律「澪と寄り道して帰る話」 (98)


 そうだ。あの日も寄り道して帰ったんだった。


「りっちゃん、りっちゃん」


   「んー? なぁに、みおちゃん」


「あのね、……だいすきっ!」


 「……えへ。わたしも!」



 で、そっから七年くらい経って、


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  ◆  ◆  ◆

 そこでじゃれ合ってる長い黒髪と明るい短髪の二人が
 やけに小さくかわいらしく見えるのは
 二階喫煙カウンター席の窓から見下ろしてる空間的距離ってやつのせいで、
 向かいのビルが伸ばした影と焼け付く太陽光の境目を
 ちらちら踏んだり退いたり飛び越えたりしながら
 ケータイ覗きあってくすくすやってるのが、
 こう、
 小動物的な意味でいとおしくなってしまって、
 ずっと見下ろしてたら急に周りがうるさく聞こえ出したんだ――ちがう、
 プレイヤーの音楽が鳴り止んでただけだった。

 再生し直そうと伸ばした手は、
 クーラーで誰かみたいに喉をやられてたからかな、
 プレイヤーではなく
 結露でべしょべしょになったアイスコーヒーのカップへと寄せられて
 ほとんど無意識でストローに口をつけると
 もう水っぽい薄い味だった。

 四時半の傾く陽差しに透けて見えた薄い色合い、
 もうウーロン茶なんかと変わんない。
 もらったまま入れそびれたシロップを拾い上げて
 半ばヤケで流し込む。あまい。
 さっきの水コーヒーよりは味がしてマシな気がした。
 嘘つけ、
 飲めた味じゃねーだろこれ。


 お代わりを頼める相手はいなかった。

 振り向けばすぐ後ろの席で
 干からびた汗の塊みたいなスーツのおっちゃんが
 ずぶずぶ眠り込んでて、

 向こうの壁際で
 色落ちしてプリン頭のカップルが
 ネチョネチョくっついてる。
 女の方、
 男のシャツに頭を寄せてるくせに 自分のスマホしか見てやしない。
 その身体を支える男の太い腕の先が
 テーブルと女の背中で隠れて見えなくて心からよかった。

 ちょうど反対の席、トレイ回収場所のそばで
 緑チェックのシャツに黒メガネの兄ちゃんが
 マックブックをにやにや打ってる。
 ネトゲ、いやツイッターか。どうでもいいけど。

 そう広くはない二階席がよけいに狭くみえるのは淀んだ空気のせいだ。

 おっちゃんの背中が膨らんではしぼんでイビキをザリザリ響かす。
 プリン頭がゲラゲラ笑った。
 足下に重ねたバッグがあって私は動くに動けない。

 イヤホンを掛けてブロックパーティーのセカンドを再生する。
 1曲目、アカペラのバックで勝手に挿し込まれる現実の笑い声。
 2曲目に飛ばして爆音にした。
 笑い声がサンプリング音声に混じって消えていく。

 前に組んだ腕に重たい頭を乗せると、ガラスに自分の顔が写ってサイコーだ。
 今すぐ世界が滅べばいいのに。


 外で寄り添ってる二人もケータイを見てた。

 無邪気にすり寄る短髪の女の子。
 長い黒髪の女の子がちょっとどぎまぎしてるのに気づかない。
 唯とかこういうとこあるからな……。

 すると急にすり寄ってた方が焦ってケータイをひったくろうとする。
 すかさず黒髪は回避。その手を追っかける短髪ちゃん。
 黒髪さんはよろけそうになりつつ短髪の必死の猛攻をよけて回る。
 あはは、見られたくない写真でもあったんだな。

 そこで左手の画面を引ったくろうとして短髪ちゃんが
 ぽてっとコケた。

 すぐには立ち上がらない。
 ひざまずいたような姿勢で、顔も上げられない。
 黒髪さんも思わず腰を屈めて様子をうかがう。
 ようやく上げた顔の歪みよう、あれたぶん泣いてる。
 どうしよう、超かわいい。


 昔もこんな光景をどっかで見た。
 なんだっけあれ……と、甘ったるい味。
 もう捨てようかないい加減これ。
 思い出した。
 小5の縄跳び大会だ。思い出さなきゃよかった。

 居残り自主練で、夕方四時半くらいだった。
 あのときは配役も何もかもが逆で、
 私が転んだ澪を立たせる方だった。

 クラスで一番目立つ女子グループが変に張り切ってて、
 誰かが転ぶたんびにネチネチ言ってきたんだ。
 周りが言えないことをハッキリ言うワタシがカッコいいとか思ってるタイプ。
 くそ、今さら腹が立ってきた。


 あのときもう少し幼かったら
 あの女をひっぱたいてしまってたかもしれない。
 でも、
 さすがの私もその頃には喧嘩して敵を倒せばハッピーエンド、
 みたいな単純痛快な人間関係なんかないのを悟ってたから、
 私は澪より先に引っかかって転んでみせるくらいしかできなかった。
 違う。
 大会のこととか澪のことばっか考えてたから
 ぼんやりして転んじゃったんだ。
 そう言い訳したんだった。

 私は澪を笑わせることにだけは成功して、
 乾いたささくれの痛む手を引いて
 二人で陽の沈む通学路を
 少し寄り道しながら帰った。

 なんで今さら思い出しちゃったんだろう。
 どうせ澪は忘れてるんだし、今やもう転ばなくなって、
 むしろあんな風に手を差し伸べる方の、
 基本的には強い人だってのに。


 私のケータイもチカチカ光ってた。
 見なきゃよかった。
 不在着信、弟から。諦めが悪いな、って思わず笑う。
 何様のつもりなんだろう、私ら。

 ムギからまたメール。梓とさわちゃんからも。その他諸々。
 珍しいとこではいちごから。
 その中で私が反応したのはカラオケの会員登録メールだけだ。
 しょせん金欠の学生だから50円でも100円でも割引できると助かる。
 どうせならシャワーも浴びたい。
 そしたらこのケータイはなくしたっていい。
 嘘だ、それはさすがにできない。

 うざいメールや電話だけ通じなくする方法とかないのかな。
 いろいろ設定をいじくって、
 結局また電源切るしか思いつかなかった。
 自分のなのに、使い慣れてるはずなのに、未だに何も分かってない。

 電源を切ろうとしたとき着信が入った。
 澪からだ。


 見下ろすと店の下で黒髪のあいつがケータイで喋ってる。
 なにか焦った顔。

 私は左のイヤホンだけ外して
  ああ うん そうだな わかってる だいじょぶだって
  ありがとう そうだな うんうん
 と適当に返す。
 そしたら窓の外で黒髪が怒り出した。
 肩をいからせて電話と反対の手を握りしめてる。
 何か吐き出すように重たい溜め息が聞こえた。
 あわてて短髪ちゃんが止めに入る。車の音で聞き取れない。

「って、律。聞いてる? 私たちもう、」

 受話器越しの不安げな声をどうにかなだめて、
 いいから戻ってこいよと説得する。

「戻るってどこのこと?」

 いやだからマックの二階だってさっきから言ってんじゃん。

「そうじゃなくて、ああもう……あは」
「なんだよ澪」

「ふふ、うん。やっと喋った」

 今まで会話してた相手にそう言われた。


「どーゆう意味だよ。
 ってか午後ティー買ってくるんじゃなかったの? おせえぞ」

 ごめん、ちょっと立ち読みしてて、と謝る声が聞こえる。
 水っぽい甘さ。うぇ。

「律だってずっと立ち読みしてただろ」

 また水コーヒーに口をつけてしまう。

「ちげえって。このアイスコーヒー薄くってさ、ってか大丈夫だよな?」

 ぞわり、と胸の奥で不安が湧いたのは
 流してた曲の雰囲気が急に変わったせいだ。『Uniform』は5曲目だったか。
 そういえば私の制服ハンガーに掛けてきたっけ。
 アホか、どうでもいいんだよそんなことは。

 澪、私、今からそっち行こうか?

「ねぇ律。よく聞いて」

 ――私はもう、大丈夫だから。二人とも、大丈夫だから。


「はっ?おい澪、お前まさか――」

 すぐ行くから待ってて、とだけ言い残して電話が切れた。
 窓の外に目を走らせる。
 黒髪のあいつはまだ受話器に耳を当てたままだった。
 こわばった肩と全身で吐き捨てるように顔を背けた。

 右耳の電子音がよけいに不安を逆立てる。
 溜め息の音まで聞こえそうな気がした。

 すると、短髪の子がすくっと立ち上がってあいつの左手をとる。
 両手でさするように、何か話しかけてるらしい。
 黒髪の子は携帯をしまうと余った手で彼女の頭をなでた。
 私もようやくケータイから耳を離すことができた。

 心拍数がひどくて、
 後ろの物音が聞こえないうちにイヤホンを付け直す。
 次の曲はやけに静かに始まった。
 ドラッグをキメた快感の曲だって澪から教わった気がする。
 前にその話を聞いた時は、どんな感じか想像もつかなかったけど。


 気づけば小さい方の女の子は、
 黒髪の左手をつかんで抱きしめたまま泣きじゃくっていた。
 黒髪ちゃんはその明るい髪をなでながら、
 うまく気持ちを吐き出させるようにと背中をさすっているようだ。

 この期に及んで、私はまだその場を離れられずにいる。

 足がしびれたせいだ。
  違う。
 行き違いになるのが怖い。
  そうだけど違う。
 携帯やプレイヤーの充電が終わってないから。
  全っ然ちげえよバーカ。
 店内の空気が相変わらず重たいからだ。

 私は振り返った。
 足下まで白い液体が伸びている。


 あわてて二人分のバッグをテーブルの上に載せる。
 チャックが開いてて私の財布がテーブルにこぼれ落ちる。
 店員はモップを構えて
 ここぞとばかりに床拭き洗剤を塗りたくって行った。
 ったく、
 客の荷物汚したらどうするつもりなんだよ。

 客の様子もやっぱり変わってない。
 おっさんはもう座席に脂っこい頭をひっつけるようにして寝ていて、
 兄ちゃんは小声のつもりでボイチャか何かを始めてた。
 聞こえてんだよ、プリキュアがどうとか。
 せいぜいプリン頭の奴らが少し静かになったぐらいだ。

 私は澪の荷物を抱きしめたまま、財布をしまおうとしたら
 白いのが目に入る。レシート、
 そこのゴミ箱に捨てとこうかな。
 だいぶ少なくなった五千円や千円札の隙間から
 まとまったレシートの束を出してそこに開けた。


 ガスト、セブン、カラ館、
 ファミマ、東京サニタリーサー……飛ばしてまたファミマ、
 ルノワール、ニューデイズ、セブン、ガスト、ダイソー、無印、セブン――
 セブン多いなおい。
 昨日の夜からこの財布はあまり使ってなかったから、ほんとはもっと多かった。

 ここ数日の記憶がざーっと駆け抜けてゆく。

 「ウイダーイン・ゼリー ヨーグルト味 ¥178」の印字だけで
 澪のひそめた眉と今にも何か言いたげな唇が
 浮かんで消える。
 そうだ、
 ボックス席で真っ正面から
 「いいから飲んでみろ」って押しつけられたんだった。

 舌のヒダから思い出しかかる例の味を水コーヒーで塗りつぶす。
 あのゼリーよりはマシな味だと思えた。
 これも嘘だ。


 あの子まだ泣きやまない。
 コップの結露が濡らした指先と手の汗が混じって居心地悪い。

 ちらかしたレシートに水滴が付かないように手首でどかすと
 さっきの名刺サイズの割引券が腕に引っかかってみせる。
 人目に隠すようにレシートの束に混ぜて、
 結局どれも捨てられずに、財布に戻した。

 霧雨のようにしとしと泣いているのが見える。
 その子の頭に乗せられた小さな右手、
 そのまま撫で続けて間を持たすのも限界があって、
 不安そうな目を辺りに散らすけど
 二人に寄ってくる大人は一人もいなかった。

 どこかへ行ったり
 誰かに助けを求めたりすればいいのに、
 自分一人の役目だとでも思ってるのかな、
 勝手に動けなくなっているのにイライラする。


 ああもう、何してんだよ。
 いっそこっち来いよ、ハッピーセットぐらいおごってあげるから。

 動けない黒髪の子に短髪の子が強くしがみつくもんだから、
 ビルの影どころか車道の方に押され気味だった。
 こんな時間だ、
 たまに過ぎてくタクシーやトラックのスピードは速い。

 いてもたってもいられなくなって財布を自分のバッグに投げ込んだ。
 そして二人分抱えて
 トレイを持ち上げたらバッグの重さに転びそうになった瞬間、
 横断歩道が青になって、暗がりから出てきたのが、

 澪だった。


 固まった。
 一瞬、目が錯覚を起こしたのかと思った。

 澪だ。
 そりゃあ、澪だよ。
 あっちの小学生かせいぜい中学一年生くらいの女の子だって
 長い黒髪がかわいらしいけど、後ろでくくってポニテにしてるし、
 澪じゃない。

 錯覚なんて最初からなかった、
 どうみても別人だ、まず歳が全然違う、
 なのに、
 どうして私はあの子たちを見間違えたんだ?

 澪は二人に気づくとたぶんいつもの柔らかいほほえみを見せて
 (あいにく街灯と影が邪魔してここからは見えなかった)
 短髪で唯に似てる方の足下にしゃがんで
 ポーチから何か取り出して貼り付けてあげる。

 そして頭をなでる、ちゃんと二人分。

 ポニテの方がほんの少し身を引いてたじろいだけど、
 結局あいつの広い手になでられた。


 腰にふたりしてしがみつかれて、澪が困ったように笑っていたら
 (光の下まで二人に圧されたせいで
  今度こそあいつの顔が見えてしまった)
 向こうのビル一階のスタバの方から
 三十代くらいの男女が駆け寄ってくる。

 澪は二人を立たせると、彼女たちの親元へと背中を押した、ように見えた。
 それからこちらを見上げて
 私に向かって笑った、
 本当にそう見えたから、思わず視線をそらした。

 ストローの端に残った私のリップを、目をそらしたまま
 何度も拭き取る。
 下ろすのに慣れてない前髪が瞼の上でちらつく。
 あの顔が頭から離れない。

 何度も、何度も。


 階段を上ってくる足音で気付いて振り向くと、
 新しいトレイに紙カップを二つ載せていた。
 片方にはでかいスプーンが突き刺さっている。

 ……その、私を見つけるとすぐ、
 いつもちょっとうれしそうな顔すんのやめてくれないかな。困るから。
 ってか前髪うざい。
 誰もみてないし、戻してよくない?

「だめだって。大人っぽくしようって言ったの、律じゃん」
 隣に座って頬杖ついてこっちを見る睫毛の長さ。
 テーブルについた小さな肘を寄せて、組んだ指先に頬を乗せてる姿。

「ってか、もしかして見てた?」
 と窓越しに交差点を見やって言った。
 こう、
 回転いすをくるりと回して向き直って。

 私は水滴でにじんだマクドナルドの白いロゴばっかにらんでいて、
 たぶんロクな相づちも打てやしない。
 あの細かい仕草の一つ一つに胸が鳴ってしまって、
 数十時間前の熱いめまいを思い出しそうで、全然落ち着けやしない。
 このまま私までなでられたら、もうほんとだめになる。


 みんな寝てる、と澪がつぶやいた。
 気付いてなかった。
 綿のように柔らかく固まった空気が辺りに降りていて、
 少し前まで突っ伏して寝てた私の方も眠気に誘われそうだ。

 こういう雰囲気っていいな、と澪がいう。
 つい聞き返した。
「なんだろ、やさしさに包まれてるようで」
 なにそれ、ユーミンかよ。

 吹き出す私を横に、澪があのカップルを見ていた。

「あの女の人、
 彼氏さんに自分のカーディガンを掛けてあげてる。
 肩とか冷えそうな格好なのに。でも、あったかいんだね」

 目を閉じて寄り添う女性は、ぬくい笑みをかすかに浮かべている。
 そんな彼女を大きな腕で引き寄せて、
 二の腕を暖めるようにしてぐうすか寝ている男。

 すると後ろの席でびくん、と物音がする。
 スーツのおっちゃんが目覚めたらしい。


 高そうな腕時計を何度も見て舌打ちしている。
 上着を抱えるとトレイを持って出て行こうとする。
 そこに澪が呼びかけた。

「あの、カバン忘れてますよ!」

 おお、
 と調子の外れた声で振り向いたおじさんが、
 澪に頭を何度か下げつつ重そうなカバンを受け取った。
「悪いね、ありがとうね」
 おじさんが照れ笑いをしながら階段へと走っていく。
 入り口で上がってきた若い女の人とぶつかりそうになり、
 またあのとぼけた声で 悪いね って言ってた。

 女の人は腕を組んで寝ている緑チャックの兄ちゃんのテーブルに
 しれっと自分の荷物を置くと、彼にでこぴんを一発食らわせた。
 飛び上がる勢いで立ち上がり、
 まだ寝ぼけた様子で目を何度かこすると、二人で何か言い合って笑ってた。
 女の人のスマホに付いたラブライブのストラップが
 太陽みたいにきらきら輝いてみえて、


 その瞬間、
 私は消えてしまいたいと思った。


「ね、律。この時間のマックって、なんだか守られてる感じしない?」

 そう言う澪の後ろからまだ傾いた日差しが射し込む。
 つややかな髪に淡い光が射して、まるで天使の輪っかのようだ。

「私たちも、あんなふうになりたいな」

 イスに腰掛けた足をぶらつかせて、
 私に肩を寄せて
 こっそりそうささやく。

 なんだよ澪、お前どうしてそうなんだよ。
 お前、なんなんだよ……

 光に照らされる店内の中で、
 私のなかに溜まった澱まで見透かされそうで、
 いっそ 私だけ夜に引きずり込まれてしまえばいい
 と願った。


 澪の方、もう見ることもできない。
 気の置けない笑い声が遠くから聞こえる。
 もぞもぞと動き出したプリン頭の二人、
 しびれた彼氏の腕をさすってくすくす笑ってる。

 窓の外に必死で目を落とす。
 でももう私の顔も、下の二人も見えやしなかった。
 陽は落ちるどころか明けていく一方で、
 もう月のかすかな光もわからない。

「さっきのおじさん、始発間に合ったかな?」

 赤い光に満たされるフロアの中で、つぶれてしまいそうだった。


 夕方だったらよかったのに、とずっと思っていた。

 縄跳び大会の夕暮れ通学路みたいに、
 私が先に転んで、澪をずっと引っ張って、守ってあげて、
 そういう風にしてれば二人でずっといられる。
 ずっとそう思っていた。

 でも今はただの明け方五時で、
 十七歳の私たちの居場所は少しずつ削れていく。

 何もかもがずっと変わらないって思いこみたかったんだ。
 でも昔とは全然違った。
 本当はもう逃走資金だって残っちゃいない。
 誰よりも尊い人をこんな場所まで引きずり込んでしまって、
 私はもうすぐ地獄に堕ちるだろう。ああ。

 両肩に手が触れた。
 薄目で見えた澪の両目がまっすぐ私を見つめるから、もう逃げられない。
 イヤホンも外れてしまって、
 澪の言葉を受け取るしかなかった。


「律、帰ろうよ。
 今から新幹線に乗れば、夜には家に着けるから」

残りは今日の夜8~9時辺りに投下予定
おやすみ

用事で9時より遅れそうなので前半だけ投下



  ◆  ◆  ◆

 これはいわば神様に向けた供述調書で、現実には何の意味もなさない。

 先に引っかかって転んだのは私だった。
 昔から変わらない。
 前もって転んで、誰かに叱られて、
 あいつが気をつけてくれりゃそれでいい。
 嘘だ、そんな小難しいこと考えちゃいない。
 わかるだろ、
 いつも澪があきれる通り、
 田井中律は不注意でそそっかしいだけなんだ。

 だからあのときも、澪が叱ってくれると思って、
 熱にうかされた頭で浮かんでは消えたいくつもの選択肢から
 ひときわ毒々しく輝くのを掴んで、
 思い切り間違ってみせた。

 二週間ほど前、大雨で帰れなくなった蒸し暑い放課後、
 私から澪にキスをした。


 軽はずみで大好きな人とそうしたのをすぐ後悔した。
 あれは、想像した以上だった。
 直に伝わる息や唇の濡れ方で頭の奥が焼き切れて、
 真っ暗にも真っ白にも感じた。

 制服のシャツ越しに近づける限り近づきたくて
 必死で澪の背中にしがみついて柔らかい熱を重ね合わせた。
 どうせもう二度とこんなことできないんだからって
 一生分の想いで
 澪に近づこうとした。

 だからあいつの細い腕も私の背中へ回ったとき、
 たとえその瞬間の錯覚だったとしても
 うれしさが身体の奥からあふれて、
 羽根が生えて空に飛んでいけるような、
 足下がおぼつかないほどのめまいに包まれて、
 息が続かないほど
 熱く唇を押しつけ合った。
 もう嫌われていい、絶交されていい、って言い聞かせながら。

 私のことを一度引き離した澪は、泣きそうな顔で目を腫らしていて、
 私の汚い唾液を垂らしたままで、
 一瞬あいつが世界の果てまで遠ざかってしまった気がして
 思わず自分の舌の肉を噛んだとき、
 澪がこの唇に
 もう一度吸い付いた。
 クーラーで冷えた背中の汗を熱い腕が覆って
 涙がにじみ出るのを感じた。

 澪が、私の方に降りてきてしまった。


 距離感が完全に変わってしまった。

 教室でこちらと目があってくすりと頬をゆるめる澪の表情が、
 昨日までと全然違う意味に映った。
 おどけていつも通り澪をちゃかしたりして、
 いつもと同じように澪の膝に腰掛けて見せたりしたけど、
 全部逆効果で、
 私の歯車がキチキチ引っかかって変な笑いでごまかしてばかりだった。

 ムギが首を傾げるたび、
 唯が含み笑いをするたび、
 咎められる気がして必要以上に澪に絡んだ。
 教室の床じゅうに私のかけらが散らばっていく気がして
 本当に転びかけた。


 あの日、進路調査票を握りしめた澪は確かに寂しいと言った。
 実感したら怖くなる、
 みんなと離れたくない、このままでいたい、ってそんな泣き言をもらしてた。

 だけど私は確実に方法を間違えた。

 恋愛感情じゃなくて、あくまで一番の友達として、
 大好きな人の不安を埋めればよかったんだ。
 卒業しても友達だよだとか、
 またメールしようね遊ぼうねだとか、
 中学の卒業式で聞き飽きた例のアレ。そっちを使うべきだったんだ。
 でも、
 そんな100円ショップでも買えそうな言葉で、
 誰が救えるっていうんだ?

 ……私は、澪を「救いたい」だなんて思ってたのか?


 お互いの部屋で澪とキスするようになってからはサイコーだった。

 見つからないようにと鼓膜の神経をとがらせながら、
 すべすべしたあいつの髪を指で透かして、
 耳たぶから頬骨や顎へ続く肌をなぞっては舌を吸い合った。
 そうしている間だけは、自分の選択を誇っていられた。
 澪は私と違って面倒な嘘はつけないから、
 自分が求められてることだけは信じていられた。

 進路調査票も白紙にしたままなのに、
 こんな時がいつまでも続くと思ってたし、
 そこから一歩も動かずに
 クローゼットの中で咲いた花をただ静かに愛でていればいいと、
 嘘でもそう思いこもうとした。

 四日前の水曜日、澪が私大の推薦を蹴った。


 私と一緒の大学を目指すことにしたらしい。
 あいつはどうだと言わんばかりに身を寄せて、
 髪に伸ばす手や口づけをせがんだ。

 翌日、
 ご両親にこっぴどく叱られた秋山さんが私の部屋へ逃げ込んできた。
 で、それを聡に見られた。
 あはは。 もうだめだ。
 りったんみおたんいちゃいちゃライフ、これにておしまい。
 残念でした、とっぴんぱらりのぷう。
 あはは。  澪が泣きだした。最悪だ。
 このままお互い引き離されるなら
 いっそ死んだ方がいい 的なこと言い出した。
 お前が死ねよ田井中律。
 ああもう何も 考えたくない 考えろ 考えろ 考えろ 。

 私はしがみつかれて、涙と鼻水をすりつけられて、
 ぐるぐるぐるぐる
 頭の中をかき回して、
 結局
 いつも通り転んでみせることしか思いつかなかった。


「なあ澪、
  すげえこと考えちゃった。
  今からちょっと、

  二人で どっか遠いとこ行こうよ」


 ばーか。

 あいつの目がそう言った、
 ように聞こえた。


 そこからしばらく記憶がぐるぐる早回しになってろくに覚えちゃいない。
 とにかく逃げようと思った。

 通学カバンの中身を床にぶちまけて
  財布 ケータイ 充電器 プレイヤー 制汗剤 アクエリアス
 あと化粧ポーチを手当たり次第バッグに詰め込んだ。
 私のベッドでまだフリーズしてる澪の両肩を掴んで
 名前を呼ぶ みお だいじょうぶだ 私がついてるから 。
 このまま母さんがパートから帰る前に事を済ませなきゃならない。
 クローゼットから適当なアウターを引っ張り出して
 澪の肩にかぶせて
 手を引いた。

 すれ違いざまに聡に
 「家まで見送りがてらちょっと 寄り道 してくる」
 とだけ言い残して 何も言わせずに澪を家から引っ張り出した。
 視界に一瞬映った 星の光と
 玄関の明るさが 眼を突き刺しそうになって
 手が震えだしたのを悟らせないように
 理由はないけど
 バス停まで澪を引っ張って走った。


 急行上り列車の終点 に降り立って
 閉まりかけのデパートのまばゆい光 から身を隠すようにして
 ロータリーに出ると
 ネオンライトが 着色料まみれのガムみたいな下品な 光を放っていて
 私はふらつく澪を引っ張って
 逃げ込む先を探した、
  居酒屋の呼び込みがうるさい、
   信号待ちで騒ぐ茶髪たち、
  酒臭いサラリーマンがふらつく、
    瞼を腫らしたままの澪の指が冷たい――あった。
  うちの近所にもあるチェーン店。

 とりあえず、晩ごはん食べようよ。
  おなかすいたでしょ。
 って言い訳に澪がぎこちなく笑った。
 ほっとすると、服に染み込んだ汗が急に冷えだした。


 ガストを出て
 カラ館で私の膝にしがみついて薄く眠ってた澪 を起こす頃には
 終電が終わっていて、
 ネカフェも身分証を求められて逃げ出す始末で、
 あの胃にむかつくほど甘ったるくてカラフルな 看板の群れから
 距離をとりたくて、駅前からはずれたコンビニに逃げ込んだ。

 そしたらレジで
 ブレザーに男物のジャケットを羽織っただけの女の子が
 生ビールを二、三本と
 つまみを平気な顔で買っていて、
 店員もやる気なさそうな顔で成人確認をスルーしてるのが
 見えちゃったんだ。

 酔っぱらった父さんに一口飲まされたチューハイの味を舌の中で思い出す。
  これはテストだ、というアイデアがひらめいた。
 大人になるから酒が飲めるんじゃない、
 酒が飲めたら、それを許されたら大人なんだ。

 私はそばで目を伏せて震えているこいつのために大人にならなきゃいけない 。


そうだテストだ  私は大人なんだ 澪を守れる 何があっても
 一緒に暮らしていくための 試験だこれに 受かれば私たち  どこにでも
  行ける行ってみせる  だから はい はい すいません
   TSUTAYAカードは持ってないです
  はい あっ パスモで支払いお願い しますはい あのやっぱ
 レシートください  試験終了。

 350mlの「合格通知」を数本と
 軽いおやつを入れたコンビニ袋を 反対の手に提げて、
 澪を暗いとこへ引き込んだ。

 私より澪の方が手を強く握っていて、
 心臓をそのまま握られたみたいに熱くて、
 首の動脈にどくどくと血流が流し込まれるのを感じた。


 もう私は大人なんだ、
 オトナならカノジョをカッコよくリードしないとね、って
 頭の中の冗談に笑った勢いを利用して
 壁に囲われた紫色のエキゾチックな入り口に逃げ込んだ。
 私はもう大人だ、だから
 こんな時間に補導なんてされるわけにはいかない。

 受付でルームキーと一緒に
 割引券と称した架空の会社の名刺を受け取って、
 薄暗い部屋に入るなり 荷物を放って
 ベッドに 自分の身を投げた。
 まだ澪の手が離れないままで、呼吸や血圧が元に戻るまでしばらく
 天井の低さが目に迫るのを
 眺めてた。


 耳元すこし離れたとこで
 澪の生温かい息が聞こえてた。
 首を向ける気力も起きなくて、かわりに指の力をつっと締めた。
  締め返された。
 それだけで何か熱いものが染みて流れ出す気がして、
  クーラーつけよっか、とつぶやいたら、

 澪が急に全身でごろんとこちらに転がして
 仰向けでだらしなく広がってた私の身体を押しつぶした。

 私の薄い胸、
 たぶん心臓から
 しぶきが流れる音まで 聞こえてたと思う。


 そこに小さな頭を寄せて、
  りっちゃん、
  りっちゃん、って
 涙声を押しつけた。

 あばら骨の辺りに
 澪のおっきな胸が押しつけられてて、必死でしがみついて
 一緒になろうとして
 澪の脚が私にからみついてて、
 冷えた足首がぶつかってすべすべした肌をすり抜けた時、
 私は澪を落とさないように反対の腕を使って
 自分へ引き寄せた。

 私の服がぐしゃぐしゃになるのが
 たまらなくうれしくて、なぜだか分からないけど、いきなり
 「私は勝った!」
 と思ったんだ。


 私たち、世界をだましきった。大人になれた。
 もう大丈夫だ、
 どこまでも逃げてみせる。
 澪、あいしてる。

 全く根拠のないキャッチフレーズに酔いしれて、
 いい気分になって、
 ハッピーエンドを迎えた気になってしまった。
 私の場所はここだ って
 叫びたいぐらいで、とにかく頭をなでながら
 澪の名前ばっか呼んでた、
 と思う。


 二段飛ばしで大人の階段を駆け上って二人でお風呂に入った。

 なんかもう離れたくなくって、
 はだかだと澪と並んでたら
 急に自分がちんちくりんの子供にみえて、
 鏡に見られるのがいやだったけど、
 そんなことしたら澪の居場所がなくなってしまうから
 テンション高い振りをした。

 澪はまだぽーっとしていて、
 自分の身体を洗うことも知らない子供みたいだったから、
 私がボディソープをまぶして
 澪を洗った。


 目をつむって 首を少し前に垂れていて、
 でもさっきみたいに 眉も口元もゆがんでいなくって、
 柔らかく膨らんだ頬が かわいらしかった。
 そんな澪が
  りっちゃん、だいすき って
 ときどき夢うつつで口にするから、
 小さい頃に戻ったみたいだって思った。

 そういえば小さい頃も一緒にお風呂入ったっけ、
 ああそうだ、
 公園で澪をからかったらおもらししちゃって
 めちゃくちゃ泣いちゃって
 家でお風呂浴びて帰ったとか うわー私変態じゃん、
 ってなこと考えると
 またさっきみたいになるからって、
 私は無心で澪の大人びた身体を洗っていった。

 そうすると、
 不思議と私も子どもに戻っていくような気がしたんだ。


 ずいぶん重くなった胸を下から持ち上げたりして、
 んぅって やらしい息が漏れたのを聞いても、
 えろいことしようって気にはならなくて、
 二の腕の細さや天使の羽根みたいな肩胛骨をなぞったり、
 上品な首飾りのように美しい鎖骨の曲線を傷つけないように
 泡を滑らせたりして、
 澪を隔てている薄い油膜を溶かして一緒にしてしまおうとした。

 中学校の制服のスカートが最初はイヤだった、
 なんて急に思い出す。

 あのときも澪は女の子の制服を着こなしていて、
 私はあんまり履きたくなかったスカートで居心地わるくて、
 小5くらいから澪の胸が大きくなったり生理が始まったりして、
 私を置いて
 どんどん女の子になってしまうのが怖かったんだ。

 制服がいけなかった、なんて思いついた。

 そのまま私の身体も制服に合うように大きくなってしまって、
 今ではもうスカートのことなんて忘れてた、
 はずなのに。

 目を閉じたまま膝を寄せてこちらを見上げている顔の幼さが、
 あれ母性本能っていうのかな、
 くらくらするほどいとおしかったから、
 思わずまた口づけしてしまった。


 泡を流して、
 ほどいた髪を洗う前につむじにキスするつもりで
 ほんのすこし口に含んでみたら、
 ざらざらと涎にまみれて広がるのが すごかった。

 あれだけ大人になるっていきまいてたくせに、
 自分を子どもに戻していった夜に
 人生で最高の幸せを手に入れた気がした。

 あの夜だけは、
 本当にそう思えた。


 それからもう一度シャワーを浴びる羽目になったけど、
 そのまま泥の汗まみれで私たちは寝込んだ。

 布団の外に出しっぱなしの方の腕を
 クーラーが皮膚ごと削ぐように冷やしてったせいで、
 何かすごく不吉な夢をみた。

 気付けば澪は
 シャワーを浴び終えていて、
 枕元のデジタル時計は午前五時だと言っていて、
  律、おはよう、って
 私の頭を膝に乗せてほほえんでいた。

 下から見上げる澪がやけに大きく感じて、
 相対的に自分が小さく感じた。
 備え付けの白いバスローブをまとった澪は
 私なんかより全然大人に見えて、また置いてかれる、って
 思う 自分の子どもっぽさがイヤになった。

 心のひだに垢や脂のようなものが溜まって、腐っていく。

 急に夢から突き落とされた気がして、でも
 それを澪に伝えたってどうしようもないから、
  おはよう、みおちゃん、って
 うまいこと笑ってみせた。と思う、きっと。


 明るんだ空から後ろめたい心を隠すようにして
 駅の騒がしい方へと駆け込んでも、ちっとも気持ちは晴れやしない。
 ラブホ街を抜けると
 スーツ姿の男女や知らない高校の制服が目立ちはじめて、
 歩道のタイルの目地を必死で睨みつけながらホームを目指した。

 とりあえず電車に乗って、うんと遠いところ。

 昨日の釣り銭で生じた五千円札と
 ATMから下ろしたての一万円札をパスモに食わせて
 昼までに使い切るつもりで
 ひたすら本州のはじっこを目指した。


 知らないうちに
 澪は吹っ切れたようにはしゃいでいて、
 窓から海が見えたとか、
 車両のトイレが意外ときれいだったとか、もうすぐ何県だとか、
 時刻表を開いて
 次は何分発に乗るから駅弁と ついでに服も買おうとか、
 そんな風にずっと騒いでいた。

 あーこいつかわいいなあ、って思うたびに、
 心に溜まった老廃物が恨むように膿んでは痛み出す。
 午後を過ぎるころには、
 自分がどこにも逃げられないことに気付いていた。
 そりゃそうだ、
 逃げたかったのは澪の両親からでも、将来の問題や唯たちでもなく、
 自分自身だったんだから。

 夕方の日差しはどこでも同じように私の目を焼いて、
 澪をひたすら輝かせて、
 しれっと沈んでいく。


 私の精神が私から離れていくに従って、
 時の経つスピードが加速していった気がする。

 ぼんやりしているうちに澪は笑って
 何かを差し出して、つられて私も笑ったりしていて、
 ろくに選んだ覚えもない服や化粧を買い込んで、
  どう、大人っぽい?って
 聞いた澪のセンスに絶句したりして、

 いろんなことが私の外側で急速に動いていくのを感じていた。

 最初のうちは私の方が澪を引っ張って遊び歩いてみせたくせに、
 今や澪に引きずられていて、
 何も知らずに全力で楽しんでるあいつがうらやましく思えて、
 そんな自分がますます嫌いになっていく。


 支払いをほとんど澪に任せるようになってから
 レシートが溜まらなくなって、どこに行って何を食べたとか
 ほとんど思い出せない。
 目も耳もぼんやりしていて、
 知らない街の灯は
 路上で水浸しになったチラシみたいにぼやけていた。

 二日目の夜、
 澪はためらいもなく私を暗いとこへと引きずり込んでみせた。
 その目は どうせ
 コーヒーシロップのようにどろりと甘く濁っていて、
 私はそんな澪を見たくなくって
 ずっとエレベーターの汚い文字盤ばかり見つめていた。

 312号室。
 なんでそんなことばっか頭に残るんだろう。


 浮かされた頭を慣れないアルコール漬けにして
 ごまかそうとしたって、
 部屋の隅か心の隅でずっと私が私を見てた。

 私が澪にしたように、
  飛びつくように唇を吸って、舌を迎え入れて、
  湿っぽいシャツの中に長い指先が伸びてくのをゆるした。
 私が澪にしたように、
  薄い布一枚隔てたまま汗が蒸発していく熱い肌を
  塗りつけあって肌着の意味をなくしていった。
 私が澪にしたように、
  首から胸にかけて唇からあふれた液で舌をすべらせては
  身体じゅうのあらゆる柔らかい場所に残さず吸い痕をつけて
  聞きたくもない声を 何度も上げさせた。
 そして、
 私が澪にしたように、
  柔らかい肌に押しつぶされながら、
  背中に爪を立ててシーツを握りしめて、
  名前を呼び合いながら 二人の奥深くで
  互いの指を交換して、声を上げて
  一番深いとこで 強く
  にぎりしめあった。


 歪んだエレキギターのようなサイレンが頭の中でずっと鳴っていて、
 軽蔑する数週間前の私の冷たい視線から、
 せめて澪の白い肌だけで隠そうと、
 足りない長さの腕で引き寄せて閉じこめようとしたけど、
 思わず声を上げて絡め合ってしまう自分の太股と
 身体に失望するだけだった。

 本当、どうしてこんなことばっか、頭に焼き付くんだろう。


 ふたりで意識を放り投げてから、なにか長い夢を見ていた気がする。
 ああそうだあのとき一度思い出したんだ小5の縄跳び大会の帰り道。
 駅前通りから外れた誰もいない遊歩道を抜けたとこ。

 遅生まれで年下の澪がまぶしい笑顔を向ける。

  『あのね、……だいすきっ!』

 ……ああっ、くそ!
 よりにもよって、さっきシーツの中で聞いたようなことを言いやがって。

  10歳の澪、17歳の澪、あらゆる時代の澪が
  頭の中で重なっては消えていく。
  大切な記憶が体液にまみれて溺れてしまう。

 あの遊歩道にいる資格のない私は、
 夢から飛び降り自殺するようにして、
 現実のかたい地面に叩きつけられるようにして、
 目覚めたときすでに午前四時を過ぎていて、
 澪は、
 現実の澪は、
 そのとき私の腕から消えていた澪は 浴室のドアを開けて――

再開は今日の夜10~11時までに
つぎの投下でおわり

では再開



  ◆  ◆  ◆

 まだ眠いの、と聞かれて顔を上げたら自分と目が合った。

 ガラスに映った姿は外の明るさでもう消えかかっていて、
 ろくに眠れてないから死んだような目をしていて、
 本当に幽霊みたいで
 思わずうすら笑いをにじませてしまうその顔がきもい。
 消えろ。
 消えてよ私。

「もうちょっと寝ててもいいよ、新幹線の時間分からないけど。
 あと溶けちゃうよ、フルーリー」

 混じり気ひとつない顔でくすくす笑いながら、
 澪が白いスプーンを私に向けた。
 チョコレートの黒い粉のつぶが混じっていて、なにも考えずに口に含む。
 あまい。
 そこの水コーヒーとは比べるのも失礼なほど、
 本物のとろけるような甘さ。
 今度こそ嘘じゃない。


 わあ、よく見える、と
 澪が窓の外を見下ろしていた。

 組んでた腕を上げて垂れた髪を耳に流す姿と、
 浮かせた爪先を子どもっぽくぶらつかせる姿が 一枚の絵のようで、
 この人が自分の恋人だって気がしない。たった数日で別人みたいに輝いていた。
 そんな人が、こちらを振り向くだけで、
 ほら、
 胸がおかしくなりそうなほど。

「見てたんだろ」

 母親みたいな声で澪がいう。

「ごめん」

 なんで謝るんだ、といって私の頭に手がふれた。
 手の重さに思わず目を閉じると、
 はずみで乾燥した目がうるみ出しそうになった。


「だって、覗き見ってさ、悪いことじゃん。たぶん」

 言いながら頭をなでる手を外したくなった。
 でも私は目をつむったまま、首を澪に近づけるばかりだ。

「誰かが見ていてくれるって、それだけで安心できるよ」

 瞼を透き通して感じる光がまぶしくて、
 前髪が垂れるほどうつむく。

「ケータイ、充電終わってる。そっちの寝やすい席に行こっか」

 ぽん、と手が私をたたいた。
 移動ついでに水コーヒーを捨てようとしたけど、
 身体を動かすのがかったるくて、結局トレイに乗せたまま澪が運んでしまった。

 そうやって私たちは判決を先延ばしにする。


 こっちおいで、と言われて二人してソファー側に座る。

「大丈夫、みんな寝てるよ」

 見透かしたように耳打ちされた。
 あわてて出て行ったおじさんの空席。
 一組のスプーンとフォークみたいに寄り添って眠る、
 揃えた髪の色がきれいな二人。

 向こう側でテーブル越しにうつむきあう二人は
 イヤホンを分け合って歌詞カードを開いて、わずかに頭をゆらしている。

 さっき清掃が入ったばかりで、
 バイトの店員もこの空間に踏み込む気配は、まだない。
 ポテトの焼き上がる音が階段の向こうからかすかに聞こえる。

 つむじに添えられた手につられるようにして、
 私は澪の膝に頭を寝かせていった。
 耳に当たるショートパンツの縫い目を指でなぞってると声が聞こえる。

  ねえ律、なに聴いてたの。

 私をのぞき込む顔の方を向くと、天井の照明が目に染みていたい。
 光をかくすようにポケットのプレイヤーを渡すと、
  へえ、ぴったりだ、
 と澪がいった。


 どこが、ときくと、だって今日って日曜の朝じゃん、
 と返された。

 軽いどや顔で見せつけられたプレイヤーの画面には、
 夜の町を上空から見下ろしたジャケット画像とともに

  《Bloc Party - Sunday》

 と映し出されていた。

 そっか、もう日曜なんだ。


「そうだよ。明日は月曜だ」

 口に出した覚えもないのに澪が返す。
 軽い寝ぼけ頭と照明と朝の光のまぶしさのせいで、
 余計なことまで言いそうだったから、
 ヒステリックグラマーはやめといて正解だな、と一番余計なことを言ってみた。

「かわいかったのに。ロックな感じで」

「いきなり攻めすぎなんだよ、お前は」

 むくれた声が見なくても聞こえる。
 律がいなきゃ、こんな服も買えなかったよ。
 その声の微妙な表情が心のひだに染み込んで、
 澪のおなかに顔を押しつけてしまう。

「……ごめん。澪、ほんっとごめん」


「ヒスグラのこと?」

 黙ってると、勝手に澪がしゃべりはじめた。

「すっごく楽しかった。ずっと、ドキドキしてる」

 さわってみる?なんて私の手を取って自分の胸元に伸ばそうとした。
 でも手がもう固まっちゃって動かない。

 澪は私の指先を置き去りに自分の手をテーブルの上に乗せた。
 そんな些細な動きも視界の隙間に入れないようにと抱きついて寝ていたのに、
 腕の動きやあいつの癖なんて簡単に読み通せてしまう。

 ガストのドリンクバーで取ってきたストローの噛み跡。
 ボックス席の窓際に乗せた、コンビニの箸袋を折って作った箸置き。
 駅弁、期待してたほどうまくなかったって変な顔してたっけ。
 もう口の中の味なんて分からなくなってたけど、
 澪がまずいって言うからたぶんまずかったんだ。

 想像と現実は違う。
 思い知っただろ、お前だってさ。


「うわ、これ懐かしい。律にだまされて買ったやつだ」

 捨てそびれたレシート、紙のがさがさいう音。
 声の温度がゆがんだ眉とあの唇とを思い出させた。
 わるかったよ、だましてばっかで。
 もう乾き始めた口の中で人工甘味料の気持ち悪い味が浮かぶ。

「ヨーグルト味だけは失敗だった、うん」

 わかってるよ、私だって。
 なのになんで澪、まだ楽しそうなの?

「ああそうだ、もんじゃ焼き! あれ二人じゃ絶対多かったよね」

 財布を開ける音が聞こえて、紙の音がかさかさ鳴った。
 澪までレシート整理を始めたらしい。
 上の方で思い出をひもといていく声が聞こえる。
 昨日のことなんて遠すぎて忘れてしまってたのに。


 ケータイのカメラを使いすぎて
 駅のニューデイズで買った充電パックとか、

 電車に集団で乗ってきた同い年くらいのJKたちの方言に
 いちいち感動しながら飲み干した
 澪のポカリスエットとか、

 電車が行っちゃって
 四十五分待ちだからって開き直って
 改札を抜けてもトタン屋根の広がる田舎駅で何もなくて、
 なのに
 くたびれた世界を見渡す澪の目はひたすらキラキラしてて、
 駅名の看板と
 ピースサインを無駄に撮らされたりしながら、
 照りつける陽射しから
 逃げ込むように滑り込んだセブンで買った
 ご当地チロルチョコとか。
 あれくっそまずかったっけ。
 食べ物の運わるいな、私ら。  あは。

「ん、どうしたの律」

 そんなとこばっかみるな。


「ああこれ! やっぱ水上バス乗っとけばよかった」

 ったく、観光じゃねえだろ。
 わらいそうになった頬を見せたくなくて膝に押しつけたら、
 澪の方がくすぐったそうに身体をよじって笑ったりする。

「ねえ澪、あの子たちとなんか話したりしたの」

 これでも話題をそらそうとしたんだよ。

「えっ? ああ、
 あの子たち両親とケンカして帰れなくなっちゃったんだって」

 ……失敗した。


「なんかね、宿題やってないのに夏祭りに行ったのがバレちゃって。律みたいだ」

 うるせーよ本当。

「ぜんぜん違うし。唯だろ、そういうの」

 そうかなあ、って思い返す斜め上の目線。
 見なくたって知ってる。
 きれいな顔のくせに少し抜けてる子っぽくてかわいいんだ。
 そしたら澪が、

「ちがうよ。唯は、いろいろ助けてくれた」

 聞いたことのない声でつぶやいた。
 だから思わず顔を上げてしまう。


 光に慣れない目がまぶしかったせいだ。

 マックの弱い灯りでも、一瞬よく見えなかった。
 私の大事なひとが、
 妙に真面目な顔してテーブルの奥でなにか手遊びをしている。
 明け方マックの淡い光に照らされて、ここからだと手先までは見えない。

 それだけなのに、
 その瞬間 その姿がなぜかとても 神聖な幻覚のようにみえた。

 空間を満たしていたゆるいBGMがちょうど途切れて、
 柔らかい光が蒸気のようにたちこめたままで、
 曇りガラスごしに水を浴びる愛するひとの
 存在や重さを感じ取るみたいな、
 なんだろう、
 とにかくとても尊いもののだと思ったんだ。

 わかってた、錯覚だって頭は言ってた。
 澪の癖だって知ってた。
 だけど、
 テーブル下の暗いとこで
 この身体をつつむ膝やおなかの慣れきった温もりにひたって、
 今だけはまぼろしの答え合わせをしたくなかった。

 私は時を止めたかったんだ。
 こんな気持ち、神様にだって伝わりっこないけれど。

 でも、終わるんだ。
 こんな時間は。


 紙の音も終わって、ケータイのボタンをニチニチ鳴らす音がする。
 ほら、この写真、律が半目だ、とかなんとか。
 その話何度目だよ。

 ボックス席に二人きりで居たときも
 澪がケータイをいじくってるのはだいたい写真の整理だった。
 一緒に 部屋の壁にもたれ掛かってても、
  どうしよう律 どれも消せない って
 相談してくるくせに、
 私がいくつか消させようとすると
 残すべき理由を無理矢理こじつけてくるんだ。

「やっぱかわいいな、これ。私センスあるよね」

 いやな予感がした。

「ほら、昨日の明け方。お化粧したげたの、おぼえてる?」


 飛びついて携帯を奪おうとしてテーブルにおでこをぶつけた。
 痛みが染みる。

「返せよ、みお! それ絶対あたしの黒歴史になるからっ!」

 じたばた動かす私の腕を押さえつけながら染みた額をなでてくれたりする。
 むかつく。
 私、子供じゃないってのに。

「あは、さっきの子たちみたい。バンソウコウ貼ったげようか?」

 いらん。
 てか消してよ。

「やだよ。だってこんな可愛いのに」

 そう言って画面を見せつけられた。

 ラブホの洗面所のくすんだ空気、水垢の残る鏡、
 突き刺すようなカメラのフラッシュが鏡に反射してる。
 そのカメラを向けてる澪の腕にくるまれて、
 少女趣味な格好をさせられた私がいた。


 思い出した、午前四時半のベッドサイド。
 だいたい二十四時間くらい前。

 自己嫌悪を煮詰めるような悪夢にうなされて、
 目覚めて澪がいなくなってて、
 つぶれそうだった時にあいつは
 風呂上がりののんきな顔と乾かしたての髪で私を抱き起こして、
 動かない頭と身体をいいように買ってきた服を着せていったんだ。
 あれ、澪のために買った服なのにな。

 サイズが少し合わなくて、
 自分の小ささが浮き彫りになるようで いやだったのに
 私はなぜかベッドの上に座って化粧道具をかまえる澪の前に
 目を閉じて顔を差し出してしまったんだ。

 マスカラやファンデやリップなんかが 目元や頬や唇の上へと触れてくのが
 キスするみたいで、
 キスよりもずっと繊細な感触で、
 こわれものを扱うように肌に触れるのが 気持ちよかった。


 画面の中の私はまだ目を細めていて、
 相変わらず正面を向けずに洗面台の上の歯ブラシを凝視していて、
 おどおどと胸元を隠すように握ってたりして、
 肩の線がやけに小さく見えて、
 こんなの私と同一人物だって思いたくないほどだった。

 だから黒歴史なんだ、
 って消そうとしたのにまた奪われた。

「この写真だけは絶対消さないからな。世界で一番可愛い律だもの」

 なにそれ、他に律がいるの?ってかやめてよほんと。
 自分の顔から目をそらすと、

 なにか白いものが目にとまった。


 わかるかな、紙のバネ。

 ストローの細長い紙袋2本を直角に重ねて、
 互い違いに折り込んで作る、
 あの、
 子供の手なぐさみ。

 それが、広がったままトレイの隅っこに転がっていた。

 窓から差し込む明かりの当たらない、
 ちょうどフルーリーのカップが陰になった場所で、
 光から隠れるように寝そべっていた。

 ああそっか、これも澪のくせだった。
 つまみあげると、
 片方の紙袋はくしゃくしゃにつぶされた痕がある。
 もう片方のはさっき澪が買ったときのストロー袋で、
 目立ったシワはなかった。


 捨てようとしてた私の紙屑は、澪のと重なって一つの形をなしていた。

 伸ばしてみると少しずつねじれて、
 まるで DNAのらせん構造 のように
 ゆるやかな曲線を描いて 裏も表もなく絡まり合っていて、
 ますます離れそうになかった。

 それあげるよ、って耳元で言われる。
 いらねーよ、とは言えなかった。
 重なり合った二つの袋には、
 まだ澪の手の熱が残っている気がしたから。

 そこでさっきの、あの真剣な表情が浮かぶ。
 なんだ、これを作ってたのか。
 まるで子供みたいだ、昔とぜんぜん変わらない。

「それ、律に教わったんだよ」

 そうだったかな、忘れちゃったよ。


 ごごご、とストローをすする音が聞こえた。
 見たら澪が、私の水コーヒーを飲み干してた。

「あ、ばか、それまずいんだから捨てようと、」

「水だよ、これ。ただのぬるい水」

 私のおなかを抱きかかえる腕が前にすっと伸びて、
 5ミリほど残った透明な液体を見せた。

 それは本当に透明で、
 氷のかけらだって一粒もない。
 味なんてぜんぜんしない、ただの水だったらしい。

 なんで飲んだの、って聞いたら、
 電話で律が言ってたから、って。


 たぶん、長い間ほっといたせいで分離してたんだ。
 私は沈殿したコーヒーだけ飲んで、
 澪は透明な上澄みを飲み干した。

 うそつき、ぬるいけどまずくはないじゃん、
 って笑い声に言い返したりはしない。
 だって、
 その手で代わりに飲ませてくれたオレンジジュースは果汁100%で、
 本当の甘さを教えてくれたから。

 手の中でもてあそぶ白い紙のバネ、
 光を浴びて熱を帯びて、みずから輝いているように見えた。
 柔らかな腕の中で、こんな時間がいつまでも続けばいいのに、
 二人で世界の果てまで行ければいいのに、
 ってまた思ってしまう。

 でも、終わるんでしょ。
 終わるんだよ。

 結局どこにも行けやしなくて、
 現実の長い腕が私たち二人を捕まえてしまって、
 すべて明るみになって、私たちは引き戻されて――

「律。こっち向いて」


 両手で顔を持ち上げられた。
 目に刺さる光の痛みが角膜を潤ませる。
 そうだ、涙が出そうになったのはまぶしいからだ。

「さっき、聡から電話があったんだ」

 ああ、判決が下る。
 耳をふさぎたい。

「十時過ぎに家に帰ったら誰もいなくて、びっくりしたって」

 ……はあ?


「なに言ってんだよ、聡のやつ、私らのことバッチリ見て、」

「聡は何も見てない。何も知らない。
 お母さんが、
 私の家にずっと泊まるとご迷惑だから
 早く帰ってきなさいって言ってたって、聡が言ってた」

 家族そろって大うそつきだ、って澪が笑った。
 目を離したくても、こっち向いてって言われてたから、
 あの子が神様みたいに笑うのをずっと見てた。


 大丈夫だよ、って澪がいう。

 もらった紙のバネを手のひらでつぶさぬよう指に力をこめたら、
 まぶたの奥まで熱にひたされだした。
 それでも見ていてって言われてたから、
 神様みたいなあの子をみてた。

 わかってる。
 光が目に染みたからだ。
 唇が震えるのも、あの子を見る目から熱の滴がこぼれ出すのも、
 朝焼けの光がまぶしかったからなんだ。
 それを今日、私が最後につく嘘にしようって決めた。

 それから大きな手と腕で視界をふさいでくれるまでの十秒間、
 滴がこぼれないように目を細めながら、
 しゃくりあげてしまうのを抑えながら、
 朝焼けの光を受けてほほえむ私の神様を最後まで見てた。

 また暗くなっても
 瞳孔に焼き付いた残像が何年経とうとも消えませんようにって、

 私の神様の姿を ずっとずっと見てた。



  ◆  ◆  ◆

 プラスチック製トレイの上に散らばった紙コップや
 シロップの入れ物や
 バイト募集の宣伝チラシなんかをゴミ箱に押し込めるのは
 なぜか名残惜しくって、

 トレイ置き場の近くで
 サカナクションの歌詞カードと まどマギのDVDを広げて
 何か語ってるカップルと目が合うのも
 ちょっと申し訳なくて、

 もたつきながら一階へ降りると
 レジのそばで私の分まで支度を済ませた澪の声がする。

 生返事で振り向いた先、
 手招いて指さしたケースのなかには
 ハッピーセットのおもちゃが並んでて、
  3番のゼンマイで走るハリネズミがかわいい
 なんて黒目をきらきらさせてるから、
  うちに着いたら買ってやるから
 なんて母親みたいな声で言ったら
「約束だからな」
 って念押しされた。

 いや、自分で買えって高校生。


 ほら、行くぞ、注文だと思われるから、
 なんて手を引こうとしたのに
 指先だけ触れたまま一歩も動けなかったのは、
 私だってここを立ち去るのが名残惜しかったから。

 あは、マックなんてどこにでもあるのに。
 私たち、どこ行っても変われやしない。

「ねえ律、来年またここに来ようよ」

「……その頃には、ハリネズミ売り切れてるよ」

 そうじゃないって、と澪を笑わせる私。

 でも澪は、
 ここが二人で来た一番遠いとこだから、って。
 ここが世界の果てだからって。

 そんなことをレジの近くで言うからこっちが恥ずかしくって
 とりあえず外出ようよ、
 って先にドアの向こうに歩み寄った。

 自動ドア、反応が遅くていらつく。
 外が明るくて消えかけてたガラスに映る自分の顔、
 開いたドアで分かれて一瞬で消える。
 顔にふれる外の風、思ってたよりも涼しいのがよかった。
 指二本ほどでつながってるあいつの手を引いてアスファルトに足を踏み出す。

 と、その足が空を踏んだ。

 よろける。
 手をついて掴まる場所もない、バランスを崩した私の脚は――


「……律。そこ段差あるよ」

 転ばなかった。
 手をくいっと引かれて、かろうじて立ってた。
 まだ寝ぼけてたのかな。
 あきれたため息とほほえみ、つられてにやける私。

「焦らないでいいよ」

「転ばないってば」

 はあ?と澪が聞き返す。

 あ、そうか。
 なんか聞き違えてた。
 なのに向こうは何か納得したみたいで、
 律はあぶなっかしいからな、とうなづいてみせた。
 まるでお母さんみたいで、別の意味で顔が熱くなりそう。

 先に出ようとしたら、それより先に手を引かれて、
 二人で名前も忘れた町のマックから外に出た。
 握りしめてたから、今度は転ばずに済んだ。


 夜遅くに着いた時は物珍しく見えた町並み、
 明るくなって見ればうちの近所と変わらない景色だった。

 ビジネスバッグを抱えた男が
 目の前を抜け、駅前のロータリーに向かう姿を目で追えば
 バス停から同じような格好で会社に急ぐ人たち、
 制服姿でカバンを背負った高校生も見える。

 道の反対側に見えるのは
 あの子たちの両親が出てきたスターバックスで、
 あれをエクセルシオールに変えて、
 数メートルおきのおしゃれな電灯もケヤキの街路樹に変えて、
 バス停前のバーミヤンと河合塾の代わりに
 松屋とシダックスを増やせば、ほとんど桜が丘駅前通りの出来上がりだ。

 歩道の隣に自転車用の道があるだけ、こっちの方が都会かもね。


「日本って、狭いな」

 早足の人たちにぶつからぬように、
 日陰の部分を選んで歩きながら言った。

「でも、こんな遠くまで来れた」

 澪がいう。

「変わんないじゃん、桜が丘と。なんかさ、ずっと掌の上だった」

「広がったよ、私の世界。
 これから先、マック見るたび、この場所のこと思い出せるよ」

 振り向いて指さした先、
 黄色いMの字と24時間営業の看板。
 狭いビルの3フロア、
 うちの駅前マックの方がまだ広そうで、
 正直言ってかなしくなるほどしょぼい。

「あのね、律。
 変わらないってことは、
 いつでも今日のことを思い出せる、って意味なんだ」


 つまり、発想の逆転だった。
 家に帰って
 お金とか 時間とか 受験や いろいろで
 自分の町から出られなくなったって、
 スタバやセブンイレブンやマクドナルドが思い出させてくれる。

 目に焼き付いた色をきっかけに、
 今いる場所のことを少しだけぼやかせば、
 今日や昨日やその前のことをきっと思い出せる。

 きっかけが足りなかったら、肌にでも触れればいい。
 水っぽくて甘ったるいコーヒーでも一口すすればいい。
 そしたらきっと、
 桜が丘に帰っても二人きりの旅が続けられる。
 二人の世界はこわれずに済む。

 そんな子供みたいな思いつき、誰かさんに似ていた。


「唯と連絡取ってたんだ。
 一昨日から、律がぼーっとしてる時とかに。
 さっきコンビニで、
 律のお母さんに借りた交通費を私の口座へ送ってもらった時も、
 ほんとは唯と少し話してた」

 全然知らなかった。
 私ら、やっぱ子供でしかなかったんだ。
 ちっと考えれば、
 警察沙汰になっててもおかしくなかったわけで。

「ううん、最初のキスしちゃったときの、
 いや、その前から唯が聞いてくれてたんだ」

 あは、まじかよ。


「あいつには頭があがんないな、しばらくは」

 ぼやいたら、ちょっと怒ったような声が返る。

「ムギや梓、みんなにもだろ。それにまず、お母さんたちと聡君」

 ……本当だよな。

 こいつは私ほど叱られなれてないだろうし、
 そもそも私が駆け落ちしたようなもんだし。
 駆け落ち? ひゅー。
 ばかいえ、そんなロマンチックなもんじゃなかっただろ。


 でも、と澪が立ち止まって付け加える。
 赤信号だった。

「町も空気も律も、変わっても変わらないものがちゃんとある。
 って実感できた。この旅で」

 横断歩道の向こうにそびえる駅ビルを眺めながら、
 あの子は口ずさむようにいった。


 想像力と体温がつきない限り、どこにだって行ける。
 それだけで、私、これからも生きていける。
 澪がいうのはそういうことらしい。

「だから、私はもう大丈夫。律も私も、二人とも大丈夫なんだ」

 最後にはっきりと付け加えた。

 遠くでバスが停車するブザーが聞こえて、
 青信号とともに無数の足音が広がって、
 頭の上で電線から鳥が滑空しだして、
 そよ風はまだ冷たくて、手の熱はあったかい。

 ここにいてよかった、ってこの瞬間ほんとに思えた。


 信号が青に変わった。
 隣からスーツの女性が一足先に歩き出す。
 続いて学ランの男子生徒たち。
 日傘を差した妊婦さんは、少し遅れて。

 私も渡ろうとしたとき、先に歩き出した澪が、ふっとつぶやく。

  長い寄り道だったな、 って。

 あいつはちょっと笑いをこらえてこわばった顔してたせいか、
 横顔の目元がやけに幼くて、
 六、七歳くらい年下の女の子みたいに一瞬見えた。


 ああ、そうだ。
 きょうも寄り道して帰るんだったっけ。


「なぁ澪、……いや。みおちゃん」

「んん? どしたの、りっちゃん」

 数十センチ先で私の手を引く澪が、
 後ろを振り返って、私をりっちゃんと呼んだ。
 みおちゃんは待っててくれてる。

 ポケットの中にはさっきのストロー袋。
 今なら私にだって、
 みおちゃんみたいに本当のことを言えそうな気がする。

「あのね、」

 大丈夫、これは嘘じゃないから。


「……だいすきっ!」


 あの子の返事を待った。
 ここから七年くらい経って本当の大人になっても、
 またこんな風に言えてたらいいなとか思ったりしながら、
 澪の返事を待った。


 そして澪が私にいうのがきこえた、


「……えへ。わたしも!」



おわり。

参考

Bloc Party - Sunday
 http://www.youtube.com/watch?v=aFv5HjTD3Ts
 https://dl.dropboxusercontent.com/s/yz9mncttrnhqfug/sunday_lyric.txt

ふくろうず - マシュマロ
 http://www.youtube.com/watch?v=yunzN3aZyo4


このSSまとめへのコメント

1 :  SS好きの774さん   2014年08月31日 (日) 02:26:38   ID: Q8VllhCG

良かったー

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