勇者「君こそが、僕を救ってくれるんだ」★2(104)


前スレ
勇者「君こそが、僕を救ってくれるんだ」 - SSまとめ速報
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雨音が頭の芯を揺さぶる。意識はまどろみから引きずり出される。

魔法使いは目を開き、身体を起こした。
頭上には、空を遮るほどの葉が生い茂っていた。
そのおかげで、雨に濡れずに済んでいるようだ。

どうやらここは巨大な樹の下らしい。
隣にはユーシャが眠っている。それはとても素敵な光景だった。
頬に口づけをした。我慢できなくなって唇にも口づけをした。
彼はすこしうめいて、寝返りをうった。それも素敵な光景だった。

足元には数匹の狼の怪物たちが、身を寄せ合うように眠っている。
雨で身体が濡れてしまわないように、彼らがここへ運んでくれたのだろう。
彼らの身体は陽の光のようにぽかぽかとしていた。


すこし歩いて、空を見上げる。空は厚い濃灰色の雲に覆われていた。
そこから細い雨が、木々を潤すように降ってきている。
あの町の外で眠っていた人々は今頃ずぶ濡れなんだろうな、と思った。
お祭りは終わったのだ。あの女は、またひとりで生きていくのだろうか。

細い雨が葉とぶつかり合い、空気を優しく揺らす。世界は潤いを取り戻す。
肌にも潤いが帰ってきたような気がした。
それに、身体が温かい。世界は色づいている。
雨が彼との再会を祝福してくれているようにさえ感じることができた。
すべての音がこちらに向けられた拍手のように思えてくる。

背後で小さな声がした。振り返ると、そこには小さな狼の怪物がいた。
寂しげな目でこちらを見ている。


「おいで」と魔法使いは言った。

その言葉が伝わったのかどうかは分からないが、
子供狼はこちらに歩み寄ってきた。
鼻を身体にこすりつけてくる。母親に甘える子供そのものだった。
魔法使いはその頭を撫でてやった。
子供狼は気持ちよさそうに目を細めて、首を伸ばした。

「あいつを助けてくれて、ありがとうね」

当然だ、とでも言いたげに子供狼は吠えた。

魔法使いはあぐらをかいて、子供狼をそこにのせた。
子供狼は座り込み、魔法使いと一緒に空を眺めた。



しばらくそうしていると、背後から「おはよう」という声が聞こえた。
魔法使いも子供狼も振り返った。
そこには真っ黒な右手を上げて笑うユーシャがいた。
真っ黒な右手の輪郭はぼやけていた。まるで煙のようだった。

子供狼は「おはよう」とでも言うみたいに短く吠えた。

「おはよう」と魔法使いは言う。
「ねえ。昨日は聞きそびれちゃったんだけど、その手、どうしちゃったの?」

「ああ」ユーシャは真っ黒な腕に目を向ける。
「本物の勇者に貰ったんだ」


「本物の勇者って、あの男の子?」

「うん。あの子が俺に腕をくれて、
あのでっかい剣を持った阿呆が俺を上に投げてくれて、
その子のお母さんが俺の足を掴んだ怪物を
やっつけてくれたから、俺はここに戻ってこれた」

「そっか」魔法使いは微笑む。
「あんたはいろんな人に助けてもらえて、幸せものね」

「うん。すごく幸せだ」ユーシャは笑った。
「なあ、あの男の子さ、誰だか分かったか?
あの子、東の大陸の北の方の村で、
俺が馬小屋の掃除を手伝った時の男の子だったんだ。小柄な方」

「そうだったんだ」
だからどこかで会ったことがあったような気がしたわけだ、と思う。
七年という月日は、良くも悪くも純粋だった少年のすべてを変えてしまった。
彼はもうこの世にはいない。勇者などという不可視の鎖に繋がれたせいで。

「あの子、“喉”に飛び込む前に言ってた」魔法使いは空を見上げる。
「“僕のことを忘れないでほしい”って」

「うん」ユーシャは魔法使いの左隣に座る。「忘れないよ」


魔法使いはユーシャの真っ黒の手を握った。とても冷たかった。
まるでそこだけが死んでいるみたいに冷たかった。
でも握らないわけにはいかなかった。

ユーシャは小さな手を握り返す。
「お前の手は、やわらかいし温かくて好きだ」

「ありがと。すごく嬉しい」

「うん。これからもこうやってほしい。左の耳が、もう聞こえなくてさ。
俺の右隣にいてほしいんだ。俺はお前の手を握りながら、
お前の声が聞きたい。我儘でごめんよ」

「うん。ずっとこうしてる。もう絶対に離れない」

「ありがとう」ユーシャは空に、左手を振りかざす。
「……ところでこの痣、お前がつけたって言ってたよな?」

魔法使いはびくりと身を震わせた。背中に冷たい汗が這う。
怒られる。嫌われる? どうしよう?


「いつ、どこで、どうしてそんな事したんだ?」

「そ、それは……その……」

「怒らないから言ってくれ。
責めてるわけじゃない。ただ、ほんとうの事が知りたいんだ」

「わたしのこと、嫌いにならない……?」

「ならない。絶対にならない」

魔法使いは深呼吸して、覚悟を決めてから言う。
「あんた、村の図書館で、いつも寝てたでしょ……」

「うん」

「その時にわたしが魔術でつけた……わたし達が一〇歳の頃」

「なんでそんな事したんだ」

「……本で見たから」

「何の本?」

「図書館の本。おまじないの本」

「おまじない? 手の甲に、星形の痣をつけるおまじない?」


「ハート型の痣」と魔法使いはつぶやく。

「でも、俺の手の甲にあるのは星型だぞ」

「……その星型の下にはハート型があるの。
でも、その時のわたしは恥ずかしくなってハート型を消した。
ハートを隠すために、上から星の痣を付け直したの」

「ふうん」ユーシャは呆れたみたいに魔法使いを見る。
「で、そのハート型の痣ってのには、どんな効果があるんだ?」

「……恋が叶うの」と魔法使いは言った。「そういうおまじない……」

「もしかして」ユーシャは呆れを隠しもせずに言った。「それだけ?」


魔法使いはうなずいて、ユーシャに抱きついた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……
あんたがこんな目に遭う必要はなかったの……
わたしが全部悪いの……ごめんなさい……何されたってかまわないから……
嫌いにだけはならないで……わたしをひとりにしないで……」

「泣くなって。怒る気にもなれないよ」ユーシャは呆れて笑う。
魔法使いを両腕で抱く。「まあ……でも多分、そういう風になってたんだよ。
お前が俺の手の甲に痣をつけるのも、最初から決まってたんだ」

「ごめんね……。ごめんね……」

「もういいんだよ。全部終わったんだから。一緒に帰ろう」

「うん……。ありがとう……」


「なあ」とユーシャは子供狼に言った。「“門”に案内してくれないかな」

子供狼は寂しげな目でこちらを見た。何かを訴えかけてくるような視線だった。
そのまましばらく固まっていたが、結局は魔法使いから離れて、
先ほどまで眠っていた場所の大人狼を呼びにいった。
大人狼は威厳さえ感じられるような
のっそりとした歩みでこちらに向かい、止まる。

「“門”に行きたいんだ」とユーシャは大人狼に言った。

大人狼はすこし陰った目でこちらを見た。目には空白があった。
表情は悲しんでいるように見える。
実際にどう感じているのかは分からない。

ユーシャは空白の混じった目を凝視する。


やがて大人狼は諦めたように振り返り、雨の森を歩き始める。
子供狼と一緒に、ふたりは彼(あるいは彼女)に続く。

歩き始めて一時間もしないうちに門には辿りつけた。
それは洞窟の奥で見た“門”と全く同じ姿をしていた。
一メートルほどの大きさの裂け目が、宙に刻み込まれている。
そこから流れ込んでくる空気はとても懐かしく、とても汚れていた。
それは雨に洗い落とされて、地面に染みこんでいく。

「ありがとう」とユーシャは言った。

大人狼は鼻を鳴らして、来た道を引き返した。
子供狼は留まり、その背中を見送った。


「あんた、どうするの?」と魔法使いは子供狼に言う。

子供狼はこちらを見上げて、目で何かを訴えかけてくる。

「連れて行けってさ」とユーシャが言った。「一緒に来たいんだよな」

子供狼は吠えた。

「そっか」魔法使いは微笑む。
「でも、あんたにはみんながいるじゃないの」

「そうだ。お前の居場所はこっちじゃないよ」

子供狼は石のように立ち尽くしていた。目で何かを訴えかけてきている。
魔法使いには子供狼の気持ちが、すこしだけ分かるような気がした。

「行こう」ユーシャは魔法使いの手を握る。

魔法使いは手を握り返す。その手は冷たかったが、とても大きかった。
ふたりは門に飛び込む。そして元の世界に――大混乱の世界に飛び出す。

続く


43


門から吐き出されて、地面に敷かれたレールに背中をぶつけた。
身体の支配権を痛みに奪われたユーシャは、
釣り上げられた魚みたいにあえいだ。
おかげで脛をレールにぶつけた。死んだ、と思った。

でも死にはしなかった。しばらくすると痛みがぴたりと止んだ。
落ち着いて、大きく息を吸い込む。とても冷たい。喉と肺が凍りつきそうだ。
見上げると、こちらの目を心配そうに覗きこむ魔法使いの姿が見えた。

「大丈夫?」と魔法使いは言った。

「大丈夫。やっぱりお前の癒しの魔術はすごいよ。ありがとう」
手を伸ばすと、魔法使いが起き上がらせてくれた。


辺りを見渡すと、見覚えのある光景がある。
足元にはレールが敷かれていて、壁には等間隔でカンテラが吊るされている。
ユーシャの口元は緩んだ。北の大陸の洞窟だ。戻ってきたのだ。

「行こう」と魔法使いは言った。こちらに向けて手を差し伸べている。
「どこへ?」とは訊かない。どこだっていいのだ。
真っ黒な右手を伸ばして握ると、握り返してくれた。

門に背を向けて、ゆっくりと歩き始める。
洞窟に響く音は二人分の足音だけだった。光は魔術の光だけだ。
でも寂しくはなかった。寒くもなかった。


大人になった魔法使いの姿は、ユーシャの心を激しく揺さぶった。
背は伸びたし、髪も伸びた。
手が少し大きくなっているし、胸も少し膨らんでいる。

はじめて魔法使いと出会った時に抱いたような想いが胸の中にあった。
はじめて一緒に図書館に出かけた時みたいな高揚があった。
心臓は飢えた獣みたいに暴れていた。
身体は子供みたいに純粋な熱を帯びていた。

気付かれないように、眼球を動かして魔法使いの顔を眺める。
口元には笑みが浮かんでいるが、
顔の火傷の痕は見ているでけでも痛々しい。
どうにかしてやりたい、と思う。でも、どうすることもできない。
この火傷の痕は魔法使いでさえ消すことができなかったのだ。

魔法使いは顔をこちらに向ける。急いで目を逸らした。

「どうしたの?」と魔法使いは言った。「顔が真っ赤だけど」

「なんでもない」

「ほんとうに?」


「ほんとうに」とユーシャは言う。「ちょっとどきどきしてるだけだよ」

「どうして?」

「分からないけど、今のお前を見てると、すごくどきどきするんだ」

魔法使いは微笑んだ。「そっか」

「なんかお前、柔らかくなったよな」

「柔らかい?」

「雰囲気がな。ずっと昔のお前みたいだ」

「昔のわたしは嫌い?」

「ううん。嫌いじゃないよ」


「好きでもない?」

「好きだよ。すごい好き。ぜんぶ好き」

「それならいいの」魔法使いはユーシャに寄りかかった。
「これが今のわたしだから。これがほんとうのわたしなの。
ずっとわたしの深いところにいた、正直なわたし」

「そっか」

「今まで殴ったりしてごめんね。その時のわたしは多分、
深いところにいたわたし自身を受け入れられなかったの」

「そういうこともあるよ」とユーシャは言った。

頭の中に浮かぶのは、本物の勇者の身体から現れた影の事だった。
あの男の子も、自分の中に受け入れたくない部分があったのだろう。
でもそれは永遠に付きまとう、と影は言っていた。
魔法使いの内側にも、まだあの暴力的魔法使いがいるのだ。
そう思うと微笑ましかった。


洞窟は終わる。目に入ったのは、
見渡すかぎりの雪と、遠くにある家々だった。
空は厚い雲に覆われており、空気はとても冷たかった。
風は頬をうつ。まるで大量の針が風に乗って刺さったみたいに頬が痛い。

「寒いな」

「暖炉のある家に行きましょ」と魔法使いは言った。

真っ直ぐ家に向かった。すぐにドアを閉める。
見覚えのない家だった。廊下があって、左右に四枚ずつのドアがある。

魔法使いに手を引かれて、左側のいちばん手前のドアを開けて、中に入る。
そこには細長い机と六つの椅子があった。

机の上には大量の本が積まれており、
その隙間からは奥に暖炉がある事が分かる。
村の図書館を思い出す光景だった。
俺はいつも端っこの椅子に座ってたな、と思った。


「わたし、ここで七年間ずっと待ってたのよ」と魔法使いは言った。

ユーシャは黙って魔法使いの横顔を見た。淋しげな表情をしていた。
この家は過去のことを回想させたのだろう。胸の辺りが重くなった。

魔法使いは手を離し、歩き始める。乾いた足音が響く。
「すごく寂しかったの。ここは地獄みたいだった。
地獄よりも悲惨だったかもしれない。
何もなかったの。周りにも、内側にも。
わたしには、あんた以外には何もなかった」

ユーシャは魔法使いを追うように歩く。

魔法使いは埃をかぶった机を、指の腹で撫でた。
「朝、目が覚めたら、まずは暖炉に炎を灯すの。
部屋が温まったら、ここで本を読んでお昼まで過ごした。
他の七つの部屋には、たくさんの本があるのよ」

「村の図書館みたいだ」とユーシャは言った。


魔法使いは続ける。「お昼になったら、外に出るの。
曇りだろうが吹雪だろうが、生きるためには
――もう一度あんたに逢うためには、行くしかなかった。

大事な人の事を想っているだけじゃ生きていけないの。
食べて寝ないと人は死ぬのよ。
そんな当たり前のことに気づくのに一七年もかかった。

外では食べ物を探すの。食べ物っていうと、野草とか動物とか。
見つけたら食べる。何でも食べる。ウサギや熊なんかはよく食べた。
怪物だって食べた。吐き気が止まらなくなることもあったけど、
けっこう美味しいのもいるのよ。

もちろん何も食べない日だってあった。
そんな日が三日続くこともあった」

「たいへんだ」

魔法使いはうなずく。「たいへんだった。
でもあんたの事を思い出したら、何度だって立てた」


暖炉に火が灯った。魔法使いの服の背中部分は
焼けてなくなっていて、火傷した肌が見えている。

「お昼を食べたら、またここで本を読むの。
端っこにはあんたが座るから、いつも開けてあった。

夜が来れば、本を読むのを止めて、また食べ物を探した。
お昼の残りがあればそれを食べた。

ご飯を食べたら暖炉の前に座って、あんたのことを考えた。
毎日欠かさず考えた。今のわたしを見たらどう思うだろうって。
わたしが一九歳の時は一九歳のあんたのことを考えたし、
わたしが二二歳の時は二二歳のあんたのことを考えた。

考えながらあんたのマントに包まって、自分を慰めた。
そうしないと壊れちゃいそうだった。
毎日のようにやった。頭がおかしくなるくらいやった。
それは地獄の中でも、まだ満たされた時間だった。

でも足りないの。ぜんぜん足りない。
空っぽだった。七年間、空っぽだった」

「……」


魔法使いは暖炉の前に立った。
「週に一回、“門”のある洞窟を見に行った。
あんたが帰ってきてないか、門が開いてないかって、
最初の方はいつも期待してた。

でも三年も四年も経てば、期待は薄れていった。苦しくて仕方なかった。
永遠にひとりなんじゃないかって、怖くて気が狂いそうだった。
そしたらやっぱり期待は裏切られ続けた。七年間、そうやって生きた。

でもそれは無駄な時間なんかじゃなかったと思う。
わたしには分からない。
無駄か無駄じゃなかったかを決めるのは、わたしじゃない。
今からあんたが、わたしに意味を与えてくれるはずなの。
空っぽの人形の内側に、炎を灯すの」

魔法使いは振り返った。長い髪がゆるやかに浮いた。
目から落ちた大きな雫が頬を伝っていた。

ユーシャは魔法使いの前に立った。


「お願いします」と魔法使いは言った。
「もう一度わたしを抱いてください。
わたしの全てを感じて、あなたの全てを感じさせてください。

ずっと一緒にいてください。あなたがいない人生なんて考えられません。
あなたこそが、わたしを救うことができる唯一の人なんです。
だからお願いします。わたしをここから救い出してください」

心臓が激しく鳴った。身体全体が焼けてなくなりそうなほど熱い。
すぐにでも答えてやりたかった。でも喉には何かが詰まっていた。

脳裏に浮かぶのは、孤独な魔法使いだった。
灰色の家で、灰色の炎の前で自分を慰める、灰色の魔法使いだった。
その世界に色はない。温かみもない。淡々と灰色の世界は廻っていた。
灰色の魔法使いが目を瞑っている間だけ、世界に色は戻ってきていた。

時間と言葉の重みが胸にのしかかってくる。息が苦しくなった。
ユーシャは腕を伸ばして、魔法使いを抱き寄せた。
その身体は細く、とても温かかった。


どちらも声を出せずに、そのまま暖炉の前で立ち竦んでいた。
でもそれだけで良かった。答えるまでもなかった。
魔法使いの手が、背中にまわされた。ちいさく、柔らかい手のひらだった。

ユーシャも魔法使いの背中に手をまわす。
はだけた背中の火傷に、手が触れた。

「ごめん。火傷、痛くない?」とユーシャは言った。

「うん。もう大丈夫よ」

「よかった」

魔法使いから離れ、目を覗きこむ。
魔法使いは女神のように微笑んで、目を閉じた。

ユーシャは魔法使いの唇に口づけをした。
その唇は乾いていたが、とても柔らかかった。
お互いに唇と口内の形を確かめるみたいに舌を這わせ合う。

硬くなった身体の芯がほぐれていくのが分かった。
身体が溶けてるみたいに感じられた。
でも陰茎だけは別の生物みたいに硬くなっていた。それは仕方のない事だ。


服を脱いで、暖炉の前で身体を重ねた。時間をかけて、何度も性交した。
何度も絶頂に到達し、またその更に上へ昇った。
暖かな水に身体全体を包まれているような心地よさの中で、
それよりも熱い魔法使いを抱いた。声を聞き、匂いに包まれ、体温を感じた。
今までに経験したことのない性感を得るのと同時に、
同じものかそれ以上のものを与えた。
きっと同じものを得ることは二度とない。

魔法使いはとても悦んでくれた。
ユーシャの内側にも、大きなよろこびが生まれた。
でも七年の重みはそれだけではなくならなかった。

どうしてももっと彼女をよろこばせてやりたい、と思った。
人としてのよろこびや、愛されることのよろこびをもっと感じてもらいたい。
本能的なものがそうさせているところもあったし、
罪悪感がそうさせているところもあった。でもそれは間違いなく本物だった。

ユーシャの心と身体は性交によって、魔法使いの内側に様々な意味を与えた。
長く曲がりくねった道を歩き続ける意味を与え、
その心と身体の存在する意味を与えた。


魔法使いは、生きていると痛いほどに感じることができた。
確かに胸の奥に痛みがあった。その痛みはどんなものよりも温かく、
喩えようのない快感をもたらした。

身体がはちきれてしまいそうだった。心はすでにはちきれていた。
飛び散った心の断片全てがユーシャを求めていた。
向かう先はそこしかなかった。

時間は大きな傷を与えたが、貰ったばかりの
様々な意味が、その傷を埋めていく。
性的快感よりも大きな何かを得ることができた。
それは決まった形がない煙のように曖昧なものだった。
でも確かに感じることができる。痛いほどに感じられる。
そしてそれは重く熱い。

ユーシャは魔法使いの中に精を放つ。
魔法使いは身体を震わせ、それを受け止めた。
ユーシャが笑うと、魔法使いも笑った。
どちらの目にも、蝋燭の先に灯る小さな炎のような光があった。

「もうちょっとだけ、繋がっていたい」と魔法使いは言った。

「うん」ユーシャは魔法使いの身体を抱きしめた。





性交の後も服を着ずに、暖炉の前で座り込んでいた。
そこはとても温かかった。
目の前には炎があって、右隣には魔法使いがいる。

「おなか減った」と魔法使いは言った。

「たしかに」

身体を重ねている間は何とも思わなかったが、今は確かに空腹感がある。
足の指先から頭の天辺まで、全ての感覚が
胃の中に収まっているように思えた。

腹の中で何かが低く鳴いた。
カエルみたいだ、と思ったが、腹が鳴っただけだった。


魔法使いは服を掴んで、立ち上がる。
「何か捕ってくる。あんたはここで待ってて」

「いや、俺が行くよ。外は危ないし、その服だと寒いだろ」

「大丈夫よ、魔術があるし。それに、ここらはもうわたしの庭みたいなものよ」

魔法使いはゆっくりと、ひとつずつ身体に衣類を着ける。
ユーシャはそれをぼんやりと眺めていた。
魔法使いの身体は綺麗だった。炎に照らされた肌は瑞々しい。

しばらくすると魔法使いは視線に気がつき、微笑んだ。
その微笑みは女神のようで、唯一の救いのようだった。
ユーシャの顔は熱くなる。

「どうしたの?」魔法使いは屈んだ。「顔が赤いわよ」


目を覗き込まれる。甘い香りが体内に入り込み、
身体中に拡散する。心臓は激しく暴れ始めた。
今まで硬い鎖で縛られていた獣がいきなり開放されたみたいだった。
獣から送り出される血液は溶岩のように熱く、粘り気を持っていた。

「もう一度したい」とユーシャは言った。

魔法使いは微笑んで、ユーシャの頭を撫でる。
「ご飯を食べてからね」と言い残すと、部屋から出て行った。

ユーシャは服を着て、暖炉の前に縮こまる。
外側も内側も温かく、満たされていた。


温かい海の中を漂っている。苦しくはない。
意識や感覚は辺りにぶちまけられて、ゆっくりと沈んでいく。
そんなイメージが脳裏に浮かんだ。

意識と感覚は、やがて海底に辿り着き、
やわらかく細やかな砂にすっぽりと包み込まれる。
流砂に飲み込まれるようで、誰かに抱きしめられるような感覚だ。
どちらにしろ、それは素晴らしいことだった。

やがて脳裏のイメージは気泡のようにはじけて消えた。
暖炉の炎が幻に思える。意識と感覚が遠いところにある気がしてくる。
まるで海の底に忘れてきたみたいだった。
自分が自分じゃないみたいに思えるし、
魔法使いが魔法使いじゃないように思えてくる。
でも紛れも無く自分は自分だし、魔法使いは魔法使いだ。


自分の手のひらを眺める。
左手は血や泥で汚れている岩肌みたいだった。
手の甲には不細工な星型の痣が残っている。

右手は真っ黒だった。輪郭はぼやけている。
左手で触れてみると、雪のように冷たかった。
強く握ると、潰れた。影のような手は霧状になって拡散し、また手の形に戻った。

こんな手で魔法使いに触れていたのか、とぼんやりと思った。
悪いことをしてしまったと思ったが、なんだか恥ずかしくもなった。
顔が熱を帯びた。身体も熱くて重い。頭が痛む。


ゆっくりと瞼を下ろす。足音が聞こえる。
足音は遠くから近くになり、消えた。
頬に冷たい何かがあたった。ユーシャは目を見開いて、身体を震わせた。
振り向くと、魔法使いが頬に冷たい手をあてていた。

「ただいま」と魔法使いは言った。「ウサギが捕れた」

「早かったな」

「自分の家の庭で迷うのはあんたくらいしかいないと思う」

ユーシャは笑った。魔法使いは右隣に座った。

捕ってきてくれたウサギの肉を一緒に食べる。
それは腹の底にすとんと落ちてくる。
身体はどんどん重くなっていった。全身が鉛に覆われているみたいだった。

ウサギの肉を平らげて、ぼんやりと炎を眺めていると、
腹の底に重い何かが湧き上がった。ユーシャは魔法使いに抱きつき、
ふたりは蛇のように、長い時間をかけて交わった。





「わたしって、子どもが産めない身体なのかな」
魔法使いは腹をさすりながら言った。

「どうしてそう思うんだ?」とユーシャは言った。

「だって、子どもができないんだもの」

「子どもがほしいんだ?」

「わたしとあんたのね。それに、家族って憧れるでしょ。あんたは特に」

「そうだな」故郷の村の、空っぽの家を思い出す。誰もいない家だ。
両親のことは何も知らないし、祖母も逝ってしまった。
たしかに家族というものには強いあこがれがあった。


「ねえ」魔法使いは言う。「子どもを産めない女って、どう思う?」

「もしかすると、俺の方に何かだめな部分があるのかもよ。
まだお前が子どもを産めない身体だって決め付けるのは早いんじゃないかな」

「そうかもしれないけど、わたしは怖い」

「何が」

「わたしが子どもを産めないって分かったら、
あんたは離れていくんじゃないかって。
子どもを作れないなんて、女としてどうなんだろうって」

「俺はずっと隣にいるって。子どもを作れなくたってお前はお前で、俺は俺だよ。
それに、べつに子どもを産めなくたって、俺たちは家族になれる」

「ありがとう」魔法使いは微笑んだ。「でももう一回頑張ってみる」

「それはつまり」

「もう一度わたしを抱いて」





身体が鉛みたいだった。頭は酷く痛むし、顔が熱くて焼け落ちそうだった。
視界の端はぼやけていて、天井までの距離がわからない。
手を伸ばせば届きそうにも見えるし、ずっと向こうにあるようにも見える。

ユーシャは壊れかけたベッドの上で寝転びながら、天井を眺めていた。
首を動かすのも嫌だった。眼球を動かすのもめんどくさかった。
でも鼻水を啜るのはそうでもなかった。
吐き出した息は酷く熱い。身体は熱いが、まだぬくもりを求めていた。

魔法使いが目を覗き込み、「大丈夫?」と言った。

「らいじょおう……」

「ぜんぜん大丈夫じゃないでしょ?」

「ただの風邪だって」ユーシャは笑った。
どうりで昨日は身体が重くて熱くて、頭が痛かったわけだ。


「ほっといたら死にそうなんだけど、ほんとうに大丈夫?」

「俺は死なないよ」

「そう言って一回死んだのはどこの誰よ」

「ごめん」

「昨日わたしと抱き合ってる時はあんなに元気だったのに」

「それとこれは別だ」

「そうなの?」

「そう」

「ふうん。証明できる?」

「それはつまり」

魔法使いは黙って微笑み、ベッドに潜り込んだ。





そのようにして数日が過ぎた。
身体も心も完全に回復したか、それ以上の状態になった。

ある日の朝、魔法使いは暖炉の前で立ち上がり、「行こう」と言った。

「うん」ユーシャは魔法使いの手を掴み、立ち上がった。
「どこへ?」とは訊かない。向かうべき場所はたくさんある。
いま大事なのは、ここではないどこかへ行くことだった。
あとのことは、ここではないどこかに辿り着いた時に決めればいい。

すこし名残惜しくもあるが、暖炉のある図書館をあとにして、
大陸の西を目指して歩き始めた。しっかりと手を繋ぎ、
新雪に足跡を刻みながら何時間も歩き、テントで身体を休める。
次の日もその次の日も同じようにして進んだ。



数十日歩くと、大きな橋が見えた。
北の大陸と西の大陸を繋ぐ、大きな石橋だ。

橋を渡りながら、遠くの空を眺める。
空は真っ暗だった。どこを見上げても闇があった。
何かの意志が太陽を覆い隠しているように思えた。

「真っ暗だな」ユーシャは遠くの空を見て言った。

「どうなってるのかしら」

歩かないことにはどうにもならないので、そのまま歩いた。
しかしいくら歩いても、空には夜が続いているみたいな暗さがあった。
橋を渡り切る頃になるとそれは見えてきた。


遠くの空に、真っ黒の球体が浮かんでいた。かなり大きなものだ。
球体からは棒のようなものが一本だけ飛び出ている。
それは真っ黒に染まった太陽のようだった。
あるいはおたまじゃくしとか精子とか、限りなくゼロに近いものだ。

それの内側では、竜のような頭を持った蛇のような巨大な生物が泳いでいた。
優雅にも見えたし、不快感を撒き散らしているようにも見えた。

黒い太陽からは黒い煙があふれている。
煙は広がり、空を覆う。空の暗闇は夜の暗さではなかった。

「なんだ、あれ」ユーシャは訝しむ。


「巨大な怪物が現れ」と魔法使いは言った。「空が暗黒に覆われる」

「何?」

「そしてどこかから魔王が現れ、地上は怪物で埋め尽くされる」

「なんだ、それ」

「御伽噺よ」魔法使いは杖を強く握った。
「これじゃあまるで、わたし達が魔王みたいじゃないの」

正面に目を向けると、大量の怪物が見えた。
ユーシャは刃こぼれした剣を握り、構える。魔法使いは呪文をつぶやく。
いったい、何が起こっているのだろう?

続く


44


道を照らす光は何もなかった。なければ作るしかない。
魔術の光で前を照らして歩く。人の姿はひとつもない。
あるのは枯れた自然と、数えきれないほどの怪物だけだった。

ようやく辿り着いた西の王国城下町の周りの
大きな壁は、ところどころ壊れていた。
上空にはぎゃあぎゃあと喚く怪物が何匹も飛んでいる。
でも町に危害を加えてはいない。
どうやら町には巨大な魔術の障壁が張られているようだ。

四つの入口のうちのひとつに向かう。
そこには紅いローブを着た女が立っていた。
ユーシャと同い年ぐらいの女だった。

「あなた達、そんなところで何をしているんですか?」と
紅いローブを着た女は言った。「早く入ってください」

魔法使いとユーシャは言われるままに、
西の王国の城下町に逃げるように入り込んだ。


町の中では、人々が通りを闊歩していた。
まるで今の状況が当然であるとでも言いたげに歩いている。
町の人々の視線が飛んでくる。
火傷の痕と、真っ黒な腕に、視線が集まる。

自分が醜い存在であるということを思い出してしまう。
背中には大きな火傷があり、顔の皮膚はただれている。
小さな声が聞こえる。魔女だとか化け物だとか、断片的に言葉が聞こえる。
町の言葉は心に灯った炎を消そうとする。

ユーシャは魔法使いの手を強く握る。
「大丈夫。気にすんな。ほっとけばいいんだよ」

「うん」魔法使いは頷き、手を握り返す。
消えかかった心の炎はもう一度大きくなる。


「こんなわけの分からないことになってるってのに、
火傷が何だってんだ。真っ黒な腕が何だってんだ。
こいつら馬鹿なんじゃないか?」

「そうね。救いようのない馬鹿だわ」

見上げると、真っ暗な空で、何匹もの巨鳥の怪物が汚い声で啼いていた。
不快な音だったが、町の人間は気にも留めない。
すさまじい適応能力だ、と呆れを通り越して感心してしまう。

「行こう」ユーシャが手を引いてくる。

「うん」魔法使いは前へ進む。

階段を上り、町の頂上を目指す。
頂上には城がある。あの城に、西の国王がいる。

言ってやりたいことがたくさんある。
言葉だけでは足りないかもしれない。
とにかく行かないことには何も変わらない。
王から全てを聞き出すのだ。





城の前には警備のために、鎧を着たふたりの人間が立っていた。
城に入ろうとすると止められたので、杖で思いっきり頭を殴って通り過ぎた。
もう一人が助けを求めて叫ぼうとしたが、ユーシャに顎を殴られて気を失った。
いまさら気にする立場もない。倒れた兵士ふたりを跨ぎ、城に入る。

城に入るのは初めてだった。ユーシャは一度だけ入ったことがあるが、
魔法使いは城門の前まで来ただけだ。

入っても、これといった感情が湧き上がるわけではなかった。
べつに嬉しくも懐かしくもない。
ユーシャも過去に想いを馳せているようには見えない。

エントランスの絨毯や装飾は確かに綺麗で優雅だったが、
それらが放つ光は作られたものにしか感じられない。
太陽や星の光とは違う。
磨かれた石の光にも似ているが、それともすこし違う。

「王様って、どんな人なんだっけ?」と魔法使いは訊ねる。

「嫌なやつ」とだけユーシャは言った。


城内には何人もの人がいた。どれも小綺麗な服を着ている。
汚いのは彼だけだ、と思った。

魔法使いは北の大陸の家にあった真っ黒な長いローブに着替えているので、
汚れはそれほど目立ってはいない。目立つのは顔の火傷だけだ。
でもユーシャの服は真っ赤だった。何かの血が大量にこびりついていた。

だから何だ、と思った。汚いから何だ。
魔法使いとユーシャは歩く。その歩みを止めに来るものは誰もいなかった。
その場でぼそぼそと声を漏らすみたいにして喋っていただけだ。

エントランスを通り過ぎ、階段を上る。ひたすら真っ直ぐ進むと、
大きな両開きの戸にぶちあたった。
戸の前には槍を持ったふたりの兵士が立っていた。


「止まれ」と片方の兵士が言った。

「何者だ」ともう片方の兵士が言った。

「退け」と魔法使いは言った。「さっさとそこを通せ」

「だめだ」

「どうして?」

「それは言えない」

「その先に王がいるんでしょ? わたし達は彼に用があるの」

「だめだ」

「どうして?」

「どうしても」

「ふうん」

魔法使いは口の中で呪文を唱える。
ふたりの兵士に細い雷を撃ち、気絶させる。
倒れた兵士を跨ぎ、ユーシャと魔法使いは戸に手をかけて開いた。


戸の先にあったのは広い部屋だった。
大きな赤い絨毯が部屋の奥にある玉座に向かって敷かれている。
玉座の周りには三人の男が立っていた。
どれも綺麗な服を着ていて、どれもこちらに視線を向けている。

その中でも、老けた男がこちらに、特に険しい目線を送っている。
頭髪は白髪交じりで、髭も似たような色をしていた。
五十代から六十代に見える。

残りの男はどちらも三十代か四十代に見える。
片方は落ち着いたような、あるいは諦めたような表情をしていた。
もう片方はわけが分からず困っているようで、細い身体がすこし震えていた。


「何者だ」と老けた男が低い声を響かせた。
小動物を脅すような口調だ。

魔法使いはその声を無視し、「どれが西の王?」とユーシャに訊ねた。

ユーシャは首を振る。「どれも違う」

「西の王を出せ」と魔法使いは言った。

応えるように、落ち着いた(あるいは諦めた)表情を浮かべる男が前に出た。
堂々としているように見えるが、何か弱い部分を
隠すために虚勢を張っているようにも見える。

「私が西の王だ」と彼は――西の王は言った。


「俺が知ってる西の王は偉そうなジジイだったけど」と、ユーシャ。

「それは先代の王の事ではないかな」

「そいつは?」

「死んだ。ほんの三年ほど前にな」老けた男の低い声が響く。
「それで、お前たちは何者なんだ。
どうやってこの部屋に入った。見張りはどうした」

「見張りは倒した。こいつは勇者で、わたしは魔女。分かった?」

「勇者?」老けた男は鼻で笑った。「お前が?」

「西の王に言われたけど」とユーシャは言った。

「私が?」西の王が眉を顰めた。

「違う。ジジイの方」

「先代の西の王も勇者を送り出したのですか?」と
今まで黙っていた細い男が言った。
身体が震えている。怯えた動物みたいだった。


「先代の西の王“も”?」魔法使いは訝しむ。
「あんたはどこの頭なのよ」

「東の王国です。私は東の王です」

「あんたも勇者を送り出したの?」

「はい……七年ほど前に。一七歳の少年でした」

「あの子だ」とユーシャはつぶやいた。

「あの子は――勇者は死んだわ。魔王を倒して、自分も死んだ」

「魔王を倒した? 魔王は死んだというのか?」
老けた男が言った。「だったら、どうしてこんなことに」


「こっちが訊きたいわよ。あの空に浮いてる球は何?」

「知らないのか? 今までお前たちはどこにいたんだ?」

「北の大陸の門の向こう側。魔王がいる世界よ。
向こうとこっちでは時間の歪みがあるみたい。
でも今はそんな事どうでもいい。
とにかくわたし達に、いま何が起こっているのかを聞かせて」

三人は顔を見合わせて、しばらく黙り込んでいた。
老けた男は堂々としていたが、
あとのふたりは迷っているようだった。

「俺は知ってるぞ」とユーシャは言った。
「あんた達が魔王からでっかい怪物を
貰ったことも、それを操れることも、怪物を操る呪術のために
南の第二王国が呪術の村を滅ぼしたことも、
でっかい怪物のせいで南の第一王国が滅んじまったことも、
全部知ってる。だから隠さないで話してくれ」

「どうしてそんなこと知ってるのよ」と魔法使いはつぶやく。
南の第一王国と呪術の村が滅んだ?


「ぜんぶ魔王から聞いた。
なあ。あんたが呪術の村を滅ぼしたんだろ」

「正確にいうと、私の兵がな」と
老けた男――南第二国の王は言った。

「あのふたりはどうなった」

「あのふたりとは、誰のことだ?」

「城の近くで、怪物を操る研究をしてた男女だよ」

「ああ」第二国王はどうでもよさそうに言った。「地下牢にいるよ」

「生きてるんだな?」

「多分な」

「それならいい。あとで助けに行く」

「それで」魔法使いは苛立たしげに言う。
「あの空の黒い球体は何?」


「あれは私の国が持っていた“贈り物”だ」と西の王が言った。
「竜の頭を持った、巨大な蛇だ。名前は知らない」

「どうしてその“贈り物”があんなところにあるのよ」

「七年前」と南第二国の王が静かに言った。
「私と東の王の持っていた“贈り物”が喧嘩をおっぱじめた。
竜の頭を持った巨大な魚と、竜の頭を持った巨大な山だ」

南第二国の王と東の王を交互に睨みつける。
南第二国の王は落ち着き払っていたか、諦めていた。
東の王は顔が青かった。刑の執行を待つ囚人のようだった。

「嘘だ」とユーシャは言った。
「お前たちは“贈り物”を操って、闘わせたんだ。そうだろ」

南第二国の王は笑った。「なんでもお見通しってことかい」

「どうしてそんな事をしたんだ」

「正当防衛だ。先に仕掛けてきたのは
東なんだから、彼に訊いてくれよ」

魔法使いはもう一度東の王を睨めつけた。
東の王は身体を大きく震わせた。


「どうしてそんな事をしたんだ」とユーシャはもう一度言った。

「言え」魔法使いは東の王に杖を向けた。「さっさと話を進めましょうよ」

東の王はちいさく口を開く。
「……怖かったんです。他の国が信じられなかった。
南の第一王国と西の王国の贈り物と魔王さえいなくなれば、と思った。
思ってしまったんです。いかに自分が愚かであるかに気づいたのは、
全てが駄目になった時でした……」

「じゃあ、勇者を送り出したのは、魔王が怖かったから?」

東の王はうなずいた。

「どうして彼が選ばれたの?」

「頭の中で誰かが囁いたんです。
勇者を――彼を魔王のもとに向かわせろ、と。
私としては、誰でも良かったんです。
魔王を討つことができれば」と東の王は言った。

「いろんなものがもつれ合って、彼は偶然にも勇者に選ばれたんです」


気がついたら杖を握った手を東の王に振りかざしていた。
それが振り下ろされる前にユーシャが割り込んで、東の王を殴り飛ばした。
他の王は黙ってそれを眺めていた。

「お前みたいな臆病者のためにあの子は死んだっていうのか?
お前みたいなやつの安眠のためにあの子は命を賭けたってのか?
騙されたまま死んだってのか?
未来への希望も捨てて、お前みたいなやつなんかのために?」

ユーシャは吐き捨てるみたいに言った。
「お前、王様なんじゃないのかよ?
どいつもこいつも自分勝手だ。信じらんないよ、ほんとうに」

東の王は床にへばりついていた。憐れみを覚えることはない。
むしろその顔を踏みつけてやりたかった。
が、そんなことをする時間や労力すらが勿体無く思える。

意味もなく地面を這うありを踏みつけるのは時間の無駄だ。
それなら前に歩いたほうが有意義だ、と魔法使いは思う。
あんなものは踏み台にすら及ばない。


「それで」と魔法使いは言った。「誰が続きを話してくれるのかしら」

「どこから話せばいいかな」と南第二国の王は嬉しげに言った。

「“贈り物”が闘いをはじめて、どうなったの?」

「魚が勝った。そこの、東の国の持っていた
“贈り物”が、南の大陸の神を殺した。
亡骸は海に浮かんでいるよ。大きな山がな。
あれはまるで新しい島ができたみたいだよ。

それからまもなく魚も死んだ。
竜の頭を持った蛇に――いま空に浮いてるあれに殺された。
そこらは西の王に詳しく訊いてみようじゃないか。なあ?」
南第二国の王は西の王に視線をやった。


西の王は言う。
「信じられないかもしれないが、あれが突然暴れだしたんだ。
今まで見えない鎖で縛られていて、いきなりそれが切れたみたいに。

自由になった蛇は魚を食い殺した。
ばらばらになった魚の残骸も海に浮かんでいるよ。
泥でできた新しい島みたいにな。

それから蛇はあの黒い球に引きこもって、空を暗黒で覆い始めた。
もう七年もこの世界の人々は太陽を見ていない」

「西の王国は怪物を操る術を知らなかったんだろ」
こんなやつらのために自分も魔法使いも必死になっていたと思うと、
ユーシャは腸が煮えくり返るような気分になった。

「どこかの誰かがどこかの村を地図上から消してしまったからね」

「私のせいでこんなことになったとでも言うのか?」
南第二国の王は笑った。


魔法使いは杖を掲げ、南第二国の王の顔面を目掛けて
振り下ろそうとしたが、またユーシャが間に割り込んだ。

ユーシャは歯を食いしばって、南第二国の王の顔を思いっきり蹴り飛ばした。
彼も東の王の横に這いつくばった。そこには憐れみも同情もない。
わだかまりがほぐれていくような感覚があるだけだ。

「あんまりふざけてるとぶっ殺すぞ。糞が」
ユーシャは言った。

「だいたい分かった」と魔法使いは言った。
「三体の巨大な怪物がいたけど、
二体は死んで、残りの一体があれなのね」


「なあ」と西の王はその場に座り込んで言った。
「助けてくれないか」

ユーシャは黙ってそれを見下ろした。
西の王の目には何かにすがるような細い光があった。
「助けるって、どうしろってんだよ」

「あいつを殺してくれ。あの蛇を。
もう一度、民に太陽を見せてやってくれないか」

「それはあんたの、王様の役目だろ」

「私にはどうすることもできないんだ……頼む」

「俺にだってどうにもならないよ」

「そんな。お前は勇者なんだろう?」

「違う」とユーシャは言った。
魔法使いの方を向き、「勇者はあいつだ」と続ける。


「助けてくれ」と西の王は魔法使いの方を向いて言った。

「まずはそのくだらない自尊心を捨てろ」と魔法使いは言った。

「お願いします」西の王は頭を床に擦り付けた。「助けてください……」

変わり身の早さに思わずため息が漏れる。「情けない王ね」

「私にできる事はもうこれしかないんだ。やらないわけにはいかない。
お願いします……どうか、私たちを救ってください……」

「あれを壊せばいいのよね」

「……ほんとうにできるのか?」


「できるんじゃないかしら。多分。やってみれば分かるわ。
べつにあんたに頼まれたからやるってわけじゃない。
あんたが頭を下げなくたって、わたしはあれを壊す。
あんたの大事な民のためにやるのよ。そこは勘違いしないように」

西の王は顔を上げた。
表情には光が射しているのが見て取れた。

「でもあんたと関わるのはこれっきりよ。
あれが死んだら、わたしとあんたの繋がりはまた失くなる。
いい? 約束しろ。あれが死んだら、二度とわたし達に関わるな。
わたし達も二度とあんたに関わらないから」

「承知した」と西の王が言った直後に、
魔法使いはその頭に杖を振り下ろした。
西の王も地面に這いつくばるようにして気を失った。


「行こう」魔法使いは手を伸ばす。
「気に入らないけど、あれを殺せるのは、
もうわたししかいないと思うの。わたしというか、呪術。
やっぱり、呪術には存在する意味があったのよ。

わたし達の見た目を悪く言うやつはいっぱいいるけれど、
“裏”だってそこまで悪いもんじゃないわ。
汚いものはいっぱいあるけど、綺麗なものもいっぱいある。
わたしみたいなやつがいれば、あんたみたいなやつもいる。

悪いのはこの三人で、みんなに大きな罪はないわ。
全く罪はないとも言えないけどね。わたし達だってそうよ。
でも、もう一度太陽を見ることくらい許されたっていいわよね。

わたし達も長い間太陽を見てないもんね。
久しぶりにあんたと一緒に日向ぼっこでもしたいな。
ずっと昔にやった時みたいにさ。だからわたしに力を貸して。
わたしにはあんたの力がどうしても必要なの。

ねえ、ユーシャ様。わたしと一緒に来てくれる?」

「もちろん。俺はずっとお前についていくよ」
ユーシャは魔法使いの手を握った。
「どこにだって一緒に行こう。俺たちは死ぬときも一緒だよ」


45


エントランスには未だに人々のざわめきがあった。
そこを通り過ぎ、外に出る。城を出ても空は暗かった。
真っ黒の太陽が浮かんでいて、巨鳥の怪物が活き活きとしている。

「あれにいちばん近いのはどこかしら」と
魔法使いは黒い太陽を眺めて言った。
おそらく、黒い太陽の真下には海が広がっている。
四大陸の中心の上空に、巨大な怪物がいる。

「塔」とユーシャは言った。「たぶん、海のど真ん中の塔だ」

「なるほど」魔法使いはユーシャの頭を撫でた。「やるじゃないの」

「もっと褒めてくれてもいいんだぜ」

「あとでたっぷりと、塔までの船内でゆっくりとね」


ざわつく人々の隙間を裂くように歩き、街の出入口に向かう。
出入口には入った時と同じように、ユーシャと同い年くらいの、
紅いローブを着た女が立っていた。魔術師のようだ。

魔術師女は出入口を塞ぐように立って、
「あなた達、どこに行くんですか?」と言った。

「港町から船に乗って、あれを壊しにいく」

「壊す? そんなことができるんですか」

「多分ね」魔法使いが言った。「やってみなきゃ分からない」

「そういうこと」とユーシャは言って、魔術師女の横を通り抜けた。
が、町から出る直前といったところで、何かに顔をぶつけた。
鼻の頭から目の奥に何かがこみ上げてくる。
痛みに視界を滲ませながら正面を見るが、何もない。

「出られませんよ」と魔術師女は言った。
「分厚い“膜”を張ってありますから」

「膜って何だよ……」痛い。
鼻の穴の奥に泥を突っ込まれたみたいな、じんわりとした痛みだ。


「魔術の障壁と言えば伝わりますかね。
魔術の村では障壁を“膜”と呼ぶんです」

「じゃあ」魔法使いはユーシャの鼻の頭を撫でた。
「あなたは魔術の村の魔術師?」

魔術師女はうなずいた。

「魔術の村の魔術師がどうしてこんなところに。
魔術の村は東の大陸にあるんでしょう? こことは真逆じゃないの」

「村の魔術師はあちこちの町や村に散りました。
あの黒い太陽みたいなのが出てきてからは、みんな大忙しです。
“膜”であちこちの町や村を囲い、人々を守らなきゃいけないんですから。
誰かの役にたてるということは、喜ばしいことなのかもしれませんけどね」

「あなたはひとりで町を覆うほどの障壁を支えているの?」

「そうです」


「魔術の村の魔術師は優秀なのね」

「自慢ではないですけど、わたしは村でいちばんの魔術師でしたよ。
おかげで妬まれたりしましたけどね」

「ふうん。それで結局、そこは通してもらえないのかしら」

「だめです。わたしには民を守る責任と義務があります」

「しっかりしてるのね」西の王を気絶させないで
連れてくるべきだったか、と思ったがもうどうでも良かった。

「大昔にも言われましたね。七年前くらいに」
魔術師女は言う。
「わたし達は町で待ってればいいんです。
いずれは必ず、勇者様がこの長い夜を終わらせてくれますよ」

「勇者?」と魔法使いはこぼした。

「勇者様はいますよ。
信じられないかもしれませんが、わたしが一〇歳の時、
勇者様に会ったことがあるんですよ。泣き虫で赤面症の勇者様に。
魔王を倒したら戻ってくるって言ってくれたんですよ。
だから、わたし達は信じて待ってればいいんです。
祈っていればいいんですよ」


勇者――。脳裏に、汚れた男の子の顔がよぎる。
おそらくこの娘の言う勇者とは、本物の勇者のことだろう。
魔王とともに喉の底に沈んだあの子だ。

彼も誰かの記憶に残れていたのだと思うと、すこし嬉しかった。
でも目の前の魔術師女のことを思うと、
胸に鉛が生まれたみたいな気分になった。

「“誰も救ってなんかくれない”」と魔法使いは言う。
「“生きているだけじゃ失い続ける。
生きて歩かないと、何も手に入らない。
神様なんていないし、祈ってるだけじゃだめだ”」

「何ですか、それ」

「誰かが言ってたのを思い出しただけ」

この魔術師女は何も知らない。
本物の勇者と魔王は死んだということも、
この長い夜を生み出している怪物が、
三人の王に操られていたことも。

それでいいのかもしれない、と思った。


魔法使いは杖を構える。
「通してくれないなら、力ずくで通らせてもらうとするわ」

「それはどういう……」

口の中で呪文を唱え、炎の球を生み出す。杖で地面を突き、
細い熱線を撃ちだす。熱線は町の出入口に張られていた“膜”を貫く。
貫かれた部分は淡い緑色に発光する。
ユーシャはそこに剣を引っ掛け、膜を引き裂いて外に飛び出した。

「うそ」魔術師女は空を飛ぶ人間でも見たような顔をした。
「“膜”が破られた?」

「わたしの方が上ね」魔法使いはユーシャのもとに向かう。


魔術師女ははっとして、その背中に声を投げかける。
「ちょ、ちょっと待って下さい。外は危険ですから、戻ってください」

「嫌よ」と魔法使いは振り返らずに言った。
「わたしが行かなきゃならないのよ」

「どうしてあなたが」

「わたしにしかできないからよ。待ってるだけじゃ駄目。勇者も奇跡も無いわ」

「……ほんとうにあれを壊せるんですか?」

「やってみなきゃ分からないわよ」

「どうやって壊すつもりなんですか」

「呪術」と魔法使いは空を見上げてつぶやく。「大破壊を起こす呪術」


「呪術?」魔術師女は素っ頓狂な声をあげる。
「あなた、呪術が使えるんですか?」

「まあね」

「でも、呪術は自分の身体を蝕むことになります」

「でも、そんな小さな犠牲で天気が晴れになるのよ。
あなただってもう一度きれいな空を見たいでしょう?」

魔術師女は黙っていた。

「行こう」魔法使いは手を出す。ユーシャはその手を握る。





何日もかけて怪物の跋扈する草原を歩き、
西の大陸の南にある港町までやって来た。
その間、空はずっと暗いままだった。
黒い絵の具で塗りつぶしたみたいだった。

港町の出入口にも魔術の村の魔術師が立っていた。
今度は男だった。その脇を通り、町に足を踏み入れる。

町内では当たり前のように人々の賑やかな声があって、
当たり前のように顔の火傷と真っ黒な腕に刺々しい視線が向けられた。
でも心の炎が消えることはなかった。揺らぎすらしない。


魔法使いは町の人々の目を無視し、町そのものを眺める。
円を描くように並んだ建物に、大きな灯台。
大きな木箱の並ぶ港に、巨大な船。
七年前、大剣使いと出会った港町だ。

あの時とはあらゆるものが変化していた。
自分自身だって変わったし、もちろんユーシャも変わった。
世界は大きく変化した。でも、大きな目で見ると、
町と民は何も変わっていなかった。

「さあ。船に乗りましょう」魔法使いは言った。

「船……船か」ユーシャは苦笑いを浮かべる。「出してもらえるかな?」

「なんとしてでも出させるわよ」


木箱の間を歩き、真っ直ぐ船着場に向かう。
停泊している中でもっとも大きな船の前に、鎧を着た兵士が何人もいた。
西の王国の城で見た兵士と同じ鎧を着ている。
どうしてこんなところに大勢の兵がいる?

兵士たちからすこし離れたところで立ち止まる。
やがてひとりの兵士がこちらを見て、ナメクジでも見たような顔をした。

「船に乗りたいんだけど」とユーシャが言った。

その声に反応して、全員の兵士がこちらを向いた。
全員が怪訝な表情を浮かべていた。
やがて幾人もの兵を裂くように、奥から
綺麗な服をまとったひとりの男が歩み出てきた。
それは紛れも無く、数日前に西の王国で見た西の王だった。

「何よ」魔法使いは西の王を睨んだ。


「待ってたんだ」と西の王は言った。

「どうして俺たちがここに来るって知ってたんだ」とユーシャ。

「町を覆う障壁を支えている彼女から聞いたよ。
だから馬車で先回りして、君たちが来るのを待っていた」

「邪魔するのなら容赦はしないわよ」魔法使いは杖を構える。

「邪魔だなんてとんでもない。君たちの力になりたいんだ。
私たちにできるのは舞台を整えることだけだ。
安全に、船で君たちをあの塔に送り届ける。

準備はもうできている。
灯台の天辺には数人の魔術師がいて、照らす光を作ってくれる。
出るのならいつでも言ってくれ。私たちも連れていってほしい」

「勝手にどうぞ」

「ありがとう」西の王は笑った。「それで、いつ出発する?」

「今すぐに」


46


「……だから、俺は何度も言ってるはずなんだよ」

「なんて?」

「“船は駄目だ”って」ユーシャは青い顔で言った。

魔法使いはその額を撫でた。「情けない」

船の内部はいつか乗った船と何も変わらない。
ふたりは箪笥に押し込まれていた小奇麗な服に着替え、
必要最低限の家具と小さな窓があるだけの
簡素な部屋でくつろいでいた。

船の旅も二日目に差し掛かっていた。
ようやく窓から塔が見えるようになった。
ぽつりと天に向かって伸びる塔の先には黒い太陽が浮かんでいる。

その塔の周りには、大きな島のようなものがいくつもある。
西の王が言うには、あれらは巨大な怪物の残骸らしい。
どう見てもただの陸地にしか見えない。
あれが生きて動いていたなど想像もつかない。


「ちょっと外の空気でも吸いに行く?」魔法使いは言った。

「そうする……」ユーシャはのっそりと立ち上がった。
今にも死んでしまいそうな顔をしていたので、肩を貸して甲板に向かった。

甲板では大勢の兵士が海を眺めていた。
空は真っ黒だが、海も真っ黒だった。
光は遥か遠くの灯台の光しかない。夜の暗さでも、星や月はない。

「なんか、嫌な空気だ」ユーシャは言った。

「戻る?」

「そうするよ」


結局すぐに踵を返し、船内の部屋に戻った。
それでもユーシャの気分は幾分かマシになったらしく、
顔色がすこし良くなっていた。悪いことには変わりはない。

ベッドに腰掛けて、窓から塔を眺める。
着くまでは、まだあともう少し時間が掛かりそうだ。
ユーシャに訊きたいことがあったのを思い出したので、
それについて追求することにした。

「ねえ」魔法使いは言った。
「あんたが向こうに行ってからのことなんだけど」

「向こうって、“門”の向こう?」

「そう。あんたあの町で、真っ黒な服を着た
髪の長い女と踊ったんだって?」

「な、なんで知ってるんだよ」ユーシャはたじろいだ。


「ほんとうに踊ったんだ。なんで踊ったの。わたしをほったらかして」

「なんでって、それは、可哀想だったから、かな……」

「たしかにあの女は可哀想なやつだけど、ほんとうにそうなの?
なにかやましい事でも考えてたんじゃないの?
あの女はわたしと違って胸も大きいし、
肉付きだっていいし、顔も綺麗だったもん」

「ちっともそういう考えがなかったと言えばうそになるかもしれないけど、
お前のことは一秒たりとも忘れてなかったって。ほんとうだって」

「信じていいのね?」

「信じてくれ」

魔法使いはため息を吐いてから、ユーシャの目を覗きこむ。
「いい? あんたはわたしだけを見てろ。
わたしはあんただけを見てる。分かった?」

「分かった」

「よし」魔法使いは立ち上がる。「じゃあ、わたしとも踊って」


「踊るって、すごいへたくそな踊りだけど、いいのか」

「上手い下手じゃなくて、踊ることに意味があるの。分かったら立て」

ユーシャは立ち上がって、魔法使いの手を握る。

「わたしは踊ったことなんて一度もないから、あんたに任せる」

「よし。任せとけ」

「頼もしいわね」

「期待はするなよ」

「はじめからしてないわよ」

ユーシャの手を握って、部屋の真ん中に立つ。
お世辞にも部屋は広いとは言えない。すこし動けばベッドがあって、
すこし動けば箪笥がある。でも踊りたかった。

ユーシャはゆっくりと動き始める。それに付いていくように足を動かす。
なかなかうまくいかない。でもユーシャは楽しそうにしていた。
自然と頬がほころんでしまう。身体の内側で何かが弾んでいた。


「なんかいいかも」魔法使いは言った。

「俺もそう思う」

「うまく踊れてる?」

「知らない。踊ること自体が大事なんじゃなかったのか?」

「踊り始めたらあとはうまくいってるかだけよ」

「そうか。痛い。足踏んでる」

「ご、ごめん。やっぱりわたしにはこういうのは向いてないかも」

「そんなことないよ。うまいこと踊れてると思うよ、俺は」

「ほんとうに?」

「うん。それに、服も綺麗で似合ってる」

「ありがと」

「痛い。いま足踏んだ」

「ご、ごめん……」


「なあ。呪術であれを壊すって言ってたよな」

「うん」

「お前、死なないよな?」

「死なないわよ」

「ほんとうに?」

「疑ってるの?」

「怖いんだよ。だってお前、もう一〇年も生きられないんだろ。
それなのに、また呪術なんかを使ったら」

「大丈夫よ」魔法使いはユーシャの足を踏んだ。
「わたしは死なないわよ。わたし達は永遠に生き続けられる」

「痛い」ユーシャはバランスを崩して床に倒れた。

魔法使いはその上に跨った。
「身体が失くなったって、わたし達は一緒にいることができる」


その時、部屋の戸が勢い良く開いた。そこにいたのは西の王だった。
ふたりが西の王を凝視すると、西の王は笑った。
「お取り込み中だったかな?」

「いまからよ」と魔法使いは言った。「いいところだったのに」

「そうか。まあ怒らないでくれよ」

「何の用?」

「もうあと一時間もすれば塔に着く。それを伝えに来た」

「分かった。一時間ね」

「邪魔して悪かった。それじゃあ私は上に戻るとするよ」
西の王は振り返り、ドアに手をかけながら「ごゆっくり」と言った。


47


塔の周りには陸があった。海面よりもすこし低いくらいにあるので、
陸と呼んでいいのかは分からないが、歩けるのならなんでも良かった。
ユーシャは船から下り、海水にまみれた陸を踏む。
見上げると、塔の真上に真っ黒の球体があった。

「ここまで来て言うのも何だけど、この塔って上れるのかしら」
魔法使いは塔の天辺を見上げて言った。

「行ってみれば分かる」ユーシャは前に進む。
後ろからは西の王と、それに連れられた大勢の兵がついてくる。

塔までの道のりには歪な形をした岩があるだけで、他には何もなかった。
世界の中心は綺麗で、分かりやすい場所だった。


歩き始めて一〇分も経てば、塔には着いた。
灰色の石を積み上げられて作られたそれは、寂しく佇んでいた。

誰にも必要とされず、ただそこにあるだった塔にも、意味があった。
そう思うと不思議なものだった。しかも塔には入り口があった。
全ては予定調和で、自分たちが決められた
レールの上を歩いていたとでも言われたような気がした。

「じゃあ行ってくるわね」魔法使いが言った。

「頼みます」西の王が頭を下げた。「私たちにできるのはここまでです」

「あんたはよくやってくれたわよ」

「そう言ってもらえるとありがたい」

魔法使いが手を引いて来る。ユーシャは軽い船酔いに負けじと歩き、
塔への入り口の戸をゆっくりと開いた。





塔の内部は真っ暗だった。魔法使いが魔術の光で辺りを照らす。
ちいさなホールだ。端の方には樽とかロープとかが散らかっていて、
他にあるのは頭上へ伸びる螺旋階段だけだった。

ゆっくりと階段を上る。
階段横には手すりも何もない。足を滑らせたら真っ逆さまだ。
しっかりと魔法使いの手を握り、足の裏で地面をつかむようにして歩く。

ここにある音は二人分の足音だけだった。
世界にふたりだけが取り残されたように思える。
それも悪くないかもしれない、とも思った。

長い旅は終わりを迎える。直感がそう告げている。
思い返せばいろいろあった。とは頭で思っても、
細かいことはあまり思い出せなかった。
あまりにもいろいろなことが短期間で起こりすぎた。

いったい、落胆と浮上を何度繰り返しただろう?
ここまで来るのに、どれだけの犠牲を払った?
その犠牲にはほんとうに意味があったのだろうか?

分からない。決めるのは俺じゃない、とユーシャは思う。
決めるのは魔法使いだ。あいつがいまから、全ての物事に意味を与える。


二〇分も歩けば、塔の天辺は見えてきた。
弱々しい光の漏れる扉が見えたのだ。
真っ暗だと思っていた外にも、僅かな光はあったのだ。
それに気づかないほど、光は当たり前のものだった。
誰からも感謝されることなく、黙々と世界を照らしていた。

困ったことに、いまさらそのことに感謝しようとは思えない。
こういうのが俺の悪いところなのかも、とユーシャは漫然と思った。

魔法使いは扉の前に立つ。その背中は小さかった。
そこに世界のこれからが委ねられているというのが
理不尽であるように感じられた。


「俺にできる事はある?」とユーシャは訊ねる。

「あんたがいないと、あれは壊せない。わたしひとりだと、多分、
命が燃え尽きてもあれを壊すことは出来ないと思うの。
あんたの力が必要なのよ。こんな馬鹿みたいなお願い、
聞いてくれるのはあんたしかいない。
それに、元々わたしが頼れるのはあんたしかいない」

魔法使いはそこで言葉を区切り微笑んだ。
「お願い。あんたのこれからをわたしに預けて。
あんたの命をちょっとだけ貸して。使わせてほしいの。
あとで、何百倍にもして返すからさ」

「いくらでも使ってくれ」とユーシャは言った。
魔法使いの手をとって、塔の頂上への戸を開く。





黒い太陽まではまだかなりの距離があったが、
塔の天辺が人間の限界だった。
それでも西の王国で見た時とは違って細部まで見える。

黒い太陽は水で出来ているようだ。球形に留められた水の周りには、
薄い膜があった。おそらく呪術の障壁だろう。
ところどころひびが入っていたり、ゼリー状になったりしている。

球体から飛び出していた一本の棒のようなものは、巨大な氷の槍だった。
西の大陸の方面から、まっすぐとこちらに向かって飛ばされたらしい。
氷の槍は薄い膜を貫いたところで止まってしまったらしく、
本体である内側で泳ぐ巨大な蛇には届いていない。

竜の頭を持った巨大な蛇は、
何かの模様を描くように水中を泳いでいた。

その口元からは真っ黒な煙がこぼれている。
息をするように口から煙を吐いていた。
空を覆う黒いものの正体はあれのようだ。


「さあ、さっさとやっちゃいましょう」魔法使いが手を強く握ってくる。

「うん」ユーシャはうなずく。「俺は何をしたらいいんだ?」

「わたしの手を握って、わたしの隣に立ってて」

「それだけでいいのか?」

「それだけでいい」魔法使いは杖を掲げ、目を閉じた。

ユーシャは巨大な蛇を見上げる。
巨大な蛇はカエルを睨むようにじっとこちらを見下ろしていた。
気のせいだ、と思っても蛇は目を逸らさなかった。
その目は何かを語りかけているようにも思えたが、何も分からなかった。
すこし悪いことをしたような気持ちになる。

しばらく見つめ合っていると、蛇は身体を捻じり、水中を舞い始めた。
そして何を思ったのか、自分の尻尾を飲み込んだ。
ユーシャはそれをただ呆然と見ていた。
何かが起こる、と構えても、何も起こらない。

蛇は自分の尻尾を飲み、円を描くように舞う。
何かが始まることはないし、何かが終わることもない。
ただ、今が続くだけだった。


ユーシャは剣を掲げ、目を閉じる。瞼の裏にはいろいろな人がいた。
でもぜんぶ消えた。視界は真っ暗になった。

身体が熱い。心臓が激しく暴れた。力が漲ってくる。
魔法使いの手を握る手にも力が入る。
魔法使いの手も、それと同じくらいの強さで握り返してくる。

足が地面から剥がれ、身体が浮かび上がった。宙に浮いたのだ。
見下ろすと、剣を空に向けた自分がいる。
真っ黒な腕と、不細工な星型の痣。紛れも無く自分だ。

どうなってるんだ? と訝しんでいると、
浮いた身体は魔法使いの内側に向かった。
そこはとても温かかった。瞼が重くなる。意識が遠のいていく――


「帰ろう」と魔法使いが隣で言った。

目を開くと、隣には笑顔の魔法使いがいた。
手にはぼろぼろの剣がある。

「終わったのか」とユーシャは言った。

「うん。ぜんぶ終わった」

「そっか」ユーシャは魔法使いの手を離す。「じゃあ帰ろう」

振り返って、もう一度手を繋ぎ直す。
魔法使いは杖で床を突いた。
こん、という小気味よい音が世界に響いた。

ちいさな音に呼応するように、黒い太陽は
粉砕され、世界に七色の光が拡散した。
長い夜は終わり、輝かしい朝がやってくる。


おしまい

読んでくれてありがとさん
これでおしまいだよ
誤字脱字とか終盤の雑なところには目を瞑ってくれるとうれしい

あと大した数も書いてないくせにブログ作ったので
よかったら遊びに来てやってください
何もないけどね
http://d34d5p4c3455.blog.fc2.com/

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