モバP「さいごの我儘」 (50)
このssは モバP「ダブルクリック!!」
(モバP「ダブルクリック!!」 - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1387270659/))
の続きとなっております。
内容的にご気分を損なわれる方もいると思いますので、読む際はご注意ください。
ひっそり投下していきます。
SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1390668606
うっすらと積もり始めた雪の中に、真紅の花が咲き乱れていた。
咲かせているのは藤原肇。咲かせたのは道明寺歌鈴。
双方、俺とは深い関わりがある。
…いや、あったと言うべきか。
俺は肇を得る為に、歌鈴を捨てた。
俺は歌鈴を切り捨て、肇と新たな道を歩もうとしていたけど、歌鈴はそれを納得できなかったんだろうな。
「肇の事、知ってたのか?」
「………」
俺の問いかけに、歌鈴は首を横に振って答えただけだ。
自分を理不尽に捨てた俺なんかにかける言葉なんて無いって、言外に告げているのだろうか。
「俺の部屋から出て行った後、調べたのか」
「………」
同じく無言だったが、歌鈴はこれに首を縦に振り肯定を示した。
俺から半馬身程離れた距離から、光の無い目で俺を見つめ続ける歌鈴に一抹の恐怖を覚えた。
歌鈴の足元にうつ伏せに倒れる肇からは、依然出血が止まる様子は無い。
幼子の様に不規則で拙い呼吸音だけが、あたりの喧騒に飲まれずにはっきりと耳に届いている。
肇に目を向けている俺に対し、何をする訳でも無くただ歌鈴は突っ立って、俺を見ている。
そこには肇を心配する様子や、とどめを刺そうなんて気概は感じられない。
俺の前から消えたあの日と全く同じ風貌の歌鈴が、目の前に立っている。
あえて違う点を挙げるとすれば、手にした刃物と返り血で赤く染まった服装か。
俺は目線だけで肇を見ることしかできなかった。
目の前の歌鈴に恐怖心を抱いていたって事も、理由の一つではある。
歌鈴を突き飛ばして、肇のもとに駆け寄り介抱する気にもならなかった。
ただ俺の心中は、怒声が飛び交う周囲から、その当事者であるにもかかわらず、かけ離れた位置にいる様で、しじまの様に穏やかだった。
肇を刺した歌鈴が憎いだとか、肇が可愛そうだとか、その時は全く浮かんでこなかった。
ただ、どうしてか、歌鈴と一方的に決別したあの日から、歌鈴が無事に過ごしていて、再び俺の前に現れたことに、言い知れない感情が湧いていた。
それでも、俺は歌鈴を捨てたんだから。
「肇、大丈夫か?」
歌鈴の目線から逃げる様に、横をすり抜け肇を腕に抱く。
「今から救急車呼ぶからな」
警察にも連絡しておこう。未遂とはいえ殺人犯を野放しにしておくわけにはいかない。
あまり押しなれない番号を指定し、コールする。
怪我人を動かしてはいけないなんて言うが、傍らに立って救急車の到着を待つだけなんてあまりにも人情味に欠けているんじゃないかって思った。
仰向けになった肇の胸部から、赤い雫がとめどなく溢れてくる。
「すぐに救急隊の人が来てくれるからな」
「………は…ぃ………。ゴホッ」
「しゃべらなくていい。意識をしっかり保て」
咳込むと同時に、俺の顔に何か水気を感じた。
………血だ。
吐血した、と言う事は、胃か肺にまで傷が達しているのだろう。
肇を腕に抱き介抱する俺を、歌鈴は光のない目で見つめている。
そこに映る感情は、嫉妬とも、羨望とも、憎悪とも違うと思った。
何も感じていないのではないかって、そんな考えすらも完全には否定し難い。
感情何て持ち合わせていないみたいに、ただ未踏の深海の様な闇を携えている。
何もしてこないのであれば、歌鈴に構っている暇なんて無かった。
肇の呼吸は次第に弱まっているし、俺に救いを求めるみたいに繋がった手からは、人らしい温もりと握り返す力を感じさせない。
「畜生… まだ来ないのかよ!」
到着の遅い救急車に対して怒りが心頭する。
ここにいない相手に対してそんな感情を示したって、何ら意味のない事だとわかってはいるが。
…物言わぬ人形の様に佇む歌鈴に対して、怒りの矛先を向ける事はしなかった。
俺が招いた結果だって、一応は理解しているって事もある。
怒りを暴力と言う手段で表現した歌鈴は勿論悪い。
だが、その怒りを一身に受けた肇が、歌鈴に何か言う訳でも無く、ただ俺を求めているから。
歌鈴に背を向け、肇を労わる。
背を向けていて、歌鈴の見ているものなんて全く分からない筈なのに、歌鈴は俺を見つめ続けていると断言できる。
周囲を取り巻く野次馬共の視線とは明らかに違う、背中に穴が開いてしまうんではないかってくらいに、俺の背中を歌鈴が見つめている気配を感じる。
それに気づかない振りをする。
理由は無いけれど、振り返ってはいけないと思った。強いて言うならば直観だろうか。
歌鈴とは違う意味で、光の宿っていない肇の瞳を見つめる。
日本人らしい美しく真黒な瞳は、風前の燈火の様な儚さの中で一層魅力的に感じる。
その瞳に反射した俺の顔を覗き込む。
そこに映った表情は、怒りでも不安でも無いと思った。
疑問だ。
歌鈴が今何を考えて、どうしたいのか、俺の凡庸な脳では答えを導き出せない。
一分一秒が永遠の様に感じた三人の空間は唐突に破られた。
遠巻きに事態を見ていた野次馬がかき分けられ、警察と担架をもった救急隊員らしい人物が現れる。
あまり目を向けていなかったが、肇は芸能人って事もあって、辺り一帯の人だかりは凄まじいものだった。
せっかく変装までさせているのに、全く意味なんて無かったんだな。
救急隊員は、手馴れた様子で肇の傷の具合を確かめ、担架に乗せる。
いつの間にか、救急車はすぐそこまで着けていた。
そんな事にも気づかない程、俺は肇に集中していた様だ。
…歌鈴の視線から逃げることに、必死になっていたのか。
搬送される肇に付き添うために、その場を離れようとした。
その時、初めて後ろを振り返り、歌鈴を視界に入れた。
………警察に組み伏せられ、力なく地に顔を押し付けらている姿を。
手にしていた刃物は奪われ、女性であると言う事も考慮された風もなく、力の限りといった様子で押さえつけられている。
当然だろう。現行犯だし、目撃者も多数いる。
「………っ」
俺は立ち止まり、何か声をかけようかと思った。
だけど、立ち止まっただけで何も言えなかった。
今ここで、どんな言葉を歌鈴に告げたとしても、なんだかどれも違うと思ったから。
歌鈴を糾弾すればいいのか、それとも俺の悪かった所の謝罪をすればいいのか、そんな事さえわからないんだ。
両腕を拘束されながら、歌鈴は引き起こされた。
特に抵抗の素振りも、歌鈴は見せない。
ただ、固くて冷たいアスファルトの地面に押さえつけられている時も、そこから強引に引き起こされる時も、依然俺を見続けていた。
完全に立たされた歌鈴は、警察官にされるがままになりながらも、俺に体を向けた。
後ろ手に拘束された歌鈴の両腕に、罪と言う名の錠が掛けられる。
「………Pさん」
まるでそれを待っていたかの様に、歌鈴は初めて口を開いた。
「私だけを、見ていて下さい」
その時だけは、歌鈴の瞳に生気が戻ったように感じた。
歌鈴はそのまま連れて行かれた。
大衆の視線の真ん中を、罪と言うモノに物怖じせず堂々と歩いているように見える。
もう会う事もないかもしれない。
最後に何か言う機会があったとすれば、たった今俺はそれを逃した。
木偶の坊みたいに、何もせず歌鈴を見ているだけだった。
「………無理だ」
歌鈴を… お前だけを見つめ続ける事。
「肇の所に行かないといけない」
俺は、肇を選んだ。
それに、歌鈴が邪魔になったから、捨てたんだ。
___
__
_
天気図上に見事な曲線が描き出される時、この国は寒波に見舞われると聞いたことがある。
誰に言われる訳でも無く情報を垂れ流しているテレビの画面には、無知な俺にも分かる程、美しい弓なりの曲線が映し出されていた。
ガラス窓一枚に隔てられた向こう側では、きっととても寒いのだろう。
暖かな病院の一室で穏やかな顔をして眠り続けている肇を見ていると、まるで現実味を感じなかった。
きっと肇が見ている夢の中に居て、これまでの惨劇は悪夢でしかなかったんじゃないのかって。
だから、肇が目覚めるとき、この悪夢から覚ましてくれるのではないかと、そんなありえないって分かっている願いをしてしまう。
………あれから一ヶ月程度の時を経たのに、まだ肇は目を覚まさない。
事務所のアイドルが被害にあった事件だ。
当然、俺も御咎めなしではいられなかった。
なにより、多数の目撃者がいたし、俺たちはそのど真ん中で口付を交わしていた。
当然、社長を始め、関係者各位大多数の人々に迷惑をかけた。
仕事に穴を開けた訳だし、それに売れっ子アイドルに手出しをしてしまったから。
俺は、肇以外の担当している子達に当然白い目で見られ、社内でも辛い立場に追いやられることになった。
週刊誌などのマスコミからしても格好の餌食だ。
だがしかし、社内で居辛いのは変わらねど、マスコミの餌になることは無かった。
なんでも、事務員であるちひろさんが揉み消したという。
常々思っていたが、あの事務員はいったい何者なんだか…。
そうして、俺自身の地位は守られたと言う事になるのだろうか。
飽く迄、社会的な物に限るけど。
それと、歌鈴の事だ。
肇は依然この様子だし、裁判で証言台にでも立たされるんじゃないかって戦々恐々としていた。
だけど、その心配はいらなかった。
とある情報筋… まぁ、ちひろさんに聞いた話だが、歌鈴は取り調べや尋問に対して、一切の返答をしないらしい。
返答どころか、なんの反応すら示さないとの事だ。
いつも虚ろな眼差しで、なんの言葉も発することもなく、ただ座っているだけだと。
食事なんかにも手を付けず、殴ろうが叩こうが、糸の切れた操り人形みたいに力なくそこに居るだけだという。
果たして、それは人間として生きていると言えるのだろうか、なんて、哲学的な疑問が生じる。
………でも、不謹慎だが、俺に対して不利な発言をするって事もない訳だ。
きっと歌鈴は、檻の付いた病院にでも入れられて、そこで残りの生を全うしてくれることだろう。
周りからは痴情の縺れなんて言われている。
だが、違う。俺は歌鈴を捨てた。これは紛れもない事実だ。
捨てたからこそ、だ。
歌鈴がどう思ったとしても、それを俺達に対して向けるなんてお門違いも甚だしい。
俺とお前は、もう赤の他人になっていたのに。
………肇は、命には別条はないらしい。
ただ、肺に達した傷は深く、完治するまでは呼吸器無しでは生きられない体になってしまった。
口元から延びたチューブは大げさな機械につながれている。
差し詰め、命綱とでも言ったところか。
目を覆いたくなる。あまりにも痛々しい。
眠り続ける肇からは、穏やかな寝息がたてられる事も無く、静寂が支配する一室には乾いた装置の音だけが反響している。
この訳のわからない機械が定期的に上げる音を聞くたび、大切な人を守れなかった俺の不甲斐なさをあざ笑ってるみたいに感じた。
それに、刺された傷が深いと言っても、一ヶ月以上も覚醒しないなんてことがあるのだろうか。
医者曰く、精神的なショックが大きかったせいかもしれないとの事だ。
所謂、心に傷を負ってしまった、と言う奴なのだろうか。
それが肇を冷めない悪夢へ誘っているのか。
…俺がそんな詩的な表現を用いるなんて、似合わないな。
このまま肇が目を覚まさなかったら、俺はどうなってしまうんだろうな。
意識が戻らないって意味だけでなく、もし、このまま生涯に幕を引くことになったら。
どうなってしまう、と言うより、どうしたらいいのだろう。
肇が目覚めてくれることが、勿論一番いい事だ。
だが、もし、もしも目覚めなかったとしたら?
目覚めたとしても、幾年と言う年月が過ぎ去っていたら?
目覚めた肇は、今までと同じ様に俺に接してくれるのか?
俺は、耐えられるのだろうか。
一度きりの人生と言うものを、俺は受け身で過ごしていかなければならないって事なのか…?
………何時だってそうだ。
俺は何か困ったことがあったら、先ず自分の身を案じる。
自分が可愛いから、だろうか。これからもずっと、俺は俺以外の人間を、心の底から愛するなんて事は無いのかもしれない。
俺と言う品が常に完璧であるために、俺以外の他者を材料として、形を成していく。
___
肇が眠り続けているって言っても、それは些細なことでしかない。
そんなことはお構いなしに社会は回転している。
昼休みに抜け出して病院に言っていた俺は、社会の歯車に戻るために事務所に戻る。
「戻りました」
入口の扉を開け、事務所へ。俺のデスクへ向かう。
以前よりこの扉を重たく感じるのは、きっと気のせいなんかじゃない。
くどい様だが、アイドルに手を出した挙句、刃傷沙汰にまでもつれ込ませた俺を見る同僚たちの目線は冷たい。
俺が戻ってきたことを告げても、誰が返事をする訳でも無い。
事件後の情報をくれていた事務員ですら、それ以降は事務的な会話しかした覚えがない。
…肇との交際に至ったのは、ちひろさんのせいでもあるというのに。
担当アイドル達にも慕われていたが、その信用も今や地に落ちた。
あれだけの事をして、ここで働けるなんて神経の太い奴だと、陰口を叩かれている事も勿論把握している。
正直、辞めようと思った。
でももし、ここで俺がこの仕事を辞めてしまったら、肇が再起した時にお前の居場所がなくなってしまう。
アイドルである肇と俺の接点がなくなってしまうとも思ったから。
それに…
「あっプロデューサー、おかえりなさい!」
それに、一人だけ、俺に着いてきてくれた人が居るから。
「ああ、ただ今、響子」
五十嵐響子は俺の担当しているアイドルの一人だ。
以前からよく俺に懐いてた。
空き時間にレッスンを見てほしいとか、暇だからお喋りしましょう何て、よく言われたものだった。
………それで肇に、あらぬ誤解を与えたこともあったけど。
事件後も、響子だけは変わらず俺に接してくれる。
「いいのか、響子。俺なんかと話してると他の奴らに何を言われるか分かったもんじゃないぞ」
「そんな事言う人はいません! …それに、私は何を言われたっていいですから」
ありがたい事だと思った。でも、響子が何を思ってこれまで通りに接しているのかは、量りかねている。
「どこに出かけて……… 病院ですよね」
肇ちゃんが眠っている。 口には出さなかったが、俺を見上げる瞳はそう告げているように思った。
聞かなくても、俺が態々抜け出していくところなんて周知だったから。
「まだ目を覚まさないんですか?」
「…そうだな。それにしても今日は寒いよなぁ」
「これからも、いつ起きるかわからないんですよね?」
…俺のあからさまな話題逸らしは、華麗に無視された。
言外に、触れてくれるなと言ったつもりだったのだが、響子は分かっていても突っ込んでくる。
そんなことを聞いたって、響子になにか有益な事なんて無いだろうに。
「やっぱりそうなんですね…」
質問に対して無言だった俺をみて、肯定と捉えたらしい。
無言は肯定とはよく言ったものだが、答え難いデリケートな話題だと、どうも閉口せざるを得ないと思う。
「………そんなこと聞いてどうするんだよ」
「いえ、別にどうするってわけではないんです」
少しぶっきら棒な言い方になり、不味ったと思った。
俺の態度が悪いせいで唯一の味方を失うのは惜しいと思ったから。
「響子も今回の事知ってるだろ? だったら、そっとしておいてくれないか」
「もちろん知っています。だからこそ、なんですけど…」
だが、響子は特に気にした様子もなく、飄々と続ける。
それどころか、口元にうっすらと笑みまで浮かべて。
「今、一番辛いのは、プロデューサーだって私は知ってますから…」
「………っ」
何か言い返そうとした。だが、言葉に詰まった。
「私は、プロデューサーの事ならなんでも知ってますからっ! まぁ、肇ちゃんとお付き合いしてたのは知りませんでしたけど…」
お茶らけた様子でそんな事を言っているが、その瞳は真直ぐに俺を射抜いていた。
視線だけじゃない。俺の心中も的確に、だ。
…だからこそ、何か言い返した所で、それは全て言い訳がましい泣き言になってしまうと思った。
「………違うよ。被害を受けた肇が一番辛いに決まってる」
だけど、安直な逃げ道へ向かわない様に言葉を紡ぐ。
もし、他人に俺の弱さを見せる事になったら、また同じ事を繰り返すんじゃないかって、確信めいた予感があったから。
ましてや、相手は響子。肇と同じ、俺のアイドルなんだ。
「でも、肇ちゃんはずっと眠ったままで、何を感じる事もないじゃないですか」
「精神的ショックが大きくて、目が覚めないらしい。それにもし、目が覚めたとしても、ショックを引きずったままかもしれない」
そう、肇が目を覚ましても立ち直れない可能性だってある。
そうなったら、その原因である俺は、肇の横で支えていく立場である事が出来るのだろうか。
「…やっぱりそうです。肇ちゃんの話をする時は、いつも辛そうなお顔ですよ?」
「そんなこと… そうかもな」
違うと否定したかったが、無いとは言い切れない。
実際に今、響子と話しながらも、俺の顔が強張っていくのを抑えることが出来ない。
「肇ちゃんが目を覚ますまで、これからもずっと通い続けるんですか…?」
「出来る限りはそうしたいと思ってる。仕事の都合上行けない事もあるかもしれないが」
「明日も、行くんですよね?」
「ああ。急な出張でも入らない限りは」
「でしたら…」
と、響子が何か言いかけて、逡巡する。
会話の流れからしても、響子の言わんとすることは分かるが、こちらから言ってやるつもりもない。
俺の事情に響子が踏み込むって事は、響子の内情如何な部分もあるが、たった一つしかなかった選択肢に、もう一つ、あり得ない選択肢が生まれてしまうって事。
俺が肇を待ち続けるって選択肢。 ………響子に逃げるって選択肢。
「なんだ、響子。用が済んだなら仕事に戻るから」
「あっ… えっと、はい…」
響子が迷っていた隙に、俺は有無を言わせない調子で会話を打ち切った。
響子は俺に対して、憐憫や同情なんて、渋味のきいた調味料をかけて楽しんでいるだけかもしれない。
そうだったとしたら、若干十五歳にしてとんでもない魔性の女だ。
でも、もし違うとしたらなんだろうか。
…なんだろうか、ではない。俺の期待している明確な答えが頭の中に充満している。
響子が、俺の事を好きだから、肇に嫉妬している。
物言わず眠り続ける肇に対して、俺が心酔している事に嫉妬していると。
…だったら、何だというんだ。別に何も変わらない。
響子がどう思おうと、俺は肇を待ち続けなければならない。
それが肇と、もう会う事のないもう一人に対する贖罪になると信じてる。
そこに現れたイレギュラーな存在に何を言われようと、どう思われようと、揺らいではいけない。
…いけないのだけれど、熟した果実の様に俺の目の前に爛々と輝いている。
「俺、仕事に戻るから。響子もレッスンの時間だけは気にしとけよ」
「わかりました…」
その場を後にする俺に、響子は一言だけ返事をした。
まるで独り言みたいに小さな声だと思った。
「………プロデューサー」
背後から、俺を呼ぶ響子の声が聞こえた。
蚊の鳴いたような小さな声だった。響子と話していた延長でなければ気付かなかったかもしれない。
呼び止めたのかどうかも分からない。ただ、呼ばれたから立ち止まった。
響子を振り返る。
「………肇ちゃんなんて、いなくなればいいのに」
少し癖のあるサイドテールを指先で弄りながら、俺と目を合わせる事も無く呟いた。
誰に言うという訳でも無く、本当に無意識に零れ出た一言の様に、悪意や毒心は感じさせなかった。
思わずにして、本音が出たと言った所か。
俺は再び背を向け、その場を去った。
いけない事を言った響子だが、それを咎める事は出来なかった。
………俺の本音を見透かされたように感じたから。
___
その後の仕事は上の空だった。
立場上と言うか、境遇上というか、注意されることは無かったけど、傍から見れば酷いものだったのではないだろうか。
終業後帰宅した今になっても、あの後何の仕事をしていたのか思い出せない。
確かデスクワークだったって事はかろうじて覚えているけど。
「すごいな…」
今確認してみると、どの書類もきちんと作成されていた。
習慣ってのはすごいものだと思う。
上の空だった理由と言えば、それは一つしかない。
『………肇ちゃんなんて、いなくなればいいのに』
響子はどういう意味合いで言ったんだろうか。
分からない… なんてことは無い。
予感は確信へと変わっていた。
響子は肇に嫉妬している。俺に見てほしいと思っている。
ここから目をそらしていたのは、勿論、肇が居たから。
でも、肇が居ないのと同じ今、逃げ続けることに意味はあるのだろうか。
………俺は、響子に向き合って、響子に逃げたって、問題ないんじゃないのか?
「くそっ!!」
怒声と共に、手元の書類を床に叩きつける。
物に当たっても仕様がないのに、苛立ちを抑えきれない。
「………どうして、どうしていつもいつも!」
机を蹴り飛ばす。机上にあったものが散乱する。
「くそ! なんで俺はこうなんだ!」
それでも飽き足らず、視界に入るものすべてを投げ飛ばし、叩きつけ、蹴り飛ばした。
部屋の中は酷い有様だ。人が住んでいる場所だとは思えない程に乱雑に荒れていく。
…まるで、今の俺の心中を的確に再現しているみたいに。
室内に形のあるものがなくなるほど破壊の限りを尽くした。
癇癪が収まった訳ではないけれど、どうしようもない。
………本当は、俺自身を壊してしまいたかった。
「肇が待っているのに、どうして響子に逃げようとするんだよ…」
俺自身の事であるのに、もうそれすらわからなかった。
わからない事にも慣れてしまっている。
肇を切って響子に逃げれば、確かにいらぬ心労もないし、これからの不安も無くなるだろう。
それでも、歌鈴という安寧を投げ捨ててまで得た肇と言う幸福を、どうしてこんなに簡単に捨てようって思考に至るのだろうか。
俺自身の、人間味って奴は、取り返しが利かないくらいに腐りきっているのか?
部屋はいいよな。
いや、部屋に限らず、生き物以外の全てが羨ましいと思った。
一度壊れてしまっても、また直すことが出来る。
直すだけではない、壊れた原因になった悪い部分を改善して、新たに生まれ変わることが出来る。
人間は難儀なものだ。
作り変えようにも、様々なしがらみに囚われていて、そう簡単にはいかない。
変わりたいと願っても… 俺が、こんな弱い自分から生まれ変わりたいと願っても、俺に根差す業は深い。
自分本位な俺から、変わりたいと願った。
でも、俺に深く関わる者たちがそれを許さない。
肇が目を覚ました時、響子が俺に近付いてきたとき、毅然とした強い自分であるためにはどうすればいいのか。
………俺に、深く関わる者とは、いったい誰なんだろうか。
歌鈴だろうか。
違う。歌鈴に会う事はもう無い。それこそ、俺の中では終わってしまった存在だ。
ちひろさん?
これも違う。肇とのきっかけにはなったけれど、今では、職場が一緒だってだけで希薄な関係だ。
じゃあ、響子か。
違うな。付き合いは長いが、響子の本音に触れたのはついさっきの事だ。
それに、触れたとはいっても、俺が勝手に覗いてしまったと言う方がが正しい。響子と俺の関係は、まだスタートにすら立っていない。
…わかってる。目を背けている訳ではない。
肇だ。
最も俺に近い存在で、俺が弱い自分から変わりたいと思わせた存在だ。
肇を選んだ俺だから、響子に逃げようとする弱い心を捨て去りたいと思ったんだ。
それに、響子のためにも、俺は変わりたいと思った。
眠り続ける肇を捨てて響子に逃げたところで、俺はいつか響子にも同じことを繰り返すに決まっている。
………少し、おかしいと思った。
肇本位で思考していた筈なのに、俺の気持ちは響子に誠実に向き合うってことにすり替わっている。
響子の事を嫌っているなんてことは無い。一人ぼっちになった俺に、変わらず接してくれる所に、好感すら覚える。
熱を持った俺の脳は、正常な思考を導き出せなくなっているのかもしれない。
そうだとしてもだ。
…もし、肇が目を覚まさなかったら、俺は何のために変わろうというのか?
___
__
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夜の帳が下りた病院は、心地のいい静寂が支配している。
非常灯の明かりだけが、俺の進む道を示していた。
それに沿って、何度となく歩んだ廊下を進んでいく。
目を瞑ってでも、というと過言だが、それほど何度も通ったように思える。
…たったの一ヶ月の事でしかないのに。
それも、もう来ることがなくなると思えば、なんだか感慨深いように感じた。
幸いにも、院内で誰かに会う事も無く、とある病室の前にたどり着いた。
コンコンと、礼儀としてノックをして入室する。
緊急時の為に鍵がかかっていない事は知っていた。
こんな深夜にノックなんかして、普通は目を覚ましてしまうんじゃないかって思うけれど、事この病室に関してはその心配はいらない。
………肇は、真昼間だろうと、早朝だろうと、その穏やかな寝顔を崩すことは無い。
明かりのついていない状況だけれど、暗闇で不気味な存在感を示す装置が発する光で、うっすらと表情を確認できる。
発する光は、肇の命そのものみたいに、弱々しく点滅している。
肇の頬をそっと撫でる。
食事もできないため、すっかり痩せこけてしまっていて、肌の張りも感じられない。
口から射しこまれた管から、空気の流れる音が、かすかに、しかし絶え間なく続いている。
まるで、それすらも肇の一部みたいで、おかしいけど愛おしさすら感じさせる。
肖像画みたいに切り抜かれた肇が、永遠をも感じさせる逸品だと思った。
でも、この世にずっと続いていくものなんて無い。
肇が目を覚まそうと、そうでなかろうと、いずれ朽ちていく。
俺はそのまま、ずっと肇に縛られたまま生きていくのだろうかと考えたこともあった。
…もし、肇が目を覚まさなかった時、後ろめたい気持ちなしで響子に接するにはどうすればいいのか。
無理だよ。肇が生きている限り、俺は後ろめたさと付きまとう後悔の念を抱えて生きていく。
最初は、肇の為に強い自分でありたいと夢想したけれど、肇のせいで俺は前に進めない。
響子に向き合うことが、前進するって意味じゃない。飽く迄、一例だ。
歌鈴を縛り付けた鎖は俺だった。
その結果、歌鈴は罪に絡め取られてしまった。
俺を縛り付けていたのは肇だったんだろう。
一方、肇を縛っていたものなんて無かったんだ。
肇は何も知らずにただ俺を求め、俺を受け入れ、過ごしていた。
その結果、歌鈴を凶行へと走らせたんだ。
………まただ。
また、俺の都合のいいように、俺だけが悪者にならない様に、解釈を進めている。
いい加減嫌気がさしてくる。
このままだと、何に対しても、俺の腐りきった性根で物事を進めていくのかもしれない。
だから、俺は生まれ変わりたいと願った。
俺の頭は、度重なる心労や気苦労で、既にぶっ壊れているのかもしれない。
だがもし、そうだとしたら、寧ろ好都合だと思った。
院内と違って、この病室だけは鈍い音が響いている。
肇に繋がれた装置が常に起動しているたからだ。
耳触りという訳ではなく、どこか心地よさすら感じさせる。
もしかしたら、この音が肇を眠りの世界に押しとどめているのかもしれない。
今の弱い自分が嫌いだ。何もかも壊して、全てを捨て去って、新しい自分に生まれ変われたら、それは素晴らしい事だ。
これが、俺中心の自分勝手な行為だってわかってる。
それでも、こんどこそ、これが最後だから。
依然、死んだように眠り続ける肇の口元に手を翳す。
………室内は完全な静寂に飲まれ、儚げで仄かな光だけが、空しく点滅していた。
終わり。ありがとうございました。
ゲーム内の応援コメントで直接リクエストしてくださった方が居ましたので書いてみました。
皆さんの探査能力はすごいと思いました。
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