モバマス、佐城雪美のSSです
少しのあいだ、お付き合いいただければ幸いです
【モバマス】「幸子、俺はお前のプロデューサーじゃなくなる」
【モバマス】「まゆ、お前は夢を見せる装置であればいい」
【モバマス】「橘ありすの電脳世界大戦」
と、同じ世界観の話です
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左手が燃えてるみたいに熱くて、目を開ける。
手の甲に、かさぶたにおおわれた、細長いきずあと。
「これ……なん、だっけ……?」
ぜんぜん、思い出せない。
ベッドから身を起こすと、冷たいしずくが頬を滑る。
「私……泣いてた……?」
にゃぁおーう、と枕元で鳴き声がする。
真っ黒いペロの、私を見上げる、宝石みたいな瞳。
「……にゃぁおーう」
真似して鳴くと、ペロが飛び込んできて、押し倒された。
濡れた目元を、ぺろぺろって舐めてくれる。
「おいしく、ないよ……?」
私は、ペロの体を優しく抱いた。
「怖い夢、見ただけだと、思うから……」
ペロを抱いたまま、ベッドから下りる。
……あれ。
勉強机の上に、お手紙が置いてある。
私が近づくと、腕の中のペロが暴れて、お手紙の隣に着地。
「おぎょうぎ、悪い……」
にゃぉーう。
「うん……」
椅子を引いて、座ると、膝に飛び乗ってくる。
よしよしって、喉をなでる。
お手紙を覗き込む。
初めて見る、丸っこい字。
『ゆきみへ。
はじめて、おてがみします。
いきなりですが、もんだいです。
ぼくはだれでしょう?
ひんとです。
ぼくは、ゆきみがちいさなころからいっしょにいます。
ひんとです。
ぼくとゆきみは、そうしそうあいです。
もうわかったはず。
ぼくはペロ。
ゆきみのかぞくです』
膝の上のペロを見下ろすと、まばたきを返される。
「ペロ……人間のことば、わかるように、なった……?」
じぃっと見つめ合う。
でも、返事、ない。
「お手紙……続き……」
『ゆきみにおてがみしたのは、ほかでもありません。
さいきんのゆきみは、べんきょうぶそくです。
このままでは、じんせいから、らくだいです。
ぼくは、しんぱいで、よるもねむれません。
そんなゆきみに、しゅくだいです。
すべてをこなせば、ぱーふぇくとれでぃまちがいなし!
まいにち、さぼらず、かたづけてね。
では、さいしょのしゅくだいです。
かぞくいがいで、ゆきみがいちばんしんらいしてるひと。
そのひとのところに、ぼくをつれていって!』
食卓に並んだ朝ごはんは、今日も、すごく豪華。
色がきれいで、種類もいっぱいで、食べきれないぐらい。
「雪美、食欲はある?」
「うん……おなか、すいた……」
ママ、仕事をお休みしてくれてから、前より優しくなった。
家にずっといてくれて……もう寂しくない。
「ねぇ、ママ……ペロから、お手紙、届いた……」
お手紙を差し出すと、ママは驚いてた。
ママがお手紙を読んでる間に、ピザトーストをかじる。
「これ、どうするつもり?」
ママの、私を見つめる瞳は、なんだか不安そうに揺れている。
「ペロが……そうしてほしいなら……そうする」
当のペロは、隣の椅子で丸まって寝てる。
「プロデューサーと……連絡……取りたい。会えるかな……?」
「ちょっと、待ってて」
ママは携帯を片手に、部屋を出て行く。
おなかがいっぱいになった頃、ママが戻ってきた。
「桃華ちゃんの撮影に同行してるらしいわ。お昼前には終わるって」
ママが、地図の書かれた紙と、お財布を、食卓に置いてくれる。
「……ありがとう」
私が立ち上がると、ペロも一緒に体を起こして、眠そうに目をこする。
「行こ、ペロ……」
椅子から下りたペロが、隣を同じ速度で歩いてくれる。
……嬉しいな。
心が通じ合ってるみたい。
駅前広場に降り積もっていた雪は、もうあとかたもなく溶けていて。
久しぶりに浴びる外の陽射しが、目に痛い。
私はうつむき加減に、腕の中のペロのあたたかさを確かめながら……ゆっくり歩く。
地図に書いてあったのは、前までよくプロデューサーと一緒に行ってた喫茶店。
ペロを連れて行くのは、これが初めて。
店の前に、スーツ姿のプロデューサーと、桃華ちゃん……それと、知らない子。
「ごめん……待った……?」
「いや? ……久しぶりだな、雪美。ちゃんと、ご飯食べてるか?」
「今朝は、ぜんぶ……食べたよ」
偉いぞって、安心したみたいに頷いて……プロデューサー、店に入っていく。
その背中を追いかける桃華ちゃんと目が合って……だけど、なんだか、元気ない。
なにか……あったのかな?
よく分からないけど、怖くなって、ペロを抱く手に力を込めた。
にゃうー、って鳴くペロは、私を元気づけてくれるみたい。
プロデューサーの後に続いて、扉をくぐった私は、接客のお姉さんの前で足を止めた。
「あの……」
お姉さんが、なあに、と中腰になって笑顔で首を傾げる。
「この子……ペロ」
私は腕の中のペロを差し出すみたいにする。
「すごく……おとなしい。他の人にも、迷惑かけない……だから、この子も……いいですか?」
自分は紳士だよって主張するみたいに、ペロがにゃうにゃうって小さく鳴いた。
「えっと……」
お姉さんが、困ったみたいな表情をして、ペロと、私の顔を何度も見比べる。
そのうち、店の奥から年配の男の人が出てきて……お姉さんに事情を聞き始める。
すると、その人は、ペロの頭を笑顔で優しくなでてくれて。
「可愛い猫ちゃんだね。いいですよ、ゆっくりしていって下さい」
「……ありがとう。良かったね、ペロ……」
にゃうー。
遅れて席に向かって、プロデューサーの隣に座る。
向かいには桃華ちゃんと……ひとめで緊張してるって分かる、可愛い子。
「わたくしの方から紹介しますわ。この子は橘ありす。小学校卒業を境に、晴れてアイドルになりましたの」
「あ、あのっ……橘、ありすです。初めまして。雪美さんのお話は、桃華から色々と。お会いできて、嬉しいです」
ありすちゃんが震える声でそう言って、ぺこりと頭を下げた。
「うん……はじめまして」
「で、ご挨拶が遅れましたけれど……雪美、お久しぶりですわ」
「うん……元気、してた?」
「それはもう。雑誌にお呼びいただく機会も増えましたし、年越しイベントにも出していただきましたわ」
「いろいろ……あったんだ」
「……ようやく、雪美の背中が見えたんじゃないかって、勝手にうぬぼれてますわ」
桃華ちゃんが、寂しそうな顔をして微笑んだ。
「今、桃華はファッション雑誌に連載を持ってるんです。ご存知でしたか?」
身を乗り出してきたありすちゃんを見て、私は首を横に振る。
「一年間という区切りで、季節が移ろうみたいに、様々な姿の桃華を載せるって企画です」
私はなんにも言わずに……ただ黙ってる。
「気づきましたか? これ、過去に雪美さんが取り上げられてた企画です。私、にわかで申し訳ないんですけど、当時のバックナンバーを取り寄せました。自然体の雪美さんは、とても可愛くて、綺麗でした。一緒に映るペロちゃんも魅力的でしたし。失礼な言い方かもしれませんけど、桃華にも勝るとも劣らないって感じで」
顔を上げたありすちゃんの、気の強そうな瞳に、じっと見つめられる。
「ありす、雪美が引いてましてよ。あなたの気の強さは美点だと思いますけれど、威嚇してるみたいですわ」
「あ……えっと……ごめんなさい」
ばつが悪そうに、ありすちゃんが顔を伏せた。
「いい……気にしてない。ありがとう、褒めてくれて……」
たくさんの人に見られながら、ペロと一緒に撮影されてた時のことを思い出す。
あの頃の私……きっと、楽しかった……。
「この世界、辛いこともありますけれど、楽しさがそれを上回りますわ。雪美もそうではなくて?」
答えられない。
代わりに、ペロが、にゃぁーうと鳴いた。
私は、膝の上のペロに見上げられてる。
「アイドルのこと……いまでもまだ、よくわからない……」
だけど……。
「ペロと一緒の撮影……楽しかった、んだと……思う。だから、私の感じる楽しいを、他の人にも分けてあげられたら、いいなって……」
言う時にプロデューサーの方を向いたのは、ほとんど無意識。
「雪美がそう思えるのは、分けてあげられるほどたくさんの幸せを、ごく自然に感じ取ってる証拠だ。自分の幸せを切り崩すみたいにしてしか生きられないアイドルが大勢いる中で、身の回りの出来事からより多くの幸せを引き出せるのは、ひとつの才能だと思う」
彼は、出会いの日と同じ、優しい目をして私を見てた。
「俺はな、雪美、アイドルとして生きる人生が、そうでない人生と比べて、雪美により多くの幸せをもたらしてくれると信じて、お前に声を掛けたんだ。この話、雪美には少し難しいか?」
「……プロデューサーが……私を……幸せにしてくれる?」
みんなが驚いたみたいに目を見開く。
桃華ちゃんは顔を赤くしてもじもじしているし、ありすちゃんは唇を引き結んでプロデューサーを睨んでる。
「間違って、た……?」
「いや、何も間違ってないよ。俺がプロデューサーである限り、絶対に雪美を不幸にはさせない」
プロデューサーが頭をなでてくれる。
なんだか、心がぽかぽかして、気持ち、いいな……。
その日の夜、お出かけで疲れてたのかな、ふっと目が覚めた。
部屋はまだ真っ暗で、だけど、窓から射す月の光が、壁を明るく照らしてる。
私と……それから、私の上に乗ったペロが、そこに黒い影を描いてた。
体を動かそうとしたけど……何故か、ぜんぜん動かせない。
意識は、はっきりしてるのに。
その時、ペロの影がゆらりと揺れる。
左右にふらふらしたかと思うと、今度はぐぐっと大きくなる。
私よりも大きなペロの影。
ペロの尻尾が、忙しそうに動いて、どこからかペンみたいなものを運んできた。
尻尾を丸めて器用にペンをつかんで……なにかを書き始める音が聞こえてくる。
ペロ……こうやって……お手紙、くれたんだ……。
……これは、夢なのかな?
分からないけど、ぜんぜん、怖くない。
ペロがそばにいることが、ただ嬉しくて。
明日が楽しみだなって思いながら、目を閉じた。
『ゆきみへ。
きのうはありがとう!
ぷろでゅーさーさん、いいこというね。
ゆきみをしあわせにするだなんて、やけちゃうよ。
それにしても、あいどるっておもしろい!
ももかちゃんは、まえより、たのもしくなってたね。
ありすちゃんは、これからがたのしみなこだし。
ゆきみはいったい、どんなふうにせいちょうするかな?
さてさて、つぎのしゅくだいです。
こしみずさちこちゃんって、わかるよね?
あのこと、あって、おはなししてください。
さちこちゃんは、きょう、CDしょっぷでいべんとをやるからね。
そこにいけば、あえるとおもうな』
ベッドで毛づくろいするペロに近づき、顔を寄せるようにして、ぷぅっと頬を膨らませる。
「ペロ……じぶんが会いたいだけ。……ずるい」
ペロが慌てて顔を上げると、首を左右にぶんぶん振った。
「ちがう……ほんと?」
縦にぶんぶん。
「……ん。分かった……着替えるから……ちょっと、待って」
着替えを済ませて、ペロと一緒に部屋を出る。
居間で朝ごはんを食べてる間、ママは向かいの席に座って、私の顔をじっと見てた。
「顔に……なにか、ついてる?」
「ううん……なんでもないわ」
でも、ママ、とっても嬉しそう。
隣の椅子で丸まったペロも、ご機嫌な様子でなうなう鳴いてる。
朝ごはんを食べ終えて、ペロと一緒にお出かけ。
駅に向かう道の途中で、ランドセルを背負った子たちとすれ違う。
私は顔を伏せて、誰とも目を合わさないようにして歩いた。
腕の中のペロが、私を慰めるみたいににゃうにゃうって声を上げてくれる。
「ありがとう……」
電車に乗ると、たくさんの人たちが、私たちのことを横目でちらちらと見てきた。
視線が怖くて、私は自分を守るみたいに背中を丸めて、ペロを抱く手に力を込めた。
雑誌の撮影をしてた時だって、大勢の知らない人たちが、私を見てた。
あの時は、どうして平気でいられたのか……思い出せない。
どうやって、アイドルをしてたのかも……。
目的のCDショップは、事務所の近く。
駅の改札を抜けた後、私は記憶を頼りに一歩を踏み出す。
そこからは、目に映るぜんぶが懐かしくて……なんだか、ふわふわした夢の世界にいるみたい。
急にペロが暴れて、私の手からするりと抜けて、きれいに地面に着地。
道案内をするみたいに、私の少し先を、急ぐでもなく歩き出す。
「私と、ペロと、プロデューサーで……いっしょに、お散歩したね」
心があったかくなる、そんな景色を思い出した。
「また、いっしょに……」
その時、木々の隙間から射す太陽の光に目がくらんで、言葉が途切れた。
前を行くペロの姿が、白い光に滲んで……慌てて駆け出す。
「……待って」
呼び止めるまでもなく、ペロはすぐそこで、行儀よくお座りしてた。
私はペロを抱き上げ、頬をすり合わせる。
「……おいていかないで」
なあおう。
寂しげに鳴くペロが、私の頬を舐めた。
CDショップの壁には、幸子さんのポスターが何枚も貼ってある。
イベントが始まるまで結構な時間があるのに、店の中にはたくさんの人がいる。
店内を歩き回っていると、店員さんと話しているスーツ姿の男の人がいた。
こちらを向いた彼が、私に気づく。
「雪美ちゃん? もしかして、幸子に会いに来てくれた?」
そっか……幸子さんの、プロデューサー。
私が頷くと、彼は嬉しそうに笑う。
「ありがとう、幸子も喜ぶよ。平気そうに見えて、意外と繊細だからさ、緊張してるんだ」
奥の部屋に通されると、そこには、パイプ椅子に腰かけて鏡と睨めっこしてる幸子さん。
「……こんにちは」
ぜんぜん、私に気づいてなかったみたいで、びくっと肩を震わせる。
「雪美ちゃん、ですか。可愛らしいお客様が来てくれたものですね」
「私のこと……知ってる?」
「同じ事務所ですし、雪美ちゃんは同年代の子の中では頭ひとつ抜けてるでしょう。ドラマ出演の経験なんて、ボクですらまだありませんし。まあ、そう遠くないうちにボクにもお呼びがかかる予定ですけどね!」
「幸子さん……可愛いから……きっとそうなる」
「ボクの可愛さに気づくとは、なかなか見込みがありますね」
壁際から、幸子さんが折り畳まれたパイプを引っ張り出し、私の前に置いてくれた。
「ところで、ペロちゃん同伴だなんて、嬉しいですね」
膝の上のペロを見て、幸子さんが口元に微笑みを浮かべる。
「すごい……ペロのことも、幸子さん……知ってる」
ペロが感激したみたいに尻尾を振り、私と幸子さんの顔を繰り返し見た。
「まあ、ボクは見ての通り勉強家ですので、他のアイドルの動向には常に気を配っているんですよ。一線で活躍する人たちのインタビューや写真からは学ぶところも多いですから。多くのファンに支持されるアイドルというのは、自分をより魅力的に見せる方法を知っているものです」
幸子さんは、鞄を手元に持ってくると、机の上に中身をひっくり返すようにする。
中からは、たくさんのファッション雑誌が津波みたいにこぼれ出てきた。
すらりと長く綺麗な幸子さんの指が、そこから一冊の雑誌をつまみ上げた。
表紙を見た瞬間、私の心臓が……どくんと跳ねた。
ずいぶん前に発行された、私が表紙の……ファッション雑誌。
「雪美ちゃんは、アイドルを辞めたいと思ったことはありますか?」
驚きに目を見開いた私を……幸子さんが優しい目で見下ろしてた。
「ボクにはあります」
膝の上に乗せた幸子さんの手は、少し、震えてる。
「ボクを信じ、ひとりのアイドルにまで導いてくれた人がいます。ボクの中で、彼の存在は大きくなる一方で、ボクの人生も夢も、いつしか彼なしには成立しなくなっていたぐらいです。だから、突然に彼から別れを告げられた時、ボクはこれ以上アイドルを続けても意味がない、と本気で思いました」
黙ったままでいる私の、手の下で……ペロがにゃぁうと悲しげに鳴く。
「ですけど、大切な人とお別れしなくちゃいけなくなった時に、アイドルである自分をも投げ捨てたら、何もかもがダメになる気がしたんです。ボクを信じてくれた彼も、彼が信じたボクも、そんなボクを好きになってくれたファンの人たちも、ぜんぶです。それだけは……嫌でした。その時、ボクは、自分にとって大切に思えるものが……彼以外にこんなにも増えていたことに気づかされました。それに気づけたからこそ、ボクは今でもここにいるんでしょうね」
「後悔……してない?」
幸子さんが肩をすくめる。
「もちろん、してますよ。彼にもっと教えてもらいたいことがあったし、もっと一緒にやりたいことだってありました。でも、結局はいつお別れしても後悔することに変わりはなかったって思います。一年後でも、五年後でも、ボクは同じことを言ってたでしょうね。何で今なんですか、って」
「辛い……?」
「それはもう。あの頃は毎日、ぐすぐす泣いてました。正直、今でも辛くないと言えば嘘になりますね」
ですけど、と幸子さんは少し間をおいて。
「当時は彼がそばにいることが、世界の常識でありすべてだと思っていました。私が歩むアイドルの道から彼がいなくなった時、その道は永遠に閉ざされると思っていたんです。だけど、そうじゃなかった。誤解してほしくないのは、ボクにとって、今でも彼は大切な人であり、その想いは少しも色褪せてないってことです。もしかすると残酷に聞こえるかもしれませんけど……人は、そばに大切な人がいなくなっても、生きていけるんです」
いつの間にか、幸子さんの手が、私の手に重ねられてる。
私の手の甲にきざまれた傷あとを、指先でそっとなでてくれる。
「雪美ちゃんは、泣きたくなるほど、後悔したことってありますか?」
私の視線は、幸子さんの隣……開かれた雑誌へと。
桜並木で、私とペロが駆け回る一瞬を捉えた写真。
最終回を前に終わってしまった……第十一回目の連載ページ。
私……どうして……アイドルでいることを投げ出してしまったんだろう……。
「幸子、そろそろだ。準備はいいか?」
背後で扉が開いて、プロデューサーさんが顔を出す。
「はい、すぐ行きます」
部屋から立ち去る前に、幸子さんは、私の両肩に手を置いた。
「ボクは、これからもアイドルを続けます。大切な彼がそばにいたって、いなくたって関係なく、世界で一番のアイドルになってみせます。そして、胸を張って、ボクは幸せだって叫んでやるんです。ボクが大切に思う人たちは、そんなボクの姿を、きっと笑顔で祝福してくれるでしょうから」
私は……なにも言えなかった。
『ゆきみへ。
さちこちゃん、すごくしんけんな、いいこだったね。
ぼく、ちょっとかんげきしちゃったよ。
でもね、ゆきみもぜんぜんまけてない。
ゆきみのすがたをみて、よろこぶひとはたくさんいる。
ゆきみがわらってるのをみて、うれしくなるひともね。
ゆきみからしあわせをうけとるのを、たのしみにしてるひとだって。
ぼくも、そのひとり。
さて、しゅくだいも、あともうひといき。
さくままゆちゃん、とうぜん、わかるよね。
いわずとしれた、びっぐねーむ。
こんど、まゆちゃんをちゅうしんとした、らいぶいべんとがあるんだって。
ゆきみも、けっこう、ながしられてるし、もしかするともしかするかも?
そのへんは、ゆきみのがんばりしだいかな。
ゆきみが、もし……。
ううん、いうのはやめとくね。
ゆきみがきめることだから。
でも、ひとつだけいわせて。
ぼくは、しあわせなゆきみをみてるのが、すきだな。
ゆきみがしあわせになることが、ぼくのしあわせ。
ゆきみがなっとくして、そうきめたなら。
どんなみちをえらんだって。
あいどるをつづけたって。
やめてしまったって。
ぼくは、こころから、ゆきみをしゅくふくするよ』
待ち合わせの喫茶店にまゆさんが来たのは、私とプロデューサーが着席した数分後。
まゆさんは、遠目でも分かるぐらいに、ばつぐんの美人で……目立ってる。
プロデューサーの隣に控えて、自信満々に、歩いてくる。
私もだけど、隣に座る私のプロデューサーはすごく緊張しちゃってた。
「佐久間まゆです。今日はよろしくお願いしますねぇ?」
まゆさんは、丁寧に頭を下げると、私のそばまで来て屈み込む。
視線の高さを合わせてくれたまゆさんが、リボン付きの綺麗な箱を渡してくれる。
「まゆ手作りのチョコレートです。雪美ちゃんのお口に合うと嬉しいんですけど」
まゆさんがにこりと笑い、向かいの席に座る。
「ペロ……まゆさん……いいひと」
頷いたペロが、早速、リボンを緩めようとする。
「食べちゃ……だめ。チョコ……ペロには……よくない」
箱を取り上げると、ペロはがっくりと肩を落として、そのまま丸まってしまう。
「さて……では、本題のライブイベントの件なのですが」
口火を切ったのは、まゆさんのプロデューサー。
今日は、今度のライブイベントに関する打ち合わせ。
桃華ちゃん、ありすちゃんと一緒に……私も、出られるかも。
話はお互いのプロデューサーがするからって……私とまゆさんはただ座ってるだけ。
「少しお手洗いに行ってきますねぇ」
席を立ったまゆさんが、振り返って、私をじっと見つめてきた。
気のせいじゃなければ、私、呼ばれてる。
「……私も……」
ペロを抱いて、席を立つ。
洗面所の前で、まゆさんは鏡に向かい、髪を整えていた。
「あの……」
「お仕事、断っても、いいですよぉ?」
まゆさんの横顔が、表情を変えずに言う。
「嫌なことから逃げることが、必ずしもいけないことだと、まゆは思いません」
こっちを向いたまゆさんが、首を傾げて笑う。
「人には向き不向きがありますし、闇雲に向かっていくのは賢いことではないです。大人の都合で、やりたくないことや、できもしないことを、頑張ってやろうとしたって、不幸な結果になるのは目に見えてますからね。昔、まゆにもそういう時期がありました」
「まゆさんは……アイドル……辞めようとしたこと、ある?」
「辞めざるを得なくなっていたかもしれない、という意味でなら、ありますねぇ。今、まゆはアイドルですけど、それよりずっと高い確率で、普通の学生として過ごすまゆがいたと思います。ただ、実際には、まゆをアイドルの道に引き戻してくれた人がいましたからねぇ。まゆの人生を普通じゃなくした責任だけは、うふ、取ってもらわないと」
今までとは雰囲気が違う……なんだか背筋がぞわぞわする感じの笑い方を、まゆさんはする。
「といいますか、雪美ちゃんはアイドルを辞めたいんですか?」
「今回のお仕事……私から、プロデューサーに、お願い、した……」
まゆさんが、目をぱちくりさせた。
「でしたら、まゆの早とちりでしたかねぇ。雪美ちゃん、さっきから、全然乗り気に見えません」
「私……どうやって、アイドル……続けたらいいのか、わからなく、なった……」
「ふうん? それは、どうして?」
「……みんなに分けてあげられるほど、楽しいを、感じられなくなったから……」
「それでも、アイドルを続けるんですか?」
私の喉から……言葉が出てこなくなる。
代わりに、肩が震えて……目の前がくらくらして。
倒れそうになったところを、まゆさんに、ペロごと抱き締められた。
「ごめんね、まゆが悪かったです」
まゆさんは、私と目を合わせずに、ペロの頭をなでる。
「これからのこと、まゆのひとりごとだと思って、聞き流してくれて構いません」
「え……?」
「さっき、学生として過ごすまゆの話をしましたけど、それはそれで、まゆ、幸せだったんじゃないかと思います。まゆの代わりはまゆしかいない……確かにそうでしょうね。でも、代わりがいなくたって、誰かの世界は回ります。まゆや誰かの幸せが、そこにしかないなんて、きっと思い上がりなんです。こことは別の居場所で幸せになれるなら、その人生を、雪美ちゃんが大切に思う人たちは祝福してくれるんじゃないですか?」
プロデューサー……優しいから、きっとそう。
私のこと……責めたりしない。
「アイドルをやめることが、そのまま、不幸ってわけでは絶対ないです。逆に、アイドルを続けることが幸せってわけでもないでしょうね。ただもし、雪美ちゃんがアイドルを続けるなら、まゆたちはライバルであり、仲間です。それ以外の人生を選べば、見ることの叶わない景色を、一緒に見られるかもしれません。それはとっても、素敵なことだって……まゆは思います」
まゆさんの微笑みは……まぶしくて。
その光は、私が忘れてしまったものに似ている気がした。
翌朝、お手紙、なかった。
代わりに、プロデューサーから電話。
今から会いたいって。
うんって言うと、すぐに迎えに行くって言われて、電話が切れる。
私は精一杯のおめかしをして、ソファに座って、ペロと一緒に待つ。
膝の上で、丸まって眠るペロを見てると……初めて会った日のこと、思い出す。
もう何年も前のクリスマス……ともだちが欲しいって、お願い……した。
頑張って起きてようとしたけど、できなくて。
翌朝、ほっぺたをぺろぺろって誰かが舐めてるのに気づいて、目を覚ました。
その瞬間から、私とペロは、家族になった。
アイドルになってから、たくさん、ともだち、できたけど……。
今でも、ペロが、いちばんのともだち。
うとうとしてたら、車の音が聞こえて……私は立ち上がる。
家を出る前、ママが私を抱き締めて、ほっぺたにキスしてくれた。
「愛してるわ、雪美」
そう言うママの目……涙が浮かんでた。
どうしたんだろう……?
「それじゃあ、行ってくる……」
迎えに来てくれたプロデューサーの車に乗り込む。
「どこに……行くの?」
プロデューサー、答えてくれない。
車が動き出して……助手席の私はもう何も言わない。
無言のまま……しばらくすると、ペロが、にゃうって鳴いた。
「どうか……した?」
ペロ……窓から外を見ながら、何度も鳴いてる。
それが悲鳴みたいに聞こえて……私は心配になる。
「プロデューサー……ペロが……」
前を向いたまま、プロデューサー、なにも言わない。
ペロは、おかしいぐらいに、にゃあにゃあって鳴いてる。
私がなだめようとしてもだめで……。
鳴き声は、だんだん、苦しそうなものになっていく。
そのひと鳴きひと鳴きが、心に傷をつけるみたい。
「ペロ……ペロ……!」
助けてって、プロデューサーを見ると……彼の表情は、辛そうで。
「ペロは、苦しそうにしてるのか?」
「すごく……苦しそう」
膝の上のペロ……ぐったりして、震えてた。
「……どうしよう……どうしよう……」
私の手……どうしようもないぐらいに震えて……動かない。
「そうか……苦しんでるんだな。今でも。それほどに」
「なに……言ってるの?」
今日のプロデューサー……おかしい。
「……到着だ」
顔を上げると……周りを木に囲まれた、広い場所。
私……ここ、知ってた。
敷地の中央に細長い建物があって……。
その奥に、たくさんの……お墓が並んでた。
「……ぁ……」
私の目が……自然と、見開かれていって……。
隣の席のプロデューサーが、私の手を握ってくれる。
「雪美、お前が苦しみ続けてきたのに……助けてやれなくて、本当にすまない」
いま……ペロの声、私の頭の中に響いてる。
苦しい、痛いよ、助けてって……。
「もしかすると、俺はただ、雪美の逃げ場所を奪っているだけなのかもしれない。だが……」
プロデューサーが、懐から……お手紙、取り出した。
毎朝、ペロがくれたのと……同じ色と形をした、お手紙。
「苦しんでるのは、ペロじゃない。その悲鳴は、雪美自身の叫びだ」
『ゆきみへ。
どうか、もう、くるしまないで』
震える指がお手紙を落として……膝の上に。
そこには……黒猫の……ぬいぐるみが、あった。
それはもう……声を上げないし……私のために鳴くこともなかった。
『雪美ちゃんは、泣きたくなるほど、後悔したことってありますか?』
幸子さんの声がふっと聞こえた。
私は……ペロだったはずのものを、まばたきもせずに見つめたまま。
忘れようとしていたこと……ぜんぶ、思い出す。
「ペロに……さよならを言えなかった」
ペロ……頭の病気だった……。
最初は、一緒にベッドでおやすみしてた時のこと。
いきなり、ペロがびくびくって体を震わせ始めた。
目を見開いたペロ……舌が飛び出てて……苦しそうにしてた。
震えが治まるまでの数十秒が、永遠みたいだった。
ママに病院に連れて行ってもらって……発作をおさえる、お薬もらった。
でも、お医者さん……言ってた。
この病気は原因がはっきりしてなくて……治すのは難しいってこと。
ストレスが溜まらないようにしたり、食事に気をつかったりすることぐらいしか、できること……ないって……。
それから……何度も、ペロは、発作、起こした。
ペロが苦しそうにしてるのに……私、なんにもできない。
ママがいない時に発作が起きると、私……預けられてたカメラで、ペロを撮影した。
お医者さんの診断に必要だからって……。
レンズの向こうの、ペロ……辛そうで……心が、どうかなりそうだった。
お薬を飲むたび、ペロ、ぐったりしてた。
うまく歩けなくなって、あんなに好きだったお散歩にも行けなくなった。
発作の間隔が、少しずつ、短くなって。
発作の時間は、どんどん、長くなって。
そんなことが続くうちに、ペロ、怒りっぽくなった……。
私がそばにいることを嫌がるようになった。
辛かった……。
私たち……ずっと……一緒だったのに……。
さいごの夜、私……寝ずに、ペロの看病、してた。
夜中に発作が起きて……それがおさまったあと、ペロは暴れ出した。
その時、手の甲を引っかかれて……血がぽたぽたって床に落ちた。
傷あとがじくじくって痛んで……洗面所に洗いに行って……。
戻ってきた時……ペロ……嘘みたいに静かになって……おやすみしてた。
もう……目を開けなかった……。
自分の部屋のベッドに倒れて……ぼんやりと、天井、見てた……。
もう、何日も……こうしてるような気がする。
ノックの音がして……でも、返事しようって思えない。
扉がゆっくり開いて……おそるおそるって感じで、桃華ちゃんが顔を出す。
私と目が合った瞬間、桃華ちゃん、すごくショックを受けたみたい。
「雪美、あなた、なんて顔してるんですの……」
そばに来てくれた桃華ちゃんが、布団の中から私の片手を引っ張り出して……両手で握る。
祈るみたいな格好をしたまま……なにも言わずにいて……。
その目から、つうって、涙……流れた。
「どうして……泣くの?」
「悔しいからですわ……」
手を離そうとしないから、涙が頬を伝って……床に落ちた。
それを見てると、あの日に、私が流した血のこと……思い出した。
「大事なともだちひとり、助けてあげられなくて……何が、アイドルですの」
「桃華ちゃんのせいじゃ……ない」
私……ゆっくり、首を振る。
「みんな……私のために、いろいろしてくれた……。……桃華ちゃんも……ありがとう。その気持ち……ほんとに、嬉しい。また、頑張りたいって、思う……。だけど……体……ぜんぜん、動かない……」
「無理すること、ないですの……。雪美が元気になるまで、わたくしはいつまでだって待ちますわ……」
結局、桃華ちゃん……日が暮れるまで一緒にいてくれた。
なんにも、お話しなかったけど……手のぬくもりが、寂しさをまぎらわせてくれた。
それなのに、私の中から、大切な、色々なものが、ぜんぶ、こぼれていくみたいで……。
遠くないうちに、私は空っぽになるんじゃないかなって……そんなこと、思った。
別の日に、きれいなお花を持って、幸子さんが来てくれた。
「ペロちゃんのこと……残念でした……」
幸子さん、ベッドのそばにひざまずいて……鼻をすすり上げた。
「本当はボク、ぜんぶ、最初から知ってたんです。騙して……ごめんなさい。こんなボクでも、雪美ちゃんの……みちしるべになれるんじゃないかって、思い上がったんです。でも……」
幸子さん……私をじっと見て……口を押さえた。
「ボクはただ、雪美ちゃんを追いつめただけじゃないかって……」
その目がうるんで……今にも、涙がこぼれ落ちてしまいそう。
「幸子さんの言葉に……私、勇気もらった。ありがとう……。そんな顔させちゃって、ごめんね……」
私……布団の中から手を出して……顔の前にかざす。
かさぶたになった傷あと、見てると……心が痛んだ。
私のことを、敵みたいに見る、ペロの目、思い出すから……。
「私が……なにもできないから……ペロも……みんなも、苦しめた……」
「……そんなこと、言わないでください。自分が一番辛い時期に、見捨てずにそばにいてくれることが、どれだけ救いになるか。最期までペロちゃんの苦しみを受け止めてあげた雪美ちゃんのこと、誰も責めなんてしません」
「でも……ペロ……私のこと、嫌いになった……」
「確かに、ペロちゃんは、雪美ちゃんのことが分からなくなっていたかもしれません。でもそれは、いつかまた元気になるために、お薬の副作用に耐えて、病気と戦い続けたからです」
幸子さんに……強く、手、握られた。
「ペロちゃんは、雪美ちゃんと出会えて嬉しかったはずです。その人生はきっと幸せでした。雪美ちゃんの手の甲に残るこの傷は、ペロちゃんが一番に辛くて苦しい時期に、逃げずにそばにいてあげた証です。雪美ちゃんがいなかったら、ペロちゃんは、誰とも苦しみを分かち合えずに、ひとりで苦しみ続けていたでしょう。これは雪美ちゃんたちが間違いなく家族だったという証明なんです」
気がつくと……幸子さん、泣いちゃってた。
「幸子さんまで……どうして……泣くの?」
「人は……悲しい時、泣くものなんです。泣いていいんです。それなのに、一番傷ついてるはずの雪美ちゃんが泣こうとしないから、このボクが……世界一、慈悲深いボクがっ……代わりに、泣いてあげてるんです」
幸子さん……服のそでで、ごしごしって目元をぬぐう。
「決めました。無理しないでって、言うつもりでいましたけど、やめます。今度のライブイベント、無理してでも参加してください。もしここで、アイドルとしての人生を手放したら、雪美ちゃんはきっとぜんぶ失ってしまいます。それがどれだけ価値あるものだったか、人はいつだって失ってから気づくんです。ペロちゃんと一緒に歩んできた道が、ペロちゃんがいなくなったら無価値になるなんて、そんな馬鹿げたこと、ボクは絶対に認めない。雪美ちゃんだけが、その道を価値あるものに変えられるんです!」
ライブイベント当日……控え室に私が入ると……空気がざわってした。
一瞬だけ静かになって……それからまた、みんなは近くの子たちと話し出す。
私……部屋の隅っこの、椅子に座って……うつむいた。
「正直、来るとは思ってなかったです」
横に立ったのは……立派な衣装を着て、薄くお化粧をしたまゆさん。
真っ先に私のところに来てくれたまゆさん……いつもよりずっときれい。
「これが雪美ちゃんの出した答えだって、そう思って構いませんか?」
私……目の前の鏡を見つめる。
そこに映るのは私ひとりで……自分自身に言い聞かせるみたいに、頷く。
「私……自分の楽しいや嬉しいを、みんなに分けてあげるだけだって……そう、思ってたけど……違った……。それ以上の幸せを……みんなにもらってた。アイドルの私も……私を好きになってくれた人たちも……私を助けてくれる人たちも……ぜんぶ、ペロと一緒に手に入れた宝物で……。私……それを……失ってしまいたく、ない……」
まゆさんは、真剣な顔で……頷いて。
「まゆや雪美ちゃんがいなくたって、誰かの世界は回ります。だけど、止まらずに回る世界に自分の足あとを刻み込むのがアイドルの使命だって、まゆは思います。これからも続く雪美ちゃんの人生から、決してペロちゃんの存在が消えることがないように」
まゆさんは、私に背を向けて……もう振り返らない。
「とっても素敵な答え、聞かせてもらいました。最後にひとつ……ひとたびステージに立てば、何が起きたって、誰も、雪美ちゃんのことを助けてあげられません。だから……そうですね。全てが終わった時、笑顔で立っていられることを祈ってます」
みんなの後について、廊下を歩きながら……私、いろんなこと、考えた。
このライブが終わったら……ママに、ごめんねと、ありがとうを言おうって。
桃華ちゃんや、幸子さんや……まゆさんにも。
でも……その中にはもう、ペロがいないんだってこと、思い出す。
心がぎしって、きしむけど……私、行かなきゃ。
舞台の袖から……たくさんの、お客さんの姿が、見える。
なんだか、懐かしくって……現実味、ない。
明るくて……まぶしいステージに、私は飛び出していく。
中央に立つのはまゆさんで……歓声が膨れ上がって、おっきな渦になる。
みんなの背中が輝いて見えて……私だけが、取り残されてた。
もう音楽が流れ始めてるのに……なんだか、私だけ、夢の中にいるみたい。
私……どうやって踊って……どうやって歌ってたんだっけ……?
アイドルとしての私……ずっと、ペロと一緒だったから……。
ひとりになった今、どうすればいいのか、わからない……。
足元がふわふわして……それなのに、体はすごく重くって……。
これからの私は、ひとりで、頑張らないと、いけないのに……。
冷たくなって……震える手……それが、つかまれた。
驚いて、隣を見ると……笑顔の桃華ちゃんが、私にウインクをする。
喉からうまく声を出せずにいる私の手を……ぐいっと引いて。
ほとんどくっつくみたいな感じの私たち……桃華ちゃんが、私のマイクに向かって歌う。
私が知ってる時より、ずっと、のびやかで、澄んだ……とってもきれいな、声。
こうするんだよって、優しく、教え、導いてくれるみたいな……。
手を引かれるまま、私は歩いて……桃華ちゃんと一緒に、同じマイクを使ってふたりで歌う。
言葉なんて、交わしてないのに……心が通じ合ってるみたい。
桃華ちゃんの、あったかい感情に、緊張がほぐれていくのが……自分で分かる。
気がつくと舞台の真ん中ぐらいまで来てて……今度は、桃華ちゃんに肩をとんと押された。
突き放すんじゃなくて……頑張って、って言うみたいな。
ありがとうって頷いて……またひとりになった私の前に、幸子さんが立ってた。
幸子さん……汗をきらきらさせながら、踊ってた。
飛び上がり、体をひねり……両手を前に出し……激しく踊り、だけど笑顔を崩さない。
まぶしいぐらいに、輝いて……その背中、私が歩もうとする道の、ずっと先でかすんでた。
幸子さんが、くるりとターンして、私の心臓を撃ち抜くみたいに……銃の形をした手をはじく。
私……きっと、呼ばれてる。
前に歩み出すと、幸子さんが、私のためにそっと場所をあけてくれる。
へたくそで、迫力もなくて……そんな私の踊りに合わせて、幸子さんが踊る。
ただそれだけで、私のダンスは、ずっとずっと高みに押し上げられていくみたい。
幸子さんが、体をひねりながら前にステップし、騎士みたいにひざまずく。
近くにいた子たちが、それに合わせて、左右に分かれた。
私の前に……さえぎるもののない、まっすぐな道が、つくられる。
私……なにも考えられないまま、ゆっくり、歩いていく……。
ステージの最前線、そこで、笑顔のまゆさんが待ってた。
ステージでは、誰も、私のこと、助けてあげられない、なんて。
そんなこと……言ってたはずのまゆさんが、手を差し出してくれた時……思った。
私……ひとりじゃない。
目の前には、たくさんのお客さん……みんな、私たちを見てた。
隣には手を繋いでくれるまゆさんがいて……後ろには、私の大好きな人たちがいる。
そう思うだけで、あらゆる不安とか恐怖が……なくなってしまう。
そして、曲が間奏に入った時、まゆさんがいきなり、私の手を離した。
まゆさん、後ろにすっと身を引いて……私が一番、お客さんに近くなる。
ただ、曲だけが流れ続けて……。
たくさんの視線が集中するなか……私、ただ、立ち尽くす。
その時……お客さんのひとりが、大きな声で、私のこと……呼んだ。
会場に響いたその声が、溶けて消えてしまう前に……いくつもの声が、私を呼ぶ。
それは、いくつも重なって、だんだんと大きくなって……。
間奏が終わろうとして……。
客席に、たくさんのパネルが、一斉に上がった。
『雪美ちゃん、おかえりなさい』
ひとつ。
『愛してる、雪美ちゃん』
ひとつ。
『おかえり』
そしてまた。
『大好き』
歌い出そうとしていた私の喉から……声が出てこなくなる。
もう、歌は始まってるのに……後ろの人たちも、歌をうたわない。
まるで……私が歌い出すのを……待ってるみたいに。
凍りついてしまった会場……でも、お客さん、誰も……そのこと、責めない。
私は、パネルの一枚、一枚を、ただ目で追っていくだけで……。
『ペロちゃんに祈りを』
そのパネルを見た時……力が抜けて……膝から崩れ落ちそうになる。
駆け寄ってきたまゆさんが……私に肩をかしてくれる。
「だいじょうぶ……」
私は……まゆさんの肩を押して。
自分だけの力で、立ち上がる。
震える両手で、マイクを握り締めて。
「私……もう、アイドル……諦めない」
それを、口に出した時。
目の前が……ぼんやり、にじんだ。
「私が……弱音をはいて、ばかりだと……」
ペロが亡くなった、あの夜から……いちども、流れなかった涙……。
それが今、私の目から、ぼたぼたって……。
「天国のペロが……安心して……おやすみ、できないから……」
流れて……落ちて。
とまらなくて。
どうしようもなくて。
歌なんてうたえない。
踊りなんておどれない。
でも。
それでも。
いま、心の中をいっぱいに埋める、その感情を……。
あったかくて、しあわせな、心の一部分を。
どうか……私の大切な人たちに、届きますようにって。
祈るように……うたった。
全てが終わった後のこと……。
私……プロデューサーと一緒に、ペロのお墓の前にいた。
ペロがいなくなってから、いちども来たことがなかった場所。
「遅くなっちゃって……ごめんね」
お墓の上にお水をかけてあげて……お花を新しいものに入れ替える。
「プロデューサー……この、お花、今まで、ずっと……?」
彼が頷き……すっと腰を落として、手を合わせる。
私も、同じようにした。
今までの、ありがとうと、ごめんねを……伝えた。
とても長く、祈り続けてた……。
私が目を開けた時、プロデューサー、優しい目をして……私を見下ろしてた。
「それじゃあ……行くか」
「……待って」
歩き出そうとした背中を呼び止める。
「プロデューサー……私……幸せに、なりたい」
「いきなり、どうした?」
「プロデューサー……アイドルであることを選んだ私を……幸せにしてくれるって、言った」
「ああ、言ったよ」
はぐらかさずに答えてくれる……それが、嬉しい。
「そう言ってくれた、プロデューサーのこと、信じたい……。不幸になって、プロデューサーの言葉を嘘になんて、したくない。だから……私……幸せに、なる。絶対に……」
プロデューサー……無言で近づいてきて……私をぎゅっとしてくれた。
「そうだな……幸せになろう」
私たち……手を繋いで……歩き出す。
幸せへと続く道を。
以上となります。
ありがとうございました。
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