それから二週間が経ってようやく熱が収まった頃、
はじめて自分の身に起きたことがはっきり知覚されたようだった。
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沙翁曰く、恋とは落ちるもの。
ママの部屋の本棚で、
ピアノのレッスンをさぼって叱られるまでの間、
ママの匂いが残るベッドの上で寝転がって開いた
ホコリの匂いがする文庫本、
そこで聞いた恋の話は、
あの頃の自分には遠すぎた。
現実感なんてまるでなかった。
甘いお菓子のように、
恋の熱なんてすぐ飲み込んで消化されてしまうもので、
それを語る麗しい言葉の戯れも、
どこか雲をつかむような上滑りしたものに聞こえていた。
……海未にはちょっと悪かった。
その子は道に飛び出した子猫のように
私の行く道を遮って、
全力でぶつかって、
私に傷を残して、
ぴょんと去っていこうとした。
私には私の道があって、
その一本道は真新しいコールタールや
白く輝くガードレールで舗装されていて、
わき道のことなんてひとつも考えちゃいなかった。
そのとき雨が降りそうなほど陰っていた空の下を、
肌を濡らさないうちに冷やさないうちにと一心不乱に掛けていて、
たまたま光が射した方へつかの間の遊びのつもりで誘われて
日向を走るようになって、
そしたらぶつかってきたのが、
あの子だった。
私は目を回して倒れ込んで、
一瞬そこがどこなのかも分からなくなって、
傷口がじくじくと痛んで、
でもその傷が、
その癒えきらない固まらない痛みが、
なぜかとても胸を熱く焦がしてしまった。
夢のような、
おとぎ話みたいな、
まるで形になってない情景。
私はあの人なつっこい娘に抱かれて、
あのふざけた口調で私の道にずかずか踏み入られて、
傷口が開く一方で、
夜も眠れぬほどあの子のことを気にしてばかりで、
傷口をいじってばかりだから、
いつまでも赤い汁は真新しいまま流れ続けた。
甘酸っぱい果実と違って、
ひとりでなめてみたって、
私の傷口は全然癒えてくれなかった。
◆ ◆ ◆
指、切っちゃったの?なめたげるね。
って伸ばした手を引っ込める前にあの子にくわえられる。
裁縫なんて私らしくもないことに手を出したのは、
あの子に手伝ってほしいって頼まれたから。
あのね、
医学的には傷口をなめるのはむしろ、
……なんてことは言わない。
いえない。
癒えないまま痛み続けた方が、
なぜかその方が心地よかったから。
そのかわり、
その子の頭に手を伸ばして髪を撫でた。
餌をあげているような気分で頭を撫でていた。
そうしている間は時が止まって、
この人は逃げていかない気がしたから。
どうにかして捕まえたって、
油断するとすぐ逃げてしまいそうで、
ほっとけなくて仕方ないんだ。
今だって、
くやしいけれど。
――ねえ、真姫ちゃん。
って唇を濡らしたまま、
私の指先から涎の糸を銀色に伸ばしたまま、
潤んだ瞳を私に向けた。
私はなにかがこぼれそうになるのを抑えながらその子の声を聞く。
「指、かわいいね」
「でしょう?」
「なんだろ、おいしそう」
「たべないで」
「えー?」
ほら、
あなたが離してしまったから、
私はどんどん乾いてしまう。
やめて、離れないで。
「ねえ、真姫ちゃん」
「なあに」
「凛のこと、すき?」
「……うん」
「うんじゃなくて」
だったら何よ、
なんて言葉を噛みおろす。
そんなの分かってた、
身体の奥底で。
――ねえ凛、こっち向いて。
すぼんだ唇が少し傾けられて、
私はそこに自分を押しつけた。
凛のなかで私を湿らせていった。
まだ濡れたままの指先を
凛の手の甲を走る静脈に沿ってすべらせ、
猫が毛を逆立てたように跳ねる皮膚と
身体の熱を捕まえて、
くちづけを深くした。
「痛いよ」
唇を離すと、
凛が少し笑って、
わざとらしくむくれてみせた。
困らせたくて言ってるのを分かってて、
だから素直に謝ったりする。
「そうじゃなくって。凛、そんな勢いだと……いつも、
困っちゃうんだよ?」
私の髪に手を伸ばして、
子供をあやすように諭された。
……凛のくせに。
「ねえ、真姫ちゃん」
なあに?
「どうしてこうなっちゃったんだろうね?」
わかんない。
凛は、いやなの?
「ううん」
ふわっと笑って私の胸元にかわいい頭を寄せた。
あなたの匂い、
ほんとずるい。
「……いつか、
真姫ちゃんとこうなってたんじゃないかな?」
そうね、
そうかもね。
すると凛がこっちを見上げて、言った。
だから、
いま、
すっごくうれしいよ。
凛、
ここにいてもいいんだよね?
恋とは一種の交通事故なのだ。
恋人になって、昨日で14日。
私はまだ熱い傷口をいじくっては、
甘ったるい後遺症をもてあそんでいる。
もう、
離さないんだから。
私はその答えを、
次のくちづけに託した。
おわり。
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