雪歩「はるかさんといっしょ」 (70)


まったりと投下していきます。

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拝啓、プロデューサー。

ピンチです。

私は穴の底から空を仰ぎながら、そう心の中で呟きました。

いつもならパニックになりながら大声を出して助けを求めるところですが、今はそれすらできません。

たらりと流れる冷や汗が、私を酷く冷静にさせてしまうからです。

人間、本当にどうしようもなくなると絶句してしまうんですね。

「かっかー」
「かっかー」
「かっかー」
「かっかー」
「かっかー」

空と地面の境界線。

ぐるりと穴を囲う形で、はるかさんたちがじーっと私を見下ろしていました。


ぎゅっとスコップを持つ手に力が入ります。

いざとなったらこのスコップを振り回し、無理にでも逃げ出そうと算段を立てます。

しかし、こっちは一人に対し、はるかさんは穴を覗き込んでいるだけでも十は超えています。

圧倒的な戦力差です。

それこそ、一斉に飛び掛りでもされたら、それだけで完敗です。

はるかさんが無意識に行う人海戦術に、私が打てる手はそう多くありません。

じっと動かず、興味を逸らしてくれるものが現れるのをひたすら待つ。

助けが来てくれるのをただただ祈り続ける。

これが私が出した唯一解です。

そもそも、どうしてはるかさんに四面楚歌されているのか。

事の発端は亜美ちゃんの小さないたずらでした。


「っあー、全然終わらーん」

パソコンに向かうプロデューサーが両腕を上げて大きく伸びをしました。

いつまで経っても終わらない事務仕事に嫌気が差しているようです。

プロデューサーは昨日からずっと机に噛り付いています。

律子さんが驚くほどの営業力を持つプロデューサーですが、反面、事務力は小鳥さんが驚くほど低いみたいです。

仕事は沢山取れるものの、それに付随する書類が手付かず。

律子さんと小鳥さんもフォローしてはいますが、プロデューサーにしか分からないことは対応できません。

なので月に何日か、プロデューサーはこうして机の前から離れられないときがありました。


プロデューサーが伸びをしたのを見て、私は給湯室へ向かいます。

仕事の邪魔にならないよう、集中力が途切れた時に話しかけようと心がけています。

急いで水を入れたお鍋を火にかけ、お茶っ葉を急須に入れます。

お茶菓子も用意して、あとはお湯が沸くのを待つだけです。

何度も何度もやっている作業なので、スムーズに準備ができます。

お茶を淹れると言うのは趣味の一つでもあるので、何の苦にもなりません。

加えて、プロデューサーが喜んでくれるとなれば、それはとても楽しいことになります。

と、プロデューサーが私に微笑んでくれることを想像していたところで事件が起こりました。

「ゆっきぴょん、後ろにいるのだーれだ」

幼い声と一緒に、ぽんっと私の両肩に軽く手が乗せられました。


『だーれだ』をする時は、普通は目隠しをします。

だけど、今日は肩にぽんと手ほ乗せているだけです。

今は火を使っているから、目隠しは危ないって思ったのかもしれません。

ちょっとした思いやりに、私も後ろは振り向かないことにしました。

「えへへ、簡単だよ~」

「えーホントー?」

私のことを『ゆきぴょん』って呼ぶのは二人だけ。

そしてその二人のうちのお姉さんは、レッスンに行っているところです。

例え二人が一緒だったとしても、765プロに二人の声を間違う人はいません。


「答えは亜美ちゃんだよ」

私はお湯を湯のみに移しながら答えます。

「ふぁいなるあんさー?」

「うん、ファイナルアンサー」

「どぅるるるるるる」

待ちの音楽を口で表現しながら、亜美ちゃんは答えを言うのを溜めます。

湯呑みが暖まったので、そのお湯を急須に入れてしばらく待ちます。

答えが出るのが早いのか、お茶が出来上がるのかが早いのか。

結果は、亜美ちゃんの息切れであっけなく決まりました。

「ぶっぶー。亜美じゃないよー」


「え、違うの?」

ちょっぴり予想外な回答に首を傾げます。

「私、真美ちゃんと間違えちゃった?」

「ううん。亜美は亜美だけど、手を乗せてるのは亜美じゃないよ」

「そうなんだ。でもそれだけだと当てられないよ?」

「じゃあヒントー。名前の最初は『い』だよ」

名前の最初が『い』。

亜美ちゃんにしては珍しく、すぐ答えを言ってくれました。

「えへへ、伊織ちゃんがこんなことするなんて珍しいね」

頭を後ろに向けて、その姿を確認します。

しかし、肩に乗っていたのはふさふさの白い毛に覆われた手でした。

視界の片隅には茶色い尻尾がふりふりしています。

「ばうっ!」

真後ろにいたのは、亜美ちゃんでも伊織ちゃんでも、もちろん真美ちゃんでもありません。

犬美ちゃんでした。


そこからは記憶がありません。

気が付けば、いつものように穴の底でスコップを振りかざしていました。

「またやっちゃったよぉ」

手を止めて、汚れるのも気にせず茶色い土の上に座り込みます。

どうしてこうなったのか、一体ここはどこなのかを一生懸命考えますが、全くもって思い出せません。

記憶の片隅で、とてつもなく大きい怪物に襲われたような気がしますが、濃い霧がかかって先が見えない状態です。

よっぽど思い出したくないことだと察し、考えるのはやめました。

しかし……ここがどこで、どのくらいの時間が経っているのかすら不明です。

きちんと地面が掘れているので、建物の外なのは間違いないようでした。


犬が苦手。男の人が苦手。

それ以外にも苦手なものは山ほどあります。

それらに出会った時、こうして酷くパニックを起こしてしまうのも全然直る気配はありません。

普段はプロデューサーや真ちゃんが止めてくれますが、今日はすぐに外に飛び出したせいか、間に合わなかったようです。

誰かが傍にいてくれないといつも不安になってしまう自分に嫌気が差します。

「やっぱり私、ダメダメですぅ……」

特大の溜息をついて自分のダメさ加減を再認識。

強くなりたいからアイドルを目指したのに。

なのに、私はまだまだ弱いままでした。

誰かに慰めてもらいたい気持ちで空に手を伸ばします。

それに応えてくれたのが

「はるかっか」

という声でした。


そして冒頭へと繋がります。

「かっかー」

うう、怖いよぉ……。

この際、犬美ちゃんでもいいから来て欲しいとすら願ってしまいます。

はるかさんに食べられるくらいなら、犬美ちゃんに跨って競馬場で走るくらい、なんてことありません。

……ごめんなさい、嘘です。

追い詰められた私に対し、はるかさんたちは揺ら揺らと大きな頭を左右に振っています。

可愛いような不気味なような。

そんな光景を体感で一時間くらい眺めた時、やっと状況に変化がありました。

「ゆきぴょーん、どこー?」

亜美ちゃんが私を探しに来てくれたのです。

でも私からは声を出せません。

ひとりのはるかさんが飛び込めば、きっと他のはるかさんも続いて飛び込んでくるからです。

変な刺激は厳禁。

この膠着状態を維持するためにも、亜美ちゃんが自力で探しだしてくれることを祈るしかありません。


「兄ちゃん兄ちゃん、あそこ、はるかさんがいっぱいいるよー」

「全員下を向いてるな……ああ、雪歩はあそこか」

よかった。プロデューサーも一緒みたいです。

「おーい雪歩、大丈夫かー?」

救助隊の到着に、ほっと安心して肩の力が抜けました。

その時、ぽこっと言う、何か軽いものを蹴ったような音が聞こえてきました。

「兄ちゃん!」

「げっ!?」

「か?」

二人の不穏な会話と、珍しいはるかさんの疑問系の声。

それらに続いて、ひとりのはるかさんが、何かに押し出されるような形で穴の中に落ちてきました。


ひゅーべちゃんっ。

穴に落ちてきたはるかさんが顔から着地しました。

痛そう……なんて思いましたが、むくりと起き上がると、再度頭を一定のリズムで動かし始めました。

「ヴァイ!」

満足そうに両手をあげるはるかさん。

どうやらはるかさん的には楽しかったみたいです。

嬉しそうなはるかさんの表情を見たのに、私はなぜか嫌な予感がしました。

おそるおそる上を見ると、身を乗り出した沢山のはるかさんと、その後ろにプロデューサーと亜美ちゃんの顔がありました。

二人はなぜか哀れむような目をしていました。

何を哀れむのかって?

もちろん私です。

「はーるかっかー!」
「はーるかっかー!」
「はーるかっかー!」
「はーるかっかー!」
「はーるかっかー!」

ひとりが行動すると、他も追随してしまうはるかさんの習性。

「た、たすけてえええええええ!」

次々と飛び込んでくるはるかさんたちに、悲鳴をあげることしかできませんでした。

そして私が最期に見た光景は、ピンク色に広がった生暖かいお口の中でした。


はるかさんが765プロに来てから三ヶ月。

やよいちゃんと伊織ちゃんが、どこぞから連れてきた時はみんなして驚きました。

日光に弱く、水で増えたり大きくなったりする謎の生き物。

それだけ聞くと少し怖い気もしますが、実際は人懐っこい、とても良い子です。

その愛らしさから、はるかさんは瞬く間に765プロ内のアイドルになりました。

中でも名付け親の春香ちゃんははるかさんを溺愛していて、千早ちゃんがはるかさんに嫉妬する場面もありました。

そんな765プロで、唯一私だけがはるかさんが苦手で距離を取っていました。

初めてはるかさんと会った時、いきなり頭からぱくりと食べられたせいです。

それがトラウマで、どうしてもはるかさんと接することができないままでした。


「雪歩、雪歩、いいかげんに起きてよ」

瞼をうっすら開くと、伊織ちゃんが私の肩を揺さぶっていました。

「あれ伊織ちゃん……おはようございますぅ……」

まだ寝足りないのか、目がとろーんとして思うように開きません。

「おはようじゃないわよ。今何時だと思ってるのよ」

「え……あれ?」

さっきまでは明るかったのに、いつの間にか太陽は沈み、代わりにお月様が出ていました。


生きていると実感しながら、今日思い出せる範囲で私がしたことを並べてみます。

事務所に来る

雑誌を読む

亜美ちゃんと遊ぶ

お茶を淹れる

何かに襲われる

穴を掘る

はるかさんに襲われる

起きる←今ここ

「何しに来たんだろう……」

思わずそんなことを呟いてしまいました。


「あれ、でもどうして伊織ちゃんが?」

「亜美に伝言を頼まれたのよ。『やりすぎちゃってごめんなさい』って」

「う、うん……もしかしてそのために待っててくれたの?」

「ま、まあ特にすることもなかったし、亜美と約束したからよ」

伊織ちゃん、優しいなぁ。

「えへへ、ありがとう」

「か、感謝されたくて残ってたわけじゃないわよ。ただ少しすることがあったから……」

「すること?」


時計を見るとすでに八時を過ぎていました。

この時間からすることって何だろう?

変にそわそわする伊織ちゃんを見ていると、何か楽しみにしていることがあるみたいです。

ちょっとだけ考えると、思い当たる節が一つだけありました。

私はゆっくりと背後にある間仕切りから頭を出しました。

その先には、プロデューサーがこんな時間なのにまだ頑張ってデスクワークに励んでいました。

小鳥さんと律子さんはとっくに帰っているようです。

「……もしかして、プロデューサー待ってたの?」

「ち、違うわよ!なんで私がプロデューサーなんて待たないといけないのよ!」

伊織ちゃんは顔を真っ赤にして否定してくれました。


「雪歩、具合の方はどうだ?」

伊織ちゃんの甲高い声を聞いて、プロデューサーが笑いながらこっちへ来ました。

「はい、何ともありません」

「そっか。それは良かった」

プロデューサーは変に気まずそうな顔をしていました。

それもそのはずです。

プロデューサーが言うには、はるかさんが穴に落っこちた原因は、プロデューサーが足でつっついてしまったことらしいです。

「すまん、雪歩がはるかさんが苦手なの知ってたのにな」

両手を合わせて謝ってくれるプロデューサーに、怒る気持ちなんて全然ありません。

「プロデューサーは全然悪くないです。その、すぐにパニックになっちゃう私が悪いんです」

「いやいや、俺のほうこそだな」

「わ、私がいけないんですぅ」

「……ま、原因作ったのは亜美なんだけどね」

プロデューサーとごめんなさい合戦は、伊織ちゃんの冷静な一言で終わりました。


「すまんな伊織。今日の埋め合わせはまた今度……な」

帰り際、そう言いながら伊織ちゃんの頭を一撫でしました。

「それ昨日も聞いたわよ……どうせ今日もダメって分かってたけど」

不満を漏らす伊織ちゃんと一緒に、プロデューサーに見送られて事務所をあとにします。

「伊織ちゃん、プロデューサーと何か約束してたの?」

何だか二人の会話が少し気になったので、ダメ元で訊ねてみます。

「……別に、何でもないわよ」

俯きがちに、ちょっぴり不機嫌そうに答える伊織ちゃん。

プロデューサーとは大切な約束があったみたいです。

伊織ちゃんの腕に抱かれたうさぎさんが、抱きしめられすぎて悲鳴をあげているようでした。


ビルから出るといきなり木枯らしが襲ってきました。

「きゃあ、もう何よこの風!」

ぴゅーぴゅーと冷たい風の音が身に染みます。

「……」

「どうしたの雪歩?」

不意に止まった私の足に、伊織ちゃんが首を傾げます。

「う、うん。何か変な声が聞こえた気がして」

「書類が終わらないプロデューサー悲鳴じゃないの?」

ちょっぴり酷いなぁ、なんて思いながらも耳を澄ませてみます。

「……ぁ」

「うん、やっぱり何か聞こえる」

気になった私は、少し面倒くさがっていた伊織ちゃんを背に、声のする方へ向かいました。


てくてくと歩いていくこと二十秒。

現場はすぐそばにありました。

「これって穴……かな?」

見つけたのは人一人がすっぽりと入るくらいの高さがある真っ暗な穴でした。

周囲には真っ赤な三角コーンと、その間を黄色と黒のロープが貼られています。

「それ、あんたが昼間に掘った穴よ」

えへへ……多分そうじゃないかって思いました。

普段は掘ったあとはすぐに埋めますが、今日は気絶しちゃったのでそのままになってしまいました。


穴を覗き込んでみますが、真っ暗なので中を伺うことはできません。

さっきまで聞こえてきた声もしていないので、もしかすると風の音と間違っちゃったのかな?

「あの、誰かいますかー?」

恐る恐る穴に向かって呼びかけてみますが、反応はありませんでした。

「雪歩、これで中見えない?」

伊織ちゃんが光量を最大にしたスマートフォンを渡してくれました。

落とさないようにゆっくりと中を照らしてみると、辛うじてですが穴の底が見え、

「かっかぁ……」

「はるかさん!?」
「はるかさん!?」

しょんぼりとしたはるかさんが、一人で小さくないていました。



びくっと二人揃って後ろに一歩下がります。

「かっか!かっか!」

すると、私たちを見たはるかさんがぴょんぴょんと飛び跳ね始めました。

ただ、体長の何倍もある深さの穴からは出ることはできないみたいです。

もしかすると、穴に落ちたうちの一人が、そのまま回収されずに残ってしまったのかもしれません。

そっと再び覗き込んで見るとやっぱり「かっか、かっか!」と、いつもの表情で今にも飛びついてきそうです。

でもなぜでしょうか。

普段ならすぐさま逃げてしまうのに、このはるかさんの声を聞くと、どうしてもそんな気にはなれませんでした。



はるかさんは何度も飛び跳ねては土に身体を擦りつけています。

そのせいか、垂直に掘ったはずの壁が削られ、丸みを帯びていました。

これって……

「伊織ちゃん、これ持って!」

「わっ、ちょ、ちょっと!」

スマートフォンを投げるように返し、私はすぐさま穴に両手を伸ばしました。

かなり深い穴でしたが、はるかさんのジャンプと合わせるとギリギリ届きそうです。

私が伸ばした手に、はるかさんが向かってきました。

「かっか!」

すかっ。

「かっか!」

すかっ。

もうちょっと……もうちょっと!

必死で身を乗り出して両腕を目一杯伸ばしました。

「はーるかっかーー!」

はるかさん渾身のジャンプ。右手が生暖かい何か包まれる感触がありました。

左手で抑えながら急いで引き上げると、はるかさんが私の右手をもにゅもにゅしていました。


「良かったぁ……」

何とか助け出すことができて、ほっと胸を撫で下ろします。

「雪歩、大丈夫?」

「えへへ、なんとか大丈夫」

「そんなことじゃなくて、右手大丈夫なの?」

「……」

もにゅもにゅと右手に噛り付いているはるかさん。

試しにぶんぶんと右腕を振ってみましたが、離れる気配はありませんでした。

どうしようもなかったので、はるかさんの手袋がついた右手を伊織ちゃんに差し出しました。

「伊織ちゃん、助けて……」

「私にどうしろって言うのよ……」


車が止まると、伊織ちゃんが心配そうな表情をしました。

「雪歩、ほんとに大丈夫?」

「う、うん。はるかさんがこれだから、多分大丈夫だと思う」

帰りは伊織ちゃんが家まで車で送ってくれました。

「なんだか様子が変だから、何かあったら連絡しなさいよ」

伊織ちゃんが視線を向ける先には、私のお腹にしがみついて離れないはるかさんの姿がありました。

助け出した直後から、はるかさんはずっとこの調子です。

あまりに大人しく、また私から離れようとしなかったので、仕方なく連れて帰ることにしました。

「ありがとう伊織ちゃん。また明日ね」

「ええ。おやすみなさい、はるかさんもね」

「おやすみなさい」

新堂さんと伊織ちゃんにペコリとお辞儀をして、家の中に入りました。


家に帰ってから最初することはお風呂です。

はるかさんは予想以上に泥だらけで、髪からもぽろぽろと土が落ちてくるくらいでした。

私も私でそこそこ土がついたりしました。

その姿を見たお父さんがすぐにプロデューサーに電話をしようといきり立っていましたが、何とかスコップで止めました。

お父さんの暴走は相変わらずです。

もしはるかさんが私のファーストキスの相手だと知ったらどうするんだろう。

疲れそうなので、黙っておくことにします。

「はるかさん、ちょっと待っててね」

「かっか」

先にお風呂に入ると、蛇口を固く閉めます。

とりあえずこれで冷たい水は出ません。

万が一に備え、私ははるかさんを抱っこしながら入ることにしました。

水に触れさせず、後ろから抱っこする。

何度も逃げ回ってきた私が身につけた、対はるかさん用護身術です。


洗面器に掬ったお湯をはるかさんにかけると、泥が溢れ出てきました。

お湯をかけても大丈夫かとドキドキものでしたが、増えることはありませんでした。

「は~るかっか~」

「はるかさん、気持ちいい?」

「かっかー」

何を言っているかはさっぱりですが、気持ち良さそうなことは確かです。

これだけ土がついていたら、さぞかしさっぱりすることでしょう。

そのままシャンプーを手に取り、はるかさんの頭を洗います。

じゃりじゃりと大量の砂がこびりついた感触があるので、その都度お湯で流していきます。

「かっかっかっかっかー」

ごしごしと手を動かすたびにはるかさんが声を上げます。

「ここがいいの?」

「ヴァイ!」

二度ほどシャンプーをすると、すっかり土は洗い流され、元のさらさらな髪に戻りました。


はるかさんを片手で抱えたまま何とか自分の身体を洗い終え、湯船に浸かります。

ぴったりな湯加減に、肩の力がすぐに溶け出して行きました。

「はあ~」

「ヴァ~イ」

とろーんとした気分を味わっていると、はるかさんが腕から抜け出してぱしゃぱしゃと泳ぎ始めました。

その見事な犬掻きは、春香ちゃんを髣髴させます。

念のため洗面器を湯船に浮かべ、はるかさんが溺れないように浮き島を作っておきます。

「かっかっ!」

浴槽の対岸にたどり着くと、そこからまた戻ってきます。

微笑ましい姿につい面白くなって、洗面器を上から被せました。すると、

「はるかっか、はるかっか、はるかっぶくぶくぶく」

沢山の泡を作りながら、潜水していきました。


泥だらけだった服は、お母さんが真っ先に洗濯し、アイロンをかけてくれたのでもう準備万端でした。

単に自分が長風呂なだけかもしれませんが、お母さんの仕事はすごく早いです。

パリっとした出来栄えに、はるかさんも満足そうでした。

着替えたあとは、髪を丁寧に拭き取ります。

どこで増えるか分からない以上、一滴たりとも見逃せません。

程よくタオルが湿ったところで、最後にドライヤーで乾かします。

「かっかぁ」

その間、はるかさんはドライヤーに向かって声を出していますが、扇風機とは違って上手く宇宙人声は出せていません。

「そんなに近づいちゃうと火傷しちゃうよ」

身を乗り出してきたところをちょんとお凸をつっつくと、ころんっと後ろに一回転。

「かっかー」

髪に艶が出てきたところで再びはるかさんを抱き上げました。


今日のご飯は湯豆腐です。

シンプルですが、寒い冬にはとても美味しく感じられる一品です。

ですが、お豆腐が持つその脆さはどうにもなりません。

手が器用に使えないはるかさんには、お豆腐と言うのはとても食べづらいものです。

なので、私がその都度食べさせてあげます。

はるかさんは私の膝の上で、次のご飯を今か今かと待っています。

豆腐やご飯をせっせと運んでは口を開けたままのはるかさんに放り込みます。

なんだか親鳥になった気分です。

「かっかー」

「おいしい?」

「かっかー」

何を聞いても「かっかー」なはるかさん。

もにゅもにゅと口を動かしては「はるかっか」と次を要求してくるので、一応は満足してくれているみたいです。

〆のおうどんも、ずずずっと勢いよく流し込んではごっくんと一気に飲み込んでいました。

おうどんの真髄は喉越し。はるかさんは案外、食通なのかもしれません。


食事を終え、自分の部屋へと戻ってきました。

これで今日することは全部終わりました。

なので、ここからはまったりタイムです。

部屋の真ん中に鎮座する私専用のこたつの電気を入れます。

次にこたつの下に敷いたホットカーペットの電源を入れて準備完了です。

最初はこたつの急速発熱で暖まり、ホットカーペットが暖まってきたらオフにします。

寒い部屋でもすぐにぬくぬくできる、ちょっとした贅沢です。

お風呂に続いて二度目のリラックスに、頬を机上に置いて怠け者になってしまいます。


ここまでの間もはるかさんは私とずっと一緒。片時も離れようとしませんでした。

まとわりつくと言うより、しがみついて離さないと言った具合です。

はるかさんらしくないなぁと思いつつも、追いかけられたり噛み付かれるよりかは随分とマシです。

「さてと」

私はこたつから出ないように手を伸ばして鞄から一冊の手帳を取り出しました。

じーっと手元を見上げてくるはるかさんに、ちょっとだけ説明です。

「えへへ、ただの日記だよ」

ペラペラと新しいページまで捲っていきます。

はるかさんには日記と言いましたが、実はこの手帳、私にも何かは分かっていません。

昔は思い浮かんだ詩を書き留めていました。

ですが、いつしかこれはただのメモ帳になっていたり、スケジュール帳になっていたり。

今は寝る前に今日あった出来事を振り返る、日記帳っぽいものになっていました。

全体を見渡してみると、単に落書き帳なのかもしれません。


今日一日の感想は、ほとんど遊んでいただけですのであまりありません。

ですが、ただ思ったことを書くのが日記です。

徒然なるままに、ちょっとした思い出を書き綴っていきます。

「かっかっかー」

「ん?」

気がつけば、膝の上に乗っていたはるかさんが、カーペットの上をコロコロと横に転がっていました。

「か?」

急に動きを止めて、逆さまになった状態で目が合いました。

じー。

「かっかー!」

そしてすぐさま横転を再開します。

事務所の床とは違い、暖められた床は、はるかさんにとっては天国なのかもしれません。

「は~るかっかー」

カーペットの端から端へ、時折急に止まってはまた転がります。

幸せそうなはるかさんを見ていると、なぜか手の動きも早くなりました。


いくら寝てばかりの一日だったとは言え、こたつに入って書き物をしていると眠気が襲ってきます。

疲れてないはずなのにどうしてだろう。

これがおこたの魔翌力です。

「はるかさん、そろそろ寝よっか」

「かっか!」

はるかさんの寝床はどうしよう。

とりあえず押入れを開けようとしたところ、はるかさんは私のお布団へ走り出し、ぴょんっと乗りました。

「はるかさん?」

「はるかっか、はるかっか!」

ぽんぽんと小さな手で布団を叩く仕草が、何とも愛らしいです。

もしかすると、私と一緒に寝たいのかな?

朝起きるとはるかさんのお口の中かも……なんてちょっとだけ思いましたが、きっと大丈夫だと思います。多分。


後ろからはるかさんを抱っこして布団の中にもぐりこみます。

冷たいお布団が少しだけ私の眠気を飛ばそうとします。

ですが、今日ははるかさんも一緒だからでしょうか、すぐに熱が篭り始めました。

「寒くない?」

「かっか」

はるかさんはもぞもぞと動くと、向きを変えて私の胸に顔を押し付けてきました。

やっぱり甘えん坊さんなはるかさん。

いつもなら楽しそうに襲い掛かってくるのに、今日ばかりは様子が違うみたいです。


ふと、今日一日のはるかさんを思い出します。

穴に落ちるまではいつもの好奇心旺盛なはるかさん。

穴から出てきたときからは甘えん坊なはるかさん。

「もしかしたら、寂しかったのかな……」

伊織ちゃんとやよいちゃんに無人島から765プロへと連れて来られました。

それはつまり、ずっと独りぼっちだったということです。

必死に穴から出ようと泥だらけになって頑張っていたのは、また独りになりたくなかったんだと思います。

そんな漠然とした不安が、今日の甘えん坊はるかさんにしてしまった原因かもしれません。

「大丈夫、もう独りぼっちじゃないからね」

ぽんぽんと背中を叩くと、すりすりと頬擦りで返してくれました。

「はるかっか~」

眠そうで、けれど幸せそうにはるかさんは呟きました。


スズメの鳴き声と息が白くなるほどの寒さに目が覚めました。

目を擦りながら時計を見て、真っ白な溜息をつきます。

さ、寒いですぅ……。

早く着替えて事務所に行かないと……でも暖かなお布団からはなかなか出られません。

どのタイミングで出ようかともぞもぞしていると、ぽこっと何かを蹴飛ばしてしまいました。

同時に、布団の中から転げ落ちる一つの影。

「あ、はるかさん……」

すっかりと存在を忘れていたはるかさんを急いで抱き上げます。

「すぴーすぴー」

少し強めに当たったと思いましたが、はるかさんはすやすやと大きな鼻ちょうちんを膨らませていました。


起こすのも悪いと思ったので、朝食は部屋で摂ることにしました。

はるかさんは朝食はご飯派なのか、パン派なのか。

その辺りは不明ですが、やよいちゃんのお家に泊まることが多いので、きっとお米派だと推測します。

いくつかのおにぎりをこたつの上に置き、今のうちに着替えを済ましておきます。

「ヴぁ?」

出来立てのおにぎりの匂いと暖かな空気の流れではるかさんが目を覚まします。

「はるかさん、おはよう」

「かっかー……」

まだまだ眠そうなはるかさんですが、あんまり寝ていると朝ごはんを食べる時間がなくなります。

私は事前に湿らせておいたタオルで、よだれで口元が汚れたはるかさんの顔を丁寧に拭き取りました。


「は~るかっか~」

朝食を終え、はるかさんとお仕事の時間が来るまでまったりとします。

相変わらず部屋をごろごろと転がり続けるはるかさんは、すっかり寛いでくれているようです。

時折、私のところへ這ってきて頭を擦りつけてくるので、撫でたりみかんをあげたりします。

いつぐらいに事務所に行こうかな~とはるかさんに微笑みながら考えていると、家の呼び鈴が鳴りました。

まだ七時半なのに、誰なんだろう。もしかしたら真ちゃんかな?

気になって窓の外を見てみると、私が昨日乗って帰ってきた車がどどーんっと家の前にありました。

伊織ちゃんどうしたんだろう?

携帯を手に取ると、メールが二通と電話が一回来ていました。

朝ごはんを取りに言っている短い時間に着信していました。

メールはどちらも簡潔な文ですが、何か様子が変です。

『おはよう雪歩。はるかさんに食べられてない?』

『雪歩、生きてるなら返信して!すぐに行くわ!』

私、伊織ちゃんの中では死んだことになってるみたいです。


「雪歩、生きてる!?」

息を切らした伊織ちゃんが玄関で叫んでいました。

「伊織ちゃん、朝から近所迷惑だよ?」

「ああ、よかった。本当にはるかさんに食べられたかと思って心配したわよ」

たったメールを一通返さなかっただけで慌てるなんて、伊織ちゃん、大げさだなぁ。

「かっか……」

伊織ちゃんの所業に傷ついたのか、はるかさんもちょっぴりテンションダウンです。


せっかくなので、ついでに乗せていってもらえることになりました。

「よくはるかさんを増やさずに一晩過ごせたわね」

伊織ちゃんが珍しく褒めてくれます。

増えることについては覚悟はしていました。

しかし、思いのほかはるかさんが暴れなかったので、奇跡的に回避できました。

「えへへ、はるかさん、昨日は良い子だったもんね」

「はるかっか!」

「そんなに大人しいのなら、今度は私も連れて帰ろうかしら」

にひひっと笑いながら、伊織ちゃんがはるかさんの頭を撫でようと手を差し出しました。

「あんむっ」

しかし残念なことに、行き先ははるかさんの口でした。

「……やっぱやめとくわ」

はるかさんの手袋を嵌めたまま、涙目で伊織ちゃんは呟きました。


比較的早い時間ということもあり、事務所には静かに入りました。

もしかしたらまだプロデューサーが眠っているかもしれなかったからです。

伊織ちゃんの予想は見事に的中。

ソファで寝息を立ててプロデューサーは眠っていました。

そんなプロデューサーに、落ちた毛布をかけていたアイドルが一人いました。

「あ」

私たちに気がついて、一瞬だけ声を挙げますが、すぐに口を両手で塞ぎました。

「おはよ、やよい」

「やよいちゃん、おはよ」

「伊織ちゃん、雪歩さん、おはよーございます」

「かっかっ」

太陽の笑顔で、囁くようにご挨拶。

やよいちゃんは今日も元気一杯、頭上のはるかさんと一緒に両手を挙げました。


給湯室に移動して、早速私はお茶を淹れる準備をします。

「かっか」

「かー」

「はるかっか」

「かっかっ」

「かっか」

「かっかー!」

テーブルの上では私の家に泊まったはるかさんと、やよいちゃんの家に泊まったはるかさんが話して(?)います。

小さな手を揃って動かしている様は、まるでお人形さんのおままごとです。

「ねえやよい、はるかさんたち何話してるの?」

「雪歩さんの家に泊まって楽しかったって話してるよ」

伊織ちゃんの疑問に、やよいちゃんは普通にそう答えます。

響ちゃんといい、どうしてはるかさんの言ってることが分かるんだろう。

案外分かってなくて、雰囲気だけで察してるのかも?と邪推してしまいます。

「やよいちゃん、ぐ~ ま~ ぐまぐまま ま?」

「ぐま!ま~ ぐ~ ぐまぐまま ぐま!」

まさかの即答。

やよいちゃん、怖いですぅ。


「おっはよーございまーす!」

お茶を飲みながら二人のはるかさんを眺めていると、春香ちゃんの声がしました。

「かっかっ」

テーブルの上にいるはるかさんも、やよいちゃんの膝の上にいるはるかさんもその声に素早く反応しました。

同時に伊織ちゃんと私の口から溜息が出ます。

「はぁ……厄介なのが来ちゃったわ」

言いたいことは分かります。

はるかさんを誰よりも溺愛している春香ちゃん。

二人もいるはるかさんを見ると、春香ちゃんは確実に暴走します。

きっと今日もはるかさん増殖用のペットボトルを持って来てるんでしょう。


「みんな早いね。おはよー」

春香ちゃんは私たちに顔を出して早々に、テーブルの上にいたはるかさんに目をつけました。

「はっるっかっさーん。元気にしてたー?」

「はーるかっかー!」

テーブルの上にいたはるかさんがすぐに春香ちゃんに飛びつきました。

「わぁー!?」

どんがらがっしゃーん。

さすがに突然抱き付かれるのは準備してなかったのか、春香ちゃんは転んでしまいました。


「はるかっか、はるかっか」

「はるかさん、私も寂しかったよぉ~」

「かっかー!」

春香ちゃんははるかさんを抱いたまま床をゴロゴロ転がります。

今朝のはるかさんと同じ行動にちょっと苦笑い。

冷たい床は何のその。

はるかさんに対する熱で、春香ちゃんは天国にいるようです。

そんな春香ちゃんに応えるように、はるかさんは親愛の証である甘噛みをします。

「いいなぁ……」

ちょっとだけ羨ましいと思ってしまいました。

春香ちゃんとはるかさんの仲に嫉妬してしまったんでしょうか。

「春香さん、プロデューサーがソファで寝てますから、少し静かにしませんか?」

「あ、そうなんだ。じゃあ私、はるかさんと散歩に行って来る!」

やよいちゃんからの注意に、春香ちゃんはすっと起き上がります。

嫌な予感がしました。


「は、春香!」

「え、どうしたの伊織?」

伊織ちゃんが叫ぶのも手遅れ。

持っていたペットボトルの蓋を開けた春香ちゃんは、中の水をドボドボと何の躊躇もせずにはるかさんにかけました。

ぽんぽんぽんぽんぽぽんぽぽん。

「はるかっか」
「はるかっか」
「はるかっか」
「はるかっか」
「はるかっか」

いつものこととは言え、やはりこの圧巻な光景を見ると口が塞がりません。

ねずみ算式に『ヴァーイ』という声が増加します。

瞬く間に出来上がったはるかさんの群れに対して、今の私たちができることは何もありません。

これを止められるのは律子さんしかいないからです。

あわわわわ……。


「はーるかっかー!!」

春香ちゃんは大量のはるかさんに抱えられ、これまた得意満面に笑っています。

そしてはるかさん軍団の指揮官は高らかに命令を下しました。

「はるかさん、いっけー!」

「ヴァーイ!」
「ヴァーイ!」
「ヴァーイ!」
「ヴァーイ!」
「ヴァーイ!」

不思議と統制の取れたはるかさん'sは、津波のごとき轟音と声を挙げて外へ行きました。

玄関扉は蝶番だけを残した無残な姿となり、付近の観葉植物などは綺麗に粉砕されていました。

今日も律子さんの怒髪天を衝く声が響き渡りそうです。

伊織ちゃんも同じことを考えてしまったのか、がっくりと肩を落としました。


嵐が去るのを呆然と見送り、私もほっと一安心です。

構えていたスコップをしまうと、

「雪歩さん」

やよいちゃんが抱いていたはるかさんを私の方へ出してきました。

「どうしたのやよいちゃん?」

真意が分からず、少しだけ首を傾げると

「今の雪歩さんなら、もっともーっとはるかさんと仲良くなれるかなーって!」

そう言ってやよいちゃんが満面の笑みを向けてくれました。

私の独り言は、やよいちゃんにバッチリ聞こえてたようです。

「かっかっ」

はるかさんも嬉しそうに、両手を順番に上げて歓迎してくれています。

「あの、私でいいの?」

そっと手を近づけると、はるかさんは猫のように私の掌へ頬擦りをしてくれました。


「はるかさん」

「かっか」

「えへへ、呼んでみただけ」

「かっかー」

名前を呼んだだけなのに、はるかさんはとても嬉しそうです。

声を出すたびに前倣えをする姿も、今では怖さから愛らしさに変わっていました。

「はるかさん」

「かっかっ」

緩んだ口元から零れる笑みが抑えきれませんでした。

やよいちゃんの期待の眼差しに応え、はるかさんをゆっくりと受け取りました。


目線の高さまではるかさんを持ち上げます。

はるかさんが楽しそうに頭を揺らす動作に、私も合わせてリズムを取ってみます。

少しははるかさんと仲良くなれたかな。

まだまだ怖いところはいっぱいだけど、それもはるかさんの甘え表現の一つと考えられるようになったのは大きな進歩かもしれません。

いつか、私もはるかさんと話ができるようになる日が来るといいな。

そうすれば、もっともっと仲良くなれると思うから。

「これからもよろしくね、はるかさん」

心のままにはるかさんを抱き、ぽかぽかの太陽の匂いがする柔らかい髪に頬を寄せました。

「かっかー!」

お返しにと、はるかさんは元気な返事をしてくれ、そしてその大きなお口で私の頭を丸呑みしました。

えへへ……………………やっぱり無理!!



つづく……?


以上です。
はるかさんを書いて見たかったので、雪歩には犠牲になっていただきました。
続き前提で書いてしまいましたので、ぶったぎり終了ですいません。
次はまともに終わらせます。多分。

ご清覧、ありがとうございました。

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