モバP「初恋」 (68)


性的な表現があります。



SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1395829549



フロントガラス越しに広がる霧雨の中、俺はハンドルを握りながら腕時計と必要以上の頻度でにらめっこを繰り返していた。

初春の宵闇に飲まれた一帯は、霧雨に乱反射して連なるブレーキランプが幻想的な雰囲気を醸し出している。

俺が幼いころ故郷で見た竹灯篭を彷彿とさせるなんて、頭の片隅に今の状況にそぐわない雑念が入り混じる。


「時間、大丈夫でしょうか?」

「どうだろうな。天候も悪いし、焦りは禁物だから」


俺の隣、助手席にすっぽり収まって、藤原肇は呟いた。

肇が心配しているのは、寮の門限の事だ。

肇は我がプロダクションが保有する、アイドル専用の女子寮にて生活している。

寮長が門限に厳しいのは社内でも有名だった。門限きっかりに鍵をかけてしまって、こちらが何を言おうとも開けてくれることは無い。




仮にもアイドルだ。知名度や仕事の量に関わらず。

勿論、時間にルーズなのはいけない事であるが、時間に融通が利かない職種であることも周知である筈だ。

…一番融通が利かないのは、きっと寮長だな。

そう思って、一人薄い笑いが零れ落ちた。


「人が困っているのにどうして笑っているんですか…?」

「あ、すまん。ちょっとな」


肇から苦言を賜る。俺を見遣る細められたその目は、俗にいうジト目と言う奴なのだろうか。


「でも、本当に間に合わなかったらどうしましょう…」


時刻は二十三時と半ばをやや過ぎた辺り。門限は二十四時きっかしだ。いや、零時と言うべきか?


「…正直、厳しいかもしれないな」


「どんなに急いでもここから寮まで三十分はかかる。それにこの渋滞だ」


こんな真夜中に渋滞になる事なんて、そうそうある事ではない。

それは、天候故の不運でしかない。

カーラジオから垂れ流される交通規制の知らせを、肇との話半分に聞き流す。


「…どうします?」


肩口ほどの艶のある美しい髪を弄りながら、肇は視線を俺に向けずに問いかけた。

どうします、か。

その問いかけはどうやって門限に間に合わせるのかという模索である。

でも、肇のソレが違う事を俺は知っている。俺だけが知っているんだ。


「…お前は、どうしたい?」



でもそれは飽く迄、肇からであるというスタンスを俺は崩さない。

崩してはいけないものであるし、踏みとどまるべき一線である事も重々承知している。


「急いでも間に合わないんですよね…? でしたら…」


ぼそぼそと言葉を紡ぐ肇を盗み見る。

ハンドルを握りながら、渋滞に辟易とする態度を俺は崩さない。

期待や思惑をもった眼差しを肇に向ける事もしない。


「………」


髪を弄っていた細い指先が、少しだけ緊張したように動きを緩めたのを、俺は横目ながら見逃さなかった。



肇の真意を俺は完全に知る術は勿論持ち合わせない。

それでも、わかる気がした。肇は迷っている。そう思った。


「どうする?」


全く動く様相を見せない渋滞から目を離して、俺は視線を肇に向けた。

先程と同じ問いかけを、先程とは違う言葉で聞き直す。

十も下の未だ少女の域を出ない肇に、質問に対して質問で返すのは酷な事かもしれない。

一般的な意見としてはそうなのだろうけど、俺は肇自身から応えを求めていた。




肇は視線を刹那に俺と合わせると、すぐに逃げる様に左を向く。

片側一車線だけのこの道路の左を向いたって、そこには吸い込まれてしまいそうな真黒な夜が広がっているだけだと言うのに。

肇は深い闇から目を逸らさないまま、右手を宙に彷徨わせる。

何をするのかと思えば、その手は淀み無くハンドルに重ねられた俺の左手を握った。

まるで、見えていた様に。そこにあることを知っていたみたいに。


「プロデューサーの家、行きたいです」



いつの間にか肇の視線は真直ぐに俺を捉えていた。


「…そうか」


俺は何の感情も込めない様に、そう零した。

果たしてそれが上手く出来ているのかはわからない。

わかる必要もない。これは俺を正当化するための手段でしかない。


「行きましょう…!」


見る者を魅了するその笑顔を俺に向けながら、肇は少しだけ言葉に力を込めて言った。

俺はもう何も言わなかった。重ねられた、綺麗で細い、少しでも力を込めると壊れてしまいそうな肇の手をそっと握り返す。

そして、俺の持ち得る最大限の笑みを肇へと投げかける。

それが俺の返事だった。

もう肇の瞳に迷いは一抹も感じられない。


___


今、何時だろうか。肇と最後に言葉を交わしてから、どれくらいの時間が経ったのだろうか。

なんにせよ、深夜であることは自明だ。

よっぽどの事でもない限り人々は眠りに落ちる時間、辺りは静寂に包まれる筈。

それなのにこの空間は… 俺の暮らしているこの部屋だけは、まるで世界から切り取られてしまったかのように、全く違う様相を見せていた。


「っく… 肇…っ」

「あむ… 気持ちいですか、プロデューサー?」


不気味なほど静かな空間に、何かを舐める音と、女の名を呼ぶ声が入り混じる。


「いいよ、肇… そのまま頼む………っ」




隆起した静脈に生ぬるい感触が這う。

上から下へ。次は、下から上に。そして、肥大化した先端をその小さな口に含み、鈴口を舌先で穿る様になぞる。

頭の中を焼かれるような感覚。正常な思考は雲散していく。


「っん… レロ…」

「………っ!」


俺の反応を具に観察しつつ、肇は的確に俺を快楽を経て絶頂へと誘っていく。

もう何度も繰り返した行為だ。当初の頃のぎこちなさと羞恥は消え失せ、そこに居るのは性に飢えた一匹の雌だった。


「あぁ… いいよ、肇… そのまま…」


肇は口を離さず、そのまま瞳だけで俺に微笑みかける。


『このままどうぞ』と、そう言ってるんだ。



上目の肇の表情が引き金だった。

あどけなさの中に潜んだ蠱惑的な表情は俺の理性を破壊していく。


「出すぞ…!」

「………!」


肇の瞳は、限界を超えた様に大きく見開かれる。

一度の射精量とは思えない程の快楽が下腹部に迸る。

肇はその一滴をも無駄にしまいと、懸命に喉を鳴らす。

コクコクと喉を鳴らし、俺の精を逃がすまいとする肇は、俺の前では一情婦に成り下がっている。


「…う、ぜ、全部のめました………」

「ふぅ… じゃあ、ご褒美をあげないとな…」


次は俺の番だよ、肇。


乱れたシーツに肇を横たわらせる。

俺は努めて冷静を装うが、果たして肇を押す腕に込められた力は、取り繕う事に成功していると言えるのだろうか。


「プロデューサー…」


霞んだ声で俺を呼びながら、肇は頬に朱を刺し両足を開く。

細い脚をそっとなぞる。

肇の脚は絹の様に手触りがよく、一度触れるとその魅力に病みつきにさせられる、ある種麻薬の様な存在だ。

男を魅了するには余りある、天賦かつ魔性の才を持っていた。




滑らかな手触りの太腿を楽しみながら、肇の秘所をしげく観察する。

少しだけ右襞の方が大きい小陰唇。その奥に隠された、色素の薄いながらも鮮やかな肇の内部。

上部に座するは肇を快楽と言う名の奈落へ誘う一つの核。

どんなに仲のいい友人でも、例え親でさえ知らない肇の全てを、今夜も俺は視界に焼き付けんと血眼になる。


「プロデューサー、恥ずかしい…」


やり場のない両手でふくよかな双丘を覆いながら、肇はまたしても俺を呼んだ。

最も恥ずかしい部分を存分に曝け出しながらも肇が胸を覆い隠したのは、この場にそぐわない肇に残された僅かな矜持を現しているのか。


「あぁ、悪かったよ。焦らしちゃったかな」


俺はわかっていながら見当外れな返答をした。

何度となく肇は俺を呼ぶ。だが、肇は決して俺自身を呼ぶことは無い。

それは俺を示す形の一つではあるが、俺自身ではないんだ。


俺であるが、俺ではない。

背反したこの難題を突き付けられ頭の片隅で行為を迷っているのは、俺に残された最後の理性故であろうか。


「はぁ… プロデューサー…」


蒸気した表情で俺を見つめる肇の瞳に視線を合わせる。

きっと俺の顔はこの雰囲気の中ではありえない程冷えたものだろう。

それでも俺は肇を見つめながら、内心では煮えたぎる衝動に確実に焼かれている。

肇が云々で無く、単純に俺の性欲の所存か。

若干十六歳。それでも、女の顔をして俺を見遣る肇に、俺は興奮を抑えきれない。

一度の射精で芯の入りきらなかった俺の中心部に熱が集まるのを確かに感じた。

その感覚から一間も置くことは無かった。須臾に臨戦体制に入る。疲れは一抹もない。




もう迷いは無かった。そもそも何を迷う事があるのだろうか。

目の前には俺を呼び、俺を求め、俺を待つ女が居る。

それだけで十分過ぎる程の理由付が完了している。

自身が何であるかなど、余りにも下らない誰何は性的欲求の中に埋没する。

俺はそれにすら気が付かなかった。ただ目の前の肇が欲しかったんだ。


怒張した俺の中心から透明で粘度の高い液体が滴り落ちる。

仕留めた獲物を捕食する獰猛な獣の涎を彷彿とさせた。

………俺は、肇を貪る野獣そのものなんだ。



肇の中心に俺の中心をそっと宛がう。

残された人間らしさを振り絞った、最大限の優しさを持った行動だった。

本当は相手を顧みず俺の思うがまま、壊してしまう程に貪りたかった。

肇を思いやって… と言えば、聞こえは良いだろうか。でも真意は別の所にある。

肇を失うという恐怖と、それに戦慄する俺の臆病故なんだ。


「きて、ください…!」

「………肇…!」


幾重にも行ってきた事だ。

見た目には本当に入るのかという疑問さえ生じるが、すんなりと吸い込まれる様に、それが当たり前である様に、俺は肇の最深部を目指す。



寝て、食べて、持ち帰った仕事をするだけの、何の飾り気もないこの空間。

八畳一間にキッチンと三点ユニットバス。物が無く見た目にも淋しい、それでいて押し迫ってくる様な圧迫感さえある。

………だけど、こんな狭い部屋でも俺達が一つになるには十分だった。

俺が動くのに合わせて、ベッドからギシギシと軋んだ音がする。

行為に没頭して、迸る欲求に身を任せながらも、どこか冷ややかな俺の頭は確かにその音を感じ取っていた。


「あっ… プロデューサー… いいです………っ」


ふと、俺に抱かれて身を攀じる肇を見る。目の前に… それこそ、繋がっていたと言うのに、俺は今更になってその事実に直面した様な気がした。

俺の腰はまるでそこだけ独立した生き物みたいに、激しくも単調な動きを繰り返す。



肇に軽く口付をする。

所謂、バードキス。

何故そうしたのか俺にはわからなかった。

激しい行為に似合わない、らしくない行動だった。

それでも肇はそれに応じた。でも、それ以上の事はしなかった。

肇の瞳の中、俺の姿は儚げに揺れていた。潤んだ肇の瞳が何を示しているのか、愚鈍な俺には到底理解の及ばない事だろうか。

相も変わらず俺の意思とは反するように、打ち付ける腰の運動は収まらない。


「肇…」


俺はただ目の前の女の名を呟いて抱きしめた。情けない声だった。肇を貪っているだけの男のどこからこんな声が出せると言うのか。

肇は光悦とした表情をして、俺を抱き返してくれた。

ただ、顔を寄せつつ、一瞬だけ見せた消え入りそうで寂しげな表情を俺は見逃さなかった。


………俺達は同じ過ちを繰り返す。



___
__
_


暗闇に慣らされた瞳を焼く光を、初めはただ眩しいと思った。

薄暗い部屋の中に朝日が射す。うっとおしいと言わんばかりに目を擦りながら身を起こす。


「おはようございます」


肇は既に起きていた。昨夜の様子からは考えられない程快活としていた。

…つまり、誰もが知るアイドル、藤原肇に戻っていた。


「おはよう」


俺はそれだけを言った。

肇の瞳の下、涙の跡については言及しなかった。




肇は少し腫れぼったい目をしていた。それに、うっすらと隈が出来ている。

眠りについたのは何時頃の事だったのかはわからない。もしかしたら俺にも隈があるかもしれない。

…単に、肇は寝ていないのだろうか。

俺の腕の中では眠れなかったという事か。


「朝ご飯作ろうと思ったんですけど、何もなくて…」


横目で冷蔵庫を恨めしそうに見ながら、肇はさも申し訳ないように言った。


「…いつもの事だろうに」

「でも、コーヒーがありましたから。お湯を沸かしています」


飲みますよね? と、語りかける肇に頷くだけで返事をする。

俺に対して気を遣っているみたいな態度の肇に、胸の奥がチクリと痛んだ。


何の変化もしない。今まで通りを繰り返す。

冷蔵庫に食材がない事。二人揃っての朝は肇がコーヒーを煎れてくれる事。

………肇が俺に気を遣う事。肇の表情に悲しみの残滓がある事。

砂糖もミルクも入れず、息を吹きかけて冷ますこともせず、俺はそのままコーヒーを流し込んだ。


「仕事に行ってくるから………」

「私も一度寮に戻りますね。一緒に出社なんてしたら何を言われるか…」


不安気に言った肇であったが、その奥には確かにその状況を待ち望んでいると思われる表情が見て取れた。

隠された関係を公にして心の重圧を取り払いたいのか。はたまた、皆に誇示したいのか俺にはわからない。

間抜けな俺にはわからない事が多すぎた。わからないという感情に慣れて、その言葉で全てを片付けんとする甘ささえも感じる。


「じゃあ、行ってくるから。鍵は持ってるよな?」

「持ってます」


鍵をポケットから取り出して示しながら、肇は俺に微笑みかけた。

大事なものなのに落としたらどうするんだとか、そういう事は言わなかった。

肌身離さず持ち歩いているのは、きっと大事なものだからこそなんだ。


「また後で。仕事中はいつも通りに頼むよ」

「わかってます。行ってらっしゃい、プロデューサー」

「………行ってきます」


肇の下顎に優しく触れて、そっと顔を引き寄せる。

肇はただ瞳を閉じてそれに応じた。触れるか触れないか、その位の軽いキスを交わす。




「愛してます、プロデューサー…」

「…俺も。肇の事好きだよ」


都合のいい言葉を吐き出す舌先が痺れる様な感覚だった。

熱いコーヒーを流し込んだからではない。それは口内よりも心の中に染み入った。

ボタンを掛け違えたシャツみたいに、俺達はちぐはぐな別れの挨拶を交わす。

靴を履く俺の背中を肇が見つめ続けるのを感じた。そんな姿を見ていて一体何が面白いと言うのか。

踵の部分を踏み潰して、俺は肇の視線から逃げ出す様に玄関を出た。


___


早朝の街角は自分の居るべき場所へと向かう人々の群れで覆い尽くされている。

群衆をかき分け、見下ろす様な高層ビルに窮屈さを感じながら、俺はたった一つの思考に没頭していた。


「肇…」


足を止めて彼女の名前を呟く。歩みを急ぐ人並みを著しく妨害してしまい、喧騒に飲まれた町中でも俺に対する舌打ちの音ははっきりと聞こえた。

狭苦しく立ち並ぶビルの隙間に滑り込む。

ゴミを漁っていた真黒なカラスが俺の姿を確認して飛び去っていくのを見た。

まるで、肇の前から逃げ出したさっきと俺と同じだと、そう思った。



圧し掛かってくるような倦怠感が体中を支配している。

眠るのが遅かったからとか、肇との夜伽が理由ではない。

これは心的な疲労故なのだとそう思った。

春先の心地よい気候の中、俺の体にしっとりとした汗が滴る。


「………」


額に滲んだ汗を手で拭いながら、俺はなんとなく空を見上げた。その行動自体に意味は無かった。

どこまでも澄渡る青空は何処か非現実的だと思う。肇の事を思う度に胸に押し広がる鈍痛だけが、今俺にあるべき現実だった。



俺はプロデューサーで、肇はアイドルだ。

それでも俺達の関係はその一言だけで収まるものではない。

肇が俺の事を好きだと告げたあの日から、俺達の関係は目に見えて変わっていった。

立場上許されることではない。それは肇を信じる者と、俺を信じて肇を預けてくれた者たちへの背信行為だった。

不誠実だとか、そんな事はわかっている。

それでも俺は肇が好きだったし、肇だって俺が好きだった。

限られた狭い世界の中で、俺たちが本気で向き合う方法なんてたかが知れていたんだ。


………その結果がこれだ。俺達の間には肉欲だけが横たわっている。



最初の一回までの道程は長かった。

好きになった人だとは言えど、十代半ばの女の子をどう扱えばいいのかなんて俺にはわからなかったし、肇も俺との距離を測りあぐねていたと思う。

それほどまでに俺達は愚かで、だけど純粋だった。


俺の為、痛い筈なのに痩せ我慢して涙をこらえる肇の表情を、俺は未だ忘れることは無い。

『プロデューサーと一つになれたことが嬉しいから』と、ボロボロの泣き顔のまま彼女らしい笑みを向けてくれた事を忘れるはずがない。それは、刻印の様に俺の頭に刻まれている。

それでも、俺達は幾重にも交わっていくにつれて、その純粋な気持ちは薄らいでいったような気がする。

俺はそのたびに倫理と葛藤を繰り広げ、そのたびに欲求に屈してきた。





………今の俺は、身体で繋ぎとめられている。

酷い話だが、率直に言うとこれだ。俺から行為を誘う事はしない。肇からというスタンスは崩さない。

俺は肇自身と言うよりも、肇の体を求めているのだろうか。

だけど、肇は俺を伽へと誘う。肇がそれをわかっているのかは別にして、俺を身体で繋ぎとめようとしている事もまた事実だと思った。

俺は誘われて、その誘いに乗るだけ。そんな言い訳を繰り返しながら、今日ここまで二人で生きてきた。


矮小な俺の自尊心が生み出した、卑劣で腐った言い訳に過ぎなかった。



それでも肇を思っているという自負はあった。

このままでいいわけがない事も理解している。

肇を俺から解き放つって事を考えたことは勿論ある。

…だけど、俺の下から肇が去っていくという事を夢想するたび、経験したことのない悪寒に見舞われる。

俺が肇の事、好きだから。 …俺の物だから捨てたくないのか。

判別は付けられなかった。俺の知らない感情だった。


よくある話なのかもしれない。

俺達は恋に恋して、誰かを愛する自分に酔っているだけなのか。

その根底にあるのは、自身が危ぶまれたときに相手を顧みず捨てられるか。結局、誰が一番可愛いのかという感情。

自分と、自分の為の相手と、天秤の対として比べるに値しないのか。




そう、俺“達”は。

肇だってそうかもしれない。

俺の為に身体を差し出す日々に疑問が無い訳がない。そこにあるのは相手に奉仕して己を滅する、究極の自己陶酔の結晶だろうか。

その思考に行き当たった時、俺は単純にわからないと思った。いつもの癖だ。面倒な思考はこれで解決してしまう。

肇の胸中がわからない。わかったとして、俺はどうしたい?

肇が俺の事を心から好きで、何か思惑の上で今を生きているとしたら。

それとも………




どんな答えであろうと、肇は俺と居るべきではないのだろうか。

それに、俺自身の思いも先も未だ見つかっていない。心中に萌芽した感情の名を、俺は付けあぐねている。

俺はどうしたい? 肇とどうなりたい?


腕時計を見る。時間はそれほど経っていない。通りを行き交う人々も途切れる様子を見せない。

痛いほどの青空の下、俺はただ肇と話がしたいと、それだけを思った。

何をどう切り出すか、何について話すと言うのか、まだ見つかっていない。

それでも、このまま過ちを重ねていく日々から脱したかった。

………それが、俺の為か、肇の為か、それはわからない。




いつの間にか取り落としていた鞄を拾う。

砂埃を軽く払って、気持ちを入れ替える。こんな辛気臭い顔で事務所に出向くわけにはいかない。

皆に心配されるし、何より、昼からは肇も来るだろうから。


「…よし」


一人気合を入れる。今から皆の優しいプロデューサーに戻らなければならない。

肇と向き合うのはその後だ。俺の立場なら、適当に理由をつけて夜会う事も出来る。

人混みに向かって歩みを進める。ここを歩くのは辟易としてあまり気乗りしないがどうにもできない。


まだ尚早な桜の花弁が、ひらりと一枚舞っていた事には、その時気付くことは無かった。



___
__
_


「こんにちは」


昼過ぎ、肇はいつもと変わらない様子で事務所に現れた。

その顔に、今朝の名残は微塵も感じられない。


「………大丈夫か?」


肇の近くに何気なく歩み寄り、小声で問いかける。

それに対し肇はにっこりと微笑んだだけだった。


確かに、可笑しいかもしれない。俺一人で勝手に葛藤していただけだし、肇がそれを知る由は無い。

それなのにいきなり何に対してか心配されたところで、微笑んで誤魔化すか聞き返すくらいの事しかできないだろう。



「えっと… 今日の仕事なんだけど」


俺は誤魔化すべく話題を一気に切り替える。俺と肇の間でのやり取りでしかないのに、誤魔化す必要も、慌てる必要も無いっていうのに。

ただ、俺が感傷的な気分になっていた事を、肇に知られたくなかったのかもしれない。


「プロデューサー…」


彷徨わせていた視線を慌てて肇へと向ける。


「なんだ、肇。 ………!」


声に出さず唇だけで、大丈夫です と、肇は告げた。

俺は驚きを隠せなかった。肇が俺を見透かしていたかの様に感じたから。


「それで、今日の予定は…?」

「…え? ああ、えっとだな」


肇は変わらず俺に微笑みかけていた。

まるでその表情は、俺の全てを掌握している余裕の様にも感じられた。


「こんなところかな。夜遅くなるようなら送っていくから」

「でしたら、送ってもらってもいいでしょうか。明るくなってきたとはいえ、一人では不安ですから…」

「ああ、わかったよ。行きはタクシーを手配してあるから、終わるころには迎えに行く」

「よろしくお願いします」


肇は俺にぺこりとお辞儀をしながらその場から去った。

肇の言葉からも、遠ざかる背中からも俺は何も読み取ることは出来なかった。

だけど、俺は確かめる術を持っている。俺達は獣じゃなく人間だ。言葉というものを持っている。

俺なんかじゃ想像も出来ないような失敗と苦労を経て先人たちが編み出した高尚な手段に、酷く小さな気苦労と葛藤を携える今の俺は縋る事しか出来ない。



窓を大きく開け放ち、外の様子を見遣る。

心地のいい風が俺の頬をそっと撫でる。事務所の中にも心地よい空気を送りこんでいた。

まるで、俺の心配なんてありえないと、そう励まされているように感じる。

何の根拠もない。ただ勝手にそう思っただけだ。

それでも、肇と少し話が出来た事、夜会う約束を取り付けられた事。 

…その約束が肇からだった事に、俺の胸中を占領していた言い知れない底冷えするような不安は少しだけ熱を帯びて、その名を改めたように感じた。

肇と本音で向き合えると、そう思った。


「………タクシー来たみたいだぞ」


外へ目を向けたまま、肇を見ずにそう言った。





俺の背中に肇は何を感じるだろうか。

哀愁か、寂寥か… それとも、何だろうか。

俺の足りない頭の数少ない語彙では言葉が継いで出てこない。


だけど俺は、肇の背中から負の感情を読み取った事はない。

その背中をいつも見ていた。そこには俺の知らない感情があると思った。

ただ、知りたかった。俺が肇の事を考えるたび、締め付けられるような痛みと、仄かな温もりを帯びる気持ちの姿を。

今夜、肇とならその答えが出せると、そう信じている。




___
__
_


透き通った星空が広がっていた。フロントガラス越しにでも、その美しさは霞んでいないように思えた。

この時期見える星座で俺が知っているものと言えば、オリオン座くらいなものだろうか。

この星座の誕生までにも様々な物語があると聞いたことがある。

オリオンとアルテミス。許されざる関係の中で二人は何を思い、何を感じたのだろうか。


俺と肇と、同じではないだろうか。

俺なんかと一緒にされるオリオンからしてみれば迷惑極まりない事であろうけど、肇に例えられたアルテミスはきっと誇っていい事なんだ。

………俺達は同じ道を辿るのであろうか。俺を射るのは肇自身か。


絶対的に違うのは、その権利を肇が掌握しているって事だ。

周りの干渉ではない。これからを決めるのは俺達自身だ。


「寒くないか?」


助手席に座る肇に声を掛ける。肇はただ大丈夫だと言った。

いつか聞いた台詞だった。それでも、言葉に込められた意味の大きさは全く違うものだった。

それっきり会話は無かった。

話す事が無い訳ではない。俺は今夜、肇と向き合いたいと思っていたから。

でも、会話のない空間の息苦しさは無かった。寧ろ居心地の良ささえをも感じる。

肇もそうだろうか。もしそうだとしたら嬉しい。


………嬉しいのか。自身の思考であったにも拘らず、俺は不思議だった。

ただ、肇と同じ気持ちを共有できたという事が嬉しかった。


またお前…なのか?


「…天気も良いですし、渋滞もしていませんね」


おもむろに肇が口を開く。車内の静寂は破られた。


「星が綺麗…」


肇は俺に言うという風でも無く、独り言のように呟いた。


「今日は門限に間に合いそうだ。良かったな」


それでも俺は返事をした。思えば皮肉のみたいな返答だったが、その矛先は俺自身に向けられた様に感じる。


「良かった、ですか………」


そう言って肇は左を向いた。月明かりと街灯に照らされた、いつかとは違う風景を見ていると思った。


「プロデューサー、今夜は」

「なあ、肇」


肇はそっぽを向いたまま何か言いかける。その言葉の先を言わせたくなかった。

果たして切り出す瞬間が今で正しかったのかはわからない。それでも、今しかないと俺は思ったから。


>>45 俺だよ俺俺


「なんですか…?」


肇は変わらずそっぽを向いたまま、俺の話題提議に疑問を奏した。

表情は窺えないが、言葉に込められた意味は疑問というより不安であったと思う。


「お前はどうして俺の為に尽くそうとするんだ」


率直な質問だった。それは過程を飛ばし、愚直ささえ見え隠れする。

これでは何を聞いているかわかったもんじゃないかもしれない。

でも、肇なら理解できると思った。俺の葛藤を見抜いた肇なら、と。

俺の頭では気の利いた言葉が出てこないというのも、理由の一つではあるけれど。




「………」

「………何か言ってくれよ、肇」


質問の意味がわからなかったのだろうか。いや、そんな筈はない。

そうだとしたら聞き返してくるだろう。

変わらず俺に顔を向ける事はしないが、肇は返答を迷っているのだと思った。


「………」


これ以上、追求するのも変かと思って、俺もつられて口を閉ざした。

車内には再び静寂が訪れるが、そこには先程までの居心地の良さは無かった。

だが、耐えるしかないと思った。今、俺が話題を変えて誤魔化しても、何の解決にも至らないからだ。

幸いまだ寮まで距離がある。黙って遠回りしてもいい。

酷な様だけど、その間にも肇は答えをくれると思った。

肇の為にも… 俺の為にも、肇の口から言葉が欲しかった。




人通りの少ない路地を縫うように進む。

思考の海に没した肇を表している様だった。それに、肇に時間を与えたかった。

俺の考えの及ばないような、様々な錯綜した思いが肇を駆け巡っているのだろうか。

願わくばその思考が、今までと同じ事の繰り返しを招いてしまう返答でない事を俺は祈っている。


………全ての責任を肇に擦り付けている様で、自身に辟易とする。

だけど、こればかりは譲れない思いがあった。



「私は、ですね」


ちょうど赤信号に捕まった時、肇が不意に口を開いた。まるできっかけを謀っていたみたいだった。

悟られない様に、肇を横目で見る。肇は真直ぐ前を向いていた。


「………なんだ?」

「…笑わないで聞いてくれますか?」

「肇が出した答えだったら俺はなんだって大丈夫だ」


そう、大丈夫だ。お前の言葉であればなんだって構わない。

どんな結果であろうと甘んじて受け入れ、それを最良の選択にするのがお前より長く生きてきた俺の役目だから。


「プロデューサー… あなたに喜んでほしかったから、です」




長い時間を要した割には、随分と単純な返答を賜った。

俺は一瞬背中を冷たいものが流れた。それは、先日俺が思考したものの一端である様に思ったからだ。


「それが身体を差し出す事であってもなんです」

「肇………」

「それと同時に、私も嬉しい事がありましたから」

「…どういう事だ」


わからなかった。私を滅して俺に献身する毎日の中で、肇はいったい何に喜びを見出したと言うのか。


「あなたが、私の事を真剣に考えてくれた事です」

「なっ…」




何か言おうと思ったが、何も言葉が見つからなかった。肇は俺の事を見抜いていた。


「私と居てもいつもどこか上の空で… 本当は無理してるのではないかと思っていたんです」

「そんなことは…」


無い。そう言い切れなかった自分を酷く恥ずかしいものに感じた。

肇は俺の全ての心中を見抜いていたと言うのか。

その上で俺の為に… 肇自身の為にも、身を差し出していたと言うのか。


「そして、あなたは私に真剣に向き合ってくれました」

「………肇には敵わないな」



「それに、どういう形であれ求められると言うのは悪い気がしませんから」


いつの間にか俺を見つめていた肇は、そう言って微笑んだ。

今まで短くない時間を肇と過ごしてきたけど、本当に心から笑っている顔を、俺は初めて見たと思った。

肇は俺にずっと真剣に向き合ってくれていた。

俺もそれに応えなければならない。

………いや、俺が肇に向き合いたいと思った。


きっかけは肇かも知れない。それでも、今俺はそう思っている。

胸の中に巣くっていた、肇に対する温かい感情と、締め付ける様な痛み。

肇が俺を、俺が肇を… 互いが互いを思いやる感情の名を、俺はずっと昔から知っていた事に気付かされる。



「なぁ肇、改めて聞いて欲しい事があるんだ___」



俺は今夜見つけた恋に落ちる。

今よりも光に満ちた明日を探して。



終わり。コメント等ありがとうございました! 

藤原肇(16)
http://i.imgur.com/QK5wjYE.jpg
http://i.imgur.com/DCpirHZ.jpg

>>57 画像ありあとうございます



相変わらずPが屑っぽいけど、ハッピーエンドでよかった

>>61 いろいろあって改心しました。Pが屑なのは俺が屑だから仕方ない

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