのだが、当時の僕たちはそんなもの見ちゃいなかった。
「ねえ、これ、やってみようよ」
そう言いだしたのは僕だったか、彼女だったか。
覚えていない。
ただ、子ども心に、これは面白そうだと思った。
「最初は、なにから始まったんだっけ」
「えっと、えっと、悪き時も…」
「あ、わかった」
「良き時も、悪き時も…」
「そうそう!!」
「次は?」
「止める時? 止める時はまず・・・」
「まず…なんだっけ」
「わかんない!! 飛ばそ」
「もう覚えてないよ!!」
「最後は『誓います!!』」
「うん、それは覚えてる!!」
そんな感じで、ぐだぐだだった結婚の誓いは、それでも僕たちに興奮をもたらした。
「これ、大人の遊びだね」
そう言いだしたのは僕だったか、彼女だったか。
覚えていない。
「内緒の遊びだね」
僕たちはスリルと、興奮を、この遊びの中に見出したのだ。
誰にも内緒で、両親が帰ってくるまで、この遊びは続いた。
「塩が二人を中津まで!!」
「塩じゃなかったよ」
「砂糖だっけ」
「それでえ、愛を誓い!!」
「ちょっと近い!!」
「あはははははは」
結婚は彼女としたい。
彼女以外とはしたくない。
ん、まあ、ママなら二番目に結婚してもいいかな。
あ、でも、彼女と結婚したらママとはしないからね。
そう考えていた。
「神聖なる…なんだっけ」
「結婚の…えっと、契約がなんとか」
「知ってる!! 契約って、パパがいつも取ってくるものだよ」
「そうなの?」
「うん、でも最近はあんまり取ってこれないみたい」
「愛が足りないのかしら」
「ダメだなー、パパ」
「ダメねえ、パパ」
ダメダメだ。もちろん、僕のこと。
でも年端もいかない子どもだったんだ。
無邪気、で片付けよう。うん。
「契約のもと、誓いますか!!」
「はい!! はい!! 誓います!!」
「ダメだよ、はいとか言ってなかったよ」
「…誓います!!」
「もっと静かに言わなきゃダメなんだよ」
「わかんない」
たった一度きり見ただけのシーンを、子ども二人で再現しようだなんて不可能だった。
ただ、真似事をしているだけで、十分だった。
こんな感じでゆるっと行きます
地の文多めです、御免なさい
「あはは、その噂聞いて、確かめに来たんだ」
そう、その通り、だけどそれを言うのは恥ずかしすぎる。
「いや……その……」
ああ、もう、ダメだ。
だけど、すごくホッとしている自分がいる。
「久しぶりだよね、話するの」
「ああ、うん、そうだね」
「中学入ってから、全然喋らなくなったもんね」
「う、うん、クラスも違ったしね」
お、なんだか普通に喋れてるぞ。
良かった。うん、きっかけはひどかったけれど。
それから僕らは、少し話をした。
中学に入ってからのこと。
部活のこと。
友だちのこと。
彼女には年の離れたお姉さんがいて(これは知っていたが)、今は美大を出て働いていること。
自分も同じ道を歩みたいと思っていること。
僕には兄弟はいないし、目標もなにもなかったし、
彼女に話せるような面白い内容はなかったけれど、
それでも二人して笑って話す時間がすごく楽しかった。
「ねえ、今日の放課後、時間ある?」
「え?」
「もっと話、しようよ」
放課後は用事があるんじゃ……
あれ、都合のいい嘘だったのかな。方便ってやつ?
僕は帰宅部だし、特に用事も……
いや、まあ、受験生らしく参考書を買って帰ろうと思っていたんだけど、
そんなことはもうどうでもいいと思っていた。
彼女とまだ話せる。
それが嬉しくて。
「じゃあさ、駅前のシャーロットっていう喫茶店にいるから」
そう言って、彼女はクラスに帰っていった。
僕はまだぼんやりとしていて、今彼女と話した内容が、ふわふわと
溶けていくような、消えていくような気分に襲われていた。
これは夢じゃないのか。
さっきまで、ベンチの隣に座っていたのは、本当に彼女だったのか。
物陰に隠れて誰かが笑っているんじゃないか。
喫茶店に着いたら、大勢に迎えられて笑い者にされるんじゃないか。
そんなことを延々と考えていたら、午後の授業に遅刻してしまった。
「夢と現実について考えていました」って言い訳したら、
「まあ、大事な時期だからな」って先生は勘違いしてくれた。
恐れていた事態は起こらず、「シャーロット」には彼女だけが待っていた。
「ここね、落ち着いてて、狭くて、好きなの」
「いい店だね」
そう言うしかなかった。
喫茶店なんて、入ったことがない。
コーヒーだって、そんなに得意じゃない。
今月のこづかいの残りを頭の中で計算しつつ、彼女のお勧めだというカフェラテを頼んだ。
「よく来るの? この店」
「うん、読書するのに、よく使ってるの」
図書館でいいじゃん……という感想は、心の奥にしまいこんだ。
いくらなんでも、それを言ったらデリカシーがなさすぎる。
その程度の分別は付くつもりだ。
彼女の行きたいという高校は、僕の行きたいと思っていた高校の二つ上のランクだった。
「え? どうして? もっと上目指せるんじゃないの?」
「え、そうかな」
「だってさ、賢いって、よく聞くよ」
「誰よう、そんなこと言ってんの」
彼女はまた、けらけらと笑う。
ああ、そうだ。この笑顔だ。
僕は久しぶりに、彼女に会えた気がした。
「美術のね、専門学校に行きたいの」
「ああ、昼間もそう言ってたよね」
「その高校はね、美術を教えるのがすっごいうまい先生がいるの」
「ああ、そうか、だから……」
子どもの頃、彼女が描いた絵は、いつも僕が一番に見せてもらっていた。
綺麗で、優しくて、色遣いがとても良かった。
「いいな、夢があって……」
僕が何気なくつぶやくと、彼女は力なく笑った。
「お姉ちゃんを追いかけてるだけよ」
その真意は判らなかったが、彼女からしてみれば、自分がどうしてもどうしても
「そうなりたい」のではなく、身近な姉の存在を見て影響を受けた、
つまり受動的な「夢」であるらしい。
「本当はね、子どもの頃はね、お嫁さんになりたかったの」
「ああ……そうだったね」
そうだ。彼女はいつも言っていた。
「お嫁さんにしてね」「結婚しようね」「子どもいっぱいほしいね」
「お料理できるようになりたいな」「あなた、お仕事がんばってね」
あれは、ままごとだったけど、彼女の本音であったことは間違いない。
「ね、覚えてる? 結婚の誓いごっこのこと」
心臓が止まるかと思った。
覚えてる。もちろん覚えてる。
むしろ、君に彼氏がいるなんて聞いてから、ずっとそのことを考えてた。
「あ、ああ、そんなこともあったねえ」
だけど、僕の口から出たのは、酷く頼りなく(まるで僕のように)、
そして情けない(まるで僕のように)言葉だった。
「懐かしいなあ」
彼女はそう言って、少し上を向く。
僕はそれを見て、下を向く。
「あのさ、今日さ、君に彼氏がいるって聞いたときさ」
「ん?」
僕の言葉に、彼女がこちらを向いたことが、わかった。
だけど僕は、下を向いたまま、続きを言おうとする。
「ほんとは、もうそのことを、思い出してた」
「……」
なにが言いたいのか、わからない。
耳の奥で自分の声が聞こえる。まるで水中にいるようだった。
「あのさ、やっぱさ、ずっと好きだったんだと、思う、君のこと」
僕の口は知らない間に、大人になっていた。
そして、「恥ずかしくて顔から火が出る」というのは大袈裟な表現であることが分かった。
少なくとも僕の顔から火は出ていないし、汗すら出ていない。
ただひたすら、制服の腋の部分とひざ裏の部分が湿っぽい。それだけだ。
そしてその瞬間、店内に流れるbgmが素敵であることに気がついた。
なんだか冷静だな、と頭は回転しながら、普段友人たちに聴かされる
ジャパニーズポップスやロックと比べてみて大きな壁を感じた。
そういえばbgmってどういう意味だろうか。
mがミュージックなのは確実として……
bgってなんだろう。
ブラックギター?
ベイビーガール?
そこまで考えて、ふと、彼女がなぜ黙っているのかと思った。
あれ、会話、途切れたっけ。
僕はいつもそうだ。
知らない間に妄想モードに突入し、周囲を置いていく。
違う、周囲に置いていかれる。
ボーっとテレビを見ていて、妻に生返事を返し、呆れられる男のようだ。
ていうか、僕の父だ。
そんなわけで、父は母に置いていかれた。
僕も今、彼女に置いていかれるのだろうか。
返事がないのは、もう彼女がここにはおらず、帰宅の道を歩いているからだろうか。
僕は顔をあげる。
「……嬉しい」
彼女は笑っていた。
僕を置いていくことはなかった。
まだ、そこにいてくれていた。
それだけで救われた気持ちになった。
僕は、自分がなにを喋ったのかを、もう忘れてしまっていた。
ああ、そうだ。
bgはバックグラウンドだ。
いつかそう聞いた気がする。
頭の隅で、そう考えている僕がいた。
だけど頭の中心は、考えることを放棄していたけど。
「ね、受験勉強、一緒にしよっか」
彼女は、嬉しそうに、笑いながら言った。
「え、でも、僕と一緒じゃあ効率が悪いよ」
僕はなにも考えず、そう言った。
もしそれが実現したら、きっと嬉しいはずなのに。
また彼女とたくさん会えて、たくさん話をすることができて、
それだけで嬉しいはずなのに。
「もう、効率とかさ、そういう話じゃないんだってば」
彼女は少し恥ずかしそうだった。
そうか。
そういう意味なのか。
それから僕たちは、時々図書館で、時々シャーロットで、受験勉強をした。
彼女にとっての効率がどうだとか、目指す高校がどうだとか、
そんな話はしなかった。
ただ、昔話をして、そして、自分の勉強をして、
苦手なことは教えてもらった。
でも、僕が教えられるようなことは、あんまりなかった。
ゆっくり、しかし確実に二人の時間は進んでいきます
明日は来るの遅いです、御免なさい
「よし、もう今日はこのまま合格祝い、しに行こう」
「どこへ?」
「……焼肉!!」
彼女は子どもの頃よりもエネルギーに満ち溢れていて、
いつも僕が教える立場だったのに、逆転していて、
自分を情けなく思う以上に、彼女がまぶしくて仕方がなかった。
「焼肉か、いいね」
「今日だけはダイエットお休みしちゃうよ!!」
「ダイエットしてたのか」
「……う」
別に、太ってるとは思わないのになあ。
僕たちは焼肉を食べながら、高校に行ってどういう生活がしたいか話しあった。
部活のこと、勉強のこと、体育祭や文化祭のこと。
お互い、高校生になっても今みたいに会えたらいいね、なんてことも。
僕たちは付き合っている。
そう自信を持って言い切れる関係ではない。
僕は彼女が好きだ。それはわかりきっている。
じゃあ彼女はどうなんだろうか。
僕をどう思っているのか。
この際だから、聞いてみようか。
怖いけれど。
「ね、今日さ、プリクラ撮りに行こうか」
「へ、プリクラ?」
プリクラって言うのは、あれか。
写真を撮って文字書いたりキラキラさせたりするシールのやつか。
実はまだ一度も撮ったことがないんだけれど。
「合格記念に、ね」
「あ、ああ、そうだね」
どこに行けばプリクラを撮れるのか、よくわからなかったが、彼女に任せようと思った。
たらふく焼肉を食った後、彼女の案内でゲームセンターへ行ったんだ。
ちなみに彼女は焼肉屋で大盛りのライスを二杯食べていた。
僕は中ライスだったというのに。
「え、ちょ、これ、どうやるの」
「いいから、任せて」
「この辺?」
「もうちょいそっち」
「ちょ、近いよ」
「こういうもんなの。ほら、撮るよ!! 前見て!!」
「え、ちょ、ちょ、っと」
パシャ
ペンで色々と書くものらしいが、僕はセンスがないので全部任せた。
『高校合格記念!!』とか
『焼肉うめー!!』とか
そんなことを書いている彼女を見ていた。
「……」チラッ
すると、突然彼女はこちらを見て少し恥ずかしそうに、笑った。
なんだろう。
彼女はさっきよりも少し遅いスピードで、ペンを動かした。
『10か月記念』
「え?」
「えへへ」
彼女は照れている。
照れながら、ちらちらとこちらを見ている。
ああ、もう、頭の中を色々な思いがよぎったけれど、
そんなことはもうどうでもよくなった。
僕は彼女を抱きしめていた。
堪え切れなくなったんだ、なにかが。
「このプリクラは一生大事にする」
「またまた、大袈裟ねえ。また撮りに来ればいいじゃん」
「いや、なんか、これは特別なんだ」
そう、特別だった。
こんなにも彼女のことが好きなんだと、今日気付いた。
愛おしいと思った。
「嬉しい、ありがとう」
そう言って、僕は、また少し強く抱きしめた。
「ちょっと、近い」
彼女がけらけらと笑う。
「……結婚の誓い?」
僕もへらへらと笑う。
「良き時も悪き時も」
突然彼女が言いだした。
僕は一瞬、息が詰まったが、しかしそれでも次に言うべき言葉はすぐに頭に浮かんだ。
「富める時も貧しき時も」
頭の中に文字が浮かぶ。
彼女も次の言葉を間髪いれずに継ぐ。
「病める時も健やかなる時も」
「共に歩み、他の者に依らず」
「死が二人を分かつまで」
「愛を誓い、想い、添うことを」
「神聖なる婚姻の契約のもとに、誓いますか?」
僕らは抱き合ったままで、つまり相手の顔は見えなかったけれど、
お互いがしまりのない顔をしていたであろうことはよくわかった。
周りに人がいないのが幸いした。
昼間から子どもがこんなことを堂々としていたら、白い目で見られるだろう。
僕も見ている側なら、「痛いなあ」と蔑むだろう。
だけど僕らは見ている側ではなく主役であり、今この瞬間、この世界の中心だった。
『はい、誓います』
そう言葉を合わせることに、なんの恥じらいもためらいも後悔もなかった。
この瞬間、僕たちはこの世界の中心だった。
そう、とても幸せだったんだ。
幸せ、だったんだ。
「死が貴方たちを引き裂くでしょう」
こう言われたとき、心臓がえぐられるような、足元が崩れるような感覚があった。
そして、しばらくその言葉が忘れられなかった。
なんで、そんなことを言われるんだ。
なにかの間違いじゃないのか。
僕たちは主役で、世界の中心で、死なんてものは関係がないと思っていた。
鼻で笑いたかったが、その人は冗談でなく真実を告げていると、なぜか理解していた。
「ねえ、凄く当たる占い師がいるらしいんだけど」
彼女がそう言ったのは、高校2年生の秋だった。
「行ってみない?」
彼女は友だちから占い師の噂を聞きつけてきて、一緒に行こうと誘ってきた。
僕は占いなんてものには特に興味がなく、朝の運勢占いですら聞かないというのに。
「よく当たるって言ったって、そんなの、誰にでも当てはまるようなこと言うだけだろ?」
「違うんだって、本当なんだって」
「私の友だちがさ、運命の人を見つけてもらったらしいんだよ」
「運命の人?」
「素敵な出会いがしたいんですって言ったらさ、その占い師さ、出会わせてくれたんだって!!」
「なに、出会い系を薦めてくる業者の人?」
「違うんだって!! もう、行ったらわかるからさ!!」
そう言って、彼女は強引に僕を連れていった。
小さな商店街の隅の、小さな机に水晶を載せて、その人は佇んでいた。
「知りたいことは、なんですか」
その人は、できるだけ押し殺した声で言った。
小柄な女性らしいが、フードで顔を隠しているので、表情がよくわからない。
きっと、あえてそうしているのだろう。
「一回につき、占い料は1000円です」
高いのか、安いのか、よくわからない値段だ。
「私が出すから」
彼女はまだ興奮しているようだ。
女の人って、占いが好きなんだなあ。
心の拠り所になるからだろうか。
「結果にご不満でしたら、料金は結構です」
そうなのか。
意外と良心的だ。
「一回って言うのは、質問一回分ですか?」
彼女がそう聞く。
もし本当にそうだったとしたら、すでに1000円分聞いてしまったことになる。
彼女はその辺、僕よりも頭が回らない。
勉強の賢さとは無関係な能力なのだろうか。
「いえ、10分以内でしたら何でもお答えします」
ホッとした。
さあ、そうなってくると、色々と聞きたいことが出てくるぞ。
来年は受験だし、とりあえず彼女とはうまくいってるけど今後のこととかも聞きたい。
「私たち、来年度受験なんですけど、うまく行きますか」
いきなり聞いた。
やっぱり彼女は凄い。
物怖じしないっていうのか、男の僕よりもよっぽど度胸が据わっているというか。
「……ええ」
なんだか、歯切れの悪い答えだった。
「志望校には、合格しますか?」
「貴方のほうは、悩んだ末、結局受験はしません」
彼女に向かってそう言った。
「え、私、受験しないの?」
びっくりしている。
もちろん僕も、びっくりしている。
「美大に行きたいと思ってたんだけどなあ」
うん。僕もそう聞いている。
彼女が美大に行かないって、どういう理由だろうか。
「まあいいや、じゃあ彼は大学受験、うまくいきますか?」
「貴方は、志望校から一つランクを下げて、近くの大学に通います」
うおお。
ランク下げるってはっきり言われた。
ちょっとショックだ。
「なんでランクを下げるの?」
「合格する確率と、授業料や、予備校に通うデメリットを考慮した結果です」
ううん、なるほど。
僕らしい。
しかし、待てよ。
この人の言うことを鵜呑みにしていたけれど、たかが占いだろう?
当たるかどうかなんて、わからないじゃないか。
彼女が無理やり受験したら、もう未来は変わるじゃないか。
馬鹿らしい。
「私の占いは、100%当たるわけではありません」
「確かに、彼女さんが無理やり受験することは不可能ではありません」
「彼氏さんが落ちるリスクも抱えて、志望校にチャレンジすることも不可能ではありません」
「私が言ったことは、このままなにもアクションを起こさなかった場合の未来です」
心が読まれた!?
いや、ただ単に訝しがっている僕の表情から察知したのだろう。
ちょっとびっくりした。
「じゃあ、私たち、これからどうなります?」
また彼女が聞く。
結構ヘビーな質問だ。
うまくいかないなんて言われたら、どんな顔したらいいんだよ。
こういうのは、どちらか一人だけのときに聞いた方がいいんじゃないか。
すると、その人は少し顔を歪めた。
「……聞きたいですか」
脅しだ。
これは脅しだ。
「……どうしても、それが聞きたければ、言いますが」
あれ、この人、意外と若い?
こちらを見上げてくるその顔は、化粧をしてはいるが、僕や彼女とそう変わらない年齢に見えた。
しかし、歪めている顔は脅しではなく、僕ら二人を憐れんでいるような表情だった。
なんで、そんな顔をするの?
僕らの将来が聞きたいだけなのに。
それに僕らがもし別れるとしても、そんな表情で言うだろうか。
僕らがもし別れるとしても、占い師ならうまく取り繕って適当なことを言うのではないか。
「うまくいかないんですか? 私たち」
彼女がまた、踏みこんで言った。
ちょっと待って。
僕はそんなことを聞く心構えはできていない。
「ちょ、ちょっと待ってよ、そんな」
「なに怖がってるの、うまくいかないならさ、今聞いとけば対策も講じれるでしょ」
「100%の未来じゃないって、この人も言ってたじゃん」
バシッと僕の肩を叩いて、彼女は快活に笑う。
ほんと、凄い人だ。
僕なんか、ずっとずっと昔に追い抜かれてしまっているんだな、と実感した。
しかし、少し心に余裕ができた僕のことを、占い師の言葉が叩き潰してくれた。
「死が貴方たちを引き裂くでしょう」
わかってくれる人がいて嬉しいです
探し屋をやる前の少女でした
その後のことは、ぼんやりとしか覚えていない。
結局1000円を払ったかどうかも、忘れてしまった。
死だって。
死が僕らを引き裂く、だって。
ふざけるな。
そんなことを抜かす占い師がいるもんか。
もぐりだ。インチキだ。人を馬鹿にしている。
だけどなぜか、その言葉が心の奥深くに刺さってしまったんだ。
「死が貴方たちを引き裂くでしょう」
あれは冗談を言っている目じゃなかった。
適当に占ってはぐらかしている目でもなかった。
それから数日、僕は上の空だった。
彼女との電話も、よく覚えていない。
「死」という単語が、生まれて初めて身近に感じられた。
そう、僕の祖父も祖母もみな健在だったし、「死」というものを僕は知らなかった。
でも、僕はすぐに立ち直ることができたんだ。
彼女の言葉で。
「ねえ、あの占い師さんさ、『いつ』かは言ってなかったよね」
「ってことはさ、ほら、私たちが結婚しても、いつかはどっちかが先に死ぬわけじゃん」
「それが、100歳の頃かもしれないじゃん」
「100歳で私たち、引き裂かれるのかもしれないじゃん」
「それまではうまくいくかもよ、私たち」
「だからほら、元気出して」
はは、ほんと彼女は凄い。
尊敬してしまう。いや、心の底からずっと尊敬している。
僕のちっぽけな不安なんか、ひと吹きで吹き飛ばしてくれる。
それから、占い師の言葉も特に気にすることなく、過ごすことができた。
「死が貴方たちを引き裂くでしょう」
これが100歳の頃を占った言葉だと思えば、微笑ましく思えてくるくらいだ。
具体的に「いつ」かを聞こうとは思わなかった。
1000円が惜しいわけじゃない。
彼女の素敵な考え方に水を差したくなかったからだ。
「つまりさ、私たちを引き裂くのは死しかないわけよ」
「仲違いとか、横恋慕とか、そんなもんはないわけよ」
「それって、素敵じゃない?」
元気に、嬉しそうに、そう言って笑う彼女は眩しかった。
僕もそうなりたいと、心から願った。
この頃、僕らはまだたった17歳だ。
未来なんてものが、まだまだ眩しく感じるんだ。
死なんてナンセンスだ。
どうだっていいさ。ずっと先の話だ。
そして僕らが18歳になり、「もう結婚できる年だね」なんて囁きあってた頃、
彼女から電話があった。
そして、占い師の言葉がまた僕を叩き潰すことになる。
「……え? 今……なんて?」
「だから……検査入院、することになったの」
「入院? え? 嘘だろ?」
「大丈夫、心配しないで」
僕らが18歳になって間もない頃、街角で献血をやっていたのを見かけた。
僕はo型、彼女はb型。
お互いそう言っていた。
「血液型なんて、わっかんないわよう」
「知りあいの話なんだけど、家族みんなb型で、自分もbだって思ってた人がいてさ」
「でも献血してみたらさ、『o型ですね』だって」
「そっから典型的o型人間になったらしいんだけど」
「だからさ、私たちも献血しとこうよ」
「医療のためにもなるしさ、血液型の確認もできるしさ」
注射針は少し怖かったけれど、まあ、彼女が言うなら一緒にやろうかな。
それくらいの軽い気持ちだった。
「それが……入院!?」
「うん、そう。なんかね、血液の成分で気になることがあるから病院に来てくださいって」
「そんな……」
「それで、ちょっと検査に時間がかかるかもしれないから服とか持ってきてくださいって」
「ただの、検査だけだろ?」
「そうだと思う、心配しないで」
「……なんともないと、いいね」
「うん、ありがとう」
僕は嫌な予感しかしなかった。
献血の結果を待っている間は、僕がもしo型じゃなかったら、
なんて気楽に考えているくらいだった。
だけどどうだ。
届いた検査結果は、僕をまた奈落の底につき落とした。
「死が貴方たちを引き裂くでしょう」
こんなにも早く訪れるなんて。
死の可能性がある病気だったりしたらどうしよう。
いやきっとそうに違いない。
あの占い師の言葉通りになるではないか。
そんなのは、絶対に嫌だった。
でも、そうとしか思えなかった。
「――――っていう病気、なんだって」
僕の頭はその言葉を拒否した。
耳が遮断した。
それなのに入り込んできた言葉を、頭から叩き出そうとした。
「でも、発見が早かったから薬で症状は抑えられるらしいよ」
いやだ、聞きたくない。
「大丈夫、心配しないで」
無茶言うな。
心配するに決まっている。
「ちょっとさ、入院して抗がん剤打って、それだけだから」
それだけって、なんだよ。
ちょっとって、どれくらいだよ。
「……お見舞い、行くから」
僕はそれだけしか、言えなかった。
電話を切る瞬間、彼女の泣く声が聞こえた気がした。
来年になればすぐ受験なのに、どうなるんだろう。
僕の頭はそんな見当はずれなことを考えていた。
「いらっしゃい」
お見舞いに行った僕を迎える彼女の顔は、少し痩せて見えた。
衰弱しているのではなく、ただの気疲れなんだろう。
だけどその、ただの気疲れが、どれだけ彼女の負担になっているのだろう。
そう思うと、自分ばかりへこんでいたことが申し訳なくなった。
「あはは、ここねえ、退屈でしかたがないのよう」
「今日もさあ、声出したの、今が初めてで」
僕はベッドに近寄ると、無言で彼女の頭を引き寄せ、抱きしめた。
「ど、どうしたの?」
彼女に気付かれないように深呼吸をしながら、ずっと抱きしめていた。
喋ると声が震えそうだったから、我慢した。
「早く治るといいね」
僕はそう告げて、病室を後にした。
また明日も来よう。
彼女が読みたがっていた本と、あとお菓子を持って来よう。
来年の受験のことは話題にできなかった。
その頃、どうなっているのか、全く予想できないんだから。
明日かその次くらいで完結予定です
「良き時も悪き時も」
「っ」
最初は僕だ。
この次の言葉は君に紡いでほしい。
彼女ははっとして、僕の方を見る。
目には既に涙が浮かんでいた。
「……富める時も……貧しき時も」
彼女は涙を堪えながら、しかし後から溢れ出る涙を拭わず、続けてくれた。
そう、その調子。
最後まで、言い切れたら、きっと僕たちは幸せになれる。
そう確信している。
「病める時も健やかなる時も」
「……共に歩み……他の者に依らず」
「死が二人を分かつまで!!」
「……愛を……誓い……想い……添うことを……」
「神聖なる婚姻の契約のもとに、誓いますか?」
『はい、誓います』
僕たちは、きっと幸せになれる。
そう、確信した。
それがきっと、自己満足で独りよがりだったとしても。
ああ、この瞬間、僕たちはまさにこの世界の主人公であり、
この世界の中心だった。
安いドラマみたいでもいい。
彼女がどんな病気であったって、僕がまだ学生であったっていい。
そんなことはどうだっていい。
ただ彼女が好きだ。
大切で離したくなくて、ずっと一緒にいたくて。
それだけなんだ。
僕は、バイトをしてお金を貯めることにした。
彼女は働けないから、僕が何もかも負担できるようにしなきゃいけない。
負担っていう言葉は、僕の気持ちとはかけ離れているけど。
それから、料理も覚えることにした。
病室に本を持ち込んで、彼女が食べたがる料理を家で練習して、こっそり持ってくる。
看護婦さんには睨まれるけど、でも、誰かのために料理するっていうことがこんなに楽しいなんて。
彼女が好きな画家の画集を、古本屋を回って探してきた。
筆力が弱ってきてもうまく書ける画材を、友だちに聞いて探してきた。
僕はようやく、自分の生きがいというか、人生の目標ができた気がした。
……
「はぁっ、はぁっ」
夕暮れ時のビル街。
僕は汗を流しながら、自転車をこいでいる。
「はっ、はぁ」
わき目もふらず、一心に彼女の病院を目指す。
目に汗が入ったけれど、気にしない。
早く、一刻も早く、彼女に会いたい。
「はっ、ははっ、はははは」
自然と笑ってしまう。
病室に入ったら、なんて言おう。
「なんでも好きなもの買ってやるぞ!!」とか。
「お前を養える男になるぞ!!」とか。
いや、もう一度「結婚しよう!!」と言おうか。
就職が決まった。
僕はもう、バイトじゃない。
毎月ちゃんとしたお金が入ってくる仕事に就くことができる。
これで、彼女を養えるはずだ。
もちろん入院費や手術代は彼女の両親が出してくれている。
そこまでは僕には出せていないけれど、でも、食事や趣味のお金は出せる。
結婚の誓いをしたんだ。
嘘じゃない、遊びじゃない。
これで、胸を張って、彼女と結婚することが―――
ドンッ
僕の身体は、交差点の空を飛んでいた。
ゆっくりと流れる風景。
僕の自転車もゆっくりと飛んでいるのが見える。
タイヤが不格好にひしゃげている。
お気に入りだったのに。
トラック運転手のびっくりした顔が目に入る。
あー、やっちゃったね、ドンマイ。
えっと、僕は今、なにを考えていたんだっけ。
遠くの方にビルが並んでいるのが見える。
もう夕方だ。夕日も沈んでいこうとしている。
ビルの立ち並ぶ街で、ビルの隙間から微かに見える夕陽を見ながら、
ふと僕の頭に思い浮かんだのは、ずっと昔の遊びのことだった。
それは……
意識が……遠のく……
彼女の病室に入ったら……
真っ先にこう言おう……
「死が二人を分かつとしても!!」
そうしたら、きっと彼女はこう返してくれるだろう……
「愛を誓い、想い、添うことを」
そして僕は……
「神聖なる婚姻の契約のもとに、誓いますか?」
そして……二人で声をそろえて……
『はい、誓います』
ほら……できた……
死が二人を分かつとしても……僕たちは……一緒だよ……
この日、「僕」が病院に運ばれ、結局意識を取り戻さずに死んだことを、彼女が知ることはなかった。
「彼女」もまた、同時刻、病室でひっそりと息を引き取っていたからだ。
料理の本や女性雑誌を読みながら、幸せそうに微笑んで、眠るように亡くなったそうだ。
もちろん、「僕」がそれを知ることも、なかったのだけれど。
★おしまい★
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