海の上の駅(125)
この世界に人はどれだけいるのだろう。
たくさんの人がいる場所もあるだろう、人が全くいない場所もあるだろう。
この場所には私一人。
生まれたときからこうなのだ。
世界はこういうものなのだ。
私は海の上の駅舎で生まれた。
私は生まれたときから「私」として完成していたがそれはこの世界がそういうものだからだ。
今日は少し寝すぎてしまったらしい。
ドアを開け駅のホームに足をつけるとジリッとサンダルの底が焼けた気がした。
太陽はとっくに海から顔を出しもうすぐ私の真上まで上がるころだ。
家に隣接する線路は昨日の雨で増えた海のせいで水の中を走っている。
太陽の日差しに誘われ日向ぼっこするかのように魚は線路の上で漂っている。
今日は列車が来る気配がない。
きっと何もしないのが今日の私の仕事なのだ。
私はいったん家の中に戻ると水着に着替え窓から海に飛び込んだ。
太陽は相変わらず私を焼いていたが魚はもうそこにはいなかった。
この海は線路に乗せて運び、また連れてきては、連れていく。
しかし私をどこかに運んではくれない。
私の意味はここにしか存在しないから、ここにいることで私は肯定されるのだ。
なにを羨むわけでもない。
私は与えられた意味その通りに生きていく。
…そう生きてきたはずなのになぜだか最近頭の中が重たい。
海を行く魚を見ると、空を高く飛ぶ鳥を見ると。
なぜだか重たく感じるのだ。
今日は雨。
線路は海に沈み駅のホームぎりぎりまで達した水面を雨粒が叩いている。
雨粒が作った波紋はいつもよりも黒いホームに吸い込まれていた。
こんな日は電車は線路を走れない。
逆を言えば今日は電車が走る意味はないのだろう。
雨の日はすることがなくなる。
読書が普段の雨の日の過ごし方だが今日はなんだかそんな気分でもない。
朝ごはんの皿も片さずにぼーっと窓から外を眺めていた。
どんどん強くなる雨脚を窓や屋根をたたく音で感じ、聞き入っていると遠くから何かが聞こえた気がした。
それは海をかき分け進む音、今日聞くはずのなかった音だった。
しかし、どんなに不思議に思っても事実、音は近づいている。
私は急いで部屋を片付けなければならなかった。
この世界で生きるには与えられた役割を、自分の意味を果たさなくてはならないのだから。
私の役目は、この駅を訪れた人を迎え出発の日に見送ること。
私は幾度となく繰り返してきた。
いままでこんな日に電車が来ることはなかったがそんなことは関係ない。
今日の私に意味が与えられるなら、仕事があるのならこなすだけだ。
やがてホームに電車が滑り込む。
電車によって裂かれた海はホームを濡らすがそれはまるで吸い込まれたかのようにホームの色を一瞬変えただけですぐに消えていった。
ドアが開くと乗っていた男はゆっくりとホームに降りた。
雨が降っているというのに走って私のドアを叩くわけでもなく、ゆっくりと近づいてきてそのまま自然な動きでドアを自分で開けた。
「長い間お疲れ様。君がしたいことは何かな?」
自分の目的のために行動してるんだよ?
この世界ではとびきりに異質でしょ?
具合が悪いのはどう見ても明らかなのに海が見たいんだって。
綺麗で穏やかな時間が流れているはずなんだって。
目だけは輝かせて私に語ってた。
でもねもう男の人は限界だった。
きっと私のところに来る前から随分ひどかったんだと思う。
私の家で過ごしたのも一ヶ月ぐらいだったかな。
具合は悪くなるばかりでね。
それにすごい勢いで年をとっていったの。
男の人は毎日「海」の話をしててね私は男の人の話を聞きながら海の絵を描いてあげたりしてた。
でも話で聞いた想像でしかないからね見せるとまた細かい説明を始めて修正させるんだ。
結局、納得のいく絵が描けたことはなかったな。
最後の日、男の人は日向に座って海が見たかったなぁって言い続けて目をとじて二度と開けなかった。
それでね私も海ってやつが見たくなったんだよ。
当たり前だよね、目の前で人が死ぬ間際いや死にながらにも見たがった風景だもん。
だからね私は絵を書いてあの男に届けてあげるの。
本当の海を見て。本物を届けてあげるのよ。
「はいできた。これはお姉さんにあげる」
静かに語っていた少女は唐突に明るい声を上げた。
少女が差し出した紙には私の寝顔が描かれている。
「お姉さんまだ本当に若いでしょう。これからいろいろあると思うけど頑張りなさいね」
暖かな少女の言葉からは外見には現れない本当の年齢が見え隠れしていた。
それに私は少女が最後「男の人」を「男」と呼んだことに気づいていた。
一ヶ月しか一緒に過ごさなかったのに大事な人だったんだろう。
受け取った似顔絵を大事に折りたたんでバッグにしまう。
「付いて行ってもいいですか?あなたがその人に届けたいその場所まで」
「やっぱりお姉さんいい人だね」
それはもう無邪気な少女の顔で放つ無邪気な少女の言葉だった。
「お姉さんが私に敬語使うなんて変だよ」
とてもおかしそうに少女は笑った。
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