彼の命、その宿命 (134)
射抜くような視線を感じながら、少年は素早く身を捩る。
ーー血と暴力の渦。
生きる。
ただそれだけの為に足掻く最下層の『人間本来の原始的』な姿を求めに巨額の金を払い席に座す上層の人間とは違った視線を気に止める余裕など、少年にはなかった。
闘士とは名ばかりの奴隷の少年には、そんな余裕などなかった。
砂のしかれた円上の舞台で、少年は生にしがみついていた。
沸き立つ観客はそれを見下ろし、酒を飲み、命のやり取りを爛々とした、享楽の瞳で見ている。
「ちょこまかと避けてばかりか、それでも闘士か」
その問いを少年は無視した。
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相対する肌の黒い巨躯の男が放つ闘士としての偽りの誇り、挑発を少年は無視した。
連戦連勝の闘士であることに誇りを持つ彼の言葉は、少年にとってまったくの無意味であった。
彼が強者であることは誰が見ても明白で、それに誇りを持つことは否定しない。
だがそんな彼も、自分と同じく飼われていることに違いはないのだ。
薄暗い地下の、血の染みを拭えない砂の上で『誇り』を持つことなど無意味だと少年は思う。
前者、もしくは前々者の抜け落ちた歯の痛みを足裏に感じながら、少年はそう結論付ける。
彼も少年も、違う者に飼われ、闘士とは名ばかりの、奴隷でしかない。
更に目の前の対戦相手は、とても少年のかなう相手ではない。
あらためて見やる黒く逞しい身体、それは勝者が得る身体に違いなかった。
勝ち続けてきたからこそ、その身体の維持を許されるのだから。
対する少年の身体は細く白く弱々しいが、軽業師さながらの動きで避けている。
相対する彼がいくら誇り高く振る舞おうと、これは彼らを所有する者が取り決めた対戦であった。
彼らは従うしかない。
相手が自分を上回る実力と体躯を擁していようと、戦うしかない。
円上の舞台に立つ二人に、拒否する権利など飼われたその時からないのだ。
そうと決まったのなら受けるしかない、
相手が明らかな格上だろうが明らかな格下であろうが、だ。
こと、この場に立った時から善悪はない。
それは観客である者も、彼らの所有者である『人間』にとっても周知の事実、現実である。
勝ちさえすればいいのだ、どんな手段を実行しようと勝利すればいい。
目潰し金的、その他諸々の反則行為は、ここではよしとされる。
弱者の醜い足掻きこそ観客の求めるものなのだ。
弱者がどのような小癪な手で勝利しようが、強者がどのように弱者を嬲ろうと、なんら問題はない。
ここは、そういう場所なのだ。
少年は考え模索する、生き延びるすべを、勝利への道を模索する。
自分の数倍はある体躯、分厚い筋肉を更に脂肪で覆う太い腕を避けながら。
連戦連勝の彼に、砂での目潰しなど通じるはずはない。
おそらく、彼には金的も問題にならないだろう。
繰り出した瞬間に足を取られ、打ちのめされたのち、撲殺されるだろう。
しばしの思案の後、少年が辿り着いた答えは犠牲のうちに成り立つものだった。
左手を股間に突き出し掴ませ、へし折らせ、残った右手で眼を潰す。
模索した結果、それ以外に有効な手立てはなかった。
片腕を犠牲にする発想はまだしも、実行するとなると流石に身が縮むはず。
しかし少年には一片の迷はなかった。
暴風撒き散らす太い腕を身を屈めて避けると、棒切れのような身体を潜り込ませた。
そして男性共通の弱点である股間に本気で手を振り上げる。
「浅知恵使いの猿め、そんなやり方は馴れてるんだよ」
嘲笑で顔が歪ませた敵が、易々と少年の腕を取り、迷いなくへし折った。
弱者に対する愉悦が彼の顔を彩ったが、少年は止まらない。
当然痛みはあるし顔が苦痛に歪む。
が、激痛に耐えながら残した右手を懸命に伸ばした親指を左目をに突き立てた。
「がっ」と低く呻き彼は左手を離す。
少年が片腕を差し出し目を抉る、それは彼にとって予想外の行動、戦法だった。
しかし左目を潰され苦痛に耐えながら彼は立つ。
勝者、強者のプライドなのだろうか。
それに対し、少年は迷うことなく彼の血で粘つく親指を突き立て右目を潰した。
暴風撒き散らす太い腕を身を屈めて避けると、棒切れのような身体を潜り 込ませた。
そして男性共通の弱点である股間に本気で手を振り上げる。
「浅知恵使いの猿めが、そんなやり方は馴れてるんだよ」
嘲笑で顔を歪ませた敵は、易々と少年の腕を取り、迷いなくへし折った。
弱者に対する愉悦が彼の顔を彩ったが、少年は止まらない。
当然痛みはある、整った顔が苦痛に歪む。
が、激痛に耐えながら残した右手を懸命に伸ばし、親指を左目に突き立てた。
「がっ」と低く呻き彼は左手を離す。
年端もいかない少年が片腕を差し出し目を抉る。
それは彼にとって予想外の行動、戦法だった。
しかし左目を潰された苦痛に耐えながら彼は立つ。
勝者、強者のプライドなのだろう。
それに対し激痛で顔面蒼白になりがらも、
少年は迷うことなく彼の血で粘つく親指を突き立て右目を潰した。
もう分かんねえ、寝る
「なぜ俺を選んだ、なぜ俺を買った。あんたは誰で、一体何者なんだ。
屋敷は立派なものだが、あんたは堕落した富裕層の人間には見えない。
答えろ、あんたは何が目的で俺を買った。」
屋敷に到着する前に死体の積まれた荷馬車を路上で燃やし、そこからは馬による移動になった。
痕跡を残さない為にしたのだろうが、どこまでも用心深い老人の行動に、ミスカは疲れ切っていた。
屋敷に到着し扉を抜けると、ミスカは目隠しと手枷足枷を外され肉体的な自由を得たが、その表情は暗い。
ここに着くまでに生まれた多くの疑問で頭が一杯だった。
すぐに灯りを持った若い女性が老人を出迎えたが、ミスカは彼女に興味を抱くことはなかった。
老人の他に誰が住んでいるかなど、今のミスカにはどうでもよかった。
女性に灯りを手渡された老人は
「ついて来い」と短く告げ、ミスカは黙って案内された部屋に入った。
老人は長いテーブルの真ん中に灯りを置き、ぼんやりと明るくなった部屋に二人きりとなった。
現在二人は、テーブルを挟んで向かい合い、肘掛けの付いた椅子に座っている。
質問する直前に出された料理には目もくれず、
ミスカは蓄積された疑問をぶちまけたのだった。
やや間があったが老人はフードを外し、その顔を初めて露わにした。
よく撫でつけられた白髪と切れ長の目、すらりと通った高い鼻、
きつく結ばれた口、肌は白く目元には皺があった。
頬に無駄な肉はなく引き締まっていて、青い瞳には強靭な意志が光っている。
過去に出会った誰とも違う種類の人間が、ミスカの前にいた。
その細く鋭い目を前にして若干の動揺はあったが、ミスカは目を逸らさなかった。
「私の名はテオドル・コムザーク。
お前を買ったのは堕落したこの国を正す為だ。
下層から搾取し肥え太った富裕層や貴族に、民衆は反発の意を強めているのは知っているか。
無論、奴隷も然りだ。だが、行動に移す者は誰一人いない。
それは未だ富裕層の力が強く、民は怖れているからだ。
一部ではあるが、富裕層に恩恵を受けている者もいる。
金で転ぶ者が多い中で、反乱組織を作ることは容易ではない。
現状を打破するには、民衆の思いを体現する者がいなくてはならないのだ。
それは彼らの意志の象徴。反逆の戦士、道を示し導く者、言わば英雄だ」
きつく結ばれた口から力強く発せられた答えに、ミスカは何も言えずにいた。
国を変えるなどという想像を遥かに超える答えに動揺し、戸惑った。
だが、その発言の現実味の薄さに気付いたのか、ミスカは即座に口を開く。
「馬鹿げてる。たった一人の人間が国を変えるなど到底無理だ。
東部西部南部、どこを見ても同じ有り様だ。
奪われ飼われ、気に入らなければ殺される世の中だ。
歪んだ形が正しくなったこの国をどう変える。
今では生まれながらの奴隷も珍しくないんだ。
国を変えるだって、富裕層の人間を片っ端から殺すとでも言うのか。
一人の人間がいくら正しさを説いても、町の一つも変えれはしない」
怒りを抑えることすら忘れ、半ば叫ぶようにミスカは言い放った。
瞳は怒りに燃え、今にも噛みつきそうな獰猛な野生を剥き出しに睨み付ける。
外見とは異なるミスカの内なる姿を、テオドルは静かに見つめている。
「何とか言ったらどうだ。
そんな妄想めいた言葉を、どう信じろと言うんだ」
何の反応もなくこちらを見据えるテオドルに、ミスカは更に苛立ちを募らせた。
堪え続けた四年半の奴隷生活の怒りを、今や隠すことなく露わにしている。
バハルドにさえ見せたことのない怒りを、ミスカは初めて爆発させた。
そもそも子供でありながら怒りを抑え、冷静を保っていたこと自体異常なのだ。
が、異常であると共に、賞賛すべき精神力を持っているのも確かだろう。
しかし奥底に秘めた復讐と怒りの念は、易々と飼い慣らせるものではない。
ぐつぐつと煮え滾る、どろりとした溶岩にも似た怒りが、獰猛な唸り声を上げている。
「お前はまるで燃え盛る炎のようだな。
だが、その怒りを私に向けてどうなるものでもない。
そのことをお前は分かっているはずだ。違うか」
細い目を更に細め、テオドルはテーブルの上で手を組んだ。
問い掛けた声は穏やかで、子供をあやし、諭すようなものであった。
ミスカが少しばかり落ち着いた様子を確認し、
テオドルは「それとも」と言葉を区切った。
それに続く言葉を待ちながら、ミスカは脈が早くなっているのに気付いた。
「奴隷の分際で何をほざく、とでも言って欲しかったのか」
射抜くような視線で、テオドルはそう言った。
嘲りのない表情と声に、ミスカは驚きを隠せなかった。
なぜなら、テオドルの指摘は的中していたからだ。
手枷足枷を外され、見張りもいないままに話すなど有り得ない。
しかもその相手は女奴隷を侍らせることもせず、一対一で会話に応じている。
テオドルの態度は所有物に対するそれではなく、見下す素振りもない。
ひた隠しにしていた怒りを表に出したのは、『それ』が原因だったのだ。
ミスカは肉体だけでなく、感情をも自由に表現出来ていた。
奴隷としてではく人間として目の前の老人と会話していた。
自分が『ミスカ・ユヴァ』として会話していたことに気付いたのだ。
それは本来喜ぶべきことで、涙してもおかしくはなかったが、ミスカは泣かなかった。
それどころか怒ってさえいた。
人間として接しられたことに動揺し、少しでも嬉しく思う自分に怒っているのだ。
それほどまでに奴隷が染み付いていたのかと、ミスカは血が出るのも構わず唇を噛んだ。
人間であり続けたつもりが奴隷を受け入れつつあったなど、屈辱以外にない。
あの暮らしを少しなりとも良しとしていた自分がいたことを、ミスカは許せなかった。
「俺はあんたの奴隷か、俺は性根まで奴隷か」
やっと絞り出した声は震えていて、唇からは血が滲んでいた。
この問いには、決して服従しないという、再度誓った強い意志が宿っていた。
ちょっと休憩、もう少し書く予定
たが、バハルドの奴隷であったことは事実であり、過去は変えられないのだ。
そこで再びミスカは問う。
「奴隷でないなら俺はあんたの何だ。
あんたは確かに、『買った』と言った」
人間は買われない、売買されるのは奴隷だ。最下層なんてものではない。
人間としてすら扱われない存在なのだ。
「金を払い買ったの事実だ。それは否定しない。
だが、お前は私の奴隷ではない。
そもそもミスカ・ユヴァは死亡扱いになっていた。書類に登録されていたのは偽名だった。
奴隷の売買は認められるが、奴隷の略奪は認められていない。
バハルドがお前を引き取った経緯には必ず裏がある。
話しが逸れたな。ミスカ、私はお前を子として、弟子として育てるつもりだ」
惜しげもなく差し出された情報に不信感を抱いたが、ミスカはひとまず信じることにした。
情報はともかく、育てるということに関してだけは、信じることにした。
色々足りないと思った >>78から書き直す。
たが、バハルドの奴隷であったことは事実で、その過去は決して変えられないのだ。
そこで再びミスカは問う。
「奴隷でないなら俺はあんたの何だ。
あんたは確かに、『買った』と言った」
人間は買われない、売買されるのは奴隷だ。最下層なんてものではない。
人間としてすら扱われない家畜同様の存在なのだ。
「金を払い買ったの事実だ。
それは否定しない。だが、お前は私の奴隷ではない。
そもそもミスカ・ユヴァは死亡扱いになっていた。
書類に登録されていたのは偽名だったのだ。
奴隷の売買は認められるが、奴隷の略奪は認められていないのは知っているな。
バハルドがお前を引き取った経緯には必ず裏があるはずだ。
話しが逸れたな。ミスカ、私はお前を弟子として育てるつもりだ」
惜しげもなく差し出された情報に不信感を抱いたが、ミスカはひとまず信じることにした。
情報はともかく、育てるということに関してだけは、信じることにした。
テオドルの表情は険しいが、それが誠実さと実直さを示しているようだった。
口にした情報もおそらく嘘ではないだろう。
だが、ミスカは未だテオドルの正体を知らない。
ともすれば、テオドルという名前さえ偽りの名かもしれないと、ミスカは考えていた。
「まだ答えてないことがある。
テオドル、あんたは一体何者だ。
俺を弟子にすると言うのなら、こちらの質問に答えてくれないか。
師を知らぬままに教えを請うなど、俺にはできない。
俺は『誰の』弟子になるんだ。答えてくれ」
ミスカの声に怒りはなく、その表情は冷ややかですらあった。
しかし瞳は表情に反し情熱的で、純粋に真実を求めていた。
奴隷ではなく人としてと言うのなら、質問に答えるはずだ。
国を正すと言うのなら、両者の間に嘘偽りがあってはならないと、ミスカは思ったのだ。
師弟関係も然り、その間には確かな信頼が必要になってくる。
命じられるままに行動するのでは、奴隷と差して変わりはないのだから。
ミスカの瞳を見てそれを感じ取ったのか、テオドルは目を閉じ、静かに語り出した。
「以前、私はある組織を率いていた。
この国に在り方に不満を持ち、正そうとする志を持った者達が結集した組織だ。
中層、富裕層、様々な立場の人間が一つの目的の為に活動していたのだ。
その中には暗殺謀殺もあったが、それは民衆を覚醒させ反旗を促す為のものだ。
それらは各地で行われた。奴隷の解放、圧制する権力者の追放、粛清。
歩みは遅かったが、我々は着実に目的に近付いていた。」
「だが、たった一人の裏切りにより組織は壊滅した。
それこそ呆気なく、一夜にして私以外の同胞は死んだ。
この私も、表向きは死んだことになっている。
それから私は長い間待った。民衆の不満が高まり、我々の思想が必要とされる時を待ち続けた。
それが今なのだ、しかし私はこの通り年老いてしまった。
私には継ぐものが必要だった。
私がお前を選んだのは、その素質があったからだ。」
「だが、理由はもう一つある。
お前の父、アハト・ユヴァは組織の一人で私の弟子だった。
ユヴァ家も他の同胞と同じく殺されたと知らされていたが、ミスカ、お前は生きていた。
登録上の名は偽名だったが、顔を見た時、お前がユヴァ家の者だと確信した。
それはお前が、母ヴェルナと瓜二つだったからだ」
「あの試合を見るまでは何としても引き取り、
奴隷の鎖から解放しようとだけ考えていたが、その考えはすぐに覆された。
身のこなし、野生、覚悟、相手への敬意。それら全てが、アハトを彷彿とさせた。
だからこそ、私の弟子にすることにしたのだ。
ミスカ、これが今の私に出来る精一杯の解答だ。納得しろとは言わん、全て信じろともな。
しかしこれ以外の答えを、私は持っていない。」
ミスカは一切口を挟まず、テオドルの言葉に聞き入っていた。
過去を追想するように目を閉じたテオドルは、言葉の端々で感情を表した。
初めて見るテオドルの表情の変化と溢れ出る感情の波を、ミスカは感じ取った。
両親の名を訊いた時は驚き、どんな関係だったのか問いただそうともした。
だが、時折り見せるテオドルの苦悶悲痛の表情がそれを止めた。
全てを聞き終えたミスカは、
「疑ってばかりでは進まない。テオドル、俺はあんたを信じてみようと思う。」
揺らめく灯りに照らされ美しく輝くグレーの瞳と女性的とさえ言える穏やかな笑みを湛えながら、テオドルに答えた。
その言葉と微笑みに、テオドルは内心驚いていた。
警戒心が強いミスカの心を解きほぐすには、
それなりの時間と対話が必要だと感じていたからだ。
まさかミスカ自らが歩み寄ってくるとは考えてもみない出来事だった。
「お前はそれでいいのか」
案ずるような声で、テオドルは問い掛けた。
あくまでミスカの意志を尊重する為の問いでもあるのだろう。
「今のところ英雄だ何だにはあまり興味はないし、実感もない。
ただ、父が目指していたものを知りたいとは思う。」
亡くした両親を想っているのか、ミスカは弱々しく笑いながら答えた。
テオドルは「そうか」とだけ言い、物思いに耽るミスカを見つめていた。
この会話を最後に二人は沈黙したが、テオドルが先程の若い女性を呼び、ミスカを部屋に案内させるように言った。
結局食事には手をつけぬまま、ミスカは部屋を後にして、女性に後に続いたのだった。
二階へ上がり与えられた部屋に入ると、ミスカはすぐに横になり目を閉じた。
「父が目指したものを追い掛ければ、いずれ全てを奪った人間に辿り着く。
何年掛かろうと必ず見つけ出し、この手で殺してやる」
父と母の姿を浮かべながら呟いた言葉には、並々ならぬ決意が滲んでいた。
国の歪みを正す。
彼らを邪魔に思う者が両親を殺したであろうことは、テオドルとの会話から察していた。
父が目指し掲げた理想を理解したいという純真な思いと、
両親を奪った者に対する強い憎しみが、ミスカの中を満たしていた。
手直し申し訳ない、また後でちょっと書くかもしれない
剣を腰に差すと振り返り、ふっと白い息を吐き出すと
「ここの暮らしには慣れたか。カテジナとはあまり上手く行っていないようだが。」とテオドルが問う。
慣れるも何もこの場所、この環境は特殊なものだ。
そもそも暮らしと言えるかどうか判断し辛い。
ただ生活という意味では奴隷時より遥かに良いと断言出来る。
が、人として暮らすことから数年の間遠退いていたミスカにとって戸惑う部分は数多くある。
まず武器を装備することが有り得ない、手枷足枷もなく共に食事することも有り得ない。
悪くも慣れ親しんだ冷たい金属の輪が今では存在しないのだ。
ただそれだけでも、ミスカの生活はがらりと変わったと言えるだろう。
「彼女とはそれほど話していない。話す必要もあまりないと感じている。それに」
足下に落ちた分銅鎖を拾い上げローブの内側にしまい、ミスカは言葉を区切った。
言葉を切ったミスカに「なんだ。カテジナに不満でもあるのか」とテオドルが訊ねる。
思考の中からミスカが帰って来るのを待ってからの発言だった。
ミスカはそれに気が付いてはいるが、嫌な気はしなかった。
それはきっと、気遣うわけでもなく発せられた含みのない声だったからだろう。
気に入らない部分があるとすれば、自分の性格を理解、把握されているということだ。
心の内までテオドルの手中にあるのではないか、そんな歪んだ発想に至ってしまう。
勝手に描いた想像妄想で研いだ牙で噛み付きたくなる。
その妙な衝動は、やはり幼いからであろう。
思考、言動は大人びているが経験が足りない。
生き延びるという部分で言えばかなりの経験はあるが、それとは別の部分。
十代半ば、誰もが迎える時期。抑えられない怒りや破壊衝動。
それを自覚しているが為に余計に苛立つだったが、ミスカは平静を保ち答えた。
「不満などない。話す必要がないというのは、互いにある程度理解しているからだ。」
「境遇を通して、か。」
「ああ、彼女を見れば分かる。
彼女も以前飼われていたんだろう。
なら話すことはない。少なくとも、今はない。」
「ミスカ、過去ではなく今を考え話したらどうだ。
簡単に拭い去れるものではないが、それも必要なことだ。
お前はもう囚われてはいないのだからな。」
「過去を忘れろと。」
「違う。目を向ける場所の話しだ。己が立っている場所を見るのだ。
食卓にいれば食卓に、戦場に立てば戦場を見る。存在しない場所に立つな。」
存在しないが忘れられない場所、つまりは過去。
奪われ飼われ、人ではなくなった。
生きる為に戦った。
勝てば生き、負ければ死ぬ世界に自ら踏み出した。
他に道はなかった。
男娼になど、なりたくなかった。
自分が自分である為の最低限の何か、それさえ消えてしまう気がしたからだ。
それは、失えば最後、決して取り戻せないもの。
尊厳と言えば一言で済むのだが、それだけではない何かだ。
それを失うくらいなら、身を捧げ穢れるくらいなら、命を奪ってでも生き延びる。
それが闘士という生き方だった。
奴隷には違いない、飼われていることにも違いない。
ただ、ミスカとして生きたかった。それだけは、絶対に捨てたくなかった。
奴隷となった当時はそれだけに必死だった。
父と母を想う度、途轍もない喪失感に襲われたことは数え切れない。
その想いは今でもあるし、想わない日はない。
しかし奴隷生活の中でその想いは徐々に変わっていった。
失った悲しみ、与えられ屈辱、肉体的、あるいは精神的な苦痛。
それら全てが怒りと憎しみに直結し、様々なものに向けられている。
父と母を奪った者に、己を物として扱った男に、そして本来なら見ることのなかったであろう人間の醜悪さに。
今の自分は過去がなければ存在しない。
耐え難く辛い過去であっても、それだけは変わらない。
だが今は違う、全てが変わった。
目の前に立つ一人の老人によって鎖から解き放たれ、自由を得た。
再び人間として生きることが出来る。
かと言って、そう簡単に割り切り、切り替えられるわけもない。
掲げる目的も、常人なら発想に至らぬ程に大きなものだ。
だからだろうか、ミスカは未だテオドルに対し感謝の言葉を口にしたことはない。
テオドルの目的を達成するには流血は避けられないのだ。
決して少なくない血が流れ、己の血をも流すだろう。
それがミスカの『これから先』だ。
そんな未来の何を語れというのだと、ミスカは思う。
「これから先を話して何になる。一体何を話せというんだ。」
決まっている未来を語る必要がどこにある。
目的について談義でもしろと言うのか、それこそ無駄だ。
やるべきことは決まっているのだ。
苛立つミスカに、テオドルは語り掛ける。
「私が言っているのは目的を達成した後、民が目覚め自由を得た後だ。
その時、お前はどうする。どう生きているのかが見えるか。」
「まるで目的が達成されることが確定しているような口振りだな。
そう簡単に行くか、国を変える前に俺が死ぬ可能性の方が遥かに高いんだ。」
「だからこその訓練だ。死なない為、勝利する為のな。だが今は関係ない。
新たな時代を切り開き、その先をお前はどう生きるか。私が言っているのはそこだ。」
ミスカは言葉を失い、その問いに答えられなかった。
テオドルの言うように目的を終え、復讐を終え、新たな時代になった時、自分はどうあるのか。
それは、考えもしなかった『未来』だった。
その問いを受け微動だにせず地面を見つめるミスカに、テオドルが言う。
「戦いで命を落とすな。どんなに困難でも生き延びるのだ。
そしていつの日か、お前が望む日常を生きろ。」
「両親を奪われ、奴隷となり、命を奪い生き延びた。
目的の為に多くの血が流れ、多くの人々が命を落とすだろう。
だがお前には」
テオドルはそこで言葉を詰まらせた。
敵や危険、そのいずれかを察知したわけではないようだ。
ミスカは不審に思い見上げると、テオドルは何かを躊躇っているようだった。
(テオドルが、躊躇う。一体何を?)
六人の追っ手を躊躇なく殺した男が、躊躇っている。
ミスカにはそれが衝撃的だった。
心のどこかで人間離れしているテオドルを超人、別種の者だと思っていたからだろう。
だが何を想い言葉を詰まらせたのか、ミスカに分かるはずもない。
が、ミスカは次の瞬間更に驚愕することとなる。
「ミスカ、私はお前に生きて幸せになって欲しい。
その手が血に染まり幾多の命を犠牲にしても、それを掴み取って欲しいのだ。」
その顔は穏やかで、ほんの僅かだが微笑んだように見えた。
ミスカは何も言えぬままテオドルを見つめ、何かを感じ取った。
それが何かは分からなかったが、不思議な心地良さがそこにあった。
遅くてごめん。今日はここまでです。
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