憂「いい子の私と明かりの話」 (29)
かみさま おねがいです
いい 子 になりますから
お 姉 ちゃんの
びょう 気 を
な お し て く だ さ い
う い
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◆ ◆ ◆
衣替えのついでに古くなった服を取り分けていたら、
こぼれ落ちた懐かしい宣伝チラシ。
そのスーパーは
三年前につぶれちゃって、
今はドラッグストアになってるんだっけ。
ポイント三倍還元デー、
木曜日は卵の日、なんて色のかすれた赤い文字を目で追ってたら、
小学校の帰りにお姉ちゃんと
いつも二人でお使いに行ってたことまで思い出しちゃった。
いけないいけない、夕方までに終わらせなくちゃ、
でもなんでこんなのポッケに残してたんだろ私、
なんて思いながら
チラシを捨てようとしたその裏っかわ、
クレヨンの子どもっぽい字が踊ってた。
ふわぁ、って思い出が頭の中に広がってくる。
鍋のお湯にコンソメをひとかけら落としたみたいに、
固まってた記憶が少しずつ溶け出して、香りまでただよってくる感じ。
……そうだ、ちょうど今くらいだった。
あの頃の私はまだランドセルもしょってなくって、
季節の変わり目で
お姉ちゃんはひどい風邪を引いちゃって、
ちょうどお父さんはシアトルの会社に行ってて、
お母さんも夕方すぎまで帰れなくって、
お隣のとみおばあちゃんがお世話してくれたんだ。
私はそのとき小さすぎて、
電気を消すと怖いからって
お姉ちゃんの隣で豆電球でいつも眠ってて、
いつも寝るまでおうたをうたってくれてたお姉ちゃんが
うんうんうなってるのが怖くって、
……死んじゃうんじゃないか、って思ったんだ。
もうぬるくなったタオルを頭に当てたりしながら、
なんにもできない私は
ずっと
おねえちゃんがんばって
しか言えなくて、
かえってつらそうで、
そのとき、神様にお祈りすることを思いついたの。
それから、
たぶん三十分もしなかったはずだけど、
ドアを開けて飛び込んできたお母さんに二人して抱きしめられたんだ。
お母さん、
冷え切ったコートを羽織ったままなのに、
なんでかとってもあったかかった。
それは走ってきた息の熱だとか、
断線してたストッキングだとか、
そんなことじゃなくって、
お母さんのあったかさだったんだと思う。
その日、
お母さんと一緒に寝た時の豆球の薄明かり、
お姉ちゃんの汗、そんなことまで思い出しちゃった。
お姉ちゃんはすぐに治った。
前の日に小雨の下ではしゃぎすぎたせいだ、
ってお医者さんにも怒られちゃってた。
でもその日から、私はいい子になるって決めた。
お姉ちゃんはいい子だけど、
それだけじゃ神様は足りないし
許してくれないってそのとき思ったから、
私はもっともっといい子になるって決めた。
お手伝いだってがんばった。
洗濯物をたたんで、
お母さんと一緒に干して、廊下の雑巾掛けだってがんばった。
とみおばあちゃんに見てもらって、
お味噌汁を作るところからはじめた。
(とみさんは「おみおつけ」って呼んでたっけ)
お姉ちゃんの大好きなカレーライスを一人で作れた時、
それはルーに野菜を切って煮込んだだけの簡単なものだったけれど、
お母さんもお姉ちゃんもびっくりするほど喜んでくれた。
お母さんに抱きしめられて、
頭をなでられて、
お姉ちゃんにはちゅーされちゃったりして、
いい子になってよかった、
なんてことを小四ぐらいの私は思っちゃうほど舞い上がってたっけ。
お母さんの呼ぶ声がして、記憶の向こうから引き戻された。
「憂、いるんでしょう?」
はーい、
とその場に手放したチラシ、
捨ててしまうのももったいなくって机の上に置いておいた。
その机はもう一年も使われてなくって、
たまに掃除していても見えない埃がしっとり降りて冷え切っているみたい。
ちょうど一年前、
その机の端っこにホットコーヒーを置いてあげたことを思い出す。
代わりに広がったチラシの字が目に焼き付かないうちに、
二階のリビングへと向かった。
あれこれしているうちにお姉ちゃんが帰ってきて、
久しぶりに三人で夕ごはんを食べて、
お母さんがナスの天ぷらをかじりながら
「最近また、とみさんのリウマチがひどいらしくって」
なんて話すと
お姉ちゃんは卵焼きを箸から落としちゃうほどびっくりしてたり、
お姉ちゃんがサントリーの烏龍茶を片手に
律さんのグチを話せばお母さんは
「あの子は唯よりしっかりしてるものね」
なんて返してむっとしてたり、
私はそんな二人が喋るのにぷふふって笑ってたり、
天ぷらはソース派のお姉ちゃんにも
大根下ろしを少しは薦めてみたり、
そんなことしているうちに気づくと皿洗いまで終わってた。
あれ、私お皿洗ったっけ、と思って振り向けば、エプロンのお姉ちゃん。
「ごめんね」
「ううん、たまにはちゃんとやんないとね」
「いつもちゃんとしなさいよ、唯」
「お母さんひどい!」
むくれてほっぺを膨らませたお姉ちゃんはかわいくって、
何年も前に戻ったような錯覚まで起きて、
でもお姉ちゃんの唇には薄くリップが塗られていて、
あの頃と現在への遠さに、
くらくらしそうで。
ねえお姉ちゃん。
今日、一緒にねてもいいかな。
洗面所を出て、
まだ髪の毛のほかほかしてるお姉ちゃんに聞いてみたら、
にっこり笑って
頭をくしゃくしゃに撫でられた。
ああ、お姉ちゃんがお姉ちゃんだ。
たぶんきっと、私のいないところでも。
◆ ◆ ◆
「うひゃ、なつかしーい!」
私より先に自分の部屋に戻ってたお姉ちゃんが、
置きっぱなしだった例のチラシを開いてかわいい声をあげてた。
うちにあったお姉ちゃんのパジャマを着てるせいで、
十九歳になったばかりのお姉ちゃんは
実年齢よりずっと子どもっぽくみえて、いとおしかった。
なんだか二人して小学校かその前に戻ったみたいだなって、
ベッドサイドで隣に座った
お姉ちゃんの体温と一緒に感じてた。
「ねえ、お姉ちゃん」
「なあに?」
「……もう、病気してない?」
してないよー、って笑って私のほっぺをつっついた。
仕返ししたら、おんなじ顔して笑ってた。
お姉ちゃんは元気でやってます、って言うから、そうだねって私も笑った。
きっと、おんなじ顔で。
お姉ちゃんが照明のひもを引く。
夜の帳がふわりと落ちて、
白んだ部屋の明かりに慣れきってた私の目はなんにも見えなくなった。
誰もいない部屋。
私の部屋はこの一年、いつだってそうだった。
今日はお姉ちゃんが居る。
なのに、
眼が移り変わりになれないまま、
お姉ちゃんを見失ったままでいる。
豆電球、つけてもいい?
って聞いたら、お姉ちゃんがオレンジの明かりをぽつっと灯した。
そしたら、見えた。
一緒のお布団、二人分の熱であったかい。
手、昔みたいに指先を引っ張ってみたら、つないでくれる。
あったかい。
薄暗いオレンジ色、
隣で呼吸にあわせてお布団が上下してる。
久しぶりだね、って思ってたとき、
お姉ちゃんがそう言った。
今思った、って返したら、
えへーってほほえむ音が聞こえた。
憂も来年には後輩かあ。
そうだよ。
来年になれば、お姉ちゃんと一緒。
でも本当はそうじゃない。
私とお姉ちゃんの距離は少しずつ離れていって、
来年にはお父さんの夢、
娘にお酌をしてもらうって夢が叶って、
それから数年も経たずに
お姉ちゃんは就活をはじめて、
まだ慣れないスーツ姿もいずれお母さんみたいに着こなしたりして、
私のまだ想像できない経験が
人生が待っている。
いつかお姉ちゃんのことを好きになる人があらわれて、
お姉ちゃんもその人のことを求めたりして、
結婚して、子供が産まれて、お母さんみたいになっていく。
たぶん、ほんとにお母さんみたいに優しいママになるんだろうな。
変わってなくても、変わっていく。
「あの熱、憂が治してくれたんだよね」
ひとりごとが聞こえた。
言葉と息は薄闇ににじんで、オレンジの灯りの方へ溶けて消えていく。
死んじゃうかと思ったんだよ、って言ってた。
死、という響きに思わず指を強める。
握り返してくれる。
「憂、受験勉強どう?」
そんな世間話、反射で返事してしまった。
「うん、がんばってるよ。
もうB判定だから、大丈夫だよ」
よそ行きの声は、この部屋には似合わなかった。
変に響いた声のかたちがたまらなくって、私は布団の中に潜り込んだ。
お姉ちゃんも布団をかぶった。
そこで、私がこっそり付け足した。
ううん、
最近あんまり集中できないの。
このままだと、だめかも。
そっかあ。
憂も、いい子じゃないんだね。
ってお姉ちゃんがこっち向いて布団の中で笑った。
きょーはん、っていうんだっけ、
って聞かれて、
そうだね、キョウハンだね、
って狭苦しい布団の中でささやいた。
絶対違うと思ったけど、そういうことにした。
あつくるしくって、二人同時に布団をはがした。
空気の冷たさが顔に当たるの、ちょっと気持ちいい。
つないだままの手を布団に投げ出して、なんとなく外す。
手の汗が部屋の空気に冷えていく。
薄明かりの色は変わんないのに、
なんでだろう、
数千年も旅した果てに来たような、そんな感じがした。
今ならなんでも言えそうな気がする。
見逃してもらえそうな気がする。
「お姉ちゃん」
「なあに?」
「一生、お姉ちゃんでいてね」
「いいよ。
憂も、一生、憂でいてね」
「わかった」
布団の上に投げ出してた手をつなぎ直した。
少し冷えた手を重ね直すの、意外と悪くないのかも。
お姉ちゃんは午後から大学の授業があるから、
朝にはこの町を出なきゃいけない。
こんな時間はいつまでも続かない。
お姉ちゃんは、私の知ってるお姉ちゃんではなくなってゆく。
でも、
そんなお姉ちゃんの姿も見ていたいと思った。
私でなくなっても、
きっとお姉ちゃんは私のことを見てくれるはずだから。
きっと、ぜったい。
もう寝ちゃう間際、受験勉強がんばってね、ってお姉ちゃんがいう。
うん、って今度こそ。
そしたら、
私も知ってるお姉ちゃんの失敗談をいくつも聞かせて、
「私みたいにならないでね」って念押しをした。
ならないよー、って言った自分の声が響いた。
そっか、よかった、って
お姉ちゃんの声がオレンジに溶けた。
◆ ◆ ◆
目を閉じる。
手はまだつながったまんま。
ずっと覚えてたい、
忘れちゃっても、また何かのきっかけで、思い出せたらいい。
いつかまた、
彗星が数年周期で巡ってくるみたいにして、今日と同じ日が来たらいい。
そんなことをなんとなく、神様にこっそりお願いした。
おやすみなさい。
さようなら、私。
おわり。
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