雪歩「萩原雪歩、無職です」 (51)


・不定期更新

・地の文あり

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意識が覚醒する。本当に覚醒、という感じでぱっちりと急に目が覚める。
暗い。
ベッドの頭に置いてある携帯で時刻を確認する。
18:03。

またか、とは思うがそれだけだった。

唇が乾いている。
起き抜けにも関わらず体は空腹を訴えている。
24時間近く寝ていればそれも当然だろう。

ベッドサイドのテーブルに手を伸ばし、水筒を掴む。
黒い、サーモスの水筒だ。蓋を開け中身を少しだけ口に含んだ。

すぐに動く気にはなれなかった。
頭が重い。
体がだるい。

携帯を確認するといくつかメールが来ていた。
夕食の誘いも来ていたが、返信するには遅すぎる。

目をつぶる。
なんだかもう一度寝れそうな気さえする。

一度大きく深呼吸をし、掛け布団を剥がしてお尻を支点に体を回し床に足をつける。
ベッドに腰かける姿勢になったあと、ぐっと力を入れて立ち上がる。

急激に視界が狭まり、頭にぴりっとした痛みが走る。
軽い吐き気がする。
三半規管はまだ寝ているのか、ぐらりと体が傾いた。
必死に手を伸ばしたのだが、手をついたのは椅子の背もたれだった。
まずい、と思ったときには椅子は脚を支点にてこの様に傾き、私の体重を支えるものはなくなった。

椅子ごと床に転ぶ。がたん、ごっ、と大きな音が遅れて聞こえた。
床に手を付けるのは残念ながら間に合わず、あごを床にしたたかぶつけた。

痛い。

せめてラグがあるところなら良かったのに、と思い、その後薄闇にぼんやり見える椅子の五つある脚が視界に入る。
それは飾りかと心の中で罵った。


次に考えたのは誰かが今の音を聞き付けていないか、ということだった。
午後6時すぎ。
誰かがいる可能性は充分にある。
左腕の肘と右の掌を床に付け、体を起こす。
体に覆いかぶさるように乗っている椅子をどけ、床に座り込んだ。
その体勢のまま椅子を元に戻していると、ドンドンと階段を上る音が響いてきた。

『雪ぴょん!?』

ふたつの声が重なってひとつに聞こえる。
ドアをはさんでいるためくぐもっているが、それでも高い声だ。
高くて、元気な声。
ドアまで行こうとするがもう一度立ち上がることを恐れて、そのまま返事をする。

「起きてるよ」

少し叫ぶような声になる。

『入っていい?』

「あ、うん」

がちゃりとノブの回る音が響く。
廊下から徐々に室内に光が差し込む。

「暗っ」

「なんかすごい音がしたんだけど」

「どうかしたの? 雪ぴょん?」

二人の顔は見えない。

「あ、うん。ごめんね、椅子倒しちゃって」

事実だけを簡潔に述べる。

「よかったー。真美びっくりちゃったよ」

「突然ドゴン!! って音したもんねー」

ドゴンはないだろうと思ったがそんなに響いたのだろうか。

「二人は部屋に居たの?」

座りながら質問を返す。
二人の部屋は一階の一番奥、左側だ。方角で言えば北西に位置し、二階のほぼ南東に位置する私の部屋からは対角線上にあるといっていい。
そこまで響いたのだとしたらよっぽどだったのだろうと思ったからだ。

「ううん、リビングでゲームしてた」

リビングか。
それなら聞こえるかもしれない。

「ごめんね」

再び謝る。

「なんで暗いの?」

「そういえば雪ぴょん、ご飯はどうするの?」

一つ目の質問には答えず、二つ目の質問にだけ答えた。

「まだ考えてない」

二人は顔を見合わせることもなく、全く同じタイミングで言った。

「じゃあ一緒にどっか食べに行こうYO!」
「じゃあ一緒にどっか食べに行こうZE!」




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出たくはなかったが、結局外に出ることにした。

今日他の人は遅くなる予定だということだったし、あまり遅くに二人で出歩かせるわけにもいかない。
二人はまだ中学二年生になったばかりだ。

私自身がご飯を作っていないという負い目もあった。

出るなら遅くならないうちに出たかったが流石にシャワーを浴びたかったので、二人には少し待ってもらった。

シャワー中、私が同伴して防犯上プラスになるかと考えた。
双海姉妹はとっくのとうに私より背が高くなっていたし、女の二人連れが三人連れになったところで大して変わりはないだろう。
結論、ほぼ無意味。
真ちゃんならともかく、と考え、言ったら真ちゃんは怒るかな、とも考えた。

シャワーから上がり、服を着替える。
ジーンズを履き、ロングTシャツの上に袖だけ黒いグレーのブルゾンを羽織った。
別にしなくても良かったが化粧も簡単に済ませた。
ファンデーションに薄いチーク、色つきのリップクリームを塗った。
帽子をかぶり、眼鏡をかける。度は入っていない。
部屋を出ようとしたところで、大事なことを思い出した。
キャビネットの一番上の引き出しから袋を出し、薬を取り出して一錠飲む。
もう一錠をジーンズのポケットにねじ込んで部屋を出た。

リビングに行く。
「行くよ」と二人に声をかけると「アイサー!」と元気な声が帰ってきた。
亜美がテレビを切る。
その時ボードに書かれた自分の文字が目に入った。
ボードの右上に『今日は夕飯作れません。ごめんなさい。雪歩』と書いてある。
リビングの明かりが消えると、三日前から書いてあったその文字も見えなくなった。


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タイミングがいいのか悪いのか、リビングから出たところで千早ちゃんが帰ってきた。

夕食のことを尋ねると何も考えていないとのことなので、四人で近所のファミリーレストランに行った。
家を出て徒歩で三分くらいのところにある。

チェーン店ではないが、定食屋というには大きく特定の料理を取り扱っているわけもない。
カウンターはなくテーブル席のみ。
ファミレスに分類されると思う。

店内に入ると係の人が来る。四人で! と真美が言っている後ろで私は店内を見回していた。
幸い人は多くなかった。

席に着くとほぼ同時に亜美はメニューに手を伸ばした。
それに続いて千早ちゃんがメニューを手に取る。
水と、フォークや箸などが入った食器入れが運ばれてくる。

向かいではあれこれと相談が続いていた。
こちら側は無言である。
千早ちゃんは私にも見えるようにメニューを開いて、ゆっくりとページを捲っている。
私もメニューをなんとなく見つつ、食器入れの中に入っているおしぼりを四人に配った。

「私はもういいわ」

最後のページまで捲ると、千早ちゃんはメニューをこちらへ差し出してきた。

「あ、私もだいじょうぶ」

「そう?」

千早ちゃんがメニューを元に戻す。
向かいの席ではまだ討論会が続いている。

「今日は早かったの?」

「ええ。今日は今度の新曲の打ち合わせだったのだけれど――」

「オッケー!?」

張りのある声で私たちの会話は中断される。
千早ちゃんがええ、と言うと、えいやという勢いで亜美が呼び出しボタンを押す。

「二時間待たされた挙句、とんぼ返り。ディレクターが来れないって」

「本当?」

言いながらよくあることだ、と思っていた。

ウエイトレスが注文を取りに来る。
それぞれの注文を取り終えると、確認のため復唱し、去っていった。

「さっきの話だけど」

「ええ。体調不良ですって」

言葉の後に「表向きは」と付けたそうな口ぶりだった。


実際本当の理由かどうかは私たち側にはわからないだろう。
ただ私が活動している時でもそんなことは頻繁にあった。
形ばかりの謝罪の言葉を受け取ってすごすごと引き上げるしかない。

「それは大変だったね」

「文句言えばよかったのに」

こちらの話を聞いていたのか亜美が割り込んでくる。

「そうね、なにか言ってやればよかったわね」

微笑みながら千早ちゃんが返す。

何様ですか! とかさー、もう来ません! とかさー、と笑いながら話している。

「雪歩は元気?」

千早ちゃんはあまり相手の目を見ないで話をする。

「元気じゃなさそうに見える?」

「……そういうわけじゃないけれど」

意地悪かなと思いつつ、千早ちゃんの方を見る。

「例えばさ」

「え?」

「千早ちゃんが37.5分位の熱があったとします」

千早ちゃんは何も言わない。

「で、その時に誰かに『千早、元気?』って聞かれたらなんて答える?」

千早ちゃんがちらりとこちらに目線を向ける。
一瞬だけ視線がぶつかる。
すぐにそらしたあと、ふっと千早ちゃんは口元を緩めて、

「雪歩、プロデューサーに似ちゃったわね」

「『似ちゃった』の時点で、褒め言葉じゃないよね」

「そうね。言い方を変えましょう。雪歩、プロデューサーにだいぶ毒されたわね」

「それに関しては否定できないかな」

私は千早ちゃんを見ている。
千早ちゃんはこちらに視線を向けずに、微笑んだままグラスに手をつけた。


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芸能プロダクションに所属していることがアイドルの条件というのであれば、約三年半前、私はアイドルになった。

当時私は高校一年生だった。
学校中で近くに新しい芸能事務所ができると話題になっていた。
私自身はあまり興味がなかったが、夏ぐらいに友達が「一緒に応募しようよ」と言ってきた。
今考えると「自分一人だと恥ずかしい」と思ったのか、それとも「雪歩と比べれば自分が受かる」と考えたのか理由はいくつか考えられる。
とにかく最初は断った。
ただその話は度々話題に上がるようになり、また学校全体でも「二年生の誰それが応募したらしい」などの噂話も出るようになった。
友達は俄然やる気になった。

『雪歩、強くなりたいって言ってたじゃん!これが第一歩だって!』

応募をしてもいいと思ったのは、多分その一言だったと思う。
そう、まずは行動することが大事なのではないか。

私は友達と一緒に初めて履歴書買い、初めて証明写真を撮った。
添付されていた記入例を見ながら、必要事項を埋めていった。

ただ自己アピール欄に『強くなりたい』と書いたのははっきり覚えている。

書き終えたそれを封筒に入れて住所を書き、切手を貼って投函した。

そこで終わりだった。
私にとっては一つ行動した、というのが大事で結果に関してはあまり考えていなかった。
「書類選考通過者には二週間以内に連絡が来るらしいよ」という言葉も聞き流していた。

宝くじを一枚だけ買って当たるかも、と浮かれているようなものだった。
行動したことが大事なのであって、番号を確認する必要はないはずだった。

一週間後に自宅に電話がかかってきた。
夕食時の電話に出たのはお母さんだった。
お母さんはしばらく「ええ」とか「おりますが」とか言ったあと電話の保留ボタンを押し、夕食を食べていた私を振り向いて言った。

「芸能事務所っていうところから用事だって言ってるんだけど」

電話口の向こうの相手は萩原雪歩さんですか? と確認をしてきて、ぜひ面接をしたいと言ってきた。

完結したと思った物語が完結していなかった。

私はどうしたらいいか分からず、土日なら時間は作れますか? という相手の質問に気のない返事を返し、面接の日時が決まった。


浅はかだったのはすぐに同時に応募した友達に連絡を取ったことだ。
彼女には連絡が来ていなかった。
それ以来彼女とはしばらく微妙な関係だった。

当日面接に行くと、背広姿の、お父さんよりは若そうな人が座っている部屋に通された。
私は何の準備もしないで面接に行った。
2、3説明をされたあと「強くなりたいというのは、具体的には?」と聞かれた。
男の人が苦手なこと、犬が苦手なこと、優柔不断な自分を変えたい、などと話したと思う。
聞かれたことに対して正直に話すしかなかった。

たどたどしくなんとか最後まで言葉を紡いだ私が沈黙に耐え切れずにちらりと顔を上げると、面接者は笑みを浮かべたままひときわ大きな声で言った。

「よし、萩原雪歩くん!
 君は合格だ!私たちの力になって欲しい」

事態の進行の速さについていけていなかった。
うちの人に話してあるかい? と聞かれたので、相談してみますと言って一旦その場はそれで終了した。

午後の明るい時間にも関わらず帰りの電車は混んでいたことを覚えている。
休日だったからだ。
車内の吊り広告を見ながら考えた。

候補生とはいえ、アイドル?
私が?

階段の一段目に足を乗せたのは、確かに私だ。
まずは一段。
二段目はまたしばらく先。きっかけと、ちっぽけな勇気が重なった時にまた登る。
そう思っていた。

私は両親に話をした。母は賛成してくれたが、父はどちらでもなかった。

「俺がやめろと言ったらやめるのか」
「ううん、やる……と思う」
「じゃあ好きにしろ。ただし」

仕事には責任がある。忘れるな。そう言ってお父さんはテーブルから離れていった。

仕事じゃないよ、私が選んだんだよ――

結果、両親にも一応反対はされなかった。

条件は整った。
このあたりでようやく現実感が追いついてきた。

私がアイドル。
期待と、不安と、未だに疑っている気持ちが2:3:5くらいだった。

不安はある程度直ぐ解消された。

当時の私にとっての不安要素は芸能活動や働くことについてではなく、学校での自分の立場が第一だった。
幸い友達に話したところで大騒ぎになることはなく、通り一遍の反応をされただけだった。
「すごい!」「やったじゃん!」「自慢できる!」とか、そういった言葉をかけられ、時折今は何をしているのか思い出したように尋ねられる。
その頻度も月日が経つごとに減っていった。

また、正式に候補生となってから事務所に行った時も不安が首をもたげたが、その日は同年代の子を数人紹介されただけだった。
仲良くなれるかという心配は杞憂だった。あちらから積極的に話しかけてきてくれたからだ。

期待に関してはまあ予想通りというかなんというか、日常生活に顕著な変化を表すことはなかった。
ただ、新しい友達が増え、今までの生活に新しい要素が加わったことで世界が広がったように感じた。

また一歩、階段を上った気がした。

半年間、週に数回レッスンを行う日々が続いた。

春になり、私は高校二年生になった。

そして765プロに新しいプロデューサーがやってきた。


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食事をした後さっさと切り上げたため時刻は午後八時を少し回ったところだった。

一度部屋に戻った後、リビングに行くとやよいちゃんがいた。亜美達と何か話している。

「あ、雪歩さん! おつかれさまですー!」

「お疲れさま。私は疲れてないよ」

キッチンに行く。

キッチンには律子さんと、

「あーらー、雪歩ちゃんじゃないー」

小鳥さんがいた。

「お疲れさまです、焼酎ですか?」

「にほーんしゅー」

ロックの入っていないロックグラスを持ち上げて小鳥さんが言う。そこそこ出来上がっているらしい。

「お疲れ」

「お疲れさまです」

律子さんの前にはビールの缶が置いてある。
テーブルに料理はなかった。

「雪歩、長居するとめんどくさいわよ」

「りつこさーん、雪歩ちゃんと久しぶりにはなしたいよぅー」

「何か軽く作りましょうか?」

「雪歩ちゃん、結婚して!」

依頼と判断し、『大人用』冷蔵庫を漁る。

「雪歩、ありがたいのはありがたいんだけどつまみが出てくるとどうなるかわかる?」

背後から律子さんの声が聞こえた。

「長くなるんですよね」

作りましょうかといったものの大してろくなものがない。

「わかってて言ったんだ?」

「わかってて言ったんですよ」

律子さんの言葉にトゲは含まれていない。「いいじゃないですかー、語りましょうよー」と小鳥さんの声が聞こえる。

これはどういう状態でスタートしたんだ?


「このあと誰か来ますか?」

「残念なことにね」と、律子さんが大げさにため息をつく。「貴音も遅くならないうちに戻ってくるし、プロデューサーも来るわよ」

「残念ですね」

なら多少多くてもいいかと適当に見繕った食材をキッチンに運ぶ。
冷凍庫にあったイカをレンジで解凍する。
その間にベーコンを厚めに切り、しめじの石突を落とし、小房に分ける。

「雪歩ちゃーん、たまには事務所に顔出してよー。昼間暇でしょうがないんだからー」

「小鳥さん、絡まない。包丁使ってるんだから」

レタスとトマトを洗う。レタスは適当な大きさにちぎり、トマトも適当な大きさに切る。
一つ目の話題には触れず、二つ目の話題を広げるようと口を開くと「っていうか暇なんですか?」「暇なんですか?」と私と律子さんの声が重なった。

「うん、暇」

一瞬しらふに戻ったかのようにはっきりとした口調で小鳥さんは言った。
レンジの「ピー」という電子音が鳴る。

「でも来るときは一気に電話3本くらい重なるしさー、書類はどうせ週末、月末に集中するしさー」

休みが欲しいよー、と小鳥さんの声を背中で聞く。

休みをください、誰に言うつもりだろう――

解凍されたイカは一部が熱く、一部が冷たかった。
内臓は抜いてあるが、皮は付いたままだ。
そのままでいいだろうとざっくり輪切りにする。
もちろん飾り切りなんてしない。

「ああ、今年一年もいち事務員として終わっちゃうのかしら」

「そうですね。自ら動かなければそうなるんではないでしょうか」

律子さんは真面目に茶化している。

イカを炒め、火が通ったところでオイスターソースで味付け。塩コショウで味を整える。
お皿に盛り付け、添えたマヨネーズに七味唐辛子をかける。

「はいどうぞ」

取り皿と一緒にテーブルに並べた。

「雪歩ちゃん、結婚しよう!」

「小鳥さんは私にはもったいないですよ」

フライパンをざっと洗っていると後ろから「うまっ!?」という律子さんの声が聞こえた。
しめじとベーコンも適当に炒め、こちらはバター醤油味にした。

「はいどうぞ。しめじとベーコンの炒め物、高カロリー仕立てでございます」

缶を持ち上げていた律子さんと、箸を伸ばそうとしていた小鳥さんの動きが一瞬止まった。
さっさと持ち場に戻る。

「雪歩、あんたね……」

小鳥さんが「律子さん、こっちもヤバいですよ!」と言っている。「カロリーなんてどうでもいいですって!」

「なんですか?」

野菜は盛り付けるだけだ。
多少は見た目を気にしつつレタスとトマトを盛り付け、クルトンの代わりにクラッカーを手で潰してまぶす。
消費期限一日前の温泉たまごをてっぺんに乗っけて、完成。

「はい、健康食品でございます。ドレッシングはお好みで」

コン、コン、コンと冷蔵庫から3種類のドレッシングを卓上に置いた。
やれやれ、という目が律子さんから向けられる。
「雪歩ちゃん、結婚してください!」と小鳥さんが言った。


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作るだけ作って私は早々と部屋に引き上げた。
貴音さんが早めに戻るのであれば料理が余ることもないだろう。

時刻を見ると9時半位だった。
起きてから3時間半しか活動していなかったが、私は薬を飲んでベッドに入った。

本を読む。

眠れるかどうかはわからない。


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プロデューサーは少し変わっている人だった。

「みなさんのプロデュースを担当することになりました」

そう言うとプロデューサーはホワイトボードマーカーを手に取った。
真っ白だった予定表に「178cm、66kg、A型、2月4日、たこ焼き」と書きながら言った。
社長だけがにこにこしていて、他のみんなは唖然としていた。と思う。
私もその一人だったので他の子を観察している余裕はなかった。

「他に質問はありますか?」

その日を境に今までレッスンの予定しか書かれていなかった予定表に違う内容が少しずつ書かれるようになった。

ある日、予定表を確認すると『打ち合わせ(雪歩)18:00~19:00(予定)』と書かれていた。
二日後だった。
少し距離を置いた背後ではプロデューサーがキーボードを叩いている。
ライオンを確認する草食動物のようにちらりとその姿を確認すると、私はその場を離れた。

とりあえず私は、私より前に『打ち合わせ』をしている人がいないか聞いてみることにした。
記憶が間違っていなければ、全員と連絡先を交換してはいたが親しくしていたのは春香ちゃんと真ちゃんだけ、という時期だったと思う。
二人に連絡してみると『打ち合わせ』はしていない、とのことだった。

残すは他のあまり話したことのないアイドルに聞いてみるか、プロデューサー本人に聞くか。

私が選んだのは後者だった。

翌日私は用事もないのに事務所に行き、そわそわしながら時間を無駄にしていた。
覚悟を決めて恐る恐るプロデューサーに近づく。
じりじりと距離を詰める。
それでもまだだいぶ離れていたと思うが、プロデューサーがくるりとこちらを向いた。
ひっ、と喉から悲鳴かただの呼気かしれないものが漏れる。

一瞬にして血液が頭に集まった気がした。反射的に手を胸の前に構える。

聞け――がんばれ私――強く――

「打ち合わせに必要なものはありませんよ。明日、時間までに事務所に来ていてくれれば」

他に何か質問はありますか?

「……もっ……持ち物……とか……」

私は真っ白な頭でそれだけ言った。
今思い出すとプロデューサーは「打ち合わせに必要なものはない」と言っているのだ。
ただ、混乱していた私は何かを口にせねばとそう言っていた。

「そうですね。じゃあ一応メモをできるものと筆記用具、それと――」

気持ちだけ用意してきてください、とプロデューサーは言った。
ほかに質問はありますか?
私は頭を下げて逃げるようにその場を去った。
正確にはようにではない、文字通り、逃げた。

当日。

『打ち合わせ』はただ質問されたことに答えるだけだった。
最後に敬語で話さなくていいか、呼び方は何がいいかと聞かれその日は終了した。

「じゃあ今日はこれで終わり。お疲れ雪歩」

たった一時間だったがひどく憔悴したのを覚えている。


その後しばらくは、三人ないし四人程度でレコーディング会社、ラジオ局、テレビ局などへの挨拶回りをする時期だった。
大体週に一回程度、ほとんどプロデューサーが話をし、私たちは最後に『よろしくお願いします』というだけだった。

レッスンは続いていた。

5月のある休日、みんなが集められ、社長が「ついにやってきたよ、君たち!」と息巻いて言った。「CDデビューだ!」

室内の全てが一瞬止まったかのようだった。
「嘘でしょ?」と言う小さな声が聞こえた気がした。
やがてこそこそとした話し声が聞こえ始めた頃「では君、例の物を」と社長がプロデューサーに声をかけた。

プロデューサーから一人ひとりにデモCDが渡され、今までのレッスンに各自の曲のレッスンが追加されることが付け加えられた。
渡されたCDは薄いケースに入っており、真っ白い表面に手書きで『Kosmos,Cosmos』と書いてあった。

私の――私だけの曲――

ふと周りを見ると亜美と真美は声を上げてはしゃぎ、真ちゃんは笑顔で渡されたCDを見ていた。伊織ちゃんは気のない顔をし、やよいちゃんはきょとんとした顔でケースを裏返したり戻したりしていた。

アイドル、という単語が頭に浮かんだ。


まずあずささんと千早ちゃん、そして春香ちゃんがCDを発売した。
私も詳しくは知らないが、販売促進イベントを行ったり、どこかへ挨拶をして回ったりしていたようだった。

結論から言うとそれは事務所に大きな変化をもたらすことはなかった。

今になって思うと、最初から勝負をかけたメンバーだったと思う。
千早ちゃんとあずささんはものすごく歌が上手いし、春香ちゃんは誰にでも好かれるような魅力がある。
それにGOサインが出たということは、この三人はデモCDが渡されてから一ヶ月程度である一定のレベルまで仕上げたということだ。

ただそれらは巨大な業界の中では注目されることはなかった。

その頃のことはあまり覚えていない。
おそらく自分の曲を何度も何度も聴き、それを上手く歌いこなすことに必死になり、追加されたダンスのレッスンに翻弄されていた時期だった。
気がつくと時間が過ぎていて、申し訳ないが他人を気にかけている余裕はなかった。
ただ、たまにレッスンで一緒になる春香ちゃんに色々と活動の様子を聞いていたことは覚えている。
内面はもちろんわからないが、春香ちゃんが落ち込んでいた、という記憶はない。

それからさらに一ヶ月後、美希ちゃんと伊織ちゃん、貴音さんがCDをリリースした。
春香ちゃんや千早ちゃんたちも活動を続けていて、その頃からCDをリリースしていないみんなも含め営業活動が始まった。

もちろん私もその一人だ。
CDはリリースしていないが、営業活動に参加するようになった。

春香ちゃんがメインで私と真ちゃんがサブのイベントをやったことを覚えている。
デパートの屋上でのイベントで、メインのショーの前座だったと思う。
私はただのバックダンサーだったが、それでも私にとっては初舞台だ。

がちがちに緊張していた。

プロデューサーは都合が付かず、現場には私たちしかいなかった。
薄暗い舞台の袖で春香ちゃん必死に励ましてくれた。
真ちゃんもだ。私と同じ初舞台なのに、同じ年なのに、とても落ち着いていた。
私は恥ずかしくなった。比較してしまう自分も嫌だった。
時間になるともうどうにでもなれ! と震える足で二人についていき、ステージに立った。

今でも覚えている。

屋上のコンクリートの上に青いベンチが何脚も並んでいる。
天気もよく、陽が直接当たるステージは立っているだけで暖かかった。
ベンチに座っている人たちはとても少なかった。
休憩がてらに座っているといったカップルや、子供がアイスクリームを食べながら両親に話しかけている家族連れなど、両手で数えられるくらいの人数だった。
私と真ちゃんはバックダンサーでトークはない。私は春香ちゃんの右後ろでマイクを抱えてただ立っているだけだった。

春香ちゃんのトークが終わり、音楽が流れ出す。
人は少ない。おそらく誰も私には注目していない。
緊張は収まっていた。
あとは練習通りに体を動かすだけだった。
ただ踊っている途中で春香ちゃんが必死に歌い踊っている姿を見て、私も頑張らなきゃと思った記憶がある。

それから数ヶ月が経ち、CD発売直後は多少増えた仕事も徐々に減っていき、私たちの環境は再び落ち着いてきた。

仕事の合間にみんなの活動状況やCDの売上などは聞いたと思うが正直あまり覚えていない。
むしろある程度平穏に日々が過ぎていき、デビューした仲間のサポートという立場で仕事をすることは決して嫌ではなかった。

『仕事には責任がある。忘れるな』

責任の軽い立場で傍観者になりつつあった私は、ある日プロデューサーから声をかけられた。

会議室に呼び出されることもなければ、話があると断りを入れられたわけでもない。
いつもどおりの事務所で、いつも通りお茶を入れ、いつも通り給湯室にお盆を下げに行く途中だった。
そういえばさ、と言われた。
そういえば雪歩、俺を怖がらなくなったな。そんな感じの口調。

「次のCD、雪歩の番な」


今日はここまで。

>>11
そのうち分かるかも知れないし分からないかもしれないし




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きちんと朝起きて、家事をし、のんびりしたあと夕食を作り、寝る。
しばらく平穏な日々に戻っていた。

今日は土曜日。
社会人であれば朝というには憚られるような時間に下に降りると、リビングには伊織ちゃんがいた。

「あら、おはよう雪歩」

「おはよう伊織ちゃん。今日はオフ?」

「そう。ひっっっっっさしぶりの丸一日休みよ」

「やっぱり竜宮は大変みたいだね」

「ま、こうしてたまにでも休みが取れるんだから一時期の雪歩ほどじゃないけどね」

「お茶飲むけど、いる?」

「あ、頂戴」

伊織ちゃんに合わせて紅茶することにした。
準備をしつつキッチンから顔を出して尋ねる。

「今日はどんな気分?」

「砂糖は2つでミルクの気分」

2つのティーカップを運ぶ。

「どうぞ、お嬢様」

「ありがと」

二人で一口お茶を飲む。

今日のオフは伊織ちゃんか。

アイドルには周期的にオフの日が来る。
本当に忙しい時は例外だが、大抵はある。
最近だいぶ仕事も増えてきている様子だがプロデューサーや律子さんが頑張っているらしい。
また、オフとは言ってもまだ学生の子は学校があるため休日になるとは限らない。
時々美希ちゃんや亜美ちゃんなどが文句を言っている。
冗談か本気かはわからない。おそらく半々だと思う。

伊織ちゃんも高校生だが、幸い今日は土曜日。
だから『ひっっっっっさしぶりの』丸一日オフというわけだ。


※※ 失礼、SSにしてはある程度長さがあると思います。おkという方はお読みください。


「しっかし」

伊織ちゃんの顔を見る。
特にこちらを気にしている風ではない。
休日だからか伊織ちゃんは前髪を下ろしていた。
美人になったな、と思う。
昔はかわいい感じだったが今は美人。きれい、という言葉のほうが似合う。
しかめっ面をしていてもその魅力は変わらない。

「久しぶりの休みでもこの天気じゃね」

外に目を向けるとしとしとと雨が降っているようだった。
皮膚病にかかったネズミのような、一部が濃くて一部が薄い灰色の雲。
雨粒は注意しないと見えないが、揺れる木の葉が雨が降っていることを知らせている。

「午後は?」

「さっきニュース見てたけど丸一日こんなカンジみたい。やんなっちゃうわ」

「どこか行かないの?」

「行くんなら一週間ぐらい休みもらってモルディヴにでも行きたいわよ」

そう言ってまた一口紅茶を飲む。
私も機械的にカップを持ち上げる。
伊織ちゃんはちらりとこちらを見て、

「雪歩、髪伸びたわね」

と言った。

「あ、うん」

少し伸ばしてみようかと思って、と思ってもいないことを口にする。

「最近美容院には行った?」

「……行ってない、かな?」

何ヶ月か行ってない。
以前はスタイリストさんもいたし、みんなと活動していたため自然と定期的に行っていた。

「ダメよ。伸ばすにしても手入れしないと」

「うん、そうだよね」

会話の方向が怪しい。

「何か理由でもあるの?」

伊織ちゃんの顔をちらりと見る。
ただの世間話をしている顔にも見える。
何かを探っているようにも見える。
伊織ちゃんはかしこい。

「行ってたトコが移転したんだよね。結構遠くになっちゃって」

嘘をついた。
伊織ちゃんは口を挟まない。

「それにほら、そんなに外に出ないし別に、って思って」

伊織ちゃんはまだ口を挟まない。

「えっと……みっともない?」

そこまで言ったところで伊織ちゃんは相好を崩し、ぷっと吹き出した。
あははと笑う。
伊織ちゃんが快活に笑うと、部屋が一段階明るくなったような気がした。

「どうしてそう悲観的なのよ、雪歩は。せっかくキレイな髪してるんだからもったいないじゃないの」

バカね、と笑う。
私よりよっぽどお姉さんに見える。

「あ、そうだ。雪歩さえよかったら新堂に切ってもらう?」

「えっ?」




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「いかがでしょうか?」

後ろには二面鏡を開いた新堂さんが立っている。目の前にはそこらの美容院よりもよっぽど大きい鏡がある。
前を見ながら右後ろ、左後ろの髪がチェックできる。

「あ、その……」

言葉が出なくなってしまう。

「……結構なお点前で」

後ろで伊織ちゃんが声を出して笑った。




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午後には家に戻ってきていた。

降りようとしたらドアが開いた。自動か、と思ったら新堂さん立っていた。
慌てて運転席を確認する。当たり前だが誰もいない。
新堂さんは外で傘を差しながら私が降りるのを待ってくれている。
エスコートされるように玄関まで行く。玄関を開けてくれたのも新堂さんだった。

「あ、ありがとうございますぅ……」

消え入るような声で言った。
新堂さんは軽く会釈をし、車へと取って返す。
同じように伊織ちゃんがエスコートされてくるのを立ったままぼんやりと見ていた。

「ご苦労様、新堂。ありがとね」

「それでは失礼致します」

「あ、ありがとうございました!」

微笑んだまま会釈をし、玄関が閉じられる。
伊織ちゃんはさっさとリビングに行ってしまったので、慌てて後を追った。

しばらく言葉が出ない。伊織ちゃんはテレビのリモコンいじっている。

朝伊織ちゃんが電話をかけるとすぐに迎えの車が到着し、水瀬の豪邸についたときには軽いブランチが用意されていた。
それを頂いたあと一室に案内された。
伊織ちゃんもついて来てくれた。というか、私が頼んだ。
通された部屋は、まるで美容院のVIPルームが引越ししてきたかのような部屋だった。
大きな部屋の真ん中に椅子が一脚。
美容院にあるような……いや、ようなではなく美容院の業務用チェアそのものだ。
脇にあるワゴンも美容院のものをそっくりそのまま借りてきたようなシロモノで、様々な器具が並べられ、掛けられ、備え付けられていた。
目の前には通常規格より一回りは大きいのではないかという洗面台と鏡。
促されて座るとさっとケープがかけられて、どのようにいたしましょうかと聞かれた。
何も考えてなかった私はもごもごと何かを言おうとしては押し黙り、結局長さはそのままで整えてくださいと蚊の鳴くような声で言った。
かしこまりましたと言った新堂さんは、失礼致しますと繊細な手つきで櫛を通し、カットを始めた。
頭の中が疑問符だらけだった私はしばらくなすがままになっていた。
なんでこんな部屋が? 私のせいで急ピッチで作らせた?
馬鹿な考えだと思ったが、一瞬だけ水瀬家ならなくはなさそうだとも思った。
パーマをお願いしますと言ったら別室から別の器具が運び込まれて来るのではないか。
少し落ち着いたので恐る恐る、慣れてらっしゃいますねと新堂さんに言うと、そうですか、と返された。
美容院やヘアサロンと違って新堂さんは必要以上に口を開くことはなく黙々とカットをしていたが、動きが止まることはなかった。
プロみたいですね、と言ったところ、正真正銘のプロだった。
私と新堂さんのさらに後方のソファに座っていた伊織ちゃんが教えてくれた。
新堂さんは理容師免許を持っているらしかった。
頭の中では何故か亜美と真美が出てきて『でぇぇぇぇ!?』『マジでー!?』と言っていた。
一通りカットし終わると一旦確認を取られ、答えるとチェアが動かされ、洗髪された。
それが終わると顔のオイルマッサージをされ、フェイスパックまでされた。
聞いてない!聞いてないし言ってないよ伊織ちゃん! 言いたかったが口を開くことはできなかった。
待っている間にヘッドマッサージと首のリンパマッサージもしてもらった。
まな板の上の鯉、理容椅子上の雪歩。
顔に美容液をつけてもらい、ブローをしてもらい、最終チェックをして終了。

午後の紅茶とデザートをいただいて帰ってきた。
以上。


「新堂さんって……なにもの?」

ここ何時間かずっと口に出せなかったことを聞いてみる。
伊織ちゃんの返事はさあ? というつれないものだった。

「たぶんパパは知ってると思うけど」

「そ、それは……そうだよね」

「ただなんでもできるわよ。できないことあるの? って聞いたことあるもの」

その時はできないことのほうが多いですよ、とやんわりと返されたらしい。
しかしである。
車の運転は大型と二種免許、つまりバスも運転できるし、トラックもできる。
大型特殊免許も持っていてショベルカーなども動かせる。
電車も新幹線も動かすことができる。
大型フェリーも動かせる。
プライベートジェットも飛ばせる。
格闘技も空手、柔道、剣道に始まり、日本拳法・槍術・杖術、合気道、ボクシング、太極拳などの中国拳法、インドのカラリ、などなど。あとは伊織ちゃんも覚えていないそうだ。
銃器の取り扱いもできる。
拳銃、小銃、アサルトライフル、ショットガン他も使えるらしい。
主に猟銃の類が得意分野(得意分野?)らしく、クレー射撃の腕も一流らしい。
狩猟免許と罠師免許も持っているため狩りもできる。
まだある。
教員免許も持っている。
一級建築士の資格も持っている。調査の資格も持っている。
法律関係の資格も一部持っている。
ガス・危険物の取り扱い免許も一通りは持っている。
調理師免許とふぐ調理師の免許も持っている。

「昔さ、あんまりなんでもできるからあれ作ってこれ作ってっていろんな料理を本で探して、新堂に作らせてみたわけ」

「そ、そうなんだ……」

「普通はコックが作るじゃない」

「一般家庭ではコックは作らないよ」

「だからわざわざ『新堂が作って』って指名したの。きっと困るぞ、ってね。必死で本とか読んで勉強するんだろうって。そしたら」

あっさりなんでも作ってのけたらしい。

世界史、地理にも詳しく聞いたことはほぼ要点だけを即答し「もう少し詳しく説明できますが」と付け足すのが通例だそうだ。
電気関係の配線、コンピューター関連にも死角はない。

「だからね……」

話していた伊織ちゃんが急に止まった。

「どうしたの?」


「……ちょっと今急に思い出したんだけど」

「なに?」

「あんまりなんでもできるから、一回『新堂ってサンジェルマン伯爵じゃないの?』って冗談で言ったことあったのよ。ん? クロウリーだったかしら?」

知らない名前だ。
伊織ちゃんが簡単に説明してくれた。
曰く昔の錬金術師、魔術師と言われていた人で、死後も姿を確認したという人が後を絶えないのだという。

「記憶が確かならなんだけど、その時新堂、珍しく返事をしなかった気がするのよね」

「……」

「それとちょっと前にとあるマンガが流行った頃、新堂に『ホムンクルス作ってよ』って言ったのよね。もちろん冗談でよ。そしたら」

「そしたら?」

「『それはいけません』って答えたのよ」

ホムンクルスは知っている。簡単に言うと人造の人間だ。

「今考えるとだけど、普通は『できません』じゃない?けど確かにあの時『いけません』って言ったのよ」

しばらく無言の時が続いた。

「……なんてね。馬鹿馬鹿しい」

伊織ちゃんは笑っていたが、若干顔が引きつっていた。

「そ、そうだね……」

そう私も答えたが、二人ともしかつめらしい顔のまましばらくリビングで黙っていた。

テレビから芸能人の『なくはないやろ!』という声が聞こえた。




――――――――――
――――――――
―――――

洗濯を終えて(掃除はサボった)メッセージボードを確認すると、夕飯の予約者は4人だった。

リビングの南側、キッチンと直接つながっている半透明の間仕切りの横にホワイトボードがある。
学校の黒板の半分よりさらに一回りくらい小さいものだが、リビングにあるにしては威圧感がある。

上部には大きく『めっせーじぼーど』と書かれていて、その下にみんなの名前がずらりと並んでいる。
秋月律子
四条貴音
萩原雪歩
………

伊織ちゃんの名前の左横に赤いマグネットがついている。
他にも、やよいちゃん、小鳥さん――

「あれ?プロデューサーも?」

「ああ、私が昨日あのバカに頼まれたのよ」

「バカに」

「そう」

「マグネットをつけてくれと」

「そう。久々に手料理を食べたくなったんじゃない?」

「で、優しい伊織ちゃんはちゃんと実行してあげたんだ」

「そう、優しい伊織ちゃんだからね」

買い物に出ようとしたら伊織ちゃんが新堂さんを呼び出そうとしたので丁重にお断りしておいた。
文句を言いながらも伊織ちゃんはついてきた。
帰り道、二つになった買い物袋を一つ持ってくれた。

「ありがとう」

「優しい伊織ちゃんだから、当然じゃない」

傘を差しながら二人で歩いた。


家に戻るとやよいちゃんが帰ってきていた。
少し時間が空いたので、三人でトランプをして遊んだ。
ババ抜きをやったのだが一番負けたのは伊織ちゃんだった。
やよいちゃんは結構ポーカーフェイスだった。

6時頃から夕飯の支度を始めた。

夕食は7時。
それまでに帰って来れる人、かつ家でご飯を食べたい人はボードに書かれた自分の名前の左横にマグネットを付けて仕事に行く。
今日は4人、私含め5人分。

八宝菜と肉じゃがを作った。副菜にほうれん草の胡麻和えとかぼちゃの煮付け。
やよいちゃんが手伝ってくれたのでとても楽だった。
半分伊織ちゃんのお料理勉強会になったのはご愛嬌だ。

ちょうどリビングに料理を並べ始めた頃にプロデューサーと小鳥さんが訪れた。

「おっす」「はぁい」

「お疲れさまです、小鳥さん」

「俺もいるんだけど」

「今日の肉じゃがはとぉってもおいしいですよー!」

やよいちゃんがキッチンから大皿を運んでくる。
リビングに匂いが充満した。

「おお、おふくろの香りだ」

プロデューサーが言う。

「お母さん、プロデューサーを産んだ時に亡くなったんですよね」

既に座りかけていた伊織ちゃんと小鳥さんがぎょっとした顔を向ける。
小鳥さんは私に。
伊織ちゃんはプロデューサーに。
プロデューサーは気にしない。いつもの席にどっかりと座る。

「そうだよ。だから生まれたとき多分近くに肉じゃががあったんだ」

「離乳食が肉じゃがだったんじゃないですか?」

私は言いながらキッチンに行く。

「そうかもしれない」と背後から聞こえた。

茶碗、お椀、取り皿、箸を5膳。

やよいちゃんに味噌汁を頼み、リビングにひょいと顔だけ出す。

「プロデューサー、ご飯は?」

「何合炊いたんだ?」

「5合です」

「じゃあ昔話盛りで」

「わかりました」

顔を引っ込める。

ご飯を文字通り山の様に盛っていると、いつも良く食べますよねー、と味噌汁の乗ったお盆を持って笑いながら横を通っていった。


ご飯を全員分運んだあと、ビールを一缶持ってリビングへ行く。

「アッ―!?」

私の手元に気づいたプロデューサーが悲鳴に近い声を上げる。
うっさいわねー、と隣の伊織ちゃんが心底嫌そうな顔をする。

「どうぞ小鳥さん」

「ありがとー。いやぁお嫁さんにしたいわぁ」

しばらく卓上の缶を睨んでいたが、正気に戻ったプロデューサーが言った。

「はい、じゃあ伊織。今日の一言」

「はあ!?」

無茶ぶりだ。

「はあじゃないだろお前。バラエティで急に振られて『えっとえっと……』なんて口ごもってみろ。百パーカットだぞ。いや、出演依頼取り消しだ」

「今日の一言ってアバウトすぎよ!そんな番組あるわけないじゃない!」

伊織ちゃんがムキになって言い返す。

「わかったわかった。じゃあ初恋について語ってください」

「は、はつこ……!?」

プシ、とプルトップの音がする。

伊織ちゃんをいじっていたプロデューサーが弾かれたように反応した。
気にせず小鳥さんはグイグイと缶を傾ける。

一息ついたところで、一言。

「……いと美味し」

いただきまーす、とやよいちゃんも箸を取る。
伊織ちゃんも言い足りなさそうにしながらもふんと箸を取る。
プロデューサーは呆然としていた。

「くそっ、肉じゃがの肉だけ食べてやる。殲滅戦だ」

ややあって意識を取り戻したプロデューサーが箸を伸ばす。

「メタボプロデューサーになりたかったら勝手にすれば?」

「八宝菜うまっ!?」

「ってなんで八宝菜から食べてるのよ!?」

「これ味付け誰?」

「あ、私です」

「伊織じゃないことだけはわかってた」

「アンタはいちいち……!」

伊織ちゃんがプロデューサーを睨む。

「冗談だろ。こんなこと気にしてたらそのうち頭の血管が切れるぞ」

「先にストレスで倒れるかもしれないね。メタボなプロデューサーのせいで」

「雪歩くん。一体誰に指導を受けたらそんな言葉を言うようになるんだい?」

「メタボなプロデューサーですかね」

「わぁ、かぼちゃすごく美味しいですよ!」

「そう?」

私の料理の味付けは勘だ。
さしすせその順番くらいは守るが、あとは大体で味をつけて、しょっぱければ水を足し、甘すぎれば塩を少しずつ入れて調整する。
それだけだ。


「ほんと、煮物って一人暮らしには足りない食べ物なのよねー」

大きめのじゃがいもを割りながら小鳥さんが言う。

「わかります!」

「口にもの入れたまましゃべるんじゃないわよ!きったないわね!」

買い物していた時から思っていたことを言ってみる。

「自分で作っておいてなんですけど、八宝菜と肉じゃがって取り合わせ変じゃないですか?」

返事をしてきたのはやよいちゃんだ。

「でもどっちもすっごくおいしいですよー!」

「いいこと言った。うまければ問題なし」

「ならいいですけど」

「……ビールに合うわぁ」

プロデューサーが恨めしそうな目で小鳥さんを見る。

「小鳥さん、知ってますか?俺このあと仕事なんですよ」

「知ってますよ。あ、ダメだわこれ、完全に二本目いくわ」

「あ、持ってきましょうかー?」

言いながらやよいちゃんはもう立ち上がっている。

「あー、ほんとなんでこんなにいい子達に育ったのかしら」

「指導者が良かったのでは?」

「律子ね」

「律子さんだね」

やよいちゃんはプロデューサーの担当だ。

「……君たち」


「あとやよいちゃんのお母さんがしっかりしてるんじゃないかな?」

「そうね」

「はい!どーぞ!」

やよいちゃんがキッチンから戻ってくる。

「ありがと。ねぇやよいちゃん、結婚しない?」

「えぅ!? だ、誰とですかー!?」

「私と」

「小鳥さん、そろそろそれネタにもできなくなってくるから自重してください」

「アンタも人のこと言えないでしょ」

「お前だって言えないだろ」

「おあいにくさま、私はまだ若いから――」

言いかけて伊織ちゃんの動きが止まった。
ピクリとも動かない。

やよいちゃんはまだ分かっていない。急に会話が途切れたことにきょとんとしている。

「あーあ、伊織、地雷踏んじゃったよ。片足くらいは覚悟しとかないとな」

ほうれん草うまい、とプロデューサーは他人事だ。
私の隣からぼそりとした声が聞こえる。

「……どうせ私は伊織ちゃんの二倍くらい生きてますよ」

私とプロデューサー、そして小鳥さん本人はここまでネタだとわかっているのだが、そこまでは分かっていない伊織ちゃんは、謝ろう、なだめよう、励まそうと大慌てだった。

小鳥さんは演技を続け、プロデューサーは笑いを必死でこらえていた。




――――――――――
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―――――

CDをリリースする、ということがアイドルの条件ならば、私は二年半前にようやくアイドルになった、ということになる。

当時私は高校二年生で、765プロに所属してから一年が経とうとしていた。

私のCDが発売された。

そして、売れた。

これは後から聞いた話だが、三人とも初動の売上枚数はほぼ同じだったらしい。
一緒にCDを出した真ちゃん、律子さん、そして私。
ところが、発売されてまもなくラジオのリクエストで『Kosmos,Cosmos』が流れ、それをまたある有名芸能人が(この方とは後日共演することにもなった)雑誌で話題にしたため一気に注目を集めた。らしい。
音楽配信のダウンロード数が急激に伸び、それに伴いCDも売れた。
最終的には30万枚以上の売り上げを記録した。
旧態のテクノポップ風の曲風が流行ったのだと評する人がいて、以前からファンだったという芸能人が出た。

実際に「当たる」と事務所は大騒ぎになった。
みんな純粋に喜んだ。
一緒に喜んでくれた。
今考えると事実そのものにももちろん喜んでいたのだろうが、一番大きかったのはもっと別の理由だったのだと思う。

私たちの事務所は新しい事務所だ。
当然成功した先輩が実際に所属しているわけでもなく、過去にいたわけでもない。
「アイドル」の存在はテレビや雑誌の中のものであり、それに近づこうとレッスンをし、CDをリリースしたものの、今まで「成功」と言える結果には繋がっていなかった。
つまり私たちにとっては射的の的があるかどうかすらわからない状態で努力していたようなものだった。
社長が「的は必ずある!頑張ろう!」と励ましてくれはしたものの、その存在は私たちには見えないものだったのだ。
そう、今までは。

今回のことで的は確かにあったことが証明された。

そして、それを当てたのは偶然にも私だった。




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―――――

「プロモ作ることにしたから」

ある音楽番組の制作プロデューサーからPVをくれと言われたのだそうだ。
当然、あるわけがなかった。
だから作ることになった

悪いな、とプロデューサーは言った。

「急なスケジュールになる」

「わ、私は大丈夫……です……」

何が大丈夫なのかわからないまま、大丈夫じゃない私は言っていた。

「『先を見越して動け』って死んだ父ちゃんが言ってたのになあ。見越せてなかった。悪い」

プロデューサーは各方面に連絡をし、監督からカメラマン、スタイリスト、美術その他スタッフを必死に集めた。
打ち合わせもそこそこに撮影が始まり、監督から「こんな感じで」「こういう雰囲気で」と言われ、必死に笑顔を作ったり、ゆっくり歩いたり、空を見上げるような仕草をしたりした。
リテイクが繰り返され、スケジュールが伸び、プロデューサーは頭を下げていた。
それでも締切までには間に合わせるしかない。
監督も納得していたとは思えないが、ひとまず撮影は終了となった。
後日(仮)と書かれたPVが届いた。
私は「プロデューサーにお任せします」と逃げ出そうとしたが「じゃあ事務所のテレビで大音量で見てみるか」と言われ「それだけはやめてください」と一緒に確認することになった。
どちらにしろ騒ぎを聞きつけ――というほど広い事務所でもなかったので、結局その時事務所にいたみんなで見ることになった。
晒し者、という言葉が頭に浮かび、真剣に穴を掘って埋まろうかと考えた。

「いいじゃん!ちゃんとしたプロモっぽいよ!」

っぽいですか、亜美。

「いいなあ~雪ぴょん。真美も早くCD出したいよ」

代われるものなら代わってほしいよ、真美。

「真、良き出来栄えです」

まことですか? 四条さん。

「プロデューサー、これ焼いてくださいよ、みんなの分」

小鳥さん、勘弁してください。
これは自力で止めた。

「どうだ雪歩?」

「もうこれでいいですぅ……」

とにもかくにも、(仮)と書いてあろうがなかろうが、時間的な問題でプロデューサーはそれをテレビ局に届けた。
局、ひいては視聴者はそれ風のものがあればとりあえず満足するらしく大きな問題はなかった。

また一歩、階段を上った。




――――――――――
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はっきりと環境が変わった。

こちらからかけていた営業があちらから依頼されるようになった。
CD発売、そしてテレビ放送の直後に取材が殺到した。
有名プロデューサーのプロデュースアイドルというわけでもなく、路上ライブでじわじわと知名度を上げていったわけでもない、インディーズからの成り上がりでもなければ、女優から転身して歌手になったわけでもない。
私の情報が不足していたのだと思う。

一部の雑誌に取り上げられると、何年も連絡をとっていなかった親戚から連絡が来た。
ラジオに出ると小学校の時の友達から電話がかかってきた。
学校に行くと一日に一人は連絡先を聞かれた。
「ちょっとあんた、通帳えらいことになってるわよ!」とお母さんが慌てていた。
預金通帳は確かに、えらいことになっていた。

ふさわしいだけの給料なのかどうか私にはわからなかった。


この頃からプロデューサーと共に行動することが多くなった。

「っていうか専属になったからな、雪歩の」

「は、はい?」

「名刺も変わったぞ」

赤信号で車が止まっている間に、プロデューサーは左の内ポケットから名刺入れを出した。

「ほら」

名刺を渡された。

暗い車内では名刺の文字は見えづらく、なんとか名刺に光を当てようと体をひねっているとプロデューサーがルームライトをつけてくれた。

「あ、す、すいません……」

「専属だからな」

名刺には『芸能プロダクション 765プロダクション 萩原雪歩専属プロデューサー ――――』と書いてあった。

「……でも、みんなだっているのに」

「そっちは律子がやってくれてる。社長も動いてるから」

ハンドルを切りながらプロデューサーが言う。

「まあ勢いのあるうちにってことだろう。死んだ父ちゃんも『鉄は熱いうちに打て』って言ってたし」

「……それはただのことわざじゃないですか?」

「うちの父ちゃんも言ってたんだよ」

もういいか? とプロデューサーはルームミラーを消した。
名刺の文字が見えなくなる。

「……これ、もらってもいいですか?」

「なに?」

「名刺です。もらってもいいですか?」

「いいけど、どうするんだ?」

「どうするって……どうもしませんよ」

「必要なのか?」

私は口ごもる。

「そういう……わけじゃありませんけど」

ちらりとプロデューサーの横顔を見る。
運転しているのだから当然目線は合わない。


「まあ別にいいけどな。『女にはたくさん名刺を配れ』」

「それもお父さんが言ってたんですか?」

「ああ。あ、そうだ、二つ言っとくことがある」

「なんですか?」

「一つ。俺は『専属』って付いてない普通の名刺ももちろん持っている」

「そうなんですか?」

「がっかりしたか?」

「別にです」

「別にですか」

本当は少しがっかりした。
そう、本当に少しだけ。

「だから別にレア物とかそういうものじゃないぞ、それ」

それはわかる。
『萩原雪歩専属』の文字に価値はない。
一般の人にはレア物ではない。

「もう一つは?」

「丑の刻参りとかには使わないでくれ」

あまりに真剣な声だったので、私は吹き出してしまった。
笑うなよ、というプロデューサーの声を聞くと余計に笑えてきて、私は体を倒してお腹をかかえて笑った。

何が面白かったのだろう。
何かが嬉しかったのだろう。

お腹が痛くなり呼吸がおかしくなるまで私は笑い続けた。




――――――――――
――――――――
―――――

ごちそうさん、と茶碗を置きふーっと大きく息を吐いた。

「お茶でも淹れましょうか?」

「雪歩まだ食べてる途中だろ。悪いよ。じゃあ麦茶で」

「アンタ、一生結婚できないわね」

伊織ちゃんの言葉を背中で聞きながらキッチンへと向かう。
コップに麦茶を注ぎ、戻る。

「どうぞ」

「サンクス、ユァウェルカム」

それっておかしくないですか? と、やよいちゃんが真面目に答えている。

「コイツの存在自体がおかしいのよ」

「伊織は褒め上手だな。さてと」

プロデューサーは背広を手に立ち上がった。

「ほんじゃあやよいおり、ごちそうさま。雪歩もな」

「お仕事頑張ってくださいね!」

「ふん、せいぜい満腹で事故らないようにしなさい」

小鳥さんも飲み過ぎないように、と言い残しプロデューサーはリビングから出ていった。

「……相変わらずねぇ」

既にちょっと赤くなっている小鳥さんが言う。
くっくっと笑っている。

その時、

『ゆきほー!集合ー!』

玄関から声が聞こえてきた。
立ち上がり、リビングを出る。

玄関にはプロデューサーが立っていた。背広も着ているし、靴も履いている。

用件は見当がついていた。

「明日何時からだ?」

別に声を潜めているわけでもない。

「二時です」

「二時か。じゃあ行きだけ送れるから迎えに来る」

「……ありがとうございます、お願いします」

「肉じゃが、うまかったぞ」

「お父さんが言ってたんですか?」

「父ちゃんも肉じゃが好きだったよ」

ごちそうさんと言ってプロデューサーは出ていった。


「なんだったの?」

リビングに戻ると伊織ちゃんが聞いてきた。
隣ではやよいちゃんが小鳥さんに「集合ってのもおかしくないですか?雪歩さんは一人ですよー?」と小鳥さんに話しかけていた。

「肉じゃが、余ったら取っといてくれだって」

それを聞いて伊織ちゃんがきょとんとする。

「余ったらって……」

「余るわけないよねー。だって」

やよいちゃんが言いかけたところでリビングの扉が開いた。
玄関の開く音も、廊下を歩く足音も、しなかった。

開けられた扉の向こう、廊下の闇を背後に、

「……真、良き香りです」

四条さんが立っていた。




――――――――――
――――――――
―――――

その後、ほとんど箸が止まったタイミングで(除、四条さん)料理を温め直して洗い物をした。
やよいちゃんと伊織ちゃんが手伝ってくれたので短時間で済んだ。
料理が明日に残る心配はない。
多分白米すら残らない。

私は少しだけリビングに居残ったあと、適当に自室に引き上げた。

しばらく椅子に座ってゆっくりと本を読み、ふと集中が途切れたときに休む準備をした。
お手洗いに行き、歯を磨く。
しばらく仕事をしていなかった目覚まし時計をセットする。
流石に午後まで寝ていることはないとは思うが、念のためだ。
一通り寝る前の儀式を済ませ、すべてが終わったあと薬を飲んだ。

布団に潜り込む。

本を開く前に目を閉じて、意識を五感に向けてみた。

伸ばした体には掛け布団と毛布の重さがかかっている。
そろそろ冬用の布団は片付けて一枚減らそう、と思った。
時折階下の話声が聞こえる気がする。
いや、自動車の走行音かも知れない。わからない。
頭に疲労感はあまりない。
まだ薬も効いていないと思う。
一日のことをざっと思い出した。
今日は比較的いろいろとあった気がした。
明日のことを考える。

目を開く。

ひとつ息を吐いて、本を開いた。

大丈夫。
いつも通り。
だからあまり考えすぎない。

異世界へ自分の意識を移す前に、少しだけ考えた。

いつも通り、眠れる。

私は文字を追い始める。


今回は以上です。
お疲れ様でした&ありがとうございました。

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