対木もこ「私と荒川憩のカレーうどん戦争」 (118)


※人が死にます。

※百合っぽい何か。

※遅筆な上に続き物。



それでもよければお付き合いください。

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 私が初めて彼女に出会ったのは、おおよそ今から一年ほど前になる。


 高校に入学する際に、何か一つ新しく始めようと思ったわけで、そこで出会ったのが麻雀だった。

 厳密に言えば高校に入学する際というより、中学を卒業する前だったかもしれない。

 中学三年の冬という、卒業と春休みが見えてきて騒がしいような静かになるような、多分のその両方がないまぜになった、いわゆる“手持ち無沙汰”という気分を味わった人は、きっと私以外にもいるだろう。
 
 いずれにしても高校入学という事が私の中での一つの線引きだったので、結論としては同じなのかもしれない。

 冬休みはどうするだとか、高校はどこに行くだとか、そういったクラスの会話からは遠ざかるように私は麻雀のルールを頭に入れ始めたのだ。
 そんな私にとって一つ幸運だったのは、なんとなく選んだ麻雀が私には非常に合っていたということである。

 その幸運と引き換えたわけではないながら、私の選んだ地元、覚山王高校の麻雀部は、お世辞にも強豪とは言えず。全国大会はおろか地区大会すらまともに勝ち上がったことがないらしかった。

 まぁ、もとより冬に覚えた麻雀である。全国だのなんだのと言ったことには、興味がなかった。部があって、学校帰りにタダで打てればそれでいい。

 今でこそ麻雀と言う競技が世界に広く浸透し始めたわけだけれど、それでもまだ高校生にとって麻雀を打つには、部に入らないとかなり条件が限られるのだ。

 まさか制服で街中のフリー麻雀に紛れ込むわけにも行かないだろう。というか、確実に入り口で門前払いだ。

 もしかしたら近い将来それくらいは許されるような時代になるかもしれないけれど、少なくとも現時点でそれがなされていないことには私にとって意味がない。

 着替えて私服で健全な時間にいく分にはお咎めなしだろう。ただ、何しろお金がかかる。高校生の小遣いではさしたる時間は打てないだろう。

 ネットなら簡単に打てるけれど、折角始めたのだから、実際に牌を触りたいと思うのも必然だ。


 なので、私としては、麻雀部が部として機能していれば、それでよかった。
 というか、むしろ、下手に強豪で人数が多いほうが、打てる時間が限られるので、そうでなくて良かったのかもしれない。

 繰り返すけれど、私は何も全国に行きたいとか、そんな事は考えていないのだ。

 覚えたての麻雀で、という不安もあるが。それよりはるかに強く。

 何より、そういう面倒なことは、嫌いだ。

 学校の看板を背負うとか、
 部員の期待を背負うとか。
 皆で手を取り合ってとか、
 皆で足を揃え合ってとか。
 友情だとか根性だとか努力だとか、
 そんな陳腐で何の得にもならないものなんて、どうでもいい。

 やるからには頂点を目指せと言うけれど、その言葉は嘘だと思う。
 少なくとも正しいとは思わない。
 何故なら、リスクがないからだ。
 リターンではなく、リスクが。
 言葉どおり頂点に立てなかったときの、リスク。
 それが、その言葉にはない。

 きっとその言葉をかけた人間は、その人間が頂点に立てなかった時に、こう言うだろう。






 ──惜しくも頂点には立てなかった。でも、きっとこの時間は無駄じゃない。
 今回は駄目だったけれど、また何か違うことで努力すれば良いんだ──


 ああ。ご立派な言葉だ。
 そしてなんて無責任で無遠慮な言葉だろう。

 失敗した時間を無駄じゃないと、何故決め付けるのだろう。
 挫折した経験が無駄じゃないと、何故締めくくるのだろう。
 失敗した人間が成功した人間に勝るわけないのに。
 挫折した人間が飛躍した人間に敵うわけないのに。

 にも拘らず、肩を叩いて宥めるように、まるで自分はお前の事をいつまでも応援しているぞと言うが如くそれで美談にしようとするのだ。
 挑戦させた立場だというのに、それをなかったことにして再び挑戦させるのだ。

 そして情けないことに、その言葉で失敗した人間はまた息を吹き返す。

 一度失敗しても、また努力すればいい。
 一度挫折しても、また挑戦すればいい。
 失敗に意味はなくて、努力にリスクはなくて、挫折にも意味はなくて、そしてやっぱり挑戦にリスクはなくて。

 何度挫けても何度敗れても、リスクなく人はまた立ち上がる。
 自分以外の言葉に踊らされて、自分以外の応援に励まされて。
 まるでそれが美徳だといわんばかりに。
 まるでそれが正解だといわんばかりに。
 そうして結局、引き返せない道を長い間歩かされるのだ。
 リスクのない言葉にのせられ、リターンを求めるために。
 そんな言葉は、私は信じない。
 人は誰だって一人でいる権利があって、
 人は誰だって何もしない権利がある。
 言葉は所詮言葉であって、どこまでいっても言葉でしかない。
 そこにきっと意味なんか、ない。


 失敗だの挫折だの努力だの挑戦だの友情だの仲間だの連携だの代表だの看板だの、
 そんな他人の言葉次第でどうにでもなる中途半端で曖昧模糊のものに、身を委ねる気など、さらさらない。





 ちっぽけな私には、ちっぽけな生き方がふさわしい。


 話を元に戻そう。

 私自身の下らない矜持など、これ以上だらだらと語っても詮無いことだ。
 どうにも私は話が長く、横道にそれやすい。
 今は私の話ではなく、彼女の話である。

 四ヶ月だったか五ヶ月だったかで地元のそれなりに大きな大会で優勝できたことが、まぁ切欠と言えば切欠かも知れない。

 或いは付け加えれば、それによって私にちょっとした冠がついたことも、理由なのだろう。

 とはいえ。
 それは別段麻雀において優れた能力を備えているという事ではない。
 麻雀を始めて数ヶ月の私が結果を残せたことについては、ひとえに麻雀と言う競技が、運の要素が強い競技だからだ。

 何も私が尋常なほどに覚えが良かったわけでもないし、異常なまでに理解が早かったわけでもない。

 たまたま運よく幸運にも、他の人より点棒を多く残すことが出来たと言うだけのことだ。

 過程は多々あれど、結果はそれ一つ。
 私が何がしたわけでもない。
 誰が何かされたのでもない。
 偶然にもその日の私の運が強く、
 相対的に他の人の運を上回っただけ。

 ただ、それだけ。
 それだけのことである。


 ……。
 ……、……。

 ……まぁ、正直な話。

 自分で自分の功績を語るほど恥ずかしいものはない、という話である。

 あの大会についてのことは、私がちょっとだけ覚えていたら、それでいいだろう。自分でそれをひけらかすほど私はアグレッシブな人間ではないのだ。どちらかと言うと控えめな性格なのである。

 ましてや冠だの二つ名だの、漫画やゲームの登場人物でもないのに、自分で嬉々としてそれを名乗るわけがないと言うのに。
 全くもって、誰がつけたのやら。
 いい迷惑である。

 まったく。本当に。 

 話が横道にそれてしまったけれど、まぁ、要は私が高校に入って、麻雀で好成績を出したという事が言いたかったわけである。どうにも長く語りすぎてしまうのは私の悪い癖のうちの一つだ。
 別に話したがりという訳でもなく、いやいやむしろ私は口数の少ない方で、クラスでも話題の中心になることは少ない。
 少ないと言うのも大げさに近い表現で、別段取り留めて私を話題にあげるほどクラスの連中も暇ではないだろう。彼らは無駄と無意味な雑談を好むが、無秩序で無節操な話題選びはしない。いかに自分が楽しいかという事だけを考えているような連中だけれど、それはその実一つの行動理念を徹底しているといえなくもないのだ。
 別に彼らを評するつもりはないけれど。論することは出来る。

 彼らは単純で短絡な生き物だ。楽しければそれでいい。
 そしてきっとそれは、人生において概ね正しい。

 そんな彼らが、わざわざ何の面白みもない私を会話に挙げる訳もない。
 なんだったら私の代わりに、席に地蔵を置いてもばれないのではないかと言う程度には物静かな方だ。今のクラスでおあつらえ向きに席は窓側で、教室にど真ん中に灰色に重たい物体が鎮座するよりははるかに目立たないので、反対の廊下側の生徒くらいだったらやり過ごせるんじゃないかとも思う。

 まぁ、クラスメイトをやり過ごしても、何も意味はないのだけれども。
 せめて教師をやり過ごさないと意味はない。

 それかいっそそういう奇行を続ければ、ひょっとしたら地蔵くらい日常の延長と言う形で見逃してもらえるかもしれないけれど。そもそもそんな日常はごめんだ。


 ……、また話が横道にそれてしまった。いけないいけない。


 もしかしたら私は、彼女の事を語りたくないのかもしれない。
 何しろ彼女はなんと言うか、まぁ、あれだ。有体に言って、変わっていた。変人と言う奴だ。
 そのせいで、思わず無意識のうちに語ることを避けようとしていたのかもしれない。
 
 ちっぽけな私には、ちっぽけな生き方がふさわしい。
 平和で穏便な日々が一番だ。
 出来ることなら一人でいたい。
 出来ることなら平穏が欲しい。


 そんな私の思惑など気にも留めず、そんな私の願望など歯牙にもかけず、彼女は──荒川憩は。

 突然、私の日常に現れたのだ。


「もこちゃん、おるぅ?」


 もことは、私の名前だ。対木もこ。高校一年生。十月一日生まれ、身長百……四十、くらい。
 嘘ではない。

 学校が私服での通学を認めているので、周りに漏れず私も私服だ。
 個人的には、私服登校でよかったと思っている。一応それをこの高校の進学理由の一つに挙げられる程度には無視してはいない。

 というのも、私は同年代の中では割かし背の低い方で、現に今のこのクラスでも背の順に並べたら前から二番目になるくらいだ。
 一番前ではなかったことにより、不必要に注目を浴びることは避けられたけれど、考えてみればブービーなのでさして大分的には変わらない。
 そんな私が制服を着たところで、まぁ概ね殆んどの場合が似合わないだろう。馬子にも衣装というか、孫にも衣装だ。サイズを幾ら合わせても、服に着られている感は否めないだろう。初めておしゃれした小学生みたいになりそうで嫌だ。


 そんなわけで、私は私服登校に大賛成である。
 そんな教室に、物凄く変な奴がやってきた。


 予め念のために言っておくと、勿論この時点で私と彼女に接点はない。

 なので、最初彼女が教室に現れたとき、ざわつく教室のクラスメイトに漏れず、私も似たような反応をしていた。

 季節は五月だったか六月だったか。どちらにせよ夏にはまだ早い。私の住む愛知県が全国でも平均気温では低くない方とはいえ、それでも彼女の出で立ちには疑問を抱かずにはいられなかった。


 ナース服である。おそらくは。多分。

 多くない私の知識をフル活用しても、どこをどう見てもどう考えても、彼女の上半身はナース服にしか見えなかった。

 いやむしろ、下には普通の制服のスカートを履いていたことと、キャップだか帽子がない事のせいで、ナースというよりナースのコスプレをしている女子にしか見えない。
 いや、まぁ、別に私がナース服に見慣れていると言うわけではないし、造詣が深いだとかそういうわけではないのだけれど。
 ただ、普通の高校にこんなのが突然現れたら、誰だって驚く。
 いくら私服登校が許可されているからと言って、こんなファンキーな奴は見たことがない。

 というか、制服のスカートを履いている時点で、この学校の生徒ではないのではなかろうか。

 背は、まぁ平均的か。少なくとも私よりは高い。べらぼうに高いというわけでもなく、普通だろう。
 髪は短く、全体的に外に跳ねている。癖っ毛なのかそういうヘアースタイルなのか、あまりそういう事に詳しくはない私には、それ以上のことは分からなかった。
 ……、スレンダー、という表現をした方が良いだろう。私だってそれについては他人に偉そうには言えない程度には貧相である。
 にこにことした表情だけを見れば、悪い奴には見えなさそうだけれど。とはいえ、本当に腹黒い奴は、それを表情に出さないことを考えると、むしろ怪しいともいえる。

 なにしろナース服だし。
 そう考えると、全身から怪しさがにじみ出ているような気がする。


「もこちゃんおったぁ」

 思案していたせいで、目の前にナース服が、ああいやもとい、彼女がいたことに気がつかなかった。

「もこちゃんやんなぁ」

 のんびりとした口調でそう聞かれ、とりあえず首を縦に振る。聞かれ……聞かれてる、んだろうか?
 自問自答のような、そんな口調だ。
 ……、あぁ、関西弁のせいか。やはり聞きなれない言葉だと戸惑うな。

 ……。
 ……、……。

 ……いやいや。待て待て。
 愛知に関西弁の人がいても不思議ではないけれど、関西に知り合いのいない私が関西弁で話しかけられるのは不思議だ。
 制服のスカートといい、まさかこいつ。

「あぁ、よかったぁ。やっと会えたわぁ」

 まるで探してたと言わんばかりの口調だ。

「そら探してたからなぁ」

 探してたのか。

「せやぁ。今朝の新幹線でぴゅーっとこっちにきたんやぁ」

 新か……新幹線? 今、新幹線と言ったか?

「もー、大阪と愛知って近い様で遠いなぁ。十分くらいで着く思ったんやけどなぁ」

 着く訳ないだろ。阿呆かこいつは。
 そんなコンビニに行く気分で越境されても困る。

「おかげで手ぶらやんかぁ。三十分で家に帰れる思ったのになぁ」

 帰れる訳ないだろ。阿呆かこいつは!


 ざわつく教室の目線が、私とナース服に集まり始めた。
 時刻は昼休み。狙ったのかというほどに、時間はまだある。
 それまでこいつをここに置いておいていいのだろうか。
 もう既に視線を集めてしまっている時点で、何かと失敗しているような気もしたけれど、それでも今ここで教室を出て行ってしまっては、こいつと知り合いだという事にされてしまうのではないか。
 それよりは、ここで追い払った方が良いのかもしれない。

「ふんふん」

 にしても、こいつの言う事が事実だとして。
 こいつはわざわざ大阪から何をしにここにきたんだろうか?

「もこちゃん……あれやなぁ」

 なんだ。

「ファンシーな服着とんなぁ」

 ファンキーな奴にファンシーだと言われた。

「めっちゃ白いやん。雪んこみたいやん」

 うるさいな。気に入ってるんだよ、悪いか。
 白さなら大して変わらないだろうそっちも。

「なんで目ぇ隠しとるん? フリフリやなぁ」

 うるさいな。気に入ってるんだよ。悪いか。


「もこちゃん、何を怒っとるん?」

 なんでもねぇよ。さっさと用件を言ってくれ。
 ……、思わずキャラが乱れてしまった。いけない。

 一つ咳払いをして、自分を落ち着かせる。
 別に私がどんな格好をしようと、こいつにも周りにも関係ないだろう。
 きょとんと小首をかしげながら、再びナース服は口を開いた。

「あんなぁ、うちもこちゃんに会いにきたんよぉ」

 知ってるよ。今更間違いだったら張り倒してるよ。

「もこちゃん、こないだ大会で優勝したやんなぁ」

 それは事実だけれど。それを何故、大阪のこいつが知っているんだろうか。
 全国から参加者が集まるほどの規模の大会ではなかったはずだけれど。

「全国規模やなくても、東海規模ではあったからなぁ。十分大きいで」

 そんなものか。
 あの大会の結果については、地元のスポーツ新聞になら確かに載っていたけれど、それでも別段大きな扱いというわけではなった。
 ましてや全国の新聞となると、万が一載っていたとしても、数行程度の扱いだと思っていたが。思いの外、そうでもなかったのだろうか?

「記事としてはそうやな、あんま大きくはなかったなぁ。ちょっこーっと名前が載ってたくらいやったわぁ」

 そうだろう。

「でも、見出し見てびびーっと来てん!」

 両手をぱっと広げた。どうにもジェスチャーが一々大仰だ。それとも関西は皆こうなのだろうか?


 ……。
 ……、あぁ。分かった。こいつが何を言いたいのか。何の為にここまできたのか。
 新聞を見たという事は、それはつまり。

「これや、この子は会わんとあかんってなぁ」

 あのやたら恥ずかしい冠を見てきたという事になるわけで。


「『東海王者』なんて、めっちゃカッコええやんかぁ!」
「……」
「しかも麻雀始めて、えぇと、どのくらいやったっけー」
「……」
「無口やんなぁ。四ヶ月やったっけ、五ヶ月やったっけぇ。それで東海王者なんて凄いやんかぁ」
「……」
「しかも可愛いやん。もう、ずるいわぁ」
「……」

 うるさい。
 いや、声質ではなく。むしろ声自体は酷く間延びしていて、録音して枕元で流せばすぐに眠りに着くんじゃないかという程度には緩い。
 だからと言って私はいらないけど。

 単純に、会話のテンポが私に合わない。
 一々返答を期待するのが気に食わない。
 一々無言を確認するのが気に入らない。

 そもそも私にこいつと会話する意思も理由もない。大阪だか鳥取だかしらないが、わざわざここに来たからと言って、私がそれに付き合う義理はないのだ。貴重な昼休みを、こいつのために浪費するつもりはない。まだ昼ご飯さえ食べていないし。

 そう判断すると、私は席を立った。


「はぇ~」

 学食はそれなりに混雑している。昼休み開始の十分ほどをこいつに費やしたロスタイムはやはり少なくない。
 食堂に入った瞬間、やたらに自分に目線が集まるのを感じ、次いでそれが自分ではなく、後ろのナース服へのものだということに気がついた。

 なにしろナース服だ。いきなりこんなのが学食に現れたら、抜き打ちの健康チェックか、もしくは単に頭のおかしいコスプレ女だと思うかのどちらかだろう。
 三対七くらいで後者であろう目線を無視しながら、食券を買うために券売機の前の十人程度の列に並ぶ。

「もこちゃんもこちゃん」

 なんだ。

「なんだか、うちらめっちゃ見られてへん?」

 うちらじゃなくて、お前だけだろう。
 私をお前みたいなヘンテコに分類しないで欲しい。

「いやいや、もこちゃんも十分変わってるでー、その格好ぅ」
「……」

 やっぱりそうなのか……。
 いや、でも、ナース服よりはマシなはず……。

 きょろきょろと周りを見渡すナース服には構わず、学食で食券を買う。
 当たり前だけれど、自分の分だけだ。
 服装について人の心を抉ろうとした奴に慈悲はない。

「うちの分はー?」

 ねぇよ。

「冷たいわぁ、もこちゃんはー」

 ……。
 ……、あぁ、いや。待てよ?


 ごそごそとナース服のポケットから財布を取り出し(ナース服にポケットがついていることを今初めて知った)、硬貨を取り出そうとするのを制する。

「んぇ?」

 どうやって発音するんだか分からないようなリアクションは無視して、私は千円札を取り出す。
 ねじ込むように札入れに通し、まずは日替わり定食を一つ。
 次いでカレーうどんのボタンを押す。
 後ろから覗き込むように見ていたナース服が、はぁだかほぉだか、良く分からない感心した声を出した。

「もこちゃん良ぅ食べるなぁ」

 私のじゃない。お前のだ。
 私はどちらかと言うと食が細い。

「うちもそんなには食べへんでー?」

 なんで一人で二品食べる前提なんだ。
 普通に考えて一人一枚だろう。

「あぁ、そうかぁ。……ん、ってことはぁ、もこちゃんうちの分買うてくれたん?」

 気づくのが遅い。脳が渋滞してるんじゃないのか。
 とはいえ、別にこれはこいつのリクエストに答えたわけではない。ましてや、仲良く食事に花を咲かせましょうだなんて虫唾が走る。
 単純に、奢るから帰れと言う交換条件だ。たかが三百五十円で厄介払いが出来るなら、致し方なくはあるがやるしかあるまい。

 ちなみに、私の日替わりは五百円だ。
 ……いや、まぁ、だから何だという話だけれど。


「……えぇ、そんなぁ」

 ようやく私の意図を察したらしく、情けない声を出しながら情けない表情を浮かべた。
 わざわざ大阪くんだりから来たのに、カレーうどんを食べて帰るとかどんな罰ゲームなんだろうか。まぁ、私の知ったことではないけれど。呼んでもないのに来たほうが悪い。

「もこちゃん……」
「……」

 眉根を寄せて、困ったような様子で見られる。
 知るか。
 食券を二枚割烹着を着たパートのおばさんに渡す。
 その間も、ナース服は沈痛な面持ちだ。

「もこちゃん、あんな。うちな……」
「……」

 言いよどむ様に、少し言葉を探しながら。表現を選ぶような。
 幾許かの沈黙。
 こいつは一体全体、本当に何をしにここまで来たんだろう。
 私に何を期待していたんだろうか。
 それを知るつもりは、さらさらないけれど。
 私には、関係ない。
 言いたければ勝手に言えばいい。嫌でも耳には入るのだから、言う事は無駄ではない。
 私は、それに返答しないけれど。
 それで良ければ、好きに理由を言えばいい。
 良くなくても、食べたら帰ればいい。

「……うちな」
「……」
「……カレーうどん、あかんねん!」


 ぶん殴るぞ。


 正確に言えば上履きで足を踏んだので、ぶん殴るぞではなく、踏みにじるぞが正解だったかも知れない。
 まぁそんなのはどちらでもいいけれど。

「痛ぁい」

 不服そうに地団駄を踏む馬鹿を無視して、出来上がった日替わり定食の盆を持ち、手頃な席に座ろうとする。

「待ってやぁ、もー」

 待つ義理はない。奢ってはやったが、一緒に食べるとは言っていない。
 それを言ったら、そもそも奢るのも別に事前に言ったわけではなかったか。というか、まだこいつには一度も話していない。

「あー、なんで一人しか座れんとこなんー? うちどこで食べればええねんー」

 探せば空いている席くらいあるだろう。

「いーやーや、一緒に食べんねんー」

 子供か。
 むくれるナース服を無視して、さっさと席に着く。
 海老フライが食べたかったのだ。こいつに構ってる暇はない。
 ソースをかけて一口ほお張る。学食の特性上、全てが揚げたてと言うわけではないだろうけれど、運よく揚げて時間があまりたっていないものだった。おかげでさくりとした食感が味わえた。

「……むー」

 そんな私を見て、小さく唸りながら、やがて何を考えたのか。
 突然その場に正座した。
 二口目を食べようとしていた私も、私の周りの数人も、思わずぽかんとしてしまう。

「そんならうちここで食べる。床で食べる!」

 な、に?

「もこちゃんが意地悪すんなら、うちかて負けへんでー!」

 いや、別段意地悪をしたわけではないけれど。空いてる席を探せとは言ったが。

「ほんならいただきますぅ」

 正座の状態から身を前に出し、両膝と左手を地面につけながら、残った右手で箸を持つ。組体操の馬のような形だ。
 そしてそのまま、ふーふーと麺に息を吹きかける。そんなナース服。

 なんだこの光景。

 ……なんだこの光景。

 ほどなくして。

 この光景から最も早く我に帰った別の生徒が、「良かったらこの席どうぞ」とナース服に声をかけ、ようやく事態は一端の収拾を見せた。と思う。
 どうせなら放っておいてほしかった。そして埃でも食べて地元に帰ってくれれば良かったのに。

 まだ若干普段とは違う微妙な空気が、私とナース服の半径数メートルを取り囲んでいるものの、気にしたところで始まらない。

 何が楽しいのかは分からないが、表情をほころばせながら、麺をゆっくりとすする。辛いのが苦手だと思っていたが、そう言うわけではないようだ。

「あぁ、うん。うち別に辛いのがあかん訳やないんやぁ」

 聞いてもいないのに、理由を言おうとする。
 止めるのも面倒なので、適当に喋らせておこう。話すのが好きそうなので、さながら校内放送か、もしくはファービーのように扱えばいい。

「ほら、うち、真っ白やんかぁ」

 頭がか?

「ちゃうわぁ、もぉ。服や服ぅ」

 分かってるよ。

「せやから、カレーはねたら、目立つやろ? だから、嫌やってん」

 そうだな。私も白い服の時にカレーうどんは食べたくない。
 だからこそ、良かれと思って買ったのだ。

「全然良くないわぁ、もぉ。どんな理屈やねんなぁ」

 お前が良くなるためじゃない。私が良くなるためだ。
 奢ったら帰れと言うつもりだったし、それ以前にカレーうどんの意味に気付いて帰れば尚更良いと思っただけだった。

 何が楽しくて、ひとりの時間を邪魔されなければならないのだ。
 


「んー……」

 やはり元よりカレーうどんは好きではないのかもしれない。一本一本ゆっくりと啜るナース服。

「っていうか、なんでカレーうどんに卵が入ってるんや」

 慣れろ。

 関西でカレーうどんが普及しているのかどうかは知らない。関西、とりわけ大阪なんて言ったら一年中たこ焼きとお好み焼きを食べているイメージしかない。

「それは幾らなんでも偏見やで? もっと一杯美味しいのあるもん」

 もんなんて言われても知らん。後は明石焼きくらいしか食べたことはない。
 しかもあれ、やたと汁だか出汁だかが熱いのはなんなんだ。火傷した記憶があるぞ。

「ええとぉ、串カツやろぉ? てっちりやろぉ? あ、うどん言うたらかすうどん言うのもありますよーぅ」

 あぁ、二度漬け禁止って奴か。テレビか何かで見た記憶がある。
 でもまぁ、味噌カツに比べたらな。鍋だってホルモンなりコーチンなりあるし。

「い、意外と負けず嫌いなんやなぁ……」

 いや別にそう言うわけではないけれど。
 ただ普段食べなれてるものの方が良いイメージなのは当然なだけで?

「そ、そうかなぁ……」

 つるつると麺を啜る。そんなペースだと昼休みが終わってしまう。
 最も、その頃にはさすがにこいつも帰るだろう。まさか授業中まで私の横にいるわけないだろうし。
 そう考えると、こいつとももう十五分くらいでおさらばか。
 短いようで長かった。

「勝手に締めくくらんといてぇなぁ……。……、あ、え?」

 なんだ?

「え、あ、えぇ?」

 なんだよ。

「もこちゃん、なんか麺の下から変なん出てきたぁ」

 変なの……?

 箸とレンゲでカレーうどんをかきわける。
 そしてナース服が驚いた表情を浮かべた。

「カレーうどんからご飯出てきたぁ!?」


 カレーうどんにとろろご飯が入っているのは普通じゃないのか。

「いやぁ、初めて聞いたし初めて見たわぁ」

 ここまでこいつを見てきて、笑顔以外は録に浮かべてなかったわけだけれど。その笑顔が初めて引きつっている。
 そんな顔も出来たのか。

「名古屋やとどこもこうなん?」

 愛知を全部名古屋にするな。

「あぅ、ごめん」

 まぁ、ここ名古屋なんだけど。
 ついでに言うと、カレーうどんにとろろご飯を入れるのは、ここではなく東の豊橋が発祥だけど。

「じゃあなんで怒ったんやぁもぉっ」

 別に元より怒ってない。ただなんとなく正してみたかっただけだ。
 実際は愛知なんてほとんどが名古屋みたいなもんで、プロ野球といったら兎の球団、という感覚でいてもらって構わない。

 横浜市民や神戸市民が出身地を県ではなく市で答えるように、名古屋市民もまた愛知のことを心の中では名古屋県だと思っていたりする。ある意味名古屋市民と言うのは一つのステータスみたいなものだ。
 そんな名古屋市民、もとい愛知県民の目下のライバルはこいつのいる大阪と、もうひとつは福岡だったりするけれど、それは今は割愛しておく。

「へぇ、そうなん……」

 感心したと言うよりは割とどうでもよさげに、くるくると箸をカレーうどんの中で回している。食べる気が薄れてしまったらしい。そんなに気に入らなかっただろうか。
 折角人が自腹でおごってやったと言うのに、贅沢な奴め。

「そういうわけやないけど……っていうか、せやったら選ばせてくれてもぉ」

 なんで奢る側が奢られる側に気を使わなくちゃいけない。

「いけずやぁ、もぉ」

 ぶつぶつ文句を言いながらも、再び食べ始める。
 特別に海老フライの尻尾を一つやろうか。

「尻尾って食べるもんやないで?」

 私は食べる。

 ……こいつに小倉パスタでも食べさせてみようか、とふと思った。
 イカスミジュースとバナナパスタが美味しかったと思う私にとっては十分アリだと思うがどうだろう。


 しかしこいつも他人をあまり気にしないらしい。結局私の考えは通じず、帰るどころか周りの視線などお構いなしに話しかけてくる。
 そういう意味では似ていなくもないだろうが、似ているようで全然違う。
 こいつが気にしないのは他人の目線であって、他人自体は気にしている。
 でなければわざわざ新聞の記事を見て私のところになど来ないだろう。

「きいしえう……」

 飲み込んでから喋れ。
 そもそも私は食事中に話すのが嫌いなんだが、やはり関西は口から先に生まれてきた奴らばかりなのだろうか。

「んむ……んん。気にしてるいうより、気にかけてるんよぉ」
「……」
「やっぱり友達は一人でも多いほうがええねんなぁ」

 レンゲでスープをちびちびとすする。口調だけではなく、食べるのも間延びしているようだ。
 食べると言うより、慣れるといったほうが近いか。
 海老フライの尻尾を口に運び、味噌汁で流し込む。

 友達。
 友達、か。
 友達、ねぇ。

 好きな言葉ではない。
 悪い言葉ほど、耳に良く残る。

「もこちゃんやって、うちがさっき床で食べよとしたとき、驚いてたやんかぁ」
「……」
「せやからもこちゃんも、他人が気にならへんなんてことあらへんよぉ」

 それは。
 それは、単純に。
 目の前で、突然ナース服が床に座ったという、私にとって初めての光景に驚いただけだ。
 別段こいつ自体に何か思ったわけではない。
 本当に。本音で。比喩ではなく。冗談でもなく。
 私は他人の目線も、他人自体もどうでもいい。

 箸をおく。やはり少食の私には、日替わり定食は多かったか。
 食べ切れなかったが、まぁ良いだろう。海老フライがなんとなく食べたかっただけで、後は別にそう言うわけでもなかったのだ。

「もこちゃん? どこ行くん?」

 どこに行くも何も、教室に戻るだけだ。私は学生なのだから何も間違ってはいない。
 小首をかしげるナース服を無視して、立ち上がって盆を持つ。
 そしてそのまま返却口へと向かう。後ろで何か慌てているような声がしたけれど、私には関係ない。


 そのまま食堂を後にして、ようやく数十分ぶりに私は一人になれた。


「対木さん」

 今日はよく話しかけられる日だ。
 厄日だったか。

 軽く溜息を吐きながら振り返ると、良く見知らぬ生徒がそこにいた。
 おどおどとした、私よりほんの少しだけ背が高いかもしれない女子だ。
 もしかしたら案外同じか。いや、むしろ私のほうが高いんじゃないか?
 だってほら、こう距離を置くと、一応頭も見えるし。てっぺんは見えないけど。
 あと、女子高だから女子しかいないんだけど。

 ざっと視線を頭のてっぺんから下へと流す。
 体育着を着ているあたり、おそらく次の授業が体育なのだろう。
 昼食の後に体育とは可哀相な時間割だ。そんな時間割を立てた教師はきっと馬鹿だ。

「……」
「えぇとね……ちょっと、良いかな?」

 出来ることならば放っておいてほしいけれど。一応名前を出して呼び止められた事を考え、話だけは聞くことにする。
 もしかしたら、教師からの言伝かもしれないし、まぁ、全く無駄な世間話をしようという雰囲気でもないし。

「一応、クラスメイトなんだけどな……」
「……」

 ……。
 ……さいですか。

 ……。
 ……ってことは、それはつまり、私も次の授業体育じゃねぇか。

 昼食の後に体育なんてさせるんじゃねぇよ。

「ちなみにマラソンだよ」

 ぶちころすぞ。


 しかしこいつ、クラスメイトだから名前を知っていたのか。実に当たり前の理由だ。
 まぁ私は相手の名前を知らないけれど。
 というか、クラスで知っている名前がない。
 一、二ヶ月前の入学式での自己紹介なんてまるで覚えていない。
 どうせ碌に喋らなかったんだろうという事くらいは予想がつくが。
 予想っていうか、過去のことだから回想か。

「いや、対木さん、入学式終わったらすぐ帰っちゃったから……」
「……」

 自己紹介どころかホームルームさえ出ていなかった。

 まぁ、確かに、私がとる行動としては最も適した内容だろう。
 担任の教師からしたら適してないんだろうけど。
 それならクラスの名前を知らなくてもおかしくはない。
 仮に自己紹介の場にいたとしても、たかが一、二ヶ月で興味のない連中数十人の顔と名前を一致させるなんて面倒な作業、私がするとも思えないが。


 それに、この引っ込み思案な臆病系草食女子、どうせ同じクラスと言っても、私と正反対の廊下側一番前とかなんだろう。
 つながりなんて全くないんだから、同じクラスと言うだけで気軽に呼び止められても面倒だな。

「一応、隣の席なんだけどな……」
「……」
「……」
「……」

 あぁ、そう……。

 そりゃ悪かった。


「そういえば、対木さんと話したの初めてかも」

 そうだろう。

「隣の席なんだから、一度くらい話したことあっても良いのにね」

 何がおかしいのか、少しくすりと笑った。
 いや、まぁ、おかしいといえばおかしいのかもしれないけれど。
 別に同じクラスの隣の席だからと言って、話しかけなければいけないと言うわけでもない。

「例えば、えぇと。教科書を忘れて見せてもらうとか」

 私は教科書を忘れたらサボる。
 お前が忘れても見せない。

「じゃあ、消しゴムを落として拾ってもらうとか……」

 私は授業はボールペンしか使わない。
 お前が落としても拾わない。

「じゃ、じゃあ、お昼ご飯一緒に食べて、美味しいねとか……」

 私は食事中に喋る奴が大嫌いだ。
 お前が喋っても相手にしない。

「うぅ……。じゃぁ、一緒に帰ろうねとか……」

 私は部室で麻雀を打ってから帰る。
 お前が待っていても無視する。

「私の事嫌い……?」

 半べそをかきながら、助けを求めるようにそう言われるが、そういわれても困る。率直に答えただけだ。

 強いて言うなら好きでも嫌いでもない。

 どうでもいい。


「酷い……」

 うるさいな。
 うじうじと眉の根を寄せながら、上目遣いで見られる。

 これ以上こいつの泣き顔を見ていても別段楽しくはないので、さっさと教室へ戻ることにする。

「対木さん、どこに行くの?」

 教室に戻るだけだ。もうそろそろ予鈴もなるだろう。
 あのナース服のせいで貴重な昼休みがなくなってしまったのはあまりに遺憾な出来事だ。何が悲しくて一人の時間を邪魔されないといけないのだろう。

「……」
「つ、対木さん?」

 というか。あいつ、ちゃんと帰ったんだろうか。
 帰ってなさそうな気もするが……。

「……」
「……」
「……」
「……あの」

 なんだよ。

「ご、ごめんなさい……」

 雛鳥のように後ろをついてくる自称クラスメイト。

「あ、あのね。対木さん」
「……」

 話半分に聞き流しながら、階段を昇る。
 食堂は一階、教室は四階。上級生が悠然と教室に戻るのを見ながら階段を昇る自分を考えると、嫌でも階級社会という言葉が頭をよぎる。
 あぁ、面倒くさい。

 階段を四階まで昇り終え、更に歩く。

「次の授業、体育なんだけど……」
「……」

 そりゃそうだ。同じクラスなんだから。

「着替えないとだよね」

 あまり現実を突きつけないで欲しい。今サボる口実を考えてるのだから。

「だ、駄目だよ。授業はちゃんと出ないと」

 義務教育じゃあるまいし。お前は私の母親か何かか。


「あ」

 一年の廊下を歩いている途中、突然クラスメイトが思い出したかのように声を出した。
 一瞬、あのナース服でも現れたのかと思って警戒したが、どうやらそうではないらしい。

「そうじゃなくて。教室の鍵、閉めちゃったよ」

 閉めたのかよ。

「でも、鍵は持ってるから」

 持ってるのかよ。
 じゃあ言うなよ。

「ご、ごめん……」

 しかしなんでお前が教室の鍵を持ってるんだ?
 まるで委員長みたいだな

「委員長だよぉ……」

 委員長だった。

 まぁ、さっき言ったとおり、どうやら私は入学式の日にホームルームにさえ出ていなかったらしい。
 だとすれば、その時に委員長なり何なりをクラスで決めたのだろう。だとすれば、私が知らなくてもおかしくはない。

 しかしそれにしても、わざわざ委員長なんて大変な仕事引き受けてこいつも馬鹿だな。

「え?」

 教室の鍵を開けながら、腑抜けた声できょとんとした声を上げる。

 こいつの性格からして、自分から委員長に立候補するとは考えにくい。
 大方誰も立候補しなくて、押し付けられたんだろう。

「ええと……」

 誰だって面倒な仕事はしたくない。私はその場には居なかったけれど、委員長が決まらず視線での押し付け合いがあったことくらいは想像できる。その槍玉に挙げられたのがこいつと言うのもおかしくはない。

「……、実はそうなんだ。えへへ……」

 困ったように笑った。
 笑いながら困ったともいえる。


 まぁこいつが本意でない委員長の仕事を押し付けられようが、それは私の知ったことではない。
 やりたくないのであれば押し付けられようが拒否すればいいわけで、それを最終的に引き受けたのはこいつ自身の判断であり責任だ。

「そうなんだけど……」

 それに、もっと言ってしまえば、その場に居なかった私に委員長の仕事を押し付けると言う事もこいつには出来たはずだ。いない人間が反対をすることは出来ないのだから、一言そういえば何の問題もなくそう決まったはずである。

「それは対木さんに悪いよ。いくらいなかったとはいえ、やりたくもない仕事をさせるのは」

 そうやって自分より他人を上に持ってくるのがお前の駄目な所だと思うけどな。

「……」

 ところで。

「……うん?」

 着替えたいんだが、私の下着が見たいのか?

「わぁう、ごめんなさい!」

 慌てて委員長は教室から出て行った。


 ここが女子高ではなく共学だとしたら空きっぱなしの隣の空き教室で着替えるのだろうけれど、同じ女子しかいないのならば別段普段の教室で着替えても問題はない。

 溜息を吐きながら、嫌々体操着に着替える。
 なんだってマラソンなんてしなくてはならないのだ。

 ナース服といいマラソンといい、今日は厄日だ。
 こんな事なら最初からサボればよかったとも思ったが、いずれにしてもナース服は私に会うまではいそうだし、体育だって来週になればまた嫌でも出なくてはいけない。

 私が入学式の日のホームルームにいようがいなかろうが隣の席のあいつは委員長にさせられていただろうし、

「……」

 結局の所、不幸は決まってやってくるのだろう。



 ちらりと見た隣の席。新しいその机の中を一瞥しながら、私は自分の服に手を掛けた。


 着替え終わり、教室を出る。青いプラスチックのキーホルダーがついた鍵をぷらぷらさせながら委員長が待っていた。
 プラスチックには私のクラスである『1-C』と書かれた紙が入っている。

「急がないと、もう本鈴が鳴っちゃうよ」

 鍵を閉めようとしながら、そう急かされる。
 マラソンの前に走るなんてごめんだ。

「遅刻しちゃうよぉ」

 本当に今日は厄日だな……。
 とはいえ、こうして着替えた以上、授業に出るしかあるまい。溜息を吐きながら、廊下を小走りで進む。

「あ、待ってよぉ」

 お前は鍵を職員室に置きに行かなくて良いのか?

「本当はそうなんだけど……時間がないし、面倒だから」

 ちょびっと舌を出しながら、照れた表情を浮かべる。
 私のせいとでもいいたいのか?

「ち、違うよぉ」

 右手の鍵を体操服のポケット─このご時勢に古臭いブルマなんてはく奴はいない─にしまおうとした委員長が、弁解するように両手を顔の前で振った。

 分かってるよ。一々予想通りの反応しかしない奴だな。

「対木さん、結構意地悪……」

 今更気付いたのか。遅いな。

 というか、こいつはいつまで着いてくるつもりなんだろう。
 教室の鍵を持っているのがこいつである以上、私が着替えるさっきまで一緒に居たのはわかるが、着替えたのだからもう着いてくる必要はないのに。

「そんな事言わなくても……」

 そういううじうじしたところが尚更癪に触る。


 結局鍵を体操ズボンの左ポケットにしまい、じめじめと情けない表情を浮かべる委員長と共にマラソンをすることになった。

 先ほども言ったとおり、もうこいつが私についてくる必要はないわけで、というか私がこいつをついてこさせる理由がないわけで。
 にも拘わらず私が未だにこいつと共に走っている理由といえば、私側からすればまぁ、一つしかないわけだけれど。

 ……。
 ……、……。

「それでね。だから対木さん、結構クラスで話題になることがあるんだよ」
「……」
「対木さん可愛いし、ミステリアスだし」
「……」
「対木さん?」
「……」
「対木さん、大丈夫?」
「……、見れば、分かる、でしょ」

 大丈夫じゃねぇ。

 半ば死にそうになりながら走っている私を心配しているのかいないのか、べったりと併走する委員長。
 既にトップ集団はおろか、下位集団からも引き離されていて、視界の先には遠く数人が見える程度だ。

 トラック周回ではなく、校内マラソンとか殺す気か。

 溜息を吐きたい所だが、そんな余裕すらない。

「対木さん、あんまり運動得意じゃない……?」
「違う、運動が、嫌いな、だけだ」
「どっちも一緒じゃあ」

 返答するのも面倒なので、放っておく。
 この小さな体の体力ゲージくらいぱっと想像がつくだろう。
 むしろ小ささでは殆んど変わらないはずなのに、さして疲れた様子を見せていないこいつがおかしい。

 実はバリバリの運動部だったりするのか。

「いや、私は文化部だよ。地学部なんだ」

 そんなマイナーな部活潰れてしまえ。


「地学部、楽しいんだよ?」

 知らねぇよ。

「色んな土地の地層とか調べたりするとね、過去に何があったんだーって分かるんだよ?」

 興味ねぇよ。

 何が楽しくて自分が生まれてもいない昔の地理事情を知らなくちゃならんのだ。

「そうかなぁ……」

 そんなもんを知るくらいなら、疲れないで走る方法でも教えてくれ。

「それは難しいよぉ」

 全長何キロあるのかは分からないが、校内一周というからには五キロは優にあるだろう。十キロあるかどうかは悩む、そんなところか。
 初夏の足元、葉桜の季節だ。日陰はまだいいが、日向は暑い。走っているのだから尚更。

 地学について懲りずにまだ何か言っている委員長の言葉を右から左に流しつつ、ゆっくりと走り続ける。

「……、それにね。地学をちゃんと覚えると、設計も出来るんだよ。お家の設計図とか」
「……」
「テレビとかで見たことない? キャンバスみたいなのに、ぱぁっと設計図を書くの。自分がこんな家に住みたいなぁ、っていうのをさらさらって、書くの」
「……」
「だから資格も取りたいなぁ」
「……、……ねぇ」
「なに? 対木さんも、地学部興味ある?」
「全くない。そうじゃない」
「うん?」

 なんでそんな元気なのお前。

「ごめん……うるさかったかな」
「そうだね」
「あう」

 こいつにとってはジョギング以下のペースなんだろうが、私にとってはもうこれが限界だ。
 だから静かにしてくれ。


「対木さんには麻雀があるから、誘っても意味なかったね」
「……」

 私のあの大会での優勝の余波がこんなところにも。

「東海大会なんて凄いよ。新聞に名前も載って、全校朝会でも校長先生が褒めてたんだよ。対木さん、その日いなかったけど」

 表向きは体調不良で欠席という事にしたけれど、単純にそういうのが煩わしかっただけだ。

 テニスコートを右手、グラウンドを左手に、コンクリートを走る。
 この先の『ト』の字を本来ならば右に折れなくてはいけないのだが、もういっそ真っ直ぐいってショートカットしようか。

「駄目だよ、ズルは」
「うるさいな……」

 嫌々押し付けられた割に、委員長らしいことを言う。
 案外にむいているのかもしれない。

 まぁ、私には関係ないことだけれど。

「対木さんは……」
「……」

 少しだけ言いよどむようにして、あまり乱れていない呼吸を整えながら、再び続けた。

「いつもそうなの?」
「なにが」
「だから、その」

「……何にも興味なさそうだな、って」

 大分選んだな、言葉。


「ご、ごめんね」

 謝るくらいなら最初から言うな。

 結局ショートカットはせず、右手に折れる。
 本校舎と食堂を繋ぐ渡り廊下をくぐりながら、日陰に足を踏み入れた。
 もう一、二ヶ月すればここのプールも授業で使うことになるだろう。
 走るより泳ぐ方が尚更苦手な私にとっては、より頭が痛くなる話だ。

「でも、対木さん、いつもそうだから」
「別に」

 別に私は大層な人間じゃない。
 つまらない人生を生きてきただけで、
 くだらない人間に育ってきただけで、
 ミステリアスなんて言葉は買い被りで買いすぎな評価だ。
 私はもっと、取るに足らない語るに足らない、見た目通りに、見た目以上に、小さな人間でしかない。

「対木さん、自分を過小評価しすぎだよ……」
「正当な評価だよ」
「でも……」

 その先の言葉は、一分ほど出てこなかった。恐らく言葉を選んだのではなく、言葉を探したんだろう。

 複数ある選択肢から取り出すのが選ぶとうことで、
 何もない選択肢から用意するのが探すということだ。
 たかだか一、二ヶ月同じクラスにいただけで、私について選べるほど何かを感じ取れる付き合いではない。
 同時に、こいつについてどんな言葉をどこまで掛けていいのかなんてこと、私は知らない。

 だから、きっぱりと。
 思ったままのことを言う。


「委員長」
「……」
「そろそろ、鬱陶しい」
「……」
「もう、いいでしょ」
「……」
「……」

 ひとりにしてくれ。



 ごめんね、と何度目か分からない言葉をおいて、委員長は俯いて走り出した。


 駐輪場をぐるっと周り、最北部をゆっくりと走る。
 この日陰を抜ければ再び本校舎の近くで、校門やロータリーが見える。あとは良く分からない旧い木造校舎だったり小さい池だったりと、まぁ風情があるといえばそういえなくもない場所に差し掛かることになる。

「ちょっと言い過ぎなんちゃう?」
「別に」
「寂しそうな顔しとったで?」
「私の知ったことじゃないよ」
「酷いなぁ」
「……っていうか、なんでいるんだよ」

 案の定ナース服は帰っていなかった。
 いつになれば私はひとりになれるんだ。

「いやぁ、行く所なくて食堂から外見とったら、もこちゃん走っとるんやもん」

 見られてたのか。

「しかももこちゃんめっちゃ遅いやん。すぐ追いついたで」

 うるさいな。

 しれっと先ほどまでのにこやかな表情のまま、委員長と入れ替わってナース服が私の隣に陣取った。
 しかもその口ぶりからすると、私と委員長の会話も、ある程度は聞いていたようだ。
 まぁ、会話らしい会話はもとより最初からしてはいなかったけれど。

「うちも地学とやらは分からへんけど、それにしても冷たない?」
「良いんだよ」
「良くないやろ」
「良いんだよ……ところで」

 ご飯代なら返さへんで、と言われた。意外にしっかりと言うか、ちゃっかりしている。さすがは関西といったら叩かれるだろうか。

 まぁ、そんな事はどうでもいい。

「そうじゃなく。一つ、頼まれろ」
「うん?」

 日陰を抜けて、本校舎の横から正面へと走る。

 開けた視界の先では、まばらながらも生徒が同じく走っていた。


「対木さん、大丈夫?」
「生きてるよ……」

 苦しかったマラソンがやっと終わった。
 ふらふらと歩く私の肩を担ぐように委員長が支える。
 先ほど自分を鬱陶しいと跳ね除けた人間を心配するのは、もはやそういう性分というか、性格なんだろう。言っても詮無い事か。

 教室までどうたどり着いたかはあまり記憶にないけれど、机に突っ伏す。
 着替える気力も起きない。
 五時限目がなんだったかは忘れたものの、なんであろうと間違いなく私は寝る。

「五時限目は……古文だね」

 睡眠学習万歳。

「駄目だよ授業はちゃんと聞かないと……それに、せめて汗を拭かないと」

 ロッカー(と言うほど大きくはない。三十センチ四方のサイコロ状で、奥行きだけそれより十センチほど短い個別の荷物入れだ)から色々と取り出した。その内古文の教科書だったりノートだったりを自分の机の上に置く。
 同じく取り出したタオルで私の首の後ろから汗を拭こうとするが、そこまで頼んだ覚えはない。

「いや、いい」
「……でも」

 というか、汗を拭く気力も出ない。
 今この場にナース服がいなくて良かったと心底思う。
 もしあいつがいたら、ここぞとばかりに構ってくるだろうし、跳ね除ける体力もない。
 というか、まさか、授業にまで忍び込んでこないよなあいつ。
 破天荒とかそういう問題じゃないぞ。

 タオルを持ったまま、委員長は固まっている。若干沈んだ表情なのは、やはり私に鬱陶しいといわれたのを気にしているのだろうか。
 いちいち他人のいう事など気にしなくてもいいのに。お人よしにもほどがある。

「……委員長」
「あ、うん」

 聞こえないように溜息を吐く。

「洗って返すから貸して」
「あ……」
「……」
「……うんっ」

 何が嬉しいんだろう、まったく。


 残った僅かな体力で汗を拭いた私は、今度こそ力尽きて机に突っ伏した。
 窓際、というか、窓側最後尾で体操服のまま頭にタオルを掛け死んだように眠る私がいかに限界かを察してくれたのだろう。古文の教師に起こされることはなかった。
 あるいは起きる様に言われたけれど爆睡していて、諦められたという可能性も決して低くはないが……。

 まぁ、いずれにしても。私としたら、起こされないで済むなら、それに、越した、ことはない──


 ──夢の中にいる、とすぐに気付いた。

 夢とは記憶の整理だという話をどこかで聞いたことがある。あるいは、本で読んだ事がある。
 今まで体験したこと、経験したことを脳がパンクしないように、整理整頓しているとかなんとか。
 もしくは、無意識に感じ取ったことを、夢を通じて自分へ発信しているという話もある。

 だとすれば、今目の前に広がっている光景は紛れもなく過去の私のものであり、つまりはここは夢の中なのだ。


『ツモ、4,000オール』
『ロン、5,800は6,100』
『リーチ』


 振り返るまでもない。東海大会だ。
 振り返りたくはない、東海大会だ。
 いや、少し語弊があるか。
 この大会は、別段そこまで苦い記憶ではない。
 この大会自体は、別に私にとって嫌な経験ではないのだ。


 始まりといえば、始まりなのだけれど。


 夢の中の私の顔は見えない。私を私が、後ろから見ている。
 電灯も照明もない、周囲は一切暗闇に包まれて、足元さえ見えない。ちゃんとその場が地面についているのかも危うい。
 何せ夢の中なのだから、地面と言うものがなくても不思議ではない。
 そしてそんな真っ暗闇にも拘らず、卓と私以外の表情は何故か確認できるのだった。
 どれもこれも苦虫を噛み潰したような表情。
 まぁ、劣勢に立たされているのだから、そういう表情にもなるだろう。
 点棒は……分からない。ぼんやりとしていて、良く見えない。
 尤も、これが史実にのっとった夢ならば、三人の点棒のほとんどは私が抱えていることになるけれど。


 牌が打たれる音が何度か続いた後、それが止まる。
 見るまでもない。私が和了ったのだ。
 そして再び、次の局が始まる。
 私が和了り、局が始まる。
 それが続く。何度も続く。

『リーチ』

 何度かかっただろう言葉が、再び暗闇に転がる。
 嫌な声だ。
 私の声だ。

『もうすぐだよ』

 夢の中の私が笑った。
 私に背を向けている私が笑った。
 笑ったと、分かった。

『もうすぐ、楽しいことが起こるよ』

 楽しいことなんてない。
 楽しかったことなんてない。

『本当は、気付いてるくせに』

 にこりと、私が、私に、笑った。
 殺してしまいたくなる笑顔だ。
 死にたくなってしまう笑顔だ。

 私に笑顔は似合わない。
 私に幸せは釣り合わない。

 だから私は、ひとりでいたいんだ──


 授業終了のチャイムで、目が覚めた。
 前が見えない……のは、タオルのせいだった。アホか。
 ずっと同じ方向を向いて突っ伏していたからか、首が軋む。
 軽く首を回す。この明らかに体に悪いであろうポキポキという音が心地いい。

「対木さん、良く寝てたね……」

 隣の席の委員長も感嘆していた。

 欠伸を一つし、大きく息を吐く。涎は机に……ついていないようだ。良かった。
 さすがにそれはみっともない。
 そのまま机の上の消しゴムの欠片やらを手で払いのけ、ようやく授業から開放された喜びを全身で噛み締める。

 ああ、風が気持ち良いなぁ。
 っていうか着替えないとなぁ。
 面倒だなぁ……。
 どうせ掃除の時間だし、もう少しこの格好でいいか。
 部活前に着替えれば大丈夫だろう。

「委員長」
「うん?」
「なんで生徒が掃除しないといけないんだろう」
「なんでって言われても……」

 我ながら、愚問だった。

「えぇと、生徒の自主性とか、責任とか……」

 律儀に、しかも模範的な回答をしようとする委員長だけれど、多分にそんな綺麗な理由ではないと思う。
 単純に経費削減だろう。間違いなく。

「うぅん……」

 さすがに委員長も否定は出来ずに苦笑い。
 私立で割と大きい高校なので、それくらい業者を雇えそうなものだけれど、まぁそんな事を私が言っても仕方ない。

 とっとと隣の空き教室に行って、掃除道具を取ろうか。


 隣の空き教室は、まぁ文字通り空きなので、鍵はかかっていない。
 用途として何をしているのかは今一謎で、ここで何かしたことは入学してから未だにない。
 単純に壊れていて使うと危ない椅子だったり、落書きやらなんやらで綺麗でない机だったり、まぁそういう不良品のとりあえずの置き場になっているようだ。

「……」
「対木さん?」
「いや、なんでもない」

 首をかしげる委員長を制して、掃除用具入れの取っ手に手を掛ける。
 手を掛けて、

 開け──

 ──ると。


「……」
「きゃ、きゃあああああっ!」


 どさりと。

 私に向かって、何かが倒れてきた。
 咄嗟に私が抱えたそれは、人の形をした、

 というより、人そのものだ。

 いや。その言葉も正しくない。

 何故ならそれは、既に死んでいた。

 人だったもの──分かりやすく、死体と言うのが一番簡潔で、的確だろう。


「委員長。多分私の教室にナース服がいるから」
「う、うん?」
「そいつ呼んできて」
「ナ、ナース?」
「いいから」
「う、うん。分かった」

 委員長が教室を出る。すぐにナース服が来るだろう。



『楽しいことが、起こるよ』


「……」

 深く、深く溜息を吐く。舌打ちも一度。

「……楽しくねぇよ」

 本当に。

 私の人生は、楽しくない事が良く起こる。

眠いしきりが良いので一旦寝ます。また明日か明後日に。


これが第一部ってことでいいのかな?

>>51
そうです



「率直に聞く。死体視れる?」
「っていうと?」

 空き教室の外ががやがやとうるさい。委員長が悲鳴をあげたのが原因だろう。
 その様子からすると、呼ばずとも教師が来る可能性は高く、そしてそうなれば警察を呼ぶことになる。
 恐らくそうなれば、その間この空き教室には入れなくなるだろう。
 だから手短に、今のうちに情報を集めることにした。

「ごめんね。私が叫んじゃったせいで」

 まぁ、誰だって死体を見れば普通は驚く。

「対木さんはそんなに驚いてなさそうだったけど……」
「たまたまだ」

 委員長には入り口で待機してもらっている。死体なんて見たくもないだろう、こちらに背を向けてそんな事を言った。

「やっぱり先生呼んだほうが……」
「もう少し待って。で、視れる?」
「……やってみるわ」

 やってもらわなくちゃ困る。何のためのナース服だ。

「別にこういう為に着とるわけちゃうんやけど……」

 ぶつくさと言いながら、死体に触る。
 とはいえ、手袋なんて用意の良いものもない中、素手で死体に躊躇なく触れるあたりはやはりある程度は慣れているようだ。

「慣れたくないなぁ、そんなのぉ」

 おっとりとそんな事を言う。
 別段死体に慣れてもどうでもいい気もするが。
 慣れれば驚かないで済む。
 驚かなければ何も聞かれることはない。
 いつも通り。何もないいつも通りでいられる。


「んー……」

 死体の耳の後ろや顎を触って何かを確かめるナース服。
 次いで手首や足首を握ったので、恐らくその何かというのは死後硬直だろう。

「うん。顎が少しだけ硬くなり始めてるなぁ。二時間経つくらいかなぁ?」

 つまり死んだのは、昼休みくらいか。
 もしかしたら三時限目の最中かもしれない。

「授業中? この子授業出てへんかったの?」
「知らない」

 ただ、見た目は派手な金髪で、見ると爪もきっちり遊んでいる。あまり真面目なタイプではなさそうだ。

「まぁ、そうかもなぁ」

 死体を自分側に倒して、首の後ろを見る。

「んー、死因は……これやろなぁ、多分」

 ナース服が指差した首筋を見ると、二つの穴が並んで開いていた。
 穴はそれぞれ直径数センチ程度で、それが首の後ろから前まで貫通している。

「何で刺したかは分からんけど、貫通するほどの力やから相当やで」

 ここは女子高だ。そんな馬鹿力を持った奴なんてそうはいない。

「女子やと難しいちゃうんかな」

 首の骨を上手く避けたのだとして……というか、実際避けたのだろう。
 そうだとしても、首を貫通するほどの力となると確かに相当なものが必要だ。
 この教室にそんなものはないし、変な物を持ち歩いていたら廊下を歩く生徒や教師に見られるだろう。

「……教師、か」


「うん?」

 ふと思った。
 この学校の生徒は皆女子だ。
 だけれど、教師も皆女性と言うわけではない。
 中には、男子教諭も存在する。
 男性で、しかも大人だとしたら、この傷跡を残すことも可能なんじゃないだろうか。

「んー……まぁ、」

 確かに、といいかけた所で、空き教室の扉が開いた。

「何の騒ぎだ?」

 教師のお出ましだ。ぺこぺこと頭を下げる委員長。
 お前が謝っても仕方あるまいに。

 しかし、時間制限が着てしまったなら仕方ない。
 すぐに私は事情を説明して、警察を呼んでもらうことにした。

「分かった。お前達も廊下に出なさい」

 教師が来るまで警察を呼ばなかった理由はこれだ。
 最初に呼んでいれば、恐らくもうじきに警察が到着して、この部屋には入れなくなるだろう。
 教師が着てから、その教師に事情を説明することで、警察を呼ばせにもう一度だけ追い払える。

「もこちゃん」
「ん?」
「まさか、事件解くつもり?」

 そう言うお前こそ。

 これが事件だって気付いてるじゃないか。


 そもそもとして、空き教室の、しかも掃除用具入れで死んでいた時点で、これは殺人以外ありえない。
 こんな狭苦しい場所で自殺する奴はいないし、見たところ凶器らしいものも見当たらない。
 だとすれば、誰かが被害者をここに押し込んだ上で、凶器を持ち去ったと見るのが妥当だ。

「そうやけど……酷いわ」

 それは殺したことか? それとも、閉じ込めたことか?

「どっちもに決まっとるやろ」

 死体をナース服に任せて、私は一度立ち上がる。
 床を観察していると委員長が控えめに声を絞り出した。

「あのぉ……出た方がいいんじゃ」
「委員長は出ても良いよ」
「そうだけどぉ……」

 今にも腰が抜けそうな情けない声だ。もしかしたら本当に腰を抜かしているかもしれないと思い、チラッと委員長を確認したが、とりあえずは二本の足で立っていた。
 尤も、こちらに背を向けてはいるが。

 再び視線を床に落とす。
 創立何十年だったかは知らないが、小さな旧校舎以外はほぼ全てフローリング(だと思う)で出来ている。
 いくらか傷やヘコミがあるとはいえ、それは本当に些細なものなので、床の血痕を拭くことは容易だろう。
 勿論後で鑑識がちゃんと調べ、ルミノール反応検査をすれば、血痕は分かるけれど。
 血痕は厄介で、いくら綺麗に拭いても一度染みたら消えてくれない。

「……詳しいんやね」

 別に、たまたまだ。


「それよりそっちはもう何か出ない?」
「そやね……」

 少しの沈黙の後、ナース服が答える。

「首筋刺したんにしては、出血が少ないかなぁ」
「……ふぅん」

 首には皆も一度は聞いたことがあるだろう、頚動脈がある。
 そこを刺すととんでもないほどの出血をするので、返り血を浴びると言う点では、あまり刺すべきでない場所のうちのひとつだ。
 首の骨を避けて刺している点といい、今一良く分からないな……。

「考えられる理由としては?」
「……ちょっと待って」

 ナース服が何かに気付いたようだ。
 委員長も何かに気付いたようだ。

「あの、対木さん、駄目です、先生が」
「……ちっ」

 タイムリミットか。
 仕方ない、退室だ。

「行こう、委員長」
「あ、うん」
「ちょっと、うちもー」

 教師に怒られる前に空き教室を出る。先ほどやってきた男性教諭が何か言いたげな表情だったが、視線を逸らして誤魔化す。

 そして警察が来るまでの間、今度こそ空き教室は立ち入り禁止になった。


 自分の学校、ましてやすぐ隣の教室で同じ学校の生徒が死んだという衝撃は、自分の教室に戻った時には既にクラス中に広まっていた。
 この様子だと少なくとも一年のクラス、下手をすると他の学年にもニュースとして広がっているかもしれない。

 さすがにすぐ隣で警察が捜査をしているのに、暢気にホームルームなんて出来ないのか、一年は皆体育館へ集まるように言われた。
 そしてその処置は概ね正しい。

 生徒で廊下がごった返しては、警察もそう捜査しづらいだろう。
 かといって、殺人であるにも拘らず生徒をあっさり帰すわけにもいかない。
 今この場においては、私たちは生徒であると同時に、いやそれ以上に、事件関係者──いや。
 平たく言えば、容疑者といえるのだから。

「対木」

 担任の男性教諭に呼び止められる。女子高の教師なんて、よほどの女好きか女嫌いでないと大変だろうに。なんだってこんな所に就職してしまったんだろう。
 格好こそスーツだが、大きく筋肉質な体躯に短く刈り揃えられた髪。
 ジャージに竹刀でも持たせた方がよほど絵になる面だ。
 とはいえ、昨今はやたらと体罰に厳しい時代である。
 竹刀なんてもってのほかで、頭を小突くだけで懲戒免職になりかねないこのご時勢に、そんないかにもな格好していたら、立っているだけでPTA会議コースだろう。

 全く、教師ほど割に合わない仕事もあるまい。

 体罰と教育の線引きを間違えると碌なことにはならない。
 体罰と虐待の線分けを間違えると碌なことにはならない。

 学校にナイフや拳銃を持ってきた生徒がお咎めなしで、それを叱った教師が処罰されるなんて、皮肉を通り越してもはや笑い話だ。


「聞いてるのか?」
「なんですか」

 実の所この男性教師が自分の担任だと知ったのはつい先ほどのことである。
 ホームルームなんて面倒なもの、気が向いた時にしか出ない。
 そして気が向いたことは今まで一度もない。
 なので、私としてはこうしてまともに対話するのは初めてだったりする。

「お前は職員室だ」
「……」

 理由は聞くまでもない。現場で色々動いていたからだろう。
 そりゃああれだけ現場で好き勝手やっていれば、どんな馬鹿でも容疑者リストに入れる。
 なので別段驚くことでもなかった。
 むしろ今すぐにでも来ないほうがおかしいくらいだ。
 まぁそれもなんとなく察しがつく。

 事情を知らない一般生徒の間では、あくまで生徒が死んだ、という事だけが広まっている。
 死んだ生徒が誰かと言う噂も広まっているが、それは良く考えれば今日この場にいない生徒を適当に羅列していけばどれかは必ず当たるわけで、言い換えてみれば噂の域を出ていない。
 委員長だったらあの金髪が誰かくらいは分かるだろうが、隣の席で震えている彼女から話を聞くのは難しそうだ。 

 なのであの死体が誰かという事は一旦おいておくにしても、肝心なのは、それが殺人事件として噂で広がっていないということである。
 どうやって死んだか、凶器は何か、そもそも殺人か自殺か事故か。
 それらが未だ生徒の間で広まっていないのは、まぁ、良いことと捉えるべきだろう。  

 殺人事件という事は、被害者と共に加害者がいるわけで。
 自分たちの中に人殺しが居ると言われたら、良い気分ではない。
 だからこれは事実でも、広まるべきではない。


「少し話を聞く程度だそうだ」
「……」
「あと、普通にそれとは別に説教な。ホームルームに出ろ」
「……」

 それは予想していなかった。
 今日じゃなくて良いだろ。


 面倒なことになった、と内心で溜息を吐きながら鞄を手に取る。
 というか、未だに着替えられていないんだけれど。
 職員室に行く間にトイレで着替えれば良いか……。

「委員長、ちょっと良、い……!?」
「対木さん!」

 委員長に話しかけようとした瞬間、席を囲まれる。
 誰だこいつら、って。クラスメイトか。

「対木さん死体見たんでしょ!?」
「自殺なの!?」
「誰が死んだの?」
「……」

 うお……。

 矢継ぎ早に質問され、戸惑ってしまう。
 そんなにいっぺんに聞かれても答えられるわけないだろうに。
 順番に聞かれても答えるつもりはないけれど。

「……」
「やっぱり言えない?」
「……まぁ」
「じゃあ自殺かどうかだけ」
「私は警察じゃない」

 あのナース服の視た内容がまるきり間違っているとは思えないが、それでも見落としや詳しく調べないと分からない事もあるだろう。
 なので、あまり下手なことは言えない。

 というか、あいつはどこに行った。
 いなくなったり現れたり、忙しい奴だな。


 あのナース服については、放っておく。
 どうせ職員室に行くまでの間に現れるだろう。
 それより今は、この垣根をどう掻き分けるかだ……。

 皆事件に興味津々と言った様子で、私に質問を浴びせる。
 結局の所、皆刺激に飢えているのだ。
 自分の学校で生徒が死んだなんて、一生に一度体験するかどうかの出来事だから。

 話すか話さないか迷ったが、いずれ事件については公になるだろう。
 当たり障りのない程度に摘むくらいなら、構わないか。

「……金髪」
「え?」
「死んだのは金髪。名前は知らない」

 生徒手帳でも持っていればよかったのだけれど、あいにくそういう類のものは持っていなかった。
 死体から身元がわかるのは時間の問題で、犯人が持ち去る理由はまるでない。
 だとすれば、最初から生徒手帳は持っていなかったと見るべきだ。
 私服だった被害者が財布も持っていなかったのは少しだけ気にはなるが、偶々鞄に入れていたのかもしれないし、それについては今のところはなんとも言えない。

 そういえばナース服、何かを言いかけたところで聞けなかったな……。
 後で聞いておこう。

 そんな私の思考の外で、私を囲む生徒からざわめつが広がる。

「金髪って……じゃあ」
「そうだよ、間違いないよ」

 お嬢様高校とは言わないまでも、そこそこに偏差値のいい高校だ。
 金髪に染めている人間など、多くはない。

 ……。
 ……、私は地毛だよ。うるさいな。


 しかし、そうか。
 よりによって、死んだのは、

「このクラスの人、なんだね……」

 誰かがポツリと呟いた。

 それを火種に、あとは教室中がざわめきながら適当にしゃべりだした。
 おかげで質問攻めからは介抱されたが、人と言うのは常にこんなものだ。

 対岸の火事? いやいや。
 同じクラスの人間が死んだんだ。対岸なんて遠いものではないだろう。
 それとも、同じクラスの人間はあくまで同じクラスなだけで、それ以上でもそれ以下でもないのか?

 ……。
 そうだろう。それで正しい。
 結局、同じクラスだろうと同じ学校だろうと、いやいや友人だろうと親友だろうと、自分以外は皆他人だ。
 誰かが死んだ。
 でも、自分は生きている。

 他人の死は自分の生の比較でしかなくて、
 他人の死は自分の生の証明でしかないんだ。
 それが身近であればあるほどに。
 それが親近であればあるほどに。

 世界の裏側で人が死んでも、誰も心を痛めない。
 だけれど自分の目の前で自分の知る人が死んだら、それは悲しむ材料になる。
 悲しんで、哀れんで、そして安堵する。
 自分ではなかったと。自分に近い誰かが死んだだけだと。

 火事は近ければ近いほど、心に残る。
 火傷をしないギリギリの距離の方が、火が良く見える。


 そこに人は命の優劣を見る。 


「……なぁ」
「……?」

 すっかり騒ぐことに夢中になったクラスメイトをやり過ごし、教室を出ようとしたところで、再度呼び止められる。
 まだ何か質問があるのだろうか。鬱陶しいから一纏めにして欲しかった。

 振り返ると、目つきの鋭い茶髪の女子。
 両耳にはピアスをしている辺り、死んだ金髪と知り合いなのかもしれない。
 いや、人を見た目で判断するのはよくないけれども。

「いや、いいよ。確かにあたしは不真面目だ」

 そうですか。
 サバサバしていて、逆に好感が持てる。
 全ての人間がこれくらいだったらいいのに。
 どいつもこいつも、人に馴れ馴れしすぎる。

「で。死んだのは、その。本当あたしのダチなのか?」

 知らねぇよ。
 せめて何か顔写真はないのか。

「あぁ、悪い。……これで良いか?」
「……ん」

 携帯に写っていたのは、確かに私が見た金髪だ。
 顔も恐らく一致する。

 首を縦に振ると、深く溜息を吐いて椅子に座った。
 委員長の隣の席、私の二つ隣だ。

「……」


「もこちゃん、モテモテやったなぁ」

 廊下に出た瞬間、ナース服がお出迎えしてくれやがった。
 本当にこいつの行動パターンは読みにくいようで読みやすい。

「別に、鬱陶しいだけ」
「素直やないなぁ」
「率直な感想だよ」

 隣にナース服、一歩後ろに委員長を連れて廊下を歩く。
 委員長についてきてもらったのは他でもない、職員室の場所が分からないからだ。

「いやもこちゃん、それはどうなん……」

 ナース服の呆れた顔。

「うるさいな。それより、さっき現場で言いかけたことがあるでしょ」
「ああ、うん」

 先ほどはタイミングが悪く教師が着てしまったので聞けなかったので、今聞いておく。
 私が思うに、最後のピースはこれで揃う。

「えっとな。死んだ子なんやけど」

 廊下を歩く。

「良う見たら首だけやなく、後頭部も打ってたわ。それも結構強く。せやから死因は、ちょっとあの場で見ただけやと分からんなぁ」
「……」

 そうか。

「ごめんなぁ」
「いや」

 十分だ。
 むしろ、それが聞きたかった。

「それじゃ、行こうか」

 ナース服と委員長がきょとんとして、顔を見合わせる。
 意外といいコンビかもしれない。

「行くって、どこに」
「決まってるでしょ」

 殺人事件を解きに。


 職員室へ。

一応これで読者視点でも事件を解けるようになりました。
精一杯格好つけて言うならばここまでが事件編です。
まぁ、そんな大層な何かがあるわけでもなく、「いや普通に事件の真相はこうだろ」とほとんどの方がお見通しだと思います。
しかも解いた所で何もないと言う。

続きはまた明日以降という事でお願いします。


「対木もこさんですね?」
「……」

 無言で頷く。
 職員室の、パーテーションで区切られた一角。置かれているソファに私と委員長が隣り合って座り、警察手帳を見せた男性二人も、こちらに向かい合うように座った。

 片方は若く、もう片方はやや中年といった、典型的な二人一組だ。
 ドラマだったら間違いなく若い方が突っ走り、それを中年の方が長年培った刑事の勘とやらで正しい方向へ軌道修正するんだろう。 

「うちは立ったままええですよー」
 
 座ろうにもソファはこの四つしかなく、必然的にナース服と担任の男性教師は立ったままになる。
 委員長がナース服に席を譲ろうとするが、この学校の生徒でないナース服を警察の目の前に置いたら、いろいろと説明が面倒なことになるのでそれを手で制す。
 ナース服も一応は自分の立場が分かっているらしく、同じくそれを断った。

「君と、いや、君たち三人は、第一発見者だということで、事情を聞きたいので呼びました。大丈夫かな?」

 私の正面に座った若い刑事が、そう切りだす。

 その“大丈夫”というのが、どういう意味での“大丈夫”なのかは、聞くだけ野暮だろう。

「君はまだしも、隣の子が少し辛そうだからね」
「ごめんなさい……」

 現場の様子を思い出したのか。膝の上に置いた両手が少し震えている。
 もし泣き出すようだったら借りたタオルでも返そうか。

「いやもこちゃん、それはどうかと思うで……」

 分かってるよ、冗談だ。

「……君は、随分落ち着いてるね」
「……」

 委員長から話を聞くのを諦めたのか、それとも最初からその順番で聞くつもりだったのか。警察は私に的を絞ったようだ。


「君は、聞いたところによると、現場で遺体に触れたそうじゃないか」
「……」

 厳密に言えば死体を視たのは私ではなくナース服なのだけれど、薮蛇でしかないので黙って頷く。
 どう噂が広まったのかは知らないが、どうやら警察は死体を視たのが私だと思っているようだ。
 訂正してもいいのだけれど、そうするとナース服のことについて語らなくてはいけない。
 別段ナース服についてかばうつもりはさらさら、毛頭もないが、話が横道にそれるのは本意ではない。
 なのであえて私はそれを指摘せず、そのままにしておくことにした。

「そういう事はしちゃいけないよ。警察の仕事だから」

 ごもっともな指摘である。こればかりは粛々と受け入れるしかあるまい。

 それに、私やナース服が殺人事件だと気付いているんだ。当然警察だってそれくらいのことは分かっているだろうし、だからこそこうして私たちを個別に呼び出しているに違いない。

 犯人が第一発見者を装うというのは、よくある話。

 そういう意味では、被害者と同じ一年で、第一発見者で、死体に触れた唯一の人間(警察からすれば)という私は、疑ってかかるのが自然だ。疑わない方が無能である。

「それに、そういう事をしたせいで、君がいらない疑いをかけられることだってあるんだ」

 私だって進んで現場を荒らそうとは思っていない。
 今後こう言うことに巻き込まれることは恐らくないと思うが、今回ばかりは疑われることを承知で、いや、そうされることを対価に、現場に立ち入ったのだ。

「それはどういうことかな?」
「……」

 じっと見据えられる。
 言葉は返さない。

「どうしても現場に入る必要があった、という事かい?」
「……」

 言葉は返さない。

「現場で何かをする必要があったのかい?」
「……」

 言葉は返さない。


「……まぁ、そんなに前のめりになるな」

 と。
 ここまで唯座っていただけの中年の刑事が、ゆっくりと口を開いた。
 案の定私が想像したとおりに、見事なタイミングである。

「お嬢ちゃん、随分肝が据わってるなぁ」

 出されたお茶をずずっと啜り、のんびりと呟く。
 縁側で俳句でも読みそうな穏やかな口調だが、穏やかなのは口調だけだ。
 中年刑事の目は、優しそうに見えて、その実ずっと深い。
 若い刑事が槍のような直線な瞳なら、この刑事は罠のような不形の瞳だ。
 或いは、沼のような。
 沈んで、沈みきって死ぬのを待つような、そんな瞳。

 だけれど、私には関係ない。
 もとより私の瞳は死んでいる。
 楽しかったことなど一度もないこの人生のおかげで。

「たまにはそうだなぁ、若い子の意見も聞いてみるか」
「……」
「……嬢ちゃん、現場を見てどう思った?」
「……」

 これは少し意外な質問だけれど、少し考えてそうでもないことに気がついた。
 今の所事件に最も近いのは私で、言い換えれば私が最重要容疑者だ。
 つまりは私から何かしらの重要な証言を聞きだしたいのだ。
 重要な証言。
 重大な失言。
 犯人しか知りえない、事件に関する内容。
 それを、引き出したいのだ。
 若い子の意見などと、前もって油断させつつそういう風に足元に罠を張る。
 なるほど確かに、若くない刑事ならではのお言葉だ。


 だけれど。
 殺人犯に、若いも老いもない。
 将来なんてない。更生なんてない。
 生涯なんてない。後悔なんてない。
 殺人犯に将来なんていらない。
 殺人犯に更生なんていらない。
 余命一年であろうが、生後一年であろうが、
 一度人を殺した人間は皆全て、未来なんてものはなくていい。


 死んでしまえ。


「そんなに緊張しなくて良いさ。ちょっと聞いてみたいだけだ」
「殺人事件」

 若い刑事の肩が少し動いた。中年の刑事は、変わらなかった。

「……どうしてそう思う?」
「死体の位置と凶器」

 ナース服との会話を振り返る。

 やはりこの事件が殺人だと判断する二つの要素は、死体の位置が掃除用具入れということと、凶器が見当たらないという事だ。
 それくらいのことは警察だってすぐ分かるだろうし、だからこれを答えても別にどうなるわけでもない。
 強いて言うなら、話が先に進むだけだ。
 話が進んで、終わりに近づき、犯人に近づくだけだ。

「なんで被害者はあんな位置で死んでいたんだろうね」
「犯人が運んだ」
「まぁ、そうだね。あの部屋で隠す場所と言ったら、そこくらいしかないからね。まさかえっちらおっちら廊下を運ぶわけにもいかないし」
「……」


「じゃあ被害者は、あの部屋でどうやって殺されたんだろう」

 いよいよ事件の核心に触れる。
 警察は、まだ凶器が何か特定できていない。
 もしここで私が凶器が何かを言い当てれば、それはつまり、“犯人しか知りえない情報”を私が持っていることになる。

「……」

 一度口許に手をやって考える。

 実の所、凶器については分かっている。
 そして、犯人についても分かっている。
 だけれど、それを出鱈目の順番で言っては、上手く受け取ってもらえないだろう。
 まず最初に凶器から挙げて、次に犯人を告げても、私が言い逃れをしていると捕らえられかねない。
 何しろ、私は今最重要参考人なのだ。
 一つの失言が、法廷での証言に繋がるともいえなくもない。
 他人を信用してもろくな目に合わない。
 信用は裏切り。信頼は騙り。
 いつだって自分以外の他人は敵。
 自分を守るのは自分。
 自分を殺すのは他人。

 ……、自分を殺すのは自分でも、あるけれど。

 生まれることは容易い。
 生き続けるのは難しい。

 私は自分だって、信頼していない。


「直接の死因がどっちかは分からないけど。首の刺し傷が先なのは確か」
「その根拠は?」
「首を刺されたから、被害者は頭を打った」
「……あ。そうか」

 声をはさんだのは、ナース服だった。

「首を刺されて、被害者は転倒したんや」
「そう。それで──」

 ──床に頭をぶつけた。

 普通は膝から崩れ落ちるものだろうけれど、必ずしもそうとは言えない。
 被害者と犯人がもみ合ったのかもしれないし、あるいは突き飛ばしたのかもしれない。それに関しては本当に憶測で、そして蛇足だ。

「そうだね。あの教室の床に、比較的最近出来たヘコミがあった。そこからルミノール反応も出たし、それで間違いないだろう」

 鎌カケだったのかもしれないが、考えても詮無いことだ。
 あまりに私が事件と無関係の方向の発言をしたら、それはそれで疑いを強めることになるだろう。
 以前私が第一容疑者という事には変わりないが、それを拒む理由もない。

 委員長は、震えたままだ。

 震えていても、死人が生き返るわけでもあるまいに。


「じゃあ、被害者は何で首を刺されたのかな」
「その前に」

 中年刑事の言葉を制す。
 それを言う前に、一つ用意すべき段階がある。
 殺人事件の重要な要素として、凶器、アリバイが挙がるだろうけれど、より大事なものだ。

「ああ……動機か」

 小さく頷く。
 まるきり何の動機もなく人を殺す人間はいまい。
 病気の親を救うためというお涙頂戴な大層な内容だろうが、遊ぶ金が欲しいと言う単純な理由だろうが、どれも等しく動機としては同列だ。
 無差別殺人といえど、“誰でもいい”と言う理由がある。

 人を殺したかったという理由は、十分に動機になる。
 なんとなくでも唯うざかったからという理由もまた、動機だ。
 本当に何の理由もなく、ただ気がついたら人を殺していたなんてことは、ない。

 精神鑑定? 知らねぇよ。
 そもそもとして、人を殺す人間は皆異常で異物だ。
 殺人をする人間は皆多かれ少なかれ心神喪失している。
 程度の問題なんかない。重度の問題なんてない。
 だから重度の心神喪失だけをかばうな。もしかばうなら、殺人犯は皆無罪にしろ。
 それが出来ないなら、全員死刑にしろ。


 自分で人を殺したくらいのにまともでいられない神経なら、生きていても真っ当な道は歩けないのだから。
 だから最初から、死んでしまえばいい。
 生まれてくるな。
 迷惑だ。


「動機……分かるのかね?」
「……」

 答える代わりに、私は視線を横に移した。
 刑事ではなく、横に。

 先ほどから震えている、委員長に。

「……え?」

 先ほどから震えている、殺人犯に。

「対木さん、な、なにを」
「虐められてたんでしょ」

 びくりと大きく、肩を震わせた。

「な、なにを、なんで」

 ここまで動揺していたら、私が何をしなくても警察に任せていい気もするけれど。

 まぁ、容疑者として、義務は果たそう。権利を貰おう。
 容疑を晴らすという義務と、
 引導を渡すと言う権利を。

 身にかかる火の粉は払う。私は火傷はしたくない。

 ……あぁ。なんとなく分かった。
 中年の刑事の瞳を、つい先ほどまでどこかで見ていたと思ったけれど、それは、委員長の目だ。

 そうだね。
 そうれもそうか。
 だって委員長は。

 最初から、私を犯人にしようとしていたのだから。


「委員長さ。机、新しいよね」
「……っ」
「新しいだけじゃない。机の中、何も入ってない」

 昼休み、私が体育着に着替える時。私が見た委員長の机は綺麗だった。
 空き教室に置かれた古い机。
 壊れたものの中には、落書きやらで汚されたために交換されたものもある。

「そ、それが私の机だったなんて、言えないよ」

 精一杯の反論。

 担任の教師もナース服も、口を少し開けたまま棒立ち。
 担任からすれば、自分のクラスで虐めがあったと言う事実をどう噛み砕くかに悩んでいる所だろう。

 気付いていたのだとすれば見逃していたことになるし、
 気付いていなかったのなら見過ごしていたことになる。

 いずれにしても、どちらにしても、教師として苦しい心持なのかもしれない。
 もしかしたら、事件が公になれば、その責任を取らされるかもしれない。
 まぁそれは私の知ったことではないので、放っておく。

 ナース服については、今一なんとも言えない。
 単純に、先ほどまで一緒にいた人間。しかも弱弱しい委員長が犯人だと指摘されて、驚いているのかもしれないが……だとしたらその驚きは間違っている。
 たかだかナース服にとっては事件現場で一緒になった程度で、信じるに値しない関係だ。
 ましてや、委員長の人となりなんて、どうでもいい。

 屈強だろうと脆弱だろうと、人は人を殺す。
 数分だろうと数年だろうと、人は人を疑うべきだ。
 


「五時限目の前。私にタオル貸したよね」
「……」

 委員長は答えない。私の言葉を反芻しているのか、それとも反論しようとしているのか。
 分からないが、怯えるように震えた身体の中で、瞳だけが光っていた。

 きっと人が人を殺すときは、こんな目になるのかもしれない。

「委員長はその時、ロッカーから五時限目の教材を出した」
「……それが、どうしたの」
「普通に考えて、一時間毎に前の教材をしまって次の教材をロッカーから取り出すのは手間がかかりすぎる」

 机の中は空っぽで、教材は一切入っていなかった。
 五時限目の時も、そうだ。

 机を交換するほど落書きされたのだから、教材だって同じ目に遭っていてもおかしくはない。
 そして机や椅子は学校が取り替えてくれても、教材は自分で買わなくてはいけない。
 かといって、何度も買いなおしていては経済的に、何よりきっと、心に負担がかかる。
 だから予防として、机の中に物をしまうのをやめ、鍵のついている個人ロッカーを使うようになった。


「う、うう……」

 反論は、思いつかないらしい。


「もこちゃん」

 反論できない委員長の代わりに手を挙げたのは、ナース服だった。
 この状況で質問を出来る辺り、やはりこいつの精神構造は良く分からない。

「委員長が虐められてたとしても、今の話だけやとそれがあの金髪の子とは限らんちゃうかな」

 なるほど、妥当な質問だ。
 だけれど、それは一つの単語で解決できる。

「消しゴム」

 委員長が、目を瞑った。

「消しゴム?」

 ナース服のオウム返しにこくりと頷く。

 五時限目の終わりのことだ。
 居眠りから覚めた時、私の机の上には、消しゴムの欠片があった。

「それがどうおかしいん?」
「私はボールペンしか使わない」

 だから、私は消しゴムを使わない。
 そんな私の机の上に消しゴムの欠片があるのはおかしい。

「それは……、隣の委員長が手で払ったのが、乗ったんちゃう?」
「消しかすならまだしも欠片だ」

 委員長の性格からして、隣の机に消しゴムの欠片を飛ばすようなことはあまりしないだろう。


 それより考えられるのは、被害者の友人だと言うあの茶髪だろう。
 席で言うと、委員長を挟んで横一列に並んでいる。

「……、その、委員長の隣の子が、委員長にちょっかいを出してて」

 その流れ弾、もとい消しゴムが、私の席に飛んできたんだろう。

「でも、それと被害者の子がどう繋がるん? もし本当に委員長の隣の子が委員長を虐めてたとして、それで、その子と被害者の子が友達だったとして。
 それで被害者の子も一緒に委員長を虐めてたってことには」
「なるんだよ」

 虐めってそういうものだ。
 一対一で相手を圧倒するのは、虐めとは言わない。
 複数で相手を潰すから、虐めと言う。

「対木……。それは、本当、なのか」

 苦い表情で担任教師が尋ねてくる。
 本当に気付いていなかったのだとしたら、それは教師としては正しくはなかったのかもしれない。
 だけれど、後悔をしているだけ、人としては間違っていない。

 尤も、その質問は私ではなく、委員長にするべきだ。
 答えられるかどうかは、別として。

「……」

 答えられないのも、また立派な答え。


「なるほど、わかった」

 しばらく黙っていた中年の刑事が、再び口を開く。

「その虐めの有無については、あとで個別で聞くとして……。問題はどうやって殺害したかかな」

 殺害、という単語で、委員長が息を呑む。
 首を刺す、という表現はしてきたが、直接的な言葉を選ぶのは初めてだ。

「……」
「……」

 まぁ、良いか。

「二つの均等な刺し傷を、しかも首を貫通するほどに着けるとなると。彼女では難しいと思うけどね?」
「……」

 ぎゅうと委員長が、再度強く自分の手を握った。
 動機を表にされ、言ってみれば凶器と刺し傷が最後の心の拠り所といったところかもしれない。

「そもそも、あんな場所で殺したからには、突発的なものだったと思う」

 仮に計画的に殺人をするのであれば、何も学校で殺す必要がない。
 学校の帰り道であったりどこか人目につかない場所で待ち合わせたり、いくらでも方法はある。
 それをしなかったからには、あの場で咄嗟に殺してしまったと見るのが妥当だ。
 だとすれば、凶器もまた、身近なものである必要がある。

「そんな都合のいい凶器、持ってないよ……」
「持ってるよ」

 委員長自身が話してくれたじゃないか。
 二つの刺し傷。均等な刺し傷。
 数センチの穴。貫通する長さ。



「……凶器は、ディバイダーでしょ」


「ディバイダー……って、なんや?」

 主に設計や計測で使う器具だ。面倒なのでディバイダでもディバイダーでも、どっちでもいい。
 コンパスの両端が針になっていて、描けない替わりに、計測に特化している。

 地学部で、家の設計図も書きたいと言っていた委員長であれば、確実に持っているだろう。

「コンパス……あ、あぁ」

 合点が言ったと言う表情だ。

「確かに、それならああいう傷にもなるし、長さも足りとる」
「でも、それで首を貫通するほど刺せるのか? 彼女は被害者より背が低く、力もなさそうだ」

 口を挟んだのは若い方の刑事だ。
 もうその問題は、半ば先ほどの説明で解決したと思うのだけれど、今一度説明するか。

「何も全部刺す必要はない。後頭部の傷」

 若い刑事はそこで気がついた。
 ナース服もやっと気がついた。
 中年の刑事は、表情からするに、もうとっくに分かっているらしい。
 最初に打撲痕について説明した時点で繋げていたのかもしれない。

「首にある程度刺さった状態で、被害者が後ろ向きに転倒する。そうすれば……」

 あとは凶器が床に押され、勝手に喉を突き破る。

「……」

 その瞬間を思い出したのだろうか。
 口許に手を持っていく。
 呼吸はとうに、荒れていた。


「……凶器はどこにあるのかな」

 意外とこの中年刑事、容赦がない。

「出血が少なかったことを考えると、その場では引き抜かなかったと思う。まず最初に、死体を掃除用具入れに入れたはず」

 委員長が死体……もとい、人体について詳しかったかどうかは知らないが、結果としてこれは功を奏した。
 刺したままのディバイダーが栓になり、血が噴出することを防いだからだ。
 また、刺しただけで死んだのではなく、床に倒れて死んだのも委員長にとってはプラスに働いた。
 それにより、直接刺した時より返り血を浴びずに済んだのだ。
 尤も、それでも出血をゼロに抑えられたわけではないだろう。
 床に血痕がなかったこと、委員長自身が返り血を浴びていないことを考えると、その次に委員長がとった行動は、血痕の隠蔽だ。

「血痕を拭いたものがなかったから、委員長はそれをどこかに捨てに行ったはず。かと言って、すぐばれる場所に捨てたら意味がない」
「……」

 次の時間が体育だったことも考えると、そのまま外の焼却炉に捨てたのかもしれない。
 或いは単純にその辺に隠しただけかもしれないが、それは別段どちらでもよかった。
 問題なのはそこではなく、その時点で死体に凶器が刺さったままだという事である。
 どこに何を捨てに行ったにしても、再び委員長はあの部屋に戻らなければいけなかったのだ。

 そしてその途中で、

「もこちゃんに、会ったんか……」

 あの時の委員長は、内心必死だっただろう。
 それもそうだ、なにせ殺人をした直後だったのだから。

 そして、それだけじゃない。
 委員長には、その時更にやるべきことが増えたんだ。

 私を犯人にするという、もう一つのやるべきことが。


「で、でも。その後は私は対木さんとずっと一緒にいた。私には凶器をとる時間がないよ」
「私が着替えてる時になら取れた」

 あの時。
 私が教室で体育着に着替えている最中、
 委員長は隣の部屋で死体から凶器を回収していた。

 そしてここでも運が委員長に味方する。
 殺害した瞬間ではなく、完全に心臓も血流も止まった時に抜いたことで再度返り血を浴びる危険が減ったのだ。

 悪人には悪運を。
 犯人には鉄槌を。

「か、仮にそうだとして、私はそれをどこに捨てたの? 窓から?」
「いや。捨ててない」

 死体から凶器を引き抜いた委員長は、あろうことかその凶器をポケットに入れ、そして何食わぬ顔で私を出迎えたのだ。

「そんな、危険なこと、するはずが」
「あの場からいなくなるほうが、後々危険なことになる。そう思ったんだ」

 いずれ死体は見つかる。
 そして死亡推定時刻が分かれば、必然的に昼休みの行動を聞かれる。
 その時、答えに窮する事のないように、出来る限り一人にならないようにしたはずだ。
 だから、いざ着替え終わった私から見えなくなるような行動はとらない。
 着替える私を気遣って廊下で待つフリをして、あの時に凶器を回収したんだろう。
 予鈴が鳴り、本鈴も直に鳴るタイミングで、生徒のいない廊下という、絶好の瞬間に。
 唯一誰にも見られず、かつ誰かに証言をしてもらえるタイミングは、あそこしかなかったのだ。

 一人になれない委員長の、一つの好機。


「しょ……う、こ、は……」
「委員長、あの時教室の鍵、どっちのポケットにしまった?」
「え……」

 しどろもどろに、虚ろ虚ろに言葉を探す委員長を遮るように紡ぐ。

「最初は右手。でも結局左ポケットにしまった。それは何故か」

 誰でも分かる。
 そんなの、右ポケットに凶器を持っていたからという事しか、ありえない。
 だから咄嗟に、左手に教室の鍵を持ち替えたのだ。
 凶器と教室の鍵を同じポケットに入れることが出来ずに。
 心理的に。本能的に。

 殺人を勘付かれるのが嫌で。
 殺人を気付かれるのが嫌で。

「……凶器を捨てたのは、その後のマラソンの最中。一度だけ私から離れた時があった。多分その時に捨てたんだと思う」
「それは、全部、言いがかり、で」
「……証拠はある」

 振り返る。微かにナース服が頷いた。

「あの、刑事さん。これ」

 そう言ってナース服が、ポケットからピンクのハンカチを取り出した。





──そうじゃなく。一つ、頼まれろ
──うん?





「多分、凶器ですぅ」


 私と離れないことで、凶器を回収できないことを証明しようとした委員長だったが、今度は困ったことにその凶器を捨てるタイミングを失ってしまった。

 いくら校内マラソンとはいえ、走っているところを誰にも見られていないのは不自然すぎる。
 かといって途中で抜け出し、空き部屋に向かい、凶器を回収して捨てる、というのはリスクが伴う。
 廊下を走っているところを誰かに見つかった瞬間、全てが水泡に帰す。
 結局委員長がとった行動は、凶器の回収と遺棄を別のタイミングですることだった。

 まず、私が着替えている最中に凶器を回収する。
 一分もあれば出来る行動だ。
 次に、私と走っている最中に凶器を遺棄する。
 これも、十秒あれば出来る行動だ。

 ほんの僅かな時間を二回使って、これで凶器を現場から離れた場所へ遺棄した事になる。
 尤も、最初に凶器を回収していれば、こんな手間は要らなかったのだけれど。
 突発的に殺人をしてしまった人間が、全て理知的に動けるわけではない。
 まぁ、それを言ったら、殺人自体が理知的ではないが。

「凶器から指紋、被害者の血液反応、両方出るだろうね」

 凶器を被害者の衣服で拭いたとしても、ポケットにしまう際、ポケットから捨てる際にまで指紋に気を使うほどの余裕はなかったはずだ。

「万一出なくても、状況証拠は揃ったはず」
「……」

 反論は──


「……あんな濁った池、良く探したね」


 ──でてこなかった。


 ナース服が取り出した凶器が池から見つかったとは誰も言っていない。
 それはつまり、委員長の自白ということになる。

「……もう、無理かな、って」

 肩を震わせ、そう零した。
 下がった目尻からは涙がうっすらと見える。

「全部、対木さんの言うとおり。虐められてて、それが辛くて」

 殺した。

 こくりと頷いた。ぽたりと涙が落ちる。

「委員長。もう良いよ」
「……」

 そこから先は、私たちが聞くことではない。
 警察で話してくれ。

「そう、だね……」

 促されて立ち上がる。
 力ない足取りは、少し風が吹けば倒れてしまいそうだった。
 だけれど。いくら風が吹いても、もう動かない人がいる。

 だからしゃきっと歩け。
 そしてさよならだ。

「……ごめんね」

 何度聞いたか分からないその言葉に。

「……」

 返すべき言葉なんて、今度こそなかった。


 その後。

 現場を荒らすなという言葉から始まり、凶器を拾うなど言語道断と言うお叱り、果ては普段の授業態度の悪さまでひっくるめて説教された。

 尤も、男性教諭もかなり気落ちしているようで。
 自分が気付いていればこうならなかっただろうか、と尋ねられたが、知らない、とだけ答えた。

 今後あの男性教諭がどういう心持で過ごしていくのかは分からない。
 気付かなかったとはいえ、気付かなかったからこそ事件が起きてしまったと悔いているらしかったが、果たしてそれはどうだろう。

 人の心なんて誰にも分からない。
 分からないものを、分からないように隠して、その上で分かってくれなんて、そんな都合のいい話は通らない。
 黙って待っていればいつか誰かが助けてくれるなどと思うな。
 
 分かってほしかったら分かってほしいと。
 助けてほしかったら助けてほしいと。

 それをいえなかったあいつが悪い。
 ただ、それだけだ。


「……なんや、大変な一日になってもうたなぁ」

 ようやく解放され、校門を出たころには時計の針は十八時を回っていた。
 ざっと計算して五時間も体育着で過ごしていたことになる。

「そっちの計算してどうすんのや、もぅ」

 ようやく着慣れた私服に戻り、少しほっとしながら帰り道を歩く。
 さすがに事件の影響か、今日は全ての部活が活動せず、帰宅するように命じられていた。
 まぁ、活動していた所でどの道私は職員室にいたのだから、参加できなかったけれど。

「……もこちゃん。今回の事件なんやけどなぁ」

 もう話すことはないぞ。

「いや、まだあるよ。もこちゃん、どうして自分が犯人にさせられてるー、なんて思ったん? 証人、ってなら分かるんやけど」
「あぁ……」

 自動販売機で缶コーヒーを買う。ナース服がきらきらした眼を向けたが、無視だ。何故私がこいつに奢らなければならない。

「むっ……。今回うち大活躍やったやんかぁ」

 まぁ、否定はしない。
 確かにこいつの死体の診立てと、凶器の回収のおかげで私は助かった。

「せやろぉ。ならええやん」

 だがな。
 そもそもお前がいなければ、私は事件に巻き込まれることはなかったんだ。

「?」

 きょとんとした顔をやめろ。


 こいつが教室に来ていなければ私は今日は購買で済ませるつもりだったし、仮に食堂に行っていたとしても、もっと早く食べ終わっていた。
 お前が床に座り込んだり何だりしたせいで私が食べ終わるのが遅くなって、そのせいで廊下で委員長に会ったわけだ。

 よって、あのカレーうどんを奢った時点でチャラだ。喉が渇いたなら自分で買え。

「ケチ……。しかもなんなんあのカレーうどん」

 文句あるのか。美味しいだろ。

「そりゃまぁ、まずいとは言わへんけどなぁ……。でもなぁ……」

 ぶつぶつと呟きながら、苺オレを結局自分で買った。
 プルタブを開け、再び歩き始める。
 一口運び、ホットじゃなくてアイスでよかったな、と少し後悔。

「まぁ、それはええわぁ。それで、さっきの質問なんやけど」

 委員長がどうして私を犯人にしようとしていたと思ったか、か。

「……偶然が多すぎる」
「偶然?」

 微かに頷く。

 昼休み、委員長と出会ったこと。
 その委員長と私の掃除当番が同じだったこと。
 そしてその掃除用具入れに死体があったこと。

 あまりに──偶然が多すぎる。


「ん、と?」
「これこそ仮説でしかないけど」

 あの時、委員長は金髪を殺害した。
 でもその前に、そもそもとして、考えるべき事が一つある。

「……?」
「何故委員長は空き教室でディバイダーなんて持っていたのか」
「……あ」

 委員長は虐めを受けていた。
 そのため、自分のものを捨てられたりするのが嫌で、机の中は空にし、鍵のついた個人ロッカーを使っていた。
 そして昼休みももう後半、直に予鈴が鳴ると言うタイミング。
 多分その頃には委員長の机の上には何もなかったはずだ。筆箱さえも。
 となると、委員長は、常日頃からディバイダーを肌身離さず持っていることになる。
 先端が針になっている、それこそ凶器として使えるものを。

「それは……ちょっと、危ないなぁ」
「だからあの凶器は、明確な殺意を持ってロッカーから出したものだと思う」
「……」

 その日秋教室で虐められていた委員長は、それに耐え切れなくなった。
 そのため一度教室に戻り、個人ロッカーの鍵を開け、そこから凶器を取り出した。
 そしてそこで見たんだろう。

「見た、って何を」
「私の机」

 厳密に言えば、私の机にかかったままの、体育着の袋。
 冬場だったらまぁ中に着なくもないけれど、この暑い時期に、しかも午後の体育のために一々朝から体育着を着るのははっきり言って苦痛だ。

 そしてそれを確認した委員長は、私がまだ着替えていないということ……教室に戻ってくることを知ったのだろう。
 加えて私が自分と同じ掃除当番だったことも、委員長なら把握していただろう。

 体育着が先か、掃除当番が先か、どちらから先に絞ったのかは分からないが、たまたまそれに合致するのが私で、その結果委員長の証人として利用されたわけだ。

 そして金髪を殺害して、死体を掃除用具入れに詰め、私を探した。

 私が食堂にいるであろうことは、こいつが騒いでいたのだからある程度察しもつくだろうし。


「あとは、私とお前が現場で死体を見ているとき」
「うん?」

 缶コーヒーを傾ける。

「あそこまで死体と距離をとるのは不自然すぎる。あれじゃまるで私は死体に触れていません、ってアピールしたい様だった」
「……うーん」

 両手でころころと苺オレを弄ぶ。
 半分ほどの残りを一気に飲み干し、缶入れに捨てた。

「……でも。それはさすがに、偶然ちゃうかなぁ」
「かもしれない。証拠も何もない」
「うん。考えすぎやと思うよ。そんなに疑ってたら、キリないもん」
「……」

 もう一つだけ、私が委員長を疑った理由はある。
 それは、委員長の瞳が、すでに真っ直ぐなものではなかった……と言ったところで、こいつには伝わらないだろう。

 こいつは人を疑わない性格で、
 私は自分さえ信じない性格で。
 中年刑事のような人を疑う瞳や、
 委員長のような人を殺した瞳は、

 こいつには決して分からないものなのだろう。

 私はそれを幸せだとは思わないけれど。
 むしろ不幸せとさえ思う。

 信じないことは裏切られないことで、
 疑うことは傷つかないことで、
 信じることは裏切られることで、
 疑わないことは傷つけられることだから。

 だからこいつは不幸せだ。
 勿論私が幸せなわけでもない。
 幸せなんて、思ったことがない。


 幸せって、なんだっけ。


「駅はそっち。じゃあここでお別れ」
「うん」

 大通りの交差点。私は左、こいつは直進だ。
 丁度私の渡る信号が青色だけれど、運悪く点滅してしまったので待つことにする。
 よりによってここの信号は、変わるのが遅い。

「もーちょっとだけお喋り」

 ナース服の方の歩行者信号が青になったが、そんな事を言ってにへらと笑った。

 とはいえ、長かった一日の締めくくりだ。
 最後の数分、我慢してやるか。

「……委員長、どれくらいの刑期になるんかな」

 最後まで話題はそれか。
 その言葉をどういう意味で捉えるべきなのか迷いかねたが、こいつのことだ。
 きっと委員長を心配しているのだろう。

「さぁね」

 委員長が首を刺した時、恐らくそれだけでは金髪は死んでいなかったはずだ。
 背の高くない委員長がどれだけ頑張って刺しても、たかが知れている。
 問題は、そのあと。

 後頭部から倒れた金髪が、後頭部を打って死んだのか。
 それとも、首の凶器が床で押され、喉を貫通して死んだのか。

 恐らくは前者だろう。
 首を貫通しても、運がよければ死なないで済む(尤も、植物状態になるだろうけれど)。
 それよりは、後頭部を強打して死ぬ方が、確率としては高い。

「そうやね……」

 人の頭部は、あれで重い。
 しかも身体の先端にあるのだから、受身を取らずに転倒したら、間違いなく人は背中よりも頭を先にぶつける。

「……もこちゃん。もしそうやとしたら、委員長、罪軽くならへんかなぁ」
「……」

 確かに委員長は首を刺した。
 だけれど、被害者が転倒したことについては、委員長がどう関わっているのかは知りようもない。
 たまたま被害者が自分から転倒したのか。
 それとも委員長が転倒させたのか。

 それは委員長のみぞ知る。


 歩行者信号が点滅し、やがて赤くなった。
 三車線の信号は更にここから右折用として、矢印を点す。

「もし仮に委員長が転ばせたんやないとしたら、せめて殺人だけでも変えられへんかなぁ。そら、死体隠したりした以上、罪にはなるけど」
「……」
「……」
「……」
「……ごめん」

 過程がどうであれ、動機がどうであれ、金髪を殺したのは間違いなく委員長だ。
 これは殺人で、人を殺すのは常に人だ。
 災害に意思はないし、虎に噛み千切られたとしても、それも事故。
 虎に人を殺す意思はない。ただ餌として認識し、食べるために歯を立てるだけ。
 その結果死んだとしても、それは虎の意思ではない。
 最初から殺意を持って、最後まで殺意で立つのは人だけだ。

 その線引きだけは、間違えるわけにはいかない。
 間違えては、いけない。


 歩行者信号が青く灯る。
 ナース服が口を開くより先に、足を踏み出した。

「……もこちゃん!」

 車の音にかき消されない声で、ナース服が叫んだ。
 周りの歩行者の目が痛い。
 無視しても良いが、多分あいつは私の名前を呼び続けるだろう。
 仕方がないので、振り向くことにする。

「……また、会おうなぁ!」

 ぶんぶんと手を振り、そんな馬鹿みたいなことを、馬鹿みたいな笑顔で、叫んだ。

 無視するには耳に残る、良く通る声だ。
 だけれど。
 やっぱり。
 私は。

「……」


 ひとりが、お似合いだ。


 何も答えずに、踵を返す。

 今度こそナース服の言葉は周りにかき消され、聞こえなくなった。

[ エピローグ]


 およそ一ヵ月後。
 暑い空気に辟易しながら、私は刑務所へとやってきた。
 といっても、私が刑に服したとか、そう言う意味ではない。
 委員長に、面会をしに来たのだ。

「対木さん。久し振り」
「ん……」

 委員長──いや。
 元委員長。

 テレビドラマで見たとおりに二人の間にはアクリルだかの板があり、声が上手く伝わるように穴が開いている。

「対木さんのほうからきてくれるとは思ってなかったから……少し、嬉しい」
「……他には誰か来た?」

 両親は来た、とだけ答えた。
 両親以外は誰も来なかったという事でもある。

「クラスの皆は、来てくれるはずないよ。自分のクラスメイトを殺した人間なんて、たとえ部屋が別れていても会いたくないと思う」
「……」

 自虐的に微笑んだ。
 少しやつれているのは、当然だろう。
 大人しいと言うか、落ち着いている。
 人を殺して大人にはなれないけれど。

「……夢、見るんだ」

 しばしの沈黙の後、元委員長がそう呟いた。

 殺した金髪の夢。


「……うん。内容は時々違うけど、でも概要は一緒。
 私が刺したディバイダが私に刺さっていたり、掃除用具を開けたら死んだ自分を自分で発見したり。そんな夢」
「……」
「……あ、ごめんね。こんな話、聞きたくないよね」

 別に、とだけ答える。
 自分で自分を殺す夢ならば、私も見ている。
 いっそそのまま目が覚めなければ良いのに、と何度思ったことか。
 でも、今の所それが叶ったことはない。
 運悪く、今日も私は生きている。

「対木さんは、今日はどうしてきてくれたの?」
「裁判、決まったって聞いて」

 事件当日、職員室で会った中年刑事から、そういう連絡を貰った。
 何故私に言うのかとも思ったが、あの場において一番元委員長と親しく見えたのが私だったのかもしれない。
 或いは。
 元委員長を犯人とした私への、義務通告でもあるのだろう。
 罪には刑が。
 権利には義務が、必要だ。
 元委員長の罪を日の光に晒した以上、刑が決まる時も見届けろという。
 そういう、義務。
 それが新聞の記事か、直接傍聴席で聞くかの差はあるにせよ。

「……うん。来週」
「……」
「傍聴……して欲しいな」

 不安そうな瞳だ。
 何に対して不安なのだろう。
 形が決まることがだろうか。

 いずれにしても、私には分からないことであり、一生分かるはずのない心だ。

 まぁ、もとより、人の心なんて、分かったためしがないけれど。


「……これを返しにきた」

 結局私は元委員長の質問には答えず、持ってきた紙袋を抱える。
 私と元委員長の間には仕切りがあり、そして物を置くスペースがある。
 そのスペースに、紙袋から取り出したタオルを置いた。

「……あ」
「借りっぱなしだったから」

 あの日、事件当日、元委員長から借りたタオルだ。
 すっかり返しそびれていて、元委員長の両親にでも返そうかと思ったところ、中年刑事から連絡があったのだ。
 なので、折角だからこれを理由に面会にきたということである。
 こうでもしないと、面会に来る理由が浮かばかったからだ。

「わざわざそんな……ありがとう」

 そして、これを返すことで、私と元委員長の関係は完全になくなった。

「……え?」

 借りは返した。もう、私がここにいる理由はない。
 裁判にいく必要もない。傍聴席には私は居ないと思ってくれ。
 まぁ、両親くらいは来るだろう。それで十分じゃないか。
 少なくともクラスの連中は、私も含めて誰も行かないだろう。
 行く必要がない。行く義理がない。行く義務もない。
 後日新聞で眼を通すくらいはしてやる。

「そんな……」

 なぁ、元委員長。逆に聞くが、何故私がお前の裁判なんて見なくちゃいけないんだ?

「それは……だって……私が、クラスメイトを、」

 お前にとってはそうかもしれない。
 お前にとっては、被害者はいつまでもずっとクラスメイトだろう。

 でも、私にとっては。
 お前も、被害者も、どちらももう、元クラスメイトなんだよ。
 だから今お前が何をしていようと、生きていようと死んでいようと、それは私には関係のないことなんだ。


 ホームルームで、新しい委員長が決まった。
 被害者の机から花瓶も消えた。
 皆、もうあの出来事は過去のものとして扱っている。
 今の委員長は、新しい奴で、もうお前ではない。
 もうあのクラスに、お前の場所はないんだよ。

「……、でも、だって」

 そもそもにおいて、お前は委員長として何かクラスのためになることをしてきたか?
 押し付けられた委員長の肩書きに、押し付けられた委員長の仕事を、唯文句を言わずやってきただけだろう?
 率先してクラスを引っ張ることなどしなかっただろう。ただ地面に投げられた仕事という餌を、犬のように齧っていただけだ。
 あのクラスにおいてお前は、その程度の、虐めの対象でしかない。

 だから、お前がいなくても、誰も困らない。
 むしろ虐めがなくなり、良いクラスになったんじゃないか?

「そんな、の、う、そ」

 誰か面会に来たか? 誰か手紙を出したか?
 お前が刑務所だか拘置所だかに入っている間、お前は誰かと話したか?

 お前は、お前が居なくなって悲しんでくれる人を、誰か一人でも挙げられるか?

「あ、あ……」

 まぁ、せいぜい軽い罪になるのを祈ると良いさ。
 だけどな、元委員長。それはそれで地獄だぞ。


「……」

 お前みたいな意志も弱い、力もない虐められっ子は、きっとまた社会に戻っても虐められる。
 虐められる奴はもう見た目がそうなんだ。
 猫背で、虚ろで、まともに人と話せないような、なんで人間として生まれてきたのか分からないような不良品。
 そういう奴は、もうずっとそうなんだ。変わらない。変われない。変わろうとしない。
 一度そういう扱いを受けたら、抵抗なんてしないでそれを受け入れ続けるんだよ。
 逆らってより痛い目に遭うのが嫌だから、とりあえず目の前の苦痛を受け入れることで、“逆らうよりは今の方がマシ”だと自分で自分に言い聞かせるんだよ。

 虐められる奴は、助かろうとしない。
 虐められる奴は、もがこうとしない。

 自分で自分を諦める、最低でどうしようもない、救いようもないクズだ。
 虐められて、淘汰されてしかるべき存在だ。

「……、ち、がう」

 どこが違う?

「私はっ……。私は……! 助かろうとしてたよ! 助かりたかった!」

 跳ね上がるように立ち上がり、そう叫ぶ元委員長を、刑務官が押さえつける。
 椅子に座らせられながらも、再び叫んだ。

「私は! 助けて欲しかったよ!」

 知らねぇよ。

 私は聖人でも善人でもない。助けて欲しければ口で言え。言わずに理解してもらえるなんて、お前何様だ。

「言ったらもっと虐められるじゃない……いえるわけないよ!」

 助かりたいのならリスクなんて考えるんじゃねぇよ。
 何で虐める側についてあれこれ考えるんだ。馬鹿か。

 言えないけど察してくれなんて、通るわけないだろ。


 話を戻そう。
 刑が軽くなったとして、社会に戻れたとして。
 一度殺人と言う罪を背負ったお前が、また元通りの生活が出来るなんて思うなよ。
 もうお前は一生日陰しか歩けないんだ。
 虐められる人間は、何をやっても虐められる。
 そしてお前は殺人と言う過去を背負った。
 そんな人間に、これまでと同じ虐めが待っていると思うな。
 今まで味わった苦痛が苦痛と思えないくらいの生活が待ってると思え。
 地獄を生きろ。

「……」

 あぁ。
 その時はまた、虐める奴を殺すか?
 それも良いだろう。
 次に殺人をすれば、間違いなく重い形になる。
 そしたらきっと、虐められないですむだろうな。
 そういう人生も、悪くない。
 そういう選択も、悪くない。

「私は……ただ……助けて欲しくて……ただ……それだけで」

 壊れた人形のように、虚ろに呟く。

「私だって……虐められてて……被害者なのに……」
「ふざけるな」

 お前は被害者じゃない。正真正銘の加害者だ。殺人犯だ。
 被害者面するなよ。

 なぁ、元委員長。
 私は、別段殺人については何も言ってないだろ。

「……」


 人を殺したければ殺せばいい。嫌いな奴も好きな奴も、好きなように殺せば良い。
 だけれど。加害者はどこまでいっても、どんな事情があっても、加害者でしかないんだよ。
 どれだけの理由を用意しても、それが人を殺す理由にはならない。
 だから動機なんてものは、自分本位で構わない。自分勝手で構わない。
 でも、それを人に押し付けるな。見せびらかすな。
 自分の中だけにしまっておけ。自分の中だけに隠しておけ。
 動機は語れば語るほど、理由は述べれば述べるほど、軽くなって中身が薄くなる。
 中身の薄い動機や理由を長々と、自分のために語るのは、惨めで仕方ないだろう。
 
 人を殺すのに正当な理由はない。
 だからこそそれについて撤回してはいけない。
 犯した罪に胸を張れ。
 殺した奴に唾を吐け。
 弁解はするな釈明はするな、潔く加害者らしくふるまいそして死ね。
 それが出来ないなら、やはり被害者として大人しく虐められて死ね。

「さよなら、元委員長」
「……」

 答えは待つまでもなく。
 裁判を待つまでもなく。


 私と元委員長のお話は、これで終了だ。
 もう二度と交わることのない、他人の物語。


 ──それから。私が返したタオルで元委員長が首吊り自殺を図ったという話を聞いたけれど、それは本当に別の話。
 語ることのない、私の知らないところでの話。

 強いて言うのであれば、結局死ねずに哀れだということくらいか。
 悪人には、悪運。
 最後の最後で、運は元委員長を見放した。


 その影響か、元委員長の裁判の日程がずれ込み、別の日になったらしいが、私には関係のないことだ。

 ただ、その裁判の日が、よりによって、


「もこちゃん、久し振りやんなぁ」
「……」



 再びこいつと会う日だったというのは、まぁ、偶然だろう。




 ちっぽけな私には、ちっぽけな偶然がふさわしい。


(第一章 終わり)


おかえり

HTML依頼忘れていました。またいずれどこかで。

えっ

>>108-109
冬場のこれからが肝心ですがまぁ死にはしないようになったので近い内になんかしらのスレを立てます

>>113
のんびり一章ごとに出来たら建てでいいかなぁとか思ってましたすいません許シャス

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