京太郎「扉のこちら側」 (115)
また色違いの扉を見つけた
開いていたから、閉じた
それだけ
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一作目
京太郎「扉の向こう側」照「あはっ」
二作目
京太郎「扉の向こう側」淡「あはっ」
前作
京太郎「閉ざされた扉」
須賀京太郎はれっきとしたプロの雀士である
小、中、高、大学と麻雀にばかり感けていた人生としては
当然の末路のひとつとも言えたが
京太郎自身、別に生活するための日銭を稼ぐだけなら
プロになる必要は全くないと考えていた
彼に言わせるとするならば――
京太郎「プロという立場はとても都合がいい」
京太郎「麻雀に関係することでなら殆ど怪しまれないし」
京太郎「人とのコネクションや、情報収集でも一般人より優位に立てる」
京太郎「つまるところ、俺のやりたいことと噛み合ってたってだけ」
と、なるだろう
かつて学び舎を共にした先輩との再会は
けして気分の乗るものではなかったのだろう
行きつけの喫茶店で椅子の背もたれに深く身体を預けると
サービスで出てくる冷水に口を付けて一息つく
通常、この季節だと氷の入っていないただの水が出てくるものだが
店主の方は常連である京太郎のことをよく分かっていた
彼はどんな季節、どんな天気であろうとも
まずは冷水を飲むところから始めるのである
京太郎「(前哨戦もいいところだけど……終わったな)」
自分に繋がる一つの関係が清算された
それはとても希薄で、今更掘り返す必要もなかったのかもしれない
京太郎「(けどなぁ……ダメだ。うん、教師はダメだ)」
教育者とは無知蒙昧の徒を導く者である
大仰な言葉を用いているようだが、京太郎はそう思っている
そして、そんな理想像めいた京太郎の認識と
実際の教師の姿が異なっていようと関係ないのである
少なくとも、教師は生徒に対して何らかの影響力を持っている
その事実は間違いないのだから
事実がある限り、彼女の扉は閉じなければならない
京太郎「(あの『扉』は照ちゃんや昔の俺が開いたものより厄介……)」
京太郎「(現実を現実と認めるだけの『扉』)」
京太郎「(可能性など幻想の陽炎なのだと嘲笑って)」
京太郎「(叡智と経験によって積み上げられた安定だけが)」
京太郎「(唯一存在を許された景色を奥に秘めている『扉』だ)」
経験は薬だ。京太郎はそう考えている
成功した経験があるから信じようという試みが生まれる
失敗した経験があるから疑おうという試みが生まれる
そういう試行錯誤を繰り返すことで人間は
より良く在ろう、より善く生きようとしてきた
京太郎「(『鍵』を持つ教師は、必ず教え子に『鍵』を渡すだろう)」
京太郎「(意識的にしろ、無意識的にしろ)」
京太郎「(『扉』が開けられてしまう可能性があるんだ)」
京太郎「(……放ってはおけないさ)」
しかし、薬も用法用量を間違えれば毒と転じる
過度に経験と、経験が積み上げた知恵を信じるということは
全ての事象を類型・体系づけ、未来さえも
そこに当て嵌めて予想できるものとして扱ってしまうことになる
それは非常に危うい姿勢であると、京太郎は考える
規則的で型に当て嵌まった変化の望めない世界、未来
変化することを恐れ、想定に沿うことを強制する
現実を現実と認めるだけで、そこから先に展望がない
より良く在りたい、より善く生きたいという
本来の願いすら忘れて、ただ安寧を貪る生き方……
京太郎「(ある意味では正しいんだろうな)」
自ら学び、危険と理不尽を避けて寝床に着く
生物として当然の営み。生命あるものの揺るぎない行動
それを人間は他の生物とは異なる方法で行っているだけだ
だから、正しい
京太郎「(ある意味では正しいんだろうな)」
自ら学び、危険と理不尽を避けて寝床に着く
生物として当然の営み。生命あるものの揺るぎない行動
それを人間は他の生物とは異なる方法で行っているだけだ
だから、正しい
京太郎「(正しいが故に……間違っている)」
人は、正しさだけで生きているのではない
正しさだけで満たされるのであれば法は必要ない
言語も、通貨も、統治者も、隷属者も。何も必要ではないのだ
正しくある人々によって構築された社会は滞りがなく
互いが互いに「正しく在れ」と信任している状態
だが、実際問題として京太郎の生きている社会はそうはなっていない
人には心がある
自分がどこへ向かいたいのか、どう在りたいのかを決めるものだ
それが、時に正しさから反しながらも――
人類を先へ、前へと歩ませる原動力となってきた
その蠢動を「正しく在れ」と言って頭ごなしに否定するのは
間違っている
京太郎「(それもまた『正しさの押し付け』なんだろうけど……)」
この世界に絶対的な正義など存在しはしない事も分かっている
互いが互いに異なる主義主張を掲げて、お前は間違っていると
どちらかが倒れるまで血みどろの殴り合いを演じているだけだ
どちらがより大多数の人間から賛同されるのかというだけで
「お待たせしましたっす」
京太郎「ありがとう」
「ごゆっくりどうぞ」
出口の見えない思索を打ち切って京太郎は
給仕服を着込んだ女性が運んできたコーヒーを口にする
ついぞコーヒーの味の良し悪しなどは気にしたことはないが
この店のそれはどこか安心できる温かみがあるように思っていた
京太郎「(店長が同郷出身だからかな……)」
京太郎「(ここの本家、というか本店か)」
京太郎「(長野の方にあるらしいけど。このコーヒーもそうなのかな)」
無意識のうちに生まれ故郷を感じているのだろうか
たった一杯のコーヒーを味わうことで
京太郎「(もしそうだとするんなら――)」
京太郎「(まだ俺にも感傷に浸れる心くらいは残ってるってことなのかな)」
京太郎「(向こう側を知らなかった、あの頃の心が)」
「久しぶりじゃないか、一ヶ月くらいか?」
京太郎「あ、お疲れ様です。店長」
店内の一角に座る京太郎より一礼を受けた女性は
喫茶店というよりはバーのマスターと説明した方が
納得を受けるような出で立ちで、男装の麗人という言葉が
これほどまでに似合う相手を京太郎は知らなかった
京太郎「ここ最近少し立て込んでいまして、なかなか……」
京太郎「なのに今日は貸切までしていただいて」
店長「なに、年末でちょうど暇をしていたから構わないさ」
京太郎「なんか、すみません」
店長「悪いとも思っていないのに謝るのは君の悪い癖だぞ?」
京太郎「……これは手厳しいですね」
苦笑いを零してまたコーヒーを口に含む
社交辞令は対人関係を円滑にするうえで重要な
コミュニケーション手段かもしれないが
使う時と場合、相手を選ばなければ墓穴を掘る
まこといい例だった
京太郎「(この店長、観察力と洞察力ならプロの中でも一流レベルだよ)」
京太郎「(打ったことがあるから知っているけど)」
京太郎「(実力の方も決して悪くはない)」
京太郎「(……なんで喫茶店の店長なんかやってるんだろ)」
世の中にはこういう、実力はあれどそれを表出させないまま
市井に紛れて生きる人間が一定数存在している
かつての京太郎であれば「勿体ないな」と
善意から彼ら彼女らを表舞台に引っ張り出していただろうが
京太郎「(ま、それも一つの生き方だ)」
戻って来てからはこうやって割り切ることが多くなった
勿論割り切らない事例もあり
それこそが『扉』を開き“向こう側”に渡ろうとする者
渡ってしまった者に関することではあるが
京太郎「彼女、最近はどうですか」
店長「どう、とは?」
京太郎「日常だとか、勤務中での様子ですね」
京太郎「まぁ、今の彼女を見ていれば愚問だとは思いますけど」
店長「全くだな」
苦笑か、同意か、安堵なのか
複雑に絡み合う感情を隠すことなく店長は店内を見渡す
できる限り本店に近い装い店内の眺めは
いくつか雀卓が置かれている以外、他の喫茶店と変わりはない
京太郎がこの店に初めて来てからというのも
店長を含め、店員が二人なのも、変わらない
店長「……昔みたいなことはほとんどなくなったな」
店長「『そうする必要がなくなった』のだから当然かもしれないが」
店長「なんでかな、少し寂しいような気分だ」
京太郎「…………」
店長の言葉の意味は、京太郎には分からなかった
“向こう側”へと渡ってしまった者には大別して二種類がいる
宮永照や須賀京太郎のように、何の因果か鍵を手に入れて
様々な『扉』を開けていくうちに“向こう側”へと辿り着いた者
残るもう一方は、偶然に開かれていた『扉』から
これまた偶然が重なって迷い込んでしまった者
迷い込んでしまったが故に“向こう側”に対する知恵も心得もなく
ただ出口を求め彷徨う迷い人
小奇麗でシンプルな店内を丁寧に掃除する給仕服を着た女性
彼女――東横桃子という女性はそういう存在であった
彼女が“向こう側”に迷い込んだのが偶然なら
その後に店長と呼ばれることとなる人物と出会ったのも偶然
京太郎が《roof-top 二号店》の『扉』を開けたのも偶然
その時の彼が“こちら側”に戻って来た後だったのも
全てが、偶然だった
そして彼女らと出会って京太郎がやったことといえば
これまでと同じこと。特別なことなどない
“向こう側”に通じる『扉』を閉じた、それだけのこと
必要以上の交流もなければ、接点もない
だから京太郎には困ったように笑う店長の内心は分からない
京太郎「でも……それ以上に彼女のことは大切なんでしょう?」
店長「まあな」
店長「あいつは自分を必要としてくれて、救われたと言っていたが」
店長「救われたのは――私の方なんだ」
店長「どうにもならないはずだった。捨てるしかないはずだ」
店長「でも――あいつが、モモがいてくれたから」
店長「私はたった一つの望みを諦めなくて済んだ」
欲望を抜きにした願望
人は誰しも一つは持っているものである
懐かしむような彼女のそれは何だったのだろうか
それは大抵に於いて、袋小路の現状を
どうにかして前に進めようとする意味合いを持っているものだが
救われたと言った。だとすればその願いはきっと
彼女が生きてきた中でとても大切なもののはずである
京太郎「(互いが、互いにとっての救い、か)」
温くなったコーヒーを一気に飲み干す
共依存関係のような二人
人間は決して不滅でもなければ不変ですらない
だから寄り掛かる存在としては不適格だ
土台が歪み、柱が撓み、梁は崩れ落ちる
そんな家に進んで住みたいと思う人間はいない
だが、それでも、それを含めてなお二人の人生なのだ
良かれと信じ、安らかにあれと願って善とする選択
そこに模範解答はなく、ただあるのは現実だけ
そして現実に対処していくのは、結局のところ選択者なのだから
京太郎には何を言うつもりもなく
事実かける言葉も持ち合わせていなかった
店長が空のカップと共に奥に下がるのを横目に
京太郎は置かれた柱時計で時間を確認する
態々今日この店を貸し切ったのはなにも
一年間の労をねぎらってパーティーを開くためではない
相も変わらず人と会うためであり
そろそろ約束の時間も迫ってきているのだが
肝心の相手の方が姿を見せる気配がない
10年越しに顔を合わせた弘世菫と違い
今度の待ち合わせ相手はここ数年で頻繁に顔を合わせ
苦楽を共にしている仲――
京太郎「(……苦労してるの、俺だけじゃないかな)」
兎に角、少なくとも店員の二人よりは見知っているから
心配などは特にしていないのだが
「ごっめーん! 遅れちゃった」
待ち合わせ時間が過ぎてから数分後
高価そうなコートを羽織った女性が慌ただしく入ってくる
彼女の後ろにはカメラなどの、素人でも撮影用だと分かる機材を
脇に抱えた男たちが数人追従して店内に入った
「いらっしゃいませ」
「お、元気そうねー」
「それはもう元気モリモリっすよ」
ゾロゾロと連れ立って入って来た一団の先頭
見事な栗色の髪を無造作に伸ばし
しかしそれを上品に見せる色気を備えた女性は
何の躊躇いもなく京太郎の前に座ると
後ろで控えていた男たちにも座るよう声をかけた
京太郎「竹井さんが遅刻とは珍しいですね」
京太郎「ギリギリになることはあっても遅れはしないのに」
久「いやー、そこの小路ね? ウチの車じゃあ通れなくって」
久「普段あまり来ないから道も分かんないしで無駄に遠回りしちゃったのよ」
京太郎「あー……ここ指定する時、それは考えてませんでした」
京太郎「すみません」
姿勢を正して頭を下げる京太郎に
下げられている方である女性――竹井久は「いいけどね」と
気にする風もなく自然に髪をかき上げる
久「まぁ? こっちはこっちで予定も詰まってることだし」
久「早速だけど始めてもいいかしら」
京太郎「勿論です」
間違いなく異議を唱えられる流れではなかった
それに予定が詰まっているという久の言葉も嘘ではないだろう
アマチュアの麻雀大会等がテレビ放送をされる際には
プロ雀士とアナウンサーが一組になって実況解説するのだが
そのタッグとでもいうべき組み合わせは慣例的に決まっている
例えば、かつて国内無敗と謳われた小鍛治健夜であれば福与恒子が
長らく日本代表で先鋒を務めた火力自慢の三尋木咏なら針生えり、となる
そして須賀京太郎の場合が目の前にいる彼女、竹井久なのだ
高校生時代、清澄高校を部長として率い、初出場ながらに
インターハイで準優勝を飾った確かな実力と知識からくる的確な実況
さっぱり分からないと専ら評判の、京太郎の解説を平易にする手腕
この二つに加え、彼女自身の見目麗しいことも相まって
ここ数年で急激に人気を高めたのだから
年末年始の特番に引っ張りだこなのであろう
この後もテレビ局にとんぼ返りして収録
最悪明日の朝までびっちり詰まっている可能性もある
団体戦が長引いても日を跨ぐことすらそうない京太郎からすれば
眩暈のするような話だ
久「それじゃあ、手始めに訊きたいところは……そうね」
久「現在須賀選手の順位は首位と僅差での二位」
久「このままいけば宮永選手とのタイトル争いになるわけだけど」
久「最終戦を目前にした今の心境はどうかしら?」
京太郎「いつも通り、と言いたいところですけど」
京太郎「気負っている部分がないわけではないんですよね」
京太郎「これほど勝ちたい、勝たなければならないって」
京太郎「気持ちが切迫した試合は初めてですから」
久「そうよねー。普段仕事してる時とか感じるんだけど」
久「須賀選手は結構淡白なところがあるわよね」
京太郎「自分では、そんなつもりはないんですけれど」
久「ふふ。そういうクールなところを言ってるのよ」
久「タレント顔負けのルックスも相まって女性支持も高いけど」
久「やっぱりその辺気にしてって、そうか」
久「須賀選手、昨年結婚したのよね……はぁ」
久「羨ましいわ、ホント」
京太郎「本心ですか? それ」
久「モチのロンよ。私も癒しが欲しいの! 癒し!」
京太郎「はぁ」
久「つれないわね……」
久「結婚の話題、一部では結構騒がれてたけど」
久「須賀選手自身、それについて思うことってあった?」
京太郎「全然関係ない話題になりましたね……」
京太郎「思うところ、と訊かれても特別なことは何も」
京太郎「女流プロは独身の方が多いですから、騒がれもするでしょうけど」
京太郎「俺の場合、本当に一部で騒がれただけですので」
久「まー、普通、その一部が怖くなるんだけどねー。普通」
京太郎「夜道を襲撃されるんじゃないかと不安になりました」
京太郎「……とでも言えばよかったんですか?」
久「それはそれで問題だし、本当に起きかねないしでカットされるわよ」
京太郎「本当に襲われるのは嫌です、流石に」
久「へぇ?」
京太郎「もう俺だけの身体じゃあ、ありませんから。大事にしないと」
久「ま、身体が資本な職業だしねー」
久「周りにかける迷惑なんかも日々大きくなってく一方だし」
京太郎「取り敢えず結婚云々の話は止めませんか?」
京太郎「大晦日の最終戦には関係ないでしょ」
久「そうは言っても、ねぇ」
久「やっぱりテレビ的にはその辺美味しいわけ」
久「男子麻雀界期待の若手と、そこそことはいえ人気だったアイドルの馴れ初めよ?」
久「それを独占取材できるとか燃えてこない?」
京太郎「……俺には分からないですね」
他人のプライベートに首を突っ込みたがる、というよりは
多くの人間にとって衆目を集める者というのは
別の世界に暮らしているようなもので
彼らの中での価値は創作世界の人物に等しい形で存在している
即ち、画面越しに見える場所以外にも彼らは
京太郎や久のような人間に対して、ドラマチックなストーリーを期待しているのだ
そんなものなどありはせず
著名人も、大衆の中の一人も等価値の人間に過ぎないのに……
なおも食い下がろうとする久の追及をかわし
本題へと話を戻そうとする京太郎であったが
それは本当に、彼にとって心惹かれた女性との出会いは
至って普通で、仲を深めたことも他愛のない切欠に過ぎず
やはり全てが偶然の連続とほんの少しの気紛れに支配された
酷くつまらない、有り触れた筋書
それは開きかけの『扉』だった
誰かが『鍵』を開けて――けれど、そのまま開かなかった
少し力を込めれば開いてしまう、そんな『扉』だった
彼女は腐っているとも、腐りかけとも少し違った
扉は開いているのに“向こう側”を見ていなかったから
そこから多少の影響を受けることはあっても
自ら深入りしようとするには、知識も欲も足りていなかった
だから彼女は“向こう側”を見ていなかった
見ていなかったが故に、普通の人間だった
良くも悪くも
彼女の『扉』がそうなってしまったのは偶然だろうと京太郎は考える
もし仮に『鍵』を持つ人間によってそうなってしまったのだとしたら
これほど何がしたいのか分からない人間もそうそういない
京太郎自身、彼女の『扉』の“向こう側”に何があるのかは知らない
開かれていないのだから、態々開ける理由もなく
その頃にはもう“向こう側”に対する魅力も尽き果てていた故に
京太郎はそのまま彼女の『扉』を閉じたのだった
おそらく放っておいても『扉』は開かれなかったであろう
彼女の目を見て、“向こう側”を見た人間として
京太郎はそんな感想を抱いていた
だから、自ら『扉』を閉ざしたのは、ほんの気紛れ
念の為の保険と言い換えれば聞こえはいいが
そんな打算など一切介在する余地のない気紛れだったのだ
この気紛れが、後々にまで彼女と京太郎を繋ぐことになるのだが
それはまた別の話であり、些末な事でもある
特番の取材撮影も終わり、久共々店長に礼を言って店を出る
自宅の近くまでなら送るわよ、という久の申し出を断り
京太郎は夕焼けの東京を一人で歩み進んでいく
クリスマスの装いが抜けきらない街並みは
どこかちぐはぐながらも、既に日本の冬景色として定着しており
赤やら白やらの電飾の光に照らされる通りを抜けて帰路に着く
京太郎「(しかし今日はいろんな人に会ったもんだ……)」
母校の先輩、行きつけの店の店員、仕事仲間など
これまでの自分の歩みが結び付けた縁
全員が全員、京太郎と良好な関係でいたわけではない
どんなに努めても決して相容れぬ相手というのはいる
問題はそういう相手を得た時にどうするか、であるのだが
一般的、普遍的な人間であるならば
厄介事は避けよう、角を立てて面倒事にはするまいと
相手の出方を見て、譲歩の姿勢が見られないようなら自身が退く
そういった心理的な働きかけによって
相容れぬ相手とも一旦の共存を図ろうとするものだ
図ったその上で、融和か決別かを選択していく
しかし京太郎にそのプロセスは存在しない
以前より彼はそもそも他人に強い興味を持つことが殆どなかった
“向こう側”を見てしまったが故の弊害
理想を知ってしまった目に現実は水の払底した大地に等しい
しかも『“向こう側”に渡る才能がある』という
唯一と言ってもいいほど、彼が他人に興味を持つ動機も
京太郎自身が“向こう側”の景色を必要ないと切り捨ててしまったせいで
無くなってしまっていたのだから、尚更
京太郎「……また、貴女ですか」
自宅が見える位置にまで来て、同時に京太郎の視界へ
白と赤を基調とした和装――所謂巫女装束と呼ばれるものを着た女性が現れる
例年よりも気温が下がっているにも拘らず
しらぎぬの上に何も羽織っていないのは修行か何かか、と
どうでもいい感想が京太郎の思考の先を突いて出たが
口には出さず、代わりに出たのは溜息だ
京太郎「(本当に今日は、色んな人と会うな……)」
会わなければならない人、会う必要もなければ会いたくもない人
それぞれが、それぞれの思惑で京太郎を訪ねてくる
ままならぬ。本当に、人間というのはままならない
京太郎「東京くんだりまで御苦労なことですね。タダじゃないでしょうに」
「誰のせいだと思っているのかしら?」
京太郎「俺のせいだとでも言いたいんですか」
無言で京太郎を睨めつける女性の態度に
もう一度溜息が出そうになるが、堪えて言葉を吐き出す
京太郎「確かにあのことは俺にも非はありますし」
京太郎「許されることではないでしょう」
京太郎「それは何度も言ってきたことです」
京太郎「それに、俺は許されたいと思ったことは一度もありませんし――」
京太郎「始めたのは、貴女達でしょう?」
京太郎「俺は、ほんの偶然から一端を担ったに過ぎない」
「それはっ……!」
京太郎「自分には関係ない、と?」
京太郎「貴女が直接手を下していなくとも」
京太郎「貴女の家は、彼女の家は、赦さないと決め――彼女を閉じ込めた」
京太郎「籠の中に閉じ込められて、終わりに向かっていくだけだった」
京太郎「それが分かっていながら何もしなかったんだ、貴女は」
京太郎「関係ないはずがないでしょ……!」
「詭弁よ、それは!」
「私に一体何ができたっていうのよ!?」
「閉じ込めることが罪だって言うのなら」
「開け放てばよかったの?」
「それはできない、できるはずがないのよ……」
「できないから、封じ込めるしかなかったのに、それを君は……!」
京太郎「彼女を解き放った」
京太郎「閉じ込めておくのはおかしいと思ったから」
それは動物園で管理された生涯を送る動物を
可哀想だと思う感情に似ている
少し知識を齧った人間であれば、動物園という環境は
そこで生きる動物にとって有用なものであると分かるはずだ
彼らはそこで生まれ、そこでしか生きることができない
彼らにとっての世界は檻に囲まれ衆人環視の中で生きることであり
それ以上でもそれ以下でもない
それ以上もそれ以下も知らないのであれば
苦痛なく命を永らえることができる状況は理想郷と言っても過言ではない
だがそれを生きているとは言わない。少なくとも、人間は
つまるところ、動物園の動物が可哀想だと思うのは
それを人間の生き方に当て嵌めて考えるからだ
『こんな狭い檻に閉じ込められて可哀想』だとか
『見世物として生涯を終わらせるなんて』だとか
人間がそういう状況になっていれば間違いなく同情するだろう
それはおかしいことだと声高に叫び、行動に移すかもしれない
だから、あの時の京太郎もそう考えた
籠に閉じ込められた一人の少女を前にして
『こういう場合は可哀想だと思うのが普通だ』と
『何かしてあげなければいけないと考えるのが普通だ』と
普通の人間が踏むべき手順を飛び越して
『そうするのが普通だ』と、無邪気に行動した
行動した結果――少女と、少女を取り巻く全てが変わってしまった
京太郎「そして俺はまた、彼女を閉じ込めた」
京太郎「自分で始めたことだ、自分で決着を付けなければ意味がない」
京太郎「小さい頃に言われませんでしたか?」
京太郎「遊んだ玩具はちゃんと片付けなさいって」
京太郎「だから元の籠の中に戻した」
京太郎「……それは貴方たちも望んでいたでしょう?」
「あんなことになるなんて知らなかったからよ……!」
「知っていたとしたら止めたわ!」
京太郎「止めて、どうするんですか」
「っ……!」
京太郎「解き放つことすら選べなかった貴女に」
京太郎「何ができたって言うんですか……」
これ以上の問答は無意味だとでも言うように
京太郎は洋風建築の門をピシャリと閉めた
長い黒髪を風に揺らし、表情を悔しさに歪める巫女には
二度とは振り返らずに玄関までの道のりを歩く
相も変わらず、須賀京太郎という人間は人の気持ちが分からない
気持ちを察するために必要な『扉』を全て捨てて“向こう側”に渡り
“向こう側”で得たものもまた捨て去って戻ってきたのだから
その事実は当然とも言えるだろう
彼は“現状”が理解できない
人間の気持ちが理解できないから
それを抜きにした“現実”しか理解が及ばない
先程の女性と決別できた理由もそれだ
感情論に全く理解も共感も得られず
己が正しいと思ったことと異なる意見であれば
全力を挙げて叩き潰すことしかできないからだ
正しく、無慈悲で、残酷
感情に左右されず理性のみによって行動できる
故に、彼に迷いはなく――無敵
須賀京太郎の東京での自宅は
所謂高級住宅街に分類される場所にあった
プロになる以前は、実家がそれなりの資産持ちであったこともあり
大学近くのマンションに一人で住んでいたのだが
プロになるにあたって、高校時代に慣れ親しんだ東京に戻り
現在の場所に一軒家を立てたのだ
建てるにあたり彼はどういう家を建てようかと考え
しかし参考材料となるような一戸建てなど
カピバラを飼育していた生家か
もしくは雀卓を常設してあった宮永家くらいしかなく
どちらも普遍的かつ一般的な一戸建てとは言い難く
仕方なく過去からヒントを得るのを諦めた
では、彼は何を元にしてこの家を建てたのかというと
「結婚するならやっぱり、ある程度収入がないとねぇ」
「家も庭付きの一戸建てでー。犬なんか二匹も飼えちゃうくらい」
「外観も大事よ、うん。お洒落で……白とかどう?」
という大学時代の同級生の言葉を採用したのだ
当時は結婚などに興味はなく「凄いな」とか「君は悪くない」だの
うわ言のように返事を繰り返して聞き流していたのは
まだまだ記憶に鮮明に残っている
鳴いて場を掻き乱すことばかりが得意だった彼女は
今頃何をしているのだろうか……と、自宅の外観を眺めつつ京太郎は思いを馳せる
彼女の言葉を真に受けてこんな邸宅を作ってしまったことは
実際に結婚してから、ジワジワと後悔の念が湧いてきたのだ
第一に、庭の手入れが面倒なのである
試合などで思うように結果が出せず、気分転換に毟る分には丁度いいが
雑草の方は京太郎のそんな心理状態などお構いなしに生える
面倒だと放置すると荒れ放題となり、それはそれで気分が悪い
いっその事、火を放ってやろうかと考えたことは一度や二度ではない
第二に、広すぎるのである
この邸宅が建てられてから約三年ほど
未だに何も置かれていない物置同然の部屋が多数あるくらいなのだ
いくつかは客間として整備したものの、それでもまだまだ
夫婦二人でこれなのだから、一人暮らしの時がどうなのかなど
容易に想像して頂けるだろう
第三に、近所の小学生からの綽名である
曰く「ホワイトハウス」だそうな
誰が大統領だ。心の底から京太郎はそう言いたかった
鍵を開けて玄関扉を潜ると玄関はしんとした空気を漂わせていた
しかし居間に通じる廊下に光が漏れてきているので
家人がいないという訳ではないのだろうが……
出迎えがないことを少し寂しく思う自分に愕然としつつ
自室としている書斎へと迷いなく進んでいく
塵ひとつ見当たらないほど綺麗に掃除された廊下は
伴侶たる女性の生真面目さを表しているようだった
書斎と言っても京太郎のそれはあまり本がない
読書家とは言い難く、デジタル的な研究をあまりしないという
性格から来ているものだろうが、それ以上に目を引くのは
モルタル塗りの壁にビッシリと貼られた顔写真と
新聞や雑誌記事の切り抜きである
殆どのものが赤いペンでバツ印が付けられており
写真はそこに写った顔が判別できず
記事はまた、詳細を読み取れなくなっていた
京太郎「(……もうこの部屋に来ることもなくなるのかな……)」
備え付けの背凭れの低い椅子に腰かけ
丸一日振りに愛用するタバコに火をつけた
ゆらりと煙が立ち上るのを見ながら、手探りで灰皿を手繰り寄せる
このタバコは中々に珍重な品なのだが、如何せん味が悪い
雑味が多く無駄に濃いのだ
フラストレーションを溜め込んだ頭にこれでは
余計にストレスが襲い掛かってきてもおかしくはない
京太郎「(だけど……これを吸ってる時は忘れらるんだ)」
今も瞼を閉じれば見える、焼き付いて離れない“向こう側”の景色
自身に合わないタバコの味はいつだって京太郎を引き戻してくれる
輝きに満ち溢れた世界の誘惑から、こちら側の世界へと――
「戻ってたんですね」
奏でられた音色の如く耳に心地よい声音と共に
京太郎は背中から優しく抱きしめられる
されるがままの京太郎の首に白い腕が回り
女性の長い黒髪が揺れると、二人は密着する形になる
タバコを手元の灰皿に押し付けると
京太郎は背中に感じる仄かな温かみへと身体を預け両目を閉じた
とくとく、と確かに伝わってくる鼓動と体温に
じんわりと自身の身体もまた、芯から温められているような気がして
熱くなった目頭を揉んで涙が流れ落ちる前に誤魔化す
生きている
俺は確かに“こちら側”にいて、生きていているんだ
“みんな”の中に居たいと願いながら
もう二度とそこへは戻れない京太郎に差し伸べられた
唯一の救いの手が与えてくれる熱狂
生きている証左、生命の脈動
触れ合ったことで確かに聞こえてくる鼓動は
やがて二人分の音を不規則にうねらせ、一つ所に収束させていく
血の通った温もり、自身を“こちら側”に繋ぎ止めてくれている確かな結びつき
この温もりがここにある限り
京太郎は“生きている”ことを、絶対に忘れないだろう――
どのくらいそうしていただろうか
京太郎「……ごめん。先に顔を出すべきだった」
「いいえ、それには及びませんよ」
「こうして貴方の無事を感じることができたのですから」
京太郎「そうかな?」
「ええ」
「それに……貴方も同じでしょう?」
京太郎「……そう、かもね」
微笑んでいるのだな、とボンヤリと感慨を抱きつつ
京太郎はたおやかな女性らしい手に自身のそれを重ねる
京太郎「四方山話をする相手なんかじゃなかったし」
京太郎「それに……自分で思っていた以上に辛かったよ」
「辛かった?」
京太郎「うん」
京太郎「俺は、“あっち”にも“こっち”にも――」
京太郎「どちらの側にもなれない半端者だからさ」
京太郎「そのことを責められてるみたいで……息苦しくて」
京太郎「直ぐにでもこうしていたいくらいに、辛かった」
京太郎は女性の手を取り椅子から立ち上がる
ゆっくりと指と指を間を絡め合い握りしめた方とは反対の手で
赤色のペンを握ると、壁に貼られた一枚の顔写真に対して
その他大勢の写真や記事と同様にして大きく×印を付けた
写真に写っていたのは、昼間に京太郎が会っていた女性――弘世菫
京太郎「これで、残ったのは彼女だけだ」
大きく息を吐いてペンを置くと
手を繋いだ女性と並び立つようにして下がり
数多の写真や記事に囲まれ、×印のつけられていない
モルタル壁のちょうど中央に貼られた写真へと
二人分の視線が向っていく
全ての始まりにして、全ての終わり
彼女がいたからこそ京太郎がいて
『扉』が開いて、“向こう側”の景色を見て
たくさんの才能と、対応する『扉』を持った
様々な人と京太郎が出会って
京太郎の行き先を決めたのは彼女だった
そして終着点もまた彼女だった
『扉』を開けてしまったことから始まった
10年以上にわたる長い、長い旅路の……
京太郎「君には随分迷惑をかけてると思う」
差し出された手を固く握りしめ
京太郎は独白するように言葉を吐き出した
人の気持ちが分からないというのは実に難儀なもので
自身が確かに相手に対して心を向けていて
相手もまたそれに見合った応えを用意してくれていると
頭では分かっていても、本当にそうなのだろうか?
相手が自分と同じ気持ちになることなど、勝手な思い込みと
そういう可能性に縋りたい心が生み出した
都合のいい幻想なのではないか――
京太郎の中でその疑念が何時まで経っても消えないのだ
だから、他人の気持ちが分からない
いくつかの推測を立てて考えることはできても
漏れ出た可能性の中に答えがないとは限らない、と
全ての可能性を推察することができれば
或はこうはならなかったかもしれないが
生憎と人間も、京太郎もそこまで全能の存在ではない
京太郎「俺には人並みの幸せが分からないから」
京太郎「こうやって君から一方的に貰ってばっかりで」
京太郎「恋人として、妻として」
京太郎「俺を支えてくれる君に、何一つ報いることができてない」
京太郎「君にだって夢はあっただろう」
京太郎「やりたいことも、そのための将来だって」
京太郎「だけど、俺と関わって、それを全部捨てて……」
京太郎「今日までやって来た」
独白とも取れる京太郎の言葉を
女性はただ傍らに寄り添ったまま静かに聞いていた
身長差のある二人分の影が
灯された仄かな明かり廊下まで伸びる
室内灯によって生み出されたそれは決して揺らがない
真っ直ぐ、ひたむきに、持ち主と同じようにして
影は影へと重なっていた
京太郎「君が選択して得た“現実”は、君を幸せにしたのか?」
それはこれまでずっと京太郎が胸に秘めてきた疑問の吐露
相手の気持ちを察しろだとか、相手の身になって考えろだとか
生まれも育ちも、性別すらも違う相手に
どうやって自分を重ねればいいのか分からない京太郎は
こうやって直截な物言いで訊くことでしか“現状”を知ることができない
そしてこういった行動は拒絶されやすい
考えれば解るだろうと吐き捨てられ
そんなことも分からないのかと罵られ
言葉にしなければ伝わらないものがある世の中だというのに
口にすることが忌み嫌われるというのも
奇妙極まりない話ではないか
視線をモルタルの写真に向けたままの京太郎の言葉は
隣にいる女性に語り掛けているようでも、写真に写っている
かつての少女の姿をした女性に問いかけているようにも思われた
しばしの沈黙
とっぷりと陽は落ちて周囲の喧騒も遠く
時間が経つごとに、体温を共有した二人だけが
この世界に取り残されているのではないか
そんな不安にも似た焦燥を京太郎に抱かせる
「――貴方は今、幸せですか?」
隣から発せられたのは、質問の答えではなく
逆に京太郎へと問いかける言葉であった
予想もしていなかった内容に一瞬面食らって
しかしすぐさま平生の思考へと切り替える
幸せか、と問われれば
京太郎にとってその答えは
半ば決まっているようなものだった
京太郎「怖いくらいに、幸せさ」
かつての京太郎――『扉』の鍵を手中にしていた頃の人生は
何もかもが満ち足りて充足していることが当たり前であった
傲慢なほどに万能で、冒涜的な全知を掌握し
自由であることを当たり前のように侵犯して
淀んだ世界で狂喜に酔い痴れる
醜くて、気ままで、けれども誰に左右されることもない
そんな、生き方
だが、その歩みは果たして
“生きている”と、言い切ることができるものだろうか?
理不尽に抗い、もがき、苦しんで
自身の命には代えられないと不自由を受け入れ
それでも、と
明日こそは最良であれと祈り
前に進もうという意思の蠢動がない日々……
不変の理想を弄び時間を浪費することが
果たして“生きている”と、いえるのだろうか
否、と京太郎は考える
いや、考えるようになったというのが正確か
京太郎「少し、例え話になるんだけど」
京太郎「俺はさ、ずっと、静かな場所で生きてきたんだ」
京太郎「そこには生命活動を満たすもの以外は」
京太郎「遥か遠くに、とても素晴らしい景色が見えるだけで」
京太郎「あとはその景色を共有する何人かの、それこそ」
京太郎「片手で数えられるくらいの人間がいて」
京太郎「誰にも靡かない。何物にも惑わされない」
京太郎「世界と位相のズレたような場所で生きてきた」
京太郎「もし未来永劫そこから動かずに」
京太郎「死ぬまでの時間を過ごしていたら――」
京太郎「俺は『当たり前』のことがとても得難いことで」
京太郎「幸いなことである。そう理解できないままでいたんだと思う」
京太郎「――雑然として、騒々しくて」
京太郎「虚構に塗れた“こちら側”に戻って来て」
京太郎「俺は『生きるている』ことがどういうことなのか」
京太郎「理解することができた」
京太郎「理解して、実感したんだ」
苦しみ、辛酸を嘗め、屈辱に汚れて疲弊して
そこから抜け出そう、欠けている物を取り戻そうと人は方策を練る
考えて、工夫して、努力して
昨日とは違う明日を夢見て今日に最善を尽くすのだ
それはとても困難なことではあるが
達成できれば無上の幸いを得ることができるのは間違いなく
それが分かっているからこそ、我武者羅にでも行動をするのだ
そしてそれこそが――
『人として生きている』ということなのだろう
京太郎「『人として生きている』ということは、幸せなことだって」
京太郎「俺にとっては君がまさにそうさ」
京太郎「君とこうして寄り添っていることだけが」
京太郎「失ってしまった心の隙間を埋めてくれる」
京太郎「かつては『当たり前』だった、満ち足りた状態へと」
京太郎「俺を戻してくれるんだ」
京太郎「――もう二度と手に入らないと思っていたものが」
京太郎「こうして今、確かに両腕の中にあるんだから」
京太郎「これで『幸せじゃない』なんて言えるはずもないよ」
薄く笑いかける京太郎に、女性もまた目を細めると
彼の腕をしっかりと抱き寄せて、頭を凭れ懸けさせた
仄かに立ち上る甘い香りに
京太郎は内心の動揺を押し隠しつつも
先程の質問を質問で返されたことに対する問答は
一体何だったのか、と再び問おうと口を開いて
「それが、さっきの質問への私の答えですよ」
笑みを含んだ女性の答えに
京太郎はもう一度面食らって、二、三度瞬きをする
自分の質問に対する答えが、彼女の質問に対する自分の答えと同じ
構造としてみれば単純明快で、帰結する結論も同様ではあるのだが
彼女が自分に対して抱いている想いそのものまでもが
自分とまるっきり同じである、ということは
俄には信じられないことであった。京太郎にとっては
分からない、という風に惑った視線を送る京太郎に
女性は目を細めながら、ゆったりと語り始めた
「それでは、私も少し話をしましょう」
「昔々、あるところに一人の女の子がいました」
「その女の子は何でもできる……というワケではありませんが」
「別に一人でもそれなりにやっていける。そういう娘でした」
「一人でやっていけるが故に、そこで完結した世界」
「誰にも干渉されず、自ら誰かに干渉することを望まず――」
「彼女は独りぼっちでした」
「けれども不自由ではありませんでしたから」
「そのことを気に留めていませんでした」
「でも、転機は訪れます」
「彼女に手を差し伸べてくれる人たちがいたんです」
「本当に偶然で、大した事のない理由での邂逅」
「接点だってなくて、関わり合いになるはずなんてなかった」
「でも、その人たちは『独りぼっちは寂しいだろ』って」
「完成されきった世界から、彼女を連れだしたんです」
「勿論、閉ざされた世界から出て初めての感覚に戸惑いましたけど」
「決して不快なんかじゃなくって、寧ろ」
「――温かくて、幸せだった」
京太郎に寄り添うこの女性にとって
初めて『須賀京太郎』という存在に出会った時に憶えた感触は
心を乱されるというものであった
気にかかって、彼のことを考えれば落ち着かなくなって
それからずっと、顔を合わせる度に大きくなっていく感情の
理由と、答えを探し求めて辿り着いたのが
大きな『扉』の前で蹲り、涙を流す少年であった
寒さに震えながら、『扉』の先には行かせまいと独りで佇み
嗚咽を堪えて、しかし堪え切れない涙を溢れさせる少年
その光景が意味するところを、彼女は理解することができなかった
しかしそれでも、ハッキリと分かることは一つだけあった
「『貴方は独りじゃない』」
「私の知ったこの幸せを、温もりを」
「必要としてくれる誰かに出会えることができるのであれば」
「その人に寄り添って、お互いの温もりも喜びも悲しみも」
「何もかもを共有して、それでも生きていけることは」
「とても幸せなことですよ」
そういって女性は京太郎の正面に回り込むと
そのスラリと伸びた長身を、ゆっくりと抱きしめた
京太郎の胸板に顔を埋めて、心音を確かめるその様子は
もしこれで分からないのであるのならば
鈍感や朴念仁という言葉すら生温い
そう思わせるほどのアプローチに
京太郎はようやく自身の愚かさを思い至った
思い至り、けれど過去の行いは取り戻せないと振り切って
謝罪するよりもまず口を突いて出たのは
京太郎「……そう、か」
などという、全く気の利かない独り言のような声で
不意に零れ落ちてきた涙を拭うこともせずに
その理由を考えて、しかし分からなくて
涙を見られまいと女性を抱き返すことだけが
その時に唯一下せた理性的な判断であった
この二人からなる夫婦の間に
『恋』というものは、果たして存在しなかったのかもしれない
相手を独占しようと熱烈に焦がれて
その一挙手一投足に悶絶するような関係性は、これっぽちも
だがしかし
一人の人間として互いを認め合って、尊重して
温もりと慈しみを共有しながら支え合って生きていく
その関係性に安寧を求めるのであるのならば――
それは『愛』と呼べるものなのかもしれない
「咲もおいでよ、こっちに」
「ううん。私たちなら行ける。もっと先に、ずっと先に」
「『扉』の“向こう側”にある地平線のその先へ――」
一人の少女が、朗らかに笑った
濁りきった目をした少女だ。腐り落ちた目をした少女だ
「ダメだよ、お姉ちゃん」
「ダメなの。それだけは絶対に、やらせない」
もう一人の少女が、首を横に振った
澄みきった目をした少女だ。光を目に宿した少女だ
四角い宇宙を囲んで二人の少女は対峙する
一人は嬉しそうに、一人は強い意志を携えて
「ふうん……?」
「…………」
「ま、いいけど。咲がそのつもりじゃないなら……」
「ここから先は、競争だよ?」
「っ! お姉ちゃん――!」
「行くよ、咲――!」
少年は、何もできない
二人の間に広がる世界には割って入れない
かつてはその輪の中に自分もいたはずなのに
立ち竦んだまま、何もできない
何をすればいいのかもわからない
何が正しくて、間違っているのか
その判断すらもできなくて
ゆらゆらとさざめく水面のように
足元は不安定に揺らめく。少女の笑顔が瞼の裏で揺らめく
やがて立ち竦む少年は、笑顔から切り取られた
三日月形に象られた口に呑みこまれ――
京太郎「――――!!!」
声にならない悲鳴を上げて
京太郎は横になっていたベッドから跳ね起きた
隣で同じように眠りに就いていた女性も
只事ではない京太郎の様子にすぐさま目を覚ましたのか
流麗な黒髪を靡かせ起き上がると
荒い息を吐く京太郎の背中を何度も一定の間隔で摩った
目を見開いて発作のように短く呼吸を繰り返す京太郎は
息も絶え絶えに嘔吐感を堪え、必死に平静を保とうとする
普段は気を張って力強く見せているその様相も
睡眠という無防備な姿に立ち返ってしまえば
一転して、彼の弱さと脆さを露呈することとなってしまう
京太郎「はぁ……はぁ……はぁ……」
冬だというのに額に浮かんだ大粒の汗が物語るのは
彼を蝕む悪夢が、未だに彼を掴んで離してくれない証拠であった
“こちら側”へと戻ってくる契機となったあの日の光景
何も為せないまま、何者にもなれないまま
戻ってくることしか出来なかった自分自身の過去――
お前だけが幸せになることなど許さないと
彼と出会い、関わり、生き様を変えられた全ての人々が
怨嗟の声を上げているような錯覚だ
そんなものは自分の妄想に過ぎないと頭では分かっていても
どこかそれを肯定できない自分自身がいて
決して自分の行いを忘れさせまいとするためのものだと
感じられてしまっているのもまた悲惨であった
荒い息もしばらくすれば治まってくる
どうにか落ち着きを取り戻した京太郎は
再び襲い掛かってきた睡魔に抗うことなく瞼を落とし
飛び起きてからというもの、自身を介抱してくれた
伴侶たる女性に身体を預けると
そのままゆっくりと、もう一度ベッドへと横倒れになる
女性も背中を丸めた彼の身体をしっかりと支え
癖のある柔らかな金の頭髪を優しく撫でると
強く、自身の身体へと押し付けるように抱き留めた
豊満な肢体が生み出した柔らかさと温かさに包まれた京太郎は
睡眠によって真っ白に塗りつぶされていく思考の中で
一抹の安心を感じながら、緩やかな眠りに落ちることができた
その様子はさながら、聖母に抱かれる赤子のようであり――
男は聖女の腕に抱かれ、微睡みの中で夢を見る
四年前と、七年前と、もっとずっとその前の情景を
まだまだつづくよ
大切なものが壊れて戻って来ても、そこが欠けたまま
結局は人間のフリをしている何か止まりで進めない
だから京太郎は自分を人間だとは思ってない
人間でいたいと願っているのに
ひとまずこれで現在の状況はほぼお分かりいただけたかと
この次は時系列が前後するんじゃないかな
高校か、大学か
まだ京太郎と照が一緒だった頃のお話
純粋で、無垢で、無敵で、残酷
そんな頃の、お話
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