千早父「娘はアイドル」(26)


書店に行けば、CDの新譜も雑誌の新刊も『765プロダクション』の文字が躍る。
駅前の大型看板も、今度のアリーナライブの宣伝広告が張り出されている。
道行くサラリーマンや学生も足を止めて、携帯やスマートフォンで写真を撮っている。

その中の、一人。
私もその中の一人であるはずだ。
だが、私は意図的にそれを避けていた。
私にそんな事が許されるはずがないからだ。

「課長、どうかしましたか?」

私が、アイドル〈如月千早〉の父親であることは、知られていない。
かつて、息子を亡くしたあと、妻…元妻とのすれ違いの末、離婚し、元の苗字である〈今井〉姓に戻した所為もあるのだろう。
アイドル〈如月千早〉が生まれる前の話だけに、これだけ彼女がメディアに出るようになっても、誰も私に娘の事で尋ねてこないのは、寧ろ私としては有難かった。

「凄いですね、765プロ、ちょっと前までは竜宮小町くらいだったのに、今じゃ、所属アイドルの皆があんなに人気ですからね」

会社へ一緒に通勤していた部下が、楽しげな口調で言うのを聞いているだけで、私は胸を締め付けられる思いだった。
親として、千早の活躍を喜ばないわけではない。
だが、私はその資格が無い男なのだ。


「俺、今度ライブの先行抽選もしてるんですよ、当たると良いなぁ」

待ち遠しそうな声の部下に、気の無い返事を返し、私は会社の玄関をくぐった。
机の付くと、早速仕事に取り掛かろうとする。
しかし、私の脳裏は、あの夜のことが頭によぎるばかりだった。



10年近く前の、あの日の事が。


「俺、今度ライブの先行抽選もしてるんですよ、当たると良いなぁ」

待ち遠しそうな声の部下に、気の無い返事を返し、私は会社の玄関をくぐった。
机の付くと、早速仕事に取り掛かろうとする。
しかし、私の脳裏は、あの夜のことが頭によぎるばかりだった。



10年近く前の、あの日の事が。


「優…どうしてこんな事に…優…!」

嗚咽しながら、亡き息子の遺影の前に座り込んでいるのは、私の妻、如月千種だ。
無邪気な笑顔を見せた遺影を見るたびに、私は足下が崩れ落ちたような錯覚を覚える。
千早と優は、私の人生だった。
千早は、今度小学校3年生、優は、小学校入学を来年にと言うときだった。
夏祭りに出かけた私達は、毎年の通り、その祭りを楽しんでいた。
しかし、祭りの会場を横切る一本の道路が、全てを変えてしまった。


「本当に、毎年人が多いわね…千早、優、たこ焼き食べる?」
「食べる!」
「食べたい!」

妻の問いに、千早も優も満面の笑みを浮かべて答えた。
私は、すぐそばの屋台で、たこ焼きを頼み、一つを千早に渡す。

「おいしいね、おとうさん!」
「あつっ!」
「ゆう、ちゃんとさましてからたべないとダメだよ」
「あい…」
「ほら、優、もっと落ち着いて食べなさい」
「おいしい!」

妻と子供達の食事風景を、私は本当に幸せに思いながら見ている。
夫婦共働きで、2人の時間もうまく作れなかったが、それでも妻も私も、おしどりと言うほどでもないが、とても良好な夫婦仲だと思っている。
2人の子宝にも恵まれ、私は幸せの絶頂だった。

「千早、余所見をしないで、優、お姉ちゃんと手を離したらダメよ」
「はーい」
「わかった」

居並ぶ出店に目を奪われながら、千早と優は私達に付いてきていた。
しかし、そこで、その道路に差し掛かったときだった。
横断歩道を渡りきったとき、後ろを振り返れば、優と千早は水風船を落としたのか、その場で立ち止まっていた。

「優!千早!早く着なさい」


妻が呼ぶと、千早と優がこちらを振り返る。
優が走り出す、道路に向かって。
私は目を疑った。
普段は通らない、大型トラックが、道路を走ってくる。
そして、優がこちらへ掛けてくる、千早がその後を追いかけてくる。
妻も、私も足が動かない。ダメだ、来るな、止まれ、気付いてくれ。止まってくれ。
やめろ、来るな、止まれ。優、こっちへ来るな。
その言葉が、のどまででかかったのに、出なかった。
出す暇も無い、一瞬の出来事だった。
鳴り響く急ブレーキ音、そして、ドンッ、と言う鈍い衝突音と、それに一瞬遅れてドサッ、と言う重たい音。
そこから先は、殆ど何も覚えていなかった。
泣き叫ぶ娘と妻が優へ駆け寄り、私はトラックの運転手に掴みかかっていたらしい。
そのまま病院へ、救急車に乗り、そこで、息子の死が告げられた。
享年、5歳。
あまりに幼い命だった。かけがえの無い命だった。
たった一瞬で、それを失ってしまった。


「私の所為で…私の所為で優が…!…あなたも…そばにいたのなら、気付かなかったんですか?!」
「呼ぶ前にお前が気付いていないからだろう、千種!」
「あなたこそ!何で千早と優を2人だけで歩かせていたんですか!」
「千種!お前もそうだろう!」
「私の所為だって言うんですか?!」
「おとうさん、おかあさん、けんかはダメ!やめてぇぇぇぇぇぇぇっ!」

醜い良い争いだった。
部屋に響く、妻の金切り声と私の怒声。寝かしつけたはずの千早が泣き叫ぶ声。
近所の家にまで届いていたと言う、その口論の末は、破局しかなかった。
妻の実家に行き、婿養子としての不義理を詫び、私は如月家を出た。



「――――ょう、今井課長」

遠くから聞こえていた私を呼ぶ声が、不意に耳元で聞こえた。
書類束に目を通しているのは通しているし、間違いも無い。無意識でも仕事をやっていたと言うのは、ある意味恐ろしいものがある。
部下の声に、私は慌てて振り返る。

「すいません、お疲れですか?ボーっとしているようでしたので」

なんでもない、と答えると、私は席を立ち上がる。
酒もタバコも、それ以来まったくやらなくなったので、自販機でコーヒーを買い、休憩室の隅で一息つく。
休憩室の若い社員達の中には、やはり765プロのファンがいるようで、会話の端々から色々と伝え聞くことも多い。
今度のアリーナライブは、765プロとしては初となるバックダンサー付き。
アリーナと言う大きな舞台もそうなのだろうが、それがこの一年程度の間に行われているのだから、凄いものだと思う。
意識して収拾していないにもかかわらず、やはり気にはなっているようで、結局私は、娘のことが気になっているらしい。


「今井君は、そういうの、興味ないの?」

突然、横にいた事業部長がこちらに視線を向けてくる。
若手社員とよく話しているのを見かける気さくな人物だ。
歯切れの悪い返事を尻目に、若手達がこぞってまた話し始めている。

「今井君も、もう少し若者とかかわらないとダメだよ、常に世の中の新しいものに触れておくと言うのも、若さの秘訣だよ」

事業部長の言葉に、私は間の抜けた返事を返していた。


「それじゃあ、お先に失礼します。今井課長はまだ帰られないんですか?」

少し仕事が残っているから、と答えると、部下達は申し訳なさそうに頭を下げて、帰っていった。
実際は、仕事はそこまででもない。
ただ、家に帰ることに、執着が無いのだ。
誰が待つわけでもない、暗く冷たい部屋へ。
帰ったところで、誰も迎えてくることの無い、あの部屋へ。
明日の打ち合わせ用の資料を仕上げ、部下達の企画書に目を通し、ようやく帰ろうと言う気になった頃には、もう時計の針が10時に差し掛かっていた。

「今井君、まだいたのかね?」

それはこちらの台詞だと思いながら、私は事業部長に礼をしていた。

「ああ、待ちたまえ。一杯引っ掛けて帰らんか?」


部長が案内してくれたのは、いつもの行き付けらしい居酒屋だった。
チェーン店のような騒がしさは無く、落ち着いた雰囲気の店だ。

「偶には、君と飲んでみたいと思ってな」

私なんかが晩酌の相手で、と言うと、部長はそういって笑っていた。

「最近の若い子達は、元気がいいね、趣味に仕事に、色々と…羨ましいよ、若さが」

ビールのジョッキを煽りながら話す部長に、私は相槌を打ちながら、久々に飲むビールを口に含んでいた。
この部長とは、入社当時からの付き合いで、その頃は主任だったのだが、課長の頃、結婚式の仲人を頼んだのだ。
いや、そもそも、千種を紹介してくれたのが、そもそもこの部長なのだ。

「…君も、入社当時はああいう感じだったのだが、最近は特に覇気が無いね。歳は取りたくないもんだな、お互い」

そうですね、と相槌をうとうとしたときだった。


「千種君と別れてから、だな」

その一言に、私は凍りついた。

「…息子さんの死、本当に私も残念に思ったよ。君と彼女が、そういう結末を迎えたこともね…私もね、今の妻とは再婚の身でね。丁度今の君くらいのときに再婚したんだよ」

それは、初耳だった。

「…だから、と言うわけではないが、君には毎回、再婚しろと煩く言ってきたわけだ。男やもめになんとやら、では無いが、まだ君も若い。その気が無いものに進め続けるのはおせっかいが過ぎると思ってな、一度君の本心を聞きたかった。何か、心に引っ掛かりがあるのだろう?」

本心を付く言葉だった。
私は、本当はどう思っているのだろう?どうしたいのだろう?
千種や千早のことを、私は愛していないのか?
あれほどの喧嘩の後にもかかわらず、私が千種と別れる理由になったのは、「これ以上苦しめたくないから」だった。
私がいれば、千種は私と口論になるだろう。
私と千種の口論を、千早は聞きたくないだろう。
そう思ったからだ。

「色々あったんだと思う、私には、分からないよ。だから気楽なことを行っているように聞こえるのかもしれない、だが、君にもしその気があるなら、まだやり直せるのではないか?何時だって、踏み出すには遅すぎると言う事はないさ」

部長の言葉を聴いたとき、私の心の中には、あの頃の気持ちがよみがえるようだった。



落ち着かない。
暫く振りにこんなレストランに来たものだ。
着慣れない少しこじゃれた洋服に身を包み、時計を確認する。
約束の時間まではあと10分以上あるのに、私は落ち着きが無かった。
携帯を開き、私はメールの送信履歴を見る。
<妻>と表示された送信先。
離婚しても、女々しいもので消さずにそのままにしていたメールアドレスも番号だというのに、千種は何も変えていなかった。
メールは届いた、だが、そもそも私はどうしたいのだ?
何を…
そもそも、千種が着てくれるという確証は無い、返事も何も無いのだから当然だろう。
来なければ、間抜けなものだ。

「お客様、お連れの方がお見えのようですが、お通ししても宜しいのですか?」

個室を取っていたので、その個室まで、店員が確認しに来た。
上ずった声で、そうしてくださいと答えると、暫くして、仕事帰りらしいスーツ姿の千種が、現れた。


「…メール…返せなくて、すいません」

何と返したものか、分からなかった。
座ったらどうだ、と促すのが精一杯だった。
コースの料理が運ばれてきて、無言で少しずつ、それを食べる。
無言だ。
お互い、何を言い出せばいいか分からない。
スープ、前菜と進んで、メインディッシュの皿が出た頃になって、私は口を開いた。
たどたどしい言葉で、私は急に呼び出したことを千種に謝罪した。
もっと、他に謝るべきことはあるだろうに。

「…いえ…気にしないでください……仕事、忙しいんじゃありませんか?」

少し、と答えると、妻の顔を見る。
あの頃より、痩せた様に見える、顔にも皺が入り、疲れをにじませている。

「…少し、頭が白くなったんじゃありませんか?」

お前は、皺が増えた、と言うと、妻はばつが悪そうにしていた。

「どうして…今、呼び出したんですか」

何故、俺は呼び出したんだ。
そう考えていると、妻はカバンの中から、一通の封筒を取り出した。

「…千早からの、手紙です」

封筒の中には、どこかの旅館での写真らしい、少女達の集合写真が入っていた。
手紙の内容を見ると、千早はアイドルとしても、そして、人間としても私のもう知らない位置まで成長していたようだ。

「千早が、アイドルをしているのはご存知でしょう…招待されたの、ライブに」

アリーナの?と聞くと、妻は頷いた。
行くのか?と聞くと、妻は複雑そうな顔をしていた。

「…私なんかが、行っていいのか、分からないんです」

妻の表情に、私は思わず胸を締め付けられる思いだった。
少なくとも、2人の今の関係を作った要因は、私にもあるだろう。

「…千早が、少し前に歌えなくなった時…私は、優のスケッチブックを、事務所の…天海春香さんに渡しました…少しでも、それが何かの手助けになれば、と面って」

千早が、そんな状況になっていたと言う事は、電車の中釣り広告で分かっていた。
だが、私は何もしてやれなかった。する資格などないと思っていた。
千種は、子供への愛情を忘れていなかった、親としての責任を感じている。
私はどうだ?目を背け、触れず、気付かないふりをしていた。

「…私は、やっぱり母親です…あの子が、そう思ってくれていた…それだけで、私は満足なんです」

その千種に、私は思わず、声を掛けていた。
行ってやれ、と。


「えっ…?」

そのチケットは、千早がどれだけの思いで、お前に送ってくれたのか。
千早の手紙は、お前との関係を、少しでも良くしたいと言う気持ちの表れだろう。
もしもそうならば、そして、千種、お前がそう思うなら、そうすれば良い。

「…そうね…ありがとう…」




翌日、私は会社に出勤すると、一人の若手社員に声をかけていた。

「え?!765プロのアリーナライブのチケット!?ですか…?」

柄にも無いことを言ったと思われたのか、その社員の驚き様は、私が逆に驚いたものだ。

「…結構倍率高いんですよねぇ、これ、このサイトで、先行抽選ありますから…CDがあれば、CD先行販売とかもあって、あ。でももうそれも終わってるんですよねぇ、今やってるのが一般先行抽選で―――――――――」

その後も、一通りの説明を受けた後、私は会社帰りにCDショップへと立ち寄っていた。


帰宅して、CDプレーヤーを久々に使う。
『約束』という題の歌だった。
千早がアイドルデビューしてからというもの、頑なにその曲を聴くことを拒み続けたのは、やはり自分にその資格が無いからだという思いからだった。
久々に聞く、娘の歌声は、しかしあの頃とはまったく違うものだった。
凛とした声、そして、柔らかな声、どこまで澄み切って、高みへ上って行く。
そんな声の中に、しかし私は、あの頃、楽しそうに優の前で歌っていた千早の顔が思い浮かんだ。
この歌を歌っている千早は、歌うことが本当に楽しいのだ、と。
作詞は、765PROALLSTARS…と言う事は、あの事務所のアイドルで作った曲なのだろうか?
それを、千早が歌う……か。


一般先行応募、というのも、初めてだ。
何せ、ライブらしいライブに行ったことがなかった。
ネットでこう言う事が出来るようになっているというのも、時代の流れなのだろう。
結果が出るのは。2週間後と、モニターには表示されていた。



2週間ごろの昼、私はメールフォルダに、チケット先行予約の結果のメールが来ていることに気付いた。
外れた。
早々当たるものでもないらしいし、そういう物なのだろう。

「課長、どうでした?先行抽選」

この前、応募の仕方を教えてくれた部下だった。
外れた、というと、彼は少し考えて、こういった。

「実は…チケットが、あまってしまいまして」

どう言う事かと聞いてみれば、CD先行で当たっていたのに、今回知り合いの分を確保しようとしたら、その知り合いまで当たって、チケットがあまっているらしい。

「もし…その、課長がよければ」

私の答えは、決まっていた。

横浜まで来たのは、勿論、765プロのライブのためだ。
アリーナライブと言う事で、会場周辺はもう、ファンでごった返していた。
話を聞いていると、朝始発で物販に並ぶファンも大勢居るという。
芸能事情には疎い、いや、意図的にそういった情報を遮断していた私でさえ、そういったことを耳にするのだから、765プロというのは相当の人気を誇るのだろう。
会場待機列に入ると、色とりどりのサイリウム…そういう呼び名だとは知らなかった…や、電池式のサインライトを持ったファン達に流されるように、そのまま指定の位置へと向かう。
部下と一緒なら、せめてこの様式が分かっただろうが、かといって、私が居れば部下達も楽しめまい。
どこに居るのか、探してみても、人の多さにまぎれてしまうので、諦めた。
開演前だと言うのに、すでに会場内のムードは上がる一方で、BGMとして流されている歌にあわせて、雄たけびのようなコールをしている。
私がいるのは、場違いな風景だ。
その内、会場内の空気が、更に一変した。
アリーナの舞台の上、幕の向こう側に立つシルエットが見えた瞬間、周囲の声援がどんどん高まって行き、一曲目の曲が始まる。
恐らく、私が初めて見た、千早の舞台での姿だっただろう。
隣に立っている男性も、一心不乱にサインライトを振っている。
まっ黄色の法被に黄色のサインライト、背中には「亜美真美命!」と墨痕鮮やかに記されている。


「亜美!真美!お父さんはちゃんと見てるぞー!」

何の事だ…?
お父さん?双海姉妹の父親だとでも言うのか。
まさか、な…

『明日がどんな日になるか誰だってわからないけど、それはどんな日にもできる事』
『明日は追いかけて区物じゃなく居間へと変えて雲の、それが自分になる私がM@STERPIECE』

初めて、まともに聞いた765プロの曲だったかもしれない。
良い曲だ、と素直に思った。
そして、ステージに立つ千早の表情は、天井から吊り下げられている大型のモニターでも見て取れた。
私が見た事のない、明るい表情の千早、もう、私の手の届かない、アイドル如月千早の表情だった。


ライブはその後も、観客の熱烈なコールと、舞台の上のアイドル達のパフォーマンスは、ライブの経験のない私も思わず声を張り上げ、慣れないコールを打ってしまう物だった。

「いやー、凄いライブでしたねー!」

先程の、亜美真美命と書かれたはっぴの男性が、私に声を掛けてくる。

「いやぁ、流石はうちの娘だ、可愛いなぁ」

娘?と聞き返すと、その男性は胸を張って、こう答えた。

「はい!亜美も真美も、自慢の娘ですよ!」

本当なのかどうかはさておき、自分の娘だ、と誇らしげに語るその姿が、私には羨ましかった。
私には出来ない。
そんな事を、する資格は無いのだから。

「うちの娘が一番、とは思っていても、やっぱり765プロは皆可愛いですねぇ。そう思いませんか?」

私は、いささか引きつった表情で、それに相槌を打った。
その男は、娘たちに会いに行くから、と楽屋のあるであろう舞台裏へと向かっていった。
さて、どうするものか。
アリーナの通路へ出た私は、ライブの興奮も冷めやらぬファン達を眺めながら通路の端で立ち尽くしていた。


「…あなた」

聞きなれた声が、背後から聞こえた。

「…来て、居たんですね」

頷くだけで、私はそれ以上言葉を掛けなかった。

「…今から、千早の楽屋に行ってみます」

無言で頷くと、千種は私の前を通り過ぎようとしていた。

「…あの子が、私との関係を見つめ直してくれたこと、本当にうれしく思います…背中を押してくれた、あなたにも…私が会う事が、本当に正しいかはわかりません。ですけど…あの子が、歩み寄ってくれたなら、母親として私は何をすればいいのか…私が出せた答えは、これしかありませんでしたから…」

私は、また無言で頷くと、踵を返す。

「…会って……行かないの?」

千種の声には、複雑な感情が綯交ぜになった物が含まれているように聞こえた。

私は、そこで初めて声を出した。

その資格が無い、と。

待って、という千種の声を聞かずに、私はアリーナを後にした。


「いやー、すごかったっすねーアリーナライブ…すっかり腕が筋肉痛ですよ」

苦笑いを浮かべながら、部下が少し枯れた声で笑っている。
私は、それにいつも通り、無言でうなずいただけだった。

「…課長、何だか楽しそうですね」

何でも無い、と答えると、私は休憩室を後にする。
私は、軽々しく彼女の父親だと名乗る権利は無いだろう。
だが、陰ながら応戦する事は、許されても良いのではないだろうか。
それは、まだ自分が彼女の父親だと言う事を認識しているのだろう。
千種と違い、私は仮にも二人を捨てた立場だ。
そう簡単に彼女が私に心を開いてくれるかはわからない。
私も、どうすれば彼女と昔のように接する事が出来るのか分からない。
昔の様には無理かもしれない。
だが、新たに関係を築く事は出来るのではないだろうか?
いつか、遠い未来、私と千早が話せるようになる日は来るのだろうか?
いや、それこそ私の思い上がりなのかもしれない。
しかし、私はアイドルとしての如月千早も、娘としての如月千早も愛しているのだと、再び認識できた。
それだけで、良かったのだ。

普段投下していた板が復旧しないので…遅れて出した千早誕生日、おめでとう。

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