貴音「狐の嫁入り」 (148)
─ 12月31日 ─
春香「ふわぁ~、外は寒いね~」
雪歩「ほんと。天気が悪かったら雪にでもなりそう」
真美「ゆきぴょんだけに」
千早「ぷふっ! な、なにいってるの萩原さんったら……くっ、くふっ」
雪歩「いや、千早ちゃん? そういうのじゃないからね?」
春香「あはは……」
真「やよいは薄着だけど大丈夫なの?」
やよい「このぐらい、へっちゃらですよー」
美希「うぅ……ミキは寒いのダメだから、あずさに温めてもらう」
あずさ「あらあら、美希ちゃんったら。うふふ」
亜美「じゃあ、亜美はお姫ちん!」
貴音「……」
亜美「あれ? どったの?」
貴音「え? いえ、なんでも……」
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パラパラ…
響「あれ? 雨?」
やよい「でも、お日様出てますよ?」
真「天気雨か~」
伊織「こういうの、狐の嫁入りっていうのよね」
亜美「きつねのよめいり?」
真美「なんで狐がお嫁さんに行くの?」
伊織「さあ。いろいろ説があって、よくわからないみたいだけど」
律子「昔の人は、狐に化かされたとでも思ったのかもしれないわね」
あみまみ「「ふ~ん」」
響「狐って、沖縄では見たことないなぁ。貴音は見たことある?」
貴音「は、はい? なんですか?」
響「なんか、さっきからボーっとしてない?」
貴音「いえ、そんなことは……」
響「そう?」
律子「ほら、みんな。体が冷えるといけないから、ロケバスに急ぐわよ」
一同「「は~い」」
春香「ほんと、雪にならなきゃいいけど」
貴音「……」
長めなので分割して投下する予定です。
面妖な設定を含みます。
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───
わたくしは……誰?
わたくしは、四条貴音。
それが今の名前。
わたくしは、もうすぐこの名ではいられなくなる。
許されるなら、もう少しだけ時間が欲しい。
大切な人たちと、ともに過ごす時間を……。
───
─ ロケバス ─
P「おう、みんなおつかれ」
一同「「おつかれさまでしたー」」
この現場が、今年の765プロの仕事納め。
大晦日特番の生放送を終えて、みんながロケバスに戻ってきた。
最後席でノートPCと書類を広げている俺を見咎めて、律子がため息をつく。
律子「こんなときまで仕事ですか? まったく」
P「こんなときだからだ。新年まで持ち越したくないだろ」
春香「プロデューサーさんらしいというか……」
やよい「お休みも大切ですよ?」
P「わかってるよ」
一部の面々が「わかってない」とでも言いたそうな顔をしたが、まあ気にしない。
みんな思い思いの席に着き、俺も仕事を再開する。
貴音「隣、よろしいですか?」
P「ああ、狭くて悪いな」
貴音「いえ、失礼します」
P「どうぞ」
貴音「……」
P「え~と、今日の資料は……」
貴音「こちらですか?」
P「お、それだ。ありがとう」
貴音「あなた様」
P「ん?」
「あなた様」は、人前では使わないということにしてあるんだが……。
まあ、みんなわいわい盛り上がってるから、たぶん聞こえていないだろう。
貴音「今年一年、大変お世話になりました」
P「ああ、こちらこそ」
貴音「また来年も……」
P「おう、来年もよろしく頼む」
貴音「……」
P「?」
貴音「はい……よろしくお願いいたします」
今、なにか言葉に詰まったような……。
気にはなるが、貴音のことだから聞いてもはぐらかすだけだろう。
貴音「とても慌ただしい一年でしたね」
P「ああ、いろいろあったからなぁ」
貴音「そうですね。あなた様と出会って……いろいろなことがありました」
P「うん……」
少し作業の手を止めて、過ぎゆく一年に想いを馳せてみる。
貴音と出会ったのは、四月の、桜も散ったころ。
あの日のことは、よく憶えている。
───
──
─
─ 4月中旬 765プロ事務所 ─
P「君が……四条貴音さんだね」
貴音「はい、はじめまして」
目を引く銀色の髪。年齢よりやや大人びた美しい顔立ち。
モデルとしても通用しそうな長身とプロポーション。育ちのよさそうな自信に満ちた物腰。
アイドルとしての資質を問うなら、これほど恵まれた少女はなかなかいないだろう。
P「最近まで961プロに在籍していたようだが、なぜうちに移籍を?」
貴音「言わなければいけませんか?」
P「同業者だからな。トラブルを抱えているなら、把握しておきたい」
貴音「それはありません。まったく個人的な事情です」
P「個人的事情?」
貴音「765プロ・プロデューサー。あなたを確かめに参りました」
P「俺を?」
貴音「はい」
P「確かめるって、なにをだ?」
貴音「今は……言えません」
P「気が向いたら話してくれるのか?」
貴音「……時が来れば」
P「……」
貴音「……」
P「そんな志望動機は初めてだな」
貴音「ふふっ、そうでしょうね」
P「なんにしても、これからよろしく頼む」
貴音「はい、よろしくお願いいたします」
───
アイドルプロデューサーとしては駆け出しの、少し頼りなさそうな青年。
別事務所の新人アイドルとして挑んだオーディションで、担当アイドルに付き添っていた彼を見かけた。
名も知らず、一面識もない青年。
だけど、わたくしは彼を知っている。
その瞬間、心の中の澱を洗い流すように想いがあふれ出して……
忘れていたことを……とても大切なことを、ひとつだけ思い出した。
嘘か真か、自分でも信じられないような馬鹿げた話。
誰に話しても、絵空事だと笑うだろう。
そんなことが、わたくしと彼にはあった。
確かめなければいけない。
この記憶が……想いが偽りでないなら、わたくしはそのためだけに生きてきたのだから。
だから、わたくしは765プロに来た。
───
─ 5月5日 伊織バースデーパーティ ─
やよい「伊織ちゃん、お誕生日おめでとー!」
一同「「おめでとー!」」
伊織「ど、どうも……ありが、と……」ボソッ
美希「なぁに? 聞こえないよ?」
亜美「あり……なに?」ニヤニヤ
伊織「だから、その……///」
美希「ん~?」
あみまみ「「んん~?」」ニヤニヤ
伊織「ありがとう、って言ってんのよ!///」
美希「あはっ♪ よく言えました」
あみまみ「「んっふっふ~♪」」
伊織「うるさい、バカ!///」
アハハハハ
貴音「このように祝ってもらえるとは、水瀬伊織はみなから愛されているのですね」
P「ああ。事務所の仲間で、あいつらからしたら友達でもあるからな」
貴音「友達……」
P「俺は、それがここのみんなの本質だと思ってるよ」
貴音「アイドルとして、それは本当に必要なものなのでしょうか?」
P「必要ないと思うのか?」
貴音「……わかりません。ですが、仲間であると同時に競い合う存在でもあるはずです」
P「そうだな」
千早みたいなことを言う。
ただ、千早はわかっていても理解できないと拒絶する。
貴音は、わからないからわからないと問うている。
同じように考えないほうがいいだろう。
貴音「わたくしは、トップアイドルにならなければなりません」
P「それはみんなそうだ。トップアイドルになりたいじゃない、なるために頑張ってる」
貴音「……」
P「お前たちを全員トップアイドルにするのが俺の仕事だ」
貴音「わたくしは……」
響「もー! 貴音もプロデューサーも、なんでそんな隅っこにいるんだ?」
貴音「響……」
P「ははは、内緒話だ」
響「いいから、こっち来て!」
響が、俺と貴音の腕を引っ張ろうとする。
が、悲しいかな(体格的に)大人二人と子供一人の無謀な力比べだ。
響「うぐぐ……!」
P「わかったわかった。引っ張らなくても行くって」
響「貴音も!」
貴音「わたくしも?」
響「もっとみんなと仲良くしなきゃダメ!」
貴音「はあ、仲良く……ですか」
P「そうだな。いい機会だから、みんなと話してみろ」
貴音「……わかりました」
響「うん! そのほうが楽しいもんね」
貴音「……」
───
人間が人間らしくあるための感情の多くが、わたくしには理解できない。
いや……違う。
初めから、人の心なんて持っていないのかもしれない。
それを悲しいと思うことすら、わたくしには無いのだから。
我那覇響……。
素直で朗らかな、心優しい少女。
その名の通り、彼女の言う「楽しい」や「悲しい」には、言霊のような響きがある。
それは、紛い物のようなわたくしの心に突き刺さるけれど……
でも、少しも不快とは感じさせない。
不思議な少女だ……。
───
─ 6月中旬 野外ロケ・都内公園 ─
P「ほら、ここは足元が滑るから気を付けろよ」
貴音「はい、ありがとうございます」
梅雨の真っただ中だけあって、そこかしこにぬかるみができている。
なんとなく自然に、俺は貴音の手を取っていた。
貴音「……」
P「どうした?」
貴音「プロデューサーは……変態なのですか?」
P「ぶっ!」
貴音「?」
P「どうしてそうなるんだ!?」
貴音「響が……プロデューサーは女性なら誰にでもいい顔をするから、変態に違いない、と」
P「あいつは……」
貴音「どうなのですか?」
P「断じて違う!」
言い掛かりも甚だしい。
女性ばかりの職場で、俺が日々どれほど気を使ってると思ってるんだ。
真っ当な成人男子にとっては、ゴリゴリ神経を削られる環境だっていうのに。
P「まさか……他のみんなにも吹聴してないだろうな」
貴音「双海亜美と真美には話していたようですが」
P「勘弁してくれ……」
貴音「?」
亜美真美から、どこまで話が広まっているか考えると頭が痛いが……。
こういう場合、躍起になって誤解を解こうとするとかえってこじれる。
おとなしく鎮静化するのを待とう。
P「今日は、いい撮影日和だな。晴れてよかった」
貴音「ええ、五月晴ですね」
P「ん? 五月晴って、5月頃みたいな快晴のことじゃないのか?」
貴音「本来は違います。皐月とは旧暦では梅雨の頃ですから」
P「ああ、なるほど。本来は梅雨の晴れ間ってことか」
貴音「そうです」
P「そんなこと、よく知ってるな」
貴音「昔は……そうでしたから」
P「……?」
言っていることはその通りだが、言い回しに違和感がある。
まるで、自分の経験上の話をしているような……
貴音「むっ」
P「ん?」
不意に貴音が立ち止った。
ささいな疑問も、それで立ち消えになる。
P「どうした?」
貴音「プロデューサー、またぬかるみです」
P「え? ああ、そうだな」
貴音「……」
貴音はなにかを待っている。
幸いにして、この場はそれがなにかわかった。
P「どうぞ、お手を」
貴音「はい、ありがとうございます。ふふっ」
今まで見たどれよりも嬉しそうに、貴音は笑った。
─ 7月上旬 社用車・送迎中 ─
響「春香はひとりっ子なんだ」
春香「うん。響ちゃんはお兄さんがいるんだっけ?」
響「お兄さんなんていいものじゃないけどね、あれは」
春香「あはは……あれって」
響「貴音は?」
貴音「わたくしですか? 妹がいますよ」
春香「え、そうなんですか?」
響「へ~、自分も知らなかった」
春香「貴音さんの妹さんなら、ものすごい美少女では……」
貴音「ふふふ、どうでしょうね」
響「プロデューサーは?」
P「俺は10人兄弟の8番目」
響「ええ!? そんな大家族なの?」
春香「……」
貴音「……」
P「8番目といっても、下三人は三つ子だから末っ子みたいなもんだな」
響「プロデューサー、三つ子だったんだ!?」
春香「……」
貴音「……」
P「ああ……だからなんでも三人で分けろと言われて、俺たちだけいつも三分の一でな」
響「う、うん」
P「ご飯なんて他の兄弟との奪い合いだったから、体力で勝てない俺らは、いつも泣かされてたよ……」
響「そ、そっかぁ……大変だったんだね」
春香「ぷっ……くくくっ……」
P「まあ、嘘なんだけどな」
響「嘘なの!?」
P「俺、ひとりっ子だし」
響「なんで、そんな嘘つくんだ!」
P「いや、まさか騙されるとは思わなかったから」
響「うぐっ……!」
春香「あはははは」
貴音「ふふふ」
響「二人は嘘だってわかってたの?」
春香「え、うん」
貴音「もちろんです」
響「なんで教えてくれないんだー!」
春香「ごめんごめん。ちょっと面白かったから」
貴音「あまりに簡単に騙されていたので、いわゆる……そう『のりつっこみ』というものなのかと」
響「うぅ……この事務所はイジワルばっかりだ……」
春香「10人は多すぎるけど、子供はいっぱいいたほうが楽しそうですよね」
P「おいおい春香。電撃なんとかは勘弁してくれよ」
春香「え? ち、違いますよ! 将来の話ですって!」
響「自分は……まだそういうのは考えられないなぁ」
P「ははは。まだまだまだまだ先の話だろ」
響「その言い方は、なんか引っかかるぞ……」
春香「プロデューサーさんは、そろそろ真剣に考えたほうがいいんじゃないですか?」
P「おお? 今日の春香さんはずいぶん辛口だね」
春香「えへへ」
貴音「……」
響「貴音は、子供とかどうなの?」
貴音「子供ですか? 一人いますよ」
響「へ~」
春香「……」
P「……」
三人「「えええ!?」」
貴音「どうしました?」
響「う、嘘だ! 絶対嘘だ! 騙されないぞ!」
貴音「おや、騙されませんでしたか」
響「う~……」
春香「一瞬、本気で信じそうになっちゃった……」
P「シャレにならないっての……」
貴音「ふふっ、わたくし嘘つきですから」
───
そう、もちろん嘘。
四条貴音には、子はいない。
四条貴音という名の人間には。
少しずつ思い出してきた。
四条貴音となる前のわたくしが、何者だったのか。
わたくしは、嘘を重ねて生きてきた。
今までも、これからも……ずっとそうなのだろう。
名前も、姿かたちも、思い出さえも偽り続けるしかない。
どれほど愚かしくとも……それが、わたくしの業。
人の化けの皮を被って、美しく着飾っているだけの……
醜い獣のようだ……。
───
─ 8月上旬 765プロ・ミステリー・リポート ─
今日の現場は、都内某所の廃病院。
いわゆる心霊スポットへの潜入。
非常時におけるタレントの反応を楽しむ、昔からある定番企画だ。
春香「おおぅ、これはまた……」
真「いかにもなにか出そうだね……」
響「で、出るって……なにが?」
貴音「……」
廃墟とはいえ、当然ながら事前の安全確認は万全になされている。
そういう約束事を、視聴者に見透かれることなく楽しんでもらうのが、番組スタッフやタレントたちプロの仕事だ。
伊織「バカバカしい。そんなのいるわけ……」
美希「でぇ~こぉ~ちゃ~~~ん」
伊織「ひゃぁぁぁ!?」
一同「「!?」」
今までどこに潜んでいたのか、伊織の背後から突然美希が抱き付いた。
伊織と美希の同学年コンビは、見ているだけでも飽きない。
欲を言えば、そういう面白いことは本番でやってほしいものだが。
美希「おどろいた?」
伊織「美希……アンタ、なにしてくれてるのよ!」
真「なんだ、伊織もやっぱり怖いんじゃないか」
伊織「誰でも驚くでしょ、今のは!」
春香「あはは……まあまあ」
響「じ、自分は別に怖くないけどね!」
貴音「あの……プロデューサー」
P「なんだ?」
貴音「わたくし、ここはちょっと……」
P「ん? なにか見えるのか?」
貴音「いえ……」
響「や、やめてよ……そういうの」
貴音「……」
P「……無理そうか?」
貴音「はい……」
P「頭数は揃ってるから……まあ、大丈夫かな」
貴音「ありがとうございます」
響「じ、自分もできれば遠慮したいかな~……なんて。別に怖くはないけど」
美希「あはっ♪ 逃がさないよ?」ガシッ
伊織「ほら、さっさといくわよ」ガシッ
響「うぎゃー! なんで自分だけー!」
真「じゃ、ボクらもいこうか」
春香「そだね」
P「おう、しっかりな」
はるまこ「「は~い」」
オージョーギワガワルイノ
アンマーー! ニィニーーー!
貴音「……」
P「こういうの苦手だったか?」
貴音「そうですね。好きではありません」
P「へえ、そりゃ意外だ」
貴音「意外ですか?」
P「貴音は、ちょっと浮世離れしてるからなぁ」
貴音「それは失礼というものです。勝手に面妖な印象を持たないでください」
P「ごめんなさい」
貴音「……」
P「……」
貴音「ふふっ、もう」
P「ははは」
貴音「わたくしから言わせると、プロデューサーのほうがよほど変わり者です」
P「それは心外だ」
貴音「お互い様です。ふふふ」
たまに見せてくれる、ふわっとした柔らかい笑み。
俺も、プロデューサー以前に健全な成人男子だから、思わず見とれてしまうのも仕方のないことだと思う。
この子は、本当に綺麗だな……。
───
──
─
─ 12月31日 ロケバス・移動中 ─
P「……ん」
バスの揺れに気を取られ、回想が途切れる。
事務所までは、まだしばらく時間がかかりそうだ。
貴音に対する意識の変化を自覚するようになったのは、たぶんあのあたりからだと思う。
もちろん、今のところ言葉にも態度にも出してはいない……はずだ。
いや、特定のアイドルを特別視すること自体、プロデューサーとしてほめられたことではないが。
P「ふぅ……」
貴音「……」
やはり、仕事に追われているのが気楽でいい。
余計なことを考えなくて済む。
仕事上の悩みを仕事でごまかすっていうのも、我ながらどうかと思うが。
響「ん~~~……!」
俺のすぐ前に座る響が、大きく伸びをした。
響「今日はさすがに疲れた……」
真「朝からずっと動いてたからね~」
あずさ「大丈夫? 事務所に着いたら起こすから、少し休んだら?」
響「う~ん……」
P「休めるときに休んでおけよ」
響「プロデューサーは人のこと言えないでしょ」
真「あはは、たしかに」
P「……」
貴音「響、ちょっといいですか」
響「なに?」
貴音「いえ、そのまま動かず」
席を立った貴音が、響の頭上辺りに手をかざした。
響「?」
貴音「ふむ……はい……はい、なるほど……」
そのまま、しきりにうなずいたり相槌を打ったりしている。
見えざる何者かと会話するかのように。
響「な……なんなの?」
貴音「体調を崩しかけているから、自愛するように……と言っています」
響「だ、誰が!?」
貴音「それは……ああ、もう見えませんね」
響「だから、なにが!?」
貴音「……」
響「急に黙るなー!」
P「おいおい、そういうのは苦手じゃなかったか」
貴音「ええ。ですから、今のはただの冗談です」
響「は? 冗談?」
貴音「はい。まさか、そこまで本気にするとは」
響「……」
P「……」
真「貴音が言うと、冗談に聞こえないんだよね……」
響「うわぁぁぁん! 貴音のいじめっこ~~~!」
あずさ「あらあら、よしよし」ナデナデ
響「うぅ……自分に優しいのはあずささんだけさ~……」
あずさ「貴音ちゃん、そういうのはほどほどにね?」
貴音「はい、ごめんなさい」
P「ははは。まあ、悪いことは言ってないしな」
貴音「そう思うなら、プロデューサーこそご自愛してください」
P「お、俺のことは……」
貴音「休ませろ休ませろと、そばにいるわたくしがうるさく言われるのですよ?」
P「言われるって、誰に……」
貴音「……そちらに」
貴音の視線を追っても、もちろんそこには誰も見えない。
……じゃなくて、誰もいない。
いない、はずだ。
P「いや……冗談だよな?」
貴音「さあ、どうでしょうね? ふふっ」
───
わたくしは怪異の類が苦手だ。
一般にいう、見えざる者への恐怖とは違う。
存在を感じたり、あるいは見えることもあるわたくしにとって、それらは特別なものではない。
知っていたのだ。
わたくしがそれらを見るとき、それらもまた、わたくしを見ていることを。
人の化けの皮に隠した本性を、だから暴かれてしまうのではないかと。
それらもまた、闇に潜み、身を隠そうとする。
でも、闇の中には無いなにかを渇望する。
わたくしも、そうだ。
物陰からわたくしを伺うそれは、鏡映しになった自分の姿なのかもしれない。
そんなもの、見たくない……見られたくない。
───
貴音「あなた様」
P「なんだ?」
貴音「わたくし、この一年のことを振り返っていました」
P「奇遇だな、俺もだ」
貴音「なら、同じことを思い出していたのかもしれませんね」
P「そうかもな」
貴音「ふふっ、あのときのあなた様は……」
P「どのときだ? 笑われる憶えなんかないぞ」
貴音「当ててみてください」
P「ん~……」
───
──
─
─ 8月下旬・夕方 屋上 ─
貴音「おや? プロデューサーですか」
P「お、先客がいたか」
貴音「はい、先にお邪魔しています」
息抜きのために屋上に上がると、そこには貴音がいた。
せっかくだから話し相手にでもなってもらおう。
貴音「お疲れのようですね」
P「まあね。最近は忙しくなってきたし」
貴音「ご無理はいけませんよ?」
P「うん、だからさぼりにきたんだよ」
俺は、まわりから仕事中毒だとでも思われているんだろうか。
律子でさえ、最近は休め休めと言ってくる。
回遊魚じゃないんだから、休めるものなら俺だって休みたい。
P「夕陽に向かって叫びたい気分だ……」
貴音「そうですか。では、遠慮なくどうぞ」
P「三日でいいから夏休みをくれぇーーー!」
貴音「!?」
P「ああ、すっきりした」
貴音「……」
P「ん?」
貴音「ぷっ……ふふふ」
P「?」
貴音「まさか、本当にやるとは思いませんでした」
P「自分でもやるとは思わなかったよ」
貴音「あれほど大声を出しておいて、なにを言ってるんですか」
P「なかなか気持ちいいぞ。貴音もやってみるか?」
貴音「わたくしは遠慮します」
P「そりゃ残念」
貴音「ふふふ」
律子にでも見られたら本気で病院に連れていかれそうだから、もう二度とやらないけど。
貴音は……まあ、割と俺のことをわかってくれている気がする。
P「貴音が最初に言ってた……」
貴音「はい?」
P「俺を確かめるっての……少しはなにかわかったか?」
貴音「ええ、変わり者だということは」
P「なんだ、わかってないじゃないか」
貴音「これ以上、簡潔かつ的確に表現する言葉はないと思いますが」
P「変わり者はお互い様だ」
貴音「それは心外です。ふふっ」
───
わかったことはある。
それは、まだ言葉にできないけれど……いつか伝えよう。
今はまだ、時間が欲しい。
少しずつ、ひとつずつ、失った記憶を取り戻すほどに……
想いは強くなる。
思い出の中のあなたと、今ここにいるあなたを、もっと知りたい。
───
─ 9月上旬・夜 ラーメン屋 ─
貴音「ごちそうさまでした」
P「……」
貴音「新たならぁめんとの出会いに感謝します」
貴音は、いつになく幸せそうだ。
ここは隠れた名店として知る人ぞ知る店だから、確かに美味い。
せがまれて、連れてきたのはいいんだが……。
積み上がった丼を数えるのは……やめよう。
P「なあ」
貴音「はい?」
P「その体のどこに、そんなに入るんだ?」
貴音「プロデューサー……それはせくはらというものです」
P「いやいや、これは純然たる疑問だ」
貴音「他人を詮索することに、純粋も不純もありませんよ」
P「……」
胃の中になにか飼ってるとか、四次元ポケットに繋がってるとか言われても、それはそれで困るが。
なにしろ、貴音ならありえないこともない。
いずれにしても、ラーメン屋ではありえない金額が懐から消えたのは事実だ。
なあ、諭吉。
貴音「ぜひ、またご一緒させてください」
P「考えておきます……」
貴音「ふふっ」
喜んでいるようだから、まあ良しとしよう。
アイドルの笑顔には、やはり人を幸せにする力がある。
店を出て、事務所への帰路につく。
今日は直帰でも問題ないが、まあ習慣みたいなものだ。
貴音「まだ時間はありますか?」
P「そうだな。急ぐ用事はないし」
貴音「少し、歩きませんか?」
P「ああ、そうしようか。月が綺麗だしな」
貴音「……」
P「どうした?」
貴音「いえ……本当にそうですね」
言ってから気が付いた。
「I love you」の和訳がどうこうというのは知っている。
貴音がどのように受け取ったかはわからないが、俺はそんなつもりで言ったわけじゃない。
聞かれてもいないのに、誰に言い訳してるんだ、俺は?
我ながら、素直じゃない。
貴音「わたくしは……月が好きです」
P「?」
貴音「暗闇に道を照らす灯火となる……」
P「……」
貴音「それは……とても素晴らしいことだと思います」
P「そうだな」
貴音「……」
P「俺も……好きだよ、そういうの」
貴音「え……」
P「ん?」
貴音「……///」
暗いから見間違いかもしれないが……
赤面しているらしき貴音が、とても可愛い。
やっぱり、俺は……。
貴音「プロデューサー……」
P「なんだ?」
貴音「あなた様……」
P「……」
貴音「そうお呼びしてもよろしいでしょうか?」
なんだ……?
今、一瞬なにかが……。
情景か、言葉か……。
たぶん、記憶の引き出しのどこにも見当たらない……
でも、とても懐かしい……なにか。
貴音「どうしました?」
P「いや……なんでもない」
貴音「……」
P「人前じゃなければ、まあいいかな」
貴音「では、そのように」
P「うん」
貴音「二人だけの秘め事ですね」
P「そういう言い方はやめなさい」
貴音「ふふっ、冗談です。ちゃんと弁えています」
P「ああ、そうしてくれ」
貴音「はい、あなた様」
───
月は好きだ。
月には綺麗な思い出しかないから。
わたくしは、いつもこうして月を見ていた。
ひとりのときも、ひとりでは寂しいときも、いつも。
夜空に月を仰ぐとき、人はどんな想いを託すのだろう。
それは、きっと「I love you」だけではない。
人の数ほども、想いはあるのだから。
わたくしも、月に想いを託して「あなた様」と呼びかけよう。
いつでも、いつまでも、あなた様の隣にいられるように。
月よ、届けて。
───
─ 10月下旬 TV番組収録・舞台袖 ─
千早「なぜ、私がこんな……」
雪歩「え? ネコミミ似合ってるよ、千早ちゃん」
千早「そ、そんなこと……」
貴音「そうですよ。可愛らしいのですから、恥ずかしがることはありません」
千早「うぅ……///」
雪歩「四条さんは……なんていうか全然違和感ないですね、キツネミミ」
貴音「そうですか? ふふっ」
千早「萩原さんこそ……よく似合ってるわ」
雪歩「そ、そうかな? えへへ♪」
貴音「ふむ……それはイヌミミですか?」
雪歩「い、犬!? 違います!」
貴音「……」
千早「……」
雪歩「タヌキですタヌキ! ほ、ほら! しっぽも!」
貴音「ふふっ」
千早「四条さん、そのぐらいで……」
雪歩「え?」
貴音「冗談です。ごめんなさい」
雪歩「うぅ……ひどいですぅ」
P「おっ、なかなか壮観だな」
千早「プロデューサー……」
P「そんな目で見てもダメだぞ、千早」
千早「くっ」
貴音「可愛らしく仕上がっているでしょう?」
雪歩「千早ちゃんは、ちょっと羨ましいぐらいですよねぇ」
千早「ふ、二人とも……」
P「そうだなぁ……うん、うちにも千早ネコが一人欲しくなるな」
千早「なっ……」
貴音「いけませんよ。わたくしが連れて帰るのですから」
千早「し、四条さん……」
雪歩「ずるいですよぉ。私もうちに欲しいですぅ」
千早「萩原さんまで……」
P「ははは、しばらくネコミミのままでいいんじゃないか?」
千早「知りません!///」
AD「765プロさん、本番お願いしま~す!」
P「よし。それじゃ頼むぞ、みんな」
三人「「はい!」」
雪歩「ほら、千早ちゃん」
千早「これは仕事、これは仕事……」ブツブツ…
貴音「あなた様……」
P「ん?」
すれ違いざま、俺だけに聞こえるように貴音が囁きかけてきた。
女性としては長身だが、身を寄せると少し上目遣いになる。
貴音「千早だけ……ですか?」
悪戯っぽい、でも少しだけ拗ねたような貴音の声。
こういうのは卑怯だ。
貴音「……」
P「もちろん、貴音も似合ってるよ」
貴音「わたくし、も?」
P「うっ……」
貴音「……」ジー
P「あ~……似合ってる。可愛いよ」
貴音「ふふっ、ありがとうございます///」
少しはにかんで、嬉しそうに笑う。
ああ、ほんとに可愛いな。
雪歩「四条さん?」
貴音「はい、今いきます」
P「……」
貴音「あなた様、いってきます」
P「ああ」
歌の収録に関しては、特に心配していない。
貴音はもちろん、雪歩も千早も。
貴音の安定感はうちの事務所でも随一だし、雪歩の最近の舞台度胸の良さは目を見張るほどだ。
千早も……耳としっぽが揺れているが、気にする様子もなく歌に集中できている。
欲を言えば、もうちょっと楽しそうに歌ってほしいところだが。
続けて2曲を歌い上げ、三人が揃って正面カメラに頭を下げた。
次はトークの収録だ。
MC「ありがとうございました~」
雪歩「はい、ありがとうございます!」
自ら率先して、雪歩がMCに対応している。
トークで前面に出るタイプではない貴音と千早に配慮してのことだろう。
うちで一番成長したのは、雪歩かもしれない。
さっき雪歩だけ褒めなかったな。
収録が終わったら、ちゃんと誉めてやろう。
MC「貴音ちゃんは違和感ないね~」
貴音「雪歩にも言われました」
雪歩「あはは」
千早「……」
MC「千早ちゃんは……」
千早「にゃっ!?」
MC「えっ」
千早「えっ」
貴音「……」
雪歩「……」
アハハハハ
千早「ぁ……ぅ……///」
これは……この路線で千早へのオファーが殺到するな。
プロモーション的には出し惜しみしたいところだけど。
雪歩「千早ちゃん、今のすごくいい!」
千早「春香みたいなこと言わないで……///」
貴音「先ほどの……ぜひ、もう一度お願いします」
千早「四条さんまでいじめないでください……///」
貴音「ふふふ」
後日、動画サイトにUPされたこの日の映像が、爆発的な再生数を記録したのは言うまでもない。
その事実を知って悶絶する千早を収めた秘蔵映像(撮影・音無小鳥)は……
ファンクラブ特典にでもしたいところだけど、今のところ千早の許可は得られていない。
─ 11月下旬 765プロ事務所 ─
小鳥「わ! 外見てください! 虹が出てますよ」
P「え?」
今後の活動方針を話し合っていた俺と貴音は、音無さんの声で外を見た。
うっすらとだが、大きな虹が窓から見える。
P「おお、本当だ。さっき天気雨が降ってたからでしょうかね」
貴音「……」
小鳥「天気雨……狐の嫁入りでしたっけ?」
P「ああ、そんなふうにいうらしいですね。狐が虹にでも化けたのかな」
貴音「狐の嫁入り……」
P「どうした?」
貴音「……」
P「貴音?」
貴音「なんでもありません。打ち合わせを続けましょう」
P「ん? ああ、そうだな」
小鳥「嫁入り……」
P「?」
小鳥「狐でも結婚できるんですね……ふふふ」
P「……」
音無さんが、なにか遠い目をしている。
ここは聞こえなかったことにして受け流すのが、大人の配慮というものだろう。
───
狐は虹には化けない。
そんな美しいものには化けられない。
狐の嫁入り。
幼いころ、じいやから聞いたことがある。
いや、わたくしがじいやに話したのだったか……?
そんな曖昧な記憶なのに、話の内容はよく憶えている。
狐と天気雨にまつわる、とても悲しい物語。
悲しけれど、現実にあったとも思えない絵空事のようなお話。
あのときなにを感じたのか、それは憶えていない。
ただ……わたくしは泣いた。
自分が何者であるのか……
あのころのわたくしは、もしかしたら知っていたのか。
だとしたら、なぜ今まで忘れていたのだろう。
忘れていることのすべてを、思い出さなければいけない……と感じる。
急がなければ、と。
急ぐ理由なんて、なにもないはずなのに……。
───
─ 12月上旬 765プロ事務所 ─
TV局での打ち合わせを終えて事務所に戻ると、貴音が俺の机を占拠していた。
どこからかき集めてきたのか、大小も厚さも様々な書籍が雑多に積み上げられている。
P「なにしてるんだ?」
貴音「見てわかりませんか?」
P「調べ物?」
貴音「わかっているではないですか」
書籍の多くは、民話だの地誌だのをまとめたもののようだが……。
年頃の娘さんが興味を持つようなものには見えない。
P「で、なんで俺の机を使ってるんだ?」
貴音「調べ物をするのに捗るからです」
P「……」
そういうことを言っているんじゃないんだが。
律子「今日はもう、ずっとプロデューサーの机に張り付いてますよ」
P「ふ~ん……」
鞄だけでも置こうと腰をかがめた拍子に、貴音の手元を覗き込む形になる。
今、彼女が熱心に見入っているのは、やけに古そうな縦書きの台帳だ。
草書体で、八割がた俺には解読できないが、これまた古い人名のようなものが見て取れる。
P「なんだ、それ?」
貴音「人別帳の写しです」
P「人別帳……って、昔の戸籍みたいなやつ?」
貴音「そうですね」
P「自分のルーツでも調べてるのか?」
貴音「そうです」
P「……」
あっさり認められると、話が続かない。
確かに、自分の祖先を調べる手段のひとつではあるが……。
貴音の実家のことはよく知らないけど、相当な名家ではあるらしい。
家系図や家伝ぐらいは残ってるんじゃないだろうか。
P「そんなことより、俺が仕事できないんだけど」
貴音「そんなこととはなんですか。わたくしの調べ物より、仕事のほうが大切だとでも?」
P「いや、どっちが大切とかって話じゃなくてな」
律子「ふふっ」
P「笑ってないで助けてくれ」
律子「今日はもう急ぐ仕事もないし、少し休めばいいじゃないですか」
P「そうは言っても……」
貴音「律子嬢の言う通りです」
P「……」
どうあっても、机を明け渡すつもりは無いようだ。
アイドル活動に支障がなければ、なにに興味を持とうが口出しするつもりはないが……。
俺の仕事に支障が出るのは困る。
貴音と律子で共謀して、無理やり休ませようとでもしてるんじゃないか。
律子「コーヒーでも淹れますよ」
P「ああ、ありがとう」
大晦日には生放送の特番が決まっているし、年明けには早速アリーナライブもある。
これからまた忙しくなるから、休めるときに休んでおくとしよう。
今年は、両手でも余るほど充分な手ごたえをつかんだ。
来年がどうなるのか、今から楽しみだ。
───
──
─
─ ロケバス たるき亭ビル前 ─
切りのいいところまで思い出したところで、バスが止まった。
今年最後の目的地に到着したようだ。
P「着いたか」
貴音「そのようですね」
P「みんな、忘れ物はするなよ」
一同「「は~い!」」
─ 765プロ事務所・年越し鍋パーティ ─
あみまみ「「とうっちゃ~く!」」
P「ただいま戻りました~」
高木「おお、ご苦労様。待っていたよ」
小鳥「おかえりなさ~い」
事務所に戻った俺たちを、社長と音無さんが出迎えてくれた。
今日はこれから、ロケの打ち上げと忘年会を兼ねた鍋パーティだ。
アイドルたちの発案で、そのまま事務所に泊まり年越しすることになっている。
いうまでもなく、保護者諸兄の承諾はいただいてある。
あの律子も、今日ぐらいはみんなに楽しんでもらいたいからと、多少のことは見逃すそうだ。
一部の面々に限っては、多少で済めばいいが。
P「じゃあ、料理班はやよい班長の指示で動いてくれ」
料理班「「はい!」」
P「やよい、頼むぞ」
やよい「はい、任せてください!」
P「他のみんなは場所の準備だ。手分けして速やかに済ませるぞ」
一同「「はい!」」
P「あと美希、寝るんじゃない」
美希「むぅ~……」
P「よし、作業開始!」
一同「「おー!」」
あらかじめ準備できるものはしてあったので、それから1時間もかからず鍋パーティが開始された。
用意された鍋は三種類。
オーソドックスな水炊きと、響監修の沖縄風、あずささんと音無さんの豆乳鍋だ。
この面々の料理スキルは疑う余地がないので、どれも鍋専門店で勝負できそうなほど美味い。
普段は食の細い千早も、豆乳鍋には積極的に箸を伸ばしている。
千早「なにか事情があって、そうしているとでも言いたいんですか?」
P「それは誤解だ。せっかくだから、しっかり食べてほしいだけだよ」
千早「……」
春香「ほら千早ちゃん。これも美味しいよ」
千早「え、ええ……」
春香のおかげで助かった、なんて別に思っていない。
悲しいかな、ネコミミ以来、千早は俺を疑っているようだ。
今後は、より一層信頼の回復に努めよう。
小鳥「プロデューサーさ~ん? 飲んでますか~?」
あずさ「お酒が進んでないみたいですよ?」
厄介な人たちがきた。
事務所は未成年者がほとんどだから、どうしても社長か俺がターゲットにされる。
なんとかして、この場を切り抜けなければ……。
P「ははは、まだ夜はコレカラジャナイデスカー」
あずさ「あら~? 棒読みですよ?」
小鳥「そんなこと言って、逃げようとしてませんかぁ?」
P「滅相もない。ほら律子、二人にお酌して」
律子「ちょっ……!?」
あずさ「あらあら~? 律子さん、グラスはどうしたんですか~?」
律子「い、いや……」
小鳥「成人したら、大人の付き合いも大切なんですよ?」
律子「わ、私はお酒は……」
P「いい機会だから、お姉さんたちに酒の飲み方を教えてもらうといい」
律子「この……!」
案の定、お姉さんたちの興味は、成人デビューから半年の新人に移ったようだ。
あずさ「ほら、律子さん!」
小鳥「ほらほら!」
P「……」
律子「くっ……おぼえてなさいよ……!」
無礼講の席の話を憶えているなんて、そんな無粋なことはできない。
すぐに忘れて、この場を離れよう。
P「貴音、こんなところにいたのか」
貴音「あなた様……」
談笑の輪から外れるようにして、貴音は会場の隅にいた。
最近は割と積極的にみんなの輪の中に入っていたはずだが、今日は様子が異なるようだ。
P「どうした? 体調でも悪いのか?」
貴音「いいえ。そのように見えますか?」
P「あ、いや……」
貴音にしては珍しく、あまり箸が進んでいない。
ていうか、ほとんど料理に手を付けていないように見える。
貴音「今、なにか失礼なことを考えませんでしたか?」
P「いいや、まったく」
貴音「……」
P「……」
貴音「嘘つきは、めっ!ですよ」
P「ごめんなさい」
貴音「よろしい。ふふっ」
貴音が悪戯っぽく笑う。
様子を伺う限り、心配するようなことはなさそうだ。
P「もうすぐ貴音の誕生日だな」
貴音「はい。21日です」
P「今度19になって、次が20歳か」
貴音「……ええ」
P「20歳になったら、一緒に酒でも飲もう」
貴音「お酒を?」
P「ああ、まだだいぶ先の話だけどな」
貴音「そうですね……約束です」
P「おう、約束だ」
貴音「今から……とても楽しみです」
P「うん……」
───
嬉しかった。
二人で未来を誓う、ということが。
それが、ほんの些細な約束だとしても。
でも……果たされる約束なのだろうか。
わたくしに、未来がある?
わからない。
わたくしは、また……嘘をついてしまうのかもしれない。
そんなの……めっ、だ。
───
そして夜も更け……
一年を締めくくる鍋パーティはお開きとなった。
楽しく食べて歌って一部が飲んで、みんなも良いリフレッシュになっただろう。
日付と年が変わるころには、ひとりふたりと布団の中に入りだした。
みんなの就寝スペースは、会議室などにレンタルした畳と布団で確保してある。
まさに合宿さながらの様相だ。
P「さて、俺もそろそろ寝るか」
さすがに、こんな日にまで残業しようなどとは思わない。
これだけ確実に休める日は、他にないんだから。
俺の場合は、ソファーでも床でも、どこでも寝ることはできる。
なるべく邪魔にならない場所に……
あずさ「あら? プロデューサーさん?」
小鳥「こそこそと、隅っこのほうでなにしてるんですかぁ?」
P「うっ……」
こっちの残業を忘れていた。
逃げ場も、スケープゴートも……無い。
あずさ「夜はまだまだこれからですよね?」
小鳥「今度は逃がしませんよ?」
P「……」
二人「「うふふ♪」」
P「あはは……お手柔らかにお願いします……」
夜はまだ長そうだ……。
─ 1月1日 屋上 初日の出 ─
亜美「うっわ、寒っ!」
響「こここのぐらい、どどってことないさぁぁー」
真美「ひびきん、声が震えてるよ」
P「貴音は平気なのか?」
貴音「風がありませんからね。一年の始まりにふさわしい、良い朝です」
P「そうだな」
1月1日、早暁。
この時点で起きている顔ぶれで連れ立って、屋上で初日の出を見ようということになった。
亜美と真美は律子が夜更かしを許さなかったので、普通に寝て早起きしたらしい。
響も、疲れからか日付が変わる前に就寝して、起きたのも一番早かったそうだ。
貴音は、いつごろ寝て、いつごろ起きたのか誰も見ていない。
俺は、誰かさんたちのおかげでだいぶ遅くなってから寝たが、言うまでもなく双子の悪魔に叩き起こされた。
亜美「お? なんか見えてきた?」
真美「見えてきた!」
響「おおー!」
貴音「見事な御来光ですね……」
亜美「ごらいこー?」
P「日の出のことだ。御来光っていうと、ありがたい気分になるだろ」
真美「なるほど!」
あみまみ「「ゴライコォー!」」
響「朝から元気だな~」
貴音「ふふふ」
亜美「ねえ、兄ちゃん。前から気になってたんだけど……」
P「ん?」
亜美「このちっこい家みたいなの、なに?」
真美「あ、真美も気になってた」
P「……まあ、家といえば家ではあるか」
あみまみ「「?」」
貴音「それは、稲荷様の祠です」
亜美「いなりさまのほこら?」
真美「いなりって、お寿司の?」
貴音「それは……どうなのでしょう」
響「ん~……関係なくもないと思うけど」
P「お稲荷様ってのは神様だよ」
真美「神様?」
P「屋敷神っていってな、こういう祠に祀られてるのは、その家や建物、土地の守り神みたいなもんだ」
亜美「じゃあ、このビルの神様?」
P「そうだな」
あみまみ「「おお!」」
都会のビルでは割とよくある、屋上に祀られた祠。
古くからその土地や、元あった家屋に由来するものもあるとか。
これがどうかはわからないが、しっかりとした木造の、年期を感じさせるものではある。
P「ここは寒いし、そろそろ中に戻ろうか」
あみまみ「「は~い」」
─ 765プロ事務所 ─
響「お稲荷様って、狐の神様みたいにもいわれてるけどな~」
亜美「狐の?」
真美「へ~」
貴音「……」
真美「あっ! 狐っていったらさ!」
P「ん?」
真美「兄ちゃん、狐の嫁入りって知ってる?」
P「天気雨のことか?」
真美「あれ? 知ってんの?」
亜美「そこは知らないふりして話を広げようよ~」
P「ああ、そりゃ悪かった」
響「天気雨で狐って言われても、なんかピンとこないな~」
貴音「……」
P「って、貴音? どうかしたか?」
貴音「な、なにか?」
P「なにかっていうか……」
響「またボーっとしてる」
貴音「そのようなことは……ありません」
響「……」
P「……」
貴音「そういえば……狐の嫁入りには、このような言い伝えがあると聞いたことがあります」
あみまみ「「おお、どんな?」」
響「自分も聞きたいぞ」
貴音「では……」
昔々の、ある村のこと
その村では久しく雨が降らず、田畑は干上がり、作物が一向に育たなかった
このままでは、みな飢え死にしてしまう
そこで、村人たちは一計を案じた
生贄を捧げ、雨乞いをしようと
生贄に選ばれたのは、村の近くに住み、村人を化かしては困らせていた女狐のあやかし
だが、そこは用心深い狐のこと、簡単には捕えられない
ならばと、村一番の美丈夫の若者が選ばれた
若者が結婚を持ち掛け、狐を村に嫁入りさせて捕える手はずだ
用心深い狐も、足繁く通う若者に、いつしか心を許すようになり……
若者もまた、美しい狐に想いを抱くようになった
逢瀬を重ね、互いに心を通わせるも、それが許されるはずもなく
若者は村人たちの目論見を明かし、狐に逃げよと告げた
それでもなお狐は、あなた様に嫁ぎますと答えた
若者を助けようとしてか、ひとときといえど添い遂げることを願ってか
それはわからない
若者の反対を押し切って狐は村に嫁入りし、そして……
生贄として捧げられた
雨乞いは実り、晴れ渡った空より、恵みの雨が降り注いだという
それは狐の流した涙か、若者の涙か……
しとしとと、とても冷たく悲しい雨だった
貴音「……と、いうことです」
静かに、貴音は話を閉じた。
なんともやるせない、悲しい話だ。
響「うぅ……狐、かわいそう……」
真美「ひどいよ、兄ちゃん!」
亜美「あんまりだよ、兄ちゃん!」
P「それは、俺じゃなくて村人に言ってくれ」
貴音「ほんとに……」
P「ん?」
貴音「いえ……」
P「?」
貴音「プロデューサーはご存知でしたか?」
P「いや、聞いたことないな」
貴音「そう、ですか……」
P「……?」
そうつぶやきながら、貴音は寂しげに目を伏せた。
知っていると答えれば知らないふりをしろと言われ、知らないと答えれば落胆される。
年頃の娘たちは、とかく難しい。
亜美真美と響が飲み物を取りに行き、俺と貴音が残る。
貴音「この話は、少し間違って伝わっています」
P「どのへんがだ?」
貴音「狐は死んでいません。そういうものではありませんから」
P「知ってるみたいな言い方だな」
貴音「そうです。知っています」
貴音は割とこういう冗談を言う。
それがわかっていても、もしかしてと思わせるから困るんだが。
P「だったら、狐と若者は結ばれてめでたしめでたしなのか?」
貴音「……」
P「おいおい、さらなる不幸に見舞われました、なんて話じゃないだろうな」
貴音「あなた様は……」
P「ん?」
貴音「狐の幸せを望まれますか?」
P「そりゃあ、ハッピーエンドのほうがいいに決まってる」
貴音「はっぴぃえんど……」
P「貴音だってそうだろ?」
貴音「は、はい……もちろんです」
少し機嫌が良くなったように見える。
表情を隠そうとする分、観察しているとわかりやすい。
貴音「わたくしも、そうなれればと……」
P「え? 貴音の話なのか?」
貴音「……」
あ、また機嫌が悪くなった。
貴音「あなた様になにかを期待したわたくしがバカでした」
P「いや、なんのことだか……」
貴音「あなた様が鈍いだけです」
P「えぇ?」
貴音「……」プイッ
P「……」
本当に難しい……。
雪歩「あれ、もう起きてたんですか?」
やよい「みなさん、早いですねー」
7時を過ぎて、他の面々も起き始めた。
正月でも寝過ごさないのは、日頃からの健全な生活習慣の表れだろう。
小鳥「うぅ……あと5分……」
律子「往生際が悪い」
約一名、律子に引きずられている人がいるが……。
真美「さっきね、初日の出を見てきたんだ」
春香「そうなの? もう、そういうことなら私たちも起こしてくださいよ~」
真「見れなかったと思うと、ちょっと損した気分だよね」
P「ああ、悪かった」
真美「そうだ! 兄ちゃんが悪い!」
亜美「お年玉を奮発してくれたら手を打ってあげる!」
P「俺はお前らに無理やり起こされたんだけどな。なあ?」
あみまみ「「のヮの」」
律子「もう朝だし、そろそろみんな集めますか?」
P「そうだな」
小鳥「じゃあ、おせちを用意しますね」
やよい「あ、手伝います!」
───
──
─
高木「え~……それでは諸君」
一同「「あけましておめでとうございます!」」
今日はここまで。
明日再開予定です。
では
日付変わる前に大事なことを書き忘れるところだった。
お姫ちん&原さん、誕生日おめでとう!
では再開します。
─ 1月3日 765プロ事務所 ─
芸能プロダクションには盆も正月もない。
さすがに、社長・音無さん・律子・俺で手分けして休暇を取ることになっているが。
「何事もなければ」という前提付きだから、予定通り休めるかは……まあ運次第だろう。
P「ははは……こういうのは前提が崩れるフラグだよな」
貴音「ふらぐ……とはなんですか?」
P「うおっ!? いたのか貴音?」
貴音「はい、ふらぐ……と言っていたあたりで」
P「いや、それは独り言だから気にするな」
貴音「はあ……ところで、あなた様」
P「なんだ?」
貴音「わたくし、どうしても行ってみたい場所があるのですが」
P「行ってみたい?」
貴音「はい」
P「日帰りで行ける場所か?」
貴音「いえ、詳しくは……」
P「住所は?」
貴音「これです」
小さなメモが差し出される。
え~と……大字? また、すごい場所だな。
P「ん? これ、だいぶ古い住所だぞ」
貴音「そうなのですか?」
P「今は……ああ、これでいいのかな」
今のご時世、旧住所がわかれば、新住所も簡単に検索できる。
ここ最近、なにか調べ物をしていたのは、これに関してだろうか。
貴音は基本アナログ人間だから、PCやスマホの類は最低限しか使いたがらない。
時間のある時に、基本操作ぐらいは教えておいたほうがいいかもしれないな。
P「日帰りで行けないこともないけど、移動手段が車ぐらいしかないな」
貴音「……」
P「行った気になるだけじゃダメか?」
貴音「はい?」
P「今は、グーグ○アースっていう便利なものがあってだな」
貴音「ぐぅぐ?」
P「まあ、見てな……ほら」
貴音「おお……!」
P「ダム……だな」
貴音「ダムですね」
P「観光名所ってわけでもなさそうだし、なんだってこんな所へ?」
貴音「それは……」
P「言ってくれなきゃわからない」
貴音「……」
P「貴音」
貴音「はい、そうですね」
P「で?」
貴音「先日話した、狐の嫁入りの話……憶えておいででしょうか?」
P「ああ、雨乞いして……ってやつか?」
貴音「はい。あの言い伝えに出てきた村……」
P「うん」
貴音「それが、この地なのです」
P「は?」
貴音「……」
P「言い伝えの舞台になった、といわれている……ってことか?」
貴音「……そうです」
P「ここに村があったのなら、今はダムの底ってことになるけどな」
貴音「そう……なのでしょうね」
P「旱魃で雨乞いした村が、時代が変われば水の中か。皮肉なもんだな」
貴音「……」
P「で、ここがその村跡だとして、なんの用事があるんだ?」
貴音「言わなければわかりませんか?」
P「わかるわけないだろ」
貴音「やはり……」
P「?」
貴音「いえ……言い伝えに残る地を、ただこの目で見てみたいだけです」
P「……」
貴音「……」
P「春まで待てないか?」
貴音「春まで?」
P「さっきも言ったが、近くに駅もないから、行けるとすれば車だけだ」
貴音「はい……」
P「今の時期は雪道だろうし、下手をすれば凍結で閉鎖されてる」
貴音「……」
P「雪解けの頃にでも、俺も一緒に行くよ。それじゃダメか?」
貴音「それは……それでは、間に合わない……」
P「間に合わない?」
貴音「……」
P「……」
貴音「いえ……わかりました」
わかりました、か。
不服なのはありありと見て取れる。
間に合わないということは、なにかしら急ぐ事情があるのかもしれない。
とはいえ、貴音は車も免許も所持していない。
タクシーも、こんな場所まで行くとは思えない。
事実上移動手段がないのだから、こればかりはどうにもならないだろう。
P「聞き分けてくれ。な?」
貴音「はい……」
これで終わった話だと思っていた……が。
時をおかず、その見通しの甘さを思い知らされることになった。
─ 2日後 765プロ事務所 ─
響「プロデューサー!」
血相を変えて、響が事務所に飛び込んできた。
割と珍しくない光景だ。
響「たたた貴音が!」
P「貴音が?」
響「貴音が失踪しちゃった!」
P「はあ?」
聞けば、一昨日の夜から音信不通らしい。
貴音は昨日今日とオフだ。
ふらりと小旅行にでも出ていたとしても、おかしくは……。
P「……」
旅行……?
いや……なぜ、今あれを思い出す?
P「まさかな……」
響「え?」
P「最近の貴音の様子で、気になったことはないか?」
響「そ、そんなこと言われても……」
P「なにかを気にしたり、言ったりとかは?」
響「そういえば……ダムがどうとか」
P「……!」
響「それがどうしたの?」
P「……」
確信した。
手段はわからないが、貴音は例のダムに向かっている。
一般道が通る程度とは言っても、真冬の山だ。
一昨日の夜からだとしたら……
いや、今は考えている場合じゃない。
P「急がないとな」
響「心当たりがあるの?」
P「ああ、たぶん」
響「自分も行く!」
P「バカいえ、ダメに決まってる」
響「貴音がいるんだったら、自分わかるよ」
P「わかるって……」
響「なんとなくだけど、貴音なら……わかる」
真っ直ぐに訴えかけてくる瞳。
正直言って信じがたいが……響は、こんな嘘をつく子だったか?
P「本当か?」
響「うん、信じて!」
俺は、我那覇響という人間を理解できる程度には知っている。
この子には、嘘はない。
P「わかった、頼む」
響「うん!」
P「ただし! なにがあっても、自分の安全を優先すること。いいな?」
響「う、うん。プロデューサーもだよ?」
P「ああ、わかってる」
わかっているけど、約束はできない。
とは、響には言わないでおこう。
急いでレンタカーを手配する。
雪道の登坂を想定して、四駆のRV車を用意してもらった。
律子と音無さんに簡単に事情を説明し、社長への言伝も頼んである。
アイドルのみんなには、貴音と響ともども急遽出張ということにしてあるが……
状況次第では、今後の対応も考えなければならない。
─ 現地 ─
高速を乗り継いで、2時間半。
午後になってしまったが、まだ日は高い。
目的の山を少し登ったところで、予想通り凍結のため道が閉鎖されていた。
簡単なバリケードがあるだけだから、車を使えば容易に撤去できる。
罰金ぐらいは覚悟しなきゃならないが。
事前に、最寄り駅(といっても車で30分以上かかるが)付近のタクシー会社に問い合わせたところ、
すぐに貴音の足跡はつかめた。
昨日の昼頃、車で行ける場所まで送り届けた運転手がいたそうだ。
特徴的で目を引く容姿が幸いした。
間違いなく、貴音はこの先にいる。
響「あ、歩いて登るの?」
運転技術に自信はないが……
ろくな装備もなく雪の冬山に乗り込むなんて、それこそ自殺行為だ。
P「いや、バリケードを少し動かす。手伝ってくれ」
響「わかった!」
車一台通れるだけ開放して、再び先に進む。
踏みしめる者の無い新雪は、気を抜いたら容赦なく足をすくってくる。
気は急いても、運転は慎重にならざるを得ない。
P「響、わかるか?」
響「うん。こっちでいいと……思う」
途中で倒れてでもいたら、おそらく俺一人では発見できないだろう。
響を信じて、頼るしかない。
響「大丈夫、絶対見つける」
P「ああ」
それからほとんど会話もないまま、車は中腹のダムに着いた。
足首が完全に埋まるほど雪が積もってはいるが、幸い今は降っていない。
万が一吹雪にでもなれば、響まで危険に晒すことになる。
そうじゃなくても、今まさに、貴音が楽観できる状況にあるとは思えない。
P「響……」
響「待って。うん、近い……けど」
P「どうした?」
響「どうしよう……消えそう」
かろうじて言葉にできた、今にも泣きだしそうな声。
今は泣くな、としか言えない。
響「……」
俺が声をかけるより早くうなずいて、響は歩き出した。
ゆっくりと、でも迷わず。
なにひとつ見落とすことがないよう、慎重に周囲を見渡す。
響の正面、10歩ほど先に……
響「プロデューサー!」
P「ああ!」
雪に紛れるように、でも確かに違う何かが陽光にきらめいた。
漠然と探していただけなら、きっと見逃してしまうような……銀色の髪。
半ば雪に埋もれて、貴音はいた。
響「貴音! 貴音ぇ!」
P「貴音!」
駆け寄って抱きかかえる。
肌は雪より白く、おそろしく冷たい。
だが……
響「貴音……?」
P「……」
弱々しく開かれた瞼の中で、その瞳が俺をとらえる。
状況からは信じがたいことだが、貴音は意識を保っていた。
貴音「ああ……あなた様……」
力無くも、微笑む。
わかるかわからないかほどに差し出された手を、俺は咄嗟に掴んだ。
なぜか、そうしなければいけない気がした。
そうしなければ、この手から失ってしまうような……。
それから、貴音はすぐに意識を失った。
おそらく低体温症だ。このままでは命に係わる。
P「車まで急ぐぞ!」
響「うん!」
衣類が水を吸っているにもかかわらず、抱え上げた貴音の体は驚くほど軽い。
その事実に響が泣きそうな顔をするが、すぐに持ち直した。
俺たちが少しでも迷ったり諦めたりしたら、貴音は助けられない。
車に戻るまでに、およそ10分。
呼吸と脈拍は……まだ大丈夫だ。
毛布や防寒具は、積めるだけ積んできた。
車外の寒気に負けないよう、暖房を上限いっぱいにする。
響「服を脱がさないと」
P「そうだな」
響に任せて運転席に移ろうとしたら、すかさず怒声が飛んだ。
響「なにしてんのさ! 急ぐんだから、手伝って!」
P「あ、ああ……すまん」
我ながら情けない。
が、反省するのは後でできるから、今はやるべきことをやろう。
協力して、濡れた衣服を手早く脱がしていく。
下着までいったところで、さすがに運転席に移った。
今度は、響もなにも言わない。
山へ入る前に、現地付近の救急病院は調べてある。
あとは時間との勝負だ。
慌てず、急ごう。
─ 翌日・午後 病室 ─
幸い深刻な凍傷は見られず、処置が早かったこともあって、翌朝には低体温症からも持ち直した。
診察した医師によると、発見された状況からは奇跡としかいえないそうだ。
奇跡というなら……
いや、響は「絶対見つける」と言っていた。
彼女にとって、それは奇跡なんて曖昧で頼りないものじゃないのだろう。
今朝のうちに社長と相談して、響だけでも先に帰らせることになった。
響のランクは低くない。
今日は間に合わなくても、翌日もその先もスケジュールは詰まっている。
だが、貴音が目覚めるまで残ると言い張って、響は帰京を拒んだ。
せめてそこまでは見届けないと、不安で仕事なんか手につかないから、と。
本来なら無理やりにでも帰らせるところだが、今回は響がいなかったら発見すら困難だったのは間違いない。
そのぐらいのわがままは聞いてやろう。
そのことで事務所がこうむる損失は……俺が責任をもって引き受ける。
貴音の容体はすでに落ち着いていて、今は静かに眠っている。
しばらくは安静が必要だが、長期入院には及ばないそうだ。
貴音「……」
P「……」
日が傾き、そろそろ夕方に差し掛かろうという時間。
病室には、俺と貴音の二人しかいない。
動物たちの食事を知人に頼んでくると言って、響はさきほど出て行った。
P「ふぅ……」
病室には、程よく空調が効いている。
昨夜は一睡もできなかったからか、だいぶ……眠い。
まあ、仮眠ぐらい……なら……
P「すぅ……」
───
──
─
───
わたくしは嘘をついた。
かつて村があったのは、山の麓。
山の中の、今は暗い水底に隠された地は、かつての狐の住処。
狐と若者が逢瀬を重ねた、狂おしくも愛おしい思い出の場所。
雪の野山に分け入るのは、わたくしにとって難しいことではない。
かつては、それが当たり前のことだったから。
そのはずだったけれど……。
人間の体では、やはり勝手が違うのか……
何度も足を止められ、ダムにたどり着くころには半日以上経過していた。
晴れ渡った明け方。
朝日が稜線に光の輪郭を描く。
ああ……たしかに憶えている。
ここは、わたくしの故郷だ。
わたくしは、そこですべてを思い出した。
これは、今となっては知る人のない話。
言い伝えにはないが、狐には子があった。
若者と逢瀬を重ねる間に授かった命。
狐が村へ嫁入りしてすぐに、その子は生まれた。
言い伝えでは、狐を生贄に雨乞いしたことになっているが……それも違う。
一切衆生の埒外にあるあやかしを、人の手で討つことはできない。
そこで、狐に代わって生贄に選ばれたのが、狐と若者の子だった。
若者は狐と子を連れ逃げようとするも、村人に捕えられてしまう。
旱魃による凶作が続くことを恐れた村人たちは、すぐにも雨乞いを断行した。
取り押さえられた若者と狐が、声の限り懇願し哀哭する中、刃が振りかざされ……
だが、辛うじて拘束を振り切った若者が子の前に身を投げ出し、自ら刃を受けた。
我が子を守るため。
最期まで子をかばいながら、若者は息絶え……
雨乞いは成った。
乾いた大地を、ぽつぽつと雨粒が濡らす。
晴天にも関わらず、やがて大粒の雨となって村に降り注いだ。
それは、雪のように冷たい雨だった。
───
P「……!」
ひどい悪夢だ。
夢というにはあまりに生々しくて、慌てて自分の体を確認する。
刀で斬られた傷は……無いようだ。
P「ふぅ……」
貴音「……た様」
P「え……?」
貴音「あなた様」
P「貴音……?」
貴音は意識を取り戻していた。
上体を起こして、こちらを覗き込んでいる。
P「気が付いたのか!?」
貴音「はい、いましがた」
P「そうか……」
貴音「ひどくうなされていましたが、大丈夫ですか?」
P「いやいや、なんで俺が心配されてるんだ。逆だろ逆」
貴音「ふふふ、それもそうですね」
P「体は大丈夫か?」
貴音「はい。多少気怠く感じるだけで、特には」
P「ああ、よかった……」
貴音「ですが……」
P「な、なんだ?」
貴音「お腹がすきました」
P「……」
貴音「……」
P「あははは、貴音らしいな」
貴音「そのように笑うのは失礼です」
P「いや、悪い悪い」
貴音「知りません。ふふっ」
いつもの貴音だ。
確かに無事だとわかって、俺は泣きそうになるのを笑ってごまかした。
貴音「ご心配とご迷惑をおかけして、もうしわけございませんでした」
P「いや……無事ならいいよ」
貴音「ありがとうございます」
P「うん」
貴音「あなた様と響に助けていただく少し前までは、まだ動くことができたのですが……」
P「……」
響「貴音……?」
病室に響が戻ってきた。
数瞬ほど立ち尽くしていたが、すぐに顔をくしゃくしゃにして貴音に抱き付いた。
響「貴音ぇ! よかったぁーーー!」
貴音「ひ、響?」
響「バカぁ! 心配させて!」
貴音「響……」
P「……」
響「大丈夫? なんともない?」
貴音「ええ、大丈夫ですよ。心配をかけてごめんなさい」
響「もう二度とこんなことしたらダメなんだからな!」
貴音「はい、もうこんなことはしません」
響「それから……それから……うぅ、ひぐっ」
貴音「響は泣き虫ですね。ふふっ」
響「う、うるさい! うわあぁぁぁん!」
P「……」
それからしばらく泣き続けて……
泣き止んでも、響はずっと貴音のそばにいた。
他愛のないことを話しては、笑いあう。
それが、かけがえのない大切なものだと、互いに確かめ合うように……。
俺は、二人から見えないように、少しだけ泣いた。
───
これは、まだあやかしではない、ただの狐だったころ……
最も古い記憶。
その狐は、人間の放った矢に脚を射られた。
かろうじて逃げ延びたものの……力尽き、あとは死を待つしかなかない。
せめて誰にも看取られまいと、狐は大木の根元の洞に身を横たえた。
だが、そんな狐の願いも虚しく、幼い人間の娘に見つかってしまう。
飛びかかって噛みつくだけの力は残されていない。
できるのは、唸り声を絞り出すことだけだ。
娘は構わず洞の中に身を乗り出し、手を差し伸べて……こう言った。
「助ける」と。
人の言葉が、獣に通じるはずはない。
だがたしかに、狐にはそれがわかった。
それが、最初に覚えた人間の言葉。
娘は、獣と心を通わせる稀有な能力を持っていた。
娘が差し出した人間の食べ物は、狐には美味しいと言いがたいものだったが……
獣の本能は、生きるために食べることを選んだ。
それから来る日も来る日も、娘は狐のもとを訪れた。
自分の食い扶持が減るだろうに、必ずあまり美味しくない食べ物を持って。
警戒していた狐も、次第に娘の手から食べるようになる。
娘は、それをとても喜んでいた。
そして、見たこと感じたことを、いつも言葉で伝えてくれた。
娘の語った言葉を、狐はほとんど憶えていない。
でも、これだけははっきりと憶えている。
この時代の言葉でなら「友」。
獣である狐……わたくしを、彼女はそう呼んでいた。
やがて傷が癒え、自ら獲物を狩れるまでに回復したころ、娘は姿を見せなくなった。
それきり、娘がどうなったのかわたくしは知らない。
だが、人の食べ物を知り、人の言葉を解するようになったわたくしは……
それから永い時を生きて、人に化けるあやかしとなった。
あのまま狐として命を落としていたほうが、あるいは幸せだったのかもしれない。
心持つゆえの苦しみなど、知るはずもなかったのだから。
それでも、不思議と娘を責める言葉は見つからない。
あの娘を想うと、今でも心が暖かいもので満たされる。
一番最初の、人間の友達。
響といると、あの娘を思い出す……。
───
それから数日で、貴音は退院となった。
体の回復は問題ないが、念のため東京に戻ってからも通院して様子を見たほうがいいとのことだ。
響は、貴音の意識が戻った翌日に、先に帰らせてある。
多少渋ったが、さすがにそこは言い聞かせた。
数日の泊り込みでいくらか増えた荷物を詰め込んで、借りっぱなしのレンタカーを走らせる。
延滞料金を計算するのも、それを律子に報告するのも怖い。
貴音「あなた様。少し寄り道をしていただきたいのですが」
P「寄り道?」
貴音「はい。そう遠くない場所です」
─ 稲荷神社 ─
病院から30分ほど車を走らせた場所に、その神社はあった。
大きな鳥居と立派な社殿を持ち、神域を守る一対の狐の石像も見える。
額束によると稲荷神社のようだ。
神社の格式はわからないが、歴史を感じさせる佇まいではある。
P「ここでいいのか?」
貴音「はい」
それ以上、貴音はなにも答えない。
聞いても答えないだろうから、俺もそれ以上は聞かない。
P「入るか?」
貴音「いえ……」
P「ん?」
境内を掃き掃除をしている巫女さんが目に留まった。
年齢は14、5歳だろうか。
不思議と、どこかで見たことがあるような顔立ちだ。
いや、ここは縁もゆかりもない土地だし、巫女さんに知り合いもいない。
気のせいだろう。
巫女「あ……こんにちは」
P「どうも」
こちらに気付いた巫女さんが、ぺこりと頭を下げた。
俺も同じように会釈を返す。
貴音は……瞬きもせず彼女を見つめていた。
P「貴音?」
貴音「……」
巫女「?」
頭を上げた巫女さんも、なにか驚いたような顔をして貴音を見ている。
アイドルの四条貴音だと気付いたのかとも思ったが、どうやら様子が違うようだ。
恐る恐るといった感じで、こちらに近づいてきた。
巫女「あの……どのようなご用件でしょうか?」
P「あ~……ええと」
貴音「失礼しました。ただ……昔を懐かしんでいただけです」
P「?」
巫女「そうですか……」
貴音「……」
巫女「よろしければ、宮司に会っていただけますか?」
P「こちらの宮司に?」
巫女「はい。お時間があれば」
貴音「わかりました。お会いしましょう」
巫女「では、こちらへ」
巫女さんが境内を先導する。
社務所に向かっているようだ。
P「なにかあるのか?」
貴音「……あるのでしょうね」
貴音は、なにかしら巫女さんの意図を承知しているようだ。
俺には、もちろんさっぱりわからない。
宮司とやらに面会するとして、そこでなにかわかればいいんだが……。
社務所に通され、待つこと数分ほどで宮司が現れた。
先ほどの巫女さんの祖父だというその人は、70を少し過ぎたぐらいのお年だろうか。
背筋の伸びた、神職にふさわしい品格を感じさせるご老人だ。
巫女さんと同様に、そのご老人は貴音を見て驚いた顔をした。
宮司「憑きものか? いや……違うな」
貴音「……」
宮司「これは驚いた。この歳まで神職にあって、初めてお目にかかるとは」
なにを言っているかわからない。
どうやら、貴音だけではなくこの宮司さんも俺の味方ではないようだ。
貴音は目を伏せて、口をつぐんでいた。
落ち着いているように見えて、感情をかみ殺しているようでもある。
宮司「よそのお人のようだが、このような何もない田舎まで何用で参られたのかな?」
P「狐の嫁入りにまつわる言い伝えがあると伺ったんですが」
宮司「ふむ……山の麓にあったという村の話かな」
山の麓? ダムのあたりなら中腹のはずだが。
まあ昔の話だし、そもそも言い伝えなんだから、内容が食い違うこともあるだろう。
宮司「この一帯は、昔から不作に悩まされた土地でな」
P「言い伝えのようなことも、実際に起こり得たということですか?」
宮司「この社にも、雨乞いの記録は残っている。あのような血生臭い話ではないが」
P「そう、ですよね」
まあ、そんなものだろう。
なんらかの事実を反映していたとしても、狐だの生贄だのが現実にあったとは思えない。
病室で見た、あの悪夢のようなことだって。
宮司「そちらのお嬢さん」
貴音「はい」
宮司「あなたは、この社を訪れるのは初めてかな?」
貴音「いえ……昔、一度だけ立ち寄らせてもらったことがあります」
P「?」
宮司「そうか……」
なにか思うところがあるのだろうとはわかっていたが……。
昔とは、いつのことなんだろうか。
貴音「こちらには、狐にまつわる伝承は残されていないのでしょうか?」
宮司「あるにはあるが……はて、あなたもご存じではないのか?」
貴音「……」
P「そうなのか?」
貴音「いえ……」
宮司「なに、他愛のない昔話だ。茶請け代わりにでも話そう」
貴音「お願いいたします」
それは、やはり狐にまつわる悲しい昔語りだった。
今より二十も代をさかのぼる宮司の時代。
冷たい雨の晩に、幼子を抱いた女人が、行き倒れるようにして神社にたどり着いた。
そのただならぬ様子から宮司は母子を保護するが、女人が人ではないことをすぐに見抜く。
女人はそれを認め、自らを狐のあやかしであると明かした。
女人が悪しきものではないと理解した宮司は、彼女から話を聞く。
「人間に嫁ぎ、この子を授かった」
「だが伴侶を喪い、生きる望みもない」
「あやかしのこの身では、自ら命を絶ち後を追うこともできない」
「どうか宮司様のお力で、魂もろとも覆滅してほしい」
そう女人は訴えた。
宮司が応える。
「どのような神官にも仏僧にも、格の高い狐のあやかしを覆することはできない」
「母まで喪って、その子はどうするのか」
女人はさらに訴える。
「あやかしに育てられるのは哀れだ。どうか人の手で人の子として育ててほしい」
宮司はなおも説得を試みるが、女人の意思は変わらない。
ついに翻意できぬと悟り、女人に告げる。
「子は引き受けよう」
「魂を覆することはできぬが、依代に封じることで苦しみを絶つことはできる」
ならば依代にはこれを、と女人が小さな手鏡を差し出す。
婚礼の際、伴侶より送られたもので、ただひとつの形見だという。
宮司は、それを承諾した。
「そなたに寄り添うように、ひとつの魂が見える」
「あれが伴侶ならば、いつか逢瀬がかなうことを祈ろう」
宮司の言葉に、女人が涙する。
丁重に礼を述べ、神前にひれ伏し……
そして、女人の魂は手鏡に封じられた。
あとに女人の亡骸は無く、そこには息絶えた狐が伏していたという。
女人の子は跡取りのない宮司に引き取られ、神社で育てられた。
長じて、宮司の職を引き継いだと伝えられている。
───
──
─
宮司「私や孫は、その子孫というわけだ」
貴音「……!」
P「狐の、ですか?」
宮司「信じられんかね?」
P「いえ……」
宮司「いや、無理もない。ただの言い伝えよ」
貴音「……」
───
ここに、確かに息づいていた。
あの人が守り、わたくしが手放した、小さな小さな命の灯火が。
あやかしから生まれながら、人として生を全うする。
そこにどれほどの苦難が、葛藤があったのか、わたくしにうかがい知るすべはない。
どれほどの時を生きても、わたくしにはできなかったことだから。
子を想う。
母があやかしであること、その母に捨てられたことを、どのように受け止めたのか。
父や母を恨んだのだろうか。
わからない。
確かなのは、こうして血が受け継がれたことだけ。
わたくしに、そんな資格はないけれど……感謝しよう。
あの小さな子の、その子たちとここで巡り合えたことを。
───
話が途切れたところで、孫娘の巫女さんが入ってきた。
巫女「お茶のお代りをお持ちしましょうか?」
P「いや、おかまいなく」
宮司「ちょうどよかった。あれを持ってきてくれないか」
巫女「あれって……いいの?」
宮司「かまわんよ。良い機会だ」
巫女「わかった。ちょっと待ってて」
P「?」
貴音「……」
貴音は、きつく目を閉じてなにかをこらえているように見える。
いや、泣くのをこらえているのは、さすがに俺でもわかる。
しばらくして、巫女さんが戻ってきた。
桐らしき小さな木箱を、うやうやしく両手で持っている。
宮司が木箱を受け取り、慎重にふたを開く。
幾重にも絹でくるまれた中から出てきたのは、手のひらに収まるほどの小さな手鏡だった。
貴音「……!」
貴音が息を飲むのがわかった。
その手鏡はとても古いものに見える。
どれほど時代を遡るものか、こういったものに不見識な俺にはわからない……が。
P「……」
……まただ。
既視感と似た……でもそれとは違う、ただ知っているという感覚。
憶えてはいないが、知っている。
最近は、こういうことがたびたびある。
疲れているだけだと思い込んできたが、そろそろそれではごまかせない。
俺に、貴音のような特別な何かがあるとは思えないが……。
貴音を見ると、涙こそ流れていないが完全に泣き顔になっていた。
P「この鏡は?」
宮司「先ほど話した、狐を封じた鏡だよ」
巫女「もう、この中に狐はいませんが」
貴音「……」
P「いない?」
巫女「他のなにかに、魂の依代が移っているということです」
野暮なことを言えば、俺はオカルトの類には懐疑的だ。
話をそのまま信じることはできない。
まして、そんな曰くのある代物と貴音に、どんな接点があるというのか。
理解しろというほうが無理だ。
───
確かに、わたくしは安らぎを得た。
硬く、冷たく、物言わぬその中では、考えることをやめられたから。
忘れることを、そこで覚えた。
そのまま、夢さえも無く眠っていればよかったのに……。
辛苦を忘れてしまえば、安らぎにもやがて倦んでしまう。
そこに救いはないとわかっていたはずなのに、また光を求めてしまう。
わたくしは、再びこの苦界に生まれ出でた。
人間の姿と名前を借りて。
寄る辺を失えば、次へ、また次へと……。
理由もなく、意味もなく、ただひたすら繰り返されるばかりの月日。
わたくしは、なぜ依代を人間としたのか。
そうだ……そこには理由も意味あった。
人間になりたかったんだ。
あの人と、あの子と……同じ人間に。
───
宮司「お嬢さん……貴音さんだったね」
貴音「はい」
宮司「先ほどの言い伝えに間違いはなかったかな?」
貴音「……」
P「?」
貴音「……ありません」
宮司「ならば、その鏡はあなたがお持ちなさい」
貴音「……!」
やはり話がわからない。
わからないが、無理やり納得することはできる。
貴音が、その狐なら……整合性の無かった話の辻褄が合ってしまう。
ただの悪夢だと思っていた、あの雨乞いの情景とも……符合する。
そうだとしたら、この人たちは貴音の……。
貴音「いいえ……受け取れません」
宮司「預かり物を返すだけだよ」
貴音「ですが……!」
宮司「いいからお持ちなさい。それは、あなたを助けるものだ」
貴音「わたくしを……?」
宮司「遠い昔の願いがかなうように、及ばずながら私も祈ろう」
貴音「あ……」
巫女「私たちも、でしょ」
宮司「ははは、そうだったな」
貴音「ありがとう、ございます……」
貴音の手が、鏡を取った。
震える指先で……だが取り落とさぬよう、傷などつけぬよう、大切に大切に胸に掻き抱く。
その姿が、なにか神々しもののように思えて……俺は疑うことをやめた。
貴音は、きっとそういう存在なんだろう。
不思議と、なんの抵抗もなく理解することができた。
受け入れてしまえば、なんのことはない。
貴音に対する俺の気持ちが、変わることはないんだから。
だが、俺はいったいなんだ……?
俺は、貴音とは違う……はずだ。
貴音「もうしわけありません。少し……ほんの少しだけ、一人にさせてもらえませんか……」
P「え?」
貴音「お願いします……」
P「あ……ああ、わかった」
宮司「ふむ……」
巫女「……」
貴音だけ残して、俺たちは社務所から退出した。
いつだって貴音は貴音だから、人前で発露できない感情があるのだろう。
今は、心の赴くままにさせてやりたい。
示し合わせるでもなく、俺たちは社務所からなるべく離れようと歩いていた。
───
わたくしは、自分で思っているよりよく泣く。
自分のことでなければ、泣くことを恥ずかしいとは思わない。
これほど人間らしい感情は、他にないのだから。
それでも……だからこそ、わたくしは人前では泣かない。
そこに誇りはなくても、わたくしはあやかしだから。
人間にはなれない。
あやかしであることを忌憚しながら、なによりもそれに囚われてる。
わたくしは愚かだ。
でも、それもまた人間らしいことのように思える。
人間に……なりたい。
人間として、あの人の隣にいたい。
これは、過ぎたる願いなのだろうか……。
───
巫女「おじいちゃん、ちょっといいかな」
宮司「なんだ?」
巫女「こちらの男性にも……なにか感じる」
宮司「ふむ……」
P「俺……ですか?」
宮司「この子は祖先の血を色濃く受け継いでいるのか、私などよりも神職として優れた資質を持っていてな」
巫女「そんな大げさな」
宮司「この子が言うのなら……おそらくそうなのだろう」
P「そう、とは?」
宮司「いずれわかる。あなたも心しなさい」
P「……」
宮司「難しいことはない。為すべきことを為せば、正しい道へ進む」
P「為すべきことを……」
俺が為すべきこと。
たぶん俺と貴音の二人に関わることで、貴音ではなく俺にしかできないことだ。
俺みたいな凡人に、そんなものが本当にあるのか。
宮司「道に迷ったら、またここへ立ち寄ればよろしい」
P「……」
宮司「だが、わざわざ回り道をすることはない。正しい道を見失わないよう、よくよく心がけることだ」
P「はい」
丁重にお礼をして、俺は二人から離れた。
考えることが多すぎる。
それらは雑然と積み上がるばかりで、意味のある形になってくれない。
P「……」
思考がますます迷走するばかりで、俺は考えるのをやめた。
少し、と言わず時間が必要だ。
貴音「あなた様」
しばらくして、貴音が声をかけてきた。
手鏡を戻したのだろう、木箱を胸に抱いている。
P「もういいのか?」
貴音「はい、お待たせしました」
目に見える限りでは落ち着いている。
貴音なりに心の整理がついているのかもしれないし、あるいはそう振る舞っているだけかも知れない。
貴音「……」
P「……」
いや、やめよう。
自分のことすらままならない俺が、詮索しても仕方のないことだ。
P「帰ろうか」
貴音「はい」
二人で再度お礼をして、神社を後にした。
車を走らせること数時間、あまり会話はない。
東京へ帰れば、またアイドルとプロデューサーとしての日常が待っている。
変わらない、日常が……。
───
忘れていたことを思い出した。
獣として生まれてから、今までの……すべてを。
かつて狂おしいほど愛した人が、今この身を焦がすほど愛する人が……
この胸に掻き抱くことのできる場所にいる。
これは、きっと奇跡だ。
でも、それは儚く……一瞬で終わるほどの奇跡。
思い出すのと同じくして、わかってしまった。
わたくしはもう、あとわずかな時しか四条貴音ではいられない。
また、あてどなく浮世を彷徨う迷い子になってしまう。
抗うすべを、わたくしは知らない。
でも、もし……もしも想いが届くのなら。
手に取ることもできないほどの小さな希望でも、そこにあるのなら……
願いを託そう。
ある場所に手鏡を封じた。
我が伴侶と、我が子と、四条貴音であるわたくしの形見となる手鏡。
かつてのように、そこに戻ってくることができれば……
名も姿も無くとも、あの人の隣に寄り添っていられる。
それだけで、わたくしは……
───
今回の件は、急病による数日の入院ということで発表された。
今後の活動への影響は最小限で済みそうだ。
マスコミに漏れなかったのは幸いだった。
穴埋めは必要になるだろうが、俺の仕事が多少増える程度のことだ。
今までとなにも変わらない。
プロデューサーとして、多忙な日々が返ってきた。
─ 1月13日 765プロ事務所 ─
以前から考えていた貴音の新曲が、再来月に発売されることが決まった。
作曲家の先生から送られてきたデモテープを、貴音に聴かせる。
先に俺も聞いたが、美しくも切ないミディアムバラードといった曲調で、貴音のイメージによく合っている。
最後まで聴き終えると、貴音は納得したように頷いた。
どうやらお気に召したようだ。
貴音「曲名を……わたくしが決めてもよろしいでしょうか?」
P「ああ、希望として出しておくよ」
貴音「ありがとうございます」
P「歌詞も、タイトルを意識したもののほうがいいか?」
貴音「よろしければ、それもわたくし自身で」
P「作詞を? できるのか?」
貴音「やらせてください」
P「……」
貴音「……」
P「わかった。その方向で進めよう」
貴音「お願いいたします」
P「タイトルは決まってるのか?」
貴音「……風花、と」
P「風花……」
ふっ、と一瞬……また見知らぬ情景。
晴天に舞う雪の中、着物姿の女性がひとり佇んでいた。
見知らぬような、どこかで見たような……女性。
笑っているのか、泣いているのか……思い出せない。
……思い出せない?
そうだ、俺は彼女を知っている。
貴音「どうでしょうか?」
P「あ、ああ……そうだな」
貴音「……」
P「綺麗な……いい名前だ」
貴音「……!」
冷たいような暖かいようなものが、つうっと頬を伝う。
拭ってみて、それが涙だとわかった。
P「あれ? 俺、なんで……」
貴音「あなた様……」
P「すまない。目にゴミでも入ったんだろう」
貴音「……」
P「ちょっと顔を洗ってくる」
貴音「はい……」
それはただ、涙で視界がぼやけていたからかもしれないが……
なぜか、貴音も泣いているように見えた。
───
それは、時に埋もれた記憶のかけらが、たまたま目に留まっただけかもしれない。
本当に、目にゴミでも入ったかのように。
でもたしかに、声が……想いが届いた。
気付かれましたか?
涙をこらえるのが、とても……とても大変だったこと。
少しだけ……ほんの少しだけ、こらえきれなかったことを。
心のままに泣くことができたら。
ただひたすら、声の限り泣くことができたら……
どれほど……。
───
─ 1月16日・夜 765プロ事務所 ─
貴音「ただいま戻りました」
P「おう、おつかれさん」
貴音「あなた様……また、このような時間までお仕事を?」
P「ああ、まったくどうしようもないな」
貴音「本当です。いつも心配ばかりさせて……」
P「ん?」
貴音「なんでもありません」プイッ
今のは聞こえなかったふりだ。
貴音の反応が可愛らしくて、ついわかっていてやってしまう。
我ながら、本当にどうしようもない。
貴音「そういうことなら……こちらへいらしてください」
P「こちらって……うおっ、急に引っ張るな」
両腕で抱えるようにして腕を引っ張られる。
危うく椅子ごと倒れそうになるが、なんとか持ちこたえられた。
まあ、なんだ……90のあれが当たっているのは、役得とでも思っておこう。
貴音「わたくしがお茶を用意します。こちらで少し休んでいてください」
P「お茶? 貴音が?」
貴音「その程度のことは、わたくしでもできます」
P「わかったよ。わかったから、引っ張るなって」
半ば無理矢理に、応接用ソファーへ座らされる。
ここは眠くなるから、長居したくないんだが……
貴音「わたくしが戻るまで、ここで待っていてください。いいですね?」
P「はい……」
貴音が許してくれそうにない。
いや待て。これじゃ尻に敷かれてるみたいじゃないか。
P「まあ……こういうのも悪くはないか」
しばらくして、二人分のお茶とお茶菓子をもって、貴音が戻ってきた。
あまり時間がかかっていないところをみると、意外と手際はいいようだ。
貴音「意外と、は余計です」
P「そんなこと言ってないし、思ってもいない」
貴音「おや、勘違いでしたか? では、どうぞ」
P「ああ、いただきます」
受け取ったお茶を、まずは一口。
うん、ちょうどいい熱さだ。
濃い目に淹れてあるようだが、渋味がなく、ほどよい苦みがあって……
P「……美味いな」
貴音「ふふふ、そうでしょうとも。じいや直伝ですから」
たびたび貴音の話に出てくる人だ。
あまり自分のことを語りたがらない貴音には珍しい。
話しぶりからも、一方ならず信頼しているのがわかる。
P「貴音も座ったらどうだ?」
貴音「はい……隣、よろしいでしょうか?」
P「かまわないよ」
貴音「では、失礼します」
P「……」
貴音「……」
どれほど鈍感だ朴念仁だと言われても、俺だって仙人じゃない。
わざわざ隣に座ることの意味ぐらいはわかる。
P「遅くなったんだから、貴音こそ直帰でよかったのに」
貴音「そんな寂しいことを……言わないでください」
貴音が、体を寄せてくる。
貴音「あなた様……」
P「……」
俺の手に、貴音の手が添えられる。
貴音「わたくし、もう子供ではありませんよ?」
P「わかってるよ」
貴音「わかっていません……なにも」
P「わかってる」
貴音「なら、なぜ……わたくしを抱き寄せてはくれないのですか?」
P「……」
貴音「そうやって、また聞こえないふりをするのですね」
抱き寄せてしまえば、それ以上の歯止めが効かなくなる。
俺も、きっと貴音も。
だから俺は……こうするしかない。
P「離れるんだ」
貴音「……」
アイドルだから、プロデューサーだからとか、そういうことじゃない。
感情のままに、貴音に……四条貴音に消せない傷を付けたら、必ず後悔することになる。
理由はわからないし、根拠もない。
だが、なぜかそう確信していた。
P「お茶を飲んだら帰ろう。送るよ」
貴音「はい……」
たぶん、もう身を寄せ合うこともないだろう。
でも、それで間違っていないのだと、今は信じるしかない。
───
間違っているのは、わたくしのほうだ。
わかっている。彼がなにを守ろうとしたのか。
わかっていながら……わたくしは許されざる罪を犯そうとした。
借り物のこの身を、劣情に委ねて……。
人のふりをしても、わたくしはあさましい狐でしかない。
でも、この想いまで穢れたものにしたくはないから。
わたくしに残された時間は……少ない。
うたを残そう。
わたくしのうた。
わたくしがここにいた証として、せめて美しいものだけを残せるように……。
───
─ 1月18日 765プロ事務所 ─
アリーナライブを翌々日に控え、事務所は慌ただしさが増していた。
今日は本番の会場での最終リハーサルだ。
ミーティングが終わり、みな思い思いに出発の時間を待っている。
そんな中、事務所に来客があった。
うちのアイドルたちの5倍も6倍も長生きしているであろう、年配の男性。
柔和で温厚そうな、品の良い身なりをした、まさに老紳士という感じの人だ。
対応した音無さんが、奥でくつろいでいた貴音を呼んだ。
じいや「お久しゅうございます、貴音お嬢様」
貴音「じいや……? じいやですか!?」
じいや「はい、じじでございます」
P「?」
貴音「ああ……ああ! じいや、お元気そうで」
じいや「お嬢さまもお変わりなく」
貴音「何年振りでしょうか? ああ、本当によく来てくれました」
じいや「やっとお許しを頂いて、伺うことができました」
貴音「妹たちは息災でしょうか?」
じいや「はい。皆さま、つつがなく」
P「貴音。立ち話はそのへんで、中に」
貴音「そ、そうですね。わたくしとしたことが」
じいや「お嬢様、この方が?」
貴音「……そうです」
P「?」
じいや「失礼、申し遅れました」
流れるような所作で一礼して、老紳士が名を名乗る。
貴音が実家を出るまで、身の回りの世話や教育係を務めていた人、とのことだ。
以前から聞いていた「じいや」とは、この人なんだろう。
縁の遠い世界のことはよくわからないが、いわゆる執事のようなものだと理解しておこう。
現実にそのような職にあって、じいやと呼ばれる人を見るのは初めてだが……
まさしくじいやとしか表現しようのない人だ。
小鳥「貴音ちゃん、律子さんたちが待ってるわよ」
貴音「そ、そうですね。では、じいや……」
じいや「はい、後ほどゆっくりと」
貴音「話したいことがたくさんあります」
じいや「私もです」
名残惜しそうに、貴音は事務所を後にした。
その様子からも、このご老人が彼女にとってどれほどの存在なのかわかる。
じいや「お忙しいところに押しかけてしまって、もうしわけございません」
P「いえ、貴音も喜んでます」
じいや「今日私がうかがったのは、貴音お嬢様にお会いするためだけではありません」
P「?」
じいや「あなたにお伝えしたいことがあって参りました」
P「俺に?」
じいや「少し、お時間をよろしいですか?」
P「はい……お聞きします」
───
わたくしが、四条貴音として最初に信頼し、心を許した人間。
親代わりに育ててくれたじいやに、なんの恩返しもできないまま……
わたくしは不孝をしてしまう。
せめて最期に、会えてよかった。
言葉にすると、たった一言にしかならない。
それは、とてもありふれた言葉。
でも、この想いを伝えられる言葉を、わたくしは他に知らない。
ありがとう。
───
それは、貴音が幼少の頃に語ったことだという。
狐として生まれ、時を経てあやかしになったこと。
人間の男性と結ばれ、子を生したこと。
雨乞いによって伴侶を亡くしたこと。
何度も人間の体を借りながら、数百年に渡って生き続けたこと。
その内容は、俺が聞き、垣間見たものと符合する。
幼少時は、まだそれを憶えていたそうだ。
だが、もうすぐ忘れてしまうから、せめてじいやだけでも憶えていてほしいと告げ……
貴音は涙を流したそうだ。
この人でさえ、そのただ一度しか貴音の涙を見たことがないという。
P「小さい子供の頃の話ですよね?」
じいや「そうですね。ご幼少より、お嬢様は不可思議なことを口にされ、我々を困らせるお方でしたが……」
P「……」
じいや「あのときのお嬢さまの涙を、私は疑うことができません」
貴音が人前で涙を見せる。
子供の頃だとしても、それがどれほどの意味を持つのか……
今なら少しはわかる。
じいや「どうか、これだけは忘れずにいてください」
P「はい?」
じいや「お嬢様は、悲しくても涙を見せません。つらくても助けを求めません」
P「……」
じいや「そんなとき、お嬢様はいつも手を伸ばされます」
P「手を?」
じいや「いつか、どなたかに届いて……その手を取ってもらえると信じていられるのでしょう」
P「手を取って……」
じいや「それは私にも、他の誰にもできません」
P「……」
じいや「お嬢様が伸ばされた手を、どうか取って差し上げてください」
P「……俺が?」
じいや「はい。こうしてお会いして、それができるただ一人のお方と確信しました」
P「俺は、そんな大それたものじゃ……」
じいや「それは、お嬢様の願いでもあります」
P「貴音の……」
真っ直ぐに俺を見据える双眸。
穏やかでありながら、揺るぎない意志と覚悟が見て取れる。
目を背けることはできない。
じいや「この年寄りの最後の心残りです」
P「……」
じいや「どうか、お頼みいたします」
P「わかりました」
それは、出来るとか出来ないとかじゃない。
俺がやらなければいけないことなんだろう。
でも、そのときはいつ来るのか……。
俺には、あまりにも突然すぎた。
───
あのときの涙のわけが、今ならわかる。
あれは……四条貴音だ。
あやかしでも獣でもない、人間として生まれるはずだった四条貴音だ。
わたくしのために涙を流してくれた。
人間の心の温もりを教えてくれるかのように……。
わたくしは、四条貴音の人生を奪ってしまった。
返さなければいけない。
きっと、もうすぐ。
───
─ 1月20日 新年アリーナライブ ─
新年最初の大仕事。
今年一年のさらなる飛躍と、その先にあるトップアイドルへの道へ……
今日、スタートダッシュを切る。
全員揃っての練習は、数えるほどしかできなかった。
それでも、彼女たちに迷いはない。
ひとりひとりが、すでにアイドルとしての揺るぎない確信を持っているから。
俺は、みんなを信じて送り出すだけだ。
P「よし、いってこい!」
一同「「はい!」」
光り輝くステージと、その先の道へ……一人も遅れることなく飛び込んでいく。
一瞬だけ貴音と目があったが……いつものアイドル四条貴音だ。
不安はない。
ないはずだが……。
貴音の先にある道を照らす……そこにあるはずの月が、今日は見えなかった。
─ 夜 765プロ事務所・ライブ打ち上げ ─
高木「諸君、おつかれさま」
一同「「おつかれさまでしたー!」」
小鳥「みんな、すごく素敵だったわ!」
春香「えへへ、ありがとうございます」
ライブは大盛況で幕を閉じた。
この勝負の年に、765プロは最高のスタートを切れたと確信できる。
気がかりだった貴音も、いつも通りの安定したパフォーマンスを発揮していた。
何事もなかったかのような、あまりにも閑やかなそのステージには、むしろ違和感を感じるほどだったが……。
いや……そう思いたいだけ。これは未練だ。
貴音はプロとして恥ずかしくない仕事をして、俺はそれができていない。
まったく……情けない限りだ。
P「……」
真「なに難しい顔してるんですか、プロデューサー?」
P「いや、なんでもないよ」
やよい「プロデューサー! これ食べてください!」
P「ん、やよいが作ったのか?」
やよい「はい!」
P「ありがとう。いただくよ」
やよい「えへへ」
今は、ライブの成功を祝して、新年会を兼ねた打ち上げの最中だ。
大仕事を終えたみんなは、思い思いに会を楽しんでいる。
貴音「あなた様」
P「あ、ああ……貴音か」
いつの間にか隣にいた貴音が、いつもと変わらず話しかけてきた。
二人の間だけで使う「あなた様」もそのままだ。
そう呼ばれることは、あるいはもうないかと思っていたが……。
少しだけほっとしているのは、我ながら現金だと思う。
貴音「少しだけ、お時間をいただけますか?」
P「わかった」
二人で事務所を抜け出す。
俺の前を歩く貴音が向かったのは、このビルの屋上だった。
真美「あれ? 見て見て、雪降ってる!」
亜美「おお! 積もるかな?」
律子「風花だから、積もるほどじゃないわね」
真美「かざはな?」
律子「星が出てるでしょ。風が雪を運んできてるだけよ」
亜美「そっかぁ、残念」
真美「天気雨だと狐の嫁入りで、天気雪だと風花なんだ」
春香「わぁ……綺麗だね」
真「うん、なんだかロマンチック……」
雪歩「現実じゃないみたい……」
千早「そうね……」
───
新月。
道を照らす灯火もない夜。
もう時間はない。
わたくしは今夜、四条貴音ではなくなる。
振り子のように、行っては返す魂の洗礼。
しがみついているだけのわたくしに、それを止める力はない。
また同じことが繰り返される……それだけのことだ。
わたくしは、なぜトップアイドルを目指したのか。
届かなかったからこそ、今はそれがよくわかる。
借り物の姿と名前でも、わたくしがここにいた証を残したかった。
誰かの思い出に残るだけで、わたくしが四条貴音であった意味はあるのだから。
それはもう、かなわぬ願い。
だから、せめてこのうたをあの人に……。
あなた様だけに、残します。
───
─ 屋上 ─
雪が降っている。
地に届く前にも消え入りそうな、儚くも美しい風花。
P「寒くはないか?」
貴音「わたくしは大丈夫です」
言葉の通り、雪が舞うほどの寒気にも、それをまったく感じさせない。
吐く息も、なぜか俺だけ白く曇っている。
貴音「うたを、聞いてくださいますか?」
P「歌?」
貴音「ライブには間に合いませんでしたが、やっと詞が形になりました」
P「ああ、次の新曲か。たしか……風花だったな」
貴音「はい」
P「それは、ぜひ聞きたいな」
貴音「ありがとうございます」
風花か……。
今この世界は、貴音のために用意されたステージなのかと……思えた。
いや、きっとそうなのだろう。
貴音「……」
ステージでそうするように、貴音が一礼する。
観客は俺ひとりの、星と雪の降るステージ。
貴音「いくつもの虹が 重なり合うと……」
そのうたは、音もなく散る雪のように、静かに星空へ溶けていった。
───
「過去が明日に変わり……」
過去は未来には繋がらない。
でも、わたくしはそうして生きてきた。
百年……たとえ千年でも、永劫の時を越えてわたくしは待ち続ける……。
それだけが、わたくしにできる……わたくしに許されたただひとつのこと。
それは、終わることのない永遠……?
「高く高く目指す景色の果てに……」
違う。
この想いが届いたその先に、永遠がある。
命は限りあるものでも、人の想いは永遠に生き続ける。
だから、わたくしは……人間になりたい。
なりたかった……。
「ひたすらに進む道を照らす……」
いつも闇の中を歩いてきた。
月明かりだけを頼りに……。
その先に、何かがあると……信じていた?
いいえ、信じてはいない。
でも……願い、祈っていた。
「狂おしく抱いた夢にまどわされ……」
もう一度、あなた様と巡り合えるまで……。
信じるとか、信じられるとか……そういうことじゃない。
それしかなかった。
だって、それしかなかったから……。
だから、わたくしは……
ひたすら緩やかに……でも、倦むことなく魂を蝕むような永劫の時の中で……
この想いだけは失わなかった。
「きっと脆くて愚かな心が 囚われていく このまま……」
もう……時間がない。
せめて、最後まで歌って……。
───
歌詞に……歌声に乗って、貴音の想いが伝わってくる。
彼女を映す鏡のような……。
いや、このうたは貴音そのものだ。
貴音「光の外へと行きたかっただけ……」
希望もなく、救いもない。
そんな永い永い時の中を、貴音は生きてきた。
いつも、ずっとひとりで。
貴音「追いつめられて言葉無くして思うのは……」
うたが終わる。
終わってしまったら、きっと……。
P「待て、貴音……だめだ」
───
その名ではありません……。
その名では……。
とても遠い遠い昔の、ほんのひとときだけの幸せな記憶……。
でも、他のなによりも大切な記憶。
もう一度、その声で名前を呼んでもらいたかった。
あの頃のように、わたくしの名を……。
「心の中に散った風花……」
わたくしには、あなた様への想いしかなかった。
どれほどの時が過ぎても、幾度仮初めの生と死を繰り返しても……
この想いだけは変わらない。
「あなた様……ありがとうございました」
「なにが……」
この人の前では、最後まで涙を見せずに。
自分を偽ったまま……。
でも……どうせ思い出になるのなら、せめて美しいものでありたい。
「響と、みなにもありがとう……と」
「なに言って……」
四条貴音として得た大切な仲間……友。
わたくしのことを、忘れないで……。
「あなた様……」
わたくしは……
「……さようなら」
───
P「貴音……」
雪はやんでいた。
歌い終えた貴音が、力無く手を伸ばす。
その手を取ろうとして……でも、間に合わない。
P「!」
スローモーションのように、ゆっくり貴音の体が崩れ落ちる。
俺にできたのは、貴音を抱きとめることだけだった。
P「貴音……?」
腕の中の貴音は、力無く俺に体を預けているだけだ。
P「なあ、嘘だろ? いつもみたく、からかってるだけだよな?」
そうじゃないことはわかっている。
わかっていても……
P「貴音……貴音!」
声の限り呼びかけても、力の限り抱きしめても、貴音は応えない。
P「あぁああぁぁぁ!!」
呼びかける声は、叫びにしかならなかった。
今日はここまで。
明日最後までいきます。
では。
乙乙
江ノ島の話書いてた人…とは違うのかな
>>119
それは違う人ですね。
再開します。
─ 病室 ─
貴音は病院に搬送された。
命に別状はないらしい。
ただ、体に異状は見られず、医師にも昏睡の原因がわからないとのことだ。
打ち上げは、当然中止となった。
みんなを不安にさせないため、ただの過労と説明してある。
病院には俺が付き添うことになったが……
自分も一緒に行くと食い下がる響を、説得するのは骨が折れた。
明日みんなで見舞いに行くということで、いちおう納得したようだ。
病室には、俺と……ベッドに身を横たえた貴音しかいない。
少し前にも、同じようなことがあったが……。
「さようなら」と別れを告げた貴音の姿が、頭から離れない。
あの瞬間……貴音の歌を通して繋がっていたものが途絶えたのを、確かに感じた。
目の前にいる貴音からは、もうなにも……
貴音「……ん」
P「え?」
貴音「……」
P「貴音?」
貴音「ん……んん」
P「貴音!?」
赤ん坊が初めて目を開くときのように……
初めて見る世界を確かめるように、瞼が開かれる。
貴音「……?」
P「貴音……」
あたりを伺いながら、ゆっくりと上体が起き上がる。
本当に、ただ寝て起きただけのように、重そうな瞼を何度もしばたいて……
俺を見た。
P「貴音! 俺がわかるか!?」
貴音「……?」
P「貴音!」
貴音「えっと…………あなた……は、誰?」
P「……!?」
きょとんとした感じで、悪気もなく言う。
P「わからないのか?」
貴音「あの……ごめんなさい」
憶えていない。
いや、知らないんだ……この貴音は。
P「そう、か……」
貴音「……?」
こうなることはわかっていた。
わずかな望みをかけて……ただ、それがかなわなかっただけだ。
意識が戻ったとしても、もう……
貴音「あれ? わたし……誰?」
俺の知る貴音じゃない。
貴音?
そうだ……俺の知る彼女は、違う。
彼女の、本当の名は……。
P「あ……」
思い出した。
今さら、思い出してしまった。
喪ってから、やっと……。
P「俺は……守れなかった」
貴音「え?」
P「なにも、できなかった……」
貴音「あ、あの……?」
P「思い出すことさえ……」
貴音「……」
P「う……ぅあ…………あぁぁ……!」
貴音……は、ただ困惑して俺を見守っていた。
───
──
─
───
わたくしは……誰?
わたくしは、四条貴音?
いいえ、違う。
それはほんのひと時だけ生きた、仮初めの名。
本当のわたくしは……あやかし。
永劫の時を生き続けた、人ならざる者。
今まで、幾度仮初めの生を生きただろうか。
そのたびに得た人としての名の多くは、もう覚えていない。
わたくしにとって、それらはなんの意味もないものだから……。
わたくしの、本当の名は……
いや……それすらも、今は……。
ただ、未練がましく遠い昔の記憶にすがって、捨て去ることができないだけのもの。
あの人に忘れられたら、なんの価値も無い……。
しばらくは流れのままに漂って、やがて次の場所にたどり着く。
四条貴音という名も、いずれは忘れるだろう。
幾百年も望み、求め続けたものを……
それが届く場所にありながら、この手に取ることはできなかった。
四条貴音の記憶は、忘れなければ……つらい。
あの手鏡の中に戻ることができれば、ささやかな願いがかなう。
なにも思わず、名も姿も無く……ただあの人の隣にいたい。
それだけで……
それだけ……
…………
そんなの、嘘。
わたくしは……人間としてあの人の隣にいたい。
同じ人間として、あの人とともに生きたい。
それだけが、わたくしの願い。
かなわぬ願いだというなら
このまま消えてしまえばいいのに……。
消えて……
音も、色も……消えていく
また、すべて忘れてしまおう
忘れて……
───
それからしばらくして、響が病室に来た。
貴音が心配で、居ても立っても居られなくなったようだ。
謝ってきたが、責めるつもりは無い。
今はむしろ、ありがたい。
響は、自分を覚えていない貴音にひどく狼狽して、また騙しているんだろうと詰め寄ったが……
文字通り人が変わったような貴音の様子と、俺の態度からなにかを悟ったようだ。
それでも響は、今まで同様に貴音に対して接していた。
泣いているのに、涙も見せずに……。
今の貴音に必要なのは、身近に支えてくれる友人だ。
響なら任せられる。
貴音が……彼女が最後に「ありがとう」と言ったことを知ったら……
この子は、怒って……とても悲しむだろう。
それでも、いつかは伝えなければいけないと思う。
俺の知ることだけでも、すべてを。
それだって、俺にしかできないことだから。
でも、ここで俺にできることはなにも無い。
貴音に先ほどの醜態を謝罪して、俺は病院を後にした。
貴音……四条貴音は、今は生まれたばかりの子供同然の状態だ。
ただ、それほど時間を要さず、日常生活程度は支障なくなるだろう。
本人が望めば、時間はかかってもアイドルとして復帰させることもできる。
もう一度、アイドルとして育てて……
いや、やめよう。
現実から逃避する先が仕事しかないなんて、笑えない冗談だ。
P「……」
気がつけば、俺はたるき亭ビル前にいた。
時計を確認すると、病院を出てから1時間ほど経過している。
どこをどう歩いてきたか……思い出すことはできるが、実感はない。
それでも、ここに来てしまうのか……。
P「ははっ……まったく、俺は」
いや……
ここは貴音の……彼女との思い出がまだ色褪せない場所だ。
そう思わなければ、俺の心が救われない。
ああ、そうだ。酒でも買ってこよう。
彼女が成人したら、一緒に飲むはずだった……約束。
その日にはまだ一年早いが、もうすぐ日付が変わって彼女の誕生日になる。
ひとり、ただ泣くだけなんて……今はつらい。
─ 765プロ事務所 ─
さあ泣こう! などと意気込んでみても、なかなか泣けないもので……。
人間って生き物は、なにをするにも疲れるようにできているみたいだ。
P「ふぅ……」
酒が美味いと思ったことはあまりない。
でも、こんな日はたまにあるから……
思うまま泣いたり笑ったりしていい言い訳は、やっぱり必要なんだろう。
P「言い訳、か……」
なにもできず、泣くだけの自分に……。
なにも……
P「……」
本当にそうか?
もう、なにもできることはないのか?
藁にもすがるほど無様にあがこうと、まだなにかできることが……。
P「俺に、なにが……」
「お嬢様はいつも手を伸ばされます」
そうだ……今もどこかで手を伸ばしているかもしれない。
俺に、届くように。
「お嬢様が伸ばされた手を、どうか取って差し上げてください」
窓を開け放ち、星空を仰いで……
少しでも遠く、遠くへと手を伸ばす。
P「届け!」
言葉に出さなければ、わからないこともある。
だから、声の限り伝えよう。
出来ることなんて、それしかないんだから。
P「戻ってこい!」
P「もう絶対に離さない! 今度こそ……」
P「今度こそ、二人で生きよう……!」
必ず届く。
必ず、その手を取る。
P「だから……届け!」
───
いま、なにか……聞こえた
声だ
確かに聞こえた……
あの人の声
もう聞こえない……
でも、手を伸ばせば届きそうで……
ああ、あなた様
わたくしの手を、どうか……
「あなた様……」
届いて、いますか……?
わからない……
もう、なにも……
あなた……さま……
───
P「……!」
今、なにか……
なにかを、掴んだ気がする。
いや、確かにこの手に掴んだ。
P「掴んで……」
俺はそれを……離さずにいられたのか?
離さずに、手繰り寄せることができたのか?
……わからない。
目の前に、彼女はいないから。
P「……」
時計を見ると、日付が変わっていた。
1月21日。
彼女が、四条貴音として19回目の誕生日を迎えるはずだった日。
今夜は新月だから、きっと月は見えない。
それでも、少しでも近くに行けば……。
彼女が好きだった月に、この想いが届くだろうか。
…………
………
……
…
…
なにかが砕け散るような音で、わたくしは目覚めた。
そこは暖かい寝床ではなく、固く冷たく肌に痛い、無機質な桟敷。
仰ぎ見れば、天井ではなく澄み渡った星空。
ゆっくりと起こした上体が、寒風になぶられる。
「ここは……」
見覚えがある。
最も新しい、かつて人間として生きた記憶。
ここは……たるき亭ビルの屋上だ。
「なぜ、ここに……」
それは……思い出せない。
いや、ここにいるはずがない。
「わたくしは、いったい……」
稲荷様の祠を見る。
周囲に散らばったなにかの破片と思しきものが、僅かな月と星の灯りを照り返し、きらめいている。
「……」
手に取るまでもなく、それが何であるかはわかる。
でも、確かめずにはいられなかった。
「やはり……」
それは、わたくしが封じた手鏡。
あの人の隣にいられるようにと、この祠に封じた……。
跡形も留めぬほどに、砕けていた。
「形代、か……」
おそらく、そういうことなのだろう。
本人にとってなんの価値も無いものでは、身代わりの役に足り得ない。
半身を引き裂かれるほどの痛みを以て、形代は初めて体を成す。
それは、たとえばこの手鏡のようなもので……
大切な思い出によって代償を贖い、わたくしは今ここにいる。
「……」
祠の前に跪く。
そこに散乱するものは、かつて何かであったもの、何かの抜け殻でしかないものだ。
だからだろうか……あの神社でこの手に戻ったときに流した涙も、今は無い。
これが、思い出を殺すということ。
涙を流すこともできないのは、とても悲しいことだと……思う。
でも、それはなにか人間らしいことのようにも思えた。
思い出の残滓に触れてみようと、手を伸ばしてみる。
ゆったりとした袖が、風にそよいだ。
「……?」
これは、四条貴音が最後に着ていた洋装ではない。
和装……それもとても古い仕立ての着物だ。
現代の娘たちが、晴れの日に着る振袖とは違う。
風流で着るようなものとも違う、古い古い時代の着物。
知っている……そう、憶えている。
「まさか……」
足元の、比較的大きな鏡のかけらを拾ってみる。
そこに映し出された、わたくしの顔は……
「そう……」
四条貴音ではない、ほかの名を持つ誰でもない。
人の姿に化けた狐のあやかし……。
本当の……いいえ、違う。
人間のふりをした、最初のわたくし。
「つっ……!」
一瞬力のこもった指が、小さな痛みを訴える。
鏡のかけらで、少しだけ切ってしまったようだ。
指先から血が一筋伝っている。
まるで、人間のような。
「なぜ……」
ただの狐であれば、人のように血も流す。
でも、わたくしはあやかし。
世の理の、外にあるもの。
このような痛みだって、本来ならただそうだと認識するだけのものだ。
なのに、なぜ……?
「この痛みは……?」
幾百年も繰り返した、仮初めの生と死。
それとは違う……今までわたくしが知らなかったもの。
いや、最初は知っていた。
狐として生きていたころには。
終わりある命という重み。
この押し潰されそうな重さこそ、生きるということ……。
わたくしは、人間に……?
不意に踊り場の扉が開かれた。
「!?」
そこには、蛍光灯の逆光に浮かび上がった一人の影が見える。
特別、大柄でも小柄でもない青年。
どこにでもいそうな姿かたちではあるけれど……
わたくしにはすぐにわかった。
「あ……」
「え……?」
先客がいるとは思っていなかったのだろう。
彼は少しだけ驚いた顔をして、軽く会釈してきた。
「失礼……」
「い、いえ……」
「……?」
顔を上げた彼は、今度は不思議そうにこちらを見た。
瞬間、鼓動が跳ね上がる。
これもまた、初めて知る感覚。
人のいう、心が震えるとはこういうことだろうか。
でも……。
「……」
「……」
わたくしのこの姿を、この人は知らない。
憶えていない。
なんとも時代錯誤な装束をまとった、見知らぬ女人。
この名を名乗っても……
あなた様はわたくしと気づかないのでしょう。
「お邪魔を……」
その胸に飛び込んでも、悲しい思いをするだけなら……。
立ち去ってしまったほうがいい。
「……」
「……」
いいえ、そんなのは嘘。
だって、ここから一歩も動くことができない……。
「貴音……か?」
「!」
今のわたくしは、もうその名ではない。
でも、なぜ……?
気付くはずはないのに……。
「そう……なんだな?」
「ちがっ……違います……」
とても残酷な仕打ち。
わたくしは、あなた様が求める四条貴音ではなく……
また手の届くところにあるあなた様は、わたくしを憶えていない。
「いや、君は……」
「……」
ただ首を横に振ることしかできない。
今のわたくしに、この痛みは耐えられないから。
もう、永劫の時を待つことはできない。
待たなくてもいい。
それは……この想いを終わらせることが出来る、ということ。
「……さようなら」
また嘘をついている。
人間の心と体を得ても、人を騙す……哀れな狐のあやかし。
自分を騙すことなんて、できはしないのに……。
「……そう、貴音じゃない」
「?」
「君は……貴音じゃなかった」
「……」
そう……わたくしはもう、あなた様の四条貴音ではありません。
どうか、その名ごと忘れて……
「……」
「……」
「風花」
「え……」
「君は風花だ」
その名。
それは……
わたくしと、あなた様だけが知る……最初の名。
「あ、あぁ……」
「顔を見せてほしい」
涙が頬を伝う。
その暖かな雫は、自分がたしかに人間であることを実感させてくれる。
「うっ……ひぐっ……」
「……」
ともに笑い、泣いて、想いを未来へ繋ぎ……
やがて、ともに終わりを迎える。
それが、人間なんだ。
「わたくしは……!」
「やっぱり風花だ」
差し出された手が、愛おしげに髪をすく。
そこに、そっと手を添える。
「やっと届いた……」
「はい……」
星空のもと、ぽつぽつと雨が降る。
頬を濡らす涙のような、とても暖かい雨。
「風花……」
「はい……はい……!」
「うん……」
雨は、悲しいだけじゃない。
「あなた様……!」
おわり
色塗れなかったけど>>33の参考画像
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切なくて暖かい良い話だったよ
無粋かもしれんが後日談は無いのかな
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