モバP「星のしずく」 (29)

 まだ、彼女がデビューしていないときのことだった。

 アナスタシアが、「星を見たい」と言った。

「星?」

 思わず問い返すと、彼女は頷きを見せた。

「ダー。Город………都会のものではなく、もっと、綺麗なものを」

「ふむ………」

 いつもは滅多におねだりなどしない彼女のたっての願いだったので、随分と張り切ったものだ。

 正直なことを言うと、当時彼女とはうまくいっていなかったと思う。

 自分にとって初めてのアイドルであり、初めてのプロデュース業ということもあってどうあるべきかを測りかねていた。

 もちろん事務所に先輩のプロデューサーはたくさんいたし、その中にはあの渋谷凛や高垣楓をデビューさせ今や一流プロデューサーとして名を馳せている方だっていた。

 だが、彼らにプロデューサーの在り方について学んだところで、誰もが皆最後は「アイドルの最善のために臨機応変に対応する」ことを何よりもの目標として掲げ、担当アイドルに適したプロデュース方法を取らなければならないため必勝法などというものはないから地道に行け、と語った。今思えば、その言葉に少し甘えていたのかもしれない。

 彼女もまた、謙虚で丁寧な物腰ながら、どこかぎこちなさを隠せないでいた。いや、そんな姿勢で一線を引いているようにさえ思えた。

 アイドルとプロデューサー。

 二人三脚で進むには、少しばかり息が合っていなかった。

 そんな時に、彼女から「星を見たい」と言われた。

 夏の暑い日のことだった。

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 星を見に行くことになった日。

 レッスンを終えたアナスタシアを拾って目的地へと向かった。 

 万が一事故を起こしても怪我が少ないようにと、いつも後部座席に座らせている。

 バックミラーに映るアナスタシアは居心地悪そうに車に揺られていた。

「………それなりにかかるから、横になっていていいぞ」

「いえ………大丈夫です」

「………そうか」

 おせっかいを焼いてしまったと反省し、運転に集中する。

 先輩方は比較的アイドルと言い方は悪いがべったりと接している人が多い。例えば、前述の渋谷凛のプロデューサーは毎週渋谷凛の家で夕飯をご馳走になっているらしい。事務員がスキャンダルに怯えだすほどに親密な関係になることで彼女たちをよく知りプロデュースしていくという方針は彼女たちを誰よりも大切に思うプロデューサーの鑑ともいえる姿勢があってこそのものだろう。

 先輩方はそういう在り方もいいが、仕事上のパートナーとして付き合っていくというのもある、と道を示してくれた。

 自分とアナスタシアの在り方は、そういうものかもしれない、と考えたその時、

「あの………プロデューサー」

 アナスタシアが、不安そうに声をかけてきた。

「どうした?」

 問い返すと、彼女は一度目を逸らした後、勇気を振り絞るかのように手をぎゅうと握り、口を開いた。

「Пассажирское место………助手席に座ってもいいですか?」 

「助手席? ………すまない、酔ったのか?」

 後部座席は比較的車酔いしやすいと聞いたことがあったのでそれかと思ったが、首を横に振られた。

「いえ、そんなことは………ただ」

「ただ?」

 アナスタシアは言いづらそうに口をつぐんだ後、それでも言葉を続けた。

「………隣に誰もいない後部座席は、少し寂しいです」

「………そういうものなのか」

「はい………」

 うつむくアナスタシア。

 いつもは運転している側だからそんなことはまるで気づかなかった。

「それは、すまなかった。今路肩に止めるから、その時に」

「………いいんですか?」

「ああ。こちらも、誰かが隣にいてくれた方がありがたい」

「そうだったんですか………」

 交通量が少ない道に出るまでしばらく沈黙は続いた。

 しかし、バックミラーに映るアナスタシアは先程よりもいくらか安らいで見えた。

 助手席に乗ってきたアナスタシアに飴の袋を差し出した。

「Конфета………飴、ですか?」

「運転席と助手席は空調が直当たりするからな。喉のためにも舐めておいた方がいい」

「ダー………ありがとうございます」

 小袋を一つつまんで、彼女は飴玉を口に放り込み、ころころと舐め始めた。

「………眠かったら遠慮せず寝ていいからな? レッスンで疲れているだろうし」

「いえ、まだ元気です。………楽しみにしてましたから」

「………ご期待に添えるか心配だがな。先に言っておくがお前の故郷の星空ほど綺麗なものはさすがに見れないと思う」

 あまり期待するなよとハードルを下げようとしただけなのに、随分と突き放すような言い方になってしまった。

 せっかく上機嫌なアナスタシアを不快にしてしまったかもしれない、と思ったが、彼女はくすりと笑い、

「それくらい分かってますよ。………それに、どんな星空にだって良さはありますから」

「都会の星空にも?」

「………少しだけ考える時間をください」

「無理する必要はないぞ。良さがないならないで構わない。ただ、たまに見上げる夜空がアナスタシアの中ではあんなもの星空と名乗っていいものではない、となっているということになるが」

「う………Больной-tempered」

「…………それはなんという意味なんだ?」

「意地悪、という意味です」

「そうか………ちなみに責任転嫁はどう言うんだ?」

「………………Больной-tempered」

「それは意地悪という意味だと聞いたが…………」

「うー…………」

 恨みがましそうにこちらを見るアナスタシアに、少しだけ、いや、多大な心地よさを得ていた。

 こんな風に軽口を叩いたのは初めてのことだったからだ。 

「わぁ……………!」

 目的地である山の頂上付近の広場に着くなり、アナスタシアは我先にと車を降り、目を輝かせた。

「プロデューサー、Звезда…………星です!」  

「そうだな」

「とても………とても綺麗です………!」

 満天の星空を見上げながら、アナスタシアは何度もハラショーハラショーと言った。確か、素晴らしいという意味だったか。

 彼女の言う通り、星空はそれはそれは見事なものだった。

 都会ではまず見れない星の海には少なからず心を揺らされる。

 だが、それ以上に心を揺らしてくるものがあった。

「プロデューサー! Milky Путь………天の川が見えます!」

 これほど無邪気に笑う彼女の顔を見たことがなかった。

 いつも落ち着いているアナスタシアを見て、滅多に感情を表に出さない彼女を見て、いつのまにか自分はそういうものなのだとイメージを押しつけてしまっていたようだった。

 彼女だって、まだ十五才の少女なのだ。

 星空を見て目を輝かせるような、そんな純粋な心を残しているのだ。

 この笑顔を、皆に見せたいと思った。

 この笑顔こそが、この純粋さこそが彼女の何よりもの魅力だと思った。

 ようやくこの時、彼女のプロデュース方針が固まった。

「………プロデューサー?」

「ああ、悪い。………ほら、シートを持ってきてある。寝転んで夜空を眺めるといい」

「Действительно? ………アー、本当ですか? 用意がいいですね」

「なに…………担当アイドルからの初めてのおねだりだ。準備万端でないと申し訳が立たない」 

 そう言うと、アナスタシアは意外そうな顔をした。

「Я был рад………私からお願いされて、嬉しかったんですか?」

「…………もちろん。アイドルに頼られるのはプロデューサーとしては喜ぶべき事柄以外の何物でもない」

「…………そうだったんですか」

 彼女は一度うつむいて、口を開いた。

「てっきりプロデューサーは、私とは仲良くしたくないのかと思っていました」

「…………そうなのか?」

「ダー。…………運転中はいつも静かですし、事務所で話しかけた時もあまり楽しそうにはしていませんでした」

「そうか…………」

 言われて、ぐにと頬を触る。

 自分としてはにやけているくらいの自覚があったのだが、現に頬は微動だにしていない。

「……………………すまない。一応自分では笑っているつもりだったんだ」

「そうなんですか?」

「ああ。…………プロデューサーとしてあるまじきものだとは思うが、人に話しかけるタイミングというものを掴むのが苦手でな。アナスタシアに話しかけられたときはいつも嬉しくて仕方がなかったよ。…………まあ、何を話せばいいかよく分からずぎこちない会話になってしまったが」

 申し訳なさに頭を掻くとアナスタシアも苦笑を返してくれた。

「そうでしたね…………いつも会話が続かなくて、困ってしまって」

「思えば…………そのせいで余計にぎこちなくなっていたんだろうか」

「そうでしょうね。Порочный круг………悪循環です」

「悪循環か………」

 プロデューサーとして失格だ。

 自らアイドルとの距離を離していたようなものなのだから。

 だが、今気づいたのだから、最悪ではない。

「………アナスタシア」

「はい?」

「………その、今日はお願いしてくれてありがとう。おかげで、お前をちゃんとプロデュースできそうだ」

「………そうですか」

 彼女は柔らかな笑みを浮かべ、

「………期待してますよ、プロデューサー」

 にっこりと、まぶしい微笑みを向けてきた。

 あの天体観測からしばらくして、ついにアナスタシアはデビューした。

 日本ではあまり見受けられないそのビジュアルは人々を魅了し、謙虚ともいえる姿勢が反感を生むことなくアナスタシアというアイドルを世間に広めた。広めたはずなのだが………。

「プロデューサー、星を見に行きたいです」

 謙虚な姿勢はいづこへ、あの天体観測以来、アナスタシアはひどく甘えん坊になった。

「この前行ったばかりじゃないか………」

「また見に行きたいんです。お願いします」

 くいくいと袖を引かれ、溜息を吐く。

 原因はおそらく自分があの日アイドルに頼られるのは嬉しいと言ってしまったことだろうし、実際このように甘えられるのはそれだけ彼女が自分を信頼してくれているということなので喜ばしいことなのだが、車で一、二時間程度で向かえる箇所で綺麗な星空が見えるところというのはそう数がなく、それを探すためプロデューサー業の合間にネットを漁らなければならない羽目になるので個人的にはあまり喜ばしくない。

「………ダー。甘えられて嬉しいですと言っていたのは嘘なんですね」

「その言い方だと渋谷に甘えられて鼻の下を伸ばす中年のように思われるからやめてくれ」

「おいこら巻き込み事故を起こすんじゃない。つうかまだ三十なったとこだっつうの。中年じゃねえし」

 誰かが何か言ったが無視する。だがアナスタシアが絡んでいった。

「聞いてください凛のプロデューサー。プロデューサーが甲斐性なしなんです」

「天体観測くらい連れてってやれよ。若いのは走ってナンボだろ?」

「いやまあ、連れていきますけど………」

「わぁ………!」

 渋々承諾すると、アナスタシアはあの日のように瞳を輝かせ、

「ありがとうございます、プロデューサー!」

 満面の笑みを浮かべてくるものだから始末に負えない。

 目的地へ向かう車中では、以前のように居心地の悪い沈黙が生まれることがなくなった。 

「今日、幼少組に無表情で怖いって責め立てられたんだが………」

「ダー………プロデューサー、滅多に表情が変わりませんもんね」

「これでも笑顔を作る練習はしているんだが………」

「そうなんですか? なら今やってみてください」

「よしきた。………ほれ」

「………ダー。気持ち悪いです」

「………………そうか」

「………別に無表情だから怖い、と言っているのではないんですよ、きっと」

「そうなのか?」

「はい。………無表情でも、ちゃんと優しいところを見せれば彼女たちもきっと慕ってくれるようになりますよ。雪美みたいに鋭い子はもう気づいてるんじゃないでしょうか」

「そういえば雪美だけ無言で慈しむような笑み浮かべてたな………あれ絶対憐れんでるんだと思ってたが」

「雪美をなんだと思ってるんですか………」

 他愛もない話が弾む。

 バックミラーに映る彼女がどんな表情をしていたのか、もう思い出せなくなっていた。

「………お?」

 目的地へと続くとされる道には、草木が生い茂っていた。

「………しまったな。カーナビが古いんだった」

 昔は車も通れたのだろうが、今はそうはいかなくなっているようだ。

「アナスタシア、歩け………」

 るか、と問おうとして彼女のショートパンツが目に入った。

 これで草木生い茂る道を歩けというのは酷すぎるだろう。

 それに万一かぶれでもしたら一大事だ。

「………アナスタシア、少し我慢してくれるか?」

「はい?」

 首をかしげる彼女と車を降りる。

「………重く、ないですか?」

「まったく。むしろ軽すぎて驚くくらいだ。ちゃんと飯は食べれているか?」

「ダー。寮のご飯美味しいです。お菓子がよく出るのが玉に瑕ですけど………」

「………女の子的には嬉しいことではないのか?」

「その………体重が………」

「ああ………」

 仕方なく、アナスタシアをおぶって向かうことにした。

 彼女は特に嫌がることもなく素直に従ってくれた。 

「悪いな………男に背負われるなんて、あまり好ましいこととは思えないが我慢してくれ」

「いえ………………」
 アナスタシアは首に回した腕に少しだけ力を込めて、

「………頼りになる背中です」

 そんなことを言ってくれた。

「………そうか」

「…………………ダー」

 目的地に着いたはいいが、

「しまったな………」

「今日はНеудача………失敗が多いですね。もしかして、お疲れですか?」

「いや、そんなことはないと思うが………」

 言いながら荷物を確認する。

 山道を歩くということで運よく車に積んであったリュックにシートや飲み物を入れたのだが、

「枕を忘れた………」

「Действительно?」

 本当ですか?

「ああ」

「そうですか…………」   

 肩を落とす彼女に申し訳ない気持ちで胸がいっぱいになる。

 アナスタシアはシートの上で寝転ぶのをひどく気に入っていた。

 そのお供である枕を忘れてしまった罪はさぞ大きいことだろう。

「すまないが、今日は枕なしで我慢してくれ」

「ダー………分かりました」

 頷き、ころんと横になる。

 せっかくの星空だというのに、少しだけ翳って見える。

 なんとも勿体ない。

 アナスタシアも似たようなことを考えていたのか、やりきれないような表情で夜空を眺めていたが、ふと、

「………プロデューサー」

「どうした?」

「………やっぱり枕ほしいです」

「そうか………」

 どうしてもというなら仕方ない。

 忘れてしまったのは自分だし、車まで取りに行くとしよう。

 そう思って彼女に背を向けようとしたのだが、

「………プロデューサー」

 彼女にもう一度呼ばれた。

「なんだ?」

「………隣、来てください」

 そう言って彼女はまだいくらか余分のあるシートをぽんぽんと叩いた。 

「………枕、貸してください」

 ちらり、と横目でこちらを見て、彼女は言った。

「………………プロデューサーの、腕枕」

「………重く、ないですか?」

「まったく。むしろ軽すぎて驚くくらいだ。ちゃんと飯は食べれているか?」

「ダー。寮のご飯美味しいです。お菓子がよく出るのが玉に瑕ですけど………」

「………女の子的には嬉しいことではないのか?」

「その………体重が………」

「ああ………」

 仕方なく、アナスタシアをおぶって向かうことにした。

 彼女は特に嫌がることもなく素直に従ってくれた。 

「悪いな………男に背負われるなんて、あまり好ましいこととは思えないが我慢してくれ」

「いえ………………」
 アナスタシアは首に回した腕に少しだけ力を込めて、

「………頼りになる背中です」

 そんなことを言ってくれた。

「………そうか」

「…………………ダー」

「………寝心地は悪くないか?」

「………大丈夫です」

「………固くないか?」

「………ちょうどいいです」

「………そうか」

「………はい」

 懐かしいぎこちなさを感じながら、アナスタシアと二人、並んで寝転んで、星空を見ていた。

 彼女と二人、色んな所へ星を見に行ったが、何度見ても星空というものは飽きないもので、いつも心を魅了される。

「………いつも甘えてしまってすいません」

 急に、アナスタシアがそんなことを言った。

「………気にするな、いつも頑張っているお前へのご褒美だ」

 持って生まれたルックスや才能がありながらもアナスタシアはそれらをさらに磨き上げようと日々努力している。頑張り屋なのだ、このアイドルは。毎日汗まみれになりながらダンスも歌も芝居もしている。ファンには見せられない泥臭い努力を褒めてやるのもプロデューサーの仕事なのだと分かっていた。

 だが、そんなこちらの言葉に、アナスタシアは淡い迷いを顔に出した。

「………私は、頑張れているのでしょうか」

 デビューしてほぼ二か月。

 彼女のアイドルとしての活動は、うまくやれているどころか、十二分すぎて困るほどだった。

 だが、彼女がほしいのはそんな即物的な言葉ではないと思った。

 だから、言った。

「………お前は、星だ」

「え?」

 疑問符を浮かべるアナスタシアの横で、星空を指差す。

「あの空の星のように、ただそこにあって、ここにいるよと知らせるように光っているだけで、誰かの心を癒し、震わせる。

 今のお前は、まさにそれと同じだ。

 お前がステージに立つだけで、元気をもらう人がいる。楽しくなれる人がいる。

 誰かのためになれているのなら、それはアイドルとして最善だ。文句など言いようもない。

 だから………お前は十分に頑張れているよ」

「プロデューサー………」

「まあ、レッスンはちゃんとやってもらうがな」

 照れ隠しに付け足した言葉に、彼女は笑みをこぼし、

「………………当然です」  

「………………そうか」

 沈黙が訪れる。

 しかし、決して心地の悪いものではなかった。

「………………プロデューサー」

「なんだ?」

「………………ありがとうございます」

「………………………なに。星空にあてられただけだ」

 アナスタシアがユニットを組むことになった。

 その名もにゃん・にゃん・にゃん。

 ………高峯や前川が猫耳を付けているのは見たことがあったが、アナスタシアの選考理由が「アーニャ」という彼女の愛称から「あーにゃん」という名前が思いついたので、というよく分からないものだった。

 それでいいのかと思ったが高峯や前川などの大物アイドルと共に活動するのは彼女にとっても大きな利益となると思ったので快く彼女を送り出した。

 もちろんアナスタシア個人の活動も続いているが、売り出しということもあってにゃん・にゃん・にゃんの活動時間の方が多く、またにゃん・にゃん・にゃんは別のプロデューサーの管轄であるためアナスタシアと顔を合わせる機会も随分と減ってしまった。

「その………うまくやっているか?」

 よほど不安げな顔をしていたのだろう、アナスタシアはこちらをぽかんと見つめた後、くすりと微笑みをこぼした。

「ダー。皆さんにはよくしていただいてます」

「そうか………」

 頷いてから、事務所で会う度に同じ質問をしてしまっていることに気づく。

「もしかして心配してくれてるんですか?」

「………それはな」

「………………ダー。嬉しいです」

「当たり前のことだ。喜ぶな」

 憮然とした態度で返したが、

「……………今夜、久々にどうだ」

 彼女のなんとも嬉しそうな笑顔を見ると、ついもっと喜ばせたくなるのは、プロデューサー的には間違っていないはずだが、どうだろうか。

「プロデューサー」

「どうした?」

 デスクワークに励んでいたこちらに、アナスタシアが駆け寄ってきたかと思うと、ずいと顔を寄せてきて、

「あーにゃんです」 

 なんとなく上機嫌そうに見える上目づかいでこちらの反応を伺う彼女に、いったい何を求められているのかと首を傾げかけたが、その瞳のさらに上、彼女の頭にある違和感の塊に気がついた。

「………ああ、猫耳を付けたのか。暑さにやられてうわごとを言ったのかと思った」

「Больной-tempered…………」

 上目でこちらを睨みつけながらいじける顔に懐かしささえ覚えた。

 件のユニットがあんまり引っ張りだこなために、ここの所あまり話していなかった気がする。 

「………で、猫耳なんぞ付けてどうした」

 会話を続ける姿勢を見せると、彼女はぱあとその表情を明るくして、ずい、とさらにこちらへ身を乗り出すようにして言葉を紡ぐ。

「似合ってますか?」

 至近距離から覗く人形のような整った顔立ちの眩さに幾らかたじろぐ。

 しばらく見ないうちに、随分と綺麗になったものだ。

 喜ばしいことではあるのだが、彼女との距離が離れてしまったようで少しだけ寂しい。

「似合うには似合うが………ぶっちゃけお前は猫ではないな」

「そうですか?」

「ああ。………前川は言わずもがなだし、高峯も自由気ままなところが猫っぽいが、お前に猫要素ない。断じてない」

「あーにゃんです」

「名前だけじゃないか………毛色的にはスフィンクスとかに見えなくもないが、内面がな………」

「Рыба………魚好きです」 

「それ前川の前で言うなよ………」

「あーにゃんです。Кот………猫なんです………にゃん」

「取ってつけたように語尾を付けるな」

「猫なんですってば………」

 ふんすふんすと鼻息を荒げるアナスタシアに、俺は一つ溜息を吐き、

「………アナスタシア。今度湖のほとりで星が見えるところを見つけたんだ。よければ一緒に行かないか?」

「Действительно!?」

「ほら、喜ぶ姿なんか犬が尻尾振ってるみたいだし。どちらかと言えば犬だ」

「ね、猫です! にゃん!」

「どうしてそんなに猫にこだわるんだお前は………」

「だって………」

「なんだ」

 アナスタシアは言い辛そうに視線を右往左往させてから、それでもこちらへ視線を合わせ、

「………猫なら、合法的に下顎を撫でてもらえると、のあさんが………」

「高峯さん? 後でちょっといいですか? ええ、うちのアナスタシアに変な知識を植え付けないでください」

「………にゃん」

「それで誤魔化されるのはあなたのプロデューサーだけですよ」

 再度溜息を吐く。


「プロデューサー、そんなに溜息を吐いては駄目ですよ。Счастье………幸せが、逃げてしまいます」

「誰のせいだと思っている………あと語尾忘れてるぞ」

「あう………………」

 しょぼんと落ち込むアナスタシア。ついでとばかりにその猫耳も垂れ下がる。大方池袋の発明か何かなのだろう。

「難しいですね、猫………にゃん」

「………………そんなに下顎を撫でてもらいたかったのか?」

「いえ、別に………………」

「………………なんだそれは」

 頷かれていたら、セクハラを承知で撫でてやろうと思ったのだが。

「………最近、プロデューサーと話してません」

「ユニットのプロデューサーと、か? 何か不満でもあるのか?」

「違います。………私の、プロデューサーとです」

「………………俺か?」

 こくりと頷く。ふむ。

「………………………嬉しいことを言ってくれるじゃないか」

「え………………」

「あ、いや………………」

 心の内でつぶやいたつもりだった。だが、外に漏れ出てしまったのなら仕方ない。

「………………正直、もう俺のことなど忘れているかと思ったよ。『にゃん・にゃん・にゃん』で、お前の知名度は随分と上がった。………もう、雲の上にでも行ってしまったのかと、そう思っていたんだがな」

 はは、と乾いた笑みがこぼれる。

「それでもまだ、俺のことをプロデューサーと呼んでくれるのか。………嬉しいよ、アナス」

「Глупый!!」

「ぶっ」

「プロデューサー、そんなに溜息を吐いては駄目ですよ。Счастье………幸せが、逃げてしまいます」

「誰のせいだと思っている………あと語尾忘れてるぞ」

「あう………………」

 しょぼんと落ち込むアナスタシア。ついでとばかりにその猫耳も垂れ下がる。大方池袋の発明か何かなのだろう。

「難しいですね、猫………にゃん」

「………………そんなに下顎を撫でてもらいたかったのか?」

「いえ、別に………………」

「………………なんだそれは」

 頷かれていたら、セクハラを承知で撫でてやろうと思ったのだが。

「………最近、プロデューサーと話してません」

「ユニットのプロデューサーと、か? 何か不満でもあるのか?」

「違います。………私の、プロデューサーとです」

「………………俺か?」

 こくりと頷く。ふむ。

「………………………嬉しいことを言ってくれるじゃないか」

「え………………」

「あ、いや………………」

 心の内でつぶやいたつもりだった。だが、外に漏れ出てしまったのなら仕方ない。

「………………正直、もう俺のことなど忘れているかと思ったよ。『にゃん・にゃん・にゃん』で、お前の知名度は随分と上がった。………もう、雲の上にでも行ってしまったのかと、そう思っていたんだがな」

 はは、と乾いた笑みがこぼれる。

「それでもまだ、俺のことをプロデューサーと呼んでくれるのか。………嬉しいよ、アナス」

「Глупый!!」

「ぶっ」

 頬を張られた。それも猫耳を付けた生娘に。

 その生々しい音に事務所にいた面々の視線が一挙集中するが、アナスタシアはそれを気に掛ける様子もなく、

「Глупый!! Глупый!! Глупый!!」

「ちょ、ちょっと待てアナスタシア。そういうものは一発と相場が決まっている。そう何度も張ろうとするな!」

 慌てて正面から両の手首を掴むと、自然、彼女と向かい合うような体勢になる。

「Глупый………プロデューサーのГлупый………!」

 端正な顔立ちは、煮えたぎるような怒りに染まっていた。

 こんな表情ができるのなら、悪役の一つや二つもこなせそうだ。

 …………こんな、悲しげな怒りを表現できるなら。

「Я был одинокий…………」

 事務所の誰もが見守る中、呻き声のように彼女が言葉を紡ぐ。

「私………ずっと、寂しかったんですよ? 私をここまで引っ張ってきてくれたプロデューサーと、一緒にいられなくて」

 まっすぐにこちらを見据え、こちらの心へ刻みこむように彼女は言う。

「確かに、のあさんも、みくさんも、にゃん・にゃん・にゃんのプロデューサーさんも、いい人でした。けど、プロデューサー。私をトップアイドルにしてくれるのはあなただけです。あなたしかいないんです」

「アナスタシア…………………」

「……………私は、星です。そして、その星を見つけてくれたのは、あなたです、プロデューサー。だから、たとえファンが誰もいなくなったとしても、誰も見向きもしてくれなくなったとしても、プロデューサーは、プロデューサーだけは、私を見出したものとして、ずっと見つめている責任があります。たとえ雲の上で輝いていたとしても、いつか雲の合間から顔を出してくれると信じて。………見出されたものとして、ずっと輝き続けていますから。だから………………忘れているなんて、簡単に言わないでください………………」

 ほろり、と涙が流れたかと思うと彼女は堰を切ったかのように泣き出してしまった。

 ………こちらの胸に顔を預けて。

「ハグ、ハグだぞ後輩」

「男は度胸! ですよ!」

「わかるわ」

 外野がうるさい。

「お前ら………………それでもアイドル業界の人間か………」

 しかし、そこに込められた冷やかし的な意味はともかくとして、単なる指示としてはまっとうなものだと思った。

 幸い、事務所にマスコミ関係者はいない。

 いるのは腹黒い事務員とプロデューサーとアイドル諸君だけだ。

 ………………後で話の種にされることは分かっているが、仕方あるまい。自業自得だ。

「………………………アナスタシア」

 おずおずと回した腕は、五秒ほどの逡巡を経てようやく彼女の背に触れた。

 その腕の感触から自身の手首が解放されていることに気づいたのか、アナスタシアもまた、空いた腕をこちらの背に回してきた。

 俊敏な動きに外野から驚嘆の声が上がる。

「H(#%HQ8HGy38hyq4h!!」

「…………すまない、何を言っているかさっぱりだ」

 アナスタシアは未だ俺の胸に顔を押しつけたままだ。

「Hhj$rh4$i"#$jH!! L"O#Fkpgkg;o@K[ge!!」

「意思疎通する気はないのか………………」

「E4"gdg'49fgduGa!」

「うっふ………」

 どすんと背中を叩かれる。思いのほか力が強い。

 ………………………あ。

 ふと、彼女の奇行に思い当たることがあった。

「すまない、アナスタシア。あれだな、少し力が強すぎたか。胸に押さえつけられているから息もできない、とそういうやつだな。申し訳なうっふ………」

 腕の力を緩めようとした途端にまた殴られた。ああ、ちゃんと表記しよう。殴られた。叩いたなどという軽いものではない。この痛みは殴打のそれだ。

「こ、拳で語り合おうとは、なかなか肉体派じゃないか、アナスタシア………だがまあ、強い女性というのはいつだって魅力的なものだしな。人を魅了するアイドルもまた強い方がいいのだろうが多分その強いは心の強さなどを指すんじゃないだろうかうっふ……………」


 どす、どす、どす。

 小さな拳から繰り出される殴打が止まらない。 

「じょ、情熱的な語りかけをありがとう………だがなうっふ………………アナスタシア、あいにく俺の第二外国語はウサミン語でな、肉体言語ではお前と語り合えないからうっふ………………ど、どうか一度言葉で語り合ってはくれないか? なんだったら、ロシア語でもいいから………」

「………………………………………」

 無言で彼女はこちらの胸から顔を離し、その目元をぐいとワイルドに拭った。

「………………………プロデューサー」

「ああ、なんだ?」

 久々の人語に胸をなでおろすこちらの眼前、アナスタシアは憮然としたひどく不機嫌そうな、どこかの不良少女のような表情のまま、口を開いた。

「Я был одинокий. 」

「…………そうか」

 寂しかった、と先程確か、そう言っていた。

「Сыграйте хитрость. 」

「………………………うん」

 意味は解らない。

「Ничего не при этой личности 」

「……………………」

「Дьявол. Дурной дух. 」

「…………………ニュアンスはなんとか伝わってるぞ」

 罵倒だな、多分。あの蔑んだ目からして。

「Падение к черту. 」

「…………………」

「В противном случае………………」

 そこで彼女はむすっと溜息を吐き、


「Женитесь. 」

「……………………トップアイドルになったらな」

「っ!?」

「はは、どうした。まさか知らないとでも思ったのか? お前が時折放つロシア語爆撃のために何本ロシア映画を見たことか」

「ぷ、ぷぷぷプロデューサー…………!」

 あわあわと目を回すアナスタシア。

 ひどい動揺っぷりだ。

「……………ああ」

 …………ああ、そうだった。

 アナスタシアは、こうだった。

 いつも落ち着いているからそういう人間かと思ってしまうが、本当はもっと子供で、愛らしい少女なのだった。

 ………なんとも薄情なものだ。少しの間、傍にいないだけでそれを忘れてしまうなんて。

「……………アナスタシア」

 彼女の前で、頭を下げる。

「…………………一人にして悪かった。そうだったな、お前のそういうところも含めてプロデュースできるのは俺だけだった」

「え、いや、その…………」

「なに、大丈夫だ。先程の件なら、どうせ他の奴らにはその意味が分かってないだろうから」

 現に周りのアイドルやプロデューサーたちは皆一様に不思議そうにこちらを眺めている。

 アナスタシアが何か大切なことを言ったのは分かっているのだろうが、それがどういう意味であるかはおそらく分からない。

「いや、えと…………ぷ、プロデューサーに聞かれたのが一番まずい気が………………」

「それに関しては自己責任だな。こちらが反撃しないと思って調子をこいた罰だ」

「…………………Больной-tempered」

「…………………それでも、お前のプロデューサーだからな」

「……………………………」

「何だその顔は。不服か」

「……………………Глупый」

「………………そうだな」

 その日、我が事務所のメーリングリストにて、猫耳のアイドルと抱き合う紅葉頬の男の写真が全社員に回された。

 訴えたら勝てると信じているが、



「………………アナスタシア。今隠したケータイを見せろ」

「хорошо………………」

「早くしろ。その待ち受けの画像にひどく見覚えがあるんだが」

「…………………にゃ、にゃん?」

「…………………待ち受けにするような写真か、それは?」

「счастье……………幸せ、でしたから」

「………………あぁ、そう」

「ダー……………」

 被害者の会の片割れが満足そうなので訴訟は起こせそうにない。

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