佐久間まゆ「微睡みのセレナーデ」 (152)

 仕事が終わってから、まゆが飲み物を飲みたいと言うので自販機でココアを二本買った。
俺はコーヒーが飲めない。いくらミルクや砂糖を入れても、あの独特の臭みに耐えられない。

「ココアは甘くていいですねぇ」

 コーヒーも嫌いじゃないですけど、とまゆは缶を傾けた。

 こうして肩を並べて、缶のココアをすすっているのがなんだか不思議に思える。
 まゆの経歴は華々しい。読者モデルとして活躍していたが事務所を辞めてはるばる上京、
シンデレラガールズに書類審査だけで合格し、今年の三月に仙台から越してきた。

 元読者モデルというのも伊達ではなく、撮影には慣れているし、単純にかわいい娘だった。
 煮ても焼いても食えない名ばかりの候補生がひしめく中では、頭一つ抜けた存在だ。
そんな筋金入りの子を、俺みたいな若造がプロデュースできるとは思わなかった。

SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1406025473

 まゆのお蔭と言えば、そうなのかもしれない。
 あの人以外はイヤです、と佐久間まゆが直々に(どこで知ったのか)俺を担当に希望したのだ。

「俺は構わないけどさ」

「なにがですか?」

「ひとりごと」

 ココアの缶を開けて、一口飲んだ。ミルクとカカオの匂いが鼻を通り抜けていく。
 プロデューサーがアイドルを選ぶのはままあることだが、
アイドルがプロデューサーを選ぶのは例がなかった。
反発がないわけではなかったが、最後にはみんな、まゆの頑固さに折れた。

「ココアは甘くていいよな」

 俺がそう言うと、まゆはにこりと笑った。

 俺をどこで知ったのか、なぜ俺を担当に強く希望したのか、
詳しく聞き出したときも同じように微笑んでいた。

 どこどこで、この人にプロデュースされたいと思ったから。にこり。

 俺が君をプロデュースするのを先輩は面白く思っていないんだ。
そう言っても同じように微笑んでいたはずだった。

 また一口、もう一口と飲んでいると缶が空になった。
まゆも飲み干していて、空き缶を持て余している。

 行くか、と空き缶を備え付けのゴミ箱に放り込む。
人気のない廊下に、がらがらと煩く響いた。
まゆはそっと空き缶を投げた。がらん、とまた響く。

 さて、と踵を返しかけたところをまゆに呼び止められる。

「あの、プロデューサーさん、少しいいですか?」

 つま先にかかる体重が左右に振れて、靴がきゅっと鳴った。

「少しって、どれくらい?」

 ちらりと腕時計を見る。
どうせ今日の仕事は終わって、あとはまゆを女子寮に帰すだけだ。

「そうですねぇ、二分だけでいいです」

「ああ、そう」

 帰り途中にどこか喫茶店へ寄るかと思ったが、本当に大した話じゃないんだろう。
二分と言うと秒に直して百二十秒だが、百二十秒で済む用事なんか考えてみると、
限られてるような気がした。

「じゃあどうぞ」

 そう促すと、まゆは一呼吸置いてから俺の目をまっすぐに見て、言った。

「プロデューサーさん、好きです」

 は、と俺の口が間抜けに開いた。

「マジ?」

「本気と書いてマジと読むなら、マジです」

 どんな返事をしたらいいか分からなかった。
俺にできるのは、間抜けに開いた自分の口に気付いて、慌てて閉じるくらいだ。

 そういえば、俺の先輩はたびたびアイドルに告白されて困る、と嬉しそうに言っていた。
俺は今まで、そういうものとは無縁であったから、ある種のファンタジーだと思っていた。
前の前の担当アイドルは俺を毛嫌いしていたし、前の担当アイドルは俺のことを馬鹿にしていたから。

「プロデューサーさんはまゆのこと、好きですか?」

「ちょっと待ってくれ」

 頭を抱えたかった。
 いや、俺の右手はくしゃくしゃと自分の髪を掻いていたから、頭を抱えたと言っていいか。

「なんで二分で済む話だと思ったんだよ」

「返事次第なら三十秒で済む話じゃないですか」

「いや、お前……」

「好きですか? 嫌いですか?」

 まゆはその場から一歩も動かないのに、なんとなく詰め寄られた気分になる。
 俺は俺の気持ちよりも先に、まゆの気持ちを疑った。

「お前、最初からそのつもりでウチへ来たわけじゃあるまいな」

「……そうだと言ったら?」

「マジかよ。と驚く」

 まゆはくすりと笑った。何度も見たはずの笑顔が、今は違う意味を持っていた。

「一目惚れだったんです」

「信じがたいな」

「まゆ、本気です」

「本気と書いてマジか」

「ええ、大マジです」

 冗談のように言うが、まゆの表情を見ると言葉通りの大マジらしかった。
ようやく冷めてきた頭で、その大マジな告白をものさしで計る。

「きっとその恋は本物じゃない」

 俺がそう言うと、まゆは表情を曇らせた。

「仙台から出てきて、ひとりぼっちだから、
 一番身近な俺を頼らざるを得なくて、勘違いしてんだ」

「まゆは一目見たときから、あなたが好きです」

「そう思い込んでるだけなんじゃないか、と思うんだけど」

 まゆは少し俯いた。幸い、曇ったままの表情から雨は降らなかった。

「少し頭を冷やそう。風邪みたいなもんだ」

 そうだ、恋は風邪みたいなもので、移ろいやすくて、気が付くと失われている。

「行こう。とっくに二分経った」

「待ってください」

 まゆの声はさほど大きくはなかったのに、廊下によく響いた。

「まゆがどうこうじゃなく、あなたの気持ちが聞きたいんです」

「だって、まだ会って三ヶ月くらいだぜ。……考えたこともないや」

「なら、考えてみてください。まゆは、待ちます」

「どのくらい待ってくれる」

 なんとなく、皮肉めいた言い方になってしまう。
待ってるうち、お前の熱も冷めちまうんじゃないか。

「いつまでも」

 まゆはにこりと笑って、じゃあ行きましょうか、と階段の方へ歩き始めた。

 まゆはかわいかった。性格はよく知らない。
履歴書も、詳しいプロフィールも目を通していたはずだが、
まゆの人間像はまるで見えなかった。初めて気づいた。

 まゆのことを知らないのに、好きだの嫌いだの言えないと思った。
 幸い、時間はたくさんあった。まゆはいつまでも待つと言ったのだ。

「まゆは編み物が趣味なんだっけ」

「はい、そうですねぇ」

 帰りの車中では大抵まゆが話しているのをただ聞いているだけだったが、
今日は俺から話しかけた。

「マフラー?」

「とか、セーターとか」

「ふーん」

「編んであげましょうか」

「今何月だと思ってる」

「これから暑くなりますねぇ」

「秋とか、冬だったら嬉しいな」

「じゃあ、そのくらいに出来上がるよう、編みますから」

「手袋が欲しいな。俺の手袋、穴空いてたんだ」

「プロデューサーさんの手の大きさはどれくらいですか?」

 このくらいだ、とハンドルから左手を離して、助手席に座るまゆの方へ見せる。

「結構、大きいんですね」

 ぺたりと、差し出した手のひらにぬくもりを感じる。まゆの右手が重なっていた。

「まゆの手が小さいんだ」

 左手を引っ込めて、ハンドルに戻す。

「楽しみに待っててくださいね」

「はい、楽しみに待ってるよ」

 ハンドルを持った手のひらに、まゆの体温がまだ残っていた。

 ――――

 シンデレラガールズの会社としての規模は小さくはない。
大会社というほどでもないが。

 オフィスにはデスクと印刷機が偉そうに居座っており、
くつろぐためのソファーなんかは当然だが置いていない。

レッスンもトレーナーがほとんど面倒を見るので、
自然、俺とまゆが話す場所、タイミングは仕事中になる。

「プロデューサーさんの初恋はいつでしたか?」

 CDショップに特設したコーナーに、まゆの二枚目のシングルが平積みされている。
その横でまゆは姿勢よく椅子に座っている。俺だったら、テーブルに頬杖をついてしまうだろう。

 まゆは午前からずっと座りっぱなしで、お客に笑顔で呼びかけ、何度もサインと握手をした。

 幸い、と言っていいのかは怪しいが、午後三時を過ぎる頃には、
そもそもCDショップに立ち寄る人も少なく、四時を過ぎた今、すっかり暇になった。

「初恋か……六歳くらいだったかな」

「お相手は?」

「近所のお姉さんで、おっぱいの大きい人だった」

 はあ、と気の抜けた返事をするので、呆れられたかと思ったが、
まゆの表情を見る限りではそうでもないらしい。

「お前は、なんで俺が好きだ」

「さあ、なんででしょうねぇ」

 いたずらっぽく笑うでもなし、ため息をつくでもなし、
まゆは本当に心からわからない風に首を捻った。

「なんかしらあるだろ」

「どうして好き、って、まゆには後付けみたいで」

「理由なんてない?」

「あっていいと思いますけど……」

 まゆはくるりと店内を見回してから、なぜかこっそりと言った。
子供が秘密を打ち明けるときみたいに。

「なぜなら好きだからどうして、なんですよ」

「支離滅裂だと思わないか」

「いいえ?」

 まゆは口を尖らせて、頭をゆらゆらと揺らした。

 時計を見ると四時半になるところだった。ぼちぼち撤収の頃合いだろう。

「俺、片付けとか手伝わなきゃいけないから、着替えて帰りな」

「まゆも、手伝っちゃいけませんか」

「アイドルのやるこっちゃねぇよ」

 さあ行った行った、とまゆの背中を押した。

 十分か十五分かして、着替えを終えたまゆが帰ってきた。
いや、帰ってきたのを見たわけではない。

 店の主人の指示を受けながらCDの配置を元に戻したり、
コーナーに置いたテーブルと椅子を片付けたり、
いつの間にかまゆも一緒になって作業をしていた。

 帰れよ、と言うのもなんとなく躊躇われて、結局全部片付けるまで手伝ってもらった。

「ありがとうございました。またよろしくお願いします」

 店主へお礼を言う段になって、まゆも居てくれてよかったと思った。

 外へ出ると、地平に橙色の太陽が雲から滴っていた。
ふわりと毛布がかかったように、空気が肌を熱した。
夏が道の向こうでひっそりと笑って、俺たちを待っている。

「まゆが居た方がよかったですよね」

 そう言ってにこりと笑ったまゆを見ると、つい頬が緩む。

「そうだなぁ」

「片付けだって、すぐ終わりました」

「疲れてると思ったんだ。すぐに帰らせて、休ませるべきだって」

「プロデューサーさんと一緒に居られるのに、疲れるだなんて」

 まゆの言葉に思わず苦笑いしてしまう。

「マジで言ってんのか?」

「本気と書いてマジと読むなら……」

「ああ、分かった分かった」

 降参、とひらひら手を振る。と、まっすぐプロダクションに帰る道を来てるのに気づいた。

「お前、さっきのとこ曲がるんじゃなかったか」

「ええ、でも、いいでしょう?」

「あ、なんか用事か?」

「いえ、別になにも」

「なら、歩き損だ」

「プロデューサーさんと、もっと話したかったんです」

 また俺は苦笑いしてるんだろう。
こんなセリフ、恥ずかしげもなく言えるのはなぜなんだ。

「……なあ、まゆ」

「はい、プロデューサーさん」

「もう一度考え直してみな。好きかどうか」

「好きです。プロデューサーさんは考えてくれたんですか?」

「……あのなぁ」

「まゆのこと、好きですか?」

 まゆは立ち止まって、くるりと俺の方へ体を向けた。自然、俺も立ち止まる。

「ちゃんと、考えてくれましたか?」

「考えてるよ」

「好きですか、嫌いですか」

「まだ、分からないんだ」

「なら、待ちますから、きっと返事をしてください」

 まゆは元通り前を向いて歩き始めた。それを追いかける形で、俺も歩き始める。

「なあ、まゆ。もしも、もしもだ」

「もしも、なんですか?」

「俺がずっと考えたままで、答えを出さなかったらどうするんだ」

 まゆはにこりと笑った。

「ずうっとお互いのこと考えて、それで結構幸せかもしれませんね」

「……そうなのかな」

「うふふ。実際そうなってみないと、分かりませんねぇ?」

 まゆは俺の左腕を取って、手のひらと手のひらを重ねた。
 初夏の体温よりも熱い、肌の下に通うまゆの血の感触が俺の手にある。

「どのくらいかかるんだ。手袋を編むのって」

「やってみないと分かりません」

「ふーん」

「でも、寒くなる前に完成させますからね」

「そりゃどうも」

 手を引っ込めてポケットに突っ込んだ。
ポケットの中に持ち込んだ自分以外の熱さに少し戸惑った。

 ――――

 プロダクションから近いくらいで、他には取り立てて特徴のない喫茶店の隅っこ。
俺とまゆは向かい合わせに座っている。
ここのコーヒーはうまいと俺の先輩は言うのだが、
俺から言わせればコーヒーなんてどこのも同じようにまずい。

 ミーティングという名目で、かれこれ一時間くらい入り浸っている。
そういえば、アイドルとミーティングをするプロデューサーは少ないと聞いた。
俺の先輩から言わせれば、無駄な時間らしい。まあ、納得できないでもない。

以前に担当したアイドルはただ笑っていた。
俺にはセンスがないとか、あまりにも馬鹿馬鹿しいとか、色々。

「ところで、まゆの初恋はいつだった?」

「子供の頃でしたねぇ。お父さんのこと、好きでした」

「パパと結婚する~、って?」

「そんな感じです」

 幼いまゆが父親に甘えるところを想像するのは易しかった。

「プロデューサーさんの初恋は……」

「前話したろ。近所のお姉さん」

「詳しく話してくれませんか?」

「詳しくっても……面白いものでもないし」

「聞きたいんです」

 まゆがあんまり真剣な目をするので、俺はその恋の一部始終を話して聞かせた。

 本当になんてことのないお伽噺みたいな思い出だったが、
まゆが真剣に話を聞いているのを感じた。

「本当に好きだったんですね」

「そうかな。……そう思うか?」

「そうじゃなかったんですか?」

「今となってはもう……名前も思い出せないし」

 うろ覚えの名前を口にしてみる。
舌に馴染まず、どこか苦みのある忘れかけの名前。
口にした名前が間違っているのかもわからない。

「好きだったんですよね」

「そのときはそう思ってた」

 まゆは手元のカップを取って口に付けた。確か中身はエスプレッソだったか。
 すんと鼻を通ったコーヒーの匂いに思わず顔をしかめる。

「今はそう思わないんですか?」

 なぜだか、俺は答えられなかった。まゆはそれきりなにも訊かなかった。

 まゆの手にあるカップからエスプレッソが干上がって、
それからしばらく窓から覗ける曇り空を見ていた。

「そろそろ、出ましょうか?」

「ああ、そうだな」

 俺は伝票を取って立ち上がった。注文はエスプレッソ一杯。それだけだった。
 外へ出るとすぐ、湿気を肌に感じた。

「恋って、よくわからないんだよな」

 まゆに向けた言葉のはずだったのに、それは宙を漂って、俺の顔の周りを蛾のように飛び回った。

「恋って……よくわからない」

 不意に自分の名前を呼ばれた気がして、俺は後ろを振り向いた。誰も居なかった。

「どうしました?」

「あ、いや……なんでもない」

 さっき口にした初恋の人の名前が間違っていたのを、俺は知った。

 ――――

 先輩のプロデューサーが俺のデスクに手をついて、にっと笑った。

「まゆちゃんはぼちぼちライブでもやるか」

「マジッスか?」

「お前はどう思う? まだ待つか?」

 いつまでも待ちます。そう言ったまゆを思い出す。

「さあ? でも、先輩はライブしようと思ったんでしょう?」

 なら、やりましょうか。と言うと、先輩は深くため息をついた。

「お前はもうちょっと考えてくれたらいいんだけどなあ」

 考えてますよ。出かけた言葉を飲み込んだ。

「いずれにしろすぐって話じゃないが。お前はやるならいつ頃が良いと思う」

「どうスかね」

「ライブまでの間にアルバム一枚出しておきたい」

「ああ、言ってたやつ……じゃあ、半年くらいッスか」

「半年後か。年が変わる前がいい」

「じゃあ十二月とかッスか。場所確保できますかね?」

「小規模のライブだろ。会場は多分大丈夫」

「どこにアポ取りましょうか。その前にちゃんと予定詰めないといけませんね」

「あ、今回の佐久間まゆのライブは、お前に任せるからな」

「マジっすか?」

「前のアイドルのときも、前の前のアイドルのときも、
 他人に任せっきりだったじゃねぇか」

 そうだったか。首を捻ってもわからない。

 それから、まゆがレッスンを終えるのを見計らって、またミーティングをした。
以前と同じ喫茶店で、まゆはエスプレッソを注文した。
この喫茶店にはコーヒー飲料しかないので、俺はまたタダ水をすすっていた。

「ライブですか?」

「十二月くらいに。当面、それを目標にスケジュールを組むから」

「ライブか……」

「思いがけない?」

 まゆの表情からその心中を察するのは、俺には難しすぎた。

「アイドルといえば……ライブですし。
 いつかはまゆも、なんて思ってたんですけど、こんなに早いなんて」

 そこまで言って、まゆは頭をかいた。

「そうですね。思いがけないです」

「……嫌じゃないか?」

「ライブがですか? いえ、むしろ楽しみです」

「てっきりそういう、アイドル的なのに興味ないと思ってた」

「こっち来る前はモデルもしてましたし……」

「俺がプロデューサーやってるからって、アイドルになったんだろ?」

「ええ、そう話しましたね」

「俺がプロデューサーじゃなかったら?」

「別のやり方で会いに来たと思います」

「よかったな、俺がプロデューサーで」

「ええ、本当によかったです」

 まゆはなにか頼んだらどうかと薦めたが俺は断った。
空手で喫茶店に居座ってるわけだが、まゆがエスプレッソを飲んでいるんだから、問題ないだろう。


「好きな人に、アイドルとしてプロデュースしてもらえるなんて、本当に……」

 一口、エスプレッソを飲んで、まゆは夢見心地のような表情をした。
 普通、コーヒーを飲んだら頭が冴えるものだが。

 ――――

 先輩の助言を受けながら、俺はライブの企画を詰めていった。

 ライブの前に発表する予定のアルバムのことを少し話そうと思って、
レッスンの終わりのまゆへ会いに行った。

「ココアのおいしい喫茶店があるんですけど、そこでお話ししませんか?」

 話そうと思えば二分くらいで終わる話だったけど、ココアの誘いは断れなかった。

 まゆの案内で少し歩いた場所にある喫茶店へ来た。
白塗りの壁を木目が残ったままの柱が縁どり、
大きな窓を等間隔に切ったブラインドの隙間から店内の様子が見えた。

ドアを押し開けると、上部に付いた鈴がからんと鳴った。
静かに駆動するエアコンの吐いた風がひやりと肌に浮かんだ汗を冷やして、
七月なのになんとなく肌寒い。この冷蔵庫のような店内には他に客が居なかった。

「ミルクココア、二つください」

 まゆは奥のテーブル席に座ると、メニューも見ずにウェイトレスに言った。

「アイスとホット、どちらにいたしますか」

「俺、あったかいやつ」

「じゃあ、ホットを二つ」

 ウェイトレスがカウンターの方へ去ってから、店主に冷房を少し弱めてくれるよう頼んだ。

 少ししてココアが来ても相変わらず店内はひやりとしていて、
流れるアンビエントミュージックのピアノの音色が余計に冷たく感じさせる。

「七月に、寒い喫茶店で、温かいココアを飲む」

「贅沢ですねぇ」

「そうか?」

 ココアを口に含むと、じんわりと温かさが舌を伝わって身体全体が甘くなった。
 カップを手にほっとため息をつくと、まゆのため息と重なった。思わず頬が緩む。

「確かに贅沢だなぁ」

「そうでしょう」

 まゆはくすっと笑って、またカップを傾けた。

 ココアを飲み干して、おかわりを頼んで、そのおかわりを半分ほど飲んだところで、
本題を思い出した。ココアを飲むのはついでのはずだった。

「ライブまでに発売するアルバムはな」

 話し始めるとまゆはカップをテーブルに置いた。

「今までに出したシングル、っても二枚だけど。
 その曲と、事務所で持ってる曲と、新曲が一個っていう構成にする」

「レコーディングは何月くらいになるんですか?」

「十月から十一月の期間にアルバムを発売と考えると、
 来月から始めなきゃ間に合わないだろうな」

「その、ライブまで結構忙しいですか?」

「……うん」

「お茶してる余裕なんて、ないくらいですか?」

「いや、まゆはいいよ。学生だし、根詰めたらダメだ」

「プロデューサーさんは……」

「今日は小休止」

 俺がカップを持ち上げてココアをすすると、まゆはため息をついた。

「すみませんでした。お仕事、たくさんあるのに……」

「気にしないでいいよ。こんなにおいしいココア、初めて飲んだ」

 俺はカップを傾けて、残りのココアを飲み干した。
 まゆは少し表情を明るくした。

「よかった……」

「もう一杯、飲んでいってもいい?」

「ええ、もちろん」

 ウェイトレスにおかわりを頼んだ。
 時計を見ると、六時だった。俺の座る席から覗く外の景色はまだ明るかった。

「ずいぶん、日が長くなったな」

「そうですね。でも、ちゃんと寮まで送ってってくださいね?」

「分かってるよ」

 運ばれてきたカップを受け取って、またココアを飲んだ。
まゆはニコニコと俺の方を眺めていた。

 心地の良い無言の時間にぽたりぽたりと落ちるピアノの音が、
やはり冷たげに冷房の風と溶け合った。

 ――――

 八月に入る前、担当するアイドルによってはなにかと忙しくなる。あるいは少し暇ができる。
 アイドルと言えど、学生の本分は勉強である。夏休みに入る前の期末テストは受けなければならない。

 仕事の都合でどうしても期末テストを受けられないときは、
特別に一人だけテストの日程をずらしてもらったり、テストの代わりに補習を受けたり。

 まゆも学生であるから、当然その辺はこなさなければならない。

 幸い(と言うべきか)アルバムのレコーディングやライブが控えているとはいえ、まゆは現行の仕事は少ない。

「まゆは勉強はしてるのか?」

「してますよ?」

「……三角関数?」

 俺がサインコサインと唱えると、まゆはタンジェントと付け加えた。

「えーと、かほう、定理? だっけ? は、言えるか」

「ええ、言えますよ」

 言わなくていいからな、と制する。俺は数学が嫌いだ。

「じゃあ、まあ、明日から一週間か」

「ええ、寂しくなりますね」

 まゆが本当に寂しそうにするので、なんとなく俺も寂しくなった。

「向こう一週間、土日もレッスン入れなかったから、ゆっくり羽伸ばせ」

 プロダクションのあるビル、その一階のロビーに人は少ない。いつもだった。
 ココアの缶を備え付けのゴミ箱に放り込んだ。舌に溶けた砂糖の感触が残っていて、胸の辺りが気持ち悪い。
 一度贅沢を覚えると、これだ。

「また、あの喫茶店に行きたいな」

 思わず口に出してしまう。

「いいですね。今度、行きましょう」

「そうだなぁ」

 今度、という言葉のリアリティについて、一度誰かと話がしてみたい。

 まゆの居ない一週間は、レコーディングスタジオをおさえたり、スケジュールの作成、
それから宣伝のことも先輩諸氏に聞き回って、すごく疲れた。

 まゆの教えてくれた喫茶店に暇ができたら行こうと思っていたが、そんなこと忘れるくらい忙しかった。

「ツケだよなぁ」

 青息吐息の俺を見て、先輩はケケケと笑った。

「なんのツケですか」

「そうむっとするなよ。それより、会場はどうだ?」

「候補は三つです。空きも確認しました」

「ふんふん、まあ、いいじゃんか」

 それから、先輩は俺の机にある企画書に気付いて、またケケケと笑った。

「どうだ、企画のとこにお前の名前があるのは」

「なんだか、変な気分です」

「失敗してくれるなよ。金出すのはお前じゃないからな」

 先輩は俺の企画について聞いて、それからまゆのこともそれこそ根掘り葉掘り聞き出した。
やはり、俺がまゆをプロデュースすることをあまり良く思っていないんだろう。

「そういや、アルバムに収録する新曲、決めたのか?」

「はあ、決めました」

「どれ、ちょっと聞かせて見ろよ」

 いや、とか、ちょっと、とか控えめに断っても先輩は引き下がらなかった。
 渋々、ポータブルプレイヤーにイヤホンを繋いで、聴かせる。

 五分近い曲で、アルバムに収録する中では比較的長い曲だ。
先輩が聴いている間にできることはないかと、
机を見回してみてもなにも見つからなかった。五分間、ぼーっとしていた。

「センスいいな、お前」

 イヤホンを外して、先輩は真面目な顔で言った。

「センスがいいのは、俺じゃなくて作曲家でしょう」

「これ、タイトルは? あと、詞は?」

「詞はもうあります。タイトルは『エヴリデイドリーム』ッス」

「エヴリデイドリームッス?」

「あ、いや、エヴリデイドリーム……ッス」

「紛らわしいんだよ、お前は」

 先輩は俺の頭を軽く小突いて、鼻歌を歌いながら自分のデスクへ戻って行った。
 鼻歌のメロディには聴き覚えがあった。デイドリームビリーバーだった。

 土曜日になると仕事も落ち着いて、ココアの味が恋しくなる程度に余裕ができた。

 例の喫茶店に行ってしまうか、もう少し仕事をするか、
悶々と頭を巡らしているときだった。携帯電話が鳴ったのは。

「もしもし、まゆです」

「やあ。テスト、お疲れさま。どうだった?」

「ご心配には及びません。プロデューサーさん、今、お忙しいですか?」

 疑問形の中にどこか臆病な雰囲気を感じた。
それを消し去ってしまえるように、明るい声を出してやる。

「一段落したところだ。今は喫茶店で一休みするか、考え中」

 スピーカーの向こうで、まゆが安心したように微笑むのを想像した。

「なら、一緒に行きませんか? 前、二人で行った店」

「ああ、いいよ」

「プロダクションのビルの一階で待ってますから」

「……はーい」

 電話を切ってから思わず苦笑いする。断ったら、どうするつもりだったんだろう。

「お前もだんだん、アイドルの扱いが上手くなってきたな」

 顔を上げると、先輩がにやにやと笑いを浮かべていた。

「そうッスかねぇ」

「そうッス」

 先輩はケケケと笑った。

「俺、ちょっと出てきます。喫茶店に」

「聞いてたよ。一段落したんだろ?
 このまんま帰っても文句は言わねぇよ。土曜日だし」

 行ってらっしゃい、と先輩に見送られてロビーへ行くと、
備え付けのソファーにまゆが行儀よく座っていた。
そして、エレベーターから降りた俺をすぐに見つけると、立ち上がってにこにこと手を振った。

「……待ったか?」

「いえ、全然」

 まるで恋人みたいな会話だなあ、と俺が思ったのだから、まゆもきっとそう思ってるのだろう。
 ロビーに人はほとんど居ないが、なんとなく恥ずかしくなった。

 行こう、とまゆを急かした。

 ビルを出ると、全身にセミの声がじゃあじゃあと浴びせられる。
シャワーなら涼しいが、セミの声なら暑さに拍車をかけるばかりだ。

「テストはどうだった」

「さっきも言った通り、ご心配には及びませんよ」

「……じゃあ、これ以上は聞かない」

 お互いに口を閉じると、セミの声がまたじゃあじゃあとうるさかった。
セミの声のせいで実際の暑さよりもずっとずっと暑くなっているのだと思った。

「あの喫茶店はまだ寒いままなのかな」

「暑くなってきたので、もっと冷房強くしてるかも知れませんよ?」

 違いない、と笑っているうち、あの喫茶店に着いた。
ドアを開けると中のひやりとした空気が漏れ出て、セミの声と混ざってぬるく身体を撫でる。

ドアに付いた鈴が以前と同じように、からんと鳴った。

「二名様ですか?」

「ええ、二名様です」

 ウェイトレスに、見れば分かるでしょう、とついつい言いたくなるのを堪えて、
案内されたテーブル席に腰を下ろす。

 店内は相変わらず寒いくらいに冷房が効いていて、
相変わらずアンビエントミュージックがひんやりと流れていた。

 なんだか、ここだけ違う時間が流れているような気がする。

「ご注文は?」

「ミルクココアを二つ」

「アイスですか? ホットですか?」

「二つともホットで」

 いいですよね、とまゆは俺の方をちらりと見た。俺は頷いた。

 少し間を置いて運ばれてきたミルクココアは、前と同じように甘く身体を温めた。

「ココアは甘くていいな」

「そうですねぇ」

 久しぶりのおいしいココアをすすりながら、まゆのこれからの活動について少し話した。
当面の目標はアルバムの発売、ライブの成功の二つだ。

そのあとのことについて、俺はほとんど考えていなかった。

「まゆはアイドル続けるよな?」

「ええ。あなたが好きと言ってくれるまで」

「なんだそりゃ。好きって言ったら辞めるのか?」

「それはわかりませんけど」

 まゆには珍しく、どこか悪戯っぽい笑い方をした。

「とにかく、好きって言われるまでは辞めません」

 気が付くと、カップは空になっていた。
ウェイトレスにおかわりを頼んで、運ばれてきた二杯目に口をつける。

「今後、どういう方向でやっていきたいとか、ある?
 どのみち、ライブの後からだとは思うけど」

「そうですねぇ。プロデューサーさんの担当していた、前のアイドルの子……」

 まゆが口にした名前になんとなく居心地の悪さを感じる。
同時に、まゆと居るときの居心地の良さを初めて意識した。

「あの子の着てた衣装……ああいう服、着てみたいです」

 確か、ピンクを基調としたステージ衣装で、ところどころにフリルがあしらわれてたやつだ。
その衣装を見て、前のあの子はあからさまに嫌そうな顔をしていた。

 まゆはその子よりも背が低く、全体的な雰囲気も幾分丸い印象だが、きっと似合うだろうと思った。

「今度のライブはああいう衣装でやろうか」

「本当ですか?」

「なに、それくらい……それより、もっと長い目で見た方向をだな」

「それはお任せします」

 まゆはココアを一口飲んで、にこりと笑った。

「あなたに全部、プロデュースしてほしいから……」

 なるほど、と俺は妙に納得してココアをまた一口飲み込む。

 ――――

 テストの返却も済んで(まゆの点数は本当に心配のないものだった)、
まゆが夏休みに入ると本格的にアルバムのレコーディングが始まった。

 今までに録ったシングルの曲たちは、余裕があれば再レコーディングということで後回しにする。
自然、レコーディングの順は、プロダクションで保有している曲と新曲が先になる。

 ボーカルのレッスンで何曲か練習していたはずなので、
先に保有している曲のレコーディングを先に済ますことにした。

「まゆの歌、どうでしたか?」

 試しにトレーナーさんと俺の前で歌ってもらったが、いい意味で期待を裏切られた。
 まゆの実力についてはよく知っているつもりだったのだが。

「思ってたよりずっと良かった」

 本心からそう言うと、まゆも本心から嬉しそうにうふふっと笑った。

 夏休みのうちにレコーディングを進めてしまえば、ライブの準備に時間を回せる。
 まゆも俺も初めてが多すぎるが、幸いなのは二人とも決して小さくはないプロダクションに所属していることだ。
先輩が多くいる。多少なりともコネと実績がある。

 レッスンとレコーディング、それから俺は事務関連、まゆは学校の課題と、
量自体は多かったが、やるべきことはシンプルに定まっていた。

 レコーディングが順調に進んで夏休みも三分の二を消化した頃、
そろそろ新曲『エヴリデイドリーム』に取りかかろうかと話すと、まゆは嬉しそうに頷いた。

 音源と詞は以前から渡してある。まゆはこの曲を気に入ったらしくこっそり練習していたらしい。

 心強かった。きっとこの曲はアルバムの、いわばキラーチューンになると予感していたから。

「この曲、大事だと思うんだ。だから、妥協しないでやろう」

「……分かりました」

 言葉少なに自分の気持ちが伝わることが、とても嬉しかった。

 だが、ここへ来て『エヴリデイドリーム』は大きな壁となった。
 妥協しない。その決意は時に呪いのように付き纏ったから。

 トレーナーさんにもういいでしょうに、という顔をされても、納得できるまでレコーディング本番には臨みたくなかった。

 まゆの歌唱技術は確実に上がっていった。
もっと感情を込めろと言えば、まゆはそう歌った。
やっぱりもうちょっとあっさり歌えと言えば、その通りに。

詞の解釈も二人で一緒に考えてみたりした。

 そうこうしているうちに、まゆの夏休みは終わってしまった。
 夏休みの残っていた二週間を、『エヴリデイドリーム』のためのレッスンに費やしてしまった。

 新学期のごたごたや、小さな仕事をちょこちょことこなすと、
月めくりのカレンダーのページが新しくなった。
九月。そういえばセプテンバーなんて曲があったな。

「そろそろ、アルバムの宣伝始めるんだろ」

 先輩が俺の脇腹を肘で突いて、二、三の嫌味を言った。

「失念してました。これから急いで準備します」

「おいおい。……広報の方には俺から言っとくから、お前はお前の仕事やっとけよ」

「あ、いえ、大丈夫です。俺から言います」

「そうか? なら、なにも言わねぇが。レコーディング、手間取ってんのか?」

「……少し」

「その辺に口出すつもりはねぇけど、思わぬずっこけ方すんなよ?」

「分かってます」

 舌打ちしたいのを堪える。
 最近、考えがまとまらない。先輩の言うように思わぬずっこけ方は、本当に怖い。

 とりあえず『エヴリデイドリーム』が済めば、アルバムに関しては九割方完了だ。
会場の確保やなんかも、これから本格的にやっていかなければならない。

 改めて思うが、本当にぎりぎりだ。

 広報担当に頭を下げに行って、それからまゆに会いに行った。

「今日、レッスンはここまででいいですか」

 二、三回、曲を通してみたところで、レッスンの中断を申し出た。
 トレーナーさんも俺たちが行き詰っているのを知っているから、快く承諾してくれた。

 喫茶店へ行く気にもなれず、プロダクションのあるビルのロビーで俺はココアを二缶買った。
一つをまゆに渡して、備え付けのソファーに腰を下ろす。

「なあ、まゆ。もう、レコーディングするべきかな」

「それは、妥協ですか?」

 まゆが缶のプルタブを起こすと、ぷしゅっという音のあと、
ほのかにココアの香りが俺の鼻まで漂った。俺も缶を開けた。

「多分、そう……」

「まゆは、プロデューサーさんがそうしようって言ったら、そうすると思います」

 お互いに缶を開けたものの、口は付けなかった。

「……あの曲は要というか、アルバムの中で妥協しちゃいけないポイントだと思うんだ」

「そう思うなら」

「でも、この調子じゃいつまでかかるか」

 まゆはココアを一口飲んだ。そして、ふっと短いため息のあとにもう一口飲んだ。

「少し、休みませんか」

「休む暇なんて……」

「今日一日だけ。距離を置きましょう」

 私たち、距離を置きましょう。なんて言えば、まるで恋人同士みたいなセリフだ。
俺はそう思ったが、まゆはどう思っただろう。

「なにも考えない時間、少しだけ必要だと思うんです。
 まゆも、プロデューサーさんも……ね?」

 そうだな、とため息混じりに俺が答えると、まゆは立ち上がった。

「私、今日はこのまま帰ります」

「分かった。気を付けて帰れよ」

 まゆはぺこりと頭を下げて、俺の視界の外へ歩いて行った。
 口が開いただけのココアの缶が手にあるのを思い出して、ぐいっと飲む。
胸の辺りがやたらと甘かった。

 ココアを飲み干したあと、デスクに戻った。
やらなければならないことは目の前にたくさんあるような気がした。
それらはふわりふわりと鉢の金魚のように漂って、手を伸ばすと逃げて行った。

 なにも考えない時間、少しだけ必要だと思うんです。
 まゆの声がまだ耳に残っていた。確かに、少し疲れているのかもしれない。

 俺は荷物をまとめてデスクを立つと、オフィスから出て行った。
誰も俺を呼び止めないのは、俺の影が薄いからか、それとも単に忙しいだけか。

 時計を見ると、四時だった。蕩けたバターのような太陽がだらだらと地平に落ちて行く。
 この間までは七時近くまで明るかったのに、八月の終わりくらいから段々と日が短くなってきているのを感じる。

 ただ、九月に入ったとはいえ、まだまだ暑さは肌を焼いてくる。

キリが悪いですが、今日はここらで。
明日後半投下します。

続き、投下します。

 家へ帰る頃には汗がべたべたして気持ち悪かった。

 スーツを脱いですぐ風呂場に入る。
 コックを捻って、ぬるいシャワーを頭から浴びると汗が溶けて排水溝に流れていく。
ボディソープを手に取り、泡立たせて身体を洗って、ざあざあと流す。髪も似たように。

 皮膚を弾く水から意識を移して、なにか考え事をしようと思ったが、
なにも考えない時間が必要、と反射のようにまゆの声を思い出した。

ばしゃばしゃとシャワーの音に声は埋もれて、俺はまゆのことを考え始める。
仕事のことじゃなく、ただ、まゆのことを考えるんだから構わないだろう。

 まゆは今なにを考えているだろう。俺のことを考えていてくれてるだろうか。

 ふと、時間が止まったような気がした。
だけど、ざあざあとシャワーの音は煩くて、やっぱり時間は止まっていなかった。
心臓の辺りが凍ったような気もしたけど、どくどくと煩い音を全身に響かせている。

 頭の中がノイズと、その冷たさに戦慄いている間に、俺は気付いてしまった。

 ああ、と風呂の壁に手をついた。
シャワーのノズルから噴き出すぬるま湯に髪を濡らしながら、
俺は古傷の痛みを確かに感じていた。

 まゆのことを、好きになってしまっていた。

 ため息を一つ石鹸の香りに溶かして、シャワーのコックを締めた。
ぴたぴたと身体から床に水滴が落ちた。

 風呂場から出てタオルで身体を拭くと、初恋の人の名前を思い出した。
 口にする勇気はない。

 ――――

「最近、元気がないですね?」

 まゆは目ざとく俺の変調に気付いてくる。
 いや、とか、ああ、とか曖昧に返事をして少し距離を取ると、その分まゆは距離を詰める。

「なにかあったんですか?」

「……最近、気温が下がってきてるし、季節の変わり目だから」

「気を付けてくださいね。あ、そうだ、もうすぐ手袋完成するんです」

 そう言って、まゆは俺の手を取り手のひらを重ねる。
体温とその皮膚の柔かさに心臓が叫び声をあげた。
反射的に手を引っ込めると、まゆはちょっと驚いたようだった。

「あ、ごめん……」

「いえ……?」

 今日もまた『エヴリデイドリーム』のレッスンだが、もう逃げ出してしまいたかった。
まゆの歌を聴いて、トレーナーさんに意見を求めて、でも心はどこか上の空だった。

「プロデューサーさん、今日はどんな風に歌えば……?」

 まゆは俺の指示をじっと待っていた。もうウォーミングアップは済んだらしい。
 どんな風に。感情的に、とか、譜面通りかっちり、とか、言うだけなら簡単だった。

「今日は、まゆの思うように歌ってくれないか」

 人が見れば、ただ放り投げただけに思えるだろう言葉を聞いて、
まゆは力強く頷いてくれた。

「じゃ、始めましょう」

 トレーナーさんが音源を流すと、まゆの背筋がピンと伸びた。そして歌い始める。
 俺は耳を塞ぎたくなった。今まで何度も聴いたまゆの歌だったのに、まったく違って聴こえた。

 曲が終わるまでまゆの姿から目を逸らしていた。

「どうでした?」

 歌い終えたまゆの質問に、トレーナーさんがまず答えた。

「うん、良かったと思うわ。今まで、さんざ練習したのが十二分に発揮できてて」

「プロデューサーさんは……?」

「ああ、いや、ええ……まあ、俺もそう思う」

 歯切れの悪い返事に、まゆもトレーナーさんもちょっと笑った。

「プロデューサーさん、まゆちゃんの歌に感動しちゃった?」

 トレーナーさんがからかうのを無視して、俺はまゆの方へ向き直った。
目を見ると、なぜだか首筋が熱くなるような気がした。

「これで行こう。レコーディングしよう」

「おお、ついに!」

 トレーナーさんが声を上げた。そちらを見ると、彼女はぺろりと舌を出した。

「いや、だって、こんなに時間かかると思わなかったので」

 それはそうだ。俺だってこんなにてこずると思わなかった。

「最初から、こう指示すればよかったな」

「でも、最初からこうは歌えなかったと思います」

「そうかもなぁ」

 それから二日後に『エヴリデイドリーム』のレコーディングを行った。
今まで苦労していた割に、レコーディングそのものはあっさり完了した。
それから、今までのシングル曲も同じようにあっさりと、しかし以前より数段上の再録音ができた。

 レコーディングが済んでからは、ボーカル一辺倒だったレッスンを徐々にダンスやヴィジュアルの方へ重心を移していった。

 ディスクジャケットや宣伝用の写真の撮影など急ぎ足でこなすと、
九月も後半に差し掛かり、残暑は引き潮のように遠くへ行ってしまった。

 アルバムを十月の下旬に発売することと、十二月の頭にライブを開催することを発表したが、
世間の反応は可もなく不可もなくといったところだ。
まゆのランクを考えれば妥当だが、俺は「もっと」と考えずにいられなかった。

 とはいえ、アルバムはまだ発売していないし、ライブまでは三か月ほど間が空いている。
どのくらい、期待を裏切れるか。それで、まゆの今後が決まるような気がした。

 まゆの今後か。

 アイドルとしてのまゆの今後の他に、もう一つ思うことがあった。

 俺がまゆを好きだと言ったら、まゆはアイドルを辞めるのだろうか。
どのみち、ライブが終わるまでは話すことじゃないが。

 なぜだか、ナイフを隠し持っているような気分で、日々を過ごした。

 事務仕事の他、各方面との打ち合わせなどの合間にまゆのレッスンを見に行く。

 ライブでの立ち回りは、俺よりもトレーナーさんの方がずっと詳しいので、あまり口出しはしない。

 二人のやり取りを覗いていると、まゆは気付いて、にこりと微笑んでくれる。
俺が合間を縫ってレッスンを見に行くのは、ほとんど、その微笑みに誘われたからだ。

 頭の中でライブのセットリストを何度も組み替えている間も、
目だけはまゆの二の腕や首筋を追っている。

 忘れかけていた気持ちを今また感じて、そのうち古傷が隠れてしまうと、恋に段々と慣れていった。

 幸せなんだと思った。好きな人が、自分のことを好きだと知っているのは、とても。
まゆはきっと、俺がまゆを好きだとは知らないんだろう。
いつの日かそれを教えてやれたら、それは幸せだろう。

 胸や喉の辺りがくすぐったくなり、にやにやと笑いたくなる。
 まるで、手の内が見えているババ抜きだと思った。
どの札を取るかはもう決まってる。迷うフリだけしてればいい。

「遅れちゃったけど、誕生日プレゼントになにか欲しいものはあるか?」

 まゆの誕生日が九月七日だと知ったのはつい一昨日だった。
そして、なにかプレゼントしていたら喜ぶだろうと思いついたのは昨日で、
『遅れちゃったけど』と覚えているフリをしたのが今日。

 まゆは少し考えてから、身に付けられるものと答えた。

「なんでもいいです。身に付けられるものなら」

 真っ先に思い浮かんだのは指輪だった。

「分かった。楽しみに待ってくれ」

「ええ、楽しみに待ってます」

 近頃はまゆの目を見て話すことが少ない。
まともに目を見るとざわざわと浮足立ってしまうから。
その分、まゆの髪や手を見ることが多くなった。

「まゆの髪は綺麗だな」

 手を伸ばしかけて、まゆが振り返るからそれを引っ込める。

「そう言われると、嬉しいです……」

 まゆの手が髪をさらりと撫でた。
 プレゼントは髪留めでもいいかも知れない。ふと、そう思った。

 ――――

 気持ちが塞ぎ込むことは何度経験しても慣れない。
全身の内圧がどんどん上がって、それを和らげようとため息がすかすかと止めどなく漏れる。

癒着したはずの傷から赤黒い涎が垂れているのはまゆのせいじゃなくて、自分のせいだった。

 今日でまゆの誕生日からちょうど二週間経った勘定だ。

「久しぶりにココアが飲みたいんだけど、行かないか」

 夕方のレッスンの終わりに俺はまゆを誘った。
プレゼントを渡すだけなら二分もかからないが、ワンクッション置きたかった。
手の内の見えるババ抜きであっても、俺は臆病さから抜け出せなかった。

「あの店ですか?」

「そう。まゆはこのあと予定は?」

「ないですよ」

「じゃ、行こう」

 外へ出ると、もう太陽は傾いていた。
 しおれたシクラメンのような空の色に、紫煙の雲が細く流れていく。
辺りは空模様に飲み込まれて、淡く赤紫に塗られた。

 風が吹くと、皮膚の表面がさらさら冷える。

「もう、夏は終わったんだな」

 ついひとりごとのように言ってしまって、
隣に歩いているはずのまゆへ声が届いたか心配になる。

「今年の夏は忙しかったよな」

「去年、一昨年はどうだったんですか?」

「どうだったかな。先輩の手伝いをやたらめったらさせられた覚えがある」

 去年も一昨年も、それはそれで忙しかったような気がした。

「今年はほら……ライブとかアルバムのプロモートがあったし」

「……上手くいけばいいですね」

「不安か?」

「正直言えば、不安です」

 けど、とまゆは付け足した。

「プロデューサーさんのこと、信じてますから」

 まゆがどんな表情をしていたか、俺は知らない。
空がその裏側で内出血しているような色をじっと見ていた。

 向こうに例の喫茶店が見えた。
シルエットの内に四角の窓がぽうっと光っていて、その中でカップを拭く店主が見えた。

 俺は鞄にしまったプレゼントの包装を思い出す。
中身は指輪でも髪留めでもなく、ネックレスだ。
喜んでくれるだろうか。いや、喜ばないはずがないんだ。

 これをプレゼントするついでに、いっそ告白してしまおうか。

 喉の辺りがくっくっと音を立てた。
同時に胸の辺りからざあっと血が流れて、全身がくらくらとした。
舌の内側がくすぐったく、背骨がかたかた音を立てているような気がした。

「プロデューサーさん……?」

 まゆが俺の上着の袖を引いていた。左腕のうぶ毛が逆立った。

「な、なんだよ」

「あの、喫茶店……」

 振り返った後方に、喫茶店の玄関があった。
ぽうっと洋風のランプが橙色に濡らしている。

「ごめん、ぼーっとしてた」

 くすっと、まゆの笑い声が耳に温かい。

「少し、疲れてるみたいですね」

「そうみたいだ」

 踵を返して、喫茶店のドアに手をかける。
瞬間、無音の一閃が俺を釘付けにした。

 ふっと漏れた息がカサカサと俺の感覚を奪って行く。

「どうしました?」

 まゆの心配そうな声で、我に返った。

「あ、いや……ごめん。またぼーっとしちゃってたみたいだ」

 液体窒素かなにかをかぶったように凍りついた肺は、形を保ったまま呼吸を再開した。

 俺は全てを後悔した。
 恋がささいなことで始まるなら、ささいなことで詰んだりもする。

「なんでもないんだ」

 右手がドアにかかったままだった。ぐっと力を入れ直して、押し開ける。

からん、と鈴が鳴る。さすがに夏が終わると冷蔵庫じみた冷気は姿を消したらしいが、
アンビエントミュージックもそのままにやはりどこかひんやりとしていた

「ご注文は?」

 テーブル席に向かい合わせに座ると、すぐにウェイトレスが注文を取りに来る。
今日も客は俺たちの他に居ない。隔離された世界でもてなされている気分だ。

「ミルクココアを二つ」

「アイスとホット、どちらにいたしますか」

「あ……ちょっと、待ってください」

 注文が済んでしまう前に、俺は遮った。

「自分の分は自分で頼むから」

 メニューを取って、開く。コーヒーを使った飲み物の他には、
クリームソーダやオレンジジュースなどがあったが、身体が冷えそうで嫌だった。

 メニューに連なる飲み物をぐるぐると見回して、結局俺はミルクココアのホットを注文した。
以前と同じ注文。まゆと同じ注文。

「以上でよろしいですか?」

「あ、いや……えと、チョコレートケーキも」

 メニューから顔を上げると、まゆが少しびっくりしたように俺の方を見ていた。

「まゆも食べる?」

「……いいんですか?」

 チョコレートケーキを二つ、とウェイトレスに伝えてメニューを閉じた。

「なにかあったんですか?」

「別に、なにも」

 あるよ、けど言えない。なんて言うよりも簡単だろう。

 無言の倦怠が自分とまゆとの空間に広がって、そこへぽたりとピアノの音が落ちてきた。
ココアが運ばれても、チョコレートケーキにフォークを入れても、
不安感が色づいて気味悪くテーブルの上に居座った。

 お互いの皿からチョコレートケーキがなくなった頃、まゆは鞄からなにやらごそごそと取り出した。

「プロデューサーさん、編んでいた手袋ができあがったのでよかったら……」

 小さな紙袋が、テーブルの上に置かれた。
ぴくり、と自分の胸の辺りが跳ねるのを感じるが、すぐに重苦しい煙に燻される。

「大きさとか形とか、ちょっと変かも知れませんけど」

 まゆの胸元で両手の指がくにゃくにゃと組体操をしている。

 俺は冷たい肺を自覚した。

「いらない」

 まゆを傷つけるつもりじゃなかった。
それまで持っていたナイフとは違って、殺すのはまゆじゃなくて俺自身だから。

「……そうですか」

 怖くて、テーブルを見つめたから、俺にまゆの表情は分からなかった。
視界の隅っこで、まゆの手が紙袋を抱き寄せた。

 皿とカップのような空っぽの沈黙に、カウンターから水の沸騰する音がこぽこぽと沈殿した。
その音の丸い泡に、かちゃかちゃと食器の擦れる音が突き刺さって穴を空ける。
溶けだした空間に、ピアノの音が魚みたいに身体を滑り込ませてくる。

 口の中に残ったココアの甘さが、舌先を焼いていた。

 少ししてから、俺たちはのろのろと喫茶店を出た。

 歩いている間に、俺は店に入る直前に感じた、あの無音の一瞬間を言葉に並べ替えてみた。

 俺はまゆにいっそ告白してしまおうかと考えていた。
 そういえば、結局ネックレスも渡さないままだった。もう無駄になった。

 俺は手袋を受け取れなかった。自分の恋心が本物かどうか、わからなくなったから。

 以前、告白を受けたときに、俺はまゆの恋を偽物だと言った。
俺は俺の恋をどうして本物だと言えるだろう。
まゆに訊かれたら、自分がどれだけ傷つくか想像したくなかった。

 肺から身体中へ空ろに広がる泥のような感情。

 俺にまゆを好きだと言う資格はない。それだけが頭の中でリフレインした。

 ふと気が付くと、一人で道を歩いていることに気付いた。まゆが隣にいなかった。

 ため息が秋風にバラバラと飛んで行く。
 こんな風に知らない間に独りになるんだろうか。

 切り落としたアクアリウムのような夜の中に一人で泳いだ。

 家に帰るとすぐ寝床に潜り込んだ。

 自分は傷だらけのような気がした。
それ以上にまゆを傷つけたことを考えると、
これから見るべき夢もギザギザに切られるような予感がした。

 ――――

 幸いと言っていいのかわからないが、まゆの態度に変化はなかった。
本当にいつも通りに見えた。

「俺は昨日、まゆに『さよなら』と言ったか?」

 レッスンの休憩中に訊くと、まゆは少し不思議そうに俺の方を見た。

「……ええ、言いましたよ」

「そうか。なら、いいんだ」

 それだけ確認して、あとは俺もいつも通りに振る舞った。
 レッスンを見て、ちょっと口出しして、デスクに戻って。

 俺が勝手に失恋したところで毎日はいつも通りだった。
表面上は以前とまったく変わりなかったと思う。

 まゆを嫌いになろうと思った。そうすれば、苦しむこともない。傷つけたことの理由にもなる。

 実際、嫌いになろうと努めたが、あまり上手くいかなかった。
俺にまゆを無視することはできなかったし(それは仕事という面でも、単に感情の面でも)、
まゆの笑った顔を見てしまえばまた好きになっていた。

 好きなのに好きだと言えないことがつらかった。
 傷つけたことを後悔すれば、最初から好きにならなければと考える。

 そして、そうした祈りもまた、まゆの笑顔で忘れてしまうのが常だった。

 今朝もまた、まゆのことを考えながら、自分のデスクに腰を下ろす。
月めくりのカレンダーの写真がいつの間にか変わっていて、それで九月が終わったのを知った。

 アルバムの発売は十月の下旬。あと二週間と少しもすれば、
ついに初のフルアルバムが発売、新曲『エヴリデイドリーム』のお披露目だ。

「まあ、最初だし、あんまり期待はしすぎるなよ」

「……わかってますよ」

 毎度毎度、先輩は俺の高揚を冷ますようなことばかりを言う。

「で、ぬかりはないよな? 俺が手伝ってんだから、ないだろうが」

「ええ、ええ、大丈夫です。多分」

「そう鬱陶しがるなよ。先輩だぞ俺は」

 実際、先輩にはかなり助けられている。
書類の作成、アポの取り方、照明の指示、エトセトラエトセトラ。
先輩の補佐役だった俺が補佐される側に回ると、今まで知らないでいたものの多さにただ驚くばかりだった。

「お前もいずれは、一人でこなすようになるんだぜ」

 先輩にそう言われても、実感が湧かないままでいた。
以前とはまったく違っているが、今は今が永久に続くような気がした。。

「ところで、ちょっといいか」

 はい、と声を震わせずに返事をできてとりあえずほっとする。
先輩の、ところで、にロクなことがないというのは、三年一緒に仕事をしてきて見出した経験則だった。

「お前はさ、まゆちゃんをプロデュースするのどうだ?」

「どうって、言われても」

「ほら、例えばやりがいはあるか? とかさ」

「そんなこと訊いてどうするんです」

 俺がそう言うと先輩はちょっと肩をすくめてから、躊躇いがちに言った。

「他の奴がさ、プロデュースしたがってるんだよ」

「他の奴って」

「名前は言わねぇけど。なんか、まゆちゃんのこと気に入ってるみたいでさ、
 ともすればお前を引っぺがして……なーんて、ありえなくはないかもよ」

 そうですか、と俺は呟いて思考の中に入って行った。
俺はまゆから離れてしまった方がいいのかもしれない、なんて卑屈な色に染められていく。

「それ、いつ頃ですか」

「いつ頃もなにも、なんか言われてもお前断るだろ?」

 その質問に俺が答えないので、先輩は呆れたようにため息をついた。

「まゆちゃんはお前を選んだんだぜ。ここへ来たとき」

 傷んだ恋心が腐りかけの痛みにびくりと震えた。

「でも……」

「なんだよ?」

「……すみません、なんでもないです」

 身体の中で気怠い血がぐるぐると回る。
なんでもないわけないのだが、水泡のように浮き上がる自分の言葉はいかにも頼りなく、
恥ずかしいくらいに幼稚だった。

 言い訳を探しに行くつもりではないが、俺はデスクを立って、
レッスンを終えたはずのまゆに会いに行った。

 レッスンはもう終わっていたが、まゆとは入れ替わりになってしまったらしく、
スタジオにはトレーナーさんしかいなかった。

 ちょうどよかった、とトレーナーさんは俺を手招きした。
本当はまゆを探しに行きたかったが、会ってなにを話せばいいかは分からないような気がした。

「あのぅ。まゆちゃん、最近悩んでるみたいですけど、なにか心当たりありませんか?」

 胸の辺りが波立ったのを感じた。

「悩んでるんですか」

「あんまり、表に出す子じゃないんですけど……なにか知りませんか?」

「……すみません。思い当たりません」

「そうですか。プロデューサーさんならきっと、って思ったんですけど」

 多分、トレーナーさんの勘は外れちゃいないはずだ。

 廊下へ出て、壁にもたれると自然とため息が出る。
目をぎゅっと閉じて、取り囲む闇に似た自分の胸中を探った。

 まゆが悩んでいると聞いて、俺はピリピリとしたくすぐったさを舌に感じた。
今も感じている。もっと強く目を閉じても、自分の気持ちは黒く塗りつぶせなかった。

 まゆはきっと、俺のことで悩んでいるんだと思った。
身体の芯が焦げたみたいにぞくぞくと気持ちが震える。

 こんな喜びの湧く自分は変だ。
 まゆを傷つけたのがこの感情だと思うと、ただ悲しかった。

「プロデューサーさん……?」

 まゆの声に、固く閉じていた目がぱっと開いた。
よほど力が入っていたらしい。白塗りの壁が緑色にちかちかと見えた。

「どうかしたんですか? なんだか、つらそうですけど……」

 まゆは心配そうに俺の顔を覗きこんだ。
恐らくジャージがしまわれているであろう鞄が、まゆの手に提げられていた。

「いや、なんでもないんだ」

 なんでもないなら、こんな大袈裟に苦しむ必要もないのに。
喉の奥の方で薄曇りの空がぐるぐると回っている気がした。

 俺のことから目を逸らしてほしかった。

「なあ、まゆ、悩みごとがあるならすぐに話すんだぞ」

 気遣いと見せかけて、俺は牽制球をなんの躊躇いもなく投げた。
俺は恋をしてからというもの、失うことに対して臆病だったから。

 まゆはその牽制球を慌てずに処理した。

「プロデューサーさんこそ」

 そして、まゆは俺の味方なのか、敵なのか失念していたのに気付いた。
つまりは俺の牽制球を冷静に受けてくれるのか、それとも怯えるのか。

「プロデューサーさんこそ、悩みがあったら話してください」

「俺は……いいよ」

 話せるもんか。俺はまゆのことでしか悩んでない。

「……そうですか」

 なぜと訊かないのは、まゆなりの優しさなんだろうか。
しつこく訊いてくれたら、俺は謝りながら愛の言葉を吐き出したかもしれない。

「それじゃ、まゆ、帰ります」

 さっと身を翻して、エレベーターへと歩いて行ったまゆを、俺は追った。

「ロビーにココア買いに行くんだ」

 誰へ向けたのか、言い訳が口を突いて出た。
 目前のエレベーターのドアが開くと二人で乗り込んで、一階まで降りてまた二人で降りた。

 ロビーから覗けるガラス戸の向こうで、フィルムのノイズみたいに雨が降り積もっていた。

「まゆ、傘は?」

「持ってきてないです」

 確か、俺のロッカーの中に一本、傘が入っていたはずだ。

「ちょっと待っててくれ。俺の傘持ってくるから」

「プロデューサーさんはどうするんですか?」

「いや、俺は……」

「私、平気です。走って帰ればそんなに濡れないと思うし」

「まゆ、待ってくれ」

 手を伸ばすのが遅くて、俺が掴んだのは空気だった。
まゆは雨の中に駆け出して、ぱしゃぱしゃと足元に水の模様を閃かせた。

 まゆの後姿が雨に煙って見えなくなってから、俺はオフィスに戻った。
デスクに座ると、ココアを買い忘れたのに気付いた。
少し迷ったが、また一階まで行くのも面倒で、そのまま仕事を始めた。

 プロダクションから帰る頃になっても、雨は降り続いていた。

 俺は柄についた埃を払ってから傘を差し、雨を歩いて行った。
まゆの濡れ髪が頬やうなじに絡みつく様を、想像しながら。

 ため息をつくと、傘と冷たい雨との隙間に白く霧が浮かんだ。


 ――――

 風邪をひくのではないかと少し心配していたが、まゆは翌日もしっかりとレッスンに出た。

 これから忙しくなっていく。風邪やらなにやら罹るなら今のうちだ。健康であることに越したことはないが。

「まゆ、昨日は雨、大丈夫だったか」

「ええ、平気でした。さほど濡れなかったし……プロデューサーさんは?」

「俺は傘があったから」

「それなら、良かったです……」

 本当はまゆに使ってほしかった。
つまりは、まゆに傘を受け取ってもらって、そのために俺はびしょ濡れになりたかった。
俺がまゆを傷つけたように、俺もまゆに傷つけられたかったのかもしれない。

 プロデューサーである自分がこんなことを言ってしまうのもなんだが、近頃、まゆは素っ気ない。
挨拶はちゃんと返してくれるし、ちょっとした雑談もなんてことないのだが、なんとなく素っ気なさを感じる。

 悩みごとについてもはぐらかされるばかりで、俺は眉間に暗い靄がかかったような感覚を覚えた。

 まゆは俺のことを好きじゃなくなったのかもしれない。
 失望の沈殿を口からため息として吐き出すと、次第に胃の中で感情が暴れはじめた。

 ――裏切り者。
 さらりと舌先まで滑ってきた言葉に、全身が冷たい微笑に歪んだ。
なんだか自分が犬並にひたむきなバカのような気がした。

 純粋に腹が立っているわけじゃなく、恥をかかされたという意識が恋慕をどうしようもない嫉妬に変えていた。
まゆは俺のことを面白がってただけで、いよいよ俺が恋い焦がれたと知るや否や、ぱっと身を翻して逃げ出そうとする。

 うらみつらみねたみそねみ。
 まゆへの気持ちは形を変え色を変え、ぐつぐつと煮えたぎっていた。

 そんな風にナイフを持ち替えたような気持ちでも、まゆが笑ってしまえば俺はしゅんと感情を溶かすのだった。

 恋の微睡みから、まゆは覚めてしまった。
 俺はうつらうつらと陽炎を追い求めていた。

「プロデューサーさん、本当に最近悩んでるみたいですけど……」

「……どうだっていいだろ、俺のことなんか」

「私、心配なんです」

「お前はお前の仕事をしてればいい」

 そう言ってまゆをレッスンに追い立ててから、俺は泣きたくなることがよくあった。
 眼球から塩化ナトリウム水溶液が流れるだけが、涙ではないことを知った。
表情を皮膚で覆っていても、心だけは紅に焼けて切られる痛みに泣いていた。

 そういった激情も一週間、二週間と過ぎていくうちに、次第に落ち着いてきた。
落ち着いたというより、激情のためにくべる体力が底を尽きかけて、一本調子の憂鬱に表情が変わっただけかもしれない。

 気怠い疑惑のさざなみに揺られていながら、まゆの声を聞けば焦がれに似た感情が胸を裂こうとした。
好きだと言えず、好きかと訊けず、ただ忘れようとしているうちに、アルバムの発売日が来た。

「近頃、浮かない顔をしてたのはアルバムの売り上げが心配だったからか?」

「いえ……あ、いや、それもありますけど」

「見たか? 売り上げの報告は」

「見ましたよ。幸先の良いスタートですね」

 佐久間まゆの知名度や宣伝の規模、前評判からの予想よりもずっと多くの人がアルバムを買ってくれた。
新人プロデューサーと新人アイドルのコンビには、大成功と言える売り上げだ。

「だよなぁ。口コミやらレビューやらでも評判よくてな」

「チェックしてるんですか」

「当たり前だ。お前はしないのかよ」

「……今はライブの方で手一杯ですから」

「それもそうだな」

「成功すればいいッスけど」

「するかどうかじゃなく、させるんだよ。それがプロデューサーってもんだ」

 先輩はそう言って自信たっぷりに胸を張った。
 それから昼を挟んで、事務仕事が一段落すると、俺はまゆのところへ行った。

「自分の声、なんだか怖くて……頂いたアルバムまだ聴いてないんです」

「俺は何回も聴いた。まゆの声は素敵だけど」

「そ、そうですか? ありがとうございます」

 そう言って、少し恥ずかしそうに両手をくにゃくにゃ組んだりほどいたり。
まゆの少しだけ紅くなった頬のように、俺の胸の辺りもじんわりと温まる。
だが、それも隔たったものでしかないと思うと、微熱を元の通りに失うだけだった。

 結局、俺もまゆも偽物の恋に溺れていただけだ。
まゆは水から上がった。俺はまだ岸辺に手もつけられていない。

 この苦味もじきに消えてしまうだろう。

 ――――

 月めくりのカレンダーが新しいページに入ると、本格的に寒くなってきた。
あと一月経てば十二月、まゆの初めてのライブだ。
 かじかむ手のひらを見つめては、意地を張らずに手袋を貰っておけば良かったと苦笑してしまう。
あの手袋やっぱりくれ、なんて今さら言えるわけがない。

「寒いですね」

「寒いな」

 両の手にはあ、と息を吐く。雪は降らないが、木枯らしが痛いくらいに吹き付ける。

 ラジオの収録の帰りにまゆが俺を例の喫茶店に誘った。
そういえば、ちゃんとしたココアをしばらく飲んでいなかったから、舌がウズウズとした。
缶のココアは時々飲んでいたけど、あの店のを飲んだあとなら誰だって缶のココアを「ちゃんとしたココア」とは言わないだろう。

「寒いですね」

「さっきからそればっかりだ」

 俺が笑うと、まゆは少し頬を膨らませた。

「だって寒いじゃないですか」

「だから、車で行こうって言ったのに」

 誘いに乗って、わざわざ車をプロダクションの方へ帰してから、喫茶店へ二人で歩いている。
喫茶店の傍には小さい駐車場があったはずだが、まゆは車で行くのを嫌がった。

「だって、なんか違うじゃないですか。車で行くのは……」

 言われてみれば、季節の香る風に吹かれて、自分の足であの店に行くのは結構大事なことだと思った。

「車だと、風情がないか」

「風情……」

 まゆは首を捻った。うーん、としばらく考え込んでから、ちょっと困ったように笑った。

「そうですね、風情がないです」

「……なんか違うなー、って思ってるだろ」

「お、思ってませんよぉ」

「そうか?」

「……ちょっとは思いましたけど」

「やっぱり」

「で、でも、私も概ね同じ意見ですから。風情がないです」

「無理しなくていい」

「無理してませんっ」

 果たして風情があったのかは分からないが、秋風に凍えながら道を来て、ようやく喫茶店のドアをくぐった。
二か月ぶりに来たはずで、その間にもう冬を鼻先に控えてしまったが、
この店の中だけはなぜか季節感が全くなかった。

 暖房はごく弱く、どこかひんやりとした空気をアンビエントミュージックが微かに揺らしていた。

「何名様ですか?」

「二人です」

 同じウェイトレス、同じ店主、温度、質感、そしてアンビエントミュージック。

「ここは、いつでも同じ時間が流れているな」

 席に座ると、俺は思わず言った。

「そうですねぇ。違うのは私たちだけで……なんだか仲間外れみたいです」

 注文を取りに来たウェイトレスを見ると、いかにも俺たちと違う時間を生きているような気がした。

「ミルクココア、温かいやつを」

「俺も、同じの」

 ウェイトレスがカウンターへ行く後ろ姿も、毎度の光景だった。

「こうやって、いつも同じ注文ばかりしてたら、私たちもこの時間の仲間入りさせてくれるかもしれませんね」

 もっとも、前はチョコレートケーキも注文しましたけど、とまゆは悪戯っぽく笑った。
 今日は二人とも温かいミルクココアを注文した。
そして、いつもと同じようにウェイトレスの運んできたカップを受け取った。

 この奇妙な時間の中に二人が溶けてしまうのだったら、
傷つけたことも傷ついたこともなかったことにできないだろうか。

「恋って、夢みたいだよなぁ」

「……エヴリデイドリームの話ですか?」

「ああ、いや。あれの歌詞もそんな感じだけど」

 ココアの甘さに滑り落ちる言葉に任せて、恋について話した。

「夢見ているうちは、それが本当か夢かわからないし」

「恋と同じですか?」

「うん。……いつかはさめてしまうしね」

 俺はまだまゆのことが好きだ。
もうじき、この気持ちも薄れて消えてしまって、
現実の世界に目覚めて戻ることは決して楽しみではないけど、
必要なことなんだと自分に言い聞かせた。

 本当にまゆのことが好きなら、同じ世界に戻らなきゃいけないはずだから。

「のめり込めばそれだけ、さめたときにつらいから」

 だから、早く目を開けなければいけないのに。
 ふっとため息をつくと、音の隙間を縫うようにまゆは呟いた。

「それでも好きなんです」

 今までに見たことのない悲しげな表情が、まゆの頬を冷たく濡らしていた。
 俺は血の気が引いたのを感じた。

 テレビの砂嵐みたいにざあっと鳥肌が立った。
 流れてくるピアノがいつもより冷たかった。

 また、俺はまゆを傷つけた。

 ――――

「どうした、浮かない顔して。リハが上手くいかなかったのか?」

「あー、いや……そんなことはないんですけど」

 いよいよ三日後にまゆのライブの開催を控えて、
今日は会場で一通りのリハーサルをしてきた。
照明や音響など、セットリスト順に確認して、どの程度時間がかかるのか。

 大きな会場ではないし、一時間と少しくらいの短いライブであるものの、
まゆの初舞台であるから念入りにリハーサルをした。
来たるライブに、準備は万端といったところか。

「プロデューサーがそんな顔してたら、まゆちゃんはどう思うんだか」

「今日一日、こんな顔してたわけじゃないです」

「そうだな、ここ何週間かずっとそんな顔だ」

 俺が思わずため息をつくと、先輩はいつになく優しげに笑った。

「なんか悩みがあんなら言え。溜めこんだってロクなことはないんだから」

 チクタクと時計の音が水滴のように落ちていた。もう十一時を周ったところだった。
オフィスには俺と先輩の他、誰もいない。

「……アルコール入れるか?」

「いえ、大丈夫です」

 一度、深呼吸をして、まぶたの裏にまゆの姿を浮かべる。

「どこから話せばいいのやら」

「時間かかってもいいからさ、話してくれよ」

 これも仕事のうちだ、と先輩は俺の隣のデスクに腰かけた。
 チクタクと時計の音が変わらず、水滴のように落ちている。
自分の言葉がその湿り気に塗れてしまう気がして、中々言い出せなかった。

「……まゆのこと、好きなんです」

 ようやく言うと、先輩はやれやれと少し笑った。真剣に取られるより、却って楽だった。

「そんなこったろうと思った」

 先輩に促されて、俺は始めから今までのことを丁寧に言葉にしていった。
そして、半年の間に恋は何度も形を変えていたことに気付いた。

「お前、これからどうするつもりなんだ」

「それを悩んでるんですけど」

「……好きなんだろ?」

 先輩の言葉に少しくすぐったいような気恥ずかしさを覚えながらも、俺は頷いた。

「ならそう言えばいい」

「でも……」

「でも、なんだよ」

「……まゆはアイドルです。俺はプロデューサーです」

「関係ねぇよ」

 先輩は吐き捨てるように言った。

「要はあれだ、お前はお前の好きなようにしろ。自分で決めろ。
 そんで決めたことは突き通せ」

 話聞いてるとすげー中途半端なんだよなぁ、お前。そう、先輩は苦笑いした。
 よくよく、人の気にしてることを遠慮なく言う人だ。

「気持ちはわかるよ。俺も一度、あったから……」

「先輩がですか」

「聞きたいか? 参考になるかわからないが」

「……いえ」

 先輩はにっと笑って、お気遣いありがとう、と言った。

「人は決まった道筋を行くもんだ。お前が俺みたいな道を辿るとも限らないしな」

 これくらいでいいか、と先輩は腰を上げた。

「帰ろうぜ。お前は本番も近いし、今日明日はゆっくり休めよ」

「俺は別に……」

「まゆちゃんにくまのできた顔なんか見せんなよ」

「分かりましたよ」

 俺も腰を上げて、帰り支度をした。
 ずっと胸の辺りでわだかまっていたものが、ほぐれ始めているのを感じた。

 思わず、声を上げて笑いたくなる。

「先輩、ありがとうございました」

「なんだ急に、気持ち悪ぃ」

 大したことじゃねぇよ、と先輩は恥ずかしそうに頭を掻いた。

「俺、まゆのこと、これから先もプロデュースします。ずっと」

 そう言うと、先輩は嬉しそうに俺の肩をばしばしと叩いた。

「そうか、そうか! よしっ、俺からあのヤローにちゃんと言っといてやるよ」

 まるで眠っていたような俺の毎日に存在する、唯一のリアリティ。
 まゆはまだ恋の中に眠っていた。それが永遠に続くか、さめないままでいる保証はなく、
しかも本物と偽物の区別はつかない。

 だが、俺のまゆへの恋だって同じだった。
 俺は決めた。

 ――――

 冷たく澄んだ目で俺は人の入り始めた観客席を、ステージ裏の隙間から覗いていた。

 チケットがどのくらい売れたと数字自体は知っていたが、
こうして見ると人で埋まっていく大きくないハコながら迫力があった。

「まゆ、平気か?」

「プロデューサーさんの方が緊張してるんじゃないですか?」

「ほ、ほっとけ……」

「うふふっ。プロデューサーさんのこと見てたら、なんとなくリラックスしちゃいました」

「それならよかった」

 開演の時間が近づくにつれ、人の出入りも落ち着き始めた。
あと十分、あと五分と、次第に胸が騒いでくる。

「まゆ」

 スピーカーから注意事項を読み上げるアナウンスが流れる。もうすぐだ。
 向かい合ったまゆの肩に両手を置いて、その目を見つめる。

「俺は、見ているからな」

 会場の電灯がふっと落とされた。
ステージの薄ぼんやりとした照明だけが残っている。

「……さ、行ってきてくれ」

 肩から手を離して頷きかけると、まゆは数瞬間を置いてからにこりと笑った。
そして軽やかにステージへ駈け出すと、会場から歓声が湧く。

 今日演じる曲目は多くない。
アルバム収録の曲を全部と、それから余裕があればアンコールに一曲を繰り返して歌う。

 オープニングはトークを入れずにすぐに曲に入る。
イントロに会場からおおっ、と声が上がった。
盛り上がりはまあまあと言ったところか。

 それから一曲目を終えたあとの短めのトークはたどたどしくハラハラとさせられたが、
却ってウケたらしく声援がいくつも飛んできた。

 続いての二曲目、三曲目でも盛り上がりはそれなりだったが、
トークを挟んだあと、『エヴリデイドリーム』のイントロが流れた途端に会場の熱気が一段上がった。

 俺は思わずにやりと笑ってしまう。

 そうだろう、俺とまゆのキラーチューンだ。盛り上がらないわけがないよな。

 ステージの裏でまゆの声にじっと耳を澄ます。

 恋しているうちは永遠を信じるものだ。
恋が終わったときに初めて、永遠なんかないことを知る。
誰もがそう考える。だけど、俺はもう考えない。

 たとえ微睡の中の永遠であっても。
 大好きだよ。

 ――――

 ウェイトレスの運んできたカップを受けとり、三杯目のココアをすする。
店内は相変わらず暖房が弱く、アンビエントミュージックがさらに冷たかった。

 まるで教会みたいですね、と、まゆはこの喫茶店の雰囲気を例えたが、
言われてみれば確かに教会のような静けさがある。

 食器の擦れる音、こぽこぽとお湯の沸く音、
そしてまゆの吐く息とアンビエントミュージック。

「ライブは成功と言っていいんですよね」

「もちろん。先輩もびっくりしてた」

 まゆの初めてのライブから六日経って、俺はようやく休みを貰えた。
ライブが終わって一段落ついたということで、少しの間まゆのレッスンも休みだ。

「なんだか、実感がわかないです」

 まゆは胸元のネックレスを手で弄んで、少し目を細めた。

「これからどうするかな」

「考えてないんですか?」

「ライブのことで頭がいっぱいだったし、ここ一週間はやたらと忙しかったし」

 考える暇もなかった。背中を丸めて頬杖をつくと、まゆは手を伸ばして俺の頭を撫でた。

 さらさらと手のひらの体温が髪を伝わって、思考の中まで落ちてくる。
蕩けたように、なぜだか眠くなる。

「これから考えていきましょうね。二人で」

「そうだな……」

 俺が身体を起こすと、まゆは名残惜しそうに手を下ろした。
 カップの残りのココアを飲み干して、席を立った。

「行こう、まゆ」

「はい、プロデューサーさん」

 喫茶店のドアを引いて、外へ出る。背中の方でからん、と鈴が鳴った。
 ちらりちらりと雪が風に舞っている。頬に雪が溶けて冷たい。

「おお、寒い」

 ポケットから手袋を取って、手を入れる。

「今度はマフラーでも編みましょうか」

「そりゃありがたい」

 タイミングよく目と目が合って、お互いに笑い合う。

 微睡みのセレナーデ。
 それは永遠じゃないけど、二人が恋している間、歌われ続ける。

佐久間まゆ「微睡みのセレナーデ」 完

拙い文章ですが、お付き合いいただきありがとうございました。

このSSまとめへのコメント

このSSまとめにはまだコメントがありません

名前:
コメント:


未完結のSSにコメントをする時は、まだSSの更新がある可能性を考慮してコメントしてください

ScrollBottom