淡「スミレは、テルが好きなんでしょ?」(160)

A1

白糸台の部室にある、一つの個室、一つの棚。
専ら虎姫が使用しているこの個室、その棚には、大量のお菓子が備え付けてある。
甘いお菓子、特に和菓子なんかは、タカミが持ってきてくれるお茶によく似合う。
 
私はたまに、この棚に細工をする。
開けたら崩れる配置にわざとしたり、そのお菓子を勝手に食べてしまったり。
それをする度に、スミレに怒られる。
私達のリラックスのためだと、部費で購入してくれているこれらの物だ。
部長であるスミレにとっては、悪戯されてはたまらないものなのだろう。

だから、私は悪戯をする。

今日の悪戯は、自分でもなかなかいい出来だと思えた。
下準備に和菓子の包み紙を丁寧に剥がして、紙箱を開封して、中のお菓子を全部食べてやって。
そうして、箱の底に文字を書いて、その文字を覆うように紙を貼って。
適量の重りを入れて、先述の包み紙の、折れた跡に従いつつ包装する。
最後に紙をテープで貼って終了。
なんだか、職人にでもなった気分だった。

中にあった饅頭は、確かに美味しかったけれど。
その具体的な味は、ついに思い出すことができなかった。

この悪戯ボックスをスミレが取り出して、実際に開封した時。

 「淡、またお前か!」

スミレは強く、しかし元々の冷静さを損なわない態度で、私を叱ってきた。
ううん――叱ってきて、くれた。
だから私も、スミレを真似て、力強く発言する。

 「ごめんね、でも美味しかったから許して!」

言い終わる直前に、紙の蓋で頭を叩かれた。
軽いその感触は、撫でられているようにも感じられてしまう。

こんな柔らかい態度が一転したのは、私の、二番目に仕込んだ細工がバレた時。
無理もないよね、底に貼った紙には、こんな言葉を書いたおいたんだもの。

 『また騙された、スミレのばか』

スミレがそんな紙箱の底を覗いて、少しだけ硬直する。
叱りの程度が一段階上がると察しても、私は動かなかった。
だってさ。

 「痛っ!」
 「お返しだ」

スミレの叱りはいつも、全面的に悪い、私をどこか気遣っているから。
額に走った痛みだって、軽いデコピンによるもの。
こんなの、マッサージの痛みみたいに、ただ気持ちいいだけでしかない。

それっきり、スミレは空になった紙箱をゴミ箱へ捨てて、棚から新しいお菓子を持ってきた。
これでちゃんとした、お茶会の開幕ってわけ。
過去のことはもうおさらば。
あの空箱の底に書いて、隠した、本当の、本心のメッセージ。
私以外は気付かない。

 『スミレが好きです』

想いは、それを刻んだ紙箱ごと、捨てられてしまった。
もちろん、こうなることはわかっている。
あの紙箱が捨てられることも、この恋慕が流されることも。

スミレはきっと、テルが好き。
その瞳はきっと、テルの方を捕らえて離さない。
外部の視線は、一目見て受け流すだけだよね、あの紙箱みたいにさ。

私がスミレに見てもらうためには、こういう悪戯を繰り返す他にないと思うから。
だから、私はスミレに悪戯をする。

B1

最近、淡が悪戯をすることが多くなってきた。
今までもそういった傾向はあったのだが、以前は部員に対する、やや強めのスキンシップに留まっていた。
しかし最近は、ある程度実害の生じる悪戯を繰り返してくる。

 「また淡か……」

私が呟いたのは、自動卓上を埋め尽くすほどの、麻雀牌で作られた巨大なピラミッドを見てのこと。
こんな無為な行為をする人間なんか、虎姫の中では淡以外はいない。
第一消去法でなくとも、淡がそういった性格であることは、私は重々承知している。

恐らく、他の卓内にある麻雀牌を根こそぎ持ってきて作ったと思われるピラミッド。
まず崩すことも大変で、そして元あった卓に帰すための仕分け行為も大変なことだろう。

 「おっはよー」
 「お前、さっきも来てただろ」

さも今来た体で入室してきた淡に、第一声から詰め寄るための言葉を送った。

聞いた淡は、一歩のけぞって視線を外した後、再びこちらを見つめる。

 「げ……なんで?」

お前は僅かな変化がすぐ表に出るから、わかりやすいんだよ。
そんなものがなくとも、私はお前が悪戯をしたんだな、と一見で理解できるのだが。
それに、最近の私の行動も変わってきているから、淡が悪戯をしていることなどよくわかる。

 「私が最近、いつもより早めの時間に来ていることを知らないのか?」
 「え!? い、言ってよ!」
 「ああ、今言った」
 「屁理屈!」
 「だから、お前が悪戯をしているところなんて筒抜けなんだよ」

言った通り、私はこの頃、部室へ向かう時間帯が早くなっている。
部室内外の影にでも潜んでいれば、簡単に淡の尻尾を掴んでやることができるから。
私は部長として、悪戯ばかりする淡を放置するわけにはいかない。
淡の方ばかりを注視して、集中力がかけているこの頃の事情も、これに起因するものだ。

結局この大掛かりな悪戯は、当人である淡に後片付けをさせた。
他の三人には、こんな機会もそうないということで、二軍の調整相手を頼んでおいた。

 「スミレー……」

懲りたような表情で、なで声を使い助けを求めてくる。
反省をしているかは、怪しいところだが――まあ、いいか。

 「……わかったよ」
 「やった!」

あんまりに可哀想になったので、それからは、私も一緒になって手伝っておいた。

人に助けを頼んだ癖に、淡は私にちょっかいを出してばかり。
元通りするのに部活動時間の全てを消費してしまってから、淡一人に任せておくべきだったと反省した。

A2

といっても、毎日悪戯をするわけにもいかない。
内容が全く思いつかない日もあれば、部内の活動で芯の方から疲れてしまい、そんな心持ちにならない日も多いもの。

最初はただ構ってもらうためだけに初めた、この悪戯。
最終的には構ってもらえるのに、今ではちょっと凝ったこともしてみたくなるのだから、人間って不思議。
手に入れられないスミレを好きになってしまったことよりも、不思議なことはそうそうないけどね。

ちょっと話がそれちゃったけれど、今日はその、悪戯をする日ではなかった。
かといって、お茶会がある限り、お菓子の出番がなくなることはない。
私達は活動前に、タカミの入れてくれたお茶と、甘いお菓子を堪能していた。

この前は、少しばかりお高そうな饅頭だったけど。
今日はなんてことない、スーパーに行けば普通に手に入る、袋分けのチョコクッキーだ。
スミレはそれを、姿勢を大して崩すこともなく口に放り込んでいる。
私もその様子を、口に広がる甘みを置き去りにしてでも、しかし直視はせずに堪能していた。

だって私が堪能できるのは、スミレの肌じゃなくて、表情だけだから。
いつもこうして、目立ち過ぎないように、表情だけを見つめている。

スミレの隣には、いつもテルがいる。
テルの隣には、いつもスミレがいる。
今、スミレの隣にはテルが座っている。

そんなにくっついたって、二人の表情に淀みは見られない。
当たり前だよね、二人は常に一緒、それが普通なんだもの。

スミレは、私にとっての太陽みたいな人で、必要不可欠な人。
けれどその輝きは、テルと一緒にいる時こそ増しているんだもの。
眩しい太陽を直視するな、なんて、小学生の頃から教わってきた。

それでもやっぱり、私はスミレに夢中で、したくないのに直視してしまって。
すぐに目を逸らしても、やっぱり光は強く、少し焼けた目を潤そうと、涙も出てきそうになる。

その時気付いた一つのことは、私の心中を、どうしようもなく孤独にしてくれた。
このお茶会で心中に影を潜めているのなんて、私だけなんだ、って。

 「淡」
 「なにっ?」

そんな気持ちに構いもせず、スミレは私に話しかけてくる。
咄嗟の返答、平常時のようにできていたかは、ちょっと怪しいところだった。

 「こぼれてるぞ」
 「あ……」

言われてから、握ったクッキーの亀裂が入っているところに気が付いた。
周りを見てみると、私のテーブルの上にのみ、集中して破片が転がっている。
スミレはそれを、指摘したと同時に、何か言うまでもなくティッシュで拭きとってくれた。

その優しさと意識が、私だけに向いてくれればいいのに。
スミレがそうしてくれるのは、決まって私が悪戯をした時。
スミレの意識の中心部には、いつもテルがいる。

なら。
そこに割り込んじゃえば、スミレは私のことを見てくれるのかな?

だから私は悪戯をして、積極的にマイナス面を見せなきゃいけない。

C1

私は菫と帰り道が同じだから、一緒に登下校することが多い。
もともと私は、お喋りな性格でもない。
必然的に部室以外では、菫とばかり喋ることになる。

だからこそ、最近になって気が付いたことがあった。
本人すら気が付かない、細微な変化。

 「昨日、自動卓が故障しただろ」
 「うん」
 「あれは結局、淡の仕業だったぞ。 問い詰めたら吐いてくれた」
 「やっぱり?」
 「すぐに直してくれたから良かったが、もし見つけられなかったら、私の首が危うかったな」

菫は、喋る量がとても多くなっていた。
菫だって冷静な性格をしているけれど、その事情を除外しても、よく喋るようになった。

それも専ら、淡がした悪戯に関すること。
悪戯の内容を話す菫は、別段嬉しそうにも、悲しそうにもしていない。
それでも私には、菫が多少の嬉しさを内包しつつ話しているのだと、簡単に理解することができた。

私はずっと、菫を見続けてきたから。

でも。
最近の菫は、よく淡の方を見つめている。
淡が悪戯ばかりするから、なんていうのは、きっと建前。
本人すら、気が付いていない建前。

菫はきっと、淡のことが好き。

 「そういえば、この前二人だけの時は――」

それはきっと、まだ液体のようで、確かな形にはなっていないけれど。
いずれ固まってしまうのは、よくわかることだった。

私は続く菫の話を遮って、衝動的に、間接的な発言をする。
どうして、そんなことをしたのかわからない。
今まで、こんな感情的になったことなどなかったのに。

 「最近、淡のことばかり話してるね」

その言葉で、心中に眠る気持ちに気付いたのは、菫よりも、私の方が先だった。

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思いついてから実行するまでには、数日の心の準備を必要とした。
でも、いざテルの前に割り込もうと決めた時には、躊躇なんてものはあんまりなかった。
私はいっつも、スミレを困らせるとわかりながらも、悪戯を続けてきたから。
これだって、その延長線上になるものに過ぎない。
その役割が、大きく違うだけで。

 「テル、そのお菓子ちょうだい!」
 「いいよ」
 「やった! あ、じゃあこれあげる」
 「なにこれ?」
 「この間発売したやつでねえ、すっごく美味しいの」

テルは表情に乏しい人だけど、それでもやっぱり、色々な感情は見え隠れする。
よくお菓子を食べているのも、その表れ。
だから備え付けのお菓子以外に、二人で勝手にお菓子を持ってきて、私達がそれを食べ合うことは、よくあることだった。

テルの表に出す感情は、小動物のように小さい。
スミレがそこに見蕩れてしまうのも、確かに納得できることなのは、よく接している私も理解していること。
だから私は、半ば諦めて、半ば執着して、こんなことをしている。

平静なテルと、平静を装った私。
そして肝心のスミレは、私達を見て、わかりやすく落ち着いていなかった。
私は常にスミレを見てきたから、細微な変化には、長い付き合いであるテルよりも速く気が付く自信がある。

今この時だけは、私は間違いなく、スミレの視界に入ることができていた。
それがテルを経由した"嫉妬"なんて感情であろうとも、私は構わなかった。

 「淡、もうやめろ。 そろそろ活動するぞ」

ほーら、わかりやすい。

まだ、いつもの時間より十五分も早いというのに。
お菓子を食べている余裕がないなんて、そんなことあるわけないじゃん。

それをそのまま口にして。
スミレの注意も気にせず、私達は先の行為を続行した。
最も、私がスミレにわざとらしく反抗するなんて、いつものことだけど。

 「テル、あーん」
 「…………」

でも今日は、ちょっとだけ様子が違っていたみたい。

書きためはありますが、本文長すぎが消えてくれなくてペース遅れます。
ごめんなさい、ちょっと書き込みテストします。

後にして思ったことだけど、平静なテルの顔に、ちょっとだけ濁りが見られたし。
そういった小さな変化でもなく、大きな変化も発生してしまったから。

 「……淡!」

耳に残る反響が頭を揺らして、手には温かい重みがかかって。
スミレの大声と、腕を掴むその手は、私を停止させるのに十全たるものだった。

 「え……」
 「あ……」

つい漏れた私とスミレの声は、波紋状に広がって、個室全体の時間を止めてしまう。
それでも私の身体だけは、激しく焦燥していた。

血が血液の道を無視して、身体全体に飛散したような感覚に陥った。
血が伝わって熱いはずなのに、不思議と身体の一部が寒くなりもした。
身体の温度が、どの箇所も一致していない。

 「菫?」
 「……いや、悪かった」

呼びかけたテルへ視線を合わせずに、スミレは正体のよく知れない謝罪をした。

 「あ、うん……」

私も、おんなじ。
「悪かった」の一言もないあたり、私のほうが悪質だ。
心中の知れぬまま謝っても、いたずらに疑念を増やすだけなのに。

そうとわかっていても、何も口にすることができない。
それはきっと、スミレも同じことだった。

スミレは、弁明の言葉を何も口にしてくれない。
口にすることをしてくれないから、できないから。
”スミレはテルのことが好き”で"私に嫌悪感を抱いたから叱った"んだって、そう、決まってしまった。

B2

カルチャーショックにも似た、何かを体験した。
少なくともその体験が、今まで私の中に存在していた常識を、尽く破壊していったことには違いない。
そのショックというのは、私ではなく、淡から引き起こされたもの。
しかしショックの対象は、淡に対してではなく、むしろ自分自身に対するもの。

私はいつものように、放課後となってから、何かするまでもなくすぐに部活へ足を運んだ。
淡のために作り出したこのリズムも、もう慣れたものだった。
淡が来ていないらしいことを確認した後、部室へと入室し、多少散らかった箇所を整理する。

 「おはよう、スミレ」

不意の声に、肩の力を乱される。
それが淡の声であると気が付いてから、その乱れは簡単に静まってくれた。

ts

 「ああ、おはよう」

収まってからは、逆に安堵すらしたものだ。
私が先に部室へいたのならば、さすがの淡も悪戯など仕掛けようと思わないはずだから。
そう思うと同時に、今までなぜ自分がこそこそと影に隠れて尻尾を掴む、などといった遠回りをしてきたのか。
そのところが不思議に思えてしまったのだが、私は結局、その答えを見つけられていない。

淡はそのまま、大人しく室内のソファーに座った。
その落ち着いた様が、とても不相応に目に映った。
もう少し、言ってしまえば、子供のように振る舞うのが淡の普段の姿だというのに。

私も簡単な整理整頓だったため、すぐに終わらせてからは、しばらく淡と過ごすこととした。

 「隣、借りるぞ」
 「うん」

棚から持ちだした多少の菓子を手に持って、それをソファー前のテーブルに置いて。
私はそのまま、ゆっくりと淡の隣に座った。
ただ、それが一番不自然でないから、そうしているだけで。

このソファーと向かい側にもう一つ同じソファーがあったのなら、私はきっとそちらに座ったことだろう。

そんなの、ただの例え話でしかないか。

淡の様子がいつもと違うと感じたのは、一時の勘違いではなかったらしい。
いつもなら、私に対してよく喋り、軽い悪戯くらいなら、私の目の前だろうと容赦なく実行するのに。
今は静かな横顔だけを、私に見せつけている。

 「妙に落ち着いてるじゃないか」

何の考えなしにした発言。
その発言は、思わぬ自体を引き起こすこととなった。

 「……ねぇ」
 「なんだ」
 「スミレは、テルが好きなんでしょ?」

唐突で衝撃的な内容を、しかし淡は顔色一つ変えずに呟いた。
不意に声をかけられた時のように、身体に少量の電流が走る。
僅かな痛みを感じるところだけが、その時と違っていた。

 「なに、言ってるんだ……」

自分でも、どうしてこう錯乱しているのかわからない。
混乱の末、私はついに、場を繋げる役割を淡に丸投げしてしまった。

 「ううん、なんでもないよ……ねえ、スミレ?」
 「……なんだよ」

さっきから、こればかり言っている気する。
体験したことのない鼓動の音は、それだけ私の思考を奪っていたのだろう。

 「私、もう悪戯するのはやめる」
 「は……?」

また、思考が奪われる。
私の脳内は、とっくに処理能力を失って、ただただ淡の挙動に左右されていた。

それに、どういうわけだろうか。
淡の、その言葉。
身体から温度を離脱させるような、とても冷たい言葉にも聞こえてしまったのは。

 「だから、これが最後の悪戯」

淡の表情が、少しだけ変化したけれど、どういう変化かは確認できなかった。

そうする前に、淡は私の唇に、口付けをしてきたのだから。

反射的に目を瞑ってから、初めて、自分がひどく熱を出しているのだと自覚できた。
制服の内側に熱が篭る。
過剰な鼓動を止めようとしても、頭を動かそうとしても、極端な緊張に遮られてしまう。

今の私みたいなことをされてしまえば、こんな熱は誰でも出しうるもの。
そう、思いたかった。

 「スミレ、今日は欠席するね」

私を見つめた淡も、私と同じくひどく赤面していて、指は震えていたようにも思う。
それでも、淡のほうがいくらか、いいや、ずっと冷静な状態だった。
変化ばかりが起きたこの時間、錯乱していたのは、私だけ。

淡が出ていってから、頬に手を当てて、顔の熱くなっていることを再確認する。
そうして、下唇を人差し指で軽く触れてもみた。
また、顔が赤くなる。

瞬きすることすら忘れて、キスをされたその時のように、長い時間呆けていた。
私の意識が戻るのは、次に照が入室してきた時だった。

C2

あんなに淡のことを喋っていた菫が。
あんなに淡の方ばかりを見ていた菫が。
今日はいやに大人しくて、期待のような、不安のような、混濁した感情が湧いてきてる。

表面上の理由は、淡が欠席したことだと思う。
見つめる先がいなければ、視界に入るも何もないから。

でもそれは、恐らく上辺だけの理由。
でなければたった一日で、ここまで劇的な変化が起こるわけがない。

この様子は、部活が終わっても変わることはなかった。
私もよく喋る性格はしていないから、私達はただ黙って、やや冷えた部室で部活動の余韻に浸っている。

どうして冷えているのか、あるいは私や菫の身体の方こそが冷えているのか、そのあたりはよくわからなかった。

 「今日は、淡のこと喋らないね」

空気を温めるための発言には、無意識に"淡のこと"だなんて、余計な一文が付け加えられていた。
そんなつもりは、本当はなかったのに。

 「どうして、そんなこと言うんだ」

菫の声は、いかにも辛辣そうだった。
私の方を見ずに、床の方ばかりを向いて、意識が半分、どこかに飛んでいる。
私のことは、身体でも精神でも見つめてくれていないことをアピールするように、ただ下を向いている。

 「いつもは淡のことばかり気にしてたから」
 「……かも、しれないな」
 「何かあったの?」

数秒置いてから、菫は喋ってくれた。

その内容の裏には確かに、菫の本心が隠されていた。
本人も気付かないほど、巧妙に。

 「なあ、照は……淡のこと、どう思ってるんだ?」

そう――淡が好き、という本心。
菫と淡との間にどんなやりとりがあったか、すぐに理解することができた。

少しだけ視界が暗くなって、それと同時に、一筋の光も見えた気がした。
でもその光は、私のための光ではなくて、菫と、淡のための光なんだろう。

 「逆に菫は、淡のことをどう思ってるの?」
 「……私は、お前に聞いてるんだ」

実に苦しそうな返答だった。

それを見て確信してしまった自分が、憎い。
憎くて、でも、嬉しくもある。

そっか。
私のやるべきことは、もう決まっていたんだ。
完全に二分されていた、私の感情――最後に選択したのは、緑色の嬉しさ。

 「……私は、ね」

私が、やらないといけない。
菫に、"自分は淡のことが好きである"と、気付かせてあげないといけない。

 「私は、菫が好き」

それが私の、弘世菫の友達としての役割。

C3

 「え……」

菫はわかりやすく動揺していて。
同時に、冷静さだけは、その身体から手放してはいなかった。

 「好きだよ、菫」

私は菫が苦しんでいるだけで、こうも冷静さを放棄できるのに。
後の言葉を待ち構えているだけで、気が狂いそうになるのに。

私は菫に感情的になれるけど。
菫は私に感情的になれない。

それの意味するところなんて、ずっと前からわかっていたこと。
わかっていなかったのは、菫だけ。
でも今はもう、わかったでしょ?

 「返事は?」

自分の声が震えている、これだって、きっと私しかわかっていない。

 「わからない、たぶん、私は……」

ううん、わかっている。
たぶん、でもない。
言葉にしていない、してくれないだけで、菫はもう、自分の心に気が付いているから。

 「私は?」
 「……照のことを、恋愛の意味では好きじゃない」

聞いた瞬間に、肺の中へ氷でも詰められた気分になった。

今の私にできることは、できる限り平静を装うことだけ。
菫が知っている、宮永照を装うこと――それは全部、菫のため。

 「そっか」
 「……悪い」

 「別に、わかってたから」

外から聞こえた強い足音が、私の心を一瞬だけ誤魔化してくれたけど。
その先にあるものを想像してみると、覚悟していのに、ちょっとだけ胃が苦しくなった。

 「行かなくて、いいの?」

 「……そんな状態で、置いていけるわけがないだろ」

そんな、状態――言われてすぐに、泣いていることに気が付いた。
最初は、堪えるだけでやり通そうとしたけれど、次第にそれもできなくなる。
普段の自分を脱ぎ捨てて、制服の袖を使ってでもいい、静かに泣きじゃくりたい。

菫はすぐにハンカチを貸してくれた。
なんとか泣いていないと言い張れるようになった頃には、薄いハンカチは、液体と相違ないほどに濡れてしまっていた。

私は、その優しさも好き。
けど、今は私に向けられるべきものじゃない。

だって、弘世菫に片思いする宮永照は、もういないから。
ここにいるのは、弘世菫の友達の、宮永照しかいない。

 「じゃあ、言い方を変える……どっか、行って」

だから菫には、友達として行動してほしい。
私の気持ちを、無駄にはしないでほしい。

 「……すまない」

最後に吐いてしまった、ちょっとだけ乱暴な言葉も、菫は許してくれた。
そうして、すぐに飛び出していく。

後悔が無いといえば、嘘になるかもしれない。
少なくとも、片思いをしていた宮永照としての後悔は、ある。
けど私は、弘世菫の友達として、行動したつもりだから、それで構わない。

片思いの抜け殻のような涙は、流れてしまったけど。
きっと、大丈夫。
残った私を、菫はちゃんと友達として扱ってくれるから。
それは付き合いの長い私が、誰よりも知っていることでしょ?

A4

なんでだろう。
私がこうして、一目散に逃げているのは。
何かが怖くて逃げているのは、わかる。
何が怖いのだろう?
私に振り向いてくれないスミレ?
それとも、スミレの親友である、テル?

ううん、そうじゃない。
私は、私が怖くて逃げているんだ。
スミレとテルの仲を直視できなくて、スミレを怒らせてしまった、私自身が怖い。
振られてしまったら崩れてしまいそうな私と、そんな覚悟を決めて告白もできない私の、両方が怖い。
テルが告白して、スミレが受けてしまう現実を見たら、錯乱してしまいそうな自分が怖い。

その事実は、私の足音を一層強くするものだった。

階段を降り続けて、どこかの踊り場に出ようとした時。
足の早さが段差とがずれて、転げ落ちてしまった。
その様が惨めで、痛みも一緒になって、私を惨めだと責め立てていた。

私は立ち上がる気力もなくなって、床を見つめながら、涙を流してしまった。
私はどうして、こんなにダメなんだろう。
だからスミレに見つめられなくて、だから遠回りなことをして。
告白もせず、逃げて逃げて逃げて。
結果、こんなことになる。

喉から、何らかの意志が出ていこうとするけれど、支えて出すことができない。
吐けば、楽になるのに。

苦しみが何分続いたかわからない、もしかしたら、秒で数えられるほどかもしれない。
時間の経過も忘れた頃。
不意に肩へ、他の誰とも違う温もりが流れた。

 「……こんなところにいたのか」

――スミレ、どうして、いるの?
追って、こないでよ。

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