TARI TARI RUMBLE! (731)



 はじめての方ははじめまして。以前も読んでくださった方はお久しぶり。

 私です。

 このスレは、EVER GREEN 原作、P.A.WARKS 製作のオリジナルアニメーション、

『TARI TARI』の主人公をスクールランブルの播磨拳児にしたものです。

 例によって、ストーリーの進行上、いくつか原作(アニメ)の設定を変更しております。

 TARI TARIは好きだけど、何かちょっと物足りない。

 そんな方に読んでいただきたいスレでございます。

 少し長いので、なるべく寛大な心でごらんください。



 それではよろしくお願いします。




 再うPです  作者(イチジク)

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 四月上旬――

 まだ朝夕の冷え込みのあるこの時期だが、さすがに昼間の日差しは眩しい。

 桜色の隙間から見える海はその眩しい光を反射させて輝いている。

 太平洋側から吹き込んでくる潮風と、それに飛ばされる花びらがほんのりと春の香りを

運んできているようだ。

 自宅近くの乗馬コースを愛馬サブレに乗った紗羽は、そんな春の風を切って走る。

「よーし、そろそろいいわね」

 太陽の高さでおおよその時刻を見た彼女は手綱を引いてサブレを止めた。

「お疲れサブレ」

 そう言うと、紗羽は乗馬用の手袋を外して馬の首筋を軽く撫で、首についた花びらを払う。

 ほんのりとした温もりを彼女の柔らかい手を通じて感じられた。彼女は、この温もりが好きだ。

「それにしても暑いなあ」

 朝方冷え込んでいたため、彼女は少し厚着をして乗馬を始めた。だが日中の日差しで汗ばんでしまう。

ただでさえ乗馬は体力を使うので、こうなってしまうのも無理はない。

(帰ってシャワー浴びよう)

 そう思い、彼女はサブレと一緒に馬房へ向かった。



   *




 サブレの世話を終えて家に帰ったのが、午前十一時過ぎ。午後から、彼女の所属している

弓道部の練習があるので、すぐに着替えて準備をしなければならない。

 家に入ると、微かに味噌汁の香りが漂っていた。母親が昼食の準備をしているのだろう。

 今日、僧侶である紗羽の父親は、朝から檀家の所に出向いているので、昼はいないはずだ。

 玄関で乗馬用のブーツを脱いでいると、不意に見覚えのない大きな靴が目に入った。

(お父さん、こんな靴持ってたっけ)

 父がいつも履いているニューバランスのスニーカーとは少し違う靴だ。

 新しく買ったものにしては、少しくたびれて見える。

 しかし、年頃の娘らしく父親に対してはさして興味のない彼女は、すぐにその靴の存在を忘れていた。

「ただいまお母さん」

 靴を脱ぎ終わった紗羽は家の中に入って行き、台所にいる母に声をかける。

「あらおかえり紗羽。今日は早いのね」

 エプロン姿の紗羽の母親、志保がそう言った。

 サーフィンが趣味で、褐色の肌に海水で少し荒れた髪の母は主婦というよりも、海の家の店員のようだ。

「今日は午後から弓道部の練習があるから」

「そう。昼食、早めに食べる?」

「あ、うん。でも先にシャワー浴びて着替えて来るね。ちょっと汗かいちゃった」


「あ、そうなの」

 紗羽は台所から風呂場に向かう。途中、シャツのボタンを外しながら、少し息をついた。

(また大きくなったかな……)

 成長した胸は彼女にとっては悩みの種であった。

 彼女の親友の来夏は羨ましいとか言って時々もんでくるけど、肩こりもあるし男子からエッチな

目で見られることも多い自分のそれを、彼女は少しうっとおしく思っていた。

(さっさとシャワー浴びよう)

 そう思い浴室の引き戸に手をかけた瞬間、微かに温かい石鹸の香りを嗅ぐ。

「あれ? お母さんもシャワーあびたのかな」

 紗羽が思いっきり戸を開くと、

「あ……」

「え?」

 素っ裸。

 父親か。一瞬、そう思ったが父にしては体格もいいし何より黒い髪の毛が生えている。

 そしてパンツを履いていない。

 全裸だ。

「い……」

 冷静になろうと思った紗羽だが、目の前の全裸男の姿をはっきりと認識すると、冷静ではいられなかった。


「いやあああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!」

 一気に振り返り、廊下はバタバタと走る紗羽。

「どうしたの紗羽」

 騒ぎを聞きつけた母がその豊満な胸で娘を受け止める。

「ふが。あ、お母さん!!」

「もう、昼間からそんな大声出して」

「風呂場に、風呂場に変質者が!!」

「あ、彼ね。ごめんごめん、お風呂入ってたの忘れてたわ」

「はい?」












     TARI TARI RUMBLE!


   第一話 女っつうのはどうも苦手で





 この日の昼食は、いつもより豪華だった。

 といっても、ごはんに味噌汁、それに魚の塩焼きにきんぴらごぼうが少し付いただけなのだが、

春休みの昼食はチキソラーメンにネギと卵をぶちこんだ程度の昼食で済ます母にしては豪華なのだ。

 だが今の紗羽には、そんなことを気にしている余裕はない。

「どういうことなのよ! お母さん!!」

「アハハ、言ってなかったわね」

 怒る娘に対して、母は笑っていた。

 紗羽の母親、志保の隣りには父、正一よりも大柄な男性が座っている。

 黒髪をオールバックにして、サングラスをかけた髭の青年(少年には見えない)。

「彼は播磨拳児くん。ハリマは、播磨灘の播磨。ケンジはコブシの拳に児童の児と書いて拳児」

「漢字とか聞いてないから。何でその彼がウチでお風呂に入ってるの?」

「だって拳児くん、昨日お風呂に入っていなかったって言うから」

「わ、わかったわよ。それで、どうして彼がここに」

「あら、言ってなかったかしら? 今日から彼、ウチで下宿するの」

「はあ?」

「なあに?」

 母は笑顔を崩さない。

「き、聞いてないから」

「そういう話、してたでしょう?」


「いや、してたけど。でも急すぎない?」

「拳児くんは、私の親戚でね。この春から紗羽の通う学校に編入することになったのよ」

「し、白浜坂高校に?」

「そうよ。ウチからなら通いやすいでしょう?」

「だ、だからって年頃の娘がいる家に男の人を下宿させるって」

「拳児くんには離れを使ってもらうから大丈夫よ。一つ屋根の下ってわけでもないわ」

「で、でも一緒に暮らすってなると色々。今日だって……」

「ん?」

 紗羽は播磨の顔を見る。サングラスをしているので表情はわからない。

 ただ、彼の顔を見ると先ほど見た全裸姿が脳裏によみがえってくる。

 引き締まった筋肉質の身体は、なんというか、彼女の心拍数を大いに上げる。

「どうしたの? 顔、赤いわよ」

 志保はニヤニヤしながら聞いてきた。

「な、何でもない!」

「……」

 それよりも、件の播磨は先ほどからずっと俯いて黙っている。

 さっきから騒いでいるのは自分だけだったので、今度は別の意味で恥ずかしくなった。

「どうしたの? 拳児くん」

 隣にいる志保が聞いた。


「いや、その」

 播磨は口を開く。

 初めて聞く彼の声は、少し低く、父親とはまた別の男らしさがあった。

 しかし次の瞬間、

「……!」

 盛大に鳴き出す腹の虫。

「あら、おなか減ってたのね。フフフ」

「スンマセン、朝から何にも食ってなかったもんで」

「いいのよ、早くいただきましょう」

「もう何なのよ!!」

 彼の関心は、紗羽ではなく目の前の昼食にあったようだ。

 まるで独り相撲をしているように思った紗羽の怒りはさらに増してしまう。

「それより、紗羽。あなたも早く食べなくていいの? 部活、あるんでしょう?」

「ふえ?」


 時計を見ると、すでに十二時半を過ぎている。

「いけない!」

 目の前のごはんをかきこみ、味噌汁で流し込んだ紗羽は立ち上がる。

「ごちそう様!」

「こら、お行儀悪いぞ」

「今はそれどころじゃないから!」

「もー」

 イライラをかき消すように、紗羽は荷物を持って家を出た。

 この日の弓道部の練習は、イライラのせいでまったくうまく行かなかったことは言うまでもない。






   *


 その日の夜、沖田家では播磨拳児の歓迎会を兼ねた宴が催された。

「いやあ、よく来たね拳児くん」

 数杯のビールで顔を赤らめた紗羽の父、沖田正一はそう言って播磨の肩を叩く。

「どうもっス」

 播磨は相変わらず大人しくご飯を食べている。

 遠慮しているのだろうか。

「本当にウチに下宿するの?」

「だからさっきからそう言ってるでしょう?」

 うんざりとした様子で母親の志保は言った。

 実は母のほうが父よりも多くお酒を飲んでいるのだが、彼女は顔色一つ変えない。

「でも、一緒に住むってその、大変だし」

「困ったときはお互い様だろう。幸い、ウチは広いんだし大丈夫だろ」正一も言う。

「でも」

「申し訳ないっス。正一さん」

 未だに戸惑っている紗羽の言葉を聞いたのか、播磨はそう言って謝る。

「気にすることないよ! 自分の家だと思って寛ぎなさいよ」

「……」

「お父さんはね、息子ができたと思って喜んでるのよ」

 志保はビールを注ぎながら言った。


「そうなんッスか?」

「まあなあ。昔から、息子と杯を交わすのが夢だったんだ。拳児くん、一杯どうだ」

「ダメよお父さん。未成年にお酒すすめちゃ」

 僧侶とは思えない行為に、紗羽も志保も呆れていた。

「拳児くんは、小さいころ紗羽とも会ったことがあるんだぞ。覚えてないか」

 正一はいきなり聞いてきた。

「え? 小さいころ?」

 紗羽は幼いころの記憶をたぐりよせてくる。しかし、彼のイメージと重なるような少年はついぞ

浮かんでこなかった。

「ごめん」

「まあ、無理もないか。ハハ」

「俺も覚えてねェから」

「だよな。小さかったからな」

「ほら、拳児くん。もっと食べて」

「はあ」

 紗羽は気まずかった。

 最初の出会いがアレだっただけに、彼とどう接していいのかわからなかったのだ。

 しかしそれ以上に、こういう大事なことをギリギリまで伝えなかった両親に対し、不信感があった。


 


   *




 これまで親子水入らずの空間で生活していた紗羽にとって、全くの“異物混入”は

予想外のことである。

 しかも、心の準備もままならぬうちに。

(どうしよう。これからは夏場に下着でウロウロすることもできなくなる)

 どうしようもない先のことまで心配する始末。

 食事の後、台所で食器を洗う母に紗羽は声をかけた。

「ねえ、お母さん」

「どうしたの紗羽。もうお風呂はいった?」

「お風呂はまだ。それより、あの」

「拳児くんのこと?」

「……うん」

「ごめんね。こっちも急なことだったんで、言うのが遅れちゃって」

「急なこと?」

「ええ。拳児くん、この間まで一緒に住んでいた従姉の人が急に海外に行くって言ってね。

それで住むところが無くなったのよ」

「そう、なんだ」

「本人はアパート借りて一人暮らしをするって言ってたんだけど、まだ高校生でしょう? 

あの子、料理とかもできないし生活力もあんまりないからご両親心配してね。それで、

親戚の私が引き取ることにしたの」

「そんな簡単に……」


「困ったときはお互い様よ。それに、長くても高校を卒業するまでの一年だし、

あなたもいい経験だと思ったら?」

「そんなの、思えないよ」

 高校卒業。

 今年三年生になる紗羽には重い言葉だった。

 今まで、ただ漫然とすごしてきた学生生活。その先に何があるのか、彼女にはまだ想像できない。

「そういえば拳児くん、やりたいことがあるって言ってたな」

「やりたいこと?」

「何かは教えてくれなかったけど、それがあるから実家には帰らないのかもね」

「そう、なの」

(拳児くんのやりたいことって、何だろう)

 突然家に転がり込んできた男子高校生、播磨拳児。紗羽の中で、少しだけ彼に対する興味が

わき出てくるのだった。

 しかし、それが表に出るのは、まだもう少し先の話である。




   *





 翌朝、寺の離れで目を覚ました播磨拳児は学校の制服に着替えて本宅の台所に向かった。

 朝食の香りがただよってくる。

「おはようッス」

 遠慮がちにそう挨拶すると、新聞を読んでいた正一がこちらを見た。

「おはよう、拳児くん。寝坊はしなかったみたいだね。昨日は遅かったのに」

(アンタが付き合わせたんだろうが)

 播磨は心のなかでそう思ったが、住まわせてもらっている手前、心の中に押し込んだ。

「お父さんが夜中まで付き合わせたのが悪いんでしょう?」

 そう言うと、志保はごはんの入った茶碗を置く。

 なんというか、久々のまともな朝食だ。

「おはよう」

 すまし顔で紗羽が食卓に着く。

「おはよ」

 一応声をかけてみるが、播磨とは目を合わさない。

(あんな出会いすりゃ当然か)

 彼にも自覚はあったが、この気まずさは慣れなかった。

「ごちそうさま」


 光の速さで紗羽は朝食を終える。

「ねえ、紗羽。播磨くんを学校まで連れて行ってあげなさいよ。彼、編入したばかりだから」

 母の志保がそう言う。

「ごめん母さん。今日、朝練あるから一緒にはいけない」

「新学期なのに?」

「うん。じゃあ、行くね」

 紗羽はさっさと朝食を済ませると、荷物をまとめて学校へと行ってしまった。

 まだ登校には早い時間だが、自分も職員室に寄らなければいけないので早めに出る必要がある。

「ごめんね拳児くん、難しい年頃だから」

 苦笑いしながら志保は言った。

 彼女が娘の紗羽について謝っていることはすぐにわかる。

「別にいいッス。あの年代なら当然ッスよ。いきなりここに住まわせてもらっているこっちが悪いんッスから」

「別に負い目に感じることはないんだぞ拳児くん」

 そう言ったのは正一だ。

「キミのお父さんとお母さんにはお世話になっているし。何なら、卒業してからもここに住むか」

「お父さん」

「冗談だよ」

「ま、なるべく早くここを出られるように努力するッス」


「拳児くん」

 少し悲しげな表情を見せた志保を見た播磨は、ヤバイと思いフォローを入れた。

「いや、ここが悪いってわけじゃねェんだけど、やっぱり娘さんもいるし」

「そんなの気にしなくていいのよ拳児くん。もし何か間違いがあっても、責任取ってくれさえすれば」

「さ、さすがに不味いよ母さん」

「あら、そうだったわねオホホホホ」

 そう言うと、二人はまるで子供のような笑顔を見せた。

 この年になっても仲が良いのはいいことだ、と播磨は思う。

「ところで、お二人に相談なんッスけど」

「何々? 紗羽の好きなタイプとか聞きたい?」

「母さん」と、すかさず正一がツッコミを入れる。

「いや、娘さんのことではないッス」

 色々誤解されては困るので、播磨ははっきりと否定しておいた。

 これまで、無用な誤解で色々と痛い目を見ているからだ。

 おバカな彼もさすがに学習する。

「あらそうなの」

 志保は露骨にシュンとする。

「話いいっすか」

「どうぞ」


「ここいらで、いいバイト先ないッスかね」

「バイト?」

「アルバイトか」

 二人は顔を見合わせる。

「少しでも、今後の糧にできたらと思いました。時給はいいにこしたことはねェけど、

とりあえず時間の融通が利くところがいいっすね」

「そうか、知り合いにいい店がないか聞いてくるよ」

 と、正一は言う。

「そうね。私も友達に聞いてみるわ」

 志保も言った。

「でも大変だな。ここに来てすぐなのに、もうバイトを探すなんて」

 正一は感心したように言う。

「受験勉強とかはいいの?」

 そう聞いたのは志保だ。

「自分は、進学しないッスから」

「ああ」

「できるだけ早く自立したいんで」

「そうか」正一は感心したようにうなずく。

「偉いわね拳児くん。でもね」

「ん?」


 気が付くと、志保は播磨のすぐ横まで来ていた。

「少しは大人を頼ってもいいのよ」

 そう言うと、志保は播磨の頭を抱え込むように抱きしめる。

「うおお!?」

 微かに香るマリンノートの匂い、そして柔らかい感触が播磨の耳に当たる。

「母さん!」

 さすがにその光景を見た正一は身を乗り出した。

「妬かない妬かない。本気じゃないから大丈夫よ。ま、父さんの言うとおり、男の子もいいわね」

 播磨から手を離すと、そう言って笑う志保。

「はあ」

 急な状況に戸惑う播磨。

 ただ、久しぶりに会ったにも拘らず、ここの家族は実に優しく接してくれると思った。

 娘を除いて。




   *




 播磨の通う白浜坂高校は家からそれほど遠くない場所にある。

 多くの生徒たちが登校する中、彼は坂を上る。

(なぜ学校ってのは、坂の上に作るんだ。山城のつもりか?)

 そんなことを思いながら。

 校門付近に行くと、ジャージ姿で走っている一人の男子生徒が目に入った。

「おお、すまねェ」

 播磨はその生徒を呼び止める。

 練習中悪いとは思ったが、周囲の生徒たちは彼を警戒して近づこうとしなかったのでしかたがない。

「職員室にいきてェんだが、どう行ったらいいんだ」

 編入試験の時には、職員室には行かなかったのでどこにあるのかわからなかったのだ。

「ん? ああ。職員室な。そっちだよ。あの校舎」

「おお、そうか。悪いな練習中」

「別にかまわないよ。転入生?」

「まあ、そんなところだ」


 こうして、練習中の生徒と別れようとしたとき、

「ああ、ちょっと」

「あン?」

 先ほどの走っている男子生徒が呼び止める。

「職員室の校舎に行くなら、そっちの道を通った方が早いぜ」

「道?」

 どうも、中庭を突っ切るような道だ。

「ここの生徒は、時間が無い時は皆そうしてる」

「そうか。サンキューな」

 そう言うと、播磨は男子生徒の言うとおりの道を進んだ。




   *




 先ほどのスポーツ少年の言うとおり、人通りは少ないが、確かにこっちのほうが早く行けそうだ。

 芝生の上を少し早足で歩いていると、

「ちょっと、そこのキミ」

 不意に声をかけられた。

「あン?」

 振り返る播磨。しかし後ろには誰もいない。

「ここよ、ここ」

 左右を見るが、こちらを見ている生徒はいない。

「どこだ」

「ここ」

「は?」

 顔を上げると、木の枝にまるで雀のように座っている女子生徒がいるではないか。

 小柄な少女で、少し長めの髪に目がちょっとタレ目に見える。

 そして何より、スカートを履いているので……。

「あんまり見ないでよ」

「そっちが呼んできたんだろう」

「まあいいわ。それより、見ない顔ね。新入生? 入学式は明日のはずだけど」

「編入生だ」


「あ、そうなんだ。珍しいわね」

「お前ェはなんだ。一年生か?」

「何言ってるのよ。入学式は明日なんだから一年なわけないでしょう? こう見えて私、三年生なのよ」

(俺と同じか。見えねェな)

 木の幹の上で足をブラブラさせている少女は小柄だったので、とても高校三年には見えない。

「それより編入生くん。たのみがあるんだけど」

「あンだよ。俺は忙しいんだ」

「降りられないの」

「は?」

「降りられないの」

「そもそも、どうして登った」

「私チビだから、人を見下ろすのが好きで」

「マジか」

「冗談よ。あのね、昔見たアニメで木に上って歌を歌っているシーンがあったの。

それを再現してみたくて、こうして登ったんだけど」

「降りられなくなったと」

「そういうこと!」

(アホかコイツは)

 そう思った播磨。しかし、彼は頭の弱い子も嫌いではなかった。

 かつて彼が好きになった女の子も、かなり頭が弱かったからだ。


「で、どうすりゃいいんだ?」

「受け止めてくれる?」

「どうやって」

「そこに立ってて」

「は?」

「行くよ」

「おい、何を急に」

「きゃあ!!」

 一瞬、世界が反転した。

 木の上から落ちてくる少女を受け止めた勢いで、転倒してしまったらしい。

 幸い、下が柔らかい芝生だったのと上手く受け身を取れていたので怪我はせずにすんだ。

「おー、無事に着地できたね」

 そう言ってスクリと立ち上がる少女。

「無事じゃねェ! 転んじまったじゃねェか」

「いやあ、メンゴメンゴ。でも助かったよ、あのまま始業式まで木の上だったら恥ずかしいもんね」

「見ず知らずの俺に迷惑かけたことをまず恥じろよ」

「あハハ。ありがとう。立てる?」

「ああ」


 少女は播磨の腕を掴み、彼を引き起こそうとする。

 小さな手だ、と彼は思った。

 ポンポンと手で汚れを払った播磨は、再びカバンを持つ。

「あ、自己紹介まだだったね。私、三年の宮本来夏(みやもとこなつ)。よろしくね」

「俺は播磨だ」

「ハリマ? 変わった名前」

「そうか。おっと、それよか職員室いかなきゃならんのだった」

「職員室なら、この先真っ直ぐ行った入口を右に曲がったところだよ」

「おう、そうか」

「ま、案内板があるからそれを見たら早いけど」

「そうだな」

「またね、播磨くん」

「お、おう」

 春の日差しの中で出会った少女の笑顔は、散りかけの桜の花よりもやけに印象的であった。




   *




 本当は朝練などなかったのだが、あえて早めに学校にきていた紗羽は暇をもてあましていた。

 そうこうしているうちに、親友の来夏が教室に入ってくる。

 クラス発表の時に一緒になった友人と喜びを分かち合いたかったのに、彼女はなかなか姿を見せなかった。

「何してたのよ、来夏」

 少し膨れ面で紗羽は聞いた。

「いやあ、ちょっと色々あって」

「どうせ校内の木に上って降りられなくなったんでしょう」

「エスパーか」

「ってか、何で当たるのよ。本当に降りられなくなったの?」

「まあ、近くに親切な人が通りかかってくれたから遅刻せずに済んだけどね」

「あんまり人に迷惑かけるんじゃないよ」

「えへへ。テレペロ」

「それ可愛くないから」

「というか、紗羽怒ってる?」

「え? 何が」

「機嫌悪そう」

「別に……」

「重い日?」


「違うから」

「新学期から何があったのよ」

「何でもない」

「またお父さんとまた喧嘩したの?」

「してないから別に。ていうか『また』って何よ」

「紗羽ったら。いつも私に何でも話せって言ってくるくせに、自分の時は言わないの?」

「べ、別にそんなんじゃないから」

「へえ」

「今度話すよ」

「そっか。なるべく早めにお願いね。私、忘れっぽいからね」

「そうだね」

 今度話すよ、と言って話し忘れていた話題がかなり多くあることを今更ながらに気づく紗羽であった。

 ふと、視線を移すとそこには見覚えのある女子生徒がひっそりと座っていた。

(和奏……)

 母親同士が知り合いだったので、幼いころから知っている少女、坂井和奏だ。

(普通科に転籍したっていう噂、本当だったんだな)

 中学の時はよく話もしていたけれど、高校に入ってからはクラスが違うということもあって、

ほとんど話をする機会のなかった和奏。


 そして、音楽科から普通科に移るという一種の“挫折”を経験した彼女に、紗羽は何を

話しかけていいのかわからなかった。

「紗羽、どうしたの?」

 と、覗き込むように聞いてくる来夏。

「来夏、アンタもうすぐ先生くるから自分の席に戻ったほうがいいよ」

「ん? そうだね」

 そんな話をしていると、教室の戸が開く。

「はーい、皆さん。新学年最初のホームルームですよ。早く席に着いて」

 妊娠六か月目を超え、お腹の辺りが目立つようになってきた担任教諭の高橋智子が

クラス名簿を抱えて入ってきた。

 彼女の言葉と共に、席を立っていた生徒たちが一斉に自分の席に戻る。

 と、同時に教室の後ろのドアが開いた。

「すみません! ギリギリセーフ?」

 髪が短めで、活発総な男子生徒がそこにいた。

「田中、アンタ三年生にもなってまた遅刻?」

 高橋はあきれ顔で言う。

「いや、朝練に熱中し過ぎちまって」

「はいはい、初日くらいは見逃してあげるわよ。さっさと席について」

「はい」

 田中と呼ばれた男子生徒は、田中大智。本校でただ一人のバドミントン部だ。

「今日は皆に編入生を紹介するわ。播磨くん、入ってきて」


 編入生、という言葉の時点で紗羽には誰が入ってくるかわかっていた。

 ざわつく教室。

 背の高いサングラスの男子生徒。どう見ても不良。

「播磨拳児くんよ。仲良くしてあげてね」

 キレイな字で黒板に、彼の名前を書く高橋。

 不意に播磨と目があったので、紗羽は露骨に視線を逸らした。

 別に嫌っている、というわけではなく、学校でどう接していいのかわからなかったのだ。

(これでクラスが別なら少しは救いがあったのだけど、逃げ場がない)

 そんなことを思いながら隣りを見ると、来夏が軽く手を振っていた。

(あれ?)




   *





 始業式のために体育館へ向かう途中、紗羽は来夏に話しかける。

「ねえ、来夏」

「ん、何?」

「あなた、はり……、転入生のあの人と知り合いなの?」

「転入生? ああ、播磨くんね。そうだよ」

「どこで」

「今朝、助けてもらったの。木からおりられなくなった時に」

「そ、そうなんだ」

「どうしたの、紗羽。あ、もしかして気になったりする?」

「べ、別にそんなことは」

「ああ、紗羽ってああいうワイルドなタイプが好きなのかなあ」

「違うから」

(ワイルド……)

 不意に昨日の光景がよみがえる。

 確かにあの筋肉質な身体はワイルドかもしれないが。

「ち、違うから……!」

「なぜ二度も否定する」

「とにかく、来夏も気を付けた方がいいよ。男は狼なんだから」


「確かにそうかもしれないけど、そんなに警戒してたらカレシの一人もできないよ」

「来夏だってそうでしょうが」

「紗羽ったら、素材がいいんだからもっと心を開けば、恋人の一人や二人。ね、田中」

「はあ? 何の話だ」

 急に話を振られて驚く男子生徒の田中大智。

 彼は別に話を聞いていたわけではなく、偶然近くを歩いていただけだ。

「紗羽は可愛いから、その気になれば恋人が作れるって話」

「沖田は性格がアレだから、そこを何とかする必要があるんじゃないのか」

「うるさい田中!」

 田中の言葉にカチンと来た紗羽は思わず語気を強める。

「は?」

「バーカ、無神経、クズ」

「そこまでいうことないだろう」

「バトミントンバカ」

「バトミントンじゃねえ、バ“ド”ミントンだ!」

「あ、怒るところそこなんだ」

 来夏はあきれたようにつぶやいた。





   *



 その日は始業式だけで、授業もなく学校は終わった。

「ねえ、播磨くん」

 帰りのホームルームの時、高橋は播磨を呼び止める。

「なんッスか」

「まだこの学校慣れてないでしょう? 教室移動の時とか困るだろうから、

学校を案内してあげる」

「先生がしてくれるんッスか」

「ごめん、これから会議があるから私はできないわ」

「はい?」

「学校に詳しい人にやってもらおうかしら」

「はあ」

「あ、ちょっと」

「え?」

 高橋は一人の生徒を呼び止めた。

「坂井さん」

「はい」

 黒髪を後ろでしばった女子生徒であった。

(こんな生徒いたか)

 存在感が薄かったのか、播磨はこの日、彼女の存在を認識していなかった。

「坂井さん、早速で悪いんだけど、彼、播磨くんに学校を案内してあげて欲しいんだけど、

頼める?」


 坂井と呼ばれた女子生徒は播磨と高橋の顔を交互に見て、少し視線を落とした。

(気持ちよく引き受ける、って雰囲気ではなさそうだな)

 女心に関しては鈍いと言われ続けていた播磨も、彼女の気持ちは表情から察することができた。

「別にかまいませんよ……」

 女子生徒は力なく頷く。

「そう、ありがとう。私、これから会議だから」

「どこまで案内したらよろしいんでしょうか」

「うーん、簡単にね。授業で使う特別教室とかを中心に」

「私、普通科の授業は」

「あ、そうだったか。まあいいじゃない、自分も学ぶつもりで」

「はあ」

「じゃ、私行くからね」

 高橋が早足で教室を出ると、坂井は播磨のほうを向いて言った。

「じゃあ、行こうか」

「お、おう」



   *


 教室を出て、校内を案内する坂井と呼ばれた女子生徒。

「悪いな、放課後に付き合わせちまって」

「別に……」

「部活とかあるんじゃねェのか」

「ないから」

「ん?」

「入ってないから」

「そうか」

「……」

(気まずいな)

 そう思った播磨は、

「別に嫌なら案内してくれなくてもいいぞ」

「どういうこと?」

「ああいや、別に怒ってるわけじゃねェんだ。無理して案内してくれなくてもよ、

案内図もあるし、自分で散策することもできるって話だ」

「ここの学校、普通科だけでなく別の学科もあるし、それに男子生徒が入っちゃ

いけない場所もあるの。だから、ちゃんと案内しないと」

「そうなのか」

「そうなの」

「他の学科って、何があるんだ?」

「……っ」


 一瞬、坂井の動きが止まる。しかし、またすぐに前と同じ様子に戻った。

「どうした」

 気になった播磨は思わず聞いてみる。

「べ、別に。ここは普通科の他に、美術科や音楽科があるの」

「ほう、美術科ね」

「播磨くん、美術に興味ある?」

「いや、別にそういうことじゃねェけど。あと、音楽科だっけ?」

「……そう」

 坂井の顔がますます暗くなる。

(何なんだよ一体)

 彼女の様子は気になるところだが、出会ったばかりの相手に深入りするほど彼も図々しくはない。

「お、転入生」

 そんな中、不意に誰かが声をかけてきた。

「誰だ」

「俺だよ、田中。田中大智」

「ああ、確か同じクラスの」

「朝、お前俺に声をかけただろう」

「そういやそうだったな」


 ジャージの上下を着た田中大智だ。制服の時よりも生き生きして見えるのは、

根っから運動が好きだからなのだろう。額には薄らと汗がにじんでいた。

「何してんだ?」

 田中は聞いた。

「学校を案内してもらってた」

「そうか。坂井が案内してるのか」

「……うん」

 坂井は小さく頷く。

「ま、わからないことは何でも聞いてくれ。この時期の転校って色々大変かもしれないけど、

お互い助け合って行こうぜ」

「そうだな。ところでお前ェ、部活中か」

「ああ、そうだ」

「他の部員は? 一人で練習か?」

「部員はいない」

「は?」

「部員は俺一人」

「何の部活だ」

「バドミントン部だ」

「バトミントン?」

「バトミントンじゃねえ、バドミントンだ。間違えるな」


「……そうか」

(どっちでもいいだろう。目玉焼きの焼き方くらいどうでもいい)

「播磨、だったよな」

「ああ」

「お前、いい身体してるな。バドミントンやらないか」

「いや、部活はちょっと」

「まあそうだな。悪い悪い。じゃあな」

「ああ」

 そう言うと田中はまたどこかに走って行った。

 その後ろ姿を見送った後、不意に坂井が声を出す。

「播磨くんは――」

「あン?」

「部活とかやっていなかったの?」

「いや、別に部活はやってねェなあ」

「そうなんだ」

「お前ェは、ああ、やってないって言ってたな」


「うん」

「そうか」

「じゃあ、こっち案内するね」

「お、おう」

 何とも絡みにくい相手だ、と播磨は思った。

 下宿先の沖田紗羽も付き合い難い。

 自分は女とは上手く接することができない体質なんじゃないか、とここ最近思うようになってきた。

(全員が全員、宮本来夏みたいなさっぱりとした性格だったら楽なんだけどな)

 前を歩く坂井の項(うなじ)を見ながら、播磨はふとそんなことを思った。




   *





 学校見学を終えた播磨が下宿先の寺に戻ると、入口のところで僧衣をまとった

正一が掃除をしていた。

「ああ、おかえり拳児くん」

「た、ただいまッス」

 自分の家でもない場所でこの言葉を言うのは少し恥ずかしい。

「学校、どうだった」

「まあ、まだ初日なんで」

「そうだな。これからだな」

 そう言って笑顔を見せる正一。昨日はあまり意識しなかったけれど、僧衣を着た正一はやはり

住職なんだと思える。

「クラスはどの組に」

「三年一組、娘さんと同じクラスで」

「そうか、紗羽と同じクラスか。あの子とは話を?」

「ああいや、学校では目も合わせねェっつうか、話す機会もなかったッスね」

「まあ、出会って実質二日目だしな。無理もないか」

「まあ……」

「昨日も少し話たけど、あの子は難しい年頃でね」

「はあ」

「最近は私とも滅多に口をきかないんだよ」

「よくありますね、あのくらいの年齢だと」


「だから、拳児くんみたいな同い年くらいの人だと、心を開いて話をしてくれるん

じゃないかと思ってね」

「買い被り過ぎッスよ。まともに話もしてないのに」

「はは、これから仲良くなっていけばいい」

「女っつうのはどうも苦手で」

「ウチの家内には気に入られてるようだけど」

「いや、あの人は例外っつうか」

「あら拳児くん、帰ってたの?」

 噂をすれば影、サンダルを履いた志保が出てきた。

 細いジーンズが似合いすぎている。

「檀家さんからおまんじゅう貰ったの、後でいただきましょう?」

 そう言って志保は播磨の腕を引っ張った。


「え? はい」

 戸惑う播磨。彼女はそんな播磨の反応を楽しんでいるようでもある。

「こらこら、私の存在を無視するな。一応、この家の主人だよ」

「あら、ごめんなさい」

 そして正一の反応も楽しんでいる風でもあった。

(女はよくわからん)

 それが播磨の偽らざる感想でもあったのだ。

「あ、そうだ拳児くん」

「はい?」

 母屋に向かう途中、志保は立ち止まった。

「例のバイト、早速見つかったんだけど」

「本当ッスか?」

「ええ、知り合いの店なんだけど」

「はあ、詳しく聞かせてください」

「うん」

 志保は楽しそうに頷いた。




   つづく

再うPですが、気長にお付き合いいただければ幸いです。

特に内容はいじってないっす。というか、今はその余裕がない。

 第二話 プロローグ


 音楽科から普通科に転科してから数日、春休みに少し補習を受けたとはいえ、

突然の環境変化は彼女にとって不安や戸惑いと戦いであった。

 しかも、事情を知っている者も多いため、クラスの生徒たちもどこか遠慮がちだ。

(気にしないでっていうのは、確かに身勝手かな。実際、私自身気にしているし)

 教科書をまとめながら、ふとそんなことを思う。

 夢、破れる。

 希望、かなわない。

 そんなのは人生によくあることだと知っていたけれど、それが自分のことだとは

思ってもみなかったのだ。

「ねえ坂井さん」

 ふと、小柄な少女が話しかけてきた。

 同じクラスの宮本来夏だ。

「宮本さん」

「来夏でいいよ。そんな遠慮しないで」

「はあ」

「今日さ、どっか遊びに行かない?」

「あの、部活は」

「今日は休み」

「ごめん。今日はちょっと図書室で」

「委員会?」


「授業の復習を。転科したばかりだし」

「そっか、大変だな。ねえ、紗羽は行かない?」

 そう言って来夏は、少し離れた場所にいるクラスメイトの沖田紗羽に声をかける。

「あたしは部活」

「そっかあ」

「アンタ、ちょっとは焦ったほうがいいんじゃない? もう三年だよ」

「わかってるけど、高校最後の一年間なんだよ、もっと楽しみたいじゃん」

「ったく。じゃ、部活行くね」

「行ってらっしゃーい」

 来夏はそう言って手を振った。

 この元気の良さは見習いたいものだ、と和奏は思う。

「じゃあ、私も行くから」

 カバンを肩にかけた和奏は言った。

「うん、和奏も頑張ってね」

「ありがとう」

 その後、和奏は一時間ほど図書室で勉強をする。

 普通科の授業、特に英語と数学は彼女にとってとても難しいと感じた。

(普通科って何で数学が六種類もあるんだろう。英語は三種類?)

 和奏が勉強の遅れを取り戻すのは、もう少し先のことである。







      TARI TARI RUMBLE!


    第二話 人を妬んでも自分は良くならない




 放課後、学校の図書室で一時間ほど授業の復習をしてから和奏は帰路についた。

 途中、学校では色々な部が練習や活動に精を出していた。

(部活か)

 音楽科の勉強が忙しくてそれどころではなかったし、今も普通科の授業についていくのが

やっとな彼女にとっては、それどころではないのだが、まだ高校生らしい生活には憧れはあった。

 冬場にくらべると大分日が長くなったな、などと思いながら家に帰ると、家の店は開いていた。

 父は自営で土産物屋兼和菓子の店をやっているのだ。

 いつもなら店にいるはずなので、和奏は表から声をかけることにした。

「お父さん、帰ったよ」

「おう」

「え?」

 父親だと思っていたエプロン姿の男性。

 しかしそれは、父とは似ても似つかぬ大男であった。

 しかも見覚えのある。

「播磨くん……?」

「お前ェは確か……」

「ああ、和奏。帰ってたのか」

 店の奥からお揃いのエプロンをつけた父、坂井圭介が出てきた。

「お父さん、どうして播磨くんがここに」


「お、和奏。知り合いだったのか。同じ学校だと言ってたし」

「同じクラスの子だよ」

「そうだったのか。播磨くん、そういうこと言ってなかったからな」

「いや、だから質問に答えてよ」

「バイトだよ。知り合いにバイトを雇う気はないかって聞かれて、それで」

「そんな……」

「どうした」

「何でもない」

「コンニチハー。団体なんですけどいいっすかー」

「へ?」

 店の外を見ると、ガタイのいい外国人の集団が集まっていた。

 米軍横須賀基地の隊員だろうか。

「いらっしゃい」

「どうもッス」

 播磨と父は素早く動き出す。

「わ、私も手伝うよ」

 二人の動きがあまりにも素早かったため、思わずそう言ってしまった。

「お、珍しいな。とりあえず着替えてきな」

「わかった」

 和奏は、自分の部屋で着替えて見せようのエプロンをつけると接客に出た。




   *


 店の手伝いは久しぶりだ。

 どうしても忙しい時は手伝っていたけれど、前は学校の勉強や課題の練習が

忙しくてそれどころではなかった。

「……」

 クラスメイトの播磨拳児はよく働いていた。

 寡黙な性格なのか、あまり笑顔での接客はしなかったけれど、動きはキビキビしていて

見ていて気持ちがいい。

「播磨くん、なかなかやるねえ」

 彼の働きに父も満足気味だ。

「まあ、バイトは色々としてたもんで。和菓子屋は初めてッスけど」

「ふんふん」
 
「すいませーん、この煮込み雑炊ってやつ、もらえますか」

 やたら体格の良いスーツ姿の男性客が言った。

「ごめんなさい、先月までなんですよ」

 父は申し訳なさそうに対応する。

「え」

「冬季限定メニューなもので」

「じゃあこの煮込み雑煮を」

「ですからごめんなさい、それも先月までで」

「……」

「ごめんなさいね」
 
 そんなやり取りはあったものの、店は概ね繁盛し閉店を迎えた。



   *




 時刻は午後七時、昼間の観光客がメインの客層なため、店じまいは比較的早い。

「夕飯の支度、私がやるね」

「おう、ありがとう」

 店が忙しい時、夕食の支度は和奏の仕事だった。

 母親のいない彼女の家庭では、家事全般が彼女の担当でもあったのだ。

 もちろん父も家事はするけれど、店の用事もあるのでそんなに多くはできない。

「忙しかったッスね」

 黙々と働いていた播磨はそう言った。

「いやあ、いつもはもう少し暇なんだけどねえ、今日は特別忙しかった」

「そうッスか。まあ、身体動かしているほうが余計なこと考えなくていいッスよ」

 帰り支度をしながら彼は独り言のようにつぶやく。

「そうか」

 そんな会話をしながら店の片付けをしている父に、和奏は声をかける。

「お父さん、夕飯の支度できてるよ。先にお風呂入る?」

「いや、メシを先にしよう。腹が減ってしょうがない」

「そうなんだ」

 和奏が視線を上げると、播磨は今にも帰ろうとしていた。

「あ、播磨くん」

 そんな彼に父は声をかける。


「なんッスか」

「キミも一緒に夕食どうだ」

「はい?」

「お父さん?」

 思わず声を出す和奏。

「いいじゃないか、料理は余分に作ったんだろう」

「それはそうだけど……」

 今日、和奏が用意した食事はスタンダードなものだ。家族で食べるのならともかく、

とても外の客に出すようなものではない。

「いいんッスか?」

 播磨の表情は期待に満ちているように見えた。

 どうも、父と同様、そうとうお腹がすいているようだ。

 目の前に食べ物(お菓子)がたくさんあるのに、それを長い間食べられない状態でいるのは

苦痛だったろう。

「いいだろう? 和奏」

「しょうがないわね。播磨くんがよければ」

 和奏はもう一度播磨の顔を見る。

「娘さんがいいんだったら、喜んで」

 控えめに頷いた。

「じゃあ、播磨くんの歓迎会だ」

「歓迎会?」

 正直、歓迎会と呼べるほど特別なおかずは用意できないのだが、それでもこの日は特別な

夕食になりそうだと、和奏は思った。



   *




 夕食前、播磨は自分の携帯電話で誰かに電話をかけていた。

「どこに連絡?」

 と、父は聞く。

 プライベートなところをズケズケと詮索するのは中年の悪い癖だ、と娘の和奏は思うのだが、

実は彼女も少しだけ気になっていたので黙っておくことにした。

「下宿先の人ッスよ。今日、夕食はいらないって」

「ああ、そうか。あの人のところに下宿してるんだったよな」

「ええ」

 どうやら彼の下宿先は、父の知り合いの家らしい。

 少し、いや、かなり気になった和奏だったが父のように色々と聞くことはできなかった。

「ごはん、これくらいでいいですか?」

「おう、サンキューな」

「ナーゴ」

「あ」

 気が付くと、坂井家で飼っている家猫のドラが播磨の足元にいた。

「お、猫か」

「うん、ドラって言うの。ウチで飼ってる猫」

 ドラは播磨の足元で彼のスネの辺りに身体をこすりつけていた。

 彼が昔からよくしている親愛の表現だ。


「珍しいな、ドラが初対面の男の人にこんなに懐くなんて」と、父は言った。

「確かに」

 見た目が怖そうな男性なのに、ドラは彼の足元を動かなかった。まるで何年も

付き合いのある飼い猫と飼い主のようで、本物の飼い主としては少し嫉妬してしまう

シチュエーションだ。

(そういえば、私とお父さんとドラ以外の人と食事するなんて、いつぐらいだろう)

 少し前まで、父、母、娘、そして飼い猫の三人と一匹で食事をしていた。

 そして今、かつて母が座っていた席には、母親とはまったく違う大柄の男性が座っている。

「ごめんね。一緒に食事するってわかってたら、もっと色々用意できたんだけど」

「いや、別に気にしてねェよ。悪いのはコッチなんだ」

 播磨は目を合わさずにそう言った。照れがあるのだろうか。

「それじゃあ、グラス持って」

「はい?」

「播磨くんの我が店へのアルバイトを記念して、カンパーイ」

 父はビールで、播磨と和奏はお茶で乾杯する。

「お父さん、お酒弱いんだからほどほどにね」

「わかってるって」

 上機嫌な父は、この日珍しくビールを飲んで顔を真っ赤にしていた。

 そして笑っていた。

 母が亡くなって以来、どこか禁欲的な生活していた父がこんなにも笑顔を見せるのは

とても珍しい気がする。


 そんな父を特に気にする様子もなく、播磨は黙々と夕食を食べていた。

「あ、あの。口に合わなかったかな」

 よく考えてみたら、学校の調理実習を除けば父以外の人に自分の料理を食べてもらうのは

初めてのことだ。 

 自分や父親好みに味付けをしているため、他人にはどう思うのだろうと少し、いや、かなり

気になった。

「うめェよ」

 かぼちゃの煮つけを口に運びながら、播磨はそう言った。

「あ、ありがとう」

 思わず礼を言ってしまう和奏。

「んだよ、礼を言うのはこっちだろう。メシ食わしてもらってるんだし」

「そ、そうだね。アハハハ……」

 家で夕食を食べる。ただ、それだけのことなのだが、和奏は少しだけ嬉しくなっていた。

(なんだろう、別に特別なことなんて何もないのに)

「ガハハハ、拳児くん! 拳児くん!」

「店長、ビール一本でそんな……」

「お父さん!」

 しかし、父圭介が醜態を晒してしまったので、そんな喜びはすぐに吹っ飛んでしまった。




   *




 夕食後、父は居間で寝ていたので玄関まで和奏とドラが見送ることにした。

「今日はサンキューな」

「ごめんね、普段の食事しかなくて」

「十分うまかったぞ」

「そう言ってもらえて、嬉しい……」

「そんじゃ」

「あの」

「あン?」

「また、来てくれる?」

「そりゃ、来るぞ。バイトだし」

「そうだよね、バイトだし……」

「基本週三回、週末は土曜か日曜。まあそんなところだ」

「また、夕食も食べていってね」

「んな迷惑かけられねェよ」

「迷惑なんかんじゃないから」

「そうなのか?」

「ほら、ウチってお父さんと二人暮らしでしょう? まあ、ドラもいるけど。

食事が余っちゃうこと、よくあるのよ」

「そうか。まあ、そっちが迷惑じゃなけりゃ、またごちそうになるか」

「その分、バリバリ働いてね」


「飴と鞭ってやつか」

「いや、別にそんなつもりじゃ」

「ナーオ!」

 和奏が口ごもっていると、いつの間にかドラが播磨の身体をよじ登り肩に乗った。

「ほれほれ」

 播磨が人差し指でドラの喉の辺りを触ると、ドラは気持ちよさそうに喉を鳴らした。

「ドラも播磨くんのこと、気に入っただね」

「昔っから動物には好かれるんだがな」

「そうなの?」

「ああ。なぜか知らんが」

 そう言いつつ、彼は肩に乗ったドラを両手で優しく抱きかかえて和奏に渡す。

「そんじゃ、親御さんによろしく」

「うん」

 播磨は帰って行った。

 食卓付近には、まだ彼の匂いが残っているような気がする。

 変な感じだ。

 彼自身はあまり喋らないのに、暗かった部屋がいつもより明るくなった気がした。


「んがああ」

「お父さん、一階で寝ないで。それと、早くお風呂入って」

「もう食べられない」

「寝ぼけてないで起きてよ本当」

(なんか不思議な人だったな)

 父を起こし、食器の片づけをしながら和奏はそう思ったのだった。




   *




 同じころ、坂井家では。

「今日、播磨くんいないのね」

 と、紗羽はつぶやいた。

 まだ下宿しに来て数日だが、いつもいる場所にあの大柄なチョビ髭男がいないのは

少しだけ寂しいという気持ちだ。

「あれ? 気になるの?」

 と、志保はニヤニヤしながら言う。

「べ、別にそんなんじゃ」

「拳児くんなら、バイト先で食事をいただくって、電話してきたのよ」


「バイト……」

 それは紗羽にとって初耳であった。

 親元を離れて下宿、それだけでも十分大変なのに、さらにアルバイトまでしているとは。

「本人は早く自立したいとか言ってたからな。ちょっと焦り過ぎな気もするが」

 エビフライを食べながらこの家の主人で住職の正一は言った。

「自立か……」

 紗羽は両親に聞こえないよう、静かにつぶやいた。

「ま、拳児くんはエライよね。高校通いながらバイトして、それで将来のことも考えて」

「で、でも、学校で赤点とかとったら意味ないし――」

 そこまで言いかけて紗羽は言葉を止める。

「なあ紗羽」

 そんな彼女に正一は優しく声をかけた。

「人を妬んでも自分は良くならない。逆に他人を褒めたって、自分は悪くならないんだぞ」

「わかってるよそんなの。それに、妬んでないし」

 自分の中にジワジワと湧き上がってくる黒い感情で、軽く自己嫌悪に陥る紗羽。

(別に彼は悪くないのに)



   *



 少々嫌な気持ちで食事を終えたところで自分の部屋に向かう途中、播磨が帰ってきた。

「た……、ただいま」

 玄関のところで、そう挨拶をする播磨。

「おかえり……」

 無視するわけにもいかないので、紗羽はそう言ってみるが、その後何を言っていいのかわからず、

そのまま自分の部屋に早足で向かうのだった。

(んもう、何なのよ)

 モヤモヤとした感情を抱えつつベッドに倒れこむ紗羽。

「はあ……」

 これから先、どんどん色々な人と付き合いが出てくることが予想される。

 にも関わらず、こんな小さな関係でつまずいている自分が酷くちっぽけに思える紗羽であった。




   つづく
 


   第三話プロローグ

 バドミントン部唯一の部員、田中大智は今朝も朝練に励んでいた。

 といっても、部員のいないバドミントン部の練習なので、素振りや体力錬成などしかできないのだが。

「はあ、はあ、はあ」

 まだ冷え込みもある四月の朝、緑色が目立つようになった校内の桜並木の下を彼は走る。

(もう一周)

「おはよー」

「あ、おはよう」

 初々しい新一年生も含めて、多くの生徒たちが登校してきた。

 この時期は生徒も多く、賑やかな季節。

 そんな中、高校総体の予選を数か月後にひかえた彼はただひたすら身体を苛め抜く。

「がはっ!」

 そろそろ始業時間も迫る中で、田中はやっとロードワークを終えた。

 息を整えながら、この日一日をどう乗り切るか考えてみる。

「よう、ええと、中村だっけか」

 不意に誰かが声をかけてきた。

「ん?」

 背の高い黒髪の転入生、播磨拳児だった。

「俺は田中だ」

「おう、そりゃすまねェ」

 この男は人の名前を憶えない。

「こんなところで何やってんだ。遅刻するぞ」

「ああ、今からダッシュで着替えりゃホームルームに間に合う」

「そうか」

「そういう播磨も、随分遅いんだな」


「少し夜更かししちまってな。ああ、まだ眠ィ」

「ほどほどにしとけよ。何してるか知らないけど」

「お前ェこそな。試合前に身体壊しちゃ意味がねェ」

「心配してくれるのか」

「まあ、頑張ってるやつを応援すんのが、俺のモットーだしな」

「いいモットーだな」

「ありがとよ。俺はそろそろ行くぜ」

「ああ、俺もすぐ行くから」

「じゃあな」

「おう」

(変な奴だな)

 と、大智は思う。

 ここ最近、たった一人になったバドミントン部を気に掛ける生徒などほとんどいなかったからだ。

 ただ、

「悪い気はしないな」

 そう言いつつ、彼は大きく息を吸い込んだ。朝日に暖められた潮風が微かに鼻孔を刺激している

ように感じた。







         TARI TARI RUMBLE!



    第三話 どうってことねェよ。困った時は助け合いだ





 この日も播磨は坂井圭介の店でアルバイトに励んでいた。

 なぜか播磨くんが来ると忙しくなる、という圭介の言葉通りこの日も店は繁盛しており、

遅くまで仕事をすることになった。

 店長の圭介からは夕食を食べていくよう勧められたが、この日はやんわりと断った。

 そう何度も世話になるわけにはいかない。

 飼い猫のドラが寂しそうにしていたので、少しだけ頭を撫でてから帰路についた。

 薄暗い空から星が見えた。

 それも一つや二つではない。

(前みたいにバイクがあったら便利だよな)

 そう思いつつ、彼は下宿先まで歩く。

 途中、市立の体育館があることに気が付いた。

 中から声が聞こえてくる。

(そういやここで、何やってんだろう)

 腹が減っているので早く帰りたい、という気持ちもあったけれど、この日は某高校古典部の

部長並みに好奇心が高まっていたので、少しだけ覗いてみることにした。

「あら? もしかして見学?」

 体育館に近づくと、誰かが声をかけてきた。

「あ、いや」


 ジャージ姿の大学生くらいの女性だ。髪はセミロングくらいだが、前髪が切り揃えられている。

 会ったことはないが、妙に見覚えのある女性だと思った。

「キミ、バドミントンに興味があるの? その制服はアレだね。白浜坂高校だよね」

「はあ、そうッスけど」

「おい姉ちゃん、何やってんだ」

 不意に、聞き覚えのある声が聞こえてきた。

「ん?」

 見ると、見覚えのある男が体育館の中にいた。

「田中?」

「播磨か」

 
 

   *




 体育館の中では、選手の息遣いや靴の音、そしてシャトルの飛び交う音が響いていた。

 まだ春先だと言うのに、体育館の中は凄い熱気だ。

 ヨネックスのバドミントンウェアに身を包んだ田中大智も数人の選手の中の一人として

練習に打ち込んでいる。

「社会人の練習っすか」

「そう、ここでは社会人や大学生が毎週二回練習しているの」

 田中大智の姉、田中晴香はそう説明した。

「そんで田中も?」

「ええ。白浜坂はバドミントン部の部員がいないから、個人練習以外はこうして大人の人たちと

一緒に練習しているのよ」

「なるほど」

 汗まみれになりながらコートをかける大智。

 辛そうだったが、どこか楽しそうでもあった。

(あいつ、本当にバドミントン好きなんだな)

 頑張っている人間を見るのは嫌いではない。

 しかし、

「やべっ、もうこんな時間だ」

 彼は体育館の時計を見て驚く。

「あら、どうしたの」

「今日は早く帰るって、下宿の人に一旦ッスけどね」


「あらそう。大変ね」

「失礼するッス」

 帰ろうとする播磨に大智は声をかけてきた。

「なんだ播磨、もう帰るのか?」

「ちょっと寄り道した程度だからな」

「そっか」

「頑張れよ」

「言われなくても」

 そう言うと、大智は親指を立てた。

「じゃあたいくん。もう一本追加といこうか」

 そんな彼を見て、姉の晴香は嬉しそうに言った。

「へえ?」

 どうやら彼の姉はSっ気があるようだ。




   *


 翌日、播磨が職員室の近くを歩いていると不意に職員室の中から聞き覚えのある声が聞こえてきた。

「そんなの納得できません!」

「ん?」

 気が付くと乱暴に扉が開き、何か猫のような小動物が飛び出してきたかと思ったら播磨の腹に

ぶち当たった。

「ぬわ!」

 おもわずバランスを崩して倒れそうになるが、何とか踏ん張る。

「なんだ?」

 よく見ると、職員室から飛び出してきた小動物は同じクラスの宮本来夏であった。

「おい、宮本?」

 何と言っていいのかよくわからないので、とりあえず名前を呼んでみる播磨。

「ごめん」

(涙……)

 一瞬だったが、来夏の瞳に光るものが見えた。

 来夏は播磨から身体を離すと、すぐ走って行ってしまった。

「こらあ! 廊下を走るな!」

 体育教師の郡山(ゴリ山)の声が響く。

 職員室から何人かの教師たちが顔を出していた。


 その中でも異様なオーラを身にまとった教員が腕組みをして、走り去っていく

来夏の姿を見据えていた。

「何があったんッスか?」

 普段から積極的に教師に話しかけない播磨は、メガネをかけた性格がキツそうに

声をかける。

 確かこの女は教頭だったと思うが。

「あなたには関係のないことよ」

「同じクラスですし」

「だったら本人に聞きなさい」

 性格のキツそうなその女教師は、その見た目に違わずキツそうな声で播磨の質問を

斬り捨てたのであった。

 その後、さっさと職員室の中に戻る。

(感じ悪いな)

 そう思いつつ、彼は教室へともどった。



   *




 その日の午後の授業、来夏は出てこなかった。

 放課後、空席になったままの来夏の机を見ながら紗羽はつぶやく。

「来夏、何やってるんだろう」

「お前ェも知らねェのか、宮本のこと」

 ふと、播磨は紗羽に話しかける。

「え?」

 急に話しかけられた紗羽は驚いたようだ。

「悪い」

 そういえば、学校で話をしたのはこれが初めてかもしれない。

「いや、別にいいけど……」

 紗羽は視線を下に落としモジモジしていた。

 自分のことを怖がっているのかもしれないが、どうにも彼女とは話し辛い。

「何か昼休み、職員室で揉めてたみてェだが」

「そうなんだ」

「何か知ってんのか」

「よくわからない……」

「……そうか」

 プライベートな事情だろうか。とにかく、今の自分が踏み入っても良い内容ではない

のかもしれない。


「それじゃあ私、行くね」

「おう」

「ごめんね、播磨くん」

「何で謝るんだよ」

「ああそうだね、ごめん」

 紗羽はもう一度謝ってから、彼の前から遠ざかった。

(宮本か……)

 ふと、空席の机を見つめる。

 机の横にはまだカバンがかかったままになっていた。

(まだ学校にいるのかな)

 そんなことを考えた。




   *



 
 この日、坂井和奏は少し早めに帰宅した。

「ただいまお父さん」

「ああ、おかえり」

 店の中で、父親は東京スポーツを読んでいた。

 数日前までの繁盛ぶりがうそのように、店は静かである。

「今日は早いんだな」

 と、父は言った。

「え? そうかな。たまには早く帰ってお店を手伝おうかと思って」

「珍しいこともあるな。でも今日、彼は来ないぞ」

 ニヤニヤしながら圭介は言った。

「べ、別に播磨くんのことなんて気にしてないから!」

「おいおい、俺は彼って言っただけで播磨くんだなんて一言も言ってないぞ」

「……!」

 自分でもわかるほど顔が赤くなる和奏。

「もう! お父さんなんて知らない!」

 そう言うと、和奏はさっさと自宅の自分の部屋に行くのだった。




   *




 播磨はすぐには帰らなかった。

 今日はバイトもない日だし、あの涙の意味が知りたかったから。

 関わらなければ気づくこともないのだが、それだと何か後味が悪い気がした。

 別に当てがあったわけではないのだが、何となく彼の足はとある場所へと向かっていた。

「やっぱりいたか」

「何?」

 転入初日、宮本来夏と初めて会ったあの場所だ。

 あの時と同じように、来夏は太い木の幹の上に座っていた。

「あんまり見ないで」

「そこにいるのが悪いんだろうが」

「別にいいじゃない」

「沖田、心配してたぞ」

「そう」

「いつまでそんなところにいるつもりだ?」

「関係ないでしょう?」

「まあ、そうだ。だけどよ、そこにいたって何も解決しねェぞ」

「……」

「もしかして、午後の授業中もずっとそこにいたのか?」


「ち、違うから。ここに来たのは放課後から。人通りがあるときにこっちに来たら

見つかるでしょう?」

「まあ、そうだな」

「……」

「天空の食事はとれたか」

「何それ」

「いや、何でもねェ」

「播磨くんはいつまでそこにいるつもり?」

「ま、俺はすぐに帰るけどよ。お前ェはどうする」

「どうするって?」

「ずっとそこにいるのか」

「別に、いつまでもここにいるつもりはないけど」

「降りられねェんだろう?」

「降りられるもん!」

「そっか。じゃあな」

「あっ!」

「ん?」

「降りられるけど……、時間がかかるから。その、もっと早く降りたいなあ、なんて」

「ったく」

 播磨は持っていた鞄を地面に置く。

「今度はしっかり受け止めてよ」と、来夏は呼びかけた。

「わーってるよ」

「いくよ」

「おう」

「とうっ」




   *




 今度は転倒することなく、播磨はしっかりと来夏を受け止めることができた。

 小柄な来夏の身体は思ったよりも柔らかく、いい匂いがした。

「今、エロいこと考えたでしょう」

「考えてねェよ(少ししか)」

「ウソよ、キミくらいの年齢だと、エッチなことを良く考えるものよ」

「偏見だろ」

「弟がよくエッチな本とか見てるのよね」

「そうかい」

「姉として、弟がアブノーマルな趣味に走らないようにしっかりチェックしとかないと」

「お前ェの弟は大変だな」

 播磨は心底来夏の弟に同情した。

「ねえ、聞かないの?」

「何が」

「私のこと」

「高いところ好きなのか」

「そこじゃないでしょう」

「何だよ」

「見たんでしょう?」


「は?」

「見たんでしょう? 私の――」

「いや、別に見ようと思ってみたわけじゃねェし、それに……」

「私の涙」

「あ……、ああ! そうだな! 見たぞ。職員室前で」

「何?」

「いや」

(何だ、そっちか。俺はてっきりパンTのことかと思ったぜ……)

「私が何で泣いてたか、知りたいから私を探したんじゃないの?」

「別に、そこまで暇じゃねェし」

「聞きたいって、素直にいいなさいって」

「お前ェこそ、聞いて欲しいって素直に言えよ」

「むむむ……」

「何だよ」

「本当は、会ってまだ間もない転入生に言うような話じゃないんだけど」

「ん……」




   *




 校内の噴水広場――

 昼休み中は食事をしたり談笑したりする場所として、人も多いのだが、放課後はほとんど

人がいない。

 そんな広場のベンチに、播磨と来夏は座っていた。

「声楽部? お前ェが?」

「そう、私声楽部だったの」

“だった”。すでに過去形である。

 来夏の話では、声楽部の顧問はあの教頭らしい。

「教頭って、あのメガネをかけたキツめのオバサンか」

「そう、あの曇りガラスに爪をギーッてやっちゃうような感じの年増ピンク」

(年増ピンク?)

「そいつがどうした」

「先生が、歌わせてくれないのよ」

「あン?」

「私、歌が好きで合唱部に入ったのに」

「何か理由があるのか?」

「それは……」

 来夏が口ごもる。

「……」


 播磨は無理に聞き出そうとせず、彼女が喋り出すのをゆっくりと待った。

「一年前、校外の発表会で私ね、凄い失敗しちゃって」

「失敗……」

「それで、大恥をかいちゃって。以来、顧問の教頭先生は私にずっと譜めくりをさせてたの。

確かに失敗したのは私が悪いよ。でも、あれから私ずっと練習したし、たくさん歌も覚えた。

だから、もう歌わしてくれてもいいじゃんって思ったのに……」

 また泣くのか、と思ったが違った。

「あの教頭、許せない……!」

 それは悲しみ、というよりも怒りだ。

「それで、どうしたんだ」

「だから私辞めたの、部活を」

「辞めた?」

「どうせ歌えないなら、辞めた方がマシよ」

「そうか」

「そうよ!」

「そのことは、アイツには話したのか」

「アイツ?」

「沖田だよ。沖田紗羽。お前ェら、仲良さそうだし」

「紗羽とは仲はいいよ、確かに」

「じゃあ、俺なんかに話してないで沖田に相談しろよ。さっきも言ったけど、心配してたんだぜ、あいつ」


「ダメだよ、もし紗羽にこのこと話したら」

「話したら?」

「絶対、弓とか刀を持って『教頭に話をしてくる』とか言い出しかねないから」

「マジか」

「ああ見えて結構気が強いからね」

「ああ確かに、アイツはそうかもしれねェ」

 播磨は彼女と初めて会った日のことを思い出す。

「ねえ播磨くん」

「どうした」

「紗羽みたいな子って、タイプ?」

「いきなり何言ってんだお前ェ」

「やっぱ、胸が大きいほうがいいのかな」

 そう言って来夏は自分の胸を抑える。

 可哀想になるほど小さな胸であった。

「別にそんなんじゃねェよ」

「でもさ、そういや紗羽のほうも播磨くんのこと、気にしている風だったし」

「マジか」

「うん、マジマジ。二人ってどんな関係なの」

 来夏は目をキラキラさせながら聞いてきた。


「別に、どんなでもねェよ。まだ出会ったばかりだ」

 まさか一緒に住んでいます、とは言えそうにない。

 桃色マインド全開の今の来夏に話をしたら、変な噂が一斉に学校中に広まって

しまいそうだったからである。 

「ねえねえ、話を聞いてもらったお礼にさ、私が紗羽と播磨くんの仲、取り持って

あげようか?」

「いや、別にいいからそういうの」

「遠慮しないでよ」

「遠慮なんてしてねェから」

「ウチの学校みたいな共学でも男子と女子って、意外と接点ないでしょう? だから誰かが

取り持たないと少子化が加速しちゃうよ?」

「少子化とか知るか」

「じゃあ、播磨くんの好きなタイプってどんなの?」

「もういいだろう」


 すっかり元気になったようなので、播磨は帰ることにした。

「じゃ、俺帰るから」

「うん」

「じゃあな」

 播磨が立ち去ろうとすると、

「播磨くん」

 来夏は後ろから声をかけた。

「なんだ」

 播磨は振り返る。

「今日はありがとう」

「どうってことねェよ。困った時は助け合いだ」

「うん」

 夕闇に染まりはじめる校内で、来夏の笑顔は眩しかった。



   つづく

何でこう、日なたに出ると眠くなるのかね。日焼け跡が痛い。



   第四話プロローグ


 播磨がようやく新しい学校に慣れ始めた四月の後半、彼のクラスに異変が起こった。

「何か騒がしいな」

 いつものように、時間ギリギリに登校してきた播磨は教室の異変に気付く。

「よう、播磨」

 そんな彼にクラスメイトの一人が声をかけてきた。

「ん? 田中か。今日は何かあるのか」

 播磨と同様、遅刻の常習犯である田中大智(ただし、彼は朝練で遅刻している)も、

今日は珍しく早く教室に入ったようだ。

「宮本の話だと、また転入生が来るんだとよ」

「転入? この時期にか」

「そうなんだよ、播磨みたいに学期のはじめに来るんだったわかるんだが」

「入院でもしてたのか」

「いや、それがどうも違うらしい」

「あン?」

「海外から転校してきたんだよ」

「外国人か?」

「そこはわかんないけど……」

「ハイ、席についてー!」

 そんな話をしていると、かなりお腹が目立つようになってきた担任の高橋が入ってきた。

「お、今日は田中も来ているな。感心感心」

「いやあ、俺だっていつまでも遅刻魔じゃありませんよ先生」


「はいはい、わかった。じゃ、皆も知っている通り、わがクラスに二人目の転入生が来ました」

 おおっ、と歓声が上がる。主に男子生徒からだ。

「はい、男子残念、転校生は男の子です」

「……」

 露骨にテンションが下がる男子生徒たち。そして密かに女子生徒のキモチが盛り上がる。

「じゃあ、入ってきて」

「はい」

 高橋に呼ばれて入ってきたのは、痩せ型で平均よりは背の高い、それでいて顔にあどけなさの

残る少年だった。

 高橋が黒板に彼の名前を書く。「前田敦博」という、何となく四十八人のアイドルグループを

思い起こさせる名前だ。

「十二年ぶりに日本に帰ってきました。前は、オーストリアのヴィーンに住んでいました」

 何となく喋りがぎこちないのは海外生活が長かったためだろうか。

「日本のことは、わからないことも多いのですが、これからたくさん勉強していきたいと思います。

よろしくお願いします!」

 そう言うと、ウィーンはその場に土下座をした。

「ちょ、ちょっと前田君」

 焦る高橋。ざわつく教室。

 どうも、このウィーンからきた少年は、宮本来夏と同等か、それ以上の天然者のようである。

「よろしく!」

 立ち上がったウィーンは、今度は変身ヒーローのような変なポーズをとって笑顔を見せた。






            TARI TARI RUMBLE!!


   第四話 真剣に努力している奴を止める権利は誰にもねェはずだ




 その日の放課後、播磨は教室に帰ろうとしたところを担任の高橋に呼び止められた。

「播磨くん」

「サヨナラ先生」

「お待ちなさい」

 奥襟を掴まれる播磨。

 妊婦なのに凄い握力だ。

「なんッスか」

「播磨くん、ちょっと頼みがあるんだけど」

「明日じゃダメッスか?」

「私、結構早産気味なの」

「マジやめてくださいよそういうネタ、色々シャレにならねェから」

「まあ冗談はさておき、ちょっと頼みがあるの。聞いてくれる?」

「何か」

「今日転校してきた、前田君に校内を案内してあげられないかしら」

「校内を、案内ッスか」

「ええ、まだ右も左もわからない子だし、何より外国生活が長かったでしょう?

日本の常識を教えてあげなくちゃ」

「はあ」


「あなた、転入初日に坂井さんに案内してもらったでしょ。だから播磨くんも、

今こそ、その恩を返すべきなのよ」

「恩を返すなら坂井にでしょ」

「ノンノン」

(なぜフランス語)

「情けは人のためならずって、諺知ってるでしょう? 情けをかけるのはその人のためではなく、

回り回って自分のためになること」

「あー、はい。わかりました。案内すりゃいいんッスね」

「そういうこと」

 話が長くなるのは、播磨の好むところではないので、彼はウィーンを案内することにした。



   *




 自己紹介の時に、播磨は変な奴だなと感じた前田ことウィーン(オーストリアのウィーンに

住んでいるからそう呼ぶことにした)だが、話をしてみるとやっぱり変な奴であった。

 とにかく純粋で、言われたことをすぐに信じてしまう。

「お前ェ、苗字は前田って言うんだな」

「そうだよ、前田慶次郎利益と同じ前田」

(随分マニアックな名前を知っているな。原哲夫のファンか)

「それが何か?」と、ウィーンは聞いた。

「日本ではな、当たり前と言いたい時にはこういうんだ」

「ん?」

「“当たり前田のクラッカー”ってな」

「おおっ、凄い」

「当たり前だ、じゃなくて、当たり前田のクラッカーだぞ」

「なるほど。今の日本ではそういう言い方が流行ってるんだね」

 ウィーンは播磨の言うことを熱心にメモしながら聞いていた。

 あまりの純粋っぷりに、少し心が痛くなる播磨。

「ここが事務室な。学割とかを申請するのも、ここでやる」

「なるほど」

 しばらくは、話をしながら学校中を歩き回った。

 播磨自身、記憶が曖昧なのでどこまで正しく説明できたかわからない。


 行く先々で、ウィーンは熱心にメモを取っている。

 どこにそんな、記録するべきものがあるのかイマイチよくわからない播磨。

 そして、案内の終わりごろ、職員室の前に到着する。

「なるほど、つまり長篠の戦で鉄砲の三段撃ちはなかったというのが今の通説なんだね」

「あの当時、織田家の持っていた鉄砲を集めても、戦場にあったのは千丁程度と見積もられている」

「そうかあ、日本史は奥が深いねえ」

 その時だった。

「どういうことだよ畜生!」

 乱暴に職員室の扉が開く。

 一瞬、また宮本来夏が何かやらかしたのかと思った播磨だったが、職員室から出てきた生徒は違った。

「田中?」

「ああ? 播磨と、転校生……」




   *




「落ち着いたか」

「すまない、見苦しいところ見せちまって」

 校内の噴水広場。

 以前、播磨と来夏を話をした場所に、今は大智がいる。ちなみにウィーンは帰った。

「サンキュー」

 播磨から購買で買った飲むアロエヨーグルトジュースを受け取った大智は、その封を開けて

一気に喉の奥にジュースを流し込んだ。

「おい、そんなに急いで飲むと」

「ゴホッ、ゴボゴボッ!!」

 当然のことながら、むせる大智。

「ぐおお! アロエが気管にい!!」

「おい! 大丈夫か! 死ぬぞマジで!」

 アロエジュースで死にかけたおかげで、怒りが収まった田中大智は、恥ずかしそうに謝る。

「すまねえ」

「気にするな、で、何があったんだ」

「いや、実はバドミントン部が廃部するってことで」

「なに、廃部?」

「まあ、正確には『休眠クラブ』って扱いだけど。実質廃部みたいなもんだよな」

「どうして」


「部員が俺しかいないからさ……」

「あー、そういやそんな話をしてたな」

「今月中に新入部員を含めて五人いないと廃部になっちまう」

「何でそんな急に」

「そりゃ、四月は新入部員が入ってくる季節だからな。それまで休眠は待って

もらってたんだけど」

「なるほど。で、一年生は何人入ってきたんだ?」

「ゼロ」

「は?」

「だからゼロだよ」

「どうしてそうなった」

「なんつうか、ここ最近は試合のことばっか考えてて、そんで新入部員の勧誘まで

手が回らなかったわけだ」

「ああ、そうか」

「どうしよう播磨、このままじゃあ部が無くなっちまう」

「廃部になったら、どうなるんだ」

「対外試合にも出られなくなるし、来月のインターハイ予選も……」

 大智は頭を抱えて悩んでいた。

「田中」

「……ん?」


「らしくねェぞ」

「でも」

「男ならその程度のことで諦めていいのか」

「いや、しかし」

「お前ェは練習に集中しろ。部員は俺が集めておく」

「は? 待てよ、播磨」

「あンだよ」

「あてはあるのか? ってか、お前転入生だよな。知り合いとかもまだ」

「確かに俺の知り合いは少ねェ」

「……」

「だが、部活入っていない奴なら二人ほど知っている」

「ん?」




   *


 不思議少年ウィーンが転校してきた翌日、坂井和奏は同じクラスの播磨拳児に呼び出されていた。

(播磨くん、何の用だろう)

 どうも急ぎの用らしい。

 特に急がない用事なら、バイトの時にでも言えばいいのに、この日は学校で話をしたいと言っていた。

 そこで彼女は考える。

(学校でしかできない話→お父さんには聞かれたくない→恥ずかしい話)

 そこで彼女はピンとくる。

(まさか……、播磨くん。私のこと……)

 心拍数が上がってきた。





『坂井、いや、和奏。初めて会った時か俺はお前ェのことを』




「ダメだよ播磨くん、私たちまだ――」





「何がダメなの?」



「ブフォッ!!!」


 突然声をかけられたため、思わず吹き出してしまう和奏。

「た、高橋先生……?」

 妊娠中の教師、高橋智子であった。

「さっきからニヤニヤしたり怒ったり悲しんだり、変な顔したり。体調でも悪いの?

それとも演技の練習?」

「いや、そんなんじゃないです。本当に」

「はあ?」

 和奏は恥ずかしさのあまり、高橋から逃げる様にその場を離れた。





   *
 



 同じころ、沖田紗羽は教室でぼんやり播磨のことを眺めていた。

(家ではほとんど口きかないけど、学校でも喋る機会はないな)

 播磨は家では紗羽の母や父とよく話をしているようだったが、紗羽とはほとんど会話がない。

(実際、喋る機会があったとしても、何を話していいのかわからないしなあ)

 学校では、播磨は同じクラスの田中大智と仲良くなったようだ。

 この日も、何やら話をしている。

 ただ、友達同士の談笑にしては顔が真剣になるのが気になるところだ。

(ま、私には関係ないことか)

 そう思い視線を逸らすと、不意に誰かが近づいてくる。

 どうせ来夏だろう、と思っていたが違った。

「沖田」

 遠慮がちに声をかけてきたのは播磨だった。

「播磨くん……?」

 学校で、しかも彼のほうから話しかけてくるのは非常に珍しいことである。

「ちょっと聞きてェことがあるんだが」

「何?」

 ちょっと緊張してきた。

「宮本知らねェか」 

「はい?」


「宮本だよ、お前ェら仲いいだろ」

「来夏に用があるの」

「ああ、ちょっとな」

「そういえば、前も来夏のこと私に聞いたよね」

「そうだったか? あー、アレか」

 播磨は何かを思い出したように、小さく頷く。

「来夏に何の用?」

「いや、ちょっと個人的に話があるっつうか」

「何の話?」

「何でお前ェに言わなきゃなんねんだよ」

「人に言えない話?」

「別にそうじゃねェから」

「じゃあ何なのよ」

「そんなのどうでもいいだろうがよ」

「全然よくない!」

 紗羽は思わず声を荒げてしまった。

「……」

 クラス中が沈黙、そして注目。

「あ、いや、これは……」

 紗羽が苦しい言い訳をしようとしていると、


「何やってるの?」

 来夏が戻ってきた。

「おお、宮本。いいところにきた」

 そんな来夏に声をかける播磨。

「ん? どうしたの播磨くん」

「ちょっとこっち来い」

「うん、いいよー」

 播磨に連れられて、来夏は教室の外に行ってしまった。

 そして教室内に取り残される紗羽。

(も~、何なのよお!)

 紗羽は心の中で頭をかきむしる。

 播磨とは同居人として、クラスメイトとして普通に接したいだけなのだ。

 にもかかわらず、上手く接することができない。

 それどころか、どんどん距離が遠くなっていく気がする。 

(そういえばこの前も、播磨くんは来夏のこと気にしてたけど、やっぱり彼って、

来夏のことが好きなのかな)

 そして、紗羽のが頭の中では変な考えが過り始めていた。




   *




昼休み、和奏は緊張しすぎてまともに昼食も喉を通らなかったほどだ。

(ここで断ったらバイトの時に顔を合わせ辛くなる。だからといって、

まだ付き合いたいっていう段階でもない。

 だったらここは、勇気を出してまだ待ってと言うべきじゃないかな)

 ブツブツと一人で作戦を立てる和奏。

(播磨くんのことはキライじゃないけど、もう少しお互いのことをよく知ってから

結論を出す。まずは『交換日記』から始めてみよう)

 和奏の乙女ゲージが満タンになったところで、時計を見た彼女は急いで約束の

場所へ向かう。

(確か中庭の噴水広場だったはず)

 勇気を振り絞って前に出る。そこには、

「あ、和奏」

「え?」

 播磨とは似ても似つかぬ高い声。

「来夏?」

 宮本来夏である。

「ああ、もう一人って坂井だったのか」

「田中も」

 田中大智もいた。

 どういうことだろう。待ち合わせ場所を間違えたかとも思ったが、そこにはしっかり

播磨もいたのだ。


「は、播磨くん。これは一体」

「おう、休み時間にすまねえ。実はな、宮本と坂井。お前ェら二人に頼みがあるんだ」

「頼み?」

 来夏と和奏は顔を見合わせる。

 どうやら彼女が想像したような展開にはならないことは確実だった。

 和奏は露骨に落胆する。

(そうだよねえ、まだ出会って日も経ってないし、そんなことはないよね)

 しかし、そんな和奏の気持ちを余所に、播磨は話を進めた。

「実は、田中(コイツ)が所属するバドミントン部に入って欲しい」

「バトミントン?」
 
 と、来夏が言うと、

「バドミントンだ。間違えるな」

 すかさず大智は訂正した。

「いきなりどうして?」

「実は――」

 田中大智は一歩前に出て事情を説明する。

「なるほど、廃部になったら試合に出られないのか。それでメンバーを集めていると」

 腕組みをした来夏がそう言って頷く。

「でも私たち、バドミントンなんてできないよ」

 そう言ったの和奏だ。


 バドミントンなど、体育の授業以外ではやったことはない。

「籍があるだけでいい。今更練習しても間に合わないから、マネージャーとして」

「播磨くんも?」

 来夏は聞いた。

「おう」

 なぜか自信満々に答える播磨。

 どうやらこの部活動は、選手一人にマネージャーが三人らしい。

 滅茶苦茶贅沢な布陣だ。

「頼む、お前たち! これが最後のチャンスなんだ!」

 そう言うと、大智はその場に土下座をする。

 もちろん、下はコンクリートで決してキレイな環境ではない。

「や、やめてよ田中」

 そんな大智の行為に戸惑う来夏。

「そうだよ、そんなにしなくても」

 和奏も動揺した。

「俺からも頼む」

 そう言って頭を下げる播磨。

「播磨くんは、どうして田中に協力するの?」

 ふと、疑問に思った和奏が聞いてみる。


 確かに仲は良さそうだったが、それほど親密な関係とは思えなかった。

「頑張ってる奴を応援するのが俺のモットーだからな」

 と、播磨はあっさり言ってのける。

「モットー?」

「真剣に努力している奴を止める権利は誰にもねェはずだ」

「播磨くん……」

 真っ直ぐな言葉に心が揺れる和奏。

 しかし、先に反応したのは来夏だった。

「わかったよ播磨くん。それに田中」

「ん?」

 田中が顔を上げる。

「私、宮本来夏はバトミントン部に入ってあげる」

「バドミントンだ」

「田中、少し黙ってろ。本当か、宮本」

 田中の言葉を制するように播磨は言った。

「本当だよ、声楽部辞めてから時間もできたし、協力するよ」

「来夏、声楽部辞めたの?」

 彼女が部を辞めたことを知らなかった和奏は驚く。

「うん、色々あってね」

「そうなんだ」


 その辺の事情を聞きたかったが、今はそれどころではない。

 というか、そこまで来夏とはまだ仲良くはないのだ。

「和奏はどうする?」

 と、来夏は聞いてきた。

「私は……」

「すまねェ坂井、無理にとは言わねェ。ダメならダメでいいんだ。ただ、今はお前ェだけが頼りだ」

「その言い方は卑怯だよ播磨くん」

「頼む、坂井!」

 再び土下座して頭を下げる田中。

「わかった。頭を上げて田中」

「坂井……」

「私も協力する。どこまでできるかわからないけど」

「ありがとう!」

 大智が急に立ち上がったので、驚いた和奏は思わず来夏の後ろに隠れてしまった。

「これで四人だな」

 すっかり元気を取り戻した大智はそう言って笑う。

「これで廃部はないのか?」と、来夏。

 しかし大智は、

「いや、実はまだあと一人必要だ」と言った。

「は?」


「部員は全部で五人が最低条件なんだ」

「ってことは、あと一人?」

「そうだ」

 大智は答える。

「でも、誰がいるかな」

 和奏は少しだけ考える。自分が誘えそうな人間は、あまりいない。

「紗羽はどうかな!」

 そう提案したのは来夏であった。

「沖田か」

「ダメだよ来夏。紗羽は弓道部だし、運動部の部員は他の運動部と兼部はできないんだよ」

「そーかー。でも他に誘えそうで、部活に入っていない生徒って」

 しばらく四人が考えていると、

「あれ? ケンジとタイチ。二人で何してるの?」

 無邪気な笑顔の少年が声をかけてきた。

「ウィーン」

 ウィーンこと、転校生の前田敦博である。

「いた!」

 全員の視線がウィーンに集中した。




   *


「声楽部辞めたってどういうこと!?」

 放課後、紗羽の声が教室に響き渡った。

「しかも今はバトミントン部って、意味がわからない」

「紗羽、バトミントンじゃなくてバドミントンだよ」

 来夏は笑いながらそう言った。

「笑い事じゃない! どうしてそんな大事なこと、何の相談もなしに!」

「ほら、紗羽だって試合前でしょう? あんまり心配かけたくなくて」

「試合とか関係ないし! それに、どうしてバドミントンなのよ。アンタ経験ないよね?」

「うん、全然」

「じゃあどうして」

 来夏は入部までの経緯を説明した。

「で、来夏が入らないとバドミ部は廃部で、田中が試合に出られないと」

「変な略し方しないでよ。田中が怒るよ」

「別にそんなのどうだっていいじゃない。どうして来夏なのよ」

「え?」

「別に来夏って、田中と仲がいいわけでもないじゃない? もしかして、田中のこと」

「違うよ。そういうんじゃないの」


「じゃあなんで?」

「播磨くんに頼まれちゃって」

「播磨くん……?」

「真剣に努力している奴を止める権利は誰にもねェはずだ……」

「え?」

「播磨くんが言ったの」

「今の、彼の真似?」

「そうだよ」

 来夏は時々人の口真似をする癖がある。

「全然似てないけど……」

「別にそこはいいじゃない」

 まったく似ていないモノマネ。しかし、

(播磨くんって、そんな言葉も言うんだ)

 紗羽の胸は少しだけ高鳴る。


「田中って、一年のころからすっごく頑張って練習しているし、最後の大会に出られないって、

可哀想じゃない?」

「……うん」

「だから、協力するの。大したことはできないかもだけど、応援くらいはできるよ」

「来夏」

「後ね、私も諦めないことにした」

「え?」

「歌のことも」

「どういうこと?」

「まだ、具体的に何をしたいってわけでもないけど、声楽部を辞めても歌は続けていく」

「どうやって?」

「それは今から決めるの」

「ノープラン……」

「よっしゃ。まずは田中を全国優勝さすぞお!」

「はあ……」

 何だか自分一人だけ置いて行かれたような気がした紗羽であった。






   つづく

男の友情もいいよね。別に変な意味じゃなくて。



 第六話 プロローグ


 播磨を含む四人がバドミントン部に入ったとはいえ、試合までの時間はないし、

まともにバドミントンができるのは大智一人だけである。

「すまねェな、田中。まともに練習相手にもなれなくてよ」

「いや、こうやって手伝ってくれるだけでもありがたい」

 早朝、眠たい目をこすりながら播磨は大智の練習を手伝う。

 右や左にシャトルをトスしたり、ダッシュのタイムを測ったり、筋力トレーニングに

付き合ったり、とにかくやれることはやった。

「しかし、凄いな。前々から練習していることはわかってたけど、こんなに厳しいこと

やってたなんてねえ」

 来夏が感心したように頷く。

「大智って、背は低めだけど運動神経はいいよね」

 と、ウィーンが言うと、

「こらウィーン! 背のことは言うな!」

 大智は身長のことを気にしているようだ。

「そうだぞウィーン、身長はどうしようもないんだ!」

 来夏も背のことを気にしていた。


 試合を前にして、大智は益々練習にのめりこんでいく。

 他校に出稽古に出て、夜は夜で、アマチュアのバドミントンクラブとの練習。

 特に大人たちは、週二回の練習をわざわざ週四回にまで増やして大智を応援する。

 それだけ大智が有望な選手なのだろう。

 夜の練習の日、播磨は和奏に頼んで差し入れのおにぎりを作ってもらうことにした。

「すまねェな、坂井。手間かけさせちまって」

「いいよ播磨くん。気にしないで、私にできることって、これくらいしかないし」

「サンキューな」

 二人して夜間、市立の体育館に行くと、そこではいつも以上に気合の入った大智が練習していた。

「お、やってるな」

 春にも関わらず、まるで夏のようにむっとした空気が漂う体育館で、選手たちの声が響く。

「あら、播磨くんだっけ? いらっしゃい」

「どうもッス」

 大智の姉、晴香が出迎える。

 暑苦しい場所にも関わらず、涼しい顔をしていた。

「おや、そちらの可愛い子は、播磨くんの彼女?」

「ふえっ!?」

 急にそう言われて驚く和奏。


「いえ、違います」

 しかし播磨はあっさりと否定する。

「……」

「部活の仲間ッス。あと、バイト先の娘さん。今日、差し入れを作ってくれたんッスよ」

「あら、そうなの。私は田中晴香。たいくん……、じゃなくて大智の姉よ、よろしくね」

「あ、はい。坂井和奏です。田中くんとは同じクラスの……」

 和奏はぎこちなく挨拶した。

 そんな話をしていると、

「おう、播磨。来てくれたか」

 汗を拭きながら大智が近づいてきた。

 物凄い汗の量だ。一体どれだけ動けばこんなにも汗が出るのか。

「頑張ってるな。坂井が差し入れ作ってきてくれたぞ。皆さんで食べろ」

「お、助かるよ。腹ペコなんだ」

 そう言うと、大智は和奏かからおにぎりの入った重箱を受け取った。

「それにしてもたいくんは幸せ者だよね」

 彼らの様子を見ながら晴香は言う。

「だってさ、こんだけたくさんの人のサポートを受けてるんだよ。無様な戦いはできないよね」

「確かにそうだ」


 播磨は同意する。

「そうだな、頑張らないと」

 重箱を持った大智は深く頷いた。

「ま、ここの学校の唯一の出場選手だから、頑張ってもらわねェと」

「何言ってるんだ播磨」

 不意に大智の顔が素に戻る。

「ん?」

「お前も出るんだぞ、試合」

「はあ?」

「いや、だから」

「どういうことだ」

「だって、個人戦の枠は一校につき二つあるんだ。だから」

「おい、ちょっと待てよ」

「枠はちゃんと使わないと意味ないだろ」

「どういうことだ」

「頑張ってね、播磨くん」

 そう言って晴香は播磨の肩を叩く。

「応援するよ、播磨くん」

 和奏もノリノリだ。

「どういうことだよそれはあああ!!」

 播磨の声が、夜の体育館に響き渡った。





    TARI TARI RUMBLE!


    第六話 ここで諦めたら終わりだ




 確かに播磨の運動神経は常人よりは高く、喧嘩もほとんど負けたことがない。

 しかし、ルールに基づいて戦うスポーツともなれば話は別だ。

 漫画でもない限り、素人が数週間やそこら練習したくらいで勝てるほどスポーツは

甘くない。

「凄いよケンジ! 六点も取ったじゃないか」

 ウィーンは興奮していた。

「お疲れ播磨くん。はい、これ」

 そう言ってポカリスエットを差し出す来夏。

「播磨くん、大丈夫?」

 心配そうに和奏が彼の顔を覗き込む。

「ハアハアハアハアハア……」

 試合後もなかなか息が整わなかった。

 バドミントンは公園でやっている気楽なスポーツに見えるが、実際には反射神経と

持久力の両方を必要とする滅茶苦茶ハードなスポーツだ。

 初めて出場したバドミントンの公式試合。

 そこで播磨はストレート負けを喫した。

 しかし悔しさよりもまず、苦しさのほうが先行するのは、素人が故であろう。

「情けないぞ拳児。この程度でへばるなんて」

 ストレッチをしながら大智は言った。

「お前ェと一緒にすんじゃねえよ。ぐふっ」


 そうこうしているうちに、大智の名前も呼ばれた。

「タイチ、出番だよ」と、ウィーン。

「わかってる」

「田中、頑張りなさいよ」

 来夏はそう声をかける。

「頑張って」

 和奏も言った。

「おう」

「……頑張れよ」

 未だ息の整わない状態の播磨も、何とか言葉を紡ぐ。

「任せとけ」

 彼らの応援を背に、田中大智はコートに立つ。





   *



 部員の応援と本人の努力の成果もあって、大智は順調に勝ち進んでいった。

 そしてついに地区大会の準々決勝まで進出する。

 ここで上位に食い込めば、関東大会だけでなく全国大会も見えてくる。

「やったね、田中」

 そう言って来夏は田中の背中を叩いた。

「凄いよ」

 和奏も驚いている。

「このまま優勝だよ、タイチ」

 ウィーンも元気だ。

「そう簡単に言うなよ、上位は強いやつらばっかなんだから」

 珍しく不安そうな表情の大智。

 疲れが出たのだろうか、と播磨は思った。

「ちょっとトイレ行ってくる。何かあったら教えてくれ」

 そう言って手洗いに向かう大智を、播磨は呼び止めた。

「おい、田中」

「どうした、播磨」

「お前ェ、歩き方変じゃねェのか?」

「え?」

 全員が一斉に首をかしげる。

「一昨日ちょっとひねっちまったけど、別に大したことじゃないさ」


 大智は笑顔を見せ、再びトイレに向かった。

「ねえ、播磨くん」

 不安そうな表情で和奏が聞いてくる。

「なんだ」

「田中の足って、悪いの?」

「いや、よくわからねェ。ただ、ちょっといつもと歩き方が違うような気がする」

「……」

「怪我なんてアスリートにはよくあることだよ、じん帯切っても金メダル獲った人だっているんだから」

 来夏は常に前向きであった。

「まあ、大事にならなきゃいいが」

 播磨は一抹の不安を抱えつつ、次の試合を待った。

 夕方、ついに大智の出番を迎える。

 相手は優勝候補の一人と言われる選手だ。

 背が高く、いかにも強そうな雰囲気を醸し出していた。

「頑張れー! 田中アアア!!」

 元声楽部らしくよく通る声で来夏は叫んだ。彼女の声は体育館の中でよく通る。

「頑張って!」

 来夏並みか、またそれ以上に和奏の声はよく通った。

 二人の応援が大智に届かないはずがない。


「行けえ、タイチイイイ!!!」

 強豪校のように、まとまった応援はないものの、気迫だけはどの学校にも負けない、

と播磨は思う。

 しかしコートでは、微かに不安な表情を抱える大智の姿があった。

(あの野郎……)

 バドミントンのことはよくわからない播磨でも、相手の心の動揺くらいはわかる。

「しっかりしろ田中! 腑抜けた顔してんじゃねェぞ!!! 俺の分までやれええ!!!」

 試合開始の直前、播磨は身を乗り出してそう声を出した。

 驚いた大智がこちらを向く。

 播磨は親指を立てて、大智に向ける。

 大智も、同じように親指を立てた。

 そして試合開始。

 序盤は激しいラリーが続くも、先に相手校に一セットとられてしまった。

「まずいな、後がない」

 不安そうにウィーンが言った。二セット先取された時点で大智の負けは確定してしまう。

「田中あああ!」

「田中!!」

 とにかく声を出すバドミントン部員。

 得点は18対17


 相手校が一点をリードしている状態だ。

 バドミントンの一セットは二十点を取られた時点で負ける。

「諦めるな!」

 播磨は自分に言い聞かせるように叫ぶ。

「ふん!」

 一瞬、シャトルが見えなくなったがそれでもなんとか大智は拾った。

 ポトリッ、とラインギリギリにシャトルが落ちる。

 18対18、同点だ。

「よっしゃああ!!」

 思わず声が出る。

 アンダーでサーブを入れ、再び激しいラリー。

「ふっ!」

 相手の打ったシャトルを大智がかわすと、そのシャトルはライン外に落ちた。

 アウトだ。

 18対19、セットポイント。

「もう一点! もう一点!」

 来夏の声が響く。

「もう一点! もう一点!」

 和奏やウィーンもそれに続く。


「行けえ! 田中!」

 播磨も叫ぶ。

 おもわず握った拳に力が入った。

「とりゃ」

 先ほどの大智のように、相手校の選手が身をかわす。

 アウトか? 

 一瞬そう思ったが、ぎりぎりのところでシャトルはライン内に入った。

 判断ミス。

「いやったああ!!」

 セットカウント一対一。

 同セット。

 次のセットを取ったほうが勝ちだ。

 次のセットまでの短いインターバルの中で、大智は水分補給をして、コーチ役の姉から

アドバイスを受ける。

 あの歩き方が変だったのは気のせいだったのか。

 ふと、播磨はそう思った。

 いや、むしろそう思いたいという願望があったのだろう。

 再びコートに向かう大智の後ろ姿を眺めながら、再び彼の歩き方がおかしいことに気が付く播磨。

(疲労の影響か……?)

 嫌な予感がする。


 相手のサービスからはじまった試合は順調に推移するも、十点を超えたあたりから差が出始めた。

 10対14

 相手校、四点のリード。

(かなり厳しいな)

 バドミントン経験の少ない播磨でも、これくらいのことはわかる。

 バドミントンには野球のような一発逆転の満塁ホームランなどないのだ。

「タイチ!!」

 ウィーンの声で、コート内の異常に気付く。

 大智がバランスを崩して転んでしまったのだ。

 心配の一人が駆け寄ると、大智はすぐに立ち上がって、右手を挙げた。

 大丈夫です、の合図なのだろう。

 試合は何事もなく進行する。

 しかし、相手のリードはかわらない。

 11対16

「タイチ頑張れ!!」

「田中あああ! ガッツじゃああ!!」

「田中! ファイト!」

 応援にも熱が入る。

 しかし、リードは広がる一方。


(落ち着け、落ち着けバカ)

 心の中でそう叫ぶが、試合は好転しない。

 12対18

 さらに動きが悪くなる大智。

「くそが……」

 ジワジワと離されていくゲーム。

 このまま終わってしまうのか。

「諦めるなああ!!」

 観客席の前にある手すりを握りしめて播磨は叫ぶ。

 ここで諦めたら終わりだ。

 最後の最後まで。

 その時、大智は播磨たちのほうを見ず、親指だけを立てた。

“まだやれる”

 そんなことを言っているように見えた。

「ふんっ」

 大智のスマッシュが決まり、13対18。状況は依然として相手校有利。

 だが、彼は諦めない。

「アウトだ!」

 相手のスマッシュがコート外に出た。

 14対18


 大智は肩で息をしていたが、疲れているのは相手も同様だった。

 リードされるということは凄いプレッシャーだが、そのリードからジワジワと迫られることも

またプレッシャーなのだ。

「行けええ! 田中ああ!!」

 15対18

「三点差! 三点差だよケンジ!」

「わかってるっつうの!」

 隣のウィーンが叫んだ。

 息も詰まるようなラリーの中で、パサリとネットにかかるシャトル。

 16対18!

 ついに二点差まで詰め寄った。

「うおおおおお!!!」

「頑張れー、白浜坂」

「田中選手頑張れ」

 見学をしていた他校の選手たちや一般の観客も盛り上がる。   

 しかし、


「アウト!」


 大智のスマッシュが不幸にもラインを割る。

 16対19


 マッチポイントだ。

「田中!」

 大智は腕についてリストバンドで汗を拭い、再び構えをとる。

 しかし、相手の打ったラインギリギリのシャトルを取りに行った瞬間、

「……!」

 一瞬、静まり返る会場。

 無常にも審判の手はラインのほうに。

 倒れこんだ大智は、しばらくの間起き上がれないでいた。





   *  





「カンパーイ」

 試合後、播磨たちは和奏の家の店を臨時に借り切って打ち上げパーティーをやることにした。

「皆、すまない」

 全員の前に立った大智はそう言って深々と頭を下げる。

「よしてよ田中、あんたは頑張ったよ」

 そう言ったのは来夏だ。

「うん、バドミントンの試合って初めて見たけど結構面白かったよ」

 オレンジジュースを片手に、和奏も言った。

「タイチ、かっこよかったよ」

「本当にすまない。あんなに応援してもらったのに」

「いつまでもウジウジしてんじゃねえぞ」

 播磨が大智に歩み寄る。

「それよりお前ェ、足は大丈夫なのか」

「ああ、まだ痛みがあるけど、大丈夫だろ」

「病院行けよ」

「わかってる」

「そんじゃ、湿っぽい話は無しにして、改めて挨拶してもらおうか」

 そう言うと、播磨はさっさと自分の席に戻る。


「挨拶って?」

「何か言いなよ。協力してもらったんだかさ」

 ちゃっかり、打ち上げに参加していた大智の姉、晴香がビールを片手に言った。

「わかったよ。みんな、ありがとう。本当に」

 大智は訥々としゃべり始める。

「本当は廃部になって、試合どころじゃない状況だったけど、それを救ってくれた播磨、

それに宮本や坂井、ウィーンにも感謝している。

 俺の試合はこれで終るけど、バドミントンはまだ終らない」

「そうだ」

 合いの手を入れるウィーン。

「これからもバドミントンは続けて行きたいと思う。その前にまずは大学受験だな。

皆、本当にありがとう」

 そう言うと、再び大智は頭を下げた。

 すると、一斉に拍手が起こる。

 感動の瞬間だ。

「ねえ、もうバドミントン部は終わりなの?」

 拍手が終わるころ、ウィーンが不意にそう言った。

「それは……」

 元々田中大智が試合に出るためだけに集まった部だ。

 試合が終わったので、もうやることがない。

 役目が終わったので、解散ということになるだろうか。


 打ち上げ会場が一気に暗くなる。

「待って、まだ終わらない」

 その時、不意に立ち上がったのは来夏であった。

「来夏?」

 和奏は不思議そうに彼女を見る。

「私、決めたの」

「何を」

「今日の田中を見て、諦めないことの大事さに気づいた。だから決めた」

「は?」

「私、合唱部を作る」

「なにい?」

 その場にいた全員が驚く。

「田中、ウィーン。協力してあげたんだから、今度は私に協力して」

 と、二人を見た来夏が言う。

「協力って何を」

「本日をもって、バドミントン部は第二合唱部になります!」

「はあ?」

 突然の提案に面食らう一同。

「面白そうだね」


 唯一、ウィーンだけはノリノリだった。

「私、歌が好きだから。だから歌は諦めない。ここを合唱部にして、本家の声楽部に

挑戦してやるの!」

「……」

 突然のことで混乱していたけれど、ふと横を見ると和奏の顔は暗かった。

「和奏、どうしたの?」

 彼女の顔を覗き込む来夏。

「ごめん来夏」

「ん?」

「合唱部には、参加できない」

「和奏」

「音楽は、もうやらないから。ごめん」

 そう言うと、和奏は目を伏せる。

「どうして? 音楽科にいた和奏がいれば、合唱部は百人力だよ」

「もう音楽科じゃないし、それに……」

 そこで言葉を切る和奏。

「ごめん」

 そう言い残すと、彼女は其れ以上何も話さなかった。





   つづく



 第七話プロローグ


 田中大智の最後の試合の翌日、彼らはまたいつものように学校に来ていた。

 多くの運動部は、全国大会に出場するような強豪校を除き、軒並み三年生が引退

して行ったので、校内は試合前のピリピリした雰囲気から、少しだけダラけて見えた。

「それにしても、面白そうなことやってたのねアンタたちは」

 食堂でビーフカレーを食べながら紗羽は言った。

 向かい側には、炒飯定食を頼んだ来夏が座っている。

 彼女は、バドミントン部に参加していた時のことを紗羽に話して聞かせていたのだ。

「確かにそうかもね。スポーツ見て興奮するなんて久しぶりだったかも」

「私も一応、試合だったんだけどね」

「どうだった?」

「準決勝敗退。ま、引退よね」

「そうなんだ……」

「やれることはやったから、悔いはないわ。三年間頑張った結果がこれだし」

「私は、まだ終わりたくない」

「え?」

「だから、私はまだ終わりたくない。皆にも言ったんだけど、あ、皆っていうのは、バドミントン部

の子たちね」

「う、うん」

「諦めない心は大事なのよ、例え負けたとしても、最後まで諦めなかった、その事実は消えない」


「来夏、あんた悪い物でも食べたの?」

「だから紗羽」

「はい」

「あなたも協力して」

「協力って」

「合唱部をよ。私たちの合唱部」

「どうしてよ」

「……播磨くんも誘うよ」

「え?」

 ポツリと放った来夏の一言に紗羽のスプーンがピタリと止まる。

 それを見た来夏はニヤリと笑った。

「播磨くんは関係ないから。ってか、そんなこと言うなら協力してあげない」

「ああん、わかったよ。彼は関係なく、紗羽には協力してほしいんだから」

 こうして、来夏の第二合唱部(仮)は活動に向けて動き出したのである。






              TARI TARI RUMBLE!


 第七話 もし、忘れるくらいだったら、思いっきり悲しんだほうがいいじゃねェかな





 土曜日――

 バドミントン部として活動していた間は、まともにバイトに顔を出せなかったので、

それを取り返すように播磨は、坂井圭介の店で働いていた。

 播磨には特殊能力があるのかわからないけれど、彼がバイトに入ると不思議と店が

繁盛するのだ。

 そのため和奏の父、圭介は播磨がバイトに来るのをいつも喜んでいた。

 夕方、店が終わると併設してある彼の家で夕食を食べる。

 いつもではないけれども、播磨が店に来るときはこうして食事をごちそうになる機会が多い。

「いつもすんません。材料費なんかはバイト代から引いといてもらってかまわねェんで」

「気にすることないよって、播磨くん。キミのおかげで色々助かってるんだから」

 この日も圭介は上機嫌だ。

「お、今日は何だか豪華だな」

 食卓に並べられた料理を見ながら圭介は言った。

「そ、そんなことないよ、お父さん」

 配膳をしながら、件の料理を用意した和奏は言う。

「美味そうだな。播磨くんもそう思うだろう?」

「ん、確かに」


「よかったな和奏。二日前から用意していた甲斐があ――」

「お父さん、今日はビール要らないよね」

 そう言って、テーブルの上の缶ビールを没収する和奏。

「すまん、悪かった和奏。いや、ちょっと待って」

「何わけわかんないこと言ってるのよ、お父さんったら」

 怒りながらビールを返した和奏は播磨と目を合わせる。

「別に気を使わなくてもいいんだぞ。何ならパンの耳だって俺は」

「じょ、冗談だよ播磨くん。今日はちょっと、スーパーで材料が安かったから

買いすぎただけ。別に特別なものはないよ!」

「お、おう。そうなのか」

「だから気にしないで」

「わかった」

「それじゃ、いただきましょうか」

 エプロンを片付けた和奏がそう言って食卓に座った。

「いただきまーす」

 その合図とともに圭介がビールを開ける。

「くーっ、この一杯のために頑張ってきたんだよなあ~」

「頑張ったのは播磨くんでしょう。それに、弱いんだからあんまり飲んじゃダメよ」

「わかってるって、昔母さんにも同じようなこと言われたなあ」

「んもう」


「和奏の味付けも、母さんに似てきたな。結局、そうなるのかな」

「お父さんの味付けはいつも大ざっぱだからだよ。仕事の時みたいに計量スプーンとか

使ったら?」

「男がそんなみみっちい物使えるかっての。食えるならいいだろう?」

「ちゃんと後片付けもしてよね」

「まったく」

「ナーオ」

 気が付くと、播磨の足元では飼い猫のドラがキャットフードと、夕食の残りを食べていた。

「あのさ、坂井」

「ん?」

「なに?」

 播磨が名前を呼ぶと、圭介と和奏の二人が一斉にこちらを向く。

「いや、店長じゃなくて」

「あ、私?」

 和奏は少し恥ずかしそうに目を伏せる。

「播磨くん、ここじゃあ和奏も俺も同じ坂井なんだぞ」

 圭介は少し笑いながらそう言った。

「そ、そうッスね。いや、まあ店長は店長で」

「ここにいる時だけでも和奏のこと、下の名前で呼んでやったらどうだ」


「は?」

「お父さん?」

 唐突な提案に戸惑う播磨。

「でも、坂井が嫌がるんじゃ」

「別に!」

「ん?」

「別に嫌じゃない……、です」

「だってさ、播磨くん。どうだい」

「本人が嫌じゃなけりゃあ」

「よかったな、和奏」

「何が良かったなのよ、お父さん。あ、それで何か聞きたいこと?」

 和奏は播磨に向く直し、改めて聞いてくる。

「ああいや、別にそういうわけじゃあねェんだが、お前ェのお母さんってのはその、

あそこの写真の人なのかな、って」

「あ……」

 居間に飾っている写真。大人の男女と小さな女の子が写っている写真だ。

 和奏の表情が曇る。

「……」

 無言で立ち上がった和奏は、居間に行って件の写真を食卓へと持ってきた。

「そうだよ、この人が私のお母さん」


 そこには髪が長く優しそうな雰囲気の女性が写っていた。

「これがお父さんで、これが私」

「店長、若いッスね」

「今も十分若いだろ」

「……お母さんは音楽が好きでね、私に音楽を教えてくれたのもお母さんなの」

「ほう」

「今はもういなくなっちゃったけど、ずっと私のお母さんなんだよ」

「そういやお前ェ、確か二年生まで音楽科ってところにいたんだよな」

「う……、うん」

「やっぱりその、お袋さんの影響で」

「それもあるけど……」

 先ほどまで明るかった食卓の雰囲気が、一気に暗くなったような気がした。

「悪い、辛いこと聞いちまって」

「べ、別に辛くなんて」

 ふと、和奏の肩が震える。

「ごめん、ちょっと顔洗ってくるね。目にゴミが入っちゃった」

「……」

 和奏がいなくなった食卓に、播磨と圭介、そしてドラが残された。

「……」

 空気が重い。


「すいません店長」

「いや、別にかまわないよ。いつかは向かい合わなければならないことなんだから」

「俺みたいな他人が踏み込んでいいようなモンじゃないッスよね」

「気にしないでよ。ほら、冷めないうちに食べよう」

「うっす」

 食事は確かに美味しかった。

 けれど、どこか砂を噛むような感覚が残ったのは確かだった。




   *





 帰り際、圭介が呼び止める。

「播磨くん」

「なんッスか店長」

「ちょっと歩きながら話をしないか」

「はい?」

 圭介は靴を履いて、海辺の道を播磨と並んで歩く。

 よく考えると、こんな風に圭介と並んで歩くのは久しぶりかもしれない。

「まひるのこと……」

「まひる?」

「ああ、坂井まひる。俺の妻で和奏の母親だよ」

「あの、写真の」

「そう、いい女だろ? やらないぞ」

「あ、はい……」

 死んでいる人間をどうやって貰えばいいのだろうか。

「彼女は音楽が好きでね、和奏が幼いころからずっと演奏したり歌ったりしていたんだ」

「……」

「その影響で和奏も音楽が好きになって、音楽科のある白浜坂を受験したんだけど」

「はあ」


「だけど、成績不良で今年普通科に転籍することになった」

「そんなことが」

「でも問題はそこじゃないんだ」

「問題? そこじゃない?」

「そう。実はまひるが亡くなったのは今から二年と少し前、和奏が高校受験のころだ」

「……」

「でもまひるは……、妻は娘が受験に集中できるようにって、自分の余命がいくばくもないことを、

ずっと黙っていた」

「……」

「そうとも知らず、和奏は受験のストレスを母にぶつけて、でもずっとあいつは黙っていた」

「……それで、そのことは」

「和奏が真相を知ったのは、まひるが亡くなってから。葬儀の日に、合格通知が送られて

きたっけな」

「そんなことが」

「あれ以来、和奏は音楽に関して何か罪悪感を感じるようになっていたのかもしれない」

「罪悪感?」

「これは俺の勝手な想像だけどな、和奏は音楽のせいで自分の母親を不幸にさせて

しまったんじゃないかって……」

 そこまで言って圭介は大きく息を吸い、空を見上げた。

「それは違うんじゃ」


「わかっている。本人も否定するだろう。でも、心の奥底ではそんなことを思っているかもしれない」

「……」

「播磨くん、今日のことは」

「わかっています。誰も言わないッスよ。もちろん娘さんにも」

「助かる。俺も、誰にも言えずに大分ため込んでたんだ」

「ため込むのはよくないッスね」

「今日は色々とありがとう、播磨くん」

「礼を言うのはこっちのほうッスよ。色々教えてくれてありがとうございます」

「じゃ、気を付けて」

「ああ、店長」

「どうした」

「余計なお世話かもしれないッスけど、すぐに家には帰らないほうがいいと思いますよ」

「どうして」

「そんな真っ赤な目をしてたら、娘さん心配しますから」

「ははっ、確かにな」

 そう言って圭介は笑った。




   * 





 下宿先に帰ると、早速志保(紗羽の母)が出てきた。

「播磨くん、おかえり。待ってたのよ」

「何だかウキウキしてますけど、どうしたんッスか志保さん」

「あのね、明日何か予定ある?」

「明日ッスか。別にバイトもないけど」

「じゃあさ、じゃあさ」

「はい」

「デートしましょ」

「は?」




   *



 翌日、播磨は近所の砂浜にいた。

「いやあ、似合ってる。ぴったりね」

「なんッスかこれ」

「ウェットスーツ」

「いや、それはわかりますけど」

 志保もウェットスーツ姿だったのだが、スキューバダイビングをするような雰囲気ではない。

「さ、早く準備して」

「え、準備って何を」

「決まってるじゃない。サーフィンの準備よ」

 そう言って、彼女はカバーからボードを取り出す。

「すんません志保さん。俺、サーフィンなんてやったことないッスけど」

「私だって昔はやったことなかったわよ」

「いやいやいや」

「さ、教えてあげるから早速やるわよ」

「ちょ、待ってくださ――」

 有無を言わさず播磨は、志保のサーフィンレッスンに付き合わされることになった。

 言うまでもなくサーフィンは難しい。

 しかも、海水浴シーズン前なので水も冷たい。ウェットスーツで多少保温効果はあるとはいえ、

顔や手足はむき出しで全体的に身体も冷える。

 その上、海の中でのハードな動きは体力を容赦なく奪っていった。


「そう、そのいきよ。ほら、前に進んで」

 パドリングと呼ばれるボードの上で腹這いになって進む動きをやりながら沖へと

向かうのだが、太平洋の波は強く押し戻されてしまった。

 しかも基本的な動きながら、それは見た目以上に難しく、少しでもバランスを崩すと

転覆してしまう。

「しっかりしなさい!」

 海の上では安全管理の事情もあってか、志保は鬼コーチであった。

 当然、初めての海でテレビに出てくるサーファーのように上手く波に乗れることはなく、

激しい波の中でバランスを崩して海に沈み、浮かび上がってまた沈むという行為を繰り返す。

(水中メガネが欲しい)

 あまりにも海の中に潜っている時間が長いので、播磨はそんなことを思ったりもした。

「いやあ、思ったよりもやるね拳児くん」

 志保は上機嫌だ。

「はあはあはあ……」

 そして播磨は死にかけていた。

 体中に砂が付くのも構わず、砂浜に倒れこみ、そして息をととのえる。

(まさか田中と一緒にやった筋力トレーニングがここで役に立つと思わなかった)

 バドミントン部に入った時、播磨は大智と一緒になって筋トレをやっていたのだ。

 バドミントンはほとんど上達しなかったけれど、身体は鍛えられたようだ。

「どうだった? 拳児くん」


 上機嫌な志保は聞く。

「……辛かったッス」

 播磨は息切れしながら答えた。

「私は面白かったよ」

(鬼か、この人は)

 そう思ったが言葉が出なかった。

「誰かと一緒に何かをやるって、すごく楽しいことよね」

 志保は独り言のように言う。

 潮風が彼女の肌や髪を撫でていた。

「紗羽は乗馬に夢中だし、お父さんはアレだから、家族と一緒にサーフィンをやるって

機会がないのよね」

「はあ……」

 やっと息が整った播磨は起き上がり、志保の隣りに座った。

「もちろんサーフィン仲間はいるけど、自分が好きなことを好きな人と分かち合えるって、

素敵だと思わない?」

「ん、まあ」

「だからまひる先輩が羨ましかった」

「まひるさんって、確か坂井さんトコの」

「そ、紗羽の同級生の和奏ちゃんっているでしょう? その子のお母さんね」

「知ってるんッスか」

「知ってるも何も、彼女と私、同じ合唱部の先輩で、親友だったもん」


「親友?」

「ええ。年は向こうのが上だったけど、すごく気が合ってすぐに仲良くなっちゃった」

「へえ」

「先輩は昔から音楽が好きでね、ずっと歌ったりピアノ弾いたり、色んな楽器を演奏してたの」

「……」

「それで、娘の和奏ちゃんも音楽好きになってさ、一緒に音楽がやれるって喜んでたな」

「そうだったんッスか……」

「ま、その幸せは長くは続かなかったんだけど」

「そうでしたね」

「知ってたの?」

「ああいや、坂井さんに聞いたもので」

「そんなことも話たんだ。よっぽど、あなたに気を許しているのね」

「そうでしょうか」

「そうよ」

「……」

「そうだ、まひる先輩の声、聴きたくない?」

「へ? まひるさんの?」

「そう、確かウチにテープがあるのよ、あの頃の」


「テープ、カセットテープ。知ってる?」

「いや、さすがにそれは知ってますよ。そんなんあるんですね」

「うん、今思い出した」

「……はあ」

「じゃ、行こうか」

「家ですか」

「いいえ、もう一回波乗りに行こうと」

「勘弁してくれー!!」

 播磨の悲痛な叫びは、午後まで続いた。




   * 




 海に浸かると、どうしてこんなに体が気だるくなるのだろう。

 播磨は、昼食を食べた後の眠気と戦いながら居間で待っていると、古いCDラジカセと

カセットテープを持った志保がやってきた。
 
「やっほー、拳児くん。起きてるかい?」

 あれだけ動いたのに、志保が元気だ。

 なぜこんなにも元気なのだろう。

「これが、昔のテープね。ちょっと聞いてみましょう」

 そう言うと、志保はカセットを入れてラジカセのスイッチを押した。

 ザーッと、アナログっぽいノイズが微かに聞こえる。

 しばらく待っていると、

《……タ・ス・ケ・テ……》   

「は?」

「あ、ゴメン。間違えた!」

 慌てて停止ボタンを押す志保。そしてテープを取り出してケースに入れた。

「……」

「何でもないのよ、ホホホ」

 慌てて部屋を出た志保は、茶色い封筒を持ってきて、そこからカセットテープを取り出す。

「志保さん、今のは」

「気になる? もういっぺん聞いてみる……?」


「遠慮しときます」

「そうよね。じゃ、こっちを聞いてみましょう」

 そう言って、再び再生ボタンを押す。

《あー、ちゃんと録音できてるかな?》

 不意に優しげな声が聞こえてきた。

 播磨は、坂井家で見たあの写真の顔を思い出す。

《ええと、この歌は私とまひると、それに合唱部のみんなが》

《直、固いよ。もっとリラックスして》

《ちょっとまひる》

《早くしようよ、先輩》

「あ、これ私」

 ニコニコしながら志保は言った。

「懐かしいわ」

 そう言っているうちに、ピアノ伴奏が流れてくる。

「……」

 音楽のことはよくわからない播磨だったが、それを聞いて悪い気はしなかった。

 約三分の演奏を終え、志保はラジカセの停止ボタンを押す。

「どうかな」


「なんか、懐かしいんだけど新しいっつうか」

「不朽の名作って奴?」

「自分で言いますか」

「冗談よ。でも、ここで歌った曲はどれもまひるが大好きな曲でね。ってか、

あの子は基本的にどんな曲でも好きだから、お気に入りの曲はたくさんあるんだけど」

「はあ……」

「キミと遊んでたら、思い出しちゃった」

「娘さんは」

「ん?」

「志保さんの娘さんは、この曲を聞いたことがあるんッスか?」

「あ、紗羽ね。たぶん、あの子は聞いたことないと思うわ。このテープだって、私ずっと

忘れてたんだもん」

「そうなんッスか」

「正確に言うと、忘れようとしていたのかもしれない」

「忘れようとした?」

「うん、だってさ。これ聞いてると思い出しちゃうじゃない?」

「思い出すって」

「先輩がまだ元気だったころのこと」

「……」

「あの人ったら本当歌が好きでね。和奏ちゃんが生まれた時、私病院に面会に行ったのよ」


「面会」

「ええ。その時、まだ紗羽はお腹の中にいたんだけど。一足先に和奏ちゃんが生まれて、

あの人凄く喜んでたわ」

「……」

「それでね、あんまり嬉しいものだから病院でまだ小さい和奏ちゃんを抱いて、歌を歌い

出したのよ」

「子守唄?」

「いや、それが子守唄とかじゃなくて、普通に合唱で歌うような曲を歌い始めたの。

それで看護婦さんに怒られちゃって、私もついでに怒られて」 
 
「はは、もしかして一緒に歌ったんですか」


「だってあんまり楽しそうだったから、先輩はいつもそんな感じで。でもいつも笑顔で」

「……」

「それを思い出したら悲しくなっちゃうから、なるべく思い出さないようにしてたんだけど……」

「志保さん」

「……」

「タオル、使いますか」

「……ありがとう」

 志保は播磨から受け取ったタオルで目元を拭う。ついでに鼻も拭いた。

「正直、あの人のことを思い出したら悲しくなっちゃうから、あまり思い出さないように

してたんだけど……」


「志保さん、あの」

「なに?」

「俺は、まだそんな大事な人を亡くしたとか、そんな経験ないッスけど」

「うん」

「もし、忘れるくらいだったら、思いっきり悲しんだほうがいいじゃねェかな」

「……」

「だってよ、忘れることのほうがもっと悲しいと思うから」

「拳児くん」

「あ、はい。スンマセン、生意気なこと言っちまって」

「惚れちゃいそう」

「は!?」

「冗談よ。半分はね。もし、あなたが私と同じ世代だったら、好きになってたかも知れない。

恋愛的な意味で」

「ちょっ、志保さん?」

「ああ、でも性格的にまひる先輩も好きになっちゃうかもしれないなあ。私、あの人と争って

勝てる自信はないなあ」

「何言ってんッスか」

「フフフ。でもありがとう。その通りよね」

「へ?」

「私たちは大人なんだから、ちゃんと向かい合わないと」

「そ、そうっすね」


「そうだ、あの頃の写真があるんだけど、見る?」

「あの頃?」

「そう、合唱部の写真」

「え、あの」

「テープと一緒に置いてあったの。あ、これこれ」

 そう言って志保はテーブルの上に古い写真を置いた。

「これが」

「これが私で、この人がまひる先輩」

「ほう」

 志保はともかく、まひるは坂井家で見た写真とあまり変わっていないように見えた。

「んで、この子が直先輩」

 真面目そうで、少し気の強そうな女子生徒。制服の着こなし方から見ても、優等生っぽい。

 どこかで見たような気がする。

「ナオ?」

「そ、正確には直子」

「宇宙飛行士の?」

「違うわよ。高倉直子」

「ん?」

 どこかで聞いたことのある名前だ。

「あなたの学校の教頭先生よ」

「え、教頭」

 播磨の脳裡に、職員室で見たあの気の強そうな女性の顔が蘇る。

(あいつ、直子って言うのか) 

 意外な場所で意外なことを知った播磨であった。




   つづく

紗羽のおかーちゃんの中の人は八雲、和奏のおかーちゃんの中の人は姉ヶ崎妙だからね。

多少はね。



 第八話 プロローグ

 またいつもの朝。

「おはよ」

「おはよー」

 生徒たちが次々と登校する中、播磨も自分の教室へと向かった。

「おう、拳児。今日は早いな」

「お前もな」

 部活を引退し、朝練を止めた田中大智は遅刻することも無くなった。

「おっはよー、播磨くん」

 元気に挨拶してきたのは宮本来夏だ。

「おはようでゴザル、ケンジ殿」

 何に影響されたのか、ウィーンが妙な挨拶をしてきた。

「ねえ、播磨くん。あのこと、考えてくれた?」

「合唱部のことか」

「うん」

「バイトもあるしな」

「アルバイトの無いバイトの時に練習しようよ」

「いやしかし」

「音楽経験、あるんでしょう?」


「ちっと、ギター弾いてた程度だ」

「ギター弾けるの? 十分だよ十分!」

「ちょっとだけだ。今は弾いてねェ」

「紗羽も参加してくれるって!」

「ん? 沖田が?」

 視線を上げると、そこに沖田紗羽がいた。

「まだ参加するって決めたわけじゃないから」

 と、彼女は否定する。

(だろうな)

 この様子だと、来夏がフライングしたのだろう。

「頑張ってる人を応援するのがモットーなんでしょう?」

「俺自身が参加するのはどうも……」

「えー、やろうよー」

「お前ェは三年だろう、少しは先のことを考えろ」

「三年だからやるんだよ」

 来夏は顔を近づける。

「三年だから、もう後が無いから後悔しないように頑張るの」

 その気持ちは理解できないこともない。

 ただ、


「おはよ……」

 坂井和奏も登校してきた。

 それを見た来夏がダッシュで駆け寄る。

「和奏! おはよ! あのね」

「合唱部なら参加しないよ」

 出鼻を挫くように、和奏は言った。しかしこの程度で諦めるほど、このチビッ子は

弱くなかった。

「えー? 播磨くんも参加してくれるって」

「そんなこと言ってねェぞ!」

 播磨は否定してみるが無駄であった。

「ねえ、和奏も。ねえねえ」

「ごめん、本当ごめん」

 和奏は来夏の手を振りほどくと、自分の席に向かった。

「和奏……」

(あいつ、本当に音楽が嫌いになっちまったのか)

 その日、心の中のモヤモヤが、播磨をある行動に駆り立てた。









         TARI TARI RUMBLE!


   第八話 だから、まひるのことが嫌いだった。あの頃は






 放課後の教室は彼女にとって誰にも邪魔されずに仕事ができるいい時間帯だ。

 高校の教頭職は特に忙しい。

 高倉直子はそんな教頭の一人。しかも彼女は、部活動の顧問も引き受けている。

 管理職なだけに、彼女の元には毎日色々な人物が訪ねてくるけれど、この日は

珍しい人物が彼女の前に現れる。

「あの、センセイ」

「ん? キミは転入生の」

「播磨拳児ッス」

 播磨拳児。この春から転入してきた生徒だ。問題児と聞いていたが、今のところ特に

何も問題はない。それ以上に手のかかる生徒がこの学校にはたくさんいる。

 例えば、馬で登校してきたり職員室で抗議の座り込みをしたり……。

「少しお話があるんッスけど」

「何の話? 担任の先生ではダメなの?」


 教師になったばかりのころは、生徒のことを第一に考える教職員になりたいと

思っていたけれど、今は日々の業務が忙しすぎて、彼ら一人一人をまともに

相手にできる余裕がない。

「坂井、まひるさんのことッス」

 パソコンのキーボードを叩く指が止まる。

「あなた、その話をどこで」

「色々な場所で」

「確か、キミは沖田さんのお寺に下宿しているのよね」

「ええ」

「志保か」

 サーフィンが趣味で、元気いっぱいの親友の顔を思い出す。

 直子は作業中のシートを素早く保存すると、パソコンをスリープ状態にして立ち上がった。

「ん?」

「場所を変えましょう」

「お……、おう」



   *




 五月の後半にもなると、日も大分長くなる。

 放課後、まだ明るさの残る学校の中庭のベンチで、播磨は教頭の高倉直子と

並んで座った。

 彼は高校生活最後の一年で、こうして教師と二人きりで話をする機会はないと

思っていただけに、少しだけ戸惑う。

「飲む?」

 そう言って彼女は缶コーヒーを差し出した。

「いいんッスか」

「自分だけ飲むのもあれでしょう?」

「いただきます」

 そう言って、彼は缶コーヒーを受け取る。

 播磨がひんやりとした缶を手に取ると、直子は自分の持っていた缶プルタブに指をかけた。

「播磨くん、ちょっと聞きたいのだけど」

「はい」

「どうして、まひるのことを知りたいと思ったの?」

「いや、その。俺の下宿先の奥さんが、あのまひるさんと知り合いってのもあるんッスけど」

「それは知ってる」

「今バイトしている店の、店長の奥さんがまひるさんだったんッスよ」


「坂井さんのお店?」

「そう」

「随分と縁があるのね」

「自分は志保さんと親戚で、ガキのころはこの辺にも来たことがあるんッスよ。

全然覚えてねェけど」

「……」

「そんで、まひるさんの娘で坂井和奏って生徒がいるんだけど」

「知ってるわ。音楽科の生徒だったんだし」

「そいつが、音楽と上手く向き合えなくなったのも、まひるさんが関係してるんじゃねェかって……」

「関係ないわ」

 直子は播磨の言葉をバッサリと斬り捨てる。

「いや、でも」

「事情はどうであれ、音楽と向き合うことは自分との戦いなの。そこに、たとえ両親でも

入り込むことはできない」

 何か確信を持っているような言葉。

「そうッスか」

「話は終わり?」

「ああ、いや」

「何?」


「まひるさんのこと、できる範囲で何か教えてもらえますか」

「え?」

「その、俺はまひるさんのこと何にもしらねェし、人から話を聞いた程度だから。

できれば親友だったセンセイにも、話を聞きてェと思ったんで」

「変わった子ね」

「……お願いします」

「わかったわ。少しだけね」

 直子はベンチから少し腰を浮かし、座りなおした。

 よくわからないが、その行動は心の中を整理しているように播磨には見えた。

「正直言うと、わたしはまひるのことが嫌いだったの」

「嫌い?」

 意外な言葉。

「でも、親友だったんじゃ」

「そう、親友よ。今も昔も」

「じゃあ何で」

「好きの反対は嫌いではないって、よく言われない?」

「そうなんッスか?」

「そ。嫌いっていうのは、その人のことを気にしているということ。本当に好きじゃなければ、

その人には関心を抱かないはずだわ」

「好きの反対は嫌いではなく、無関心」

 どこかで聞いたことのある言葉だ。


「そういうこと。で、私はまひるのことが嫌いだった。いつも楽しそうに音楽をやっているから」

「……」

「ピアノにしても歌にしても、他の楽器にしてもあの子は本当に音楽を楽しんでいた。

しかも作曲までできて。私はずっと、合唱部でも苦労していた。勉強して練習して、

それで必死に成績を維持して。あの子は、そういうのとは無縁の性格。一種の天才肌ね」

「天才」

「そう。でもだからといってプロになるとか教職を目指すなんてこともしなかった。

自分のやりたいように音楽をやり、そして大人になっていった」

「……」

「嫉妬よね」

「嫉妬……ッスか」

「私にはそんな風に音楽を楽しむことができなかった。だから彼女の行動が妙に癪にさわったのね」

「……」

「そういえば、今思い出すと合唱部では私いつも怒ってたっけ。油断していると、ピアノで好きな曲を

ガンガン弾いて、他の生徒たちもそれに乗って楽しんで。私がそれを注意するの。フフッ」

 まひるのことを語る直子は、昼間の厳しい顔つきから少しだけ柔らかい笑顔を見せていた。

「あの子、音楽で人の心を癒しても、あの子自身が人の心を察することができないから」

「できない?」

「よく言うでしょう? 名選手は必ずしも名コーチにあらず」


「なんか聞いたことあるッスね」

「自分が簡単にできてしまうものだから、できない相手の気持ちを理解することができないの」

「ああ」

「だから、まひるのことが嫌いだった。あの頃は」

「今はどうなんッスか」

「え?」

「今は、まひるさんのこと」

「そりゃあ、好きよ。大好き」

「……」

「だって親友だもの」

「そうッスよね」

「あ、もうこんな時間。早く部活に行かないと」

「スンマセン、時間とらせちまって」

「いいのよ。でも今日だけよ」

「今日だけッス」

「それじゃあね、播磨くん」

「あ、あと一点」

「ん?」

「もう一つ聞きたいことが」


「なに」

「前に声楽部にいた宮本来夏っているでしょう――」

「ん……」

 直子の表情が変わる。

「なぜ、あいつに歌わせなかったんッスか?」

「播磨くん、あの子とはどういう関係?」

「いや、関係と言われても。ただのクラスメイトとしか」

「本人に聞いていないの?」

「ん?」

「あの子にはね、重大な欠点があるの。それを修正しようと色々やってきたんだけど」

「欠点」

「その先はあの子に直接聞きなさい。プライバシーにかかわることだし、

私がどうこう言う問題じゃないから」


 そう言うと、直子は歩きだす。

 キビキビとした歩き方は、明らかに教師としての自分、という鎧を身にまとっている

ように見えた。

(宮本の欠点? なんだそりゃ。背が低いことか?)

 色々気になるところもあったが、とりあえず下宿先に帰ろうと思い立ち上がる播磨。

 そこに、

「あ、播磨くん。まだいたんだ」

 聞き覚えのある声が聞こえてきた。

「あん?」

 噂をすれば影、というのか。その声の主は宮本来夏であった。

「播磨くん、ちょっと時間ある?」

「なんだ?」




   *





 学校近くの今川焼き屋。そこには播磨と来夏のほかに、田中大智とウィーンもいた。

「ここの今川焼きはおいしいんだよ」

 店の座敷席で嬉しそうに今川焼を頬張る来夏。

「へえ、これが今川焼きっていうんだ」

 ウィーンも珍しそうに食べている。

(今川焼きとコーラって合わねェよな)

 播磨はそんなことを思いつつ、来夏に話しかけた。

「んで、宮本。一体何の用だ」

「フガフガきふぁってるじゃん」

「口の中の物を全部飲みこんでから話せ」

「テヘ、メンゴメンゴ。決まってるじゃない。『第二合唱部(仮)』の設立準備会合よ」

「ああ? お前ェ、まだ言ってたのか」

「当たり前よ。私は本気」

「じゃあ何で俺を呼んだ」

「あなたにも手伝ってもらおうと思ったからよ。播磨くん」

「別に俺は関係ねェだろう」

「『真剣に努力している奴を邪魔する権利は誰にもねェはずだ』」

「おい、やめろ」


「あん時の播磨くん、かっこよかったなあ~」

「やめろっつってんだろ」

「私も真剣なんだよ、播磨くん」

「いや、それはわかるけどよ。俺にどうしろっつうんだよ」

「私ね、思うんだけど」

「何を」

「播磨くんには人の夢をかなえる特殊な能力があるんじゃないかって」

「んなモンねェよ」

「本人がわからないだけ! 私にはわかる」

「意味がわからん」

「だからお願い。私、このままで終わるのは嫌なの」

「……」

「ケンジ」

 不意に口を開くウィーン。

「コナツもこう言ってるんだし、話だけでも聞いてあげてよ」

「話はもう聞いてるけどな」

「俺も、一応は助けられたから何とか協力してやりたいと思うんだが」

 そう言ったの大智だ。

 こいつらは見た目通りのお人好しだな、と播磨は思った。


「ね、お願い」

 来夏は片目を閉じる。

「わーったよ、だが少しだけだぞ。俺も忙しいんだ」

「やったあ!」

「……」

 目の前で喜ぶ来夏。幸せそうに笑っている姿を見るのは決して悪い気分ではないと

思う播磨であった。

「もし、この計画が成功したら、紗羽と付き合ってもいいよ」

「何でここで沖田の話が出てくるんだ?」

「えー? だって紗羽って美人じゃん。胸も大きいよ。ねえ、田中」

「え?」

 急に話を振られて驚く大智。

「ね、紗羽って美人だよね」

「確かに見た目はいいけど、あの性格はちょっとな。怒りっぽいし、それに」

「黙れシスコン」

 大智の言葉を遮るように来夏は言った。

「シス……?」

「ま、シスコンの好みは置いといて、いい女だよ。紗羽は」

「へえ、タイチってシスコンだったんだあ」と、感心しながらメモに描きこむウィーン。

「シスコンじゃねえよ! つか、何書いてるんだウィーン!」


「うるさいよシスコン」

「シスコン言うな!」

 播磨は、早く帰りたかったので脱線した話を元に戻す。

「ま、シスコンは置いておいてよ」

「置くな」

「具体的に何をすりゃいいんだ?」

「んー、まずは顧問の先生と活動場所の確保ね。それから、足りない部員の勧誘」

「当てはあるのか」

「“ハコ”の方は任せて。私とシスコンで確保するから」

「だからシスコンじゃねえって、何度も言わすな!」

「それで播磨くんにやってもらいたいのは」

 来夏は大智(シスコン)の抗議を無視しながら話を続けた。

「紗羽と和奏を正式に勧誘して欲しいの」

「あの二人を?」

「ええ。紗羽ってああ見えて凄く歌が上手いんだよ」

「そうなのか」

「和奏は元音楽科だし、ピアノも弾けるから彼女も欲しい」

「しかしよ、沖田はともかく和奏……」

「和奏?」


「ああいや、坂井は難しいんじゃねェかな。色々と事情があるし」

「そうかな」

 ふと、来夏は視線を落とす。

「どうした」

「私、和奏はもっと音楽をやりたいんじゃないかと思うんだ」

「どうしてそう思う?」

「だって紗羽の話だと、あの子はずっと前から音楽が好きでその勉強や練習してたんだよ。

 でも今年から普通科に転籍して、ほら、普通科って三年時には音楽ないじゃない?」

「……」

「合唱部をやりたいっていうのは、私のわがまま。でも、和奏には音楽をやって欲しいなって思う」

「まあ、俺もアイツのことは少し気になってたからな。話をするだけしてみるか」

「え? もしかして播磨くん」

「あン?」


「和奏のことが好きなの?」

「どうしてそうなるんだよ」

「へえ! ケンジはワカナのことが好きなんだ。なるほど」メモ書きするウィーン。

「おい! 違うだろ! 書くんじゃねェ、ウィーン!」

「いずれにせよ、あの二人はわが第二合唱部(仮)にとって攻守のエースなんだから

絶対獲得してね、播磨くん」

 そう言って来夏は播磨の肩をポンと叩いた。

 播磨は残ったコーラを飲み干しながら、二人のことを考える。

(沖田と坂井、どちらも一筋縄ではいきそうにねェな)

 そんな不安を抱えつつ、播磨は最後の今川焼きを口に運んだ。





   つづく

次回、和奏のターン(?)





  第九話 プロローグ


 宮本来夏から、沖田紗羽と坂井和奏の第二合唱部(仮)の勧誘を依頼された播磨。

 しかし、まともに頼んで「はいそうですか」と承諾してくれそうにはない。

 そこで、彼は二人と仲良くなれば承諾してもらえるのではないかと考えた。

 作戦としては悪くない。ただ、彼はあまり頭が良くないので、すでに二人と仲の良い

来夏の頼みでも聞かなかったことを失念していた。

 放課後、播磨は坂井和奏の父親が経営する和菓子屋兼土産物屋でいつものように

アルバイトに励む。

 そして、客足が途切れたところで和奏の父にあることを聞いてみることにする。

「スンマセン、店長」

 テーブルを拭きながら播磨は声をかけた。

「ん? どうしたの」

「あの、娘さんの好きな物ってなんッスかね」

「和奏の好きな物?」

「そうッス」

「猫とか」

「あー」

 そういえば彼女は猫を飼っていた。

「ほかには何かないッスかね」


「そうだなあ、うーん。お、そうだ」

「はい?」

「和奏は昔から甘い物が好きだったな」

「甘い物?」

「そう、甘いお菓子。スイーツ(笑)ってやつか」

「……今川焼き?」

 甘い物をあまり食べない播磨は、先日の店のことを思い出す。

「いや、まあそれも甘いけど。ほら、フルーツパフェとかチョコレートサンデーとか」

「おう」

「ショートケーキにモンブラン」

「洋菓子ばっかッスね」

「和菓子はウチにいくらでもあるからな。あいつは、そういうのが好きだよ」

「なるほど」

 ここでウィーンなら、熱心にメモを取るだろうな、と播磨は思った。

「どうしたんだい播磨くん。急にそんなこと聞いて」

「ああいや、いつも世話になってるから、その」

「まだ娘はやらんよ」

 ニヤニヤしながら圭介は言う。

「だからそういうのじゃないッスから」

「そうか」

(甘い物ね)

 慌てて否定しながら、播磨は頭の中で色々と考えをめぐらせていた。





 
              TARI TARI RUMBLE!


  第九話 そんなものは関係ねェだろ。俺は、坂井和奏の音が聞きてェんだよ





 正直播磨は甘い物はあまり好きではない。

 ただ、何か分かり合えるものがあるかもしれないので、試してみる価値はありそうだ。

 ふと、そんなことを考えた彼は来夏に相談してみることにした。

 しかし、同じクラスであるにも関わらず、なぜか播磨が探すと彼女は姿を消すのだ。

(嫌われてんのかな。いや、そんなはずはねェか)

 そう考えつつ、彼は紗羽のところは行った。

「沖田」

「来夏なら知らないわよ」

「ああ、そうですか」

「また来夏に用? 最近仲いいのね」

「別にそういうわけじゃねェけどよ」

「ま、私には関係ないけど」

「なあ沖田」

「何よ」

「怒ってんのか」

「別に怒ってないから。何? 播磨くんには私の心が読めるわけ?」

「いや、落ち着けよまったく」

 と、その時、


「おや、播磨くん。紗羽と何話してたの?」

 まるで狙っているかのようにタイミングよく声をかけてくる者が一人。

「来夏」

「宮本か。ちょうどよかった」

「なに?」

「ちょっと相談してェことがあるんだ」

「おやおや、何かな?」

「ここじゃちょっとマズイから」

「うん、わかった」

 播磨はこうして、来夏を教室から連れ出したのだった。

 背後に視線を感じながら。



   *




(またやっちゃったあ……)

 播磨と来夏が出て行った後の教室で、紗羽は一人頭を抱えてしまう。

(私は普通に接したいだけなのに、何でこんなツンツンしちゃうかな)

 自分自身の態度が嫌になる。

(これじゃあ余計に嫌われちゃう)

 最近はいつもこうだ。播磨と話をするとなぜかイライラする。

 別に播磨が悪いわけでもないのだが、どうにも我慢ができない。

(単に相性が悪いだけなのかな。別に、彼が誰と付き合おうと私には関係ないから。

いや、別にそんな気になってるってわけじゃあ)

「何してるの、サワ」

「ひゃっ!」

 急に声をかけられたので吃驚する紗羽。

「どうしたの?」

 そこには心配そうな顔をしたウィーンが。

「なんだ、ウィーンか」

「何かあったの? 病気? それとも――」

「何でもないよ」

 紗羽は相手を安心させるために無理やり笑顔を見せる。

「顔がピクピクしてるよ。顔面神経症?」

「ウィーン」


「はい」

「殴るわよ」

「ごめんなさい」

 ウィーンは謝ると、自分の席に戻って行った。

(今のって、あきらかに八つ当たりだよね)

 そう思うと益々自己嫌悪が強くなる紗羽であった。




   *



 同じころ、校内の中庭では播磨がとある相談をしていた。

「なるほど、スイーツか。いいね」

 来夏は感心したようで、自分の顎をさわりながら深く頷いた。

「そうだろう? 親父さんから聞いたんだ。坂井のやつ、甘い物が

好きらしいから」

「そっか。播磨くんは和奏の家のお店でバイトしているんだよね。

和奏のお父さんから情報を聞き出すなんて、なかなかの策士ね」

「そうか」

「うん。いいかもしれない」

「ただ、物で釣るってのはあんまり気持ちのいいもんじゃねェけどさ」

「チッチッチ、待ってよ播磨くん」

「なんだよ」


「こういうのは接待って言ってね、立派な交渉の手段だよ」

「お、おう……」

「だからガンガン行くべきさ」

「なるほど」

「じゃ、早速私、お店調べてくるから」

「お、そうだ」

「なに?」

「接待っつうんだったら、ついでに沖田も誘ったらどうだ?」

「紗羽?」

「あいつも甘い物とか好きそうな顔してっけど」

「紗羽はダメだよ」

「なんで?」

「だって、体重気にしてるもん。あの子」

「マジでか」

「マジだよ。あ、でもこのことは紗羽に内緒って言われてた」

「個人情報流出させるなよ」

「ウヒヒ、ごめんね。今のは聞かなかったことにして。まずは、和奏攻略に全力を尽くそう」

「攻略ってなんだ」

「さあ、そうと決まったら善は急げだ。行くぞおお」

 来夏はピョンピョンと跳ねるように、自分の教室へと向かって行った。




   *





 数日後――

 この日も播磨拳児は和奏の父の店でアルバイトに励んでいた。

 しかし、この日はなぜか思いつめた表情をしているように、和奏には見えた。

(播磨くん、なんだかいつもと違う。何があったんだろう)

 和奏は内心気にはなったけれど、父親もいるのでそれを聞くこともできず、

悶々とすごしていた。

 そして閉店後、いつものように夕食を食べた播磨は、帰る前に和奏を呼んだ。

「ちょっといいか」

「え? なに」

 エプロンで手を拭きながら玄関前に行くと、播磨は自分の足元を見ている。

「あのよ、今度の土曜日の午後、予定あるか」

「え?」

 その週の土曜日の午後は、播磨のバイトは入っていない。つまり、彼がフリーの日だ。

「別に、私も予定は無いけど……」

 本当なら播磨がフリーな分、和奏自身が彼の代わりに店を手伝わなければ

ならないのだけれど、あえて今はそのことを考えないようにした。

「だったらよ、何か甘い物を食べに行かねェか」

「甘い物?」

 その言葉だけで唾が出てくる和奏。


 彼女は三度の飯よりもスイーツ大好きなのである。

「実はタダ券を貰ってよ」

 そう言って、チケットのようなものを取り出す播磨。

「あ、これって」

「有名なパティシエがいるっつうホテルなんだけどよ、そこでケーキバイキングをやるっていうから」

「ケーキバイキング……」

 何と言う素晴らしい言葉だろうか。

 和奏の心が躍る。

「そこに、一緒に行こうっていうの? 播磨くんと」

「お、おう」

 恥ずかしげに、彼は言った。

(それって、デデデデ……、デート)

 心の中でも動揺して上手く言葉が出てこなくなる和奏。

「ああ、でも安心しろ。俺だけじゃねェから。ええとよ、宮本やウィーンもくるんだ」

「そう、なんだ」

 和奏の膨らんだ期待が半分くらい萎んでしまう。

 それでも、ケーキバイキングは嬉しいし、皆で行くと言ってもそこに播磨も来るのだ。

「行く」

「ん?」


「行けるよ、大丈夫」

「そうか、よかった」

「どこで待ち合わせ?」

「ま、詳しいことは連絡するわ」

「そ、そうだね」

「そいじゃ」

「あ、待って播磨くん」

「あン? どうした」 

「携帯の、電話番号とアドレス教えてよ」

「携帯の?」

「そう。いつでも連絡取れるように」

「そうだな」

 そう言うと播磨はポケットから携帯電話を取り出した。

「ちょ、ちょっと待ってて。部屋から携帯取ってくるから」

 そう言うと、和奏は小走りで階段を上る。

 しかし、焦り過ぎていたのと家の中が暗かったので、階段を踏み外してしまった。

「おい、大丈夫か」

「大丈夫、大丈夫。ははは」

 ちょっと痛かったけれど、今はそれどころではない。

 そう思い彼女は大急ぎで充電中の携帯電話をひったくり、彼の元へ戻った。




   *




 その日の夜、和奏は畳の上に寝転がって自分の携帯電話を見ていた。

 あまり機械が得意ではない彼女は、持っている携帯もスマートフォンどころか、

特殊な機能がほとんど付いていないシンプルなものである。

 彼女は暗がりで携帯を開いて、そこに映し出される名前を見る。

《播磨拳児》

「……」

 それを見ると、何だか嬉しくなってしまい、床の上を転げまわった。

「……おーい」

「はっ!」

 気が付くと、部屋の外から父、圭介が顔を覗かせているではないか。

「風呂、入っちまえよ」

「……わかった」

「何やってんだお前」

「何でもない」

「寝技の練習?」

「何でもないって言ってるでしょう!」
 
 和奏は顔を真っ赤にしていたことは言うまでもない。




   * 



 そして土曜日。

 前日まで何を着ていくかずっと悩んでいた和奏は若干寝不足であった。

(ああ、でもこれはデートじゃないんだから。来夏やウィーンもいるんだから)

 そう自分に言い聞かせて、待ち合わせ場所に向かう。

(ちょっと早く着き過ぎてしまった)

 約束の時間の三十分前に到着した和奏は、前日睡眠不足であることに気づき、

ベンチに座って休むことにする。

(ちょっとだけ休もう)

 そう思い、近くにあったベンチに深く腰掛けて目を閉じる。

 すると、一気に気が抜けたのか、すぐに意識が遠のいてしまった。

「……おい」

「……」

「おい、坂井」

「え?」

「坂井、大丈夫か」

 身体が揺れる、と思ったら目の前にサングラスの若者が。

「は、播磨くん?」

 口元に涎が垂れたので、思わず手で拭う。

「大丈夫か。こんな街中で寝てたら危ねェぞ」

「え? え? 寝てた?」


「おう」

 播磨は頷く。

(ど、どうしよおおおおお!!)

 和奏は頭を抱えた。

(折角休日に私服で会うっていうのに、居眠りしているところを見せるなんて。

絶対幻滅された。ああ……)

 昨晩までの桃色ハートが、一気に不安の波に飲み込まれる。

「おい、本当大丈夫か? 体調、悪いのか」

「ううん? 違うよ。大丈夫だから」

 そう言うと、和奏は立ち上がる。

「そうか」

「そ、それで。皆はどうしたの?」

 近くの時計台を見ると、約束の時間から五分以上遅れている。

「それがよ、さっき連絡したんだがつながらなくて」

 と、次の瞬間播磨の携帯が鳴る。

「うおっ」

「どうしたの?」

 和奏は聞いた。

「宮本からだ」

 ディスプレイを見ながら播磨は言う。


(来夏も播磨くんの番号を知ってたんだ。いや、まああれだけ仲が良ければ当たり前か)

 少しだけ残念な気持ちになる和奏。

「おう、どうした。もう時間過ぎてるけど」

「……」

「はあ? どういうことだそれ」

「……?」

「おい! どういうことだ。あの封筒!? おい」

「……」

「くそっ、切りやがった」

 播磨が吐き捨てるようにそう言うと、そのままポケットに携帯電話を放り込む。

「な、何があったの?」

 恐る恐る尋ねる和奏。

「いやそれが、急に用ができて来れなくなったとか言って」

「誰が? 来夏」

「ああ。ついでにウィーンも」

「田中は?」

「大智か。あいつは補習を受けに行ってるから、今日は最初から来ない予定だった」

「じゃ、じゃあその……」

(二人きりいいいい!!?)


 和奏の頭の中が沸騰する。

(いや待て。待つんだ和奏。むしろこれは願ったりかなったりではないか。

いやでも待って。そんな、まだ心の準備が)

「どうした、坂井」

「うんにゃ、にゃんでもない!」

 動揺したため、言葉が変になってしまう。

「大丈夫か」

「う、うん」

「何か、事前に渡された予定通りに行ってくれって言われたんだけどよ」

「予定?」

「ああ、この封筒に入ってる」

 播磨は、別のポケットから茶色い封筒を取り出した。

「いやしかし、宮本たちが来ないんじゃなあ。お前ェも嫌だろ」

「え? 何が」

「俺なんかと二人で行くの」

「そんな」

「変な噂とかされたら迷惑だしな」

「は、播磨くんは」

「ん?」

「私と、噂になったら迷惑かな」


「いや、そうじゃなくて」

「へ?」

「いや、お前ェのほうが迷惑だろ」

「どうして?」

「いや、だってよ。カレシの一人くらいいんだろう」

「はひ?」

「わりとお前ェも美人なほうだしよ」

(美人、美人、美人……!?)

「ちょっと待って播磨くん」

 そう言うと、和奏は播磨に背を向け、自分の頬をつねる。かなり力を入れてつねる。

 なぜそうしたかというと、ニヤニヤが出てしまうからだ。

「は、播磨くん誤解してる。私、全然モテないし、カレシとかも全然」

「そうか? でもよ、好きでもない奴と噂になるとか」

「だ、大丈夫だよ!」

「ん?」

「播磨くんったら、意識し過ぎ。自意識過剰なんじゃない?」

「え」

「い、今時二人で出かけたくらいで噂になるとかそんなことないから」

「そうなのか」

「もう、これだから男の人はダメなんだよ」


「お、おう」

「別に私は気にしないから、行こうよ。二人で」

「いいのか」

「いいよ? どうして?」

「あ、いや。お前ェがいいんだったら行くか」

「うん」

「ちょっと待ってろ」

「ん?」

「何か、この通りにしたらいいことがあるとか、宮本が言ってたし」

 そう言うと、播磨は封筒から紙を取り出した。

「すまねェ坂井」

「え……」

「すぐにケーキバイキングには、行かないようだ」

「はい?」



   *





「か……、かわいい!」

「お、おう」

「ねえ、可愛いよ播磨くん」

「そうだな」

 海辺の雑貨店。そこに和奏と播磨はいた。

 来夏の立てた計画によると、すぐにケーキバイキングのあるホテルには行かず、

まずは海辺の雑貨店に行くことになっていた。

 寄り道はあまり好きではない播磨は、和奏が退屈するんじゃないかと少し心配

したけれど、その心配は杞憂であった。

(さすが宮本、女のことはよくわかっていやがる)

 来夏の立てた計画に感謝する播磨。

 播磨自身が計画を立てたのではこうは行かなかっただろう。

「これ、可愛いね」

「あ、確かにこれはいいかもしれん」

「素猫っていうんだね。キサラギ・ヤマグチって人がデザインしたやつ」

「そうなのか」

 茶色と黒という一見地味な色で描かれた猫のイラストなのだが、妙に愛嬌のある猫だと、

彼は思った。

 この素猫の描かれたコップやコースター、それにぬいぐるみなどが色々と置かれている。

「ああ、これもいいかも」


「そうだな」

 正直播磨にはわからない物ばかりだが、和奏はそれなりに満喫しているようだ。

 特に猫の絵の描かれた雑貨や、猫の形をしたものに食指が動くらしい。

 しかし、彼女が店の奥で立ち止まった場所は、猫ではなかった。

「どうした」

「……」

 和奏はオルゴールの箱を見ている。

 箱の中には小さな人形が躍っており、どこかで聞いたことのある曲が流れている。

「この曲、お母さんが好きだった曲だ」

「そうなのか」

「G線上のアリア」

「確か、バッハだったかな」

「そう、よく知ってるね」

「まあそのくらいはな」

「よく口ずさんだり、ピアノで弾いたりしてたな。私も好きだったけど」

「……」

 値段を見ると、5900円と書かれている。

「やっぱ、見た目もいいし、それくらいするわな」

 値札を見ながら播磨はつぶやく。

「そうだね」

 残念そうな顔をした和奏は、丁寧にオルゴールを元の棚に戻した。




   *


 ケーキバイキングの店は、とにかく人が多い。

 それも女性ばかり。男性もいたが、大抵はカップルである。

(すげえ。俺、場違いじゃねェかな)

 そう思ったが誰も播磨のことなど気にしていない。

 特に店内にいた女性陣は皆ケーキに釘づけである。

 それは和奏とて例外ではなかった。

「早く行こうよ」

 そう言って播磨の袖をつかむ和奏。

「お、おう」

 勢いに流されるように播磨たちは店に入った。

「これ美味しい!」

「そうだな」

 確かに美味い。美味いのだが……。

「はあ~、幸せ~」

 うっとりした表情をする和奏とそれを眺める播磨。

「次はモンブランだよね、やっぱり。播磨くんも食べる?」

「いや、俺は別に」

「そう? 美味しいのに」

「昼飯も食ったのに、よく入るな」

「甘い物は別腹」


(恐ろしいな、女の別腹)

 播磨はケーキを三個くらい食べたところで気分が悪くなってきたので止めた。

 しかし和奏は止まらない。

(意外と大食いキャラなのか)

 そんなことを思いつつ、彼は無料で飲める紅茶を五杯ほど飲んで胃袋を

落ちつけようとした。

「ショートケーキも美味しい。でも、さすがに苺の季節じゃないから。あとパフェまで

食べられるなんて、すごくいい店だねえ!」

「そ、そうだな」

(渋い緑茶と醤油味の煎餅が食いたい)

 ふとそう思う播磨なのであった。





   *



 夕方、すっかりとケーキを満喫した和奏は散歩がてら海辺の公園を歩いていた。

 微かに温もりのある潮風と夕陽に染まる海の色がとても心地よく感じる。

 しばらく歩いていると、播磨はちょっとトイレと言ってどこかへ行ってしまった。

 一人残された和奏は、海を眺める。

(本当、楽しかった)

 前日までの緊張と、当日二人きりになるという驚き。

 そして可愛い雑貨屋に美味しいケーキ。

 でも一番楽しいと感じた原因は間違いなくあれだろう。

(播磨くん……)

 和奏は携帯電話を取り出し、ディスプレイを見る。

 そこには検索するまでもなく播磨の名前が出てくる。

(今日、メール送ったほうがいいかな。いいよね。今日くらい送っても。全然普通だよね)

 誰に聞いているわけでもないのだが、彼女は自問自答を繰り返す。

(また行きたいな)

 そんな風に思っていると、

「よう、待たせたな」

 播磨が戻ってきた。

「ずいぶん長かったね。お手洗い見つからなかった?」


「あ、いや。確かに見つけづらかったな」

「そうなんだ」

「実は、お前ェに渡したいものがある」

「え?」

「手、出しな」

 そう言うと、播磨は手のひらサイズの小さな箱のようなものを和奏に手渡した。

「これは?」

「オルゴール」

 確かに、それは小さいながらオルゴールであった。

 ハンドルを回すと音の出るやつだ。

「大きい奴は高くて買えねェから、この小さいのを買ってきた」

「どうして?」

「そりゃあ、いつも世話になってるしな。メシ食わしてもらったり」

「そんな、悪いよ。今日は私のほうが楽しんだし」

「いいから。ちょっと音出してみな」

「え?」

「折角買ったんだしよ」

「……うん」

 二人は海辺のベンチに座り、箱からオルゴールを取り出してみた。


 潮風はそれほど強くないので、微かなオルゴールの音もよく聞こえる。

「これって」

「G線上のアリア」

「お母さんが好きな曲」

「やっぱ小さいから、音もショボイな」

 自嘲気味に播磨は笑う。

「これはこれでいいよ。とっても」

「そうか」

 二人の間に、オルゴールの音が鳴り続ける。

「なあ、坂井」

「ん?」

「俺、お前ェに謝らなきゃいけないことがある」

「え?」

 突然の報告に驚く和奏。

「何か悪いことでもやったの?」

「いや、犯罪とかでははねェんだが、お前ェと親父さんには悪いことかもしれねェ」

「な……、なに?」

「お前ェのお袋さんの、まひるさん。彼女のことを、色々な人から聞いて回った」

「……お母さんのこと?」

「ああ。俺は直接面識はねェからな。だから、人に聞くしかねェし」


「どうして?」

「そりゃお前ェ、アレだよ。お前ェのことが気になったからよ」

「……私の?」

 顔が熱くなる。

「お前ェが好きな、そして今も気にしているまひるさんが、どんな人でどんな風に

思われていたか」

「誰に聞いたの?」

「まあ、あんまり多くねェよ。ええと、沖田の母親の志保さんと」

「うん」

「それと教頭」

「え?」

 確かに、教頭の高倉直子と母は友人だと聞いていた。

 しかし、あの教頭と播磨が話をするなど、俄かに信じられない。

「それで、どうだったの?」

「あン? そりゃあ皆、お袋さんのことを褒めてたぜ。そりゃまあ、露骨に故人を

悪く言うやつはいねェと思うけど」

「そうだよね」

「それと、志保さんが録音していたまひるさんの声も聴いた」

「そうなんだ……」

 母の笑顔を思い出すと、少しずつ悲しくなる。


「なあ、和奏」

「はいっ!」

 急に下の名前で呼ばれたので一気に緊張してしまう和奏。

 確かに下の名前で呼んでいいとは言ったけど、このタイミングは卑怯

だと和奏は思った。

「俺に、お前ェの音を聞かせてくれねェか」

「私の音?」

「ああ」

「どうやって?」

「宮本が合唱部作るって言ってたろ。できればそこで聞かせて欲しい。

あいつの助けにもなるし」

「でも私、才能ないし」

「才能とか知るかよ」

「へ?」

「そんなものは関係ねェだろ。俺は、坂井和奏の音が聞きてェんだよ」

「……」

「……ダメか」

「わかった」

「ん?」

「私、合唱部に参加する」

「そうか」


「どこまでやれるかわからないし。それに」

「それに?」

「それに、合唱部にいたら、今よりもっと長く播磨くんと――」

 そこまで言って、和奏は言葉を止める。

「俺と?」

「ううん、何でもない」

 その直後、和奏は勢いよく立ち上がった。

「播磨くん」

「どうした」

「オルゴール、ありがとう」

「大したことねェよ」

「これ、大切にするね」

「お、サンキューな。そう言ってもらえると嬉しいぜ」

「じゃ、私先に帰るから。お父さんも心配するし」

「おい、駅まで送るぞ」

「いいよ。じゃあね」

「おい、待てよ」

 播磨が呼び止めるのも聞かず、和奏は走り出した。

(恥ずかしい、とにかく恥ずかしい……!)

 とても播磨の顔をまっすぐに見ていられなかったからだった。




   *





 海辺の公園で一人の取り残された播磨は、とある人物に電話をかける。

 微かな着信音が近くで聞こえた。

「おい、いるんだろ。どこだ」

 播磨がそう言うと、申し訳なさそうに二人組が歩み寄ってきた。

「宮本」

 宮本来夏とウィーンである。

 来夏は照れくさそうに笑いながら、

「アハハ、バレちゃった」

 と言った。

「バレバレだっつうの。アイツに見つかるんじゃないかと思ってヒヤヒヤしたぞ」

「うう……」

 ウィーンは苦しそうに口元を抑えている。

「おい、ウィーンは大丈夫か」

「ちょっとケーキバイキングでハッスルし過ぎちゃってね」

「お前ェらまで食うことねェだろうが」

「折角のタダ券なんだから使わなきゃ損でしょうが」

「まあそうだけどよ」


「それはともかく、勧誘成功おめでとう!」

 そう言って来夏は親指を立てる。

「うるせえよ。こういうやり方はあまり好きじゃねェが」

「別に騙してるわけじゃないでしょう?」

「そうだが」

「それに、私嬉しいんだ」

「何が」

「和奏と一緒に音楽をやれることが」

「そうかよ」

「うう、ギモヂワルイ……」

 いつの間にかウィーンが柵から身を乗り出して海を見ていた。

「ウィーン! しっかりしろ」

「播磨くん、背中さすってあげて!」

「しょうがねえな、畜生」

 夕日はとても美しかった、しかしなぜかキレイには終われない彼らであった。




   つづく 

オチが酷いのはわかっている。ちなみに今川焼きとコーラはtrue tearsのネタですな。



   第十話プロローグ

 沖田家で飼っている乗馬用の馬、サブレの世話は娘の紗羽の仕事だ。

 馬の世話は餌やりだけでなく、寝藁の掃除や毛並の手入れ、鞍の整備など

色々と忙しい。

 また、馬は非常にデリケートな動物なので、毎日の健康管理にも気を

配らなければならない。

 その日も、朝早くから馬の世話をするために紗羽は馬房を訪れた。

 しかしそこには先客がいた。

 母か父だと思っていたが違う。

「よせよ、ハハ」

「播磨くん?」

「よう、おはよ」

 彼女の家に下宿している高校生、播磨拳児だ。

 愛馬サブレは、播磨に顔を擦り付けている最中だった。

 どうやらサブレは播磨のことを気に入ったらしい。

「どうしたの、こんな朝早く」

「いや、ちょっと早く目が覚めちまったもんだからよ。散歩がてら寺の周りを歩いてたら」

 ブルルッとサブレの鼻息が響く。

 耳もピクピクと動いており、この日はご機嫌のようだ。

「馬の世話か? 邪魔したな」

 そう言って播磨はその場を立ち去ろうとした。


 本来なら、ここで会話は終わるはずだ。

 しかし、

「待って」

 紗羽は彼を呼び止める。

「どうした」

「今日まだ時間あるでしょう?」

「あン? まあ、バイトは十時からだし、まだ余裕はあるが」

 この日は日曜日で学校も無い。

「だったら、ちょっとサブレに乗ってみない?」

「なに?」

「なんか、サブレも喜んでるみたいだし」

 そう言ってサブレを見ると、まるで頷くように首を上下に揺らす。

「今から、ちょっと乗るつもりだったんだよ。ほら」

 そう言って、紗羽は自分の足元を播磨に見せる。

 学校の制服ではなく、ジーンズに乗馬用のブーツという、いわゆる乗馬スタイルだ。

「俺、そういうの持ってねェけど」

「ブーツと革の手袋はある?」

「ん、確か」

 どうやら心当たりがあるらしい。





              TARI TARI RUMBLE!


  第十話 人の性格がそれぞれ違うように、人との関係もまた違うのよ。

      すぐに仲良くなれる人もいれば、そうじゃない人もいる






 朝の光。それも初夏の太陽の光は眩しくて気分が良い。

 しかも、空気はまだひんやりとしているので余計に楽しくなってくる。

 この季節の朝は、紗羽にとって最も気に入っている季節の一つであった。

「待たせたな」

 馬場に鞍を乗せたサブレを出していると、自分の部屋で着替えを終えた播磨が出てきた。

「あ、ブーツ」

 播磨も、乗馬用ではないが革のブーツを持っていたようだ。

「バイク用だがな」

「なるほど」

 よく見ると手袋もバイク用だ。

 乗るということに関しては馬もバイクも変わらないかもしれない。

「バイク、乗ってたんだ」

「去年まではな。今はもう乗ってねェが」

「そうなんだ」

 紗羽は意外な発見をしたようで、少し嬉しくなる。

「あっ」

 気が付くと、隣にいたサブレが勝手に歩いて播磨の傍に行く。

「ちょっとサブレ」


「うおっと!」

 サブレは馬房にいた時と同じように、播磨に顔を近づけた。

「よしよし」

 播磨は、そんなサブレの顔を優しくなでる。

「馬、好きなの?」

「別にそんなんじゃねェが、妙に動物に好かれることがある」

「そうなの」

「お前ェは馬、好きそうだな」

「え?」

「携帯にも馬の絵が描いてるし」

「そ、そうなの。馬、大好き!」

 紗羽は少しだけ恥ずかしくなった。他人に自分の好きな物を言う、というのは

自分自身をさらけ出しているようで、ほんの少し勇気のいることだ。

 ただ、初夏のさわやかさが彼女の背中を後押ししたのかもしれない。

「馬の世話をするのも好きだし、ずっと見ているのも好き。でも一番好きなのは」

 そう言ってサブレの鞍を見る。

「馬に乗ること」

「ほう」

「見てて、こういう風に乗るの」

 彼女はサブレの鞍に手をかけ、そして鐙に足をかける。


 ひょいっと乗ると、一気に視界が開ける。

 この高い視界は、自転車や他の乗り物では味わえない高さが乗馬の魅力の一つだ。

「さて」

 鞍を掴み、紗羽は馬を下りた。

「わかった?」

「わかんねえよ」

「とりあえず鐙の調整をしたほうがいいかな」

「あぶみ?」

「足にかけるやつだよ。この長さが合わないと、股の辺りとかエライことになるよ」

「なるほどね」

「乗ってみないと調整できないから、とりあえずさっきの要領で乗ってみてよ」

「お、おう」

 珍しく動揺しているようだ。

「ちなみに馬に乗ったことは?」

「ねェよ」

「でしょうね」

「よろしく頼むぜ、サブレ」

 そう言って播磨が軽くサブレの胴に触れると、サブレはまるで返事をするように鼻を

鳴らした。

「よっこらせっと」


 少し戸惑いながらも、鞍にまたがる播磨。

 初心者はなかなか上手く行かないものだが、彼は一発で騎乗に成功した。

 運動神経がいいのだろうか。

「ほえ……」

 身体が大きいので競馬の騎手には見えないけれど、乗馬用の帽子(ヘルメット)を被り、

太陽を背にしたその姿はまるで戦国武将か西洋の騎士のように見える。

(ちょっとカッコイイかも)

 胸が高鳴るのを抑えるように、紗羽は播磨に近づいた。

「本当は、鐙の調整は乗る前にやるほうが安全なんだけど、別に乗ってからでもできるから」

 そう言って、紗羽は両脚の鐙の長さを調節した。

「どう?」

「おう、これなら踏ん張れそうだな」

「でしょう?」

「弓矢も使えるかな」

「そう簡単には行かないよ。難しいんだよ、アレ」

「確か流鏑馬って言うんだよな。神社とかでやる」

「私もできるよ」

「本当か?」

 播磨の表情が変わる。

「うん、まあ流鏑馬をやるために弓道部に入ったようなものだし。アハハ」


「凄ェなあ、沖田」

「え? そんな、別に」

「いや、すげえよ。馬に乗るだけでもすげえのに」

「そこまで言われるほど」

 露骨に褒められると照れくさくなる紗羽。

「そ、そんなことより、ちょっと歩いてみようか」

「おう」

「サブレ、大丈夫?」

 紗羽はサブレの顔の前に行き、表情を見る。

 ブルルッと、鼻を鳴らすサブレ。

 今日のサブレは本当に機嫌がいい。

「じゃ、ちょっと歩いてみようか」

「おう」

「おいで、サブレ」

 絞った手綱を軽く引くと、サブレは歩きはじめる。

「うおっ」

 歩き出すと、多少身体を揺らした播磨だが、しばらくすると安定する。

(やっぱり運動神経がいいのかな)

 自然と馬の動きに合わせて体のバランスを調整しているようだ。


「上手だね、播磨くん」

「いや、ただ乗ってるだけなんだが」

「初心者はただ乗ってるだけでも、結構大変なんだよ?」

「そりゃわかる気がする」

 馬は揺れるし、何より機械ではないので、複雑な動きもする。

「バランス感覚がいいのかな」

 と、紗羽が言うと、

「サーフィンよりは簡単かもしれねェ」

 播磨は笑いながら言った。

「あはは。そう言えば、お母さんとサーフィンやってよね」

「おう」

「大変だった?」

「とても疲れた」

「ふふふ」

「なんか、いいもんだな」

「え?」

「乗馬ってのもよ。世界が変わって見えるっつうか。いや、これも同じ世界なんだよな。

今まで見てないだけど」

「うん」

「お前ェはこういう光景を、ずっと見てたのか」


「そうよ。羨ましいでしょう」

「まあ、確かにな。馬の世話は大変そうだが」

「大変だよ。でも、それをやらない奴に馬に乗る資格はない」

「そうなのか?」

「お父さんが言ってた」

「ああ、でも正一さんなら言いそうだな」

「フフ」

「俺は時代劇とか好きでよく見てたんだが」

「へえ」

「昔の偉い人は、馬の世話は家来にやらせてたんだろうな」

「そうだね」

「偉い人じゃねェと馬に乗れねェってのも、当然か」

「ねえ播磨くん」

「どうした」

「時代劇って何が好き?」

「そりゃお前ェ、三匹が斬られるだろ」


「そうなんだ、私は江戸を斬るかな。あと鬼平犯科帳」

「随分渋いな」

「そうかな? BSで再放送やってるし」

「最近は民放で時代劇もやんねェからな」

「そうなの。つまんない。もっとやって欲しいのに。中村吉衛門とか見たいのに」

「本当、渋いな」

 しばらくの間、紗羽と播磨は時代劇の話でもりあがった。

 こんなにも長い間、彼と話をしたのは初めてのことである。

 歩いているだけで、何だか身体が熱くなるようなきがした。




   *




「はい、お疲れ」

 初めての乗馬(といっても引かれた馬に乗っただけなのだが)を終えた播磨は、

サブレから降りる。

「サブレもお疲れ」

 そう言って紗羽はサブレの首を撫でる。

 サブレは特に疲れた様子もなく、元気に鼻を鳴らした。

「じゃ、戻ろうか」

 愛馬の無事を確認すると、紗羽は言った。

「おい、いいのか」

「何が?」

「お前ェ、まだ一度も乗ってねェじゃん」

「そういえばそうだね、ヒヒ」

「ん?」

「今日はいいよ、あんまり走らせるとサブレも疲れちゃうから」

「まあ、お前ェがいいんなら、それでもいいけどよ」


「それより播磨くん、バイト行かなくていいの?」

「お、そうだな」

 播磨は腕時計で時間を確認する。

「じゃ、私はサブレを馬房に戻しておくから」

「おう、今日はすまなかったな」

「別にいいよ。私も楽しかったし」

「そうか。じゃ、行くわ」

「い、行ってらっしゃい」

 早足で着替えに戻って行く播磨の後ろ姿を眺めながら、紗羽は大きく息を吸った。

(自然に接することだって、できるじゃん)




   * 

 



 午後、坂井圭介の店――

「いらっしゃいませ」

 この日は日曜日ということで、店も忙しかった。

 あまりにも忙しいので、当然ながら娘の和奏も手伝っている。

「播磨くん、注文とってきて」

 店の主人である圭介は言った。

「了解ッス」

 接客は主に播磨と和奏の仕事だ。

「すいませーん、お茶もらえます?」

「はい、ただいま。和奏、四番テーブルにお茶を」

 自分が動けない時は素早く人に頼む。

「うん、わかった」

 和奏も、それに合わせて素早動いてくれるので助かる。

 はじめのうちは連携が上手く行っていなかったけれど、ここ最近は意志の疎通も

上手く行きはじめているように感じる播磨であった。

「お待たせしました」

 注文を聞くためにテーブルの前に立つ播磨。

 しかしそこには、

「やっほー」

「よう拳児」


「お前ェら」

 テーブルに座っていたのは、宮本来夏と田中大智の二人であった。

「何やってんだ」

「何って、お客だよ」
 
 と、来夏は悪びれる様子もなく答える。

「俺は今日、補習ないからな」

 大智はそう言った。

「ウィーンはどうした」

「ウィーンはなんか昨日のトラウマがあるみたいで、しばらく甘い物は見たくないって

言ってたよ」

「お前ェは平気なのか、宮本」

「私は平気だよ」

「甘い物は別腹ってか」

「そうそう。和奏だって同じだよ」

「そんなことばっか言ってたら太るんじゃねえの」

 頬杖をつきながら大智が言うと、

「田中は黙ってて!」

 来夏は怒った。

「バーカ、無神経」

「そこまで言うことないだろ」


「クズ! シスコン!」

「はいはい、わかったから注文いいか」

 播磨は来夏の頭を抑えて大智から自分の方に向けた。

「ググググ……」

 変な声を出す来夏。

「俺、焼きまんじゅう」

「じゃ、私は豆かん」

「焼きまんじゅうに豆かん一丁ね。ありがとうございます」

 伝票に素早くメモを取ると、播磨は踵を返す。

 するとそこに和奏が駆け寄ってきた。

「播磨くん。前の注文なんだけど……」

「どうした」

「あれ?」

 和奏も二人の存在に気が付いたようだ。

「ハロー、和奏」

「来夏、ついでに田中も」


「俺はついでかよ」

「どうしてここに?」

「その会話はさっきやった」

 播磨はあえて話を止める。

「おおい、注文」

 厨房から圭介の声が聞こえてきた。

「スンマセン。すぐ行きます」

「お茶くださーい」

 別の客が呼んだ。

「はーい、ただいま」

 和奏は返事をして、新しいお茶を持っていく。

 忙しい時間は、もうしばらく続くことになる。




   * 




「お待たせしました」

 来夏たちの前に注文の品を出す播磨。

「遅いよー。お腹ペコペコだよお」

 来夏はまるで小学生のように、両手を上げて抗議していた。

「ここは飯屋じゃねェんだから、腹減ってんなら出直して来い」
 
「いただきます」

 大智は特に余計なことは言わず食べ始めた。

「では、ごゆっくり」

 播磨がその場から離れようとすると、来夏が彼の後ろのシャツを掴む。

「待ってよ、はりまっち」

「その呼び方はなんか胸が痛くなるからやめろ」

「播磨くん、耳貸して」

 そう言うと来夏は播磨の服を引っ張り、顔を近づけさせた。

「紗羽の方はどうなの? 大丈夫? イケそう?」

「まだよくわからん」

 播磨は周囲に聞かれないよう、声を低くして答える。

「たのむよ播磨くん。時間もないんだから。さっさと落としちゃって」

「落とすってなんだ落とすって。つかよ、絶対俺よりお前ェのほうが沖田の説得には

向いてるだろうがよ」


「私じゃダメなんだよ。播磨くんにやってもらわないとさ」


「何を話してるの?」


「おわっ!」

「ひゃんっ」

 二人の間に割り込んできたのは和奏であった。

「和奏安心して。別に浮気してるわけじゃないから」

「おい、何言ってんだ宮本……!」

「……別に播磨くんが誰と付き合おうと、私には関係ありませんけど」

 と言いながら和奏は顔を逸らす。

「別に俺は……」

 播磨が言い訳をしようとすると、和奏はそれを制した。

「仕事中なんだから無駄話しないでよね」

「わかってるよ。それより和奏、お前ェ休憩まだだろ」

「あ、うん」

「お客も少なくなってるから、片付けは俺がやっとく」

「……ありがとう」

「……」

「……」


「ん?」

 気が付くと、来夏と大智は目を点にしている。

「どうした」

「播磨くんってさ」

「おう」

「和奏のこと、下の名前で呼んでたっけ?」

「あ……」

 やってしまった。と、播磨は思ったがもはや手遅れであった。



   *




 播磨が仕事をしている間、休憩に入った和奏が二人の前に座り、事情を説明する。

「なるほど、バイト先ではお父さんと区別するために下の名前で呼ばせていたと」

 腕組みをした状態で来夏は言った。

「そ、そうです。他意はないんです……」

 まるで取り調べを受ける犯罪被疑者のように、弱気な声を出す和奏。

「他意はないか。どう思う? お父さん」

「誰がお父さんやねん」

 おもわずツッコミを入れる隣の大智。


「いやあ、私のロマンスレーダーが反応したんだけどなあ」

 来夏は豆かんを食べながら語る。

「別に呼び方なんてどうでもいいじゃん。本人同士が呼びたいように呼べばさ」

「甘いよ田中くん」

 まるで『ワトソンくん』みたいな感じで大智の名前を呼ぶ来夏。

「何が甘いんだよ」

「結婚したら苗字が同じになるから、今のうちに下の名前で呼び合っていたほうが」

「け、結婚?」

「何、結婚?」

 不意に顔を出す和奏の本物の父、圭介。

「お父さん。ごめんけど、ちょっと下がってて」

 和奏は父を店の奥へと押し込み、再び来夏たちの前に戻ってくる。

「はあ。来夏、結婚とか話飛び過ぎだから」

「まあそうだよね」

「それにさ、ほら。ウィーンなんかは、皆のことを下の名前で呼んでるじゃない?」

「あ、そう言えばそうか。あの子も和奏のことは下の名前で呼んでたか」

「だから考えすぎだよ。ね」

「そうだね。よっしゃ、今日から私も田中のこと下の名前で呼ぼうか」

「はあ?」

 来夏の急な思いつきに驚く田中。


「ええと、田中の下って圭介だっけ」

「おい、違うだろ」すかさず否定する大智。

「圭介は私のお父さんだから」

「え、何。呼んだ?」

 再び父、圭介登場。

「呼んでないから。ごめんね」

 そして再び和奏は店の奥に父を押し込める。

 その後和奏の休憩時間は終わり、来夏たちも用があるということで帰って

行った。



   *



 夕方の沖田家。

 この日、父は仕事で出ており、播磨もバイト先で夕食を済ませるので晩の食卓は

母の志保と、娘の紗羽の二人きりであった。

「こういう日も悪くないわね」

「……うん」

 二人きりの食事は、少し静かに感じる。

「あの、お母さん」

「なに?」

 折角二人だけなのだから、父や播磨の前ではできない話をしよう、と紗羽は考えた。

「ちょっと聞きたいことがあるんだけど」

「ん? 何、何が聞きたいの?」

 母はまるで少女のように好奇心に満ちた顔をで聞いた来た。

「人と、仲良くなるにはどうしたらいいんだろう」

「人と?」

「うん」

「仲良くなりたいの? 誰と?」

「いや、まあ特定の誰かとってわけじゃあないんだけど」

「ほう……」

「その、仕事でも生活でも、これからずっと誰かと関わって生きていくわけじゃない?」

「そうよね」


「だとしたら、どうやってその人たちと仲良くしていけばいいんだろうと」

「紗羽は、仲良くしたいと思うの?」

「それは……、仲が悪いよりは良いほうがいいと思うし」

「そうよね。母さんもそう思う」

「お母さんは、どうやって?」

「お仕事や生活に関して言えば、礼儀正しくしていれば問題ないと思うな」

「礼儀正しく」

「そ。でもね、本当の意味で仲良くしていきたいなら、それだけではダメよね」

「本当の意味?」

「そ、ただの友達じゃなくて、親友って呼べる関係になるなら、もっと自分を

出していかないと」

「自分を出す」

「相手のことを知れば、その人のことを好きになるかもしれない」

「じゃあ、嫌いになることもあるの?」

「そりゃあるわよ。もちろん、それは相手も同じ」

「……ん」

「まあ子どものころはそんなこと意識しなくても仲良くなれただろうけど、

紗羽みたいに中途半端に大人になると、難しくなるかもねえ」

「私、中途半端なの?」

「大人と子どもの中間。身体は大人みたいだけど」

「もう、お母さん!」


 紗羽は胸元を隠すようにして言った。

「アハハ、冗談よ。でも安心して紗羽。あなたはもう十分魅力的よ。だから本気で

自分をさらけ出しなさい」

「そう言われても……。私、話とかもそんなに上手くないし」

「ねえ紗羽」

「なに?」

「私とまひる先輩、それに直子先輩とが親友だったってことは、知ってるわよね」

「うん。和奏のお母さんと、教頭先生でしょう?」

「そうよ。でも最初から仲が良かったわけじゃないの」

「え?」

「まひる先輩とは、会ってすぐに仲良くなったんだけど、直子先輩は性格が真面目

すぎるから、最初は衝突ばかりしていたわ」

「……」

 紗羽は教頭の顔を思い出す。

 確かに、あの堅物そうな女性と明るくサバサバした性格の母が親友、というのは

すぐには信じられない。

「でもね、合唱部で一緒に練習して、少しずつお互いのことを理解し合って、私たちは

親友になったの。学年の違いもあったから、一年くらいかかったけど」

「……一年」

「人の性格がそれぞれ違うように、人との関係もまた違うのよ。すぐに仲良くなれる

人もいれば、そうじゃない人もいる」

「……」


「時間がかかってもかからなくても、その人との関係が大切なものであることには

変わりないわ。だからあなたも諦めずに、自分の気持ちをぶつけていきなさい。

大丈夫よ」

「そうかな」

「ええ。きっと拳児くんもあなたの魅力に気づいてくれるはずよ」

「うん……。えっ?」

「何?」

「ちょっと、なんでそこで播磨くんが出て来るのよ!」

「いや、だって。拳児くんと仲良くしたいんでしょう?」

「べ、別にそんなこと言ってないし」

「もう、照れなくていいのに」

「照れてないから!」

「紗羽がいらないんだったら、お母さんがもらっちゃおうかな」

「やめてよもう!」

 二人だけの食卓も、わりと賑やかな沖田家であった。




   つづく





 第十一話 プロローグ

 六月は衣替えの時期で、まだ朝は肌寒い日もあるけれど、白いシャツに身を

包んだ生徒たちが眩しい。

 とはいえ多少涼しくても学校へ向かう坂道を上り終えるころには、かなり汗がでてくる。

 播磨も、他の生徒と同じように白い夏服で坂を上っていると、後ろから声をかけられた。

「おはよう! 播磨くん」

「宮本か」

 耳にはライムイエローのヘッドフォンを着けている宮本来夏であった。

 今日も元気そうだ。

「何聞いてんだ?」

「君のいちばんに」

「リンドバーグ」

「ビンゴ!」

「随分古いの聞いてんだな。お前ェ生まれてないんじゃね?」

「お母さんが好きだったから」

「ほう」

「毎年この時期になると聞きたくなるんだ」

「夏だからか」

「それもあるけど、今年はちょっと特別」


「特別?」

「それで例の件、頼むよ播磨くん」

「何をだ」

「紗羽のこと」

「……難しいことを」

「クフフ」

 そんな会話をしていると、後ろから声をかけてくる生徒が二人。

「オイッス、拳児」

「おう、大智か」

「おはよう、ケンジ」

「おはようさん」

 同級生の田中大智とウィーンこと、前田敦博だ。

「ウィーンは体調大丈夫なのか」

「もう平気だよ」

「情けないよね、ウィーンは」

 そんなウィーンの言葉を聞いて来夏は言った。

「お前ェと和奏が特殊なだけだろ」

 あきれ顔で播磨が言うと、

「私が何?」

「うおっつ!」

 再び聞き覚えのある声が背後から。


「何よ、播磨くん。鳩が豆鉄砲くらったような顔をして」

 坂井和奏だ。

「おっはよ、和奏」

「うん。来夏、おはよ」

「僕とタイチもいるよ!」

 主張するように顔を出すウィーン。

「わかってるから。で、播磨くん。私の話をしてたの?」

「いや、別に……」

「悪口?」

「そんなんじゃねェっつうの」

「なんか坂井も変わったよな。どうしてだろう」

 和奏を見ながら、大智はしみじみと言う。

「何言ってんのよ大智、女の子が変わる理由なんて一つしかないでしょ。キシシ」

 来夏は悪戯っぽい笑みを浮かべながら言った。

「理由ってなんだよ?」
  
「シスコンにはわからないよね」

「おい、まだ言うか」

「シスコンって何の話? 来夏」

 和奏が聞いてくる。今日の和奏はどうやら地獄耳のようだ。

「タイチがシスコンって話だよ」嬉しそうにウィーンは言った。

「あー、そうなの。お姉さん美人だしね」

 和奏は納得したようだ。

「納得すんな! ってかシスコンじゃねえし!」

 タイチの声が朝の校門付近にこだまする。






       TARI TARI RUMBLE!

 
 
     第十一話 海の方、歩いて帰ろうか





 季節の変わり目には、少しだけ寝んな感覚を味わうことがある。

 少し暗めの色の冬服から、白を基調した夏服に変わったことで教室内が

少し明るくなったような気がした。

 ほんの少しの変化かもしれないが、それはそれで何かの始まりを暗示する

ような気がして心を揺さぶるものがある。

「よう、はりま」

「あン? 誰だお前ェ」

 クラスの一人の男子が話しかけてきた。見たことはあるが、名前が思い出せない。

「野伏だよ。ノ・ブ・セ。同じクラスなんだから名前くらい憶えろよな」

「野伏せりが何だって?」

「“り”は付けなくていい。それより、ちょっと聞きたいんだけどさ」

「なんだ」

「お前と沖田さんって、どういう関係?」

「沖田?」

「沖田紗羽だよ。知ってるだろ?」

「そりゃ、まあ……」

「どういう関係なんだ?」

「どういうって、別に」

「付き合ったりとかしてねえの?」

「そんな風に見えるか」


「いや別に。でも、わりと話とかしてるし」

「大してしてねェよ。気のせいだ」

「そうかな」

「それより、何で沖田のことなんて聞くんだ?」

「そりゃあ、沖田さんって美人だしさ」

「ん……」

「なんていうか、普通に“お近づき”になりたいと思うじゃん?」

「そうなのか」

「播磨は転校生だからわかんないかもしれないけど、一年のころから結構

人気あったんだぜ、彼女」

「ほう」

「特にあの胸」

「くだらねえ」

「おい、待て待て。胸がくだらないなんて、ロリコンか」

「そんなくだらねえ話をするために俺に話しかけてきたのかよ」

「ちょっと待てよ。なあ、よく考えてみろ。俺たちもう三年だぜ。高校生活最後だぜ」

「それが?」

「これから受験やら就職やらで忙しくなる。だから、この時期が最後のチャンスなんだ」

「何のチャンスだよ」

「そりゃ、沖田さんと仲良くなるチャンスだよ」


「……」

「あいつ、あんなに美人なのに男っ気がないっていうか」

「性格は男っぽいぞ」

「それがまた魅力的なんでしょう」

「魅力か」

「なあ、どうやったら仲良くなれるかな」

「んなモン、同じクラスなんだから普通に遊びに誘ったらどうだ」

「それができれば苦労しないっての。今まで何人の男が撃沈してきたことか」

「撃沈?」

「振られるってこと」

「なるほど。また新しい日本語を覚えた。ウィーンに教えてやろう」

「なんていうか、男に対しては警戒してるのかな」

「男に対して、警戒ね……」

 播磨はこれまでの紗羽の行動を思い出す。すると野伏の言葉が、少しだけ引っかかってきた。




   *





 昼休み。いつもの中庭でパンを食べながら、播磨は来夏たちと作戦会議だ。

「男を警戒? ああ、でもそういうところはあるかもね」

 播磨の話を聞いて、来夏は頷く。

「本当か?」

「まあ、紗羽自身は気が強いし、自分でそういうことを言わないけど、心の中では

そう思っているかも」

「そうなのか」

「別に気にする必要はないんじゃないか」

 そう言ったのは大智だ。

「どうして?」

 と、来夏が聞く。

「だってよ、男が苦手でもこれまで普通にやってこれたわけだろう? だったら無理に

そこを矯正しなくても」

「チッチッチ、甘いわね大智。それは違うわ」

 なぜか得意気な顔で大智の意見を否定する来夏。

「なんだよ」

「第二合唱部(仮)は弓道部と違って男女混合よ」

「弓道部だって男女混合みたいなもんだろう」

「違うよ。練習時間も着替える場所だって違うし。白浜坂(ウチ)の弓道部は部員が多いから、

男女は別々に活動していることも多いの」


「そうなのか」

「紗羽が男が苦手な状態っていうのはネックよね。それが原因で入ってくれないって

こともあるかも」

「じゃあどうすりゃいいんだよ」

「男子に慣れさせるしかないわね」

「ん?」

「やはり私の読みは正しかった」

 そう言うと、来夏は播磨を見る。

「ンだよ」

「播磨くん。さっさと紗羽と仲良くなっちゃって」

「おい」

「紗羽の男嫌いを克服させれば、自ずと道は見えてくるはずよ」

「何の道だ」

「道は歩めばそこが道となる」

「何言ってんだ」

「さっそくだけど、今日は紗羽と一緒に帰って。今日、バイトないんでしょう?」

「あ、それって放課後デートってやつだね」

 今までおとなしくしていたウィーンが嬉しそうに言った。

(そんな日本語、どこで覚えた)

「放課後デートって……」


「恋愛シュミレーションゲームでは鉄板よ。とにかく好感度を上げなきゃ」

「ゲームの話かよ。ただまぁ……」

 沖田紗羽と色々と話をしていたほうがいい、と思う気持ちは播磨にもあった。

 もちろん恋愛的な意味ではなく、下宿先の同居人として。




   *



 
 三年生の夏の放課後は開放的な雰囲気がある。

 運動部のほとんどが、五月のインターハイ予選で引退したため、多くの生徒たちが

早めに帰ることになるからだ。

 元弓道部の紗羽もそれは例外ではなかった。

(今日は来夏を誘って帰ろう)

 そんなことを思っていると、ふと人の気配がした。

「よう、沖田」

 相変わらずぎこちない声のかけ方の播磨拳児だ。

「どうしたの播磨くん。来夏ならまだ学校にいると思うけど」

「きょ、今日はお前ェに用があってきたんだ」

「ん?」

「……一緒に、帰らねェか」


「え?」

 予想外の誘いであった。

 確かに播磨のことは嫌いではないので、こういう誘いもやぶさかではない。

 しかし、心のどこかで何かが躊躇する。

「ご、ごめん。今日は来夏と――」

 そう言いかけた瞬間、来夏が教室にやってきた。

「やっほー、紗羽」

「来夏、どこ行ってたの?」

「あ、ごめん紗羽。今日はちょっと早く帰らないといけないから」

「え?」

「本当、ごめんね!」

 そう言うと、来夏は自分の鞄を強引に取って走り出していった。

 まるで小動物のように素早い動きだ。

「来夏……」

「宮本が何だって?」

「あ、いや。大丈夫」

「それで沖田」

「ちょっと待って」

「ん?」

 紗羽は播磨に背を向けると大きく息を吸った。


(自分をさらけ出す。すべてじゃなくていい。少しずつ相手を知って、

自分を知ってもらえれば怖くない)

 そう自分に言い聞かすと、再び播磨と向き合う。

「沖田?」

「うん、いいよ。一緒に帰ろう」

 そう言えば、こうして男子生徒と一緒に帰るのは初めてかもしれない。

 同級生の中には、キスやデートをしたことのある女子生徒がたくさんいる中で、

紗羽は奥手なほうだと自分でも認識している。

 こうして、異性と一緒に帰るという行為は彼女にとって大きな勇気を要するものなのだ。

「ねえ播磨くん」

「あン?」

「海の方、歩いて帰ろうか」

「海の……?」

「ダメ?」

「いや、別に構わねェが……」




   *


 海辺の道を歩いて帰るのは少し遠回りになるのだが、今日は遠回りをして

帰りたい気分だった。

 潮風を受けながら二人並んで歩く。

 まるでドラマの一シーンのようだ。しかし上手く言葉が出てこない。

 この前みたいに時代劇の話題で盛り上がるのも悪くないけれど、今日は

どうもそういう雰囲気ではない。

「播磨くん?」

「ん、どうした」

「いや、別に……」

 播磨は何か思いつめているような表情をしている。

 悩み事でもあるのだろうか。
 
「恋の相談? だったら私に聞いても無駄だよ」

「そんなんじゃねェよ」

 照れながら播磨は否定した。

 その表情がとても可愛らしく思う。

「なあ、沖田」

 不意に、播磨は名前を呼ぶ。

「なに?」

 心地よい潮風に吹かれながら、紗羽は返事をした。

「お前ェ、男が苦手なのか」

「へ?」


「いや、少しだけ話を聞いてな。宮本も言ってたけど、男が苦手なところがあるんじゃ

ねェかなって。それで」

「べ、別に苦手ってほどでもないよ」

「本当か。じゃあ、俺が苦手なのか?」

「あ、いや……」

 紗羽は少し考える。どう答えていいのかすぐにはわからなかったからだ。

「確かに、男の人は少し苦手かも」

「沖田……」

「あんまり思い出したくなかったんだけど、播磨くんと話してたら思い出しちゃった」

「それは……すまねェ」

「ああ、大丈夫。播磨くんは悪くないから!」

 慌てて右手を左右に振ってフォローする紗羽。

「でもまあ、人間誰にでも触れられてほしくねェこともあるし」

「確かにそうだね。でも、そこを乗り越えないと先に進めないことだってあるんだよ」

「先に?」

「うん。私のトラウマも、いや、トラウマってほどじゃないけど。でも、この嫌な思い出も

いつかは乗り越えなきゃならない」

「嫌な思い出ってのは」

「これ、来夏には話したことあるんだけど、男の人に言うのはこれが初めてかな」

「正一さんにも言わねえのか」

「もしお父さんに言ったら大変なことになるよ」


「なに? そんなに不味いことか」

「いや、まあ」

 紗羽は歩きながら頭の中を整理する。

 これを言っていいのか悪いのか、少し悩む。

 でも、すぐ横にいる真剣な男子生徒を見ていると、言わないと申し訳ない気がした。

(自分を晒すってこういうことなのかな。思った以上に恥ずかしい)

 そうは考えたけど、こういうチャンスはあまりないと思い彼女は決意する。

「い、一年生の時なんだけど」

「おう」

「弓道部に、尊敬していた先輩がいたのね」

「……」

「男子の先輩だったんだけど、その人は容姿もかっこよくて成績も良く、女の子にもモテてた」

「そうなのか」

「でもその人、私の……、私の胸を触ったんだ」

「む、胸?」

「ちょっと、見ないで」

「ああ、すまねェ」

「ごめん」

「いや、別に……」


「すっごい驚いて。今だったらもう、ボッコボコにしてやるんだけど、当時はまだ幼くて、

どうすることもできなくて、ただ泣くしかなかった」

「……」

「もちろん、胸を触られただけだよ。それ以上のことはなかったし」

「当たり前ェだろ、それ以上あったら犯罪じゃねェか」

 播磨は少し怒ったように言った。

「怒ってる?」

「まあ少しな。あまり気分のいい話じゃないし」

「フフ」

「どうした」

「いや、何でもない」

 自分のことで怒ってくれるこの少年を見て、少しだけ紗羽は嬉しくなった。

「今はもう平気だと思っていたけど、やっぱり少し傷が残っているのかな」

「……悪いこと聞いちまったな」

「大丈夫だよ。少しスッキリしたから」

「スッキリ?」

「ええ。今でもあの先輩は許せない。けど、昔ほど私は弱くないってね」

 紗羽は両手で拳を握り、腕を曲げて手の甲を播磨に見せた。

「なあ沖田」

「なに?」


「正直、俺もお前ェに謝らなきゃならねェと思ってたんだ」

「何を?」

「何をってそりゃあ、急に家に転がり込んでよ。一緒に暮らすってことになったんだぜ」

「……」

「お前ェくらいの年ごろだと、親戚とはいえほとんど面識のない男と暮らすのは嫌だろう」

「播磨くん」

「ましてや変なトラウマもあったことだし」

「播磨くん!」

「ん?」

「はっきり言うよ。私、確かに嫌だった」

「おう……」

「でも、今はそうでもないから」

「今は……?」

「うん、だから遠慮しないで。お父さんもお母さんも、あなたのことを気に入ってる

みたいだから、自分の家のように寛いでもらっても大丈夫よ」

「沖田……」

「今日は、話ができて良かった」

「そうか」

「今度はあなたの事も聞かせてよ、播磨くん」


「俺のこと?」

「だって、私のことばかり言うのは不公平でしょう?」

「まあ、そうかな。でもよ、俺の話なんて面白くねェぞ」

「そんなのは私が決めることよ。恥ずかしいことも話しなさい」

「勘弁してくれよ」

 播磨に昔の話をするのは、物凄く恥ずかしくて怖かったけれど、家に帰る頃には

妙な満足感が紗羽を包んでいた。




   *




 翌日、播磨は例の中庭において、来夏と二人だけで作戦会議を開いた。

「播磨くん、私思ったんだけど」

「どうした」

「やっぱり回りくどいのはダメだと思うんだよね」

「お前ェ、今まで散々回りくどいことさせといて、そりゃねェだろう」

「うーん、ここはやっぱりね。ストレートに行くべきだね。紗羽の性格的に考えて」

「ストレートってどんな風に」

「そりゃもう、正攻法で攻めるしかないよ。相手の目を見てね、こうグッと。グッとやるの」

「グッと?」


「『私、期待してます!』みたいな」

「訳分からんこと言ってんじゃねェぞ」

「でも、そうするべきだと思うよ」

「わかった。じゃあ今日の放課後やってみるか」

「本当に?」

「ああ。ただし、もし断られたらもう諦めろよ」

「わかったよ。播磨くんの頼みでもダメなら、諦めるしかないよね」

「何でそうなるんだ」

「頼むよ播磨くん。相手の目を見て、しっかりね!」

「……はあ。やるしかねェか」

 頼み込まれると嫌とは言えない、自分の性格を悩ましく思う播磨であった。




    *




 そして放課後――

 播磨に呼び出された紗羽は、中庭の噴水前広場に来ていた。

 まだ、授業が終わってから時間が経っていないので、部活に行く生徒や

帰宅前に談笑する生徒などがいて騒がしい。

(播磨くん、何の用だろう。まさか、愛の告白……)

 そこまで考えて周囲に目をやる。

(こんな人通りの多い場所でやることはないか)

 そうは思ったものの、やはり不安になる。

「おう、沖田か」

「播磨くん」

 もうすっかり見慣れた顔の播磨拳児。

 その背後には、来夏や大智、それにウィーンが付いてきていた。

 しかし、彼らは遠巻きに見ているだけで紗羽たちの傍には来ない。

「あの、来夏たちは何を」

「あいつらは証人だ。まあ気にするな」

「気にするなって、一体何を。ってか、証人?」

「沖田紗羽!」

「え、はい!」

 紗羽の一歩前に出る播磨。

「お前ェに頼みがある」


「な、なに……?」

「お前ェが欲しい」

「……!」

「頼む、お前ェが必要なんだ」

「そ、そんな。急に言われても」

「そいつはわかってる。だけどよ、お前ェじゃないとダメなんだよ!」

「播磨くん」

 喉から心臓が飛び出してきそうなほどドキドキする。

 弓道の試合でもこんなに緊張したことはない。

(これって、やっぱりはっきり答えたほうがいいのかな。そうだよね。これだけ真剣に

頼んでいるんだから、真剣に返事をするしかないよね)

 紗羽は息を大きく吸ってから、播磨に正対した。

「播磨くん」

「……」

「こんな私でよかったら、よろしくお願いします」

「……沖田」

「うん」

「ありがとな」

「ど、どういたしまして」

 紗羽がそう答えると、もう頭の中が真っ白になった。


 なんだろう、これが告白。

 これからどうしたらいいんだろう。

 そんなことを考えていると、播磨の後ろにいた来夏たちが一斉に喜びはじめた。

「いやったあ!」

「やっほうい!」

「いえええい!」

 三人が喜んでオクラホマミキサーみたいなダンスを踊っている。

「あの、何やってるの?」

 すると、ダンスの輪から抜け出してきた来夏が言った。

「ようこそ、わが合唱部へ」

「はい?」

「ありがとう、紗羽なら来てくれるって信じていた」

「え?」

「これで第二合唱部(仮)も本格始動できるよ」

「どういうこと? 播磨くん?」

「どうした」

「その、私が欲しいっていうのは、合唱部に?」

「当たり前ェだろ」

 播磨はサラッと答える。

「しっかし、大変だったぜ。こういう仕事はやったことなかったし」


「……ふ」

「ん、どうした沖田。腹でも痛いか」

 播磨は心配そうに紗羽の顔を覗き込む。

「……ふ」

「ふ?」

「ふざけるなああああああ!!!」

 大きなモーションで、紗羽は播磨の頬を思いっきり平手打ちした!

 気持ちの良い音が中庭の校舎に反射して響き割る。

「え?」

 いきなりのことで状況がよく理解できず、呆ける播磨。

「播磨のバカ! もう知らない!!」

 顔を真っ赤にして怒った紗羽は、その場で立ちすくむ播磨を残して真っ直ぐ家に帰った。

 しかし、勘違いとはいえ一度は入部に承諾したので、しぶしぶ彼女は六人目の部員と

なったのだった。



   つづく





 第十二話 プロローグ


 とある放課後、学校近くの今川焼き屋で第二合唱部(仮)の結成式が開かれることに

なった。

「みなさん、お集まりいただきありがとう。これからガンガン活動していこう!」

 コーラを片手に、来夏は嬉しそうに言った。

「活動って何すんだよ」

 と、大智は聞く。

「そりゃ歌うに決まってるでしょう?」

「でも受験があるから、そんなに長くは活動できないよ」

 そう言ったのは和奏だ。

「太く短く活動していこうと思います」

「なんだそりゃ……」

 今川焼きを食べながら播磨はつぶやいた。

「それでは早速決めたいことがあります」

「はい! 何を決めるの?」

 そう質問したのはウィーンだ。

「いい質問ですねえ」

 胡散臭い笑顔で答える来夏。


「まずは部活名だね」

「部活名?」

「そう、いつまでも第二合唱部(仮)では面倒でしょう? ちゃんとした名前を決めなくちゃ」

「んなもんどうだっていいだろうがよ」

 面倒臭そうに播磨は言う。

「シャラーップ播磨くん。名前って大事なんだよ。名は体を表すんだから」

「そうかよ」

「じゃあ、一人ずついってみようか。まずはウィーン」

「はい、ヒーロー部がいいと思います」

「はい却下」

「ええ? どうして」

「ヒーロー関係ないし。歌うんだよ、ウチら。歌に関係する部活名じゃないと。じゃあ次、

大智」

「歌うバドミントン部?」

「はい却下」

「……んぐ」

「この期に及んでバドミントンを引っ張るな」

 ちなみに、バドミントン部は大智引退後は休眠クラブとなった。

「はい次、紗羽。シンプルなやつ頼むね」


「歌部」

「シンプル過ぎるでしょうが! 何やってるのよ紗羽」
  
「そんなのいきなり言われてもわかんないよ」

 紗羽は抗議したが聞き入れられるわけもない。

「はい次、和奏」

「ねこ部がいいと思います」

「だ・か・ら、歌関係ないじゃなのよ、もう!」

「あー、ちょっといいか。宮本」

「なに?」

 流れを断ち切るように播磨が発言する。

「一応、新たに部活を作るんだよな」

「そのつもりよ」

「それって、認められるのか? 部活としてよ」

「え?」





               TARI TARI RUMBLE!


 第十二話 例えゴールは同じでも、それに至る道のりは一つじゃねェってことだ





 翌日、播磨は来夏と一緒に職員室の教頭の前にいた。

「却下ね」

 書類を一瞥した教頭の高倉直子は一言で切って捨てた。

「どういうことですか!」

 その言葉に当然のことながら講義する来夏。

「どうもこうもないわ。どうしてこの中途半端な時期に部活設立なの?」

「生徒の自由な活動は保障されるべきでしょう?」

「自由は規律や秩序の中にあってこそ保障されるべきものよ。あなたのやっていることは、

ただの身勝手な振る舞いだわ」

「でも校則にのっとった行為ですよ。人数も揃っているし」

「揃ってるって、全員三年生じゃないの」

「三年生だって生徒は生徒です」

「三年生はこれから受験や就職活動で忙しくなるの。確かに高校生活も大事だけど、

これからの人生があるのよ」

「でも、悔いは残したくないんです!」

「いい加減にしなさい」

 感情的な来夏に比べ、直子はずっと冷静であった。

「先生はまた……、また私の場所を奪うんですか?」

「宮本さん。あなた」

「私は歌に関して本気です! ただの遊びじゃないんですから」


「ちょっと待ちなさい」

「なんでそう、いつもいつも邪魔ばかり――」

「落ち着け宮本」

 そう言うと、播磨は来夏の口にハンカチを当てる。

「ンー! ンー!」

 このまま放っておくと「お前の母ちゃん出ベソ」とか言い出しかねなかったので、

あえて口を塞いだ。

「スンマセン、ご迷惑かけまして」

 播磨は、来夏の小さな体をひょいと脇に挟んで抱えると、直子に軽くお辞儀した。

「あなたも大変ね、播磨くん」

「いえ、それは別に……」

「ンー! ンー!」

 抱えられながら足をバタつかせる来夏。

「まあ、頑張ってるやつを応援すんのが、俺のモットーなんで」

「そう」

「失礼するッス」

 そう言って、播磨は来夏を抱えたまま職員室を後にした。




   *



「裏切り者! なぜ私を止めた!!」

 教室に戻っても来夏は怒りは収まらない。

「落ち着け宮本」

「信じらんない。あの年増ピンクめ」

「あのまま職員室で暴れても何の解決にもなりゃしねェんだぞ」

「そうだ。校長を人質にとって放送室に立て籠もれば」

「だから落ち着けって言ってんだろ」

 播磨は来夏の頬を掴んで、自分の方にむけさせる。

「ほひたらどうひたらいいのひょ」

「あン? よく聞き取れねェぞ」

 播磨は来夏の口から手を離す。

「そしたら、どうしたらいいのよ!」

 キッと、鋭い目つきで播磨を見据えた来夏はそう聞いた。

「新しい部の設立がダメでも、ほかに手があるはずだ」

「他に手って、どうするの?」

「それは……」

 播磨は考える。

 その時、クラスメイトの会話が耳に入ってきた。

「今日、野伏は?」

「ん、何か休みみたい」


「ふーん」

(休み?)

 彼の中で何かがひらめく。

「よう、拳児。それに宮本」

 そんな彼に話しかけてきたのは田中大智であった。

「なあ大智」

「ん? どうした播磨」

「お前ェのバドミントン部って、確か休眠状態だったよな」

「そうだな」

「休眠クラブってよ、部員が集まったらまた再会できるんじゃねェか?」

「確かに、そういう規定があったような」

「新しく作るのがダメなら、その休眠している部活を使ったらどうだ?」

「なるほどな。でも休眠クラブって、どうやって調べるんだ?」

「まあ、生徒会とかに知り合いがいりゃできるかもしれんけど」

「え? 生徒会!?」

「ぬわっ!」

 不意に来夏が播磨に飛びつく。

「どうした宮本」

「生徒会に知り合いならいるよ」

「何?」

「私の弟が!」

「なんだって?」





   *

 



「これが、休眠クラブのリストです」

「おう、サンキューな」

 生徒会室でメガネをかけた宮本来夏の弟、宮本誠からリストの書かれた

ファイルを受け取った播磨は、そこにざっと目を通す。

「結構、休眠クラブって多いんだな」

「少子化の影響でしょうね。生徒数も減っていますし。あと、最近は部活動を

する生徒自体も減っているみたいです」

「そうなのか……」

「あの、先輩」

「あン?」

「本当すいません。姉がご迷惑をおかけしているようで」

「別に気にしてねェよ。それよか、こっちこそすまねェな。余計な手間とらしちまって」

「いや、別にいいですよ。姉の被害にあっているのはいつものことですから」

「いつものことか。お前ェの姉ちゃんは、昔からああなのか?」

「そ、そうですね。昔から一度決めたことにはとことん突き進んでいくタイプで」

「もう少し考えて行動したほうがいいと思うがな」

「僕もそう思います」

「おっと、これかな」

 播磨はいくつかの部活動を見つけて、メモを取った。

 そして、ファイルを閉じる。

「サンキューな。役に立ったぞ」

 播磨はそう言ってファイルを差し出した。

「そうですか。それはよかった」

「よし、じゃあ行くぜ」


「あ、先輩!」

「なンだ?」

「あんな姉ですけど、よろしくお願いします」

「あんまりよろしくはされたくねェもんだが」

 播磨は苦笑しながら答える。

「まあ、できる限りのことはしてみるつもりだ」

「はい、ありがとうございます」

「あ、そうだ。ついでにもう一つ頼まれてくれねェか」

「え? 何ですか」

「実は、今調べた部活の……」




   *



 放課後、播磨たちは坂井圭介の店の店に集まっていた。

 第二合唱部(仮)は公式の部活動ではないので、校内で会合ができないからだ。

「まあ、皆も知ってると思うが、第二合唱部(仮)の設立は却下された」

 播磨はテーブルの前に座る件のメンバーに対してそう言い放つ。

「ぶー」

 来夏はテーブルの隅で頬を膨らませていた。

「ほら来夏」

 隣に座っていた紗羽が来夏を宥める。

「じゃあどうするの?」

 ウィーンは純粋な瞳で質問する。

「そこで、一つ考えた。新しい部の設立がダメなら、古い部を再利用したらいいんじゃ

ないかと」

「ほう、なるほど」

 ウィーンは右手で拳を握り、左手の手のひらをポンと叩く“あの仕草”をやった。

「そこで一つの部活を選んでみた。大智、ちょっとそこの書類を回してくれ」

「これか?」

 大智はテーブルの上に置いてあるクリアファイルの中に入ったA4の印刷物を取り出し、

それを紗羽や和奏に渡す。

「ボランティア部?」

「ああ、そうだ」

「ボランティア部って、俺たちがボランティアをやるのか?」


「そうだな」

「ちょっと播磨くん!」

 たまらず来夏が立ち上がる。

「どうした宮本」

「私は歌がやりたいのよ。河原のゴミ拾いや花壇の草取りも大切と言えば大切だけど、

やっぱり歌が無いと」

「落ち着け宮本。実はよ、お前ェの弟に頼んで過去のボランティア部の活動実績を

調べてもらった」

「そんなの調べられるの?」

 と、和奏が聞く。

「弟の話だと、各部活は三ヶ月ごとに活動実績報告書ってのを提出しなきゃならんらしい。

そんで、その書類は過去の活動実績を大まかにまとめたものだが」

「これが何なの?」

「よく見てみろ」

「ん?」

 播磨は、大智から配布した書類の一部を受け取り、下のほうを指さした。

「ここに、介護施設や養護施設の訪問という項目がある」

「ふんふん」

「過去、ボランティア部の部員はそこで、人形劇とか演劇、それに曲芸などをやっている」

「ああ、なるほど」

 紗羽は播磨の意図に気づいたようだ。


「なるほどな、そういうことか」

 大智も気付いた。

「つまりどういうことだってばよ」

 来夏は播磨に歩み寄りながら聞く。

「要するに、ボランティア部の活動として、介護施設や幼稚園なんかで行うイベントの

中で、歌をやって行ったらいいんじゃねェのかってことだ」

「あ、そういうことなんだ」

 他のメンバーよりも一歩遅れて和奏は理解したようだ。

「でもそれじゃあ、コンクールとか」

「俺もそう思った。だがよ、宮本。現状では本家の声楽部と同じじゃあやれねェんだよ。

活動内容が被っているし」

「う……」

「宮本、お前ェは歌がやりたいのか? それともコンクールに出て賞を貰いたいのか」

「それは……」

「例えゴールは同じでも、それに至る道のりは一つじゃねェってことだ」

「……」

 静まり返る一同。

(やはりこれじゃダメか)

 播磨がそう思った時、

「……播磨くん」


 来夏が立ち上がった。

「あン?」

「わかったよ! 私、やるよ。ボランティア部!」

「そ、そうか」

「皆もいいでしょう?」

「僕は大歓迎だよ!」

 ウィーンはいつものようにノリノリだ。

「仕方ないわね、付き合ってあげる」

 と言ったのは紗羽。

「まあちょっと回りくどい手だけど、回りくどいのはいつものことだしな」

 大智はそう言って笑った。

「私は、播磨くんがそれでいいって言うなら」

 どうやら和奏も賛成したようだ。

「よっしゃ、新生ボランティア部! 頑張るぞお!」

 来夏は拳を突き上げる。

(これで良かったのか)

 自分でやっておいて、少しだけ後悔した播磨なのであった。





   *




 数日後、人がまばらな放課後の職員室に播磨はいた。

「部を承認していただき、ありがとうございました……」

 彼の目の前にはやたら鋭い目つきの女性教頭、高倉直子が座っていた。

「休眠している部を復活させるなんて、なかなか考えたわね」

「まあ、苦し紛れの選択ッス」

「これからどうするの?」

「宮本が……、部長が満足行くまでやらせますよ」

「播磨くん。あなたって、どうしようもないお人好しね」

「ま、よく言われるッス」

「このままじゃ、人生損するわよ」

「返す言葉もない」

「でも」

「ん?」

「そういうところ、私は嫌いじゃないわよ」

「そうッスか」

「志保が気に入ってるのも、わかる気がするわ」

「志保さんと話をしてるんですか?」

「そりゃあそうよ。後輩だもの」

「何か、変なこと言ってません?」

「言わないわよ。あの子が本人のいないところで悪口を言うと思う?」

「いや、思わねェッス」

「でしょ。そこは安心なさい」

「はあ」

「もっとも、あなた個人に対してはともかく、部活動に関しては厳しくいくわよ」

「オッス」

「一応ボランティア部なんだから、そちらの基本も外さないように」

「善処します」

「他に何か用は?」

「いえ、今のところ」

「そう。じゃあ、何かあったらまた来なさい」

「え……」

「何よ」

「いや、忙しいのにまた来ていいのかなって」

「教師が生徒の話を聞くのはある意味義務よ。こっちはこれでお給料をもらってるんだから」

「そ、そうッスよね」

「播磨くん。大人に変な気なんて使わなくていいの。まあ、しょっちゅう来られたらこっちも

困るけど。でも――」

「……」

「たまになら、いいわよ」

「……わかりました、失礼するッス」

 そう言うと播磨は早足で職員室を出る。

 夏の初め、ボランティア部を母体とした新たな合唱部が、始動しようとしていた。




   つづく

自分で書いといてアレだけど、プロローグの和奏はかわいいと思いました(小並感)





 第十三話 プロローグ

 初夏。

 正式な部活動となった第二合唱部(仮)改めボランティア部は、校内に狭いながらも

部室のスペースを割り当てられ、活動を開始した。

 最初の活動は、言うまでもなく部室の掃除であった。

 ほぼ、物置状態だった部室を整理し、不用品を捨てて必要な備品を集める。

 これだけで丸二日を要した。

 播磨にはバイトもあったので、この活動はキツイ。

 さらに、整理された部室にピアノを運び込む作業も行われ、ボランティア部の部室は、

まるで音楽準備室のようになっていった。

「あー」

「あー」

 整理された部室で発声練習をしたのは、来夏と和奏、それに紗羽である。

「あー」

 ついでにウィーンもやっていたが、微妙にズレている。

 来夏はさすが元声楽部だけあって基礎がしっかりしている。

 和奏は元音楽科なので、ピアノの伴奏もできるようだ。

 そして、紗羽は来夏の言うとおり、いい声をしていた。

「あー」

「……」


 播磨の視線に気づいた紗羽がこちらを向いた。

「どうしたの? 播磨くん」

「いや、沖田。お前ェ」

「ん?」

「いい声してんなあ」

「……っもう! 褒めても何も出ないよ」

「いや、別にそんな」

「ケンジ、僕の声はどう?」

 ウィーンが嬉しそうに聞いてきた。

「お前ェはもっと腹筋鍛えろ」

「ヴォオオオオオオ!!!」

「大智! テメェは叫んでるだけじゃねェか!」

 そんな播磨も、部活動ばかりやっていられない。

 学生の本分は勉強である。

 その勉強でも彼は、苦労することになる。





              TARI TARI RUMBLE!


   第十三話  でも、そんな簡単に諦められるような夢じゃなかったんだよ! 
 
           小さいころから憧れてて。それで……




 オレンジ色の西日が差し込む図書室で播磨は数学の課題をこなしていた。

 別に真面目に勉強しているわけではなく、学力の低い彼に担当教諭が課題を

追加しただけだ。

 こうでもしないと勉強しないのが播磨である。

(ああ、面倒臭ェ)

 そう思いつつ、参考書をめくる播磨。

 しかしどこを見ていいのか、てんで検討がつかない。

(一体頭のいい奴ってのは、どこをどう見て勉強してんのかな)

 そんなことを考えつつ、先ほどからいっこうに進まない課題と悪戦苦闘していると、

不意に人の気配がした。

「大智か」

 そう思い顔を上げると違った。

「沖田」

「まだ残ってたの、播磨くん」

 沖田紗羽である。

「ああ、まあな。なかなか終わらなくてよ」

「どの課題? ああ、数学の」

「なんか、見たこともない公式とかあってよ」

「そう」

「お前ェは帰らねえのか?」

「ん? ……帰るよ」


「そうか。じゃあ気を付けて帰れよ」

「うん」

 しかし、すぐに動こうとしない。

「……あン?」

「もしよかったら、課題、見てあげようか」

「どうした」

「べ、別に変な意味はないの。ただ、あれよ。播磨くんの帰りが遅かったら、お母さん

とかも心配するし」

「変な意味ってなんだよ」

「だからそういうんじゃないって言ってるでしょう」

 若干かみ合わない会話をしつつ、播磨は紗羽に勉強を見てもらうことになった。

「じゃ、こっちに座るね」

「は?」

 先ほど向かい側に立っていた紗羽は、播磨の右隣りの席に座る。

「だって、向かい側って教えにくいじゃない」

「……そうだな」

 微かにシャンプーの匂いがした。

 そういえば、家族の中で彼女だけシャンプーとボディーソープが違うことを思い出す。

「どうしたの?」


「そういや、お前ェだけシャンプー、違うの使ってるなあって思ってよ」

「ちょっ、いきなり何言ってるのよ。変態」

「しっ、静かにしろ」

「ごめん」

「俺こそ、変なこと言っちまってよ」

「わかればいいのよ。ていうか、何でいきなりシャンプーの話するの」

「いや、不意に思い出したもんで」

「集中しなさいよ」

「わかってる」

「……」

「ここ違う」

「あン?」

「計算ミス」

「そうか」

「こっちと、ここをかけるの」

「なんで」

「何でって、理屈で考えちゃだめよ。そういうルールなんだから」

「ルールね」



   *




 課題は紗羽の協力もあって一時間ほどで終った。

 運動部がグラウンドで声を出しているのを聞きながら、紗羽と播磨は帰路に

つくことになる。

「お前ェも一緒に帰るのか」

 と、播磨は聞く。

「何よ。同じところに帰るんだから、一緒でいいでしょう? それとも何、私と一緒に

帰るのは嫌なの?」

「いや別に嫌じゃねェけどよ。つか、何で怒ってんだ?」

「怒ってないから。播磨くんが変なこと聞くからでしょう?」

「変なこと聞いたか……?」

「聞いたよ」

 紗羽は播磨から顔を逸らす。

「……」

「……」

 気まずい。

(ああ、またやっちゃった……)

 紗羽は頭の中で頭を抱える。

 もう何度やったかわからない苦悩だ。

(この前はもうちょっと上手く行くと思ってたんだけどなあ)

 異性と心穏やかに接すること。

 やろうと思ってもなかなかできない。


 特に播磨拳児に対しては、反発というか、上手く歯車が噛み合わないもどかしさの

ようなものを感じてしまう。

(田中やウィーン相手なら、別に何とも感じないのに。何が違うんだろう。やっぱり

出会い方なのかな)

 チラリと横を見る紗羽。そこには夕陽に照らされる播磨の姿。

 学校前の坂道を減速しながら歩いていると、水平線の向こう側がキラキラと光っていた。

「なあ、沖田」

 不意に播磨が苗字を呼ぶ。

「どうしたの?」

「悪かったな。色々と」

「何よ。勉強を見てあげたこと? 別にいいのよ、あれくらい。寺に下宿している子が成績悪いと、

ウチの評判にも関わるし」

「いや、まあそれもあるんだが」

「ん?」

「合唱部のこともよ」

「ああ、あれ」

「巻き込んじまって悪かった」

「別に、気にしてない」

「そうか……」

「ねえ、播磨くん」

「あン?」

「そういえば、どうしてあんなにも来夏に協力しているの?」


「そのことか。教頭にも言われた」

「そりゃあ、言うよ」

「まあ、特に理由はねェけど、なんつうか、放っておけなくてよ」

「来夏のこと、好きなの?」

「……」

「?」

「バ、バカッ。そんなんじゃねェ!」

「何焦ってるのよ」

「別に焦ってねェから」

 紗羽は、初めて自分が播磨に対して優位に立てたような気がして、少しだけ嬉しくなってきた。

「でも来夏って、可愛いじゃない」

「ちょっと暴れん坊だけどな」

「アハハ、確かに」

「ただよ、懸命に頑張ろうって奴に、道を用意してやりたい気にはなるな」

「播磨くんって、まるで先生みたい」

「先生? やめろっての」

「どうして」

「俺みたいな頭の悪い先公がいたらおかしいだろ」

「ええ? いい先生になると思うけどな」

「そうかよ。ならお前ェのほうが先生向きじゃねェのか?」


「え? 私?」

「さっきの数学の教え方、上手かったぜ」

「べ、別にそんなんじゃないよ。数学はわりと好きだったから」

「そうなのか」

「うん。だってさ」

「あン?」

「数学って、公式にしたがってやれば、いつか必ず答えが出るでしょう?」

「曖昧な答えもあるぞ」

「わかってるよ。でも、そこには明確な答えがある。だから好きなの」

「ふん」

「人生って、あんまり明確な答えはないし」

「深いな」

「当たり前のことよ」

「そうか」

「そうよ」

 坂道を下り、道路沿いを歩いていると数台の車が通り過ぎる。

 仕事を終えて、家に帰る車だろう。

 紗羽はこの時間帯が好きだ。朝のさわやかな時間も好きだけれど、一日を終えた

気だるい時間もまた、心を落ち着かせる。

「でもさ、来夏を応援したいって気持ち、私もわかるな」


「そうか?」

「私自身は、来夏みたいにやりたいことって、わからないから」

「好きなことはあるだろう」

「好きなこと?」

「馬の世話とか」

「そりゃあ、馬は好きだけど」

 再び数台の車が通り過ぎり。

 よく見るとオープンカーだ。寒くはないのだろうか。

「私ね、前は夢があったの」

「過去形かよ」

「そう、過去形。中学校の時だったんだけど」

「おう」

「騎手になりたかったの」

「騎手って、あの騎手か。競馬の」

「そう、競馬の騎手」

「そりゃ凄ェな」

「でもなれなかった」

「どうして」

「騎手ってさ、まず競馬学校に入らなきゃならないの。それで入学には体重制限が

あるんだけど、中学校卒業した時点で、確か四十四キロだったかな」


「そうなのか」

「うん。私の身長って、中学一年くらいからもう、今くらいあったの。それで、

体重もそれなりにあってさ」

「ふーん、何キロ」

「ええと、五十……って言わないわよ!」

「ははっ、どうして女ってのは体重とか気にするのかね」

「男の播磨くんにはわからないから」

「そうかい」

「でね、まあ……、恥ずかしい話、私制限体重以上だったから」

「……」

「あの、播磨くん」

「何だよ」

「言っとくけど、十五歳女子の平均体重は五十一・四キロだから。私決して、太ってた

わけじゃないのよ」

「ああ、わかってるって。今だって別に太ってねェじゃん。痩せ過ぎてもいない、

いい感じだぞ」

「い、いい感じ? そんな、播磨くんはそんな風に私のこと見てたの?」

「は?」

「バカ、変態、スケベ!」

「おいおい」

「……」


「……」

「ププ」

 思わず吹き出す紗羽。

「ふふははは。冗談よ」

「おい沖田」

「話続けるね」

「そうしてくれ」

「制限体重以上だった私は、ごはんを抜いたり運動したりしてダイエットに

励んだんだけど、結局体調を崩してしまい受験どころじゃなくなったの」

「成長する年頃だしな」

「元々身体の小さな人がやる職業だから、これだけ背が伸びるとやっていられない。

競馬学校に入ってから急に背が伸びて、中退する人も多いっていう話だし、

いずれにせよ無理な願いだったの」

「そいつは……」

「とっても悲しかった。高校入ってからも、しばらく引きずってたくらいに」

「なあ沖田」

「なに?」

「競馬じゃなしに、ばじゅちゅ、ばじゅ」

「フフ、言えてないよ播磨くん」

「ば、馬術だったらどうだ」

「ばじゅちゅ」


「お前ェだって言えてねェじゃんかよ」

「ばじちゅ?」

「ほら」

「あれ? もう、播磨くんのがうつっちゃったじゃないの!」

「馬術」

「馬術、あ、言えた」

「そう、馬術だ」

「馬術がどうしたの?」

「競馬がダメでも、馬術だったらどうだ?」

「馬術かあ。うん。それも考えたんだけど……」

「ああ」

「私、スピード感があるほうが好きなのよね」

「スピード?」

「そう。早いスピードでビューンって駆け抜けていく感じ。それが好きだったの」

「ビューンか」

「そう、ビューンって。ハハハ」

「……」

「ま、夢破れた私の思い出。つまんないでしょ?」

「いや、別にそんな」

「気にしなくていいのよ。もう昔のことだし」


「……」

「播磨くんには、夢ってあるの?」

「夢か、まだ想像できんな」

「来夏や田中には、夢があっていいよね」

「そうだな」

「私にはもう無いものだし」

「これからまた見つけて行きゃいいだろう」

「でも、そんな簡単に諦められるような夢じゃなかったんだよ! 小さいころから憧れてて。

それで……」

「沖田?」

「ごめん。昔のこと思い出したらついね。まだまだダメだな。吹っ切ったつもりだったんだけど」

「……そうか」

 その後、播磨は空気を察したのか、ずっと静かにしていた。

 紗羽は無理やりにでも喋ろうかとも思ったけれど、今喋っても言葉が上滑りするような気が

したので、黙っておくことにする。

 沈黙は気まずい。

 でも、播磨と二人きりでいる時の沈黙は、紗羽にとって心地の良い静かさがあった。




   *




 同じころ、坂井家では父の圭介と娘の和奏が店じまいの準備をしていた。

「お父さん、夕飯の準備してくるね」

 和奏がそう言って台所に行こうとすると、

「ああ、ちょっと待ってくれ」

 父はそれを止めた。

「どうしたの?」

「ああ、実はな。この前沖田さんの夫婦に世話になってね、それで御礼の品を届ける

はずだったんだ」

「そうなの?」

「それで、今日ちょっと届けるの忘れちまったから、和奏。今からこれを届けてくれないか」

「お夕飯は?」

「たまには俺が作るよ」

「うん、わかった」

「気を付けてな」

「わかってる」

 夕方の薄暗くなる時間帯、和奏は菓子折りを持って沖田家へ向かった。

(紗羽の家に行くのって、久しぶり)

 沖田家はお寺なので広い。

 小学校の頃はよく一緒に遊んでいたけれど、中学高校と同じ学校に通いながら、クラスが

別々になり疎遠になってしまったため、ほとんど訪れたことはない。


(サブレ、元気かな)

 もし時間があれば、馬のサブレも見て行こう、などと色々と考えていた。

(ふふ、紗羽ったら。私がいきなり訪ねたら驚くかな)

 そんなことを考えながら、軽い足取りで沖田家に向かう和奏。

 そして、近くに着た時、偶然帰宅中の紗羽を発見した。

「え……」

 声をかけようとしたが、一瞬言葉が詰まる。

「あれ? 和奏」

 紗羽もこちらに気が付いたようだ。

「どうして?」

「いや、これは……」

 紗羽の隣りには、制服姿の播磨がいた。

 仲良く下校している姿。

 確かに、最近の二人は仲が良いと思っていたけれど。

「ご、ごめんね。紗羽。邪魔しちゃったみたいで」

「和奏。別にこれは」

「あ、これ。ウチの親から紗羽のご両親に」

 そう言うと、和奏は手に持っていたお菓子セットを強引に紗羽に渡す。

「じゃ、じゃあ。また明日」

 そう言うと、素早く踵を返し、早足でその場を去った。

(そりゃそうだよね。私なんかより紗羽のほうが魅力的だし)

 余計に悲しくなった和奏は、その場で走り出す。




   *


 まずい。とてもまずい所を見られてしまった。

 先ほど和奏から渡された菓子折りを両手に紗羽は焦った。

「どうしたんだ、アイツ」

 走り去っていく和奏を見ながら播磨は言った。

「この状況を見てわからない? 絶対和奏、変に勘違いしてるよ!」

「勘違い?」

「だって、あの子。播磨くんがウチに下宿していること知らないと思うし」

「そういやそうだな。こりゃまずい。ちょっと、行って説明してくる」

「え?」

「カバン頼むぜ」

 そう言うと、播磨は持っていたカバンをアスファルトの上に落とす。

(誤解を解くために播磨は和奏を追う。でももし、誤解が解けなければ)

 そう思った瞬間、紗羽は播磨のシャツを掴んでいた。

「播磨くん」

「どうした?」

 紗羽の不可解な行動に播磨は戸惑っているようだ。

(もし、和奏がこのまま勘違いしたら、自分は彼と……)

 そこまで考えて、紗羽はそのあまりの愚かさに気が付く。

(そんなことをしても、意味はないか)

 紗羽はそう思い、ゆっくりと掴んだシャツを離した。

「暗くなってるから、車に気を付けて」


「小学生じゃねェんだぞ」

「本当に危ないんだから。和奏にもしものことがあったら」

「わかってる。先、戻っていてくれ」

 そう言うと、播磨は走り出した。

 男の走りなら、すぐに和奏に追いつくだろう。

 でも本当にそれでよかったのか。

 紗羽は家の前でしばらくの間混乱していた。




   *




 勢いで走り出してものの、どこへ行っていいのかわからない和奏は、とにかく

息が続くまで走り続けた。

 そして、気が付けばあまり来たことがない海辺に到着していた。

(波の音……)

 太平洋の波が打ち寄せる音を聞いていると、段々と冷静になっていく。

(私、何てことしちゃったんだろう)

 そして自分のした行為の愚かさについて考えてしまった。

(確かにあの場に居辛かったことは確かだけど、あそこで逃げたら絶対変な女

だと思われちゃう)

 頭を抱えていると、携帯電話が震えた。

 多分紗羽からだろう。


 心配してかけてきたのだ。

「ごめん、紗羽」

 今は電話に出られる気分ではないので、彼女は携帯電話の電源を切った。

「はあ」

 再びため息をつく。

 そしてこれまでの状況を冷静に分析しようと試みる。

(播磨くんと紗羽が一緒に帰っていた。私でも一緒に下校したことないのに)

 今時、男女が二人で歩いていても話題にもならない、などと豪語した和奏だが、

自分の気になる相手が、これまた美少女として名高いな同級生と一緒に歩いて

いたともなれば、何かを考えずにはいられない。

(そりゃあ、紗羽のほうが魅力的だよね。背も高いし、肌もキレイだし。何より胸が)

 和奏はテトラポットに腰掛け、自分の胸を触ってみる。

(男の人って、やっぱり大きいほうがいいのかな)

 そう思うとまたため息が出た。

(紗羽は播磨くんのことどう思ってるのかな。見た目あれだけど、案外頼りになるし。

やっぱり、何か思うところはあるよね)

 同じバイト先で、部活も同じだからいつでも会える。

 それが油断に繋がったのだろうか。

 考えれば考えるほど底なし沼に浸かって行くような感じだ。

「あーん、どうしよう」

 和奏が頭を抱えていると、

「ここにいたのかよ」


「はっ!」

 不意に聞き覚えのある声が耳に飛び込んできた。

「ったく、女だと思って油断してたぜ。お前ェ、走るの早いな」

「播磨くん」

「おう」




   *




 海辺にあるベンチに腰をかけ、和奏は播磨から説明を受けた。

「ええ? ってことは、播磨くんは紗羽と一緒に住んでいるの!?」

「まったく一緒ってわけじゃねェけど、沖田の家に下宿させてもらってる」

「そうなんだ。で、でも凄く問題あるよ」

「いや、お前ェの気持ちもわからんでもねェが、あいつの家は広いしよ」

「お風呂に入ろうとしたら、着替え中で裸の紗羽がいて『ごめん、比呂美』みたいな展開は」

「ねーよ! そんな漫画みたいな展開。いや、しかしアレは……。いやいや、ないない!」

 播磨は語気を強めて否定する。

「本当に?」


「ああ。そういうことにならないよう、色々注意してる。だからお前ェが想像している

ようなことはねェから」

「別に私はその、変な想像なんか……」

「ん?」

(してました、はいすいません。していましたとも)

「だったら、紗羽の部屋に入ったこともない?」

「それもない。つうか、居間や台所以外は入ってねェし、家族のプライバシーは

配慮してるっての」

「……そうなんだ」

「なあ和奏」

「はい」

「んなに心配ならちょっと見に来るか」

「へ?」

「いやな? 変な誤解されたまんまってのは気分悪いし」

「そんな、変な誤解って。もうわかったから」

「来いよ、腹も減ったろう。たくさん走ったから」

「う……」

 次の瞬間、和奏の腹部が盛大に鳴き出す。

「……」

 空腹よりも、猛烈な恥ずかしさで一気に顔が熱くなる。

「はは、やっぱりな。健康な証拠だ」


「もー! 播磨くんったら!」

 あまりにも恥ずかしかったので、拳を握って播磨をポカポカと叩いた。

「わかったわかった。行こうぜ」

 そんな和奏の手を掴み、立ち上がる播磨。

 大きな、とても大きな手だった。

「志保さんには今から連絡してみるわ。ちょっと待ってな」

「志保さんって、紗羽のお母さん?」

「ん? ああ」

 その後、播磨の提案が認められて、和奏は沖田家に行くことになる。




   *

 

 久しぶりに訪れた沖田家は昔と変わらずに温かい家であった。

(ここで播磨くんは暮らしているのか)

 そう思うと、少しだけ胸が高鳴る。

「ただいまッス」

 播磨がそう言うと、Tシャツ姿の紗羽の母、志保が出てきた。

 モデルのような細い脚と豊満な胸は今も健在であった。

「あらおかえりなさい拳児くん。和奏ちゃんも一緒ね」


「ご、ご無沙汰してます」

 和奏は深くお辞儀をする。

「いらっしゃい和奏ちゃん。大きくなったわね。さ、上がって」

「お邪魔します」

 和奏が靴を脱いで家に入ると、

「あ、そうだ。お菓子ありがとうね」

 思い出したように志保は言った。

「いえ、そんな。こちらこそ」

「本当はウチのほうも御礼しなきゃならないのに」

「そうですか?」

「ええ、“ウチの拳児くん”がお世話になって」

「ウチの、ですか」

「ええ。ウチで暮らしている限り、家族みたいなものよ。ね、拳児くん」

「変なこと言わんでくださいよ志保さん」

 焦りながら播磨は言った。

「また、照れちゃって」

「俺、着替えて来るんで」

「カバンは部屋の前に置いておいたわよ」

「ありがとうッス」

「……」

 自分の部屋に向かう播磨の後ろ姿を、和奏はじっと見つめていた。


「どうしたの?」

「ああいや、本当に紗羽の家に住んでるんだなって思って」

「そうよね。気になるわよね。年頃の男女が」

 志保はニヤニヤしながら言う。

「べ、別に変なことは」

「大丈夫、変なところはないからね。安心して」

「安心って」

「ちょっとお母さん、和奏に変なこと言わないでよ!」

「紗羽」

 台所から出てきたのは、白いエプロンドレスを着た紗羽であった。

「あ、いらっしゃい和奏」

「紗羽、料理するの?」

「そりゃあ、もう高校生だし、手伝いくらいしないと」

「今年になってはじめたのよ。何でかしらね」

 笑顔で話す志保は本当に楽しそうだ。

「もう、何言ってるのよお母さん!」
 
「アハハ。紗羽も照れちゃってる」

「……」

 エプロン姿の紗羽もキレイだった。

 こんな姿を播磨は毎日見ているのだろうか。

(だったら、猶更私なんて)

 そう思うと不安になる和奏だった。




   *



 
 少しお邪魔するだけのつもりだったのに、和奏はそのまま夕食もごちそうになって

しまった。

「今日はごめんね。夕食までごちそうになって」

 帰り道、和奏は紗羽と播磨の三人で歩いていた。

 夜遅いので、送ってくれるというのだ。

 和奏のすぐ横に紗羽が歩き、その後ろを見守るように播磨が歩く。

「私がいるから、播磨くんが送り狼になることはないよ」

 そう言って紗羽は腕まくりした。

「ならねェよ」

 播磨は疲れたように言う。

「アハハ、仲いいね。二人とも」

「別に、そこまで仲いいわけじゃないからね」

 少し照れながら目を逸らす紗羽。とても可愛い。

「今日はありがとう。ごはんも美味しかったよ」

「そう?」

「いつも紗羽が用意してるの?」

「いや、ほとんどやってないよ。今日だって、少し手伝った程度だし」

「そうなんだ」

「坂井の家は、いつも和奏がやってるよな」

 後ろで播磨が言った。


「そうなの?」

「いや、ウチはお母さんいないし。お父さんも仕事があるから」

「そうだよね。ごめんね」

「いや、いいよ」

「そういえば、播磨くんが和奏の所でお夕飯食べてる時も、和奏が作ってるんだよね」

「そ、そうだね。でも別に、そんな大したもの作ってないし」

 本当は、時々料理の本を買って読んでいるのだがそれは秘密だ。

「うめェぞ。和奏(コイツ)のメシは」

「そうなんだ……」

 紗羽は複雑そうな表情で答える。

「ま、料理は圭介さんのほうが上手いけどな」

「ちょっと播磨くん」

 和奏は振り向いた。

「おう」

「そんなこと言うんだったら、もう作ってあげない」

「悪かったよ」


「アハハ」

 楽しい。

 いつになく楽しい時間だ。

 でも紗羽と播磨が一緒にいる姿を見るのは、心が痛かった。







「ただいま」

 家に帰ると、父は一人でいじけていた。

「お前はいいよな、和奏。沖田さんのところで夕食」

「ご、ごめんお父さん」

「別にいいけどな。美味しい夕食作って待ってたのによ」

「ごめんなさい」

 父、圭介の姿を見ても、なぜかそれほど心は痛まなかった。




   つづく






 第十四話 プロローグ


 新生ボランティア部は順調に活動していた。

 といっても、日常的には歌の練習ばかりしていたのだが。

 これでは不味い、ということで日曜日には公園のゴミ拾いなどをすることになった。

「ったくよ、何でこんなことを」

 麦わら帽子を被った播磨は、愚痴をこぼしながらそう言った。

「休眠クラブの中からボランティア部を選んだのは播磨くんでしょうが。ほら、キリキリ働く」

 やたら麦わら帽子が似合うTシャツ姿の来夏は、軍手にゴミ袋を持ってゴミを集めていた。

 日差しが強い。

 風はまだ冷たいけれど、太陽の光だけは眩しかった。

「もうすっかり夏だね、播磨くん」

 タオルで額を拭いながら来夏は言う。

「まだ梅雨があるじゃねェか」

 夏の前に、鬱陶しい雨の季節がある。

「うげっ、そういえばそうだったな。梅雨なんてなくなればいいのに」

「梅雨がねェと水不足になるだろうがよ」

「そりゃそうだけど」

「おいお前ら、話してないでさっさとゴミをあつめろよ」

 樋廻とゴミ袋を持った大智が言った。

 こういうところで彼は真面目である。

「わかってるって。大智こそ、ちゃんと集めてる?」

「集めてるよ」

「ウィーンは?」

 来夏がそう聞くと、件のウィーンが出てきた。

「見て見てタイチ! ほら、ブルーアイズホワイトドラゴンのカードが落ちてたよ!」

「こら、ウィーン! まじめにやれ!」

 こうして、休日のボランティア部の活動時間は過ぎていくのであった。





           TARI TARI RUMBLE!


  第十四話 私は歌で感動を表現したい!! だって私は!!



 播磨たちが部活動をはじめてから約一ヶ月。

 ついに初めての公演をすることいになった。

 担任の高橋教諭や紗羽の母、志保などから紹介された結果、特別養護老人ホーム

矢神苑でライブを実施することになったのだ。

 といっても、単独ではなく商店街のアマチュアジャズバンドの「前座」としての出演だ。

 曲も三曲しか歌えないけれど、デビューの場としては最適だろう。

 梅雨もはじまり、雲行きの悪い天気が続く中、播磨を含む新生ボランティア部(実質合唱部)

は、会場となる老人ホームへと向かう。

「部長の宮本です。今日はよろしくお願いします」

 前座をさせてもらう、商店街のバンドメンバーに深々とお辞儀をする来夏。

 こいつも礼儀正しい言葉づかいもできるのか、と播磨は少しだけ感心した。

「いやあ、今日はよろしくねお嬢ちゃんたち。ワシらみたいなオッサンだと華やかさに欠けるからねえ」

 白髪交じりの頭に髭を生やした男性が言った。

 この人は確か精肉店の店長だ。

 禿げ頭を帽子で隠しているのは、八百屋の親父で、やたら背が高いのは魚屋の主人である。

 この人たちは、店を奥さんや息子に任せて、こうして老人ホームや養護施設などを訪問しているという。

「うおお。何か緊張してきたな」

 大智は少し震えていた。

「大丈夫だよタイチ。バドミントンの試合だと思えば」

「バドミントンの試合よりも緊張する」

「和奏は大丈夫?」

 と、来夏は聞いた。


「うん。ここのピアノ、使いやすいし大丈夫だよ」

 和奏は答える。彼女が伴奏担当なのでピアノのコンディションにも気をつかっている。

 もし、現場にピアノが無かった場合、重たいキーボードを持ってこなければならない。

 その際、播磨や田中など、男性陣が頑張ることは言うまでもないだろう。

「白浜坂高校の皆さん、そろそろお願いします」

 ピンク色のパーカーのような制服を着た職員の人がそう言って呼びに来た。

「ようし、やろう」

 来夏は気合い十分である。

 会場の広い部屋に行くと、たくさんのお年寄りこちらを見ていた。

 代表で挨拶をするのは、来夏ではなく紗羽であった。

 今朝、じゃんけんで決めたのだ。

「皆さん、おはようございます。あ、今は昼か」

 人前で喋るのは誰でも緊張する。

 それは紗羽とて例外ではない。

「西之端商店街バンドの演奏の前に、私たち、白浜坂高校ボランティア部の歌をお聞きください」

 そう言うと、一斉に拍手が起こった。

「……」

 ちゃんとしたステージではなかったが、たくさんの人たちが見ている場所は本当に緊張する。

 そして、演奏が始まった。

 最初は女性陣二人による、滝廉太郎作曲の『花』だ。


 高音が多い曲なので、男性陣は歌わない。

 主役はもちろん、来夏と紗羽。

 和奏による伴奏がはじまる。

 弥が上にも緊張感が高まる。

 その時だった。

「ん?」

「あ……」

 来夏の様子がおかしい。

(宮本?)

 歌い出しのところで来夏の声が出ていない。

「来夏?」

 隣にいた紗羽も、すぐに彼女の様子に気が付いたようだ。

「ん、どうしたべえ」

「何だ?」

 ざわつく会場。

「宮本! どうした」

 播磨は来夏に駆け寄る。

「ご、ごめん」

 辛うじて出てきた彼女の声がかすれている。

「宮本……」

 来夏の顔は、文字通り顔面蒼白であった。




   *




播磨はかつて、教頭の高倉直子の言われた言葉を思い出す。

(宮本来夏のもつ重大な欠点)

「これだったのか……」

 今川焼き屋でふさぎ込む来夏の姿を見て、その答えがわかった。

 人前に出て緊張すると声が上手く出なくなる。

 俗に言うあがり症というやつだ。しかも来夏のそれは極端ものであった。

 リハーサルでは完璧に歌った彼女だが、本番になるとほとんど声が出なくなる。

 一年前の失敗も、そこから来ているのだろう。

 彼女は上手く、それもかなり上手く隠していたので周りもそこに気づかなかった。

「来夏……」

「……」

 親友の紗羽もどう声をかけていいのかわからなかったようだ。

 時計を見ると、時間はすでに午後五時を回っていた。

「沖田」

「え? なに」

 心配そうに寄り添っている紗羽に播磨は声をかける。

「お前ェは先に帰ってろ」

「でも」

「来夏(こいつ)は俺が送ってく」

「私も行く」

 そう言ったのは和奏だった。

「この子の家と、近いから」

「わかった。行くか」

「……」

 記念すべき初ステージの日は、まるでお通夜のように湿っぽくなってしまった。




   *


 夕闇に染まり始める街の中を、来夏と播磨、それに和奏の三人が歩く。

「気にしないで、来夏」

「……」

 来夏は一切喋らない。

 こんなにも沈みこんだ彼女を見るのはじめてだ。

 というか、職員室であの教頭を前にテロを慣行をしようとした生徒と同じ人物とは

とても思えない。

「……播磨くん」

 やっと落ち着いてきたのか、蚊の鳴くような声で来夏は言った。

「おう」

 播磨は、できるだけ元気よく返事をする。

 元気のない相手に、元気のない返事をすれば、それだけ気分が沈んでしまうからだ。

「今まで黙ってて、ゴメン」

「いや、別に」

「あれから一年経って、ずっと練習していたから克服したと思っていたけど、やっぱり

ダメだったなあ」

「元気出して来夏。私だって、緊張して声が出なくなることってあるから」

 フォローするように和奏は言ったが、あまり効果はなさそうだ。

「ごめんね和奏も。無理言って参加してもらったのに」

「全然気にしてないよ」

「本当は皆にも謝らないといけないよね。ウィーンにも、大智にも、紗羽にも……」

「ふん……」


 力のない足取り、そして力のない声。

 彼女はコンクールで無様な失態をしてから一年、密かに練習をしていた。

 部活を止めてからも身体を鍛え、声を出して練習してきた。

 しかし、欠点は克服されないまま、この日再び失態を演じてしまったのだ。

「今日はありがとう。皆には、また明日謝っておくから」

「おう」

「じゃあね、来夏」

 力の無い笑顔で手を振って、来夏は家に戻って行った。

「……」

 無機質なドアの閉まる音が響く。

「帰るか」

「うん」

 海沿いの道を播磨と和奏は並んで歩く。

 とても談笑するような雰囲気ではない。

「なあ和奏」

「なに?」

「お前ェはどういう時に緊張する?」

「き、緊張って。どうかな。小さいころにピアノの発表会に出た時は確かに緊張したけど」

「けど?」

「でも演奏が始まったら必死で、緊張どころじゃなかったと思う」


「そうか」

「それに、緊張するって悪いことばかりじゃないと思うし」

「どうして」

「緊張するから頑張れるっていうか、ダラダラしないっていうか」

「そうかもな。緊張感は大事だよな」

「来夏がああやって、いつも笑ったり大きな声を出したり、元気でいるのは、

緊張と戦うためだったのかな」

「そうかもしれねェ」

「でもどうしよう」

「ん?」

「このままじゃあ、活動ができないし」

「そうだな」

「来夏がこのままで終わるのは、可哀想」

「可哀想、か」

「私自身、音楽科を二年で挫折した身だから。来夏には最後までやって欲しいなって思う」

「挫折?」

「そうだよ。私、才能ないし。音楽科での二年間は、皆についていくのがやっとだった。

でも、結局それもかなわず」

「なあ和奏」

「え?」

「お前ェのやりたいことって、なんだ?」

「やりたいことって」

 和奏は中空を見て考える。

「特に思いつかないな。今は、普通科の授業についていくのがやっとだし」

「そうか」

「どうしたの? 急に」

「いや、何でもねェ」

 播磨は和奏を家に送ってから自分の下宿先に帰る途中、ずっと来夏のことを考えていた。

(好きなことをやれねェつうのは、想像できねェが、辛いだろうな)




   *



 翌日の学校。

 来夏は休むかとも思ったが、普通に登校していた。

 まずは一安心と言ったところか。

 播磨は口には出さなかったけれど、そう思っていた。

「おはよ皆」

 彼女は笑顔だった。

「お、おはよう。大丈夫?」

 この中では一番仲の良い紗羽が来夏に近づき、顔を確認する。

「大丈夫だよ、エヘヘ。本当にゴメン」

 来夏は笑っていたけれど、その笑顔に力が無かったのは誰の目にも明らかだった。

「なあ、大智」

「ん? どうした」

 播磨は近くにいる大智に話しかける。

「もしお前ェが、バドミントンやれなくなったらどう思う?」

「は? どういうことだよ」

「いや、だからよ。例えば、怪我とか病気とかでバドミントンができなくなることって、

あるだろう?」

「ん、それは」

「スポーツ選手ならよくあることだと思うが、お前ェはそんな時どうする」

「俺は――」

 軽い気持ちで投げかけた質問だったが、受けたほうの大智は真剣に悩む。


「俺は、どんな状況でもバドミントンは諦めたくないな」

「そうか?」

「ああ、例え右手でラケットが握れなくなったとしても、まだ左手がある。

足が動かなくなっても、動くようになるまでリハビリをする」

「でもそれじゃあ、オリンピックとかには出られねェんじゃないか」

「確かにな。今より上を目指すってことはできなくなるかもしれん」

「……」

「だけどさ、その程度で断ち切れるほど俺のバドミントンに対する思いは弱くないぜ」

「……大智」

「なんだ」

「お前ェ、カッコイイな」

「よせよ、気持ち悪い」

「それでシスコンじゃなけりゃ、女にもモテるのに」

「俺はシスコンじゃねえ!」

 そんな二人の会話を聞きつけてウィーンがやってきた。

「何々、二人とも何を話しているの? シスコンの話?」

「シスコンの話なんてしてねえ!」

「タイチ、正直になりなよ」

「だから違うって」

 ウィーンの相手は大智に任せ、播磨は再び来夏に視線を戻した。

 力の無い笑みが消えると、ふと暗い表情が垣間見えた。





   * 


 昼休み。

 教室に来夏の姿が見えないので、播磨は例の場所へ向かう。

 だいたい想像はつく。

 彼女が悩んでいるときは、いつもあそこにいるはずだ。

「いるんだろ」

 播磨は木の上を見上げる。

 案の定、そこに人影が。

「あんまり見ないで」

 夏の木漏れ日を背中から浴びた来夏の姿は、少しだけ幻想的に見えた。

「初めて会った時もそうだったが、お前ェは悩みがあるとここに来るんだな」

「別に、そんなんじゃないし」

「そうかい。心配してきてやった部活仲間にそりゃねェだろ」

「そう。心配してくれて、ありがとう」

「今日はやけに素直だな」

「私はいつだって素直だよ」

「そうか。とりあえず降りろ」

「……ん」

 来夏は答える代わりに、両手を広げて見せた。

「ったく、しょうがねェ。来いや!」

 播磨はその場に踏ん張った。


 バッと飛び下りる来夏を両手でしっかり受け止めると、素早く脚に左手を回して横抱き、

俗に言うお姫様抱っこの状態にしてから、クルリと一回転してその場に来夏を立たせた。

「おおー」

 偶然周りを通りかかった生徒たちが拍手する。

 確かに、ちょっと曲芸っぽかったなと播磨は思う。

「恥ずかしい」

 耳まで真っ赤にした来夏が言った。

「うるせェ、衝撃を殺す必要があったんだよ」

「さっさと移動しよう」

「おう」

 二人はその場を移動して、ボランティア部の部室に向かった。




   *



 誰もいないボランティア部の部室で、播磨は窓をあける。

 昨夜雨が降ったせいなのか、風は湿っぽく感じた。

「これ、飲むか?」

 そう言って缶コーヒーを渡す。

 冷たいやつだ。

「ありがとう」

 来夏は特に銘柄も見ずに受け取った。

(どうにも調子狂うな)

 大人しい来夏はまるで別人のようだ。

 ここまで落ち込んだ姿を見たのは初めてかもしれない。

「なあ、宮本」

「なに」

「ここ、やめるか」

「え?」

「だからよ、もうやめるか。ボランティア部も」

「ちょっと待ってよ。まだ始めたばっかりだよ。一ヶ月しか経ってないし」

「でも肝心のお前ェがこれじゃあ、どうにもならねェだろうが」

「それは……。折角皆集まったのに」

「その折角集まった連中に迷惑かけてんだぜ、お前ェ」

「わかってるよ」


「このままゴミ拾い部で終らせるつもりか」

「そんなの、ダメだよ」

「だったら」

「播磨くんには」

「あン?」

「播磨くんにはわからないよね。大好きなことができないって苦しみ」

「……お前ェ」

 この時、播磨は初めて来夏のことで苛立った。

 今までどんなわがままも思いつきも許容してきた彼だが、この日は違った。

「……」

「宮本」

「……」

「俺にはわかんねェよ」

「え?」

「わかんねェっつってんだろ! 本気で好きなら地を這いつくばったって、警察に

追われたってやってやるよ! それが好きってもんだろうが!」

「私だって……私だっていろいろやってたんだもん! それでも……! それでも」

「宮本……」

「は……、は……」

「は?」

「播磨くんのバカ! ハゲ! ヒゲ! 童貞! オタンコナス!!」

 そう叫ぶと来夏は立ち上がり、部室から走り出していった。

「……童貞って」

 播磨は来夏の言葉に少なからずショックを受けるのだった。




   *



 その夜、播磨は夕食の後に居間でとある本を読んでいた。

 そこに風呂上りの紗羽が入ってきた。

「お風呂あいたよー。あれ? 播磨くん、何読んでるの? 読書なんて珍しい。しかも

そんな分厚い本」

「家庭の医学」

 まるで六法全書のように分厚い本を彼はペラペラとめくっている。

「どこか悪いの?」

「俺が悪いってわけじゃねェが。宮本のことだ」

「来夏?」

「あいつが歌うことができない理由って、なんか病気的なものがあるんじゃねェかと思ってよ」

「そうなんだ。それで、何かわかった?」

「わからん」

 そう言うと播磨は本を置いて顔をあげた。

「字が小さすぎて目が痛ェ」

「情けない」

「うるせェ。慣れてねェんだよ」

「ちょっと見せて」

 紗羽は播磨の隣りに座る。

「おい、待てよ」

「ちょっとだけ。ええと、何? 統合失調症? これは違うんじゃないかな」


「邪魔すんなって」

「いいじゃないのよ、少し見るだけなんだから」

 そう言いながら紗羽は、本のページをめくった。

「おい、ちょっと近いぞ沖田」

「だったら横に寄ってよ。うち、そんなに狭くないんだから」

「いや、だから俺が見てるって」

(シャンプーの匂いか)

 ドライヤーをかけてもまだ微かに乾ききっていない髪の毛、そしてお湯で

火照った肌は、未だ童貞の播磨には刺激の強いものであった。

(い、いかん)

「播磨くん、もうちょっと寄ってよ」

「お前ェが寄れよ」

「あ、これなんかそうじゃない?」

「ん? なんだ」

「いや、だからこれ。PTSD?」

(沖田のやつ、意外と胸が……)

「そうそう、これよこれ」

「いや、でもよ――」

 一瞬、何かの気配を感じて顔を上げた時、播磨の動きが止まった。

「どうしたの?」


 そう聞いてきた紗羽の動きも止まる。

「……」

 気が付くとそこには、お盆と皿の上に切ったスイカを乗せた志保がニヤニヤしながら

立っていたのだ。

「……っ!」

 一瞬で播磨との距離を離す紗羽。

 そして播磨は、

「いや、これはですね。別に何もないッスよ」

 なぜか言い訳をした。

「別に私なんか気にせず、続きをやってもよかったのよ」

 志保のニヤニヤは止まらない。

「だから、別に何もないんッスよ。なあ、沖田」

「知らない」

 いつの間にか、テーブルの斜め向かい側まで移動していた紗羽は、そう言って顔を背けた。


 

   *


 シャクシャクと、スイカを頬張る音が居間に響く。

 テレビをつけていなかったので、余計に音が響くのだ。

 播磨たちは、家庭の医学を一旦脇に置き、志保が用意してくれたスイカを食べていた。

 今年はじめて食べたスイカだが、甘味はそれほどでもなかった。

「ウメェな、スイカ」

 特に何も言うことがなかった播磨はそう言った。

「ちょっと水っぽいかも」

 テーブルの斜め向かい側、つまり播磨から一番遠くの場所に座った紗羽は、

目を合わすことなくつぶやく。

「贅沢言うなよ」

 結局紗羽のほうが播磨よりも多くのスイカを食べていたのだが。

 それはともかく、スイカを食べ終わった播磨は紗羽に質問をする。

「なあ、沖田」

「何?」

「宮本の苦手なものって、何かある?」

「え、来夏の? 苦手な物?」

「ああ」

「教頭先生」

「それ以外で」

「うーん、それ以外かあ」

 紗羽は少しだけ考えて、


「そういえば、あの子高いところが苦手だったな」

「高いところ?」

「うん。遊園地でも、ジェットコースターとか乗ったことなかったし」

「それは身長が足りないからじゃねェのか」

「あんた、意外と失礼ね」

「失敬」

「観覧者とかも、わりと嫌がってたな。そうそう、東京タワーに行ったとき、来夏だけ展望台に

登らなかったっけ」

「そうなのか?」

「そうよ。どうしたの?」

「いや、あいつ」

 初めて播磨とあったとき、彼女は木の上にいた。

 そこまで高くはなかったけれど、あの木の枝は建物の二階くらいの高さはあっただろう。

 高いところが苦手な人間は、あんな場所にはいないはずだ。

(だとしたらなぜ)

「なあ、沖田」

「ん?」

「苦手なものを克服するって、どうしたらいいと思う?」

「え? 克服?」

「ああ」

「そうねえ」


 紗羽は少しだけ播磨の顔を見てから、再び視線を逸らした。

「少しずつ慣らすとか」

「ん?」

「だから、お風呂で言ったら温めのお湯から入って段々熱くしていくみたいな」

「なるほどな」

「どうしたの?」

「あいつの考えてること、少しわかったかもしれん」

「あいつ? わかった? どういうこと」

 紗羽は播磨の言動がすぐには理解できないでいた。

 彼はすべてを説明していないので、無理もないことだ。

(苦手を克服していくことで、心を鍛えようとした。たぶんそんなところだろう。

回りくどい真似しやがって)

 播磨は立ち上がると、お盆を持って台所に向かった。

 台所では、志保が洗い物をしている。

「あの、志保さん」

「あら拳児くん。どうしたの?」

「スイカ、美味しかったッス。ありがとうございます。これ、お盆と皮」

「ああ、いいのよ。たくさんもらってどうしようかと思ってたところだから。何ならもっと

もらってくるわ」

「まあ、ほどほどに。それより」

「ん?」

「志保さんの知り合いに、こう、ぶっ飛んだ人いないッスかね」

「……え?」




   *




 数日後、この日は梅雨時期にも関わらず珍しい晴れの日。

 しかし、そんな珍しくさわやかな日にも関わらず来夏の心は沈んでいた。

 ここ数日、まともに練習もしていない。

 それどころか、高校入学以来欠かさず行ってきた自主練習もできないでいたのだ。

 このままではまずい。そう思っていても、どうしていいのかわからない。

 教室に行くと、見知った顔が見える。

「おはよう、紗羽」

 心配をかけないよう、できるだけ元気に挨拶しようとする来夏。

「お、おはよ」

 しかし親友の紗羽は、ぎこちない挨拶で返した。

 最近はずっとこんな感じだ。

「おはよう、大智」

 大智にも挨拶してみる。

「ああ、今日は体調いいのか?」

 と、彼は聞いた。

「いいよ。どうして?」

「いや、何でもない」

 そう言うと、大智は逃げるようにその場からいなくなった。

 来夏は自分が避けられているような気持になった。

(いや、気のせいなんかじゃなく、本当に避けられている?)


 授業中も、その合間の話題でも紗羽や和奏はまともに目を合わせず、何だか

腫物にでも触るような感じで来夏と接してきた。

(どうしよう、このままじゃあ本当に部活が崩壊しちゃうんじゃ)

 そんなことになったら、部活設立に尽力した播磨に申し訳ない。

 そう思ったけれど、当の播磨とはあの昼休みの一件、つまりキツイことを言われて

来夏がキレた出来事以来、まともに口をきいていないのである。

(播磨くんに謝って、もう一度部員を集めてもらうか。いや、ダメだ。肝心の私自身が

どうにもならない状況で、そんなことをしても)

 来夏は心ここ非ず、という感じでその日の授業を受けていた。

 そしてチャイムが鳴る。

(部活に行こうか。行っても何もできないかもしれない。でも行かなきゃ、状況は)

 来夏が教室内で自分の荷物を片付けながら逡巡していると、自分の席の前に人が立った。

「ん?」

 一際大きな人影は、間違いなく播磨拳児だ。

「……播磨くん?」

「宮本、俺と一緒にこい」

「え、ちょっと」

 そう言うと、彼は来夏の細い手首を強引に引っ張る。

「え? なにこれ」

 訳も分からず混乱していると、目の前に紗羽と和奏が出てくる。

「沖田、和奏。俺と宮本の荷物を頼む」

 播磨は二人にそう言うと、カバンを預ける。


「了解だよ、播磨くん」

「気を付けて」

 二人は笑顔でそう言うと、カバンを受け取った。

「え? 何それ。どうして?」

「拳児!」

 教室を出る直前に、大智が声を出す。

「これ、使えよ! 自転車置き場三列目の一番右端にとめてある」

 そう言うと大智は何か小さいものを投げてよこした。

「サンキューな、大智」

 それは自転車の鍵だ。

「よし、行くぞ」

「は? なに?」

「時間がない」

「ええ?」

 訳も分からず引っ張られる来夏。

 とにかく外に出なければならないようだ。

 滑るように階段を下りると、昇降口で外靴に履きかえて自転車置き場へ。

 そこで大智の自転車に乗った播磨は、荷台に来夏を乗せた。

「ふ、二人乗りは法律違反だよ播磨くん」

「構わん、緊急事態だ。よくつかまってろ」

 そう言うと、播磨は全力でこぎはじめる。


「うわあああ!!」

 あまりに揺れるので、来夏は播磨の背中にしがみついた。

 弟と比べて明らかに肉厚でガッチリとした身体に少し戸惑いつつも、不思議と

安心する来夏。

(男の人のにおい)

 そう考えると顔が熱くなってくる。

「がんばれー!!」

 昇降口ではウィーンが叫んでいた。

(何をどう頑張ればいいのよ)

 この先どうなるのか、さっぱりわからない状況で来夏は、自転車に乗せられて進む。

「宮本」

 自転車をこぎながら播磨が話しかけた。

「……なに?」

 来夏は辛うじて返事をする。

「人間は鳥じゃねェ。だから一人では飛べねェ」

「そんなの――」

 当たり前じゃない、と思ったけれど、なぜか言葉が止まる。

「だが皆が力を合わせりゃ、宇宙にだって行ける」

(宇宙?)

 学校の坂を下り、海沿いを走る。

 潮風を感じる余裕はなかった。

 不安、戸惑い。色々あったけれど、走っているうちに少しずつ頭の中が冷めてくる。





   *

 

「ここだ」

 播磨が自転車を止めた場所。そこは海辺によくある小さな港。

 たくさんのクルーザーやヨットが並んでいる。

「おーい、こっちだよー!」

 誰かが来夏たちを呼んでいる。

 聞き覚えのある声だと思っていたら、それは紗羽の母親、沖田志保であった。

「紗羽の、お母さん?」

 意外な人物の登場に戸惑う来夏。

「や、来夏ちゃん。久しぶりね」

「どうも、ご無沙汰してます」

「さ、挨拶は後にして、早く乗って」

「へ?」

「このライフジャケットはちゃんとつけてね」

 紗羽はライフジャケットを着せられて、小型のクルーザーに乗った。

「二人とも、携帯電話とか財布とか、貴重品はこの袋の中に入れて。濡れたら大変だし」

 そう言って、志保は貴重品を集めると来夏と播磨の二人を船に乗せる。

「じゃ、真田ちゃん行っちゃって」

「了解!」

 真田と呼ばれた青年は勢いよく返事をして船を発進させた。

 船を操縦している青年の他、顔もよく知らない数人の若者が同じ船に同乗している。


「うわあ」

「気を付けてね」

「しっかりつかまってろよ」

 播磨は来夏に注意を促す。

(何だろうな。不安だけど、不安だけど)

 播磨と一緒にいると、不思議と安心する。

「あのお! 志保さん! 一体何をするんですかあ!?」

 エンジンと風の音がうるさいので、大きな声で話さなければいけない。

「なあに? 聞いてなかったの!?」

 負けずに志保も大声で返す。

「はい! 聞いていません!!」

「空を飛ぶのよ!」

「へ?」 

「お・そ・ら!!」

 そう言うと志保は人差し指を上に向ける。

「空?」

 空は青く、微かに雲が見える程度。

 とても気持ちがいい。

「播磨くん! 一体どういうこと!?」

「パラセーリングって知ってるか」

「え?」


「パラセーリング!」

「観光地とかでやる、あの船にパラシュートをつけて、空を飛ぶやつ?」

「そうだ!」

 来夏は観光地のPRビデオを思い出す。

 スピードのある船に、パラシュートを紐でつなげ、そこに人を乗せて飛ばす。

「無理無理無理無理無理!!!!」

 来夏は手首が腱鞘炎になりそうなほど、素早く手を横に振る。

「無理だって!」

「大丈夫、ここのスタッフはしっかりしている! ……らしい」

「らしいって何よ! 今“らしい”って言ったよね!」

「大丈夫だ!」

「何が大丈夫なのよ!!」

 その時、

「志保さあん! ポイント近くです!」

 乗船していた若者の一人が叫ぶ。

「OK! じゃあ、二人とも準備して」

「は?」

 なぜか播磨が驚いた顔をしている。

「俺もッスか!?」

「当たり前よ、これ二人用なんだから!」

「いや、聞いてないッスけど」


「女の子を一人で行かす気? しょうがない子ねえ!」

「いや、その」

「準備って、何するんですか!?」

 来夏は聞いた。

「まず、靴を脱ぎなさい! 海に落ちたらもう拾えないから!!」

「靴!?」

 気が付くと、船尾にパラシュートが拡げられていた。

 赤青白緑と、カラフルな色のパラシュートが夕陽に照らされてキレイだった。

「宮本さん! 播磨くん! 注意点があります! しっかり聞いていてください!」

 日焼けした若者の一人がそう言って、二人に安全教育をする。

 ただ、緊張のあまり来夏の頭にはあまり入らなかったようだ。

「さあ、早く! ある意味絶好のポイントよ!!」

 船の青年たちは慣れているらしく、素早く播磨と来夏の二人をパラシュートに固定させた。

「ちょっと待ってください! これって、高いところに上がるんですよね!」

 わかりきったことだが、聞かずにはいられない。

「そうよ!」

 志保は答えた。

「降りたいんですけど!」

「キャンセルきかないわよ! シーズン前のお試し期間だから、特別に無料でやって

もらってんだから!」

「いや、でも! 私。高いところは」

「覚悟決めなさい! あなたの隣りには誰がいるの!?」


「へ?」

 来夏は横を見る。

 右側には、播磨拳児が緊張した面持ちでパラシュートに繋がれていた。

 その表情を見ると、何だかおかしくなってきた。

「志保さん! そろそろ!」

 青年の一人が手を上げる。

「じゃあ、行くわよ二人とも。準備はいい?」

「あ、いや……」

 来夏は隣の播磨を見る。

「どうした!」

 播磨は聞いた。

「播磨くん、手を」

「ん?」

「手を握ってほしい」

「はあ!? 聞こえねえぞ!」

「手を握ってほしいの! 何度も言わせるなバカ!!」

「なんだよ、そんなことかよ!」

 そう言うと、播磨は左手を差し出す。

「手を出せ!」

「うん!」

 来夏は頷いて、右手を出した。


 初めて握る播磨の手は、大きくてゴツゴツしていて、そして温もりがあった。

「行くわよ二人ともー! 3、2、1、ゴー!!!」

 ロープがリリースされ、一気にパラシュートが浮き上がる。

 身体がふわりと浮く、変な気持ちになると、来夏は思わず目をつぶってしまった。

(怖い!)

 恐怖のあまり身体が固まる。

 顎を引き、歯を食いしばって目を閉じた。

 闇の中で、次第に遠ざかって行くと船のエンジン音と鼓膜にぶつかる風の音が響く。

 あまりの怖さに来夏は、右手で握っている播磨の手を握り込んだ。

 すると、播磨のほうも微かだが優しく握り返す。

(播磨くん……)

 目には見えないけれど、確実に彼はここにいる。

「宮本おお!!」

 播磨の声が聞こえた。

「すげェぞ!!」

 その声に促されるように、来夏はゆっくりと目を開ける。

 激しい風が顔に当たって、すぐには目が開かなかったけれど、次第にその状況に

慣れていくにつれ、今まで見慣れた街がまったく違う表情で彼女を迎えた。

(キレイ……)

 夕陽に染まる街を空から見たのは、恐らくはじめてだろう。

 視界を反対に向けると、そこにはどこまでも続く海。


 高いところに来ても先は見えない。ずっと続く水平線だ。

 恐怖は感じなかった。

 あまりの高さに目の前に広がる世界が、ある意味リアリティを失っていたからかもしれない。
 
「凄い……」

 彼女はつぶやくように言葉を発する。

 しかしその声は、すぐに激しい風にかき消された。

「凄い!!!」

 今度は風に負けないように、大きな声で叫んだ。

「ああ、凄いな!」

 隣の播磨が返事をする。

「播磨くん!!」

「どうしたあ!!」

「私、この感動をみんなに伝えたい!!」

「そうだな!」

 文章が上手い人は文章で表現するだろう。

 絵が上手い人は絵を描くかもしれない。

「私には歌!!」

「なに!?」

「私は歌で感動を表現したい!! だって私は!!」


 歌が好きだから――




   *



 次の日曜日、彼女たちは再び件の老人ホーム、矢神苑に来ていた。

 情けない失敗の記憶がまだ生々しい会場で、宮本来夏は再起を誓う。

「本当にこのやり方でいいの?」

 心配そうに紗羽は聞いてくる。

「うん、大丈夫」

 控室代わりの部屋で、彼女たち六人は集まってステージ最後の打ち合わせ。

「みんな、頼みがあるんだけど」

 来夏は立ち上がって言った。

「なんだよ、改まって」

 と大智は言う。

「みんな、手をつなごう」

 そう言って両手を広げる。

「お願い」

 戸惑う他のメンバーだったけれど、来夏の真剣な表情を見て各々手を繋ぎ始める。

「播磨くんも」

 紗羽と手を繋いだ来夏は播磨を呼んだ。

「仕方ねェなあ」

 播磨はそう言いつつ来夏の左手を握り、隣にいた大智と手を繋いぐ。

 手を繋いで輪になった六人は息をととのえた。

(私は一人じゃない)


 来夏は心の中でそうつぶやくと、両手を強めに握る。

 紗羽は驚いたようだが、同じように握り返す。播磨もまた同様だ。

「白校(しろこう)ファイ! 行くぞ!」

 体育会系のような掛け声をかけてから、彼らは会場へと向かう。

 明るい部屋では、前と同じようにお年寄りが多数集まっている。

 緊張の瞬間。

 でも逃げるわけにはいかない。

 来夏は前を見据えた。

 この日の歌は、来夏がソロパートからはじまる曲を選んでいたのだ。

 紗羽が心配するのも無理はない。

 ふと、来夏は後ろを見た。

「……」

 誰一人として不安そうな表情は見せていない。

(任せて)

 怖くないと言えばウソになるけれど、前に進みたいという気持ちだけはあった。

 来夏は大きく息を吸う。


 歌い出しは伴奏なしのアカペラ、ソロパート。

 来夏は大きく息を吸った。

 静まり返る会場。

 咳き込む音すらしない。




 今 私の願いごとが

 叶うならば

 翼がほしい


 この背中に

 鳥のような

 白い翼

 つけてください



 この大空に翼をひろげ

 飛んで行きたいよ


 悲しみのない

 自由な空へ

 翼はためかせ

 
 行きたい



 歌いきったところで大きな拍手が起こる。

 そして歓声。

 それに合わせるように、和奏の伴奏と大智や紗羽のコーラスが加わった。

 伴奏が入ったことで一気にテンポが入ってきて、しっとりとした雰囲気から一気に

明るい空気へと変わる。

 それはまるで、朝から昼間に移行していく空のように。



 子どもの時
 
 夢見たこと


 今も同じ

 夢に見ている


 この大空に

 翼を広げ

 飛んで行きたいよ

 悲しみのない

 自由な空へ

 翼はためかせ



 この大空に

 翼を広げ

 飛んで行きたいよ

 悲しみのない

 自由な空へ

 翼はためかせ



 行きたい


 



   つづく


 

   『翼をください』(1971年)

  作詞/山上路夫 作曲/村井邦彦

ちょっと長かったけど、来夏スペシャル、いかがだったでしょうか。次回は期末テストです。


 
 第十五話 プロローグ


 六月の半ばから七月の初めごろにかけて、雨の多く降る時期を一般的に「梅雨」と呼ぶ。

 この時期は湿度が高く気圧が低いので全体的に憂鬱になりがちだ。

 しかし、それ以上に高校生を憂鬱にさせるイヴェントがある。

 そう、期末試験。

 これを乗り越えないことには、幸せな夏休みはやってこない。

 当然ながら、あまり成績のよくない播磨は苦労することになる。

「本当、テストとかめんどくさいよおー。早く歌いたいのにいー」

 ボランティア部部長の宮本来夏は明らかに不満げだ。

「学生の本分は勉強でしょう? しっかりテストで点を取っておかないと活動できないよ」

 彼女の親友であり、実質的に部を指揮している立場の沖田紗羽はそう言い放った。

 この日は、テスト期間に入る直前の最後の部活動日だったので、ついでに期末考査対策も

考えることになった。

「とにかく、期末で赤点を取らないようにして、全員無事に夏休みを迎えられるようにこれから

しっかりと対策をします」

 ホワイトボードに「期末テスト対策」と書いた紗羽はそう言った。

「対策ってどうすんだよ。普通に勉強すりゃいいだろう?」

「普通に勉強しても大丈夫じゃない人がウチにはいるのよ、田中」

「はあ?」

 紗羽の視線に、播磨と和奏が目を逸らす。


「とりあえず二人一組で作りましょう」

「ハイ! 質問」

 ウィーンが手を挙げた。

「はい、ウィーン」

「どうして二人一組なの?」

「一人だと甘えが出てサボったりするからよ」

「なるほど」

「二人なら色々助け合ったりできるし、高いに甘えを抑えることもできる」

「なるほどなるほど。米軍のレンジャー訓練みたいだね」

「それはともかく、ボラ部はちょうど六人だから二人組作れるわね」

「ボラ部とか、変な略し方すんなよ!」

 と、田中が抗議するが、

「はい、それじゃあ二人組を作ります」

 紗羽は無視して話を進めた。





         TARI TARI RUMBLE!



 第十五話 播磨くんは、なんだかおかしいんじゃないかな




 期末テスト対策会議は続く。

「二人組はどうやって作る? あみだくじ?」

 そう聞いたのは来夏だ。

「なるべく、成績のいい生徒とあまり良くない生徒が組むのが望ましいなあ」

「……」

「……」

 再び播磨と和奏が顔を背けた。

「というわけで、来夏」

「あい!」

「あなた、英語の成績良かったよね」

「そうだね。ディスイズアッペン!」

「じゃあ和奏をお願い」

「ええ!?」

 驚く和奏。

「和奏、お前ェ英語苦手なのか」

 ボールペンの反対側でツンツンつつきながら播磨が聞いた。

「うう……」

 和奏は答えない。

「ええと、ウィーンは」

「ウィーンは俺が受け持つよ」


 手を挙げたのは大智だった。

「こいつとは席も近いし、苦手教科とかも知ってるから」

「よろしくね、タイチ」

 ウィーンはそう言って笑った。

「じゃあ、播磨くんは――」

 紗羽が播磨に視線を向けると、

「大智、俺も頼めるか」

「こらあ!」

「うっ」

「播磨くんは数学が危なかったわよね」

「まあ、数学だけじゃないんだけどな」

「徹底的にやるからね」

「お手柔らかに」

 そんな播磨と紗羽のやり取りを見ていた和奏がポツリとつぶやく。

「播磨くんと紗羽は、家でも一緒にやれるからいいよね」

「え?」

 その言葉に全員が固まった。

「和奏! それどういうこと?」

 来夏が興味津々で和奏に飛びつく。

「ひゃっ! いやその……」

「和奏、さっさと白状しないとあなたの胸揉んじゃうよ!」

「そ、それは本人から聞いてよ」

 和奏は助けを求めるように、紗羽を見た。




   *



 ボランティア部の部室では、来夏の声が響き渡る。

「ええー!? ってことは、拳児くんと紗羽は一つ屋根の下で」

「変な言い方しないでよ! 来夏ったら」

「なんでそんな面白そう、じゃなくて大事なことを今まで黙ってたのよ」

「色々と誤解されるでしょう? それに播磨くんは下宿しているだけだし」

「なるほど、ケンジとサワは同棲している」

 ウィーンは頷きながらメモを取る。

「いやだから違うから!」

「たまたま下宿先が沖田(コイツ)の家だったってことだ。別に変なことはない」

「ラッキースケベは? ラッキースケベはあったの? ケンジ」

 ウィーンは嬉しそうだ。

「そんな言葉どこで覚えてきたんだお前ェ」

 こういうことになるから、言いたくはなかった紗羽。

 だが、いずれはバレること。

 避けては通れない道として諦めるのであった。




   *



 混乱の中、播磨と紗羽は帰宅する。

 新学期のころは、彼が自分の家に下宿していることを知られるのが嫌で、わざと

時間をズラして登下校したりしていたけれど、今はもうそれも面倒になっていた。

 こうして一緒に帰ることも、いつもではないけれどわりと多くなってきたことだ。

 その結果、和奏にバレたわけなのだが。

 慣れというのは恐ろしい。

「さっそく、今日からガンガンいくよ、播磨くん」

 帰りながら紗羽は言う。

「テスト期間は明日からだろ」

「ダーメ、テスト勉強を始めるのに早すぎるなんてことはないの」

「だけどよ」

「ほら、早く」

「お前ェ、そんなに真面目だったっけ?」

「出来の悪い同級生がいると、真面目に振る舞わざるを得ないのよ」

「そうかよ」

 播磨とは前よりも多く喋るようになった。

 前よりも一緒にいる時間が長くなった。

 前よりも彼の前でよく笑えるようになった。

 ほんの小さなことだったけれど、彼女にとっては嬉しいと思えたのだ。




   *

 

 夕食後、早速居間で勉強をしようとした紗羽だが、母親の志保からストップがかかった。

「居間は今日、お父さんが使うから」

 とのことである。

「ええ? そしたらどこで勉強したらいっていうのよ。本堂?」

 文句を言う紗羽に対して志保は、

「だったら紗羽か拳児くん、どちらかの部屋でやればいいじゃない」

「へ?」

「そのための個室なんだから、わざわざ居間でやることもないじゃない?」

「そ、そうだけど」

 父親以外の異性を自分の部屋に入れる。

 それは寺生まれで奥手な紗羽にとっては革命的な行為である。

「なんだ、場所がねェのか」

 そう言ったのは、一応勉強道具を持ち出してきた播磨だ。

「いや、そうじゃないけど……」

「場所がないなら仕方ねェ。今日は中止だな」

「お待ち」

 踵を返す播磨の奥襟を、紗羽は掴む。

「勉強の中止はありえない。行くよ、播磨くん」

「行くってどこへ」

「私の部屋……!」

 紗羽は語気を強めた。




   *




 自分の部屋に異性の友人を入れる、というのは小学校以来だろうか。

「ちょっと待ってて」

 播磨が入ってくる前に、素早く片づけを済ます。

 それほど散らかっているわけではないけれど、あまり見られたくない物はすべて隠し、

ベッドのシーツもピッシリと整えた。

(これではまるで、ベッドに誘っているようじゃない。あー、いやいや。何を考えているのよ私)

 興奮と緊張で、少し思考がおかしくなった紗羽は窓を開けて深呼吸する。

「はーふー」

 潮風と一緒に、光に引き寄せられた小さな虫が飛んでくる。

「ああ、いけないいけない」

 焦りながら網戸をしめてから、播磨を迎え入れる。

「お待たせ」

「随分長かったな」

「そう? 女の子にはね、色々と準備ってものが必要なの」

「そうか」

 播磨は部屋の真ん中に用意された小さなテーブルの前にどっかりと座る。

 紗羽も向かい側に座った。

(近いな)

 居間のテーブルだと、向かい側に座っても少し距離があるように見えるけれど、自分の

居室のテーブルは小さすぎる。


 二人同時にお辞儀をしたら頭をぶつけてしまいそうなほど。

(まあ、同時にお辞儀するシーンなんてありえないけど)

 そう思いつつ、紗羽は教科書を広げた。

「テスト範囲はここからここまで。三年生は一学期の期末が勝負よ。これ以上の

巻き返しは難しいんだから」

「そうか」

「前に課題をやったところから大分進んでいるね」

「ん、確かに……」

「播磨くん」

「あン?」

「あんまり人の部屋をジロジロ見ないでよ、恥ずかしい」

「ああ、悪い。異性の部屋なんて、滅多に入ったことなくてよ」

「……そうなの?」

「まあな」

「和奏の部屋には行ったことないの?」

「何でそこで和奏(アイツ)の名前が出てくんだよ」

「いや、だってバイトの時は和奏の家に行ってるんでしょう?」

「そりゃ行ってるけど、あいつの部屋に行く用事はねェだろうが」

「そうかな」

「そうだ」


「興味はないの?」

「は?」

「だから、和奏の部屋に興味はないのって聞いてるの」

「そりゃあ、興味が無いって言やあ、ウソになるけどよ」

「播磨拳児は、和奏の部屋に興味津々……」

「おい! 何メモしてんだよ。お前ェはウィーンか」

「アハハ、冗談だよ。それよりはじめるよ」

「お前ェが言い出したんだろうがよ」

(播磨くんは、私の部屋をどう思ってるんだろう)

 ふと、そんな思いが頭をよぎる。

「ねえ、播磨くん」

「なんだよ」

「こうして教えてあげてるんだから、何かお礼をしてよ」

「お礼?」

「そう、お礼」

「まあ、借りを作るのも嫌だし、俺にできる範囲ならいいけどよ」

「そ、そう?」

 嫌がるかと思ったけれど、随分あっさり承諾したことに拍子抜けする紗羽。

「何でもいいぜ」

「じゃあ……」


 紗羽の胸が高鳴る。

 言ってしまおうか、それとも言わないでおこうか。

「じゃあ、テスト終わったらどこか連れってってよ」

「連れて行く?」

「何かさ、出かけたい気分」

「まあ、ボランティア部の連中と出かけるのも悪かねェな」

(あ、いや……)

 二人きりで、と言いたかったがさすがにそこまで言う勇気はなかった。

「和奏は確かケーキバイキングに連れて行ってもらったんだよねえ」

「あン!?」

 播磨は、持っていたシャープペンシルをテーブルの上に落とす。

「いや、あれはその……」

 動揺しているのがバレバレだ。

「私寂しかったなあ。のけ者にされて」

「誰に聞いた」

「ウィーン」

「しまったあ……。あいつの口止めを忘れてた」

「播磨くん?」

「いや、何でもねェ。それよりお前ェもケーキ食いたいのか」

「いや、私ケーキはちょっと」

「ケーキは嫌いか。まあ俺も甘い物は苦手なほうだが」


(いや、大好きです。凄く好き。できればケーキやパフェと結婚したいくらい好き。

 だけど、それは悪魔の誘惑。カロリーが、体脂肪率が……)

「ま、何でもいいから考えておいてね」

「善処する」

「それじゃ、はじめましょう」

「おう」

 その後、紗羽と播磨はわりと真面目に数学や物理の勉強をした。

 実は紗羽も一人ではこんな風に真面目に勉強することはあまりないのだ。

 しかし、播磨の見ている手前、適当に音楽やラジオを聞きながらやるということは

やり辛い。

 結果的に、播磨と一緒に勉強した紗羽は、成績が下がるどころか学年でも大分

順位を上げることになった。





   *




 七月も半ば。まだ梅雨明け宣言はなされていなかったけれど、彼らの梅雨は明けた。

「期末テスト終了おおお!!」

 テスト最終日の午後。

 部活動も解禁になったため、ボランティア部のメンバーは部室に集まり、昼食兼

慰労会を行うことにした。

「タイチのおかげで、何とか乗り切ることができたよ」

 ウィーンは元気に言った。

 ただし、帰国子女の彼は日本で必要なカリキュラムは全て満たしていないので、

夏休みも授業を受ける必要がある。

「ったく、ウィーンには苦労させられっぱなしだよ」

 苦笑しながらも、大智の顔はさわやかだ。

「紗羽のほうは上手くいったみたいだね」

 と、来夏が言うと、

「まあ、私のほうは問題ないと思うけど」と紗羽は返事をする。

「俺も、ギリギリだが乗り越えられたと思う」

 疲れた表情を浮かべながらも、播磨は頷いた。

「……」

「……和奏」

「……」

 先ほどから和奏はずっと机に突っ伏したままだ。


「疲れてるのよ。しばらくそっとしておきましょう」という来夏の提案に従って、

前任和奏のことは無視、ではなくそっとしておくことにした。

「それではね、テスト前にも言ったけど、夏休みの活動計画行くよお!」

 そう言うと、来夏は大きな白い紙を広げ、マグネットを使ってホワイトボードに張る。

「拳児くん、上のほうお願い」

「仕方ねェなあ」

 背が低いので、上のマグネットは播磨が取り付けた。

「んで、これは何だ」

 播磨が聞くと、

「よく見なさいよ。これがボランティア部(実質合唱部)の活動計画よ」

「お、おう」

 紙には、だいたいの日付と行事予定、そして変な絵が描かれていた。

「この祭りって何だ?」

 と、播磨は聞いた。

「決まってるじゃない。西之端商店街のお祭り。毎年やってるのよ。ウィーンと播磨くんは

知らないと思うけど」

「遊びに行くのか?」

「参加するのよ! ウチの学校の代表として」

(いや、勝手に学校の代表名乗るなよ)

 播磨はそう思ったが、面倒なので黙っていた。

「もうすでに、商店街を通じて出場届は出しておいたから」


「はあ?」

「何だそりゃ!」

「覚悟しなさい」

「ったく」

 例の一件(※十四話参照)以来、人前で歌うことを恐れなくなった来夏はもはや

怖い物無しで突き進んでいく。そして夏休みという、心躍るイヴェントに際し、

小学生並みの身長の彼女は、小学生以上の情熱をもってぶつかって行くのだった。

「僕と和奏は、夏休み中も補習があるんだけど」

「わかってる。それも考慮してるから、練習は概ね午後からよ」

 来夏は答える。

「この、海の家ってなんだ?」

 今度は播磨が聞く。

「そこでバイトするの」

「は?」

「ほら、ウチって今期の部費割り当てがないから、ここでバイトして稼ぐのよ」

「マジか」

「勉強会ってのもあるのね」

 そう言ったのは紗羽だ。

「三年生だし」

「花火大会」

「これは見に行きたいなあって」

「部活関係ねェだろ」


「合宿ってのもあるぞ?」

 大智は驚きながら聞いた。

「それは紗羽のウチでやるの」

「ええ!?」

 そう言われた紗羽は、大智以上に驚く。

「もう、紗羽のお母さんには了承とってるから。紗羽の家に行くのって久しぶり」

「ちょっよ勝手に約束しないでよ! そういうのは私を通して」

「ねえサワ。サワの家は広いの?」

 と、ウィーンは聞いた。

「確かに広いけど、泊まるところは……」

 恐らく本堂になるだろう。

「ウィーン、紗羽の家ってお寺なんだよ」

「え? お寺!?」

「そうだよ、お寺なんだよ。ジャパニーズ仏教のお寺なんだ」

「うおー! 一休さんいるかな」

「いるよー、一休さん!」

「凄い! 僕、一休さんを尊敬してるんだ!」

「一休さんだけじゃなくて、二休さんや三休さんだっているってばよお!」

「いないから! ウチに一休さんはいないから! 二休も三休もいないから!」

 暴走気味の紗羽をヘッドロックで止めた紗羽は、静かにまとめる。

「今年は高校生活最後の夏休みだから、悔いの無いようにしましょう。あと、決して無理は

しないように。それからこの子みたいに、暴走しないようにしましょう」

 脇に抱えた来夏を見せた紗羽はそう言った。




   *




 その日の夕方、活動(練習)を終えたボランティア部は帰ることにした。

 紗羽は、帰ろうとする播磨に声をかける。

「播磨くん、今日はどうするの?」

 確か、この日はアルバイトもないはずだ。
 
「ああ、ちょっと用があってよ」

「用?」

「まあ、先に帰っててくれ。夕飯までには間に合うと思うから」

「え? うん」

 そう言うと、播磨はそそくさとどこかへ行ってしまった。

 行先はよくわからない。

 その日の夕方、紗羽が家で待っていると、遅くに播磨が帰ってきた。

「遅いよ、播磨くん」

「悪い悪い」

 玄関で出迎えた紗羽は、少し怒って見せたが、播磨は疲れた表情で真っ直ぐに風呂に入った。

「何だろう」

 その日一日だけだと思っていた彼の行動は、しばらく続いた。




   *



 一学期最後の授業が終わった日、紗羽は来夏と二人で学校近くの今川焼き屋にいた。

 この日も例によって、播磨はそそくさとどこかへ行ってしまう。

「なんか、避けられてるのかな」

 アイスティー(ミルク・シロップ無し)を飲みながら紗羽はつぶやいた。

「そんなことないって」

 今川焼きを頬張りながら来夏は言った。

「そりゃ確かに、勉強は厳しくしたけど。それは、播磨くんが追試とかを受けないためだし。

問題間違えた時に、三十センチ物差しで叩いたこともあるけど」

「そんなことしたんだ」

「一回だけだよ。いや、二回だったかな」

「随分スパルタなんだね……」

「え? それくらいやらない?」

「やらないから……」

「そうか。やらないか。にしても、バイトでもないのに、帰りが遅いっていうのもアレだな」

「紗羽、拳児くんのこと心配してる?」

「そりゃまあ、心配って。別にそんな、気になるってわけじゃないのよ! ただ、同居人として、

クラスメイトとして、良好な関係が……」

「何よ。素直になりなさいよ」

「私はいつだって素直だよ」

「紗羽……」

「そうよ、気になるよ。どこで何やってるかわかんないし」


「ねえ紗羽」

「なに?」

「信じてあげなよ、拳児くんを」

「そうしたのよ」

「彼は絶対に、紗羽を悲しませるようなことはしないよ。だから」

「……うん」

「フフフ」

 ふと、来夏の表情が大人びて見えた。

「ねえ、来夏」

「ん?」

「あなた、変わったね」

「そうかな」

「うん、何て言うか、大人になったような」

「そう? もう、紗羽もやっと私の魅力に気づいたか。遅いよ」

「見た目は子どもだけど」

「ちょっと待ってよ。何それ」

「ハハハ」

 それから数日、一学期は無事に終わりを告げた。




   *




 終業式も終わり、最後のホームルームが終わると、各生徒は一斉に散って行く。

「紗羽、今日は部活お休みだよ」

 と、言ったの来夏だ。

「そうなんだ」

 紗羽は周囲を見回すと、すでに播磨の姿はなかった。

「どうしたの? いや、何でもない」

「そうなんだ。私、親戚の所に行く予定があるから。先帰るね」

「あ……、うん」

 紗羽は荷物をまとめて家に帰る。

 家では、台所から焼きそばの香りがただよっていた。

「ただいま」

 玄関を見えると、いつも播磨がはいている大きなスニーカーが見当たらない。

 まだ帰っていないのだろうか。

「お母さん、ただいま」

「あらおかえり、紗羽。早かったわね。お昼ご飯、もうすぐできるから」

 母は台所でいつものように調理をしている。

「お母さん、播磨くんは?」

「拳児くん? まだ帰ってないわよ」

「そう」

「気になる?」


「別に、そんな」

 テスト期間中はずっと一緒にいただけに、しばらく離れていると心にぽっかり穴が開いた、

とまではいかないけれど、どこか物足りない気持ちになることは確かだった。

 紗羽は洗面所で手を洗い、着替えを終えて居間い行くとすでに昼食の焼きそばが用意

されていた。

 ソースの濃い色と紅ショウガの赤さがコントラストを描いているようで、その香りと

合わさって食欲をそそる。

 この日も、父はいなかったので母と二人だけの昼食だ。

「ねえ紗羽、午後から予定ある?」

 母は聞いた。

「別に予定はないけど」

「じゃあさ、一時から。出かける準備をしておいて」

「出かける? どこへ?」

「うーん、よくわからないけど」

「は?」

「まあ、夕ご飯までには帰ってきてね」

「どういこと?」




   *




 昼食後、歯磨きをして再び服を着替えた紗羽は、何があるのかよくわからないまま、

テレビを見て待っていた。

(スカートよりジーンズのほうがいいって、どういうことだろう)

 謎の母の指示に困惑しつつ、彼女は動きやすい服装着替え終えた。

「紗羽、お迎えが来たみたいよ」

 と、母が呼びに来る。

「お迎え? 車で行くの?」

 怪訝に思いつつも、ゆっくりとした足取りで玄関を出ると、そこには――

「うそ……」

「よう」

 黒い大型バイクに乗った播磨が待っていた。

「何これ、どうしたの?」

「知り合いのバイクだ。修理を手伝ったら貰った」

「はい?」

「いや、以前志保さんの友達がバイク持ってるっていうんで見に行ったら、滅茶苦茶ボロくてな。

テスト終わってから、そいつの修理に行ってたんだ」

「じゃあ、期末テストの後、いつも早く帰ってたのは」

「近くの修理工場で修理を手伝ってた。俺も本職じゃねェから、重要な部分はプロに任せるしか

なかったけどよ」

「どうするの? これ」

「どうするってお前ェ。これに乗ってどっか行くんだよ」


「ええ?」

「そのために用意したんだからよ。テスト前に言っただろう? どっか連れて行くって」

「え、ちょっと」

 有無を言わさず播磨は紗羽の頭にヘルメットをかぶせる。

「お、ちゃんとズボンだな。感心感心」

 そういいつつ、彼はヘルメットのアゴヒモをしめた。

「アゴ、上げな」

「うん」

 微かに触れるゴツゴツとした播磨の指が、紗羽の身体を硬直させる。

「あら、あのボロ車が随分とキレイになったのねえ」

 いつの間にか玄関先に出てきていたサンダル履きの志保が言った。

「あ、どうもッス。志保さん。色々、ありがとうございます」

「いいのよ。どうせ捨てる奴だったし。このバイクも、こうやって復活して、若い二人に

乗ってもらえてよかったと思うでしょう。それにこの程度のこと、甘えたうちにも入らないわ」

「本当、ありがたいッス」

「お母さん、知ってたの? 播磨くんのことも」

「まあね。このバイクと持ち主を紹介したのも私だし」

「どうして黙ってたのよ!」

「そりゃあ、紗羽を驚かせようと思ったからよ」

「俺は志保さんから黙っていろって言われたから」


 申し訳なさそうに播磨は言った。

「もう、何なのよ二人して!」

「じゃあ、そういうことで」

 紗羽の抗議を無視して、志保は話を進める。

「播磨くん、気を付けてね」

「そりゃもう。大事な娘さんッスからね」

「紗羽も楽しんでいらっしゃい」

「そんな」

「あら、嫌なの? 紗羽が嫌なら、私が代わりに行っちゃうわよ。いいよね」

「わかった。わかったから。行くよ、私行く」

「どうぞどうぞ」

 志保は笑顔で紗羽を播磨の前に持っていく。

「いいのか、沖田」

「わざわざヘルメットまで被せておいて今更何言ってんのよ。責任とってもらうわ」

「ああ。で、どこ行きてェんだ」

「え?」

「どっか行きたいところでもあるか」

「それは……」

 紗羽は少しだけ考えるのだが、上手く思いつかない。

「じゃあ、とにかく海沿いを走ろう」

「は?」

「何なら、三浦半島の端まで行ってもいいよ」

「ったく。まあ、行けるところまで行くか」

「うん!」





   *




 天気はこの上なく良い。

 風が気持ちよく、太陽の光は眩しい。

 まさしく夏という感じの光景。

 何と言っても、水平線がよく見える。

「すごおおい!!」

 思わず大声を出してしまう紗羽。

 しかし、どんなに叫んでも流れる風とバイクのエンジン音にかき消されてしまうので、

問題は何もない。

「凄いよ播磨くん!」

「そうか!」

「サブレよりも速い!」

「当たり前ェだろうが! バイクなんだから」

「そうだねー!」

 肩や顔に当たる風が気持ち良く、思わず遠くにいる漁船に手を振ってしまいそうになる。

「しっかりつかまってろよ!」

「えー? なんて!?」

「しっかりつかまれって言ってんだ! 自動車なんかよりもはるかに危ねェんだからな」

「安全運転してよー!」

「わかってる」


 紗羽は、座席ではなく播磨の身体に手を回す。

「おい」

「こうした方が安全でしょう?」

「いや、そうだが」

「照れてるの?」

「照れてねェよ!」

 意地悪な感じで言ってしまった紗羽だが、内心彼女のほうがドキドキしていた。

 見た目通り、播磨の身体は筋肉質で大きい。

 比較的痩せ型の父とは全然違う感覚だ。

(大きい背中)

 紗羽は、自分の頭を播磨の背中にくっつける。




   *




 丘の上の公園で二人は休憩をした。

「んー、気持ちいい」

 紗羽はゆっくりと伸びをする。

 バイクの後ろにずっと乗っている、というのは思った以上に疲れるものだ。

 何かに乗るのは乗馬では慣れていたと思っていたけれど、バイクはバイクでまた

奥の深いものなのだな、と感じた。

 ふと見ると、播磨は公園の木製ベンチに座って缶コーヒーを飲んでいた。

 紗羽はその隣に行き、ベンチの上に置いてあるコーヒー手に取って封を開ける。

「今日はありがとうね」

 コーヒーを飲みながら紗羽は言った。

「こんなところでよかったのか。もっと色んな場所があったろうに」

「折角のバイクなんだから、今日は思いっきり走ってほしかったの」

「そうか」

「本当は色々と行きたい場所はあったんだ」

「おう」

「でも、何だかずっと走っていたい気分だった」

「沖田、お前ェ好きだもんな」

「え? 何が」

「ビューンっていうやつ」

「そうだね。ビューンってやつ。ハハ」


「……」

「ねえ、播磨くん」

「あン?」

「また、乗せてくれる?」

「天気が良かったらな」

「そうだね。約束だよ」

「ああ……」

「それと」

「あン?」

 紗羽は突然立ち上がる。

 何だか唐突な感じだが、気分が高揚している今なら言える気がした。

「播磨くんは、なんだかおかしいんじゃないかな」

「何が……?」

 いきなりの言葉に、播磨は戸惑っているようだ。

 無理もない。同じことを自分が言われたらどうしたらいいのかわからず戸惑って

しまうだろう。紗羽本人が一番よくわかっていたことだ。

「私のお父さんとお母さんを下の名前で呼んで、どうして私だけ苗字なの?」

「は? それは、色々あるだろうよ」

「和奏のことは下の名前で呼んでたよね」

「そりゃ、親父さんと区別しなきゃならねェし」

「ウチだって同じだよ。お父さんもお母さんも沖田だし」


「はあ」

「今日から、私のことは紗羽って呼んで」

「え……」

「何?」

「……いいのか?」

「嫌なの?」

「いや、そうじゃねェけど、その。周りのアレとかあるし」

「気を使ってるの?」

「そりゃ、多少は……」

 しばらく一緒に暮らしてみて、播磨が自分のことを色々と気遣ってくれていたことは

痛いほどよくわかっていた。

 ただ、彼女は自分が一方的に彼の優しさに甘えるのをよしとしない。

「おせっかいな男の子ってバカみたい」

「は?」

「変な気なんてつかわなくていいの! 一緒に住んでるんだし。いい? 私も、あなたの

ことは拳児って呼ぶ」

「まあ、好きにしろよ」

「うん。好きにするから。じゃあ行こうか」


「帰るのか」

「何言ってるの」

「ん?」

「夕焼けを追いかけよう」

「お前ェ、なんか志保さんみたいだな」

「当たり前でしょう、親子なんだから」

「そうか」

「一度言ってみたかったの、夕日を追いかけるって。さっ、行こうよ拳児」

 そう言うと、紗羽は播磨のバイク用のジャンバーを強く引っ張る。

「おい、待てよ」

 戸惑いながらも播磨は立ち上がる、再びバイクを走らせるのだった。





   つづく

>>383
暴走気味の紗羽をヘッドロックで止めた紗羽は、静かにまとめる。

多分、ミスだと思うけど笑ってしまった

>>400
これは恥ずかしい。気を付けます。








 第十六話 プロローグ

 夏休み。

 部活動のために学校の部室に播磨が顔を出すと、そこには田中大智が一人で

参考書を読んでいた。

「大智か。珍しいな、お前ェが早く来るなんてよ」

「家よりか学校のほうが静かなんで集中できるんだよ」

「受験勉強?」

「ああ」

「推薦じゃねェのかよ。バドミントンの」

「それもあるけど、バドミントンだけじゃダメだって、最近思うようになってさ。しっかり

勉強しようと思ったんだ」

「なるほどな」

 播磨はカバンを置いて近くの椅子に座る。

「なあ拳児」

「なんだ」

「お前さ、誰が好きなんだ?」

「は? 誰って、何だよ」


「だからさ、宮本と沖田と坂井。あいつらのうちで、誰か気になるやつがいるのかって

聞いてんだ」

「何だよいきなり」

「別にいきなりじゃないから」

「あン?」

「ラノベの主人公じゃあるまいし、お前、あいつらの気持ちに気づいてないわけじゃ

ないだろう」

「いや、それは……」

「どうなんだ」

 冗談や興味本位で聞いているようには見えない。

 大智は真面目だ。

「ンなこといきなり言われてもな」

「……」




   *



 同じころ、ウィーンも部活のために部室に向かっていると。

「……」

「あれ? コナツ。それにワカナとサワも」

「ひっ!」

「え?」

「おわっ!」

 宮本来夏、坂井和奏、そして沖田紗羽の三人が部室の入り口付近で中の様子を

伺っていた。

「どうしたの? 入らないの?」

「ああいや! そんな」

 来夏は両手をブンブンと横に振り、

「何でもないよ」

 紗羽は立ち上がって伸びをした。

「よ、よし。入ろう。おはよう、皆」

 和奏は動揺しつつ、ドアに手をかけて部室へと入る。

「?」

 ウィーンが三人の行動の意味を知るのは、もう少し後のことである。







        TARI TARI RUMBLE!


 第十六話 私、すごく好きだった。家族みんなでいることが


 市内のとある病院。

 ここに播磨たち三年一組の担任であり、新生合唱部(正式にはボランティア部)の

顧問でもある高橋智子が出産のために入院している。

 六月の終わり、つまりテスト前に産休に入った智子が、このほど無事に出産を

終えたということで、部活の六人はクラスを代表してお見舞いにきたのだ。

「私、産婦人科って来たの初めてかも」

 廊下を歩きながら来夏は嬉しそうに言った。

「来夏は弟さんいるよね。だったらそれで来たことはないの? 私は一人っ子だから

わかんないけど」

 隣の和奏は聞く。

「弟とは一年しか離れてないから、行ったとしても覚えてないよ」

「そういえば、播磨くんにも弟っていたよね」

 和奏は後ろの播磨にも聞いた。

「俺は、弟と年が離れてるから、覚えはあるな。こんなデカイ病院じゃなかったけどよ」

 そう言ったのは播磨だ。

「へえ、拳児くんって弟いたんだ。いくつ?」

 来夏は目を輝かせる。


「小学六年か? ちょっとよく覚えてねェけど」

「何よ、しっかりしてよ」

「家族つっても、離れて暮らしてると、そんなもんだぞ」

「じゃあ家族じゃなくても、一緒に暮らしてたらお互いのことわかったりするのお?」

 来夏は視線を播磨あら紗羽に移しながら言った。

「ちょっと、何言ってるのよ来夏」

 後ろで紗羽が怒る。

「おい静かにしろよ沖田。病院だぞ」

 そんな紗羽を大智があきれ顔で注意する。

「ぐぬぬ……」

「先生の赤ちゃん、早く見たいなあ」

 ウィーンはどこへ行っても、相変わらずマイペースであった。



   *




 しばらく歩くと、高橋智子の入っている居室へと到着する。

 名前を確認して、来夏は部屋の中に入った。

「こんにちは!」

「こら来夏。静かにして」

 いつもと違う環境でテンションが高まっている来夏の頭を押さえながら、部屋に入る紗羽。

「あら、いらっしゃい」

 事前に連絡を入れておいたので、智子も落ち着いている。

 長かった髪を後ろでまとめた彼女は、うっすら薄化粧をしているようにも見えた。

「随分大勢できたわね」

「新生合唱部、全員できますた」

 来夏はそう言って胸を張る。

 智子の周りに六人集まった状態は、少し窮屈に感じられるほどだ。

「播磨くん」

 そんな彼女が真っ先に声をかけたのは、意外にも播磨であった。

「はい」

「調子はどう?」

「まあまあッス。おかげ様で期末テストも乗り越えることができたッス」

「夏休みの宿題は、ちゃんとやりなさいよ」

「わかってるッス」


「前田くんも、日本の学校は大丈夫?」

「え、はい」

 ウィーンは久しぶりに本名で呼ばれたので、少し驚いていたが、すぐにいつもの笑顔に戻る。

「皆すごく親切にしてくれて、幸せです」

「そう。夏休み中も補習あるけど、頑張ってね」

「はい」

「田中は……、別にいいか」

「俺だけなんか扱い酷くないですか?」

「いいのよ。宮本さん」

「ほい」

「部活もいいけど、勉強もちゃんとやるのよ」

「イエス、アイドゥ!」

 そう言って来夏は親指を立てる。

「沖田さん、進路考えてる」

「え、はい。でもまだ迷ってて」

「十分迷いなさい。迷って考えて、それが若者の特権なんだから」

「先生も十分若いですよ」

「子どもを産んだ私に何を言うの。それから、坂井さん」

「はい」


「一学期を通してみて、普通科はどう?」

「凄く勉強は難しいけど、皆と一緒なら頑張れる気がします」

「そっか。皆頑張ってるようね。先生安心だわ」

「それより」

 和奏はソワソワしてきた。

「ふふ、赤ちゃん見たい?」

「え、はい」

「子どもはね、新生児室ってところにいるの。授乳のときはこちらに連れてくるけど、

普段は向こうにいるの」

「そうなんですか」

「見に行ってみる?」

「いいんですか?」

「それが目的でしょう?」

「ワーイ、先生の赤ちゃんだあ」

 ウィーンは両手を上げて喜ぶ。

「こらウィーン、静かにしろ」

 大智が再び注意する。今日は大智と紗羽が忙しい。




   *



 新生児室は病室から少し離れた場所にあるけれど、決して遠くではない。 

 播磨たちがそこに到着すると、ガラス越しに多数の赤ん坊がベッドに寝ているのが

見えた。

 中には泣いている元気の良い赤ん坊もいる。

「あの左端四番のベッドに寝ているのが、ウチの子よ」

 一緒についてきた智子がそう言って我が子の場所を教えた。

「わあー」

「カワイイー」

「他の子も可愛いけど、先生の赤ちゃん超かわいい」

 女子三人は明らかに顔とテンションが変わっていた。

 これが母性本能というものなのだろうか。男の播磨にはよくわからない。

「立ち歩いて大丈夫なんッスか?」

 隣にいる高橋智子を気遣う播磨。

「ありがとう。でも、もうすぐ退院だし、多少は運動してないとね」

「産後の肥立ちとか、言うじゃないッスか」

「古い言葉を知ってるのね。そっちのほうは問題ないわ。母子ともに健康」

「そりゃ良かったッス」


「あなたも大変ね」

「へ? 何が?」

「部活の設立とか、活動とか。勉強とか。色々頑張ってるみたいじゃない。宮本さんから

聞いてるわ」

「大したことはしてねェッスよ」

「あなた自身はどうなの?」

「あン?」

「あなた自身が何を望んでいるのか。そろそろ考えたほうがいいんじゃない?」

「まあ、わかってるッスけど」

「焦らなくてもいいわ。でも、いつかは出さなければならないことよ」

「はいッス」




   *




 帰り道。

「いやあ、可愛かったねえ。先生の赤ちゃん」

 来夏はマラカスをシャカシャカ鳴らしながら道を歩いていた。

「おい宮本。なんでお前ェ、マラカス持ってんだ」

「え? だって赤ちゃんって言ったらガラガラじゃん? あの手に持ってやる」

「ああ。あの振ったら色んな音が出るアレか」

「でも、家の中を探したんだけど、あのガラガラが見つからなくてねえ」

「それでマラカス」

「似たようなもんじゃん」

「似てねえよ」

「おりゃあ」

 そう言うと、来夏は高速でマラカスを振った。

 どうやら赤ん坊を見てテンションが上がったらしい。

「ねえ紗羽。紗羽は赤ちゃん何人欲しい?」

 調子に乗った来夏はそんなことを聞き出した。

「え? 何を言ってるのよ急に」

「えー、だって紗羽って子どもいっぱい産みそうだしい」

「っていうか、相手もいないのに何言ってるのよ」

「相手ならいるじゃん、そこら辺に。よりどりみどりだよお」

「変なこと言わないで」


「じゃあ、和奏はどう?」

「え? 何」

 急に話を振られて驚く和奏。無理もない。

「和奏は、赤ちゃん何人欲しい?」

「うーん、できるだけたくさん欲しいな」

「!!」

 意外な返答に驚く一同。

 何より質問した来夏が一番驚いていた。

「ど、どういうこと?」

「え? だって猫って一度にたくさん赤ちゃんを産むし」

「猫基準か」

「それに私、一人っ子だし兄弟がだくさんいる家庭って、羨ましいなって思っちゃう」

「兄弟なんていてもあんまりいいことないよ、和奏」

「そうかな」

「ウチは弟いるけど、エッチな本を隠し持っていたりお風呂を覗いたり大変だもん」

「お前ェの所を基準にすんな」

 来夏の弟に少しだけ同情していた播磨は、すかさずツッコミを入れる。

「アハハ。来夏の家は仲がいいんだね」

「そうかな。弟のお宝本をガチムチの薔薇本にすりかえた時は、さすがに怒ってたよ」

「それはさすがに来夏が悪いよ」

 その後、彼らは学校に戻ってから作戦会議を実施することになった。




  *


 


「さて、我々新生合唱部、夏休み最初の目標は」

 そう言うと、来夏はホワイトボードを軽く平手で叩く。

「夏祭りのパフォーマンスで優勝を狙うことです!」

「……」

 来夏の気合に比して、部員の士気は低い。

「こらこらテンション低いよ、もっとアゲアゲ↑でいかないと」

「どうすればいいの?」

 と、質問したのはウィーンだ。

「ルールでは、専用のステージで各グループ五分以内のパフォーマンスを行うってあるよ」

「五分か。一曲では少し長いけど、二曲では苦しいかな」

 和奏が独り言のようにつぶやく。

「今回はこの曲を使おうと思うの!」

 そう言うと、来夏は一枚の楽譜を取り出す。

「これって……」

 それを見て驚く和奏。

「知っているのかライデン!」

「ウィーン、お前ちょっと黙ってろ」

 大智がウィーンの口を押えて、後ろに下がらせた。


「合唱部といえば、この歌。もちろん、もう一曲も決めているけど、〆はこれで

いきたいと思うの」

「これって?」

「播磨くんは知らないかな。『心の旋律』」

 紗羽がそう言って歌詞の書かれた紙を見せる。

「これって、確か志保さんが持ってたカセットの」

「おお、やっぱり知ってたか。ウチの学校に代々伝わる歌だよ」

 来夏は嬉しそうだ。

「……お母さんが作った曲」

 和奏はそうつぶやいた。

「お前ェのお袋さんが作ったのか」

 播磨は歌詞を見ながら聞いた。

「うん。高校の時に作った曲なんだって」

「ってことは、俺らと同じくらいの時か」

「うん」

「凄ェな、そりゃ」

「うん。凄い」

 和奏はそう口にすると、少しだけ悔しいと思った。 




   *


 翌日、街の雲行きが怪しかった。

 どもう台風がこちらに近づいているようだ。

 いつもよりも早めの台風到来に、街は少し浮ついていた。

 そんな中、播磨たちは練習のために学校に集まったけれど、天気が怪しいので

早めに帰ることにした。

「……」

 気圧が低いためか、この日の和奏はいつもよりも元気がない。

「おい、和奏」

「……え?」

 一テンポ遅れて和奏は反応した。

「どうした。もう皆帰るぞ」

「何でもない。ちょっと考え事をしてただけ」

「そうか」

「あ、そうだ播磨くん」

「どうした」

「明日のアルバイト、お父さんがこなくていいって」

「そうなのか?」

「うん。今日と明日、お父さん親戚のところにいくからお店も休みなんだ」

「休みか。わかった。って、お前ェはどうするんだ」

「私? 私は家にいるよ。ドラの世話もしないといけなくちゃだし」

「そうか。早めに帰ってやれよ」

「……うん」

「……」

 和奏たちと別れた播磨は、そのまま下宿先に帰ることになる。




   *




 夕方。誰もいない坂井家は強い風でガタガタと雨戸が揺れていた。

「大丈夫かな……」

 テレビに映し出される台風情報は、関東地方、特に神奈川県周辺への上陸を知らせていた。

「ナーオ」

 白と黒の飼い猫が和奏の傍に寄り添う。

「大丈夫だよドラ。私が一緒にいるからね」

 ドラの頭をやさしくなでながら、体育座りの和奏はぼんやりとテレビ画面を見つめていた。

(頭痛い)

 ドラに夕方の餌を与えた和奏であったが、自身は夕食を食べていなかった。

 食欲が無かったためだ。

(明日になったらよくなるかな)

 ボーッとする頭で色々と考えてみたが、宇宙人と猫が喧嘩をはじめてから訳がわからなくなる。

「あっ……!」

 気が付くと寝ていたようだ。

 外はもうすっかり暗くなっており、風も強い。

(ああ、しまったな。こんなところで寝たら余計に体調悪くなっちゃうよ)

「ドラ?」

 猫の名前を呼んでみるも、反応はなかった。


(どこ行ったんだろう)

 ドラを探そうと立ち上がるも、バランスを崩し、ちゃぶ台にスネをぶつけてしまった。

 電灯をつけていなかったので、そこにちゃぶ台があったことに気が付かなかったようだ。

「…………っ!」

 言葉にならない痛み。

 和奏はその場にしゃがみこむ。

 体調が悪いのと、予想外の激しい痛みのダブルパンチにノックアウト寸前である。

(もう最悪)

 何だか自分がみじめになってくるように感じた。

「はあ」

 もう一つため息をつく。

 その時だった。

《ピンポーン》

 玄関のチャイムが鳴る。

「え?」

《ピンポーン》

 もう一つチャイム。

(誰だろう。郵便屋さんだろうか)

 スネの痛みが少しずつ引いてきたので、右スネをさすりながら和奏はゆっくりと立ち

上がった。


(どうしよう。もし相手が強盗だったら、今の自分では対応できない。このまま居留守を

使おうか)

 そんなことを思っていると、

「おおい、和奏。いるのか」

 玄関の外から聞き覚えのある声が聞こえた。

(播磨くん? え、何で?)

 知り合いの声に、一瞬混乱する和奏。

(そうか、これは夢なんだ。夢。間違いない。スネの痛みはちょっとリアルだけど、

夢なんだよね)

 そう思いつつ、彼女は足を引きずりながら玄関に行った。

 確かに人影が見える。

「播磨くん?」

「おう、いたのか」

 玄関越しに彼の声が聞こえる。

「ちょっと待って」

 そう言うと、サンダルを履いて和奏は玄関の戸を開けた。

「播磨くん……」

「おう」

 そこには、雨衣を着た播磨拳児が立っていた。

「うわ」

 一瞬、強い風が家の中に吹き込んでくる。


「早く入って」

 そう言って彼を招き入れた和奏は、すぐに引き戸を閉めた。

「どうしたんだ、お前ェ。電気もつけずによ」

「いや、これは。……寝てた?」

「ん?」

「何?」

「ちょっといいか」

 そう言うと、播磨は和奏に顔を近づけた。あまりの近さに、和奏の胸が高鳴る。

「顔が赤い。お前ェ、やっぱ熱あるじゃねェか」

「寝てたら治るよ」

「ちょっとここに座れ」

「……」

 玄関先に座らされた和奏は、その場で雨衣を脱ぐ播磨の後ろ姿をぼんやり見ていた。

「こんな天気じゃあ、傘なんて役にたたねェからな。ちょっとここにおかしてもらうぜ」

 そう言って雨衣を玄関先に引っ掛けると、ハンカチで手を拭いながら和奏を見た。

「?」

「立てるか」

「う、うん」

 播磨に支えられるようにして歩いた和奏は、居間に連れて行かれる。


 電気をつけた居間は、眩しいほど明るかった。

「布団どこにある?」

「へ?」

「布団だよ」

「その、二階の右に曲がった部屋にある押入れ」

「ちょっと邪魔するぜ」

「あの……」

 和奏が何か言おうとする前に、動きだした播磨は素早く二階に上がり、布団を持って

おりて居間に敷いた。

 和奏がいつもつかっている布団ではなく、来客用のものだ。

「ここで寝てろ」

「……」

 有無を言わせぬ指示に、弱っていた和奏は頷いて従うしかなかった。

「熱はかったか?」

「まだ」

「体温計、どこにある」

「そこの棚の引出し」

「ここか」

「うん」

「ちょっと開けるぜ」


「……」

 引き出しから水銀の体温計を取り出した播磨は、二、三回振ってからそれを和奏に

渡した。

「熱を測れ」

「……」

 和奏は無言でその体温計を受け取る。

 熱を測ろうとすると、播磨は廊下に出た。確かに熱を測る姿というのは、あまりカッコイイ

ものではないので、彼なりの細かい気遣いに和奏は安心した。

「あ、もしもし。志保さん?」

 廊下に出た播磨は誰かに電話をしているようだった。

「どうすりゃいいッスかね」

 どうも戸惑っているようだ。

 ここまでの手際の良さを考えると、何だか笑えてくる。

「熱、測ったか」

 しばらくして播磨が戻ってきた。

「ちょっと待って」

 和奏は身を起こし、シャツの襟元を伸ばして脇の体温計を取り出す。

「どうしたの?」

 先ほどまでこちらを見ていた播磨は、目を逸らして廊下のほうを見ていた。

「なんでもねェよ。それより」

「うん」


 水銀体温計を手渡す。

「三十八度七分かよ」

「三十八、そんなにあったの……」

 どうりて頭も痛いし食欲もないと思った。

「和奏、メシ食ったか」

 和奏は首を横に振った。

「どうしてだよ」

「食欲ない」

「ったく。ちょっと待ってろ」

 体温計をケースに入れながら播磨は色々と考えているようだ。

 ドカドカと洗面所に行った彼は、タオルを濡らして和奏の額に乗せた。

 ひんやりとしたタオルが気持ちいい。

「しまったなあ。こんなことなら、何か買ってくりゃあよかった……」

 播磨が枕元でブツブツ言っていたので、和奏は声をかける。

「ねえ播磨くん」

「あン? どうした」

「どうして、ここに来たの?」

「ん? そりゃあ、少し前にお前ェの親父さんから連絡があってな。和奏に何かあった

ときはよろしくって」

「え? お父さん?」

「ああ」


「もう、お父さんったら」

「心配なんだよ。大事な一人娘だしよ」

「でも、友達に言うなんてもう」

「それでよ、お前ェの携帯に電話かけたんだけど、お前ェ出なかっただろ?」

「あ……」

「どうした」

「携帯電話、部屋に置きっぱなしだったから」

「だろうな。で、しょうがねェからこうして様子を見に来たってことよ」

「この嵐の中?」

「むしろ台風きてるからだろうが」

 バチバチと、窓に雨が当たる。遠くからは風の音が響いていた。

「しっかしよ、お前ェなんか腹減ったんじゃねェのか? なんか食うものを――」

 そこまで言いかけて、播磨は言葉を止める。

 和奏が、彼の袖を掴んだからだ。

「播磨くん」

「どうした」

「ごめん。少しだけここにいて」

 胸の奥から寂しさと悲しさと嬉しさと、とにかく色んな感情のまざりあった塊が

あふれ出てくるようだ。


「和奏」

 近い。こんなにも播磨を近くに感じたのはどれくらいぶりだろうか。

「播磨くん、私――」


《ピーンポーン》


 そこまで言いかけたところで玄関のチャイムが鳴った。

「なんだこんな時間に」

 時計を見ると、午後八時を回っている。

「播磨くん」

「お前ェは寝てろ、和奏。俺が見てくるから」

「う、うん」

 和奏は仰向けになり、ズレた濡れタオルをもう一度額の真ん中に乗せ直した。




   *




 突然のチャイムに驚きつつ、播磨は玄関に向かう。

《ピポピポピポピンポーン》

「わかった、わかったから」

 鍵を開けて玄関の戸を開く。

 娘が心配で父親が戻ってきたのかと思ったら違った。

「紗羽……」

「早く開けなさいよもう!」

 レインコートを着ていたけれど、すでにずぶ濡れ状態の紗羽がそこにいた。

 紗羽を中に入れると、彼女はすぐにビニール袋を播磨に手渡す。

「何だこりゃ」

「食べ物とか色々」

 玄関に入ると、忙しく紗羽は雨衣を脱いだ。

「おい、顔とか拭いたほうがいいんじゃねェのか」

「それより和奏は? 和奏はどこ」

「そこに電気ついてる居間があんだろ。そこに寝かしてる」

「そう」

 雨衣を脱ぎ捨てた紗羽は、長靴を脱いで家の奥へとドンドン入って行く。

「和奏、大丈夫?」

 居間の入り口で彼女は言った。

「おい、病人なんだぞ」


 播磨は紗羽から受け取ったビニール袋を持ったまま居間に向かうと、そこでは紗羽が

和奏を抱き起し、手で熱を測っていた。

「紗羽の手、冷たくて気持ちいい」

 顔を紅潮させた和奏がそんなことを言っている。

「大丈夫? 和奏。拳児に変なことされなかった?」

「おい、何聞いてんだお前ェ」

「大丈夫だよ紗羽。ちょっとしかされなかったから」

「お前ェも何言ってんだ和奏。ちょっとって何だちょっとって」

「待ってて、今食べるもの作るから。何も食べてないでしょう」

 紗羽は優しく和奏を寝かせると、すぐに立ち上がり播磨に右手を差し出す。

「さっき渡した袋、ちょうだい」

「これ、確か食べ物とかって言ってたな」

 袋の中身を見ながら播磨が聞く。

「そうよ」

「お前ェ、なんでここに来た」

「歩いて来たに決まってるでしょう?」

「いやいや、そうじゃなくてよ。どうしてここに来たのかって聞いてんだよ」

「和奏が心配だったから」


「危ねェだろう、こんな嵐の日に」

「年頃の男女を夜中二人きりにするほうが危ないから」

「いや、別にそれは……」

「それに、拳児のことだから何も考えずにここに来たんでしょう」

「……」

「早く、袋返して」

「おう」

 播磨はビニール袋を差し出す。

「和奏、台所ちょっと借りるね」

「うん」

 怒涛のごとく、突き進んでいく紗羽を見送ると、いつの間にか播磨の足元に和奏の

飼い猫、ドラがいた。

「ナーオ」

「お前ェ、いたんだな」

 そう言って、彼はドラの頭を軽く撫でた。





   *



 数十分後、台所にはほんのりとした卵のいい匂いが漂っていた。

「おいしい」

 “れんげ”でおかゆを一口食べた和奏は言った。

「でしょう? お母さん直伝の卵粥。風邪ひいたときはよく食べさせてもらったから」

「うめェな」

「何で拳児も食べてるのよ」

「しかたねェだろう。夕飯食いそびれちまったんだからよ」

「ったくもう、夕飯も食べずに飛び出すなんて、どうかしてるよ」

「言うなバカ」

「ハハハ……」

 熱もあって頭も痛くて、それでも和奏は幸せだと思った。

「ありがとう、紗羽」

「何よあらたまって」

 紗羽は照れながら顔を逸らす。

「それと、播磨くんもありがとう」

「俺は何もしてねェけど」

「そうだよ。拳児は何もしてない。邪魔しただけ」

「うるせェよ」

(そんなことないよ)

 和奏はそう言おうとしたけれど、言葉が出なかった。


 恐らくこの二人がこなかったら、嵐の夜をドラと二人で我慢していたことだろう。

 土砂崩れか洪水で家が流されない限り、死ぬことはなかったと思う。

 ただ、不安と孤独を抱えて一夜を過ごさなければならないことは確かだった。

 しかし今は違う。

 家の中は賑やかで、そして明るい。

 ふと小学校の時のことを思い出す。

 自分が風邪をひいたとき、母は自分も身体が弱かったにも関わらず夜遅くまで看病して

くれたことを。

 もし母が生きていれば、こんな風にお粥をつくってくれたのかな。

 そう思うと、

「う……」

「どうしたの? 和奏」

「おい、変な物でも入ってたか」

「失礼ね。ちょっと和奏」

 二人が心配そうに和奏の顔を覗き込む。

「大丈夫。ちょっと昔のことを思い出しただけだから」

「昔のこと?」

「うん」




   *





 夕食後、和奏は居間で紗羽と一緒にプリンを食べていた。

 台所では播磨が食器を洗っている。

「いいの? 食器くらい私が洗うのに」

「いいのいいの。こういう時くらい、拳児に働かせないと。何もしてないんだから」

「別に、何もしてないわけじゃないよ」

「え?」

「ううん、何でもない」

 顔を上げると、テレビで台風の情報を流していた。大型の台風は、今夜夜半に関東地方に

上陸するという。

 心なしか、風の音も強くなっている気がする。

「紗羽」

「え?」

「今日は本当にありがとう」

「どういたしまして」

「でも、こんな危ない日に、無茶したらダメだよ」

「反省してます」

「……」

「もう、こんな時間だね」

「え?」

 時計を見ると、九時半を回っていた。


 いつの間にこんなに時間が経っていたのだろう。

「拳児、洗い物終わった?」

「ああ、終わったぞ」

 タオルで手を拭きながら播磨が居間に来る。

「ちゃんと洗ったんでしょうね」

「こう見えて、中華料理屋でもバイトしたことがあるからな。食器洗いは得意だ」

「料理は全然ダメなくせに」

「んなこたぁねェよ」

「それより、時間なんだけど」

「おお、もうこんな時間か」

 播磨は居間の時計を見てそう言う。

「拳児、あなた一人で帰ってよ。私はここに泊まるから」

「おい、何言って――」

「そんなのダメ!」

 不意に和奏が叫ぶ。

「え?」

 驚いた紗羽と播磨は和奏の顔を見る。

「ご、ごめん。とにかく、今外に出るのは危ないから。播磨くんにもしものことがあったら、私」

「安心しろ和奏。俺はこの程度の台風で死ぬほどヤワじゃねェ」

「でも……」


「じょ、冗談だよ和奏。心配しないで。いくら私でも、この嵐の中拳児を帰らせるほど

鬼じゃないから」

 紗羽は焦りを誤魔化すように笑う。

「でも、紗羽ならやりそうだと思って……」

「和奏、私のことどう思ってるのよ」

「で、泊まるってお前ェらはどこで寝るんだ?」

「それは――」

 次の瞬間、目の前が真暗になった。

「あっ」

「停電?」

 和奏は思わず隣にいた紗羽の服を掴む。

「ごめん紗羽」

「いいのよ。大丈夫だから」

 紗羽の温もりとシャンプーの香りを感じた。

(いい匂い。私が男だったら、絶対に紗羽に惚れちゃう)

 ふと、そんなことを思った。

「お前ェら、大丈夫か」

 播磨がそう呼びかけると、

「うん、平気。拳児は?」
  
 紗羽が返事をした。


「紗羽、お前ェ懐中電灯とか持ってきてねェのか」

「ないよ」

「ったく、使えねえなあ」

「手ぶらで来た拳児には言われたくないっての」

「落ち着いて二人とも!」

「おう……」

「ごめん」

 語気を強めると余計に頭が痛くなってくる。

「播磨くん、懐中電灯は台所の棚にあるから」

「そうか」

「しばらくしたら、目が慣れてくると思うから。しばらくじっとしてて。そうじゃないと

足とかぶつけちゃうよ。ウチ、狭いから」

「おう。わかった」

 すると、ドカリと座る音が聞こえた。

 よく見えないけれど、その場に座ってしばらく待っているのだろう。

「停電か、なんか久しぶりだな」

 播磨は言った。

「そういえばそうだね」

 紗羽も答える。

「お母さんが――」


 不意に声を出す和奏。

 その声に播磨と紗羽は黙る。

「お母さんが生きていた時、確かこんな風に停電になったことがあったな」

「そう」

「……」

「私小さくて、暗いのが怖くて泣きそうになったんだけど、お母さんは言ったの。

怖い時は歌を歌ったらいいて」

「……」

「なんか、思い出しちゃった」

「そうか」

「……」

「と、そろそろ懐中電灯探すかな」

「まだ危ないよ」

「携帯にライト機能があるの思い出した」

 そう言うと、播磨は携帯電話を取り出し、光を放った。

「うっ」

 LEDの光は直接見ると眩しい。

「おお、悪い悪い。そこにいたか。和奏、懐中電灯はどこだ」

「お皿が入っている棚の横に」

「おう、ちょっと行ってくる」


 播磨が懐中電灯を取ってくると、部屋に豆電球の光が広がった。

「何だか不思議な気持ち」

 と、和奏は言った。

「でもこれからどうする? 寝るんだったら和奏は部屋に」

「ここで寝よう」

「へ?」

「ここで、皆で寝よう。ちょっと狭いけど」

「おいっ、和奏」

「ちょっと何考えてるのよ。拳児もいるんだよ、和奏」

「いいんだよ」

「ええ?」

「だって一緒にいないと、何かあった時、大変じゃない」

「いやいや、拳児と一緒にいるほうが大変だよ」





   *





 外の風の音はまだ収まらない。

 雨は相変わらず雨戸や窓にぶつかり、時々家が揺れているように感じる。

 紗羽と和奏と播磨の三人は、そのまま居間で寝ることになってしまった。

「いい? 拳児。もし和奏に変なことしたら」

「しねェよバカ! それよか和奏。俺は別に、廊下や台所で寝ても構わねェんだぞ」

「折角来てくれたのに、そんなところに寝させるのは可哀想だよ」

「全然気にすることないのに。拳児だよ。庭にハンモックで寝かせたって大丈夫」

 紗羽は言った。

「庭はまずいだろう、庭は」

「アハハ」

 和奏は笑った。

 額には紗羽が買ってきた冷却ジェルシート(冷えピ○クール)を貼ったので、

頭痛が軽くなった気がした。

 しかし何より、すぐ隣にいる紗羽と播磨の存在が大きい。

 居間では、紗羽、和奏、そして播磨の並びで横になっていた。

「ねえ、紗羽。播磨くん」


「なに?」

「どうした」

 暗闇の中、二人はすぐに返事をしてくれる。

「ずっと昔はね、お父さんとお母さん、そして私の三人で川の字になって寝てたんだ」

「そうか」

「そうなの」

「私、すごく好きだった。家族みんなでいることが」

「そうだな」

「……」

「ごめんね、変なこと言っちゃって」

「別に変じゃねェよ」

 そう言ったのは播磨だ。

「そう思うことは、誰だってあるさ」

「……ありがとう」

 和奏はこの日、久しぶりにぐっすりと眠れた気がした。





   つづく
  






 第十七話 プロローグ
 

 白浜坂高校の近くで行われる夏祭りは周辺ではかなり盛大に行われている。

 中でも西之端商店街の主催するパフォーマンスライブは毎年多数の参加者と

観客が集まる目玉企画だ。

 そのイヴェントに来夏たちの白浜坂高校ボランティア部も参加することになっていた。

「やばい、緊張してきた」

 そう言ったのは紗羽であった。

「誰だって緊張するよ」

 ウィーンは笑顔で言った。

 彼は緊張したところは見たことがない。

 老人ホームや養護施設での出し物とは根本的に違うステージでのパフォーマンスは、

彼らにとっては初めてである。

「大丈夫。練習通りやれば私たちなら勝てるよ!」

 そう言ったのは部長の来夏だ。

「それはそうと、この格好には何か意味があるの?」

 和奏はパーカーの裾を抑えながら言った。

 この日の衣装は、水着の上に夏用の白いパーカーを着たもの。

 来夏は当初、注目度を上げるために水着で歌おうと提案していた。

 けれどもそれは、和奏と紗羽の強硬な反対にあって実現しなかった。

「皆集まって」

 部長の来夏はステージ裏で部員全員を集める。

「ほら、ここで輪になって肩組んで」

 部員たちは言われるまま肩を組んで円陣を組む。

「いい、皆。狙うのは入賞とかじゃなくて、優勝だからね」

「お、おう……」

「じゃあ、行くよ。しらはまざかああああ! ファイッ!」

 相変わらず、合唱部っぽくない体育会系の掛け声で気合を入れた一同は、多数の

観客が注目するステージ上に向かう。






    TARI TARI RUMBLE!



  第十七話 そうだね。一人じゃない、か……


 



 翌日の学校。

「……」

 そこにはボランティア部の部室で机に突っ伏したまま動かない来夏の姿があった。

「まあ、アレだな。初めてのステージにしては良かったんじゃないか……」

 播磨はそんな来夏を励ましてみる。

「……」

 だが来夏は答えない。

 ボランティア部の棚には、参加賞の鉛筆とノートが飾られていた。

「……」

「なあ」

「……」

「宮本」

「……」

「おい」

「くはあああ!!」

「ぬおわ!」

 いきなり立ち上がる来夏。

 その勢いに圧されて、播磨は倒れそうになってしまった。

「どうした宮本」

「こんなところで落ち込んでいる暇はない!」


「そ、そうだな」

「よっしゃ、和奏たちが戻ってくるまでちょっと発声練習してくる」

「そうか」

「それじゃ、留守番よろしく!」

 そう言うと、来夏はダッシュで出て行ってしまった。

(まあ、あいつはこうじゃなきゃな)

 播磨はそう思いつつ、窓から外を眺めた。




   *




 一方、三年生の教室では補習授業が行われていた。

 参加者は、ウィーンと和奏の二人。

 ウィーンは海外からの転入生、和奏は音楽科からの転籍生徒なので、普通科の

単位を満たすためにこうして夏休みも補習という形で授業を受けることになっていた。

 ずっと音楽の勉強ばかりやってきた和奏にとって、普通科の勉強は難しい。

 ウィーンはお気楽なようで、結構の努力家なので、それなりに頑張っていた。

「それでは、今日はここまで」

 時計を見た担当教諭はそう言って教科書を閉じる。

「ありがとうございました」

 二人で礼をしてから、和奏たちは教科書等を片付ける。


「ねえ和奏。部室行こうよ」

 先に片付け終わったウィーンはそう言って誘ってきた。

 しかし、和奏には部活の前に済ませておきたい用事があった。

「ごめんウィーン。部室には先に行ってて」

「どうしたの?」

「ちょっと職員室に用があるから」

「うん、わかった。ケンジにはそう言っておくね」

「ありがとう」

 こうして、ウィーンと別れた和奏は一人、職員室に向かった。

 なぜ彼女が職員室に行くのか。

 そこに話を聞きたい人物がいるからである。

(本当はあんまり顔を合わせたくないんだけど)

 彼女にとっては苦手な人物。

 しかし、会わなければならない。

「失礼します」

 和奏はそう言ってから職員室に入る。

 夏休み中の職員室は節電のために蛍光灯も一部しかついておらず、人も疎らで静かだ。

 そんな職員室の一番奥の机の前に、和奏は立つ。

「失礼します、教頭先生」

「……坂井さん。どうしたの」


 ノートパソコンをいじっていた教頭の高倉直子はディスプレイから和奏の顔に視線を

向ける。

「珍しいわね。あなたが来るなんて」

「播磨くんじゃなくてごめんなさい」

「え?」

 冗談で言ったつもりだが、予想以上に動揺したので和奏は少しだけ嬉しくなった。

「ど、どうしてここで播磨くんの話が出て来るの?」

 直子はメガネをかけ直しつつ言った。

「いえ、何となくです」

「確かに、私は播磨くんと話をすることはあったけど、別に彼が来たから嬉しいとか思った

ことはないのよ」

(ツンデレ? いやしかし、この年の女性のツンデレにどれだけの意味があるのだろう)

 和奏はそんなことも考えたが、話が進まないので本来の要件を言うことにした。

「今日は播磨くんのことではないのですが」

「一体何なの。まだ仕事があるので、手短にね」

「お聞きしたいことがあります」

「何かしら」

「母のことです」

「まひるの?」

 直子の目つきが変わる。


「先生は高校時代、母と一緒に曲を作ったと聞いています。この曲を」

 そう言うと、和奏は肩にかけていた自分の鞄から、一つのファイルを取り出す。

 そこには、彼女の母、まひるが作曲したという合唱曲の楽譜が入っていた。

「『心の旋律』だったわね。確かに、あの曲には私も関わっていたわ」

「ど、どのように作ったんでしょうか」

「作った?」

「いやその、どんな風に作曲して、どんな感じで歌詞をあてていたのか気になって。

これ、すごく好きな曲なんです。この曲を、お母さんが今の私と同じくらいのときに

作って歌っていた、っていうことを知って。どんな風に作ったのか気になるんです」

「……そうね。長くなるから簡単に話すけど、中心となるメロディラインや伴奏の音は

ほとんどまひるが作ったわ」

「……お母さんが」

「ええ。私はそれを楽譜にして、曲として足りない部分を補った。まひるは、細かいことを

考えるのが苦手なタイプだったから、本当に大ざっぱに作っていたわ。

 音楽室で鼻歌を歌って。いいなって思ったらそれをピアノで弾いて、テープに録音する。

私はそれを先生に手伝ってもらいながら楽譜にしたの」

「母の、鼻歌」

 何となく、その光景が脳裏に浮かぶ和奏。

 彼女の記憶の中にいるまひるは、おそらく高校時代から変わらず明るくて元気で、そして

心優しい女性だったのだろう。

「どうして急にそんなことを聞きたいと思ったの?」

「それは……。母と同じように、私も曲を作ってみたいと思ったからです」


「そう。それで、できそうなの?」

「いえ、それが」

「だったら誰かを頼りなさい。まひるも、あなたのお母さんも一人で作ったわけじゃ

ないのよ。私や先生、それにほかの生徒たちも協力してあの曲はできたの。

 もちろん、あの子がいたからこそ完成した曲だけど、周りの力だって過小評価

できないから」

「誰かの協力ですか」

「何でもかんでも一人でやるには、限界があるものよ」

「はい……」

「話は以上かしら」

「あ、はい。ありがとうございます。とっても、参考になりました」

「そう。もう帰るの」

「いえ、これから部活です」

「そう。気を付けてね」

「はい、失礼します」

 和奏は楽譜をカバンの中に戻し、職員室から出た。

「失礼しました」

 職員室のドアを閉め、ボランティア部の部室に向かいながら彼女は考える。

(誰かの協力か……)




    *




 職員室からボランティア部の部室に行くと、入り口付近が妙に騒がしかった。

 すでに中には人がいるようだ。

「こ、こんにちは」

 そう言って部室のドアを開けると、そこには大智、ウィーン、そして播磨の三人が

集まっていた。

 真ん中にいた播磨は、何か見覚えのあるものを持っている。

「よう、坂井。用は終わったのか?」

 大智が声をかけてきたけれど、彼女の関心はすでに彼にはない。

「うん。それより、播磨くんが持ってるのって」

「これか? 大智が持ってきやがったんだよ」

 そう言って、彼が抱えているものを見せる。

「ギター?」

「おう」

 スタンダードな形のクラシックギターだ。

「播磨くん、ギター弾けるの?」

 和奏の目が輝く。

「ああ、前にも言ったけどちょっとだけな。本当、ちょっとだけだぞ」

「俺もその話覚えてたから、今日は持ってきたんだ。祖母ちゃんの家にあったやつだけどさ」

 大智はそう補足した。


「凄い! 何か弾いてみてよ」

 カバンを入口付近に置いた和奏はそう言って播磨に駆け寄った。

「何かっつわれても、最近あんま弾いてねェし」

「ねえお願い。私ね、『ギターを持った渡り鳥』が大好きなの。お母さんと一緒によく

DVD見てた」

「小林旭……。紗羽もそうだが、お前ェの趣味も渋いな」

「マイトガイ、最高だよね!」

 そう言ったのはウィーンだった。

「ウィーン、お前ェも知ってるのかよ。外国生活長かったくせに」

「お祖父ちゃんが、日本のことを忘れないようにって、色々と送ってきてくれたんだ」

「そうかよ」

「で、拳児は何が弾けるんだ?」

 大智が聞いた。

「まあ、簡単な曲だったらよ」

「皆が知ってる曲がいいな」

「ったく、ちょっと待ってろ。楽譜とかもねェし、あんまり期待するなよ」

 播磨はチューニングを終え、音を確認する。

「そうだな、Take me home country roads なんでどうだ?」

「カントリーロード?」

「僕、『耳をすませば』も大好きだよ」


 ウィーンが嬉しそうに言う。

「歌の伴奏なら、多少下手でも誤魔化せるしよ」

「そんなことないよ。伴奏って難しいんだからね、播磨くん」

 和奏は笑いながら言う。

「和奏、お前ェも歌えよ」

「え?」

「お前ェいつも、伴奏ばっかで歌わねェじゃん」

「練習の時は歌ってるよ」

「ちょっとだけだろ。俺、お前ェがまともに歌ってるとこ、聞いてねェし」

「そういえばそうだな。声はいいのに、もったいない」

 大智はそう言った。

「ワカナ、いい機会だから歌おうよ」

「恥ずかしい」

「何言ってんだ、この部活に入った時点で、恥もクソもないだろう」

 大智は男らしく言い放った。

「よし、決まりだな」

 そう言うと播磨がギターのボディーを軽く叩いてリズムを取り始める。

「ちょ、ちょっと待って」

 発声練習もしておらず、いきなりの歌に彼女は少し戸惑う。

 しかし、播磨のギターはイントロを奏で続けた。

(ええい、ままよ)

 和奏は覚悟を決め、第一声を出す。




Almost heaven

West Virginia

Blue Ridge Mountain

Shenandoah River


Life is old there

older than the trees

Younger than the mountains

Growin' like a breeze


Country Roads take me home

To the place I belong

West Virginia mountain momma

Take me home Country Roads



「凄い美味いなあ、坂井」

 1コーラス歌い終えたところで大智がそう言った。

「上手だよワカナ! ケンジもカッコイイ!」

「恥ずかしい」

 和奏は少し顔を背け、それから播磨のほうを見る。

 すると、彼は優しく頷いた。

(よかった)


 彼女がそう思った直後、ドアが開いて来夏と紗羽が入ってきた。

「何? 何やってるの?」

 まるで花の蜜の香りに誘われた昆虫のように、音楽に誘われた来夏が笑顔で聞いてくる。

「ワカナが歌ってくれたんだよ!」

 ウィーンが嬉しそうに言うので、来夏も驚いたようだ。

「ええ? そうなの?」

「う、うん」

「拳児、ギター弾けたんだ」

 紗羽は別のところに驚いているようだ。

「何の歌うたってるの?」

「か、カントリーロード」

「そうなの? 私も好きよ、その歌。ねえ、ちゃんと聞かせてよ」

「ええ?」

「ほら、私も協力するわ」

 そう言うと、来夏はどこに隠していたのかわからないマラカスを取り出し、紗羽に渡す。

「え? どこにあったのこれ」

「この前、高橋先生のお見舞いの時に持って行ったやつ。家に持って帰るのが

面倒だったんで、部室に置いておいた」

「来夏、あんたねえ」

 あきれ顔の紗羽だが、特に怒っている様子はない。


「タンバリンもあるよお」

「用意のよろしいこと」

「ほら、拳児くん。伴奏お願い」

「ったく、しょうがねェなあ」

 播磨はそう言うと、再びギターを弾き始める。

 来夏はそれに合わせてタンバリンを鳴らし、紗羽もマラカスを振る。

 ボランティア部の部室は、ちょっとしたパーティーのような盛り上がりを見せるのだった。




   *




 翌日、播磨はいつものように坂井家の店でアルバイトをして、そしてまたいつものように

夕飯をごちそうになっていた。

「播磨くん、おかわりは?」

 と、和奏は聞く。

「おお、悪いな」

 播磨は自分の茶碗を差し出す。

 いつの間にか、坂井家では播磨専用の茶碗が用意されていた。


 夕食後、播磨が荷物をまとめて帰ろうとしていると、それを和奏が呼び止める。


「あの、播磨くん」

「どうした」

「ちょっと、相談したいことがあるんだけど。時間、あるかな」

「明日学校じゃあダメか?」

「いや、忙しいならいいんだよ。無理にとは言わない。でも、ちょっと学校じゃあ

話しにくいかな」

「……わかった」

 和奏がこんなふうに言うのには、何かしら理由があるのだろう。

 そう思った播磨は荷物を置いて、居間に向かおうとした。

「あ、待って播磨くん」

「あン? どうした」

「居間にはお父さんがいるから、その。私の部屋で」

「……わかった」




   *




 播磨が坂井圭介の店でバイトをはじめてからおよそ五ヶ月目に入るけれど、和奏の

部屋に入るのは初めてだった。

 和奏が風邪で倒れた時も、彼は彼女の部屋には入ってはいない(居間で寝たから)。

 和奏の部屋は、同世代の女子に比べると少し殺風景にも思えた。

 といっても、播磨は和奏と同世代の女子の部屋は紗羽くらいしか知らないのだが。

「ごめんね、ちょっと散らかってて」

「いや、別に構わねェよ。俺の部屋のほうが散らかってるし」

「そうなんだ」

「……」

 よく見ると、部屋の奥にピアノがある。

 これで彼女はピアノの練習をしたのだろうか。

 そんなことを播磨は思った。

「それで、相談したいことってなんだ」

「それなんだけど……」

 和奏は言い難そうに、自分の机にすがりモジモジしている。

「まあ座ろうぜ。落ち着いて話もできん」

 そう言うと、播磨はその場にどかりと座り胡坐をかく。

「うん」

 和奏はばつが悪そうに床を見ていた。

「どうしたんだ一体。また、体調悪くなったか」


「い、いや。体調はいいよ。今はもう健康。アハハ」

 和奏はそう言って笑って見せる。

 しかし、無理に作った笑顔はすぐに崩壊した。

「……」

 あまりしつこく聞いても不味い。

 そう考えた播磨は、しばらく黙って彼女が喋り始めるのを待つことにした。

「あの、播磨くん」

「どうした」

「実は私」

「おう」

「作曲をしているんだ」

「作曲?」

「うん」

 恥ずかしそうに和奏は顔を伏せる。

「あの、音楽の作曲」

「そうだよ」

「凄ェなそりゃあ」

「ぜ、全然凄くないよ!」

「いやいや凄ェって。普通、あんまやるもんじゃねェし」

「そうだけど。私のお母さんもやってたんだよ。高校時代に」

「そうか。親子二代で作曲か」


「うん」

 播磨の褒め言葉に対し、和奏の反応は芳しくない。

 一体何があったのか、その先の予想は容易であった。

「で、何があったんだ」

「それが……」




   *




 窓の外はすっかり暗くなっている。

 そんな夜。時間は午後八時を過ぎたところだ。

 和奏は自分の部屋で、自分が作曲をしていることを播磨に打ち明けた。

「お母さんが生前、私と一緒に曲を作りたいって話をしていて」

「おう」

「それで途中まで曲を作っていたの」

「……」

「でも、その曲は完成しなかった」

「そうか」

 理由は言わなくてもわかる。

 和奏は何となくそんなふうに言われた気がした。


「だからね、今年になってから、私がそれを完成させようと思ったんだけど。何て言うか、

全然思いつかなくて……」

「つまり作曲がやりたいけど、それができねェってことだな」

「うん」

 和奏は力なく頷いた。

 彼女は一体この先、播磨拳児という男性にどんな答えを求めたのだろうか。

 それはわからない。

 ただ、この時彼が発した言葉は、和奏にっとっては予想外なものであった。

「よかったじゃねェかよ」

「え?」

 よかった?

 ちょっと意味がわからない。

 ずっと悩んでいたことなのに、ずっと苦しんできたことなのに。

 どうしてそれが「よかった」なのだろうか。

「なんで?」

「いやだってよ、お前ェこの前、やりたいことがないって言ってたじゃねェか。でも、ちゃんと

見つかったんだよな」

「でも、できないんだよ」

「やりたいけどできないことって言うのはよ、夢ってやつだろう?」

「夢?」

「そう。夢だ」

「夢って言うほど、大きなものじゃないよ」


「夢に大きいも小さいもねェよ。それに、どんなにデカイ夢だって、小さなことを

積み重ねて行かないとできないって、とあるメジャーリーガーも言ってたぞ」

「そうか。これって夢だったんだ」

「そうだぞ」

「そうなのかあ」

 何だか急に力が抜けた気がした和奏。

「どうした」

「ごめん。ちょっと力が抜けちゃって」

「大丈夫か」

「うん、平気。でも播磨くん」

「あン?」

「正直、どうやっていいのかよくわからない」

「わからない?」

「本とか読んで、色々勉強してはいるんだけど、この先どうしたらいいのかわからなくなって」

「わからない……」

「うん。ごめん、他に相談できる人がいなくて。実は昨日、教頭先生にも聞いてみたんだ」

「教頭?」

「うん。教頭先生はお母さんと友達だったから、お母さんが昔どんな風に作曲してみたか、

聞いてみたの」

「で、どうだった」


「お母さん一人じゃなくて、色々な人に協力してもらって、あの曲ができたって言ってた。

だから、私も誰かに協力してもらいなさいって、先生が」

「そんで俺に言ったわけか」

「ごめんね。迷惑かけて」

「いや、構わねェよ。いつもメシ食わしてもらってるし。同じ部活の仲間でもあるし」

「仲間か……」

「しかし作曲ってのは俺の専門外だな」

「ごめん」

「だから謝るんじゃねェ。ほかに使えるやつを使っていきゃいいさ」

「使える?」

「おう、任せとけ」

 播磨の笑顔はとても頼もしく、ずっと見ていると泣きそうになってしまうので、和奏はとっさに

顔を背けた。




   *





 翌日、播磨と和奏は部室にあつまった部員に、作曲の話をした。

「ごめんみんな。この時期迷惑なのはわかってる。でも、協力して欲しいんです」

 そう言って和奏は頭を下げる。

「……」

 播磨はそれを黙って見つめていた。

「顔を上げてよ和奏」

 そう言ったのは来夏だ。

「私たちは同じ部活の仲間だよ。誰かが困ったときは皆で助け合う。当たり前じゃない」

 来夏は軽く片目を閉じる。

「そうだよ和奏。私たちもできることをやるよ。しかし凄いわね、作曲なんて」

 紗羽もそう言って親指を立てる。

「ったく、困ったときはお互い様ってな」

 大智も元気に呼びかける。

「そうだよワカナ。一緒に作って行こう」

 笑顔でウィーンも言った。

「みんな、ありがとう」

 そう言うともう一度、先ほどよりも深く頭を下げる和奏。

「オラ、いつまでやってんだ和奏」

 そんな彼女に播磨は声をかける。


「播磨くん」

「下じゃなくて前を向け。じゃないと進めねェぞ」

「……うん」

 そんな話をしていると、

「それで、具体的に何をやるの?」

 来夏は聞いてきた。

「それは……」

 和奏が口ごもっている。

 その時、

「宮本。お前ェ元声楽部だったよな」

 播磨が動き出す。

「そうだけど?」

「楽譜とか読めるな」

「バカにしないで。できるわよそれくらい」

「だったらお前ェ、和奏の作った音を楽譜にする作業を手伝ってやってくれ」

「そのくらいおやすい御用よ! 伊達に一年間“譜めくり”はやってないわ」

「来夏、それは自慢にならないんじゃ……」

 和奏が苦笑している間、播磨は次の指示を出す。

「紗羽」

「はいっ」

 急に声をかけられて紗羽は驚いたようだ。


「お前ェ、アレだ。録音機器とか、学校から借りてきてくれねェか。できれば、音楽室か

放送室を使える時間も調べてもらえるとありがてェ」

「OK、任せて」

 紗羽は親指と人差し指でマルを作って見せた。

「それからウィーン」

「はいなっ」

「お前ェん家、金持ちだったな」

「そうかな?」

「音楽系のソフトがインストールされたパソコンを一台用意してくれ」

「わかったよ。お祖父ちゃんに頼んでみよう」

「ええと、それから……」

 部室の中で、期待に満ちた目で播磨を見る男が一人。

「大智……」

「おう、なんだ。何でもするぞ」

 田中大智はそう言った。

「お前ェは……、特にねェな」

「ふぁっ!?」

「そうだな。バドミントンのラケットでエアギターでもしてもらうか」

「おい、どういうことだ」

 さすがにこの扱いに、部長の来夏は抗議した。

「酷いよ拳児くん! いくら田中が役立たずだからって、この扱いはないじゃない!」


 ウィーンもそれに続く。

「そうだよケンジ! 確かにタイチは役立たずかもしれないけど、仲間なんだよ! 

役立たずだけど!」

「おいちょっと待てお前ら! 何気に拳児より酷いぞ!」

 さすがの大智もこれにはキレたようだ。

「ああ、わかったわかった。じゃあこうしよう」

 というわけで、大智は紗羽と一緒に機材調達や場所の確保をやることになった。

 


   *



「ありがとう、播磨くん」

 和奏の作曲のため、バタバタと支援作戦が進行している最中、彼女は播磨に言った。

「礼を言うのは曲が完成してからにしな。まだ先は長い」

「うん。わかってる。でも、完成しないかもしれないのに」

「なあ、和奏」

「え?」

「夢を追うってのは、元々不確実性が高いもんだ」

「うん」

「もしかしたら失敗するかもしれねェ。ダメになることだってある」


「……そうだね」

 和奏の胸の中に、苦い思い出がよみがえる。

「それでも進んでいくってのは、辛いことなんじゃねェかと思う」

「……」

 和奏は黙ってうなずいた。

「でもよ」

「え?」

「自分は一人じゃねェって思ったら、少しは楽になるんじゃねェかな。気持ちだけでも」

「そうだね。一人じゃない、か……」

「こらあ、拳児くーん! サボッてないで手伝ってよお!」

 やたら張り切っている来夏が播磨を呼ぶ。

「ほんじゃ、俺もやるか」

 そう言うと播磨は一歩前に出た。

「……」

 和奏はこの時、曲のことよりも播磨の後ろ姿を見ながら、

(ここで彼の手を握ったらどうなるだろう)

 ふと、そんなことを考えたりしてしまった。




   つづく





 第十八話 プロローグ


 その日紗羽が学校に行くと、部室で参考書を読んでいる大智がいた。

「おはよう、相変わらず早いのね」

「どうも」

 大智は参考書から目を離さずに言った。

「ウィーンと和奏はまだ補習?」

「そうだな」

「拳児と来夏は?」

「なんか、面白い物があるとか言って出て行った」

「……そう」

「……」

 話が続かない。

 そういえば、こうして大智と二人きりで話すということが今までなかったからだ。

 何を話せばいいのだろうか。

 それとも無理に話をする必要はない?

(来夏、早く戻ってこないかなあ)

 そんなことを思っていると、大智のほうから話しかけてきた。

「ところで沖田」

「なに?」


「お前、拳児のことが好きなんだろう?」

「ファッ!?」

「変な声出すなよ」

「……ごめん。でもなんでいきなり」

「いきなりってわけじゃねえよ。そんなの、普通に見てたらわかるだろうが」

「普通に? 見たらわかる? ……だと?」

「まあ、拳児もわかってんじゃないかな」

「そうなの? いや、でも。い、一緒に暮らしているんだから、仲良く見えるだけじゃ

ないかな。拳児とはその、特別な関係ってわけでもないし」

「お前はそれでいいのか? 沖田」

「何が」

「そのままでいいのかって聞いてるの。今の関係ってのは、確かに心地いいもん

かもしれんけど、いつまでもその関係を続けるわけにもいかんだろう」

「……」

「白祭(白浜坂高校文化祭)が終わればこの部も終りだ。その先、考えてんのか」

「別に、田中には関係ないし」

「確かに俺には関係ない。けど、坂井や宮本には関係あるんじゃないのか」

「……」

「特に坂井、ありゃまず間違いなく拳児にアレだぞ」

「アレ?」

「そう、アレ」

「……」

「早めに結論出したほうがいいかもな」


「そんな」

「祖母ちゃんが言ってたんだけどな、人生における決断の機会は、大抵準備が不足している

うちにやってくるってな」

「人生とか大げさな……」

「そうかね。今のうちにやれることやっといたほうがいいと思うけどさ。後悔しないように」




   *




「へっくしょん」

 職員室で仕事をしていた教頭の高倉直子は、思わずくしゃみをしてしまった。

「あれ? 教頭先生。風邪ですか」

 たまたま近くにいた山中教諭(独身)が聞いてくる。

「別に、体調にはいつも気を付けているつもりよ」

「じゃあ、花粉ですかね」

「夏なのに?」

「最近は、夏でも花粉症が出るらしいですよ。稲花粉とか」

「そうかしら」

「もしくは誰かが噂しているとか」

「生徒に陰口をたたかれるのは教師の運命みたいなものよ」

 そう言うと直子は口や鼻の周りを念入りにハンカチで拭い、再び仕事に取り掛かった。







            TARI TARI RUMBLE! 



 第十八話 花火ってね、どこで見るかじゃなくて、誰と見るかが大事なんだよ





 夏休みの補習を終えた和奏がウィーンと一緒にボランティア部の部室に行くと、

「んー! んー!」

 来夏が播磨に抱えられ、口も押えられていた。

「何しているの?」

「おう、和奏か。ちょっとコイツが暴れてよ」

 播磨はそう言うと来夏を解放する。

「ぶはあ! 死ぬかと思ったあ!」

 顔を真っ赤にした来夏がそう言って深呼吸する。

「一体何があったの?」

 和奏が聞くと、来夏ではなく近くにいた紗羽が説明した。

「来夏が体育館に行ったら、そこで練習していた声楽部の子に挑発されたんですって。

それで、怒って」

「播磨くんに止められたと」

「そういうこと」

「来夏ったら」

 二人の会話に、来夏は抗議する。

「だってあの子たち酷いんだよ! 私たちのやってることをお遊びとか自己満足だって言うの! 

確かに名目上はボランティア部だけど、歌に対する情熱は本物なんだから!」

 来夏の気持ちはよくわかる。誰だって自分たちの活動をバカにされた腹も立つだろう。


 ただ、彼女のように暴れるようなことはさすがにない。

「ああもう、怒ったら疲れちゃった。拳児くん。ジュース買ってきて」

「お前ェが勝手に暴れて疲れたんだろうが。なんで俺が」

「オレンジジュース」

「話聞け!」

「じゃあ僕が買ってくるよ」

 そう言ったのはウィーンだ。

「お、いいね。ウィーン」

「部長のためだし」

「おい、ウィーン。別にコイツのためにそんなことしなくても」

「じゃあ、私『やーいお茶』お願い」

 紗羽はそう言った。

「……女って怖ェな」

 播磨は独り言のようにそうつぶやくのを和奏は黙って見つめていた。




   *




「では、早速今度の予定をお知らせしたいと思いまーす」 

 ウィーンの買ってきたオレンジジュースを飲んで、若干機嫌の直った来夏はそう言った。

「で、何するんだ?」

 播磨は聞いた。

「皆、明日の予定はちゃんと開けておいた?」

 来夏はそう呼びかける。

「はーい」

 ウィーンだけが声に出して返事をした。

 あとは全員頷くだけだ。

「大丈夫ね。うんうん」

 その様子を見て来夏は満足そうに頷く。

「だから何すんだよ」

「夏なんだから決まってるでしょう? 夏休み前にもちょっと言ったけど、明日は

地元の花火大会があります!」

 来夏はそう言って、どこからともなく花火大会のポスターを取り出す。

「バーン」

「口で言うな口で」

「確かに夏休みの予定で『花火大会』は入ってたけど、具体的に何をするんだ? 

まさか花火を見るだけで終わるってわけでもないだろう」

 田中はそう言った。


 確かにその通りだと播磨も思う。

「ウフフ……」

 来夏はまるで弟の風呂を覗いたときのような不敵な笑みを浮かべている。

(この女、何かをたくらんでいやがる……!)

「今回の花火大会、女子と男子では少し行動がちがいます」

「はあ?」

 男性全員の頭の上に『?マーク』が浮かび上がる。  

「ええとね、男子はこっち。女子は、また後で知らせるから」

 そう言うと、来夏は播磨たちに一枚の紙を配る。

「『西之端花火大会、ボランティア参加要項』ってなんだこりゃあ!」

「見ての通りよ! すでに参加登録は済ませてあるから」

 相変わらず無駄な行動力だと播磨は思った。

「おいちょっと待て、なんで俺らが祭りのスタッフなんか」

「だってウチらはボランティア部だよ。しっかりボランティアやらないと存在意義がないじゃない」

「全然聞いてねェぞ」

「だって言ってないもん」

「おい!」

「はい、次。話進めるよ。今日の夕方、公民館で打ち合わせがあるから男子は全員参加ね」
 
「なんじゃそりゃ」


 憤る播磨に対し、大智とウィーンはいつも通りだった。

「まあアレだな。宮本の突拍子のない行動は今にはじまったことじゃないし」

 と、大智。

「祭りの警備もやるんだね。なんか警備ってカッコイイな。ヒーローみたいで」

 ウィーンもノリノリである。

「警備員は大変だぞ」

 それも仕事ならともかくボランティアだ。

「拳児は経験あるのか?」

「ああ、少し前にイヴェントの警備員のバイトをやったことがある。とにかく人が多くて大変だった」

「おっし。経験者がいるなら安心だね」

「何がどう安心なんだよ」

 その後、男子陣は公民館に行き、女子陣は学校でとある練習をしてから帰宅することになった。





   *




 同じ日の夕方。

 紗羽が帰宅すると、玄関にはまだ播磨の靴はない。

(播磨くん、まだ帰ってないんだな)

 紗羽はいつの間にか毎日播磨の帰宅を確認している自分に苦笑する。
 

『早めに結論出したほうがいいかもな』


 その時、大智に言われたことを不意に思い出す。

(結論って、どうすりゃいいのよ)

 よくわからないまま、紗羽は靴を脱いで家にあがる。

「ただいまあー」

 人の気配のする居間のほうに声をかけると、

「あら紗羽。おかえり。ちょっと来てくれる?」

 居間のほうで母が呼んでいた。

 夕食にはまだ早いはずだが。

「どうしたの?」

 そのまま居間を覗くと、母の志保が色々と着物を出していた。

「どうしたの? 母さん。これって」

「ああ。おかえり。明日の花火大会、行くんでしょう?」

「うん、そうだけど」


「今ね、明日着ていく浴衣を出してたの」

「浴衣」

「そう、浴衣。夏祭りと言えば浴衣じゃない?」

「そうかな」

「そうよ。だから、明日のために浴衣を用意しようと思って」

「本当に?」

「ええ。本当よ。私のおさがりで悪いんだけど」

「いや、十分だよ。浴衣なんて久しぶり」

「これを着れば播磨くんなんてイチコロよ」

「え?」

「イチコロよ!」

「べ、別にそんな」

「うふふ。照れない照れない」

「別に照れてないから!」

 紗羽は播磨が帰ってくる前に試着を済ませ、明日に備えた。





   *




 翌日。

 まだ日が高いうちからボランティア要員は集められ、祭りの説明をされる。

「祭りっつっても花火だけじゃないんだな」

 スケジュールの紙を見ながら大智は言った。

「夏の風物詩だし、儲けたいと思うやつはたくさんいるさ」

 播磨も言う。

 この日の花火大会では、多くの屋台や出店が設置されており、また花火の前に

は各種のイベントまで用意されている。

 どうでもいいがイベント好きな街だな、と播磨は思うのだった。

「それにしても二人とも、カッコイイね」

 そう言ったのはウィーンだ。

 三人ともボランティア専用のお揃いのTシャツを着て、腕章をつけ首から名札をぶら

下げている。

 どこにでもいるようなイべントのスタッフである。

「これがカッコイイって、ウィーンのセンスはわからねェな」

 大智は自嘲気味に言った。

 確かに一般人とは違う格好ではあるけれども、祭り会場の各所にいた本物の警備員や

警察官に比べたら明らかに見劣りする姿である。

「それでは、各自先ほど説明しました配置についてください」

 イベントスタッフのリーダーらしき中年の男性が全員に呼びかける。

「じゃあな、お前ェら」


「うん、頑張ってね」

「頑張れよ」

 播磨、ウィーン、大智の三人はそれぞれ別々の場所で人員整理や警備を行う

ことになった。

 播磨の担当区域には、まったく知らない人もおり、会話もほとんどないまま時間

だけが過ぎて行った。

(早く終わらねェかな)

 播磨のいる場所は、カラオケ大会などが行われるステージの近く。

 ここで会場裏に出場者以外の人間が入ってくるのを防ぐのが彼の役目だ。

(俺みたいに、あんまり見た目のよくない人間は、こういう風に人目につかない場所に

いさせたほうがいいって、方針かよ)

 寂しさのあまり、つい良くない方向に妄想してしまう播磨。

(それにしても暇だ)

 普段は、てきぱき動くタイプの彼にしてみれば、こんな風に何もせずに立っているだけの

仕事はあまり得意ではなかった。

しばらくして日もかげってくると、祭囃子に誘われた家族連れや子供たちが次々に

集まってきた。

 夏のはじめにも祭りに参加したけれど、その時はステージの出場者だったので、出店や

屋台に行くことができなかったことを思い出す。

 そして今日も、ボランティアとして花火大会の警備をしてるので、全然祭りに参加できていない。

 最初のころは、退屈だと思っていた警備の仕事も人が集まってくると、迷子の子どもが出たり、

落し物をしたと訴える老人、トイレはどこかと聞いてくる若者などの対応で忙しくなってきた。


 そして、いよいよ祭りも本格化したところで見覚えのある男女が声をかけてきた。

「お疲れ拳児くん。しっかり働いてる?」

「志保さん、それに正一さんも」

 下宿先の沖田正一・志保夫妻だ。二人とも夏祭りらしく浴衣を着ている。

「やあ、頑張ってるようだね」

 と、正一は言った。

 なぜかこの人と会うのは久しぶりな気がする播磨であった。

「どうもッス」

「スタッフTシャツ、似合ってるじゃない」

 浴衣姿の志保が言う。

「そうッスか。志保さんもその浴衣、すごく似合ってるッスよ。とてもおキレイです」

「ええ? やだ聞いた? お父さん、ねえお父さん!」

 志保は嬉しそうに隣の正一をバンバン平手で叩く。

「痛い痛い、わかったから。社交辞令だろうが」

 正一も浴衣姿だが、彼の和服姿は毎日作務衣や僧服で見慣れているのであまり新鮮には

感じなかった。

「和奏ちゃんはまだ来てないの?」

「え? 今日は全然会ってないッスけど」

「そうなの。もうすぐ来るはずだけどね」

「そういや、正一さん。何持ってるんッスか」


 正一は浴衣姿にはあまり似合わない黒のショルダーバッグを持っている。

「あ、これ? これはビデオカメラが入ってるの」

 正一の代わりに志保が答える。

「ビデオカメラ? 盗撮でもするんッスか?」

「するか!」

 正一は怒った。

「やだお父さん。冗談を真に受けないで」

「僧侶が盗撮とかシャレにならんだろう」

「でも似たようなものでしょう?」

「は?」

(似たようなもの?)

 一体何をしようとしているのか。

「今日はね、娘の晴れ姿を撮るの」

「晴れ姿……?」

 一瞬何のことかよくわからなかったが、志保の言った言葉の意味はそのすぐ後に

わかることになる。

 志保たちがどこかへ行ってから、播磨は再び孤独な警備に戻る。

 更に時間が経つと、変な格好をした集団が別のスタッフに先導されてステージ裏へと

入って行く。

 中には普通の制服姿や、浴衣姿も見える。

 播磨は時計を見た後、ポケットの中に入れておいたイベントの進行表を確認した。


 するとそこには、仮想大会やカラオケ大会、などという項目が並んでいる。

 なるほど、それの出演者か。

 そう思った瞬間、近くのスピーカーが鳴る。

 どうやらこれからステージでイベントがはじまるようだ。

 司会者らしき男女がステージ上で何か喋っていたけれど、播磨のいる場所がちょうど

ステージ裏付近だったのと、播磨自身がステージに興味がなかったために、何を言って

いるのかほとんどわからなかった。

「すいませーん、通してください」

「あン?」

 再び聞き覚えのある声が聞こえてきたと思ったら、それは見飽きた三人組であった。

 しかも浴衣姿。

「お前ェら、こんなところで何やってんだ」

「おや、拳児くん。こんなところにいたんだ」

 そう言ったのは来夏だ。

 セミロングの髪の毛をアップにしており、少し大人っぽく見える。

 何より彼女は赤い浴衣姿だった。

 もちろん浴衣を着ているのは来夏だけではない。紗羽も和奏も、三人とも浴衣を着ていたのだ。

「なんだお前ェら、そんな格好で」

「……」

 和奏は恥ずかしそうに目を伏せる。

「あんまり見ないで」


 紗羽は、少し身をくねらせるようにして言った。

「モジモジしてキモイな、お前ェ」

「バカッ!」

「はいはい、喧嘩は後後。さあ、行くよ」

 来夏はそう言って紗羽の背中を押す。

「お前ェら、ステージに何の用だ」

「ほら、これ」

 来夏は一枚の紙を見せる。

 それはステージで行われるイベント参加者に配られる通行許可証であった。

「お前ェらも出るのか?」

「そうよん。それが私たちの役目。白校(しらこう、白浜坂高校の略)ボランティア部の

代表として、カラオケ大会に出るの」

「聞いてねェぞ」

「言ってないもん」

 その時、播磨は紗羽の父、正一が持っていたビデオカメラのことを思い出した。

(なるほど、娘の晴れ姿ってそういうことか)

 納得したように紗羽を見ると、彼女はまだ怒っていた。

「何怒ってんだよ」

 と、播磨は言ってみる。

「怒ってないから」

「紗羽はね、緊張してるんだよ」


「そういや、海のステージでも緊張してたな」

「うるさい」

「出演者の方ー! 早く集まってくださーい!」

 別のスタッフが奥で呼んでいる。

「あ、呼んでる。行かなきゃ」

「早く行け」

「わかってるよ」

 彼女たちは早足で、スタッフのところに行こうとする。

「ああ待て、お前ェら」

 そんな三人を播磨は呼び止める。

「何?」

「どうしたの?」

「播磨くん」

「お前ェら、浴衣、似合ってるぞ」

「ほえ?」

 来夏はポカンとして、

「バカ……」

 紗羽は恥ずかしそうに悪態をつき、

「……ありがとう」

 和奏は礼を言った。

 三者三様の反応を見た後、播磨は元の仕事へ戻るのだった。




   *




 ステージでイベントがはじまると、祭り客の多くがステージに集中してしまうため、

ステージ裏付近の警備は暇になってきた。

 とはいえ、不審人物が入らないように見張るのは重要な任務なので、持ち場を

離れるわけにはいかない。

 その間もイベントは進行していき、カラオケ大会も始まった。

 ステージ裏からも音は聞こえるけれど、スピーカーは正面についているので、

播磨のいる場所からはあまりはっきり聞こえないのが現実である。

(音は悪いけど、あいつらの声くらいは聞こえるだろう)

 そう思い、別のことを考えようとしていると、不意に誰かが声をかけてきた。

「よっ、播磨くん」

「店長」

 播磨と同じスタッフ用Tシャツを着た和奏の父、坂井圭介であった。

 彼もこのまつりにスタッフとして参加していたのだ。

「どうしたんッスか」

「本部の仕事が暇になったんで、現場の支援だよ」

「お疲れ様ッス」

「ここ、代わるよ。休憩しておいで」

「いや、でも」

「全然休んでないだろう?」

「さっき、ちょっとだけ休みましたよ」

「おいおい、折角俺が気をつかってやってんだぞ、播磨くん」


「気? オーラ?」

「和奏のステージがもうすぐ始まる。正面から聞いてやれよ」

「いや、でも。そしたら店長は」

 父親なら、娘の活躍は見たいはずだ。

 先ほどの沖田夫妻のように。

「俺はいいって。あいつの歌、沖田さんがビデオに撮ってくれるっていうから」

「あ、そういや持ってましたね。ビデオカメラ」

「だから行ってきな。見たいんだろう?」

「いや……、ありがとうございます」

 そう言うと、播磨は軽く頭を下げる。

「いいってことよ。若者を応援すんのも、年寄りの勤めだからな」

「まだ若いッスよ」

「気を遣わなくてよし。子どもは大人に甘えるもんだ。それより、和奏のステージ

見逃したら許さんぞ。早く行け、店長命令」

「公私混同ッスよ」

「仕事の後一緒に飯食ってるのに、何言ってんだ」

「それじゃ、失礼するッス」

「頑張れよ」

 何を頑張ればいいのかよくわからなかったが、とりあえず播磨は三人を見るために

正面へ向かった。




   *


 表の会場は人が多く、とてもゆっくり近くで見られる状態ではなかった。

 それでも、裏で聞いているよりもしっかりと音が聞こえるし、何より出演者の

顔が見えるのがいい。

 都合のいいことに彼が出てきてからすぐに、白浜坂の三人娘が登場した。

《こんばんわ。次は可愛らしい三人組の登場です》

 司会者の女性(この人も浴衣)はそう言ってマイクを向ける。

 それに対し、来夏は両隣の二人を見てタイミングを測る。

《せーのっ、私たち、白浜坂高校ボランティア部ですです》

 三人は声を合わせたつもりだったが、若干紗羽の声がズレてしまったようだ。

 大丈夫か、この三人。

《ボランティア部はどんな活動をされているんですか?》

《はい、今日もウチの男子部員がこの花火大会のボランティアスタッフとして働いてます》

 来夏が元気よく言うと、会場がドッと沸いた。
 
 続いて、来夏に比べて緊張気味な和奏にマイクが向けられる。

《今日は、現在産休で休んでおられる顧問の高橋先生と、私たちの分まで働いてくれている

男子部員のために歌います!》

 そう言うと、会場から拍手が聞こえた。

《はい、それでは歌っていただきましょう。曲は、夏と言えば、花火と言えばこの曲しかない

でしょう。『sercret base ~君がくれたもの~』です!》

 イントロが流れると、三人の雰囲気が変わる。

 緊張して固くなっていた紗羽や和奏の表情も、遠くからではよくわからないけれど、強い

意志だけは感じた。




 君と夏の終わり 将来の夢 大きな希望 忘れない

 10年後の8月 また出会えるのを 信じて

 最高の思い出を……




 出会いは ふっとした瞬間 帰り道の交差点で

 声をかけてくれたね“一緒に返ろう”

 僕は照れくさそうに カバンで顔を隠しながら

 本当は とても とても 嬉しかったよ


 あぁ 花火が夜空 きれいに咲いて ちょっとセツナク

 あぁ 風が時間とともに 流れる


 嬉しくって 楽しくって 冒険も いろいろしたね

 二人の 秘密の 基地の中


 君と夏の終わり 将来の夢 大きな希望 忘れない

 10年後の8月 また出会えるのを 信じて

 君が最後まで ココロから“ありがとう”叫んでたこと 知ってたよ

 なみだをこらえて 笑顔でさよなら せつないよね

 最高の思い出を……


 あぁ 夏休みも あと少しで 終わっちゃうから

 あぁ 太陽と月 仲良くして



 君が最後まで心から“ありがとう”叫んでたこと 知ってたよ

 涙をこらえて 笑顔でさようなら せつないよね

 最高の思い出を……


 突然の 転校で どうしようもなく

 手紙 書くよ 電話をするよ 忘れないでね 僕のことを

 いつまでも 二人の 基地の中


 君と夏の終わり ずっと話して 夕日を見てから星を眺め

 君の頬を 流れた涙は ずっと忘れない

 君が最後まで 大きく振ってくれたこと きっと忘れない

 だから こうして 夢の中で ずっと永遠に……


 君と夏の終わり 将来の夢 大きな希望 忘れない

 10年後の8月 また出会えるのを 信じて

 君が最後まで 心から“ありがとう”叫んでたこと 知ってたよ

 涙をこらえて 笑顔でさようなら せつないよね

 最高の思い出を……

 最高の思い出を……





 曲が終わると、会場は割れんばかりの拍手に包まれた。

(やっぱコイツら、歌うめェな)

 そう思いつつ、播磨は持ち場に戻る。


 

   *




 花火が始まるころになると、播磨は再び別の場所の警備を担当することになった。

 祭り客の多くが花火見物に移るからだ。

 中には、花火のためにわざわざゴザやシートを敷いている連中もいる。

『ゴミは捨てないでくださーい! ワンちゃん猫ちゃんはご遠慮ください!』

 係員や警備員が注意を促す。

 それにしても人が多い。

 午後八時過ぎに花火がはじまる。

 神宮とか隅田川の花火のように、それほどたくさん打ち上げられるわけではないけれど、

それでも人は多い。

「それ以上は入らないでください」

 そんな風に人を整理していると、

「拳児くん!」

 聞き覚えのある声が聞こえた。

「お前ェら」

 来夏、紗羽、和奏の三人だ。

 ステージで熱くなったのか、やや顔が紅潮している。

「ステージ、見てくれた?」

「ああ、ちょうど交代してくれたからな」

「どうだった?」

「いや、よかったぞ。お前ェら、歌上手いな」


「当たり前じゃん」

 来夏は胸を張る。

「ちょっと前まで人前で歌えなかったやつがよく言う」

 そう言って播磨は来夏のおでこをちょこんと突いた。

「ふにゃっ」

「お前ェらもよかったぞ」

 そして和奏と紗羽にも声をかける。

「別に私は」

 紗羽は視線を逸らし、謙遜する。

「謙遜すんな、お前ェ歌上手いってよ。それと和奏」

「はい」

「お前ェも、すごく良かったぞ」

「う、うん。ありがとう……」

「ほら、サボってないで仕事してよ!」

 来夏がそう言って播磨の尻を平手で叩く。

「いでっ! お前ェらが邪魔するんじゃねェか。それよか、お前ェら。こんなところに

いていいのか」

「へ?」

「もうすぐ花火がはじまるぞ」

「そうなの?」

「見えやすい場所、行かなくていいのかよ」


「こっからでも見られるよ」

「ここは人が多い」

「肩車してよ」

「バカおっしゃい!」

「ケチ」

「スタッフに肩車させるっておかしいだろ」

「まあいいよ。ここで見る」

「いいのかよ」

「別にいいんじゃない? これだけ人がいたら、どこで見ても同じよ」と、紗羽は言った。

「私は、別にどこでも」

 和奏もそれに続く。

「別にお前ェらがいいんならいいけどよ」

 そんな播磨に、来夏は呼びかける。

「ねえ拳児くん」

「どうした」

「花火ってね、どこで見るかじゃなくて、誰と見るかが大事なんだよ」

「そんなもんかね」

「そうだよ」

 来夏のいうことは、少しだけわかる気がする。

 八月の空に、少しの時間だけ咲く花火。

 その時間を共有できるっていうのは、確かに貴重なことなのかもしれない。





   つづく 




 secret base ~君がくれたもの~(2001年・ソニーミュージックレコーズ)

 作詞・作曲:町田紀彦

 歌:宮本来夏/沖田紗羽/坂井和奏
 




 第十九話 プロローグ


 花火大会の翌日。前夜の疲労を抱えた播磨が部室に行くと、そこにはやや深刻な

表情をした来夏がいた。

「どうした宮本。体調でも悪いのか。それともアレか」

「拳児くん」

「あン?」

「温泉旅行もらった」

「はあ?」




   *



 大智や紗羽たちも到着したところで来夏が説明をする。

 どうやら昨夜の花火大会のプレイベントとして行われたカラオケ大会で、来夏たち

ボランティア部の三人が最優秀賞を獲得したらしい。

 それで、優勝賞品が一泊二日の温泉旅行ペア宿泊券。

 三人につき、一組ずつもらったから合計六人で行けることになる。

「それでどうするか、今回は皆で話し合いたいと思います」

 来夏の背中にあるホワイトボードには「温泉宿泊券について」と書かれていた。

 花火大会でのボランティアもそうだが、基本独断専行の来夏にしては、事前に意見を

求める行為は珍しい。


 最初に意見を出したのは大智だった。

「宿泊券を売って金にしたらどうだ? 部費も不足しているわけだし」

「はい却下!」

 しかし来夏は大智の意見をすぐに斬り捨てる。

「そんな夢のない提案は却下よ」

「夢って」

「はい! 行けるんだったら行ったほうがいいと思います」

 と、ウィーンは言った。

「行くのはいいけど、高校生同士で温泉っていうのはその……」

 和奏は弱気だ。

 確かに、彼女の父親は反対するかもしれない。

「そしたらよ、いっそのこと『合宿』ということにしたらいいんじゃねェのか?」

 と、播磨は意見を言ってみた。

「合宿?」

「おう。元々予定にあったわけだから」

「なるほど、合宿か。それならいいかも!」

 来夏は目を輝かす。

「いよっしゃ! 温泉旅館で温泉合宿! 決まりだね!!」

 何だかよくわからないけれど、来夏が喜んでいるようなのでそれでいいかと思う

播磨なのであった。







         TARI TARI RUMBLE!


 第十九話 無理なんかしてないもん。私、気になるだけだし





「こ、これは……!」

 カラオケ大会の賞品として温泉宿泊券(電車代も含む)を手に入れた白浜坂高校

ボランティア部の六人は、大きな期待を胸に温泉旅館へと向かった。

 しかし、彼ら、彼女らの期待は大きな不安へと変わるのだった。

「ここ、だよね。間違いないの?」

 来夏は不安そうに聞く。

「確か、案内にはそう書かれているんだけど」

 パンフレットを読みながら紗羽は言った。

「雰囲気あるなあ……」

 木造の温泉旅館。月鳴館。

 名前は別にいいのだが、なぜか建物全体から不穏な空気が漂っている感じがした。

(一泊二日で良かった)

 そう思う播磨。

 この旅館に二日は泊まりたくない。

「すいませーん。予約していた宮本ですけど」

 来夏はそう言って、玄関先から中に呼びかける。

 暗い。

 旅館の中は暗かった。

 日本家屋独特の暗さと言ったらいいだろうか。それ以上に何か不気味なものを感じる。


「いらっしゃいませ」

 ふっと、闇の中から白い塊のようなものが現れる。

「ひっ!」

 隣りにいた和奏が思わず紗羽に抱き着く。

「おい、よく見ろ」そんな和奏に播磨が声をかける。

 闇の中から出てきた白い塊は、白の割烹着を着た老女であった。

 背が極端に低く、少し猫背気味だ。

 そして髪の毛は白く、顔には深いシワが刻み込まれているようだ。

「あ、どうも。予約していたミヤモトです。六名ですけど」

「お待ちしておりました、宮本様。遠いところからようこそおいでくださいました。どうぞこちらへ」

 老女は不気味な笑顔を浮かべ、全員を招き入れる。

「……」

 播磨たちは不安を感じたけれども、案内されるまま部屋に通された。




    *




 播磨とウィーン、それに大智の三人は、「亀の間」と呼ばれる部屋に通された。

「亀か……」

 よくわからないけれど、何となくかび臭い部屋だと思った。

「どうぞごゆっくり」

 先ほどの老婆はそう言うと、ゆっくりと襖を閉める。

「……」

「……」

 重苦しい空気。

「わあ、畳だあ。僕の家、畳の部屋がないから嬉しいなあ」

 しかしそんな中、ウィーンだけが明るかった。

「ケンジ、タイチ。ツボがあるよ! 高いのかなあ」

「ウィーン、お前ェこういう旅館に泊まったことはねェのか?」

「うーん、小さいころ泊まったことがあるみたいだけど、ほとんど覚えていないなあ。

それより、布団で寝るって、楽しそうだね」

「お、おう……」

 彼にとって珍しい和室ではしゃぐウィーン。

 一方大智は、播磨と同じような心配をしていた。

「ケンジ。この部屋なんかおかしくないか?」

「お前ェもそう思うか」

「妙にかび臭いっていうか、湿気てるっていうか。いや、それだけじゃなくて、もっとこう

根本的に」


「この旅館自体怪しいってことだろう?」

「そうだな。玄関先から怪しい雰囲気がプンプンしていたしな」

「なんでこんなに暗いのかな」

「いやあ、この旅館涼しいねえ。冷房も入ってないのにい」

 ウィーンが嬉しそうに言った。

「外はあんなに暑いのに、なんでこんなに涼しく感じるんだ? 確かに伝統的な

日本家屋は涼しく感じるような構造にはなってるけど、こいつはいくらなんでも

おかしいだろう」

「……わからねェよ。とにかく今はそんなこと考えてもしょうがないだろう」

「確かに」

 仮にこの旅館が何かおかしくても、播磨たちは建築家でもなければ寺生まれ

でもないのでどうすることもできない。

「いや、待て」

 播磨は言った。

「どうした」

「そういや、寺生まれがいたな」

「は?」

「とりあえず、宮本たちと合流しよう」

「お、おう」

「確か、『鶴の間』だったよな」

「そうだな」





   *





 来夏たちが通された「鶴の間」。なぜか男子たちが止まっている亀の間とは対極に

位置している。

 部屋は広いし清潔だし、ちょっとかび臭いところを除けば申し分ない。

 しかし、それでも彼女たちの不安はあった。

「お化けとか出そう……」

 ポツリと和奏がつぶやく。

「ひいっ!」

 その言葉に真っ先に反応したのは紗羽であった。

「どうしたのよ紗羽」

 あきれ顔の来夏が聞く。

「私、お化けとか幽霊とか苦手なのよ」

 自然と身体が震えてくる。

「ちょっとやめてよ紗羽。あんた寺生まれでしょう?」

「確かに私寺生まれだけど、お母さんみたいに特殊能力とかないし」

「志保さんって、特殊能力あったんだ……」

 和奏は小声でつぶやく。

「知らないの? 紗羽のお母さんは確か、“白浜坂の地獄少女”って呼ばれたほどの

霊感少女だったらしいよ」

 なぜか得意気に話す来夏。

「何なの、それ」


「でも大人になってからは能力が減退して、引退したって話だけどね」

「じゃあ紗羽にも、その血が流れているの?」

「流れてないから! そういう遺伝子は受け継いでないから!」

 確かに小さいころから、奇妙なものを見たり感じたりはしていた。

 けれども、自分にそれをどうこうする力は備わっていなかったし、この先も

できそうにない。

 今でこそ“神奈川の暴れ馬”と影であだ名されるほど気の強い紗羽だが、

学校の怪談や、超常現象などは未だに苦手である。

「へえ、紗羽にもそんな弱点があったんだ」

 和奏は感心したようにうなずく。

「弱点とかやめてよね。ちょっと苦手なだけなんだから」

「それを人は弱点って呼ぶんじゃないかな……、アハハ」

 和奏は苦笑した。

「そう言えば、ウチの飼い猫のドラも、時々何もない宙をじっと見つめることがあったね」

「ああ、聞いたことある。猫って、人に見えないものが見えたりするんでしょう?」

 来夏もその話に乗っかる。

「もうやめてよ二人とも!」

「恐れすぎだよ紗羽~。そうだ。今夜は肝試ししようかあ」

 ニヤニヤ笑いながら来夏は言う。

「絶対嫌。嫌だから」


「じゃあ、皆が肝試しに出たら、紗羽は一人だけ留守番するう?」

「それも嫌!」

「わがまま言わないでよお」

「夜は大人しく早く寝る。じゃないと育たないよ、来夏」

「余計なお世話。つか、紗羽は育ち過ぎだよ。一体何時間寝てるのさ」

 そう言うと、来夏は紗羽胸を鷲掴みした。

「ひゃあい!」

 不意を突かれた紗羽は、思わず変な声を出してしまう。

「二人って、本当に仲良しだね」

 紗羽と来夏のやり取りを見ながら和奏は言った。

「和奏も揉んであげようか? 紗羽みたいに大きくなるかもよ」

「私はいいよ」

「いいよってことは、肯定?」

「いや、遠慮しときます」

 和奏は言いなおした。

「まあ、遠慮しないで。いいではないか」

 いい加減にしろ。紗羽がそう言って来夏を止めようとしたその時、部屋のドアが

鳴った。

 ノックの音。

「ひっ!」


 紗羽の背中に悪寒が走る。

「おおい、いるかあ?」

 聞き覚えのある声がドア越しに聞こえてきた。

「拳児くん?」と、来夏が返事をする。

「おうよ」

「開いてるよ、入ってきて」

「おう」

 すぐにドアが開き、播磨が入ってくるのだが、こちらの姿を見て動きを止める。

「何やってんだお前ェら……」

「エヘヘ。スキンシップ?」

「いい加減離れなさい」

 来夏は紗羽の胸を背中越しに掴んだ状態のままであった。





   *


 

 旅館の鶴の間(女部屋)集まった六人は、その後の予定を話し合う。

 最初に手を挙げたのは来夏だった。

「海に行こうよ!」

「海?」

「水着持ってきたでしょう?」

「一応、持ってきたけど……」

 紗羽は不安そうに言う。

「せっかく海が近くにあるんだし、遊ばないと損だよ。天気もいいしね」

「確かに、ここにずっといるよりは外に出たほうがいいかな……」

「どうした? 紗羽」

 紗羽の様子がおかしい、と思った播磨は聞いてみる。

 すると、紗羽の代わりに隣りの来夏が答えた。

「紗羽ったらね、部屋に着くなりずっとこんな調子なんだ」

「こんな調子?」

「なんか気持ちが悪いとか、不安になるとか」

「別にそこまでは言ってないよ」

 紗羽は途中で来夏の言葉を否定した。

 しかし、

「でも変な感じがするのは確かかも」

「お前ェもそうか」


「え?」

 播磨の言葉に紗羽の表情が変わる。

「実は、さっき大智とも話してたんだけど、この旅館なんかおかしいっていうか」

「全体的に暗いよな」と、大智は言った。

「どういうこと?」

 来夏は首をひねる。

「お前ェらも感じねェか? ジメジメしてんのはともかく、寒気がするっつうかよ」

「確かにそんな感じもしないでもないけど、気のせいじゃない? もしくは夏風邪?」

 来夏は言った。

「体調はいたって万全だ」

「ナントカとバカは風邪ひかない?」

「ナントカって何だよこの野郎。とにかく、これからの予定はどうすんだ?」

「海!」

「ほかには?」

「……」

 全員黙る。特に予定はないようだ。


 この時、一応ボランティア部の合宿なんだから、部活動らしいことをしよう、

などという意見は一切出なかった。

「じゃ、俺ら一旦部屋に戻るわ」

 そう言って播磨たちが女性陣のいる鶴の間から出て、自分たちの荷物が

ある亀の間に戻ろうとした。

 その時、播磨は不意に廊下の奥を見た。

 暗い廊下の隅で、微かに人影が見える。

(従業員か? いや、違う)

 従業員の婆さんにしては、明らかに体型が違った。もっと背が高く、若い。

(他にも泊り客がいたのか)

 その時は、その程度にしか感じなかった。

「おい、何やってんだ拳児」大智が呼ぶ。

「早く準備しようよ。何かあるの?」

 ウィーンも楽しそうに言った。

「いや、何でもねェ。行くか」

 彼らに呼ばれた拳児は、自分たちの部屋にもどって出かける準備をするのだった。




   *



 太陽がまぶしく砂が熱い。

 夏の海だ。

 遠くには富士山も見える伊豆の海で、白浜坂高校ボランティア部は高校時代

最後の夏を満喫していた。

「海なんて久しぶりだな」

 播磨がレンタルのビーチパラソルを建てていると、荷物を置いた大智が言う。

「お前ェ、去年はきてないのか?」

「去年はずっとバドミントンばっかだったし。来る暇なかったよ」

「そうか」

「僕も久しぶり!」

 ウィーンもそれに続く。

「お前ェも何かやってたのか」

「いや、違うよ。オーストリアには海がないんだ」

「ああ、そういやそうだったな。埼玉県みたいなもんか」

「その例えはどうかと思うぞ……」

 大智が控えめなツッコミを入れていると、

「皆お待たせ!」

 来夏の声が聞こえた。

「おお、やっと来たか」

 播磨が疲れたように言う。


 水着に着替えた宮本来夏の登場である。髪型はアップにしているけれど、

その特徴的な目元と体型は見間違えることがない。

「女の子には準備ってものがあるのよ。それより見てよ」

 そう言ってポーズをとって見せる。

「あ?」

「……」

「……」

「なにその反応!」

 お姫様は男子部員の反応にご不満のようだ。

「んだよ」

「今年の新作よ! せっかく買ったのに」

「お前ェ、三年生だよな」

「あんたらも三年生でしょうが!」

 来夏は黄色を基調としたビキニ姿だが、下のほうにヒラヒラがついており何となく

子供っぽく見える。

 だがそれを言うと、また不機嫌になりそうだったので、播磨は黙っておくことにした。

「ほかの二人はどうした」

「もうすぐ来ると思うよ」

「おまたせ……」

 噂をすれば影。

 遅れて二人がやってきた。


「!」

「おお!」

「凄い!」

 坂井和奏、沖田紗羽の登場である。

 来夏の時と違って、大智やウィーンの反応が明らかに違う。

「なかなか、似合ってるな」と、大智は目を逸らしながら言った。

「ワカナもサワも、凄くキレイだよ!」

 ウィーンにいたってはべた褒めだ。

「あたしの時と全然反応違うじゃんか! プンプン!」

「お前ェの姿に欲情したら、犯罪の臭い(スメル オブ クライム)がするだろうがよ」 

 播磨は全然フォローになっていないフォローをして来夏を宥める。

「拳児、あんまり見ないで!」紗羽は怒りながら言った。

「なんで俺だけ」

 紗羽の水着は白を基調としたもので、胸元の谷間が眩しい。

「ど、どうかな。恥ずかしい……」

 対して和奏の水着は青を基調としたさわやかな感じのものだ。下のパレオがまた

オシャレに見える。

「カッコイイよワカナ!」

 ウィーンは興奮気味叫ぶ。

「え? ありがとう」戸惑いながらも礼を言う和奏。


「ワカナ、ゲキブルー(※)みたいでカッコイイ!」

「あ、はあ……」

(※ゲキブルー:獣拳戦隊ゲキレンジャーの青色担当)

 和奏は恥ずかしがりながらも、播磨の顔をチラリと見る。

「どうした、和奏」

 しかし播磨はその視線の意味に気が付かなかったようだ。

「こら拳児」

 そんな播磨の耳を引っ張る紗羽。

「イテテ! 何すんだ」

「折角和奏が恥ずかしい思いして、人前で水着晒してんのよ。ちゃんと感想言って

あげないと」

「ああ?」

「いや、私はそんな」そう言って和奏は俯いた。

「和奏」

「はいっ」

「似合ってるぞ。なんか新鮮で、いいな」

「ありがとう……」

 そう言うと再び和奏は顔を伏せた。

「私はどうなの? 拳児」

 続いて紗羽が聞いてきた。

「ああ、似合ってる似合ってる」


「真面目に考えろ」

 そう言うと、紗羽は播磨の尻を思いっきり引っぱたく。

「さっき見るなっつっただろうが」

「うるさい」

「そんなことより、これから何がやりたい?」

 部長の来夏が全員の前で言った。

 その言葉に、各々が自分の意見を述べる。

「拳児! 沖まで競争だ」大智は言った。

「嫌だよ面倒くせェ」

「ビーチバレーかな。定番かもしれないけど」

 そう言ったのは紗羽だ。

「とりあえず浮き輪! 拳児くん! 早く膨らませてよ!」

「なんで俺が」

「私は、日陰で休んでいたいな」と、和奏。

(何しに来たんだよ)

「僕はイソギンチャクを岩から引き剥がしたい! 海にきたら一度やって

みたかったんだ」ウィーンは興奮気味に言った。

「可哀想だからやめろ」

 五人とも見事にバラバラである。

 それにしても、なんでこんなまとまりのない人間が同じ部にいるのか、

改めて不思議に思う播磨なのだった。





    *



 昼間の間、播磨たちボランティア部のメンバーは海を満喫していた。

 ビーチバレーをやったり波間に漂ったり、貝を拾ったり。でも一番盛り上がったのが、

男子対女子で行われた砂の城造りというのがおかしかった。

「まさか小田原城をあそこまで忠実に再現することになるとは」大智は感慨深げに言った。

「天守閣は上手く作れなかったけどな」と、播磨。

「天守閣を砂で再現するのは至難の業だ。よくやったよ」

「全部作れなかったのは残念だね」と、ウィーン。

 男子三人で作った小田原城は完成前に、潮で流されてしまった。

 しかし、三人の友情は少しだけ強くなったようだ。

「遅いよお、男子」

 紗羽の声が聞こえる。

「うるせえ! 荷物全部持たせやがって」

 男子陣は女子の荷物も一緒に持っていたので、移動が遅いのだ。

 しばらく歩くと、女子たちが立ち止まっていた。

 播磨たちを待っていた、というわけではなさそうだ。

「どうした」

「いや、昼間も不気味だと思ったんだけどね」

 と、紗羽が言う。

「あン?」

 夕日に照らされる木造旅館、月鳴館は昼間より余計に不気味に見えた。




   *





 播磨たちが相変わらず暗い旅館の入り口に到着すると、

「おかえりなさいませ」

 どこからともなく白髪の老婆が現れた。

「ど、どうも」

「お疲れ様でした。お食事になされますか、それともお風呂がお先で」

「どうする」

 全員が顔を見合わせた。

 たしかに一日中遊んで腹は減った。

 しかし、体中にまとわりついた潮っ気は今すぐにでも拭い去りたい。

「お風呂が先で」

 代表して来夏が言った。

「でしたら、お食事は午後七時からということでよろしいでしょうか」

「よろしいですわ」と来夏。

(なんじゃ、その喋り方は)

 播磨はそう思ったが声には出さなかった。

「かしこまりました」

 そう言うと、老婆は一礼する。

 しかし、

「それと、お客様にお願いがございます」


 そう言って老婆は振り返った。

「ん?」

「当旅館には一番奥に、赤い扉の部屋がございます」

「……」

「そこの部屋は今は使っておりませんので、入らないようお願い申し上げます」

「はあ」

「それでは、ごゆっくり」

 そう言うと、老婆は闇の中、ではなく旅館の奥へと消えて行った。

「一番奥の部屋?」

 全員が首をかしげる中、播磨は昼間見た女性の姿を思い出したのであった。





   *




 建物はアレだが、風呂は思った以上に豪華であった。

 というか露天風呂だ。

「うおわ! 凄いなあ。やったね」

 和風旅館も珍しいウィーンにとっては、和風の露天風呂も珍しいらしく、目を

輝かしてはしゃいでいた。

 播磨と大智は、昼間の疲れと身体にこびりついた潮や砂粒を洗い流す。


「なあ拳児」

「あン?」

 播磨の隣りで身体を洗っている大智が話かける。

「この前の話の続きだけどよ」

「続き?」

「どうするんだ」

「何が」

「何がって、あいつらのことだよ」

「あいつら?」

「沖田と坂井」

「ああ……」

「もうすぐ部活も終わるし、そろそろ決着をつけたほうがいいんじゃないのか」

「決着って」

「何もしないってわけにもいかんだろう。お前、あいつらの気持ちに気づいて

ないわけじゃないんだろう」

「そこまで朴念仁じゃねェ」

「だったら」

「いや、ダメだ」

「どうして」

「俺にはあいつらの気持ちに応えてやることができねェ」

「なんだよ、ほかに好きなやつでもいるのか。宮本か?」


「そうじゃねェ」

「……」

「……そうじゃねェんだ」

「拳児」

「どうしたの二人とも!」

 不意にウィーンの声が大浴場に響く。

 振り向くと、ウィーンが岩風呂でバシャバシャと泳いでいた。

「やめろウィーン、マナー違反だぞ」

「でも誰もいないよ」

「高校生にもなって何やってんだよ」

「家はシャワーばっかりだから、嬉しくって」

「……ったく」

 大智は再び正面を向き、頭を洗う。

「生殺しのまま放置するのは可哀想だとは思わんか」

「わかってるさ。だけどよ」

「だけど?」

「今の俺じゃダメだ」

「何がダメなんだよ」

「ダメなもんはダメなんだよ」

「……」



   *




 風呂からあがった播磨は、自動販売機でジュースでも買おうかと思い旅館内を

ウロウロしていると、ふと白い塊を見た。

 旅館の仲居?

 いや、違う。

 もっと小さい。

 タッタッタと、微かな足音とおもに人影は消えて行った。

(子どもの泊り客か。職員には見えなかったが)

 播磨は子どもの行方を追ってみることにした。

 しかし廊下の角を曲がると、そこには誰もいない。

(気のせい? いや、そんなはずは)

 視線の先には、木造の温泉旅館には似つかわし赤い扉が見えた。

(確かあれは、絶対に開けてはいけないと呼ばれたドア。何があるんだ)

 気にはなったけれど、今の彼の関心は飲み物にあった。

「しかし腹減ったな」

 そう思い振り返ると、いきなり人影が。

「ぬわっ!」

 思わず声をあげてしまう播磨。

「お客様、どうされました」

 よく見ると、先ほど会った旅館従業員の老婆である。

「ああいや、ちょっと気になることがあってよ」


「何でございましょう」

「ここの泊り客で、小さい子ども連れの家族はいるのか?」

「……」

 老婆は少し考える。

 しかし、

「いいえ、心当たりはございません。お子様連れのお客様は、本日お泊りに

なってはいないと記憶しております」

「本当か」

「ええ」

(じゃあ、俺が見たのは。子どもではない?)

「ところでお客様、お食事のご用意が整っておりますが」

「ああ、悪い。食堂、どこだったか」

「こちらを進まれまして、右でございます」

「わかった」

「お連れ様もお待ちです」

「おう。あ、そうだ」

「なんでございましょう」

「喉が渇いたんで、飲み物を先に持ってきてくれ」

「かしこまりました」

「ありがとさん」

 老婆にお礼を言った播磨は、そのまま食堂へと向かった。



   *




 夕食の用意された場所は、広い座敷であった。

 けれども、播磨たちボランティア部の面々以外はいなかった。

(随分、寂しいな)

 そう思いつつスリッパを脱いで座敷に上がると、彼らと同じように旅館の浴衣を

着た来夏たちが待っていた。

「おーい、拳児くん。どこ行ってたの」

「ちょっと探検」

「ごはんの時間は決めてたでしょう?」

「悪い」

 播磨はそう言うと大智のよこにドカリと座る。

「そういや宮本」

「ん?」

「小さい子どもって、見なかったか?」

「どこで?」

「いや、この旅館で」

「見なかったよ?」

「じゃあ、髪が長くて背が高い女の人は?」

「紗羽じゃないの?」

 そう言って来夏は紗羽に視線を移す。

「いや、コイツより少し細身だったと思うんだが」


「何よ、私が太いっての?」紗羽は身を乗り出して言った。

「んなことは言ってねェよ。比較的だ、比較的」

「一体、何の話してるのよ」

「いや、多分気のせいだから」

「気のせい?」

「お化けのことじゃないかな」

 と、来夏は言った。

「やめてよ、そんな話」

 一瞬で紗羽の顔が青ざめる。

「どうした紗羽」

「なんでもない」

 そう言うと、紗羽は播磨から顔を逸らした。




   *


 テーブルの上には、料理の皿が並べられているけれど、まだ本格的に用意されている

わけではなかった。

「お待たせしました」

 先ほどとはまた違う老婆が現れて、ガラス瓶に入ったオレンジジュースと、小さなグラスを

配る。

 そういえば、普段ガラス瓶のジュースなんて飲むことはないな、と播磨は思った。

「じゃあみんな、飲み物ついで」

 来夏の号令で、全員が一斉にウーロン茶やジュースをグラスに注ぐ。

「えー、それではですね。乾杯の音頭を副部長の沖田紗羽さんにやってもらいたいと思います」

 来夏のその言葉に紗羽は驚く。

「え? 何それ。聞いてないよ」

「言ってないもん」

 来夏は悪びれる様子もなくそう言った。

「いやちょっと待ってよ」

「だから早くして」

「うう……」

 紗羽は不満そうな顔をしつつも、素直にその場に立ち上がる。

 別に立つ必要はないと思ったが、本人が立ちたいならそのままにしておこう、と播磨は

思った。

「本日は、合宿に参加していただいでありがとうございます。おかげさまでカラオケ大会にも

優勝できました。一緒に出演してくれた、来夏と紗羽。ありがとう。ついでに警備の

ボランティアに参加してくれた男子のみんな、ありがとう」


「俺たちはついでかよ!」

 タイミング良く、大智のツッコミが入ったところで紗羽はグラスを掲げる。

「それでは、白浜坂高校ボランティア部の今後ますますの発展を祈念して、乾杯」

「カンパーイ」

 一度全員で乾杯してから、播磨は再度隣りにいる大智と乾杯する。

 チンと、グラスのぶつかる音が聞こえた。

「ぷはあ、うめえ!」と、来夏。

 オッサンみたいな飲み方だと播磨は思った。
 
「来夏、お行儀悪いよ」

 同い年だけど、まるで姉のように紗羽は注意する。

 乾杯が終わると、次々に料理が運ばれてきた。

「さあさあ、タダなんだからジャンジャン食べてよ」

 嬉しそうに来夏が言う。

「お前ェが払うわけじゃねェだろう」と、播磨は言ってみるが、

「私たちの頑張りで獲得できたんでしょう?」

 と、来夏は言い返す。

「お前たちがちゃんと歌えるように、俺たちが裏方で頑張ったんだよ」

 そう言ったのは大智だった。

「お、大智。お前ェいいこと言うな。エビやるよ」

 そう言って播磨は自分の皿にあった赤い茹でエビを大智の皿に移す。


「お、おう。ありがと」

「お刺身おいいしなあ。ヨーロッパじゃあ、あんまり食べられなかったから嬉しいよ」

「あれ? ウィーン。ヨーロッパって、お刺身出ないの?」と、来夏が聞いた。

「まったく食べられないわけじゃないけど、ほんの一部のお店だけだよ。カルパッチョ

とかは別だけど、日本みたいにどこでもお刺身が食べられる国なんて、ほかに

ないんじゃないかな」

「そうかそうか。日本に生まれてよかったあ」

 なぜか来夏は満足そうに言った。

「ウィーン、お前ェには甘エビをやる」

 そう言って播磨はウィーンの皿に甘エビを移した。

「ありがとう、僕甘えび好きなんだあ」

 大智と違って、ウィーンは素直に喜んでいるようだ。

「……」

 一方、和奏は少し心配そうな顔をしていた。

「どうした、和奏」

 播磨はそんな和奏に声をかけてみる。

「いや、家のこと考えてたんだけど」

「ああ、家か」

 和奏の家は父子家庭だ。祖父母もいないので、和奏がいないとあの家は父一人だけに

なってしまう。

「一人で大丈夫かな」

「親父さんのこと、心配か?」


「いや、お父さんは別にいいんだけど、ドラにちゃんとご飯あげてるかなって」

 ちなみにドラは、和奏が家で飼っている猫である。

「……親父さんのことも、たまには心配してやれよ」

「大丈夫だよ。お父さんなら何でも食べるから」

「そうか」

 同じ男だけに、播磨は少しだけ和奏の父、圭介に同情してしまった。




   *


今回はわりと長いので、ここで一旦切ります。残りは明日投下します。

ちなみに、播磨が海老を嫌いな設定、覚えている人はいたかな?

それではまた明日。

確かにシャコはキモチワルイかな。美味しいけど。再開します。


   *




 食事が終わり、男子部員と女子部員はそれぞれの部屋に戻って行った。

 来夏はまだ騒ぎ足りなかったようだが、無理やり歯磨きをさせて動物の出る

テレビ番組を見せていたらいつの間にか眠ってしまった。

「はあ、いい気なもんね」

 紗羽は大きくため息をつく。

「紗羽はお姉さん気質だね」

 それを見た和奏は言った。

「同い年なんだから、もう少し落ち着いてもいいと思うけど」

「来夏が大人しかったら、私たちここにはいないんじゃない?」

「確かに。高校最後の夏休みに楽しい思いでも作ることができたし、来夏に感謝かな」

 そう言って紗羽は自分のカバンのところに歩いて行こうとすると、何かを感じた。

「え?」

「どうしたの、紗羽」

 不思議そうな顔をした和奏が聞いてくる。

「いや、何か、音しなかった?」

「いや、別に?」

 元音楽科で音には敏感なはずの和奏が何も感じていない。

 だったら気のせいかもしれない。

 でも、何かが聞こえたきがした。


 その、小さな子どものような声。

「そういえば食事の前に、拳児が何か言ってたような」

 紗羽は食事前の播磨と来夏との会話を思い出す。

 確か、小さい子どもを見なかったか、などと聞いていた気がする。

「ねえ、和奏」

「あ、ごめん紗羽。ちょっと家に電話かけるから」

 そう言って紗羽は携帯電話を取り出した。

「あ、うん。ごゆっくり」

 紗羽がそう言うと、和奏は部屋の隅で電話をかけはじめた。

「あ、お父さん?」

 どうやら家に電話をしているようだ。

 自分も母に電話しようかと思ったけれど、この日、紗羽の両親は祖父母の

家に泊まりに行っており、家にはいなかった。

(こんな時に限って連絡取れないとか)

 そう思っていると、

(え?)

 コツコツコツと、何か物音がした。

 振り返ると、先ほどと同じように携帯電話で通話している和奏の姿。

 そのすぐ近くには口を開けて寝ている来夏。

(足音? それにしては高い)

 もう一度耳を澄ます。


 精神を集中し、和奏の声を排除した。

 音の出所は、天井? いや違う。廊下だ。

 タッタッタっと、軽い足音が響いた。

 大人の足音ではない、明らかに小さな子どもの足音。

(子ども? 子どもなんていたっけ)

 その時、来夏と播磨が子どもの話をしていたのを思い出す。

(もしかして、拳児が見た子どもってことは。いや、これは考えすぎか)

 再び足音。

 近づいてくるような足音。

(部屋の前?)

 そして遠ざかる。

 心拍数が上がる。

 心臓が強く鼓動しているのがわかった。

(まさか)

 紗羽は立ち上がった。

(きっと、誰かが悪戯しているに違いない)

 そう思い出口へと向かう。

「あれ? どうしたの紗羽」

 電話中の和奏が声をかけてきた。

「ん? 何でもないよ。ちょっと外へ」


 そう言うと、早足で出入口のドアを開ける。

(お化けなんて、そんな非科学的なもの)

 そう自分に言い聞かせるようにして、彼女は廊下を見た。

 蛍光灯に照らされた暗い廊下はどこまでも続いているようであった。

(誰も、いない)

 頭の中で、あの足音だけが残っていた。

 それはまるで、コールタールのように剥がれない記憶。

「ふう」

 紗羽は大きく息をつき、部屋に戻った。

 部屋ではまだ和奏が家の人と話をしている。

「……」

 紗羽は無言のまま、自分のカバンを開いた。

 この旅行(合宿)の出発前、紗羽は母の志保からあるものを受け取っていた。

(まさかこれを使うことになるとは)

 そう思いながら、紗羽は荷物の中を漁る。


『ねえ紗羽。あなたは私に似て“感じやすい”ところがあるから、これを持っていきなさい。

お守りみたいなものだけど、いざという時はこれを開くの。わかった?』


 志保はそう言っていた。


 白浜坂の地獄少女と呼ばれた母のことだ。きっと何か考えがあるのだろう。

 そう思い、一つの巾着袋を取り出す。

(これだ)

 志保がくれたお守り。まあ、お守りにしては少し大きいけれど、一体何が

入っているのか。

 そう思いつつ、紗羽は巾着袋から中身を取り出した。

「これは……」

 0.03ミリのアレと、潤滑ゼリー(携帯用)である。

「オカモト……」

 紗羽はもう一度母の言葉を思い出す。

『――あなたは私に似て“感じやすい”ところがあるから――』

(感じやすいって、そっちかあああああ!!)

 怒りのあまり、紗羽は思わず箱を握りつぶしてしまった。

「どうしたの? 紗羽」

 心配した和奏が寄ってきた。

「いや、何でもないよ!」

 そう言うと、紗羽は母からもらったお守りを素早く巾着袋に戻し、袋の入口を

しっかり二重に締め直してからカバンの奥深くに突っ込んだ。





   *




 同じころ、亀の間(男子部屋)では――

 ウィーンは動物の出る番組を見ながら寝ていた。

「いい気なもんだ」

 その寝顔を見ながら播磨はつぶやく。

 昼間は来夏と同じくらい騒いだので疲れたのだろう。

「いっち、にっ、さんっ、しっ」

 そして大智は布団を端に寄せ、腕立て伏せをしていた。

 温泉旅館まで来て何やってんだ、と思っていると、

 部屋の入口をノックする音が聞こえた。

「開いてるぞ」

 そう言うと、すぐに戸が開いた。

「拳児!」

「紗羽!?」

 不意に、沖田紗羽が風のように入ってくる。

 そして播磨の浴衣の袖、ではなく前襟を掴んだ。

「何があった」

「拳児、あなた。小さい子どもを見たとか言ってたよね」

「ん? ああ。昼間と夕方に」

「真相を調べて」

「は?」


「早く」

「意味がわからんのだが」

「ちょっと待ってよ紗羽~」

 少し遅れて和奏が入ってきた。

「あ、ウィーンも寝てる」

 そう言うと、人差し指でウィーンをつつき始めた。

「宮本はどうした」

 腹筋運動中の田中が聞くと、

「寝てるよ。生き物地球紀行の再放送見てたら寝ちゃった」

 和奏は言った。

「そうか」

 どうやら、この時間に起きているのは男子は播磨と大智、そして女子は紗羽と和奏

だけのようだ。

「一体何騒いでるんだよ」

「それは……」





   *




 播磨は、自分用に買っておいたスポーツドリンクを紗羽に飲ませて落ち着かせ、

事情を聞く。

「なるほどね、妙な足音」

「あれは絶対子どもの足音だった」

「それ見たのか?」

「いや、見てないけど」

「だったらわかんねェじゃんかよ」

「和奏も一緒にいたの」

「お前ェは聞いたのか?」

 播磨は和奏を見て聞いた。

「ううん」

 和奏はそう言って首を振る。

「気のせいだろ。明日になったら忘れる。もう十時過ぎてるしよ」

 そう言うと、播磨は腕時計を見た。

「気になったら眠れないのよ」

「寺の娘だろ、自分で何とかしろよ」

「何とかできたら何とかしてるよ。お願い」

「ったく」

「何とかするのか? 拳児」

 タオルで汗を拭きながら大智は言った。


「大智。お前ェはもう一回風呂に入ってきたほうがいいんじゃねェのか」 

「お、おう。そうだな」

「筋トレとかもうどうでもいいから、とにかくあの足音の正体をつきとめて欲しいの」

「んなこと言われてもなあ」

 播磨はそう言いつつ、夕方のことを思い出す。

(確かに、小さな子どものような人影をみた。だがあれが本当に子どもだったのか、

という自信はない。そして何より、あの部屋。旅館の職員から、絶対に開けては

いけないと言われた扉)

「少し、行ってみるか」

「え?」

 播磨は立ち上がる。

「大智、懐中電灯持ってるか」

「おう」

「何で持ってるのよ」紗羽はつぶやいた。

「よっしゃ、じゃあちょっと見てくる」

「待って播磨くん。私も行く」

 和奏はそう言って立ち上がった。


「じゃ、じゃあ私も」

 紗羽も立ち上がる。

「無理しなくていいんだぞ」

 播磨がそう言うと、

「無理なんかしてないもん。私、気になるだけだし」紗羽は少し怒ったように言った。

「ああ、そうかい」

「俺、もう一回風呂入ってくるわ」

 大智が割り込むようにそう言うと、

「勝手にしなさいよ、もう」

 紗羽は大智の言葉を斬り捨てた。





   *




 節電のためなのかよくわからないが、とにかく薄暗い廊下を歩く。

「確かこの先だな、チビッ子っぽいのを見たのはよ」

 播磨は夕食前の光景を思い出す。

 薄暗くてよく見えなかったためか、上手く思い出せない。

 ただ、廊下の角を曲がり、建物の奥に行ったことは確かだ。

 そして、奥にはあの赤い扉がある。

「あそこは開けるなって、旅館の人に言われてたよね」と、和奏は言う。

「何があるんだろう」

 そう言ったのは紗羽だ。

「鶴が機(はた)を織ってたりしてな」

「バカな冗談はやめて」

 どうやら紗羽は怒っているようだ。

 ジョークを言って場を和まそうとした播磨の作戦は失敗した。

「あの、ちょっと待って」

「どうした」

 紗羽と播磨の後ろを歩いていた和奏が言った。

「しっ、何か聞こえない?」

「何かって?」

「静かに」

「……」


 静寂。

 外からは波や虫の鳴き声は聞こえている。

 しかし、よく耳を澄ますと自然の音の中に人口の音が混じっている気がする。

「こっち」

 そして、和奏は音のしたほうを指さす。

「こっちってお前ェ」

「こっち」

 和奏は指をさすだけで自分から行こうとはしなかった。

「畜生が」

 というわけで(どういうわけで?)、播磨は先頭に立って音のした方向に行くことにした。

 そしてたどり着いた先は、旅館の最奥にある赤い扉。

「やっぱり聞こえる。ここだ」

 和奏は自信に満ちた声で言う。

「でもここってよ、開けないでくださいって言われたところだろう」

「もうやめようよ和奏」

 紗羽は和奏の浴衣を掴んで離さない。

「ちょっとやめて紗羽。浴衣脱げちゃうから」

「……」

「見ないで」

 紗羽は播磨を睨みつける。

「わーってるよ」


 播磨は前を向き、赤い扉と向かい合う。

 開けるか否か。

 何だか開けたらあの老婆に呪われそうな気もするが、

「うう……」

 このまま放置してても後味が悪い。

 何より、涙目の紗羽を見るのが嫌だ。

 そう思い、彼はドアノブに手をかける。

 鍵は、開いている。

 トントンと、申し訳程度にノックした播磨は、そのまま赤いドアを開けた。

 すると中は薄暗かったけれど、灯りが見える。

「え?」

「これって」

 よく見ると、部屋の中央に電灯があり、その電灯のすぐ傍に大きなグランドピアノが

置いてあったのだ。

 そして、ドアを開けるとそのグランドピアノから音が出ていたことがはっきりとわかった。

「誰?」

 小さな子どもの声が聞こえた。

「おお悪い。ここの泊り客だ」

 播磨がそう言うと、ピアノのすぐ傍に小学生くらいの少女が出てきた。

「確かお前ェは」


「昼間の人」

「知ってたのか」

「うん」

「それにしても、何でこんなところにピアノが」

 木造の温泉旅館に、グランドピアノは少々不似合に思える。

「親戚の人がくれたの。置き場所がないから、ここに置いたんだって」

「ん」

 よく見ると、部屋の隅に古いゲーム機が置いてある。どうやらここは、昔の

ゲームコーナーらしい。

「お前ェ、何してるんだ」

「ピアノの練習」

「どうして」

「お祖母ちゃんの家にピアノがないから、ここで練習してるの」

「こんなに遅くにか」

「お祖母ちゃん、ここで働いているから。それで、帰りも遅いし」

「なるほど」

「母さんか父さんはいねェのか?」

「お母さんは用事で遠くにいるの。お父さんは知らない」

「知らない?」

「あ、でもお母さんは今日の昼、会いにきてくれた」

「もしかしてお前ェの母ちゃんって、あの背がちょっと高くて髪の長い人か」


「うん。そんな感じ」

(やっぱりか。見た目は違うが、どうも雰囲気が似ていると思った)

 播磨は、昼間に見た女性の姿を思い出す。

「お前ェ、名前は?」

「ミオ」

「そうか、ミオか」

「おじちゃんは?」

「おじちゃん!?」

「ププッ」

 すぐ後ろにいた紗羽と和奏が噴き出す。

「お兄ちゃんだ。俺は播磨拳児。んで、こいつらが」

「私は沖田紗羽、よろしくねミオちゃん」

 そう言って一歩前に出た。

「私は和奏。よろしく」

「よ、よろしく」

 謎の音の正体がお化けじゃないとわかった時点で、和奏と紗羽の二人、特に紗羽は

元気を取り戻していた。

「ミオちゃん、お化けじゃないよね」

「何言ってるの?」

「いや、何でもないのよ」


 紗羽は苦笑していた。

 先ほどまで涙目で和奏の浴衣を引っ張っていたとのと同一人物とは思えない。

「どんな曲を練習してるの?」

「ちょっと待って」

 そう言うと、ミオは小走りでピアノの前に置いていた楽譜を持ってくる。

「子犬のワルツ?」

 楽譜を見ながら紗羽が言った。

「うん、でもなかなか上手くいかなくて」

 とミオが言うと、

「紗羽、ちょっとそれ貸して」

 和奏がそう言って、紗羽から楽譜を受け取る。

「ねえミオちゃん。和奏お姉ちゃんが弾いてもいい?」

「いいよ」


 ミオは頷いた。

「弾けるの? 和奏」

 少し心配そうに紗羽が聞く。

「一応音楽科だったしね」

 和奏は片目を閉じた。

「ちょっとまってね」

 和奏は演奏前の指運動を簡単に済ませ、ピアノに向かう。

 そして、楽譜を確認しつつピアノを弾き始めた。

 上手いものだ、と聞きながら播磨は思った。

 確かに彼は音楽に関しては素人だけれども、音の良し悪しくらいはわかる。

 その夜、坂井和奏によるピアノレッスンがしばらくの間続くのだった。





   *




 翌日、播磨たちは海岸でゴミ拾いをしていた。

「なんでこんなことを……」

 ブツブツ文句を垂れる播磨に対し、

「私たちは一応ボランティア部なんだよ! ボランティアしないと!」

 来夏が珍しく正論を述べる。

「はあ、眠い」

 近くでゴミ拾いをしていた紗羽が言った。

「夜更かしするからいけないの! 夜更かしはお肌の大敵なんだから!」

 来夏は昨夜、一番最初に寝ていたから元気だ。

「見て見てタイチー! 珍しい形の貝を見つけたよー!」

 同様にウィーンも元気だった。

「コラー! ウィーン! 真面目にやりなさーい!」

 来夏がウィーンに気を取られている間、播磨は近くにいた紗羽と和奏に話しかける。

「お前ェら、平気か」

「う、うん」

 紗羽は力なく返事をした。

「私は大丈夫だよ」

 それに対し、元気よく答えたのは和奏だ。

「お前ェもあんま寝てないのに、紗羽より元気だな」


「夜更かしは慣れてるので」

「あまり感心できねェ慣れだな」

「ごめん。でも楽しかったよ。この合宿も」

「そうか」

「夜のピアノも含めて」

「まあな」

「紗羽の怖がる顔も面白かった」

 和奏がそう言うと、

「もう言わないでよ和奏!」

 紗羽が抗議する。

「まあ、あのチビッ子は幽霊じゃなかったってわかっただけでも、よかったじゃねェか」

「うん」

「そうだね」




   *





 そしてその日の午後。旅館にあずかってもらっていた荷物を持ったボランティア部一行は、

帰宅することに。

「今回は本当にお世話になりました」

 部を代表して来夏が旅館の老婆に礼を述べる。

「いえいえ、いいんですよ。元気いっぱいでこちらも楽しかったですから」

 老婆は満面の笑みで返事をする。

「あの、すいません」

 そんな老婆に、紗羽が声をかけた。

「どうされました?」

「実は私たち、謝らなければならないことが……」

「紗羽、何か壊したの!?」と、来夏が驚く。

「いや、そうじゃないの。実は昨夜……」

 紗羽が代表して昨夜のことを話す。

「それで、入ってはいけないっていう部屋に入ってしまって、申し訳ありませんでした」

 そう言うと、紗羽は深々と頭を下げた。

 すると、老婆は予想外の反応を見せる。

「おかしいですねえ、あの部屋は二重に鍵がかかっていて、入ろうと思っても入れないはず

なんですけど」

「え? でも昨日は鍵が開いてましたよ」


「昔はゲームコーナーがあって、今はもう使っていないので、かれこれ五年は

開けていないはずですけど」

「は?」

 播磨たちは顔を見合わせる。

「え?」

「それに支配人にはお孫さんはおられないはずです。少し言いにくいのですが、

交通事故で娘夫婦とその子どもは亡くなったという話で」

「……え?」

「えええええええ?」

 ショックのあまりその場に崩れ落ちる紗羽。

「紗羽! しっかり!」紗羽を抱いた和奏が呼びかける。

「え? 何? 何があったの!?」

「ケンジ! ワカナ! 昨日何があったの?」

「おい拳児! しっかりしろ! 何があった!」

「なんでそんな楽しそうなイベントに私を誘わなかったのよおおお!!」

 こうして、白浜坂高校ボランティア部の夏合宿は混乱のうちに終わるのだった。




   つづく

次回、夏休み編ラスト。ついでに物語も終盤でございます。



 第二十話 プロローグ

 夏休み後半。

 白浜坂高校ボランティア部の面々は、市内の保育園で保育のボランティアをしていた。

「お兄ちゃん遊んでよ早く!」

「うわバカ! 引っ張るな」

「こっちこっち」

 播磨はあふれ出る幼児のパワーの前に困惑していた。

 とても仲間をフォローできるような状態ではない。

「よし、行くぞ」

「変身よ!」

「わーい」

 にも拘らずウィーンと来夏は楽しそうだった。

 というより、大きい子どもが増えただけのような気もする。

(くそ、なんでこんな時に限って紗羽と大智はいないんだ……!)

 部内における止め役である二人は、今日は予備校の講習を受けに行っており不在だ。

「そうじゃない! ガンバレッドの構えはこう!」

「え、こう?」

「こう!」

(子どもよりも子どもっぽくなってどうすんだウィーン……)

 そう思いつつ別の場所に目をやると、和奏がオルガンの前に座る。


「みんなー、お歌を歌いましょう!」

 店の手伝いをしている時のように、エプロンすがたの和奏がそう言って、大部屋の

子供たちを呼び集める。

 和奏の掛け声に、園児たちが集まってきた。

「さあいい子ね」

 そう言うと、オルガンの前に座り直し、伴奏をはじめた。

 播磨も聞き覚えのある音だ。

「大きな栗の木の下で~♪ さあ、皆も歌おう」

 相変わらず良い声で呼びかける和奏。

 その声に導かれるように、子どもたちは歌い始めた。

「大きな栗の木の下で~。あなたとわたし、仲良く遊びましょう」
 
「おーきなくりのー、木の下で~」

 ウィーンや来夏も園児たちと一緒になって歌っていた。

 先ほどまでバラバラだった子どもたちが不思議とまとまって見える。

(なんか魔法みたいだよな)

 ふと、そんな風に思った。

 


 




        TARI TARI RUMBLE!



  第二十話 心が渇いちゃってたのかもしれない






 保育園の事務室内にある休憩スペース。

 一日保育を終えた播磨たちは、そこで休憩を兼ねた反省会を実施していた。

「だあ、疲れた」

 倒れ込むようにソファに座る播磨。

 四、五歳の幼児の世話は、単純に体力だけでなく怪我をしないように気も

使わなければならないので、大変だ。

「くそ、こんなことなら大智らも無理やり連れてくるんだった」

「でも楽しかったね、来夏」

「ねー」

 ウィーンと来夏は楽しそうだ。彼らの分の気苦労も、自分が背負ったのでは

ないかと思う播磨。実際その通りである。

「そりゃあいいけど、お前ェ凄いな、和奏」

「え? 何が」

 ジュースを飲みながら、和奏は少し驚いた顔をした。

「いや、オルガン弾きながら色んな歌を歌ってよ」

「そうそう、子どもたちに大人気だったよ!」来夏は興奮気味に言った。

「うん、僕も楽しかった」

 そうウィーンも言ったが、

「別に私は。ピアノもオルガンも同じ鍵盤楽器だし」

「いや、そうじゃなくてよ」


「ん?」

「子どもへの接し方が自然っていうか、本物の先生みたいだったな」

「そんな。私なんか」

「本当だぜ」

「ドラの世話で慣れてるだけだから」

「ドラは猫だろ……」

「今日は凄く疲れたし」

「でも楽しそうだったぞ」

「楽しそう?」

 和奏は不思議そうな顔をする。

「そうじゃなかったか?」

「いや……」

「確かに、楽しかった」

「そうか」

「うん」

 この時の和奏の笑顔は、とても印象的だったと播磨は思った。




   *





 同じころ、予備校の夏期講習を終えた大智と紗羽は一緒に帰っていた。

「しっかし腰痛いなあ。一日中座りっぱなしとか、本当キツイわ。これなら丸一日

練習していたほうがマシだ」

 腰をさすりながら大智は言った。

「何言ってんのよ、って言いたいところだけど。まあ同感ね」

 紗羽も同意する。

 これまであまり真剣に勉強に取り組んでいなかった二人だけれど、進学を選ぶ

以上は真剣に取り組まざるを得ない。

「お、宮本たち、部活動が終わったみたいだぞ」

 講習のため、先ほどまで電源を切っていた携帯電話を見ながら大智は言った。

 紗羽は自分の携帯の電源をまだ入れていない。

「今日の部活って、保育園での保育体験だっけ」

「ああ、そうだな。拳児が泣いてたらしいぜ。あまりのキツさに」

「泣いてたって、まあ苦労はしただろうね。私も親戚の子を世話したことあるけど、

凄く大変だったもん」

「子どもはな。確かに大変だ。勉強も大変だけど」

「そうだね……」

「なあ沖田」

「何?」

「お前は、将来の目標とか決めたのか?」


「まだ、わからない」

「でも時間ないだろう」

「そうだけど。一度挫折しちゃったし、すぐに次って言われても……」

「競馬の騎手だっけ?」

「そう」

「調教師とかはダメなのか?」

「騎手より競争率高いのよ」

「そうなのか? 競馬のことはよくわからんけど」

「それに、自分が育てた馬を他人(ひと)が乗るっていうのも、なんかイメージできなくて」

「そうか」

「だから今は勉強しようと思う。自分には何があるのか。それを見つけるためにも」

「それもいいな」

「でも、受験の準備とか全然してなかったから、結構厳しいかな」

「確かにスタートが遅れると苦労するかもしれない。でもさ――」

「え?」

「可能性がゼロになってるわけじゃないだろう? やるだけやってみることさ」

「……」

「……」

「ヒュー、カッコイイ」


「茶化すなよ」

「お姉さんの受け売り?」

「悪かったな」

「図星なの」

「でも真理だろ?」

「まあね。『やるだけやってみる』か……」

「拳児やウィーンたちはどうなんだろうな。目標とか、見つけてるのかな」

 携帯電話をしまい、中空を見つめながら大智は言った。

「ウィーンはよくわからないけど、アイツは……、拳児はどうなんだろう」

 何か未来を見据えているようで、それが何かはわからない。

 播磨拳児が家に転がり込んできてからもうすぐ半年。

(そういえば、自分は彼のことをどれだけわかっているのだろうか)

 ふと、紗羽はそんなことを思った。





   * 



 その数日後の週末、紗羽は海にいた。

「珍しいわね、あなたからサーフィンやりたいなんて」

 いつもより二割増しでウキウキ顔の母、志保が言う。

「なんか、そういう気分」

 数年前に買ってもらったけれど、ほとんど使っていなかった自分専用のサーフボードを

手に、紗羽は海を見つめる。

 太平洋の波は今日も絶好調のようだ。

 空は曇り気味なのも、丁度良い。

 準備運動とストレッチを終えた紗羽は海に挑む。

 が、しかし。

「ふぎゃああ!」

 水没、水没、転覆。

 なかなか上手く行かない。

 随分久しぶりのためか、沖へ出るのも一苦労だ。

(そういえば、一度も波乗りい成功したことなかったな、私)

 髪もずぶ濡れになり、何度も海水を飲みながら波に乗ろうとするも、ことごとくバランスを

崩して海中に沈んでしまう。

 幸い、浮力のあるウェットスーツを着ているので溺れはしないけれど、海中で思ったように

体が動かせない苛立ちを抑えきれなかった。

「ほら紗羽! 頑張れ」

 十数メートル先では、志保がボードの上に立ってまるでベルトコンベアーの上に乗っている

ように、ススーッと海面を進んでいた。


 普通の人間があんな風に海の上を進むことは不可能だ。

 しかし、ボードの力を借りれば、可能性は出てくる。

 紗羽はもう一度ボードに腹這いとなり、アゴを上げてパドリングを開始する。

 このパドリングがキツイ。

 押し寄せる波に揺られながら、再びポイントを目指す。

 下半身のバランスを上手く取ってのテイクオフ。

 小さいころ、いくら練習しても上手くできなかった一連の行為も、今ならできる気がする。

(波……、来た!)

 タイミングを計り、パドリングのスピードを速くして、

 すばやくテイクオフ。

 凸凹道の上を自転車で走るように、激しく揺れるボードの上でバランスを取りながら、

紗羽は視線を前に向ける。

(あ……)

 驚くほど開ける視界。

 ここの海岸って、こんなに大きかったかな。

 ついさっきまで、まるで暴れ馬のように揺れていたボードが、大人しく波間を滑り、そして

次の瞬間目の前がいっきに濁った。

 気泡が見える。

 どうやらバランスを崩して海に落ちたようだ。

 自分でも不思議なくらい落ち着いていた紗羽は、そのまま海面から顔を出しで自分の

サーフボードにつかまる。

「紗羽! 大丈夫?」

 遠くでパドリングをしていた志保が聞いてきた。

「うん! 大丈夫!」

 波の音にかき消されないよう、彼女は大きな声で返事をした。




   *




 その日の昼は家に戻らず、母と一緒に海岸で今朝作ったお弁当を食べた。

 おにぎりとちょっとのおかず、といった単純なものだが、久しぶりにハードな運動を

したのでことのほか美味しく感じた。

「おいしい」

「塩味のおにぎりが?」
 
 志保は笑いながら聞く。

「うん」

 海苔の香りと表面の塩味が、疲れた身体に染みこむように感じる。

 食後、レジャーシートの上に座り込んだ二人は海を見つめていた。

 夏も終わりに近づき、海水浴客も少なくなっているように見える。

 海風が心地よい。

「ねえ、紗羽」

「ん?」

「将来のことはもう決めた?」

「いや、まだわからない」

「そう」

「でも、私。進んでみることにする」

「進む?」

「うん。何て言うかね、私は立ち止まって考えるようなタイプじゃないから、とにかく

前に進もうと思うの」


「そう?」

「だから私は勉強する。進学もしたい」

「そっか。わかったわ」

「ごめんね、こんな曖昧な目標で」

「いいのよ。でも前向きに頑張るのはいいことよ」

「そうか」

「うん」

 波の音を聞きながら紗羽は思う。

 迷いはまだ消えていない。

 今もずっと迷い続けている。

 でも、前に進まないといけない。色々な世界を見て行こう。





   *


  
 同じ日、播磨は坂井の店でアルバイトをしていた。

 客足が途切れたところで、一息ついていると、同じく店の手伝いをしていた和奏が

話しかけてきた。

「ねえ、播磨くん」

「ん? どうした」

「今日の夕方も……、時間ある?」

「時間? また相談事か」

「いや、そうじゃないんだけど」

「あン?」

「曲が、できたから」

「曲?」

「うん、この前言ってた曲。あれができたから、聞いてほしいなあと思って」

「本当か?」

「へ? うん。本当だよ」

「よかったなあ」

「でもまだ、人前で聞かせられる状態じゃないから……」

「ああ、わかったわかった」

 二人がそんな話をしていると、

「何の話してんだ?」

 店の店主であり和奏の父、圭介が割り込んできた。

「もう、お父さん。勝手に話に入ってこないで」


「デートの約束か?」

「違うから!」

「お、お客さんだ」

 そうこうしているうちに、新しい客が入ってきたので、三人は再び仕事に戻って行った。





   *




 その日の夜、夕食を終えた播磨は和奏の部屋に通された。

 和奏がこの部屋に播磨を入れるのはこれで二回目だ。

「あの、いいかな」

 やや緊張した表情で和奏は言った。

「おう、いいぜ」

「よしっ」

 小声で気合を入れた和奏は、来夏に清書してもらった楽譜を自分の部屋にあるピアノの

譜面台に置く。

 本当は楽譜など見なくても弾けるのだけど、見ているほうが落ち着くのでそうしたかったのだ。

「なあ和奏」

「ん?」

「曲が完成したんなら、明日部室で皆の前で聞かせりゃいいんじゃねェか?」


「やるよ。明日も」

「だったらどうして」

「この曲は、播磨くんに一番最初に聞いてほしくて」

「俺に?」

「うん。あなたに相談したから、できた曲」

「そうか」

「じゃあ、ちょっと待って」

 練習曲で少し指を慣らしてから、和奏は曲に取り掛かった。

「弾くね、播磨くん」

「おう」

 和奏は鍵盤に向かう。

 すぐ後ろには播磨がいる。

 それだけで、胸が高まっていた。





   ♪



 曲が終わる。

 約三分の曲だが、今の自分の全てを詰め込んだ曲だ。

 パチパチパチと、一人の拍手が起こった。

「ふう」

 和奏は一息ついて播磨と向かい合う。

 彼女の顔を見た播磨は言った。

「よかったぞ」

「……うそ」

「あン?」

「ウソだよ」

「どうした」

「私、わかってるんだから」

「……何が」

「この曲、全然中途半端で、最後のほうとか上手くまとめられなくて」

「……」

「お母さんみたいに、上手にメロディとか作れなくて、ピアノも上手くないし、

表現したいところ、全然出せなかったし、それに――」

「和奏!」

 彼女の声を断ち切るように、播磨は呼びかける。

「……」


「お前ェが一生懸命作ってきたことは皆知ってる。なかなか上手く作れなかったことも、

色々と我慢してたことも」

「……でも」

「だけどよ、こいつが今のお前ェにできる精一杯の表現なんだろう? そいつを悪く言うことは、

俺にはできねェ」

「……うう」

「どうした」

「うわああああああん!」

「はあ!?」

「どうした和奏!」

 泣き声を聞きつけた圭介が部屋に飛び込んでくる。

「何があった!」

「ああいや、それが……」

「うわあああああああんうううう!!!」

 これまで抑え込んできたものが、まるで堰を切ったように飛び出してきて止まらない。

 自分でも抑制の効かない感情の爆発を前に、播磨と圭介は戸惑うばかりであった。




   *





 やっとのことで落ち着いた和奏は、恥ずかしがりながらも播磨と一緒に海よりの道を

歩いていた。

「ごめんなさい。見苦しところ見せちゃって」

 和奏は目を伏せながら謝る。

「いや、別に……」

 播磨はどうコメントしていいのかわからなかったので、適当に返事をする。

「こんな風に泣いたの、久しぶりかも」

「そうなのか?」

「お母さんが亡くなったときだって、ここまでは泣かなかった」

「……」

「いや、泣けなかったって言ったほうがいいかな」

「泣けなかった?」

「……心がね」

「心?」

「心が渇いちゃってたのかもしれない」

「どういうことだ」

「お母さんが死んでから、私はその悲しみに負けないようにしていたの。悲しまないように、

苦しまないように」

「……」

「でもそしたら、何も感じなくなってた」

「……それって」


「そんなので音楽を楽しめっていうほうが無理だよね。芸術は、心にどう感じるかで

決まるんだから。それが渇いてたら、演奏もただの作業になってしまう」

「そうだな」

「私は、来夏や紗羽が羨ましかった。すごく感情を表に出してるし。あんな風に自分も

感じられるようになったらなって」

「お前ェだってよ、感じてんだろ」

「うん。今はね。確かに傷つくことは怖いけど、それを恐れていたら何も感じられない」

「そう……、だな」

「播磨くんのおかげだよ」

「俺の?」

「うん、もちろん皆のおかげでもあるけど。でも一番はやっぱり」

「そりゃ買い被り過ぎだろう」

「え?」

「お前ェが自分で頑張ったのが一番だろ」

「……そっか」

「おう」

「あの、話は変わるんだけど」

「何だ?」


「私ね、夢ができたの。夢って言うか、もっと具体的に言えば目標なんだけど」

「本当か?」

「うん」

「なんだ。歌手にでもなるか」

「うふふ。それもいいけど。保育園か、幼稚園の先生になろうと思うの」

「そうなのか? あ、でもいいかもな」

「私、ピアノが弾けるでしょう? 音楽家としては使い物にならなかったけど、今より

もっと練習して、子どもたちのために弾きたいと思って」

「ほう……」

「小さな子どもたちに、私のお母さんが私にしてくれたように、音楽の楽しさや、

歌ったり演奏したりすることの面白さを伝えていきたいなあ」

「だから、先生か」

「まだどうなるかわかんないけど」

「頑張れよ」

「うん」

「そうか。幼稚園の先生か」

「あの! 播磨くん」

「どうした」


「実はもう一つ夢があるんだけど」

「なんだ、和奏は欲張りだな」

「えへへ」

「そっちは夢なのか。目標じゃなくて」

「そうだね。ちょっと難しいかも」

「なんだ?」

「それは――」

 波の音が響く。

 月明かりに照らされた和奏の顔が、少し紅潮した気がした。

「やっぱり秘密」

「何? ここまで言っておいて」

「その時がきたら教えるよ」

 そう言うと、和奏は笑顔で播磨から遠ざかる。

「おい、和奏」

「お休み播磨くん!」

 暗がりの中、和奏の声はよく通った。

「気を付けて帰れよ」

 そんな彼女に、播磨は独り言のようにつぶやいた。



   つづく






 第二十一話 プロローグ

 九月。

 それは夏の残暑が続く中で秋の訪れを感じさせる季節。

 特に朝夕は涼しくなるので、つい寝過ごしてしまいがちに……。

「しまったああああ!!!」

 未だ夏休みボケが抜け切れていない沖田家では、家族全員が寝過ごしてしまった。

「ちょっとお母さん! なんで起きないのよ!」

 慌てて起きてきた紗羽は、すぐに制服に着替え、まだ焼いていない食パンを口の中に

詰め込む。

「んな! こんな時間」

 時計を見て驚く播磨。

「拳児! もう時間がない」

「お、おう……」

「ったく、初日から遅刻なんてシャレにならない」

 長めの髪の毛をゴムでとめながら、紗羽は食パンを飲み込む。

「走って行っても、結構キツイか」

 播磨がそうつぶやいていると、

「サブレに乗って行くしかないか」

 未だ寝ぼけているのか、紗羽がそんなことを口走る。


「ちょっと待て。バイクがあるから、それに乗って行く」

「本当に?」

 バタバタを準備を済ませた二人は、駐輪場代わりにしていた納屋へ行き、

バイクを出す。

「早く早く」

 ジタバタしながら紗羽が言った。

「ったく、少しは落ち着け」

 そう言うと、播磨は紗羽にヘルメットを渡した。

「そう言えば二回目だな……」

 ヘルメットのかぶりながら紗羽はつぶやく。

「何か言ったか」

「何でもないよ、それよりも早く」

「うるせえ」

 鍵を回すと、大型バイクのエンジンが勢いよく起動する。

「今日も調子はいいようだな」

 メーターの辺りをさすりながら播磨は言った。






    *





 爆音とともに坂を上る。

 いつも自転車や徒歩で苦労して上っている坂道がとにかく早い。

 ふと、見覚えのある後ろ姿が見えたので声をかけた。

「コナツー!」

 その声は、エンジン音と風の音にかき消されたかと思ったけれど、

「あれ?」

 どうやら微かに通じたようだ。

 思った以上の速さで学校の駐輪場に到着すると、紗羽はバイクを降りてヘルメットを

脱いだ。

 ちょうど、予鈴が鳴ったところだ。

「ふう、ギリギリセーフかな」

 ヘルメットで乱れた髪をいじりながら一息ついていると、

「何がセーフなのかしら?」

「あ……」

 バイクを降りた播磨と紗羽の目の前には、メガネをかけた高倉教頭が腕を組んで

立っていた。








      TARI TARI RUMBLE!


   第二十一話  心配してくれてありがとう



 朝の学校は、例の二人の話題で持ちきりであった。

 特にうわさ好きの女子生徒の間では、新学期早々話題の中心である。

「ねえ、見た?」

「あ、もしかして播磨先輩と沖田先輩のこと?」

「そうそう、私は委員会の用で早めに来てて見れなかったんだけど」

「うんうん」

「朝からバイクに二人乗りで登校してきたんだって」

「ええ!? うそお。大胆」

「なんか素敵だよねえ。憧れちゃう」

「沖田先輩って、男をあんまり寄せ付けないところがあったじゃない?」

「ちょっと気が強いところがあるからね」

「だからあんな、不良っぽい人のことが好きになったのかも」

「あれくらい強そうな男の人じゃないと釣り合わないかな。神奈川の暴れ馬だし」

「ちょっと、それは禁句よ」

「そうでしたそうでした」

 そんな生徒たちの話に、別の女子生徒も寄ってくる。

「何々? 何の話?」

「沖田先輩のこと」

「きゃあ、バイクで彼と登校してた話でしょう?」

「やっぱ二人って付き合ってるのかな」

「付き合ってなきゃあんなことしないでしょう」

「やっぱりそうだよねえ」

「悔しいなあ。私狙ってたのに」

「あれ? アカリ、播磨先輩のこと気になってたの?」

「沖田先輩のほう」

「そっちか……」




   *





 朝一で教頭に見つかった播磨と紗羽の二人は、いきなり職員室で説教を食らったのだが、

始業式もあるということで思ったよりは短時間で解放されることになった。

 ちなみに、放課後反省文の提出を命じられたことは言うまでもない。

「結局、遅刻したほうがマシだったな」

「しょうがないじゃない! 焦ってたんだから」

「お前ェの判断力は短絡的すぎんだよ」

「何よ! 実際に走らせたのは拳児でしょう!?」

「お前ェ、それが送ってもらった奴に言う台詞かよ」

「逆ギレ?」

「逆ギレはお前ェだろうが」

 そんな言い合いをしながら教室に戻ってくると、

「ねえ沖田さん! 二人ってやっぱり付き合ってたの?」

「どうなの?」

「一緒に暮らしてるって話は本当なの!?」

 教室の女子が一斉に紗羽に質問を浴びせかける。

「え? え? 何これ」

「播磨くんと付き合ってるの?」

「いや、それは誤解だよ」

「でも今日、一緒にバイクに乗って登校してたし」


「これには事情があってね」

「事情ってなんですか」

「それはちょっと置いておいてですねえ」

「教えてよ!」

 さすがに播磨に直接聞こうという人間はいなかったので、彼はゆっくりと

自分の席に戻る。

 しかし例外もいた。

「おやおや拳児くん。朝からお熱いですねえ」

 ニヤニヤしながら来夏が寄ってくる。

「遅刻しそうになってたからな。まあ不可抗力ってやつだ」

「不可抗力か。でも、アレだよ。学校中その噂ばっかだよ? あんな派手な

登校やらかしたカップルは久しぶりだって」

「他にもいるのかよ。ってか、ちっと思慮が足りなかったな」

「ちょっとどころじゃないよ。夏休み明けで話題に飢えている生徒たちは一斉に

食いつくから」

「人の噂も四十九日って言うだろ」

「それを言うなら七十五日だよ、播磨くん」

「そんなに長いのか?」

「まあ長続きしないって意味だけど。ちなみに英語だと、

A wonder lasts but nine days.」

「意味は?」

「驚きも九日しか続かない」

「外国のほうが短いな」

「きっと飽きっぽいんだね」

 この変な噂も長くは続かない。

 播磨はそう思うことにした。

「それでは、始業式があるので体育館まで移動してください!」

 ホームルーム委員(級長)がクラス全体に呼びかけると、休み明けでだるそうに

していた生徒たちが一斉に移動した。





   *






 放課後。この日は始業式と簡単な連絡だけで終ったので、午後からの行事はなく、

ボランティア部の面々は全員部室に集まり、今後の話し合いをすることになった。

 議題はもちろん、夏休み明け最大のイヴェント、白浜坂文化祭、略して“白祭”に

ついてである。

 部室の奥にはいつものようにホワイトボードが置かれており、そこに「白祭対会」

(白浜坂祭対策会議)と書かれていた。書いたのはもちろん、略すのが大好きな

紗羽である。

「ふんぬ、やる気出しなさい」

 夏休み明けということもあって、しまりのないメンバーの顔を見て喝を入れよう

とする来夏。

「……」

 そして和奏はあまり元気がなかった。

「どうしたの、和奏」

 そんな和奏に来夏は声をかける。

「え? な、なんでもないから」

 和奏は驚いたように来夏を見ると、すぐにそう言った。

「ならいいんだけど。また風邪を引いたのかと思った」

「そんな、チャゲ&ア●カじゃないんだからしょっちゅう風邪は引かないよ」

「それならいいんだけどね。ほら、大智。アンタもシャキッとしなさい」

 今度は田中大智にマーカーを向ける来夏。

「悪い。昨日も遅かったもんで」


「またお宝本の観賞? いい加減にしなさいよね」

「勉強に決まってるだろうが」

「ならいいけど」

「ハイ、コナツ」

 ここでウィーンが手をあげた。

「はいウィーン。どうしたの?」

「対策会議って、何を話し合うの?」

「いい質問ですねえ~」

 来夏は怪しげな笑みを浮かべながら言う。

「私たちが白祭で歌の発表をするということは、もう皆知っていると思います」

 来夏は貧相な胸を張って喋る。

「ただそれだけじゃあね、問題があると思うの」

「問題?」

 播磨が聞いた。

「そう、ちゃんと人が来てくれないと意味がないのよ。ただの自己満足で終りたく

ないの。たくさんの人に聞いてもらわないと!」

「お、おう」

「そこで効果的な宣伝と、あとそれから、まあ白祭をそこそこ楽しめるように

イベントに参加してもらいますから」

「イベント参加って、何やるんだ」

「例によって、すでに登録は済ませてきました」


「お前ェなあ……」

 来夏の暴走はよくあることなので、今更怒ってもしょうがないと諦めている。

 それは播磨だけでなく全員がそうだ。

「それじゃあ皆、今からそれぞれが参加するイベントを書いていくから」

 そんな部員の反応を嘲笑うかのように、来夏はメモ帳を見ながら勝手に登録した

イベント名と参加者の名前を書き出す。



 左に出場するイベント名、そして右に参加者の氏名だ。


 カラオケコンテスト : 宮本来夏・坂井和奏

 料理コンテスト   : ウィーン(前田敦博)

 王子様選手権    : 田中大智・播磨拳児









 ミス白浜坂コンテスト: 沖田紗羽



「ちょっと待って!」

 今まで大人しかった紗羽が声を上げる。

「どうしたの?」

「どうしたのじゃないわよ。なんで私がミス白浜坂に出なきゃならないのよ!」

「いやあ、この中じゃあ一番有望かなって思って」


「思ってじゃなくて」

「ここはボランティア部代表として是非出てもらってね、ウチらのアッピールをして

もらいたいの」

「いやよ私! ただでさえ悪目立ちしてるのに」

「そんなこと言わずに」

「来夏が出ればいいじゃない」

「私だとほら、ちんちくりんだし胸もないし……、って誰が貧乳やねん!」

 来夏の一人ボケツッコミに紗羽は冷淡である。

「冗談じゃないよ」

「ここは部のためだと思って諦めてよ」

「諦めるって何よ」

「ねえ、皆はどう思う?」

 来夏はそう言って他の部員に声をかけてみる。

「いいんじゃないのか」と、大智。

「凄いよサワ! 頑張ってよ! 学校で一番になって」

 ウィーンは無邪気に応援する。

「紗羽だったら優勝できるんじゃないかな」

 と、和奏も言った。

「アンタたちィ~」

 コブシを握りしめる紗羽。    

 その時、播磨が軽く手を挙げた。


「あれ? どうしたの拳児くん」

 そんな彼を来夏は指名する。

「あのよ、お前ェがさっき書いた『王子様選手権』って、何をするんだ?」

「あ、そうか。播磨くんは転入生だから知らないか」

「ん?」

「毎年ね、王子様に選ばれた人はミス白浜坂のヒロインと記念撮影ができるんだよ」

「それだけ?」

「それだけって、毎年結構競争率高いんだぞ。学校一の美女と一緒の記念写真

なんだから」

「選手権って書いてあるけど、具体的に何をやるんだ?」

「何って、色々。去年は『おから早食い競争』だったかな」

「おからって、あのおからか。豆腐屋の」

「そうそう。今年は何をやるのかなあ」

「なんかすげェ面倒くさそうだな」

「そう? 面白いと思うけど。それにね、この王子様選手権とミス白浜坂には面白い

伝説があるんだ」

「伝説?」

「うん。ミスと王子様同士が付き合ったら、末永く幸せになれるとかいう……」

「迷信だろ」

「迷信なんかじゃないんだって」

「女ってそういうもん好きだよな」


「出ないの? 拳児くん」

「ああ、俺は出ねェ。つうか、大智が出てるんだから俺が出る必要もねェだろう」

「それじゃあ拳児くんには、もう一つの出場枠を担当してもらおうかな。生徒会からも、

出場者を集めるようたのまれてるんだけど」

「なんだ?」

「女装男子コンテスト」

「……」

「ブッ」

「ククッ」

 思わず和奏と大智が吹き出す。

「わかったぞ宮本。王子様選手権、出てやるよ」

「そう来なくっちゃねえ!」

 そう言うと、来夏は親指を立てた。

 しかし播磨は折れたものの、まだ懸案は残っている。

「で、紗羽はどうする?」

「どうするって?」

「よく考えてよ、もしここで拳児くんとアベック優勝を決めたらさ」

(アベック?)

「播磨くんと末永く幸せになれることも――」

 その時、バタンッと何かが落ちる音がした。

「ごめん、ファイル落しちゃって」


 そう言いながら和奏が床に落ちたファイルを拾い上げる。

「どう、紗羽。拳児くんも頑張るって言ってるし」

「言ってねェよ!」

 播磨はそう言ったが、例によって来夏はその声を無視して話をすすめる。

「お願いだよ紗羽」

「ふん」

 その時、紗羽はチラリと播磨の方を見る。

 播磨は、その視線の意味をよく理解できないでいた。

「わかった、出るよ」

「やったあ」

「でも水着とか着ないんだからね」

「そんなのやるわけないじゃない、……多分」

「本当かなあ」

 白祭における全員の出場イベントが決まったところで、播磨は立ち上がる。

「どうしたの? 拳児くん」

 来夏は聞いた。

「悪い宮本。実は今日、行かなきゃいかんところがあってな。先に抜けさせてもらう」

「どこに?」

「ちっと、生活にかかわることだ」

「そうなんだ、わかったよ。気を付けてね」


「悪いな」

「その代わり、明日からはしっかり練習に出てよ」

「わかってるよ」

 そう言うと、播磨は自分の荷物を持つ。そして帰り際に紗羽に声をかけた。

「悪いな紗羽。お前ェ、帰りは歩いて帰ってくれ」

「う、うん。大丈夫。そのつもりだったから」

「じゃ、お先」

 そう言うと、播磨は部室から出て行った。





   *



 
 播磨が出て行くと、少しだけ部室内は静かになった。

「これからどうするの?」

 和奏は聞く。

「決まってるじゃない、練習よ練習。さ、和奏。キーボード出して」

 来夏は張り切っている。

「え、うん」

 和奏が練習用のキーボードを出そうとしていると、不意に部室のドアをノックする音

が聞こえた。


「どなたですか?」

「失礼します、新聞部の者です」

「え?」

 その言葉に全員が顔を見合わせる。

 ドアが開くと、セミロングの女子生徒が入ってきた。わりと小柄で、身長は来夏よりも

少し大きいくらいだ。

 腕には『新聞部』と書かれた腕章がある。

「すいません、ここボランティア部ですよね」

 新聞部の女子生徒はそう質問した。

「そうですけど」

 答えたのは、一応部長の来夏である。

「あ、はい。私、新聞部の安藤と申します。どうも」

 新聞部の安藤はそう言ってお辞儀をする。

「どうも」

「新聞部では、今度の白祭に向けて出展を予定している各文化部の取材をしているんです」

「ああ、なるほどね」

 どうやら来夏は納得したようだ。

「それで早速質問なんですが」

「どんと来い」

「ボランティア部の沖田紗羽さんと播磨拳児くんが一緒に暮らしているという噂は本当なんですか?」


「はあ!?」

「ちょっと、そんな質問しているのよ! ってか、白祭関係ないじゃないの」

「ご、ごめんなさい。どうしても聞けって部長から言われたもので」

「だいたい、そんな話どっから……」

 紗羽が振り返ると、来夏が片目を閉じて軽く舌を出していた。

「テヘペロ☆」

「来夏、アンタ後で話し合いをしましょう」

「やっぱり本当なんですね!」

「ああいや、だから。ウチはお寺だし、家が広いし。それで下宿という形で住んで

いるだけだから、皆が想像しているようなことは」

「なるほどなるほど」

 新聞部部員はウィーンのごとく必死にメモをとっている。

「ってか、白祭の取材じゃなかったの?」

「ああ、ごめんなさい。本題に戻りましょう」

「本当に何しに来たの」

「白祭では、ボランティア部は何をやるんでしょうか」

「もちろん、合唱をやります」

 自信満々で来夏は答える。

「ボランティア部なのにですか?」

「私は型にとらわれない性格でね、実は六人中五人は元バドミントン部なのだよ」

 正確にはその五人のうち、四人がマネージャーなのだが今はどうでもいい。

「なるほど」

 その後、取材は続いたけれども、新聞に掲載された情報はごくわずかであった。




   *



 数日後、白祭に関わる準備にも拍車がかかってくる中、校内の噂は未だに

収まらなかった。

 噂の内容はもちろん、播磨と紗羽に関することだ。

「ねえ、本当に付き合ってないの?」

「本当だよ」

 同級生の一人が聞いてくる。

 影でコソコソ言われるのもムカツクが、正面きって堂々と言われるのもそれはそれで

面倒だ。正直放っておいて欲しいとすら思う。

 元々一部の人にしか言っていなかった、播磨が自分の家に下宿している、という情報も

一気に学校中に広まったようだ。

 年頃の男女が一つ屋根の下で暮らす。

 漫画やドラマの世界のような話が現実にもあるのだから、興味を引かないわけがない。

「……」

 当のの播磨は、気にしているのかわからないけれど、教室ではあまり話をしないようになった。

(なんか、元に戻ったような感じだ)

 紗羽は思い出す。

 一学期、自分のクラスに播磨が来たときのことを。

 あの時、紗羽は妙に彼の存在を意識し過ぎて、彼とうまく接することができなかった。

 数か月かけてやっと学校でも自然に接することができるようになったのに、今は周りの目が

気になって話しかけることすらままならない。


(確かに拳児と私は、一緒に住んでいるというだけで恋人でもなんでもない。

ただ、同じ部活の部員だし、決して無関係ではないのだから、話をするくらいは

おかしくないだろう)

 それでも意識してしまうのが思春期の辛いところ。

(もし、本当に私と拳児が付き合っていたら、こんな噂……)

 そこまで考えて思考が止まる。

(ダメだ、ありえない。家でも意識してしまうと、まともに寝ることすらできなくなる

かもしれない)

 結局、周りの目が気になって学校内ではまともな話をすることもできなくなっていた。




   *

 

 同じころ、噂に悩んでいたのは当事者の紗羽だけではなかった。

(結構噂、広まってるなあ。やっぱり皆気になるよね)

 弥が上にも目立つ、不良っぽい男子生徒と校内では一、二を争う美少女(しかも巨乳)の

女子生徒のカップル。

 噂好きにはたまらないネタだろう。

 自分も、彼らと知り合いでなければ噂話に食いついていたかもしれない。

 噂を気にした紗羽と播磨の二人は、学校内ではなるべく話をしないようにしているように

見える。

 もちろん部活では話をしているけれど、必要最小限にとどめている感じだ。


 帰る時間も、以前は用事がなければ一緒に帰ることもあったけれど、

今は行も帰りも時間をズラしている。

 それでも和奏にはわかる。

 同じ女として、紗羽が播磨を意識していることは確実だ。

 人前では『何でもない』とは言っているけれど、例えば大智やウィーンのように、

自然に接することはできない。

 自分と同じように特別な感情を抱いていることはわかる。

 ふと、自分の胸元に目を向ける。

(やっぱり、男の人は大きいほうが好きなのかな)

「はあ……」

 決して貧相ではないけれど、紗羽と比べると明らかに見劣りする自分のスタイルを

見ながらため息をつく。

(紗羽って、気が強くてちょっととっつきにくいところはあるけど、情に厚いし面倒見もいいし、

何より美人だし。私よりもよっぽど播磨くんに似合ってるよね……)

 自分が紗羽に勝てるところは何だろう。

 無駄だとわかっていても、そんなことを考えてしまう。

 ピアノは弾けるけれど、音楽科を挫折した中途半端なものでしかない。


 成績だって負けている。

(そういえば、紗羽は播磨くんに勉強を教えてたこともあったな)

 一学期の期末試験のことを思い出す。

 その時、和奏は自分のことで精一杯だったので、とても他人を気遣う余裕はなかった。

それは、受験を控えるこれからも同じだろう。

(私が播磨くんにしてあげられること……)

 どうも夕食を作ること以外思いつかない。

(どうしよう。あんなに色々してもらったのに……。私って役立たずだなあ)

 普通科に転科してからもうすぐ半年。色々な人たちとの出会いの中で、少しずつ自信を

取り戻してきた和奏の心は、再び自己嫌悪の沼の中に沈みかけていた。




   * 




 その日の夕方、部活を終えて帰宅した和奏は店の片付けを手伝っていた。

「ふう……」

 再びため息をつく。

「どうした、和奏」

 同じく片づけをしていた父、圭介が声をかけてきた。

「いや、何でもないよ。ちょっと疲れただけ」

「疲れた?」


「うん。白祭の準備。なんか凄く忙しくて」

「だったら無理すんなよ。怪我でもしたら大変だし」

「大丈夫だよ。怪我なんか」

「わかんないぞ。母さんも若いころから転んだり箪笥の角で小指ぶつけたりしてたからな」

「そうなの?」

「ああ。どうも疲れを感じる神経が鈍かったみたいでな、周りが気を着けなきゃ

無理しちまうんだよ」

「じゃあ、お母さんが入院したのも……」

「いや、でも病気は違うぞ。関係ないからな」

「……うん」

「和奏」

「え?」

「本当に大丈夫か」

「うん。ありがとう」

「え?」

「心配してくれてありがとう」

「お前、親が娘の心配するのは当たり前だろう」

「当たり前か」

 和奏は顔を上げ、窓から外を見る。

 以前なら、午後七時を過ぎでも外は十分明るかったけれど、九月になった今はもう暗くて

風も冷たい。遠くからは、微かに虫の声も聞こえる。

 昼間はまだ残暑が厳しい。でも秋は確実に訪れていた。





   *



 同じ日、夕食を終えた紗羽は風呂からあがって居間の前を通りかかった。

 すると、居間ではテーブルの前に父と母が並んで座っており、その向かい側に

播磨が正座していた。

(何の話をしているんだろう)

 気になった紗羽は、悪いとは思いつつ廊下で聞き耳を立てる。

「拳児くんがいいのなら、もうちょっといてもいいんだぞ」

 父、正一の声。

「そうよ、これからもっと大変になるんだし」

 志保の声がそれに続く。

「いえ、決めてたことッスから」と、播磨は言った。

「でも……」

「本当、今までお世話になりました。本当に感謝してます」

「物件はもう見たの?」

「ええ、始業式の日に見せてもらいました。とてもよかったッスよ」

(え? どういうこと)

 話を聞く限り、播磨はこの家を出て行くようだ。

 なぜ、どうして。

 紗羽は混乱する。

(自分のせいだろうか)

 そう思うといてもたってもいられなかった。

「拳児、どういうこと!?」

 居間に入った紗羽は、開口一番そう言った。

「紗羽……」

 父母と播磨の三人が一斉に紗羽の顔を見る。





   *



 沖田家の庭。

 昼間の残暑が嘘のように涼しい。

 Tシャツ一枚では肌寒いくらいだ。

 すっかり暗くなった外で、紗羽と播磨は向かい合う。

「ねえ拳児。沖田家(ここ)を出て行くの?」

「ああ、そうだ」

「どうして?」

「どうしてってお前ェそりゃあ、ずっと俺がいたら迷惑だろうが」

「迷惑って何? 私がいつそんなこと言った?」

「そりゃ言ってねェけどよ。年頃の娘と男が一緒にいるってのもよ」

「学校で」

「ん?」

「学校で変な噂になったから? それで?」

「落ち着け紗羽。そうじゃねェ」

「だったら」

「元々約束だったんだよ」

「約束?」

「両親との約束でよ、本当は最初から一人暮らしをしたかったんだけど、金銭的な問題もあって、

最低半年は知り合いの家で下宿しろって言われたんだ」

「それが、ウチだったの?」

「ああ。お寺だって聞いたから安心してたんだが、お前ェみたいな若い娘がいるだろう?」

「でも待って。卒業まではこの街にいるんだよね」


「そうだな」

「じゃあ、あと半年ここで暮らしてもいいじゃない。せっかくなんだし」

「紗羽」

「え?」

「……ありがとうな」

「……」

「気持ちは嬉しいが、やっぱりダメだ。お前ェも、これから受験とか忙しくなるだろう。

つか、もう忙しいだろうけど」

「そりゃあ……、あるけど」

「俺が下宿することで変に誤解されてよ、それで勉強に影響が出て人生狂った、

なんてことになったら、俺は責任取れねェよ」

「だったら」

「ん?」

(誤解じゃなかったらいいの?)

「……」

「紗羽」

「なに?」

「俺は俺の道を進む。だからよ、お前ェも自分の道を進め。応援してるぞ」

「……うん」

 紗羽はそう言って頷いた。

(……離れたくない)

 そう思ったけれど、言葉にはならない。

 例え声に出たとしても、秋の虫の鳴き声にかき消されてしまうだろう。




   つづく








 第二十二話プロローグ

 夏休み明けから、学校では白祭に向けて急ピッチで準備が進められていた。

 もちろん、来夏たちは部活の出し物だけでなくクラスの出し物にも参加する。

 ちなみに今年の三年一組の出し物は「喫茶店」だ。

「なんか変じゃない? この衣装」

 試作のウェイトレス衣装を着ながら紗羽は言った。

 普通にエプロンを着けるだけかと思っていたけれど、妙な衣装まで着せられるとは

思っていなかったのだ。

「胸の辺りもエプロンが当たっていないし」

「いや大丈夫大丈夫、凄い似合ってるよ、ウェヒヒヒヒ」

「来夏、笑い方がいやらしい」

 ウェイトレス服のデザインに関わった来夏はニヤニヤしながら試作品を眺めていた。

 そうこうしているうちに、調理担当の一人だった和奏が試作品のケーキを持ってきた。

「これ、どうかな」

「凄い和奏! これ和奏が作ったの?」

「うん、まあそうだけど」

 和奏の持ってきたケーキを見て来夏は言った。

 とても嬉しそうだ。


 そういえば来夏は甘いものが大好きだったな、と紗羽は思い出す。

「うん! イケるよ和奏」
 
 ケーキを一口食べた来夏ははしゃいだ。

「私一人で作ったわけじゃないから」と、謙遜する和奏。

「お疲れ和奏」

 そんな和奏に紗羽も声をかけた。

「お疲れ様、紗羽。その衣装、凄く似合ってるよ」

「やめてよ恥ずかしい。何でこんな衣装にしたのか」

 二人で話をしていると、ケーキの乗った皿を持った来夏は言う。

「ほら、和奏も思うでしょう? このバストの辺りを強調した衣装が似合うのは、

白浜坂でも紗羽くらいなものだから」

「こら、来夏」

「アハハ。確かに、私が着ても似合わないだろうな」

 和奏は苦笑する。

「そんなことないよ、和奏だって可愛いし」

「ありがとう」

 と言いながら和奏は目を伏せる。

「そんなことより、和奏が作ったケーキ、紗羽も食べて見なよ。食べかけて悪いけど」

 皿とプラスティックのフォークを持った来夏がそう言って、ケーキを差し出す。

 白いケーキは確かに美味しそうだ。

「一口だけいただこうかな」


 本当はダイエットのために、甘い物は控えたいところだが、一口だけなら

大丈夫だろうと、自分に言い聞かせる紗羽。

 そして、

「あ、おいしい」

 口元を抑えながら彼女は言った。

 確かに美味しい。甘すぎず、だからといって味がないわけではない。

「和奏って料理上手だよねえ」

 笑いながら来夏は言った。

「そうかな」

「うん、そうだよ。きっといいお嫁さんになれるよ!」

「そんなことないよ。紗羽だって御粥とかつくってくれたし」

「私はアレだから」

 お嫁さん、と呼ばれた時和奏は少しだけ嬉しそうだった。

「……」

 そんな和奏を見つめる紗羽。

「どうしたの? 紗羽」

 来夏が聞いてきた。

「え?」

「もっとケーキ食べたい? もう、欲張りだねえ」

「いや、違うから。皆にも食べさせてあげて」

「あ、そうだね。みんな~、試作品だよお~」

 そう言うと、作業中の生徒たちに来夏は声をかける。

「じゃあ、私は調理室に戻るから」

 そう言うと、和奏は教室から出て行った。

 紗羽は、そんな彼女の背中をじっと見つめていた。







              TARI TARI RUMBLE!


  第二十二話 もうそろそろ結論が出たんじゃないかと思って、聞いてみた


 放課後。白祭の準備でバタバタしている中、播磨は和奏に呼び出される。

「どうした、坂井」

 学校では気をつかって、苗字で呼ぶようにしている播磨。

 人気のない校舎の廊下だが、通行人もいるし誰に聞かれているかわからない。

始業式の日に、紗羽とバイクで登校して以来、学校での噂には敏感になっているのだ。

「実はまた相談なんだけど」

 申し訳なさそうに和奏は言う。

「なんだ、何か問題か? 遠慮すんなよ」

 少しぶっきら棒だが、彼なりに気を使った言葉である。

「私の作った曲、上手く詞ができなくて」

「詞? 歌詞か」

「うん……」

 和奏は頷いた。

「まあ作詞ってのも、作曲ほどじゃねェが難しいからな」

「少しは作ってきたんだけど」

 そう言って、和奏はA4サイズの茶封筒を見せる。

「こん中に入ってんのか?」

「うん」

「ちょっと見ていいか」

「……」

 何も言わず和奏は頷く。

「播磨は封筒の中にある数枚の紙を取り出して見た」


「……」

 眺めること一分。

「これは……」

 筆舌に尽くしがたいものである。

「私、作曲の才能もないけど作詞の才能はもっとないかも」

 和奏の肩は小刻みに震えていた。

「ああわかったわかった。だから泣くな」

(しかしこの歌詞は驚異的だな。ミオ・アキヤマもびっくりだぞ。アイドントマネーって

なんだ。意味がわかんねェ……!)

 播磨は歌詞の書かれた紙を素早く封筒に戻すと少し考える。

「……」

 今にも泣き出しそうな梅雨空のような顔をした和奏を見て放っておくわけにはいかない。

「わかった。歌詞のほうは俺が何とかする」

「え?」

「大智たちと相談すりゃどうにかできるだろ。お前ェはピアノと歌の練習に集中しろ」

「でも……」

「心配すんな、必ず完成させる。お前ェだけの曲じゃねェんだ。仲間を信じろ」

「うん。ありがとう……」

 和奏の表情に微かながら笑顔が戻ったところで、播磨の携帯電話が鳴り響く。

「ったく、何なんだよクソ」

 そう思いポケットから旧式の携帯電話を取り出すと、大智からだった。


「もしもし? 何の用だ」

 播磨が電話に出ると、

『おい拳児、今どこにいる。大変だ!』

 電話越しにも焦っている声がよくわかる。

「どうした大智」

『今すぐ生徒会室に来てくれ! ダッシュだ』

「チッ、わかったよ」

 そう言うと播磨は電話を切る。

「じゃ、そういうことだから。部活とクラスのことは頼んだぜ」

 ポカンとした表情の和奏に彼はそう言った。

「う、うん」

「行ってくるわ」

「気を付けてね」

 呼び出しの理由はまだよくわからないけれど、何となく想像はつく播磨であった。





   *




「どういうことなのよ!!!」

 廊下からでもよくわからう来夏の叫び声だ。

 生徒会室のドアは開いているのでよく響く。

「悪い、ちょっと通してくれ」

 騒ぎを聞きつけて集まってきた見物人を押しのけて播磨は生徒会室に入る。

 すると、中では今にも生徒会執行部のメンバーに襲い掛かろうとしている

(ように見える)来夏の姿があった。

 彼女の後ろでは、オロオロしている大智とウィーンの二人。足元には倒れた

折りたたみ椅子があった。

「もう許せない、弟だからって容赦しないんだ――」

「そこまでにしとけ」

「ひゃっ!?」

 播磨は太い腕で小さな来夏を脇にかかえる。

 播磨は不意に、鶏を手で捕まえた時のことを思い出した。興奮した動物相手に

恐る恐るやっていてはダメだ。ガバッとやらないとこちらがやられることになる。

「離せ変態! あたしはこいつらに話があるんだがら!」

 鶏のごとく暴れる来夏の頬を左手でつまむ。

「はひよふるのへんひ! ははひははいよ」

 何を言っているのかはわからないが、だいたい言いたいことはわかる。

「大人しくしろ。ここで暴れても何の解決にもならんぞ」

「……」


 播磨の説得が効いた、それとも抱えられた状態で叫んだので肋骨の辺りが

痛くなったのか、よくわからないけどとりあえず来夏は大人しくなる。

 その様子を見て、来夏の弟を含む生徒会執行部のメンバーはホッとしているようだった。

「で、何があったんだ?」

 播磨は生徒会で唯一の知り合いでもある、来夏の弟、宮本誠を見ながら聞いた。

「いや、実は部活ごとの発表時間と場所のことなんですけど」

「あン?」

  



   *




 来夏の弟の話では、ボランティア部は例えば声楽部とか吹奏楽部のように本来ステージ発表を

前提とした部活動ではないため、体育館のステージに割り当てられた時間がないのだという。

しかも今年はなぜかバンドの応募が殺到していたため、後発のボランティア部が確保できる枠は

ほとんどなかった。

「どうしよう。この日のために頑張ってきたのに……」

 生徒会室での興奮がすっかり冷めた来夏は、机の上に突っ伏していた。

 紗羽と和奏は、まだクラスの出し物の手伝いをしているので、部室には来夏と播磨、それに大智と

ウィーンの四人だけである。

「案ずるな、諦めるのはまだ早い」


 と、播磨は言ってみたものの、

「じゃあどうすりゃいいのよ」

 少し元気が回復してきたのか、来夏は顔を上げて言う。

「それは……」

「満員の体育館のステージで、高校生活最後の晴れ舞台を……」

「なあ宮本」

 不意に声を出したのは田中大智だった。

「何よ無神経」

「怒るぞお前」

「何なのよ一体?」

「別に体育館にこだわる必要はないんじゃないかな」

 大智は白祭の資料を見ながらそう言った。

「はあ? 体育館以外のどこでやれっていうのよ。まさかストリートライブ?」

「近いな」

「なぬ?」

「ほら、ここ」

 生徒会からもらった、白祭の予定表を出した大智は、とある場所を指さす。

「ここ。この場所ならまだ枠が空いてるぞ。しかも一時間以上できる」

「ここって……」 

 大智が示した場所。それは、

「中庭特設ステージ……」


「本気か? 大智」

 その場にいた全員が心配そうに大智を見る。

「俺たちは飼いならされた家畜じゃない。野生動物にならなきゃならん」

「なんか悪い物でも食べたの? よしよし」

 そう言って来夏は大智の頭を撫でる。

「いや、冗談じゃないから。やるんだよ。もうそれしかないだろう」

「大智、お前ェ……」

「タイチ」

 全員が大智の顔を見つめる。

「あ、でもちょっと待って」

 このまま『よし、やるか』という流れになりそうだったところを来夏が止める。

「んだよ、今いいところなのに」

「外でやるんだったら、ピアノは使えないよね」

「あ……」

 体育館のステージにはピアノがある。

 しかし、中庭ステージにはピアノはないのだ。

「キーボードだな……、和奏には悪いが」

 できればピアノを弾かせてやりたかった播磨だが、体育館が使えない以上どうしよう

もない。

「よし、それじゃあもう一度生徒会に行くよ」

 来夏は拳をグッと握ると立ち上がった。

「拳児」すかさず大智は言った。

「わかってる」

 播磨は立ち上がると、来夏と一緒に生徒会室へと向かうのだった。




   * 




 紗羽と和奏が部室に行くと、そこには大智とウィーンしかいなかった。

「あれ? 来夏と拳児は?」

 と、紗羽が聞くと、

「あいつらは生徒会室。出演枠のことで交渉中」

 大智が答えた。

「え? まだ決まってなかったの?」

 カバンを置きながら紗羽は驚きの声をあげる。

「ああ。こっちは後発組だし、元々文化祭でのステージ発表で優先的に枠を

貰える部活じゃないからな」

「確かに、ステージで歌を歌うボランティア部って、前代未聞だよね」

「それで、どうなるの?」

 不安そうに聞いてきたのは和奏だ。

「もしかして中止?」

「いや、中止はない」

 大智は断言する。

「じゃあどうするの?」

「中庭の特設ステージを使う」

「特設ステージ?」

「ああ」

 大智は、先ほど播磨たちとしていた話を繰り返す。


「確かにアイデアはいいけど、それじゃあピアノは使えないよね」

 紗羽は残念そうに言う。

 最後のステージだから和奏にピアノを使わせてあげたい、と思うのは彼女も

同じだった。

 そんな紗羽に和奏は言う。

「大丈夫だよ紗羽」

「和奏?」

「音楽は心から楽しめれば、そこが最高のステージなんだよ」

「え?」

「お母さんが言ってた」

「凄い! 凄くカッコイイよワカナ!」

 先ほどまで元気がなかったウィーンが立ち上がる。

「確かにな、坂井の言うとおりだ」

 大智も同調した。

「和奏、なんか色々ごめんね」

「大丈夫だよこのくらい。こんなの障害のうちに入らないよ」

「障害?」

「ああ、何でもない」

 そうこうしているうちに、来夏と播磨が帰ってくる。

「やあやあ諸君! 出演枠は確保できたよ」

 ドアを開けて部室に入ってくるなり、来夏は片手をあげて言った。

「本番が確定したってことはよ」

 播磨がそれに続く。

「あとは練習あるのみだね!」

 再び来夏は言った。





   *



 数日後、紗羽が委員会の都合で播磨よりも少し帰宅すると、台所のあたりが

騒がしかった。

「そうじゃなの、こうやるの」

「こうッスか」

 どうやら台所には母だけでなく播磨もいるらしい。

「ただいま、何やってんの?」

「あン?」

「プッ」

 振り返った播磨の姿を見て思わず吹き出してしまった。

 彼はその大きな身体に似合わず、エプロンをつけて包丁を握っていたのだ。

「あら紗羽。おかえり」

「ただいま母さん。何をやってるの?」

「何って見てわからない? お夕飯の支度をしているの」

「拳児も?」

「ええ、そうよ。これから一人暮らしをするんだから、食事の準備くらい出来るように

ならないとね」

 そう言って母は胸を張った。

「俺は別にいいっつったんだけどよ」

 播磨がそう言うと、すかさず志保が反論する。


「ダメよ拳児くん。食事は大事なんだから。毎日外食やお惣菜で済ませていたら

栄養が偏るし、何より味覚が鈍感になるのよ」

「はあ」

 慣れない手つきで台所に向かう播磨は新鮮に見えたと同時に、彼がここから

いなくなることを予感させて、寂しいとも感じた。

「ねえ、お母さん、拳児。私も手伝うからちょっと待ってて」

「ん?」

「おや、珍しいのね」

「私だって高校三年生だからね」

 紗羽は自分の部屋に素早く戻ると、制服から私服に着替え、髪の毛もいつもの

二つ縛りから、シングルテールに切り替えた。

 髪をまとめながら、ふと鏡を見る。

(なんかこれ、和奏っぽいな)

 和奏は長くてキレイな黒髪を後ろでまとめている。

(拳児は、こういうのが好きなのかな)

 考えなくていいことを考えてしまう紗羽であった。




   * 



 
 その日の夜、播磨は珍しく居間でくつろいでテレビを見ていた。

 そういえば、こういう感じで彼がテレビを見ている姿は珍しい。

 一体いつも部屋で何をしているのだろうか。

 播磨の横顔を見ながら紗羽は近くに座る。

 よく見ると播磨はテレビを見ていない。手元には、ノートと鉛筆がある。

「何書いてるの?」

「バカ! 見るな」

 そう言って播磨はノートを隠した。

「何よ、ケチねえ」

「うるせェ。プライベートだ」

「そうなんだ」

 学校の勉強、というわけでもなさそうだったので、紗羽はそのまま話を続ける。

「引っ越しって、いつになるの?」

「お前ェらの文化祭の、ええと」

「白祭」

「そう。その白祭のすぐ後。振替休日があるだろう。その日にしようと思う」

「随分急なんだね」

「一応、半年は待ったんだぜ」

「そっか」

「……」


 居間にはテレビの音が響く。

『バッタードウバヤシに対し第三球、打った! 打ったああ、これは大きい、

入るか、入ったアアア!』

 実況のアナウンサーは興奮しているけれど、播磨自身はそれに興奮している

様子はない。というか、元々野球にはあまり興味がないのだろう。

 手元にあるノートに、また何か文字を書く。

「あのねえ」

 もう一度声をかける紗羽。

「ン?」

「和奏のこと、どう思う?」

「ど、どうって、どういうことだよ……」

 明らかに動揺している。

 正直な男だ、と紗羽は思った。

「どうって、そのままよ。可愛いでしょう?」

「そうだな。ちょっとドジなところもあるけど、そこが魅力なのかもな」

「……」

 自分で話を振っておいて、紗羽は少しだけムカついた。

(何話してるんだろう、私は)

 しかし言葉は止まらない。

「ねえ」

「なんだよ」

「和奏のこと、好き?」

「……」


 しばしの沈黙。

「それは……、“どういう意味”だ?」

 言葉を選ぶように、播磨は慎重に聞いてきた。

「どうって、そのままよ。恋愛的な意味で」

「何でそんなこと聞いてくるんだ? お前ェもアレか。宮本の桃色頭脳が感染したか」

「べ、別にそんなんじゃ。それに来夏は関係ないでしょう?」

「だったらなんでンなこと聞くんだよ」

「そりゃ、気になるからよ」

「女ってのは、そういう話が好きだな」

 確かに女子は恋愛がらみのそういった話が好きだ。それは紗羽とて例外ではない。

 しかし、今回は違うのだ。

「どうなの?」

「どうもねェよ」

「それって」

「和奏(アイツ)とは、同じ部活で同じクラスで、そんでもってバイト先の娘さんで。ちょっと

共通点が多いかなってくらいだ。もちろん、色々良くしてもらってるしよ、その辺は感謝

してるけど」

「恋人にしたいとか」

「何言ってんだよ。今日お前ェちょっとおかしいぞ」

「別に、私は」

 確かにおかしいかもしれない。

 風呂に入った後なのに、また変な汗が出てきた。

「……ごめん、変なこと聞いて」

 紗羽はそれ以上追及できず、結局話はそこで終った。





   *



 翌日の放課後。いつものように学校で白祭の準備をしていると、不意に和奏が話しかけてきた。

「あの、紗羽」

「どうしたの?」

「聞きたいことがあるんだけど」

 いつも以上に和奏の様子がおかしい。

(まさか)

 紗羽はピンと来た。

「播磨拳児のこと?」

「……」

 恥ずかしそうに和奏は頷く。

「場所、変えようか」

「うん」

 あまり人目につかない校舎裏に来た二人は、そこで向かい合う。

「紗羽に聞きたいことがあるの」

「な、なに?」

「播磨くんのこと、どう思っているのか」

「それって……」

「もちろん、そっちの意味で」

「和奏……」

「もうそろそろ結論が出たんじゃないかと思って、聞いてみたの」


「……」

「……」

 二人の間に重苦しい空気が包む。

 ここで曖昧な答えを出すのは簡単だ。

 でも、それでは和奏は納得しないだろう。

 何より、自分自身が嫌になる。

「和奏」

「なに?」

「その、私は……、播磨拳児のことが……、好きなんだと思う」

 その瞬間心臓が激しく鼓動し、息も苦しくなってきた。

(なんで私、こんなこと言っちゃったんだろう)

 何だか顔も熱い。

(和奏……?)

 紗羽は恥ずかしくてまともに顔が見られなかったけれど、勇気を出して向かい合った

和奏の顔を見据える。

「……そっか」

「え?」

「よかった」

 和奏は一言、そう言った。


(よかった? どうして……)

 紗羽は戸惑う。和奏の言葉は、紗羽にとっては意外な、あまりに意外な言葉で

あったからだ。

(普通逆じゃないの? だってあなたは――)

「紗羽だったら、播磨くんも安心だね」

 和奏は笑顔を見せる。

「安心……?」

 辛うじて声は出たけれど、ほとんど具体的な言葉にはならない。

「他の人だったらちょっと不安もあったけど、紗羽なら安心だよ」

「それって、どういうこと?」

「それじゃ、私練習あるから」

「待って、和奏」

 紗羽はそう言ったにも拘わらず、和奏は待つことなくどこかへ行ってしまう。

「何なのよ。一体……」

 紗羽は興奮が収まるまで、その場に立ち尽くしていた。


 


   つづく


 


 第二十三話プロローグ


 ボランティアの部室は一瞬の静寂に包まれていた。

「すごい……」

 来夏のその一言で静寂の戸張は破れる。

「凄いよワカナ!」

 そう言ってウィーンは激しく拍手をする。

「確かににいいな、その歌」

「素敵よ、和奏」

 部員が拍手と称賛を繰り返す。

「ありがとう」

 母の作った曲。それを引き継いだ和奏の歌は、やっとのことで完成した。

 その曲を、みんなの前で披露したのだ。

「遅くなってごめんね」

「いいんだよ、とってもよかったよ和奏あ」

 そう言って来夏は和奏に抱き着く。

「ちょっと来夏」

 微かに果物の香りがした。

 彼女がよく食べている飴の匂いだろうか。

「よし、これで白祭もバッチリだね」

「バッチリってことはないけど……」

「大丈夫だよ和奏、一緒に頑張ろう?」


「う、うん」

「それにしても曲もよかったけど、歌詞もよかったよね。和奏が考えたの?」

「いや、この歌詞は……」

 和奏はチラリと播磨のほうを見る。

「私じゃないの。実は手伝ってもらって」

「手伝うって、誰?」

「それは秘密。本人の希望で、言わないことにしてるから」

「何よそれー! 私たちの知ってる人? ねえ」

「えへへ」




   *




 部室で和奏が披露した曲はなかなかのものだった。

 昨日の夜に音楽室で録音した伴奏のピアノ、そして何より和奏自身の声。

 それらが絡み合ったその曲は、高校生らしい生き生きとしたものだと、紗羽は思う。

(でもあの歌詞……)

 和奏は作詞した人物の名前を言わなかったけれど、紗羽にはわかっていた。

(数日前から、ノートに色々と文章を書いていたのはこのため)

 そう思いながら播磨の横顔を見る。

 彼は、和奏の表情を見ながら優しそうに微笑んでいた。







          TARI TARI RUMBLE!



  第二十三話 お母さんだったら、きっとこう言うだろうね




《さあやってまいりました、第五十一回白浜坂文化祭。略して白祭!! 

堂々とスタートでえええす!!!》


 生徒会長のやたらハイテンションなスピーチから始まった白祭は、

初日からたくさんの人出ともりあがりをみせていた。

「白浜パフェのお客様! お待たせいたしました!」

 ウェイトレス姿の紗羽がそう言って、注文の品を持ってくる。

「店員さーん、こっちにも水を」

「はーい、ただいま」

 紗羽たちの所属する三年一組は、メニューの良さもさることながら

店員の服の可愛らしさもあって、初日から大繁盛であった。

「うはあ、忙しい」

 特に紗羽の人気は圧倒的で、他校からも彼女目当てで男たちが

集まってくる様相であった。

「何でこんなに広まってるのよ。たかだか高校の文化祭で……」

 忙しさのあまりそんな愚痴をこぼしていると、

「私の宣伝が効いたのね」

 同じくウェイトレスの格好をした来夏が胸を張って言う。まったく

どうでもいい情報だが、彼女の胸は紗羽のものと比べてきわめて貧相であった。


「宣伝って、何したのよ」

「いやいや、ちょっとインターネッツを使って宣伝を」

「あんたまさか、私たちの写真を勝手にアップしてないでしょうね」

「……してないよ?」

「今なんで間があったの!?」

「ほらほらお客さん」

「紗羽ちゃん、来夏ちゃん! 助けてえ」

 クラスメイトの一人が助けを求めてくる。

「あー、はいはい」

 二人はそう言うと再び接客に向かった。





   *



 一方調理室では、播磨たちが喫茶店ようのメニューの調理に励んでいた。

「ぐおおお、何なんだこの注文の量は」

「播磨くん、パフェ追加。あと、鯖の味噌煮」

「了解。つうか、誰だよ。味噌煮なんてメニューに加えたやつは」

「しかし意外だな、拳児が料理できるなんてよ」

 隣で調理をしていた大智が言った。

「お前ェだってできるじゃねェかよ、大智」

「俺は姉貴と二人暮らしだから、家事は分担してるんだよ」

「そうか。俺は志保さんに教えてもらったからな」

「そういや、もうすぐ一人暮らしするんだったよな」

「ああ」

「大丈夫なのか?」

「何が」

「いや、一人で色々と」

「いずれは一人になる。それが早いか遅いかの違いだ」

 そんな話をしていると、和奏が駆け寄ってくる。

「こら二人とも、無駄話してないで作業すすめて」

 右手にオタマを持った和奏はビシリと言う。

「了解」

「おう……」


 普段から家事や店の手伝いをやり慣れているおかげで、和奏の手際は

播磨たちよりもよっぽど良い。

 見た目のこともあるので、接客係も欲しがっていたけれど、調理係としても

和奏はなくてはならない人材だ。

「そういや、ウィーンはどこ行った」

「聞いてねえか? 生徒会主催の料理コンテストに出場してるよ」

「料理ならコッチでもできるっての」

「ほら播磨くん!」再び和奏の注意が飛ぶ。

「はいはい、わかりましたよ」




   *




 白祭の開催中は色々と忙しかった。

 かなり無理があるんじゃないかというくらいのスケジュールで推し進められた

まつりは、一部生徒たちの苦しみをよそに、盛大な盛り上がりの中で実施されていく。

「やっほ、紗羽」

「お母さん、お父さんも!」

 紗羽の両親、正一と志保が私服姿で学校を訪れる。

「あ、どうも」

「ええと、お久しぶり」


 そこに、見覚えのある薄い髭の男性も一人。

 確か坂井和奏の父、圭介だ。

「和奏のお父さん」

「ああ、そうだ。覚えててくれたんだね」

「どうしてウチの両親と一緒に?」

「ああいや、娘の様子を見に来たらばったり会っちゃって」

「ああ」

「和奏はいないの?」

「すみません、あの子は調理担当なのでここには」

「ああ、折角来たのになあ」

「和奏は、ウチのクラスの来夏と一緒に午後から行われるカラオケ大会に出るので、

見て行ったらどうです?」

「え、そうなの? そんなのあるんだね」

「紗羽、あなたは出ないの?」

 そう聞いたのは母の志保だ。

「私は出ないわよ」

「そうなの。残念ね、紗羽も歌は結構上手いのに」

「そういうことで、早く注文を――」

「でもまあ、ミス白浜坂には出るからいいか」

「な!?」


 思わず注文用の伝票を落とす紗羽。

「ど、どこで聞いたのよ」

 伝票を拾いながら紗羽は聞いた。

 ミスコンへの出場は、両親には、というか両親にだけは知られないように

細心の注意を払ってきたというのに。

「来夏ちゃんから連絡があったのよ。やるのは明日みたいだけど」

 そう言って志保は自分の携帯電話を見せる。

「来夏が?」

「メル友だから」

 頭の中で、『テヘペロ』と言って片目を閉じる来夏の顔が思い浮かんだ。

「来夏うう、余計なことを……!」

 思わず店内を見回して来夏の姿を探すも、見つからない。

「来夏はどこ?」

 クラスメイトの一人をつかまえて彼女の居場所を聞く。

「来夏ちゃんならカラオケ大会の出場のためにもう出たけど」

「あいつめ」

「ほら、早く注文とらないと。ほかのお客さんも待ってるよ」と、志保は言った。

「申し訳ございません」

 少しキレ気味に紗羽は言った。

(あいつめ、帰ってきたら説教してやる)

 密かな怒りを胸に秘めつつ、彼女は接客を続けた。





   *





 そんなこんなで、白祭の一日目は無事に終了した。

 喫茶店の合間に抜け出してカラオケ大会に出場した宮本来夏・坂井和奏のペアは、

見事優勝を勝ち取り、ボランティア部のステージをアッピールすることにも成功した。

 ちなみに料理コンテストに出場したウィーンは、ブービー賞だったようだ。
 
「さあさあ皆、疲れている暇はないよ。明日の発表に向けて、最後の練習だからね!」

 喫茶店のウェイトレスにカラオケ大会、ついでにクイズ大会にまで出場した来夏は

まだまだ元気だった。一体、タ●マンを何本飲めばこんなにも元気になれるのか。

 他の部員、特に播磨には不思議でならなかった。

「よーし、頑張ろう!」

 主に、クラスと部活の宣伝を担当したウィーンも、まだまだ元気だ。

 歌の練習は夜遅くまで続いた。

 明日が本番だというのに、ここまでやってどうなるのかとは誰も考えない。

 最後のステージなので、やれるだけのことはやろう。そう思っていた。



   *


 夜も八時を回ると、さすがに人もまばらになる。

 外も真っ暗で風も少し冷たい。

 そんな中、屋上には紗羽と和奏の二人がいた。

 今度は和奏ではなく、紗羽が呼び出してきた。

「どうしたの紗羽。話って……」

 和奏には何となく話の内容は予想できた。しかし、具体的な内容まではわからない。

(播磨くんのことだよね、きっと)

 暗がりの中、紗羽は和奏に言う。

「和奏」

「なに?」

「明日、白祭が終わった時」

「うん」

「私、拳児に告白しようと思う」

 まるで和奏を射抜くような強い視線と言葉で紗羽は宣言する。

「告白って……」

「もちろん、恋愛的な告白よ」

 紗羽は言い切った。

 これまでの曖昧な態度とは違う、どこか悲壮感すら漂う決意の言葉。

「どうして」

 そんなに急がなくてもいいのではないか。


 いつか、こんな日が来るとは思ってはいたけれど、ここまで早いとは正直予想して

いなかったのだ。

「もうすぐ、と言っても明後日なんだけど、拳児は沖田家(ウチ)を出て行くの。

それは、知ってるよね」

「うん。田中たちとも話をしていたし」

「だから、これを機に彼との関係も変えて行こうかと思う」

「……紗羽。でもどうしてそれを私に」

「それは、あなたには恩があるし」

「恩?」

「うん。私の気持ちに気づかせてくれた恩。それからもう一つ。これは恩じゃないけど」

「……」

「あなたの気持ちを考えたら、何も言わずに告白するのは不公平だと思ったから」

「不公平……?」

「そう」

「紗羽、私は別に……」

「明日、後夜祭の後、午後七時。体育館の裏に私はいます」

「紗羽……」

「それじゃあ」

 そう言うと、紗羽はすぐに出口へと向かい、早足で階段を駆け下りて行った。




   *

 

 翌日、和奏は心の中に小さなモヤモヤを抱えたまま登校していた。

「おはよう和奏」

 坂を上りつつ、来夏が声をかける。

「お、おはよう」

「どうしたの? 疲れてる?」

 そう言って来夏が和奏の顔を覗き込んでくる。

 なんだか、疲れとは無縁そうな顔だな、と彼女は思った。

「来夏は元気だね。私、体力ないから」

 和奏は笑いながら来夏の頭を撫でた。

 髪の毛の感触が柔らかくて気持ちよかった。

「何よ和奏。本当に大丈夫なの? 風邪でも引いた? 今日本番だよ」

「うん、大丈夫だよ」

「ならいいけど」

 和奏は今、自分がどんな表情をしているのかわからないけれど、多分笑顔

だと思った。

(何で人は悲しくても笑えるんだろう)

 ふと、母親のことを思い出す。

 母、まひるは最後の瞬間までほとんど笑顔を絶やすことがなかった。

 ずっと怒ってばかりだった自分とは対照的な人間。

 それは単純に性格の問題だと思っていたけれど、もっと何か根本的なことが

違うのだろうか。


 
   *



  
「いたっ」

 包丁で指を切る。

 人差し指の先からじんわりとにじみ出る真っ赤な血液を見ながら、自分が今

調理室で調理をしていることに気が付く。

「おい、大丈夫か?」

 不意に声をかけてくる男子生徒が一人。

「播磨くん」

「疲れてんのか? 少し休んだらどうだ」

「大丈夫だよこれくらい」

 和奏は人差し指を口に含みながら答える。微かに鉄の臭いが口の中から鼻孔に

抜けていくのがわかる。

「ったく、あんま無理すんな。ちょっと来いよ。ここで指洗ってろ」

 そう言うと、播磨は水道水で傷を洗い流させると、和奏を廊下に連れ出した。

「じっとしてろ」

「いいよこれくらい、自分でやれるから」

「別に気にすんな。たまたま絆創膏持ってたからよ」

 そう言うと、播磨は絆創膏を取り出し、指に巻いた。

「ピアノ、弾けるか」

「うん、これくらいなら大丈夫」

 右手の人さし指に巻かれた絆創膏を見ながら和奏は言った。


「そういえばギターは大丈夫? 弾ける?」

 と、和奏は聞いてみる。

 部の発表では、何曲か播磨がギターを弾く曲があるのだ。

「問題ねェ」

「そっか……」
 
「もうすぐ、会場設営の準備があるからよ。お前ェは少し休んでから来てくれ」

「え、私も行くよ」

「気にすんな。力仕事は俺らの役目だ。お前ェは自分の歌のこともあるし、ちゃんと

休んで万全の態勢で本番を頼むぜ」

 そう言うと、播磨はかけていたエプロンを脱ぐ。

「ありがとう、播磨くん」

「……」

「どうしたの?」

「礼を言うのは、すべてが終わってからにしろよ」

「え? うん」

「じゃあ、俺行くわ」

「三十分になったら会場の中庭に来てくれ」

「わかった」

 和奏は時計を確認しつつ、調理室へと戻って行った。




   *



 それから、少し休んでも心の中のモヤモヤは消えないままだった。

 でも、行かなきゃならない。こんな状態で紗羽や播磨と顔を合わせるのは辛いけど、

自分一人の身勝手のせいで回りに迷惑をかけるわけにはいかないのだ。

「ふう」

 和奏は大きく一つ息を吐く。

(よし、行こうか)

 そう思い、歩き出した時、

「ワカナ」

 一人の男子生徒が彼女の前に立つ。

「ウィーン、どうしたの?」

 ウィーンこと、前田敦博だ。

「ワカナ、何か心配事でもあるの?」

「いや、別に無いけど……」

「ウソだ。今日はずっと朝からおかしいもん」

「ウィーン……」

 来夏や播磨にも心配をかけている。

 ウィーンにだってわからないはずはないのだ。

「大丈夫だよウィーン」

 そう言って、和奏は笑顔を見せた。

 しかし、ウィーンは険しい顔を崩さない。

「そんな風に笑うのはやめて、ワカナ」


「え?」

「ヒーローは他人に対して嘘をついても、自分は偽らないんだ」

「自分は偽らない?」

「そうだよワカナ! 今のキミは自分を偽ってる。そんな状態で演奏をしても、

全然楽しくないよ」

「……!」

 ぐうの音も出ないとはこのことだ。

 ウィーンの言葉は、和奏の心の中にある急所に直撃する。

「ウィーン、あなたに……」

「……」

「あなたに何がわかるっていうのよ!」

「わからないよ! でもワカナ! キミが悲しんでいるところは見たくない!」

「知ったようなこと言わないで!」

「ワカナ! 僕はキミが心配で!」

「うるさい!」

 そう言うと、和奏は駆け出した。

 行先はよくわからない。

 ただ、その場にじっとしていることはできなかった。





   *



 学校内、中庭特設会場。

 そこでトリを飾るボランティア部のメンバーは、すでに準備が整っており、

後はメンバーの到着を待つばかりとなっていた。

「ったく、どういうことなのよ! 携帯も通じないし!!」

 舞台裏では、来夏の苛立ち交じりの声が響く。

「拳児くんと和奏が来てないじゃない。ウィーン、どこに行ったの?」

「いや、それが。少し前に見たんだけど……」

 ウィーンが申し訳なさそうに項垂れる。

「あなた、何か言ったの」

「いや、僕はただ、和奏にいい演奏をしてもらいたくて」

「あのねえ、ウィーン。女の子ってデリケートなのよ。今日だって、和奏はあまり

体調が良さそうじゃなかったし、あまり無神経なことを言ったら――」

「もういいよ来夏」

 紗羽は、そんな来夏の言葉を止める。

「ウィーンを責めても仕方ないことだし」

「だって、もう最後なんだよ! 時間だって無いし」

 来夏は目に涙をためている。

(和奏が来ないのは、私のせいだ。間違いない)

 紗羽は心の中でそう確信する。


(何であんなこと言っちゃったんだろう。この大事な時に。和奏の気持ちだって

わかってたのに)

 紗羽は自分の行動の軽率さを酷く後悔し、自己嫌悪に苛まれた。

「来夏、ウィーン。それに田中。和奏は私が探してくるか」

 そう言うと、紗羽は立ち上がる。

「待てよ沖田」

 そう言うと、大智は紗羽の手首を掴んだ。

「放してよ田中、私のせいで――」

「いいから、大人しくしてろ」

 と言って大智は手に力を込める。

 男性の力は女子の紗羽が容易に振り払えるものではない。

「もし、お前が探しに行ってる間に沖田(あいつ)が戻ってきたら、それこそロス

じゃないか。時間も無いんだし」

「でも……、和奏は」

「あいつはそんなに弱くない。仲間を信じろ」

「……わかった」

 紗羽がそう言うと、大智はゆっくりと彼女の腕から手をはなした。





   *






 人気のない校舎の裏で、和奏は一人立ち尽くしている。

 笑うことも泣くこともできない。ただ、心の中にぽっかりと穴が開いたような状態。

 ウィーンの言うとおりだ。こんな状態で演奏などできそうもない。

 仮にやったとしても、それは音楽ではなく、ただ音を出すだけの作業だ。

「はあ……」

 和奏は大きくため息をついた。

(播磨くん……)

 紗羽は播磨にふさわしい。そう思っていたし、今もそう思っている。

 自分なんかよりも、よっぽど素敵な女性だと思う。

 あの日、白祭の前に彼女から直接気持ちを聞いた。

 それで納得したはずだった。

 でも、彼女がから直接告白する、ということを聞かされた時、心はひどくかき乱された。

(何やってんのよ、バカ)

 自分で自分を殴りつけてやりたい、そう思った時、



「こんな所で何やってんだ」



 不意に声をかけてくる男性。

「播磨くん!?」

 思わず顔を上げた。





「悪いな、播磨くんじゃなくて」

「お父さん……」

 和奏の目の前にいたのは、播磨拳児ではなく父、圭介だった。

「どうしてここに」

「どうしてって、そりゃあ娘の晴れ姿を見にきたにきまってるじゃないか」

「……」

「何か悩みでもあるのか」

「別に」

「播磨くんのことか」

「別にそんなんじゃない!」

 思わず声を荒げてしまった。

 しかし、圭介は特に動揺した素振りは見せない。

 まるで自分の心の中をすべて見透かされているようで恥ずかしくなる。

「そうか、じゃあちょっと俺の話を聞くか」

「話?」

「そう、お前は信じなかったけど、父さんと母さんが付き合い始めた時の話」

「それは……」

「前にも言ったと思うが、告白してきたのは俺じゃなくて母さんのほうだったんだぞ」

「信じられない」


「まあ聞け」

「……」

「でもその話には、少し足りない部分がある」

「足りない部分?」

「そう。実は父さん、母さんの告白を、一回断ってるんだよ」

「ええ!?」

 びっくりした。今月に入ってからおそらく二番目くらいの吃驚である。

「それは、好みじゃなかったから?」

「バカか。俺が好み云々を言えるような容姿じゃないことくらい、お前も

わかってるだろう」

「うん」

「はっきり言うなあ。まあ、事実だけど」

「それで? そのまま別れたの?」

「いや、ちょっとまて。そのまま別れたらどうしてお前が生まれてくるんだ」

「確かに」

「俺はな、怖かったんだよ。だってそうだろう? 母さんみたいないい女が

俺みたいな男に告白するんだぜ。もっといい相手がいるだろうってさ」

「……」

「でも母さんは俺がいいって言ってくれた。だから、俺は母さんと付き合って、

そして結婚もした」


「……」

「俺はな、母さんの気持ちに応えられるように精一杯頑張ったよ。いい夫、いい父親

になろうと頑張った。仮に今は無理でも、この先もっと頑張れば」

「でもお母さんは――」

「そう。母さんはもうこの世にはいない」

「…………」

「最初のうちは、確かにショックだったよ。だけどさ、俺はこう思うようにしたんだ」

「え?」

「これから俺の人生はまだ続く。だから、その人生では、今よりもっといい男になろうって」

「いい男?」

「そう、いい男だ。そして頑張って頑張って、ずっと生きて生きて生き抜いて、そんで一生かけて、

お前や地域の皆のために頑張って、そしていい男になろう。そう決意した」

「お父さん」

「そしたらさ、俺が死んで天国に行った時、母さんも満足するんじゃないかと思ってよ」

「お母さんだったら」

「ん?」

「お母さんだったら、きっとこう言うだろうね」

「……」

「『よく頑張ったね。あなたの人生、百点です』って」

「和奏、お前……」


「似てた?」

「そりゃあ似てるさ。母さんの娘なんだから」

「お父さん」

「どうした」

「はじめてお父さんのこと、カッコイイって思った」

「はじめてかよ!」

「私もいい女になる」

「そうだな、なれるさ。俺と母さんの娘なんだから」

「ありがとう。私、行かないと」

「ちょっと待てよ和奏」

「え?」

 そう言うと、圭介はハンカチを差し出す。

「顔、ちゃんと洗って行けよ。涙と鼻水垂らした“いい女”がいるかよ」

「そ、そうだね。ありがとう」

「おう、頑張れ。応援してるぞ」

「うん」

 和奏は走る。仲間が待つ、あのステージに。





   つづく







 第二十四話 プロローグ

 和奏は中庭の特設ステージに向かった走る。

 ただでさえ遅れているのに、これ以上遅くなることは許されない。

「ごめんなさい、通してください」

 人垣をかきわけてステージ裏へと到着すると、そこには見慣れたボランティア部の

メンバーが集まっていた。

「和奏!」

 真っ先に声をかけてきたのは、部長の来夏であった。

「どこ行ってたのよ」

 その言葉から、少し涙ぐんでいることがわかった。

「ごめんなさい、来夏。私、頑張るから」

「あの、和奏」

 そんな二人に、恐る恐る声をかける女子が一人。

「紗羽……」

「ごめん和奏。私が昨日、あんなことを言ったせいで」

「大丈夫だよ紗羽。もう大丈夫」

 そう言うと、笑顔を見せた和奏は親指を立てて上に向ける。

「ウィーンも大丈夫だから!」

 奥の方で怒られた猫のように縮こまっていたウィーンにも和奏は声をかける。


「ワカナ!」

 先ほどまで暗かったウィーンの表情が一瞬で明るくなった。

「うんうん、何があったかはよくわからないけど、これで全員集合だね」

 来夏は嬉しそうに頷く。

 しかし、

「おいちょっと待て、拳児がいない」

 大智が重大なことを指摘する。

「え?」

「播磨くん?」

 和奏も見回す。確かに播磨拳児の姿が見えない。

「どういうことなのよ! せっかく和奏が来たっていうのに、拳児くんったらもう!」

 来夏がそう言ってプンプン怒っていると、ステージのほうから人が出てきた。

 ステージ設営を担当する係員だろうか。

「おう、お前ェら。揃ったか。ちょうどいい」

「え?」

「ん?」

 全員が一斉にその人物の顔を見る。

「播磨くん?」

 和奏は名前を呼んだ。

「ちょうどいいってどういうことよ、とっくに時間は過ぎてるんだよ!?

どこ行ってたの」


「まあ落ち着いて来夏」

 興奮して播磨に詰め寄ろうとする来夏を紗羽が止める。

「確かに予定よりは遅れたが、それが丁度良かったんだよ。ステージに来てみろ」

「ん?」

 言われるがままに、和奏たちは表のステージに行くと、そこには――

「ピアノ……」

「ピアノだあ!」

 ステージの端に、アップライトのピアノが置かれていた。

「体育館みたく、グランドピアノってわけにもいかなかったけどよ、やっぱキーボードよりも、

使い慣れた本物のピアノのほうがいいだろう?」
 
 得意気に播磨は言う。

「どうしてピアノがここに?」

「まあ、皆を驚かせようと思ってよ。生徒会の連中と協力してここに運んできた」

「でも勝手に持ち出したらまずいんじゃあ……」

 不安そうに和奏が言うと、

「許可は取ってあるさ」

 そう言うと、播磨はとある場所に視線を向ける。

「教頭先生?」

 そこには、教頭の高倉直子が腕を組んで立っていた。

「あ、ありがとうございます。教頭先生」

 真っ先に、和奏は教頭の元に行き、頭を下げた。


「勘違いしてほしくないのだけど――」

 そう言って、直子はクイッとメガネを動かす。

「わが校の生徒として、恥ずかしくない発表をしてもらうための措置です」

 ふと、言葉の最後には柔らかな笑顔を見せる。

「ツンデレか」

「ツンデレね」

「ツンデレかよ」

 生徒会の役員や声楽部の生徒たちが口ぐちに言い始める。

「うるさいわよ、あなたたち! というか、ツンデレって何よ」

 直子がそこまで言いかけたところで、

「ありがとうねえ! 先輩」

 突然、直子の後ろから抱き着く女性が一人。

「志保!?」

「お母さん」

 紗羽の母、沖田志保である。

「もう、ナオ先輩ったら、昔から素直じゃないんだからあ」


 そう言って、志保は直子の頬を人差し指でクニクニとつつく。

「こら、止めなさい」

「いいじゃないですか、久しぶりに会ったんだし~」

「生徒が見てるんだから、コラ、やめなさい」

「アハハハ」

 普段、生徒の前では凛とした表情を崩さない直子の慌てた姿に、関係者一同は

(教員も含めて)珍しそうに眺めていた。

「ほらほら皆。教頭見物もいいけど、そろそろはじめるよ」

 そう言ったのは来夏だ。

 両手を広げ、全体を見回す。

 よく見ると、ステージの周りには多くの人が集まっていた。

 それも生徒だけでなく近所の人たちまでいる。

「ファイト―! 来夏ちゃあああん!」

 老人ホームの人も集まっていた。

 救急車を呼ぶ準備をしておいたほうがいいのではないか、と和奏は思う。

「さ、やろうか。和奏」

 来夏は和奏の肩に手を置く。

「うん」

 和奏は力強く頷いた。







          TARI TARI RUMBLE!


   第二十四話 お前にはわからないだろうな、拳児



 これまでにないほど、たくさんの人たちが集まっている中庭ステージ前。

 教室の窓からも多くの生徒や一般の見物客が見ている。

 そんな中、ステージの真ん中に立つのは沖田紗羽である。

(中庭だと思って安心してたけど、体育館以上に緊張するかも)

 そう思いつつ、周りを見ると、相方の宮本来夏やサブボーカルの大智とウィーンも

笑顔だった。

(やるしかないか)

 伴奏の和奏のほうを見る。

「和奏!」

 紗羽は彼女の名前を呼んだ。

(昨日、あんなことを言ってごめん。でも、私の気持ちは……)

「……?」

 不意に和奏は頷く。

(和奏……)

 何かを悟った目をしていた。

 諦めとか、そういうのではない。

 不意に、合図の前に和奏は鍵盤を叩いた。

 その音に会場が静まり返る。

 大きな音。ピアノって、こんなに大きな音が出るのか。


 予定とは違う前奏に、紗羽は少し戸惑うけれど、それは彼女なりの決意だと知るのに、

時間はかからなかった。

(わかったよ、和奏。やってやろうじゃないの)

 何だかよくわからないえれど、腹を決めた紗羽はマイクを握りしめ、正面を見据えた。

 そして、予定されていた前奏が響き渡る。

 腹式で大きく息を吸った紗羽は、そのまま声を出す。






   *






 数曲弾き終ったところで、来夏が和奏の元に駆け寄って手を引く。

「どうしたの?」

「次は和奏の番だよ」

「ちょっと待って。次は来夏の歌じゃあ」

「時間がなくてね、削らないといけないの」

「だったらなおさら、私のほうは」

「ダメだよ。和奏の曲は、皆で作ったんだから。もうあなただけの曲じゃないんだよ」

「来夏」


「さ、早く」

「……うん」

 来夏に引っ張られるようにして、和奏はステージの中央に立つ。

 たくさんの視線が、和奏に集中した。

 和奏は視線を横にすると、そこにはボランティア部のメンバー、そしてギターを

持った播磨の姿があった。

 彼女は大きく息を吸い、もう一度正面を見据える。

 時間がないので、挨拶は短めにしなければならない。

 何を言おうか、少し迷いはあったけれども、心の思うままに言葉を出そう。

そう思った。

《この曲は、私のお母さんが残してくれた曲に手を加えて完成したものです。でも、

私一人の力ではこの曲はできませんでした。ボランティア部の皆と、そして、私を

支えてくれたすべての人たちがいたから、出来上がったのだと思います。

 まだまだ未熟な私ですが、その未熟さも含めてこの曲を歌おうと思います。

 では、聞いてください》

 伴奏は和奏ではなく、ピアノ経験が多少あった来夏が行う。

 そして、播磨もクラシックギターで参加した。

 急な編曲でなかなか練習もできなかったけれど、それでも和奏は嬉しかった。




   *




 直子は、少し外れた場所から腕を組んで和奏の様子をずっと見ていた。

 かつて声楽部の部員だった宮本来夏が楽しそうに歌っている。

 あれだけ歌が大好きだった少女が、部活中には見せたことのない生き生きとした表情だ。

 人前に出ると声が出なくなる、という欠点を見事に克服した彼女は、声楽部に戻ろうとはせず、

彼らと一緒に新しい部活動に身を投じる。

 その判断も一時はおかしいと思ったけれど、今なら納得できる。

 音楽は音を楽しむこと。

 かつての親友、まひるの言葉も今ならわかる気がする。

「まひる……」

 中庭の特設ステージに立つ坂井和奏の横顔を見ながら、不意に親友の姿を思い出す。

(まひる、確かにあなたの心は残っているのね)





   *



 曲が終わり、拍手に包まれる会場。
 
 屋外会場独特の解放感がその盛り上がりをさらに増幅させる。

 必ずしもすべて予定通りにことが運んだわけではないけれども、ボランティア部の

発表は概ね成功したと見ていいだろう。

「はあ」

 紗羽が一息つくと、一気に力が抜ける。

 足元もふらついた。

「大丈夫か」

 と、近くにいた播磨が言った。

「平気平気」

 そう言って紗羽は両手で握りこぶしを作って見せる。

 気を抜いたらこのまま播磨に倒れ込んでしまいそうになる。

 多分、彼はそれを受け入れてくれるだろう。

 ただ、今の紗羽にとってはそんな曖昧な優しさでは満足できなかった。

「拳児」

「ん?」

 まだ拍手が続く中、紗羽は小声で彼に呼びかける。

「あの約束、忘れないでね」

「ああ」

 播磨は頷いた。

 遠くで和奏がこちらをチラリと見た気がする。


 いや、間違いなく見ていただろう。

 それでもいい。

 自分は、もうこれ以上隠すつもりはないのだから。

 一同で、もう一度礼をしてからステージから降りる。

 観客からはアンコールの声も聞こえるけれど、これからどうするのだろうか。

 もちろん、アンコールで予定していた曲はないので、これで終わりだろう。

「やっと終わったね」

 紗羽は前を行く来夏にそう呼びかけると、

「何を言ってるの?」

 来夏は言った。

「え?」

「まだ終わってないよ。むしろ本番はこれからだと言える」

「ええ?」

「さあ、紗羽。次のステージだよ」

「アンコールはやらないんじゃあ」

「違うよ、白祭のメインイヴェントだよ!」

「もしかして」

「ミス白浜坂! これに出ないと」

「あれはギャグじゃなかったの!?」

「もう出場登録は済ませてあるんだから、早く」

 そう言って来夏は紗羽の背中を押す。


「ちょっと待って、ウチの部の出し物をアピールするための出場でしょう? 

だったらもう、出る必要がないんじゃあ」

「だまらっしゃい!」

「ひいっ」

「これだけ学校の皆に協力してもらったんだから、こっちも協力しなきゃ」

「別に私が出なくても……」

 紗羽がそう言っていると、

「頑張ってサワ!」

「頑張れよ」

 無責任にも大智とウィーンが応援する。

「沖田さん、早く」

 運営係員の腕章をはめた生徒が紗羽を呼びに来る。

「衣装は控室に入れておいたからね!」

 来夏は言った。

「何でアンタは“こんな時だけ”手際がいいのよ!」

「早く早く」

「わかったわよ」

 紗羽は腹を決めてミス白浜坂コンテストの控室へと向かう。

 どうやら、白祭が終わるもう少しの間、自分の姿を衆目に晒さなければならないようだ。




   *




 
 紗羽がミス白浜坂コンテストの準備に向かい、播磨と大智も別のイベントのために

抜けたので、特設会場の片付けは和奏たちが担当することになった。

「はい、そこは気を付けて運んで」

「お前も手伝えよ宮本!」

 なぜか来夏は張り切って片付けの指揮をしている。

 和奏も、持ち込んだ小道具の片づけをはじめると、ウィーンが話しかけてきた。

「あの、ワカナ」

「ウィーン。どうしたの」

「あの、さっきはごめん。あのときはその」

「いいんだよ、ウィーン」

「え」

「あなたの言うとおり、自分を偽った状態で音楽をやっても、全然楽しくないから」

「ワカナ……」

「だから、私も嘘をつかないことにする」

「じゃあ今は」

「私は迷わない。例えダメだったとしても、その現実を受け止めようと思う」

「ダメって、何が?」

「へ?」

 和奏の動きが止まる。


「ねえ、ウィーン」

「何?」

「あなた、わかってたんじゃないの」

「何を?」

「いや、だからその。私の悩み」

「悩みって、何なの? 僕、気になるよ。というか、何で悩んでたの?」

「それ、知らないのに心配してたの?」

「いやだって、ワカナが何だか元気なかったし」

「そっか。キミはいいやつだね」

「え?」

「でもいい奴のままだと、損をするよ」

「損?」

(そういえば――)

 和奏は播磨のことを思い出す。

(彼も、損ばかりしている感じ)

 そう思うと、何となく気持ちが軽くなった。

「さあ、すぐに片づけて、紗羽の応援に行くよ」

「う、うん」

 和奏たちは素早く片付けを終えると、メインイベントであるミス白浜坂が行われる

体育館に向けて急いだ。





   *





 校内におけるほとんどのイヴェントが終わり、生徒たちは体育館に集まっていた。

 そのため館内は異常な熱気に包まれている。

《松前緒花さんでした~。ありがとうございます。それでは、皆さんお待ちかね》

 司会の男子生徒がマイクを持ってそう言うと、

《おお、何だか歓声が聞こえますねえ》

「きゃー、紗羽センパーイ」

 黄色い声援が飛んだ。

《男子からだけでなく、女子からも人気のある元弓道部のエース》

「紗羽ちゃーん!」

 野太い声も聞こえる。

《エントリーナンバー5! 三年一組、沖田紗羽さんでえーす!》

 そんな声と同時に、スポットライトが紗羽に当たる。

(うおっ、眩しっ)

 あまりの眩しさに、一瞬目をつぶってしまったけれど、目が慣れてくると会場の様子が

よくわかる。

(集まってんなあ……)

 アリーナの席だけでなく二階席にも人がいる。

 先ほど中庭に集まっていた観客が一気にこちらに流れてきたようだ。

《それにしてもその衣装、可愛いですねえ~》
 
 いやらしい感じで司会がこちらにマイクを向けた。


《あ、はい……。クラスの出し物である喫茶店の制服なんです》

 紗羽が着ている衣装は、クラスの喫茶店で着ていたウェイトレスの制服である。

 胸の部分がやたら強調された服だ。

 しかも、頭にはヘッドドレスではなく……。

《ネコミミですか、素晴らしい!》

 何がどう素晴らしいのか、紗羽にはよくわからなかったけれど、会場の観客には

好評のようだ。

《それでは審査員の方にもお話を聞いていきたいと思います。では、特別審査員の

山中先生、いかがでしょうか》

《あ、はい。素晴らしい逸材ですね。スタイルも申し分ない。今度私の作った衣装も着て

もらいたいくらいで――》

《はい、ありがとうございましたあ》

 司会者は無理やり話を断ち切る。

《それでは、アッピールタイム行ってみたいと思います!》

(え? アピール?)

 まったく聞いてなかった。それに、自分の準備が忙しくて、前の出場者の舞台も見ていない。

(い、一体何をすればいいのよ)

《さ、何かありますか? メッセージなどでもいいですよ》

(え? メッセージ?)

 紗羽は考える。

 あまり長いこと黙っているわけにもいかない。

《わかりました》


 紗羽は覚悟を決め、マイクを握りしめる。

《あの、私は……、元々弓道部だったので、これまであまり白祭に関わるということが

ありませんでした。ただ、今年はクラスの出展にも参加したし、何よりボランティア部で

歌のパフォーマンスをやらせてもらいました》

 そう言うと、会場の一部が盛り上がる。

 どうやら、中庭で歌を聞いてくれた人たちだろう。その中に、自分の母がいると思うと

紗羽は少しだけ、いや、かなり恥ずかしくなってきた。

《今年の白祭は、私にとって、いや、私たちにとってとても思い出深いものとなったと思い

ます。こんな白祭を作ってくれた関係者の皆さん、そして私の大切な人たちに、御礼を

言いたいと思います》

 そこまで言った紗羽は、ステージから更に一歩前に出る。

 彼女の姿を追うように、スポットライトも少しだけ動く。

「皆あ! ありがとおおお!!!」

 マイクを使わず、地声で大きく叫んだ。

「うおおおおお!!!」

「きゃあああ」

 その良く通る声に、会場は再び湧き上がった。

《お疲れ様でした! 沖田紗羽さんでしたあ! 皆さん、もう一度拍手を》

 波のように押し寄せる拍手を浴びながら、紗羽は舞台の奥に収まる。

《それでは、ミス白浜坂の投票をこれから受け付けたいと思います。お手持ちの投票権は

一人一票です! 決して不正はなさらぬように、速やかに投票してください!》

 ミス白浜坂の投票は、あらかじめ配られた規定の紙に、自分が支持する女子の名前の上

に丸を書いて投票するものだ。

 投票と集計には時間がかかるので、一旦ミスコンの参加者は控室に戻ることになる。

 そして、その間にもう一つのイベントが行われるのだ。




  *

 
 

 白浜坂高校には、ミス白浜坂と並ぶもう一つのメインイベントがある。

〈王子様選手権〉

 ミス白浜坂が、学園のプリンセスを決める大会であるならば、王子様選手権は

文字通りプリンスを選ぶ大会。

 しかもその大会は投票ではなく、あらゆるバトルで決定される。

《さあ、お待たせしました! もう一つのメインイヴェントがやってまいりました! 

イケメンだけが出場を許される、というわけではありませんが、学園市の男子を決める、

と言っても過言ではない白浜坂王子様選手権! 今、スタートです》

「きゃあああ!」

 黄色い声援が飛ぶ。

 毎年、このイベントは男子より女子のほうが人気だ。

《それでは、出場選手の入場でえす》

 ステージでは、ミス白浜坂と違ってかなり多い、数にして十数人の男子生徒がぞろぞろと

登場してくる。 

《さて! 今年は昨年と違ってその数十七人という多くの方々に参加していただきました。

いかがですか、解説の山中先生》

《今年はミスコンの参加者が去年よりもレヴェルが高いですからね。もしかして、その点で

男子のモチベーションも高いのかもしれませんね》

《なるほど。確かにそうかもしれません。さて、今年はどんなバトルを展開してくれるのでしょうか。

ちなみに去年は、おから早食い競争でした》

 そんな話をしていると、生徒会執行部の一人が大きな箱をもってやってきた。


《さて、毎年恒例ですが、この王子様選手権はこの箱の中に入っている紙の中から一枚選んで貰い、

そこに書かれている競技をやってもらいます。ちなみになぜこのような方法にするかというと、

競技によっては生徒間で不利有利ができてしまうので、直前までは決めないようにしているのです。

ですよね、生徒会長》

 不意に、生徒会長(女子)にマイクが向けられる。

《はい、その通りです。でも競技が決まっていないために、私たちの段取りが大変で》

 そう言うと、会場が笑いに包まれる。

《はい、では愚痴はこの辺りにして、生徒会長に引いてもらいましょう》

《わかりました》

 そう言って生徒会長は箱に手を突っ込む。

《ちなみに去年、不評だったおから早食い大会は今年はありません》

「ええー!?」

《『笑ってイイ友』みたいなリアクションしてもダメです。さあ会長、今年の競技は?》

《あ、ええと。あ、アームレスリング》

「おおおおお!!!」

 まるでテレビショッピングのような会場のリアクション。

 おそらくサクラがいるのだろう。

《さあ決まりました、アームレスリング! 日本語で腕相撲! さて、それではこちらに専用の台を

用意しておりますので、それぞれやっていただきましょう》

 無作為に選んだとは思えないほどの手際の良さで、二台の腕相撲台(ただのテーブル)が用意された。

《さあ第一回戦は、ああっと話題の転入生! 三年一組播磨拳児くんだああ!》


 その言葉に会場の一部が湧く。

 恐らく商店街の人たちだろう。

 播磨は急に恥ずかしくなってきた。

「頑張れよ、拳児」

 後ろで大智が背中を叩く。

「別にこんなの、どうってことねェだろう」

「ウチのクラスと部活の名誉もかかってんだ。みっともない負け方だけはするな」

「ったくよう……」

 播磨自身、あまり騒ぐのは好きではないし、人前に出るのも正直苦手だ。

 ただ、あんまりやる気のない姿を見せるのは、来夏や紗羽、それに和奏たちを悲しませて

しまうだろうから、そこは悩ましいところではあった。

《さて対するは、同じく三年一組の野伏くんでーす!》

「よう播磨あ」

「誰だお前ェ」

「野伏だよ! 同じクラスだろう」

「そうだったか」

「負けないぞ播磨。俺は最近結構鍛えてるからな」

「ああそうかい。まあ頑張れ」

 播磨はこの場で負けてやろうかと考えた。人前でみっともない姿を晒すのは本意ではないが、

目立つ場所にずっと居続けることも嫌だった。


(まあコイツなら、わざと負けてもいいだろう)

 そんなことを思いながら、勝負台に立つ。

「これに勝ったら沖田さんは俺のもの」

「あン? 沖田が」

 紗羽の苗字を聞いた播磨は少し反応してしまう。

「これに優勝して、彼女に告白するんだ。知ってるだろう? 王子様選手権の優勝者と、

ミス白浜坂が付き合うと、長く幸せでいられるっていうジンクス」

「くだらねェ」

「くだらなくても構わない。俺は沖田紗羽と仲良くなるんだ」

 そう言って、野伏は右手を台の上に乗せる。

(沖田とコイツが付き合う。あんまり想像できねェな)

 そんなことを思いながら播磨も構える。

「ではいいですか」

 審判役の生徒が二人の拳を握った。

(ここで負ければ、終わる)

 今にも、試合開始の掛け声がかかる。

 その時であった。

「頑張れ!! 拳児!!」

「拳児くん! 行けえ!」

「は、播磨くん!」

 試合前の一瞬の静寂を破るように、よく通る三人の声が聞こえてきた。


「あン?」

「レディー」

「……」

「ゴー!!」

「ぬっ!」

 審判の掛け声とともに、思わず力を入れてしまう播磨。

 ゴキンと、台に叩き付けられる音が響く。

「ぎゃあああ!」

 野伏の叫び声が舞台に響くと、会場は大いに盛り上がった。

「うおおおおおおおお!!」

《一瞬です! 播磨選手、瞬殺! クラスメイトの野伏選手を文字通り瞬殺しましたああ!》

(しまったあ……)

 ここで負けるつもりだったのに、思わず力を入れてしまったのだ。

「お、俺の右手がアアア!」

 まるで中学二年生がかかる特殊な病気のように右腕を抑えた野伏を見ながら、播磨は

自分の迂闊さを後悔する。

 会場に目を向けると、盛り上がっている観客の中に喜んでいる来夏たちの姿が見えた。




   * 

 
 アームレスリグ大会は順調に進み、早くも決勝戦となった。

 決勝に残ったのは、播磨拳児。そして田中大智だ。

「凄いよ紗羽。ウチの部活だけで一位と二位独占だよ。銀メダル以上確定だよ!」

「来夏、あんまり不吉なことこと言わないで。というか、どっちが勝ってもこの場合金メダル

でしょうが」

「あ、そうだったね。ペロリ」

 来夏はそう言って小さく舌を出してみる。

「でもどっちが勝つんだろう」

 和奏は心配そうに言った。

「そりゃ、順当に行ったら拳児くんじゃないかな。体格も大きいし」

 と、来夏は言う。

 それに対して紗羽は、

「でも拳児は柔道部の主将と相撲部の二年生と戦っているから、かなりキツイかも」

「え?」

「疲れが出てるってことだよ。大智と比べて強敵が多かったし」

「そっかあ。で、紗羽はどっちに勝ってほしいの?」

「そりゃあ、けん――って、何を言わすの。というか、どっちが勝ってもいいに

決まってるでしょう!」

「でもさあ、多分勝ったほうがあなたと記念撮影するんだよ」

「記念撮影……」

 そう。毎年、ミス白浜坂のグランプリ(一位)と王子様選手権の優勝者は記念撮影を行い、

校内新聞に載るのが伝統となっている(こんな伝統誰が作った)。

(そりゃあ、できれば拳児と一緒に写りたいけど……)

 紗羽の心配を余所に、決勝戦は開始された。



(※銀以上確定:2012年のロンドン五輪において、マスコミが多用した不吉なワード。
  この言葉が使われると、大抵金ではなく銀メダル、つまり決勝で負けることが
  多かったので、一部で話題になった)



   *



《おおっと! ここで両者睨みあいです! まるでプロレスのようだ》

 司会の声が響く。

 外野はいい気なものだ、と播磨は思った。

「おい、拳児」

 睨みあいながら、大智は小声で呼びかける。

「なんだ」

「この試合、本気でいくからな」

「おいおい、勘弁してくれよ。俺は相撲部と柔道部相手にして、もう腕がパンパンだ」

「だったら左手でやろうか」

「左?」

「そう左」

「必要ねェ」

「そうか」

「他に何かいうことはねェのかよ」

「ミスコンの優勝はおそらく沖田で決まりだ」

「それが、どうした」

「この戦いは、沖田の隣りをめぐる戦いなんだよ」

「だったらなんだっつうんだよ。別にそんなのは……」

「拳児!」

「……!」


「俺は本気で行く」

 大智は、もう一度「本気」という言葉を使った。

「大智、お前ェ……」

《さあ、いよいよ決勝戦です! さて、優勝はどちらでしょうか。解説の山中先生》

《はあ、播磨くんの筋肉いいわねえ。でも、田中くんの引き締まった肉体も悪くないわ》

《はい、では試合開始!!!》

「では、位置を決めて」

 審判の生徒が、播磨と大智の手を握る。

 泣いても笑っても、これが最後の戦いだ。

「レディー、ゴー!!!」

 ステージ後方では、いつの間にか戦っている二人の映像が巨大スクリーンに映し

出されていた。その演出が弥が上にも緊張感を演出する。

(ぐおおおお!)

 播磨は力を込めるが、疲れているためか上手く力が入らない。

「ぬおおおおお!」

 大智のほうは、普段から鍛えているために力の使い方が上手い。

 力を入れたり抜いたりしてこちらを翻弄する。

「お前ェ、何でそこまでして……」

 大歓声の中、播磨は大智に話しかける。




「お前にはわからないだろうな、拳児」


 それに返事をする大智。

「どういうことだ」

「あいつに対する気持ちってことだ」

 そう言うと、大智うは一気に力を入れる。

「ぐうっ!」

 疲れているとはいえ、体格の劣る相手に圧される播磨。

 左手でもう一方の机の角を持っているのだが、それにも力が入らない。

(ぬわ!)

「どっせええええ!!」

 大智は一気に力を込めて播磨の右手を台に叩き付けた。

「勝負あり!」

 審判が止め、大智の右手を上げる。

《決まったああああ!! 優勝は田中大智くんでええす!》

「うおおおおお!!」

 観客は、播磨の勝利を予想していただけに、その結果に驚いているようだ。

 しかし、盛り上がっている。

 とても盛り上がっている。

 その盛り上がりを引き継ぐように、すぐミス白浜坂の発表が行われた。

 播磨は腕をさすりながら舞台袖へと引っ込む。

 途中、大智が声をかけてきた。

「大丈夫か、拳児」


「ん? 大したことはねェよ。ちっと痛かっただけだ」

「怪我は」

「大丈夫だっつってんだろ。身体が丈夫なのが唯一のとりえなんだからよう」

「そうか……」

「んだよお前ェ。優勝者だろうが、もっと喜べよ」

「でも拳児。もし左手でやっていたら、お前は――」

「別に譲ったつもりはねェ。俺は本気でやった。そして負けた」

「それは……」

「左でやる必要はねェつったのは俺だ。お前ェはよく頑張ったよ。おめでとう」

「拳児……」

「告白とかするのか」

「え?」

「好きなんだろう? 紗羽のこと」

「それは」

「幸せにしてやってくれ」

「おい、拳児!」

 大智は歩み寄り、播磨の胸座をつかもうとする。

 しかし、彼の両手は播磨の太い両腕に止められてしまう。


「あいつが好きなのは――」

 両腕を掴まれた状況にも関わらず、大智は言葉を発する。

「わかっている」

 其れに対し、播磨は答えた。

「だったら……!」

「今夜、決着をつける」

「決着……」

「悪かった。もっと早く言うべきだったが、文化祭もあったし」

「……」

「すまねェ。表彰式、遅れるなよ」

 そう言うと、播磨は大智の前から姿を消す。

 とりあえず保健室に行って湿布を貰おう。そう思った。





   *





 体育館のスピーカーからわざとらしいドラムロールの音が響く。

《さあ、今年のミス白浜坂は――》

 一瞬の静寂。

《三年一組、沖田紗羽さんでええええっす!!!》

「ウオオオオオオ!!!」

《始業式の事件もあったためか、男性票は多少分散しましたが、女性票の多くを

獲得して堂々の第一位となりましたあ》

「おめでとー!」

「きゃあああ! 私も恋人にしてええー!」

「アハハ……」

 緊張しているのか、紗羽は引きつった笑顔で手を振っていた。

 その様子を遠くから眺める和奏。

(紗羽、やっぱり凄いな)

 和奏は改めてそう思った。

 自分では紗羽に勝てない。そう考えるようにして諦めようともした。

(でもやっぱり諦めない。この思いは本物だから) 




 
   *



 ミスコンも終わり、白祭におけるほぼ全日程が終了した。

 しかし、まだ完全に終わりではない。

 その後、後夜祭が待っているのだ。

 ミス白浜坂の優勝者は、その後夜祭でステージに上がり、王子様選手権の優勝者と

記念撮影をすることが決まっているのだ。

(どうしよう、まさか本当に優勝するとは思わなかった)

 優勝者の紗羽は、色々と忙しい。

 校内新聞の取材を受けつつ、自分のクラスや部活の片づけもやらなければならないからだ。

 しかし、このまま後夜祭に出ると、播磨との約束が果たせなくなる。

 午後七時、体育館裏。

 彼に思いを伝える時間。

 時間を変更すればいい。普通に考えればそうだ。播磨のほうもそう思っているだろう。

 ただ、そうすると自分の決意が鈍ってしまうような気がした。

 紗羽は携帯電話を握りしめ、播磨にどう連絡しようかと迷っていると、不意に来夏の姿が

目に入った。

(これだ)

 そう思った紗羽は、来夏を捕まえる。

「来夏!」

「ど、どうしたの?」

 いきなり肩を掴まれて、来夏も驚いたようだ。

「頼みがあるんだけど」


「頼み?」

「うん、この頼みは来夏にしかできない」

「な、なに?」

「実は――」

 紗羽は、来夏に“ある頼み”をする。

「ええ? 本当に!?」

 当然ながら来夏は驚く。

 前代未聞の頼みだからだ。

 しかし、

「播磨くんのこと?」

「うん」

 紗羽が首肯すると、

「わかった。やってやります。親友のためだから」

 そう言って来夏は右手の親指を立てて見せた。

「ありがとう来夏」

「礼なら、上手く行ってからにして」

「うん」

 自身はない。でも、それをやらないと次に進めない気がした。

『今夜、予定通り』

 そう書かれたメールを、紗羽は播磨と、そして和奏にも送った。




   つづく

次回、最終回でございます(長かった)。









        TARI TARI RUMBLE!



    最終話 敵わねェな。……あと腹が減った






 午後七時、すっかり暗くなった空のもと、後夜祭が行われた。

《それでは、王子様選手権優勝者の、田中大智くん、どうそー!》

 女性司会者に呼ばれた大智が恥ずかしそうにステージへ上がる。

「タイチー! カッコイイぞー!」

 観客席の一番前で、ウィーンが応援していた。

 実に恥ずかしい。

「タイくーん! もっと堂々としなさあーい!」

 ウィーンの隣りにはなぜか姉もいた。

 もっと恥ずかしい。

 頭には、王子様ということでウィーンの作った小さな王冠が乗せられていた。

 ただ、小さいので、なんだかプラスチック姉さんのような感じだ。

《優勝おめでとうございます》

《あ、ありがとうございます》

《凄い気合いでしたけど》

《いや、別にそれほどでは……》

《今、どんな気持ちですか》

《とても疲れました、あと、凄く恥ずかしい》

《そうですか。では、これより毎年恒例、ミス白浜坂との記念撮影と参りましょう》

 司会者がそう言うと、観客席も沸いた。


 しかし、出てきたのは、

「はいどーも! 白浜坂の歌姫! 宮本来夏です!」

 来夏であった。

「宮本!?」

《あの、どういうことでしょうか》

 予想外の人物の登場に、司会者も戸惑っているようだ。

 そんな司会者のマイクを奪い取った来夏は言った。

《申し訳ない。ミス白浜坂の紗羽は、急用で来られないため、私が代理で出ることに

しました》

「えええー?」

「そんなー!」

「オッパイがあ!」

《文句言うなコラー! 私が出たってことは、一曲歌うってことだあ! なんたって、

今年度カラオケ大会優勝者だからね》

 来夏はノリノリであった。

「おい、宮本。どういうことだ」

 恐る恐る来夏に近づいた大智が聞いた。

 来夏はマイクに手をかぶせると、小声で答える。

「ごめん、紗羽は大事な用があるから」

「用って」

「ねえ、大智」


「ん?」

「私の代理じゃ、不満かい?」

 そういうと、来夏は大きな片目を閉じて見せる。

「いや――」

 大智は背筋を伸ばす。

「俺には過ぎた姫様だ」

「ふふ、苦しゅうない」

 そう言うと、再び来夏はマイクを構えた。

《それじゃあ、一曲行ってみようかあ! いえええい》

 イントロが流れ出す。

「うおおおお!!」

 何だかわからないが会場は盛り上がる。

「行けええ、コナツー!!」

 ウィーンも熱心に応援している。

 ここからは来夏の独壇場だ。

 そう思った大智はステージの袖に下がり、そして空を見上げた。

 星が見える。

 小さな星だ。

 もっと暗い場所に行けば、良く見えるかもしれない。

 そんなことを考えたりもした。





   *






 体育館裏。

 学校に残っている生徒の多くは中庭の特設ステージに集まっているので、

ここには滅多に人は訪れない。

 そんな薄暗い場所に、播磨はいた。

「播磨くん」

 一人立ち尽くす播磨に声をかける生徒。

 声ですぐにわかった。

「紗羽か」

「ごめんね、来てもらって」

「そっちこそいいのかよ、後夜祭」

「うん。来夏に代役頼んだから」

「代役って、そんなことする奴いねェだろう」

「そうだね、前代未聞だね」

「……話ってのは」

 わかってはいたが、あえて切り出す。

 紗羽が言い難そうにしていることはよくわかるけれど、ここでごまかしていたのでは、

いつまでたっても決着はつかないだろうから。

「拳児。私――」

「ちょっと待って!!」

「!!」


「……!」

 ここで聞き覚えのある声がちょっと待ったコールである。

 暗がりの中、見慣れたポニーテールのシルエットが浮かび上がる。

「ご、ごめん。ちょっと遅くなった」

 和奏は走ってきたのか、少し息を切らしていた。

 そして播磨たちの前に行くと、チラリと紗羽のほうを見た。

「紗羽、もう言った?」

「ううん、まだ」

「じゃあ、お先にどうぞ」

「え、なに?」

「私、もうちょっと息を整えるから」

「うう……」

「お願い」

(おい、どういうことだ。なんで和奏までここにいるんだ)

 播磨は動揺する。

 まさか、こんな展開になるとは思ってもみなかった。

 そんな彼の動揺にも関わらず、紗羽はこちらをじっと見据える。

「拳児、よく聞いて」

「おう」

「私、沖田紗羽は、播磨拳児のことが……」

「……」


 一瞬の静寂。

 遠くでは来夏の歌声と、秋の虫の鳴き声が響く。

「好きです」

「……おう」

「拳児くん!」

「ぬお!」

 和奏の強い声に播磨は驚く。

 そういえば、和奏に下の名前で呼ばれたのはこれが初めてのような気がする。

「私も、あなたのことが好きだから」

「……」

 二人同時の告白。

(これは……)

 こんなことは、播磨の人生の中で一度も無かったことだ。恐らくこれからもないだろう。

 二人の真剣な眼差しに心が揺れる。

(俺は……)

 心臓が高鳴る。

 こんな気持ちになったのは、随分久しぶりな気がする。

 それでも、決着をつけなければならない。

 曖昧な関係はとても心地が良く、楽ではあったけれど、それが続くことはないのだ。


「お前ェら……」

 沈黙を破るように、播磨は声を出す。

 二人の視線が一斉の播磨の顔に集中した。

「気持ちはとても嬉しい。……だけど――」

 播磨はそこで力を込める。

「すまねェ!」

 播磨は二人に対して頭を下げる。

「……」

「……」

 顔を上げると、二人の悲しげな表情がそこにあった。

「……どうして?」

 辛うじて、紗羽が声を出す。

「俺には、お前ェらの気持ちに答えることができねェ」

「気持ち……?」

 和奏は聞いた。

「と、とりあえず落ち着け。そして話を聞いてくれ」

 播磨は自分に言い聞かせる様にそう言った。

 落ち着きたいの自分のほうだ。

 むしろ、紗羽や来夏のほうが落ち着いている。

「お前ェらにはまだ言ってなかったと思うが――」


 播磨はためらいつつも、声を出す。

 この話をするのは、辛い思いでを掘り起こすことになるので、好きではない。

 だが、いつかは向かい合わなければならない気持ちだと思い、勇気を振り絞る。

「俺には好きな人がいた。本当に好きな人だった。そいつのためなら命をかけてもいい、

とすら思った」

「……」

「……」

 二人は黙って播磨の話を聞いている。

「だけど、その恋は結局実らなかった。情けねェ話だが、俺は未だにその時の気持ちを

引きずっている。なんつうか、人を好きになるのが怖いんだよ。もちろん、恋愛的な意味で」

「……」

「そんな気持ちで人と付き合うことだってできるだろう。だけどよ、今日みたいに真剣に

告白されたら、こっちも真剣に付き合わなきゃだめじゃねェかと思う」

「……」

「……」

 紗羽と和奏は二人、顔を見合わせた。

「だから今は、誰とも付き合えねェ」

 そう言うと、播磨は一息つく。


 失恋の記憶を思い出すと胸が締め付けられるようだ。しかし、同時に何かの

“つかえ”が取れたような気もした。

「あの」

 不意に、和奏が声を出した。

「どうした」

「もし、もしも、これから拳児くんの心が癒えたら、その――」

「大丈夫」

 播磨は和奏の言葉を遮るように言った。

「大丈夫、その時までにはお前ェらには、俺なんかよりもっといい男が現れるさ」

「拳児、あなた……」

「だからすまねェ。今日で部活も終わりだしよ、普通の同級生に戻ろうぜ」

「……」

 播磨は奥歯を噛みしめる。

(最悪だ俺は……)

 彼女たちを悲しませるのはよくない。

 しかし、中途半端な気持で付き合うほうがもっとよくない。

 そう判断して、あえて突き放した。

 その決断は間違ってはいないはず。

「じゃ、俺行くわ」

 播磨は努めて平静を装いつつ、その場から早足で離れた。

 後夜祭に行く気にはなれず、ボロボロな心を抱えたまま、彼は下宿へと戻ることになる。




   *





 翌日、振り替え休日で学校は休みだが、播磨は忙しかった。

「荷物はそれだけでいいの? 拳児くん」

「そうッスね」

 志保の言葉に播磨はそう返事をする。

 この日は当初予定した通り、引っ越しの日であった。

 播磨は初めてこの家に来たときのように、身軽な格好で玄関の前に立つ。

 事前に荷物は引っ越し先のアパートに送っていたため、当日はこの程度で済んだのである。

「中古の家具とかいっぱいあるんで、助かるッス」

 そう言って播磨は改めて頭を下げる。

「いいのよこれくらい。ねえ、お父さん」

「ああ。たまにはウチで夕食を食べなさい」

 正一は笑顔で言った。

「ありがたいッス」

「拳児くんは半年とはいえ、ウチで同じ釜の飯を食べた仲なんだから、家族同然よ。

いつでもいらっしゃい」

「どうも」

「ところで紗羽はどうした」

 家のほうを見ながら正一は言った。

「紗羽ー! 拳児くん出るわよー!」


「いや、イイッスよ。呼ばなくて」

 玄関から家の中に向けて叫ぶ志保を播磨は慌てて止める。

「そう?」

「どうせまた学校で会えるんッスから」

「そうか。でも、お別れの日よ」

「なんか、体調悪いみたいッスから。無理させないほうがいいじゃねェかな」

「そうなの」

 志保は少し寂しそうに納得した。

「じゃ、俺行きますんで」

「うん、気を付けてね」

「交通事故を起こさんようにな」

「わかりました」

 そう言うと、播磨はヘルメットをかぶり、荷物をバイクに固定する。

 そうして、家の前に止めておいたバイクにまたがり、自分の住むアパートへと向かって行った。

 海辺を走りながら、播磨は沖田の家に来たときのことを思い出す。

 新しい住まい、新しい家。

 たくさんの人と出会い、そして関わる。

 こうして海を目の前にしていると自分の小ささがよくわかる。

(俺ってのは、なんつうか、ちっぽけな男だよな)

 自分の抱えた悩みを考えながら、播磨は何度もそんなことを思っていた。






   *





 それから二週間、播磨がやっと新しい住まいにも慣れてきたころのことである。

 白祭も終わり学校、特に三年生は受験に向かう雰囲気で充満していた。

 掲示板には各大学の偏差値が張り出され、模試の予定が書きこまれる。

 部活動を引退した多くの生徒たちは、受験や就職へと舵をきって動いていた。

 もちろんそれは、元ボランティア部の部員とて例外ではない。

「なあ、大智」

 放課後、播磨は同じクラスの田中大智に声をかける。

「どうした拳児」

「今日ラーメンでも食って行かねェか。腹減っちまってよ」

「悪い拳児。今日は予備校の特別講習があってな、早めに行かないと」

「そうか。ウィーンはどうだ」

「ゴメン、ケンジ。僕は補習なんだ」

「そうか……」

 以前だったら、すぐに付き合ってくれた部活の仲間たちも、それぞれの目標に向けて

動き出していた。

 播磨は、そんな流れの中で、取り残された感じがしていた。

 


   *




 帰り際、ふと思い出した播磨はかつて自分たちが入り浸っていたボランティア部の

部室に行ってみた。

「……」

 ドアの前に張られていた「ボランティア部」という張り紙は剥がされ、その扉は固く

閉ざされている。

 白祭を終え、三年生が全員引退したボランティア部は、部員不足のため再び

休眠クラブとなり、部室も生徒会の管理下に戻されてしまった。

 ほんの少し前まで、ここで歌ったり笑ったり会議をしていたのが嘘のようだ。

 中の様子はわからないけれど、物置のようになっているのだろう。

 微かに、あの頃の匂いが残っているようだったけれど、そこにずっといると和奏や

紗羽のことを思い出してしまうので、学校を出ることにした。

「……あいつら、頑張ってんのかな」

 引退から一週間以上。

 男子部員とは今日もそうだったけれど、よく話をする。けれども、女子部員とは来夏以外

ほとんど話をしなくなっていた。

 特に紗羽と和奏は、目を合わすことすらしなくなった。

(当然と言えば当然だが)

 自分はあの二人に酷いことをしてしまった。

 自覚はあったけれど、あの失恋以来播磨には、人を好きになる自信が無かった。

 だからあえて遠ざけた。

 その結果、一人になった。


 別に群れて行動したいわけではない。小さいころから集団行動は苦手だった。

 むしろ今の状態のほうが自然なんだ。

 播磨は自分に言い聞かせるように、歩いた。

(腹減ったな)

 そう思いつつ、駅前をうろつく。

 ラーメン屋は営業していた。

 本来なら、あそこで食って帰る予定であったけれど、ただ何故か一人で入る気には

なれなかった。

(畜生)

 調子の出ない自分を叱咤しながら播磨は歩く。

 季節はもうすっかり秋となり、夕日が道を染めていた。

 そのうち、すぐに暗くなる。風も冷たいし、さっさと家に帰ろう。

 家の棚にカップラーメンが置いてあることを思い出した播磨は、帰ってからお湯を沸かし、

一仕事することを考えていた。

 午後六時過ぎ、かなり暗くなった道を歩いて自宅のアパートの前へ行くと、アパートの管理人

らしきエプロン姿の女性がホウキで道をはいていた。

(こんな時間に掃除か。というか、ウチのアパートに管理人なんていたか)

 そう思っていると、その管理人(らしき人物)がこちらを見て手を振った。

「あン?」

「遅いよ拳児くん!」

「お前ェ」

 随分背の低い管理人だと思ったけれど……、違った。


「宮本!?」

「おうよ」

 同じクラスの、宮本来夏だ。

「どうしてお前ェ、こんなところに」

「いやさあ、あたしも手伝おうとしたんだけど、『来夏は邪魔だから、外の掃除でも

しておいて』って言われて追い出されちゃったよ」

「いや、何いってんだお前ェ。つうか、誰に言われたんだよ」

「ほらほら拳児くん。行こう行こう」

 そう言うと、ホウキを持ったまま来夏が播磨の背を押した。

「行くってどこへ」

「あなたの部屋に決まってるでしょうが」

「知ってんのか」

「当たり前ぞ」

「ちょっと待て、俺は一人暮らしだぞ。そいつの部屋に行くってことは」

 播磨は慌てて来夏に言うが、

「大丈夫だって、私一人じゃないから」

「は?」

 自分の部屋の玄関前まで行くと、懐かしい香りが漂ってきた。

(これって)

 はじめて沖田家に来た時に嗅いだ匂い。

 ドアを開けると、見覚えのある靴が玄関先に並べられていた。


「誰だ」

 何となく想像はついたけれど、言わずにはいられない。

「あ、お帰り播磨くん」

「和奏?」

「そうだよ、他に誰に見える?」

 エプロン姿の坂井和奏が駆け寄ってくる。

「なんでここに」

「ほら、早くカバンよこして」

「あ、いや……」

 播磨は持っていたカバンを和奏に渡す。

「何やってんの、早く入ってよ」

 すると後ろから来夏が背中を押した。

「おい、やめろ」

 来夏に急かされるように靴を脱いだ播磨は部屋の中に入って行くと、微かに

感じていた味噌汁の匂いが広がっているのがわかった。

「おかえり、拳児」

 こちらもエプロン姿の沖田紗羽であった。

「紗羽。何でお前ェまで」

「何でって、夕飯を作りに来たに決まってるでしょう?」

 紗羽はさも当然のように言った。


「いや、おかしいだろう。どうやって入った」

「管理人さんに言ったら入れてくれたよ。ここの大家さん、お母さんの知り合いだし」

「知り合い多すぎだろう、志保さん……。いや、そんなことより」

「まだ何かあるの?」

「何でウチでメシ作ってんだ?」

「だって拳児のことだから、ずっと外食とかインスタント食品で済ませてるでしょう? 

田中から聞いたよ」

「いや、それは」

「食事は大事だって、お母さん言ってたよね」

「ん、ああ」

「だから。ちゃんとした料理を作りにきたの」

「お前ェ料理できたっけ」

「味噌汁くらいはね。他のは和奏がやったけど」

「和奏、お前ェも」

 播磨が和奏のほうを見ると、

「紗羽に誘われちゃって」

 和奏は照れくさそうに笑った。

「ニヒヒヒ。モテモテだね、拳児くん」

 ニヤニヤ笑いながら来夏が言う。

「うるせえよ」


「ってか、早く着替えなよ。ごはん冷めちゃうよ」

「おめえらがいるから着替えられねェだろうが」

「大丈夫だよ、私は気にしないから。弟ので見慣れてるし」

「俺が気にするわ。つか、何を見慣れてるっていうんだよ!」

「いやん、そんなこと言わせないでよバカン」

 そんな流れを断ち切るように紗羽は言った。

「拳児。早く食事にしようよ。お腹すいたでしょう?」

「ん? ああ」

 播磨が制服の上着を脱ごうとすると、

「上着、こっちにちょうだい」と、和奏が言った。

「おっと、すまねェ」

 和奏は播磨の制服を受け取ると、丁寧にそれをハンガーにかける。

「なんか和奏って、若奥さんみたいだねえ」

 そんな様子を見ながら来夏は言った。

「やめてよ来夏!」

「……」

「食事運ぶから、拳児は手を洗って」

 紗羽がそう言った時、播磨は声を出す。

「お前ェら」

「ん?」


「え?」

 全員の動きが止まり、播磨に注目する。

「俺は、お前ェらに酷いことをしちまったんだぞ。なのに、どうしてこんなことを

するんだ?」

「……」

 静まり返る部屋の中。

「拳児くん」

 そんな沈黙を破ったのは、来夏だった。

「バッカじゃないの!?」

「はあ? 痛ッ!!!」

 来夏が平手で播磨の尻を思いっきり引っぱたく。

「男が何ウジウジしてんのよ。そういう態度が気に食わないの!」

「宮本、お前ェ」

「私の好きな播磨拳児は、そんなウジウジしてなかったから!!」

「……!」

「苦しいなら皆を頼りなさい。一人で陰気に悩んでいられると、こっちが暗くなっちゃう

のよ!」

「宮本……」

「来夏」

「あン?」

「来夏って呼べ! 私だけ苗字って、仲間外れじゃん」


「おい、そっちも気にしてたのか」

「そうだよ拳児。ウチらはあんま気にしてないから」

 肩を叩きながら紗羽が言う。

「紗羽」

「播磨くん。女の子ってね、あなたが思っているほど弱くないよ」

 和奏も言った。

「お前ェら」

 思わず播磨は天井を見上げる。

「敵わねェな。……あと腹が減った」

「さあ、ご飯にしようご飯!」

 そう言って来夏はちゃぶ台を指さす。

「っていうか、お前ェらもここで食うのかよ」

「当たり前でしょうが、食事は大勢のほうが美味しいんだから」

「ちょっと待てよ」

「後片付けはヨロシクー」

 狭いアパートの部屋の中で、バタバタしながら播磨は口元を抑える。

 油断すると、涙が出てきそうだったからだ。

 いつかきっと、答えは出てくるはず。

(未来のことなんて、誰にもわからねェ。だったら今、不安を抱えるよりか、希望を

持っていたほうがいくらかマシか)

 楽しそうに夕食の準備をしている三人を見ながら、播磨はそう思った。







   おわり


 ● あとがきという名の蛇足


はい、皆さんお疲れ様でした。

 筆者です。

 前回途中で挫折した作品ですが、今回は皆様の応援のおかげで最後まで投下する

ことができました。

 厚く御礼申し上げます。

 さて、TARI TARI RUMBLE(以下TTR)、いかがだったでしょうか。

 当初、紗羽(さわ)と和奏(わかな)のダブルヒロインの予定でしたが、書いてる

うちに来夏(こなつ)も可愛くなってきたので、彼女もヒロインに格上げ(?)しま

した。

 田中やウィーンも格好良かったでしょ?


 今回は、天満に振られたけれども、他人に心を開くことを覚えた播磨が、逆に

紗羽や和奏などの心を開かせていく物語にしてみました。

 播磨シリーズ(?)では今の所唯一原作のスクランと繋がりのある作品なので

(他は全てパラレルワールド)、これまでとは逆に他のスクランキャラは出てきません。

 他キャラ(特に東郷)を期待していた方、ごめんなさい。


 さて、TARITARI自体は好きでしたけれど、物語の主人公がコロコロ

変わってしまうので、ちょっと感情移入し辛かったため、1人の主人公の視点で、

物語を俯瞰してみようと思ってこのTTRを書いてみました。

 ゲームで言えばキャラゲーみたいなものです。

サブタイトルは同じPAのtrue tears と同じように、劇中のセリフにしますた。



 この後、心の傷が癒えた播磨が誰と付き合うようになるのか、それは皆様のご想像

にお任せいたします。

 彼女たちの恋はこれからだ! 青春は一生続く、という意味であえて未完。




 ● 次回作

 実はすでに次回作は書いております。

 現在執筆中です。

 ただ、資格試験とかの勉強があるので投下自体は8月以降にずれ込むと思います。

 それまでに覚えていてもらえれば幸いでございます。

 TTRではヒロインは三人でしたが、次回作では一気に増えて九人です!

 この時点であっ(察し)となった人もいるかもしれませんが、そこは真心の想像力を

働かせ、秘密でお願いいたします。薬用石鹸とか全然関係ないし!

 それではまたいつかお会いしましょう。


  ◆4flDDxJ5pEこと、イチジクでした。

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