涼宮ハルヒのSOS (220)
「この物語はフィクションであり実在する人物、団体、事件、その他の固有名詞や現象などとは何の関係もありません。嘘っぱちです。どっか似ていたとしてもそれはたまたま偶然です。他人のそら似です」
……ねえ、キョン。何でこんなこと言わないといけないのよ。あたりまえじゃないの。
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ある日突然の啓示だった。いや、それは思考の中の夾雑物だったのかもしれないし、何者かの陥穽ともしれなかった。
とにもかくにも糞ほども現世や、連綿と続いていく未来の役にたつとは思えない代物だったし、見ての通り俺の望んだかもしれない。
俺の為の人生をめちゃくちゃに撹拌してしまったことだけは確かだった。
「あたしたちの世界をあたしたちの手の中に」
ハルヒが声高くそう告げる。宇宙の最果てから未知の来訪者が、地の底からの復讐者、はたまた
環境汚染により突如として発生した特殊生物か……残念ながら事態はそう単純に易々と当座の『敵』を定められるような種類のものではない。
「誰の手から?」「どうやって?」
SOS団の団長たる彼女の目下の仕事はつまるところ早急に俺たちの共通の『敵』を創ることだった。
世界を大いに盛り上げる為にはどうしたって骨のある叩きがいのある奴らが反対側に廻ってくれなければならないのだ。
振り上げた拳には落とし所が絶対である。
沈思黙考の後、ハルヒは重々しく口を開いた。
「ここは目前の『敵』を叩いておくべきね」二度頷く。「遠因は後々、まずは近因から」
「困ったことになりましたね」
古泉の気色の悪い笑みにも少しばかりの難色が伺える。
ベンチに腰掛けた朝比奈さんの瞳には涙の玉が浮かび、その隣には相変わらず無表情を変えない長門有希の姿がある。
「涼宮ハルヒが6日前のどの時点で、この世界をフィクションであると規定したのかは不明。
彼女がこの世界をフィクションと規定してから、全人類に同じような疑義が抱かれた。
それは現時点ではただの疑いにすぎないが、時間が経つごとに人々はその仮定が真実だと感じ始めている」
「いずれは共通の認識となると」
「恐らく」
一万数千回と繰り返され続けた夏を思い出す。あの頃のように脳裏をよぎる得も言われぬ既視感はないものの、
こんな様子で朝比奈さんは悲観に暮れ、古泉も思案投げ首。
長門は電灯の元で不気味な程に青白く照らされた横顔をこちらに、どこか一点を凝視し続けた。
奇しくも場所は同じ公園。
「長門、お前の力でハルヒのアホな思い込みをどうにかすることはできないのか?」
まるで木組みの人形が首を曲げるような動作で、ゆっくりとこちらを振り向いた長門は耳を澄まさなければ聞き逃してしまいそうな程の小さな声で囁くように、それはできない、と呟いた。
「なぜだ?」
「情報統合思念体は涼宮ハルヒに対する不当な干渉を私に許可しない。それに……」
「それに、なんだ」
酷薄な言葉を事もなげに口にするその薄い唇が、少しだけだが次の言葉を言いあぐねている戸惑いを見せたように俺の目には映った。
「それに、涼宮ハルヒが言うように、この世界が何者かの創作物である可能性は完全には否定できない」
「そんな!」
朝比奈さんがその大きな目を目一杯に見開き、ベンチから身を乗り出した。
「信じられません! わ、私たちが生活しているこの世界が涼宮さんの考えるような世界だなんて」
「ですが、それを多くの人々が納得できるかたちで証明することができますか?」
古泉が多少皮肉を交えてそう言い、長門は俺に向けてこくりと静かに頷く。
「でも、できれば朝比奈さんが述べるように、この世界は僕たちが知悉している世界。涼宮さんを中心に回る……あの非日常が日常な世界であることを願うばかりです」
「あたしは絶対に許せないわ、例えばあの爛れたような夕陽を見て」
ハルヒと教室に二人きり。哀惜の念に耐えないといったような寂しげな瞳が、一度だけ俺を捉えたような気がした。カーテンを開けて逆光となっているからはっきりとこいつが俺の顔を見たと断言することができないのだ。
「キョン、あんたはあの暮れなずむ夕焼けを目にするといったいどんなことを考えるかしら?」
えらく感傷的だな? 映画監督の次は詩人か、といつもの俺なら茶々を入れる場面かもしれないが、あのすぐにでも糜爛して、その身をグロテスクに崩していきそうな太陽を目にしていると自然とそんな毒を吐く気力も失せてしまった。
「昔の思い出が蘇ったりしてもの寂しい気分になったりするかな」
「あたしもよ」言下にハルヒは続ける。「楽しかったこと、嬉しかったこと、そして悲しかった想い。それを振り返ってあたしの胸は熱くなるの。そんな想いにさせてくれる
夕陽があたしは好き。時に残酷なことを孕んでいたってね。でもそんな種々な思い出たちが純粋にあたしたちだけの物じゃない時はどう? あたしは絶対に、絶対に許せないわ! どこの馬の骨とも知れない誰かが、気ままに作っただけのチープな想像にいったいどうやって納得すればいいのかしら」
掛ける言葉が見つからなかった。肯定、否定、慰めその他どんなものだって口にするだけ無駄なのだろう。そう、感じた。
「あの夕陽だってそう。あたしたちが感じる色も、暖かみも全て誰かに付与されたもの。意識は予め用意されたものの処理によって、あたしたちはただそれを赤だとか綺麗だとか……いいわ、もう。ごめんね、こんな言説を披露してみせたところで、いったいどうやって誰かの頭の中でとうに既定路線に乗せられている物語を変えてしまうことができるのかしら。ページを繰れば必ず次の文字の群れがテキストとして棲息しているというのに」
最後にハルヒは膝に顔を埋めて吐き捨てた。
「あたしは……あたしがつくりだす人生を歩みたかった。誰の手も加えられないままの、純粋なあたしの」
少しばかりメランコリック過ぎる嫌いがないとは言い難いが、ハルヒの肩の震えに気づくと、なぜだか俺の拳は強く固く握りしめられているのだった。
古泉の「あなたらしくもない」というお決まりとなった文句が聞こえてきそうだった。それが憐憫の情であったかどうかはさておき、俺は数日の懸命な苦慮の結果、俺だけが持つことを許された唯一無二のキーアイテム、もといキーワードを使うことに決めた。
世界の安寧をもう少し冷静に天秤にかけてみるべきだったと愚痴の一つでも溢したい人々が多数いることだろう。そんな人には素直に頭を下げておく。
なぜ俺がハルヒの片棒を担ぐ気になったかといえば、それは俺にだってはっきりとした回答をロジックに従って並べ立てることはできない。
ただ大雑把ではあるけれどやはり俺の中でもハルヒが愁傷する世界に対して嫌悪感に近いものを抱いていたというだけのことではないだろうか。
夕陽がそこに含蓄する様々な趣を失って、ただの夕陽という記号と化してしまうことはやはり俺にだって我慢しがたいものであるらしい。
ハルヒが思い込みで世界の成り立ち自体を勝手気儘に改変しているという可能性はないだろうか?
もちろん無きにしもあらずだ。被害妄想も甚だしいといったものだが、なにぶん潔癖と似通るほど常識を愛すハルヒである。
このようなSFチックな世界観に捕らわれるにはそれ相応な理由が存在するはずだ。
この世界観を奴に齎した主因たるものを取り除くという方法は?
そして、それは本当に可能なのだろうか?
常識に泥濘し続けた涼宮ハルヒは梃子でもその自らの常識を覆すことを容認しなかった。
長門や朝比奈さん、それに古泉の正体を俺が親切にも明かしてやったことがあるのを憶えているだろうか?
ああいうことだ。こいつの持つ常識の理念を曲げてやることはしつこいようだが容易いことではないのである。
それが今回はいったい、もし首謀者なんてものがいるのだとすれば、どこのどいつがこれほどまでに上手く事を運んだというのだろう。
ハルヒにとっての非常識だったある部分は常識へと変転し、いまやそれは続けざまに俺たちをも首肯させうるものへと変化を遂げつつある。
個人の実感としてだがこのハルヒの新たな常識はもはや話半分で聞き流せるような戯言ではなくなっているというような印象を俺に抱かせる。
でもそれも当然のことだろう。この女は自分の意図とは裏腹に盲滅法に世界を改変させる能力を備えている。ハルヒが表と思えば俺たちにも表、裏と思えば裏なのだ。
「ジョンスミス」
そう、ジョンスミスだ。
この言葉を持つことが俺の有するただ一つの特権である。今回俺は惜しげもなく、俺のアイデンティティに近い切り札を捨て去ってしまったわけだ。
長門が宇宙人、古泉が超能力者、朝比奈さんが未来人。
それぞれがそれぞれに非常に興味深い役割が与えられているように俺に与えられた配役はこの「ジョンスミス」という役柄だったわけだ。
俺が何の前振りもなくそう言うものだからハルヒはさぞ驚いたに違いないだろう。びくりと肩が、まるで発作の前兆のような震えだった。
「今……何て?」
「聞こえなかったか? じゃあもう一度はっきり、ゆっくり言ってやる。ジョンスミス。しっかりと聞き取れたはずだぞ」
ハルヒの顔色が少し青ざめる。俺の方も意気軒昂とし過ぎたらしい、鼻息がいやに荒っぽい。
「どうしてあんたが、その……ジョンスミスのことを知っているのよ?」
「なあに簡単な話さ。俺がそのジョンスミス本人だからだ」
ハルヒは額に手を当て深い溜息をつき、訝しげな視線をこちらに投げる。
「おいおい冗談なんかじゃないぞ」俺は慌てて取り繕った。
「お前が校庭に描いたメッセージの意味もちゃんと知ってる。『私は、ここにいる』それがあの校庭いっぱいに描いた白線にお前が込めたものだ」
この秘密をこいつに披瀝してしまった後に、俺の心中は決して穏やかではなかったことは察してもらえると思う。
傍観者から当事者に、遂には直接的に手を染める容疑者の立場まで俺は行き着いてしまっていたのだ。
ただずっしりとのしかかる後悔の他に、不思議な高揚感が俺を満たした。
ついつい口を衝いて出たというように見えるが、存外、真実をハルヒに伝えてしまいたかったという点も否定はできない。
「お前には世界を変える力がある」
こうなればヤケだ。責任放棄と指される後ろ指は素知らぬふり。
「それが本当だったとしてキョン、あんたはあたしにいったい何を求めるの?」
「知るか! そんなもん!」
ただ、きっとハルヒと同様に、俺にしてもこの世界が誰かに作られたということに得心がいかないだけだっただろう。
業腹だ。長門、古泉、朝比奈さん、そして涼宮ハルヒに出会ったこと全てが仕組まれたことだったとしたら……いや、認められない。
ただどうだ、認めないと言いつつ、まるでそれを認めての対抗策のようなハルヒとのやりとりには疑問を覚える。
この時既に、世界は後戻りを許さないところまでその歩を進め始めた、と俺は仮定する。
皆が話半分で聞いていた、世界は作り物である、という観念は。今や薄っすらとではあるが、人々の深層心理の部分にまで根を下ろしてしまっているらしかった。
ひょっとすれば定着を促したのは当の俺本人かもしれない。
「一緒に変えよう」
何かの手によって変貌へと導かれた世界。それに不満があるなら事は明白だ。もう一度かたちを変えてやればいいだけの話。
まるで元の姿には戻らないかもしれないが、それはそれ。顔かたちも判然としないような奴の思い通りになるくらいなら抗いを試みるのも正当な一つの手段であろう。
そして幸いなことに俺たちにはハルヒがいる。どこのどいつがこんな世界の創造主様かしれないが、ハルヒのような破茶目茶な力を持った奴を生み出してしまったことは大きな失態だった。
でも、ひょっとすればハルヒの存在理由はこの為にあったものだったのかもしれない。人々に自らが絶対的な真ではないということを流布させる為。
けれど俺たちはそれを逆手に取る。あっさりと思い通りになるほど素直な筋書きは好みじゃないものでね。
おや? 待てよ……全てが勘違いだったという可能性はどこにいった?
ふむ、すっかりと雲散霧消してしまっていたが、元はといえばそこを疑い続けなければならないのではなかったのか。
ただ俺がそれに言明することはなかった。必要性がないと感じたのだ。重力や地球の自転と同じようなものである。
世界はフィクションだ、疑いようのない。
「お前の好きなようにすればいいさ」
いつもの負けん気を見せてくれてもいい。今度も横柄な態度で俺たちを牽引してくれよ、しっかり頼むぜ団長さんよ。
「あなたらしくもない」
一言一句違わないその発言に俺はつい手を叩きそうになったが、それをぐっと堪えて神妙な顔つきのまま古泉の目を見つめた。
「軽挙妄動だと言わざるを得ないでしょう」
「否定はしないさ」
まだSOS団の誰にも先日のハルヒとのやり取りを説明してはいなかったが、こいつらもただ漫然とハルヒに振り回されてきたわけではないらしい。事態の変化には敏感のようだ。
「眉唾なものだった、僕たちの世界がフィクションであるのではないかという疑いがもう覆しようのない確信に近いものになってしまいました」
「俺もだよ」
「まだ時間は充分に残されていたはずです。それなのに……」
「確かに、俺たちにはハルヒの考えを改めるだけの充分な時間が残されていたはずだ。ただ、俺にはあの頑迷固陋なハルヒの野郎がここまで頑なに信じてやまない『この世界は創りもの』っていう話に妙にあてられてしまったらしい」
「本当にあてられてしまっただけかもしれませんよ」
そうかもしれないな。これについても否定はしない、俺の意識がどの時点で改変されたかなんて誰にも分かる話じゃない。
SOS団の部室には珍しいことに俺と古泉の姿しかなく、二人は机を間に挟んでパイプ椅子に腰掛けていた。古泉が淹れたお茶は手をつけられぬままだ。
「お前はどうなんだ?」
もうきっとこちら側になびいてしまっているはずだ。案の定、古泉は重たそうに首を縦に振る。
「口ではどれほど反駁をしようと、とっくに内実が伴わなくなってしまっているんです。少し前までは誰が何を言おうとも世界がありのままであることを疑わずにいたはずなのに、今ではその逆です。夢中で心にもない反証をあげて、疑いようのない事柄を非難し続けようとしています」
項垂れる古泉を視界の隅で捉えて、俺は気に食わないとばかりに鼻を鳴らした。ここまで来てしまって、いったいこれ以上何を躊躇することがあるのか。
俺はハルヒや、お前らと共犯者になった時から、一蓮托生、運命はお前らとともにあることに決めている。
「古泉、俺はハルヒに付き合うよ」
終わりを見届ける義務だけが俺には残されている。そう感じた。
「後悔はないんですか?」
愚問だ。張り詰めた緊張に、不意に穴が穿たれた。その穴から笑いが漏れる。つられて古泉も笑みを漏らす。
「思いつめ過ぎていた僕が、何だかとても滑稽だったように思えて来ましたよ。ええ、わかりました。やりましょう。僕もSOS団謎の転校生の団員です。涼宮さんとあなたが決めたのならきっと大丈夫。それにこれ以上、涼宮さんを悲しませ続けたら不要な仕事が増えてしまいますからね」
「近因の『敵』とは?」
すっかり威勢を取り戻し、意気揚々とするハルヒの姿はどこか楽しげだ。元来、手をこまねくことはこいつの性には合っていないらしい。
今回の場合は状況が状況だったが、壁龕の内に身を潜める慎ましい方法がひょっこりと顔を出し
それを見つけ出したハルヒはまさに渡りに船とばかりに創られた世界の行き先を、そしてこれを創りだした何かに対してのけじめをつけられそうなことに
瞳を爛々と輝かした。何よりも事の成り行きが自分を中心に回り始めそうだということにも期待せずにはいられないらしい。
「あたしたちの世界を創りだした世界が『敵』に決まっているじゃない」
それがこいつの出した結論なら横から口出しをするような野暮な真似はよそう。
ただ、全容がどうにも把握し辛い。『敵』を定めることはできた、それからどうするかが俺には想像が及ばない。
「涼宮さん……それで、いったい」
メイド服姿で給仕に勤しむ朝比奈さんが、恐る恐る右手を上げて団長机で哄笑するハルヒに質問する。
「実に的確に照準を合わせたといっていいと思います」古泉が手を広げた大袈裟な仕草でハルヒに賛辞を送り始めた。
「ただ、あまりに高遠と言いましょうか、僕には狙いを定めた『敵』に対する次なる行動が予測出来ません。
ぜひこれからの『敵』への対抗策などというものが涼宮さんの中で決まっているのならお教え願いたいのですが」
舌を鳴らしながら、人差し指を振るハルヒはこれ以上ないというほど気を良くした様子である。
鼻っ柱をへし折ってやりたいが、そんなことよりも次なる行動という事の方が俺にしても最大の感心事であるのは確かだ。
俺ならどうするだろう? 創り出されたものが我々の世界である場合、我々にはどのようなパンチを創り手に繰り出すことができるのだろう。
復讐、それは対象と同次元に存在するという条件が絶対である。対象が個人や多数、概念であれ直接的に手を下せる距離だということが必要だ。
死人に口なしとはよく言ったものだが、それは此岸で佇むこちら側でも同じ事。お互いに指を咥えて恨めしそうに睨めつけ合うだけだ。
俺は確かに、全員がひた隠しにし続けたこいつの秘密を暴露してしまったが、実際に打つ手があるのかと聞かれれば言葉に詰まる。
ハルヒの全知全能の能力を持ってしても今回の件に関しては太刀打ちができないのではないかという悪い予感が頭をもたげ始めていた。
長門でさえも広げた本から目を上げてハルヒを凝視し続けた。朝比奈さんはこちらが心配になるほど青ざめてしまっている。
「おい、もったいぶるのもいい加減にしたらどうだ」
SOS団の連中はハルヒに対しては尋常ならざる我慢強さを有している。
いつも呆れるほどだ。しびれを切らすのはいつも俺の役目だと相場が決まっている。
「あんたももう少し、間ってものを楽しみなさいよ。まあいいわ、じゃあ発表するわね」
団長専用の湯のみを呷り、部室中に響き渡る大音声でハルヒは叫んだ。
「ご承知の通り、あたしたちの世界はあたしたち個人を含んで創りものであることが分かりました。こんなこと、いったい誰が想像したことでしょう。
なあなあにそれを受け入れることもできます。この事態がいったいどんな結果を齎すかは誰にも分かりません
益体もないものかもしれませんし、むしろ良い結果を招いてくれるものであるかもしれません。
でも、あたしはそれを素直に受け入れることはできません。絶対に。あたしたちの思い出や、存在はあたしたちのものです。
誰にも渡すことはできません。さて、ではいったいどうすればいいのでしょう。あたしたちにいったいぜんたい何ができると言うのでしょう?
キョンが教えてくれました。『お前には世界を変えられる力がある』。
藁をも掴む気持ち、とはこのことかもしれない。信用ならない話ではあるけれど、あたしはこの言葉にかけることにしました」
滔々と叫ばれるハルヒの演説はそこで一度中断した。喉が乾いたらしい、朝比奈さんに仕草でお茶を要求して、その用意されたお茶を先程と同様にいっきに煽った。
「ここからが本題です」お茶を飲み終えたハルヒは椅子から立ち上がる。「あたしにできること、あたしにできる反抗……みくるちゃん、どう? 何か思いつくかしら」
不意に水を向けられた朝比奈さんはしどろもどろになりながら分かりません、と申し訳なさそうに応えた。
その後、まったく同じように聞かれた古泉、長門もお互いに首を横に振る。
「目には目を歯に歯を」
ハルヒはコの字型に並べられた机に腰掛ける俺たちを睥睨し、不敵な微笑みを浮かべ口を開いた。
「あたしは、あたしたちを創った世界もまた創りもの、フィクションであることを規定します!」
この手段が現状の俺たちにできる最善手であったのかは判断しかねる。ただ、素直に感心したというのは確かだった。
奇を衒うとはまさにこのような場合に使用するものとして間違ってはいないだろう。
ただ、二つの疑問が残る。まず第一に、それが創造物である我々に可能な手段であるかということ。
第二に、それが認められたからといって、その後からはどのような事態に発展していくのかということだ。
「これは驚きました」耳元で囁く古泉の顔は辟易するものがある。
「失礼、意外な方法のあまり思わずあなたの方に身を乗り出してしまいました。恐らくこれは涼宮さん以外の他の誰にも思いつくことのできないものだったはずです」
その時突然、我が略奪者様がコンピ研から強引に奪いとってきたPCが目を覚まし
団長机に据えられたディスプレイには判読不可能な速さでコード表が上から下へと流れていった。
遅れてハルヒの隣にやってきた俺に唯一確認することができたのは、「combine」という最後に表記された単語それだけだった。
おもむろに長門の方に目をやったが、長門は目顔で「私ではない」ということを伝えてくるだけだ。
「どういうことだ……これは」
戸惑いを隠せない俺は思わずそう漏らす。ただ、そんなことはお構いなしといったようにディスプレイの緞帳は上がり始め、新たな展開を俺たちの前に披露し始めていた。
『こちらは、あなたたちによってフィクションとされた私たち。あなたたちは私たちにとってのフィクションであるとされる人々なのでしょうか?』
どうやら俺の心配は二つとも単なる杞憂として終わったらしい。このコンタクトが意味するところは俺たちの創造主である方々もまた、俺たちにとってフィクションであるということが正式に決定されてしまったというものだった。ハルヒは吉報にますますその相好を崩す。
『こちら側があなた方にその様な仕打ちをされる謂れは無い』
『ハンムラビ法典のようなものです。別にその手の宗教観を信奉しているわけじゃないけれど』
俺たちの創造主様たちはどうやらことの運びが不服と見える。
素直に憐憫の情を抱くことはできないが、やはりハルヒを唆した後ろめたさは感じずにいられない。
『あなたたちにも相応なペナルティがあってもいいと私は考えます。これから先の見通しは正直なところ明確ではありませんし、どこかに帰結するという可能性もひょっとすれば無いかもしれません。それでも、私たちはあなたたちにも同じ地平に立って物事をしっかりと捉えてもらいたかった』
少しの間、相手方からの返事はなく、部室は重苦しい沈黙に包まれた。妙に耳触りの良い長門のページを繰る音が、一定の感覚でそのしじまを震わせた。
「ハルヒ……その」
頃合いを見計らったように新しい文字列が生成され始める。
『あなたたちの行為の結果がどこに帰結するのか、こちらが側にも検討はつきません。ただ、側杖を食うのは避けたいというのが私たちの総意であります。もう一度尋ねます。後悔はないのですね?』
ハルヒが顔を上げて俺をじっと見つめる。その瞳に俺は少しばかりの違和感を覚えた。
いつも通り愚直な程に真っ直ぐな双眸。その影にふと現れる違和感の正体。
なんてことはない、それは一抹の不安だった。まるで子が母親に了承を求める、あのつぶらな瞳のよう。
ハルヒが不安にかられることがよほど俺の琴線に触れたのか、これまで以上の親近感をもってハルヒに接することができる気がした。一度だけ、しっかりと頷き返す。
『後悔はありません』
さて、これが脈々と受け継がれてきた物語であったとするならば、これからのことは物語が佳境に入るといってもいいのではないだろうか。
ひょっとすればこれからここに記されることが俺と彼女の存在理由であったのであり、それ以外に特筆すべき意味は持たなかったのかもしれない。
二人が出会ったことにより起こりうる友情、若しくは嫉妬、はたまた情愛の類かもしれないものたちは
全て二義的なもので影の方から時代の主流を見つめるちっぽけな群盲の一人に過ぎなかったのかもしれない。
何かを成す為だけに、まるでぴたりと嵌る組み木の如く精巧に。
俺たちはあたかも偶然のように、あの春、高校の教室で運命的といえば言い過ぎかもしれないが、とにもかくにもしっかりとお互いがお互いをその人生の中に組み込んでしまったわけだ。
ただし、これが幸か不幸かといわれれば、俺ははっきりとどちらかと答えられるわけではない。
だってそうだろう? 何かを成しうることが絶対的に不幸なはずはあるまい。宇宙人、未来人、超能力者、そんな彼らに出会ってしまった俺がどうして無為に日々を送ることだけを許容することができるだろう。例えそれが何もかもを飲み込んで十把一絡げにしてしまう結果になったとしてもだ。
邂逅から、物事は平穏無事を極めたような状態だった。それほど口上に上るわけでもないが人々ははっきりと自分たちが創られたものであることを知っていた。
ただその事を俎上に載せて丁々発止のやりとりをする必要がないと皆が感じていたし、実際その通りだ。
「嵐の前の静けさ、とでもいうのでしょうか。あまりにも波風が立たないというのも不気味なものがありますね」
お前は戦争でもしたいのか。ただ古泉がこう小首をかしげるのも無理からぬといえばそうだ。あちらからのアクションは先の件以来音沙汰なし。
こちら側の俺たちにしてもいったい何をどうやってみればいいのか皆目検討がつかない。ハルヒだけが一人息巻いていて、俺たちSOS団団員は放課後学校周りをランニングで周回することが日課になっていた。
「校内のマラソン大会が楽しみだな」
この分だと本当にマラソン大会までに良い感じに体力がついて、去年よりも高順位で走り終えることができそうだ。
「ええ、ただ、今回も陸上部の面々の自信を喪失させることがなければいいのですが」
また思ってもないようなことを。ただ、俺も減らず口を叩きながら苦慮を重ねていることは、こいつと変わらぬことである。
涼宮ハルヒの起こす事柄がこうも簡素に無味に終息を迎えるとはおよそ誰が想像しよう。
世界広しと言えど、ここまで台風の目のようなという比喩が似合う人間も他にはいまい。
「正直に申しますと」古泉が申し訳なさそうな苦笑いを浮かべ「今回の事に関しては僕にしても皆目検討がつかない事案でして、そうですね……恐怖心を抱いている、というのがお恥ずかしながら本心といったところで最近はこれについてばかり嫌でも考えてしまうといった状態なんですよ」
「心配するな。俺もそうだ」
素直にそう口にする俺には特にこれといって矜持を死守するといったようなつまらぬ感情は湧いてこなかった。
それもそのはずだ、なぜ超能力者が弱音を吐いてしまうような事に、世間一般の凡人である俺が胸を張り威勢を保ってい続けることができよう。
暫くはお互い並列して息を乱さぬペースで走り続けた。下校する生徒の数もはじめよりまばらである。
額から汗の滴が流れる頃合い、前方に何やら千鳥足でよちよちと走る人影が一つ。
目を凝らしてみるとそれはSOS団のマスコット兼給仕係である朝比奈さんの後ろ姿ではないか。
曲がり角に差し掛かる所で目にした彼女の表情はもはや青息吐息といったもので、俺たちが角を曲がり終えてみると手を伸ばせば届くところに息も絶え絶えの彼女が這うような姿勢で先を急いでいる。
「朝比奈さん!」
柄にもなく、彼女の名をまるで絶叫するような声音で呼んでしまっていた。なぜマスコット兼給仕係の彼女までが俺たちと共に放課後、運動部に交じるかたちで学校の周りを気息奄々としているかといえば、それはひとえにハルヒの手前勝手な理屈にほかならない。
「いい、みくるちゃん。これからのメイドは今までみたいにこうはふはふとした愛くるしい給仕係じゃ駄目なわけよ。分かるかしら? 我が団で求めるのはもっと前衛的なメイドなわけ、意気軒昂して率先的に敵に殴りかかるようなね」
少しはしおらしくなったかと思えば、相変わらずその場での思いつきを躊躇いもなく口にする女である。
とりあえず朝比奈さんを校庭へと下ることのできる階段に座らせ、古泉には自動販売機で飲み物を買ってくるように言いつけた。
「キョンくんごめんなさい。迷惑かけちゃって」
「いえ、そんなことありませんよ」
野球部の野太い声、ボールがラケットに弾かれる快い音。そんな種々な音色に耳を傾け、俺たちは二人階段に並んでお互いに何を言うでもなくただ座っていた。
古泉は自分や俺の分を含め三本のスポーツドリンクのペットボトルを手にして戻ってきた。いつものことだがまったく、如才無いのがむしろ嫌味たらしく見えてくる。
「古泉くんもごめんなさい。私ったら体力がないから」
古泉はただ一笑を朝比奈さんに向けるだけで返事の代わりとした。
そんな奴の態度は鼻につくものがあるが、まあ朝比奈さんがよしとするなら俺もよしということにしよう。
「最近特におかわりはありませんか?」
朝比奈さんの頬に赤味が戻ってきた頃だった。古泉が与太話程度の気持ちでだろう、そう彼女の横顔に尋ねるのだった。
「そうですね、特にこれといって何か変わったことはありません。現在におけることもそうですし、未来との定時連絡でも今回の件で干渉が加わったような様子も……あっ、もちろん私のいた時代にも私たちの新しい在り方については広範に行き渡って、というよりもほぼ百パーセントに近い人たちがそれを受容しているらしいです」
なるほど、時間が進んでもこの現状にさしたる変化は訪れることはないらしい。
ここは悲しむべきところなのだろうか? それとも喜ぶべきことなのだろうか? 現状が連綿と、若しくは堆く積み重ねられているということに対して。
「そうですか。僕の方もこれまでといたって変わることのない日々を送っていますよ。機関の話し合いでも今のところは事態に対して静観を続けてみようということになっていますし、僕としてもそれが最善の手段ではないかと考えます」
俺の周りの連中は、随分と非現実的なキャラクターを持っている割には一様にその物腰は穏やかな奴らばかりだ。
まあ、長門の一派で朝倉なんていう入学したての俺をいきなり屠ろうとした物騒な輩もいたにはいたが……しかし、過去を振り返れば振り返るほど
俺はどれだけの非日常的な体験を過ごしてきたことだろう。
この高校生活の三分の一、その殆どをおよそ谷口や国木田辺りの知人たちでは吟味することのできない妙味をじっくりと噛み締めてきたわけなのである。
ここで一つある疑問が芽を出した。
ひょっとすれば谷口や国木田だって俺に気づかれないようにしているだけであって、俺の想像性を凌いだそれぞれがそれぞれ享受しうる限りの面白味に日々身をやつしているのではないだろうか。
だいたい、この日常的と非日常的、つまりは正常と異常との境界ってのがしごく曖昧じゃないか。どうやって正常というものは定められる?
自分と他人とを第三者視点で比較すること。それだと恒常的な正常というものはついぞ分からずという事態になってしまう。俺は〇〇が好きで、谷口は〇〇が嫌い。これだけでお互いから見ればお互いが規定した正常からは一歩ずれてしまうことになる。
少しの間思惟をすることにより俺はある答えに行き着いた。なるほど、正常な状態っていうのは、これは一種の異常の塊というものなのだ。異常の飽和状態により俺の正常、ひいてはこの日常が保たれているというわけだ。
じゃあ、この高一の四月からハルヒが巻き起こしていた異常は? 幾度と無く俺はその渦中に身を置いてきた。
特殊状況に直面することはもはや俺の日常となりつつある。異常事態だらけの俺の生活。
これはもう俺にとっての正常の状態といえてしまうのかもしれない……俺たちの創られた日常。異常な日常。日常な異常。
そんな日常と異常の飽くなき鬩ぎ合いはやはりどこか気まぐれで、移り気な女心のようでもある。辟易とした溜息を俺につかせることもあれば、感嘆してしまうような目を見張る事態を引き起こすこともある。
古泉一樹が死んだ。事情がどうであれとりあえず死んだ。ひとつだけ、ただ単純に死んだかといえばそういうわけでもなく、古泉は生きていた。言っていることがこれほどまでに撞着していることも珍しいことだ。
まあ、事実確認をあまりに簡略化しすぎたことは否めない。しかし、俺たちだった同じように似たり寄ったりの弁を聞かされたわけで、それはもちろん、はい、そうですか、と二つ返事で納得できるようなものではなく。
「はい、間違いありません」
死んだはずの古泉が俺たちにじっくりと腰を据えて説明してくれるまではそれはにわかには信じがたいような話だった。
「私たちにとって非常に悲しいお知らせがあります」校長が沈鬱とした表情で語りはじめる。「二年九組の古泉一樹くんが早朝路上で遺体となっているところを発見されました」
体育館内に集まった全校生徒たちが波のようにざわめく。さすがの俺もこの時ばかりは驚きのあまりに酷い目眩に襲われたほどだった。
「みくる!」
三年の列からは鶴屋さんの叫び声が聞こえる。あの気の弱い朝比奈さんのことでもあるし、卒倒したに違いあるまい。
俺は矢も盾もたまらずにクラスの異なる長門の方へと駆け出した。一人の教師の静止を無理矢理に振り切るかたちとなったことから、多少の混乱を招いたが、それについての糾弾は放課後に書かされた反省文用紙数枚分を手にとって一読していただいたのちならありがたい。
「長門!」俺の形相が異様だったかでどうかはさておき、長門と俺の周りには二人を中心にした直径二メートルほどの円が自然と出来上がっていた。「古泉は……本当に死んだのか?」
戦々恐々と尋ねた俺の目をじっと見据えた長門は、それからゆっくりと首を横に振る。
「違う」相変わらず風の音ににかき消されてしまいそうなほどの声量だ。「古泉一樹が死んだという言い方は、正確には少し違う。一面を見れば確かにそう。だが、この場合はこれだけでは不足が生じる」
吉報か、それともまたもや事態の繁雑さを予感させる虫の知らせなのだろうか。思えば複雑さを伴う事態には常に碌でもないことがセットとなってやってきた。
長門のいつも通りの無機質な言葉を耳にすることで頭を冷やすことができたからだろうか、辺りを見渡す余裕を取り戻した俺は古泉のクラスである二年九組の列が妙な静けさに包まれていることに気づく。
俺は岡部教諭ら、その他体育教師数人に容易く取り押さえられているさなかそのことについて思いを巡らした。
古泉は決してハルヒのように傍若無人に振る舞うような奴ではないし、むしろクラスでもその如才ない人当たりの良さで人気のある方だったと記憶している。
丁重にお付き合いをお断りされた女子たちもまさかいい気味だなどとほくそ笑んでいるわけでもないはずだ。
ではどうしてだろう? まるで古泉のクラスメイトたちは戸惑ってさえいるようではないか……いや、これはどうも本当に戸惑っているようだ。
皆が列のある一点に視線を投げては揃って不安そうな表情になる。不審げに思った俺は、もちろんその方向を岡部教諭や屈強な体育教師たちに抱え込まれながらも確認することを忘れない。
なるほど、これはどうにも得心のいき難い事態である。九組の人々の心情も察せられる。まさか訃報の当の本人がいつもと寸毫も変わらぬ笑みを浮かべ列の中に佇んでいるとは、いくらフィクションである我々の世界とはいえど、これは依然存在していた造りものの規則の範疇を大きく逸脱してしまうものだ。
造り手である何者かが変転を望んだのか、それとも世界を定義しなおしたことによる少からざる影響といえるのか。物事の進捗が見えなかった分だけ、この件はあまりにも突拍子もなく、そして驚くべき飛躍した変化のように感じられる。まあ、とにもかくにもこのこちらに手を振る男から話を聞かないといけないことは確かなはずだ。
放課後、岡部教諭やその他教師の輪の中心で辟易するほどの説教を食らった俺だった。次このようなことがあれば親御さんを呼んでの面談、最悪停学も覚悟しておけと釘を刺されたがそんなこと、今は他のどんな物事と変わらない些末なことだ。
一秒でも早く部室の扉の向こうを目指すことが目下の俺の最優先事項である。どう切り出せばいいのか、道々言葉を吟味するがどうもしっくりとくるものが見当たらない。
「古泉、お前どうして生きてる?」これではどこか刺々し過ぎる嫌いがありはしないか。まるで俺があいつの息の根を止めにかかったようだ。そのようなくだらない事が頭を巡るなか、どこか物好きが俺の袖を引く。学内で俺の袖を引き、気を引こうとするような知り合いは心当たりがある。
「どうした? 長門」
振り返ればやはり長門がそこにぽつねんと立っていた。周りの目からは物静かで内向的な少女と、ハルヒのいうところの朴念仁である俺との淡い恋物語と解釈することもできなくはないかもしれないけれど、実際のその可能性はフィクションであれ万に一つもありそうにない。
ところで、ここに一つ疑問が生じる。なぜ文芸部唯一の部員であり、俺たちが部室にたどり着くころには決まって窓際の席にて黙々と活字の世界に没入しているこいつが俺を引き止めているのだろうか。
よほど俺に伝えておかなければならないことがあるらしい。何か話したいことがあるのか、と尋ねた俺に長門は微かに首肯した。
「古泉一樹のこと」
まあそれ以外は考えられない、か。いずれは長門にもこの問に対する返答を求めることになるとは考えていたものの
まさか長門の方から俺にこの話を持ちかけることになるとは……さらに佳境に近づいてきたことが伺える。
「今の彼は以前の彼であり、以前の彼ではない」インタロゲーションマークを浮かべる俺に構うことなく長門は続ける。「あらゆる古泉一樹という可能性を内包している。それが今の彼」
古泉一樹の可能性を内包している古泉一樹というのは
それはつまりありのままの古泉一樹ではないのか。俺にはそれが俺たちの知っている古泉一樹とどう差異が存在しているのかということがまるで検討がつかない。
「放課後、私の部屋へ」
今この場で噛み砕いて説明してもらいたいぐらいだったが、長門が部屋へというのだからきっとその方が都合がいいのだろう。
わかった、とそれだけいうとお互い言葉なく部室への行進は再開したのだった。願わくば古泉が古泉でありますように。
扉を隔てていても、そのてんやわんやな状況をまるで手に取るように想像することができた。
あの好事家の女王様が、まさか自分の息のかかる範囲で起きた件をどうして見過ごすことができよう。
創造に包括されたことによる内面の変化などはまるでハルヒにはない。
その証拠に、扉を開くとそのはっきりとした詰問の細部を聞き取ることができた。
それはこちらがうんざりするほどの微に入り細に渡るようなもので、俺としては、むしろそれに唯々諾々と返答をする古泉の方に無機質な対象へと感じる種類の恐怖を抱いた。それにしても、ハルヒの弁はいつにも増して執拗である。
「古泉……お前」
しかし、俺は言葉を飲み込んだ。ここで俺がいくら知恵を絞ったところで、思いつく問いかけは凡庸を半歩進んだものであるのが精一杯で
そんなものでも事の核心へとじりじりと蠕動運動をするミミズのごとく迫っていくことは可能だろう。
けれどお生憎、俺は四足歩行と二足歩行で歴史を紡いできた者たちの子孫であるがゆえ、身体をくねらせながら進むことを不得手としている。
長門はいつものパイプ椅子で、まんじりともせずこちらを見つめつづけている。
そうだな、そうだった。お前の家にはもちろん朝比奈さん、そしてこの古泉と思わしき人物も当然のように招待されていることなのだろう。
それならその場で、俺よりもそれぞれがそれぞれに特異的な知識を有しているこの連中同士、侃々諤々の議論をし合えばいいだけの話である。
「その辺でいいだろう」
矛先をいっときでも逸らしてやろうと、団長席から身を乗り出しっぱなしのハルヒの肩を引いてやったが、思いの外力強くやりすぎたらしい。ハルヒはしこたま椅子に腰を打ちつけた。
どうせ駄目だろうけれど、素直に謝辞を述べた結果、彼女は荷物をまとめ部室をあとにした。置き土産の頭突きは暫く尾を引きそうなほどの鈍い音をたてたが、まあハルヒの気を逸らし、物事を効率的に運ぶ為の俺の努力が実を結んだので奏功したといってもいいだろう。
ハルヒが去るのを待ちかねていたかのように、長門が手に持っていたハードカバーの見たこともない聞いたこともないタイトルの本を閉じ、すっと立ち上がる。
「長門さん。もう、すぐにおじゃましてもよろしいんですか?」
古泉の言葉に返答はない。ただ、出入り口の前でこちらを振り返りじっと身動き一つしない人形のようになっているのは、きっと俺たちの帰り支度が整うのを待ってのことだ。
古泉と俺は机の上に置いた学校指定のバックを手にするだけで下校の準備は万端なのであるが、メイド姿の朝比奈さんはそうもいかない。彼女の着替えを待つ少しの間、俺は我慢ならずに隣に並んだ古泉へと声を掛ける。
「古泉、今朝の朝礼のことなんだが」
やはり尋ねないわけにはいられない。ハルヒを阻み、そしてそんなハルヒと変わらない質問を投げかけていることに多少の罪悪感を感じなくもないが、本当に一つや二つぐらいならと自らを制止することはできなかったのだ。
「僕が死んだということですか?」古泉は肩をすくめて首を左右に振る。「心配しないでください。私たちが一般的に認識している死というものがイコール終わりという形を歪めてしまったわけではありません」
俺としては別にそういう杞憂をしているわけではないのだが、まあ口ぶりからしてまた頭を混乱させるようなややこしい話になりそうなのはもはや決定事項であるようだ。
嘆息をし、ここは保留にしよう、と自分に語りかける。ただ、この古泉がどうしても俺の知っている古泉なのかという疑念が拭いきれず、それの薄気味悪さという舌にまとわりつくような苦味が釈然としない。
玄関口からも、この部屋の相変わらずの生活感の希薄さが伺える。フローリングの床はまるで数分前に業者が念入りに掃除をしていったかのように塵埃一つ無く、長門がその上を滑るように俺たち三人をいつものリビングへと先導する。
「お茶を淹れる」
そう言い残し、長門はキッチンへと姿を消した。俺と朝比奈さん、古泉はテーブルを囲繞している。ただ、どうしても古泉の存在が気になってしかたない。俺だけでなく、朝比奈さんも机の上に置かれた手が円を描いたりと落ち着きがない。その俺たちの様子を古泉は微笑を浮かべて見守る。なんだか、常に主導権を握られているようで癪に障った。
長門が盆の上に湯のみを四客、それぞれが礼を口に出したが愛想とは無縁なこのヒューマノイドインタフェースは俺の右手側、朝比奈さんと向かい合い、古泉の左手側に腰を下ろし、始めようとでも言うように無言で古泉の方を凝視する。それに気づいてか否か、俺たちを回視し大仰に両手を胸の前で広げたこいつはやっとその重い口を開く。
「昨晩のことでした。いつもなら夜眠れなくなるということはなかったのですが、まあこれはたまたまでしょう。
ベッドに入っても目が冴えて一向に眠気が僕を包み込むこともなかったんです。
それで、僕は家の近所を少し散歩することに決めたのです。
おとなしく寝ていればよかったのですが、済んだことをとやかく言ってもしかたないでしょう。
上弦の月はもう随分と傾きかけていて、人通りも殆ど無いといってもいいようなこの道を、月明かりを照らされているせいもあってか
ノスタルジーな思いを胸に進んでいったんです」
古泉は滔々と語り続け、ここで一息つくように湯のみのお茶を口に含む。俺や朝比奈さんも釣られるように湯のみを傾けた。
「ふと気づくと、意図せず近所の十字路に差し掛かっていました。コンクリート塀に囲まれた、迷路の一画のような十字路です。
パンを咥えた女の子と、男の子が鉢合わせ衝突するにはこれ以上おあつらえ向きな四つ辻もないぐらいですね」
「ちなみに古泉よ、お前はどうなんだ?」
この場合、俺の質問はもちろん古泉がそんな願ってもないエンカウントを経験したことがあるのか? といったもので他意は当然含まれていない。
「いえ、残念ながら」と古泉は至極残念そうに首を振る。「ただ、昨日僕はもっと珍しいものとその十字路で遭遇してしまいまして」
「そいつは人間か、若しくはそれ以外の何かか?」
「人間でした。僕と同じ」
脳裏にはあの当座の『敵』を定めた日、PCのディスプレイに綴られる文字列の映像。
プログラムがまるで決められた文字列をただ規則に従い連ねるだけで、その向こう側で同じようにキーボードをタイプする人の気配など微塵も感じさせなかった。
ひょっとすればそんな彼らが俺たちに対して謀略を企て、まんまと古泉が餌食になった可能性はないとは言い切れない。
一つの仮説を立てられたものの、やはりそこには古泉が路上で殺されているにもかかわらず、俺たちのまえに一寸変わらぬ姿で存在することへの説明が欠如していた。
「正面から僕がやってくるんです。気怠そうに、肩を揺らしながら……そして、それは正面からだけではなく左右からも。右手からの僕は顔をほころばせ、左手からの僕は少々その他の僕に睨みをきかせ、あからさまな敵意をその眼光からは容易に感じ取ることができました」
遠回しな比喩などでは決してなさそうな古泉のその話。それをあっさりと飲み込める辺りはハルヒに礼を言いたい気分だ。
「正面の僕は言いました。『これはこれは、また珍しい人に会ったものだ』なんて、まるで望まない再開を果たしてしまったような言い草だ。
左手の僕は、ただその表情にまるで塗り固められたセメントのような微笑を張り付かせたままで、それは本当にお面のように微動することがありません。
『見たところ、あなたがたはそれほど好戦的な私のようには思えないのですが……またまたこちらは』。正面の私が幾晩も通暁を続けたあとのような
深い溜息をついたとほぼ同時、左手の僕から舌打ちが飛んできました。
横目で伺ったところ左手の僕はその場の全てが気に入らないといったように腕組みをし
ますます敵愾心を増幅させた眼差しで僕を含めた三人の僕を睥睨しているのですよ。
右手の僕は身体をビクッと戦慄かせ、狼狽の色を隠しきれない繊細な無表情を保たせようと躍起になっているふうです。
僕は『あの、失礼ですがこれはいったい』と真正面の僕に問いかけてみることにしました。
どうも彼と左手の僕だけが事態の梗概を知っている、そんな落ち着きのある素振りでもあったからです。
そして案の定、正面の彼は言葉を詰まらせながらも説明を始めました。『いえ、僕たちは本来、まあご覧のとおり正真正銘の古泉一樹本人ですよ……創られた、古泉一樹ですよ』」
そこで古泉は喉を湿そうと湯のみを煽ろうとしたが、中にはもう殆どお茶は残されていなかった。湯のみを長門に差し出し、申し訳なさそうに肩をすくめる。
そんな彼の手にした湯のみを物言わず受け取り、長門はキッチンへともう一度姿を消した。
俺も新しいお茶を長門に頼んでおけばよかったと、その時になって初めて気がついたけれどキッチンへと一度姿を消した長門を呼び戻すのもなんとなく気が引ける。
まあ、これから古泉が述懐する内容に喉の渇きなどすっかり忘れてしまうことだろうと漠然とした確信があったことだし、俺は底の方に残った数滴を、舐めるようにして口に含むことでなんとかその渇望を抑えることにした。
長門が湯気を立てる湯のみを手にして部屋に戻ったところで話は再開された。
「僕は問い返しました。だって、そんなこと当然僕だって分かっていたことです。『創られたということは、はたまたこうして邂逅を果たすことも、もちろん可能性としては語られるべきことですから』
正面の僕は戸惑う僕をからかうようにそう言いました。迂遠させた物言いは頭をかしげるより先に、僕にちょっとした怒りを覚えさせました。
相手が悠然と構えてることも気に入らなかったのです。
ただ、僕なんかよりも頭に血が上っている一人がその場にはいまして、それはこの話から予想することができると思います……そうです
僕の左手に佇む僕です。忙しなく足踏みを繰り返し、地面に叩きつけるように唾棄を繰り返します。
こういう場合はどうするのが正解なのでしょう?
僕はそう全員を見渡して訪ねました。まあ、返事をしてくれるのは正面の僕以外にはありえないのですが。
『僕なんかは穏便にことを運びたいものなのですがね、一見して分かるように、僕たち四人はどうやら偶然にも交わってしまいましたが、行き先は違うようですし』
『いいや、それには反対だ!』黙りこくっていた、左方向の僕が呆れたように頭を振った。
『と、このように行き先なんてお構いなし、出会ってしまえば仕方ない。一人を決めたがる僕も存在するわけでしてね。そういうのが一人混じっていただけで事態は物騒なことになるんです。否応なく、寂しがり屋さんなんですよ、通過するだけじゃ満足できない』
そう正面の彼が言い終わるか終わらないかのうちに、左手側の僕は怒り心頭か、とにかく人を嘲笑するような表情なんて本当に浮かべることができるのかといった物凄い剣幕で、正面の彼に躍りかかっていったのです。
躊躇いなんて微塵も感じさせない、それほどの勢いでした。僕を含め、その他の誰も一瞬遅れて反応するのがやっとです。
殴打する鈍い音が辺りに響きます。血糊が数敵、周りを囲む塀に飛び散りました。
唖然としてその殴り合いを見つめる僕の背を突然押す者、それは右手の方で弱々しい態度をとっていた僕です。
本当に、全く予期せぬ行動でした。どうすることもなく僕はそのくんずほぐれつの二人の間に割って入るかたちとなってしまったわけです。
『君もなかなか物分かりがいい』感心したように僕が言いました。
『ほら、景気付けだ!』嬉しそうな語りかけと共に、重い一発が僕の腹部を捉えます。
なんとかこの場を逃れようと、僕は本当に必死でした。知らぬ間に僕の背を押した僕も、このもつれ合いに途中からは参加をしていました。
ただ、四人とも思い思いに相手を殴りつけるだけでなかなか決着が見えません。四人がそれぞれの僕なので微妙な差異はあるとはいえ、ほぼ拮抗した実力なんです。
『よし、共闘しましょう』誰かが言いました。『いいでしょう』また誰かがそう小さく呟きました。
それから先のことは殆ど記憶にありません。もう無我夢中で拳を振り回しました。気がつくと二人の僕がもう寸分さえも動かなくなっていました。
僕にしても胸部に激痛が走り、もうすんなりと立ち上がることもできません。
ようようにして壁にもたれて立ち上がると、もう一人の僕も口元に血を流してゆらゆらと起き上がりました。
『あと一人ですか』彼はそう言い残すと前のめりで前方に倒れ伏し、もうその後は指先さえ、ぴくりとも動くことはありませんでした。そうです。三人とも既に息がありません。完全に死んでいたのです」
滔々と話を終えた古泉について、ここで当然差し挟まれる疑問がある。
この古泉の語った経緯を事実だと仮定して、目の前で茶を啜る古泉を果たして我々の知りうる古泉だと素直に認定しうる道理があるだろうか。
いや、そのような道理はもちろんない。詰問を覚悟のうえといった古泉の視線が嘲笑うかのように俺に向けられる。
「と、ところで」意外にも、その問を先に発してくれたのは朝比奈さんだった。「その、古泉くんは……ええと、なんて言うんでしょう。あの、本当に、今私たちの前にいる古泉くんはこの世界において私たちと一緒に高校生活を過ごしてきた古泉くんなんですか?」
俺たち三人の顔をそれぞれ不安げに見渡しつつ、おずおずとした口調で朝比奈さんはそう言った。
古泉は特段動揺した様子もみせず、うーんと唸ってみせたり、腕組みを何度か組み替えてみたりと、噛み砕いての説明を一切受け付けない理論体系を小学生に問われた教師のように困った態度である。
「はい、と僕も自信を持って答えたいのはやまやまなのですが、実は僕にも不動の確信というものが得られないというのが正直なところなんです。
三人の僕の亡骸、どれもこれも絶対的に僕であり、語り手である僕を含めて、どの僕がこの現在に生きていてもまるで不思議がないように感じさせられました。
ひょっとすれば僕はあなたがたにとっては闖入者であるのかもしれません。そんなはずはないだろうって自分にしつこく言い聞かしてはみるのですが、どうしてもそんな考えを払拭できないでいるんです」
頭重感を抱えたまま、俺は帰路についた。あれからも議論を交わしはしたが、糠に釘。答えを示すことができそうな唯一の存在たる長門でさえも、問題の男が俺たちの知りうる男であるのか結論は出せなかった。
いつもより気味悪く感じられる薄ら笑いの内側を、どうにかして看破してやろうと必至に見遣ったりしはしたが、その男はどこからどう観察しても古泉一樹以外の誰とも考えられない。
物は試しと長門に、古泉の声紋や指紋の照合を依頼して、実際に手早く行ってもらう。
「古泉一樹と一致した。目の前にいる人物は古泉一樹本人に他ならない」
古泉一樹が古泉一樹と一致した。だが、そんなことは初めから一目瞭然で
しつこいけれど、問題はこの古泉一樹が俺たちの知る古泉一樹であるかどうかということだけだ。
理不尽であるが、あまりに完璧なところが逆に胡散臭い。
「今日は各自家に帰ろう」
降参だとばかりに、俺は解散を宣言した。
「キョンくんキョンくーん」
俺が帰宅するのを待ちかねたとばかりに、妹がかしましく玄関へと駆けてくる。
「見て見て、シャミ、すごいんだよ」
両脇の下に手を入れられて連れてこられたのは、我が家の飼猫。オスの三毛。名をシャミセンという。諦念を極めたとばかりに垂れ下がる四本の脚はいつもと代わり映えしない。
「なんだ? 俺は疲れてるんだ。脚が六本になりでもしたらまた教えてくれ」
と、俺は自分のその発言を数瞬も待たずして後悔させられることとなった。親の後に追従するアヒルの子のように、妹の背後にはぞろぞろと列を成したシャミセンが玄関目指して悠然と進んできているのだ。
「分身の術」
頑是なく顔をほころばす妹を尻目に、シャミセンが玄関の扉で爪を研ぎ始める。
扉を開けてやると、もはや珍しくもなんともないオスの三毛猫は野外へと蜘蛛の子を散らすように離散していった。
自己複製か何かか? 俺は想像を巡らしてみたが、そもそも猫はプラナリアよろしく分裂しないし、固体はオスとメスの有性生殖で増えていく。
それに、もし仮に分身の術か自己分裂か選べと迫られれば俺は分身の術を選択するだろう。その場で身体が二等分されていく猫の画というのは誰がどう考えても怖気立つに決まっている。
散って行った一匹がおもむろに俺の脚に身体を擦りつけてきた。
その姿は分裂する猫の姿とおっつかっつで、なぜならそいつには脚が合計八本も生えていたからである。
飾り物ともいうわけでもなく、器用に八本脚を、まるで蜘蛛みたいに動かして歩く姿はどこか誇らしげでもある。
きっと他より二倍の脚があることからくる暗愚な誇りに相違ない。
だが、そんな八本脚の猫が鼻を高くしていられるのもつかの間で、よくよく見渡せば辺りには十六本脚や、三十以上にもなる脚を胴回に密生さえた奴らもいる。
そういう奴らはもはや前進するにも後退するにもぐるぐると横向きで回転する他なく、機能美というものは残念ながら既に消え失せていた。ぐるぐるぐるぐる、なんだか申し訳無さそうにひとしきり回転を続けた後、シャミたちはどこかへ姿を消した。
目眩を覚え、一刻も早く自室のベッドに倒れこみたい気分だ。
「キョンくんキョンくーん」
今度はなんだと振り返ると、帰宅した時の繰り返しのように妹が廊下をこちらへ駆けてくる。
俺は妹の瞳を覗きこんだ。玄関で四本脚のシャミを抱えている妹の方だ。
「分身の術」
二人の妹が示し合わせたように声を揃えて、俺に向けてとどめを刺さんとばかりにそう叫び、俺は見事にその場で仰向けに卒倒した。
これが狙いならあっぱれだ。後々、二人揃えて頭でも撫でてやらねばなるまい。
ただ、最後に視界に映った心配そうに俺の肩を揺する三人目の妹に、どうやらそれが無理であると考えを改めさせられる。
三人の妹の頭を同時に撫でてやるには、縦鼻横目の俺の腕ではどうやったって一本足りないのだ。
「それは散々でしたね」
古泉が、俺の肩の上で口許に微笑を湛えてそう口にした、と思う。
「俺としては現在進行形で災難続きだ」
「それは失礼しました」
たぶん、また薄気味悪い芝居笑いを浮かべているのだろう。人差し指サイズの食玩フィギュアみたいな古泉一樹の表情を充分に読み取るには虫眼鏡が必要だ。
気を失った昨晩から、俺は十全な睡眠を取れて身体の方はすこぶる調子が優れていたが、心の方はそうはいかなかった。
ベッドから身体を難なく引き剥がすことはできても、心の方がシーツにべっとりと張り付いてしまったまま……そんな気分だった。
「おはようキョンくん」
三人に増えてしまった妹が順繰りに洗面所から出てきたことに朝っぱらからうんざりさせられた。
おいおい冗談だろ? とこういう時には頬をつねってみるべきだと相場が決まっていると、とりあえずかたちだけでもやんわりと頬をつねってみる。
痛いのはごめんだから、なるべく優しくだ。
結果は変わらなかった。まあ、概して頬をつねるという行為自体が夢や幻想から覚めるのを主の目的としなくなった現在に置いて、たいした期待も抱いていなかったわけではあるが、やっぱり少し残念ではある。
頬肉がねじ切れるぐらいに摘んでみてはどうかと考えた。
失敗の原因を方法自体にではなく、例えば先ほどの俺みたいに、つねる力の加減、または用いる指の本数等々、意外と単純なことにエラーは含まれているものだと当てずっぽうに頬を摘んでみれば、容易く妹が1人に戻るなんてこともあるかもしれない。無いとは言い切れない。
十中八九無いだろうが、残りの二、一は可能性が残されている。
けれどまあ、俺が実際に頬肉をねじ切ることはしなかった。残された二、一に頬肉はあまりに大きな対価だと踏んでの賢明な判断だ。
「僕も、それは素晴らしくまっとうな判断だったとあなたを評価します」
肩に腰掛ける古泉の声はこの上なく耳障りだった。目の上の瘤とはよく聞くが、この場合は耳傍の古泉だろうか。
「しかし、まあどうにかして三人から本物を見つけださないとな」
「どうしてそのような必要があるのでしょうか?」
あのなあ、と俺はそこで口篭る。
「三人の妹さんは格別外見や性格上に差異は認められないのですよね?」
確かにこの鼻につく食玩に説明した通り、どれもこれも憎たらしいぐらいに俺の妹そのものだった。
「どうしても、と仰るなら三人の内あなたがこれだと思う妹さんを選ぶという方法もあります。けれど、それは得策とは言い難いでしょうね。そう思えませんか? 見分けがつかない以上、選んだ妹さんが本物だという確証はどこにもありません。あなたはわだかまりを心に抱えたまま、これまで通りの生活ができますか。それはそれまで通りの生活を忠実に再現しようとした演技を、あなたに強いることになるでしょう」
「お前ぐらい分かり易ければ、看破するのもわけないのだがな」
「怖い怖い」
気に食わないが、古泉の言葉に反論はできない。
まさか十一歳にもなった妹を間引きをするわけにはいかないし、誰かが手を汚す役になってしまうのも閉口だ。
そもそも議論の余地がない。骸になった妹二人がこの世のどこかにいると想像するのは憚られ、それは両親にしてはもっと厭わしいことなのは確かだ。
「ところで、どうしてお前は俺が家を出るのを待ってたりしたんだ。わざわざ塀の上で跳ねたりして、さすがに昨日の今日で薄気味悪すぎたぞ。また俺が失神したらどうするつもりだったんだ」
「おや、可怪しいですね」
と口を開いた古泉の言い分はこうだ。
自分は人より身体が小さいので、以前から俺に通学と帰宅に際して移動を手伝ってもらっていた。それはなんと中学時代から続き、俺のご近所で俺と古泉のこの関係を知らぬ人はいないらしい。
「旧知の仲、といっても過言ではありません」
馬鹿馬鹿しいとばかりに、肩をひと揺すりしてみると、予想以上に効果てきめんで古泉は危うく俺の肩から背にかけて滑り落ちそうになった。
そこまでする気はなかったので、途端に申し訳なくなり、声を荒らげて必死に俺のシャツの皺に掴まる古泉に文字通り手を貸してやる。
「ありがとうございます」
鼻を鳴らすのを受け答えの代わりとして、俺は歩を再び学校へと進め始める。
ちょっかいをかける前よりも慎重に、牛歩の歩みとまではいかないが、死ぬか生きるかの瀬戸際に必死こく古泉の姿が脳裏に浮かんで、必要以上に慎重にならざるを得ない。
「キョン。珍しいわね、こんな早くから登校なんて」
馴染みのある声が背後から聞こえたと同時に、背を力いっぱい叩かれた。大きく前方に傾いだ俺の肩から古泉がすっ飛ぶ。
不意に訪れた衝撃に奴は気を失っているらしく、抵抗もなくそのまま頭部から地面へと向かっている。
朝っぱらから、さすがにそんなどぎついものは勘弁だと、俺は身体を前に投げ出しながらすんでのところで奴をたなごころに包み込んだ。
「大袈裟ね。ところで今日は社長出勤じゃないのね。まあ、あんたのことだから途中でふけちゃうんでしょうけど、ところで今煙草持ってる? ちょうど切らしちゃったから一本よこしなさいよ」
いつも通り横柄な態度のハルヒだが、いつもとは異なる点があり、まず誰が珍しく社長出勤だって。遅刻なんてこれまでも片手で数えるぐらいしかしたことないし、授業だって率先的にサボったことはない。さらにもう一点、俺は紫煙を燻らせたことはおろか、口に咥えたことすらない。
「あんた……何薄気味悪いもん持ってんのよ。信じらんない。あんな女々っちいゲイみたいな奴に入れ込んでるわけ?」
ハルヒはそう言い放つと、俺が抵抗する間も与えずに石火の速さで掌のミニ古泉を掴みあげた。
「へえ、よく出来てるじゃない。これだけ巧緻に仕上げるとなると値段も張ったでしょうに。あんたってまさか本当に」
「んなわけあるか!」
俺がそう言い返すやいなや、この女は一抹の躊躇いもなしにしっかりと腰のひねりを加えて古泉を彼方へと投擲した。
別れ際、ミニ古泉一樹は意識を取り戻し普段通りの貼り付けたような笑みを湛えて、右手を鷹揚に左右に振っていたように、思えた。
瞬時の出来事だったし、この女の身体能力は既に知っての通り尋常ではない。大学の軟式野球チームを相手に通用する球を投げられる肩もある。
「な、な!?」
「どうしたのよ。そんな顔しちゃって。不細工面が普段にも増して不細工で目も当てられないわよ。まあ、いいわ。ところで煙草あるんでしょ? 一本よこしなさい」
俺の頭の中は人間大砲にされた古泉のことでいっぱいだ。あれじゃあ古泉は死ぬ。よくて再起不能の生きる屍。
どうしてよりにもよってあんな体格に……いや、ちょっと待て。だいたい、あれは古泉一樹本人足り得てないはずじゃなかったか。
足元で俺の鞄の中を漁るやさぐれたハルヒが仕出かした衝撃に気圧されて、すっかり見当識を失っていたが、冷静になればどうしてあれが古泉と措定できるだろう。
いくらなんでも無茶苦茶だ。平均的人類のサイズと比してもあまりにかけ離れ過ぎている。未来に進む毎に宇宙はその大きさを拡大しているというのは聞いたことがあるが、奴は俺たちより遥か過去の果てからやってきたとでもいうのだろうか? いや馬鹿馬鹿しい。宇宙が拡がっているからといって人類自身が巨大になっているということはなく。それに、もし過去を眺め回せたとしても、そんな時代に俺の知っている古泉一樹は存在しないはず。俺はそう自分に言い聞かせてみた。
無茶苦茶のぐちゃぐちゃだ。落下地点を探した所で損にしかならないだろう。市の衛生管理局にでも任せてしまうのが賢い人間のすることだ。ちょっと無理なこじつけがましい思考の展開だったが、ここで納得することにした。
「あんたも今月厳しいのかしら。まったく、使えない団員ねえ」
「それはそれは申し訳ありませんでした」
ハルヒは俺を瞥見し、鼻を鳴らすと自分の鞄から取り出したポーチから口紅と折りたたみ式のコンパクトミラーを取り出して、慣れもしないだろうにその口唇に色をつけ始める。
世界が可怪しい。間違いない。
「おはようございます。珍しいですねお二人が一緒に登校なさってるなんて」
ほれ見ろ。今しがた流れ星になった男が、平気の平左と意にも介さないふうな声音で俺の背後から声を掛けてきているのだ。ただ、これで先日の古泉のあの、古泉合戦の話について蔑ろにできなくなったわけだ。
よう、と少しばかり尊大に振る舞ってみた。
肩を竦めて、似合わぬ紅とチークを塗って絶賛作品の完成に勤しむ我らが団長の方を横目で盗み見る。
滑稽だろうと口許に嘲笑も浮かべてみたが、古泉だと勝手に思い込んでいた奴の方へ視線を向けて言葉を失った。
嘲り笑いが驚愕のあまりにそのまま顔面に固着する。
「お前、古泉……だよな?」
チューブから搾り出されたような問いかけだった。あまりに微かで風の一吹きでそのままどこかへ流し飛ばされそうなぐらいの。
「何を馬鹿なことを仰っているんですか」
俺は古泉の身体を何度も見遣った。頭頂からつま先まで、栗毛色の髪を細部のキューティクルまで見透かそうとも試みたし、胸元の立派な隆起から、その瞳の最奥の真偽まで読み取るつもりでじっくりと。
ただ、どういう意図があるのかさっぱり目ぼしがつかない。誰何の言はこれ以上いらなかった。俺の目が物を言っていたのかもしれない。
「長門有希です」
見慣れた姿、聞き慣れた声と口調に名前。
しかし、そのどれもがどれにも整合しない。異様な眼前のさまに俺は慄然として、この場にいるのがいたたまれなくなり、すっかり変容が完了して、本場特殊メイクの域で誰だか見分けがつかなくなったハルヒらしい奴の片手から自分の鞄をむしり取る。
これは悪夢か、それともハルヒが巻き起こした世界改変の一端か? と俺はがむしゃらに北高へと突き進む中で自己問答を繰り返す。
ああ、ただ本質はもうこれでもかとばかりにすっぽんぽんにされていたのだった。
この世界はフィクション。作られた物だ。原稿用紙上に出来上がるインクの滲みで作られる記号の羅列、はたまた演者が己の役を全うする姿をフィルムに焼き付ける一瞬の連なり。ただ、そんなことはきっとどうだっていい。事実だけを頭にしっかりと刻みつけておかなくてはならない。
この世界はフィクションだ。この世界はフィクションだ。ハルヒが規定した。俺が半ばそそのかし、だとすればそんな俺が半信半疑に構えているのは責任逃れも甚だしい。しっかりと意識しておかなければならない。でなければ、創作者が仕掛ける素っ頓狂にいつかは気狂いを起こしかねない。
忘れるな。俺は再三己に言い聞かす。今までの価値観を糧として、自分を見失うな。それでもって、これから起こりうる事態を解きほぐした頭で柔軟に受け入れなければいけない。在ることは在るのだ、と。
俺は俺にできる限りの努力でして、日々のふとした拍子にひょっこりと顔を見せる面妖の数々に対峙した。いや、受容したといった方が適切だな。
抗ったところで仕方がない。状況ににべもなく内包されていくというのは想像よりも抵抗が少なく、状況や現象も、俺の木で鼻をくくったような態度にも文句はないらしい。
よほど貪吝なのか一言の断りも述べず俺をすっかりと嚥下する。
ある日の放課後、俺は謂れのない校則違反について岡部教諭にしこたま灸をすえられ、尚且つ束の原稿用紙を渡されて、今日中に提出するように言いつけられた。
もちろん俺にも反駁の機会は与えられた。奴だって教師の端くれで、平等の精神というものをちっとはわきまえているらしい。けれど、俺は口答えせず、静かに原稿用紙に向き合った。
さて、どうしたものかと書き始めの数行から早くも進捗は芳しくない。だいたい鶴屋家次期当主予定息女使用規程校則違反ってのはどういうことだ。まあいい。適当に体裁を整えることぐらいしておけば、岡部だって満足してくれるはずである。
頬杖をついて、シャープペンシルの先で良案が浮かんではこないものかと額をこつこつと叩いてみるが、しかし、一向に次に謝罪すべき内容が浮かばない。試しに、その校則と蜜月な単語でも記してみようとまずは「独占」という文字をまっさらな空白へと書いてみるが、どうにもこれはそぐわない。
消しゴムをかけ「徴用」なんて単語を少しくすんだ空白に続けて重ねてみるものの、これもどうにも噛み合わなかった。原稿用紙をためつすがめつしてみるが、そこに嵌めこむべき単語の手掛かりは当然といえば当然見当たらず、これは難儀なことになったと俺は頭を抱えこむ。
突然に、湧いて出たような人の気配を正面におぼえ、俺が視線を上げてみると、そこには長門有希が怜悧な顔つきで俺を見下ろしていた。
「話がある」
長門から俺を訪ねてくるのは珍しく、ここは同胞もとい友人としては話を聞いてやらないわけにはいかない。
そう考えると得体も知れない校則についての反省文なんて、と俺は原稿用紙の束を細かく引き裂き、それを窓外へ捨ててやった。気前よく吹く柔らかな風が紙吹雪を飛散させる。
「場所はここでいいのか?」
「いい」長門が俺の隣の席へ着く。「あなたと私以外、ここへはやってこられないようにしている」
安心しろってことか。
大事な用件か、いや……お前が俺に伝える必要があると考えることはいつだって大事なことだな。ところで質問なんだが、俺たち以外がここへ入れないってのは、どういう方法でそうなっているんだ」
「侵入を試みた物は」と長門が人差し指で出入口の引き戸を指す。そうすると扉が誰の手も借りずにするするとスライドした。「扉に首を刎ねられる」
扉が轟然とした音を立てて、鋭く閉じられぴたりとその動きを停止させる。俺が慌てた様子を目にして、長門が抑揚のない声で「嘘」と呟く。
訂正
「大事な用件か、いや……お前が俺に伝える必要があると考えることはいつだって大事なことだな。ところで質問なんだが、俺たち以外がここへ入れないってのは、どういう方法でそうなっているんだ」
「侵入を試みた物は」と長門が人差し指で出入口の引き戸を指す。そうすると扉が誰の手も借りずにするするとスライドした。「扉に首を刎ねられる」
扉が轟然とした音を立てて、鋭く閉じられぴたりとその動きを停止させる。俺が慌てた様子を目にして、長門が抑揚のない声で「嘘」と呟く。
「この教室へ近づいてくる対象を無意識的にではあるが、一定のプロセスを踏んで正門へと向かわせる。物理的な問題はない」
驚いた。無駄話はおろか、迂遠な話しぶりも決してしない長門が真実を語る前にクッションとして嘘を導入させてきたのだ。
「首が飛ぶっていう嘘はなんのためだ?」
「ジョーク」
またぞろ瞠目だ。ジョークだって? おいおい、いつからそんな気の利いた真似ができるように、お前の親玉はさせてくれたんだ。
「人間の言語を用いたコミュニケーションでは、間をずらすというのが時には潤滑剤として不可欠……あなたは驚いたかもしれないね」
発話の後半、およそあの長門有希とは考えられない女性的なしゃべり口調。
「ねえ……これは例として上げてるだけ。あなたたちはご存知の通り、私は情報統合思念体から生み出されたヒューマノイド・インターフェース」
次いで熟れて、盛りを迎えた濡れた声。
「情報統合思念体は純粋な知識の集合体。対立概念を内含しつつ、それは反目しあいながら、ただ決してお互いを侵蝕しあっている訳ではない。口調は、これの方が落ち着く?」
俺は首肯して長門にその意思を示す。悪くはないが、七変化の披露はまたの機会としてもらおう。
「目的は高次の存在への進化。涼宮ハルヒを観察対象としていたのも、彼女が自立進化の可能性の一つだと捉えたからだった。だから、また異なる情報生命体の出現も、むしろ情報統合思念体としては歓迎される事態だった。情報統合思念体は己をリソースとして、出現した情報生命体や位相の違う情報統合思念体自身と結合、と呼べば分かりやすいと考える。本来はこの言葉とは微妙なズレがあるが、現在の段階で、それと明確に当て嵌る言語というのが地球上には存在しない」
「お前の親玉の」
「情報統合思念体」
「そう、その情報統合思念体みたいなのが何体も現れて、お互いに合体した。そしてその結果、お前のいうところの高次へと一歩を踏み出せた」
そのような解釈でいい、と長門が微かに口元を緩めた。なるほど、お前の奇妙奇天烈な親玉のおつむが賢くなったか出世したことにより、その副産物が今のお前の口調や表情の柔らかさってわけだ。
「なあ質問がある」俺はさっきの長門の言葉の中で、1つ気にかかった部分を取り上げてみる。「ハルヒを観察対象としていたのも、とさっきお前は俺に言ったよな? その言い振りだと、まるで今はハルヒに興味を失ったような話しぶりだな」
「涼宮ハルヒがこの世界を完全なフィクションだと認識、またその創作者その者をもフィクションの内に含むと決定した瞬間にそれはある種のパラドクスを生み出した。私たちの作り手の作り手もまた、可能性としてフィクションという網目に捉えられた」
長門が左手を膝の上から身体の前にすっとあげる。親指と人差し指の間に、先程俺が散逸させた原稿用紙が現れた。まるで映像の逆戻しみたいに破片から皺一つない元の姿戻る。そしていつの間にやら右手に握っている万年筆を使い、長門は机の上でなにやら書き始める。俺はそれを覗き込む。
『作者が用紙に書いた。【作者がいた。作者は用紙にこう書いた】【作者がいた。作者は用紙にこう書いた】【作者がいた。作者は用紙にそう書いた】【著者がいた。著者は用紙にそう記した】』
長門が留まることを知らなそうなので、それをちょうど原稿用紙二枚一杯になるまで書いた時点で手で制す。なるほど長門が俺に伝えたかったのは、こうも平易な手順で可能となる多次元世界ということみたいだ。
俺は何の気なしに長門から万年筆と未使用の原稿用紙を受け取り、自分でも同じように書き込んでみる。ペン先が踊り、インクの染みができ上がる。作者がいた。作者は用紙にこう書いた。作者がいた。文字に付随するように新しい世界ができあがっていく。
「情報統合思念体はその始まりに最も関心を抱いている」
当然、俺だって勘づいていた。この方法で増える世界になら原初でペン先を振るう人物が必ずいるはずだ。ピラミッドの頂点。飽くことなく俺たちを描き出す者を描き出し、さらにそいつを描き出す者を描き出し続ける。
「じゃあ、俺が出会った一風変わったハルヒや古泉、それに脚が馬鹿らしく多いシャミセンってのは多次元世界的存在であると考えていいのか?」
「そう考えてもらって構わない」
俺は得心が行くと同時に、これからの事態に心が重くなる。まぶたを閉じて、その上から目を揉んだ。
「どうして別所帯みたいな奴らがわざわざ俺たちの側へ入り込んだりするようになったんだ」
「あちらからすれば、私たちの方こそ横入りをしてきた側に他ならない。属した側に依る視点によって認識の仕方は変わる」
こちらの常識はあちらの非常識ってわけか。
「いつからだ」
「正確な時間は定かではない。知らない間に、世界の垣根が取り払われ続けた。情報統合思念体の判断ではフィクションは繋がることができるというのが原因」
違う軸に存在するヒーロー同士が、劇場版やらで巨悪に立ち向かう為に共闘するといったことだろうか。まあ、それで観客を悦ばせるというのが目的であるし、一応筋は通そうとしているのでまだ手は打てる。けれど、俺たちの現状況は筋書きもへったくれもないような混迷ぶりじゃないだろうか。
この世界と、と口を開く長門は珍しく饒舌である。
物語同士にも親和性というものがあるらしく、やたらめったら抱きつき合うというわけにはいかないらしい。
水と油の関係みたいな物語もあり、それらは自然とお互いを忌避するのでごた混ぜになることはないそうだ。長門曰く、干渉し合う為にはそこに基準が必要らしい。
読めたぞ。
「ハルヒだな。こういう事態はあいつが中心になるのがこの世の常だ」
意外なことに長門は頭を振った。そして、まるで気怠げに首をもたげてくる蛇みたいにゆったりとその右手が腿からあげられて、最後には俺を指し示す。
「あなたを基準として、物語は収斂を始めている」
俺はここ数日、長門との会話を思い出し、独白であいつに対して反駁を試みるが、それは無駄な試みだった。それを実証するために俺は街を昼夜問わず彷徨してみるのだが、やはり古泉のように俺が俺と蜂合わせる念願は成就されなかった。
「あなたはあらゆる世界に向けることのできる視点を持っている。今は一面的で困惑もするかもしれない。けれど、時間が流れることによってあなた自身無意識なうちに、あらゆるあなたと結合していく。違和感が既視感になり、既視感もいずれ薄れて状況を既知なものとして捉え始める」
俺は密生する谷口を見て、殊更それを実感せずにはいられなかった。
国木田と二人、俺は谷口の家へ邪魔することになっていた。先に落ち合う約束はなく、各々谷口の家へ出向けばいいという算段だったが、谷口の林の前で脚を止める国木田に道中偶然出会ったのだ。
「随分成長したね谷口も」
5メートル程に成長した谷口を仰ぎ、国木田は関心したように息をつく。
「相変わらず胸くそ悪い樹木だな」
と俺は吐き捨てるようにそう漏らし、実際近くの排水溝に唾棄する。
谷口とは植物の木だ。本当は学者が命名した長ったらしい学術名があるのだが、空で唱えるなんてできないし、到底覚える気にもなれはしない。外観が谷口に酷似している、というよりも谷口そのもので、奴が両腕を広げて日に日に巨大になっていくさまは一頭地を抜いて不気味だ。
あの日も谷口の家を訪れる途中で、奴の家の近所には随分前から家屋を取り壊した跡地がぽっかりと空白を作っていた。
俺はその日空き地の前を何の気なしに歩いていて、そこで買い手のつかないその土地にある変化が起きていることに気づいた。
谷口? と俺はまず目を疑い、その幾人もの谷口の元へと歩を進める。
「おいどうしたんだこんな所で」
奴の両脚は膝下10cmの辺りまですっかり地面に埋没している。
何の真似だとそんな谷口たちを見渡し、俺は奴の肌の皮相が樹木の木肌みたいになっていることに、まるで化物と遭遇してしまったような薄気味悪さをおぼえた。
景観条例やらに抵触するはずだろうと俺はそんな得体のしれない谷口を引っこ抜こうと奴の広げた両腕を掴んで、腰を入れてがむしゃらに引っ張った。だが、俺の膂力ではそれが不可能であることを思い知らされる。見た目より、はるかに谷口は重量があり、ひょっとすればこの脚の先から髭みたいな根をしっかり地面に下ろしているのかもしれない。
斧なんかを持ってきて伐採しようかとも考えたが、それはそれで良心の呵責なんてものに苛まれるのも嫌なのでよしておいた。
ただ、色々諦めたのはいいものの、やはり外観に問題がありすぎる。最も憂慮するべき点はそれは奴が素っ裸な点だった。
奴のプライバシーなんてものにはほとほと関心はありはしないが、子どもや女性がそんな品性を疑うような集団と遭遇してしまうことを想像すると胸が痛い。とりあえず、古泉と長門に連絡をとり、この破廉恥漢のために肌を隠す布地をこしらえてもらった。
俺と国木田をまず出迎えてくれたのは谷口の親父さんだった。非常に厳格な人であるが、最近では俺たちにも角が取れたことが見て取れる。
「こんにちは。お邪魔します」
いっけん、この無問題な挨拶にも以前ならばこの人物、どこか気に食わない様子で鼻を鳴らしてこたえていたのだが、今では気さくに俺たちを家へ請じ入れ、快く茶菓子なども振る舞ってくれるのだ。
「よう、来たか」
原因はここにあった。そう、この家の一人息子谷口。谷口家始まって以来の愚鈍な男であるこいつは、ひょんなことから谷口家始まって以来の俊才として生まれ変わった、というよりも単純に入れ替わったという方が正しいだろう。
物語の重複はもちろん古泉やハルヒのSOS団員以外の人物たちにも波及しており、谷口だって例外じゃない。ただ、この男の場合、他とは異なり住処がどの時点でも限定されているらしく、その協力な帰巣本能のようなものと相まって、全員が全員こぞってこの谷口家に集まり始めた。
ちなみに、一般的にどの世界に於いてもある人物の家が一定の箇所であるということは当然あり得ないらしく、その人物はそれぞれの記憶にある自分の住処を希求するのが一般的な流れである。
谷口1人でも火を見るより明らかな子育て奮闘ぶりだったのが、日を重ねるごとに新たな谷口がさも当たり前の傲然とした態度で玄関扉を通って家へ帰ってくる。逼迫した家計は泥船のように沈み始めた。決断が必要だったらしい。
勉強机で熱心にペーパーバックに読み耽る谷口が俺に横目で一瞥をくれる。
強いものが生き残るのは旧来からの好むと好まざるとにかかわらずな習わしで、それは因習というよりも生物全体の骨身にしみる真理である。人間は割合それに逆らおうとする向きがありはするが、それでいても俺たち人間も他と変わらぬ生物で、退化しているとはいえ爪だって牙だってある。弱肉強食むべなるかな。
殺し合いなどという血なまぐさ過ぎることが行なわれなかったのは幸いだった。頓服薬を盛られた谷口たちは深い眠りに落ち、両親は打算的に最も将来性が豊かそうな、この俺の眼前にいる谷口を選びとった。
むごいことをする、というやりきれない気持ちが俺にもあるにはあったが、食うや食わずの生活が訪れている段階でそんな悠長に構えているというのは土台無理な話なのかもしれない。そういうふうに自分を納得させている。
取捨選択の末、敗北を喫した劣敗の谷口たちは夜半の内に例の更地へと運ばれて、先程見た通りに膝下10cm程までを埋められた。
ちょっとした騒ぎにはなったが、谷口家はご近所さんに憚ることなく口を揃え「これは木です!」と断言し続け、そうして確かにそれらは木となった。東京の方のお偉い学者さんが酷い仏頂面で訪れた調査の結果もそれは樹木であるという事実がさらに強く立証されただけにすぎず、学者は自ら行った実験結果にも半信半疑ではあったものの、サンプルを持って大学に踵を返し、今では谷口に立派な学名を与えた第一人者となっているらしい。
「しかし」俺は林立する谷口の方角をさし「あれはどうにもお下劣すぎる」
「キョン、そんな言い方はないよ。僕はすごく味があると思うけどな。うん、実際悪くないよ」
国木田のこの意見が、単に谷口を慮ってからのおべんちゃらだったかというと決してそうではない。
議論するポイントがズレていて、今でこそ俺も、それがこの谷口とは全く別のものだって割り切ってはいられるし、別に谷口みたいな木が屹立していたって構いはしない。それどころか少しばかり常識的な物事の範疇とさえ捉えられる向きもでてきたぐらいだ。
当初は異なった。もっぱら追求する点は谷口みたいな木があるってこと事態がそもそもの誤謬であり、しかしそれが多くの人に耳を貸されることはなかったのだ。
「ぱっと見、これは確かに谷口に見えるけど植物学的側面などからもこれは樹木にカテゴライズされるのだし、じゃあこれは木であることに間違いはないんじゃないかな。もちろん、近い将来これが谷口であると証明する重大な発見がされることだってあるかもしれないよ」
しつこく喚き立てる俺に、国木田がそっと諭す。俺がそこで悟ることができた眼目は、ちなみに谷口のことではなく、意外と様々な人々たちがこの奇っ怪な出来事にえらく素直で従順だという事実。
人々は自らが創作物の一部であることを理解していたが、俺のように違和感が先に立ち反目しようとする意思は感じられなかった。
違和感が皆無、とは言い切れないがリードで引かれる小型犬みたいな従順さで、その事実を実に物分かりよく内包してしまうのだ。
まあ、そのような経緯を踏まえた上での時間経過の恩恵か、俺には当初程の違和感はなく、現在はどこかでそれを目にしたことがあるような既視感を谷口の木の前を通るたびに覚えるのだった。
長門の言葉が頭の中で反芻される。違和感から既視感、いずれは薄れて既知のものとなる。どんな現象も当たり前の状況として受け入れていけるらしい。恐怖も悲哀も悦びもなかった。
「ところでだキョン」
谷口がやおらに本から目線を外し、椅子を回して俺の方へと身体を向ける。
「俺なら紙にするな。安直だし、なんだって手軽だ。あとはウィトゲンシュタインだったはずだが? まああれは趣旨が違うけれど、言語の限界が私の世界の限界を示す。さらにこれは裏を返せば、言語だけが私の世界の限界を示すことができるということでもあると解釈でき、私というのを人間と置換もできると俺には思える」
藪から棒になんなんだと首を傾げる俺なんか関係なしに、こいつはまっさらなルーズリーフを一枚取り出し、それになにやら書き込んでいく。俺と国木田は腰を上げ、谷口の机の傍らでそれを見つめる。
中央に小さな円を書く。その外側に中心を同じくした少し大きな円を描き、初めの円を囲んでいく。
「こういうふうに今は拡大をしている」
用紙の端に限界まで、その作業が行なわれる。
「実際はもちろんこんなものじゃない」谷口はシャープペンシルを指の間で器用に回し、クリップでシャツの胸ポケットにそれを固定した。「際限なく、どこまでも拡がる。そうして拡大を続けながらも。こう……一点に集中していく行為も平行していく」
谷口がさっとペンを抜き、とんと芯先を中心の一点に押し付け、もう一度ペンを胸ポケットに戻す。
「コヒーレンスのような問題さ。共通項はお前なんだろキョン?」
どうしてそれを、と俺が叫びだしそうになったところを谷口が制す。人差し指を自分の唇に当てたすかした態度が鼻につく。
「極小の可能性、発想、経験則なんかも交えてそれを検分していった結果だ。根気と忍耐は必要だったが、まあ頭の体操にはもってこいだ」
こんな癪に障るような奴は、憤懣を暴力に向けたとしても致し方ないのだが友人の間柄、歯を食いしばって堪えてやる。それに谷口に拳で訴えることになると、奴の蓄えた法知識でさんざっぱらコテンパンにされることになるだろう。
「だいたいお前はこんな状況自体を信じることができるのか」
自分だって今やたいして疑いはないくせに、苦し紛れに俺はそう吐き捨てる。谷口は少しせせら笑い、額に手を当て頭を左右に振った。
「信じるか信じないなんて理念や宗教で充分だキョン。まあ座れよ……現に街へ出てみろ。今日日小学生でも理解してるぜ?」
言葉に詰まった俺に、奴はさらに畳み掛けるように語りだす。
「多少強引だが、突き詰めてみると人間ってのはよく分からないものなんだぜキョン。ベンジャミン・リベットって聞いたことあるか? アメリカの生理学者だ。彼が以前こんな実験を行った。被験者の頭部に電極を取り付け、被験者に身体の任意の部位を動かしてもらう。人間は身体を動かそうとする際に先行して準備電位と呼ばれる電気信号が起こる。電極でその準備電位を観察し、被験者には例えば指でいい。その指を曲げようと意識決定した瞬間を述べてもらう。脳の活動と意識の発生、その二つに果たして時間的差はあるのかどうか……結果、どうなったと思う?」
俺と国木田がお互いを見合い、頭を振る。
「まあ話しぶりからも明らかかもしれないが、行動を開始する被験者の意識と、準備電位の発生は一致しなかった。準備電位の方が一秒もない差だが早く立ち上がったそうだ。どうだ? 不思議にならないか? 俺たちの意識ってのはいったいなんなんだろうな。俺がここで」
谷口は自らの胸元を指でさし、シャツを強く握った。
「心ってのがここにあればの話だが、願って操作しているつもりだった身体は思いに先駆けて操作されていた。それを考えていると、どうにも俺たちが作られて、誰かの意思で行動決定されているってこともあながち完全な間違いではないって気分にさせられてくる。俺たちはこれまで本当に自分を統御できていると疎かにも考えていて、そうではなかった。畢竟、今こうして悲しく思う心さえも……俺は前々からこういう疑問を抱いていて、だからか今回、あっさり状況を受け入れることができたよ。国木田はどうなんだ?」
突然水を向けられた国木田が、少しばかり呻吟して賛意を示すように頷く。
「僕はこの世界がフィクションであることに異論はなかったけど、うん。谷口の意見でそれがさらに確信になったって感じかな」
「キョン、俺の話はこんなところだ」
ふん、と鼻を鳴らしておくだけにした。気に食わないが言い返す言葉もない。だから余計に気に食わない。
「これからどうなるんだろう」
国木田がぽつりと心中の不安を吐露する。どちらかといえば楽観的な男だという印象を持っていたぶん、ちょっとした衝撃を受けさせられた。
そんな国木田に谷口はあっけからんとこう告げる。
「そりゃまあ殺戮が始まるさ」
唖然とする俺や国木田を尻目に、奴は髪を撫で上げている。殺戮? どうしてそうなる。
「想像力を駆使してみろ。いくら大筋がお前を里標として相通じるものがあるとしても、多くの作者がいるとして、やはり誤差や部分的乖離が表れてくる。修正が効く分にはまだいいが、いずれそうはいかなくなる。例えば空間上の問題。収斂が起こり、異なる時間平面の酷似した人物たちが同一平面に募り始めるが、地球自体が巨大になったという話は耳にしないな。こういう問題を解決するには、きっともう存在をかけて戦うしかないはずだ」
「へっ、馬鹿げてる」
「キョン、そうは言っても我らがかけがえのない地球が音を上げちまうのは目に見えてるぞ。なあに、俺たちが最後の一人まで殺し合うなんて途方もないことは必要ない。これは創造者という大将の首を先にとっちまった方が勝ちとなる戦いなんだ」
「でも谷口」と眉根を寄せた国木田が挙手する。「僕たちの創造者なんてどうやって判断すればいいのさ」
「それが俺にもわからん」
降参したように谷口が両腕を挙げる。
「だからもう、酸鼻をきわめた戦い。本当の世界大戦だな。それが起こらなきゃ丸くは収まらないんじゃないか? いや……ひとつ平等な手があったぞ」
国木田が期待に顔をほころばせ、身体を前方に傾けている。
「吹っ飛ばすんだ。地球の表面をな。幸い世界に現存する核兵器を起爆させれば1回なんてケチくさいことはいわず、何度も地表面を焼き尽くすことができるらしいじゃないか。それなら跡形もなく後腐れない。創造者も被創造者もいない、俺たちがいたっていう証拠さえ残らないかもな」
ある日の放課後。俺は別段用もなく、かといって校内に残る理由もないのでぶらぶらと家へと歩を進めていた。
SOS団の活動が休止されてから久しい。部室のキャパを大幅に超えたハルヒと朝比奈さんと古泉で室内はすし詰め状態で、見るに見かねて俺が長門に耳打ちし、部室を空間的に凍結閉鎖状態へと変えさせた。ハルヒたちが開かない部室の扉の前で活動の中断をあっさりと宣言してくれたのも、きっとあいつだって自分そっくりな奴相手にいい加減罵言を吐くのにもほとほと疲れ果てていてのことだろう。
「ねえ、キョン」
背後から声をかけられて、俺は上体だけを曲げて振り返る。そこにはおろしたての皺1つない白色のワイシャツと黒色のプリーツスカートを穿いたハルヒが腰に手を当てて立っている。決してくどくなく、かといって妙に背伸びした子供が恐る恐る薄っすらまぶしただけのものでもない。自分の顔かたちを熟知している奴が、絶妙な加減で施した、女を引き立たせる魅力的な化粧。そんな細工を施したハルヒだった。どことなく触れなば落ちんという風情さえも匂わせている。
「食事でもどうかしら?」
断る理由が見当たらない。
街で1番高級なホテルのレストランで食前酒の注がれたグラスを傾けていた。
知らない人にはついて行かない方がいい。今さら言を俟たない。世に問うてもこれは百人が一様に首肯することだろう。これは敷衍して知らないハルヒにもついて行ってはいけないとすることもできるだろう。じゃあなぜ俺がこのような大人版ハルヒさんと食事を楽しんでいるのかと問われれば、それは単純に俺はこのハルヒを知っているからだ。
だいたいハルヒは女子高生だろ、てな具合の反論があるのにも耳は傾ける。ただハルヒが絶対に高校生でなければならないということにはならない。ハルヒは女子高生だ。女子高生はハルヒだ。前者が成り立てど、後者にはならない。ちなみに女子高生でなければハルヒではない、というのは正解であるが、俺がこのハルヒを知っているのだからどれもこれもどうでもいい話ではある。
「これ美味しいわよ」
ハルヒに促されるまま、メインの料理をナイフで切り分け口に運ぶ。カトラリーを使う食事には未だに慣れない。鱸のポワレとハルヒは確か注文していたな。だいたいポワレってなんだと俺はクリームソースをたっぷりかけた身をゆっくりと咀嚼する。なるほど、生臭さなんて心配は逆に失礼だったな。
俺は慣れない手つきで口許をナプキンで吹き、余韻を楽しみつつグラスを少し傾けた。
「だいぶお酒もいけるようになったのね」
ハルヒが嬉しそうに相好を崩し、側に控えるウェイターにグラスを差し出した。
「なんだか疲れてるみたい。色々と忙しいのかしら?」
どうやらこのハルヒは男の機微を巧みに扱う術を心得ているらしい。相手を案ずるあえかな微笑。男どもは容易に陥落させられてしまいそうだ。俺を含めて。
酒の味は悪くなかった。単に俺のアルコールへの耐性のなさが原因だろう。意識に薄い靄がかかったようになったので、休憩がてら仰向いて、回転する天井扇を呆けて見つめていた。しかし、そのせいか次第に靄が濃くなり始める。
先に音を上げたのは、意外にもハルヒだった。
「ごめんね、キョン。私少し酔っちゃったみたい」
初めは気配りのつもりだろうと思ったが、どうやらそうでもないらしい様子だ。火照って朱に染まっている頬に手を当てて、ハルヒが柔らかい溜息をつく。
「よかったら部屋をとって酔いが醒めるまで休んでいかない?」
「俺は別にいいが……ハルヒお」
ハルヒの指が俺の口に添えらて、次の発話は阻まれる。
「いいの、気にしないで」
意味深げに、頭を傾げてほくそ笑むハルヒはそう言って席を立つ。
ロビーで部屋を取り、渡された鍵を持って部屋へと向かった。12階の一室、眺望は悪くないはずだ。街の夜景を楽しみながらの酔い醒ましとは洒落ている。
12階まではエレベーターで直通なのでわけはない。ただ、そこからがちょっとばかし問題だった。物語が繋がることの弊害。どうやらこのホテルをお気に召す創作者の方々が人知れず戦いを繰り広げていたらしい。
入り組んだ廊下は常軌を逸して入り組んでいて、道すがら斃死したホテルマンが転がっていても不思議ではない。どうしてそのような複雑奇怪な構造をなしているのか。譴責するならばそれぞれの創作者を並べてやらねばなるまい。自分たちの想像の産物をそれぞれが随意に気兼ねなく弄くり回した結果がこれなのだ。
谷口が前に述べていたように、空間の大小は変化していない。その場所にこのホテルは1つしか建てられず、だとすればどいつかが引き際を覚え別の場所にホテルを建てればいいと思うところだが、どうやらそうは問屋がおろさないらしく、日々踊り狂うペンや筆の動きと共にホテルは望まぬ改築を繰り返している。
それにしたって……これはやり過ぎだ。通過不可能な隘路はあるし、13階と吹き抜けになっている場所もある。アーキテクチャ的な物事にまったく蓄えがない門外漢の俺も、これは不味いんじゃないかと額に妙な汗が滲む。
「もう……嫌になるわ」
がっくりと肩を落としたハルヒはそう口にしつつも部屋があると思わしき方へと進み始める。俺も仕方なしにあいつの背中を追う。初めの十字路を右に折れ、次の丁字路を左に、そこから謎の周回を繰り返し、へとへとになって床にもたれかかっていると、見落としていた親切な看板が目に留まり、そこには『メビウスの輪』と書かれていたので、諦めてまた別の経路を模索した。
ホテルの外観に異常はなかったはずであるが、どう考えても外観から推し量れる以上の建物内空間の巨大さを感じる。創作者同士の相互作用がひょっとすれば何かの折に触れ、空間をねじ曲げてしまっているか、もしくは無邪気な創作者がトリックアート類の手法を用いているのかもしれない。まあ、その点は部屋に辿り着けたのでそれ以上追求しなでおこう。
壁を這うようにして、ようようそれを発見した俺たちは二人して室内で崩れ落ちた。これだけ不必要に広大な廊下が用意されていたので、室内が4畳間ぐらいの広さしかないのではと内心ひやひやしていたものの、調度品を含め俺には奢侈なものだった。
窓際に据えられた肘掛け椅子に身体を落ち着け、窓外の景色を眺めてみる。この辺ではさすがに1等地に当たる繁華街の近くという位置的条件ということもあり、まだ街はすっかり死に絶えてはいなかった。
微かな明かりが遠景にぽつぽつと、足元は割合多く、店のネオンなどが煌々としている。それは造られた物でも全然美しい。いや、造られた物だからこその美しさがあるのかもしれない。
「まるで、助けてって合図を送っているみたい」
いつの間にか窓の縁に頬杖をついたハルヒが誰ともなしにひとりごちる。
「SOSってか」
「そう」
だとしたら、誰に助けを求めているのだろう。どういう救いがあるのだろう。
「ねえ、キョン」
ハルヒがそっと俺の首に両腕を絡ませて、耳元で呟く。パステルをまぶしたような一段と甘い声。俺は黙って次の言葉を待つ。
「ううん。なんでもない」
俺がほっと胸を撫で下ろし、ハルヒはワイシャツを脱いでからハンガーに掛け、キャミソール姿でベッドにごろんと横になった。
「俺は、ここにいる」
窓外の明かりに向け独語する。ベッドの上のハルヒがまもなく寝息をたて始め、寝返りをうつ度に起こるシーツと衣服の衣擦れの音が、静寂さをさらに際立出せていく。
ふとハルヒの方へと目を向けて、俺は息を呑んだ。こちらを正面に横臥するハルヒの胸元が顕になり、少し汗ばんだ谷間がどうぞご覧あれとばかりに披露されている。スカートが捲れて、健康的な太腿がその隙間から垣間見えた。目のやり場がないが、男の性か、肢体から目を離すことがどうにもできない。生唾を飲み込む音が森閑とした空間では殊に強調され、ハルヒの気持ちよさそうな寝息が凪いだ海の潮騒のように緩やかな間隔で打ち寄せてくる。
劣情が湧いてくるのをどこの誰が糾弾できよう。むしろ、ハルヒから誘ってきたようなものじゃないか。
思考が右往左往と跳ね回り、このままでは不味いと俺は出口の扉へと急ぐ。ドアノブを掴み、しばしの逡巡の末、聞こえているわけはないが、断りを述べて部屋をあとにした。
あらゆる在ったであろう俺が内在する俺、そのような俺の中で嵐の中のように情動がやってきては去っていった。疲弊しきった身体に鞭打つように、ますます隘路は狭まり、吹き抜けからはぽっかりと浮かぶ上弦の月が、その右反分の顔だけでまるでこちらを覗きこんでいるみたいだ。
俺はエレベーターを求め、とにかく諦めずに足を進める。所々に泥濘のような絨毯が敷かれて棒のようになった両脚をしつこく絡め取ろうとする。エレベーターに辿り着けたと欣喜雀躍すれば、内部には仲睦まじく抱き合う男女がいる部屋があった時にはあまりの失望に二人を殺してやろうかと思ったが当然そんな余力もなく、後手にドアを閉めてまた彷徨い始める。
這々の体でエレベーターを見つけ、ホテルの建物から出ると、夜空にはほのかに明かりが射し始めていた。助かったという安堵に憔悴しきっていたせいもあり、俺はその場にへたり込み。静かに瞼を閉じた。
「起きなさい!」
それほど時間は経過していないはずだ。乱暴に肩を揺すられ、俺は半睡半醒のままなんとか返事を絞りだそうとするけれど、思いのほか、今の俺には困難なことだった。
全身を揺すられ続け、その後物凄い衝撃が肩に走る。さらにこれでもかと頬をビンタされて目覚ましにはちょっと充分過ぎるくらいだ。疼痛に呻き、俺は仰臥して重たく閉じられた瞼を微かに開いてみる。燦燦と輝く陽光で視界が光に包まれ、思わず顔をそむけた。
光の中で人物の輪郭だけが浮き上がり、俺はそれが誰だか影のかたちだけで判断することができる。
「いい加減に起きなさい! バカキョン!」
「ああハルヒか」
とんだご挨拶だな、と言い掛けて、この女は俺の襟首を鷲づかみ、唾きを飛ばしながら俺に詰問を浴びせかける。
「キョンのくせに朝帰りとはいいご身分じゃない」
襟首を掴んだ拳に力が加えられていく。皮肉のひとつでも口にしたかったが、有無をいわさぬ雰囲気を察し、俺はすんでのところでそれを我慢した。
「お相手は、なんたってあたしなそうじゃない。どう? 気に入った?」
俺が押し黙ったままでいると、ハルヒは少し自棄気味に俺の鼻先へ自分の鼻先を押し付けて、凄みを利かせた声でやんやと喚いて歯噛みした。
「いいじゃない。奴らがその気なら……キョン!」
俺は返事をする前に突き飛ばされ、背中を路面にしこたま打ちつける。喘ぐようにしわぶきさせられ、口中に微かな鉄の味が混ざった。
「戦争よキョン! 奴らに目に物見せてやるの」
『体育館に集合しなさい』
そう記されたメールがハルヒからひっきりなしに送られてきて、携帯が鳴り止むことがなかったので電源を切った。ハルヒ個人の幼稚な意趣返しみたいなものかと問われれば、決してそういうわけではない。この場合、個人というところに二重線を引き、訂正印を押してから『たち』と書き直すことが正しい。
「おや、どうもお久しぶりです」
館内で古泉たちが俺に笑みを向ける。これだけ雁首揃えられると質の悪い大量生産品みたいな笑みでも迫力がある。
「キョンくん、お久しぶりです」
メイド姿の朝比奈さんが魔法瓶から茶を注ぎ、もう一人の朝比奈さんがそれを一息に飲み干す。
「カテキンが弱いですね」
となんだか専門家めいた発言をする朝比奈さんもいる。だいたいカテキンが弱いってのは味でわかるものなのかなんてのは野暮ってもので、それぐらいの欠点包み込んでしまうぐらいの大きな器量が男には不可欠だ。端的に可愛いから許す。古泉なら鼻っ面を殴り飛ばす。
しかし、まあなんだ、と俺は体育館の天井を見遣る。どういう経緯で挟まったのかバレーボールがいくつか挟まっていたりするのはきっと全国どこでもお馴染みな光景で、ただここまで水をぶっかけられたダンボール箱みたいにたわんだ体育館ってのはあまり存在しないのではないだろうか。
現在北高の体育館の上には体育館が奇跡的なバランスで載っかっている。そしてその上部の体育館の頂上付近には誰の趣味だか谷口が植わっていて、その辺はいつ目にしても人々の笑いを誘う。もちろんこの上部の体育館は件のホテルでの現象と同様で、それが非常に人目につきやすい形であらわれた例である。伐採しろという意見は根強く残ってはいるが、とりあえずのところ生徒全員でその成長を見守ろうとするのが主流となっている。ちなみにこれを主導しているのは人間の谷口だったりする。
「よう長門」
俺は1人ぽつねんとしている長門を見出し、その変わらぬ佇まいに安心する。両手にはハードカバーのおよそ文字らしからぬ文字で書かれたタイトルの本を持っていた。
「調子はどうだ」
長門は俺の問いかけを聞き流し、手にしていた本を俺の前でそっと開く。白紙のページに信じれぬ勢いで文字列が形成されている。ラテン文字にキリル文字、数字はもちろんタイトルの文字のような見たこともないような文字。
俺がもう一度タイトルの文字と見比べようとその本を受け取り、それを閉じると、その文字はまた影も形もないものに変化していて、ただじっと見ていると俺はこの文字を読めたことがあるような気がし、じきにそれは確信となる。
『あなたが描かれる』
少し意味合いが異なるかもしれないが、意訳すればこんなとこだろう。逐語訳すると舌を噛みそうなので止めておく。
「私たち」
長門がささめく。
ああ、と俺はその本のページを繰る。せめぎ合うように異なる文字が並んでいく。我勝ちにと綴られていく。それが今の俺たちの真実なら、それはやっぱり悲しいはずだ。沈み込みかけた気持ちを奮い立たすように頭を振り、俺はその本を長門へと手渡す。長門がそれを大切そうに両腕に抱えた。
「待たせたわね」
ハルヒが後方から姿を表す。いや、失敬ハルヒたちだ。口調に反して物々しいのは各々手にした銃のせいだろう。ベレッタや村田銃、埃ぐらいしか吐きだせそうにない文化財して博物館に展示してそうな火縄銃なんかも散見される。まあ種類なんてどうでもいいし、だいたい俺にはどれも似たり寄ったりだ。筒があって鉛球がそこから発射される。これだけで俺的な銃の概念は完成される。
剣呑な雰囲気に軽々しく口をきくものはいなくなる。下手に物を言えばこんなところで無駄死にになりかねない。そんなの誰だって御免こうむる。今ならどんな横紙破りもハルヒたちには許されるだろう。
「どうしちゃったのみくるちゃん。そんなに怯えなくたっていいじゃない」
朝比奈さんが震え慄くのも無理からぬ話だ。手に持った回転式拳銃のシリンダーを威嚇代わりに回転させまくる女が目の前にいて、誰が平静を保っていられる。
「拳銃が物語に出されることがあれば」隣にいた古泉が顎に手をあて思案顔で呟く「その拳銃は発射されなくてはならない」
「なんだそれ」
「チェーホフですよ。ご存知ありませんか」
やにさがった態度で俺を見つめる古泉は、どう控えめに表現しても反吐がでる。事実、別の古泉たちがその古泉を取り囲んで「なに悦に入ってやがんだ」なんて俗っぽいヤジを飛ばしながらその古泉を袋叩きにする様は痛快で胸がすく思いだった。
「まあとにかく」
また別のハルヒがそう口にする。
「そうね」
別々のハルヒたちが異口同音に合意して、それぞれが銃の手入れを始める。
1人おどおどと、怯懦な性格そうなのがその身振りからも読み取れるハルヒがいて、それはまあ悪目立ちして人目を引いている。そのハルヒが震える指で摘んでいた銃弾を誤って床に落としてしまう。びくっと身体をひと震いさせ、しゃがんだのはいいものも、その拍子に残りの銃弾も全て手から滑り落ちる。
「立ちなさい!」
傍にいたハルヒが青筋を立て、声を荒げる。しゃがんでいたハルヒが命令に従い、怯えた瞳で声を荒らげたハルヒを見つめ、ついで辺りに視線を走らす。
「あんたみたいなのは、いらない」
耳をつんざくような鋭い音が響き渡り、気の弱そうなハルヒが床に倒れ伏す。時ならぬ光景に誰もが凍りつき、俺が笑う膝でようよう倒れたハルヒの元に蹌踉として歩み寄ると、ハルヒはすっかり骸と成り果てていた。
「足手まといがいちゃこっちの身も危ないわ」
「とっととやりましょう」
眼前の出来事が信じられず、ただじっとその骸を見つめていた。長門が足音も立てずにこちらへ近寄ってきていて、ハルヒの頬にそっと指を当てる。無言のまま、垂れ下がった眼球を慈しむように撫でさすり、そっと眼窩に戻してやっている。
「用意はいい?」
「これがあたしたちの復習」
ハルヒたちが四方に銃身を構え、目を眇めて同時に引き金を引く。薬莢が床に跳ね返り、人間の視力では捉えることもできない弾丸の群れの跳弾する小気味良い音が辺りで群発する。俺たちは床に頭部を守るように蹲り、弾丸がこの身を貫かないことをひたすらに願った。しかし、なんだこの跳弾の数は、そもそも体育館内だぞ? 弾丸はどこかに埋もる宿命に在るのではないか?
何度目の跳弾だろう? ようやく跳弾の音とは違う。玲瓏とした音が響き、弾丸はどうやらどこかに身の置き場所を定めたらしい。最後の心持ち耳障りの良い音だけがまだ館内を揺曳している。
ハルヒたち以外の皆がそれぞれ身を起こし始め、胸をなでおろし安堵の表情を浮かべていて、ハルヒたちだけが神妙な面持ちで辺りを睥睨していた。
「どう……な……ったんだ?」
言葉に窮しながらも、隣にいた長門に問いかける。長門はゆっくりと顔を左右に振り、口を開く。
「全ての銃弾は跳弾の末、体育館内中央に集中しお互いを弾き飛ばして目標へと離散していった……銃弾が発射されれば、それはどこかに当たらなければならない。そのことはわかる?」
俺が首を横に振る。
「ロニ・フィラソワという著名な作家が残した物語でのルールの話。チェーホフの銃と同じ種類のものと考えてもらって構わない。つまり物語の中では銃弾がその速度を失って、ゆったりと地面に接することはあり得ず、それは必ず物体に命中しなければならない」
「じゃあ、銃弾はどこへ命中したんだ」
ざっと見渡したところ、館内に銃痕は見当たらない。
「まだ命中していない……いや、正確には命中しきっていない」
またややこしいことをと首を捻ると、亡骸となったハルヒが視界から融けて消えていく。慌ててその骸が横たわっていた場所に手をやったが、特に透明度が増したわけなどではなく、空を掴むばかりの俺の手がその消失を如実にあらわしていた。
「涼宮ハルヒが標的としたのはフィクションであり、フィクションでもない作り手、創作者たち。弾丸が彼らの眉間を貫き続けることを願った」
滔々流れる言葉の間にも1人、また1人と古泉や朝比奈さん、そしてハルヒが消えていく。
「作り手を失った物語は止まるだけ」
長門が足元に置いてあった本『あなたが描かれる』が風もない室内でひとりでに開く。先程までとは明らかに記述速度が落ちている。
「一秒に数千人単位で作者が死んでいる」
それまでは、自らの描く物語に横槍を入れられることからか、相手に呪詛の言葉を並べるように綴られていた物語。それがなんだか、今ではすっかり競い手を失くした物悲しさか、またはいずれ、額に風穴を開けられるお互いの運命を想ってか……慰撫するように文字が連ねられていくが、気勢はすっかり衰えてしまっている。
「しかし、まあ……なんだ。ハルヒにはこんなことまで可能なんだな」
度を越し過ぎていて、驚くより可笑しさが込み上げてくる。
「全てをフィクションと規程して、地平を均したこともこれを可能とする一因となっている」
なるほど、と俺は床に胡座をかいて、続々と消失していく団友たちを眺めていた。恐怖というものは特になさそうで、谷口の言説が意外といい筋を言っていたのやもしれない。意識を綴る創作者が死んでしまったのだから、被創造者たるそいつらの感情を創る者もいなくなるのだ。
1人のハルヒが俺の隣に横柄な態度で腰を下ろした。腕を組み、思惑通りに事が運んだことが嬉しいのか、非常に満足気だ。
「どう? 妙案ではあったでしょ」
ふん、と俺は鼻を鳴らし。こんなのは自殺みたいなものじゃねえかと不平の一つでも漏らしておく。
「それにしちゃ、あんたも嬉しそうじゃない」
「そうか?」
「そうよ」
どうだろう。よくわからんな。
「なあ長門、これは世界の終わりなのか?」
いや、違うな。
「すまん長門。ちょっと違うな……正確には物語の終わり、だな?」
長門が顎を微かに動かし、微かに口許を緩ました。つられて俺が哄笑し、それにつられてハルヒも破顔する。こんな世界の終わりってのも悪くない。物語の終わりってのはやっぱり大団円じゃなくっちゃな。
この物語に俺なりにタイトルをつけるとすると、どうするだろう?
『あなたが描かれる』では味気なさすぎないか?
『SOS』ってのはどうだろう?
Short Optimistic Story
ほら悪くないだろう?
こうして物語は完結を迎え、さてこそ俺の意識のようなものだけがなぜだか残ってしまっている。物語が終わり、つまりは全てがなくなった。全てがなくなったから到来するのは無の世界ってのは、少々素直過ぎる嫌いがあるので今のうちの矯正をお勧めする。無ってのも所詮は人類が考えつく程度のものなので、今の俺の状態が無に親しいとか無に包まれているとかと表現するのはちと違う。ただ、名状し難いものなので便宜的に無って言葉を借りておくとしてもいい。
意識が在る。これが多分、少し物足りない字数だがシンプルでわかりやすい。
俺は俺であって俺以上ではない。俺というのはただただ生まれてこの方蓄積してきた意識の集積であって、そんな言い分で納得がいくかと叱責された場合、そもそも俺とはなんだというどん詰まりに相対することになってややこしいのでやめて欲しい。
ちなみに、時間というものにたいして当たり障りない見識はあるが、時間という概念がないために時間に付随する苦しみに苛まれることはなくなっている。
どうして俺の意識だけが残されたのだろう? 俺を中心に物語が収斂していたといっても、俺だって物語の一部分なのだから、物語の終わりと共になくなるのが世の常、否、物語というものの常ではないか?
ハルヒが意図的に俺の意識を残した……あり得る。あいつの力は底なしだし、常軌を逸しているから創作者さまもこのような目に遭うことになった。まさか人を殺す物語がこのような形の超ご都合主義的力技の波及から出来上がるものだとは誰しも思い至らなかっただろう。
若しくは長門がいつか口にしていた。原初に鎮座する物語を統御する創作者たるものが俺を残した? 考察の余地なしとは断言できない。というよりそもそも、そのような人物はいるのだろうかというところから考え始めるべきなのかもしれない。
谷口が描いた図が思い出された。円の外側に中心を同じくした円を際限なく書き続けていくあの波紋だ。全ての円の中心を谷口は俺だと喩えたが、あれを原初の創作者さまとしてみればどうだろう。
うん、これなら想像しやすいかもしれない。その中心の点が本当に原初創作者さまなのかという疑問には、考えてもみろ? それじゃあ中心に対しても終わりが失くなってしまって、つまりは俺たちの被創造者という話もあやふやになってしまう。
俺たちが創られたものというのは曲げられない事実だから、やっぱり始まりがいて、そこから全てが始まったという説が正しいように俺には思える。
そう考えると原初創作者はフィクションではないが、フィクションだということではなくなり、つまり銃弾は俺たちと同じ時空でしか移動しないので原初創作者に銃弾は届いていない。
なぜ物語を続けないのか? ここが終わり時だと踏んだのか。はたまた自分が創りあげてきた物語の崩壊を目の当たりにして、すっかりやる気を削がれてしまったのか。あるいは凶弾に倒れる創り手たちに空恐ろしくなり筆を折ったのか。最後に一つ考えられることとしては、まあ創り上げてきた作者に任せすぎた結果、一人ではどうにも物語を維持管理することが不可能になっていたのか。どれかである可能性はそれぞれおっつかっつだな。
例えとして空恐ろしくなった説が事実だとし、それではどうして俺の意識が残ったのだろう。それになら俺は一つの有力な自説を有している。きっと名残惜しいのだろう。物語の核をなす、と長門が説明した俺を生みだすのに、多くの時間を掛け過ぎたのかもしれない。だからちょっと棄てるにはもったいないといったところか。
いかんな。意識だけになると益体もないことに全力を尽くしすぎる。
よし、休憩だ。このような状態になった原因というのをアリストテレスの四原因説に当て嵌めてみよう。
まずは質料因、ギリシャ語でヒュレーだな……知るか馬鹿野郎。
次に形相因、エイドス……くたばりやがれ。
どんどんいこう作用因、アルケー……クソくらえ。
最後に目的因、テロス……これなら大丈夫。答えってのは寂しがり屋だからやっこさんからやって来る。その時に俺には理解することができるし。ないならないでそれでいい。焦りはしない。
不意に微かな違和感を覚え、すぐにその違和感の正体が物語の再開が近い印だと感知する。きっと誰かが筆を取り、この物語の新たな創り手として立候補したのだ。
意識だけが在った俺に、創り手の御心がそれ以外のものを付与してくれているらしい。次に始まる俺を包摂する物語。それはどんなものだろうと俺は未だ開けぬ視界の闇の中で素肌に空気が優しく当たるのを感じる。
懐かしい匂いを嗅ぎ、俺は頬を抓られる。
「いつまで寝ぼけてんのよバカキョン!」
ハルヒだ。たまげたことにこの新たな物語にもハルヒは存在する。いや、ハルヒだけではない。俺の周りには朝比奈さんに古泉に長門までもが勢揃いじゃないか。
「俺は……どうして」
「おやおや、まだ随分と寝ぼけていらっしゃるようですね」
「キョンくん。大丈夫ですか?」
皆に俺たちが創られたものだということを知ってはいなさそうだ。振る舞いからそう断言できる。
「長門」俺は長門に近づき「俺たちは物語の登場人物だよな?」と耳打ちする。
「あなたは恐らく寝ぼけている」
首を傾げる長門のその言葉に、俺の予想が外れてないことが絶対となる。
だが? どうして? なぜ?
物語の歯車は再び動き始めたのだろう?
俺は1つの発想に思い至った。そう発想だ。
俺の意識というものは一種の発想の役割を担っていたのだ。
俺という意識は、俺に関するあらゆる知識や思い出の集積倉庫であり、それが発想の種みたいな形で漂い、新たな物語の創り手を探していた。たまさか巡りあった人物は俺という意識の発想を受け取り、それをもとにして新たな物語を描き始める。
喜ばしくて高笑いが止まらない。こんなドラマチックな展開があるか? まあフィクションなんだからあっても不思議じゃないな。そう考えると腹が捩れるくらい可笑しくて堪らなくなる。
「キョンあんた壊れてるんじゃない」
「かもしれんな」
俺はハルヒを抱きしめて、さらなる大音声の笑い声をあげる。
ああそうだ、重要なことを1つ条件とあげておかなければならない。
この創られているという意識を消し去る一文を是非とも創作者さまには付記してもらいたい。
どうか大事に創り続けてくれ。倦まずに世界の創造を、俺の意識をバネにして続けてくれ。
筆が振るわれ、あるいはキーボードがタイプされるに従い物語は紡ぎだされる。ペンのインクが文字が刻み、そこには俺がハルヒの柔らかな髪を撫でると書いてあることだろう。
――そうしてキョンは自分が創られたものだということを忘却した――
>>213 訂正
条件としてあげておかなければならない。
終わりです。
もし読んでくれた人がいたらありがとうございました。
自分が書きたいように奔放に書いてみたら、ちょっと自分でもよくわかんない物ができてしまいました。
楽しんで頂けたら幸いです。
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