日暮れをとっくに過ぎた夜半の事だった。
野鳥も昆虫も草木も寝静まった深い夜に
弟を眠りから目覚めさせたものがあった。
「なにごと」
眠気で重い身体を起こした。部屋は暗い。
目を細めて闇の中を探った。
鈍った五感に意識を集中させる。
感覚が研ぎ澄まされて鋭敏になった。
水深一万メートルの深海に潜った気分だった。
遥か遠くに水面のざわめきを感じた。
弟は永久の無音で息をひそめ続けた。
魚が背びれ、尾ビレで掻きわけて生んだ水の流れ。
穏やかな水流に乗った海藻が僅かに息づく気配。
いかなる生物もその場に留まるだけで空間に影響を与える。
なるほど。なるほど、と弟は理解した。
視野を極端に狭める暗黒に隠れる生き物を見つけた。
弟は口の端を歪めて静かに笑顔を浮かべた。
その微笑は音のない世界に向けてではなく、
闇に擬態し損ねた憐れな動物に見せてだった。
「兄よ。この時間だぞ」
水の流れが大きく動いた。
勢いに押された海草がたじろぐ。
三分も待てば闇夜に塗りつぶされた室内から
ようやくまともな呼吸音が聞こえてきた。
酸素を欲しがる苦しげな息遣いだった。
「すまない。気の迷いだ」
後に続く許してくれという言葉は小さかった。
戦意を削がれた兄が明確に体の向きを変える気配がした。
しかし弟は逃さなかった。獲物の尾っぽを捕まえていた。
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