モバP「見えた今に絶えぬ未来を」 (33)
総選挙お疲れ様SS。短いです。
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我が目を……信じたくはなかった。
目の前にある現実が現実でないかのように振る舞うのは、果たして許される行為なのか。
記された歴史から目を背け脳内を逡巡しようとも、己の望む答えなど出るはずもなかった。
何故ならば、それは事実だから。現実だから。
俺が何を言おうとも、それだけは変わることのない結果なのだから。
――足が重い。
事務所に向かう足取りがこれほど重いのはかつてない程で、歩けば歩く程、進めば進む程悪路に足を踏み込んでいるような気持ちになる。
恐怖か、罪悪感か。
どちらのものでもあろうこの感情が明瞭になるのは恐らく無い。
それは俺がその現実を受け止めなければならないというはっきりとした義務があるからであり、それを受け入れざるをえない程度の力量であることへの無力感があるからでもある。
もしも、俺の力が十二分に足りていれば。
彼女という存在に、最高の花束を添える事ができていれば。
そう思うだけで、何も出来なかった自分がますます嫌になる。
ドアノブを握ったまま、数秒。
何かを考えこむように――何も考えられず、ただ何を言えばいいのか、といったどうしようもないことを暗澹とした脳内に滞留させる。
そう、どうしようもないのだ。どうしようもないから悩んでしまうのである。
目の前の悩みから逃げれば明日はなく、背後からくる不安から逃げなければ明日はない。
ゆっくり、ゆっくりと、音が鳴らないように手首をひねってドアを開けると――見慣れた後ろ姿が大きな窓から外を眺めていた。
ゆらゆらとゆれることもなく、ふりふりと裾が舞うこともなく、ただぽつんと、一人ぼっちの少女が空を仰いでいたのである。
何と声をかければ良いのか、彼女の後ろ姿を目にして再度足が止まってしまう。
何を言おうとも変わらないのに、せめて最良の結果になるように導こうとして唇が頑なに行動を拒否した。
長い髪を後ろで結って、真っ直ぐ腰まで下ろす綺麗な髪。
決して華々しく見せびらかすこともなく、ただ見る者を自然に惹きつける表情の持ち主。
「……あ。おはようございます」
ビルだって大通りに面していれば騒音はそれなりにある。
大した音は見せなかったはずなのに、それでも彼女はいともたやすく俺に気づいたのだ。
始めから来ることなどわかっていたかのように振り向くと、わざわざ腰を折って挨拶をしてくれた。
俺が最初に出会い、そして切れること無く共に歴史を繋いできたアイドル。
「……おはよう、翠」
真っ直ぐな視線を向ける水野翠が、そこにいた。
この世界には、一番を決めなければならないルールがあるものだ。
かけっこでも試験でもじゃんけんでもゲームでも、勝負であればかならず一番は存在する。
それはこの世界――アイドル界にも存在していた。
総選挙、という固有名詞がある。
それはこの世にひしめくアイドルたちが一位を競い、真の偶像を決める戦いである。
毎年開催され、その度にありとあらゆる個性のアイドルが競い合って一位を……シンデレラガールを狙うのだ。
あるアイドルは、類まれな美貌で。
あるアイドルは、比類なき舞で。
あるアイドルは、穢れ無き声で。
それぞれが持つ最高の物を披露して、頂点を決めるのである。
そう、この総選挙の発表特別番組が昨日放送されていたのだ。
夜八時、全世界のファンたちの数で競うシンデレラガール総選挙がテレビで放映されていた。
誰もが憧れるその座を、誰もが羨むその座を目指して来た結果が、前夜、放映されていた。
幾万といるアイドルの中でトップに輝くのは誰か。
期待と不安を煽るようなナレーションとともに、ランクインしたアイドルの名が順に叫ばれていく。
50位から始まって、上へ。
有名なアイドルから無名なアイドルまで、かつての行動など関係なく純粋に人気が高い人が呼ばれていく。
仕事柄知り合った同業者のアイドルも呼ばれていく。
順位はどうであれ、きっと感動を分かち合っているのだろう。
涙を流して、得た地位に喜び舞い上がっているのだろう。
俺もそうありたい。その名が呼ばれた瞬間に歓喜に打ち震えたい。
だからただ待ち続けた。そして、遠くにいる彼女も待ち続けたはずだ。
しかし、放映が終わるまでに司会の声が彼女の名を呼ぶことはなかったのであった。
「どうかしましたか?」
いつもと変わらない飾り気のない声色に意識を取り戻す。
彼女の姿を見てたじろいでいたのだろうか、普段通りでないと彼女は問う。
決してつんざくような音を出さず、静かにゆったりとした声で話す彼女の姿は、平常時と何ら変わっていないように思えた。
「……いや、なんでもない」
彼女は何も考えていないのだろうか。
多かれ少なかれ、選抜されなかったことに落胆しているものだと思っていたのだが、存外彼女の瞳はいつものように俺を真っ直ぐ見つめていた。
放送終了後、翠から連絡はなかったし、俺の方から連絡するのも何だか憚れるように思えて、総選挙のことをまだ話してはいない。
昨日のあの時から、彼女の顔を見るのも声を聞くのも今が初めてである。
「ふふ、もしかして夜更かしでもしていらしたのでしょうか?」
「かもしれないな」
反応が悪いのを睡眠不足と捉え、口元に小さな手を当てて翠が微笑む。静かに漂っていた彼女の後ろ髪が、表情に反応してきらきらと揺れた。
「何を見てたんだ?」
翠がこちらを振り向く前、彼女は雲ひとつ無い空を見上げていた。
この事務所は巨大という程でもないものの、それなりの大きさのビルのテナントを借りている。
それは彼女を始めここに所属する全員の尽力があってこその賜物である。
一番初めの時に比べれば、雲泥の差と言っても過言ではない。
「特に意味は。変でしたか?」
変、というものではない。
暇な時にふと空を見上げる行為が変だとするなら、全人類はもれなく変人である。
「今はいい天気だから見たくもなるか……」
そう言うとおもむろに俺は翠の隣へ行き、窓越しの空を見上げる。
雲ひとつ無いそれは遥か下の俺たちを見下ろし、何となく無に還してくれるような気がした。
「Pさんも見るんですね」
彼女が微笑む。
その度、チクリ、と胸が痛んだ。
清々しい笑顔である。片時も忘れることなんてできないありのままの笑顔。強烈な印象ではないのにどこか記憶に染みこむような飾り気のない笑顔を放っていた。
「誰だって見るさ」
「それもそうですよね、ふふ」
俺がそう他愛なく返すと、再び翠は声を漏らした。
その顔はとても清らかで爽やかで……ふと、疑心してしまう。
翠は、本当にこの結果を知っているのだろうか?
当然ながら翠だって昨日が発表の日であった事を知っているはずだ。
にも関わらずそう邪推してしまう程、彼女の行動は常々感じる当たり前の日々と何ら相違がないのである。
現実とは、刻まれなかった数字として表れた。
平々凡々なアイドルという烙印を押されたようなものなのだ。
それを、まるでなかったことにして今この事務所に立っているような気がして――思わず俺の口が滑りだす。
「……俺の力不足だ。悪かった」
腰を折り、相手に頭を垂れる。そんな俺の姿を彼女はどう見ているのだろう。
地面に顔を向けているのでわかりようもないが、心だけは更に地面に近づいていた。
できることなら、土下座をしてでも謝りたい。持ちうる全てを以ってしても謝罪したい。
俺を信じて付いてきてくれた結果がこれなのだから、彼女に対して申し訳が立たないはずがないのだ。
それを、翠は小さく声を鳴らして遮った。
「気にしないでください」
少しだけの言葉で、俺の頭を起こす。
「気にしないでください、Pさん。残念ですけど、それはPさんのではなく私の力不足ですから」
翠はそう続け、困ったように首を傾げて笑った。
「それでも謝らなくちゃいけない。口ではどうとでも言えるが、実現できなかったのは俺の責任だから」
トップアイドルにする。
彼女をアイドルの世界へ誘う時、俺ははっきりとそう言った。
無論、彼女にとってしてみれば軽い冗談のように聞いていたのかもしれない。
まかり間違っても類まれな才能を持たない人がトップアイドルに輝くなんて夢物語はそうそう現実になる訳ではないし、一撃で魅了するような強烈な個性を持っていない翠がそこに到達することは並大抵の事ではない事ぐらい、彼女はきっと理解している。
「世の中に明るく無い私でも、それが難しいことぐらいわかります。だから結果は結果、次頑張れるように、前に進みましょう」
一番いいのは俺が翠の個性を十二分に発揮させてアピールすることなのだが、それが簡単に行かない以上、彼女はそれを理解して日夜レッスンに励んでいる。
だからなのだろうか。
彼女にとって、トップアイドルという夢は夢物語としてみているのだろうか。
総選挙という戦いの舞台を、彼女は客席から眺めているのだろうか。
あっけらかんとした表情で意気込む翠の表情を見ていつもの翠だな、と感心すると同時に、少し薄暗い雲が眼前を覆い始めていた。
「……そうか、頑張ろうな」
「はい」
はきはきとした声色で翠は俺の言葉に返事をした。
暗澹たるその雲の正体を見出さぬまま晴らさぬまま、そして言いたいことも言えないまま、ただ頷いて会話を終わらせてしまうのだった。
*
「お疲れ様です、プロデューサーさん」
流星のような車のヘッドライトが外を明るく照らす夜。
ぱたん、と簡素な扉の音を立てて事務所に入ってきた事務員の千川ちひろが机に座っている俺にそう挨拶をした。
決して定時を過ぎてから入社してきた訳ではない。
一度出社をし、会議をしてから彼女は事務所を発ったのである。
というのも、今日は仲の良い同業者と今後のコラボ戦略の打ち合わせに行っていたのだ。
事務員といいつつあちらこちらへと動き回る仕事ぶりを見れば対外的にも優秀な人材だと胸を張れるのだが、何故か打ち合わせを相手の事務所の中ではなく相手の自宅で行うのは如何なものだろうか。
ちひろさんが隣の席に座ると、ふわりとした良い香りの中に微かにおいしそうな料理の匂いがした。
その匂いはともかくとして、彼女の香りというものはこの席に座っていらい長らく親しんできており、俺の日常的感覚として入り込みつつある。
「話し合いはどうでした? いいの持ってこれそうですか?」
小さな鞄を机において着席し、おもむろにコンピュータを起動したちひろさんに話しかける。
彼女の話では、相手方の事務所とのコラボで攻勢をかけよう、という魂胆らしい。相手は超の付くほどの有名な事務所なので難しいかもしれないが、これが実現すれば飛躍的な活躍を期待できるだろう。
んー、と少し体を伸ばして少し間を置くと、ちひろさんは良い心地のまま返事をした。
「ええ、そりゃもう美味しいのを……いえ、良い案件を提示してくれました」
「ごまかせてませんよ」
どうせ話し合った後どこか美味しいレストランで食事でもしてたんでしょうに、という言葉は使わないでおいた。
「まあ、それなりに成果はありましたよ。相性の良い子を見繕ってますので後で確認お願いしますね」
「わかりました。ありがとうございます」
色付きのクリアファイルから資料を幾つか取り出すと、それを俺に渡してくる。
それはどうやら相手先との仕事のインデックスのようで、印字と手書きの文字が混じりながら雑多な情報を載せていた。
「さあ、始めますか」
「はいっ。今日は日が変わる前に帰れるといいですね!」
無理なことを承知で彼女は毒を吐く。
せっかく気合を入れたのに萎えるような事を言わないで欲しい、と伝えると、悪びれること無く彼女はおどけてみせた。
――それにしても、今年も残念でしたね。
カタカタと乾いた音を共に奏でて十数分経った頃、ふとちひろさんは呟いた。暖房で暖める必要のなくなった最近では息が白くなることも過去になりつつある。
作業の手を止めた瞬間、何のことだ、と一瞬漏らしかけたものの、すんでのところで息を抑える。
例えいきなりの事であっても、俺がその言葉の内容を理解しないはずがなかった。
「まあ、そうですね」
事実、残念であったことには違いない。
翠がデビューして数年が経過して、かつての立ち位置とは大きく違って一人のアイドルとして大きく羽ばたけるような……いや、羽ばたかなければならない時なのに、トップテンはおろかランクインの数字にすら刻まれないポジションに居る今は、彼女にとって非常に耐え難いと思うし、俺自身も物足りなさを感じている。
それでも翠は過去から今まででずっと忍び、平静で居続けた。
空気や雰囲気にとらわれず、翠本人が冷静であることを望んでいたのだ。
彼女の深淵を覗く事が不可能である限り、彼女の思いや考えを認めるしか俺にはできないのである。
「意外と冷淡ですね」
「冷静と言って下さい」
ちひろさんの静かな返事に、同じく静かにそう返す。
……しかしそう答える一方で、微かな違和感が脳内に芽生え始めていた。
翠は、何故悔しがらないのだろうか。
当然ながら弓道をやる時は一つ一つの形に集中し、喜ぶことも悲しむこともせず完璧な動きを見せることが良しとなるのだが、それが道場以外でも良しかと言うと快くは頷けない。
水野翠は極めて冷静だ。例え俺が悲しめと、悔しがれと言ったとしても変わりはしないのだろう。
そして彼女は強い。
変わることがないまま、そのままであり続けるのかもしれない。
周囲の応援を聞きながら、一人で頑張るのかもしれない。
晴れない彼女の霧を覗こうとしても、そこに実像は浮かばない。
「対照的というか……どうだか」
翠のことを考えていると、もう一人のアイドルが自然と想像される。
同じユニットのメンバーでもこうも違うものなのだなとぼんやり考えていると、突然事務所のドアが少し荒っぽく開かれた。
「Pさんはいるかしら?」
黒く長い髪を大きく流しながら入り込んできた女性――黒川千秋はドアを開けるや否やそう尋ねる。
私服こそ綺麗に着こなしているものの、その動きは大雑把なものだ。
表情は決して明るいとはいえない。かといって暗いというわけでもなく、どこか呆れているような気持ちもあり、見た感じでも複雑な気持ちであるようだった。
ドアから俺の席までは若干中に入らないと見えない構造になっているので、そう言いながら入ってきた千秋が俺を見つけるとずかずかと俺の座る椅子の前まで机越しにやってきた。
尋ねはしたもののもはや儀礼的な言葉を退けると、彼女はじっと俺を見下ろす。
「居るけど……どうかしたか?」
「どうかしたか、じゃないわよ」
よくよく彼女を見ると僅かながら息が上がっている。
レッスンやライブ後以外ではあまり見せない千秋の姿にたじろぎつつも、彼女の言葉を頭に落としこんでみる。
「……すまん、何か忘れてるか?」
しかし、彼女の問い詰めるような視線を解することはどうにもできなかった。
昨日こそ千秋に会ったものの、今日は朝からまだ顔を合わせてはいない。
つまり、俺の記憶では彼女らしからぬ態度を取る理由が理解できなかったのだ。
そんな俺の様子を確認した千秋は少し息を吐いて、椅子に座る俺を見下ろしたまま言い放つ。
「昨日何があったのか、覚えてないのかしら?」
どくん、と心臓が一段と跳ねた。
やはりああいった大きな出来事の前後では、話題というものは必ず何度も煮沸するものだ。
昼間、あれだけ考え悩んでしまったというのに再燃するのは仕方ないと諦めるべきか。
「……覚えてる。覚えてないはずがない」
残念ながら千秋も総選挙の順位に名を刻むことは出来なかった。
しかし彼女の行動は俺の予想を遥かに超えており、結果が公表されるや否や連絡がやってきて顔を合わせ、後悔や悲哀もなくひたすら納得の行くまで話し合いが始まったのだ。
今日から一年前の間までに何をしてきたか、去年の目標はなんだったのか、どのように達成しようとしたのか、何が悪かったのか、全て尽く復習しては今後のレッスン方針を確認し合ったのである。
それは単純に真面目だから、で済まされるような行動ではない。
思うに、彼女は無駄が嫌いなのだ。
失敗も成功も、全て自分の糧にして着実に前に進みたい。そういう必死さが彼女をより美しく仕立てていた。
これも全て千秋という人物の率直さ、歩みの明瞭さによるものに違いない。
だが、昨日と今とで顔を合わせているにも関わらず、打って変わって態度を変化させてそこまで言い詰めるのはどういう意味なのだろうか。
今もなお見えぬ彼女の本意にただ困惑していると、千秋は先程よりも――日常で見られるものではない、ずっと真剣な表情で俺に冷たく言い放った。
「だったら、何故あなたは自分の担当の子すら見てやらないのかしら。あなたにとって……翠さんはただの練習台とでも言うつもり?」
息が整えられはっきりと述べた彼女の言葉は、綺麗な顔からは感じられない憤怒の意思が見えた。
「は?」
突然の言葉に、無意識に不躾なパードゥンが漏れ出てしまう。社会人としてはあるまじき返事である。
しかし、そんなことを改めようという気すら起きない程に彼女の言葉には賛同できなかった。同時に、彼女の言っている意味がいよいよ理解できたのだ。
隣のちひろさんが心配そうな雰囲気を醸し出す中、千秋の鋭い視線を真っ向から叩き切るように見つめる。
「らしくないな。いくら何か意見があるとはいっても、俺相手だからといって言って良い事と悪い事があることぐらいわからないのか?」
これだけははっきりと言える、彼女は俺を蔑んでいると。侮蔑や失望と言い換えても構わない、そんな憎悪にも似た感情が彼女の美しい瞳から感じ取られた。
「そんなこと、知らないはずがないじゃない」
だが千秋は全く意に介さず俺の言葉を切り捨てる。まるで目的以外の思想には全く興味が無いとでも言いたげな声色である。
別に彼女の言葉にいきりたって殴りかかろうとした訳ではない。
黒川千秋が何も夜にわざわざ俺の前に来て理不尽に怒鳴りたいわけではないという事は、彼女の出で立ちや立ち振舞、そして性格や行動を見れば明らかだ。
ただ言葉を解すれば、不思議な縁あって同じ担当プロデューサーに付き、そしてユニットを組んだというきっかけで知り合い、身近になっていた俺の担当アイドル……水野翠について、何かを伝えに来たのだろうということは汲み取れよう。
沸騰石を入れ忘れたフラスコにかけている火を穏やかに消し止めながら、千秋との会話を咀嚼してみる。
彼女は俺に対して刺のある言葉を吐いた。それは何故かといえば翠の意を俺がちゃんと受け止めていないからというのだ。
故に翠を人形のように扱っている、と彼女は遠回しに伝え、俺に何かをさせようとしているのである。
だが、俺がわからないのはそこだ。
「翠のことを忘れた日なんて一度もない。掛け値なしにな。昨日の結果のことだって、本人も理解して切り替えてくれている」
今日の昼の会話を脳裏に映す。
酷く冷静で結果を受け止めた翠は、頑張ると答えて次回への意欲を示した。
別に思い切りハンカチを噛みちぎって悔しがることだけが結果への態度ではないのだ、そういうタイプもいれば千秋のように徹底的に原因を追求するアイドルも居るし、表に出さないものの、心の内で静かに燃やすアイドルも居るものだ。
それを画一化してどうこうとは言いたくない。俺自身翠の態度には少し違和感を抱いてしまったが、それも一つの形なのだと言える。
声色を変えて返事をする俺の言葉に再度千秋が嘆息する。一体彼女の求める回答というものは何なのだろうか。
「だったら、少しはあの子の性格も知っておくべきよ。……ちひろさんもそう思わない?」
「えっ?」
おろおろとしていた隣のちひろさんは急に話しかけられて戸惑いの声を上げた。
「……翠ちゃんの性格、ですか?」
しかし千秋の言葉の意味は耳から頭に通じていたようで、少しの間考えこんでは降参する。
水野翠の性格。
少しばかり世間の一般常識というものからは乖離した一面があるものの、思いは真っ直ぐに、純粋に、ひたむきに努力する人間だ。
千秋のようにステップアップのためにはいかなる状況や人物をも上手く利用して協力し合い己の力に変えようとするような広さはなく、自身の向上のために独立して鍛錬を続ける、内向きながらもストイックさを持っている。
一応数年は共に仕事をこなしてきてある程度の性格は把握しているつもりだが、それを聞いてどういうつもりなのだろう、と首を僅かほど傾げた。
「……はあ」
そんな中々答えの出ない俺の様子を見て千秋が観念したように首を振る。
「教えてくれ。翠がどうしたというんだ?」
ここで会話のかくれんぼをしたところで実直な利益は得られそうにないと判断した俺が答えを急かすと、千秋ははぐらかすように息を漏らして答えた。
「四階入って左、一番奥、右側の部屋。……あの子は素直だけど、意外と頑固者なのよ。そしてそれを変えるのは多分あなたしか居ないわ。悔しいけどね」
「四階?」
聞き慣れている単語だが、不用意に出てきたことに思わず尋ね返してしまう。
「私も翠さんも、例え欠けていようとも努力で補い進んでいく覚悟はあるわ。ただ、彼女は少し難儀な覚悟みたい。……言い方が悪いのはわかってるわ、ごめんなさい」
千秋はそう答えると、小さく謝罪してからそのまま踵を返して俺達に背を向けて去ってしまった。
謝罪したのは恐らく彼女から発せられた発言だろう。すこし当たりがきついと感じる節はあるが他人を侮辱するような人間では決して無い。だからこその言葉だと思う。
まるで言いたいことを言いたいだけ言って帰っていったように思えて、俺とちひろさんの二人で顔を恐る恐る合わせてしばし沈黙してしまった。
彼女は何のためにここに来て、何を伝えたのか。
何を思い、何を考え、俺に伝えたのか。
そうしたことをぼんやりと頭のなかに浮かべると、瞬く間に数秒間が経ってしまう。
そしてその数秒の間のあと、俺はポツリと呟いた。
「……行ってきてもいいですか?」
「行くって……さっき言った部屋に?」
根拠は無いが断言できる。彼女の言ったことに嘘や欺瞞は存在しない。
態度こそお世辞にも柔らかいとは言えないものの、それは千秋なりの葛藤の結果なのだと思う。
先程の言葉……悔しいという思いが、それを表しているのだろう。
同じユニットとして活動して知り合ってから、千秋は翠によくしてくれている。お互いがお互いを高め合うように過ごしている。
もしかしたら、千秋は翠に過去の自分の影を映しているのかもしれない。
以前の千秋を知っているからわかるのだが、当時の彼女はひたすら進むことだけを正しい姿だと考えて、それだけを信じて走っていた。
それが色々な人との出会いを経て、休むこと、信じること、頼むこと…協力することなど、人と共に進むことが良いことだと理解してくれた。
ならば、今の翠はどうか。彼女の目に写ったであろう翠はどうか。
――彼女の言葉が嘘偽り無いものであったとしたら。
「……そうですね。それがいいと思います」
ちひろさんも俺の提案に賛同してくれた。彼女もまた千秋の言葉を信じたのである。
不安定な言葉でも、信頼があるから信じられる。それがあるから身を任せて動けるのだ。
「ありがとうございます。行ってきます」
彼女の言う通りなら翠はその部屋に居るはずだ。一体そこで何をしているのかはわからないが……良い知らせでは無いことは何となく察することができる。
廊下は少し寒いだろうか、と掛けていた上着を羽織り、何も持たず事務所を後にした。
*
「……え?」
一度その光景を目にした途端、俺の心臓は皮膚を突き抜けて血液もろとも全て外へ出そうになった。
見たくない光景。あってはならない光景。
予想しうる限り最悪の状態。
遠巻き――それがドアの傍と部屋の中央という距離であったとしても――からみても容易に状況が想像出来るほど、彼女の姿というものは見慣れないものであった。
翠が、仰向けの状態で倒れていたのだ。
「翠!?」
鼓動が跳ねる。
そしてその脈動よりも速く床を踏み抜き駆け出して、一目散に彼女の下へ向かった。
ものの数秒で駆け寄ると、一向に定まらぬ視線のまま翠の状態を確認する。
彼女の目は開いておらず四肢も動いていない。それどころか全身が弛緩して規則性なくフローリングの地面に触れていた。
酷く汗ばみ、綺麗な髪が頬に貼り付くのを気にしないで倒れている翠を見て、してはいけない想像さえ浮かび上がってくる。
まさか、そんな事が起きるなんて。
俺は何をすればいい? どのようにすれば助けられる?
幾重にも重なる病気のような不安の波が脳内に押し寄せ、即座に頭を混乱させた。
「そ、そうだ! 救急車を――」
千秋の言葉やここに来た目的などどこかに吹き飛んで、硬直した頭を必死に動かして対処を捻り出した。
倒れている翠が何も問題ない訳がない。
迅速な搬送こそが命を救うために俺にできる事なのだと判断し、汗と動揺で震える手をポケットにつっこんで携帯電話を取る。
頭からの指令が上手く指に伝わらない。
焦りの中救急車の番号を何とか入力すると、発信するために決定ボタンに指を添えた――その刹那。
すー、すー。
俺の加速する鼓動よりも遥かに小さく、静かな音が耳に入り込んできたのだ。
そしてその音は瞬時に俺の体を硬直させ、ボタンに触れた指の力を抜くのに十分であった。
体内から沸騰し噴出していたはずの血液が何事もなかったかのように沈静化し、動転していた意識が元の鞘に収まってゆく。
一気に周りが見え始め、今の事態について再び考察し始めた。
この音はどこからくるのだろうか。
鳴り止まぬ鼓動を必死にせき止めて息を潜めて音の出処を探ると、本当に近い所から発せられているようだった。
俺のすぐ近く、下。
何とか視認してやろうと音の源に視線を向けると、そこには翠が居た。
混乱しているにも関わらず酷く冷静になった俺は、視線を今度は翠の上半身へ向ける。
よくよく見てみると彼女は全く静止している訳ではなく、いつものレッスンで使うトレーニングウェアが上下にゆったりと静かに揺れている。
同時に、そのウェアを膨らませている控えめな彼女とはかけ離れた双丘もそれに合わせて上下に動いていた。
……まさか。
色々な観点から彼女の容態を推測すると、ふと一つの答えが頭に浮かんだ。
「……寝てるのか」
その言葉に返事はなく、ただ静かに翠は寝息を立てていた。
*
ビルを丸々一つ全て借りて賄っている我が事務所は、全ての階にアイドルや俺たちのための設備が置かれている。
その内千秋が述べた部屋は四階でも余り使われない一番奥のレッスンルームであった。
基本的に四階全体がレッスンルームとして使われており、練習時間や人数は大体カリキュラムで溢れないように組んでいるため、そうそう全てが使われているということはないのである。
そういう部屋を遊ばせておくのも忍びないので、時々アイドルたちで自主的に集まってパーティをしたり勉強を教え合ったりと本来の目的でない用途でも使えるように開放しているのだが、千秋がそこを指定したということは翠がこの部屋にいると言い換えても問題はあるまい。
時間はすでに夜に突入しており、この場所付近では外の騒音も聞こえない。
そして、入室する前に念のためドアに耳を近づけても中からは目立った騒音は認識できなかった。
もしかしたら既に退室しているのではないかと思いながら恐る恐る開けてみると翠が部屋の真ん中で倒れていたのだから、最悪の事態を想定するのはさして不思議な行動ではなくむしろ真っ当な発想なのだと思う。
しかしそれが結果としては杞憂に終わったわけで。
翠が起きる前に念のため購入したスポーツドリンクを片手に、珍しく足を崩している翠は恥ずかしそうに視線を俺から外していた。
「全く……心臓が止まるかと思ったぞ」
「あ、あはは……すみません」
ちり、とペットボトルのラベルを鳴らしつつ翠は苦笑した。
トレーニングウェアを着たまま寝るぐらいであればものぐさな人間ならあり得ない話ではないが、それが翠の場合は色々と納得はいくまい。
まず彼女ほどの良識ある人物は汗をかいて汚れた服のまま寝ることはないし、そもそもレッスンルームの中心で一人眠るというのはありえないと言っても過言ではないのだ。
それだけに、この状況があらゆる意味で不可解なのであった。
「しかし、一体なんで寝てたんだ?」
スーツのままいささか傷の入ったフローリングの床に座る。あまり使用頻度が高くないレッスンルームとはいえ、何十人も抱えるプロダクションの物とあってはそれなりに綺麗だとは言えない。
だからこそ汚れた床に嬉しさを覚えるのだが、残念ながらここはレッスンのための床であり寝床ではない。
「……ええと」
俺の質問に翠は視線を他所に向け、あるはずの答えを言い淀んだ。
そして先程まで漂わせていた笑顔がゆるやかに霧散していった。
その様子を見て、俺は一つ思考を挟む。
一つだけはっきりとわかるのは、答えに窮するのは決して彼女が忘れやすい性格なのではないということだ。
この状況で寝るという異常性、そして今の体の状態を理解している翠なら、記憶から過去が多少抜け落ちていても推察で導くことはできよう。
それができないというのだから、彼女なりの言い出せない原因というものがあるはずである。
「頑張ろうと思って、少し練習したくなって……それで疲れてしまって、つい」
こちらから声をかけようかと思っていたある時、翠が迷っていた口を開いた。
なるほど、理由としては納得できる。
着替えること無く寝たという点、不適切に乾いた髪が変な癖になっている点を考慮すれば嘘だとは言えない。
「限界を決めつけない姿勢は悪くないが、やりすぎだ」
しかし、問題は何故その状態までやり続けていたのかという事だ。
己をセーブしすぎて実力を伸ばさない人は論外とはいっても、止めどころを見誤って取り返しのつかない状態になってしまう人は少なからず存在する。
翠は今のところ至って健康だし、多少無茶をしたとしても元気ではいられそうだが、それにしたって状況の不自然さが解消されたわけではない。
「すみません……我を忘れて」
ひねり出したような笑みを浮かべて翠が首を小さく傾げた。
その言葉に、燻っていた疑問がまことしやかに加熱していく。
何故それで触発されたかといえば、彼女に限ってそれはありえないからだ。
別にこれといった確証がある訳ではないが、彼女との日々を顧みればそれが嘘であることぐらい容易に想像できる。
彼女は甚く冷静だ。それこそ、涙を流してもおかしくない悔しい出来事を目にしても尚涙を流さない程度には。
千秋のような徹底して客観的な視点で見ようとするものとは全く違う、別の視点を持っているからだ。
平然を装い、その奥で何か冷たいものが渦巻いているような――。
――あれは何だろう?
どうして返事をしようか、と彼女から視線を外すと、ふと翠の膝元に何か小さなノートが落ちていることに気づく。
青色のノート。遠目に見ただけでもそれが汗や指圧で表紙がねじ曲がっているのが分かる。
翠の出で立ちを見れば彼女がここで練習をしていたことはまず間違いない。
ならば彼女の練習のメモ帳と考えるのが妥当な所だろうか。
今のところ翠がその落ちているノートに気づいている様子はなく、置いているのではなく落ちているのだと改めて理解する。
なら、それを取って渡すついでにさりげなく普段のメモ帳を少し覗かせてもらおう、と俺は考えた。
勝手に覗くのは問題があるのは当然だが、練習用のメモ帳であればレッスンの疑問点などが記載されていてもおかしくはない。
普段からこと練習に対して自身で解決しようとする翠だから、多少強引にでも見てやるほうが彼女としてもやりやすいだろう。
「ノートが落ちてるぞ。ほら、これ――」
「やっ、それは……っ!?」
ある程度の言い訳を考えつつおもむろに手を伸ばし、彼女の膝元へと指を向ける。
それにつられて彼女の視線が誘導され、ようやく翠が落ちているノートに感づいた。
ここで翠が仮に俺にノートを拾われて礼を言ったり謝ったりする程度であれば、俺はそのまま何事も無くシミュレートしたルートへと舵を切っていたのだろう。
しかし、ここでも彼女は違和感ある行動を取る。
俺がその小さなノートを手にとった瞬間、彼女は人が変わったように慌ててそれに手を伸ばしたのだ。
まさか奪わんとするような勢いでノートを受け取るとは思ってもおらず、彼女の手が触れたことでノートは勢い良く弾け飛んでしまった。
パサ。
乾いた床にノートの背が当たり、表面が滑り、擦れ、少し甲高い音が響く。
あまりに強い勢いで俺の手に飛びかかったせいで、翠のノートは俺の方に飛んできてしまう。
それほど見せたくないものなのだろうか。
だとすれば、無理矢理見るのは得策ではないように思える。例え練習であろうノートとはいえど、本人が嫌がる中無理矢理見るのは少なくとも中学生で卒業すべきである。
「おいおい、そんなに慌てるなよ。別に盗もうとしたわけじゃ――」
俺の横まで飛翔したノートは衝撃でとあるページを開いてしまっていた。
故にそれを手に取り、中を読むことはせずそのまま渡そうとしたのだが――開いてしまっているせいで、嫌でもそこに書かれている文字が目に入る。
それを見て、俺は再度硬直してしまった。
……その開かれたページには、今日の午前九時から練習を開始したという記述が書かれていたからである。
――ハッとして顔を上げると、翠が困惑した顔で手を意中無く伸ばしながら俺を見ていた。
人のノートを偶然とは言え見てしまったことを謝罪しようと最初は思ったが、それ以上に記された文字に意識が全て注ぎ込まれてしまう。
そしてその文章は、俺の脳みそを加熱させるのに十分なものであった。
『午前九時、練習。柔軟を強めに。ターンで足が上がらないから下半身を重点的に』
「今日、俺と話したのは何時だ?」
「……Pさんが事務所に来た時です」
苦虫を噛み潰したような表情で、翠が答える。
『午後〇時、各シーンのステップを重点的に。他の人に比べて足さばきが遅すぎる』
「今日、昼ごはんは何を食べた?」
「……いえ、特には」
まっすぐと見つめる俺の視線に耐えかねて、彼女は俯いた。
『午後七時、第三~五のダンスを反復。結局披露するときは一人なのだから、頑張るしかない』
「今日、俺以外と誰に会った?」
「……千秋、さんです」
俺の質問に答える度、彼女の声が萎んでいく。
声が薄く、脆く……震えるように緩んでいく。
『午後九時、まだ』
「……今日、いつからここに居る?」
四度目の質問に、少し待っても翠の返事はなかった。
ページをめくっていくと文字はここで途切れていたが、状況と状態を理解するのにこれ以上の情報は必要ない。
彼女は、水野翠は――。
「……ずっと、です」
ようやくでてきた答えに、痛みを封じ込んで喉を切り裂いて声を出した。
「――誰がこんなに練習しろと言った! 俺か!? それともトレーナー誰かか!?」
「っ!?」
レッスンルームは防音性が高くなるように設計されており、俺の声、それも普段では絶対に出さないであろう窓を破るような声がいたるところに反響した。
憤怒。まさしく俺の感情はそうなのだと自覚する。
理由を訊かれたのなら、俺はその訊いた人を鼻で笑ってやらなくてはいけない。
「翠だって知ってるだろう! 闇雲にやったところで意味なんか無いことぐらい!」
かつて聞いたこともないような俺の声を目の当たりにし、驚愕の視線を俺に向け、動揺と困惑、そして何かに怯えるような表情をしていた。
異常だ。異常といってしまっても仕方がない。
確かにランキングに入れなかったのは残念だし、俺も翠も力不足であったことは認める。
そしてランク外という結果に対してどういう反応を取るかなんてことは千差万別であることも当然理解している。
「それは……っ」
千秋のように徹底的に洗う人も居れば翠のように静かに燃える人も居るし、軽いリアクションを取っておきながら内心では悔しがる人も居る。この事務所の中で、それぞれ思い思いにアイドルたちは高い壁と接している。
それでも、俺はこの対応に関しておかしいとはっきり言わせてもらう。
例え一人で練習すること自体は悪くないとはいっても、頼るべき所を頼らずに抱え込む翠のやり方は絶対に間違っているのだと。
「教えてくれ、翠……どうして全部一人でやりきろうとする。翠の何がそうさせるんだ?」
いつまでも怒鳴る訳にもいかず、何より叫んでいて気持ちが一周回って少し落ち着いてしまったのでトーンを先程とは一転して落とすと、こちらから目を逸らした翠に対して静かに語りかける。
いきなり豹変する俺の声色に、翠は一層動揺しているように思えた。
「そりゃ悔しいこともあるだろうさ。練習しても上手くならないことだってあるし、見えない才能とか生まれつきの得手不得手で差ができてしまうことだってある」
「……っ」
彼女に際立って誇れるような技能はない。普通の高校に通い、他の人より弓道が好きな、アイドル世界においては平々凡々な存在だ。
歌は得意といってもそれは一般レベルの話で、ダンスも特に上手い子と比べれば一段落ちるだろう。
しかし、それでも俺は彼女にそこはかとない魅力を感じた。上手く言い表せなくとも、彼女と一緒なら高みを目指していけると、一目見た時から確信したものだ。
故に彼女のためなら何時間でも何日でも、何回でも何万回でも助けてやりたい。翠のために何かしてやれる俺でありたいと思っているのである。
「だから俺や他のアイドル達がいるんだろう。翠にとって他のアイドルはただの敵か? ……そして、翠にとって俺は背中を預けるのに値しないチンケな人間なのか?」
だが翠は拒絶をした。
手伝いを申し出ても大丈夫だと言い張り、褒めても謙遜して一歩引く。
翠に悪意は無いし、他のアイドルに対して敵意もない。だからこそ、感情の矛先を自分自身に向けてしまうのである。
張り詰めた室内。
何も声を出さない翠と、言い過ぎた俺。
しーん、という音が耳にやかましくつきまとうこの瞬間が酷く長く感じた。
言いすぎてしまったと後悔する反面、ここまで言わなければ伝わらないのだと納得する気持ちもある。
一体どうすればいいのだろう。
長く付き合ってもわからないことはあっても、彼女をそうさせる強い何かだけは、未だ解りかねなかった。
しかし、その静寂は全く予想外のものによって破られる。
――すすり泣く声。
この部屋には俺と翠しかおらず、そして俺は泣いてなどいないのだから、必然的に声の持ち主は一人に絞られる。
繰り出された俺の言葉が響いて返ってきたのは、今にも折れそうな翠の嗚咽であった。
翠が、泣いている。
「あ――」
気づいた時にはもう手遅れで、俺の強すぎた言葉が彼女の涙を誘ってしまっていた。
俯いた彼女の頬からは、光によってかたどられた悲哀の雫が流れている。
「じゃっ、私は、どうす、ばっ……!」
いつものような明瞭とした声色がどこぞに消え失せ、詰まらせながら、途切らせながら翠は短い言葉を呟いた。
全て滑らかには発せず、時折止まらぬ嗚咽を挟んでは震える声でそう訊ねる彼女の姿に、俺の抱え込んでいた物が全て流れ落ちてしまっていた。
「どう……って」
じゃあ、私はどうすれば。
何も考えが及ばない。何かを考える暇すら与えてくれないほど、俺の眼前で静かに涙を流す彼女の声が脳を激しく震わせていた。
「ランキングにも入れなくて……練習してもっ、届かなくて……。私には、才能なんて……なくて……っ!」
収まらない嗚咽に加えて、語気が強まりますます翠の感情が加速していく。
「Pさんのっ、期待にも答え……られなくて……! 見てくれているのに……な、何も……結果を出せないのが……っ」
もはや彼女の本意を遮る物は何もない。
意識と乖離していく感覚の中、ただ翠の涙ながらの思いだけがすっと伝わってゆく。
「おしえてくださいっ……ど、すれば……私は……隣に居られ、ますかぁ……っ!」
その言葉を聞いた時、俺の頭の中にあった一つだけの思いが爆発してしまう。
大粒の涙を流し、俺の目を真っ直ぐ見て訊ねる翠の躰を、精一杯抱きしめたのである。
――ぎゅ。
そんな音が聞こえる程、俺の腕の力は強かったように思う。
「……翠が頑張らない訳、ないよな」
勘違いをしていた。
今日の朝に翠と接して感じた僅かな雲など、ただの俺の幻覚であったのである。
もしかすると翠は昨日の夜、特別番組が終了した後、一人で涙を流したのかもしれない。それも今まで耐えてきた涙の分を全て。努力が無になった結果を思い知らされて。
「昨日の結果があってもいつもと変わらないから、……少し、変なことを考えてしまった」
そう、翠は努力する。
失敗や未熟をいつか完全と成すために、何事にも動じず、うろたえず、そして平静を保ち続けて練習をこなす。
しかし、それはただの強がりにすぎなかったのだ。
強い平常心を持ち笑顔で過ごすその一方で、彼女は常に不安に襲われていた。
立場が弱く、絶対的な土台が無い今の状態が悟られないように、彼女は強くあり続けただけの話だったのである。
「だから、ごめん……ちゃんと見てやれなくて。翠はいつも真っ直ぐで真面目だから、安心しきっていてたのかもしれない」
一から十まで全て真面目に練習に取り組む姿は、周りを見てもそうは居ない。俺はその姿を翠の当然としていつのまにか見てしまっていたが、真実は違った。
ただ、彼女は高みにいるアイドルに追い付くために、必死に走っていたのだ。
それに気づかず、ただ硬く強くあろうとする翠に疑問を抱いてしまうなんて、上司として、そして彼女のパートナーとして何たることか!
「全部を一気に解決するのは無理だから、……一つづつ、やろう。遅くても、俺は見続けるから。絶対に、……隣に居るから」
「……っ」
一度、俺は少し力を強めて腕の中の翠を抱く。
そうすると、酷く震え、硬直していた躰が徐々に落ち着いていくのがはっきりと感じ取れた。
翠はずっと不安だったのだろう。
追い越そうとも引き離され、一度の隆盛もないまま過ぎていく時間をもどかしく感じ、そしてそのまま行けば自分の立場そのものが失くなってしまうのではないかという恐怖があったのだ。
「……不甲斐ない……私で、ずみません」
彼女の顔はすぐ隣にあり、表情は見て取れない。
だが、先程まで支配していた悲痛な思いは欠片となって沈んでいったように思える。
「不甲斐なくてもいいさ。どっちだろうと、翠なのは変わらないから」
そうだ、どっちだって構わない。
練習の鬼だったとしても、器量が悪く、テンポが悪かったとしても、彼女が翠であるかぎり、俺は彼女のために時間を使いたいと思う気持ちは全く不変なのだ。
「そして皆をもっと頼れ。俺も皆も、絶対に助けてくれるんだ。もう少し肩の力を抜いて、……それこそ、少しは遊ぶくらい」
弓道では全ての動作をきっちりこなす必要があるが、必ずしもそれが他でも正しいかといえばそうではない。
思いつめないように、壊さないようにするために人は遊ぶ。遊ぶという『遊び』を持つことで、心に柔軟性と酸素を送っているのである。
「それで、いいんですか。追いつかないと、いけないのに。私は、このままじゃ――」
顔が見えないまま、翠は小さく耳元で囁いた。未だ声に芯はなく、揺れるような微かな声が彼女の心を表していた。
「それで、いいんだ」
もとより、彼女がここまで苦しむ必要はそもそも必要なかったのだ。どういう経緯があろうとも、翠をこの世界に呼んだのはまさしく俺なのだから。
苦しみや悲しみは人を成長させる。だが、行き過ぎたそれらはただの毒で、それを薄めるか濃くするかは俺の手にかかっているのである。
だから、必要以上の苦しみは、俺が共に背負って薄めなければならないのだ。
汗を掻いて冷えてはいけない、と弛緩した彼女の躰から手を離すと、赤らんで充血した瞳の翠がそこにいた。
「……もう少し、ここにいようか」
そんな泣き腫らしたような顔で外に出ようものなら他の人に心配をかけるばかりだ。それは翠も望んでは居ないだろう。
俺の意図を察したか、それとも翠の意図を読まれたと思ったか、彼女は自分の目や頬を手でこすると、いささか恥ずかしそうに笑う。
涙を流す前と似たような笑顔。だが、そこに明確な近似性はなく。
「すみません、情けない顔で……ふふ」
それは俺が原因なのかもしれないが。
涙のベールがめくれ、彼女の心からの表情が久しぶりに垣間見れたような気がした。
*
「ん? あの後ろ姿は……」
あの後、ぽつりぽつりと会話を交わしつつ表情を和らげてから部屋を退出し、事務所に戻るために廊下を歩いていると、遠く……エレベータの近くに、見慣れた黒髪の女性が立ってることに気づいた。
「千秋さん、でしょうか」
隣に居た翠が考える隙なく一人の女性の名を告げる。
俺もそう思う、と相槌を打って、歩みを続けた。
思い出す。
俺があの部屋に行くことができたのは、まさしく千秋の棘が生えたような言葉があったからだ。
彼女が夜事務所に来なければ、そして俺に伝えなければ、翠は何も得ることができず、そして何かを失っていた。
そういう意味では、彼女こそ翠を一番大事に想う人なのかもしれない。
だがそれにしたって、事務所を去った後、千秋はずっとここで俺たちが出てくるのを待っていたのだろうか。
「来てくれたのに……謝らないと」
翠が小さく、申し訳無さそうに呟く。
千秋の言葉が脳裏に映し出される。
結局、千秋があの時辛辣な言葉を吐いたのは発破をかける意味合いもあったが、それ以前に悔しさがあったのかもしれない。
今思えば、彼女の台詞にそれらしい意味が含まれていたような気がする。
しかし、それは時間をかければすぐに壊れる壁にすぎない。
ただ彼女は翠と知り合う時期が俺よりも遅かっただけのことだ、俺と千秋、共に翠に対する思いには寸分の違いもないのである。
「そうだな。謝って、それで千秋とも一緒に歩き出そう」
「はいっ」
いつの日か聞いたような、純朴な返事。
それを今再び聞くことが出来て本当に嬉しいと思う。
――恥は掻き捨て。本当の事、言わせて下さい。
丁度そこまでいくのに、一分もかからない。
しかし、翠は突如歩みを止めて俺の視線を誘導する。
振り向いて不思議そうに翠の顔を見る俺を、彼女はしんとした目つきで見据えた。
「私のために頑張るPさんにこのような事を言えるような立場ではありませんが――私が頂点を、なんて……分不相応なのかもしれません」
そう話す翠の声色に、不安や動揺といった揺れは観測できない。純粋に、彼女の思いの丈がその角度なのだろう。
決して遮ることも促すこともせず、立ち止まって真正面で受け止める。
「自分なりに頑張って、努力して……それでいて、この位置なんですから」
努力不足だ、なんて誰が言えるのだろう。
むしろ、今高みにいる人達以上に彼女は頑張っている――そう思ってしまうのは、いささか身内贔屓が過ぎるか。
だが結果にそういった感情は考慮されない。純粋に一人の思いを一つとして計算されるのだから、どれだけ翠が、そして俺が頑張りを認めようとも、一単位にしかならないのである。
翠はそう言って一つ呼吸を置き、はっきりとした口調で続ける。
「でも、この場所に甘んじる気はありません。それがこの世界に来た私の思いですし、何よりPさんが私をアイドルとして見てくれているから」
翠がこの世界にやってきたのは、俺が彼女誘ったからである。
そして翠がこの世界にやってきたのは、俺の言葉を信じたからである。
俺がアイドルとして見なければ水野翠というアイドルはきっと存在しない。
それ程までに脆弱な柱でも、彼女は進むと誓う。
「だから、私は私を信じます――Pさんとともに成長してきた、アイドルとしての自分を!」
翠は弱気になどなってはいない。
支えられて、再び天を目指す邪魔になる霧を晴らしたのだ。
これからも手放しはしない。
翠が手にしている思いも彼女が手に入れた魂も全て俺が守ってみせるし、他の仲間も翠を見捨てたりはしない。
だから、一緒に歩む。
「いい顔だ。……また頑張ろうな」
「はい、遊びながら頑張ります!」
そういう事じゃないだろう、と頭を小突くと、照れくさそうに翠は笑った。
それでいいのだ。
喜びも、楽しみも、そして悔しさも受け止めて進めばいい。
大きすぎるなら、速過ぎるなら、その時は一緒に止めてやればいいのだから。
「さあ、行きましょうか。明日からまたお願いしますね、ふふっ!」
止めていた足を再び動かし、俺達は千秋の下に向かう。
そうして歩き出す翠の姿は――とても、少女らしかった。
おわり。総選挙お疲れ様。51位組としてふわふわと生きていたい。
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