男「恋のABC」(36)

abc欠乏症という病気をご存じだろうか。
最近世界を騒がせている厄介な病気だ。
その病気にかかった者は「abc」が発音できなくなる。
まあ言うなれば失語症の一種だ。

人間が勝手に決めたアルファベットの通りに病状が進むなんて、ふざけた話だ。
おおかたどこかのマッドサイエンティストが作り出したウイルスかなにかが原因だろう。

女「……」モグモグ

僕の彼女もabc欠乏症にかかってしまった。

女「……おいしい」モグモグ

ちなみに今は食事中だ。

創作発表板に投下した過去のものです
三点リーダやクエスチョンマークなどをちょっとだけいじってますが
それ以外はほとんど元のままです、多分

この病気はカップルを中心に広がっているらしい。
僕たちにも災難が降りかかったが、もし付き合っていなければ逃れられたのだろうか。
何にせよ、理不尽な病気であることは間違いない。

この病気にかかると、始めはabcが発音できなくなる。
日本語で言うと、aはつまり「あかさたなはまやらわ」だ。
いきなりハードルが高すぎやしないか?
「愛してる」も「会いたい」も「からあげ」も「刀」も言えないんだ。

女『あんっ……あ……あん……んっ』

みたいな喘ぎ声は、もう永久に聞けないわけだ。
まあそんなに激しく喘いでくれたことなんて、一度もないが。

女「……ニヨニヨしてる」ギロ

ほら、「ニヤニヤ」が言えない。
待て、僕はニヤニヤなんかしてない。

女「……エロス」

誰がエロスだ。

わざわざ言うことでもないが僕は彼女に手を出していない。
bまでだ。
bって……言い方が古いな。でもまあ、そういう感じだ。

入れてしまうと、彼女を汚してしまうようで、なにかを失ってしまいそうで。
だから僕は彼女に手を出さない。
だけど、好きだ。大切だ。愛している。

女「……エロス」

顔赤くしちゃって。そんなにニヤニヤしてたかな?
エロスなことはしていない。
草食系紳士だ。自分で言ってりゃ世話ないな。

bは「ばびぶべぼ」だ。
「馬鹿」とか「ボケ」とかも言えない。
「バスガス爆発」なんて言おうとしたらえらいことになる。

ちなみに「ラブ」は言えないが「ラヴ」なら言えるんじゃないかと思ったんだが……

女「……」パクパク

「ら」も駄目だったんだな。忘れていた。

女「好き」

これだけは言ってくれる。可愛い奴め。

cは「ち」だ。
「地球」や「畜生」や「チュウ」も言えない。

女『おチ○ポください…』

も言ってくれない。
まあ言ってくれたことなんて一度もないが。

女「もう、エロス」ギロ

おっと、また睨まれた。
エロい妄想もほどほどにしないとすぐ見抜かれてしまう。困ったもんだ。

女「……」カチャリ

食べ終わったみたいだ。
彼女は僕よりも食べるのが遅い。
だけど、食べている最中の彼女を見ているのが好きだから、僕はいつも待っている。

女「……」ペコリ

「ごちそうさま」が言えないもんだから、彼女はいつも手を合わせてお辞儀をする。
「いただきます」も言えないから、食べる前も同じようにする。

女「行こう」

会計はいつも僕がする。
彼女に払わせるわけにはいかない。男として。
でも、いつも払おうとしてくれるのが、たまらなく嬉しい。
いや、違うな。「僕が払うから」って制して会計をするのが、たまらなく嬉しいんだ。

初めてこの病気を知ったとき、僕は信じられなかった。
誰だってそうだろう。

でも実際に言葉が消えていくのを知ったとき、文字通り「言葉を失った」ね。
今、うまいこと言った?

どうしても伝えたいことが言葉で伝えられないときは、文字を書く。
僕たちはそうしてきた。
でもよく顔を見ていれば、言いたいことは結構わかるもんだ。

女「……」

ほら、ガラスケースの向こうの服がほしいって、顔に書いてある。

女「……」

でも、お金に余裕がないのもわかってる。
だから彼女は無理に欲しがらない。
そんな彼女を喜ばしたくなるってのが、男の性だ。

……いや、高い、やっぱり無理だ。

女「……行こ」

ゴメン。

彼女の症状はどんどんと進む。
周りの都合などお構いなしだ。

dは「だぢづでど」だ。
正直「ぢ」と「じ」の違いはよくわからない。
「地震」は言えるのに「鼻血」や「耳血」が言えない。

ちなみに「痔」って「ぢ」だと思ってたんだけど「じ」なんだね。
言ってみてって催促したら嫌々ながら言ってくれたよ。

女「……痔」モジモジ

なに言わせてんだって怒られたけどね。
でも言えなくなる前にたくさんの声を、言葉を聞きたい。
それは普通のことだと思う。

eは「えけせてねへめえれえ」だ。
言いにくい……

母音が二つ言えなくなっちまった。
「エロス」も、もう言ってくれない。
あ段とえ段が言えないってことはあとは「い・う・お」の3つの段だけだ。

女「……好き」

まだ言ってくれてる。嬉しい。
僕も、愛してるよ。
だけど、君の言葉はもうすぐ消えてなくなる。
それが悲しい。

女「君は、いつも、ここに、いる」

ああ、いるよ。

女「……いいの?」

なにが?

女「ずっといる?」

いるよ。
僕はこれでもかってくらい頷いた。

女「いいの?」

いいよ。それでいいよ。
一生君のそばにいる。

彼女はこの病気にかかってから、一人称が言えなくなった。
「私」と言えなくなったから。
少し違和感はあるけれど、仕方ない。

女「ふふふ」ニコニコ

彼女に内緒で進めている計画があるんだけど。
早く実現させたいもんだ。
おっと、こんなこと考えてると顔に出る。
僕はそっぽを向いた。

女「押忍!!」

あいさつは「よう」か「押忍」かだ。
色気もクソもないな。

女「……」

はっは。
機嫌を悪くしないでくれよ。

女「コーヒー飲む」

ん、行こうか。
ほんとは彼女は紅茶が好きなのに。
でも僕に合わせているうちにコーヒーが好きになってしまったらしい。

僕もコーヒー派になって日は浅いんだけどね。

僕は喫茶店で、借りたマンションの見取り図を見せた。

女「!!」

一緒に住みたい。そう言うと、彼女は戸惑って、でも嬉しそうに笑った。

女「どう……」

「同棲」って言いたいんだけど、言えないみたい。
でも伝わった。

女「……」ゴソゴソ

財布を出そうとする。
家賃を出すってことかな。
僕はそれを制した。家賃くらい僕が出すさ。
自分で出せる範囲の家を借りたんだから。
そのかわり、料理とか、してくれないかな。

女「料理……する!!」

家事とか洗濯とかも……

女「する!!」

なんだかすごく嬉しそうだ。
言葉を失いつつある彼女は、一人で生きていくには大変だろう。

嬉しそうな彼女を見ていると、僕も嬉しくなった。
僕がずっとそばにいようと、誓った。

そうこうしているうちにfを失った。

もう「ふふふ」って笑ってくれない。
fを失っただけで、彼女はほとんど笑わなくなった。

そしてgを失った。
「がぎぐげご」だ。

「ゲルググ」も「グレゴリー」も「午後の紅茶」も言えない。
だけどこの頃にはもう、彼女はあまり話さなくなった。

女「……」

ボーっとしている彼女を見ていると切なくなる。
今、なにを考えているんだろう。

女「……」

彼女がこっちを見たが、その表情からはあまり読み取れなかった。

沈んでいる彼女をピクニックに連れて行った。
風の気持ちいい日だった。
医者が言うには、この病気を止める手立てはないが、部屋で閉じこもっているとよくないそうだ。
だから少しでも気分が晴れるように外に連れていくことが多くなった。

女「……いい気持ち」

少しご機嫌になったみたいだ。
あれ、「ち」は言えないはずじゃ…

女「……」ニコ

「ti」ってことかな??
相変わらずこの病気の基準はよくわからない。

女「いい気分♪」

これもなんだか発音があやしい。
「キヴン」みたいな発音だ。
「ヘヴン」とか、言わないかな。「ヘ」はもう言えないのか。

女「……」ニコ

今のは「ありがとう」かな?
だいぶ表情から彼女の考えていることがわかるようになってきた。

部屋で発音の練習をした。

女「煮物、作る」

いいね、煮物は大好きだ。

女「ヒモ」

僕が? 君が?
養っているとは言い難いが、僕はヒモじゃない。やめてくれ。

女「……」

今のは「ゴメン」かな。
まあ怒ってるわけじゃないけど。許す。

女「ポリス」

頼むから警官の前でそんな言い方するなよ。
怒られるから。

女「プロポリス」

ん? 警官はみんなプロだろ。
アマポリスなんているんだろうか。

女「……」ニヤニヤ

ニヤニヤしている。彼女のこういうところが時々よくわからない。

女「ロリ」

……
なんだって?

女「ロリ!!」

誰だ、そんな言葉を教えたのは。
僕か。

女「スク水!!」

ああもう、やめてくれ。
好きだけどさあ。

女「クスコ!!」

もう黙りなさい。
僕は疲れた。

女「男好き」

ああもう、ろくな言葉がないじゃないか。
それに僕は男好きじゃない!!

女「ホモ」

ええい!! うるさい!!

女「……許す」

君はそういう趣味があったのですか、そうですか。bl好きですか。
悪いけど男には興味持てないし、許してもらうこともないからね。

女「……」ニヤニヤ

楽しんでる。くそ。

女「……」スッ

ん? どこに行くんだ。
台所?

女「……水」コトッ

うん、水だね。
で、これをどうしろと。

女「!!」バシャッ

うおお!! こぼすな!!
ズボンが濡れちゃったじゃないか。

女「雑巾!!」

雑巾、雑巾、どこやったっけ。
ていうかそれ言いたかっただけじゃないか。

女「雑巾♪ 雑巾♪」

なんでご機嫌なんだ。

女「布♪ 布♪」クイクイ

服を引っ張るな!!
それ雑巾じゃないから。

なんてバカなことをやっていたのも束の間。
hとiを立て続けに失った。

彼女はもうほとんど喋らなくなった。
「好き」も言ってくれなくなった。

女「……」シュン

そのかわり僕は毎日彼女に好きだということを伝え続けた。
少しだけ彼女の顔は晴れるが、すぐに寂しそうな顔になる。
僕にできることはないのかな……

jやlはいつ失ったかよくわからない。
特に変化はなかった。

僕がブタの絵のプリントtシャツを着ていると嬉しそうに

女「トントン♪」

なんて言っていた。
でも、それも言わなくなった。
nとoも失ったのだろう。

定期的に医者に通ったが、もう治る見込みがないどころか症状が加速する一方だそうだ。

ついにuまで失った。
母音のすべてとnが発音できない以上、彼女はもう喋ることができない。

女「……」ボー

僕が顔を覗き込んでも上の空だ。
声を失う実感が湧きあがっているのか。
もう諦めきってしまっているのか。

女「……」スッ

ベッドを指さす。
寝たいの?

女「……」コクン

生活感がなくなっていく。
僕は明日の朝食の準備だけ済ませ、ベッドに戻った。

……

目が覚めた。
なんだか頭がぼーっとしている。

彼女は隣で笑っている。
笑っている?

女『おはよう』

!!
なぜ、声が出せるんだ。

女『やっと、私も追いつけたね』

何を言ってるのかよくわからない。
追いつけたって、なにに。

女『君が声を出せなくなってから、ずいぶん待たせちゃったね』

そうだ……
この声は、彼女の口からではなく、頭の奥から聞こえる。

女『君の声も、私にはちゃんと聞こえていたのよ』

本当に!?

女『うん、本当だよ』

僕の声も、同じように彼女には伝わっていたのか。
君の頭の中に、僕の声はあったのか。

女『うん、君は声を失ってしまっていたけど、私の頭の中にはあったよ』

女『でも、うまく説明ができなくて……』

女『でもこれで、やっと話せるね』

言葉は失っても、会話はできる。

男『じゃあ、ずっと言えなかった言葉を言いたい』

女『なあに?』

男『愛してる』

女『ふふふ。ずっと聞こえてたけどね!!』

女『でも、ありがとう』

★おしまい★

以上です、ありがとうございました。
台詞の前に名前はいらなかったかもしれませんね。


読解力が足りなくて申し訳ないんだけど、
実は男も言葉を失ってた、ってことなのかな?

あとaを失ってるはずなのに>>10で「は」を使ってるのはミス?

>>32
ギャース!!
ミスですね御免なさい。

実は男が先に喋れなくなってました、という話です

ありがとうございます
確かにそうですね

なんというか、女視点からすると、男の声は頭の中に聞こえるのに自分は喋れなくなっていく
というのが辛いだろうなあ、という感じで書きました

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