弟と稲刈りをした (23)
農家の息子に生まれると、米の味にうるさくなってしまう。
自分ではそんなつもりはなかったのだけれど、初めて市販の米を食べた時の物足りなさときたら、今でもありありと思い出せる失望感であった。
決して市販されている米の味を貶しているわけではない。単純に実家で作った米の方が美味く感じるのだ。
舌がそれに慣れてしまっているのだろうか、それは解らないが。
そんなわけで毎年、新米を楽しみにしている。
それはどうも、今日ここにいない我妻や娘、息子もそのようで、それもあって、こうして盆正月以外では、久しぶりの帰省をしている。
今日は稲刈りの日なのだ。
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まだ若い三十の盛りの頃までは、私も意欲的に農作業に参加していた。
一人県外に就職したものの、何もせずおヨネに授かるのは気も引けた。
それに、まだ幼かった子ども達にも、どうやって我々の食べている米が作られているか、その一端であっても知っていて欲しかったのだ。
しかし、そんな思いも、今日、丸々吹き飛んでしまった。
私が今までしていた農作業はほんの一部分、それも楽な部類で、そもそも私は米作りというものを本当に一端しか知っていなかったということを思い知らされたのだ。
「大丈夫か、兄ちゃん?もう若ぉねんじゃけぇ、無理すんな?」
そうして弟が心配して声をかけてくる。
先程までけたたましい音を立てて作動していた稲刈り機は田んぼの真ん中で停止している。
彼の作業を中断させてしまったわけだ。
五十も後半に差し掛かったものの、自分の体力がここまで落ちているとは思わなかった。
まさか稲刈機の範囲外である端刈りをしていただけで貧血を起こすとは。
早い話、平気の平左でモリモリと作業をこなす弟を他所に、私は木陰でぶっ倒れているのだ。弟とは三歳しか違わないというのに、情け無い。
「気にすんな、今日は暑ぃけぇ……俺も休も」
そうして彼は歳を感じさせない身軽な動きで私の隣に座り、ペットボトルのお茶を一息に飲む。
赤銅色に焼けた健康的な肌に、額から流れる汗をたらす彼は、付近の景色に溶け込み絵になっていた。
不意に木陰の中を爽やかな風が通り抜ける。思わずうっとりする涼しさを感じると、これだけ日差しはきついが、今は九月の半ばなのだと実感させられる。
「なんで急に帰ってきたん?」
突然、弟からの質問であった。
無理も無い、私が稲刈りの為に帰省してきたのはもう何十年ぶりもなる。
父が生きていたら、おそらく同じ質問をしたのではないだろうか。
定年が近くなると里心も強くなる。あれほど滅多なことで帰るものかと固く誓っていたのに、私はやはりここに帰ってきた。
帰ってきたくなったのだ。それは紛れも無い本音だった。稲刈りは口実だったのかも知れない。
ただ単純に帰ってきたかった。それが弟の質問に対する答えだった。
ふーん、と弟の返事もそっけないものだった。
こうして弟と並び、田んぼを目の前にしていると、過去にあった辛い稲刈りを思い出す。
あれは私が最後に稲刈りをした年のことだ。
猪が出た。
山際に有り、しかも父や私達の仕事の都合で刈り入れ時が遅れた我が家の田んぼは、その猪に集中砲火を受けたのだ。
他に荒らす田んぼが無いのだからまあ当然の結果である。ダメ押しとばかりに台風が直撃。稲は見るも無残に地に伏した。
稲刈機は非常に便利だ。進むだけで次々に稲を刈っていく。
だが倒れたり、水分を含み湿気ている稲を刈るとその機械の中で絡む、そうなるとその度に作業は止まり、気持ちも萎える。
刈り残しも多くなり、そうなった稲はその稲刈機のキャタピラに踏み潰される。
稲穂の実りも良いものではなかったたため、我々は草刈機でもってダメになった稲を刈り、処分した。
大昔と違い、稲が不作だったからといってひもじい思いをすることは無い。
けれど、あんなに惨めな気持ちになったのは、私の人生ではほとんど経験に無いことだった。
「あん時は肥料、撒き過ぎたんもあるんじゃけどな」
どういうことだろうか。
「稲も実がつきすぎると倒れる。まあ、重ぉなるけぇな。コシヒカリやこぉは元々、実が多いけぇ、よう見とかんといけんのんよ」
成程、それは道理だ。
「それに父さんも、あん時ゃ街で仕事しょったけぇ、水抜きもええ加減じゃったしな」
水抜き、初めて聞く単語だ。
「水張ったり、抜いたりを細かくするんよ。そしたら稲が枯れんように思ぅて根を伸ばすんよな。根が張っときゃ当然、稲は倒れにくい」
やはり、私が知っている農作業は本当に一端だったようだ。そして猛烈に申し訳なくなってきた。
「なんが?」
私は弟に甘えてばかりだった。
自分の夢を追いかけ、誰にも相談をせず地元で努めていた会社を辞め、県外に飛び出て、結婚して、都合の悪いことは弟に手伝ってもらった。
しかし弟は新しい家族である嫁を快く迎え入れ、血の繋がった弟のように振る舞い、やがて産まれた姪や甥にあたる我が子を愛した。
父や母が倒れた時も、その介護のすべては弟が率先してやった。医者やケアマネージャーとのやり取り、市役所へもろもろの申請。
その二人が死んだ時ですらそうだ。葬式の手配から御礼返しまで彼無しでは何一つうまくいってなかっただろう。
先祖から引き継いだ墓の管理も、この田んぼも、弟が全て綺麗なままに残してくれている。
世代を引き継ぐ上で、必ず発生する手間を、私は彼にほとんど押し付けてしまっていた。
真に自分を恥じた。気がつけば涙すら流していた。
「……俺さ、保育士やっとったことあったじゃろ」
急に何を言い出すのか。
だが彼は確かに保育士として努めていた。今では珍しくも無い男性保育士であるが、彼が勤めていた当時、まだ一般的ではなく、その数は少なかった。
風当たりがきつい、と、何度か愚痴っているのを聴いていた。
「特に障がいの子ら専門で……まあ成人の相手もしとったけど」
知的に、あるいは身体的に障がいのある児童の施設に勤めていたとは知っていた。成人になった人たちの支援にも関わっていたのは初耳だった。
「で、その後はケアマネな」
その実務経験を踏まえて彼はケアマネージャーになった。介護保険など、あらゆる高齢者サービスに通じ、それと利用者を結びつける仕事である。
人が最後に至るまでの道のりを目の当たりにすることが多い職業である。
「……全部、みんなの為になるか思ってそうなった」
どういうことだろうか。
「もしよ?兄ちゃんに障がい持った子どもが生まれた時、何か出来るじゃろ?そんで父さんや母さんの時も、全部えぇようにしてやりたかったんよ」
その言葉を聴いて、こんな事を私が思うのはお門違いだとは解っている。
だが私の内に生まれたのは、怒りだった。
そのために自分の人生を投げたというのか。
「なんでよ?」
そうとしか思えない。私は自分の夢の為に彼を犠牲にしたかもしれない。
その思いは若い頃から私を蝕んでいた。そしてそれがその通りなのであれば、何故なされるがままにしたのか。
どうして。
どうして、兄に、私に甘えようとしなかったのか。
こいつは昔から、体力も、頭もそうだが、特に要領はずば抜けていいヤツだった。
まるで他人の心が読めているように振舞えるヤツだった。
疎んじたこともあった。可愛くない弟だと何度も思った。
それだけ要領のいいはずの弟が何故、流されるままに生きてきたのか。許されることではない。あっていいはずが無い。
この弟なら、もっと凄いことを出来たに違いないはずだった。
私はどこに行っても、誰にあっても、家族の話になったら必ず弟を讃えた。
凄いやつだ。頭がいいし、強い。それになにより、本当に優しいヤツだと。自慢の弟だと。
「そう?ありがと」
などと言う。私はふざけてない。真面目に聴くべきだと思う。
「あのな、兄ちゃん。俺は要領がええんよ?」
知っている。だからこそ、
「……父さんと母さんが何一つ心配なく、笑顔で死ねて、その上あんたは結婚して子どもまでおる、アンタには入れる墓もある。他になんの心配があるん?」
それで弟はどうするのだろうか。お前の世話は誰がするというんだ。そんなにまで家族に良くしてきたお前は誰がどうするんだ。結婚すらして無いくせに。
「そういう問題じゃないよ。あんたと俺と違うのは、俺に心配なことなんかなんも無いってこと」
この田んぼはどうする。ここまで良くしてきたんじゃないのか。先祖に顔向けできないぞ。
「先祖なんか知るか。田んぼじゃって俺が死んだらおしまいでえぇじゃろうが、んなもん。この辺の田んぼはそんな事情で休耕田ばっかりじゃ」
つまり死んでしまえばそんな事を考えなくていいということか。なんて罰当たりなことを言うのだろうか。
「こんな死に方できるんは俺だけよ?まあ、あんたは無理かもしれんけど、あの子らが同じように手厚く介護体勢してくれように頑張らんとな?」
私の事など今はどうでも良いことである。
病気や怪我はいつ襲い掛かるか知れない。その時、彼はどうするというのか。
「全部、うまくいくようにしといた。なにせ他人に恩を作るのはうまいけぇ」
如才の無いことだ。
「そうそう、だから要領がええんよ。色々、人が死ぬ様みたけどさ、まあどんなに綺麗な人生送っとる立派な人間もクソまみれになる時ゃなるぜ?みんなそうだったもんよ、そりゃあ仕方ないことなんよ」
それはそうかもしれないが、本当にそれが幸福なのか、私にはわからない。彼がこうあるべきなのかも。
「も、一回言うけど、俺に心配なことなんか無いの。それでええじゃん」
別にこういう生き方でなくとも、他にやりようがあったのでは無いか、まだそのように思ってしまう。
「強いて言うなら、父さんの時は中々作れんかったヒノヒカリを、思う存分作れることが役得かな?俺はそれでええよ」
何故だろうか?
「……農家の息子に生まれると、米の味にうるさくなるけぇな。やっぱり市販もの買うよりか作らんと」
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**********
「あれ?今、終わったんですか?」
日も沈みかかりそうになった帰路、都会では中々お目にかかれなくなったセーラー服を来た女子高生が弟に話しかけてきた。
「おう、こんちは。うん、今、終わった」
「暑かったでしょうに、始めるの遅かったんですか?……ああ、そちらの方が」
女子高生は私の方を認め、作業が遅れて終わったことに得心したようだった。
私が脚を引っ張ったのがばれてしまったのだろうか。恥ずかしく思うが、そ知らぬ顔で挨拶をした。
「こんにちは……フフ、おじさんも可愛いところあるんですなぁ」
「なんがぁ、いらんこと言いなさんなよ?」
ニヤニヤして弟に詰め寄る女子高生の意図がよく解らない。
さっきも言ったように私の弟は、尊敬できる人間ではあるが、全くもって可愛げの無い人間である。
「だって、普通、稲刈りなんて朝の涼しいうちにやるじゃないですか。おじさん、お兄さんが来るからって甘えてたんでしょ、時間までズラして」
「んなわけあるかっ、はよ帰れ!」
「アッハハ、さいなら、おじさん。また勉強教えてね!」
そうして逃げる女子高生の背を弟は見送り、少し経って弟は突然に叫んだ。
「受験勉強、頑張れよーっ!」
その声に女子高生はセーラー服をはためかせながら振り返り、誓うように拳を天に突き出す。
再び背を向けて帰路に着く彼女を、弟はずっと見送っていた。
そうだった。
弟はこういうヤツだった。いつでも人の背に向けて、今のように「頑張れ」と言って送り出していた。誰も彼もの味方になって応援していた。
育ち、社会に羽ばたく子ども達の背に、ハンデを背負った人達の背に、人生を走りきろうとしている人達の背に。
緊張した顔つきで結婚の挨拶に訪れた我が嫁に、生まれ出で、本当に良い子に育ってくれた私の子達に、死に逝く父母達に向けて。
若き日の、夢を追いかけていたあの時の私にも。
自分が関わった人間の、その背中めがけて、「頑張れ、頑張れ」と。今も、そう叫び続けているのだ。
頭の良さとか、体力の有無とか、要領の良さとか、それは弟の本質ではない。上っ面でしかない。
この人間性が、この在り方こそが、可愛くない、けれど私が愛した弟なのだ。
「そんな大層なもんじゃない」
ところで、だ。
「なんよ?」
あの女子高生との関係性が気になる。まさか邪しいことはないだろうか。
「んなわけあるかっ!近所のジャリじゃ!」
当然、そうとは知りつつも私はそう聴いたわけだ。それにしてもいいことを聴いた。
対面した相手には弱味を見せない弟君にも可愛いところがあると今更発見してしまうとは。
そうか、終始マイペースな弟君が、自分のルーティンをずらしてまで、この兄に甘えたかったか。
「んなわけあるかっ!んなわけあるかっ!」
どうやら言い訳も思いつかない程に図星を突いてしまったらしい。
今日は泊まりの予定である。
今夜はお互いほとんど飲めない酒でも交わし、ゆっくりと語り合おうじゃないか。
弟と稲刈りをした
了
くぅ疲、ともかくヒノヒカリ食べたい。
何が書きたかったんだろうか、稲刈り中の兄弟っぽいおじさん方を見て、なんか郷愁が湧いた。
最近、おっさんが主人公話ばっかり書いてる気がする。最近でもないか。読んでくれた人はありがとう。
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