奉太郎「冬空を見上げて」 (18)

氷菓SS

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久しぶりに目覚めがよかった。眠りが深かったんだろう。
すっかり寒い季節になってしまったので、布団からでるのは億劫だった。時計の針は十一時を示していた。もうじき昼にもなる。ずっとこうしてはいられない。のっそりと立ち上がり、部屋のカーテンを開けて空を見上げた。どうやら今日は曇り空のようだ。どんよりとした灰色の雲が空一面に敷き詰められている。晴れていたら散歩にでも出かけようと思ったが、この空を見るとどうにも気が進まない。今日はせっかくの休日だ。家でゆっくりとしていよう。
とりあえず目覚めの一杯にコーヒーでも飲もうと湯を沸かした。ポットを眺めていると、ふと先ほど見た雲の様子が頭に浮かんだ。その雲の色は、高校生だった頃の出来事を思い出させた。

「灰色か……」


灰色。
あの時、その言葉を口にしたのは里志からだったか、俺からだったか。細かいことまでは覚えていないが、そんな話をした。一年の時に「あいつ」の家で、古典部に起きた過去の事件を推察することを目的とした検討会に向かっている最中だったと思う。思い返せば、神山高校に入学してからというものの、何かと「灰色」の言葉が頭に浮かんでいた。今となっては懐かしい思い出の一つだ。俺たちの書いた文集「氷菓」もいずれ古典になっていくんだろう。
思い出にふけっていると、ポットが沸騰を告げるランプを点滅させていた。安物のインスタントコーヒー入れたカップに湯を注ぎ、まだ完全に稼働しきれていない頭のままぼんやりとそれを眺めた。まだ熱いのですぐには飲めない。
今日は休日だ。なにも慌てることもない。

ピンポーン。

「ん?」

インターホンが鳴った。誰だ。今日は約束なんてなかったはずだ。「あいつ」も今日はゆっくり羽を伸ばすと言っていた。となると誰だろうか。心当たりがない。新聞の勧誘か? ひとまず冷えた床を裸足でぺたぺたと歩いて玄関に向かった。
魚眼レンズを通して、外の様子を見た。向こうにいるのが誰だかわかった瞬間、思わず声が出てしまった。どうしてこいつが俺の家に……。
一つ咳払いしてからドアを開けた。

「やあ、ホータロー」

来たのは里志だった。ずっと変わらない笑顔を浮かべている。声も快活で別段変わった様子がない。
俺が驚いたのは里志の急な来訪によるものであって、決して疎遠になったからではなかった。ただ、こいつには「事情」があると知っていたから、いつも通りの様子なのにはさらに驚かされた。

「急にどうしたんだ」

「いやあ、ちょっとね」

はぐらかされた。どうやら外で話すようなことではないらしい。ちょうど湯も沸いた所なので、茶の一杯でも出してやろう。部屋着のままなので俺まで寒くなってきてしまった。冬の刺すように鋭い寒さが身に沁みる。

「とりあえずあがれよ」

「助かるよ、外は寒くてさ」

今思うと、里志を家に招き入れたことなんてほとんどなかったことに気がついた。俺たちは付き合いは長いが、頻繁に互いの家を行き来するような関係ではなかった。俺も今さら里志の家にわざわざ行こうとも思わない。それに里志も実家を出ているはずだ。

「質素な部屋だね」

返事を求めているようには見えなかったので返事はしなかった。
俺の部屋にあるのは必要最低限の物だけだ。ゲームや凝った家具などは置いていない。姉貴が送ってくるどこの国の物なのかも定かでない奇妙な土産物はあるが、それでも世間から見れば退屈な部屋には違いない。ましてや、里志ならなおのことだ。

「外はずいぶんと寒くなったね」

「冬だからな。コーヒーでいいか」

「うん。わざわざ悪いね」

カップをもう一つ取り出し、先ほどと同様にインスタントコーヒーに湯を注いだ。ポットの口から湯気が上る。入れたばかりのコーヒーカップを置くと、里志は両手でそれを包み、ほっこりとした表情を浮かべている。どうやら外はそうとう寒いらしい。散歩になど行かなくてよかった。俺も自分のカップを持つと、コーヒーが飲みやすい温度になっていた。

「で、今日は何の用なんだ」

「…………」

いつの間にか里志の顔から笑みが消えていた。口元も笑っていない。里志なりに高校の時よりはシリアスな雰囲気を出すようになったもんだ。しかし、急に俺の家に押しかけておいて黙り込まれても困る。さっきから時計の針の音が気になる。
ふと、里志が来るまで思い出していたことについて話してみようと思った。

「なあ、里志。高校の頃話した『灰色』って覚えてるか」

「ん、ああ……懐かしいね」

里志は俯けていた顔を上げて、懐かしむように天井の辺りを遠く眺めた。俺も何となしに斜め上を見上げた。
高校生の頃、俺は灰色な生き方を好んでいた。たしか里志の色はショッキングピンクだったか。俺の高校生活は完全な灰色にはなりきれなかっただろう、と今は思う。それは多分、「あいつ」や里志、伊原たちが関わっていたからだと思う。特に「あいつ」の好奇心が爆発した時にはいつも振り回されていた。それに今だってその爆発から逃れることができているわけではない。しかし、あの当時厄介事から逃げようと思っていた時よりは多少の受け入れる体制はできている。
完全な灰色に染まることができなかったことに後悔はない。

「そんな話もしたね。それがどうかしたの?」

「いや、ちょっと思い出してな」

「そっか」

せっかく気になったので、思い切って訊いてみることにした。

「……お前は。お前は今の俺が灰色に見えるか?」

俺がそう言うと、里志は少し首を傾げた。

「いや、見えないね」

あまり間を空けずに里志が答えたので、俺は思わず訝しんだ。

「じゃあ、何色に見えるんだ」

そう訊くと、里志は笑みを浮かべながら人差し指を立てた。

「今のホータローは薔薇色だね」

高校の時の俺なら、すぐさま里志の言葉を否定していただろう。しかし、今は否定しない。それは俺自身も多少なりともそう思っているからだろう。
俺が黙っていると、里志はやれやれとばかりに肩を竦めてみせた。

「間違いなく薔薇色だね。いやあ、まさかホータローが千反田さんと付き合い始めるだなんて。今でもにわかに信じがたいよ」

そう。俺は今、千反田と交際している。
以前、そのことを「あいつ」と一緒に里志と伊原に告げた。その時の二人の叫び声は今でも耳に残っている。まあ、驚くのも仕方がない。俺自身、未だに不思議なくらいだ。ふわふわと浮いたような心地で、未だに実感が湧かない時が多々ある。

「それがどうしたのさ。今の自分に自信が持てないのかい?」

里志はいたずらな目で俺の顔を見た。自信がないというわけではない。だがしかし……。
俺は高校、大学と経て社会人になった。その過程で、自分が劇的に変わったとは思えない。「省エネ」も完全に手放したとは思えない。今でも、「めんどうだな」と思うことはよくある。しかし、里志の目には変わったように映るらしい。自分のことは、案外難しい。

「変わったよ、ホータローは。千反田さんのおかげさ」

うっ、と短い声が漏れた。その声が聞こえたのか、里志はしてやったりの笑顔を浮かべた。

「そりゃ、『あいつ』と一緒にいればだな……」

俺が言い終える前に、里志が俺の顔を指差した。鼻の頭に当たる勢いだ。まじまじと里志の指先を見つめる。

「どうした」

「だめだよ。せっかく付き合ってるんだから、いつまでも千反田さんのことを『あいつ』だとか、『こいつ』で呼んじゃ」

うっ。
胸が締めつけられたような気がした。まさかそのことを指摘されるとは。
交際を始めてから、俺は未だに千反田のことを名前で呼んだことがない。さすがにもう苗字では呼んでいないが、名前で呼ぶのはなんだかむず痒くて気恥ずかしい思いがするのだ。
顔が熱くなるのを感じた。

「僕は摩耶花のことを名前で呼んでいるのにさ」

「俺とお前はタイプが違うだろ」

「まあ、そうだね」

話がかなり逸れてしまった。早いところ軌道修正しなければこいつのペースに乗せられてしまう。咳払いを一つ挟んだ。
その時、ある言葉を思い出した。
目の前にいる里志を見たからなのだろうか。切り出してみよう。

「そういえば里志。記憶が曖昧だから一言一句まで正確には覚えていないが、「灰色」の話の時にお前はこんなことを言ってなかったか。お前が俺を貶める時は俺のことを“無色”だと言う、と」

「うん、たしかにそう言ったよ。よく覚えていたね。僕も言われて思い出したよ」

「いや、俺も今思い出したんだ。“無色”か。何に対しても無関心になってしまえばそういう表現になるのかもな」

「結局、ホータローが“無色”になることはなかったけどね」

高校の頃を振り返ると、確かに灰色ではあったが“無色”ではなかったと思う。完全に灰色でもなかった。今思えば、いろいろな出来事があった。そして、そのそばにはいつも「あいつ」がいる。
今は口に出さないが、俺が“無色”にならなかったのはやはり「あいつ」の存在が大きかったんだろうな。俺は短く笑った。里志も声を出して笑った。
そうして、笑いが収まってから里志を見つめた。俺の視線に気づいた里志も顔を上げた。
俺は組んでいた両手を解いて言った。

「だが今のお前はどうだ。“無職”じゃないか」

そう言うと、里志はくしゃりと顔を歪めた。笑っているようにも見えるし、今にも泣き出しそうにも見える。俺はそのまま続けた。

「『あいつ』から聞いたぞ。伊原が苦労しているようだと。お前は仕事を転々として何をしてるんだ」

里志は顔を俯けて黙り込んだ。俺は何となく腕を組んだ。
こんな里志を見ていると、あのバレンタインデーの時のことを思い出す。あれは苦い思い出なのであまり思い出したくない出来事だ。

「はは……。恥ずかしいなあ、ホータローまで知ってただなんて」

「何があったかくらい、説明してもらえるんだろうな」

「……うん。またあの時みたいに聞いてくれるかい」

どうやら里志も思い出していたらしい。
俺が無言で頷くと、里志は決意が固まったのか息をはいた。

「僕は摩耶花と付き合い始めてから、『こだわり』についてもう一度考え直したんだ。中学の頃は『こだわる』ことに執着した。高校に入学から摩耶花と付き合うまでの間は『こだわらない』ことにこだわった。
そして、摩耶花と付き合ってからは、その中間点を見つけたかったんだ。だってそれまで両極端だったからさ。
だけどね。これはホータローにも言われたことだけど、僕はその手のことは不器用なんだ。なかなかバランス調整がうまくいかない。高校を卒業して、大学に入ってからもずっとそうだった。胸を張って言うことじゃないけど、今もそうだ。
大学を卒業してからも、自分でも妙な『こだわり』を抱くせいで、仕事を転々としているんだ。きつい仕事から目を逸らして、やりがいや楽しさを求めてしまうんだ。困ったことだよ、本当に無職ってやつはさ。履歴書はもう書きたくない。
それに白状すると、実は今日ここに来たのは生活が苦しいからお金を借りに来ることが目的だったんだ。我ながら情けない話だよ。一緒に住んでくれてる摩耶花にも申し訳が立たない」

里志は悲しげな笑みを浮かべながらひとしきり語ってくれた。小柄な里志の体がより小さく見える気がする。俺には理解できないような苦悩をその体に抱え続けてきたんだろう。里志もなかなか苦労している。
しかし、このままでは里志らしくない。
俺は俯く里志を見つめながら言った。

「なあ、里志。とりあえず働くことが大切だと思うんだ。そりゃあ、楽しくてやりがいのある仕事が望ましいってのは誰もが思うことだ。けど、そんな仕事はほとんどない。今はこんなご時世だしなおさらのことだ。俺の今の仕事だってそうだ。めんどうなことや苦しい場面もある。
けど、それを続けて行く中で、そういった自分にとって良いこともあるはずなんだ。だからもう少しがんばってくれよ、里志。自分自身のためにも、伊原のためにも」

心の中で、「お前のことを心配している俺と『あいつ』のためにも」と付け加える。
里志はゆっくりと顔を上げた。その口元には笑みが戻っていた。少し苦笑いのようだが、とにかく笑っている。

「そうだね。ホータローの言う通りだよ」

「わかってくれたか」

ため息をつくと全身の力が抜けた。いつの間にか、結構な力が入っていたらしい。これもあのバレンタインデーの時のことを思い出したからなのだろうか。
あの時、俺は怒っていた。そして、今の俺は里志の身を案じていた。
いろいろあってもやはり里志は中学からの旧友だ。俺も思うところがあったのかもしれない。
安心してコーヒーで一息をついた。すると、里志がテーブル越しに身を乗り出してきた。ぎょっとして、思わず体を反らした。
完全に立ち直ったのか、里志の目は今や輝きを取り戻している。そして詰め寄らんばかりにじりじりと迫ってくる。

「ど、どうしたんだいきなり」

里志は明朗快活に言った。

「というわけで、ホータロー。ハローワークに着て行く衣服代と交通費を僕に貸してよ!」

里志がそう発言した直後、俺の手刀がやつの頭に直撃したことは言うまでもない。


~完~

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