モバP「大好きだから、――くれ」(77)

 俺はアイドルのプロデューサーだ。

 そして、変態で異常者だ。
 自覚はある。でもどうしようもない。

 ……もしそれを伝えたらアイツはどんな顔をするだろう?

 軽蔑するだろうか。それでも受け入れてくれるだろうか。
 俺はアイツが好きだ。信愛の意味でも、異性としても、大好きだ。

 当然、許されないことだ。
 わかっている。でも、だからこそなおさら夢中になってしまう。

 あの、小さくて、臆病で、かわいいアイドルに。

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続けたまえ

 時計に目をやると、そろそろアイツが着く時間だと気付いた。
 迎える準備をするために事務作業をする手を止めて腰を上げる。

 給湯室へと向かい、インスタントのコーヒーとココアをいれると適当に混ぜ合わせると、
 とても甘い、あたたかなココアの茶色が苦くて黒いコーヒーへと溶け込んでいく。

 よく混ぜて完全に色が溶け合い、黒へと逆戻りしたコーヒーをもって定位置へと戻る。
 そこにはすでに俺の担当アイドルが待っていた。

「なんだ、コーヒーでも入れていたんですか?」

 薄く紫がかったショートヘア。ピンと外はねしている様子がまるで本人の気質を表しているようだ。
 いつものようにかわいらしく、いつものように自信満々に彼女はそこに立っていた。

「まったく、お出迎えぐらいきちんとしてくださいよ!」

 輿水幸子。俺の可愛いアイドル。

輿水幸子(14)
ttp://i.imgur.com/RKLgNXR.jpg

 すまないな、と詫びると「本当にあなたはダメなんだから」と不満を漏らす。

 別に、本気で怒っているわけではないだろう。
 いつもなら事務所に入ってきてすぐに声をかけてやっていたのが、今回は少しタイミングがズレてしまったのが気に入らないのだ。

 そんな些細なこと、と思うかもしれない。
 だけど彼女にはそれがとても大きなことなのだ。

 自分の思い通りにならないことが嫌いで、世界は全部自分を肯定していて。
 それこそ、自分を中心に世界が回っていると思っている。ただ、それだけのことなのだ。

 そんな生意気な彼女が愛おしい。可愛らしくて、可憐で、そして――

「プロデューサーさん? ボクの話を聞いてますか?」

 あぁ、いけない。もちろん、きちんと聞いている。
 幸子の声はたとえため息でも聞き逃したくないとさえ思っている。

 だけれど、その意味を脳が理解するかどうかは別問題だ。
 必死にフォローをして、どうにか機嫌を直してもらえたようだ。

「ふん、まぁいいですけれど……それで、今日のお仕事はなんですか?」

 どうやら幸子が早めに来た分の貯金は、幸子の声を聴いているうちに尽きてしまったらしい。
 時計をみるとちょうどいい頃合いになっていて、手元のカフェモカは冷たくなってしまっていた。

 すすってみると、苦さも甘さも勝手な自己主張をしていてまったく落ち着きのない味になってしまっている。
 適当に混ぜてしまったせいだろうか。熱の残っているうちなら、ごまかせるのにな……なんてことを考えつつ今日の予定をおさらいした。

「ふむふむ……ふふん。やっぱりお仕事も少しずつ増えてきているみたいですね?」

 当然、ボクがカワイイからですけれど。そう得意げに幸子がいう。
 あぁ、本当に可愛らしい。確かに仕事は増え、少しずつだが確実に彼女に魅了されたファンも出てきている。

 とても喜ばしいことだと思う。幸子にとっても、嬉しいことのはずだ。
 ……あぁ、いけない。そろそろ事務所を出ないと。

 幸子のことを見ているだけで時間はあっという間にすぎてしまう。
 先に行くよう促して鍵を渡すと、飲めたものじゃないブレンドのカフェモカを流しにぶちまけた。

「ほらほら、さっさと行きますよ! ボクが乗っているんですからきちんと安全運転してくださいね?」

 車に乗ると同時に急ぐよう催促される。
 もちろん、と答えると、幸子は満足気に深くシートへともたれかかった。

「ボクのために働けるなんて、プロデューサーさんは幸せですよね」

 あぁ、本当にその通りだ。
 だが、わざと聞こえないふりをして運転を続けた。

 肯定してしまえば、歯止めが利きそうにないからだ。

 聞こえなかったと思ったのか、幸子がつまらなそうに窓の外を見つめはじめる。
 テレビ局につくまではそれ以上の会話はなく、ボロが出ることはなかった。


――――

――

「ふふん、見ましたか? どんなお仕事だってボクにとっては簡単なことなんですよ!」

 撮影を終えて、疲れているはずなのにその様子は一切見せることなく。
 俺の元へと戻ってきた幸子の第一声はそれだった。

 他のアイドルや出演者に負けることなく、その他大勢のゲストとしての出演ながら確かな存在感をアピールする。
 難しいことだが、それを見事にこなしていたのだ。

 おそらく、今度はもっと大きなお仕事がくるだろう。
 あぁ、なんて素晴らしいんだろう。偉いぞ、なんて褒めてやると幸子はとても嬉しそうに笑った。

 ――可愛いな。

 それ以外の感想も感情も出てこない。
 今、この瞬間はとても満たされていると実感した。

「プロデューサーさん、きちんとボクのことを見ててくれなきゃだめですよ?」

 少しだけ妖しく笑うと、挑発的に幸子が言い放った。
 あぁ、もちろんだとも。言われなくても――

 今日の仕事はもう終わり、あとは幸子を送るだけ。
 あぁ、離れてしまうのが惜しい。寂しい。恋しい。

「……プロデューサーさん? どうしたんですか?」

 幸子に顔を覗き込まれてはっとする。
 なんてことだ、また余計なことを考えてしまっていた。

 すまない、少し考え事をしていたから。
 そう答えると、幸子はつまらなさそうに「ふぅん」と言った。

「仕方ありませんね。ぼーっとしていてケガでもされたら大変ですし、ボクの手を握るのを許可してあげてもいいですよ?」

 ……少し思考停止してしまう。

 俺が、幸子の手を握る? なぜ、そんなことを許可してくれるんだ?

「……なんですか? ほら、いきますよ」

 まだ固まった思考回路が復活していないのに幸子に手を握られる。
 とても小さくて、少し冷たくて、可愛らしい手。

 それが、俺の手を握っている。
 ……たまらなく嬉しいのに、思わず振りほどいてしまった。

 「あっ」という小さな声は、俺が出したのか、幸子が出したのかわからない。
 だけど、振りほどいてしまった時の幸子の顔はとても悲しそうに見えた。

 しかしそれも一瞬のことで、今度はまくしたてるように幸子が怒りをあらわにする。

「なんですか! ぼーっとしていたから心配してあげたっていうのにあなたって人は!」

 だいたいいつもいつも。そうして、日常での不満を次々に指摘される。
 いつものことだが、いつもよりもずっと険のある言い方だ。

 あぁ。なんて愚かなことをしたんだろう。
 後悔してももう遅い。帰りの車の中では一言も言葉を交わすことはなかった。

 それから数日、幸子とはまともな会話ができなかった。
 幸子が怒っていたというよりも、俺が怖くなってしまっただけだ。

 仕事の確認、送り迎え。幸子はきちんと仕事をこなして、スタッフにも褒められる。
 そこで俺は「よかったよ」の一言も言えずに、運転手として待っている。

「……つまらないです」

 ぽつりと、帰りの車の後部座席で幸子が言う。

「あなたはボクのおもちゃなんだから、ちゃんとボクを見てくれなきゃダメなんですよ?」

 収録で譲ってもらった小さなクマのぬいぐるみに向かって話を続ける。
 バックミラー越しに目が合うが、すぐにまた視線をぬいぐるみへと戻した。

「謝るなら許してあげなくもありませんけど」

 幸子は、とてもとても小さな声でそう言った。

 すまない、と素直な言葉が出た。
 バックミラー越しに映る幸子は、窓の外へと視線を移して聞く気はないようなそぶりをしている。

 当たり前のことだ。あぁ、でもそんな姿も愛おしい。

 あまりそういうことに慣れていなくて。そう続けると、少しだけ視線をこちらによこしてくれる。

「ふぅん……女の子の扱いも知らないんですか? 可哀想な人ですね」

 心底、軽蔑しているのだろう。
 実際にその通りなので否定ができるはずもなくわざとらしい笑い声で返すしかなかった。

 しばらく、そのまま無言の状態が続く。


「……ねぇ、プロデューサーさん?」

 いくつかの信号を超えたころ。いつものような声の調子で、幸子が呼びかけてきた。

「このボクが手を握ってあげたのに振り払うなんて信じられません」

 まったくもってその通りだ。
 だけど、幸せすぎたんだ。幸子にとってはただの気まぐれかもしれないけれど。

 なんて、言えるはずはない。
 ただただ謝罪の言葉を並べることしかできなかった。

「……次はもうしないでくださいね」

 幸子の家の前にに着いた時、そういったのが聞こえた。。

 ……次は、もう?

 その意味を聞き返す前に、幸子は車を降りてしまって家の中へと駆け込んでいく。
 ……もう一度、チャンスをくれるというのだろうか?

「おはようございます、プロデューサーさん。相変わらずさえない顔をしていますね」

 翌日、何事もなかったかのように幸子が事務所へやってきた。
 ……いや、昨日までは朝の挨拶もなぁなぁでいたから割と久しぶりな姿かもしれない。

「さて、今日のボクの予定はなんですか? 聞いてあげますよ」

 小さな手帳を取り出して幸子が言う。
 ひとつひとつを確認していき、問題ないことを確かめると事務所を出る時間だ。

「……プロデューサーさん?」

 鍵を幸子に渡そうとした手をそのまま掴まれる。
 この前と同じ、小さくて少し冷たい手。

「ほら、いきますよ。今度は放さないようにしなきゃダメですからね?」

 子供を諭すような言い方をすると、くすりと笑う。
 あぁ、やはり幸子は優しくて可愛い。

 その日の仕事は、見違えるようにうまくいった。

 というよりも、本来のポテンシャルを引き出せたというのが正しいのだろうか。
 幸子は努力家だ。どんな場面でも平気な顔をして、無茶なことにもこたえようとする。

 うろたえる姿も可愛らしいが、それよりもキリっとした顔でしっかりと決める幸子もまた可愛い。

 今回はこれまでの積み重ねが生きたようで、本人も満足した様子で帰ってきた。

「ふふん、どうですか! これがボクの実力ですよ!」

 少し興奮気味に、だけど当然のように胸を張る。
 小さな体で精一杯の自己主張をする幸子は、とてもとても可愛らしい。

 よく頑張った、流石だ、なんて言葉も「当然です」なんて言われてしまう。
 だけど。ふふん、と鼻を鳴らす姿はとてもとても誇らしげに見えた。

 帰りの車までの道も、幸子は俺と手をつないでくれた。
 その握りしめたらつぶれてしまいそうな小さな手にそっと手を重ねる。

 あぁ、やっぱり幸子は可愛い。

 許されるなら、このまま――

「さぁ、帰りますよ? 何をぼーっとしてるんですか、まったく」

 ……そうだ。ちゃんと家まで送らないと。
 俺はまたぼーっとしていたらしく、幸子が不満を鳴らす。

 だが手を放されることはなく、ねぇねぇとねだるように軽く腕をひかれただけだ。
 ……可愛いなぁ。

とりあえず今回分はここまで

ウサミン星から電波が飛んできた気がした
地の文の練習を兼ねてなのでアドバイスがあったらください

あぁ、いきなり>>2で日本語がおかしい

×給湯室へと向かい、インスタントのコーヒーとココアをいれると適当に混ぜ合わせると

○給湯室へと向かい、インスタントのコーヒーとココアをいれて適当に混ぜ合わせると

 毎日の幸子の仕事は順調で、日に日に可愛くなっていく。
 ことあるごとに手を握りたがる癖がついたが、それもまた可愛い。

 カメラの前では決して疲れた顔を見せたりせずに、あの自信満々で不遜な態度を崩さない。
 だが俺の前でだけは、ほんの少しだけ弱みを見せてくれる。

 あぁ、なんて可愛いんだろう。

 自分の中の衝動を抑えながら、幸子を応援する。
 華やかなステージや、可愛らしい女の子らしさのアピールできるモデル。
 果てはドラマの子役まで。幸子の多才さと可愛らしさがどんどんと世の中へ広まっていく。

 ……とても喜ばしいことだと思った。
 幸子自身も喜んでいるし、プロデューサーとしても名誉なことだ。

 だが、俺は――なんだかとてもつまらないと思ってしまった。

 なんて子供みたいな感情なんだろう。
 自分でも呆れてしまうが、どうしようもなくむなしい気分になってしまっている。

 幸子は今日も順調に仕事をこなしている。
 忙しくなっていく中で、ゆっくりとした時間は取れない。

 喜ばしいことだ。幸子が認められた証なんだから。
 本人は「当然だ」なんて答えるだろうか。俺だって、幸子の素質はこんなものじゃないと思っている。


 それでも、つまらない。



 もしも、このまま。
 帰りの車で幸子の家へ向かわずに連れ去ってしまったら。

 そんなよこしまな考えが頭をよぎるぐらいには。

「プロデューサーさん、何か考え事ですか?」

 幸子の声ではっと正気を取り戻す。
 なんて馬鹿なことを考えていたんだろうか。

 なんでもない、とごまかして笑うが幸子は納得していない様子だ。

「何か悩みでもあるんじゃないですか? ボクが相談に乗ってあげてもいいですよ?」

 態度は崩さず、ただ声の調子を少し柔らかくして幸子がいう。
 言えるはずのない黒いものを、思わずぶちまけたくなってしまう。

 今日の幸子もとても可愛かったから、思い出していたんだ。
 あながち嘘でもないのでそういうと、幸子はふふんと笑った。

 そのまま本日の反省会、なんていいながらよかったところを振り返る。
 上機嫌になった幸子はどうやら俺がよくない考えをしていたらしいことなど忘れてくれたようだ。

「おっと、もうつきましたね。お疲れ様でした」

 いくらバカなことを考えていたとはいえ、きちんと体は幸子を家に送り届ける道を覚えていたようだ。
 いつもどおり幸子を無事に帰すことができた。

 幸子は軽く礼を言うと、車を降りて家の中へ。
 俺はきちんとドアがしまるのを見届けてから車を出して事務所へと戻った。

 幸子の仕事が増えている以上、付き合いや営業、スケジューリングを考える必要は増えている。
 誰にも負けない、素晴らしいアイドルとして輝かせるためにはちゃんとした仕事をとってきてやらないと。

 そのためなら、自分の時間など惜しくない。

 ただ、その結果として幸子との時間が減っていくのがたまらなく悔しい。
 俺のアイドルが。俺の幸子が。遠くにいってしまうみたいで。

――

 幸子の人気はとどまるところを知らない。
 ついにはソロライブをかなり大きな会場でできることになったのだ。

 多くの人が幸子を見るために来て、幸子がそれに答える。

 アイドル冥利に尽きるだろう。本当に素晴らしいことだ。

 本番に向けての話し合いの中で幸子の衣装が届いていることを伝えると、ぜひ見せてくれとねだられる。

 もちろん、と答えて取り出してやるとそわそわしだしたので、
 着ている姿を見せてくれるように頼むとしかたないなんて言いながら着替えに向かった。

 サイズや着た感覚を確かめる必要もあったのでこれは業務だ。
 誰よりも早く、可愛い姿の幸子を見ることができる。俺の仕事だ。

 だから何もおかしなことはない。

 着替えが終わって、幸子が戻ってきた。
 小悪魔的な衣装はよくフィットしていて、露出度も少し高い。

 胸元はハート型に空いているし、両肩も完全に露出している。
 幸子の肌の白さと、背中に背負った堕天使の羽根の黒さのコントラストは美しい。
 ウエストは完全に露出していて、しまった腰や可愛らしいヘソも見えている。
 下はスカートタイプではあるが、丈がかなりミニなためか少し心もとなさそうだ。

「プロデューサーさん、サイズを間違えてませんか……? 少し、キツいんですけれど」

 幸子は頬を膨らませてそういった。
 確かに、これまでに比べればタイトだが一番の不満はスカートの長さだろう。
 その状態で歌ったり踊ったりすれば見えてしまうのは間違いない。

 そんなことは、もちろんさせない。
 丈についてはきちんと直すように依頼することにした。

「まぁ、ボクはカワイイだけじゃなくてセクシーでもあるってことですかね。やれやれ」

 チェックをいくつか入れていく中で幸子がいう。
 もう少し露出を抑えたほうがよさそうだ。そうでないと、我慢できない。

 ……そういえば、アクセサリもあるんだったな。
 良くない考えをごまかそうと、衣装のチェックポイントの項目を確認していくとそんな言葉が目に入った。

 今回のアクセサリはブレスレットと……チョーカー?

「どうしたんですか? 急に固まっちゃって」

 幸子が心配そうに見上げてくる。
 アクセサリのチェックを忘れていたんだ、と話すとしょうがないですね、なんてあきれられてしまった。

 衣装セットとは別の、アクセサリ入れの中に革ベルトのブレスレット。
 まるで革手錠のようだと思った。そして、同じく革でできているチョーカー。

 ……ハートがあしらわれた可愛らしいデザインながらも、少し大きめのそれを見たとき、頭の中に衝撃が走った。
 あぁ、似合いそうだ。とても、とても。

「うん? ……それって、ボクの衣装の一部……ですか?」

 俺が固まっているものだから、幸子が俺の持っているものがなんなのか確認しようと回り込んできた。
 ピンクの首輪を握りしめて固まっているのを見て、若干ひいているような気すらする。

 幸子としては、可愛いイメージとは直では結びつきづらいこれを衣装の一部と思えなかったのかもしれない。
 もしくは、既に悪戯な堕天使というイメージの衣装としては完結しているし、必要ないと思ったのかもしれない。

 だが、どちらにしろ。これはぜひ幸子に着けてみて欲しいと思った。
 本人は難色を示していたが、頼み込むと仕方がない、とため息をついた後に了承してくれた。

 幸子は優しいな、というと当然です、と返ってくる。
 いつも通りのやりとりだ。

「まぁ、たまにはいいでしょう……でも、これって自分で巻くんですか? ちょっと、見えづらいんですけれど」

 幸子が首元へチョーカーを持っていくとどうしたものかとこちらへ視線をやる。
 なるほど、確かに巻きなれていないのもあるのかもしれない。

 幸子は少し迷ったようなそぶりを見せたあと、こちらを見上げてこういった。

「あの、プロデューサーさん。巻いてもらってもいいですか?」

 いつものように強気ではなく、困ってしまったので助けてほしいという感情がこもったお願い。
 むしろ、望むところだ。いいとも、と答えると幸子が「まぁ、ボクの助けになれるなんて光栄なことですよね」なんてことを言った。

「それじゃあ、お願いします」

 幸子があちらを向く。
 きれいなうなじが目の前にある。

 手に握っているのは、革のベルト。

 
 ……あぁ、ダメだ。何を考えているんだろう。

 頭をよぎったバカな考えを、一発自分の頬をはたくことで追い出した。

「プロデューサーさん、何やってるんですか?」

 いつまでたっても動かないどころか、自分の頬を叩きだしたので幸子が振り返る。
 すまない、綺麗なうなじに見とれてたんだ。そういうと、なるほど、なんて納得したようにうなずいた。

「まったく、ボクがカワイイからって見惚れっぱなしじゃ困りますよ?」

 クスクスと笑いながら幸子が言う。
 改めて俺に背中を向けて、幸子が「どうぞ」とうながした。

 ゆっくりと首に手を回す。
 細い首へとベルトが巻きつき、幸子の体が小さく震えた。

 冷たい、ということはないだろう。だが、あまり気持ちのいい感覚ではないとは思う。

 それでも幸子は声を漏らすこともなく、ただじっとしている。
 ベルトの端を金具へ通し、少しずつ絞めていく。

 ――まだ、ゆるい。

 少しずつ、幸子の首へとベルトが迫っていく。
 幸子は俺のことを信頼してくれているのか、少し下を向いた姿勢のまま動かない。

 幸子の総てを握っているような錯覚すら覚えて、ベルトを絞る手に力が入りそうになる。
 自分の舌をわざと強く噛み、バカな考えをごまかした。

 血の味が自分の唾液に混ざる。
 少し強すぎたのかもしれないが、ようやく頭がクリアになった。

 動いても邪魔にならないよう、少しだけ余裕をもって。
 ずれることのないように、きちんとチョーカーを固定した。

 終わったよ、と声をかけると幸子が顔を上げる。
 首へ手をあてると、二、三度撫でた。

「……どうですか?」

 なんだかとても官能的だ。
 そう答えることは流石に憚られたので、悪くない、とごまかした。

今回はここまで

>>32は「それって、ボクの衣装の一部」よりも「それもボクの衣装ですか?」のほうがよかったかもしれない
更新速度が遅くてごめんなさい。あと2回ぐらいの投下で終わるはず

「むぅ……悪くない、ですか」

 幸子が不平そうな顔をする。
 本人としてみれば、慣れないアクセサリを身に着けて悪くない程度の評価ではつまらないのだろう。

 そう思うだろうということも分かっていたが、それでも本音は口に出さない。
 いっそ、気に入らないと突っぱねてくれれば先方へも言い訳がつく。

 もともと企画段階ではなかったものなのだし、幸子だってそれほど気乗りしていないはずだ。


 ――そう、思っていたのだが。


「……まぁ、いいです。悪くない、ですもんね」

 もう一度首輪を撫でて、幸子はそう言った。

 どういう意味かと聞くと「このチョーカーとブレスレットでいいって言ってるんですよ」と平然と返される。
 なぜだ。気乗りしていないと思ったのに、理解できない。

「あぁ、でもその代わりになんですけれど」

 わざとらしく、今思いついたかのように幸子が言う。
 このトーンの時は、なにか考えやたくらみがあるというのはわかっている。

 何を言うのだろうか。幸子の頼みならば、俺にできることはなんだってすると決めている。
 しかし、本当は気乗りしていないものを受けてもいいというからにはよっぽどの条件があるはずだ。

 覚悟を決めて、いったいどんなことを言い出すのかと身構える。

「……このチョーカーを巻くのは、プロデューサーさんがやってください」

 ……ますますわからなくなってしまった。

 俺が、幸子のチョーカーを巻く?
 今やったように、また。ということだろうか。

 どうしてそんなことを。そう思っていると幸子が答えるように言葉を続けた。

「どうしてって顔していますね。別にきまぐれですよ、きまぐれ! こういう普段とイメージの違う衣装も似合ってしまうボクですから、きまぐれぐらい起こします」

 腑には落ちない。だけれど、幸子がそういうのならば、そうだと納得するべきなんだろう。

 だから。きまぐれならなんで俺なのかということを聞いてみた。
 間違って首を絞めてしまうかもしれないぞ。なんて冗談めかして。

「それは困りますけど。それでもプロデューサーさんがいいです」

 幸子が頬を膨らませて言う。
 見上げてくる瞳は真剣で、とても綺麗で、可愛らしい。

 だけれど、やはりわからない。
 ちゃんと自分で巻けるようになるか、他の人に任せればいいじゃないか。
 そう説得してみても、返ってきたのは半ば意地になっているようなトーンでの返事だった。

「プロデューサーさん以外が巻くのは絶対いやですからね。いいですか、絶対ですよ!」

 あぁ、こうなったらどうやっても譲ってはくれないだろう。
 なら、俺は幸子がこの衣装を着るたびに間違いを起こさないよう気を付けなければならない。

 できるだろうか。いや、やらなければならないんだ。
 幸子が、俺にそうしてほしいと願ってるんだから、答えなければ。

「プロデューサーさん、聞いてますか?」

 あぁ、もちろん。
 大丈夫だ。そこまでいうなら、絶対。

「……それならいいんですけれど」

 微妙に腑に落ちない様子で、幸子はそういった。

 それから、衣装の変更点についての依頼をしたが、
 チョーカーとブレスレットはそのまま手元に残したいと幸子がいうのでその通りにした。

 ――まだ、本番までには期間がある。だから、俺が巻くのに慣れないといけない。

 そういう論調だった。ならば自分で巻けるようになるほうがいいのでは、とは返せない。
 一度決めたことは必ず通す。それが幸子のぶれない芯であったし、強さだからだ。

 それを潰すことはないと思った。望みをかなえたいと思った。


 だから、幸子の首にチョーカーを巻くのは俺の仕事のひとつになった。


 暇なときや、楽屋での待ち時間。
 そんなふとした時に「練習しませんか」なんて声をかけられる。

 チョーカーは俺が持ち歩いていた。
 「どうぞ」とこちらに背を向けられるたびに、間違いを起こさないよう気を強く持つ。

 幸子の首にチョーカーを巻いて、しばらくそのまますごす。
 出番や、撮影の前には外す。

 幸子は、何を考えているんだろう。
 付き合いも短くないし、大抵のことはわかると思っていた。

 なのに、この行為の理由がわからない。

 俺にチョーカーを巻かせて、何がしたいんだろうか。
 背を向けて、少し下を向いている幸子の表情は読めない。

 巻いた後、2回撫でて似合うかどうか聞いてくる。
 いいと思う、とか、悪くない、なんて答えると「そうですか」とだけ返される。

 ……わからない。幸子は俺に何をしてほしいんだろうか?

 俺は、何をすればいいんだろうか。

 何をしてはいけないんだろうか。

 わからない。

 幸子のうなじはとても綺麗で、俺の貧弱な語彙では素晴らしさが伝えきれない。
 その首筋は細くて、ひょっとしたら片手でグイとつかめてしまえるんじゃないかと思えた。

 もちろんそんなことをするわけにはいかないのだけれど。
 それでもあまりにも無防備で、やってはいけないと思えば思うほどやってしまいたい衝動は強くなるばかりだ。

 この細い首に巻いたチョーカーを、思い切り絞ったら幸子はどうするだろう?
 食い込む革に、爪を立ててかきむしるだろうか。俺のことはどんな目で見るだろう。
 でも、それを見るには後ろから巻いているんじゃだめだな。

 チョーカーを捨てて、このまま両手で首を絞めたらどうするだろう。
 触れた時点で嫌がるだろうか。それとも、冗談だと思って絞められるまで気づかないだろうか。
 そして絞めあげて、軽い体を浮かせたら。必死に蹴ってきたりするんだろうか。
 それともなにもわからないまま気絶してしまうのだろうか。泣くのか、怒るのか、それとも、それとも――



 ――見てみたい、と思ってしまった。


 あぁ、ダメだ。このまま俺がそばにいれば、幸子を傷つけてしまう。
 それだけはだめだ。幸子は、誰よりも可愛くて、素敵なアイドルなんだ。

 どうしてこんなバカな考えを起こしたんだと自分の頬をぶん殴る。
 翌日、幸子に心配されてしまった。

「まったく、プロデューサーさんはドジなんですね」

 幸子があきれたようにため息をついた。
 頬のケガは思いっきり転んでぶつけた、ということにしておく。

「はい。気をつけなきゃダメですよ? もっとちゃんと注意してなきゃボクのカワイイ瞬間を見逃しちゃいますよ?」

 もちろん、いつもカワイイですけれどね。そう付け加えて幸子が笑う。
 あぁ、やっぱり幸子は可愛い。自然に頬が緩んでしまった。

「じゃあ、いきましょうかプロデューサーさん。ボクを巻き込んで転ぶなんて、しないでくださいね?」

 幸子が手を伸ばす。俺がその手を取る。
 椅子に座った俺が、立った幸子の手を取る姿はきっと女王に忠誠を誓う臣下のようだったと思う。

 その人のためにならすべてをなげうって、命すら捨てられる。
 そうありたいと心の底から思っている。だけど、俺はきっとこのままだと幸子のことを――


 ――そこまで考えて、頭を軽く振って考えをリセットした。
 あぁ、そんなことにはさせない。させてはいけないんだ。

 胸ポッケには、昨日書いた辞表が入っていた。

今回はここまで

短いうえに遅いけれど、今月中には完結予定なのでどうか

 その日の仕事は不思議とスムーズに済んでしまった。
 撮影も一発でオーケーをもらったし、インタビューも非常にいい感触だった。

 幸子は「どんなもんだ」と言いたげにこちらを見つめる。
 よくがんばったな、流石だ。そう褒めたあと、何か欲しいものがないか聞いてみる。

 いつもなら、頭をわしわしと撫でてやるのだけどそれはしない。
 不思議そうに幸子がこちらを見上げる。まるで機嫌をうかがっている犬みたいだと思った。

「欲しいものは……とくにありませんけれど。プロデューサーさん、どうしたんですか?」

 どうって、何がだ? 努めて冷静にそう返すと「普段なら」と口にしかけてやめた。
 あれは俺が勝手にやっていたことだし、幸子も表面上はあまり喜んでいなかったことだ。

 あの表面上の気質を表しているような外はねショートは、撫でつけてやるとさらさらと流れるように自在に形を変える。
 それを弄るのがたまらなく好きだった。幸子も、口で言うほど嫌がってるわけではなくむしろ喜んでいるようだった。

 間違っては、いなかったみたいだ。
 俺は幸子のことを考えることができている。

「まぁ、なんでもいいです。ところでプロデューサーさん、暇になっちゃいましたね」

 しばらくあれこれ考えていた様子だったが、ふぅと大きく息を吐いて幸子がこちらへ近づいてくる。
 これは「いつもの」の合図だろう。最後になるのだからせめて……いや、断るべきだ。

 そう思って口を開きかけたとき、いつもよりも近くまで来ていた幸子が止まる。
 普段ならこちらへ背を向けて、何も言わずに少しだけうつむく距離だ。

 なのに今はこちらを向いたまま、じっと俺のことを見つめている。
 いったいどういうことだろう? 疑問に思ってしまい、出かけていた言葉を飲み込んだ。

 幸子はまったく読めない表情のままこちらへと手を伸ばす。
 両手を俺の顔のところへやって、他へ視線が移らないようロックされてしまった。

「プロデューサーさん。今日は前から巻いてみませんか?」

 どうしてそんな提案をするのかわからない。
 だけどその瞳は真剣で、真面目なトーンだ。

 それを受けて俺の口から出たのは、どうして、ではなくて本当にいいのか、なんて言葉だった。
 幸子はなにも言わずに、少し微笑んでみせた。

 ……やはり可愛い。
 頬に触れる手は柔らかくて温かで、俺の体の中へ何かを送ってくれているようだ。

 その熱で自分の中の何かが溶け出しているのがわかる。
 ドロドロと、俺の中で渦巻くものが熱を帯びていく。

「……さぁ、どうぞ。プロデューサーさん」

 幸子が頬に触れていた手を放して、静かにおろした。
 普段のようにうつむくことはなく、こちらをまっすぐとした瞳が見つめている。

 幸子から伝わる熱が消えたのに、自分の中で生まれてしまった炎が消えない。
 ごおごおと、風の音が耳元で鳴っているような気がする。


 俺の手にはもう首輪が握られていた。

 幸子にみつめられたまま、その首へと手を伸ばす。

 いつもと違って幸子はうつむいていない。
 いつもと違って、次の予定が入っていない。

 止める理由も、止める人もいない。
 伸ばした手で首筋を撫でるとくすぐったそうに声を漏らした。

 ――この細い首に、俺はいつも首輪をつけていたのか。
 ペタペタと何度も何度も確かめるように触る。なんだか、これだけでとても充実した気分だ。

「んっ……なんですか……?」

 ……流石に触りすぎたのか幸子が抗議する。
 少し頬が赤らんでいる気がするのは気のせいではないと思う。

 本気で嫌がっているならもっとわかりやすく主張をするのが幸子だ。
 だからこれは恥ずかしがっているだけだろう。

 あぁ、やっぱり可愛いなぁ。

 だから何も言う必要はない、撫でる手を止める必要もない。
 自分から言い出したくせに初心な奴だ。

 ――あぁ、気持ちがいい。とても落ち着く。
 幸子は抗議をやめて身をゆだねてきている。

 自分の魅力をよくわかっていて、それを武器にできる幸子。
 小さな体で一生懸命仕事をこなしてくれる幸子。
 うまくいったら褒めてほしいとねだる幸子。
 失敗をしてしまって泣いてしまうこともある幸子。
 ちゃんと反省をして次に備えられる幸子。
 リベンジを成功させて喜びが隠しきれない幸子。
 カワイイ幸子。

 その幸子がここにいる。
 俺の手が幸子の命を握っている。

 ――このまま、ぎゅっとしたい。
 そんな乙女チックな考えが一瞬頭に浮かんで、フフ、と妙な笑いが出た。

「ん……どうしたんですか……?」

 首を撫でる手が止まっていたようで、幸子が目を開けて聞いてくる。
 なんでもないさ、幸子が可愛いからつい。そんな軽口がすらすらと出てきた。

「………ふふん、そうですか。なかなかわかってるじゃないですか」

 幸子の口元がにやけている。喜んでくれているみたいだ。

 さて、そろそろしっかりしないと。
 細い首へと革をあてる。幸子が「ひゃぅっ」と小さな悲鳴をあげた。
 突然だったので驚いたらしいが、そのままくるりと回して金具へ通す。

 正面からつける時の幸子の顔は、不思議とリラックスして見えた。
 前からずっと、こうだったのだろうか。わからない。

 でも、だとしたら……幸子にとっても楽しみだったりしたのだろうか。
 嬉しい。とてもうれしい。

 幸子も喜んでくれている。

 首輪をつけることは、悪いことじゃないんだろうか。
 きっとそうだ。幸子は間違ってない。

 なら、俺がダメだと思っていることもいいことなのだろうか。
 幸子がゆるしてくれるのなら、させてくれるのなら――

「プロデューサーさん……?」

 幸子の首にそえた手に力が入りそうになったが、声をかけられてはっとする。
 そうだ、勝手に首を絞めようだなんて何を考えているんだ俺は。

 手を放して幸子に向き合う。きょとんとした顔もまた可愛い。
 しばらくそのまま見つめあっていると、幸子がやきもきした様子で声をあげた。

「なんです、ボクのあまりのカワイさに見惚れでもしましたか?」


 ――あぁ、その通りだとも。

 俺は幸子の両肩をつかむ。
 幸子の体がびくっと震えたのが伝わってきた。

 強がりはいっても、幸子は小さくて臆病で可愛いアイドルだ。
 いきなり肩をつかまれたりすれば驚いてしまうのは当然と言える。

 だけどこれは重要なことだ。

 本人の同意が得られるなら、きっと悪いことではないはずなのだから。

 俺はそのまま深呼吸をしてからからの口の中を少しでもリフレッシュさせようとする。
 出しかけで止まってしまわないよう、身体の中身を掘り出していく。

 幸子、と名前を呼べば急に肩を掴まれた困惑であちこちへ移っていた幸子の視線が俺の方へ向く。
 なにかを期待しているような眼。同時に、怖がっているような、眼。

 綺麗だ。幸子はやっぱり、可愛いから。

 だから。好きだ。


 幸子のことが、大好きだ。





             大好きだから――――








   ――――その首を絞めさせてくれ。




「え……?」

 幸子の目が驚愕に見開く。
 なんでそんなにおびえているんだ。俺はただ、確認したかっただけなのに。

「プロデューサーさん、悪い冗談はやめてくださいよ……ね?」

 好きだ。幸子のことが大好きだ。
 だから、その首を絞めさせてほしいんだ。

 他の人は絶対に見たことがない表情。誰にも見せない表情を、俺だけに見せてほしいんだ。

 そうやって説得をしているのに、幸子が聞いてくれない。
 やっぱり、これはダメなことなんだろうか。わからない。

「ボ、ボクは普通に……プロデューサーさんが見たいことや、したいことならいっしょにしてあげたいって思いますけど、でもっ!」

 それなら、いいじゃないか。俺の首を絞めてくれてもかまわない。だから。

「そんなことしたら死んじゃいます! 働きすぎておかしくなっちゃったんですか!?」


 ――死ぬ?

 そんな馬鹿な。俺は幸子のことが好きなんだ。
 だから、ケガをしたりしないように首を――








「……プロデューサー、さん? あの……どうしたんですか……?」


 ……幸子の声が聞こえる。俺はいったい何を考えていたんだ?
 首を絞めるだけなら、ケガをしないから大丈夫だなんてそんな小学生でも思わないようなことを、どうして。

 突然めちゃくちゃなことを言い出したと思ったらすぐに固まった俺のことを、幸子が怖がりながらも心配してくれている。
 これ以上幸子のことを見ていたら、止められない気がした。

 その場に幸子を置き去りにして俺は逃げ出す。
 後ろから何か言っているのがわかる。その言葉も聞こえない。聞きたくない。

 そのまま家へ帰ると、電話線をひきぬいて携帯の電源を落として布団の中へともぐりこんだ。

今回分ここまで

今月中には完結といったな、あれは嘘だ
……次回で完結します、たぶん

 布団にもぐっていくら目を瞑ってみても眠気なんてものは来てくれない。
 それどころか鳴っていないはずの電話の音が響いている気すらしてきた。

 目を開けて起き上がる。耳元でガンガン鳴ってる音は止まない。
 窓から差し込むほんの少しの街灯の明かりがやけに大きくまぶしく見える。

 五月蝿い、五月蝿い、うるさい。耳をふさぐ。耳の中で反響する音が大きくなる。
 身体の中を何かが這いまわっているような気がして気持ちが悪い。

 やけに喉が渇いているような気がして、台所まで行く。蛇口をひねると生ぬるい水がこぷこぷと出てきた。
 コップを出すのも億劫で手で器を作ってがぶがぶと飲む。少しも気分が落ち着かない。
 腹が膨れる感覚だけがあって、それが逆に気持ち悪かった。

 明日からどうすればいいんだろう。ふとそう思った時、幸子をおいてきてしまったことを思い出した。
 ……なんてことだ。無事に帰れただろうか? プロデューサーのくせにアイドルになんてことを――

 ――プロデューサーのくせに?

 今更過ぎる。首を絞めたがっていると言っておびえさせておいて何が『アイドルになんてことを』だ。
 バカめ。要するに自分が悪いのに被害者ぶりたいだけじゃないか。

 明日からどうすればいいのかがまったくわからない。
 どんな顔をして幸子に会えばいいんだろうか。明日は体調が悪いから休ませてください?
 ふざけるな、学生じゃないんだ。責任を取るのは俺じゃなく幸子なんだ。

 辞表は書いてある。明日以降の仕事の引き継ぎを考えていなかったわけじゃない。
 でも、今日じゃない。提出をして、自然に離れて、引き継ぎをして、俺は仕事を辞める。
 そういう予定だったはずだ。幸子はきちんと仕事を続けて、どうしようもない俺のことは諦めて――

 ――諦めて、か。また都合のいい解釈だ。
 俺は幸子と多少なりとも仲が良くて、俺が辞めるとなれば悲しんでくれるんじゃないか。
 だからちゃんとした理由をでっちあげて言って、綺麗に別れて。思い出を女々しく引きずって生きていこうとしたんだ。

 黙って、恰好つけて、あわよくば覚えていてもらって。
 それもすべて終わった。自分自身の手で終わらせた。
 幸子にトラウマを与えて、身勝手に傷つけて逃げたんだ。


 不思議と笑いが止まらなくなってきた。あぁ、もう。ばかばかしい。

 要するに俺は変態で異常者なんだ。最初からわかっていたことじゃないか。
 幸子を独占したい。幸子に特別と思われたい。幸子が特別なんだと伝えたい。
 ただそれだけのことなんだと、改めて認識した。

 とりあえずきちんと事務所へはいくことにしよう。幸子は怖がるし、嫌がるだろうが……それよりも幸子の評価が下がるほうが問題だ。
 送り迎えを近くに仕事がある他のアイドルの担当プロデューサーにしてもらえば俺と2人にならずに済む。
 細かい打ち合わせは……まともに会話はしてくれるだろうか? ……いや、その前に家に帰れているかの確認をしていない。

 思考がループしすぎてそんな単純なことまで忘れてしまっていたのか。
 電源を切り、放り投げてしまっていた携帯を探してもう一度電源を入れなおす。
 ディスプレイに現れた時刻は午前3時。ずいぶん夜更かしをしていたみたいだ。

 着信アリ、7件。Eメール12通。
 着信のうち5件は幸子からで、もうひとつは近場で仕事のあった別アイドルの担当プロデューサーから。
 どうやらそちらに世話になって無事に家には帰れたらしい。

 最後のひとつは事務所からだ。
 おそらく幸子が俺と連絡がつかないと事務所に言って、それを咎めるためにこちらに電話を掛けたのだろう。

 Eメールもほとんどが幸子からのようだ。
 ひとつひとつ内容を確認していく。

 最初のメールは俺が飛び出した直後だろうか。
 さっきの話は冗談だろう、という内容だった。

 二通目はそれほど間を置かずにどこへいったのかという内容。
 三通目は、話は聞いてやるから早く戻ってこいという内容。

 次に、これじゃあ帰れないという文句。そして、他の担当プロデューサーに拾ってもらうぞ、というメール。
 確認が2通。他アイドルのプロデューサーから幸子を拾ったウマのメールが1通。
 本当にいいのか、というメールが1通。乗った報告が1通。
 家に着いたという報告が1通。最後の1通は――

 『ばか』とだけ書いてあった。なんてことだ、怒られてしまった。
 きっと、幸子は本心から心配してくれたんだろう。

 置いて行ってしまったことを責める内容のメールはほとんどなかった。
 首を絞めたい、といったことに対しては触れてなかった。

 優しさなのだろうか。それとも、俺のことを怖がっているのだろうか。
 文面からは嫌悪よりも、おっかなびっくりといった感情が伝わってきた。

 幸子からのメールを見ているだけで許されたような錯覚を起こす。
 とぼけたら忘れてくれるのではないだろうか。そうやって都合のいいことばかり考えてしまう。

 勿論、そんなはずがない。
 せめて幸子に迷惑が掛からないように最低限の準備を始める。

 必要なもの、必要なこと。退社理由なんて適当にでっちあげてしまえばいい。
 いっそ逮捕されたほうが楽かもしれない。でも、それは幸子の経歴に傷がつきかねないのでなしだ。

 ――結局、ほとんど眠れずに朝が来てしまった。
 今日が幸子を見る最後の日になるかもしれないと思えば、朝日も不思議とまぶしくない。
 仕事も順調に増えている段階だ。きちんとしないと幸子自身への負担が増えてしまう。

 引継ぎがうまくいかなくて干されましたなんてことにはしたくない。
 これも自己満足だ。それでいい。

 幸子は優しいから、ちゃんと心配されないように辞めないと。
 これが最後の機会だ。ちゃんと、ちゃんと――

現時点で書けている分だけ更新
ごめんなさい

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