だいぶ前に書いた小説を、暇つぶしに載せていきます。
ファンタジーもののオリジナル長編小説です。
読みやすいように改行は入れますが、基本的に地の文が大半ですので、ご了承下さい。
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また、ご閲覧いただくにあたりお願いがあります。
時たま応援の書き込みをいただけますと嬉しいです。
投下速度は早めだと思いますので、規制にかかったら投下が途絶えます。
その際は再開まで気長にお待ちください。
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――全ての人に幸せと平穏がやってきますように……。
SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1406721731
1.ドラゴン
その夜、彼女は風を裂く音と共に、満天の月に照らされた、天を覆うほどの翼をその目にした。
屋根裏部屋から、ぼんやりとその光景を見ていた。
最初は薄暗い空に浮かんだ、雲の群れかとも思った。
しかし、見上げたそれは、翼のように見えた。
雑然とした部屋で時たま見かける、コウモリの翼そっくりだった。
何十メートルあるのだろうか。それがゆっくりとはためきながら、山の奥に向かって段々と高度を下げている。
空には薄く雪がちらついていた。
暖房もない屋根裏は凍えるように寒く、彼女……ナキは擦り切れた毛布に包まりながら、両手をすり合わせて空を見ていた。
段々と、そのはためくコウモリの翼は落ちていき、そして山の向こう側に消えた。
少しして、離れた場所から鳥の一団が飛び立つのが見えた。
ナキは白い息を吐き出しながら毛布を手繰り寄せ、そして目を閉じた。
体が軽く震えている。
この寒さで、体をやられているらしかった。
剥き出しの小さな足を毛布の奥に入れ、しもやけが出来ないようにと、手で軽く揉み始める。
壁にかけられたくたびれた時計が、カチリと夜中の十二時を指した。
ゴミ捨て場から拾ってきたものだ。
その無機質なコチ、コチという音を聞きながら、ナキは自分の両肩を抱いて小さくなった。
夢でも見たのだろうと思った。
あまりの寒さと、疲れで白昼夢を見てしまったんだ。そう思った。
だって、今日は私の誕生日。
それなのに私はここで一人。
たとえ今見たものが、悪魔だったとしても、私の誕生日が終わったということは変わらない。
だったら、どうでもいいかもしれない。
一つため息をついて、目を閉じる。
部屋の隅で丸くなりながら、今日も彼女は、凍えないようにと震えながら、細く息をついた。
◆
誕生日の朝だろうと、いつもと変わらない怒号で、少女は目を覚ました。
「いつまで寝てるんだい! とっとと起きて水を汲んでくるんだよ! 」
しばらくぼんやりとしてから、目を擦って毛布から抜け出す。
薄暗い屋根裏部屋の窓からは、うっすらと朝日が覗いていた。
体が凍えるように寒い。
その反面、立つと少しふらついた。
頭が熱い。熱があるらしい。
しかしそんなことを説明しても、どうせ鞭が飛んでくるだけだろう。
そう思い、ナキは震えながら汚れたポンチョを頭から被り、裸足のまま階段を降りた。
今日、十二歳の誕生日を迎えた。
その割には痩せていて、小柄だ。
ボサボサのショートの金髪を撫でつけながら、ナキはそっと柱の影から顔を出した。
木造りの家の中では、太った恰幅のいい女性が暖炉に火をつけようとしているところだった。
裸足のナキとは違い、毛皮のブーツやコートを身につけている。
女性の耳はツンととがっていて、涙のような形をしていた。
人間ではない、森の妖精と言われる、シルフという種族だ。
ナキには、反面目に付くような特徴が何もなかった。
ただ肌の色が妙に白い。
具合が悪いのが顔に出ていて、目には少しくまが浮いていた。
女性……バーノンおばさんは、震えているナキを一瞥すると、耳に障るがみがみ声を上げた。
「何をしてるんだい! お父さん達が起きてくる前に、とっとと井戸から水を持ってきな! あと早く食事の支度をするんだよ! 」
「はい……」
素直に頷いて、軽くふらつきながら脇の桶を持ち上げる。
口答えをしてぶたれるよりはましだ。
ドアを開けて外に出ると、夜の間に降ったのか、一面銀色の様子になっていた。
森の中には、シルフの、特徴がある茅葺家が点々と建っている。
ここは群落の中でも隅の方なので、この朝早くに外に出ている人は見かけなかった。
少し躊躇してから、足を踏み出す。
雪の凍える寒さが、小さな足の裏から脳天に染み渡る。
少し体を震わせてから、ナキは思い切って、雪にくるぶしまで埋まらせながら歩き出した。
途中で小さくくしゃみをして、何とか家の裏の井戸にたどり着く。
手を擦り、そして桶を縄に結び付けて下に放る。
表面が凍り付いていたらしく、鈍い音を立てて氷が割れる感触がした。
小さな手で一生懸命綱を引き、水を上まで持ち上げる。
そして両手で掴んで、家の裏にある水道の貯水槽に流し込む。
それを何度か繰り返していると、家の中からバタバタという足音が聞こえてきた。
次いで、おばさんそっくりのがみがみした耳障りな声が耳に入る。
「ナキはどこ?」
「今外で水を汲ませてるよ」
「まったく、本当愚図ね! まだご飯できてないの? 今何時だと思ってるのかしら。母さん、奴隷の換え時じゃないの?」
「うるさいね! あんなガキでもちゃんと金を払って買ったんだ。モノは大事に使いな! 」
肩をちぢこませながら、何度目かの水を運び、そこでナキは、勢いよくドアが開かれ、ビクッとして立ち止まった。
おばさんそっくりの、恰幅がいいシルフの娘が、まるで汚いものを見るかのような目でナキを見ていた。
この家の娘である、リフだった。最近二十の成人を迎えたのに、まだ結婚相手が決まらないので、彼女はその鬱憤をナキに当り散らすようになっていた。
シルフは大概成人前に結婚する。遅れてしまっているという苛立ちが、最近全部向けられているので、自然と体が萎縮してしまう。
案の定、リフは桶を持っているナキに鼻息荒く、大声を出して命令をした。
「サボってんじゃないよ! 早く山羊の乳を搾ってきなさい!」
「はい……ごめんなさい」
ぶたれると思って反射的に謝ってから、ナキは桶を脇に置いて、そそくさと家畜場の方に足を向けた。
膝から下が冷え切ってしまい、痛い。せめて両手に息を吹きかけると、潰れた血豆がしくじくと痛んだ。
ため息をついて、彼女は空を見上げた。
まだ分厚く雲がかかっている。今日はまた、雪が降るかもしれない。
いつもと変わらない山並みだった。
昨日と違うのは、木に白い雪が積もっていることだ。
いつもリフが食べている、生クリームがたっぷり乗ったパンのようだ。
そう考えるとお腹が小さく鳴った。
俯いてまた歩き出す。
それが、ナキの日常だった。
山羊の乳を搾った後は、食事を作る。
自分の食事は、後に残った残飯だ。
それから後は、掃除や繕い物、洗濯。
全部終わったら、くたくたのまま眠ってしまって、そして次の日になる。
その繰り返し。
こんな生活が始まって、何度目の誕生日なのだろうか。
熱に浮いた頭では、考えようとしても霧のように散ってしまい、まとまらない。
また小さくくしゃみをして、彼女は背中を丸めて足を踏み出した。
◆
ふらつく頭で何とか食事の準備をして、ナキはパンとスープを平らげているシルフの家族から目を離した。
バーノンの夫である、やはり恰幅のいいモダンが、スープを口に運びながら口を開く。
「それで、舞踏会に行く衣装は出来上がったのか?」
問いかけられて、リフが口の周りをクリームだらけにしながら頷いた。
「ええ。今日出来上がる予定。後でナキにとりに行かせるわ」
「貴族も沢山来るんでしょう? リフちゃん、今度こそしっかりと取り入ってくるのよ」
バーノンおばさんがそう言うと、大きくおじさんも頷いた。
「ああ。こんなチャンスは滅多にないぞ。今回の舞踏会では、あのアルノーも来るらしい」
「アルノー? ドラゴンの?」
リフが咳き込んで聞くと、おばさんが頷いて、砂糖壷に入っているクリームを手ですくい、パンに塗った。
「まだ噂だけど、ドラゴンなんて貴族中の貴族よ。お目に止まることが出来れば、信じられない玉の輿だわ」
ドラゴンというものをナキは見たことがなかったが、少なくともリフのような娘が、貴族の目に留まることが出来るとは思えなかった。
貴族は、大きなお城に住んでいて、綺麗な服を着ていて、とても優美だというイメージがナキにはあった。
一度街の外れを行進している貴族の移動列を目にしたことがあったのだ。
きらびやかな宝石で装飾された、沢山の白馬に引かれ、黒塗りの馬車が走っていたのだった。
その周りには、茶色の毛並みがいい馬に乗った、帝国軍人の制服を着た男の人たちが警護に当たっていた。
馬車のカーテンは開いていて、中に座っていた女の人がチラリと見えたのだった。
流れるような白い髪に、透き通るような青い目をしている人だった。
まるで人形のようだったという記憶がある。
ああいう人を貴族っていうんだろうな、とその時は思ったものだ。
間違っても、汚らしいポンチョを着て、裸足でこき使われている自分なんて、手の届かない存在なんだろうなとも感じたものだった。
目の前で、食べかすを散らかしながら大声で喋っているシルフの娘を見て、頭の中の、人形のような貴族の女性と照らし合わせる。
リフが馬車に乗っている姿は、想像ができなかった。
ぼんやりとした脳裏でそんなことを思っていると、バーノンおばさんが、横目でこちらを睨んできた。
「何突っ立ってるんだい。食器を片付けて洗ってきな。それから、薪が足りなくなったから、山から切り出してくるんだよ」
「え……でも、雪が……」
雪が積もっていて、山の中に入るのは躊躇われた。
それに、湿っていて、地面に落ちている木片は薪には使えない。
必然的に、乾いている木を狙って切り出してくるという重労働になる。
「私、今日具合が……」
最期まで言えなかった。リフが
「口答えするんじゃないよ! 」
と怒鳴って、手にしていたコップをナキに投げつけたのだった。
中のぬるくなったスープが頭からかかり、目の前にコップが落ちる。
分厚い陶器だったゆえに割れはしなかったが、突然の暴力に縮こまり、ナキは消え入りそうな声で
「ごめんなさい……」
と謝った。その様子をせせら笑って見ながら、リフは吐き捨てるように言った。
「午前中のうちに、ムカデの店に行って、私のドレスを持ってきなさい。薪はその後でいいわ」
「はい……お嬢様……」
泣きそうになりながら、コップを拾って流し台の方に歩いていく。
そこで、ナキはたまらず小さく咳をした。
その様子を見て、モダンおじさんが太った脂肪の奥で細い目を剥いて、意地悪く口を開いた。
「何だ、具合が悪いふりか? 大層な身分になったものだな」
「奴隷はみんなそうよ。私知ってるもの。奴らは自分の身分を理解しないで、権利ばっかり主張するの。たいした生産性もないくせに、いい気な奴らなのよ」
「違いないわ。ナキ! 病気のふりで同情引こうったってそうはいかないよ。ただでさえ舞踏会の準備で忙しいんだから、サボってる暇なんてないんだよ! 」
謝ろうとしたナキの腹に、そこでバーノンおばさんが投げつけた空のカップがめり込んだ。
小さく悲鳴をあげ、その場に尻餅をつく。
その様子が面白かったのか、リフが甲高い笑い声を上げた。
本当に痛かったので、お腹を押さえながらその場にうずくまったナキを、冷たい目で一瞥し、バーノンおばさんは
「ぐずぐずしないで片付けな! 」
と吐き捨てた。
目の奥に熱い涙が湧き上がってきたのを何とか抑えて、頷き、カップを持って立ち上がる。
ここで泣いてしまったら、それをだしにまた、どれだけ虐められるか分かったものではない。
山に入らなきゃいけない……。
心が暗くなった。誰が手伝ってくれるわけでもない。
しかし重い木片を引きずって、村まで帰らなければならない。
それに、斧を振り回すのもかなりの重労働だ。
想像してしまい、体にまた湧き上がった寒気を何とか抑え、ナキは大きな桶に溜めていた、食器洗い用の水にカップを入れた。
◆
朝食が終われば、おじさんとおばさんは仕事に出かける。
リフも学校に出ていく。
しかし残されたとしても、ナキは気を抜くわけにいかなかった。
洗濯などを終わらせなければ、手痛くお仕置きをされてしまうのだ。
とりあえず、雪の道を踏みしめて、村はずれの裁縫屋さんに行き、舞踏会のドレスが入った箱を受け取る。
店を出た頃は、もう太陽は昇りきり、薄い雲の間越しに白い光を発していた。
舞踏会というのは、年に何回か行われる、この土地の領主の屋敷が開催するパーティーのことだ。
土地に暮らす人々を労うために企画されているものだが、当然ナキのような奴隷の身分は出席することも、近づくことさえ許されていない。
どんなところなんだろうな、と外の寒さに震えながら思う。
しかし中で、綺麗な装飾に囲まれて踊っている自分を想像することが出来ず、ナキは妄想を頭から振り出した。
家の鍵を開けて、リフのドレスをテーブルの上に置く。
少し興味が湧いて、蓋をちょっとだけ開けて中を覗いてみる。
白い絹で織られた、羽のようなドレスが入っていた。思わず手を伸ばして触ろうとしてから、ナキは慌てて手を押し留めた。
指先が潰れた血豆の黒い痕で汚れている。
汚してしまったら、後でどんな仕打ちを受けるか分かったものではない。
蓋を閉めて、彼女は一度屋根裏部屋に戻った。
そして、もうだいぶボロボロになってしまった、リフのお古の靴下を足に履く。
かじかんで、この短い間にしもやけになり、膨らんでしまっていた。
また一つため息をついて、床に放り出してあった小さな手斧を掴み、縄を肩にかけてから家の外に出る。
鍵をかけて、しっかりとポケットにしまってから、彼女はトボトボと山に向かって歩き出した。
シルフの村には、あまり奴隷はいない。
山奥なので、あまり商人が来ないからだ。
同じような身分の子と話でも出来たら、随分と気が晴れるのかもしれないが、ナキと同年代の奴隷など近くにはいなかった。
道ゆくシルフの人たちに、汚いものでも見るように一瞥される。
その視線から逃れるように、ポンチョのフードを頭に被り、背中を丸めながら歩く。
足が寒い。しかし、この村の中では、誰一人として、靴下だけで雪の中を歩いているナキに声をかけるシルフはいなかった。
森の妖精というのは、かなり閉鎖的な種族だ。
自分達以外は劣等な生き物だと考える節がある。
だから、ふらついて歩いているナキのことを汚らしいとは思えど、かわいそうだと思うことはなかった。
◆
しばらくして村の外れに出て、ナキは雪を踏みしめながら、なるべく歩調のリズムが整うように歩き出した。
一面銀世界に変わっている山の中には、少し前とは異なって生き物の気配がなかった。
時折空に鳥が飛び立つ程度だ。
降り積もった雪が、しん……と周りの音を吸い込んでしまっているかのようだった。
そこで、ふと昨日の夜に見たコウモリのような羽を思い出す。
月の光を浴びて、白く光っていた。森の中、位置だと少し離れた湖に落ちていったような気がする。
木を切り出して、そこを少し見てみたとしても、ばれなければ怒られないだろう。
何かあったら面白いかもしれない。
ちょっとした、自分の誕生日へのプレゼントに、少しだけ足を伸ばしてみよう、と思う。
どうせ木を切り出していたら、湖の方には出ると思われた。
そう考えるとちょっぴり気が楽になる。
そしてナキは、手斧を手に持ち直し、森に足を踏み入れた。
少し進んでいくと、靴下に雪が染み込んで、体中に寒さが染みこんでくる。
紫色になった唇を噛んで、ナキは、だいぶ歩いてから、視界が少しぶれて足を止めた。
山道を少し登ってきたが、これはまずいと、頭のどこかで思う。
入る前は、すぐ木を集めて帰ればいいと思っていたが、思った以上に雪に体力を奪われてしまっていた。
しもやけの手足がじんじんと痛む。
次いで、目の奥がつつかれているように痛み、ナキはそこで足を踏み外し、膝をついた。
次の瞬間、彼女の体が、雪で滑って下に落ち込んだ。
丁度、草に覆われた急勾配になっている坂に足をとられてしまったらしい。
崖から落ち込むように、ナキはそのまま、十数メートル下の道へと滑り落ちてしまった。
緩やかになってきたところで、したたかに木に頭をぶつけてしまい、一瞬目の前が真っ赤になる。
そのまま、熱もあったこともあいまって、彼女は倒れこんだまま、どこかに引きずり込まれるような感覚と共に、ゆっくりと視界が暗くなっていくのを感じた。
◆
どのくらい気を失っていたのかは分からなかった。
頬に冷たい感触がして、ナキは腫れぼったい目を開けた。
体中が冷え切っていて、だるかった。何とか立ち上がろうとして目の前がぐらりと揺れる。
具合が悪かったところ、体を思い切り冷やしてしまったのが、致命傷だったらしかった。
鼻をすすってから、ぶつけてしまった頭を押さえる。
こぶができているようだ。まだ少し痛む。
涙目になりながら、滑り落ちてしまった道を見上げる。
藪の中に落ちてしまったわけではなく、湖へ向かう道に丁度滑り降りたようだった。
本当なら随分と遠回りしなければいけないのだが、かなり大雑把な方法で来たことになる。
木の向こうには、湖がある。
そこで水を少し飲もうと、ナキは思った。
喉がカラカラだ。朝には残り物のスープとパンくずしか食べていない。
近くの木につかまり、何とか立ち上がって、よろめきながら顔を上げた。
そこで彼女は、ポカンと口を開けて停止した。
湖に、何か大きな黒いものが浮かんでいた。
上半分に雪が積もっている。
端が見えないほどの大きさの湖、その反対側に、何か浅黒い小山のようなものが浮かんでいた。
目で追っていくと、先端が岸に乗り上げるような形になっている。
何だろう……と少し迷ってから、彼女は手斧を腰の帯に差し、木に捕まりながらそれに近づいた。
時折揺れる視界に、何か鱗のようなものが見える。
時たま森を歩いていると出てくる、蛇のものに似ていた。
大きさは、全体で十メートルは超えるだろうか。
口を開けながら、岸に打ち上がった部分に歩み寄る。
半分ほど雪に埋もれていたが、そこには、トカゲの頭を何十倍にも大きくしたような、異様なモノが鎮座していた。
頭には燃えるような真っ赤なトサカがある。
口元からは真っ白い牙が飛び出していた。
トカゲの頭のように見えるのだが、大きさはナキ一人分くらいある。
牙なんて彼女の腕くらいの長さはあった。
「何これ……」
思わず呟いてしまい、呆然として口元に手をやる。
トカゲ頭からは長い首が伸びていて、膨らんだ胴体に繋がっている。
魚のように背びれがあり、その先には、爪が光る、身体の割には小さな手足と……コウモリのような、力を失い萎れた翼があった。
羽は一対だったが物凄く大きく、肌色の飛膜がぷかぷかと湖に浮いている。
尻尾もあるようだが、水に沈んでいて見えなかった。
ナキには、目の前にある大きなモノがなんだか、よく分からなかった。
時折大きな鼻の穴から、生温い風が出ている。生きているらしい。
その口に当たる、裂けたところには、まるで口輪のように、金属の枷が取り付けられていた。
口が開かないようにぐるぐる巻きにされていて、端が南京錠で留めてある。
別の端は、分厚い皮に杭が打たれ、突き刺さっていた。
少しして、ナキは手斧でつんつん、とその鼻先をつついた。
何かしら反応がないかと思ったのだ。
不思議なことに、彼女はその大きなモノを目の前にしても恐怖を感じなかった。
いや、既に熱で何かが麻痺していたせいなのだろうか。
ぶれた視界で巨大トカゲを見てはいたが、危険なものだとは思えなかったのだ。
それよりも、彼女はもし、これが生きているのだとしたら……口に杭を刺されて、そして鎖でぐるぐる巻きにされ、痛いだろうな、と思ったのだった。
鉄杭が埋没している皮膚からは、青い血のような液体が流れ出ている。
反応がないので、もう一度、つんつんと鼻をつついてみる。
かなり分厚い、弾力がある皮の感触がした。
やはり反応がないので、手斧を下ろす。
そこで後ろに下がろうとして足がもつれ、彼女は湖の岸に尻餅をついてしまった。
そこでナキは、トカゲ頭の少し上の部分……丁度目に当たる箇所が開き、両手で抱えても持てないほどの大きさの、眼球……真っ赤な、猫のような瞳孔がこちらを見ているのを目にし、だらしなく口を開けたまま、その場に停止した。
巨大トカゲは、目玉をぐるりと回して、そして目の前で尻餅をついてポカンとしている、小さな人をじっと見つめた。
次いで、その喉から、ぐるるるる……という、猛獣の鳴き声そっくりな音が飛び出した。
まだ停止している少女をしばらく見つめ、そして、その大きなモノは、鎖で縛られている口を少しだけ開いた。
ひゅぅ、ひゅぅ、という空気の鳴る音がして、数秒後、かすれた、妙に反響する男性の声がそこから飛び出した。
「……ここで何をしている、愚民」
上手く喋れないのか、声がくぐもっている。
それ以前に巨大トカゲが口を利いたことで、ナキは今更ながら、動転していた。
まさか喋るとは思わなかったのだ。
呆然とこちらを見上げている少女の答えを待っていたが、彼女が言葉を発しないのに業を煮やしたのか、それはまたくぐもった声を発した。
「帝国の者か……? 脆弱な民……無様な俺を引き渡すつもりか……?」
見た目は恐ろしかったが、口調や喋り方はまだ若い青年のものだった。
ナキは唾を飲み込み、そして巨大トカゲに向けて口を開いた。
「あなた……何?」
「何……とはどういうことだ……?」
「怪我してるの……?」
問いにどう答えたらいいか分からなかったので、寒さで震えながら、彼女は聞いた。
巨大トカゲは、その質問が意外だったらしく、少しの間目をぱちくりさせた。
「……貴様、俺が恐ろしくはないのか……?」
「別に、怖くないよ」
熱で頬を真っ赤にしながら、ナキはそう言った。
「家のおじさんとおばさん達の方が、怖いよ」
「…………」
「痛そうだよ。外してあげる?」
呼びかけられて、巨大トカゲは、自分の口元に突き刺さっている杭に目をやった。
そして不思議そうに問いかける。
「何故だ?」
「私だって、顔に何か刺さったら痛いよ」
「…………」
「自分で抜けないの?」
「ああ。魔法がかかっていて、俺が自分の手では解呪が出来ないようになっている……」
「かいじゅ?」
「何故俺を怖がらない? これを解呪したら、俺は貴様のような小人など、一呑みだぞ」
言われた意味が良く分からず、ナキは少し迷った後、ふらつきながら立ち上がった。
そして巨大トカゲの方に近づく。
「私で抜けるかどうか分からないけど……」
「貴様死にたいのか? 何故俺を助けようとする?」
「刺さってると痛いよ」
「…………」
疑いの目で沈黙した彼の鼻先によじ登り、ナキは、口元に突き刺さっている杭に手を当てた。
氷のように冷えていて、慌てて手を離す。
そして手に息を吹きかけ、ポンチョの端と一緒にそれを握りこんだ。
杭の先端には、宝石のような石が嵌めこまれていた。
緑色で、丸い。
綺麗な石だなぁと思いながら、ナキは手に力を込めた。
杭は、そんなに深くは刺さっていなかったらしく、ぐらぐらと揺れた。
返しもついていないようで、足を踏ん張ると、少しずつ抜けていく。
痛いらしく、巨大トカゲは歯をカチカチと鳴らしながら目を見開いた。
少しの間力を込めると、意外なほど簡単に、杭はスポンと抜けた。
反動で鼻先にお尻を打ちつけ、ナキは手に杭を持ったまま、数秒間その場にうずくまった。
抜けた解放感と、動かなくなった少女の様子に目を白黒とさせ、少ししてから彼は、くぐもった声を発した。
「だ……大丈夫か?」
「うん……ごめんね、今全部外すからね」
腫れぼったい目を細めて笑いかけ、ナキは見た目よりも重い鎖を引きずって、そして口から解いていった。
最期に牙に穴が空き、南京錠が通されているのを見る。
「鍵がないからあかないよ」
「ここまでやってもらえれば、後は簡単だ」
巨大トカゲはそう言うと、爬虫類の手で鎖を掴み、横に引っ張った。
バキンと硬い音がして、南京錠が壊れて飛び散る。
それを脇に投げ捨て、彼は杭を珍しそうに見ているナキに視線を落とした。
「何者だ貴様……帝国の者ではないな?」
「ていこく?」
「名を名乗れ」
尊大に命令され、ナキは、彼の鼻先に尻餅をついたまま言った。
「ナキだよ」
「姓は何と言う? 主は誰だ? どの命令を受けて、私を追ってここまで来た?」
「追われてるの? あなたは誰?」
問いを無視して純真に聞かれ、調子を狂わされたのか、巨大トカゲは口をつぐんだ。
そして息をついてから言う。
「俺はラッシュ。ラッシュ・クンベルトだ。脆弱な民は、俺のことを、北のアルノーと呼ぶ」
「アルノー? それって、何?」
「ドラゴンだ」
その問いを聞いて、ラッシュと名乗った巨大トカゲは、呆れたように端的に返した。
ドラゴンと言えば、貴族の中の貴族。王侯族とも言える、まるで雲の上のような存在だ。
え? ドラゴン?
……ドラゴンって、あのドラゴン?
そこで始めて、ナキは唖然と言葉を失って、自分が座り込んでいる巨大なモノを見つめた。
熱でぼんやりとしていた視界に、不意にはっきりと、目の前の巨大な猛獣の目が映る。
ドラゴンを見るのは初めてだったが、奴隷である自分が、話しかけていいような存在ではないことは、すぐに理解が出来た。
道端の捨て犬が神様に声をかけるようなものだ。
奴隷は、貴族の通り道をふさいだだけで銃殺されてしまうことだってある。
それなのに自分は、こともあろうに、その頭に乗ってしまっているのだ。
昨日の夜に見た翼は、夢でも妄想でもなかったのだ。
このドラゴンさんが、墜落したところだったんだ。
十二歳の誕生日、その熱に浮かされた日中に、ナキは自分が今、いかに危機的状況に入るのかをやっと理解し……。
乾いた喉に、少ない唾を飲み込んだ。
★
そろそろ規制がかかりそうなので、小休止します。
第2話は0:00に更新を再開します。
★
このSSまとめへのコメント
いつの0:00なの?