fleur de…(397)

前作では色々とアドバイスありがとうございました。
色々と考えた結果、現代物のプロットを採用することにしました。
内容的に書き方修正は難しいので小説形式です。

投下タイミングについてもアドバイス頂いたので気をつけていきたいと思います。
>>2からスタートします。

「ねえねえこのぐらい? 青空と海のバランスはどう?」
 一眼レフを構えた、俺――九川 真翔(くがわ まなと)に彼女である千田 珊瑚(ちだ さんご)は
自分の立つ危うい崖の上からアングルの具合を訪ねてくる。

「うん。今いる場所、すごく良い感じ。地面の岩肌もちゃんと入ってるし、看板もばっちりだよ。でも、その手摺り、
だいぶ老朽化してるみたいだから触れないようにね」
 俺達は多分傍から見れば一見普通の記念写真を撮っているように見えるだろう。
 だが実は少し違う。

 俺が写真を撮っているが、実のところ珊瑚に付き合っているだけで、本来の主催は彼女だったりする。
 彼女には少し変わった趣味があった。

 その趣味のせいで、俺に出会うまで悲しい別れを何度もしたようでもあった。
 彼女には……いわゆる“自殺名所”と呼ばれる場所に行く趣味があり、そこで自分が被写体になるのが好きだった。

 場所が場所だけに誘ってきても着いてきてくれる友達もおらず、困っていたところで出会ったのが俺だった。

 俺は特にそういう事に偏見がなかったので、彼女の自己満足ツアーのおねだりを快諾した。
 まあ、自分から告白した手前もあったのだが。

 そして今彼女立っている場所も知ってる人の間では有名な“名所”の一つである。
 こういう場所は、彼女に誘われるがままもう何ヶ所も行っている。

 ちなみに今居る場所は通称『花芽岬』と呼ばれる場所。『鼻目岬』とも書くらしい。
 言い伝えによると、昔美人と醜女の姉妹がいて、妹である醜女の妹に村一番の伊達男がなぜか惚れ込んでしまい、
それに嫉妬した美人の姉が策に策を重ねて略奪してしまったらしい。

 それに怒り狂った醜女の妹はこの岬から姉を突き落として殺してしまい、姉の死体が見つかった時は狙いすましたかのように
彼女自慢の美しい目鼻を鋭い岩が貫いていたそうだ。
 それ以降何故かこの岬では自殺者が絶えず、殺された姉が誘っているのでは?
と、言われている。

「ねえまだ? 風が強くて帽子飛ばされちゃう」
 そう言って彼女は風にはためく薄黄色のワンピースとつばの広い同じ色の帽子を抑えた。

 残暑の強い日差しに彼女の白い肌が映える。
 同時に彼女の左手の薬指にはまる指輪に付いた赤い石がキラリと光った。

「今押すから待って」
 そう言って俺は一回シャッターを押す。

「あっ……髪の毛が顔にかかっちゃった。もう一回撮って」
「良いよ」
 俺はこわれるがままもう一回シャッターを押すが……。
 カッ。そんな小さな音と共に突然視界が揺らいで視界から彼女が消えた。
 いや、揺らいだのは俺の視界じゃなくて――……。
 俺はすぐに異変に気がついて錆びた柵が消えた崖を覗き込むと、
物凄い勢いで海に吸い込まれて小さくなって行く珊瑚の姿があった。
「珊瑚ーーーーー!!!」
 気が付けば俺も彼女を追って崖を飛び降りていた。

 そして次に俺が気が付く時。
 海でも何でもない。白い天井を見つめていて、さっきまで聞いていたはずのさざなみの代わりに騒がしい人の声がざわめいていた。
「先生、患者さんが目を覚ましました!」
 聞きなれない女性の声がそう叫ぶと、甲高い金属がぶつかり合う音やら車輪音が雑音に加えられた。
(俺は……一体……ここは……?)

――珊瑚は?!
 海に落ちて行く彼女の姿を思い出して飛び起きようとするが、何故か丸で自由が利かず、身体は僅かに身じろいだだけに過ぎなかった。

一旦ここまで

もう始まったのか早いな

もし前の読み手も連れてきたいなら前のエルフのにここのURL貼るといいよ

>>6
わかりました。
そうします。

前作:エルフの夕暮れ
エルフの日暮れ - SSまとめ速報
(http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/internet/14562/1409464212/)

日付が変わる頃投下しますね?

早めに投下するのは内容的な問題です。

酉ってどうやってつけたらいいですか?
えっと、ちょっと調べてきます。

テステス

テステス

で、できた。
やばい、ここではマジでエルフちゃん状態の私。

よし、改めましてよろしくお願いします!

>>1
おめ♪

>>17
酉付くとそれっぽいですね♪
あざっす!

>>15
今もエルフちゃん状態なら、SS速報VIP板にある「SS制作者総合スレ」のテンプレを一読するといいと思うよ。

>>39
あそこへはちょくちょく足を運んで見聞を広げさせてもらってます。
しかしまだあそこはちょっと足が竦む状態ですね。
実は質問投下もしてみましたが、まだちょっと早そう……というのが感想です。
その板は見ておきます。

とりあえず、緊張が途切れない内に投下します。
今回の投下を終えましたら、前以上に暫く書き溜め期間を取ります。
更新予定は未定です。

 珊瑚と付き合い始めて1年が過ぎて初めて迎える俺の誕生日の1週間前の事だった。
 朝早くにマンションの戸が開く音で俺が目覚めると、彼女が俺が寝ているベッドの方に駆け寄ってきて「おはよう」と微笑んだ。

『こんな朝早くにどうしたんだ? 今日は俺、仕事だぞ?』
 目を擦りながらベッドを抜け出すと、慌てて寝巻きのボタンに手をかける。
 ついでに時計を見たらいつもの起床時間より1時間も早かった。

『んふふ……いやぁ、昨夜ちょっと良い物を手に入れたから、見せるの待ちきれなくって、来ちゃった』
 そう言って彼女は着替える俺をいつもの白いラグの上で待っている。

『良い物? 何……こんな朝早くにまで押しかけてきて見せる程良い物なのか? ふわぁ……』

『えへへー』
 珊瑚は意味ありげに笑う。
 俺は欠伸混じりにスーツのスラックスを履いて仕事用のワイシャツに袖を通し、申し訳程度にボタンを掛けると、珊瑚の居る方へ行きソファに腰掛ける。

 すると彼女はスッっと茶色い紙袋を俺に差し出してみせた。
 俺はそれを受けとると、怪訝そうに訊ねた。

『何、これ……』

『開けてみて』

『・・・・・・・・・?』
 促されるまま紙の茶袋を開けると、中から7cm四方のピンク地にチャイナ柄の小袋が入っており、俺はその袋のボタンを開けて覗き込むと、これまた1、5cmくらいのふっくらした楕円形の赤い石が二つ入っていた。
 俺は訳が分からず、珊瑚に再び訊ねる。

『これ何?』

『珊瑚よ』

『珊瑚? へー。随分赤い色をした珊瑚なんだな』
 そう言って俺は二つの内一つを取り出して眺めてみる。

『血珊瑚っていうんだって』

『ちさんご?』
 聞き慣れない単語に俺は聞き返す。

『血液の血に私の名前の珊瑚で血珊瑚。もう絶滅して取れない珊瑚だってお店の人が言ってた』

『店ってどこ?』

『骨董屋さん? レトロ屋さん? そんな感じのお店。何だか名前の響きとか運命感じて買っちゃった。だって、私の名前は千田珊瑚、貴方の名前は九川真翔』
 途中から珊瑚の言っている意味が分からず、苦笑する俺。

『血珊瑚と千田珊瑚は解るけど、俺の名前関係ないだろ……』

『あるよー! 九川真翔の真の字と、苗字の九を並べて読んだら、“しんく”って読めるじゃない。“真九”で、”しんく”。それで“真紅”いや、
深い方の“深紅”? どっちにしても、“しんく”の“血珊瑚”……凄くない?!』
 そう言って珊瑚は俺の膝の上に身を乗り出してくる。

『お、おお……。そうだな……』
 珊瑚の勢いに押されて思わず仰け反る俺。
 その拍子に珊瑚の大きく開いた襟元から彼女のふくよかな胸の谷間が見えて、
これは“ラッキースケベ”だと思った俺は一発殴られた方が良かったかもしれない。

『でさでさ、もうすぐ真翔の誕生日じゃない? この珊瑚使ってペアリング造らない? 私がお金出すからさ……プレゼントだし。 ね、ね?』
 ぺ、ペアリング……。

 彼女の提案に俺は少々面食らい、迷った。
 確かに一年付き合っているが、こんな貴重なものを使ってペアリングを造るという事はもう、
半分以上結婚を前提とした付き合いを承諾したとみなされてもおかしくない。

――結婚。

 珊瑚と結婚なんて今まで意識してこなかったが、彼女はそれを解ってペアリング作成を提案しているのだろうか?
 そりゃ彼女とはこの一年楽しくやってきた。それに珊瑚は家事も最低限できるし、職にもついているが、
性格上結婚という事になってもいきなり専業主婦になるとは言い出さないだろう。

 だから生活に困る事も無いだろう。

 でもこの先何十年も俺は彼女とやっていけるのだろうか?
 確かに俺達は“いい歳”だが、初めて浮上する事案に不安を覚える俺。

 というか、彼女にも普通に結婚願望があったのか? そんな事今まで考えもしなかった。
 いや、俺が鈍感だっただけなのかもしれない。
 この一見能天気な珊瑚が、実は俺が思うより計算高い女?

 しかしこのテンション。
 あまり深い事は考えてなさそうで、とても断り辛い。

 それも計算のうちなのだろうか?
 一応、遠回しな牽制をかけた返事をしてみる。

『しかし、これ・・・・・・1個あたり大きさ1cm以上あるよな? 今時そんな石のついた指輪とか古臭くないか?』
 俺の返事に珊瑚は暫しキョトンとすると、爆笑しながら俺の肩を叩いて言った。

『それなら心配ご無用! とっても素敵な創作アクセサリーのお店もちゃんと見つけてありますのよ!』
 と言って一冊のパンフレットをバッグの中から取り出してみせた。

 俺は一旦珊瑚を小袋に戻すと、パンフレットをパラパラと捲る。
(ほう……)

 確かに。彼女が言うだけの事はあり、石の大きさなど気にせずに楽しめる色々なデザインがリーズナブルな金額で発注できるようで、
これなら普通にファッションリングとして付けておくのもアリかも知れないと思ってしまった。

『その顔は興味持った、って顔ね?』
 珊瑚の指摘に俺は思わず頬を染めて頷く。

 その反応に彼女は満面の笑みを浮かべると、「じゃあ決まりね! 仕事の帰りに落ち合いましょ」と言ってそそくさと帰ってしまった。
 あれ、俺まだちゃんと返事してないんだけど……?

 まいっか。
 そう思えるくらいにはパンフレットのデザインは良いものが並んでいたし、珊瑚の事が好きだった。

 それから仕事帰りに二人で落ち合うと、件の店に行って発注する事になった。
 費用は俺は折半でよかったんだが、珊瑚はやっぱり俺の誕生日用だから自分が持つと言って聞かなかった。彼女の矜持が許さなかったらしい。

 店で指輪を作るにあたっていろいろ説明を受けることになったのだが、初めて知る宝石の知識。
 宝石でアクセサリーを作る時にはそれぞれ石に見合ったグレードの金属を使うのだそうだ。

 ダイアモンドなら金やプラチナ。エメラルドやルビー、サファイアなどもそうだ。高価な石には高価な金属を使うのが定番らしい。
 などと色々と細々(こまごま)な説明をされたが、最終的に珊瑚には銀ぐらいの金属を使うのが丁度良いと言われた。

 でも、今は合金でも良い物があるから、温泉に入る事での劣化を避けたり、金属アレルギーがあるなら別の金属も用意できるとも言われた。
 俺は特にアレルギーも無いし、正直金属は何でも良かった。
 珊瑚に聞いたら、手入れの手間はかかるが、銀の方が響きが良いから銀にするといったので俺はそれに合わせる事にした。

 ちなみにマメ知識だが、金属の価値は時代によって変わるので、アルミニウムが高価だった明治時代から昔にはダイアモンドが付いた
アルミニウムの簪(かんざし)なんて物も存在していたらしい。
 アルミニウムとダイアモンドだなんて、今では考えられない組み合わせだ。

 そして出来たのが俺のこの薬指にはまっているリングであり、彼女の腕ごと無くなったリングでもある。
 ちなみにデザインは中華風の袋に入っていたので、そこから基本イメージを持ってきつつも男女関係なく使えそうな和風の龍をあしらったスタイリッシュな
シルバーの指輪が出来上がったのだった――……

 ふと気が付くと朝になっていた。
 俺はソファに寄りかかったまま寝てしまったらしい。

 なんだか懐かしい夢を見た気がする。
 しかしどんな夢を見たかはよく憶えていない。でも、思い出そうとすると泣きそうになるのできっと珊瑚に関する夢だろう。

 寄りかかった姿勢で眠っていたので目を開けてすぐ指輪が視界に目に入り、目を逸らす。
 泣きじゃくったまま顔も洗わず寝てしまったので顔中が痛い。

 とりあえず顔を洗おう。
 俺は洗面台に寄らず流しで顔を洗うと、
タオルを用意してなかったことを思い出してビショビショのままタンスに向かってフェイスタオルを引き出す。

「痛っ……」
 涙ですっかり荒れてしまった肌は柔らかなタオルの生地さえも受け付けてはくれず、俺は仕方なく慎重に優しく叩くように水気を拭うが、
床に零して来た水滴まで片付ける気にはなれず、そのまま寝室のベッドに移動して倒れ込む。
 給料を叩いて買ったスプリングを使わないベッドマットは静かに俺を受け止めると、精神的疲れもあってかウトウトし始める。

――珊瑚。

――珊瑚。

 どうして居なくなってしまったんだ。俺がもっと強く靴の事を言っていればよかったのか?
 そもそも風の強さを見て撮影自体を中止すればよかったのか?

 後悔してもしきらず、目を瞑るとあの日の光景ばかりが浮かんでは消える。
 崖から海へ吸い込まれるように小さくなっていく彼女の姿。

 そして俺の意識は深い深い眠りの海へ落ちていった――……。

……――姉様ははいつ******して、妾(わらわ)から******なモノを奪っていきなさる?
い*****。妾は姉様のような美しさも才能もないのに、姉様はそれから更******から大切なモノを……あの方までも奪っていきなさる……!
――ええぃ何を*****。アレは元々我を******のじゃ。解らぬか。お前は******のじゃ。
************************だけじゃ!
――嘘! あのお方は妾を心から*********言っておった。それを嘘だと? あの*******妾に嘘を吐いている*******るか。姉様は本当に卑劣じゃ。鬼じゃ――……

 何だ? 誰か喋っている……言い争っている? しかしよく聞こえない。

 潮騒が五月蝿くてよく聞こえない。
 一体何を言い争っているんだ?

 夜――月明かり――海――どこかの崖――見覚えがある――? どこだ? ああよく思い出せない。
 俺は今、一体何を見ているんだ?

「……――と、なと。真翔! 起きなさい!」
(はっ……)

 誰かに揺り起こされて俺の意識は急浮上する。
 俺は訳も解らぬまま身体を起こすと、傍に母さんが居た。

「か、母さん……」

「ずっと寝てたの? 電話しても反応がないから心配して見に来たのよ。大丈夫? あら、すごい隈(くま)……」
 そう言って母さんは心配そうに俺の顔を覗き込んだ。

「電話、していたのか。全然気がつかなかった。今何時?」

「もうあなたが帰宅してから一日半経ってとっくにお昼も過ぎてます! その様子だとご飯も食べてないんでしょ。持ってきたから食べなさい。
あなたの好きな煮込みハンバーグよ」
 そう言って母さんは寝室からキッチンへと向かっていったが、俺は食事は正直いらない……何も食べていないはずなのだが、お腹が全く空いていないのだ。

 しかし折角持ってきてくれた母の好意を無駄にも出来ないので、ノロノロと俺もキッチンに移動する。
 リビングのガラステーブルの上に保温性のある陶器のタッパーが置いてあり、
フォークが並べてあったのでそのまま座ってタッパーの蓋を開ける。

(うっ……)
 空きっ腹で嗅ぐ噎せ返る肉の匂いにその場で吐きそうになるが、母さんのいる手前それを堪えて恐る恐る一口食べる。

 うわぁ……恐ろしい程に味がしない……ただただ舌の上で崩れる……粘土でもない、味のないそぼろのような……何か。
 またまた吐きそうになるが、それを堪えて嚥下する。

 噛むと吐き気がするだけなので、水を汲んでもらってハンバーグをひたすら流し込む。
 そして食べ終わると、母さんにタッパーを返して、まだ眠いからとサッサと追い返した。

 母さんは俺を心配してもう少し看病していたそうだったが、一人にして欲しいと言うと、何も言わずに帰って行った。
 おれは母さんの気配がなくなったのを確認すると直ぐにトイレに駆け込んで、たった今食べたハンバーグを全部吐き出した。

 胃が、食べ物を全拒否している。
 きっと暫くは母さんが心配して食べ物を持ってくるのだろう。

 今は放っておいて欲しいのに。でも、そうもいかないだろう。
 このやり取りを暫く繰り返す羽目になるのかと思うとうんざりする。

「珊瑚ぉ……」
 トイレで崩れ落ちたまま帰って来ない愛しい女の名前を呟いた。

 それから2週間これを繰り返し、やっと少しずつだが吐かずに食事が出来るようになってきた。
 母さんは俺が何を食べても吐いてしまっている様子には気が付いているようだったが、突っ込まず、
黙って食事をもって来続けていた。

 だが、それにも漸く回復の兆しが見え始めた事に気が付いたらしく、険しかった表情が徐々に和らいでいった。
 他にも仕事場からも心配の電話が定期的に入っており、俺は機械的に状況報告をしていた。

 食事がまともに出来ない内は復帰はまだ難しいと答えていたが、食事が出来る様になってきた今は、
今はむしろ仕事に打ち込んだ方が何も考えずに済むのでは?
 と考え始めていた。

 そして、それから更に2~3週間程。
 俺はやっと、スーツを着て離れていた職場を久々に訪れていた。

 何ヶ月も離れていたなんて俺としては嘘のようだが、実際俺がオフィスに現れた瞬間の皆の表情は今でも忘れない。
 それを見て俺は一体何度一生忘れられない体験をすればいいのだろう? そんな事を思って苦笑した。

 いつもは俺に対し風当たりの強い上司まで寄っては来なかったが目を潤ませていた。
 職場のみんなは大人だった。

 皆、俺の体調の心配をしては声を掛けて来るが、珊瑚の事には一切触れず、俺が席に着くのを見ていた。
 そして久々の仕事は肩慣らしにもならないただの書類整理だった。

 まあ、俺自身現状それ以上のタスクを課せられても処理できる自信はなかったが。
 ともかく、俺は事故から約7ヶ月程経って漸く職場復帰も果たしたのだ。

 だが俺はこの時、自分が寝ている間に見ている夢の事は起きてる間全く記憶に無かった。
 自分が『あの夢』に毎晩うなされてる自覚すら無かったのだ。

 そして、少しずつ、少しずつ『アレ』は育っていくのだった。

今回はここまでです。
それではではしばらく書き溜めたり色々してきます。
コメントのできる限り返信はいたします。
ではまた!

乙です

>>55
>>56
ありがとうございます

順調に書き溜めています
後 色々見て回っています

sage忘れた 紛らわしくてすみません

こんばんは。

 取り敢えず、動揺が収まらないので職場には休みの連絡を入れた。
 風邪とか適当な理由をつけようと思ったら、俺が言う前に何も言わず了承されてしまった。

 拍子抜けである。
 そして最近本当に働きすぎだと逆に怒られた。

 これ以上は労働監督署も煩いから、出勤も暫くフレックスで良いくらいだとも言われて電話を切られてしまった。
 俺は珊瑚の事を考えたくないあまり、少々やりすぎてしまったらしい。

 とまあ、こういう訳で時間は出来た。

(さて、どうしたものか……一体全体、俺に一体何が起きているんだ?)
 おもむろに右目の辺りを触ってみると、指に触れるのは確かに生の花の感触である。

 花弁があり、細かな雄蕊(おしべ)や雌蕊(めしべ)がびっしり生えている。
 病院からの電話は放置していたらいつの間にか切れていたが、掛け直す気にはなれなかった。

 いや、掛け直して状況説明したところで信じてもらえないか、伝わったらむしろ大事になってしまう。
 そんな事態は御免被りたい。

 しかしどうしたら、この意味不明な状況を自分が理解し、納得し、打破できるというのだろう?
 矢張り病院に――……。

(いやいや、最初から見た事が無いと言われ、聞いた事も無い大きな病院の研究室の室長から直々に電話を寄越すくらいだから、
下手な事をすれば俺はまた暫く病院詰めになってしまうかもしれないし、最悪モルモットにされるかもしれない……そんなの、絶対嫌だ。別の手段を考えよう……)

 それから暫くリビングのソファに腰掛けて、どうしてこうなったのか、関係のありそうな事を片っ端から思い出そうと試みる。
 だが、眼から花が咲くような事に繋がるような事がそうそう思い付いたりするはずも無く、時間だけが無駄に過ぎていった。

 そして。
 グ~……。

 不意にお腹が鳴り、久々に自分がお腹が空いている事に気が付いた。

 時計を見ると昼はとっくに過ぎて2時を回ろうとしていた。

(もうこんな時間か。早朝から時間が過ぎるのが早いな……というか、自分でお腹が空いたって思うのって、何だか久しぶりだ……)
 そう思って冷蔵庫を開けるが、最近ずっとまともに食事していなかったので、冷蔵庫の中にはほとんど食料は入っておらず、ビールの500ml缶が数本入っているだけだった。

「………」
 日常の積み重ねって大事だな……と、切な気に思った。

 しょうがないからコンビニにでも行こうか、とも思ったが、この花が隠れるような眼帯を付けたまま短距離とはいえ
外を練り歩くのは恥ずかしかったので宅配ピザを取る事にした。
 そのくらいならそんなに恥ずかしくないし、あっちも気にしないだろう。

 そう思ってパソコンから発注する。

(40分くらいか……じゃあ、30分くらいだな)
 こういうサービスは苦情を避けるために大抵少し幅を取って宅配時間を表示してあるものだ。

 で、問題に戻るわけだが。再びソファに座って考える。
 そして右目の花に手を当て。

 一体、何がキッカケでこんな物が眼から生えてきたのか。
 チラリと膝に乗せた左手の薬指にはまる指輪に目が行く。

(血珊瑚の色――……)
 どことなく……・いや、この花の色に酷似している。

 もしかして何か関係があったりするのだろうか?
 しかしこれはたまたま珊瑚が買ってきた物で、何か曰くがあるならもっと前から異変があってもよかったはずだ。

 今更これが何かを起こしたとは思い難いが――……。
 しかし何となく頭の隅に引っかかった。

 何だろう。この妙な既視感めいた感覚は。
 そんな事を考える内にインターホンが鳴った。
 多分ピザ屋だろう。

「あ、ハーイ!」
 俺はポケットから折りたたみの黒い革財布をつかみ出すと立ち上がった。

 その時……。
――ザザッ!

 目の前に不意にザッピングが走るように何かのヴィジョンが視界を横切る。
 砂嵐に混じって誰かの手が赤い枝の様な物を持っているのが見えて、俺は思わずバランスを崩してよろける。

(……?……?)

 何が起こったのか分からず、疑問符を浮かべたままへたり込む俺。

 だが、またインターホンが鳴ったので慌てて玄関に向かい、ピザ屋からピザを受け取って戻ってきた。
 ピザを受け取っている間に今見た光景の事は忘れ、久々に空腹に促されるままMサイズのピザを一枚平らげた。

 空腹を満たしてひと心地着いていると、ビザ屋が来た時に見た謎のヴィジョンの事をふと思い出した。

(あの光景、どこかで見た気がするんだよな……)
 夢で見ている事などはすっかり忘れ、どこで見たのか思い出そうと必死になる。

 そして、何となく寝室に目が行く。
 そこで最近夢見が悪かった事を思い出す。

 その時、なぜそう思ったのか自分でも分からないが、寝室に――眠りに答えがあるような気がしてしょうがなくなった。
 今思えば無意識に何度となく見続けていた夢の記憶が残っていたのかもしれない。

 俺は満腹感もあってか、不意に眠気が押し寄せてきたのもあって一眠りする事にした。
 眠れば何かヒントが得られるような気がしてしょうがないのもあった。

 そしてその感は間違いではなかったと後で確信する事になる。

 眠気のあまり寝巻きにも着替えないまま布団に潜り込むと、あっという間に俺の意識は遠のいて行った。
 今までに感じた事の無い浮遊感が身体を包み込み、気が付けば俺は青空――空中を物凄い勢いで降下していた。

 身体全体が風を切り地上に向かって落ちてゆく。
 雲を抜けるとそこは崖のある海岸。

 俺は海に向かって落ちて行っている事に気が付き、慌てる。
 あの日、珊瑚と一緒に海に落ちた日の事を思い出して――……。

 だが次の瞬間。俺は空から別の場所に移っていた。
 時も変わったのか、空は青から漆黒じみた星の散らばる深い紺色に変わり、少し欠けた月がぼんやり浮いていた。

 辺りを見回すとそこは白い砂の広がる浜辺で、見下ろすと草履を履いた男の足が見えた。
 状況が飲み込めないまま立ち尽くしていると、背後から声が掛かる。

 女の声だ。

『お待たせ。お待ちになった?』

 顔はよく見えないが、自分より一回りは小さな女が口元を綻ばせて駆け寄ってくる。
 女の声は妙に反響しているのと潮騒に混じっていて聞こえ難いが、言っている事は聞こえない事もなかった。

――いや、そんな事は無い。
 これは俺の声か?
 頭の中で喋っているように感じて何だか気持ちが悪い。

『あの子を誤魔化すのにちょいと時間がかかっちまってさ……あの人もね。ちょいと、ここは目立つから場所を移しましょ……いつもの祠に、ね……』
 そう言って女は俺の袖――和服の袖を引いて更に人気の無い場所へと歩いて行く。

 女に導かれるまま歩いて行くまま歩いていくと、しめ縄のかかった小さな鳥居のある岩場の多い祠にやってくる。
 岩壁を削って造った様な祠には古ぼけた赤い前掛けを付けた、石で出来た兎の地蔵? の様なモノが祀ってあり、
兎地蔵の前には菊の花や花咲く野草、餅の様な白い塊が幾つか供えてあるのが見えた。

 俺達は岩場の一番目立たない所に腰を下ろすと、女は岩越しに辺りを確認して漸く安心したように大きく溜息を吐いた。

――大丈夫か?
 声をかけると彼女は小さく頷く。
 そして女は火打石を打って手際良くもぐさで火種を作ると、蝋燭に火をつけて石の上に立て、
揺らめく淡い明かりの中でおもむろに着物の袖からあの赤い枝の様な物を取り出した――……

 ザザッ――……!

 砂嵐と共に不意に場面が変わる。

……――『****様、そんなお身体で雨の中お外に出てはまいりませぬ! あのお方の状態も良くないというのに、あなたまで完全に調子を崩されては、****様の居ない今、誰がこの家を守っていくと――……』

『ええい、離しておくれ! あのお方の調子が悪いからこそ、妾は行かねばならぬのだ! お百度参りは一日も欠かしてはならぬのだ。やり通してこそ神さん仏さんに願いが通じるというもの! いいから離せ! 離さぬかぁーー!!』

 響き渡る女の怒号。そんな揉める男と女の声をぼんやりと聞いている俺が居た。
 さっきまで浜に居たはずなのに、今は何故か布団に入って座っている。

 そして俺の手には、赤い枝の様な物が握られていて――……

 ザザッ――……!

 また場面が変わった。
 今度はよくわからないが、女と二人で合わせてお互いに赤い枝を持って向かい合っていた。

『主が持ってきてくれたこれ……この色は丸で血のようじゃ。だからほら、こうやって絡ませ合えば、我等の血が混ざり合ったかのよう……』

 そう言って女は俺の持つ赤い枝に自分の持つ枝を絡み付かせた。
 赤く艷やかなそれに対比するような女の白い手が印象的だった――……

 その映像を最後に視界は歪み、俺はもっと良く見ようとするが、視界全体が虫食い状に燃え落ちるように暗闇に包まれ、俺は目覚めた。
 そしてゆっくりと身体を起こすと、混乱しながらも初めてハッキリと自覚している夢の内容を整理し始めた。

 今見た夢はかなり重要なヒントのはずだ。
 でも決定的な何かが欠けている。それが何かは分からないが……。

 多分それは過去に見た夢の分も遡らないといけないような気がするが、今は思い出せない。
 とりあえず、共通していたのは『赤い枝』だ。

 まずはこれを調べてみれば何か更なる手がかりが掴めるかも知れないと思った。

 パソコンを立ち上げて検索をかけてみようと思ったが、肝心の検索ワードで躓く。

『赤い枝』なんて直球なワードで検索したところであの夢の謎が解けるはずが無い。
 別のアプローチでの検索……どうすれば、あの赤い枝について調べられるのだろう?

 少し考えて、あ……と気が付く。
 そうか、見たまま検索しても良いんだ。

 画像検索と言う手があった。

 俺は早速大手検索サイトに『赤い枝』と打ち込んで、画像検索項目を押した。
 案の定、無関係な画像が膨大に表示され苦笑する。

 その殆どは自然やアート作品である。
 それでも丁寧に、綿密に探っていくと、一枚の近似した画像に辿り着いた。

 それはピンク色をしていて、色こそ大分違うものの、艶といい曲がり具合といい、確かにそれは夢で見た『アレ』そのものだった。
 夢で見たそれは――多分『珊瑚の枝』だ。そうとしか考えられないくらい、よく似ていた。

(珊瑚……)

 俺は思わず息を呑んで、左手の薬指にはまる指輪を見た。
 指輪で禍々しく紅い光沢を放つ血珊瑚を凝視した。

 とりあえず一旦手元に集まった情報を並べてみよう。
 俺は最近ずっと同じ夢を見ていた。

 それは随分昔の事のようで、登場人物は三人。女が二人と男が一人と思われる。
 女のどちらかとは恋仲のような雰囲気があった。俺はそう感じた。

 場所は崖のある浜辺の集落?
 次に『赤い枝』の様な物が印象的に出てきていた。

 それを調べたら珊瑚の枝らしい事が判った。
 色からして、もしかしたら血珊瑚かもしれない。

 そして俺の左手にも血珊瑚が付いている。
 今のところ解っているのはこれだけだが、眼に花が咲いている事との関連性は特に見つけられなかった。

 しかし、この血珊瑚に何かあるのは確かなのだろう。

 俺は外れない指輪を撫でながらひたすら考え込んだ。
 だが、今度は急にある一定の事柄より先を考えようとすると頭に靄が掛かったように思考が鈍ってしまう。

 俺はしばらくそれと格闘した末に、その日は考えるのを諦めた。
 仕方ない。

 少々恥ずかしいが、明日からはこの花が見えないようにしっかりガーゼでもつけて出社しよう。
 仕事場からはもう少し休んでいて良いと言われていたが、
家でジッとしているのも何なので出社時間だけずらして出勤する事にした。

 周囲には心配されるだろうが、余計に考えたくない事が増えた今は仕事に逃げたかった。

 ちなみに病院には連絡しない方向で意思は固まっていた。
 眼から花が咲いただけでも面倒くさいのに、これ以上の大事は避けたかった。

 それに多分、医者に掛かっても解決しないような気がしたのだ。

今回はここまで
ストックではラストスパートに入ろうとしています

また更新する日まで、さようなら
また お会いしましょう

更新まで閑話休題でもひとつ。

登場人物のキャラメイクについて。
作中で故人になってしまってる珊瑚ちゃんの話を少しだけしてみようと思います。

彼女を象るにあたって、私は掲示板に貼られている様々なコピペを参考にしました。
それでどういう女性像が男性受けするのか考えた末導き出した答えが、以下になりました。

変わり者だけど適度に自立していて、彼氏に上手く甘える事が出来る、どことなく子供っぽさを残した女性。
見た目は黒髪ロングで、肌は白い。顔つきは目が大きくて笑顔が可愛い良く笑う子。
現代っ子ぽく、家事の練度は嗜み程度に、女性としての仕草の愛らしさが魅力の子。
と言うイメージにしてみました。

自分なりに現代の理想的なアニマ的女性を目指したつもりです。

珊瑚ちゃんは真っ先に居なくなっちゃて、出番無くて何か可愛そうなのでこんな話してみました。

ちなみに名前の由来は 設定では父親が軽くアイドルヲタだったからです
青い珊g……ゲフンゲフン

母親は最初少し抵抗あったみたいですが 自分も嫌いな歌手じゃなかったので結局受け入れちゃったみたいな
作品イメージは赤なんですけどね

新婚旅行が沖縄だったのも……あるかな。(意味深)

ボリュームがあるから少し目を話すと読むのにエネルギーがいるな
それもそれでいいんだがな

>>111
あと少しで終わります
確かにボリュームあるので更新も二日くらい取ってますね
量的にはエルフちゃんとそんなに変わらない量で終わる予定です
今怒涛のラストスパート執筆中……と見せかけて私の悪い癖である、
書きたいけどラストに差し掛かると急にダルくなる症候群に襲われています
ここはコメントがゆっくりなので、そろそろ次作の参考アンケートをとりたいなー
なんて思っていたりもします

あくまで参考です
この作品の感想はもちろん 流したCM2本の内興味ある方
コメントしてもらえると興味傾向を把握しやすくて有難いです

おはようございます。

次作はB希望です。
三連休の方も多いと思うので、私は投下ペースを変えなくてもいいかなと思います。

>>115
コメントありがとうございます 参考にします

今夜あたり更新したいと思います

今日もひとつ閑話休題でも入れてみようかと
やっぱり キャラメイクのおはなしでもしてみようかと
今日は もう予定では出てくる予定の無いと思われる
チョイ役の主人公の先輩っぽい真田さんのおはなし

彼女はポジション的にはおぼっちゃまくんの「通りすがり聞く蔵」さんです
話を自然な状態で簡潔かつスピーディに進めるに当たって 主人公がぶちあたった
疑問を少しだけ手助けするキャラが必要でした
それにちょうど良かったのはやっぱり同じ会社の人間しか居ないと思いました
しかし それをどういうキャラにしようかと思った時 既に職場で腫れモノ状態の主人公に
気軽に話しかけられるような見極めの良さと キャラ立ちの両立を考えたときに
単なる同僚ではダメだし不自然だと思ったんです

そこで考えたのは主人公よりも経験値の高そうな面倒見の良さそうな人
→面倒見が良さそうっていうと女の人じゃないかなという連想的発展でキャラを膨らませていく形に
なっていきます
そして生まれたのが真田さんです
名前はぶっちゃけテキトーです 下の名前も考えていません これは多分主人公もちゃんと把握してないだろうと思って
深く掘り下げませんでした

そして女性としての真田さんですが 彼女もある意味私の中で理想的な女性としてイメージして象ってみました
面倒見のいいキャリアウーマンを文字場で表現するときに どうしたら良いかと考え まずオフィスコードを守った服装を
ビシッと決められるのは当たり前 でもそれだけじゃインパクトや説得力にかけるので 使い勝手の悪いおしゃれアイテムを
さりげなく自分のファッションに取り入れられられる女子力の高さ フレキシブルさで
彼女の人間としてのレベルの高さを表現してみました
そして 面倒見は良いのに誰のものでは無い部分で大人としての成熟度をさり気無く醸し出してみました
性格は誰にでも平等で コンサバティヴ でも 怒るときは怒るし 普段優しい分起こったらきっと怖い気がします
そんな女性です

やべっ……読み返したら出演前のキャラのはなししてた……。orz

ちょうど次で出てきます

すみません
今回早めに投下します

 電話の音が鳴り響くオフィスで、今日も俺は仕事に没頭していた。
 右目に生えた花を隠す大きなガーゼの眼帯。

 最初こそ明らかに心配そうにする人は何人か居たが、黙々と出勤し続けていたら幾日か経つ頃には誰も何も言わなくなった。
 多分本当は今でも心配されているのだろうが、きっと腫れ物的に触れられないでいるのだろう。

 俺を少しでも知る者にとって俺は色々なモノを抱えすぎている人間となってしまった。
 当然もう、俺を軽い気持ちで飲みに誘う人間も居ない。

 昼休みになっても話し掛ける人間も皆無となった。
 会社での会話は業務連絡のみ。

 でも俺はそれで良いと思っている。
 下手に深入りされるよりはずっと良い。

 変に理解を示そうとされて付きまとわれても困るだけだ。
 だから俺は今の状況は寂しくもないし、嫌いではなかった。

「おい……事業部の九川の奴、前にも増して仕事の鬼って感じらしいぞ……あいつのお陰であの部所の人間全員残業無しで帰れるようになったらしいじゃん。噂だけど……」
「へえ、ある意味羨ましいなそれ……俺なんか定時で帰れる事、稀だぞ? うちにも九川一人くらい欲しいな。……そこまで働けちゃってるならもしかしてこのまま昇進しちゃう系?」

「お前不謹慎! 昇進? いやぁ、理由的にそれは無いだろ~……確かにスゲェ業績らしいけど、頑張ってる理由が理由だけに、昇進させても、急に正気に返って燃え尽きたりとかしたら悲惨だし」
「まあ、確かにそうだな。本当、散々だと思うよ。他人事ながら……」

「しっ! 九川が通るぞ」

 一息吐こうと思ってトイレに行く途中、廊下のあちこちから視線を感じたり話し声が聞こえた。
 だが俺が通ると声は潜められるところを見ると話題は俺の事なのだろう。

 当然の事ながら、他部所の人間にまで俺の噂は広がっているらしい。
 でも俺はもうどうでも良かった。気にするのも面倒臭い。

 もう、どうにでもしてくれ。
 さっさとトイレを済まして席に戻ると、机の上にお菓子の箱が幾つか置いてあった。
 名前が書いてないので立ったまま周囲を見回すと何人かが頭を隠したので、黙ってお辞儀をして席に着いた。

(本当、みんなに心配させてばっかりだな……俺は……)

 みんなの優しさに思わず泣きそうになるがぐっと堪えてパソコンに向かい直した。

 さて、話は戻って眼から生えた花の件に関してだが。
 あれからまた、夢は見なくなった。

 いや、正確は記憶に残らなくなったというのが正解だろう。
 証拠はある。

 朝の不快感と、涙の跡だ。
 だが、花が咲いてからはただの不快感というより悲しみで目を覚ます事が多くなった。

 何かを失った悲しみ、やるせない悲しみ、行き場の無い感情の渦。
 そういったものが毎朝目覚めの時に涙と共に胸に溢れていた。

 珊瑚を失った時の悲しみとは、また別種の悲しみだと思った。
 俺は一体寝ている間にどんな夢を見ているのだろう?

 ちなみに花は咲いてから暫く経つが、枯れる様子も無く、右目から瑞々しく咲き誇ったままだ。
 会社で通うためにガーゼで抑えたりするが、そのくらいで特にへたれる様子も無い。

 この花が現実にも存在する花なのか調べようともしてみたが、見た事も無い花なのでどう調べても良いか分からず、休みの日にパソコンや図書館で片っ端から調べているが、
今のところ類似した見た目の花すら見当たらない状況だ。
 何だか全てがどん詰まり、と言った感じでうんざりする。

 しかし、このままずっと放置しておくわけにもいかないので、せめて花の名前だけでも突き止めたいところだが、
この世には存在しない花という可能性も否めないので、謎の花をいつまで目に生やしたままにしなくてはいけないのか? と言う不安も抱えたままになっている。
 まだ、珊瑚を失った悲しみからも立ち直っていないのに、全く散々だ。

 そして俺は家に帰ると現実から逃れるように冷えたビールを一気に煽った。
 でかい眼帯をつけたまま居酒屋とかには行けないので、もうずっと一人で晩酌をする日が続いている。

 酒のつまみとかは特に無い。たまに用意する日もあるが。
 基本的にはただ酔って、少しでも心の痛みが和らげば良い……それだけで酒を飲んでいた。

 そしてしこたま飲み明かした後、俺はやっとスーツを脱ぎ捨ててシャワーを軽く浴びると、残った体力で寝巻きに着替えて布団に潜り込むのだ。

 最近眠るのが怖い。
 朝が来るのが怖い。
 俺の知らない世界が寝ている間に広がっているのが怖い。

 この謎の花を隠し通して生活していかなくてはいけないのが辛い。
 そして何より、珊瑚が居ないこの世界が辛い。

 珊瑚、珊瑚。
 俺はどうすれば良い?

 こんな謎の物体を目から生やしたまま一人でどう生きていけば良い?
 お願いだ。そばに来て抱きしめてくれ。
 どうして傍に居ないんだ? どうして居なくなってしまったんだ?

 珊瑚、珊瑚。
 会いたい。

 そんな事を考えている内に俺は泣きながら眠りに就いた。
 不思議な事に花に塞がれた眼も、涙を流すのだ。

……――潮騒の音が寄せては返し、それを聞きながら俺は砂浜を走っていた。何か約束があるようだ。
 すると女の子の声が聞こえてきて、声を探るように浜辺の岩をよじ登る。

『姉様やめたげてよー、かわいそうだよー』

『良いじゃない。可愛いし』

 二人の和服の幼い少女の後ろ姿が見えて、声を掛ける。

――どうしたんだ、お前ら。

『あ、*****様!』

『*****様!』

 俺の声に反応して振り返った二人が、俺の姿を見てパァっと笑う。

『見て見て、*****様! ほら、これ!』
 細っこい女の子が岩壁を指差す。
 しかしその様子を少し太めの女の子が咎めるような顔で見る。

『だから、姉様ダメだって! お花いじめたらお花が痛いって思うよぅ?』

『でも綺麗だし良いじゃない! それより*****様! これを見て!』

 俺は細っこい女の子に促されて岩壁を見ると、岩壁を削って作られたあの祠があり、兎地蔵が真っ赤な花に塗れていた。

――それは……。
 兎地蔵を飾っていたのは、俺の目に生えている花にとても良く似ていた。

『うーさぎのお目目は真っ赤っかー! キャハハハハ!』

『もう、姉様ー! お花も可哀想だし、*****様にいたずらしたらバチが当たるよ? 姉様が隠してるおねしょもみつかっちゃうんだから!』

『ちょっと、*****様の前でなんてこと言うのよ!』
 細っこい女の子が太めの女の子に掴みかかる。

――お前達やめろよ。俺は喧嘩する奴は嫌いだぞ!
 俺がそう言うと細っこい女の子は拳を振り上げたものの渋々腕を下ろして、太めの女の子を恨めしそうに見詰めた。

 その背後で兎地蔵に飾られた花が一つ落ちた。

 花は何ヶ所にも飾られていたが、両目に飾られた内の、左目からポトリと一つ。
 右目だけ花が残った兎地蔵の姿は、丸で俺の目から生えているかのようだった――……

「九川君、珍しくボーっとしてるね」
「うおっ?!」

 急に声をかけられ、俺は身体をびくつかせる。
 確かに考え込んでいてパソコンのキーボードを叩く手も止まっていた。

 声をかけてきたのは同課のベテランOLの真田さん。
 スタイリッシュな緑の太縁眼鏡と言う難しいアイテムを使いこなす、さり気無くオシャレなお姉さんだ。

 今日もオフィスコードの派手すぎないブラウスとミニスカートとストッキングが品良く決まっている。
 ちなみに気配りも出来て面倒見も良く、異性は勿論同性の同僚受けも良い。

 なのにアラサーでまだ未婚なのが不思議なくらいだ。
 急に声を掛けられたのもあるが、そもそも仕事中に声を掛けられた事自体凄く久しぶりだ。
 ずっと腫れ物扱いを受けている俺に対してこんな自然に声を掛けて来るとは、流石真田さん。

「最近根を詰めてるみたいなのは知ってるけど、今日はまた、違った感じだね。何か変化でもあった?」
 鋭い。俺が問題の糸口を僅かだが見つけて、その件について思わず考え込んでいたところだった。

 今までなら「何でもありません」と機械的に答えて、コミュニケーション自体をシャットアウトしていたところだが、
今朝の気持ちの変化と真田さんのタイミングの良さもあって、俺はついつい訊ねてしまった。

「いやぁ、大した事は無いんですけど、友達が兎の地蔵ってあるのか? とか急に訊いてきたものだからつい考え込んじゃって。俺、そんなの聞いた事も見た事もないから……」

しまった、一段抜かした
すみません
読みづらくなります
夢のところから

「紅い、花……」
 目覚める時、花の事だけを妙に憶えたまま覚醒する。

 他の細かい事はあやふやだが、確かに夢で俺の右目に生える花を見た事だけは憶えていた。
 久々の記憶のある夢だった。

 そして、悲しくもなかった。
 その代わり郷愁じみた感情と確信めいたものが生まれていた。

(この花はきっと存在する!)
 ただの謎の花では無い。そう判っただけでも俺の心は少し軽くなった。

 後、他に何か思い出せる事はないのか?
 懸命に記憶を手繰る。

 そして、祠の事を何となく思い出した。
 ハッキリと見るのはあの時含めて二回目だから。

 たしかあそこに飾ってあったのは、兎の地蔵?
 俺は生まれてこのかた兎の地蔵など見た事は無かったが、
何度も夢に見るくらいなのだ、これももしかしたら実際に存在するという可能性は大いにある。

 きっと手がかりになるかもしれない。
 ちょっと調べてみようと思う。

 後は……矢張り花の種類だな。
 存在すると判れば、自信持って探せる。
 俺は気持ちを持ち直すと、意気揚々と出勤の準備に入った。

「九川君、珍しくボーっとしてるね」
「うおっ?!」

 急に声をかけられ、俺は身体をびくつかせる。
 確かに考え込んでいてパソコンのキーボードを叩く手も止まっていた。

 声をかけてきたのは同課のベテランOLの真田さん。
 スタイリッシュな緑の太縁眼鏡と言う難しいアイテムを使いこなす、さり気無くオシャレなお姉さんだ。

 今日もオフィスコードの派手すぎないブラウスとミニスカートとストッキングが品良く決まっている。
 ちなみに気配りも出来て面倒見も良く、異性は勿論同性の同僚受けも良い。

 なのにアラサーでまだ未婚なのが不思議なくらいだ。
 急に声を掛けられたのもあるが、そもそも仕事中に声を掛けられた事自体凄く久しぶりだ。
 ずっと腫れ物扱いを受けている俺に対してこんな自然に声を掛けて来るとは、流石真田さん。

「最近根を詰めてるみたいなのは知ってるけど、今日はまた、違った感じだね。何か変化でもあった?」
 鋭い。俺が問題の糸口を僅かだが見つけて、その件について思わず考え込んでいたところだった。

 今までなら「何でもありません」と機械的に答えて、コミュニケーション自体をシャットアウトしていたところだが、
今朝の気持ちの変化と真田さんのタイミングの良さもあって、俺はついつい訊ねてしまった。

「いやぁ、大した事は無いんですけど、友達が兎の地蔵ってあるのか? とか急に訊いてきたものだからつい考え込んじゃって。俺、そんなの聞いた事も見た事もないから……」

「兎の地蔵?」

「ええ、海沿いで見かけたそうで」
 俺もよく言う。もう何ヶ月も友達らしい友達なんかと話してなんかいないのに。

 でも、夢で見た何て言えるはずもないので咄嗟にそう言ってしまった。
 それを聞いて真田さんは顎に手を当てて暫し考え込み。

「それって住吉様じゃない?」
 と、答えた。

「すみよし様?」

「うん。海の守り神みたいなやつ。住吉神社っていうのもあって、神の使いって書いて神使(しんし)が兎なのよ。狛犬が兎になったと思えば解りやすいかも。何で住吉神社の神使が兎なのかは忘れたけど、海で兎って言えば因幡の白兎くらいしかあたしはわからないわねーあははー。あ、休み時間終わっちゃう。じゃあ、またね」
 そう言って真田さんは去って行った。
 彼女が去って行った後、俺は彼女の言葉を反芻する。

“住吉様”……本来なら初めて聞く名前だが、何だか懐かしい響きを持ってい俺の中に響いた。
 花の前にその“住吉様”から調べた方が早い気がしてきた。

 俺は帰宅するなりパソコンを立ち上げると、検索で“住吉様”を調べ始める。
 するとこんな記述が出てきた。

 大元は住吉大社とか住吉神社という所らしい。
 これは住吉大社からの引用だが、

 ご祭神の由来
 ※ご祭神とは神社に祀られている神様のことです

 住吉大神御神影
 「日本書紀」や「古事記」の神代の巻での言い伝え

 伊邪那岐命 (いざなぎのみこと) は、火神の出産で亡くなられた妻・伊邪那美命 (いざなみのみこと) を追い求め、黄泉の国(死者の世界)に行きますが、妻を連れて戻ってくるという望みを達することができず、逆にケガレを受けてしまいます。
 そケガレを清めるために海に入って禊祓いしたとき、住吉大神である底筒男命 (そこつつのおのみこと) 、中筒男命 (なかつつのおのみこと) 、表筒男命 (うわつつのおのみこと) が生まれました。

 御鎮座の由緒
 第十四代仲哀天皇の妃である神功皇后 (じんぐうこうごう) の新羅遠征(三韓遠征)と深い関わりを持っております。

 神功皇后は、住吉大神のお力をいただき、たちまち強大な新羅を平定せられ、無事ご帰還を果たされます。この凱旋の途中、住吉大神のお告げによって、この住吉の地に祀られることになりました。                           
 *御鎮座とは、神さまの土地を定めて、お祀りすることです。

(中略)

 海港安全の神様
 住吉大神は海中よりご出現されたため、海の神としての信仰があり、古くから航海関係者や漁民の間で、霊験あらたかな神として崇敬されてきました。
 奈良時代、遣唐使の派遣の際には、必ず海上の無事を祈りました。

「住吉に斎く祝(はふり)が神言と行くとも来とも船は早けん」(万葉集)と詠まれるこの歌は、住吉  大神の言葉として、
遣唐使に対し無事の帰還を約束した神のお告げを伝えたものです。

このような海上安全の守護としての信仰は、江戸時代、海上輸送が盛んになるとともに、運送船業の関係者の間にも広がり、
現在境内にある約600基の石燈籠の多くは、運送船業の関係者から奉納されたものです。

(後略)

 中々古くから崇め奉られている神社のようだ。
 神使としての兎に関しての記述は以下のような感じ。

「(住吉大社と兎) 兎(卯)は当社の御鎮座(創建)が神功皇后摂政十一年(211)辛卯(かのとう)年の卯月の卯日である御縁により奉納されたものです」

 そしてHPのいたる所に兎の置物の写真が貼ってあった。
 なるほど。だから兎地蔵があそこに置いてあったのか。海だから“住吉様”という事か。

 しかしそういう守護神を置くぐらいだからただの浜ではないのかもしれない。
 事故が多いとか……でも記述から考えて普通に地元の漁とかの安全を願って置いていただけかもしれない。
 一通り“住吉様”を解き明かしたところで俺は身体を伸ばす様に腕を頭の後ろに組んで椅子の背に背中を預けた。

(兎は兎でも、因幡の白兎全く関係なかったな……)
 こうして謎がひとつ解けて、謎がひとつ増えた。

 住吉様の知識を得る事は出来たが、俺の目に花が咲いた事との因果関係は未だ謎だからだ。
でも、夢にはこの花と一緒に住吉様は出てきていた。
 もし仮だが……強引にこの2つを結び付けるとすれば、夢に出て来る人間誰かの感情や想いからくる怨念めいた非科学的な回答である。

(怨念って……まるで幽霊が存在してるとでも言わんばかりだな……珊瑚じゃあるまいし)
 しかし、現実的に考えれば俺の目には花が生え、見覚えの無い記憶を延々見せ続けられている。

 普通に考えればこれを非科学的と言わずして何と言おうか? 
 でもそれが俺に現実現象として起きているんだ。
 珊瑚が生きていればきっとキャーキャー言って興奮するのだろうが、肝心の彼女は非現実な世界の住人になってしまっている。

(どうせ夢に見るなら、珊瑚との楽しい思い出なら良いのに……)

「あーーーーもう!」
 何だか思考がグチャグチャしてきたのでビールを開ける事にした。

 花――住吉様――二人の女――男――海――紅い珊瑚の枝。

 そして俺の右目の花。これは夢にも出てきた花だった。
 ビールを飲みながらいつの間にか鮮明になってきたパズルのピースを脳内でかき混ぜる。

 一番最初よりは何となく核心に近づいてきてるような気がするのは気のせいだろうか?
 でも、矢張りいまいち決定打に欠けている。

 もう少し情報が欲しい。

 せめて、何故俺があの夢を見続けさせられているのかくらいは教えて欲しい。
 そして俺が夢を見る時は何故、あの『男』視点なのか?

(見る夢全部を憶えていられたなら、もっと話は早いんだけどなぁ)
 記憶に残る部分がいつも断片的過ぎて話にならないんだ。

「ん……」
 気が付けばビールの500ml缶は空になっていた。

 視線をガラステーブルに移すと、手に持ってるので3本目。
 そろそろ潮時かな。これ以上飲むと膀胱が朝に破裂する。

 いい歳して寝ションベンというのも恥ずかしいからこれぐらいにしておこうか。

――*****様にいたずらしたらバチが当たるよ? 姉様が隠してるおねしょもみつかっちゃうんだから!

 不意に小さな女の子の声が脳裏に響く。
 そして夢の断片が一部だが鮮明に蘇る。

 *****様。*****様。*****様……ああ、そうか……きっとあれは住吉様って言っていたんだな。

 そうだ、探そう。
 あの浜を探そう。

 住吉様の祠がある、あの浜を見つけ出せばまた何か手がかりが出てくるに違いない。

(時間は掛かるが、こうやって一つずつ手掛りを手繰って行けば、俺の右目から花を取り除く手段もきっと見付かるはずだ!)
 俺はそう心に決めると、何だか酔いがさめた気がして、バシっと気合いを入れ直すように両手で頬を叩いた。

「よし!」
 そして小さくガッツポーズを決めた。

今回はここまでです
何か いろいろミスしちゃってすみませんでした

次回またよろしくお願いします!

>>138
有難うございます

 俺は直ぐに珊瑚が写った花目岬のデータをコンビニで印刷できる形式に直すと、雑だが左手に灰色のハンカチを巻いて
コンビニに行って、一番大きなサイズの写真に現像する。
 本当はDTPショップに出した方がもっと鮮明なんだろうけど、今日はもう店に行くには遅くて朝を待ちきれなかった。

 機械にお金を入れて、データ挿入口にフラッシュメモリを差し込み、データが読み込まれるまでの僅かな時間も、
今の俺にとっては悠久の時間にさえ感じた。
 そして漸くコピー機から吐き出されてきた写真を手にし、あの紅い花がちゃんと写っているかを確認する。

(よし、ちゃんと写ってる! 細かい花弁の様子も、葉も、クッキリしている!)
 本来なら写っているはずの無い物が写りこんでいる時点で、
ちゃんと現像できるか不安だったので、出来上がった写真を手にホッとする。

 今まではこの右目を誰かに見せる事が出来ずに一人で調べていたが、
この写真があれば花屋にでも何処にでも自然に見せに行ける。
 こんなものがあるって判っていたなら、もっと早くカメラのデータを見てたのだが。

 まあ知らなかったし、そもそもこんなものは本当に最初はデータに無かったのだから、
気付けという方が無理だろう。
 そもそもあそこまで気が弱っていなければカメラのデータを開く事すら無かっただろう。

 本当に皮肉なものだ。

(それにしてもこれ、何ていう花なんだろう? あっ……家に帰らないと……)
 眼帯付けて手にハンカチを巻いた姿のままでは目立ちすぎる。

 俺はそそくさと自宅に帰ると壁掛時計で時間を確認する。
 時間はもう夜の8時半を回ろうとしていた。

 これはダメだと思った。時間によってはギリギリでも良いから花屋でも探して駆け込もうと思っていたが、
あの手の店は大体早ければ6時、遅くても8時前には閉まってしまう。
 折角急いで現像してきたが、結局明日まで活動を待たなくてはいけないようだ。

 俺は思わず舌打ちすると、現像してきた写真をガラステーブルの上にフラッシュメモリと一緒に置いてソファに腰掛けた。
 早く明日にならないだろうか。

 そして何処かに持ち込んで花の種類だけでも特定したい。
 しかしそこで肝心の花屋の場所を一切調べていない事に気が付く。

 持ち込もうにも場所が判らないのでは意味が無い。
 そう思い立つと直ぐにパソコンで花屋を何件かピックアップする。

 普通に生活しているだけでは、意外とそういう専門店には縁が無いものだ。
 珊瑚の墓参りに使っている花は我ながら杜撰にもスーパーマーケットで買っているので、
こうやって調べるまで一件も最寄りの店を知らなかった。

 というか、最近のスーパーマーケットが発達しすぎてるような気もしないでもない。
 単なる菊だけじゃないそこそこ見栄えの良い花束が何種類も生花コーナーに並んでいるので、
それですっかり満足していた。

 きっと珊瑚が生きていたら、こんな俺を見て「女心がわかってない!」と頬を膨らませていたに違いない。
 次から墓参り用の花はちゃんと花屋で買おう。

 店を検索しながらさりげなくそう心に決めた。

 次の日、俺は服装と右目のガーゼと左手の包帯を丁寧に整えると、
花屋の開店時間に合わせて家を出た。

 自宅のマンションから徒歩で行けるのは3軒。
 近い場所から訪ねて行こうと思う。

「いらっしゃいませー」
 一番最初に来たのは土地の狭い都会らしい住宅街に雑じる様に佇む、
気をつけないと見落としてしまいそうな幅三間ほどの小さな花屋だった。

「すみません、ちょっといいですか?」
 俺を見るなり真っ先に挨拶をしてくれた店員のお姉さんに、少し緊張気味に声を掛ける。

「はい、何でしょうか?」

「ちょっと花の名前を調べているのですが、これ……判りますか?」
 そう言って例の写真を店員に渡す。

「この、花ですか?」

「はい」
 彼女は写真を受け取ると、「うーん」と首を傾げる。

「この赤い花ですよね?」

「はい」

「えっとぉ……何か見た事あるんですけど……なんだったかしら……?」
 どうやら彼女には岩を這う紅い花の事はよく判らないらしく、困った様に写真と俺をチラチラと交互に見ている。

「もしかして判りませんか?」
 そう、軽くフォローを入れてみると彼女はホッとしたように返事をする。

「あ、はい! すみません。うちは店が小さくて、売れ筋の切り花しか仕入れてないので、
植えるタイプの花には弱くて……お役に立てずすみません」
 そう言って写真を返してきた。

「そうですか。分かりました……お仕事中失礼しました」
 俺は返された写真を受け取ると、肩を落として店を後にする。

 背中の方で「またいらっしゃってくださいねー」とお決まりの挨拶が聞こえたが、
俺は気にしなかった。

 次2軒目。
 今度はホームセンター内の花屋だった。

 日曜大工とかは今まで興味なかったので、最近は
花屋まで中に入ってるなんて昨日検索するまで知りもしなかった。
 ホームセンターという場所に来る事自体、親父に付いて行った高校以来の気がする。

 少なくとも自立してからは来ていない。
 入居する時の家具類は家具屋でほとんど揃えたし、大抵の物はネット注文で済ませられるからだ。

 親父とは何を買いに行ったのかさえ憶えていないくらいだ。
 とりあえず店内に入ると、生花コーナーを探す。
 ここならさっきの店より品数はあるだろう。

 そう思って店内を歩き回って目的の場所に到達する。
 案の定、そこには切花から鉢植えまで様々な植物が取り揃えてあった。

 これだけあればこんな花の一つくらいはあるに違いない。
 そう思って探し始めるが……?

(ええと、サンセベリア、幸福の木? こっちはスプレーカラーのカーネーション? ひまわり……うわ、
なんだこりゃ、こんな紫陽花もあるのか? っていうか紫陽花の季節はとっくに過ぎてるだろ)
 俺は墓参りの花をスーパーマーケットで調達する男。

 ただ見て回るだけでは俺にとってさっぱり訳の解らない世界が実質数メートル四方に広がっていた。
 このままでは埒があかないのでコーナーの店員と思われる女性を捕まえて声をかける。

「すみません!」
 花のコーナーってやっぱり女の職場なのだろうか。さっきの店も女が一人居るだけだった。
 俺の声に反応して店員が満面の笑顔で振り返る。

「はい、何でしょうか」

「あの、こういう花……探してるんですけど……」
 そう言って写真を差し出す。
 店員は写真を受け取ると、ポカンとした顔を一瞬してやっぱり唸る。

(もしかしてここでもわからないのか? この花はそんなにマイナーな花なのか?)

「あー。うちでは取り扱いはないですけど、見た事はありますね。日本の花ですよねこれ」

「えっ、判るんですか?」
 予想外の回答に俺は思わず色めき立つ。

「判るっていうか、うちでは取り扱ってないけど、個人的に見た事あるって感じで……」

「それで、何て言う名前なんですか?」

「何だったかしら? うちって店の性質的におまけで花も置いてるだけだから、鉢植えも売れ筋しか仕入れてないから、
ええと……隣の家のおばさんのプランターに生えているリビングストーンデイジーにも似てるけど、ちょっと違う感じよね。この写真の花の方が葉は細いし、
同じビビットカラーでもこんな単調なカラーリングじゃないし……ごめんなさい。やっぱりわからないわ。期待させちゃってすみません」

 そう言って写真を返されてしまった。

「そうですか……」
 俺は再び肩を落として写真を受け取る。

 (ここも駄目だったか……となると、あと一件)
 俺はホームセンターを離れて市街地の外れにある、古びた花屋を訪れていた。

(ここは建物はもあるが、どちらかというと民家? しかも裏手の方に随分木が生えているんだな)
 キョロキョロと店の周りを見ていると、よく見ればそこは花屋の文字は無く、造園事務所と書いてあった。

 おかしいな。地図上は花屋のマークが書いてあるのに……。
 ネットの情報も正確でも万能でも無いということだろうか。
 とりあえず造園事務所の周辺をウロウロしていると、一台の2tトラックらしき車がやってきて、俺を見つけて作業着姿の中年男性が声を掛けてくる。

「お兄さん、もしかしてウチに何か御用ですか?」

「あ、どうも……もしかして、造園事務所の方ですか?」

「そうだけど、何かウチに依頼でも?」

「依頼というか、調べモノなんですけど……」
 俺がそう言うと、男は「とりあえず車仕舞うから待っててもらえますか?」
と言って車ごと敷地内に入っていった。
 それから2~3分程待っていると、車に乗っていた男が戻ってくる。

「それで、御用は何でしょうか」

「実はこの花を探してるんですけど……」

「花?」
 男は写真を受け取り怪訝そうに眺める。

「急にお伺いして申し訳ないのですが、ご存知ですか?」

「あー。確かに見覚えはあるな。けどウチは木が専門だから鉢物の名前にはちょっと疎いんだよね。でもこの花を取り扱ってる業者は知ってるから、良かったら紹介しようか?」
 男の申し出に俺は迷わず頷く。

「お願いします!」
 最後の最後でやっと手掛かりに辿り着けた! 俺は気分が高揚するのを感じた。

 そして造園事務所の男にこの花を取り扱ってるという和物の鉢植え業者の所在地を教えて貰い、
一旦帰宅する事にした。

 何故ならこの業者の事務所があるのは
少々電車やバスを乗り継がないと行けない場所にあったからだ。
 あの男から所在地を聞き出した時点で時間は既に昼をとっくに過ぎていた。

 紹介してもらった場所に行くには遅すぎる時間だし、アポイントメントも取らなくてはいけない。
 少々もどかしいが、一旦準備のためにも帰宅は避けられなかった。

 帰宅して食事や風呂などを一通り済ませると、やっとひと心地着けた気がした。
 花の名前を調べるアテも付いたし、もう一度情報整理してみようと思う。

 場所は住吉様が祀られる浜辺で、夢にはいつも女が二人と男が一人が出てくる。
 そして全員赤い珊瑚の枝を持っていて、ああそういえば
幼女時代と思われる二人があの紅い花で住吉様を飾っていたっけ。
 それで――浜の近くには崖が……あれ?

(崖……?)
 咄嗟に珊瑚の写る写真を手に取ると、動揺で呼吸を乱れさせながら写真を眺める。
 紅い花で埋め尽くされた珊瑚の足元。彼女の立つ場所は何処だった?

――花芽岬。

 自殺名所の『崖』である。
 そして花芽岬の伝承は何だった?

“ 言い伝えによると、昔美人と醜女の姉妹がいて、妹である醜女の妹に村一番の伊達男がなぜか惚れ込んでしまい、
それに嫉妬した美人の姉が策に策を重ねて略奪してしまったらしい。

 それに怒り狂った醜女の妹はこの岬から姉を突き落として殺してしまい、姉の死体が見つかった時は
狙いすましたかのように彼女自慢の美しい目鼻を鋭い岩が貫いていたそうだ。

 それ以降何故かこの岬では自殺者が絶えず、殺された姉が誘っているのでは?
と、言われている。 ”

 女が二人と男が一人じゃないか。
 やっと、ようやっと気が付く。

 何でこんな単純な事に気が付かなかったのだろう?
 夢の登場人物と夢の断片を照らし合わせると、花芽岬の伝承に物凄く近似しているじゃないか!

(まだ夢では伝承と繋がるような核心部分は見ていないが、俺に異変が起こったのは花芽岬の事故の後……!)
 いや、核心部分は見ていなくても、夢に出てきた花が本来写っていないはずの
花芽岬に写っているってだけでもう、関連してるって言ってるようなものだ。

 花芽岬とこの花にどういう関係があるって言うんだ?
 ふと、ホームセンターの女性店員の言った花の名前を思い出す。

「リビングストーンデイジー……」
 この花そのものじゃなくても、参考にはなるかもしれない。

 俺は急いでパソコンで画像検索をする。
 すると確かに色は全く違うが、右目に咲いている物によく似た花がたくさん表示された。

(インターネットの検索は結構曖昧に設定されているから、もしかしたら曖昧検索的に実物出てくるんじゃないのか?)
 そう思ってそのままゆっくりと画面をスクロールさせていくと、一枚だけ葉っぱの形が違う画像が混じっていた。

 なんだろう。リビングストーンデイジーの葉は肉厚で平たく丸いが、その写真の葉は肉厚なのは一緒だが異様に細く、
珊瑚の足元に生えている花の葉を彷彿とさせた。
 クリックしてサイトに飛ぶと、見覚えのある花が説明書きと共に表示された。

「これは――……」
 オレンジ色だったが、まさに俺が探し求めていた花がそこにあった。

――マツバギク
 南アフリカの砂漠などが原産の常緑宿根草です。日本には明治の初めに渡来し、
観賞用として栽培されています。

 花径5~6㎝で交雑種も出回り、赤、ピンク、黄、白、藤、橙と豊富な花色で、
細長い葉を密につけて地面を這うように広がります――……

 マツバギク。初めて知る、俺の目に咲く花の名前。
 これが珊瑚の足元に咲き乱れる花の正体……。

 興奮のあまり俺は立ち上がって椅子を倒してしまう。
 すぐに椅子を直して座り直す。

(ああ、やっとたどり着いた……やっとここまで来た。そうか、これはマツバギクっていうのか……)
 思わず目頭が熱くなる。この花の名前一つ知るのにどれだけの時間と苦労が掛かったか。

 でもやっと、やっとたどり着いた。
 そして、バラバラだったパズルのピースが少しずつはまっていくのも感じた。

 どうやら俺に起きている異変は花芽岬に由来するモノの様だ。
 ほぼ間違い無いと考えて良いだろう。

(これはもう一度花芽岬に行かなくちゃいけないな。そして真実を確かめよう。花芽岬を調べれば俺が夢を見せられてる意味も、
珊瑚の枝の事も、目に花が生えてしまった意味もきっと判るはずだ)
 もしかしたら珊瑚と俺が海に落ちて俺だけ生き残ったのも、全て繋がってるのかもしれない。

 でも……だとしたら……珊瑚は本当に“呼ばれて”死んでしまった、ってことになるんだよな……。
 俺と一緒に行ったのが悪かったのか、俺がたまたまあの岬の呪いを被ってしまったのか。

 それは今のところ何とも言えないけれど、俺自身が夢の人物として夢を見せられてるってのも凄く引っ掛かってる。
 兎に角、花芽岬に行こう。

 それしか今は方法は無い……。
 そして俺はどっと疲れた様に早めに眠りに就いた。

 まだ夜の8時くらいだったと思うが、何だかもう限界だった。

今回はここまでです。

また次回お会いしましょう。
それではまた。

こんばんは

 花の名前が判ってから数日後、俺は花芽岬近くにある小さな民宿に宿を取っていた。
 ここは珊瑚が生きている頃も使った宿なので本当は抵抗があったが、『名所』として名は通っていても観光地では無い花芽岬のある
自治体である花芽町には一軒も宿が無く、一番近くて隣町にある今俺が居る場所くらいしか宿を取れる場所が無いのだ。

 正直俺は焦っていた。
 目から花が咲き、そして左手に異常を発見して数日。

 左手の『ソレ』は悪化の一途をたどっていた。
 その変化は著しくも異常で、今となっては写真で見たのとほぼ変わらないマツバギクの葉が手の甲に鈴なりになっていた。

 加えて言えば新たな蕾まで付けており、幾つかはもう咲くのは時間の問題の様に見えた。
 そしてそれは徐々に肩に向かって腕を這い上がる様にその範囲を広げ、既に手首を超えて肘近くまで覆われようとしている。

 丸でホラー映画の特殊メイクだ。
 1本長さ5cm程に成長した葉は触った感じ表面は少々ざらついてはいるが滑らかで、
別名であるサボテンギクの名前そのままに、水分を内に含んだしっかりした感触が摘む指に伝わって来る。

(どんどん酷くなってる……)
 グロテスクに変化した自分の腕を見て俺は不安気に顔を顰める。

 上司には無理やり会社を休まされたが、結果的に良かった。
 これではもう隠し通すのは難しいので出勤自体がもう困難だと言えよう。

 あまりの酷さに深い溜息が出る。
 俺は畳敷きにになっている床に身体を投げ出すように寝転がると、古びた色をした木目の天井を見つめる。

 部屋はとても静かだ。
 前来た時は興奮した珊瑚がひたすら喋りまくっていて、荷物持ちで疲れていた俺は放っておいて欲しいと思いながら

上の空で相槌を打っていたが、今はその声は聞く事は出来ないのだ。
 あの時珊瑚は何を喋っていた?

(全く覚えていない……)
 もう少しちゃんと聞いてあげれば良かった。

 朝早いからってさっさと布団に入らないで、珊瑚の気の済むまで遅くまででも話に付き合ってやれば良かった。
 今更後悔しても遅いが。 

 暫くボンヤリしていると、窓から西日が差し込んでくるのに気が付いた。
 もうこんな時間か。

 明日の予定を立てて、準備をしないと。
 起き上がって荷物からメモ帳を取り出す。
 この民宿から花芽岬までは距離もあり、移動には本数の少ない電車を利用しなくてはならないので事前準備はしっかりしなくてはいけない。

(電車は1時間1本……これの早朝のやつに乗って、大松駅で降りて、資料館は……)
 珊瑚と来た時と同じ予定をおさらいするように立てるが、今回は変更点がある。

 直ぐに花芽岬には向かわず、花芽町の歴史資料館などの施設を巡るのだ。
 夢の情報とあの岬を繋げるためには、圧倒的に情報が足りないので、町の歴史から調べないと意味が無いからだ。

 一応町のHPは見てきたが、町の名前の成り立ちなどの浅い歴史の情報しか無く、あまり参考にはならなかった。

 矢張り本当の情報は自分の足で稼ぐしかないらしい。
 しかしこれでもどこまで判るか分かったものではないので、徒労にならない事を祈るばかりだ。

 現時点で気になる施設は数ヶ所ある。
 花芽岬は勿論、特に気になるのは“花芽町歴史資料館”。

 それと、曹洞宗兎海寺(“とうかいじ”と読むらしい)。寺なのに兎の文字が入っている。何だか住吉様を彷彿とさせる名前だ。
 後、色々調べた結果、曹洞宗の寺というのは歴史が古い事が多いらしいので、
住職に聞いたら何か有益な情報が得られる可能性があるかもしれない気がするのだ。

 他、細かい歴史的な施設や史跡があるので時間の許す限り調べてみたいと思う。
 とりあえずこんなところだろうか。

 そんな事をしていたところで襖をノックされ、慌てて露わにしていた左腕を隠すと、仲居さんが夕食の準備が出来た事を教えてくれた。
 やっぱり食欲はそんなに無かったが、体力を使いそうな日が待っているので頑張って食べる事にした。

 早朝、身支度をしっかり整えた俺は何とか電車を逃さず乗る事が出来、目的地である“花芽町大松駅”のホームに立っていた。
 約一年振りの来訪だ。

 前回は珊瑚と一緒だったのに……と思うと何ともやるせない。
 もう一緒に来れない人間と訪れた場所なんて、本当は来たく無いに決まっているが、状況が状況なだけにそんな事も言ってられない。

 無人駅の切符入れに切符を入れて外に出ると、地図を手に真っ直ぐ先ずは歴史資料館に向かう。
 資料館は駅から歩いて10分程の場所にある、体裁だけで作りましたと言わんばかりのショボイ造りをした小さな建物だった。

(うわぁ……資料館って自治体に一つは置いてあるけど、天下りの塊みたいな感じだな……やる気ゼロすぎ……)
 幸い、入館料は大人子供関係無しに100円程度と非常に安価だった。

 眠たげに微笑む受付の男性に料金を払って中に進む。
 確かにこの施設でこれ以上の金額提示されたら普通に迷わず帰る。

 今の俺でも止めてそのまま寺に行く。
 入館料は形ばかりで、足りない維持費は町が税金で賄っているんだろう。

 きっと滅多に人が訪れないであろう館内は老朽化した外観に反して、古びてはいたが非常に小奇麗だった。
 それを見て、一応税金対策でもやる事はやっているんだなと勝手に納得する。

 ステレオな赤い絨毯と大理石風の壁の通路に沿って並べられたガラスの展示ケースには様々な物が展示されている。

 どうやら入口から古い時代順に並べられているらしく、一番最初に目に入ったのはこの町の遺跡調査で発掘されたらしき品々だった。
 しかし勾玉や銅鐸(どうたく)、鉄製品など比較的時代が新しめの古物から置いてあるあたり、この町の歴史の始まりはそんなに古くはなさそうだ。

 それから室町時代、江戸時代に入っていき、そして俺はある一角で足を止めた。
 思わずそこに目を奪われる。

 そこには『大松屋コーナー』と大きく看板が掲げられてブースが組まれていた。
 俺は咄嗟に解説ボードに目をやる。
 そこには江戸中期から関東大震災まで続いていた大松屋の概要が書いてあった。

“菓子司大松屋

 享保 9年(西暦1724)、第114代中御門天皇(なかみかど)の時代に和菓子屋として開店したこの店は、当時の流行りや最新技法、独自技法を常に取り入れる姿勢が
世間に受けて、あっという間に大松屋の名は周囲の国々に馳せ、行き交う行列の大名達がわざわざ立ち寄るほどの人気店となりました。
 最盛期には“××に来たら大松寄らずば人生の損”とまで謳われ、時には江戸城や朝廷に大松屋の菓子が献上される事もあったそうです。

 そういった背景もあり、力を付けていった大松屋は、幕末には時の動乱をものともしない磐石さを手に入れていました。
 しかし幕末から明治にかけて世継ぎに恵まれず一時は廃店間際まで追い込まれますが、大松屋に従事していた職人達の頑張りによりその苦難を逃れます。

 だが悲しくもそこで江戸から続いてきた大松屋創始者一族の血は途絶え、形を変えて今も我が町に残る『株式会社 大松屋』に創始者の血縁は一人も居ません。
 ここに展示されているのは、関東大震災で建物が崩壊した際に回収されたものを、後に歴史的資料として町へと寄贈されたものです。

 なお、この町唯一の駅である大松駅の名はこの店の名が由来となっております。”
昭和××年×月××日 寄贈 株式会社 大松屋

 解説文を読んだ後、俺は何故は暫く動けなかった。
 それから大きく深呼吸をしてからゆっくりと展示物を見渡す。

 壊れた屋根から回収した意匠を凝らせた?(うだつ)の一部、看板、店名が印字されたボロボロの布や、
住人の持ち物など、拾えるものは何でも拾ってきたかのように展示してあった。
 きっとこのブースは歴史と時代資料両方の側面を持った場所なのだろう。

 一応時代的には幕末から明治初期らしいが。
 関心気に一つ一つ眺める中で、ふとある物に目が止まる。
 江戸時代劇で見るような、男物の簡素な財布だった。

(あれ? これ……なんだか見覚えが……)
 初めて見るはずの『ソレ』が妙に気になった。

……――ザザッ

 一瞬、若い男の手が何かを握り締めているヴィジョンが見えた。
 また、あのザッピングと既視感だ。やっぱりここには何かあるのか?
 しかし俺は思わずよろけてガラスケースに手を付いてしまう。

(やばっ、思いっきり指紋付けちまった!)
 慌てて辺りを見回すが幸い誰も見ていなかった。

 急いでハンカチを取り出して痕跡を消す。
 そして再び見ていると、一枚の写真ボートが飾られているのに気が付いた。

 写真下に貼られた札を見ると『明治初期大松屋一同』と書かれてあった。
 その写真は不鮮明だったが、店主らしき恰幅の良い男を中心に沢山の人が写っていた。
 きっと大松屋経営者家族や従業員達だろう。

 俺がその中でとりわけ目に付いたのは、恰幅の良い店主の男の右隣に居る少女2人と、左隣の少年だった。
 何故かその3人がとても気になった。

 娘2人はどちらも小柄だったが、細い子とその子より太めの子が居て、細い子は現代の目線で見ても可愛い子だと思った。
でも何だか性格がキツそうでもあった。
 太めの子は細い子より遥かに凡庸な顔をしていたが、とても優しそうな子だと思った。

 そして最後に少年。
 少年は真面目をそのまま体現したかのような感じだったが異様に表情が硬かった。

 昔の人は写真は魂を抜き取られるかもしれないと怖がったらしいと聞くからそのせいかと思ったが、その顔は『怯えてる』というより、
『思い詰めている』と言った表現が合うような気がした。
 どうしてそう感じたのかは分からないが、写真越しに少年が目で何かを訴えているような気がして俺は何だか怖くなった。

(あ、そうそう……そういえば、この写真の人間配置図ってどうなってるんだ?)
 そこに気がついて辺りを見回すも、それを解説するようなものは特に見当たらなかった。

 資料館のくせに肝心なところで杜撰だ。
 それとも地元ではそんなものがなくても誰が誰とかは常識的に知ってるから必要がなくて用意してないのかもしれない。
 俺は試しに館内唯一の係員である受付係員を呼んで訊ねてみる事にした。

「あの、この写真の人達って誰がどうなってるのか判りますか? 興味あるんですけど」
 すると受付係員は、ああ……といった表情をしてスラスラと解説してみせた。

「そういえば解説資料とか置いてないですからね。あまり人が来ないのでこうやって訊かれたら答えてるんですよ。……真ん中が、
当時の店主“大松屋新蔵”、右に居る女の子2人が娘の“さん”と“さと”です。細い子が『さん』、もう1人が『さと』です」
 さん……さと……。

「じゃあ、この男の子は?」
 例の左隣の男の子を指差すも、それは流石に係員は考え込むように押し黙ってしまう。

「……誰でしょう? この頃の大松屋に男児は生まれていませんから多分、従業員の1人だと思いますが、
位置的にただの従業員では無いとは思います。従業員名簿や日誌を解析したら判る事もあるかもしれませんが、
それができるほどの専門家を雇う程のお金は町にないのでそれらの品は展示だけになってますね……私に分かるのはここまでですが、よろしいですか?」

「わかりました。ありがとうございます」
 そう答えると係員は受付に戻って行った。

 係員の解説で納得する。やっぱりある程度は町の常識だったか。
 でも手抜きするなよ……こうやって偶には人が地方から来るんだから。

 何とも言えない中途半端感に肩を落とす。
 でもこれでここではこれ以上の情報は手に入らないということは……あ、まだあった。
 俺は『アレ』の事に気が付くと、帰りがてら受付の男にまた訊ねる。

「そうそう、最後に聞きたいんですけど、この町に住吉様ってありますか?」

「住吉様? ああー……あれでしょうかね? うさぎの置物じゃないですか?」

「そうです」

「それなら近くに寺がありますので、そこに行ってください。ここらへんでうさぎの住吉様って言ったら、あの寺の置物の事ですから」
 男はそう、あっけらかんと答えた。

(寺? 寺なのか? 住吉様って神社の神様なのに?)
 彼の返事に俺は疑問符をいっぱい浮かべながらも、寺の名前を聞けばそこは俺が行こうと思っていた
『兎海寺』だったので、男にお礼を言ってその足で寺に向かう事にした。

『曹洞宗兎海寺』は意外と大きな寺だった。
 小さな町の寺だからそれなりだろうと思っていたが、立派な花崗岩の柱に寺名が彫られた門が構えてある、広い敷地を持った格式の高そうな寺だった。

 しかし、見渡す限り今のところ視認出来る人影は無かった。
 取り敢えずきれいに掃除された滑らかな石畳や白っぽい砂利の上をウロウロしてみる。

 すると、幾つかある建物の中から窓が閉じられた寺務所らしき場所を見つけたので、そっちに向かってみる。
 行ってみると引き戸の玄関らしきものが付いていたので、多分住職の住み込み住居にもなっているのでは?

 と思って玄関の前に立ってみた。
 しかし立ってはみたものの、いきなり声を掛けて良いものだろうか?

 アポイントメントは取っていない。
 と言うか、連絡先が判らない。

 今すぐにでも地図で住所を調べてそこから電話番号を……。
 などと色々やっていたら、その玄関がガラガラと開いて

 頭にタオルを巻いた作務衣の男が現れて俺の姿に軽く驚いた仕草をする。
 俺もいきなり戸が開いて吃驚する。

「うおっ……」
 2人でそんな声にもならない声を漏らして固まり合う。

「こ、こんにちは……」

「こんにちは……」
 お互い気まずそうに頭を下げ合う。

 タオルを被った作務衣の男は見た目30代前半くらいの若い男だった。
 少し間を置いて俺は思い切って訊ねてみる。

「あの、あなたはこの寺の方ですよね……?」

「はあ、まあ……そうですが……ウチに何か御用ですか?」
 男は自分は寺田だと名乗ってきたので自分も自己紹介をした。

 彼はこの(やっぱり)寺務所に住み込みで寺の雑務をやっているらしい。
 しかしだからといって彼はまだ住職では無く修業中の身で、
詳しい役職は一般の人には難しいから普通に寺の小僧だと思ってくれれば良いと言って笑った。

(さいですか……て言うか、寺に住む寺田さん……なんだか出来過ぎてるような気も……)
 そんな事を思っている横で寺田さんがふと俺の右目の眼帯と左腕の包帯を注視する。

「あの、その右目と左腕……間違ってたら申し訳ないんですけど、変なモノ憑いてませんか?」

「!!」
 俺は彼の予想外の指摘にギョッとする。

(いきなり本題?! てっ寺生まれ……?!)
 どうする。ここは正直に答えるべきか? でもこんなおぞましいモノ、指摘されたからといって簡単に見せていいのだろうか?
 一気に脂汗が溢れ出るが、黙って突っ立っていると寺田さんが勝手に俺の左手を掴んで包帯を解き始めた。

「あっ……ちょ……っ」
 心の準備が全然出来て……。
 そう思ってる間に解かれた包帯の下から真っ赤なマツバギクの花が咲き乱れる
異形の腕が露わになり、寺田さんは厳しい表情でそれを見詰めた。

「右眼も見ますね」
 眼帯も外され、右目の花も見られてしまう。
 突然の事に頭が混乱して言葉が出ない。

「あ、ああ……あう……」

「……これのせいですか? こんな辺鄙な町にある、うちの寺に来たのは」
 寺田さんの硬い声に俺は諦めたように頷く。

「お話、聞かせてもらえますよね?」
 こうして有無を言わさぬ空気を放つ寺田さんに促されるように、俺は寺務所の中へと通された。

今回はここまでです。

またお会いしましょう。

こんばんは。

「信様ーー!」
 波打ち際でさとと遊ぶさんが砂浜に座る俺に向かって手を振ってきたので、俺も小さく微笑んで形ばかり振り返した。

 つい一、二年前まで二人に混じって遊んでいた俺だが、年頃の自分を感じるようになってからは
強く誘われない限りは二人を見守るだけにするようになった。
 さんとさとはまだ無邪気に遊んでいるが、俺と彼女達の間には徐々に溝が出来て来ている。

 彼女達はもう、自分達が異性と気軽につるめる存在では無い事に気が付いているのだろうか?
 さとの方は薄々気が付いているような気配を感じる。

 さんが俺を遊びに誘うと嬉しそうな反面、どこか表情を曇らせる。
 もしかしたら、もう許嫁の話でも聞かされているのかもしれない。

 さとはとても利発で堅実家だ。
 あの二人を見ていると、どっちが姉か妹か判らなくなってくる時があるくらいだ。

 二人は正反対で気も合わないはずなのに、いつも一緒にいる。
 多分さとがさんが心配で付いて回っている様な気がする。

(さんは一人にしたら何をしでかすか分からないからな……)
 そんな事を考えながらはしゃぐ二人を見ていると、遊び飽きたのか二人が浜に上がってきた。
 俺から見れば上等な生地で出来た着物を着ているはずなのだが、どちらもすっかりずぶ濡れだ。

「楽しかったか?」
 そう声をかけると、さんは満面の笑みで、さとは気恥ずかしそうにはにかんで頷いた。

「あの、信様……」
 手拭いで手足を吹いているさんの横でさとが話しかけてくる。
 いつもはさんから話しかけてくる方が多いのに、さとから先に話し掛けてくるとは珍しい。

「何だ?」

「妾達身体が濡れてしまったので屋敷に帰るのですが、良かったら信様も一緒にいらっしゃいませんか? お見せしたいものがあるんです」

「見せたいもの?」
 そう言ってクスリと微笑むさと。だがその様子を見てさんが悔しげに叫んだ。

「あーーーーさと、それ我から誘うつもりだったんに!」

「姉様忙しそうだったから。どっちにしても誘う予定だったんだから良いではないですか」

「むーー!」
 さんが地団駄を踏む。
 いつも控えめなさとが、さん相手に会話の主導権を握っている。こんな積極的なさとを見るのも珍しい。

「では、姉様も準備が出来たようですし、参りましょうか」
 さとは頬をふくらませるさんを涼しい顔でやりすごすと、
俺ら三人はさんとさとの家である大松屋へと向かった。

 店舗になっている正面は客の出入りが激しいので、遊び帰りの俺達は
大松屋の店舗横にある路地に入り、勝手口から屋敷の中に入った。
 すると女中がやって来ると、ずぶ濡れのふたりを見て溜息を吐いた。

「あー! お嬢様方、またそのベベさきたまま海行きなはったんか。あんなぁ、何度も言うてはりますけど、水辺に遊びに行かはる時は、
かすりとか濡らして良えモノにして下さい言うてますやろぉ。……もぉう、手入れするのもタダじゃないんですえ? 取り敢えず
先に着替えしてきたって下さい。脱ぎはったら着物はいつも通り脱衣所に。あ、信之介様、良くいらしはりました~。
お嬢様方が着替えて来はるまでお茶でも飲んでも待ちくださいやす」

 さんとさとは女中に促されるまま屋敷の奥に消えてゆき、俺は京訛りの彼女に案内されて客間に通された。

(いつ来ても立派な客間だな。広いのはウチも一緒だが、畳がいつも新しいのが凄い……)
 一体どんな頻度で交換しているのだろう? 香しい井草の香りに俺は目を細めた。

 悔しいが、今のウチには傷んだ畳一枚交換する金も無い。 少しでもお金があれば食費などの生活費に回る。
しかしそのお金さえもギリギリで、日々をやっと凌いでいる状態だ。

 間も無く五尺(150cm)はある客間の机の上に、
芳しい緑茶の入った湯呑が置かれた。

「どうぞ」
 そう差し出される湯呑も傍から見るとただの白い湯呑だが、
中を覗くと見事な金箔入りの意匠が施されていた。

 ウチにも昔はこう言う食器があったらしいが、全部質に入れてしまったと言っていた。
 とことん落差を思い知らされる。

(ああ……本当、元旗本が聞いて呆れるな……)
 思わず自嘲気味に笑うと、暖かな茶を口に含んだ。

 そしてその味に唸る。
 全く、良い茶葉を使っている……。

 番茶を七回は煮出すウチとは大違いだ。

 お茶が急須ごと置かれていたのでチビチビと飲んでいると、
衣装直しを終えたさんとさとが客間にやってきた。

「見て見て信様。先日作った新しい着物。余所行きを作らないか勧められたけど、
我は普段遣いの方を選んでみたのだが」
 そう言ってさんは赤地のちりめんで出来た着物の袖を掴んでクルリと一周してみせる。
 彼女の白い肌に赤い色は本当によく映えていた。

「中々良いじゃないか。でも、それで海には入るなよ? 折角のちりめんが台無しになる」

「流石にこの着物ではそんな遊びはしない! 父様に叱られてしまうからな」
 叱られるからしない……さんらしい言葉だと思っって苦笑する。

「妾はお店の人に、珍しい小千谷縮(オジヤチヂミ)を勧められたので、これに」
 次にさとが生成り色に茶の縦縞の入った着物で現れる。
 さとも、彼女の柔らかな顔立ちに良く似合った良い着物を着ていると俺は思った。

「ほお、可愛い色を選んだな。さんが赤で、さとが生成りか。紅白姉妹で目出度いな」

「あ、本当じゃ。お互い好きに選んだつもりだったのに、そう考えるとまるで揃いじゃの」

「そうですね姉様」
 そう言って二人は微笑み合った。

 こうやって普通に仲良くしている二人を見ていると、こっちも嬉しくなってくる。
 と、着物のお披露目が終わったところでさんがにっこり笑って俺の前に正座する。

「ん? どうしたんだ? 随分ニコニコとして……」

「えへへ。今日は信様に珍しいお菓子を振る舞いたくて屋敷にお誘いしたの」

「珍しい菓子?」

「ねえ、さと」
 さんの言葉にさともニコニコと頷く。

「一体、何だって言うんだ?」
 俺は訳が分からず、二人に尋ねる。するとさんが誇らしげに答えた。

「実は、貿易が前より自由にできるようになって、横浜に伴天連(バテレン)の菓子職人達がやってきたから、
ウチでも一人雇ってみたのじゃ。近々店にも品を出すから、その試食を信様にしてもらおうと思って、な」

「ば、伴天連の菓子職人? そんなの、簡単に雇えるものなのか?」

「いや? かなりの競争率だったが、うちが一番高い給金を提示して勝ち取ってきた。設備は一度に大量に作れるものを
用意したから、伴天連職人の給金を出してもちゃんと利が出るように父様が準備しておった」
 その説明を聞き、流石天下の大松屋だと思った。

 昔から時代の先取りの上手さや、腕利きの職人達に支えられて大きくなってきただけある。
 ここら辺で働く菓子職人にとって、大松屋で働くのは職人として腕を認められたも同然だからな。

「たえー。たえ。信様にあれを……」
 さんが女中に合図する。

 すると、黄色い塊の載った小皿を載せた盆を持って女中のたえがやってくる。

『ソレ』の匂いは、襖を開けた瞬間にフワリと香ってきた。
 いつも俺達が口にしている菓子とは全く別種の匂いだ。何というか、乳臭い?
 目の前に黄色いフワフワしたどら焼型の塊が置かれ、俺はさんとさとの方を見る。

「信様。これは、『けいく』と言う菓子だそうです」
 さとが説明してくれる。

「“けいく”?」
 初めて聞く菓子の名に俺は関心げにその『けいく』を眺めた。

「食べてみてくだされ」
 さんに促されて、恐る恐る手に取ってみる。
 それはとてもフワフワしていて、ちょっと力を入れたら握り潰してしまいそうだと思った。

「ん、随分ボロボロろする菓子なのだな。少し食べにくい……それとこの香り、
牛の乳とか油みたいな匂いがする。醍醐(牛乳を煮詰めたもの)かもしれない」

「大体合っております。この菓子は、牛の乳と、その乳の上澄みの油(バター)と、
鶏卵、小麦粉、砂糖で出来ていると聞きました。さ、先ずはお食べ下さい」
 促されるまま口にして、食べ慣れずに咽る。

「牛の乳と油、小麦粉を使った菓子……ほう、はむっ! ぐ、ゲホッゲゴッ……! 粉が、喉っ……に!」

「あら、大丈夫? さ、お茶を」
 さんから茶を貰って一気に飲む。

「ぷはー! 苦しかった。ちょっと一度に食べ過ぎた。これは少しずつ食べた方が
良さそうだな。それにしても甘い! こんな甘い菓子、初めて食べた……」
 俺は食べかけの『けいく』を眺めて目を白黒させる。

「作るところを見ましたが、白い砂糖をこれでもかと入れておりました。
この菓子には和三盆(和菓子の材料に使う高級な砂糖の一種)は風味が合わないので使わないそうで」

「我もびっくりしたぞ。しかも見た事のない道具をたくさん使っておった。
けいくを作るために、日の本では使わない特殊な釜まで必要でな、専用の部屋まで用意した」

 そう言って二人は顔を見合わせる。
 この豪商大松屋の娘である彼女達でも驚くような設備が用意されたのかと思うと、恐ろしいな。

「へえ、世界は広いのだな。知らない事が沢山ある。でも、けいくは悪くない。嫌いじゃないぞ。甘いし、乳臭いが、
それがまた変わっていて良いと思う……ただ、食べ方は気を付けないとな」

 咽せた時の事を思い出し苦笑する。
 俺の反応に二人は釣られる様に笑った。

「ねえ信様。折角だから、伴天連の菓子職人紹介しようかの? 我々とは全く違う顔付きをしているのだぞ」

「伴天連の職人……」
 確かに、興味あるかもしれない。

「たえ、彼をここに」

「分かりました」
 さんの指示でたえが退室し、間も無く戻ってきた。

 するとそこには、見た事も無い白い職人衣装(古典的なパティシエ衣装)を纏った、
金色がかった茶色い髪に青みがかった灰色の目をした男が現れた。
 頭には烏帽子にも似た白くて長い被り物を付けている。あれも衣装の一環なのだろうか?

 顔の彫りはとても深く、小さな頃に見かけた戎夷(エミシ/アイヌ人)の行商人に少し似ていると思った。

「彼の名前はレオナルドと言う。仲良くしてやって欲しい」
 レオナルドはニコリと笑うと、手を差し出してきた。
 これは握手だが、欧米式の握手を知らない俺はポカンとしながら彼を見上げた。

「ハロー? グーテンモルゲン?」
 レオナルドが英語と今で言うドイツ語で挨拶してくるが、この場に居る人間誰一人アメリカも英語の存在もよく知らない。

 当然ドイツなどはもっと知らない。そもそもこの時点ではドイツは建国していない時期である。
(時間軸:東フランク/プロイセン/廃藩置県直前)

 因みにレオナルドはゲルマン系で、アメリカには乳児の時に移住したので移民としては一世か二世か微妙な立場だった。

「え、はろ? ぐーて? さと、彼は何と言っているんだ?」

「ちょっと、何で我でなくさとに訊くのじゃ!」

「いや、何となく」
 さんよりさとの方がまともに回答してくれそうだったので、とは言えなかった。

「“はろぅ”とは彼の国の言葉で『こんにちは』だそうです。彼が日の本の言葉を憶えるまでは
翻訳者兼指導員が付きますから、困ったらその人に聞いて下され」

「ふむ、伴天連の国の『こんにちは』か……」
 俺は改めてレオナルドを見詰め直すと、ぎこちなく微笑んで「はろぅ?」と話しかけてみた。

 するとレオナルドはとても嬉しそうに俺の肩を抱いて喜んだ。
 男同士で抱き合うなんて滅多にしないので少し驚いた。伴天連は触れ合いが好きな人種の様だ。

 その後、レオナルド専属翻訳者の男性の紹介も受けて皆で楽しく色々と雑談した後、俺は日暮れの気配を感じて帰る事にした。
 今夜も夕飯の準備がある。

 そして屋敷に帰ると、出入り打ちからウチの剣術道場に通う門下生が三人程擦れ違いに出てくるのが見えた。
 彼らは俺の姿を見つけると、気安く挨拶をしてきた。

「よっ! 今日も元気そうだな。お前には急な話かもしれないが、
我等は今日でこの道場を失礼させて貰う事になった。いろいろ大変だろうけど、頑張れよ」

「じゃあな」
「またな」
 そう言って三人はそそくさと去っていった。

(え、道場を失礼するって……辞めるって事か?!)
 俺は駆け足で屋敷の中に入ると、土間のところで父上が渋面で座り込んでいるのを見つけた。

「父上、山下先輩達は!」

「……これからの生活のために始める新しい家業の手伝いをするから
辞めるそうだ。それに、もう幕府も無いのに剣の修行はもうそんなにしなくても良いだろうとさ……」
 言いにくそうに父は俯いたままそう言った。

「そんな……刀は侍の命だっていうのに! その修行を怠ると?」

「時代がもう違うのだ。今は明治だ。幕府ではなく皇(スメラギ)が治める世になった。我らにはもう……守るべき主君は居ないのだから、山下達の言う事も一理ある。
……後に残る門下生は、後三人……だったか。これから益々キツくなるな。これはもういっそ道場自体閉めた方が良いかもしれない。そして屋敷は売りに出そう。
そして長屋に移れば屋敷を売った金と内職で我ら二人でも充分暮らしていける。この屋敷は造りが良いから、それなりの値段で売れるだろう」
 そんな諦め混じりの父の言葉に俺は言葉を失った。

 この人はどこまでやせ我慢を続けるつもりだろうか?
 父上は、俺との生活を守るために……先祖代々から受け継ぐ家まで手放そうとまでしている。

(俺が、俺が父の食い扶持を減らしているのに、何も出来無い……!)
 途轍もない無力感が俺を襲う。

 何か、今の自分に出来る事は何か無いだろうか?
 思い当たらない……丁稚にも職人修行にも行けず、大人の仕事にも就けない。

 今ほど自分の中途半端な年齢を呪った事は無い。
 俺は悔しくて悔しくてその場で涙を零した。

 その時、いつもなら『男なら涙一つ流すな』と叱責する父が
何も言わず泣いている俺を戸惑った眼差しで見ていた。
 そしてその晩、寝る前にこっそり文を書いた。

 父が頼るまいと三行半を突きつけた母上宛に。

今回はここまでです。
ではまた。

こんばんは
お待ちいただいた様で
恐縮です

やっと本題に入れました

祝(ことほぎ)と厄(わざわい)は隣り合わせでございます

 とある秋口、俺は元服を迎える事になった。
 元服は大人入りの第一歩。

 ともなれば祝いの席だが、実家の屋敷は道場ごと母の実家の事業である絹糸の生産工房・工場に改装してしまったので祝いの席を開く場所が無い。
 しかしどこか代わりの場所を借りるには近所に手頃な場所も無い。

 あるにはあるが賃料が高く、絹糸取引でやっと回り始めたばかりの資金繰りでは厳しかった。
 それで困った、どうしようかと新蔵に暇を貰った合間に昼間親子で話をしていると、屋敷の戸を叩く者があった。

「御免下さい」
 女子の声だ。しかも聴き慣れた……。

「はい、ただ今ー!」
 俺が玄関を開けると、さとが立っていた。

「今日は、信之介さん……」
 やっと呼びなれた呼び名で俺を呼んで微笑むさと。

「これは、さとお嬢様。急に我が家に何用でしょうか?」
 さとが来たと聞いて父と母も慌てて玄関までやってくる。

「これは、さと様。ご機嫌よろしゅうございます」

「いつも愚息がお世話になっております」
 そう言って頭を下げる二人。

「いえ、そんなに畏まらないでください。確かに信之介さんは当家の使用人にはなりましたが、
私と皆様は幼き頃からの馴染み。そのような大層な者ではございませぬ」
 さとの言葉に両親は「いえいえ」と言いながら頭を上げながら俺の傍らに立ち直した。

「で、どのようなご要件でしょうか」
 俺が改めて訊くと、さとは少々はにかみながら。

「あの、もう直ぐ……信之介さんの元服でございましたよね? その件に付いて父様から伝言を預かってきたのです」

「新蔵様から? 一体、何でしょうか」

「ふふ……元服のお祝いをするなら、当家の屋敷を使われてはいかがかと、申しておりました。
今現在、この信之介さんの実家の屋敷は工房になっていて場所が無いだろうし、時代の変化のせいで信之介さんが
当家の使用人になったとは言え、昔馴染みなのは変わらないから私達にも祝わせて欲しい、それにあたって
祝いの場には当家の広間をお使いください、と申しておりました。私も、姉も、家族皆同じ意見です。如何でしょうか?」
 彼女はそう言って俺達親子の顔を笑顔で見回した。

「新蔵殿が……そんな事を……」
 さとの言葉に父上が神妙な表情でそう呟くと、母上の顔をチラリと見た。

 母上は息を呑んで小さく頷く。
 俺は親達が妙に緊張して目配せし合う意味、そもそも目配せし合っているとは気付かず、単に降って湧いたような好意に驚いているのだと思った。
 そして母上が言った。

「そのお話、お受けします。今、二人でお礼の準備をしてまいりますので、
さと様は少々お待ち頂いても良いですか? 信之介、私達は着替えてきます。
その間さと様のお相手を……私達が戻ってきたら貴方も着替えなさい。さと様と一緒に大松屋まで参ります」

「分かりました、母上」
 俺が返事をすると、父上と母上は屋敷の奥に消えて行った。
 そして玄関口には俺とさとだけ残された。

 さとはずっとニコニコしながら玄関のしきいの外に立っているので、中に招き入れる事にした。

「お嬢様。二人の着替えには少々時間がかかると思われますので、当家のものでよければ粗茶でも如何ですか?」

「あら、妾が屋敷の中に入っても宜しいの?」
 ふと、親達が消えて行った廊下の方に目をやる。

(よし、大丈夫だな)
 俺は『ある事』を確認したのだ。

「ああ、構わん。と言うか、昔はそんな俺の許可など無くてもこの屋敷で一緒に遊んでいただろう」
 親の目が無くなったのを確認して口調を崩すと、さとは少々目を丸くして何かを察した顔をして屋敷に入ってくる。

「では、お言葉に甘えて」

「ここの土間で良いか? そこに腰掛けると良い。この屋敷は今、
殆どが工房に改装されていて、下手に人を上げる方が何だか失礼な雑多な場所しか残って無いから」
 湯を沸かすために竈に火をくべながら玄関続きの土間にある、上がりにさとを誘う。

 旗本時代は竈はちゃんと別の場所にあったのだが、改装にあたって場所が無いので今は一般の町民の家の様に玄関の土間に移したのだ。
 さとが上がりにちょこんと座るのを背中で感じる。

「……信之介さんから、気軽に話しかけて下さるのは……とても久し振りな気がします」
 ふとそんな言葉を投げかけられ、俺は竈を弄る手を止めて振り向く。

「そうか? あー……かもしれないな。大松屋ではちゃんとした使用人たろうと務めているからな」

「ええ、とても頑張ってますわよね。二人きりの時でも妾から言わないとずっとお嬢様ーお嬢様ーって、使用人口調のまま。
妾は、実はとても寂しかったのですよ? ついこの間まで名前で呼んでくれていた方が、謙って(へりくだって)喋っているのは……
何だか信之介さんを遠くに感じていました。私は信之介さん、って前よりも親しく呼んでいるのに。鬼ごっこみたい」
 そう言って、さとは俯いて寂しげに溜息を吐いた。

「それが使用人の立場というモノだから仕方無い。正直、大松屋では『さん』も付けなくて良いのだがな。でも、鬼ごっこか……
確かに、名前で呼んでいた幼馴染を『お嬢様』と呼んでいる俺も、実はそれに近い感情を抱いていたりする」

「えっ……」
 俺の告白にさとが顔を上げる。

「何というか、大松屋で働き始めた時は必死だったから細かい事は考えていなかったが、長く勤めるに連れて頭が冷えて行って……
お前達が天上の存在になってしまったかの様な気分にさえなった。幕府時代、無邪気に走り回っていた我等が、明治という世になって
この様な関係になるとは、誰が想像できようか」

「……ですわね。でも、妾は信之介さんと一緒に暮らせてとっても嬉しいのじゃ! 形はどうであれ、妾は……妾は……幼き頃から信之介さんと一緒に住む事を夢見ておりました!」

「ああ、俺も思った事がある。そうしたら毎日いつでも……」
――遊んでいられるのに。
 と、言おうとしたところで声が掛かった。

「信之介、我々は着替え終わったから、お前も着替えて来い。できるだけ早くな。さと様を余り待たせてはいけない」
 着替え終わった父上からだった。

「あ、はい! それじゃあお嬢様、俺も直ぐ準備してまいりますのでもう少々お待ちください」

「あっ……」
 さとが何か言いたげにしていたが、俺は気付かず屋敷の奥へと駆けて行く。
 そうしたらすれ違った母上に「廊下を走るとははしたない」と叱られてしまった。

 俺達親子はさとと共に大松屋に赴き、新蔵に会うと元服祝いの礼を言い、当日の算段を立てた。
 結果、新蔵がどうしても祝儀を出したいというので、場を借りることに関しては無償、
席の食費などの雑費は新蔵が一割負担してくれる事になった。

 新蔵の寛大な処遇に俺達は重ね重ね礼を言い、屋敷に戻った。
 屋敷に戻って居間に腰を下ろすと、父上が不意に溜息を吐いた。

「どうなさったのですか、父上」
 俺が訊ねると、父上は数瞬間を置いて「いやな……」と口を濁しつつ言葉を続けた。

「お前がもう元服とは、時が経つのは早いと思ってな。幕府が終わった時も驚いたが、一番驚くのはやはり我が子の成長だな、と……」

「本当ですわね。私も乳母と一緒に信之介をあやしていたのがつい昨日の様なのに……
乳母に習って一緒に貴方のおむつも替えたのですよ」
 父上の言葉に母上がクスクスと笑う。

「母上~」
 赤子の頃の話を出されて俺は頬を赤らめた。

「それから明治になって……お前が大松屋で働くと言い出した時は、居ないはずの娘を嫁に出す気分にさえなったな。
あれから数ヶ月、お前の評判は偶に聞こえてくるぞ。良く頑張っているようだな」

「アナタ!」
 不意に母上が父上の袖を引っ張った。

「ん、ああ済まぬ」
 父が母に謝った。一体どうしたんだろう?
 良くは解らないが。俺は苦笑する。

「嫁って……まあ、幕府の時代なら俺が奉公に出る何て考えられなかった事ですしね。でも、俺……大松屋で働く選択をして良かったって思ってます。侍のままでは分からない事が沢山あるんですよ! 
侍が丁稚じゃ使えぬと皆が言っている意味も良く解りました。侍の誇りや矜持も大切ですが、それだけに拘りすぎたり、立場に甘んじていてはいけないんだって、知りましたし、
今そう思って毎日が勉強と思って働いています。とてもやり甲斐がありますよ! あ、昨日話したように頑張って働くと格段上の仕事、良い役職がいただけるようになるのが嬉しいです。
まだ入ったばかりなのに先輩達優しくて、若輩者の俺を小突く事もありませんし、凄く楽しいです!」

 世間に出て働くという事を知った俺は、侍では味わえない労働の魅力にすっかり魅せられていた。
 嬉しそうに喋る俺を、父と母は優しい眼差しで見つめていた。

「そうか、それは良かった。俺も内職に手を染めた時にお前の様な感性を持っていたら、
もっと違う気分で仕事が出来たかも知れぬ。俺は落ちぶれた気持ちで一杯だった。お前の言葉を聞いていると自分が恥ずかしくなる」

「だったら、意地を張らずにわたくしにさっさと甘えていれば良かったではないですか」
 父の言葉を聞いて母上が唇を尖らす。

 侍として生活が成り立たなくなった時に、生活が立ち行くまで小作農家を抱えて生活に余裕のある母の実家に甘えるのも
アリではないかと提案して、その案を跳ね除けられた身としては、今の言葉は余りにも面白くない言葉だった。

「それはそれだ。男子がそう簡単に女の脛を……」

「父上……」
 俺はまた意地を張った言葉を吐こうとする父の言葉を遮ると、じっとりと睨んだ。

 母がその案を出した時、子供の俺は話し合いに参加できなかったが、母の案を支持していた。
 侍の誇りは大切だ。
 でも時と場合というモノがあると思う。それを口でははっきり言えぬが眼差しで訴えてみる。

「む、むう……」
 母上と俺に挟まれ、父上は怯んだように押し黙る。
 そして。

「信之介、お前は明日からまた奉公だろう。早く寝なさい」
 と言って話を逸らした。

「はい」
 俺はその言葉に従って居間を出る。
 そしてほくそ笑んだ。

(今夜は母上の小言で眠れぬであろうな、父上は……)
 新しい事業が始まってから父上は母上にすっかり頭が上がらなくなっていた。

 母の提案が全て正しかったことが証明されてしまったからだ。
 父上は良い嫁を持った、と我が親ながら思った。

(俺の元にもああいう良い嫁が来ると良いのだがな)
 そんな事を思いながら、明日の仕事に備えて床に就いた。

 そして迎えた元服の日。
 支度を整えて大松屋まで行くと、一家総出で出迎えられた。
 新蔵様、奥様、さん、さと。

「ようこそ、今日は元服を迎えるに相応しい秋晴れですな、旦那」

「これはこれは新蔵様、広間をお借りできるだけでなく、奥様、
お嬢様まで揃ってお我々を出迎えて下さるとは、恐悦至極、感謝が尽きませぬな」
 父が新蔵に深々と頭を下げる。

「ああ、そんな。頭を上げてください旦那。それにワシを様付けなどしなくても、
幕府の頃と、二人で飲みに行く時の様にして下され」

「しっ新蔵殿……! 子供や嫁の前でその話は……! あっ……」
 新蔵の言葉に慌てる父上。そういえば、この二人も幼馴染だった。

(ああ、今俺はとても血を感じています……!)
 先日さとと交わした会話を思い出して生暖かい気持ちになる。

 この二人も俺達と同じ葛藤とやり取りをしていた様だ。
 娘達も父親達のやり取りを見て笑いを堪えている。
 ちなみに遊びに来た訳では無いのでさんもさとも今は新蔵の後ろに控えており、俺を見てはいるが勝手に話しかけては来ない。

「まあ、取り敢えずお上がりください。話はそれからだね。……信之介くんはワシに付いて来て貰えるかな? 旦那と奥様はそこの女中に付いて行ってくだされ」
 新蔵に促された方を見ると、女中が恭しく(うやうやしく)頭を下げた。
 俺達は急な話にさっぱり訳が分からず、言われるがまま別れて俺は新蔵の後ろを付いて行った。

 そして驚いた。
 ある一室に通されて、新蔵に言われたのだ。

「信之介くん、元服おめでとう。これはワシからのささやかな気持ちだ」
 そう言って指差すと衣紋掛けに立派な紋付が飾られていた。

「こ、これは……!」
 俺は思わず恐る恐る衣紋掛けに寄り、造りや生地を見る。
 幼い頃に家で見かけたような上等な造りをした紋付と袴だった。

「ふふ、当日吃驚させようと思って用意をさせて貰った。大きさは作業着から推定するしか無かったから、合うと良いのだが……そうそう。
旦那と奥様にも同様に晴れ着を用意させて貰った。折角の晴れ舞台だ。晴れ着は親子揃った方が良いだろう」
 本当にびっくりしすぎて頭が真っ白になる。

 昔馴染みとはいえ、いち従業員の元服にこんな立派な物を用意して、良いのだろうか?
 俺は驚きで強ばった顔のまま壊れたカラクリ人形の様に身体を震わせながら新蔵の方を見る。

「こ、こんな凄い物……俺には勿体無いです! それに、俺はここの使用人ですよ? 他の先輩や同僚方に何と説明すれば」
 そう青褪める俺に新蔵はホッホと恰幅の良い身体を揺らしながら笑うと、言った。

「今日の君は使用人では無く、ワシの愛すべき友の息子であり客人だ。ワシ達の関係は他の者も解っておろう。文句を言う奴など居やしない。
だから快く受け取ってはくれないか。それにもう、こうやって出来てしまっている。切った布は元には戻せぬからな」

「新蔵、様……」

「だから今日は君は使用人では無い。様付けもいらない。さ、袖を通したまえ。他の者も着替えを手伝ってやれ」

 こうして、俺はあれよという間に俺は着替えさせられ、広間に連れて行かれた。
 すると同様に立派な着物に着替えさせられて戸惑っている父と母が俺に気が付いた。
 新蔵も一緒なので転がるように寄ってくると、二人で喚く様に礼を言っては、新蔵に窘められていた。

(そりゃ驚きますって。いや、本当に……俺がこんな晴れ着を着て元服を迎えられるなんて、幕府が終わって
明治になった時は想像も付かなかったし、新蔵様の力があってこそ。これはもっと仕事を頑張らねばなるまいな……)
 背中で賑やかしい大人達の声を聞きながら、俺は遠い目で視線を泳がせた。

 それから祝いの席でも驚かせられっぱなしだった。
 新蔵の強い提案で席の費用は前払いさせられていたが、この祝いの席はどう見ても俺の家が出した金では賄いきれない出来事の連続だった。

 食事は勿論、祝いの舞や詩吟、三味線弾きまで呼ばれていて、盛大に祝われた。
 出席者は大松屋一家、俺達家族に加えてお言葉に甘えて類縁も呼んだが、親戚達も落ちぶれたはずの当家が
こんな立派な祝いの席が用意できるとはと、口々に褒め称えていた。
 年嵩の従兄弟達にも祝いの席の後に「この幸せ者め」と笑顔で小突かれた。

(そうだな、俺は幸せ者だ)
 苦しい時もあったが、この時ほど生きていて良かったと思った事はなかったと思う。

 あの時まで……。
 自分の取り返しのつかない失敗に気付くまでは。

 祝いの席を終え、着替えも晴れ着から簡素な物に着替え終わった、夕の事。
 この日は祝いの日なので仕事はしなくて良いと言われたので、俺は時間を持て余して大松屋の屋敷裏にある庭園を訪れていた。

 この庭園はとても手間が掛かっており、四季折々で色々な表情を見せてくれるのでとても気に入っている。
 仕事の休憩の時はこの庭園を望める縁側で時間を潰す事が多いくらいだ。

(今日は本当に良い日だった。一生分の運を使い果たしてしまったやも知れぬ)
 そんな事を考えながらぶらついていると、不意に声かけられた。

「信之介さん……」
 声の主を探すと、屋敷の影からさとが顔を覗かせていた。
 俺は足早にさとの方に行くと訊ねる。

「ん、どうした? ああ、そういえば今日は世話になったな。お前達、と言うか新蔵さんには
本当に感謝している。良い祝いの席を本当に有難う」

「いえ、寧ろ妾が……祝いの席にウチの屋敷を選んでくれた事にお礼が言いたいくらいです。
こんな風に信之介さんの元服を祝えるなんて、妾は本当に幸せものです」

「はは……本来、来賓であるべき人間にもてなして貰った上にそんなお言葉を頂けるなんて……
嬉しいやら情けないやら……」
 照れて頭を掻いていると、さとがフッと微笑んで袖から何かを取り出す。

「信之介さん、これ……憶えていますか?」

「ん? それは……土産に持ってきた珊瑚じゃないか」
 さとの手には使用人として大松屋に入る時に土産に渡した真っ赤な珊瑚が携えられていた。

「先日元服祝いの言伝てを信之介さんのお屋敷に伝えに行った時、話が途中になってしまいましたが……この珊瑚とあの話を合わせて、
信之介さんの気持ちが良く解りました。妾達、今までずっと同じ気持ちを抱えていたのですね……私はてっきり、姉様の方を……でも、
違ったんですね。だから、信之介さんはウチに……」

「え、さんがどうしたって?」
 急に話題にさんの存在が出てきたので聞き返したところで別の声が掛かった。

「さと様ー。さと様。何処にいらっしゃいますか? お父様がお呼びですよー?」
 女中らしき女の声がさとを呼んだ。

「え、あ……はーい! ただいまー! 信之介さん、すみません、父様が呼んでるそうなので
行ってきます。話の続きはまた後で……」
 さとは軽く会釈すると足早に去っていった。

 また話が途中になってしまった。
 さとは一体、俺に何を言いに来たんだろうか?
 そんな事を考えて立ち尽くしていると、再び俺の名を呼ぶ声が聞こえた。

「信之介さん!」

「うおっ?!」
 急に呼ばれて驚きつつ振り向くと、そこにはニコニコ満面の笑顔を浮かべる、さんが立っていた。

「えへへー。見かけたから声かけちゃった」
「ああ、今度はさんか」

「ん、今度はって?」
 俺の言葉に怪訝な表情をするさん。

「今しがた、さとと会話していた。元服の話をしていた」

「ふーん。さととも、ね」

「どうした?」

「別に。元服祝いの言葉を二人きりで伝えるのは我が先にするつもりじゃったから、妹ごときに先を越されてちょっと悔しいだけじゃ」
 そう言ってさんは唇を尖らせた。

「ハハ。姉妹揃って祝いの言葉とは、両手に花だな」

「む、でも良いのじゃ。言葉くらいなら……」

「え? どういう意味だ?」
 さんの意味ありげな言葉に首を傾げていると、さんが身体をもじつかせてはにかみながら、
後ろ手に隠していた『見覚えのある物』を取り出した。

 それは、また真っ赤な珊瑚だった。
 ここで俺の陽気な思考が少し止まる。

「これ、憶えているかの。信之介さんがウチに来た時に我にくれた物じゃ。我だけに……くれた……」
 えっ……?
 今なんて言った?

 とても嫌な予感がするのはなぜだろう。その言葉の先を聞きたくない気がする。
 しかし俺の願いに反して、さんが言葉を続ける。

「幼き頃から我は、信之介さんを好いておった。一人の男子として。だからウチに使用人として来てくれた時は飛び上がる様な、
天にも舞い上がるような気持ちじゃった。でも、その気持ち……信之介さんも一緒だったのだと、この珊瑚を貰った時悟った。
良く伝わった。我の好きな赤い、我の名前そっくりの珊瑚を二人揃いで持とうと言われて……!」

 な、何だって?

(ふ、二人揃い? いやいや、珊瑚はさとにもやったぞ? だからさっきもさとも持っていたし、だから三人……あっ……)
 漸く俺は二人に珊瑚を渡した時の状況を思い出した。

『あの時』もこうやってすれ違いになって二人には別々に渡してはいなかったか?
 そして、『珊瑚は三人で持っているという事』をちゃんと伝えたか?

(――つ、伝えてない。渡しただけで俺が勝手にその気になっていただけだ……)
 そう自覚した瞬間、身体中から血の気がサーッと引いて行くのを感じた。

 俺は、何という失敗を……!
 結果、さんはこの珊瑚を俺からの愛の告白の証と受け取っていて、さとも持っている事を知らず、自分も俺の事が好きだと言っている。

 では、さっきさとが言いかけたのは……さんと同様にこの珊瑚を俺からの愛の告白として理解したと言いたかったのか?
 そう言えば新蔵さんは俺を雇う時に何と言っていた?

――さとと添う男の事を考えていてなぁ。
――使用人相手でも、人の心を縛ることは出来んから、ウチの娘と懇意になったらそれもしょうがないと思っている。

 さとの許嫁候補――あれはその場の言葉面だけだと思っていたが、しかし……そうではなかったら?
 新蔵様は本当に……それにさっきのさとの様子……ああ!!

(そんなさとに俺は珊瑚をあんな形で渡してしまったのか。さんのこの様子からしてさとも同様の勘違いをしてると考えて間違いないだろう……)
 そこに今日の元服。

 妙に手厚すぎると思ったのだ。昔馴染み相手とはいえ、あそこまでもてなすだろうか?
 新着の晴れ着まで用意して。

 世間を知らず鈍い俺でも、今解った。

 新蔵さんは最初から路頭に迷う昔馴染みの窮地を同情し、単純に助くために
俺を雇った訳ではなく、本当に言葉のまま俺を引き寄せたんだ。
 本当に俺なんかをさとの婿として。

(まずい。これはまずい。非常にまずい……)
 俺は全くの考え違いをしていた様だ。

 そして決定付けられた。
 今日の元服のもてなしを受け入れたという事で実質、俺はさとの許嫁を容認したという事になる。

 だって、雇われる時にあれだけ念押しされていたのだから。
 それじゃあ、父上と母上の様子が時々おかしかったのも、元服のもてなしを受け入れたのも、全て解っていて……。

 では、俺だけ蚊帳の外……? いや、理解していると思われていた?
 でもそれだと色々辻褄が――……。

「信之介さん? どうしたのじゃ。ずっと黙って……」
 脳内に一気に流れ込んできた恐ろしい事実に混乱し呆然としていると、さんが顔を覗き込んで来る。

「んあ?! ああ、何でも無い。いや、その……お前が俺の事を好きだとか言うから……」

「照れておったのか?」
 さんがそう言ってからかうように微笑む。

「…………」
 返事が出来ずに俯く。

 状況としては、俺にとっては友達だと思っていた人間二人から突然同時に愛の告白を受け、
更に同時に二人に俺が各自俺から愛の告白をしたと勘違いをさせてしまってる事を知ってしまったというところ。
 もっと言えば、さんには許嫁がいて、俺はさとの許嫁……のはず。

(最悪だ。とんだタラシじゃないか。この俺が……)
 頭痛がする、を飛び越えている。
 どうすれば良いか判らずそのまま黙っていると、さんがまた喋り始める。

「ふふ、信之介さんは昔から本当に奥手じゃのう。この屋敷に来て、告白までしておいて
今までもずっと何もしてこなかったしの。あ、そうそう。我の許嫁の件じゃが、父様を黙らせることに成功したぞ」

「えっ……」
 さんの言葉に思わず顔を上げる。

「あまり煩いから、取り敢えず承諾してやったのじゃ」

「承諾したのか……」
 じゃあ、今の話は気持ちだけは受け取っておくとかそういう話という事か?
 少しホッとするが、それも束の間。

「難題を突きつけてやったわ。職人頭候補ならいくらでもいるから、しっかりと王手かけられるくらいになったら受けても良い、
そのぐらいの相手じゃないと納得出来無い、と言ってやったら、父様はその条件を飲んでくれた。これで少しは時間が稼げる。
その間に我と信之介さん……既成事実を……」

 そう言って、さんは俺のやった珊瑚を握り締めながら鼠を狙う猫の目で俺を見た。

(ああああああああああああああああああああああああああああ)
 矢張りさんは俺の事を思い出にする気は毛頭無く、必ず俺と添えるようにしたい様だ。

 俺にはもう、さとが居るのに。
 いや、そもそも今この瞬間までこの二人とそういう関係になると考えた事などほとんど無かったのだが。

 良き幼馴染と思ってきて、父上と新蔵さんのような仲の良い将来を想像していたはずなのに、
それを飛び越していきなり二股男になってしまった。

(言えない。こんな状態のさんには言えない。さとにも珊瑚をやっていて、それは愛の告白ではなく
三人の友愛のつもりだったなどとは、この状態のさんには言えない!)
 俺は、俺はこれからどうすれば!

「さん」

「何じゃ?」
 名前を呼ぶと、期待に満ちた眼差しが俺を射すくめる。

「話の途中済まないが、便所に行きたい……」

「んもう、こんな時に? 信之介さんは本当に奥手じゃの。女心が解っていたら我慢するものじゃぞ?」

「しかし、もう限界で……」
 本当限界だ。この状況。

「しょうがないのう。行ってまいれ……話の続きはまた後で……ふふ♪」
 そう言って小首を傾げて微笑んだ。

 俺はそんなさんから取り敢えず逃げた。
 そしてそのまま全て投げ出してしまいたかった。でもそんな事は出来るはずはありはしない。

 今のところ、この問題の解決策は思い浮かばない。
 どうやったら誤解が解ける? 少なくともさんからは解かなくてはいけないのは確実だろう。

(一体どうすればいいんだ? でも解らない。解らない……俺の、馬鹿野郎ーーーー!!)
 自分の鈍感さを激しく呪った。頭のおめでたさも。

 元服気分はとっくにどこかに消えていた。
 こうして、俺の伝説的女難地獄の幕は上がったのだった。

今回はここまでです。

軟派という単語から果てしなくかけ離れた彼の人生は
こうして意図せず難破していくのでした

またお会いしましょう

 本当に、後悔する事ばかりだ。
 二人が勘違いしていると判った時点で二人の父親であり、さととの許嫁を進めてきていた
新蔵様なり父上に相談しておけば良かったのだ。
 過ちを犯したら直ぐに報告・連絡・相談。
 大松屋に入ってから女中頭から先輩にまで耳にタコが出来る程言われていた事だったのに。
 俺はそれをしなかった。
 そのせいで俺は引き返す場所を見失ってしまった。
 あれから俺は最初は戸惑っていたが、数ヶ月も経つ頃には平然と二人の間を
行き来出来るようになっていた。

 彼女たちが望むと思われる甘い言葉も、さりげなくどっちとも取れる言葉で言えるよ言うになった。
 まあ、その間に俺とさとの許嫁発表式のような告知のような催しがあったが、
さんには事前報告して「これは新蔵様からのお話で、幼少から懇意にさせてもらっている事もあって
断る理由が見つからなかった。お前にも許嫁はいるし」
と一言伝えたら、不服そうにはしていたが俺とさとの婚約は了承してくれた。
 許嫁は形だけであくまで気持ちは自分にあると解釈したらしい。
 俺も嘘は言っていない。
 こうやって俺は場持たせをしながら少しずつ、少しずつ、大人の術を覚えると同時に自分の足元を泥沼に変えて行っていた。
 ただ、あの時さんに唇を奪われた先だけはしないように気を付けている。
 今は――……。
 今は、さんに要求されても跳ね除け続けられている。
 今後はまたあの時の様に強引に奪われないとも限らないが、今のところ俺はまだ生息子(きむすこ)でいられている。

 それと、さとには俺から接吻した。
 さんと密やかに通じている罪悪感もあるが、さんとはして許嫁であるさとと
そのような行いが一つもないのはおかしいと思ったからだ。
 こういう状態のままさとと関係も一歩進めるのはきっと善く無い事なのだろうが、
何も知らずに俺を好いてくれているさとを愛しく思ったら接吻けていた。
 俺達が許嫁である事が発表されてから1ヶ月くらい経ったあたりだったと思う。
 仕事上がりの夕方の頃、庭園近くの屋敷の影でさんにされた接吻を思い出しながら
そっと抱き締めて接吻けると、さとは暫し呆けた顔をした後……ポロポロと涙を流した。
「信之介さんっ信之介さん! さとは、妾はっ……本当に信之介さんの許嫁なのですね……! 形だけじゃない、
気持ちが通じ合った、夫婦(めおと)になれる許嫁なのですね……!」
 そう言って安堵の涙を零していた。
 常にあらゆる面で秀でたさんの影に隠れて劣等感に苛まれていたさと。
 そのさとが姉を制して競っていた想い人を手に入れられたという喜びも、この涙に含まれているのだろう。

 その姿に俺は酷く心が痛み、何も言えず、黙って抱きしめる事しか出来なかったのを憶えている。
 それからの今である。
 もう接吻はどちらとも普通に行っている。
 どちらとの逢引も密やかなものなので、従業員仲間には
さととの愛の語らいは何時(なんどき)行っているのだ? とからかわれるくらいだ。
 そう言われても、さんの事もあるので許嫁とは言え大っぴらに肩を寄せ合うのは気不味い。
 いや、さんの事が無くとも俺はそういうのはあまりひけらかしたくはない方なので
あまり変わらないかもしれないが、俺が逢引しているのがさとだけでなくさんにも手を出していると知られたらきっとでもなく、
タダでは済まないだろう。
 時々、さんが許嫁になったさととはどう過ごしているのか訊いてくる事があるが、「手を繋いで語らう程度だ」と言ってある。
 これも嘘では無い。

 どちらとも接吻はするが、本当にたまにだし。
 さとは俺と一緒に居る時は良く手を繋ぎたがる。
 理由は良く解らないが、手を繋ぐぐらいで良くて喜んでもらえるならと、
差し出されるままに指を絡め合うのだ。
 それを参考に直ぐに接吻をねだる、さんの手を繋いでみたら……驚く程静かになってしまった。
 それ以降接吻をねだられたらそっと手を繋ぐ事で凌いでいる。
 女にとってこの『手繋ぎ』は何か意味があるのだろうか?
 解らないままその絶大な『効果』に頼り使っている俺は、
これで良いのかいつも迷うが……他の方法が解らないので手を繋ぐ。
 ただ指を絡め合う。
 心を繋がぬまま……戸惑いながら……。
 本当に俺に絡まるのは違うモノだという事だけは知りながら――……。

「え、祝言ですか?」
 二人との二股関係が一年を過ぎた頃、新蔵様からそんなお声がかかった。
 そう、俺とさとの祝言である。
「本来なら長子である、さんが祝言を挙げぬ事にはお前達に祝言を挙げさせてやる事は出来ないのだが、さんは知っての通り
権太(ごんた)か卯兵衛(うへえ)が本当に店を持てるくらいになるまで祝言は上げぬと言い張っているだろう。
これではお前達の祝言も何時になるか判らない。さとももうすぐ十五……だから一足飛びにはなるが、
お前達を先に夫婦(めおと)にしてはと考えているのだ。
まあ、時代も変わったから長子の縛りにとらわれ続ける事も無いかもしれないと思ってな」
 彼の提案に俺は内心頭を抱えた。
 許嫁の内は誤魔化せた事も、本当に夫婦になってしまえば誤魔化せ無い事も色々出てくる。
 ちなみに権太と卯兵衛がさんの許嫁である。

 最初はもう数人いたが、許嫁の話が出てから仕事で目覚しい上達を見せたこの二人が、
現段階でさんの夫候補として絞られた精鋭である。
 世継ぎのさん程になると夫側になる方が必死だ。
(天下の大松屋の世継ぎが嫁で、その夫になる条件が『店を持って然るべき職人である事』だからな。
これが達成されたらとんでもない事になるな……逆玉以上に……しかし……)
 さんがそんな条件を出したのは俺が居るからだ。
 俺以外とは添いたく無くて、でも許嫁の話も断りきれずに出した条件がこの大事だ。
 アイツは後先考えずに感情で喋るから……。
 そう、感情が先走る。何事も。
 だから今の段階でさとと祝言など挙げたら、さんは何をしでかすか判らない。
(自分との関係の暴露か? それが一番困る。きっとやるなら盛大にやるぞ……さんなら……)
 もう一年以上も続けてしまっているこの爛れた関係を世に出されては俺どころか大松屋にまで被害が及ぶだろう。
 さんはきっとそこまで考えてはいまい。

 ただ、自分が不愉快を被った怒った赦せない――そう言う感情だけで騒ぎを起こすだろう。
 原因を作ってしまった俺が思うのも何だが、純粋な娘達の心も守りたいのもあるが俺としては
恩のある新蔵様の大松屋に被害を出したくない。
 でも今思えば一年以上も二股をかけている時点でそんなのも自己保身の転嫁に過ぎなかったのかもしれない。
 事情がややこしくなろうとも、恥を捨てて誰かに相談する時間はいつだってあるのにしてこなかったのだから。
 でもこの時の俺は無意識でも恩義を建前に嘘の上塗り、保身に走った。
「……新蔵様、それは俺としても嬉しい話ですが……矢張りもう少し、さん様達の様子を見られてはいかがでしょうか? 
親である新蔵様が一番よくわかってらっしゃると思いますが、さん様は気性が荒いお方です。こういう話はもっと慎重に……」
「ううむ……それもそうなのがなぁ……。確かに、さんの気性も入れてもう少しよく考えて見た方が良いかもしれん……」

「そうですよ……俺としても勿体無い話ではありますが……」
 どの口が、勿体無いなどと言っているのだろう。
 俺はこの場で二人の事を新蔵様に懺悔したくなった。
 でも結局しなかった。
「そうだな。お前にも気苦労を掛ける……すまない……」
 そして新蔵様は考え込んだ様子のまま俺の前から立ち去っていった。
「…………」
 すまないのは、俺の方ですよ……新蔵様。
 こんなていたらくな俺をさとの婿なんかに選んでしまって……。
(本当に、申し訳……)
 不意な衝撃が背中から襲い、俺の思考は中断された。
 慌てて振り向くと、さんが俺に抱き付いていた。
「信之介ぇ! 我のために良く頑張った!」
「え、ええ?!」

「今、父様(ととさま)とのやりとりを見ておったぞ? 良くぞ言ってくれた! 
良くぞさととの祝言を退けてくれた! 我はとっても嬉しい……!」
 そう言って俺に抱きついたまま、さんは潤んだ目で俺を見詰めてきた。
なお、さんは何時の間にか俺を呼び捨てにするようになっていた。
「さん……どこから話を聞いていたんだ?」
 しまった、見られていた様だ。
「割と最初から」
 あー……。
 俺はまた頭を抱えた。
(余計な問題を避けるつもりでやったのに、また誤解される要素を増やしてしまった。
確かにさんからあの光景を見ればそういう風に受け取れる遣り取りだったな……)

「そうか、見ていたのか。まあ、そういう訳だ……不確定なお前の縁談を利用させてもらった……」
 うん、これも嘘は吐いてない。目論見は違うが。
「うん。うん。……しかし、言い訳をするにも我の気性が荒いとはどう言う意味だ! 
恋人を庇うならもう少し別の言葉選びは出来なかったのか!」
 喜んでいたかと思ったら一気に不機嫌になる、さん。
 今にも殴りかからんばかりだ。
「待て、待て。殺気が凄いぞ?! そういうところが荒いと言うのだ! 
俺は乱暴は嫌いだと言ってるだろう。本当に、もう少し女らしく出来ないのか! 
それにここは屋敷の中……誰の目があるかも判らぬのに俺達が揉めていては余計な憶測や問題を呼ぶぞ!」
 そう言って俺はさんを身体から引き剥がす。
 そして一間(いっけん/1.8m)程距離を取る。
 すると今度はさんからさっきとは打って変わって弱々しい声が漏れる。

「……信之介。我はそんなに女らしくないか? 気が荒いか?」
「さん……?」
 珍しく悲しげに泣きそうな彼女の声に俺は戸惑う。
「確かにいつも、我と接する時……信之介は我に殴るなって言ってくるし、我も良く手を挙げている。
そういう我は嫌いか? 我より明らかに穏やかで優しいさとの方が本当は好みだったり、
許嫁も本当は吝か(やぶさか)ではなかったりするのか?」
「それは……」
 こういう時、何と答えたら良いのだろう。
 この問はかなり繊細なものだ。さんにはずっと誤魔化し続けている事ばかりだ。
 どう言ったらさんのこの追求を逃れられるのだろう?
――取り敢えず、嘘さえ吐かなければ良い。
 本当の嘘だけは駄目だ。
 思ってることをそのまま、言う。

「……俺は、すぐ手を挙げる女子はあまり好ましくないと思っているところがある。さんが嫌いな訳じゃない。
怒鳴られるのもあまり好きじゃない。さんが怒鳴るところも余り見たく無い。
確かにさとが怒鳴ったり手を挙げるところは見た事は無いな」
 俺がそう言うと、さんは目をカッと見開き。
「そうか……」
 と、蚊の鳴くような声で言って俺の前から消えてしまった。
 そしてその日以降、さんは徐々に乱雑な振る舞いを減らしていった。
 俺自身はあの時、さんに投げかけた言葉の事はすっかり忘れ、
妙に大人しくなっていくさんの姿に軽く首を傾げていた。
 俺の言葉を受けて大人しくなってゆく彼女の中で反比例する様に
燃え上がる俺への情など、この時全く察する事は出来なかった。

 とある夏の夜。
 俺はさとと二人で人目を忍んで蛍狩りに出ていた。
 俺たちが住む村は海沿いなので蛍を見るためには内地に向かって暫し歩く必要があったが、
さんが少し前から始めた舞踊の発表会に新蔵様と泊りがけで出掛けていたので、その合間を縫ってさとが
「季節だから二人きりで蛍が見たい」と言っていたのを思い出して誘ったのだ。
 蛍が見れる、塩分を含まない水が流れる川までは片道で約一時(二時間)くらい。
 それも均されていない草むらのある山道を通らなくてはいけない。
 だからさんを見送ると、従業員達に夜釣りに出かけたいと言っておいた。
 釣りは時間がかかるから、往復の時間を使ってもおかしくはない。
だが、さととでかけるのは見え見えだったらしく誰もがニヤつきながら俺の言葉を聞いていた。

「ねぇ、アンタ。どうしたの? さっきから黙ったままで」
 不意にさとに声をかけられてハッとする。
 さんが俺を呼び捨てにするようになったのと同じ頃くらい――許嫁が決まったあたりから、
さとは俺の事を祝言前だというのに時折夫を呼ぶように『アンタ』と呼ぶようになった。
 よっぽど俺との結婚が楽しみらしい。
 こんな俺のどこが良いのか自分ではさっぱりわからないが……。
 しかも俺は二股を掛けるような汚い男なのに。
 でも何も知らないさとは、俺と一緒に居る時、手を繋いで幸せそうにしている。
 微笑んでいる。
 俺はこの微笑みを汚すような行いを現在進行形でしてるというのに。

「…………」
 思わず、夜道を歩きながら握る手に無言で力を込める。
 するとさとが暗がりでも判るくらい頬を染めた。
 正直とても愛らしかった。
 さんは綺麗だが、さとは本当に愛らしいという言葉が似合う娘だと思う。
 姉の美しさに劣等感を感じているようだが、綺麗さだけが女の全てではないと俺は思うのだ。
「……姉様、最近大人しくなりましたね。前みたいに妾にも怒鳴らなくなったし、舞踊の手習いや、
嫌がっていた家事の手伝いもするようになって……
急に変わって別人のようです。何故、なんでしょうね……? 
ただでも顔立ちが美しくて、……妾など足元に及ばなかったのに……
これではますます妾の立つ瀬が無くなってしまいます……」
 ふとそんな話をし始めるさと。
 俺が戸惑うくらいだ。さんの変貌振りに一番戸惑っていたのはさとだったのかもしれない。
 さとはヤンチャな頃のさんの尻拭いに駆けずり回っていたから。

「何を言っているんだ、さと。顔立ちは美しさだけが全てではない。美しいと呼ばれないものが全て醜いと思っているのなら
それは大きな間違いだぞ? さとには名前と通りの敏い頭と愛らしさがあるじゃないか。お前は猫を美しいと思うのか?」
「え、あ……いえ……。猫は美しいとか綺麗とかでは無く、愛らしいモノだと思います……」
「その愛らしい猫はみんなに醜いと煙たがられているか?」
「いいえ、愛されてます……」
「それと一緒だ。確かにさんは美しい顔立ちをしているし、振る舞いも変わってきたかもしれないが、
さんはさんだ。そしてさとはさと。お前の愛らしさがさんのそれで変わったり貶められるという事は無いぞ? 
だからあんまり気に病むな」
 そこまで喋って、思わず「俺もそばにいる」から……と言う言葉だけは飲んでしまった。

 言わない方が無難な気がしてしまった。
 この一年で俺は何も知らなかった幼子の頃のように「俺もそばに居る!」とか
安易に言えなくなり、玉虫色に染まりきっていた。
 慰めの言葉一つ、相手の解釈頼りになるようになっていた。
「そ――そうですね。人は人ですよね。妾は妾……それに妾には信之介さんも居ますし……」
 そう言ってまた、ほんわり微笑んだ。
「う、ん……」
 その純粋な笑みが直視できず、俺は空に浮かぶ猫目月を仰いで視線を逸らした。
 そしてそのまま他愛のない話をしながら歩いていると、間も無く川から水が流れる音が聞こえ、
一匹目の蛍に遭遇した。
 ちゃんと小川に到着すると辺り一面蛍が乱舞しており、俺達から暗闇を奪った。
 光を放つ花びらの様に舞う蛍に囲まれたさとは手に持っていたうちわで戯れ始め、
その姿は言葉にならぬほど愛らしかった。

 その姿を見ながら俺は深く後悔した。
 さっき、不安げに気落ちしたさとに「俺が居るから」と言ってやれなかった臆病な自分に。
 そして未だに悲しませるのが怖くて(?)許嫁を持ちながら関係の精算を出来ずにいる不甲斐無い自分に。
 でももうどこで踏ん切りをつけてしまえば良いのか解らなくなってしまった。
 そう、解らなくて――でも目の前のさとは愛らしくて愛しくて――さんの気持ちも痛いくらいに伝わっては来てて。彼女も愛おしい。
 俺は夜空を照らす蛍に囲まれていたら考えるのに疲れて、思わず足を踏み出していた。

「アンタァ! 蛍が綺麗だよぅ!」
「さと……!」
 そしてさとの着物の袖を引っ張って懐に引き寄せると抱きしめていた。
「アンタ……信之介……さん?!」
 きつくさとを抱きしめると、さとが黙って抱き返してくるのを感じた。
 今それを見ているのは蛍だけ。
 大松屋の誰も傍には居ないし、さんの影に怯える事も無いのだ。
 そして暫くの間俺達は夜陰の中で抱き合い、唇を啄み合い、睦みあった。
 でも、身体を離す時に「この事は誰にも内緒だぞ」と耳元で囁くのは忘れなかった。
 俺は本当に汚くなった。

今回はここまでです
更新に間が空いてすみません!
また続きの時はよろしくお願いします

お久しぶりです!
何とか用意してきました!
ちょっと力尽きました
予定の部分に少し到達できず無念
ですがこれで伏線の回収が進みました!

 それから暫し口元をもごつかせた後。
「権太……権太で良い……」
 まさに苦渋、と言った感じでそう言った。
「権太で良いのだな。もうそれで話を進めるぞ? これからはワシとお前だけの話では
済まなくなるから、もう急に止めたなどとは言えなくなるぞ。その選択で悔いは無いな?」
「ん……」
 新蔵に視線も合わせず俯いたまま頷くさん。
「分かった。それではそのようにさせてもらう……」
 そう言って新蔵は居間を去っていき、俺の目の前を通って行った。
 そして間も無くさんも項垂れつつ立ち上がって居間から出て行こうとする。
(不味い)
 俺は慌てて居間から離れようとするが直ぐにさんに見つかって呼び止められる。
「信之介! 何でこんな所に居るの?」
「えっ……?」
 さんの声に一瞬抱えていた荷物を落としそうになり、抱え直してから恐る恐る振り返ると今までになく青褪めながら自分の着物の袖を掴む彼女の姿があった。
「もしかして、今の話……聞いていたのか?」
 震えた声が問いかける。
「な、何の事だ? 俺はたまたま通りかかっただけだぞ? 何か、あ、あったのか?」
 慌てて素知らぬふりを決め込むも、挙動の不審さは隠せない。
「嘘吐き。さっきから影に居たの、見えていたぞ。信之介は昔から隠れんぼが下手じゃの。……違うから」
「……何がだよ」
「祝言の話」
 その言葉に思わずさんから視線を逸らす。

「何の事だよ」
「違うからね。これは形だけだから。我が頷かなければお前達が確実に祝言を挙げさせられてしまう。本当に心が繋がっているのは我とお前……
なのにお前とさとが結婚するなんて我には耐えられぬ!」
(…………)
 そこで俺に『心無い結婚などさせたくない』と言わずさとと結婚させたくないと言うあたりがさんらしいと俺は思った。
「これは本当に形だけ! 形だけじゃからの!」
 そう苦しげに叫ぶと、さんはバタバタと黙ったままの俺をそのままに逆の方へと消えて行った。
――そうか。何の形であれ、さんは祝言を挙げるのか。
 目の前で会話を聞いて、本人からも話を聞いたのにどこか現実味を感じられぬまま心が靄つく自分が居た。

 それから暫くさんの祝言が決まったと華やいだ空気が屋敷内を包んだ。
――当事者のさんを除いて。
 屋敷の人間は勿論、訪問客に祝われても、浮かべるのは明らかな作り笑顔。
 誰もがそれを感じ取っているが、緊張しているのだろうと苦笑して見なかった振りをする。
 そして相方となる権太さんはと言えば。
 多くの仲間を制してさんの夫の座を手に入れたのだ。さんが憂鬱そうであろうと関係無く機嫌良さげに振舞っている。
 作業場を通りかかるたび権太さんが周りにやっかまれている声が聞こえ、複雑な気分になる。
 そして……。
「姉様、遂に祝言を決めてくださいましたね」
 暇を縫って交わすさととの逢瀬の時にもこの話題が出るようになった。
 さんとは逆にさとは上機嫌だ。
 当然だろう。俺との祝言はさんの祝言の後だとずっと言われてきたのだ。
 さんが祝言を終えたらやっと俺と一緒になれると、さとは胸を弾ませているのだ。
 ここまで、さとは俺がさんとも逢瀬を重ねていた事は知らない。
 何も知らずに姉の祝言を祝い、自分の祝言を楽しみにしているのだ。
 何も知らないのはさとだけ……。
「…………」
 俺が黙って夕焼けを眺めていると、手に温かいものが触れた。
 さとが俺の手を掴んで微笑んでいた。

「アンタ……」
「さと……」
 思わず見つめ合うと指を絡めたまま俺はそのままさとに接吻けていた。
 いつになく絡み合う吐息。さとを抱きしめ直して舌先を掠め合う。
 こんな接吻けはさんともした事は無い。
 何だろう、この昂ぶりは。
 近くの寺の鐘が鳴る音が聞こえて、俺達はやっと接吻けを止めてゆっくり身体を仰け反らせ、
さとの顔を改めて眺めてみる。
(可愛い……)
「さと、俺はお前を好いているぞ……」
 気が付いたらそんな言葉が口から零れていた。
 言ってからハッとする。
 さんの存在を思い出して。
 だが時すでに遅し。さとが口元を押さえて目を潤ませていた。
 そして一言。
「やっと、やっと私の目をちゃんと見て言ってくださいましたね!」
「――っ!」
 さとの言葉に背筋が冷たくなる。
 その瞬間走馬燈のように蘇るさととの逢瀬。俺はいつも後ろめたさを抱えていて、
まともに視線を合わせて会話をした記憶が無い。
(ずっと、気にしていたのか――……)
 させていたのか。
 さとは本当に嬉しそうに微笑んでいる。純粋に。
 俺はその眼差しに耐えられなくなり。
「ごめん、そろそろ時間だ」
「あっ……」
 そう言って振り向かずにさとを置いてその場を後にする。
 俺は、本当に馬鹿野郎だ。

 それから数日、俺はさとともろくに口を利かずに仕事に没頭した。
 勿論さんとも挨拶くらいしかしていない。
 作業中にお歯黒を入れるか入れないかで奥様とさんが喧嘩していたのだけは見た。
 さんは汚らしいから入れたくないと抵抗していた。
 そのぐらいなもので俺はなるべく二人の事は見ないように努めた。
 自分のしてきた事の罪深さから目を逸らしたかった。
 そんな時だった。
 新蔵様からとんでもない話が出たのは。
「しゃしん?」
「ああ、写す真実と書いて写真だ。舶来の技術だがその場にある姿をそのまま紙に写し取れるらしい。
さんも結婚する事だし、折角だから結婚前と後に一枚ずつ取ってみようかと思って技師を呼ぶ事にした」
「へえ……」
 聞いた事も無い技術に俺が普通に感心していると、先輩の寅吉さんがやって来て不安げに言った。
「でもさぁ……聞くところによると、写真って姿写し取る代わりに魂やら寿命持ってっちまうって話らしいじゃないですか。
俺、そんなんで死にたかないですよ……」
「え、そうなんですか?!」
 寅吉の言葉にゾッとして新蔵の方を見ると、呆れた顔で。
「馬鹿を言え。そんな恐ろしいモノだったら舶来で広まるはずがないだろう! 
聞くところによれば日の本以外では写真を撮るのは普通の事らしい。撮って死んでしまうくらいなら、
伴天連達はみんな死でいて、幕府も鎖国などしなくても済んだだろうに」
 この時代から二百年は経った時代から見れば新蔵の言ってる事は至極当然の事だが、
この時点では大松屋店主という立場が無ければとんだ歌舞伎者の戯言と切り捨てられていた考えだろう。
 何代も続く老舗を衰えさせる事無く経営する男の思考は、常に時代を先取っていた。
 という訳で新蔵の鶴の一声でこの時代ではまだまだ珍しい写真撮影が決行されることになった。
(記念、か……俺がこの店に来て、どのぐらいの時間が経っただろうか? 多分、2年くらい)
 ただの旗本崩れの餓鬼が、首も切られずに良くやってこれたと思う。
 単衣(ひとえ)に周りの助けがあっての事だと思う。
 後は、婿補正か……。

 さとの婿と言う前提が無ければ切られていたであろう場面は思い返せばいくつもある。
 だが同時にさんとも関係を持ってしまっていた。
 そろそろ俺も腹を決めないといけないかもしれない。
 そんな事を考えている内に写真の撮影日がやってきた。

 撮影日は今後の商売繁盛を祈って大安吉日が選ばれた。
 雨が降ったら延期という話だったが、そんな事も無く良く晴れた五月晴れが夏を感じさせる初夏の雲と共に広がっていた。
 俺がこの店に来たのはこの店に来たのはこのぐらいの時期ではなかったか。そして元服を迎えたのはその年の秋で。
 店の従業員全員が集められて撮影用に並ばされていく。
 全員の顔が映るように特別な台座も用意し、新蔵様は椅子に座っていた。
 俺は新蔵様の隣に並ばされた。さんとさとは新蔵様を挟んで二人並んでいる。
 ふと。
(俺の隣に二人の誰も来なくて良かった)
 と思ってしまった。
 ここ最近ずっと口を利いてはいない。最初は話しかけたさそうにしていた二人も、最近は廊下で顔を合わせても諦めた顔ですれ違って行くだけになった。
「皆様撮りますよー! この砂時計(ほぼ30~40分)が全部落ちるまで絶対に動かないでください! やり直しになります! 後、寿命も魂も取られませんので安心してください!」
 そう言って技師は写真機の多いの中に消え、技師の声に皆固唾を呑んで臨む。
 写真……一体どんな出来になるのだろう?
 ジッと砂時計が落ちるのを眺めた。
 そして砂の最後の一粒が落ちる頃。
「はい、おしまいです! 一発で大丈夫でした。皆様お疲れ様でした!」
 特に問題無く終わり、俺達は解放されて各々ホッと安堵の息を吐く。
「出来上がりが楽しみだな」
 不意に新蔵様に話しかけられる。
「あ、はい……」
「こうやってジッとしてるだけで良いなら、さん、さと達の婚礼写真も撮っても良いかもしれないな。後で皆で相談しあおう」
「……分かりました」
 俺は簡潔に返事をして頭を下げると皆と一緒に屋敷の中に戻って行った。
 そして歩きながら俺はある事をやっと、心に決めた。

 その晩の事。
 俺はさん部屋を訪ねて声を掛ける。
 最初にさんの部屋。
「さん、ちょっと良いか?」
「信之介? どうしたの急に最近ずっと口もきいてくれなかったのに……」
「ちょっと宵の散歩でもしないか? 誰にも内緒で……」
 ふっと微笑んでそう言うと、さんはパァっと表情を輝かせてうんうんと頷く。
 しかし、次の瞬間何かを思い出したかのように表情を曇らせる。
「でも困ったわね。権太さんとも、散歩の約束をしてるのよ……一応、妻夫になる相手だからって、誘われて……」
 そう言って辛そうに顔を伏せるさん。
「じゃあ、それが終わった後にでも。俺、あの祠のところで待ってるから」
「分かった。出来るだけ早く終わらせて行くから……」
「別に急がなくても良い……秋の夜は長いのだから……では、後で……」
 そう言って襖を閉めると、俺は自室に戻って自分の荷物から『アレ』を久々に取り出した。
――俺がこの店に来る時に買ってきた、紅い珊瑚。事の発端でもある曰くの品。
 二人と不義の関係になってからは見るのも嫌でしまいっぱなしにしていたが、これからと向き合うためには必要な品だ。

 俺はその珊瑚の枝を手に、そっと屋敷を抜け出して浜辺へと向かった。
 浜辺へ向かいながら、祠を目指しながら、何も考えず純粋に三人で戯れていた幼い頃に想いを馳せる。
 あの頃、こんな未来が……今があるなんて、当時の俺には想像出来なかったし、出来ただろうか?
 幕府が消えて、侍も消えて俺が小姓や丁稚としてさんとさとの店で働き、二人と男女の関係になるなんて。
(思いもしなかった。出来るはず、無いだろ……)
 思わず鼻先が痛くなるのをこらえながら砂を踏みしめて岩場をくぐって、赤い前掛けのついた住吉様の納められた祠に辿り着く
 祠の周りを擦って更に思い出に浸る。
 この祠には不思議な力があると聞く。
 そもそもこの祠は大松屋創立の時に商売繁盛を祈願して祀られたものらしい。
 その大松屋と謂れ深いこの祠の前で遊んで育った俺が大松屋で働いている。数奇なモノだ。
 この祠の不思議な所は他にもある。
 いつの頃からだろうか。この祠の周りを覆うように見た事も無い花を咲かせる植物が生え始めた。
 今持っているような珊瑚のような真っ赤な花を咲かせる。
 花が咲くのは大体今頃……。
 暗がりで手繰るように探ると、幾つかは咲いていて、今にも咲きそうな蕾もいくつも見つけた。
(この様子なら、明日か明後日には咲きそうだな)
 一通り祠の周りを探ると、俺は適当に腰かけられそうな岩場を見つけて腰を下ろした。
 ふと空を見上げると多少雲が棚引いてはいたが、基本的には満天の星空が広がっており、満月ではないが風情ある月も程良く浮かんでいた。
 好い夜だ。
 空気が澄んでいて、潮風も心地良い。
 ほら、目を瞑って耳を澄ませば――懐かしい声も聞こえてきそうなくらい……。
――ゎぁぁ!
 一瞬男のような叫び声が聞こえて俺はハッと顔を上げて辺りを見回すが誰も居ない。
(気のせいか……さんはいつ頃来るだろうか? 急がなくて良いとは言ったものの、待ってみるとソワソワする。
 季節はもう夏なので寒くは無いが、一人で夜空の下に居るのは寒々しいとは思う。
 すると間も無く、聞きなれた声が俺を呼んだ。
「お待ちになった?」
 いつになくしおらしい口調のさんが岩を登ってやってくる。
 綺麗な着物を着て、口元には紅を指していた。

「いや、そんな事は無いが……お前、またそんな恰好で浜辺を掛けてきたのか。転んで駄目にしたらどう言い訳をつもりだったんだ?」
 俺の問いにさんは髪を整えながら。
「別に。気晴らしに浜辺に行って転んだって言うだけよ」
 と、ケロリと答えた。
「…………」
 俺はその返事に懐かしさと共に軽い頭痛を覚えて頭を押さえる。
「そんな事より、信之介も信之介よ。こんなところに座ってるから、すぐに見付けられなくて探しちゃったじゃないのさ」
「ここ、そんなに判りにくい場所か? 広くて昔も良く使っていた場所じゃないか」
「そんな昔の事忘れたわ。それより、あの子を誤魔化すのにちょいと時間がかかっちまってさ……あの人もね。ちょいと、ここは目立つから場所を移しましょ……いつもの祠に、ね……」
 あの子? さとか。権太さんの他にさととも何かあったのか?
 疑問がもたげるが特に口にせず、袖を引かれるまま移動する。
 そしてまた祠の前に戻ってくる。
「あー懐かしい~。我もここに来るのは久しぶりじゃな~。どのぐらい振りじゃろ?」
 子供みたいに祠のしめ縄や住吉様をベタベタ触ってはしゃぐさん。
「止めろよ、祟られるぞ。一応それはお前の家の守り神なんだから、もっと大事に扱え」
「別に良いじゃないの。信之介は相変わらず堅いの」
 俺に咎められ、不満げながらも住吉様から離れて戻ってくると、懐から蝋燭を取り出して火打ち石でもぐさに火花を散らした。
 さんが蝋燭を小さな岩の上に立てると、紅の指された美しい顔が一層際立って闇夜に浮かび上がる。
(本当にコイツは昔から、綺麗な顔をしてるよな……)
 そうは思うが、この美しいさんをいくら眺めていてもあの夕暮れでさとに感じたような感情は湧き上がってこなかった。
 やっぱり、『そうなんだ』と気が付く。
 俺は時が時なら傾国になったかもしれない見目麗しいさんよりも、あの素朴なさとの方を好いていると確信した。

 そのままボーっと蝋燭の火とさんを見詰めていると、さんが袖口からまた何かを取り出した。
 あの、紅い珊瑚だった。
「信之介、これ覚えてる? お前がウチに来たときに初めてくれた我への贈り物……我だけへの贈り物じゃ……」
 そうウットリと珊瑚の枝を眺める。
 俺もおもむろに持ってきていた珊瑚の枝を見せると、さんが息を呑んだ。
「これ、俺も今夜持ってきていたんだ」
「信之介……! ああっ……! やっぱりお前は我の事を!」
 そう言って嬉しそうに俺の手にある珊瑚に自分の珊瑚を絡ませる。
「…………」
 俺は無言のままされるがままその様子を眺めていた。
「主が持ってきてくれたこれ……この色は丸で血のようじゃ。だからほら、こうやって絡ませ合えば、我等の血が混ざり合ったかのよう……。ねえ、これから私は権太と祝言を上げるけど、子供はお前の子が産みたい」
 珊瑚を絡ませながら蛇のような色めいた眼差しが俺を捉える。だが俺はその言葉を聞いて背筋にゾゾゾと怖気が走った。
 この女は何て恐ろしい事を言っているのだろう。
 祝言を上げると決めたのに、この期に及んで往生際悪く……いや、俺が悪いのか? 俺が気を持たせたままでいるから……。
「さん……」
「なぁに?」
「明日、時間はあるか。俺丁度休みをもらっている。明日は昼間にここに来ないか? その珊瑚を持って」
「えっえっと明日……大丈夫……何時(なんどき)に出かけるの?」
 ふと自分の予定に思いを巡らせて返事をするさん。
「午前中で良いと思っている」
「分かったわ」
「とりあえず今夜は帰ろう」

「もう? まだ我が来てそんなに経たないじゃないの」
「俺が眠いんだ。それにお前も色々ごまかしてるんだろう?」
「そう、まあ……確かに……わかった……」
 さんは少し不満そうだったが、明日もあるせいか大人しく帰る準備をしてくれた。
 一緒に帰るわけにはいかないので俺はさんを置いて一人先に帰って行く。
 暫く背中にさんの視線が絡みついていたが、さんもその程度は弁えているのか追ってこなかった。
 俺は屋敷に帰るとすぐにさとの部屋に向かう。
「さと、さと、起きているか?」
 小声で声を掛けると既に布団に入っていたさとが気が付いて起き上がってくる。
「アン……タ……?」
 眠た眼で這いずりながらそっと戸口までやって来ると俺の来訪が嬉しいのか微笑んだ。
「さと、暫く口を利かずに済まなかった。お詫びに明日散歩でもしたいと思うのだが、どうだろう。久々に浜辺へ行こう」
「え、本当に? 嬉しい、行く……絶対に行く……」
「明日の午前中勝手口の前で待っていてくれ。あ、そうそう。それと、俺がこの店に来た時にお前にやった珊瑚を持ってきてくれ。俺も持っていくから……久々に日差しの下で見たい」
「分かった」
 さとはウキウキしながらコクコクと頷く。
 何も知らずに。
(すまない、さと。明日で終わらせるから)
「それじゃあ、俺も寝る。お休み……」
「うん」
 そして俺は障子を閉めて自室に戻った。
――そうだ、明日全て終わらせよう。
 俺はそう心に決めて布団に潜って瞼を閉じた。

 そして次の日、俺は身支度を整えるとあの紅い珊瑚を袖に仕舞って勝手口に出ると、待っていたさとに微笑みかける。
 さとも俺の笑みに微笑み返してくれた。
 さんは祠の前で待っている。
 自分の不始末に蹴りをつける時が来た。
 住吉様にちょっと見守ってもらっていよう。
 俺はさとの手を取ると力強く前に踏み出した。

今回はここまでです。
予定立て直し中ですが 完走までよろしくお願いします。

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