貴音「心中いたしましょう、あなた様」(114)
代行
【前編・雪山心中】
わたくしたちは今、雪に囲まれた、山間の温泉宿に来ております。
高木殿のはからいで、そうなったのです。
ほとぼりが冷めるまで、とおっしゃられていましたが、
報道は加熱していくばかりで一向にその気配はありません。
わたくしのことは何をいってもいい。
ですが、この方のことまで悪く言わないでほしいものです。
根も葉もない、憶測での中傷や噂にプロデューサーは深く心を痛めていました。
そんな様子をみるのが、わたくしにとっては何よりも耐え難く、――だからでしょうか?
わたくしは、ある提案をしたのです。
貴音「心中いたしましょう、あなた様」
期待
憔悴して、少し痩せてしまったプロデューサーは、
その提案を聞くと、力なくうなずきました。
毎夜寝付けず、睡眠薬を服用して眠る毎日はどれだけ辛いのでしょうか?
それなのに、わたくしには何もしてあげる事ができませんでした。
貴音「常世であれば、邪魔するものもきっとおりません」
世間は決してわたくし達の仲を許しはしないでしょう。
ならば二人だけ、心の中に生きていけるのであればそれで良い。
貴音「では今宵は全てを忘れ、最後の日を楽しむことといたしましょう」
ところで、普段から倹約していたわたくしの手には、
この一晩では使えきれぬ程のお金がありました。
どうせあの世までは決して持っていけぬもの。
ですから、今宵は思い切り散財することにいたしました。
貴音「美味な料理に舌づつみをうつ。これほどの幸せはないですね」
最後となる夕餉の膳には、
山海の珍味がところ狭しと並べられていました。
貴音「あなた様、口を開けてください」
箸でお刺身をとり、かつてそうしていたように
手ずから食べさせてあげます。
もとより世の目をはばかる交際でしたので、
発覚する以前の生活ではこうしたことでも
ささやかな楽しみとなっておりました。
貴音「わたくしもお酒をいただいてよろしいでしょうか?」
明日死ぬ身には、法などもはや関係ないでしょう。
酌をしていただいた盃を唇で迎え、一息に飲み干すと、
馥郁たる酒の香りが口いっぱいに広がりました。
貴音「料理によく合いますね。これほどにうまきものなら、
もっと早くに味わっておけばよかったです」
夕餉を終え、部屋に備えられている露天風呂で
ともに湯浴みをいたしました。
ほろ酔い気分で空を仰げば、
雲居の影から月が覗いております。
貴音「お背中を流して差し上げます」
背中からは、殿方の匂いが強く立ち上っていました。
それが消えてしまうのが惜しくて、いつもは石鹸を少なめに
体を洗って差し上げていたのですが、これでそれも最後です。
洗い終わって泡を流した後、頬をプロデューサーの背中に当てて、
その熱を感じていました。
冬の風で逃げていくその体温すらも、惜しく感じられてしまいます。
それからどれだけの時間そうしていたのでしょうか?
お互いの体はすっかり冷えてしまいました。
貴音「湯冷めをしてしまいましたね。いま一度湯に浸かりましょう」
しばらく湯を共にしているうちに、わたくしたちは
どちらともなく肌をあわせておりました。
ぴたりと密着しているせいで、鼓動がはっきりと
伝わってまいります。
貴音「あなた様……たくさん、愛してください」
狭い浴槽では動きも限られますが、
それでも動くたびに、湯はざばぁ、ざばぁと、
外へ溢れ出していきました。
揺蕩う湯の上に、形も定まらぬ月が映っているのが見えました。
抱きしめた手の片方を解き、それを掬おうとしてみても
指の間から逃げていくばかりで、何も残りません。
こんな時なのに、心に浮かぶのは未練ばかり。
明日からはもう、この月を見ることすらかなわないのです。
急に切なくなってまいりました。
再び両の手で、プロデューサーを抱きしめます。
貴音「もっときつく、愛してください……強く、もっと強く…」
お互いの存在を確かめあうように、わたくしたちは
また狂おしく交わりました。
翌日目を覚ました頃、もう日は高く、
晴天の空には、風花が舞っていました。
強く吹いている風が山の冠雪を飛ばしているせいです。
いつもより強い日差しのせいで、
その陰影までもがはっきりと見られます。
貴音「今日はまことよき日和ですね。
風が強いことだけが気になりますが、
夜までにはおさまるでしょう」
窓を開けて空を仰いでみれば、ひとひらの風花がふわふわと
こちらの方に落ちてくるのが見えました。
思わず掌を差し出すと、それは頼りなげに消えていき、
まるでこれからのわたくしたちのようです。
そんなことを考えていると、窓から入る冷たい風のせいで
プロデューサーも目を覚ましたようです
貴音「おそようさまです、あなた様。ちょうどもうすぐ昼食ですよ」
それからわたくしたちは、陽が沈むまでの時間をゆっくりと過ごしました。
風もおさまった宵の口、牡丹雪が優しく降る中、
わたくしたちは出発いたしました。
貴音「大丈夫ですか、あなた様」
雪に足を取られ、つまずいてしまったプロデューサーに、
わたくしは手を差し出しました。
貴音「ここからは二人、手をつないでまいりましょう」
雪深い山道をしばらく登り、頃合いの場所を探していると
少し道から外れた場所に、平らかな雪原がありました。
貴音「このあたりでよろしいですね」
すぐに死出の旅にたつわたくしたちにとっては
贅沢すぎる仮寝の宿には、柔らかそうな処女雪が積もっておりました。
足を踏み入れることすらもためらわれてしまいましたが、
ここ以上の場所もないでしょう。
懐中電灯でたどってきた道を照らせば、二人分の足跡が刻まれています。
きっとこれが、わたくしたちのこの世に残す最後の痕跡になるのでしょう。
貴音「それではあなた様、睡眠薬をください」
睡眠薬を飲んだ後、プロデューサーはわたくしに
一曲だけ歌をうたってくれないかと、頼みました。
それを自分の最後の仕事として見届けたいのだと。
貴音「わかりました。それではわたくしの
一世一代最期の歌をお聞きください」
脚光の代わりに懐中電灯、
花びらのかわりに降るは雪、
観客はプロデューサーひとりだけの、
わたくしにとっても最期の舞台です。
はじめからこの方のためだけに歌っていれば、
このようなことにはならなかったのでしょうか?
しかし、それはもはや考えても詮なきこと。
力のかぎり心を込めてうたうことだけが、
この方のためにしてあげられる最期のことです。
貴音「少し、眠くなってまいりました」
歌をやめ、プロデューサーが寄りかかっている枯れ木のところまでいくと、
わたくしはその隣に寄り添うようにして座りました。
貴音「とは言っても、眠りに落ちるまでにはいま少し
時間が必要なようです。それまで昔話でもいたしましょう」
過ぎ去りし思い出を、一つ一つ確認するように話していくうちに
眠気は増していき、ぼんやりとする頭ではそれが本当にあったことなのかも
もはやわからなくなってまいりました。
まるで、これまでの全てが夢の出来事であったかのようです。
この世のなごり、夜もなごり、しんしんと降りつのる雪で
先ほどの足跡はもう、消えかかっていました。
わたくしたちの命も、それとともに消えゆくのでしょう。
瞼が重く、体もだんだんとあたたかく感じられてきました。
もう眠ってしまいたい。そうしてしまえばどんなに楽か。
ですが目を閉じる時が、この世を去る時です
その前に、プロデューサーに最後のお願いをいたしました。
貴音「口づけをしてください」
末期の接吻は、冷たく硬い感触で、味すらありませんでした。
唇をそっと外されると、わたくしは眠気まなこで
プロデューサーを見ました。
雪あかりに照らされたプロデューサーの顔は、
まつげが凍り、鼻も赤くなっていましたが、
わたくしを見て微笑んでくれているようです。
できるだけ長く、この顔を見ていたいと思いました。
けれども視界はどんどんぼやけてまいります。
もうすこしだけ顔を眺めていたいのに、眠たくてたまらないのです。
それではわたくしは先に眠ってしまいます。
おやすみなさい、あなた様。
【後編・風花心中】
目を覚ますと、そこは静謐な空気の流れる病室でした。
小鳥「起きたのね、貴音ちゃん」
なぜ、小鳥嬢がいるのでしょう?
いえ、そんなことはどうでもいい。
プロデューサーは一体どこにおられるのでしょう。
嫌な予感がしました。
貴音「あなた様! どこにおられるのですか、あなた様!」
答えあぐねている小鳥嬢の様子から、全てが理解できました。
小鳥「落ち着いて聞いてね、貴音ちゃん。プロデューサーさんは、発見された時には
もう……貴音ちゃんだけが生き残ったのが不幸中の幸いだったわ」
それを聞いたわたくしが言葉を無くしてずっと黙っていると、
今度は高木殿が表情のない顔で、次のことをおっしゃりました。
高木「四条くん。警察の方が、君に話があるそうだ」
警察での訊問は殊の外厳しく、しかも執拗でした。
重箱の隅をつつくように、あの日なにがあったのか、
動機は何であったのかを聞いてまいります。
放心状態のわたくしは、その質問に淡々と答えるだけでした。
それからしばらくの月日が流れ、とはいってもまだ肌寒さの残る季節ですが、
ようやく公判の日がやってまいりました。
同意殺人、心身衰弱、情状酌量、執行猶予、保護観察。
耳慣れない言葉ばかりが聞こえてまいります。
けれども、未だに実感がわきません。
わたくしだけが残され、あの方だけが逝ってしまわれたとは
どうにも思えないのです。
貴音「お世話になりました。それでは見送りはここでもう大丈夫です」
判決を受けた後、担当の弁護士及びもろもろの方々に礼を言い、
帰路につこうと外に出れば、先ほどまでにわか雨が降っていたようです。
空には虹、足元には水たまり、
木々は濡れ、葉からは滴が落ちております。
雨上がりの冷たく吹きすさぶ風が、
わたくしの身に沁みました。
ふと隣を見てみれば、
それをともに防いでくれる方は、もういません。
日が暮れる頃迄、立ちすくんでその風を受け続けながら、
ようやくわたくしは一人になったという意味を理解しました。
あの方はもうこの世にはいないのです。
そう思えば、目に映る景色が途端に寂しいものにしか
感じられなくなってまいりました。
久方ぶりの部屋に帰れば、埃がうっすらと積もっていて、
窓を開けて風を入れると、それが宙に舞い上がりました。
蛍光灯の明るい光のせいで、そのひとつひとつの影までもがはっきりと見られます。
いつぞやもこれによく似た風景を見た気がしました。
何やら見覚えがあるのです。
窓辺を指でなぞると、埃が指につきました。
それをそっと掌の上にのせてみても、当然消えること無く残ったままです。
きっとあの日消えたひとひらの雪はあの方で、この埃はわたくしなのでしょう。
わたくしだけが、消えずに残ってしまった。
――その時、わたくしの心の中に風花が散りました。
貴音「あの方の逝ってしまわれた世界はどのようなところなのでしょうか?」
一つだけ、わかっていることがありました。
あの方はそこにひとりきりでいる。
ならば、わたくしのやらねばならぬことは明白でした。
たとえそこがどんな場所であれ、わたくしは
あの方のそばまでまいらねばなりません。
貴音「お一人で寂しかったでしょう。
ずいぶんとおまたせしてしまいました」
台所から包丁を取り出すと、わたくしはそれを喉に突き立てました。
しかし、なかなかままならないものです。
一度目は中途半端な、死ねない傷をつくっただけでした。
二度目は痛みを知る分だけためらいがちになってしまい、なかなか深く刺さりません。
思い切って勢いをつけた三度目、ようやく刃は喉深くまで入ってきて、あとはこれを抜くだけです。
食い込んだ刃を抜くと、血しぶきがあたりに飛び散りました。
断末魔の苦しみが襲ってくる中、
白い壁に朱い華が咲いているのがちらりと見えました。
息も絶え絶えになってきた頃、目だけであたりを見てみれば、
血の海には埃が浮いています。
綺麗な場所で、苦しまずに死ねたであろうあの方を羨ましく思いました。
あの時、純白の上で眠ったままにいられたなら、わたくしもそうできたのでしょうか。
けれどもこの苦しみは、あの方を待たせてしまった罰なのです。
甘んじて受け入れる他ありません。
しかしなぜでしょうか?
次第に痛みすら感じられなくなってまいりました。
今度こそ、死は指呼の間ほどまでに近づいているのでしょう。
あの日こぼれ落ちた月が、今では
手の届きそうな程近く、大きく見えます。
窓から覗く漆黒の空に、際立って輝く孤独な月です。
それに手を伸ばす力はもう残っておりません。
そしてそれを欲しいとも、もう思いません。
あの方のいない世界には、なんの未練も持てないからでしょうか。
今尚狂おしく抱いている、尽きることのない
あの方への慕情だけが、今のわたくしの全てです。
この想いだけを持って、あの方のところへまいるのです。
しかしそのうちに目が霞んできて見えなくなり、
光の外へ外へと意識も追いやられていきました。
閉じた瞼の裏には、果てもない真っ暗な景色が広がっています。
そこは、すべてを包む、優しい闇の世界です。
【完】
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