モバP「ブラ、透けてるぞ」 (198)
以前落としてしまったssのリベンジ。
今回は頑張る。
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00:キュートガール
カワイイ。
自分はカワイイ。
誰よりも何よりも。
世界で一番。この世で一番。
銀河一、宇宙一。
――ボクは、カワイイ。
アイドルにとって一番大切なことは何か。
そう聞かれたら、輿水幸子はこう答える。
「自分に対する絶対的な自信」
無論、人によって、その答えは違うものに変わるだろう。
歌、踊り、ビジュアル、総合的なパフォーマンス、ファンサービス、権力とのコネクション。
上げれば限がないほど、アイドルというものは、あまりに沢山のものを求められるのだ。
マジだ。
ごめん、片方依頼して来る。ちょっと待ってつ。
蜀埼幕
それらが間違っているとは、幸子は思わない。
間違っているどころか、必要だ、とも思うだろう。
思うだろうが、彼女にとって見れば、それは『必要』なものでしかない。
『アイドル』と言う存在を着飾る服。
それが、彼女にとっての歌や踊り。
そして、その中心点にあるのが。
自信。
他を寄せ付けない、入れさせない、圧倒的な自己。
今ある自分の肯定。自分と言う存在を信じて、信じて、信じきる。
だがそれは、翻せば諸刃の剣だ。
自信過剰、と言う言葉もある通り、溢れ出るそれは、自分の首を絞めかねない。
なくても困るが、ありすぎても考え物なのだ。
過ぎたるは猶及ばざるが如し。帯に短し襷に長し。
だからして、『丁度いい具合』を見つけるのが、一般的な本筋である。
自分と折り合いを付け、時には否定し、受け入れる。
それが、『自信』との付き合い方だ。
しかし、幸子は違う。
肯定。肯定。肯定。肯定。カワイイ。カワイイ。カワイイ。カワイイ。
そこに『NO』はなく、永遠に自分を肯定し続ける。
溢れ出る自信、漏れ出る自信を、そのまま力に換え、突き進む。
余剰分のリスクは考えない。自信を常に垂れ流しながら、彼女は邁進するのだ。
カワイイ自分を。
カワイイボクを。
どこまでも、果てしなく肯定しながら。
カワイイ。
自分はカワイイ。
誰よりも何よりも。
世界で一番。この世で一番。
銀河一、宇宙一。
カワイイから、アイドルをやって。
カワイイから、トップを目指し。
カワイイから。カワイイから。カワイイから。
カワイイから、『あの人』と――
――ボクは、カワイイ。
それが、輿水幸子と言うアイドルとしての、人間としての、少女としての、在り方だった。
01:デイ・スタート
「いつもありがとうございます、CGプロダクション、島村です」
メモを見ながらホワイトボードに予定を書き込んでいるとと、背を向けている後ろからそんな声が聞こえ、幸子は心中でため息を吐いた。
――慣れない。
事務所自体は普段通り。
そこそこ古いビルの、そこそこの広さの一室。
部屋はそこそこ小奇麗で、そこそこ掃除がしてある。
この『そこそこ』さを確認するだび、幸子は己が所属するプロダクションの『そこそこ具合』を認識していたものだ。
発展途上、まだまだ弱小。
それが、ここCGプロダクション。女性アイドルを扱う芸能事務所。
だが、その事務所も、普段とは違う色を見せている。
事務所自体が変化したわけではない。
ビルは急に新しくならないし、広くもならない。
部屋だっていつも通り小綺麗だ。そこそこ。
違うといえば、空気が違う。
普段だったら、事務所はもう少し明るい。
未だ少人数の、規模は大きくない事務所だが、年相応の少女が集まる場所だ。
普段なら、それこそ、そこそこ活気がある。
普段なら。
しかし。
普段なら、佐久間まゆはソファーに座しながら死んだように机に突っ伏していない。
普段なら、緒方智絵里はその向かいのソファーで同じく死んだ目で、遊佐こずえを抱きしめてはいない。
普段なら、遊佐こずえは強く抱きしめられて苦しそうな呻き声を上げてはいない。
普段なら、緒方智絵里はそのSOSを無視しない。
(お通夜の会場みたいだ)
あくまで心中でそう呟く幸子。
アイドル事務所とはとても思えない死んだ空気に、幸子はやれやれと首を振った。
が、この状況下において、何よりも強く違和感を発しているのは。
「……申し訳ありません、その件に関しましては、今分かるものが居りませんので、また折り返し――」
これだ。
幸子の後方で電話対応をしているのは、島村卯月。
この事務所の中で、アイドルとしてなら一番年長の彼女は、普段通りの明るさで、だけど丁寧に電話に応じている。
違和感の原因は、別に卯月の様子がおかしいとか、そう言う訳ではなくて。
おかしい、と言うのは、彼女が電話に出ていること自体がおかしいのだ。
確かに、この事務所はアイドルの数が少なく、同じくバックアップする人員の数も少ない。
少ないと言うか、一人だけだ。
千川ちひろ。
彼女がこの事務所唯一の事務的な裏方であり、無論、普段電話を受けているのも彼女だ。
しかし、彼女が他の電話に出ていたり、手が空いていなかったりする時は、その限りではない。
ここの代表者や、アイドルを売り出すプロデューサーでさえも不在な場合は、アイドルが電話番に応じるのも仕方のないことなのだ。
この事務所は未だ弱小で、余分な裏方を入れる余裕はないのだから。
だからして、卯月の電話対応は、然程珍しいものではない。
が、それが一日中続けば別問題である。
更に言えば、幸子がホワイトボードに予定を書いているのもそうだ。
ちひろの手伝いで書くことは勿論あるし、それも珍しくはない。
卯月が電話を受けて、幸子が予定を入れる。
その光景は決して珍しくはないのだが、本来ならそれは彼女達の仕事ではない。
何がおかしくて、何が問題か。
早い話、唯一の事務裏方、千川ちひろの不在。
これが、卯月が電話番をしている原因で。
幸子が各アイドルの予定を書き込んでいる原因でもあり。
序に言えば、まゆや智恵理が完全に消沈しているのも、彼女の不在が端を発していると言える。
千川ちひろ
若くしてCGプロダクションの事務仕事を一手に引き受ける彼女は、アイドル達にとっては母親のような、姉のような、そんな頼れる存在で。
そんな彼女は、今日は居ない。
休みを取っているから。
休みを取っているのは、大事を取っているから。
大事を取っているのは、先日、彼女が体調不良を訴えたから。
体調不良が原因で、病院に行った彼女が医師に告げられたのは。
妊娠。
これが、全ての原因だった。
幸子は、今この場にはいない、とある少女が言った台詞をふと思い出した。
『……ちょっと、プロデューサーに話聞いてくる』
いつもはにゃあにゃあ煩い、ここのムードメーカーでもあるその少女は、しかし恐ろしいほど冷たい声でそう言った。
その後も。
『社長……』
『なんだね、前川くん』
『場合によっては、みく、プロデューサーを殴っちゃうかもしれない』
『……見えないところで、やる様に』
彼女の言動は、誰も咎めなかった。
平和主義の社長も、穏やかで暴力を嫌う卯月や智絵里も、かの男にべったりなまゆでさえも、誰も止めることはしなかった。
無論、幸子も。
幸子は、表向きは冷静だった。
いつもの幸子で、いつもの『カワイイボク』だった。
幸子はカワイイのだ。カワイイボクでいなければいけないのだ。
例え、姉のように慕っていた女性が妊娠し。
例え、幸子が恋心を抱いていた男性がその原因で
例え、その男が責任を取ると言って、ちひろにプロポーズし。
例え、ちひろがそれを受け入れたとしても。
例え、幸子の恋が想いを伝える前に散ったとしても、それでも。
今日も、何時も通り彼女はカワイクなければいけないのだ。
それが、輿水幸子と言うアイドルとしての、人間としての、少女としての、在り方だった。
02:キャットウォーク
「疲れたにゃあ……んもぉ……」
「ふわぁ……みくぅ……」
「んにゃ、こずえチャン、どうかしたかにゃ?」
「こずえも、疲れたぁ……」
「んん? こずえチャン、今日はずっと事務所にいたんじゃ?」
「あのねぇ……ずっと、ちえりに、だきしめられてた、のぉ……ぎゅうっーと」
「あー……」
「ないぞうがね、ばぁーっとね、でちゃうかと……ふわぁ……」
「おおう」
今、事務所には三人の少女が居た。
内の一人、茶髪の少女――前川みくがソファーにぐったりと伏せていれば、この事務所の最年少であるこずえが、彼女の横に座る。
いつも眠たそうな彼女は、相も変わらずあくびを連発しているが、それでも、今日のこずえは顔に疲労が滲んでいた。
無理もない。こずえは、今日、ほとんどの時間を智絵里に抱きしめられながら過ごしていたのだから。
しかも、智絵里はその抱きしめる力の加減を気にする余裕がなかったのだ。
そんな智絵里は今、まゆと共にアイドルとしてのレッスンに赴いている。
みくは彼女たちと入れ違いになったので、その惨状を見ていなかった。
ちなみに、卯月は事務所の社長と共に雑誌の撮影に赴いている。
みくは、自身に横掛かる幼い少女の頭を、優しく撫でた。
「誰か止めて上げてもよかったのに」
「そうしたいのは山々だったんですけど」
言いながら、今居る最後の少女、幸子が、みくとこずえにジュースが入ったコップを渡した。
そうして、幸子自身は彼女たちの向かいのソファーに座り、一息吐いた。
「あいにく、ボクも、卯月さんも、手が離せなくて。まゆさんは……アレですし」
「んにゃあ……」
察した様に、猫の鳴きまねで応えるみく。
みくは、コップに口をつけた後、前にある長机にそれを置いた。
「思ったより、深刻な状況かも知れないにゃあ……」
「ええ……」
みくは腕をくんでうなり、幸子は軽く目を瞑る。
こずえは事務所にある混乱を知ってか知らずか、手にあるコップを傾けて、幼き喉をこくこくと鳴らしていた。
――みくは、結局、ある意味での元凶であるプロデューサーに対して、殴るだとか、何かすると言ったことはなかった。
彼女の『場合によっては殴る』という発言は、状況が不透明だったから出た発言であり、蓋を開けてみれば、件の男はずっと誠実に対応し、そして、彼一人が悪い、と言う訳ではなかったからだ。
いや、言ってしまえば『誰かが悪い』とも言えないのだ。
社会人として軽率な面があったことは否めないが、それでも決して、悪いことではない。
二人の男女が愛を交わし、一つの生命が生まれる。
それは、祝福されるべき事なのだ、本来なら。
みくは幸子に目線を向けた。
「幸子チャンは、気づいていたかにゃ?」
幸子は、何を、とは聞かなかった。
「……怪しい、とは思ってました。特に、ここ最近は……みくさんは?」
「実を言うと、気づいてたにゃあ。と言うか……知ってたと言うか見ちゃったと言うか」
思い返し、照れた様に、みくは頬を掻いた。
「三ヶ月ぐらい前かにゃあ、ちひろチャンとプロデューサー、抱き合ってたにゃあ。事務所で」
「それは……」
若干、幸子は顔を赤くした。
彼女はまだ十四歳の乙女ではあるが、男女の関係の生々しさを分からないほど、うぶではない。
事前情報として、妊娠、と言う情事の結果を聞いているのだから、自然、『そう言うアレ』を想像してしまう。
幸子は、気恥ずかしさと、居心地の悪さと――――胸にチクリ、と痛いものを覚えた。
だが、幸子は、少なくともその痛みに関しては微塵も顔に出さなかった。
「……変な意味じゃないよ? こう……ハグしてたって言うか」
「まぁそうだとは思いましたけど……紛らわしいんですよ」
幸子の顔の赤らみを察し、みくは苦く笑う。
「にゃはは、ごめんにゃあ……で、それが、なんて言うか、手馴れていた様に見えたにゃあ。だから」
「だから……付き合ってる、と知っていた、ですか」
「ま、確証はなかったけど、そんなトコだにゃあ」
――ちひろとプロデューサーは、彼是半年ほど前から男女の関係だった。
そして、思うところがあり、二人はその関係を周囲に隠していた。
無論、性行為に関しては節度ある様にしていたが、とある日、二人が酔った勢いで「イタして」しまい、その際避妊を忘れて、そして――
これが、事の顛末。
言葉だけ見れば、元々二人はそう言う関係で。
立場上、状況上、男は『責任を取る』と言う形で求婚し、女はそれを受け入れた訳だが、遅かれ早かれ、彼らはこうなっていたのだ。
最低限、彼らは遊びではなく、本気だった。
本気で、愛し合っていたのだ。
――それを強く認識すればするほどに、幸子の胸に刺す痛みは増していく。
小さい傷をぐりぐりと押し付けるように、ゆっくりと、しかし、えげつなく、確実に。
だけど幸子はそれを見せない。
変わりに、幸子は自身の前髪を軽く指で弾いて、改めてみくと向き直った。
「……よく、気づかれませんでしたね」
「うん? 見ちゃったことかにゃ? まぁ、ネコは身が軽いから。にゃははは」
――少し、幸子の意図した問いとは違う答えが返ってきた。
しかし、幸子は一々訂正することはしなかった。
気づかれなかった、と言うのは、『その時、みくが二人を見ていた』ことではなく。
『みくは二人が男女の関係であると知っていた』と言う事実を、誰にも悟られなかったことだ。それも、三ヶ月間と言う期間、である。
幸子から見て、みくはそんな彼らに極めて普段どおりに接していた。
何も知らないように。何も分からない様に。
まるでネコの様に、そこらの痴話には興味がない、そう言わんばかりに。
その辺りは、事務所のアイドルでは彼女にしか出来ない芸当だ。
少なくとも、幸子ではすぐ顔や態度に出てしまうだろう。
と言うか、ここに居るアイドルはみな十代の少女なのだ。
年頃の少女が知り合いの交際関係を知って、そ知らぬ顔で居られると言うのも、また特殊なことであると言えるだろう。
――前川みく。
明るく、騒がしく、事務所の盛り上げ役で、いつもにゃにゃあ鳴いている彼女。
ネコは身が軽い。みくはそう言った。
確かにその通りで、幸子は、みくの真骨頂が正しくそれだと思っていた。
身体能力、のことではない。いや、みくはそれこそネコの様にしなやかに運動できるのだが、そうではなく。
対人関係、人間関係のバランス感覚が抜群なのだ、みくは。
相手の触れられたくないことには、触れない。近づかない。接しない。
ネコの様に、軽やかに、俊敏に、華麗なステップで地雷をかわす、そんな少女。
一見すると誰彼問わず懐に踏み込んでいるように見えるが――その実、彼女は『見えない境界線』を見極め、そこから先は絶対に立ち入らなかった。
幸子は、みくのその対応力に憧れていた。
この事務所に居るアイドル自体、幸子より優れた面を持つ者に溢れている。
幸子は自分が劣っているとは思っていないが、足りない点、自分にはない点が他のアイドルにはあるとは認識していた。
みくで言えば、その立ち回り。人と人の間をくるくる回り、自然に、自由に、にゃあと鳴く。それが前川みくだった。
――だから幸子は知っていた。
みくには、自分の気持ちが分かっているだろう、と言うことを。
隠した胸の痛みでさえも、みくにはお見通しだろうと言うことを。
だけどみくは、いや、だからこそみくは踏み込まない。
「……そろそろ、ボク、行かなきゃならないので。留守番、よろしくお願いします」
幸子が立ち上がりそう言うと、みくは、げっ、とわざとらしく顔をしかませた。
「みく、一人で電話番するの……?」
「こずえさんがいるじゃないですか。それに、今はだいぶ電話も落ち着いていますから、大丈夫ですよ、たぶん」
「ふにゃあ……」
アンニュイな表情を見せているみくを尻目に、幸子は手早く外に出る準備をした。
「……じゃあ、行って来ます」
「んにゃ、いってらっしゃい」
「ふわぁ……いって、らー……」
見送りの言葉に手を軽く振って、幸子は事務所の外へと出て行った。
扉が閉まり、階段を下りる音が遠く聞こえる。
少しシン、とする事務所で、みくは薄くため息を吐いた。
「ま、後は『リーダー』に任せるとするか、にゃあ……」
件の『事件』が起きた後、幸子は、それでも全くブレを見せなかった。
誰に対しても、何に対しても、それこそ、いつもの『カワイイボク』を押し付ける、普段の幸子だった。
分かり易く落ち込んでいる智絵里やまゆとは違い、常に普段どおりに動いていた。
では、幸子は思うところがないのか、といえば、それは違うのだ。
それは幸子の意地であり、誇りであり、存在意義であり――なんにせよ、彼女は負の感情を見せることはなかった。
みくはそんな彼女の想いを尊重した訳だが、同時に、そうは言ってはられない状況でもあるのだ。
誰かが、彼女の地雷を踏まなければならない。
見た目、いつもの幸子ではあるのだが、見る人が見れば無理をしているのは自明であった。
「どうあっても、なるようにしか、ならんのにゃ」
そう言い、みくはごろりとソファーの上で仰向けになった。
それを見て、こずえは持っていたコップをいったん机に置いてから、じゃれ付くように、寝そべったみくの上に乗った。
あまり重みを感じさせない小柄な少女と、みくの目線がかち合う。
こずえは、どこまでも澄んでいる透明な瞳で、みくを見ていた。
「みくは……いい、のぉ……?」
「なんのことかにゃあ?」
少女の、全てを見透かすような不思議な瞳を直視して尚、みくはいつも通り、にゃあと鳴いた。
猫の尻尾は、誰にも掴めない。
続きぃ!
03:アルティメット・ベーシック
幸子が何時からかの男を懸想していたか。
何時かと言えば、いつの間にか、と言うのが正解だろうが。
彼と触れ合う日々が。駆け抜いた過去が。過ごした日々が。
その一つ一つが、彼女の想いを形成していた。
最初はさえない男だと思っていた。
――今も、そう思っている。
デリカシーのない、女心が分かってない、そんな男だった。
――多分、彼は一生そう言う男だ。
彼の悪いところを上げれば正しく際限なく出てしまう。
ともすれば、はて、何で彼のことを好いたのか、それさえも疑問な始末だ。
ただ、事実として。
輿水幸子は一人の男を好いていて。
それだけは、確かなことだった。
無論、その男が別の女に愛を誓ったとしても、である。
(うわぁ……)
事務所に戻った幸子は、扉を開けた瞬間、げんなりとした表情を浮かべた。
スケジュールを考えれば『そうなる』とは知っていたが、事務所にいる一人の少女を見た途端、その少女が放つあからさまな雰囲気を察したからである。
「お帰り、幸子ちゃん!」
「……ええ」
島村卯月。
このCGプロダクションの所属アイドルで一番の年長者である彼女は、にこやかに幸子を向かい入れ、押し込むようにソファーに座らせて、流れるように紅茶のカップを幸子の前に置いた。
淀みのない一連の行動に、幸子は珍しく苦く笑った。
紅茶に口を付ける。ティーバックで容れたであろう安っぽいその味は、正しく少し、苦かった。
幸子は、目の前でなにやら意気込んでいる卯月を視線から外し、事務所を見渡す。
誰もいない。
今、ここには正真正銘、卯月と幸子しかいなく、時間帯的に電話も来づらい。
つまり、邪魔者が誰もいない、彼女とのタイマンだった。
「おいで!」
幸子がカップを置き、一息吐いたところで、卯月はバッと両腕を広げた。
「私が、受け止めてあげる!」
――さぁ泣けよ。
そう言わんばかりの卯月のドヤ顔に、幸子はまた苦笑い。
幸子は想いを知られていた恥ずかしさや、恋した男が遠くに行った悲しさも、今は感じていなかった。
清々しささえも感じる、そんな地雷への踏み込みだった。
人間関係での立ち回り、という点で言えば、卯月もまた、優れたものを持っていた。
だけどそれは、みくの立ち回りとは別物だった。
みくの場合は人の感情の機微を読み、一線を引いた上で踊る。
触れてはいけない爆発点を見切り、キープアウトの線を引く。
言ってしまえば、『地雷に立ち入らない優しさ』だった。
卯月は違う。
彼女には躊躇がない。
地雷があろうが何だろうが、もしくは予め目に見える線が引いてあったとしても。
島村卯月は止まらない。
ふわりと、暖かく、だけど、あるいは残酷に。
彼女は踏み込むのだ。強引に地雷を踏んで、爆発させる、そんな動き。
みくとは違う、卯月は『地雷に立ち入る優しさ』だった。
踏み込んで、爆発して、悲しませて、苦しませて、そして、卯月も一緒に悲しんで、苦しむ。
そんな、力づくな立ち回りだった。
そして、彼女はそれを成せる――もしくはそれが許される、そう言った人間的なポテンシャルを持っていた。
持ってはいたが、実際に上手く行くか、とはまた別な問題だ。
年頃の少女たちの、苦味を伴う恋愛事情。
それは、殊更にデリケートな事柄なのである。
「せっかくですが、遠慮しときます」
きっぱりと幸子がそう言うと、卯月はドヤっとした顔を悲しげなものに変えた。
がっくりと肩を落とし、眉を下げる。
「うぇええ……幸子ちゃんも……?」
「全員に言ってるんですか、それ……」
「こずえちゃんだけだったよ……抱きしめさせてくれたの」
「いつも抱きしめてるじゃないですか……」
事務所がざわめいていても、彼女は彼女。
変わらない。卯月は何も変わらない。
卯月は、この事務所において最古参のアイドルだ。
無論、アイドルとして、かの男との付き合いも一番長い。
恐らく、卯月に『プロデューサーを好きか』と問えば、イエス、と返ってくるだろう。
そして、その後。
『社長も、ちひろさんも、みくちゃんも幸子ちゃんも智絵里ちゃんもまゆちゃんも、みんな好き!』
と返ってくる。
幸子は、そんな卯月のブレることのない、変わらない普遍性を羨ましく思っていた。
卯月には、アイドルとして、これ、と言うアピールポイントがない。
身も蓋もなくいえば、普通。
普通のアイドル。それが、彼女であった。
他のアイドルに比べ、元より何か突出したものが、卯月にはない。
目敏く他人との関係性を構築出来る、みく。
強烈な個性を常に発している、幸子。
儚く、けれど確かに存在感がある、智絵里。
自分の『魅せ方』が誰よりも上手い、まゆ。
どこか浮世離れした神秘性を持つ、こずえ。
彼女たちと比較すれば、卯月は、特別なことは何も持っていなかった。
立ち回りに関してだって、みくのもとは違い、卯月はテクニックも何もない力任せの物。
ルックスも。運動的なセンスも。歌唱力も。言ってしまえばありふれたものでしかない。
それだけしかないのに、卯月は、事務所の中でリーダーとして輝いていた。
真っ直ぐ、ただ己の領域で『頑張る』だけ。
ある種、極めているのだろう。
それは、一つの頂点だった。
普通の少女が普通に頑張って普通に煌く。
その到達点が、島村卯月と言うアイドルなのだ。
「あまり強くは言えないけど」
そう前置きして、卯月は言った。
「辛いなら、無理、しない方がいいよ?」
優しく、穏やかに。
普段どおりに、普通に、落ち込んでいた仲間を慰める。
いつもの彼女。日常の儘の卯月。
「……自分でも、よく分からないんですよ」
その様子を目線に入れて、幸子は少しだけ、己の胸中を一部だけ吐き出すことにした。
やはり、誰かに聞いてもらいたいことでもあったのだ。
「ええ、確かに、ボクはあの人が好きで……正直な話、ショックも受けましたし、残念とも思ってます」
それは正真正銘、少女の想いだった。
だけど、同時に。
「でも、心のどこかで、いつかこうなるだろう、とはボクも思ってました」
これが、幸子の知らない全くの第三者が彼と恋仲になったとしたら、もっと違うものになっていたかも知れない。
が、そうはならなかった。結局は彼に近しい、予想通りの女性が持って行った。
ある意味で、予定調和。自然な流れ。
だから、幸子は覚悟していた。不意打ちとは言えない、分かりきった結末だったのだ。
「ちひろさんとあの人、あからさまですよ。それこそ、遅かれ早かれ、こうなっていた筈です」
「私……全然気づかなかったんだけど……」
卯月は更に悲しげに眉を下げ、幸子は軽く頬を笑みの形にした。
まぁ、その辺りは『かの男への好意の差』であろう。
好きな男だったからこそ、幸子は、同じ思いのちひろと彼との関係性を察していたのだ。
「ま、ボクは大丈夫ですよ。動揺しているのは否定しませんし、もうこの際認めます。だけど、あの二人よりは、まだ、ボクは」
それは強がりであり、同時に本心でもあった。
深く、深く落ち込んでいる二人の少女が近くにいた為に、存外、幸子は冷静で居られることが出来たのだ。
幸子は、天上天下、唯我独尊。そんな言葉が似合う少女で。
一番自分がカワイイ。そう思っている。
だけど、他人のことはどうでもいい、とは言えない少女でもあるのだ。
智絵里とまゆ。
目に見えて沈んでいる二人を心配する感情が、幸子には確かにあった。
幸子の言葉を受けて、卯月はこくんと一つ頷いた。
「智絵里ちゃんとまゆちゃんは、ちょっと時間が欲しいって言ってたよ」
「まぁ、そうでしょう、ね……」
では時間を掛ければなんとかなるのか、と問われれば、幸子は簡単には頷けない。
内の一人、まゆに関しては特に、だ。
彼女の好意は、愛は、深く、重い。少なくとも、幸子には手の出しようがない。
だからして、時間が欲しいのなら、今はそうするしかないのだろう。本人がそう言えば、一旦は引くしかない。
「ボクも、そんなトコですよ」
そう言って、幸子は紅茶にまた口を着けし、カップを置いた。
まだ僅かに残る紅茶が、少し憂いを含んだ顔の幸子を映していた。
一つだけ、幸子は結論を弾き出していた。
なぜ、こんなにも胸が痛いのか。
失恋。それもあるだろう。
しかし、それだけではない。
いずれ来るだろう恋の破れは予測していたし、慕っていた男が、慕っていた女とつがいになる、それは良いことなのだろう。
喜ぶべきなのだ。祝福して、恋慕の情は苦い思い出としてひっそりと仕舞えばいい。
少なくとも、幸子はそれが出来る少女だった。
問題は、ここからだ。
『幸子はカワイイな』
男のがかつて言った、言ってくれた言葉が、幸子の心を満たす。満たして、いた。
幸子はカワイイのだ。彼女にとって、それは絶対的な真理であり、曲げてはいけない芯の部分であった。
別に、世の女性のことを舐め切っている訳ではない。
幸子は、卯月も可愛いと思っていたし、智絵里も、みくも、まゆも、こずえも可愛ければ、なんだったらちひろも可愛いと思っていた。
ただ、一番カワイイのは幸子なのだ。
少なくとも、彼女自身はそう思っていた。
自分が一番カワイイと、自分自身が思っていなければ、果たして他に誰がそれを証明してくれるのか。
自分しか、いない。いないのだ。
――だって、カワイイと言ってくれたプロデューサーは、幸子ではなくて、他の女を――
ちくり、とまた幸子の胸が疼いた。
自分の『中心点』は、自分で立てなければいけない。
なまじ他人に、そう、男にその証明を任せたために。
(ボクは)
幸子の胸中に、黒い靄が掛かってしまう。
(ボクは、カワイくないのだろうか)
慕っていた男。
自分を輝かせるために奔走してくれた男。
カワイイと言ってくれた男。
だけど、その男は、彼女の手には入らない。
それが、確定してしまったのだから。
「ふぅ……」
重い息を吐いて、幸子は立ち上がる。
ちょっと、お手洗いに。そう言って、踵を返した幸子に。
「幸子ちゃんは、カワイイよ」
卯月は、そう言った。
それは、正しくドンピシャで。幸子にとってはキく言葉であった。
「いつだって。どこだって。幸子ちゃんは、自信満々で、頑張っていて、カワイイよ」
恐らく、卯月はその言葉を幸子に言う意味を、正しく理解してはいないのだろう。
ただ前に突っ込んだだけ。なんとなくそう思ったから言っただけ。
だけどそれが正解だった。ピンポイントの地雷だった。
幸子は振り向いて、卯月を見た。
そこには、先ほどのドヤ顔でもなく、悲しげな表情でもなく。
どこまでも優しく、聖母の様に、柔和に微笑む卯月の姿があった。
「どうなろうと、幸子ちゃんがどう思おうと、私は、そう思ってる」
そう結んだ卯月を見て、また幸子は息を吐いた。
それは重いものでも苦しいものでもなく、安堵を含めた、軽いものだった。
(まったく、この人は……)
卯月にはこれがあるのだ。
間合いを一気に詰めてからの、必中必殺。
爆弾を踏み込んでどうなるか、それは卯月にも分かっていない。
とりあえず踏む。とりあえず爆発させる。結果は後から着いてくる。
誰に対しても真っ直ぐな人間性。
CGプロダクション、所属アイドルのリーダー、島村卯月。
彼女の普段通りの、普通通りの、有りのままの彼女の言葉に、幸子は『いつも通りの自分』で返す。
「当然です。天地がひっくり返っても、ボクはカワイイんですよ」
自信たっぷりに。いつもの様にドヤ顔で。
だけど、それはちひろの懐妊を聞いてからは初めての、自然な顔だった。
言い放った後、また幸子は手洗いに向かっていく。
問題は、何も解決していない。
だけど。
少しだけ、胸が軽くなった。幸子はそんな気がした。
未だ胸中には黒い何かが蠢いているが、それを払う答えが、なんとなく見えた気がした。
――少なくとも、ここに一人いるのだ。自分のカワイさを証明してくれる人物が。
後は、自分の問題。自分が超えるべき問題だった。
一人残された卯月は、机にあるカップを手に取った。
「上手く行かないなぁ……」
そう一人ごちる。
真っ直ぐにぶつかる、とは言っても。
それをまた真っ向から弾き返されれば、卯月にはどうしようもない。
裏を返せば、少女たちはそれが必要なほどはまだ弱っていない、と言うことにもなるのだが、それを知っても、卯月にある歯がゆさは消えなかった。
卯月は、件の事件(と言う程大げさではないが)に対して、何もマイナスの感情を抱いていない。
兄の様な男と姉の様な女が繋がる。言ってしまえば、ただそれだけのこと。
だからこそ、突っ込める。
だからこそ、卯月には解決できない。
彼女が手を差し伸べても、なお。
智絵里とまゆは意気消沈したままで。
幸子は何やらを抱えたままで。
みくは――
卯月は、すっかり温くなった自分の分の紅茶に口を付けた。
「苦い……」
舌を痺れさす、この苦味の様に。
せめて、恋の苦さも共有できれば――
そう思っても、分からないものは、分からないのだ。
続くぅ!
一旦区切り。
_人人人人人人人_
> 突然の再開 <
 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y ̄
04:ザ・ファクト
少し時が過ぎて、ちひろが事務職に復帰した。
とりあえずは、まだ出産も先の話。様々な引継ぎの問題もある。
一先ずは、またいつも通り、ちひろは事務に勤しむことになった。
ちひろ及びプロデューサーは騒動の侘びをし、正式に籍を入れたことを発表した。
表向きには、そう、表向きには、少女たちは二人を祝福した。
そこからは、基本的にはいつもの日常だった。
アイドル戦国時代と言われるこの時代。ニーズも多ければ、また己を磨かなければすぐ弾き出される。
少女たちは忙しかった。仕事に、レッスンに、忙殺されていた。
だけど、じゃあ何もかも丸く収まって、綺麗さっぱり難題解決。
とは、無論行かないのであった。
空気が、ギクシャクしている。
少なくとも幸子はそう感じていた。だけどそれは、そう感じているだけ。幸子にはどうしようもない。
彼女自身、きっぱりと自身の心中にある黒い何かと向き合っていないのだ。
事務所に蔓延する、『普段とは違う空気』を幸子は認識してはいたが、ではこうすればいい、と言う答えは、彼女は持っていなかった。
それに、である。
幸子は、別におかしな空気は出していない。胸中はともかく、別に行動自体は普段どおりだ。
卯月もいつも通りに普通な彼女で、こずえもまた普段どおりにあくびをしていた。
みくは飄々とにゃあにゃあと鳴いていて、智絵里はどう言う訳か以前より明るくさえ見える。
まゆは、相変わらず雰囲気自体は暗いものを持っていたが、仕事はきっちりこなせば、あくまでプロとしてアイドルをしていた。思うところ、悩みや苦悩はそれこそあろうが、言ってしまえばそれだけだ。
無論、代表者である社長は、またいつもの様に、彼女たちを売り出すべく、馬車馬の如く奔走している。
では、何が問題で、何が普段とは違い、何がギクシャクしているのか。
ちひろとプロデューサーの関係。
それが、どうにもおかしいものになっていた。
仲違いしている訳ではない。だけど、どこか余所余所しいものが見て取れた。
幸子たちに気遣っている、様には見えない。
予期しない妊娠と言う事実に、気恥ずかしさを抱いている……とは違う。
なんだろうか、しかし、分からず。
それとなく幸子は探りを入れてみたが、答えはない。はぐらかされて、終わり。
卯月もまた、この空気を察し、相変わらずの真正面からの突破を試みたのだが、あっさりと弾かれたらしい。
こずえを抱き締めながら、卯月はしょんぼりと『今回も駄目だったよ……』と語っていた。
こずえは少し苦しそうだった。
みくは、持ち前の軽いフットワークで自然に聞き出そうとしたが、明確な答えは貰えなかったとのこと。
みく本人が言うには、『言わなければ分からない、傍目には見えないことを、それぞれ隠している様に見える』らしい。
隠しているのなら、言いたくないことなら、言えない事なら。それはもうどうしようもない。
CGプロダクションは、一応は正常活動している様には見える。
しかし、何かどんよりと重たいものが、強く圧し掛かっていた。
だけどこの重圧に関しては、あっさりと解決したりする。
本人たちが隠している。
ならば、だ。
その本人が吐露すれば、それはもう問題にはならないのだ。
「っ、うっ……!」
とある日。事務所には、ちひろ、幸子、それにみくとこずえがいた。
ちひろはパソコンに向かっていて、幸子は授業で書いたノートの清書をしており、みくはソファーでこずえとじゃれあっていた。
そうしていると、ちひろが突然口元を押さえ、手洗いがある廊下へと走っていった。
つわり、だろうか、と幸子が心配気に廊下をじっと見つめていると、暫くして、ぎぃ、とドアが開く。
「ちょ、ちょっ、どうしたんですか!?」
途端、慌てて幸子は立ち上がった。
扉の先にはちひろがいたのだが、その様子が尋常ではなかった。
なにやら、瞳が赤い。ついで、顔色が真っ青になっていた。
こずえとみくも、何事かと身を出しながら見ている。
ちひろは、そんな彼女たちは視線に入れず、ふらふらと幽鬼の様に歩き、自分の席へと戻った。
「大丈夫、ですか……?」
幸子がちひろに近づき、そう問うと、彼女はゆっくりと顔を上げて。
「ごめん……ごめん、なさい……」
そう言って、涙を流し始めた。
「えっ、ええっ、え!?」
対する幸子は意味が分からなかった。
なぜ、どうして、突然、泣き出すのか。
もしかして、産まれる、産まれるのか。
幸子は幸子で激しく困惑していると。
「私……私ね……」
ちひろは、嗚咽を漏らしながら、たどたどしく語った。
曰く、プロデューサーを騙してしまった、と。
幸子は目を丸くした。
ちひろが語るには、こういうことだった。
かの男と付き合って、数ヶ月経った時。
どうしようもなく、ちひろは不安になった。
彼は、元々女性と関わる仕事に携わっている。
アイドルもそうだし、はたまたメディア等の業界人との付き合いも、広く持っている。
だから、不安だった。
もし、自分以外からのアプローチに、彼が靡いてしまったら――
そう思えば、止まることが出来なかった。
性的な関係は、元からあった。
だけど、社会的な立場から、きっちりと避妊してから望もうと、お互いに決めていた。
――――酒を飲んだ勢いで、避妊を忘れてしまった。
これは、嘘だった。
酒は確かに飲んでいた。しかし、少なくともちひろは、前後不覚の状況ではなかったのだ。
イタす時に、不安が頭を過ぎった訳だ。
一種の衝動だ。確信はないが、少なくとも、『生でやった事実』は、彼との絆を強固にしてくれるのではないか。彼女はこう思った。だから、性交時に彼女は何も言わず、男は酔っていた為か用具に気が回らなかった。
案の定、翌朝、男は覚えていなかった。だから、ちひろも覚えていない、振りをした。
二人は何も覚えておらず、避妊具を使用した形跡が見られないと言う事実だけが残った、ということにしたのである。
それ以降、男はよりちひろを大事にしてくれるようになった、と彼女は感じていた。
だが、それだけで事は済まなかった。
以降は性的接触は控えていたのだが、そう、つい先日の、懐妊。
ここまでするつもりは、ちひろにはなかったのだ。
勿論、嬉しいし、幸福感もあった。
彼に求婚され、彼の子供を身篭り、いずれある幸せな家庭を想像すれば、自然、頬が緩んでしまう。
だけど。
彼を騙した。その事実は、消えない。
男は、二人とも酔っていて覚えていない、よく分からないままの性交渉、そう思っている。
しかし実際は、自分は意識がはっきりしていて、やろうと思えば避妊が出来た。
あえて、そう、あえてしなかったのだ。男を真に物にする為に。
「ひっ……ぅ、私……っく……ごめん、ごめんなさい……」
その彼女のベソをかいている様は、普段、幸子が、事務所のみんなが頼りにしている『姉』のものではなかった。
幼き少女の様に、後悔に、不安に、恐れに、たださめざめと泣いていた。
(ど、どうしよう……)
幸子は何も言えなかった。
あまりにもいきなりすぎる事実であったし、十四歳の彼女にとってあまりにも生々しい話でもあったからだ。
自然、顔が赤くなってしまう。
纏めれば、ちひろは酔っ払った振りをして、男にわざと精を放出させた、と言うことではあるのだが。
それこそ、あまりにもあんまりな話題だ。そこまで性の知識がない幸子にとって、刺激が強すぎる。
しかも、ちひろも混乱しているのか、途中途中で妙に具体的な表現が混じっていたりもした。
性交渉の件で。前戯の時はこうだったとか、あんなことやそんなことをしたとか、そんなん。
この際、ちひろは、自分が好いた男を無理矢理(と言うには聊か行き過ぎた表現ではあるが)手の内に入れた、と言う事でさえ、幸子の頭から吹っ飛んでいた。
だが、そんな赤裸々な告白を聞いて顔を赤くすると同時に、何か違和感を幸子は覚えた。
改めて経緯を聞くと、何か、見逃しているような――
「やぁっーと分かったにゃあ」
幸子が逡巡していると、パチン、と警戒に指を鳴らし、みくがステップを踏みながらちひろに近づいた。なぜか背中にこずえを負ぶさっている。
「ちひろチャン、冷静に考えてみてよ」
そう言って、みくは優しくちひろに微笑みかけた。
「プロデューサー、お酒、すっごく強いでしょ?」
「えっ……」
ちひろと同時に、あっ、と幸子は小さく呟く。
かつて、男が語った話を思い出した。
――俺、どんなに飲んでも酔えないんだよ。だから、学生時代はよく酔っ払いの面倒見ててさぁ。
男は、一般的に言うところのザルだった。
つまり、だ。
おかしいと思ってたにゃあ、と、みくが前置きし、呆れた様に続ける。
「みくが思うに、多分、プロデューサーもそう言う気持ちだった、ってことにゃあ。ちひろチャン、モテるし」
「で、でもっ……」
「もし仮に、ちひろチャンだけが覚えているのなら、プロデューサーまで挙動不審なのはおかしいにゃあ。これで、あの人までキョドってた説明がつくにゃ」
ちひろが何か言いたそうにすれば、みくはばっさりとそれをシャットアウト。
にゃははは、とみくは高笑いを、一つ。
「似たもの夫婦とはこのことだにゃあ! 同じ方法で繋ぎ止めようとして、同じことで悩んでいる」
言い聞かせるように、だけど優しく、みくはそう言い放つ。
「要はただの計画性のない子作りだった、ってことにゃあ。んで、お互いがお互いを騙しちゃったと思ってるだけ」
みくの目線とちひろの目線がはっきりと交じった。
「二人とも馬鹿にゃ。二人は、そんな軽い関係じゃない筈にゃあ。もっと、ちゃんと、話し合って、向き合うべきにゃあ」
言って、みくは少し身を屈めた。
すると、背中からするりとこずえが出てきて、そのままちひろにしがみ付いた。
「子供を抱く予行練習でもしとくにゃあ」
「ままー……」
こずえは何やらノリノリだった。
ちひろは、恐る恐る、ぎこちなく、こずえを抱き締める。
みくは、そんな二人に背を向けた。
「良いママに、良いパパにならないと、みく、怒るからね」
そろそろレッスンの時間だから、とみくは言って、事務所から出て行った。
「……」
ちひろは無言だった。
何も言わず、代わりに、ただぎゅっとこずえを抱き締めた。
いずれ産まれる我が子にするように、愛おしげに。
「く、くるし……」
こずえは少し苦しそうだった。
今度こそ、幸子は見かねて注意する。
「力、入れすぎですよ……」
「えっ、あっ、ご、ごめんなさい、こずえちゃんっ!」
「よう、れんしゅうー……ふわぁ……」
「……うん」
微笑ましい、絵になるような光景を見届けた後、幸子は自身もレッスンの時間だったと気づき、慌ててみくの後を追った。
その後、彼女と彼の間でどう言うことがあったかは、幸子は知らない。
だけど、少なくとも、二人の間に不自然なものは何も見えなくなった。
「びっくりしましたよ……突然、あんな話を……」
「まぁ、マリッジブルーっちゅーか、マタニティブルーっちゅーか……すぐその答えに行き着かないくらい、それをみくたちに話しちゃうくらい、テンパッちゃったんだにゃあ。いくらちひろチャンと言えども、ね」
「そもそもプロデューサーさんも混乱していた、とも言えますしね。あの人が産む訳じゃないのに」
「男のマタニティブルー……ってやつなのかにゃあ……そんなにナイーブには見えないけど」
でも。とみくは一つ呼吸を置いた。
幸子がみくを見ると、彼女はただまっすぐに、ここではないどこかを見ていた。
ぽつり、とみくが呟く。それは幸子に向けたものではなく、と言うより、誰に向けてのものでもなかった。
ただ衝動的に口から出た、そんな言葉だった。
「それくらい、二人は二人を大事にしている、ってことなんだろうね」
みくの声は、らしくなく冷たく、らしくなく悲しげで、あるいは捨てられた子猫のように、幸子は聞こえた。
_人人人人人人人人人人人_
> 突然の一旦ここまで <
 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y ̄
>>72
警戒→軽快
こずえを負ぶさって→こずえが負ぶさって
たぶん他にも誤字があるにゃあ。すまんにゃあ。
続きにゃあ。
また数日が経った。
アイドル事務所、CGプロダクションは、すっかりいつも通りになった、ように見える、表向きには。
社長が忙しそうに動き回り、プロデューサーの男とちひろが様々な仕事内容について話し合い(彼らはアイドル達の前ではお互いのプライベートの話はしなかった)、卯月は変わらず真っ直ぐに駆けていて、みくはケラケラと笑い、こずえはあくびをして、幸子はカワイかった。
あのまゆでさえも、穏やかに笑みを浮かべて、例えばこずえを抱きしめたりしていた。
ただ、まゆはプロデューサーやちひろと話そうとはしなかった。
いや、事実全く喋らない訳ではない。ただ、事務的な話、仕事について二言三言会話しておしまい、そんな具合だった。
誰も、そこには踏み込まなかった。
プロデューサーも、ちひろも、まゆの気持ちは知っていた、勿論。
だけど、じゃあ、彼らから言うべきなのか、お前の気持ちは受け取れない、あなたに想い人は渡せない、そうまゆに言えばいいのか。
それは、あまりにも酷過ぎる。
現状、確かにまゆは何かを含んでいる、それは間違いない。
しかし、表立って問題がある訳でも、彼女が問題を起こしている訳でもない。
――少し、時間が欲しい。
彼女は、唯一間合いに切り込んだ卯月にそう言った。
詰まる所、今は『待ち』の時間なのである。
何かしら、まゆが決断をする時間。それが今だった。
だから、誰も何も言わなかった。
さて。
幸子は、今日のボクは昨日よりもカワイイ気がするが昨日の自分は昨日でカワイかった気もするし、まぁ結局ボクは今日もカワイイ、と相変わらずの持論を展開させながら、ふと、視界にまゆの姿を入れた。
まゆはソファーに座りながらこずえを膝に乗せ、抱きしめていた。
その顔は穏やか……に見える。少なくとも、幸子からは。
こうしている間にも、彼女は何かを考えているのだろうか、決めているのだろうか。
そう幸子は思うが、結局それはまゆ自身にしか分からないのだ
そう、自分の心は自分にしか分からない。
また、何らかの決着も、自分でしかケリを着けられないのだ。
幸子は、一つ、分かっていた、決めていた。
男とちひろが夫婦になり、結果、幸子の恋が破れた。
そうして幸子の心に生まれた、よく分からない黒いモヤモヤ。
この正体を彼女は過ぎゆく時間できっちりと理解していて、そして、その解消法も、既に見えていた。
いたのだが。
(……もう少し、時間が欲しい)
その解消法はとても勇気が要る事だった。
幸子にとって、年頃の少女にとって、あるいは人として、容易に出来る事ではないのであった。
時間があれば、では勇気が宿るのか、と幸子が問われたのなら、大人しく、ハイ、とも言えない。
時間、と言うよりは切欠だ。幸子が決着を着ける為には、勇気を得るための切欠が必要だった。
それに出会うための、時間。
だからして、彼女は何時も通りに、何時も通りの日常を過ごすしかない。
幸子はすっと立ち上がり、これからレッスンに行くと面々に言って、事務所から出て行った。
その際、幸子はちらりと、次のイベントはどうするかだとか、あの企画はどうだとか話し合っていた男とちひろを見る。
自然体の二人。ただ仕事をしている二人。
だけれども、そこには強い結びつきがある様に見える。幸子が知らない、特定の男女間でしか発せられない空気が、確かにあった。
刹那、それを見た幸子は――
男は自分をカワイイと言った。
自分は男を好いていた。それは正しく恋であり、愛であった。
自分は女も好いていた。頼りがいがあり、優しく、姉の様な女性だった。
男は女を選んだ。
男は自分を選ばなかった。
出会い。
駆け抜けた日々。
思い出。
恋。
愛。
憧れ。
終り。
痛み。
苦しみ。
切なさ。
悲しさ。
寂しさ。
もどかしさ。
やるせなさ。
少しの怒り。
もしかしたら、憎しみも――
――それはカワイクない。
幸子は全てを封殺した。
顔を歪めることさえしなかった。
唇を噛んだり、苦い顔をする迄もなかった。
彼女は己の信条一つ持って、黒い感情全てを押し殺した。
表情を変えず、いつもどおりの輿水幸子でいた。
また一度、幸子はまゆを見る。
こずえを抱きしめている。
穏やかな顔で、笑みさえ浮かべながら。
こずえは、少し苦しげだった。恐らく、ぎゅうっと強く抱きしめられている所為で。
ただ、こずえは呻き声は上げず、ただまゆの手に己の小さい手を重ねていた。
小さな事務所の、小さくない出来事。
慕われていた女性の妊娠、そして慕われていた男性との入籍。
無論、それは所属しているアイドルに大なり小なり様々な影響を与えた。
そして、今、幸子の目の前には、一番、件の出来事より変わったであろう人物が居た。
「緒方、ここの振り付けはもう少し腕を――」
「はいっ!」
緒方智絵里。
彼女と幸子はダンスのレッスンの最中であり、運動が余り得意ではない智絵里は、特に集中して指導を受けていた。
元来、智絵里は所謂アイドル向きの性格では無い。
引っ込み思案で、消極的で、儚い。そんな少女だった。
だが同時にそれを武器にもしていた。
誰もが保護したくなるような、可憐さ。
それを彼女は持っていて、それが彼女の魅力だった。
何時だったか、幸子と智絵里の二人で小規模のサイン会を開いた事がある。
智絵里の群がるファン達は、どことなく屈強に見える男性が多かった。
つまり、そう言うことなのだろう。力を持つ者が見ると、その力を持って守りたくなる様な少女。
智絵里は周りを囲むマッスルな男たちに、少し気圧されていた様に幸子からは見えた。
だけれども、ファンはむしろその儚さはばっちこいと言った様子で、とても良い笑顔だった。
中にはドイツでソーセージ屋をやっている男までも来てくれたとのこと。どう言うことだろうか。
ところで、その時幸子がサインをしたスカイダイビングのインストラクターだと言う男性がプロデューサーと何やら話をしていて、彼女に一抹の不安を過ぎらせていた。
――何か、その内とんでもないことをやらされそうな気がする。
しかしあれからそこそこ時間が経ったし、まぁ何もないだろう、幸子は一人頷く。
スカイダイバー、アイドル。
全く共通点のない職業だ。
だから、プロデューサーがダイバーに仕事を頼むってことはない、ないのである。ないない。ないに決まっている。
その後どうなったかは、また別の話。
閑話休題。
さて、智絵里と幸子は、同じコンセプトのアイドルであり、しかし真逆のアイドルでもあった。
幸子と智絵里。
可愛さをアピールする、と言う売り込み方で言えば、彼女たちは同じだった。
ただ、そのやり方は勿論異なる。
幸子は上から自身を叩きつける有り方だ。
己のカワイさを、己の存在を、見る人に印象付ける、攻撃的な個性。
智絵里の場合は幸子と違う。
彼女は、その保護欲を誘う儚い印象から、相手にそう思わせる、防御的な個性だった。
アクティブかパッシブか。
可愛い、と言うコンセプトは同じだが、その実、別物でもあった。
それは、幸子も智絵里も、今でも変わらない。
変わらないものであるが、それでも、智絵里は変わっていた。
あるいは、それは成長、と言ってもいいかも知れない。
「ターンが甘い!」
「はいっ! も、もう一度、お願いします!」
(頑張るなぁ、智絵里さん……)
段々と熱が入る指導を、フロアに座りながら見ている幸子。
本来なら、今は休憩時間の筈なのだ。
それが、今日は、というよりここ最近の智絵里は、休憩の時間に出来なかった動きや分からない振り付けをトレーナーに聞いていた。
しかし、ここのトレーナーは厳しいと言うか情熱的な人であり、例えば軽い質問でここが分からないと言えば、ここをこうだ、よし、今やってみろ、と言う人間だった。
これでは休憩時間の意味がない。
お世辞にも体力があるとは言えない智絵里は、普段なら休憩時にはぐったりしていて、現に、今も少々苦しそうだ。動きもキレが鈍い。
だけれども。
そうありながら、智絵里は輝いていた。
ふらふらになって、トレーナーに叱咤されて、またふらふらになって。
その上で、煌めいていた。彼女の額から落ちる雫の様に、彼女自身も光り輝いていた。
緒方智絵里は、少し、積極的になった。
詰まる所、これに尽きる。
相変わらず、儚い雰囲気はある。
可憐な印象も、見る物に保護欲を刺激させる印象も健在だ。
だが、その中であって、智絵里は以前より一段と強く輝きを放つ、いや、放つべく、こうして自ら高見を目指していた。
苦手な運動、ダンスも、積極的に指導を求める様になっていた。
しかし、それでも体力まではそう簡単には変われないようで。
「ふっ……あっ……」
「っと、少し性急すぎたな、休んでおけ。十分後。また始めるぞ」
「は、はい……」
苦しげに息を吐く智絵里を見かねて、トレーナーの女性はそう言い、フロアから出て行く。
智絵里はそれに返答した後、ふらふらとおぼつかない足取りで幸子が居るフロアの端に歩んだ。
「……お疲れ様です。はい、これ」
「あ、ありがとう幸子ちゃん……」
幸子が取りだしたドリンクを、熱い吐息を滲みませて受け取る智絵里。
そんな彼女の表情には、疲労があり、そして可憐さもあり、同時に力強ささえある様に幸子は思えた。
こくりと喉を鳴らし水分を補給する智絵里を見て、幸子はさて、どうしようかと逡巡する。
(聞くべきか、聞かざるべきか)
智絵里の変化、あるいは成長。
それは明らかに目に見えるもので。
加え、ちひろが妊娠したと判明したあの日、あの時、殊更に落ち込んでいた智絵里の姿は、そこにはもうなかった。
ただあるのは、以前よりも更に眩しくなった少女。
なぜ、だろうか。
幸子は己の中でいくつか考えたのだが、これと言った決定的な証左は終ぞ思い浮かばなかった。
例えば、自棄になっているだとか。
例えば、智絵里も好いていたあの男を忘れようと、必死になっているだとか。
それは、まぁ有り得ることだ。
彼女は人見知りで、だけどその分、彼女が慕う人間にはとことん慕う、そんな少女で。
だからして、一番「男性」として近く、また信頼を寄せていたあの男に思慕を抱いていたのだろう。
そこまでは分かる。だからこそ、件の出来事の際、智絵里は沈んでいたのだ。
だけれども。
では智絵里は自棄になっているのか。
今、忘れる為に、考えない様に、がむしゃらになっているだけなのか。
と言えば、だけど幸子にはそうは見えなかった。
上記の思考は、決して悪い物ではない。ないのだが、同時に、ネガティブな感情によるものでもある。
しかし、今の智絵里には、そうした負の感情は見られない。
本当に、真に、心底、智絵里は前向きになって、そして更に美しく、更に可憐に、カワイクなっている、と幸子は思っていた。
(ま、ボクほどじゃないですけどね)
そこは譲れないのだ。
まぁそれは置いておいて。
しかし、真正面からその理由を聞くのはどうだろうか。
『愛しのプロデューサーが別の女性とくっついた訳ですけど、なんでそんな元気なんですか?』
なんて、デリカシーがないにも程がある。というか、盛大なブーメランにもなり得る。
やはり触らない方がいいのだろうか、とぼんやり幸子が考えれば。
「幸子ちゃんは……」
「はい?」
「幸子ちゃんは、その、大丈夫……なの?」
意外にも、智絵里の方からその口火を切ってきた。
主語が無いその言葉は、だけれども何を指しているか分かりきったものだった。
「ええ、ボクは」
「本当?」
「本当ですよ。ボクはカワイイですからねっ」
幸子は心配げに見つめる智絵里に向かい、渾身のドヤ顔で言い放つ。
それは、真実でも虚構でもない、正しくグレーゾーンの答えだった。
大丈夫かと問われれば、大丈夫なのだ。何も問題はない。
しかし、何も思うところはないのか、と問われれば、それはある。
幸子の意識、無意識に関わらず、考える事、影響は、今もそれなりにあった。
「幸子ちゃんは……」
「はい?」
「幸子ちゃんは、その、大丈夫……なの?」
意外にも、智絵里の方からその口火を切ってきた。
主語が無いその言葉は、だけれども何を指しているか分かりきったものだった。
「ええ、ボクは」
「本当?」
「本当ですよ。ボクはカワイイですからねっ」
幸子は心配げに見つめる智絵里に向かい、渾身のドヤ顔で言い放つ。
それは、真実でも虚構でもない、正しくグレーゾーンの答えだった。
大丈夫かと問われれば、大丈夫なのだ。何も問題はない。
しかし、何も思うところはないのか、と問われれば、それはある。
幸子の意識、無意識に関わらず、考える事、影響は、今もそれなりにあった。
重複しちったー、今のなし
――最後の、終わらすべき事柄が、超えるべき壁が、まだ残っている。
だけれども、それを智絵里に言っても、どうしようもないのだ。
これは幸子自身にしか解決出来ないし、迂闊に口を滑らせてしまえば、この心優しい少女のことだ、恐らく、智絵里は聞いてしまえば、心配を募らせてしまうのだろう。
だから、言わなかった。
その代わりに。
「智絵里さんは……もう、大丈夫そうですね」
「……うん」
幸子が言えば、智絵里は頷きで返す。
折れれば消えてしまいそうであったかつての儚さはそこにはなく、強く、芯がある返しだった。
「私ね、プロデューサーのこと、好きだった……と思う」
智絵里の視線は、横に居る幸子ではなく、前を向いていた。
「だけどね、その、お、お付き合いしたいとか、て、手とか、その、つ、繋ぎたいとか、そういうのじゃなくて、ね……」
たどたどしく、疲れとはまた違う赤色に顔を染めた智絵里を見て、幸子は。
――ああ、この人があのちひろさんの独白を聞かなくて良かった。
と心から思った。
なんせ、あの時は情事の説明やら避妊具の名前やら中だしやらなんやら。
ともかく刺激溢れる言葉のオンパレードだったのだ。
幸子も思わず狼狽した程だったし、と言うか、年頃の少女ならば当たり前だ。
意味が分かっていないであろうこずえは除き、あの場にあって、顔色一つ変えなかったみくの方が異常なのだ。
しかし、智絵里は「お付き合い」だとか「手を繋ぐ」だとか、そんな純真な単語でさえも、こうして顔を赤らめる程で。
真っ白い布は、ただ白くあって欲しい。
同性の幸子でさえもそう思う程、智絵里は初で、純白なのだ。
「……甘えていたんだと、思う」
智絵里は前を向いていた。
フロアの前方には壁しかなく、だけど彼女はそれを見ている訳でもない。
恐らく、彼女にしか見えてない何かを見ていて、思い出しているのだ。
「甘え、ですか」
「うん……この人に着いていけば大丈夫、とか、この人だけいれば、安心、とか…………私の『気持ち』は、そこから始まったんだと思う」
恋心のスタート地点は人それぞれだ。
仮にそれが依存などから始まったものであったとしても、誰にも責められるべきものではない。
幸子は何も言わず、智絵里の言葉に耳を傾けていた。
「あのね、私、プロデューサーとちひろさんが、い、一緒になってね……最初は、その、ショックだった……だけど」
そこで、智絵里は言葉を切って、幸子を見た。
智絵里は、笑っていた。屈託の無い笑顔で。目が眩むほどの眩しい笑みで。ただ、笑っていた。
「事務所で、幸せそうな二人を見て、笑っているプロデューサーと、ちひろさんを見て……これで良かったんだって、そう思ったんだ……」
それなりに時間が経った。落ち込んでいたあの日から。衝撃を受けたあの時から。
智絵里が物事を冷静に考えられる様になれば、自分でも驚くほど、心は穏やかで、かつ、同時に燃えていたのに気付いた。
かの男を好いていたのは、間違いない。
その男が別の女性を選んだ事に落ち込んだのも、また事実だ。
だけど。
――だけど、それだけのことだった。
言ってしまえば。
自分の、緒方智絵里のこれからは、未来は、何も終わってはいやしない。
恋心を抱いた男が、少なくとも自分の隣にいなくなる。ただ、それだけのこと。
智絵里には友達も、仲間も、ライバルも居れば、別段その男性だって、ここから居なくなった訳ではない。
そう思えば、彼女は幸福にある二人を、これ以上無いくらい祝福することが出来た。
事務所において、智絵里が信頼を寄せる二人の大人が、互いに愛を育む。
文面だけ見れば、それは喜ぶべきことで。
それ以上でもそれ以下でも無く、ただ有りのままの事実を、智絵里は真正面から受け止めたのだ。
そして彼女の前には道があった。アイドルの上を目指す、厳しい、だけど、どこまでも己を高ぶらせる道のりが。
だから、智絵里は。
「だから、私はもう甘えない。忘れる訳でも、なかったことにする訳じゃなくて……全部を大切に心に入れて……これから、もっと、もっと頑張って、アイドルの……アイドルとして……」
そこで、智絵里はまた言葉を切った。
幸子が見れば、智絵里はどこまでも、真っ直ぐな瞳で、ただ前だけを見据えていた。
「トップを、目指す……そう、決めたの」
それは、彼女らしからぬ、高らかな宣言だった。
以前よりあった自信が薄い表情はどこへやら。
智絵里の顔は、その瞳は、ただただ輝いていて。
思わず、幸子は見惚れてしまった。
緒方智絵里は、確かに儚く、消極的で、人見知りな少女だった。
だけれども、決して弱い人間ではないのだ。
全ての事実を、感情を、想いを、それらを飲み干し、その上で前へと進む。
そんな強さを彼女は持っていて。
その結果が、今の智絵里だ。
全部を認めて、認め切った上で、ただ更なる煌めきを目指す。
剛毅、けれど、純心。
アイドルとして、少女として、人間として。
彼女は、全てにおいて、一つ、階段を上に登ったのだ。
そんな智絵里の確かな成長に、幸子が賞賛の言葉を掛けようとしたその時、フロアの扉がバンっと勢い良く開いた。
「緒方ぁああああああああああ!」
「ひぅっ!」
「うわっ!?」
怒声とも言える、凄まじい声と共に、例のトレーナーの女性がズカズカと大股で二人に近づく。
その余りの迫力に智絵里と幸子は思わず委縮してしまう。
近づいたトレーナーは、一旦しゃがみ、智絵里の肩に両手を置いて。
「よく言った!」
と、晴れやかな笑みでそう言い放った。
「は、はい……?」
言われた智絵里がきょとんとした顔をしていると、悪いが話を聞いていた、と前置きして、トレーナーは言う。
「アイドルにとって、恋愛事は御法度だ。だけど、人を好きになることは誰にも止められないし、その気持ち自身も、無碍にするべきものではないと私は考えている」
少女と女性の目線が混じる。
少女の目は真っ直ぐで。
女性の目は暖かった。
「お前は……お前は、駄目になってしまった気持ちを含めて、全部、受け入れることが出来たんだな……それを出来るヤツは、中々いないぞ……」
そう言って、トレーナーは両手を広げた。
「来い」
一人蚊帳の外の幸子はデジャブを覚えた。どこぞの誰かと同じ体勢だった。
そうして智絵里がおずおずと彼女に体を預ければ、トレーナーはきつく、だけど優しく、智絵里の体を抱きしめた。
「お前はいいアイドルに……いい女になる。私が証明する! なんだったら、あの男を後悔させるぐらいの、とびきり極上の女にな……絶対、トップになろう」
「はい……はいっ……!」
返事をした智絵里の声は、そのトレーナーの胸部に顔が埋もれている為か、くぐもっていた。
そして同時に、微かに震えていた。
――全てを飲み込んでも。いや、飲み込んだからこそ。
哀しき気持ちは消えず、そこにある。
されど、その感情は、奥にある涙は、決して無駄にはならないのだ。
と、そこで今度は幸子の方に女性の目線が向けられた。
彼女は何も言わなかったが、その目は、「お前もどうだ?」と雄弁に語っていた。
しかし、幸子は。
「ちょっとお花を摘んできます」
「そうか……」
トレーナーは少ししょんぼりとしていた。
こんなところまでデジャブだ、と幸子は思いだし、一旦フロアから出て行った。
(まさか、あの智絵里さんが……)
歩きながら幸子は思う。
別に智絵里を侮っていた訳ではないが、性格的に、立ち直るまで時間が掛かる類だろうとは考えていた。
それがどうだ。
彼女は立ち直るどころか、更に強くなっていた。それも、然したる時間も掛けずに。
いや、元よりあった強さが前面に出る様になった、と言うべきか。
いずれにしても、智絵里はもう何も問題ないのであろう。
幸子が熱苦しき抱擁を断ったのには、いくつか理由がある。
第一に、幸子自身がそう言った『熱血』はあまり好きじゃない事(カワイクないから)
第二に、今あの時は智絵里の時間だった。よって、その世界に立ち入るべきじゃないと考えた事。
最後に。
――あのままトレーナーに身を任せてしまったら、己の感情を抑えることが出来なくなってしまう事。
――それもまた、カワイクない。
手洗い場に着く。
ふと鏡を見れば、いつもの自分が映っていた。
間違いなく、誰がどう見ても、全宇宙的な規模で。
「ボクはカワイイ」
だから、それを証明しなくては、ならない。
例え何があったとしても、自分自身が何を思おうとも。
己のカワイさの証明は、彼女の全てなのだ。
続く。
次回、まゆ編。
あ、どうでもいいけど今回サブタイ入れ忘れた。
05:ストロング・ピュアハート で脳内変換よろしく。
続きぃ!
07:シャイニィ・エラ
除死界。
それは、穢れを知らぬ乙女の囀りを持って、絶望に塗れる死を遠ざける、未来への灯を遍く結界を作り出す魔術。
「って言う、古来よりの儀式が、今の女子会の原型にゃあ」
「ふぇぇ、こわい……」
「みくちゃん、こずえちゃんに嘘教えちゃ駄目よぉ……」
あの公園の出来事から、数刻。
今、CGプロダクションに所属するアイドル六人は、彼女達が住んでいる寮の、智絵里の部屋に集まっていた。
「……と言うか、なんなんですか、その、黒魔術みたいな女子会は……」
「なんかの本に書いていたにゃ」
「みくちゃん、本読むんだ……!」
「卯月ちゃん、論点はそこじゃないと思う……」
――今日、皆で女子会をしましょう。
幸子の提案に、皆諸手を上げて賛成した。
特に、島村卯月はノリに乗り気であり、当初は『私の部屋でやろう!』と息巻いていたのだが、彼女の部屋はとっちらかっている為、智絵里の部屋で行うことになった。
「卯月さん、自分の部屋でやろうと言うのなら、もう少し部屋を綺麗にですね……」
「うっ、わ、私的には結構片付いていたつもりなんだけど……あ、あはは……」
幸子のジト目に、頬を掻いて言う卯月。
彼女はここの中では最年長であり、リーダーでもあり、無論、慕われているのには違いないのだが、私生活においては結構隙が多い人生を送っている。
さて。
幸子がこの集まりを提案した理由は、実はそこまで深い物では無い。
なんとなく、皆と集まって、色々話したかった。言ってしまえば、それだけで。
だけれども、強いて言うのならば。
――繋がりを、認識したかった。
それが、幸子の心にあった。
一人ではない。独りではない。
それが、分かりたかった。改めて、それを認識したかった。
そうして、勇気を得たいのだ。
ケリを着ける、勇気を。
「女子会と言えば、これだにゃあ」
ひとしきり彼女達で食事を作り、テーブルを囲んで、さて、食べようかと言う時に、みくが袋をまさぐって茶色の瓶を取り出した。
「ビール……のイミテーション、ですか」
「ま、みく達はまだ未成年な訳だし、雰囲気だけ、にゃあ」
「いいねいいね! 流石みくちゃん!」
そう言い、卯月は殊更にウキウキしながらそれぞれのグラスにビールに似せたジュースをそれぞれのグラスに注ぐ。
「さて、リーダー、乾杯の音頭、よろしくにゃあ」
「え、ええ!? わ、私!?」
みくに振られた卯月がわたついて首を振るい周囲を見渡す。
他の皆はただじっと卯月を見ていて、それが益々彼女を狼狽させた。
「う、ううう……そもそも何に乾杯すればいいの……?」
と、彼女が唸って居れば。
「みんなの……ふわぁ……」
そこで、智絵里の隣に座っていたこずえが、あくび混じりに口を開く。
それぞれの目線が幼き少女に向かうが、こずえがたじろぎはしなかった。
「……みんなの、あしたに……かん、ぱい」
いつもの眠そうな顔で。
感情が読めない表情で。
だけど、グラスはその手で固く握られていて。
こずえは、はっきりとそう言った
「……そうねぇ」
最初に反応したのは、まゆだった。
「これから先の、未来に」
そう言って、まゆはグラス掲げた。
そこで、まゆと対面に居る幸子の目線が交わる。
まゆはどこまでも澄んだ瞳だった。幸子は照れ隠しに頬を一つ掻いた。
「……め、目指せ! トップ、あいどるっ!」
次いで、智絵里が顔を赤くしながら、けれどしっかりと言い切り、同じくグラスを上げる。
「にゃはは、智絵里ちゃんも言うようになったにゃあ」
「へ、へん、かな……?」
「うんにゃ」
みくは首を振り、軽やかにグラスを持った。
「目標を口に出して言えるぐらいじゃなければ、それを為すことなんて出来無いにゃあ」
その言葉に幸子がピクリと身じろぎをしたが、特に何かを言う事はせず、幸子も皆に習いグラスを上げた。
卯月が、また声を上げる。
「よーし! じゃあ、皆の明日とか未来とかトップアイドルだとか、なんか、そんなん!」
「あやふやだにゃあ」
「いいの! よぅし、じゃあ皆、グラスを」
「あと」
卯月の言葉を遮り、幸子が静かに口を開いた。
――言っても、いいだろう。
こうやって、事務所のアイドル達だけで集まるのは、幾日振りだろうか。
以前迄はちょくちょくこうして飲み食いをしていた訳だが、『あの出来事』以来、自粛的なムードが、彼女達の周囲にはあった。
誰も何も言わなかったが、暗黙の了解、触れてはいけない点、それが確かにあったのだ。
だけど、今は。
幸子は信じた。己の未来も、明日もそうだが、皆の心と、魂を。
心優しき少女たちの、強い力を。
「プロデューサーさんと、ちひろさんの、結婚にも」
幸子がはっきりとそう言えば、しかし他の皆は特に動揺することなく、また力強く頷き返した。
「うん、そうだね……」
卯月は優しく頬笑み、バッと勢い良く立ち上がり、高く、高くグラスを掲げる。
「じゃあ、もう事務所の何もかも! 何もかも全てに! 乾杯!」
『乾杯!』
各々が振り上げたグラスに、各々がまたカチンと音色を立てながら呑み口を重ね合う。
その音は、どこまでも真っ直ぐで、どこまでも強く響いていった。
様々な、そう、正しく様々なことを、少女たちは語り合った。
アイドルのこと。仕事のこと。学校のこと。勉強のこと。
――件の男と、ちひろのこと。
嘘偽り何もなく、少女たちは、有りの儘の想いを、ただ只管に話し、語り合った。
そんな中。
「もぉおおおー! あにょなきゃだしぷろりゅーさーさんめぇー! ほんとうにでりかしーないんだからぁ! ねぇちえりちゃん!」
「そうだにぇ、まゆちゃん、ふ、ふけちゅれすぅ! ちゃ、ちゃんと、ひ、ひにんしなきゃ、めっ、なのに、にゃのにぃ!」
「みくさん、これ、ホントにジュースですよね……?」
「いやいやいや、幸子チャン、いくらなんでも疑うのは酷いにゃあ、多分、これの所為だにゃ」
「チョコレート……ああ、そういうことですか」
「アルコール入りの、にゃ。いや、そんな強いのじゃないから、別に大丈夫かなと思ったんだけど、にゃあ」
まゆと智絵里が顔を真っ赤にして、目をぐるぐるとさせながら、何だかとんでもないことを口走っている。呂律も回っていない。
それを横目で見ながら、幸子とみくは例のチョコレートを口にした。
「……別に、普通ですね」
「二人が特別弱いのかもしれないにゃあ、雰囲気酔い、とかかも知れないけど。念の為、こずえチャンには食べさせない方がいいにゃ」
「こずえちゃあん」
「こずえちゃん!」
「ふわぁ……ないぞうが……ないぞうがぁ」
「それどころではないみたいですけど、こずえさん」
「二人がこずえちゃんを取り合っているにゃ。ウチの事務所、ドロドロにゃあ」
「割と洒落になっていないのでやめて下さい」
と、二人が口々に言っていると。
「よぉし、よしよし!」
「きゃあ!」
「ふぇっ!」
「ふわぁ」
三人でわちゃわちゃしていた彼女達に、後ろから卯月がまとめて抱きしめた。
卯月は渾身のドヤ顔で、少女たちに言う。
「ほら、まゆちゃんも、智絵里ちゃんも。ついでにこずえちゃんも。私に抱きついて、ね。全部受け止めてあげるからっ!」
「うづきちゃあん……」
「うづきちゃん……」
「ついでぇ……」
顔を赤くして、そして、瞳に僅かに涙を載せて。
まゆと智絵里は、少女の懐へと飛び込んだ。ついでに、間にこずえも連れて。
「う、ううううう、ぷろりゅーさーさんの、ばかぁ……」
「な、なかないで、まゆちゃん、わ、わたしも……わたしらってぇ……ふぇ」
「ふわぁ、よしよし……」
「うん、うん。一杯泣いて、一杯騒いで。また、明日から一緒に頑張ろう、ね」
「……あれは酔っているんですか?」
「卯月チャンは素だと思うにゃあ。と言うか、素でもああだから、区別が付かないにゃあ」
「ふふふ、これで、ウチのアイドルは三人抱きしめた……あとは」
卯月は泣きじゃくる少女たちを抱きしめながら、チラリとみくと幸子を見る。
二人は、卯月が何を言いたいかを察し、即座に首を振った。
「ボクは遠慮しときます」
「みくもにゃ。猫は暑いのは嫌いにゃ。寒いのも嫌いだけど」
「そんなぁ……」
卯月はしょぼんと眉を下げた。
女子会は、そのままの勢いで、更にカオスになり、やがては落ち着いて言った。
卯月はぎゅうっと三人を抱きしめて。
まゆと智絵里は、心を曝け出して。
こずえは何時も通りに、だけど、優しく、泣いている二人を撫でて。
みくはただにゃあと鳴いて。
――幸子は、人知れず携帯を弄った。
日が変わる時間の瀬戸際。
女子会は明確な終りなぞなく、ただ、疲れた少女たちはなんとなしにそのまま眠りに着いた。
まゆ、智絵里、こずえは抱きしめ合いながら狭いベッドに入っており、みくは机に突っ伏していた。
卯月はベッドが狭いから、と言う理由で入口近くで寂しくごろんと寝そべっている。
そして、幸子は。
「……行きますか」
幸子は、起きていた。
どころか、自分の部屋に戻って寝る、と言うつもりもなかった。
彼女の決着は、これからなのだ。
08:アイアン・ソウル
輿水幸子。
もしも精神の耐久性が人間の強弱を決めるのならば、彼女は『強い』人間だった。
彼女は生来のナルシストであり、上から己を叩きつける強烈な存在感を放っている。
だけどそれは、見る人が見れば不快にも成りかねない、そんな個性で。
しかし、幸子は周囲の目をもろともしなかった。
彼女の世界は単純で唯一だ。
カワイイボク。
中心にそれがあり、周りにはそれ以外がある。
その『それ以外』を蔑にしている訳では、勿論ない。
ただ、アイドルとして。少女として。人間として。
己のカワイさとは、彼女自身であり全てであるのだ。
幸子には、ブレと言うものが『殆ど』ない。
その点では、例えば卯月だったり、みくもそうと言えるのだが、その辺りのブレなさは、三者で異なっている。
例えば卯月。
彼女は言ってしまえば概念的な普遍だ。
変わらない。変われない。変わる事なぞ有り得ない。最早『そう言う人間』としか言い様がない、絶対の直線。それが彼女。
Y=X。常に一定の線。傾きや切片なんて、彼女には存在しない。
例えばみく。
彼女はしなやかに揺れる柳だ。触れれば右にも左にも傾くことが出来るし、その傾きをキープすることだって出来る。
しかし根本は真っ直ぐな一本筋であり、傾く事はあるが曲がらない。高い柔軟性を持ち、けれど、曲げない。そんな少女だ。
そして、幸子。
彼女の精神は鋼鉄だ。
己のナルシズムを支える、鉄壁の心。折れないし曲がらないどころか、傷つくことさえない、無敵の精神。
――だと、思っていた。幸子自身も。
確かに。
幸子の心は頑強だった。
滑稽にも映りえる絶対的な自信。
それを為す、周囲の嘲りを全く寄せ付けない鋼の魂。
しかし、である。
幸子の心は、らしくなくブレが見えていた。
だが、失恋による傷心、は実のところ、あまり関係が無い。
それぐらいで萎える程脆弱ではないのだ、幸子の精神は。
彼女の鋼鉄が歪みそうになっていたのは、もっと根本的な問題だ。
プロデューサーの男は、幸子をカワイイと言った。
――当然だ。
だけど、男は幸子を選ばなかった。
――別の女性を選んだ。
では、幸子は、なんだ。
自分は、何になる?
男に選ばれなかった自分は、カワイクないのか?
幸子を悩ませていたのは、これだ。
男を好きだったのは本当だ。失恋による傷だってある。
だけど、それよりもっと彼女を苛ませているのは、己のアイデンティティーについて、だ。
我ながら難儀な生き方だとは、幸子は思っている。
しかし、これは、これだけは。
『ボクはカワイイ』と言う事。
これだけは、絶対でなければならない。
それの証明の過程で、自身が傷ついたとしても。
それだけは、必ず。
――すぅ、と息を吸う。
勇気は、貰った。と言うより、分かった。
今居る少女たちは、皆強い。それが、分かった。
ならば、同僚の自分だって、同じぐらい強い。その筈だ。
理論的では無い、あまりにも感情的な衝動。
だけれども、そう、これでいい。
自分にある勇気を、強さを、カワイさを。
後はぶつけるだけ。
――ゆっくりと、息を吐く。
そうして、こっそりと、寝ている少女たちを起こさない様に、音を立てずに幸子が部屋から出ようとした、その時。
「……どこ、行くのかにゃ?」
背後からそんな言葉を投げかけられても、幸子はやはり動じなかった。
彼女ならば、起きていると思ったからだ。
「どこって……みくさん、どこだと思います?」
机から顔を上げ、だけど寝ていた形跡は顔にないみくに、幸子は悪戯気に笑いかける。
みくは、笑わなかった。
「……多分、あの公園」
「へぇ……」
「幸子チャン、ちょこちょこ携帯弄っていたよね? んで、普段、幸子チャンはよっぽどの事が無い限り、皆と話している時は携帯を触らない筈にゃあ。つまり、『よっぽど』のことなのにゃあ。いや、よっぽどのことをしようとしている、かにゃ?」
「それで、公園、ですか?」
「……携帯を触っていたのは二回。多分だけど、送信と返信の確認。誰かに何かを聞いて、それの答えを見た。そのタイミングと今までを考えれば――」
「そうです」
そこで、幸子はみくの言葉を遮った。あまり長く話せば、時間に遅れる可能性があるからだ。
「ボクは、あの公園にプロデューサーさんを呼び出しました……あと、30分くらいですかね」
「こんな遅くに? よくあの人が許したにゃあ」
「大事な話があると言えば、あの人はスッ飛んできますよ……みくさんも、知っているでしょう?」
「……まぁ、にゃ」
みくは、遠くを見る様に目を細めた。
その仕草に、幸子は思うところがあったのだが、それは今問答している暇がない。
代わりに、幸子は左足を軽く動かした。
ちらりと横を見たあと、幸子はまた目線をみくに映す。
みくは、手にチョコレートを持っており、そのまま口に入れた。
そうして、言う。
「なんで?」
「……」
「まさか、事務所を」
「違いますよ」
幸子は即座に否定した。こんなこと、正しく『こんなこと』で、ここにある絆を断ち切りたくはなかった。
ふぅ、と吐息を漏らし、みくに向かう。
「先ず、プロデューサーさんに会って、ボクはカワイイですか、と聞きます」
「……は?」
「当然、あの人はカワイイと言うでしょう。お世辞ではなく、事実として。ボクはカワイイですからね!」
「……」
「そして……」
一つ、呼吸を整える。
「あの人に、好きだったと、言います」
「っ……」
みくの喉を鳴らす音が聞こえた、気がした。
「……これまた当然、ボクは振られるでしょうね。立場とか年齢とか……これは言い訳か。あの人には……ちひろさんが居る」
それが、幸子が出した結論。答え。
男にカワイイと言って貰い、想いを伝え、その上で、振られる。
そうすれば、一つの証明が出来る訳だ。
『男が自分を選ばなかったことと、自分がカワイイこと、二つには何の関係もない』
幸子にとって、それが絶対。それが、自分自身。
これが、これこそが輿水幸子という少女の生き様だった。
――己の絶対な信念の上に、そぐわない物は全て封殺する、鋼の魂。
「馬鹿だにゃ」
みくは、きっぱりとそう言った。
「そんなの……ただ自分が傷つくだけなのに」
しかしその言葉には、嘲りの色はなかった。
ただ、今から振られに行く少女への、想いを散らしに行く少女への、羨望が、そこにあった。
幸子は、みくに向けて、あまりにも眩しい輝く笑顔を向ける。
「馬鹿かもしれない。愚かかもしれない。だけど、ボクはカワイイ……他に、何が必要ですか?」
他に何が必要か。
言ってしまえば、男が欲しかった。
自身の隣に、カワイイと言ってくれるあの男が居れば、完全に完璧だった。
だけれども、それはあり得ない。
だから、彼女は。
「これで、終わりにします。また、未来に向かえる様に」
くるり、と幸子は踵を返した。
これ以上、言うことはない。聞くこともない。加え、時間もない。
みくが今何を考えているか確かめる時間的な余裕は、ないのだ。
一つだけ、幸子には気がかりなことがあった。
みくは、智絵里に言った。
『目標を口に出して言えるぐらいじゃなければ、それを為すことなんて出来無い』
果てしてあれは、誰に向けて言った台詞なのだろうか。
みくは、あの公園で、幸子に言った。
『たまたま通りがかった』
なるほど、確かにそれは真実なのだろう。
だけどそれは、『たまたま東屋でまゆと幸子が居るところを通りがかった』というのが本質なのだ。
あの公園は、レッスン終わりにたまたま通りがかる様なところではない。
もしくは気紛れで、こずえが公園に行きたいと言ったのかもしれない。だけど、こずはえあの時、空腹だと言った。
そんな彼女が、わざわざ公園に行きたがるのか。
あれは、誰の気紛れだったのか?
今日、この女子会において、皆、吐く言葉に、出した想いに、嘘偽りは間違いなくなかった。
だけど一人だけ、虚偽は言わず、ただ隠し通そうとした少女が、この場に居たのだ。
(あとは、頼みますよ)
幸子は心中でそう呟いた。
ここまで来たら、やはり頼むしかない。
彼女たちの、頼れない、だけどどこまでも真っ直ぐな、あの少女に。
静かに、音を立てず、幸子は扉を閉めた。
駄目だ、時間が足りない。
区切りもいいし、一旦ここまで。
上手く行けば今日中に終わらす。駄目なら明日。
終わらす。
09:キャットウォーク・クロニクル
「にゃあ」
幸子を見送った後、みくは一つ、鳴いた。
寂しげに、悲しげに、虚しく。
――あの子は、恐らく、気づいている。
普段の尊大な態度とは裏腹に、幸子はずっと頭の回転が早い。
らしくなく、ボロ出してしまった。
そこまでの状況で、幸子ならば、分かっていてもおかしくはない。
だけど幸子は、無闇に人の懐に飛び込みはしない。
みくと同じように、漠然と人の気持ちに入り込んだりは、しないのだ。
――そう。
みくはそうしているのだ。
踏み込まない。立ち入らない。危ないものには関わらない。
目に見える爆弾は、みくは絶対に踏まない。
――それが、自分の心中にあっても、だ。
分かっている。分かっていた。
これは、所詮逃げでしかないのだ。
全てを受け入れて前に進むと決めた智絵里とまゆ。
きっぱりとケリを着けに行った幸子。
――三人に比べ、なんと自分は弱いのだろうか。
その選択をして欲しい訳ではない、と前置きした上で。
失恋とそれに伴う苦しみ、悲しみ。その簡潔な解決法。
それは、事務所を辞めること。
簡単なことだ。二人の中睦まじい様子を見て苦しむのなら、そもそも見なければいいのだ。
みくは、決してそれを推奨してはいなかった。
彼女は事務所もみんなのことも大好きで、出来得るのなら共に上へと駆けたいのだから。
だけど、誰かがそう言う道を歩むのなら、止めるつもりはなかった。
同時に、誰かがそう言う道を歩むのではないか、誰かが事務所から出るのではないか、そうも思っていた。
しかし、結果、そうはならなかった。
みんな、みんな、みくが思うより、ずっと強い少女だったのだ。
そうして、みくは――
誰が一番深くかの男を愛していたか。
比べる意味もない、稚拙な行為だ。そんなこと、なんの意味もない。
だけど、それでも、みくは。
自分こそが彼を好きだと、愛していたと、そう、思っていた。
誰にも、恐らくあの男やちひろでさえも、それに気づいて居はないのだろう。気配の隠蔽は完璧だった。
若干のボロを出してはしまったが、それに気づけた幸子は今他にやることがあり、その他の皆は、寝ている。
誰にも、猫の尻尾はつかめない。
少女たちはみくと同じ様に男を懸想していたが、その想いはそれぞれ異なる。
智絵里は、漠然と彼を好いていた。
確かに『愛』の一つではあったが、それは極めて純度が高い、初々しい恋心だった。彼女の消極性が良くも悪くも作用していた。
――何れにしても、傷は浅い。
しかし、それを差し引いてもなお、彼女の立ち直りは早かった。
幸子は、自分を肯定したくれたからこそ、彼を愛していた。
ある意味での鏡だったのだ。自分をカワイイといってくれる男が好き。
絶対的な自信を持つが故の、ナルシズム。無論、それだけのものではないが、スタートはそこだった。
――だからこそ、彼女はそれを断ち切りに行ったのだ。
まゆは、べったりと深い愛だった。
天秤があったとする。まゆは、その片方に愛を全力で重ねることが出来る女だった。
他に何もいらず、一方だけあれば満足。アイドルを捨てることになったとしても、片方があれば、それでいい。そんな捨て身の愛を持っていた。
――だけど、まゆは隙を作ってしまった。
事務所で笑いあい、切磋琢磨し、愛を抱く少女としてだけではなく、煌くアイドルとして過ごした日々で、まゆは明確に変化していた。
それでも、もし、彼がまゆに愛を囁いた場合、彼女は躊躇わずにアイドルを捨てることが出来るだろう。
だけど、心にどこか『しこり』が生まれる。それぐらいには、彼女は確かに変わっていた。
だからこそ、男を愛する、と言う天秤の片方がなくなっても、そのしこりが、『アイドル』が彼女には残っていた。
そして仲間の存在が、まゆを支えていた。
だからこそ、まゆは自棄になることも間違った選択をとることもなかった。
仲間・ライバル・友達。共に高みを目指すと、決めることが出来た。
みくは、そのどれでもなかった。
まゆと同様の愛を持っていて、だけどアイドルや仲間との良好な関係性を捨てる気もさらさらなかった。
どちらかを捨てず、どちらも取る。全部取る。
彼女はそれを成す覚悟も、頭脳も、ポテンシャルも、全部を手に揃えていた。
天性の驚異的な立ち回り。それが、それを持ってしまった為に、なまじ出来てしまった為に。
最後に必要な、そして一番重要な、『男に選ばれる』、それだけが、みくの掌から零れ落ちていた為に。
みくは、深く、深く、ずぶずぶと泥沼に足を突っ込んでしまっていたのだ。
「猫は、過去を振り向かない」
一つそう呟く。
彼女に残された、唯一の自衛手段。
そんなことはなかった。辛い過去など何もなかった。
それでいい。そうしなければならない。
忘れよう、忘れなきゃ、駄目なのだ。
過去は忘れて、しかし、それでも悲しみは消えない。暗い沼は彼女の足元に這い寄っている。
泥沼。だけどそれでもいい。そこにあったしても尚、彼女は踊れていた。踊ることが出来てしまっていた。
うじうじして、泥沼を誰かに見せる、それはもう前川みくじゃない。
――自分は、曲げない。
これが、彼女なのだ。一度そう決めたのだ。
『そんなことはなかった』
だから、みくはそうしている。
踊れるから、踊り続ける。悲しみの中で。苦しみの元に。
やろうと思えば、みくはいくらでも、男とちひろの仲を邪魔することが出来た。
彼女の立ち回りならば、猫のように軽い飄々とした渡り方ならば、二人の関係を壊すことは、出来なくもなかった。
でも、だ。
いつか、みくが見た、男とちひろが抱き合っていた、あの時。
その刹那で、みくは悟ってしまった、分かってしまったのだ。
『あの二人の絆は、裂いてはいけない』と。
兼ねてより怪しい関係だとは思っていた。だけど、決定的な証拠はなかった。
だから、その時点ではまだみくは諦めては居なかった。
しかし。
抱きしめ合っていた二人の、あの表情。間に溢れていた幸福な雰囲気。
あそこまで、あれ程までの関係だったのだ、二人は。
壊すことは、やろうと思えば出来た。みくならば。
でもそれをやってしまうと、事務所がおかしくなってしまう。みくがまた好きだった、CGプロダクション自身が、危うくなってしまう。
――それもまた、嫌だ。
みくが出来たことは、ただ祈るだけだった。
あくまで円満に、自然に、二人の愛が薄れ、これからは良い同僚でいよう、となる。
それだけが、みくが何も壊さずに男を手に入れる、たった一つの手だったのだ。
それさえ達成されれば、他に彼を好いていたアイドルを何とかすればいい。
例えば、智絵里や幸子。この二人ならば、懐柔は出来る。
例えばまゆ。難しいかもしれないが、やってやれないことは、ない。
あとは時の流れで、二人の関係が冷めるのを待つしかなかった。
しかし、時間が産んだのは、全てを終わらす祝福の鐘だった。
――ちひろの懐妊。
そこでみくは、男を諦めた。
どうやっても、無理だ。
それこそ一時期、ちひろと男がギクシャクしている時、みくは、素早く男とちひろが隠していた気持ちに気づいたが、逆にあれに気づかなかったら、この事務所は終わっていた。
ちょっとずつ積もる不安が、二人を切り裂いただろう。
その予感があった。だから、みくはちひろに真実を伝え、間を取り持った。
せめて、二人を暖かく見守ろう。そう、思うことにした。
だけど、だ。
みくは、例のアルコールが入ったチョコレートを口に入れる。
これで智絵里やまゆの様に何もかも曝け出してしまえば、あるいは楽になるのかも知れない。
でも、それは出来ない。出来なかった。
それはもう、前川みくじゃない。
自分は自由気ままな猫。もしくはバランサー。そうじゃなきゃ、自分ではない、のだ。
「……苦い」
口一杯に広がる苦味に、少しだけ顔を顰めるみく。
しかしやはり、酔いなどはしない。
だけど、代わりに。
みくの頬を、二条の涙がなぞった。
「あ、あれ?」
自分でもびっくりするくらい自然に出た涙に、みくは狼狽してしまう。
瞬時に、今までどおり、信念で涙を止めようとするが、だけど、出来なかった。
「なん、なんで……」
涙は、止まらない。
ポロポロとただ独りで落涙する少女。
口から疑問符が出るが、だけどみくは、分かっていた。
自分だけが、弱いまま。
リーダー格である少女は、変わりなくいつもの彼女だった。
いつも眠そうな少女は、それでもきちんと、全てを大切に思っていた。
件の女と男は、どうしようもなく互いを求めていて、だからこその突然の懐妊だった。
気弱な少女は、誰の手も借りず、自力で立ち上がり、煌く世界に上り始めた。
男に深い愛を抱いていた少女は、だけど未来をその男の為じゃなく、自分の為に使うと決めた。
ナルシズム溢れる少女は、ただ正々堂々と、真っ直ぐ――結果は解かりきっているのに――想いを伝えに行った。
じゃあ、自分は?
自分は、何時まで止まっていればいい?
いつまで、『飄々とした前川みく』でいればいいのだ?
流れる涙は、彼女の心がもがき苦しむ中で発せられた、危険信号だったのかもしれない。
「っ、く……ふっ、うっ、うっ……」
如何に彼女が上手な立ち回りを見せていたとしても。
心の泥沼で、まだ舞える精神を持っていたとしても。
だけど、みくは十五歳の少女だった。
失恋に咽び泣き、立ち止まる自分に絶望する、普通の女の子なのだ。
ここが、みくの分水嶺だった。
もしここで、彼女が独りで涙を流していたら。
明日のみくは、だけど何時もどおりのみくで。
そのまた次のみくも、普段のみくだ。
――今日の涙を流したみくは、ここで殺されてしまう。
この時点で、誰かがみくに気づかなければ、やっと弱さを出したみくは、ここで封殺されてしまう。
そうしてまた、極めていつものみくが、また飄々とにゃあにゃあ鳴くのだ――心奥に、深い悲しみを抱えながら。
だけど結果、そうはならなかった。
『彼女』はそれを見逃さなかった。
幸子ではなく、よりによって一番弱さを見せてはいけない『彼女』の間合いで、みくは尻尾を振ってしまったのだ。
この距離は、彼女の距離だ。
零距離、掴む。
「みくちゃん」
「っ!」
顔を伏せ声を押し殺し鳴いていたみくに、ふわりと声が掛けられる。
いつの間にやら、みくのすぐ隣に卯月が来ていた。
「な……」
みくは驚愕の声を上げた。
卯月は確かに寝ていた筈だし、彼女を起こすような声も出しては居ない筈だった。
――そこでみくはハッとした。
幸子が、入り口付近で足を動かしていたことを思い出したのだ。
あれは、そこで寝ていた卯月を起こす為の――
「おいで」
そこまで思い至った時、卯月は腕を大きく広げていた。
優しく、暖かく、そして、かつてみくが拒絶した、あの時と同じように。
「私が、全部受け止めてあげる」
しかし今のみくには、それを突っぱねる力は残されては居なかった。
まるで誘蛾灯に吸い込まれるかのごとく、輝く彼女にゆっくりと近づくみく。
そうして、すっぽりと、卯月の胸元にみくが飛び込んだ。
みくは、人の爆発点には立ち入らない。
それは彼女の本質であり、特技でもあり、また呪いでもあった。
他人だけではなく、自分を爆発させることも、みくには出来ないのだから。
だから、卯月がそれを踏み抜いた。
みく本人にも立ち入ることが出来なかった地雷原に、卯月は飛び込んだのだ。
それを、全ての業を包み込めることが出来るのが、島村卯月だった。
卯月は胸元に顔埋めたみくをきつく、強く抱きしめ、そして、言う。
「……頑張ったね」
もう、みくは限界だった。
「う、あ、ああああああああああああああ」
押し殺していた泣叫が。
なかったことにするつもりだった悲しみが。
見せるつもりがなかった弱さが。
今ここで、爆発した。
どうしようもなく、彼に恋焦がれていた。
一人で、この過酷な世界で生きて来た自分を見つけてくれた、あの人。
立場の問題も。年齢の差も。自分が、恋愛の対象になっていないことも。
全てが分かって、尚、それでも、みくは。
同じくをして、みくは今の居場所も好きだった。
夢見ていたアイドル。志を共にする仲間。それもまた、愛していた。
「うあ、ああああああああああ、なんでっ、なんでっ、あ、ああああっ」
欲しかった。何もかも、手の内に入れたかった。
一つも零すことなく、全部を掌に抱えたかった。
しかし、いくら彼女が才気溢れる人間であったとしても。
所詮、未だ幼き少女。それは、ただの儚い空想でしかなかったのだ。
「好きだった……ホントにっ、ホントに……みくはっ、ずっと!」
結末は、これだ。
愛した男は手に入らない。
無理にこじ開けようとすれば、今度は世界が壊れる。
愛した形跡も見せられない。
そうやって、一人に固執するのは、あまりにも自分じゃない。
残ったのは、弱い自分だけ。
進み行く仲間の背中を眺め、自分は泥沼に一人。
しかも、その泥の中でも、彼女は只管に踊っていなければならない。
これが、あるいは末路なのだ。
全てを手に入れんとし、全てを押し殺そうとした、愚かな末路。
しかし。
「うん、うん……ごめんね、気付けなくて、ごめんね。苦しかったね……」
「くっ、ふっ……う、っ、ああああ、あああああああああ」
受け止めてくれる友が、彼女の傍らに居た。
悲しみを。隠していた想いを。見せたくない、見せられない、見せる事ができない心の爆弾を、みくに代わり暴いた、事務所のリーダーが、確かに近くに居るのだ。
「うん、うん、っ、ぐす、あ、ははは、なんでだろ、私も、泣けて……ぅう」
島村卯月。
彼女は、ごく普通の感性の持ち主だ。
振られた気持ちは、卯月には分からない。
立ち止まって、置いて行かれる苦しみも、あるいは未だ分からない。
それでも。
悲しみの気持ちを。泣く、と言う原初の衝動を。
彼女は見事共感して見せた。
普通に。普通に、慰める。普通に、想いを合わせる。
救う、なんて、大仰なことではない。また、傲慢でもない。
ただ、共に感じ、共に悲しみ、友と泣く。
みくが必要だったのは、これだ。
可能かどうかと言えば、心中の闇から抜け出すのは出来た。
しかし、彼女の矜持がそれを許さなかった。
それはプライドでもあり、生き様だった。
誇りは、大事だ。
だけど同時に、邪魔でもある。
有ればいいというものではない。
無ければいいといういうものでもない。
持つ事。捨てる事。
どちらを選べば正解か、なんて、誰に分かるものでもない。
みくは。
前川みくは。
「卯月チャン、ごめん、もう、もう少しっ……このまま……っく……」
「うんっ、うん……もっと、ふっ、ぅ……ぐすっ……もっと泣いて……ね?」
この場において、捨てることを選んだ。
弱みを見せ、らしくなく、喚いて、曝け出して。
それでも、明日を、未来を、仲間と共に行くと、そう、決めたのだ。
「ぐっ、ふ、あああああああ、あああ、――チャンの、ばかっ、ばかぁあぁあああ!」
瞳は濡れ、声は荒く、愛した男の名を叫ぶ、一人の少女。
そこにいつもの彼女はない。
それでもみくは。
それでも未来は。
ただ、輝きに溢れていた。
10:雨のち未来
時は深夜。空に星は無い。
灰色の雲が天を覆い、ただ分厚いそれが、下界を見下ろしていた。
「それで……」
街灯点る公園の一角で、男が呟いた。
静かに、だけど固く、鉄の様な冷たい声だった。
「なんのつもりだ、幸子……こんな時間に。こんなところで」
「まぁ焦らないで下さいよ、プロデューサーさん」
若干の責める感情があった男の言葉に、けれど幸子は軽く受け流す。
にこりと笑みを向け、ただ淑女然としていた。
「お前、女の子が、こんな遅くに外に出るなんて――――」
それは男の本心の心配であった。
あったが、男の胸中は、それだけのものでもなかった。
彼は、恐れていた。
事務所を賑わせてしまった、件の出来事。
今夜、彼女が自分を呼び寄せたのは、間違いなく、そのことに関係がある。
それが、ただ怖かったのだ。彼女の口から、何か良からぬ事が出るのではないかと、怯えていたのだ。
男は、所属しているアイドルの一部が、自分にどう言う感情を抱いているか、知っていた。
知った上で、尚、同僚の女性に愛を抱いた。
知った上で、だからこそ、彼とちひろは秘密の付き合いだったのだ。
――もう少し、彼女達が経験を積み、年を重ね、自分よりもっと相応しい人間に出会う時が、必ず来る。それまで。それまでは――
それは、アイドルを気遣う想いで、同時に逃げでもあった。
彼もまた、時の解決を祈るしかない、無力な人間であったのだ。
しかし、男女間の愛が、それらを台無しにした。
互いを強く思うがあまり、とてつもなく、愚かな選択をしてしまった。
無論、それを否定するつもりは、全く無い。
愛した女性との間に出来た新しい生命は、彼にとって、正しく掛け替えの無いものだ。
選択は愚かだった。だけど、出した答えまで愚かにすることは、彼はなかった。
だけど、また、同時に。
彼は、アイドルを愛していた。友愛として、それでも愛していた。
もし、道を違えて、例えば移籍を選ぶと言うことがあっても、彼はそれを認めるだろう。
未来の選択権は、常に本人にある。
しかし、それが。
それが、よりによって、ある意味での痴情の関係で、もっと言えば、ちひろと自分の『愛』が原因ならば、それはとても虚しく、やるせないことだ。
彼は、ただ恐れていた。
親愛が友愛を捨てることになるかもしれない恐怖に。
だけど。
「お小言は、後ほど聞きますよ……それより」
幸子は、男の心境なぞどうでもよかった。
そんなこと。そんなこと、なのだ。今の幸子にとっては。
幸子は、みくの様に軽いステップを踏み。
卯月の様に真っ直ぐ進んで。
智絵里の様に、美しく、華が咲く花壇の前に立ち。
まゆの様に、凛と姿勢を正し。
こずえの様に、ただ無邪気に、無垢に笑った。
くるり、とそのまま一回転。
街灯だけが光る、暗闇の中で。
幸子が、幸子だけが、この場で、殊更に輝いていた。
「……っ」
男は、ハッと息を呑んだ。
それは、あまりにも浮世離れした光景だった。
今の幸子は、完全で無欠だった。
彼が求めた、アイドルの頂上がここにある、様な気がした。
「プロデューサーさん」
「……」
幸子が男に言う。もう彼女は揺るがない。
男は何も言わない。ただ、幸子だけを見ていた。
ゆっくりと、しかし、はっきりと、幸子が口を開く。
「ボク、カワイイでしょう?」
「……ああ」
男もまた、ありのまま、ただ心に浮んだ衝動に任せ、口を開く。
「幸子は、カワイイよ」
幸子は、そこでにこりと満足げに笑った。
もう、何も恐れる事は無い。あとは、ただ終わらすだけ。
さぁ、決着の時間だ。
「あなたのことが、好きでした」
「ごめん」
――あっと言う間だった。
男は決めていた。これに関しては、もう何も偽らないと決めていたのだ。
男はちひろ愛している。それ以外は男女間の愛はない。
誰に何を聞かれてもそう答えると、彼は決めていた。だから、言った。
一方、幸子は
「もし……ちひろさんを泣かせたり悲しめたりしたら、ただじゃおきませんからね」
「……ああ、当然だ……!」
幸子は、すっきりした表情で、穏やかに笑った。
これで終了。これにて終幕。あとは明日を迎えるだけ。
(これで、これでいい)
そうこれでいい。
幸子はカワイイ。カワイイのだ。
それは全世界的に見ても、宇宙的に見ても、銀河的規模でもそうなのだ。
――無論、男からみても、カワイイのだ。
だから、これでいい。
自分がカワイイと言う絶対普遍的な事実と、自分が彼に選ばれなかった、残酷な事実。
これは別物なのだ。
自分はカワイイ。だけど、男は自分を選ばない。
それだけ。それだけのこと。
天地が引っくり返っても、誰が、何を、どうしようと、ただ、容赦なく。
――ボクはカワイイ。
それさえ証明出来れば、なに、後は些事でしかない。
結局、幸子は最後まで涙を流すことはなかった。
涙腺が緩むことは、何度もあった。
恋破れることが確定してから今まで、数えれば限がないぐらい、泣きかけていた。
例えば、彼が幸子に話し掛けた時。
例えば、彼とちひろが幸せそうに話している時。
例えば、ふと、昔の彼との夢を見た時。
どうしようもなく悲しくなったり、切なくなったり。
胸の奥がじくじくと痛み、何もかもを投げ飛ばしたくなってみたり。
泣きたいほどの葛藤。
それは確かにあった。
だけど、それでも幸子は泣かなかった。
理由は、簡単だ。
カワイク泣くことが出来ないから。それだけだ。
泣くことがカワイクないと思っている、ではなく、カワイク泣ける気がしない。だから、泣かない。
多分、顔の穴と言う穴から水分垂れ流しで、辺り構わず喚き散らすような、そんな泣き方になってしまう。幸子にはその予感があった。
それが悪いとは言わない。だが、幸子は自身がそれをするのは、彼女の矜持が許さなかった。
だから、幸子は涙を流さない。
いつか、何年後かの未来で。
今の切ない胸中を思い出し、ひっそりと、カワイク泣こう。
幸子は、そう、決めていた。
だから、だろうか。
「あ……」
「雨が……」
分厚く肥大化した雲から、堰を切った如く天から雨が降り注ぐ。
まるで、泣けない幸子の代わりに泣いてあげたかの様に、悲しみも、苦しみも、抱えていた負の感情全てを押し流す、強く、重く、あるいは優しい雨だった。
これは、カミサマが泣いてくれたのだ、幸子は勝手にそう思うことにした。
だって、幸子はカワイイのだから。そのカワイイ自分がカワイク振られたのだ。そりゃ、カミサマも涙を流すだろう。
そういうことにした。そういうことになった。
だけれども。
(ちょっと泣き過ぎじゃないですかねぇ……)
「おいっ、幸子、どこか雨宿りするぞっ、風邪引いちまうっ!」
雨は勢い強く、豪雨と言わんばかりにざぁざぁと降りしきっていた。
男が慌てて幸子を促し、二人は東屋に入る。
突然の豪雨に、彼女は濡れ鼠だ。
(こう言うのは……もっとこう、しとしと降るって言うか、もう少し柔らかく降るものでは……)
内心、ちょっとぶー垂れる幸子。
まぁ、これも、カミサマが幸子の水滴る様を見たかったのだろう。
(水も滴るカワイイボクっ)
とりあえず、幸子は天に向けてドヤ顔を放った。
カミサマに対しての出血大サービスだ。これには全能な誰かさんも満足するだろう。
そういうことにした。そういうことになった。
そこで、ふと目線を感じた幸子が横に居る男を見れば、彼は幸子を見下ろし、何やらじっと見つめた。
「幸子――」
そこで、幸子はハッと気付く。
雨。濡れ服。男の目線。デリカシーが無い男。
幸子はぎゅっと拳を握った。
男が何を言うか気付いたから。
あまりにも雰囲気を壊す、あんまりな言葉。
もしかしたら居心地の悪さを感じた彼なりの冗談なのかもしれないが、それを差し引いてもなお、あんまりだった。
でもそれは、とても彼らしくて。
彼女はにっこりと笑い、だけど、肘を引き彼の腹部に狙いを定めた。
「お前―――」
時は闇。天は雨。
だけど未来は眩しくて――
少女の拳が鈍く光る。
End
スレタイ回収完了。
これにて終わり。
お疲れさん。
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