社長「今度、上の階に越してきた高木といいます」 (261)

腰をきっちり30度の角度に曲げて、男が名刺を差し出してきた。

ランチタイムも終わり、夜の仕込みをしようと思っていたところへやってきた来客だった。

バブルの頃に建てられ、今やすっかりうらぶれてしまった雑居ビルの1階。

そこにある居酒屋『たるき亭』が私の城だ。

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・アイマスSSです

・即興ですが、着地点は決めてます ネタが切れたらそこへ向かう感じで

・時系列とかご都合で組み立ててますが、気にしないという方は是非

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先住民である私としては隣人は選べない。

雑居ビルなのだから仕方ないとはいえ、過去の隣人はどれもこれも胡散臭い連中ばかりだった。

一つ前の住人は、グレーゾーンすれすれを綱渡りするような金融業者だった。

ウチにもちょくちょく飯を食いに来ていたが、金払いだけはよかったのが救いだった。

どこぞの組の息でもかかってるんじゃないかというくらいの強面の連中。

電話の向こうにいる相手への取り立てだろうか、時々怒号が上階から店まで響いてくることもあった。

その度に客は背筋をビクッと強張らせ、私に対して誰がいるんですか、と聞いてくる始末だった。



もう一つ前の住人は、街を盛り上げよう!と意気込む若造たちが立ち上げたタウン誌の事務所だった。

創刊の時などは階下の私の店にやってきて、広告を出させてあげてもいい、と言わんばかりの態度でやってきた。

彼らの申し出を断ったのは言うまでもない。

そんな世間知らずな若者たちの経営はあっという間に行き詰ってしまった。

最後の方は頭を地面にこすり付けるくらいの勢いで、広告を出してくださいと懇願してきたもんだ。

さすがにかわいそうに思って一度か二度は小さな広告を出したが、結局タウン誌は2年と持たずにひっそりとその歴史に幕を下ろした。



そして次なる住人が目の前にいるこの男だというわけだ。

社長「何かとご迷惑をおかけするかもしれませんが、どうかよろしくお付き合いいただければ……」

態度だけは過去の住人に比べれば随分とまともだが、警戒を緩めるわけにはいかない。

自分で言うのもなんだが、こんなボロボロの雑居ビルに居を構えようとするくらいだ、よほど他に行き場が無いに違いない。

「はぁ……こちらこそ」

そう言って差し出された名刺をまじまじと見つめる。

高木と書かれた名刺の前には社名だろうか、『765プロダクション』と書かれていた。

「失礼ですが、お仕事は何をされているんです?」

私が聞くと、高木はハハッと笑いながら答えた。

社長「芸能プロダクションを創ろうと思いまして、ね」

「はぁ……芸能プロダクション……ねぇ」

芸能プロダクション……世事に疎い私でも流石に知っている会社はいくらかはある。

やれジャ○ーズだの、やれ吉○だの、やれホリ○ロだの……私のような人間でも聞いたことのある会社だってある。

最近は新進気鋭の961プロなる会社の名前が、垂れ流しにしている店のテレビから聞こえることもあるが……

そんな私でも知っているような会社など、世にある芸能プロダクションの中のほんの氷山の一角にすぎないのだろう。

私がやっているこのちっぽけな店のような、ちっぽけなプロダクションが世の中には無数にあるはずだ。

そして、目の前の高木という男はそんなちっぽけなプロダクションの中の一つを立てようというのだろう。

私は芸能界の仕組みなどよく分からないだけに、また胡散臭いのが入ってきたな、ぐらいに考えていた。

「すると、アレですか? タレント事務所とか……よく分からないんですが、どんな感じなんでしょうね?」

適当に探りを入れてみることにした。

単なるタレント事務所なのか、あるいは子役を扱うような事務所なのか、はたまた外国人タレントだけを集めた事務所なのか……

パッと思い浮かぶのはそのくらいだが、それくらいなら十分マシな方だろう。

だが、もしその内情がいかがわしいビデオに出るような女性を扱うような事務所だとしたら、付き合い方を考えなければならない。

あくまで単なる同じビルの同居人、それ以上でもそれ以下でもない、そんなドライな関係を築く必要がある、今までの連中と同じように。

社長「う~ん……タレントというとちょっと違いますかね」

アゴのあたりをポリポリと掻きながら、高木が返す。

社長「実は、ウチはアイドル事務所にしようと思っていまして」

オーケー、胡散臭さがさらに増したぞ。

高木は見たところ壮年を通り越して中年、ともすれば初老に片足突っ込んでいるような男だ。

そんな男がこともあろうにアイドル事務所だなんて、怪しいとしか言いようがないだろう。

アイドル事務所の看板を掲げておきながら、どんな悪行に手を染めるか分かったものではない。

いつでも警察に通報できる準備はしておかなくてはな、と私は内心思っていた。

とまぁ、そんな具合に私と765プロとのファーストコンタクトは、私の一方的な思い込みから最悪なものとなったわけだ。

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小鳥「あの~、まだお店やってますか?」

ファーストコンタクトから数週間経った頃、ランチタイムも終わりかけた時間に1人の女性がやってきた。

「ん? あぁ、やってますよ。お一人様ですかね?」

小鳥「えぇ、まぁ……ちょっと忙しくて危うくお昼を食べ損ねるところだったんで」

彼女はオフィスビルの受付嬢といっても差支えないような服に身を包んでいた。

はて、このあたりにそんな大きなオフィスなんてあったかな、と私が考えると、それを封[ピーーー]るように彼女が言う。

小鳥「あっ、そういえばご挨拶してませんでしたね。上の事務所で事務員やっている音無といいます」

そう言って小鳥さんはペコリ、と頭を下げた。

この時点では胡散臭い事務所としか思っていない私としては、ついに毒牙にかかる女性が出てしまったかと半分思ってしまった。

もっとも、残りの半分は事務員ならば大丈夫か……?、と値踏みもしていたのだが。

はて、このあたりにそんな大きなオフィスなんてあったかな、と私が考えると、それを封殺.するように彼女が言う。


そこを伏せられるとは想定外だった

閑話休題

小鳥「会社を立ち上げるだなんて、初めての経験ですけど……本当に大変なんですね」

Aランチを注文した小鳥さんが、苦笑しながら仕事の話をする。

ランチタイムも終わって暖簾もしまったこの時間、店にいるのは私と彼女だけだ。

夜の仕込みをするにもまだ余裕があった私は、彼女の話に付き合うことにした。

小鳥「いろんなところに出さなきゃいけない書類もありますし、帳簿だってまとめなきゃいけないし……
   所属アイドルの募集を呼びかける広告だなんて作ったことも考えたこともないんですよ?
   あたし一人じゃとても手が回りきらないですよ」

話から察するに、765プロの雑用を一人で切り盛りしているのが小鳥さんらしい。

小鳥「まぁ、社長は今頃もっと大変な思いをしているんですけどね。
   いろんなところに頭を下げて顔を繋がなきゃいけないんですから」

高木はどうやら社長らしくあちこちを飛び回っているらしい。

その様子を想像すると、私がこの店を立ち上げようとした時の懐かしい記憶が呼び起された。

あの頃は銀行に頭を下げ、卸売の業者とも価格の交渉をして、内装業者と打ち合わせをして……

なんだか懐かしい気分に浸ると同時に、一気に高木に対する親近感が湧いてきた。

ただ、この時点じゃまともかどうかはまだ半信半疑というところに戻っただけに過ぎなかったが。

小鳥「ごちそうさまでした、美味しかったです」

食事を終えた小鳥さんだが、すぐに席を立とうとはしなかった。

まるで何かに心奪われたかのように、その視線はあるものに釘付けになっていた。

視線の先を追いかけてみると……そこにはカウンターの向こうにズラリと並べられた酒瓶の数々。

「イケる口ですか?」

小鳥「ええ、そりゃもう!」

目を輝かせながら小鳥さんが返す。

こんな場末の居酒屋かもしれないが、酒の銘柄にかけちゃちょっとしたこだわりがある。

一通りの酒は揃っているし、我流ではあるがそれに合うような肴だって出しているつもりだ。

小鳥「灯台下暗し、ですね……職場の近くにこんないいところがあるなんて」

思いは早くも今夜へと飛んでいるのか、思わずゴクリと喉を鳴らしながら小鳥さんが呟いた。

小鳥「また来ますね、それじゃお仕事に戻らないと……」

こうして、隣人は常連客へと形を変えようとしていた。

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アイドル事務所を名乗る割に、肝心のアイドルはなかなか入ってこなかったらしい。

私には芸能界のことなどよく分からないが、聞いたこともない事務所にその身を預けようというのはなかなかいないだろうことは想像がついた。

会社立ち上げの波も落ち着いてきたか、以前より余裕のある時間に顔を出すようになった小鳥さんが、一人の女の子を連れてきたのはさらに1ヶ月が経った頃だった。

律子「すみません小鳥さん、ご馳走になります」

小鳥「いいのよ別に、それにしても……」

律子「? なんですか?」

小鳥「いや、アレだけテキパキと仕事が出来る律子さんでも、お財布を家に忘れてきちゃうこともあるんだなぁ、って」

律子「わ、私だって失敗の一つや二つくらいしますっ!」

たちまち照れから顔が赤くなったメガネ姿の女の子がそこにはいた。

「いらっしゃい、小鳥さんはいつものでいいかな?」

小鳥「お願いします」

律子「えっと、私は……」

小鳥「迷ったら日替わりランチにしてみたら? 今日はなんですか?」

「今日はカレーコロッケ定食だね」

律子「じゃ、それでお願いします」

注文を聞いて、私はカウンターの向こうへと取って返す。

付け合せのキャベツを刻みながら、私は二人の会話に耳をすませた。

小鳥「それにしても、律子さんがウチに来てから一週間だけど……たるき亭には来たことなかったんですね」

律子「仕事が忙しいですからね……来る前にいつもコンビニで買ってそれで済ましちゃってました」

小鳥「もったいないなぁ」

小鳥さんが余裕のある時間に来るようになったのは人が増えたからか、と私は得心した。

しかし、仕事ということは彼女もまた事務員なのだろうか。

見たところ年のほどは小鳥さんよりもずっと若く見える、学生だと言われても驚かないだろう。

小鳥さんも事務員にしておくにはもったいないくらいの女性だが、律子ちゃんも負けてはいない。

メガネをしたその姿は理知的なイメージを私に与えたし、端正な顔立ちはアイドルであっても不思議じゃないだろう。

そう思ってよくよく見てみれば、出るところは出ていそうに見える……それは小鳥さんも同じではあったが。

そんな私の心中を読み取ったか、二人の会話はこんな方向へと向かい始めた。

小鳥「もったいない、といえば……本当にもったいないなぁ、律子さん、こんなにカワイイのに」

律子「またその話ですか? 本当におだてるのもほどほどにしてくださいよ、私なんてアイドルって柄じゃないですよ」

小鳥「う~ん、でも社長も言ってましたよ? 『律子君なら芸能界でも通用するかもしれない』って」

小鳥さんが高木の声色を真似る。

それが思いのほか特徴を捉えていたものだから、思わず私はカウンターの中で吹き出しそうになってしまった。

律子「やめてくださいって。自分のことは自分が一番分かってるんですから」

律子ちゃんは顔を赤くして俯き加減になってしまった。

律子「こんな私を好きになるだなんて人はよっぽど特殊な趣味の持ち主か、さもなくば相当のマニアックですよ」

小鳥「律子さんは自己評価が低すぎるんですよ……ねぇ、マスターはどう思います?」

不意に話を振られ、思わずへっ?、と情けない声が漏れてしまった。

小鳥「律子さんのこと、どう見えます? その、第一印象で」

横で律子ちゃんが、ちょっと小鳥さん!、と諌めている。

「う~ん、その……なんだ」

包丁を動かす手を止め、私はしばらく頭の中で言葉を慎重に選んでいた。

なにせ、こんな若い子に対してファーストインプレッションなど口にする機会などほとんど無いわけで。

「十分に別嬪さん、と言えるんじゃないかな?」

私がそういうと、小鳥さんがほら、と言わんばかりに律子ちゃんの方へと顔を向けた。

律子「そ、そんな、もうお世辞はやめてくださいよ……そんな初めて会った人に」

律子ちゃんの表情がどうすればいいのか分からないと言いたげな困ったものへと変わる。

イカンな、これじゃまるで私も一緒になってからかっているみたいじゃないか。

「もちろん、小鳥さんも別嬪さんだよ?」

小鳥「まぁ、マスターは本当にお上手ですね♪」

これでお茶を濁せたかどうかは分からないが、どうにか私はその場を切り抜けられたらしい。

再び料理に戻ると、こんな話が聞こえてきた。

小鳥「でも真面目な話、本当にアイドルになってみる気はありません?
   今のウチはアイドル事務所の看板出しといて、肝心のアイドルが一人もいないんですから」

律子「いくら人手不足だからって、事務員のバイトをアイドルにしようなんてプロダクション、聞いたことないですよ……」

小鳥「聞いたことがなければ、その第一号にでもなっちゃえばいいんですよ」

律子「そんな軽く……」

小鳥「芸能界なんて案外そんなものじゃないですか? 友達に応募させられたオーディションに受かったなんて話は結構聞きますし。
   それに社長が通用するかもしれない、って言ってるんですよ? 結構この世界が長い人がそう言ってるんですから、なんとかなりますって」

高木が結構業界に長く居るということは初耳だった。

もっとも、ソースが身内といってもいい人間なのだから、それを無条件で信じるというわけにもいかないかもしれないが。

「はい、A定食と日替わりランチ、お待ちどうさん」

私が料理を運んだところで、律子ちゃんが、ハイこの話はもうおしまい、と幕を引いてしまった。



それから程なくして律子ちゃんが事務員とアイドルを掛け持ちするという話を小鳥さんから聞かされた。

きっと高木からの押しに律子ちゃんも観念したのだろう、そう思った。

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律子ちゃんがアイドルになったあたりから、チラホラと765プロに入って来る子が出てきたらしい。

夜の居酒屋では絶対に見られないような子たちが、ランチタイムに入れ代わり立ち代わりやって来たりした。

まずやって来たのは……第一印象ではただのカップルにしか見えなかった。

真「すみませーん! 席二つ空いてますか?」

威勢のいい声で入ってきた黒髪の子と、その背中に隠れるようにしておどおどしていた茶髪の子。

雪歩「ひっ、お、男の人ですぅ……」

真「そりゃ、こういうところに男の店員さんくらいいるでしょ……」

今あんたが隠れている背中は男の背中じゃないのか、と言おうとしてやめておいた。

今にして思えば本当に言わないでおいてよかったと思っている。

黒髪の子――真ちゃんは、自分のことをボクと呼ぶし、ジャージ姿でやって来るし……

私が一瞬男と勘違いしたのも仕方ないと自己弁護しておくことにしよう。

実際、話を聞く限り女の子にモテモテらしいのだが、その内面は年相応の女の子そのものだ。

事務所で購読でもしているのだろう、時には料理を待ちながらファッション雑誌を読み耽るところも見られた。

そこに載っている服を自分が着ていることを想像しているのか、料理を運んで行っても心ここに在らず、なんてことも度々あった。

チラリと横目に雑誌を覗いてみると、たいていはフリフリのついた、なんというか絵本やマンガの中のお姫様みたいな衣装だった。

真「ねぇねぇマスター、これどう思います? カワイイと思いません?」

たまに私を捕まえてはこんなことを聞いてくるから、私もあぁ、うん、カワイイねぇ、と返すより他なかった。

女の子らしくて結構だとは思うが、それが似合うかどうかはまた別問題のように私は思う。

それもまた決して表だって口には出来なかったが。

雪歩「ダメだって! 真ちゃんに似合うのはこういう服だって」

表だって一番それを口にしていたのは彼女、雪歩ちゃんだったように思う。

第一印象の大人しそうな印象そのままに、たいていは真ちゃんの後ろにくっついてお店に来ていた。

が、こと真ちゃんのファッションへと話が及ぶと、豹変したかのように真ちゃんに対して似合いの服を力説する姿が見られた。

時には雑誌をひったくるようにしてページをめくってこんな感じが似合います!、と突きつけることもあったりした。

普段が大人しいものだから、そのギャップには私も驚いたし、真ちゃんも何も言えずに口を尖らせるしか出来なかった。

とはいえ、雪歩ちゃんのそんな様子が見られるのはこの件くらいのものだった。

最初に店に来た時もそうだったが、男性恐怖症に近いものを持っているらしい。

女の子がシフトに入っていれば、その子に注文を聞きにやったり、料理を持っていかせたりも出来たが……運悪く休みだったりすると大変だ。

最初のうちは注文を聞くのも一苦労だったが、食後に出したお茶をすすってほっこりとした表情を見せてくれた時は安心したものだ。

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そんなことだから、雪歩ちゃんは真ちゃんと一緒に来ることが多かったわけだが。

他にいつも連れ立って来るといえばあの二人もそうだったかな。

このオンボロビルはエレベーターが壊れたまま誰も直さずに放っておかれていた。

1階しか使わない私には取り立てて何か問題があるわけでもなかったが、上の階を使っている765プロの子たちはそれで済まされる問題ではなかった。

まぁ、私に言わせればまだまだ若いんだから、それくらい階段使って移動してもいいだろう、とも思っていたのだが。

そんな私が少しばかり考えを改めようと思ったのは昼時にやって来るあの子たちのせいかもしれない。

かつては借金取りの怒号が聞こえたほどの店だ、事務所から下りてくる子たちのしゃべり声だって聞こえてくる。

そして……

      ドンガラガッシャーン

一人の子が盛大に転げ落ちてくる音だって。

千早「ちょっと春香……大丈夫?」

春香「あいたた……だ、大丈夫、ごめんね千早ちゃん」

2つ結んだリボンがトレードマークの春香ちゃんと、青みがかった長い髪が特徴的な千早ちゃんも、二人連れでやってくることが多かった。

春香ちゃんはよく転ぶせいか、最初のうちは驚いたものだが、慣れとは恐ろしいものだ。

最近では、おっ、もうそんな時間か、と春香ちゃんの転倒をまるで時報のように考え始めたりもしているのだから。

もっとも、決して心配をしていないわけではない。

奇跡的にも?大ケガをしていないからいいようなものの、駆け出しとはいえアイドルが、いやそもそも女の子の大事な顔にいつ傷がつくか分かったものじゃない。

私がエレベーターを修理できるだけの金があればよかったのだろうが、生憎とウチにはそこまでの余裕は無かった。

それは高木の方も同じだったようだし、そもそもビルの管理会社からしてこの惨状は放ったらかしだった。

私に出来ることは、階段下に余計な荷物を積みっぱなしにしないことと、ウチに食材を届けてくる業者に同じように申し付けておくことくらいだった。

春香「よしっ、今日は生姜焼き定食にしよっと♪ 千早ちゃんは何にする?」

どんなに転んでも店ではいつも春香ちゃんは笑顔を見せてくれていた。

店にいる時以外の顔を私は知らないが、きっと普段からそうなのだろうと思うには十分なくらいの眩しい笑顔だった。

千早「え……私は付き合いで来ただけだし……それにあんまりお腹が空いていないし……」

春香ちゃんが明るい分、どこか影を感じさせる千早ちゃんとの対比は際立ったものに見えた。

そのスレンダーな体つきを見ればきちんと食事をしているのかと思ってしまうのは、決して私が飲食店経営だからということではないだろう。

春香「またそんなこと言って……ちゃんと食べないと午後のレッスンで体がもたないよ? とにかく、何か食べないと」

千早「まぁ……なんでも、いいけれど」

そして、適当に春香ちゃんが二人分のオーダーをする、これが二人のお決まりのやり取りだった。

食事をしている時の千早ちゃんは慎ましやかではあったが、決して出されたものを残しはしなかった。

さっきも言ったように、千早ちゃんは食事をしているかどうか心配にさせる見た目だ。

だから、こうして春香ちゃんが連れて来て、なんだかんだ残さずに食べるのを見るたびにホッとしたものだ。

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連れ立って来ることが多かったと言えば彼女たちもそうだった。

やよい「うっうー! こんにちはー!」

伊織「席、空いているかしら?」

他の子よりも一回りは小さいやよいちゃんと伊織ちゃんも二人でよくウチに来てくれた。

が、最初にウチの店にやって来て、どうやら765プロの一員と知った時には衝撃が走ったものだった。

高木もついにこんな小さな子に手を出すようになったか、本性をついに見せたか……

思わず電話の子機を握りしめて11……まで押しかけたこともあった。

そんな外見の幼さとは打って変わって、やよいちゃんも伊織ちゃんもその内面はずっとずっと大人だったわけだが。

やよい「今日は野菜炒め定食にしますっ!」

伊織「今日は、じゃなくて今日も、でしょ? たまには違うのを頼んだら?」

野菜炒め定食はウチのランチタイムの中でも1、2を争うくらい安い定食だ。

双璧を成すもう一つの定食もまた765プロのあるアイドルがよく頼むのだが、その話はまた別だ。

小耳に挟んだ話ではやよいちゃんの家は決して裕福ではないらしい。

やよいちゃんが芸能界に飛び込んだのも、家の暮らしを少しでも助けるためだと小鳥さんや律子ちゃんから聞いたこともあった。

そんな健気なやよいちゃんだが、決して哀れだと思えなくなってしまうのは、春香ちゃんにも負けないくらいの眩しい笑顔の持ち主だからだと思う。

やよい「でも、たるき亭の野菜炒めはもやしがシャキシャキしていて美味しいんだよ?」

伊織「分かった、分かったわよ。やよいがもやしについて語りだすと止まらなくなっちゃうんだから」

お財布の中身を気にしているのかもしれないが、きっとやよいちゃんなら心の底からそう思っているんじゃないか。

そう思わせるだけの説得力が、やよいちゃんの表情には宿っているような気がした。

気を遣わせては悪い、と思いながらも、私は気づかれない程度にちょっぴりだけもやしを多めに入れて出したものだ。

やよいちゃんは家族のために、という責任感からだろうか、年よりずっと内面は大人びていたが。

伊織ちゃんはやよいちゃんとは違った意味で大人の女の子……いや、女性だった。

所作の一つ一つが洗練されていて、普段の態度と相まってお嬢様のような印象を持ったものだが、実際に良家のお嬢様と聞いて得心したのは別の話だ。

今のやりとりにしても、やよいちゃんを心配しつつも、最終的にはやよいちゃんの意思を立てているあたりが気遣いの出来る女性である証拠だ。

もっとも、そのことを口にすると顔を真っ赤にして怒ってしまうので言わないでいるのだが。

もう一つ、伊織ちゃんの前で口にしちゃいけないのが、食後のオレンジジュースのことだった。

漂わせるその雰囲気からすると、明らかにそこだけ年齢相応のオレンジジュースは伊織ちゃんが見せる数少ない子供っぽい一面だった。

思わずほっこりして笑みを浮かべてオレンジジュースを出そうものなら、顔を真っ赤にしてこう言われるのだ。

伊織「なっ、何がおかしいのよ! ニヤニヤしちゃって、この変態!」

……罵られて喜ぶ性癖を持ち合わせていなくて本当に良かったと思っている。

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内面は大人では、一見すれば子供にしか見えないやよいちゃんや伊織ちゃんが常連客なのだ。

もう大抵のことでは驚かないつもりでいたのだが、彼女たちの登場にはさすがに参ってしまった。

私がようやくよくやって来る765プロの子たちの名前と顔が完全に一致しかけた頃だった。

ランチタイムに一人でやって来た女の子がいたのだ。

髪を横で縛ったその姿は、どう贔屓目に見てもやよいちゃんと同学年かそれ以下にしか見えなかった。

実際、小学生であることを聞いて私の手が再び電話の子機に伸びかけたのは言うまでもない。

亜美「おっちゃんおっちゃん、カレーライス1つお願ーい!」

まっすぐカウンターにやってきて腰かけると、こちらが水を出す前に注文をしてきた。

カレーライスはメニューに無いことを伝えるとがっかりした顔になって日替わりランチを注文した。

なんだか申し訳なく思い、以後カレーライスがメニューに加わることになったのだが、これが765プロ仕様の追加メニュー第1弾だった。

初めてやって来たその時は、カレーがないことにがっかりしながらも、出された料理を美味しい美味しいとあっという間に平らげてしまった。

年ごろを考えれば育ち盛りと言ってもいい頃なのだろう、年齢相応の食べっぷりに感心したものだった。

亜美「おっちゃん、ごちそうさまっ! これ、お金ね!」

そう言って千円札を差し出してきた。

見た目と振る舞いの幼さから幾分か警戒はしていたのだが、お代を払ってもらえる限りは大事なお客様だ。

お釣りを手渡すと、それをギュッと握りしめると、

亜美「美味しかったよー! じゃ、またねーっ!」

そう言って外へと駆け出して行った。

そして、まるで嵐が過ぎた後のように、空になった食器だけが残された。

やれやれ、と私がため息をつきながら食器を片づけ始めた時だった。

ガラガラッと勢いよく店の引き戸が開かれたのは。

そこに立っていたのは、さっきまでそこで美味しい美味しいとランチを食べていた子だった。

「……どうしたのかな? 忘れ物でも……」

怪訝に思いながらも、私が話しかけたのをその子は遮ってきた。

真美「今ここに私が来なかった!?」

「……え? だから忘れも……」

真美「バッカヤロー! そいつがルパンだ! 私に化けて潜り込んだんだよ!
   でっかい図体して変装も見破れないの!? このごくつぶしー!!」

「……は?」

年端のいかない女の子にいきなり穀潰し呼ばわりされ、怒るというよりもむしろ呆気に取られた私を無視して、その子はまた外へと駆け出して行った。

何があったんだ……? と思ったのもつかの間、外から律子ちゃんの怒鳴り声が響いてきた。

律子「コラー! あんたたちはまたイタズラして! ダメでしょたるき亭さんに迷惑かけちゃ!」

真美「ヤバッ! 律っちゃんに見つかっちゃった!」

亜美「逃っげろー!」

後でさっきの二人が双子でアイドルをやっていると聞かされた時に、ようやくこのカラクリが理解できたものだ。

それからも、亜美ちゃんと真美ちゃんには度々イタズラをされたが、大抵は律子ちゃんたちが怒ってくれたので私がとやかく言う必要は無かった。

まぁ、甘いと言えばそれまでなのかもしれないが。

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そんなお子様な二人と比較……すると失礼かもしれないが、いろんな意味で大人だったのはあずさちゃんだった。

他の子たちは事務所に入ってからウチの店にやってきたのだが、彼女だけは実は事務所に入る前にウチにやって来た。

あずさ「あ、あの~……765プロダクションがあるのはこのビルで間違いないでしょうか~?」

ランチタイムを終えて休憩していた店にひょっこり姿を見せたのが最初だった。

「え? そうですが……」

あずさ「よかった~、道に迷っちゃって危うく約束の時間に間に合わなくなるところでした」

道に迷う、というが、ウチの店はオンボロなビルとはいえ一応はそれなりに大きな通り沿いに立っている。

建物はボロくてもなんとかやって来られたのはこの立地条件に助けられたところも少なからずあるだろう。

これが路地を一本入ったところに立っていたとしたら、とっくに店は潰れていただろうし、765プロとの出会いも無かっただろう。

まぁ、そんな目立たないとはいえない場所に立っているビルに着くのに道に迷った、というのもおかしいとその時は思ったが。

後にあずさちゃんが極度の方向音痴の持ち主であることを知ると、あの日にウチにたどり着けたことが奇跡に思えてくるから不思議だ。

聞けばその日は765プロで採用の面接があった日だそうで、これに間に合っていなければ今のあずさちゃんは無かったかもしれないのだから。

それからはあずさちゃんが道に迷うたびに765プロから捜索隊が出されるが、真っ先にウチに聞き込みにくることがお決まりとなっていた。

そうは言っても、ウチのような近場にいることなどほとんどないわけで、大抵は来ていないよ、と言うだけだった。

そしてまた捜索隊が店を飛び出していくのを見送って、ため息交じりに振り返ると、カウンターにちょこんとあずさちゃんが腰かけていたのは一度や二度ではなかった。

「な、何してるんです? 今みんなが探してましたよ!?」

あずさ「あ、あらあら~? そうだったんですか~」

あずさちゃんがどこから入って来たのか分からないが、こうして慌てて765プロに連れて行くのも半ばお決まりと化していた。

余談だが、765プロの事務所には通りに面した側のガラスに大きく『765』とテープが貼られている。

これはあずさちゃんが道に迷っても事務所を見つけやすいようにした、という噂がまことしやかに流れているのだが、今まで真相を聞くに聞けずにいる。

これまでの765プロのアイドルはみんな未成年だったが、あずさちゃんは短大出の立派な成人女性だった。

それまで夜は小鳥さんと時たま高木がやって来るだけだった店に、新たな常連が増えたわけだ。

小鳥さんが酒が入るとどうなるか、というのは度々目にしていたが、さてあずさちゃんはどうなるか……と身構えた。

そんなあずさちゃんの歓迎会が小鳥さんと高木との3人で慎ましく開かれたときに私はそれを目にすることとなる。

かなりイケる口である小鳥さんに負けず劣らずのペースであずさちゃんも盃を空け続けていった。

しまいには酔い潰れてくだを巻き始めるのが小鳥さんの辿る末路ではあったのだが、あずさちゃんも別の意味でたちが悪かった。

あずさちゃんは笑い上戸だった。

酒が入ると口数が明らかに増え、そして箸が転がってもおかしいような笑い声を店に響かせた。

あずさ「マスターも一緒に飲みましょ~♪」

酔った勢いでカウンターから身を乗り出し、私の首に手を回して迫ってきた時は思わずドキッとしてしまった。

もう10年若かったら危なかったかもしれない、いろんな意味で。

そんな様子を酔い潰れた小鳥さんの横で、高木は酔いから顔を赤らめてハッハッハ、と笑いながら眺めていたが、頼むから止めてほしかった。

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普段は物腰が柔らかいが、酔うと奔放になるあずさちゃんとは違って、普段から奔放だったのは美希ちゃんだった。

店に来る時は何時であっても常に眠そうにあふぅ、とあくびをしていたのを思い出す。

スタイル抜群なその見た目とは裏腹に、まだ中学生だと知った時には時代も変わったものだと思ったものだ。

そんな美希ちゃんが来る度に頼んでいたのが、やよいちゃんの野菜炒め定食と双璧を成す安メニューのおにぎりセットだった。

気持ち大きめに握った2つのおにぎりに漬物、小鉢に野菜たっぷりの味噌汁がついたこのセットを美希ちゃんは欠かさず頼んでいた。

曰く、「ミキはおにぎりが無いと生きていけないの」ということらしく、ほとんど他のメニューを頼むことはなかった。

ついでに、他にもキャラメルマキアートだの、チョココロネだのを頼まれたが、さすがにこれは店のイメージに合わなさすぎるので申し訳ないが断った。

ただ、イチゴババロアだけはどうしても、と頼まれたためにデザートの裏メニューとして加わることになったのだが。

美希ちゃんの奔放さを感じたのはこんなことがあったからだ。

ランチタイムももうすぐ終わりという時間に店に姿を現した美希ちゃんはいつものようにおにぎりセットを注文。

そして、

美希「お腹いっぱいになったら眠たくなっちゃったの」

と、いつも以上に大きくあふぅ、とあくびをするとそのままカウンターに突っ伏して寝息を立て始めたのだ。

ランチタイムは終了、他の客はいない、ということもあって私は起こすのも忍びない、と物音をなるべく立てずに片付けに取り掛かった。

そんな時に店の電話がピリリリ、と鳴り響いた。

美希ちゃんを起こしちゃいけない、と私は慌てて受話器を手に、声を出来るだけ殺してもしもし、と応対した。

すると、電話口の向こうからは驚きの事実を告げられたのだった。



千早「午後のボーカルレッスンに美希も来るはずだったんですが……お店にいたりしませんか?」

事務所は出た、と聞いたんですがという千早ちゃんの言葉を聞いて私は慌てて美希ちゃんを起こしにかかった。

まさかレッスンをすっぽかして寝ているだなんて思いもしなかった。

何度か揺すってようやく目を覚ました美希ちゃんは、レッスンはどうしたの、と問い詰めた私に対して眠い目をこすりながらこう答えた。

美希「今日は気分がノらないからお休みするの。ミキ、ガツガツ練習するのって好きじゃないし、レッスン行かなくてもなんとかなるの」

他の子たちからも美希ちゃんはだいたいのことは難なくこなせるけど、それ故にレッスンに身が入っていないとは聞いていた。

が、こうして現実を目の当たりにして私は正直戸惑った。

レッスンはキチンと出ないとダメだよ、とか、努力しないといつか痛い目に遭うよ、とか、そういう通り一遍の忠告は意味をなさなかった。

美希ちゃんをようやく動かしたのは、「千早ちゃんが心配しているよ」という言葉だった。

美希「千早さんが……? あっ、そうだった、今日は千早さんと一緒のレッスンだったの」

どうやら美希ちゃんは千早ちゃんを尊敬しているらしく、これでようやく重い腰をあげることになった。

結局、私が道を聞いて慌てて車で送り届けることになり、その日は危うく夜の仕込みが間に合わなくなるところだったのも今となってはいい思い出かもしれない。

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気づけば、いつの間にか大所帯となっていた765プロにやや遅れて入ってきた子たちがいる。

なんでも、元々は別の事務所でアイドル候補生をしていたそうだが、諸々の事情から765プロへ移って来たらしい。

まぁ、彼女たちに以前何があったかを聞くのは野暮というものなので聞いたこともないし、これからも聞くことはないだろう。

そんな彼女たちがウチの店にやって来たのは、彼女たちが765プロに加入してから少し経ってからだった。

当然の話だが、店を開けているうちは店を離れないので、なんだかんだ私と765プロのみんなとの接点はみんながランチなり飲みなりで店に来ることだけだ。

みんなの会話の中からどうやら新たに二人ばかり加わったことは把握していても、それがどんな子なのかは彼女らが店に来ない限り分からないのだ。

ではこの二人が店に現れるのが遅れたのは、別にウチを敬遠していたわけでも、765プロのみんなとギクシャクしていたからでもなかった。

聞けばなんてことのない話だった。

貴音「響……お昼はやはり隣のらぁめんにしませんか?」

響「勘弁してほしいぞ……もう二週間もずっとあのラーメン屋さんに行って、全部のメニューを頼んでるんだよ? いい加減飽きたぞ……」

お隣のラーメン屋は私よりも早く二人とコンタクトを取っていたわけだ。

響「角煮定食……? つまり、ラフテーみたいなものかな? 自分、これにするぞ」

ラフテー、ということは沖縄の人かと私は推測した。

実際、後になって我那覇という苗字を聞いてあぁやっぱり、と思ったものだ。

その一方で、貴音ちゃんはメニューを凝視して「らぁめんがありません……」と零していた。

流石に、鍋で作ればいいカレーや、仕入れれば済むイチゴババロアと違って、茹でる設備が必要なラーメンはメニューには入れられなかった。

それにしても、そこまでジッと睨みつけるようにメニューを見なくても、と思ったが、これまた後に眼があまりよくないと聞かされ仕方ないか、と思うに至った。

結局、ラーメンを諦めた貴音ちゃんが私に聞いてきた。

貴音「もし、ご主人。この店で一番量が多いのは何でしょう?」

「へ? 量が? それなら、この唐揚げ定食のダブルになりますけど……」

酒の肴にもなる唐揚げはランチのメニューとしても人気があった。

普通の唐揚げよりも一回り大きい唐揚げは食べごたえも十分で、ウチの看板メニューの一つだった。

それを増量した定食のダブルは、よほど体格のいい男くらいしか手を出さない。

年末に近所で道路工事でもあって、そこで働くお兄ちゃんたちが頼むか、たまにやってくる学生が面白半分に頼んでギブアップするかだった。

貴音「では、それをいただきましょう。あと、響が頼んだ角煮も単品で追加してください」

思わず目を丸くした私は、はっ?と思わず声を漏らしてしまった。

一緒に来ていた響ちゃんはそんな私を尻目に、こんなことは慣れっことばかりに言い放つ。

響「う~ん、連れてきておいてなんだけど、貴音はそれで足りる?」

おい、止めるんじゃないのかよ、それどころか追加勧めちゃってるよこの子。

貴音「では御飯を大盛り……いや、特盛りは出来ますでしょうか?」

乗っちゃったよこの子も、ていうか特盛りを頼まれたのも初めてだよ(後にメニューに加わったのは言うまでもない)

そんなことは口には出来ないので、不安ながらも私は調理へと取り掛かった。

が、私の不安などどこ吹く風、貴音ちゃんはその量をあっさりと平らげてしまった。

呆気に取られる私をよそに、角煮のタレで汚れた口元を紙ナプキンで拭きながら二人は会話に花を咲かせる。

貴音「真、美味でした」

響「そーでしょ、そーでしょ。やっぱりここに来てよかったぞ、事務所の真下なのに今まで来たこと無かったからね!」

貴音ちゃんの舌にも合ったのが嬉しかったのか、響ちゃんが胸を張る。

響「みんなからマーサン、マーサンって聞いていたけど、本当だったぞ!」

マーサンが「美味しい」と知るのは後の事になるが、そう言って白い歯を私に見せてきた響ちゃんが印象的だった。

気づけば6時間か、ちょっと休憩します
休みだからって時間を忘れすぎた

飯・風呂終わり、そしてこっち再開

気づけば、上階には十数人の女の子がひしめくようになっていた。

もっとも、そのほとんどがまだ候補生にすぎなかった彼女たちを檜舞台でみることはまだ出来なかった。

ことここに至って、これと言って悪い噂を聞かない高木のことを信用してもいいのかもしれない、そう思うようになった。

騒がしさならば、今までのどの隣人よりも騒がしかった……いや、賑やかだったと言うべきか。

ともかく、その騒がしさは私にとっては不快なものではなく、むしろ心地よいものとなっていた。

いつしか、765プロのアイドルたちは必ず誰かがウチで飯を食うように(あるいは酒を飲むように)なり、私の日常の一部に組み込まれつつあった。

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真「聞いてくださいよ! ヒドいと思いません!?」

憤懣やるかたない、と言いたげに真ちゃんがカウンターで吠えていた。

今日は普段のジャージ姿ではなく、学校帰りなのか制服に身を包んでいる。

夜の仕込みも一通り終えていた私は、開店までならということで真ちゃんの話に付き合うことにしたわけだ。

真「父さんが、ボクにはアイドルなんて向いていない、今からでも遅くないから辞めた方がいいって言うんですよ!」

口を尖らせた真ちゃんが言うには、どうやらアイドル活動のことが父親に知れて揉めているとのことだ。

そもそも、真ちゃんは父親に対して自分がアイドルをしていることを内緒にしていたそうなのだが、それが露見したらしい。

先日、小さいながらもオーディションに合格した真ちゃんは、やむなく学校を一日だけ休むことになった。

が、結構厳しい女子校に通っているらしく、そのことが学校経由で父親に伝わり、血相を変えて父親が学校に乗り込んできたという。

臨時で三者面談が行われ、その後に真ちゃんが立ち寄ったというわけだ。

真「父さんはいっつもボクのやりたいことを頭ごなしに否定するんです! 今の学校に行くのだってそうだったんですよ!?」

男っぽ……いや、ボーイッシュな真ちゃんだが、多分に父親の影響を受けて育った結果だと聞いたことがあった。

どうやら父親としては男の子が欲しかったらしく、真ちゃんが生まれてからもしつけの端々にその時の未練が残っていたのかもしれない。

真ちゃんは女の子としてはいささか豪快な性格に育ってはいたが、内面は(時にちょっとズレていても)女の子そのものだ。

女の子らしくなりたいと願った真ちゃんは、進学に際しても女子校を志願したが一時は父親が頑として首を縦に振らなかったらしい。

結局、真ちゃんは学校のランクを少し上げることでどうにか父親の説得に成功し、女子校へ行くんだと猛勉強をしてどうにか今の学校に入ったらしい。

女の子らしくありたいと願った真ちゃんだが、その女子校で周りの生徒からモテモテだというのは何とも皮肉な話だと思うが。

真「マスターもそう思いません!? 父さんのやることがヒドいって」

上気した顔で真ちゃんがまくしたてる。

普段の真ちゃんを知るだけに応援してあげたい気持ちはやまやまではあったのだが……父親の気持ちだって分からないでもない。

私は興奮する真ちゃんを宥めるように、ゆっくりと言葉を選びながら切り出した。

「真ちゃんは、アイドルをやってるってことを内緒にしてたんだよね?」

真「そう……ですけど」

「どうして話さなかったの?」

真「どうして、って……反対されるに決まってるからじゃないですか。
  現に今日だって散々自分の言いたいことだけ言って、ボクの言い分なんてこれっぽっちも聞きやしないんですよ?
  だったら、バレる頃には後戻りできないくらい有名になっちゃって、って思いたくもなりますよ」

なるほどな、と私は相槌を打つ。

「もし、私に娘がいるとしたら……芸能界に入りたいなんて言ったらきっと反対しただろうな」

そう切り出した私の言葉に、真ちゃんは一瞬だけ驚いたような顔になった。

そして、マスターも父さんの肩を持つのか、と言わんばかりに私のことをジッと睨んできた。

心なしか、うっすらと涙さえ浮かんでいるようにも見えたが、言わねばなるまい。

「私は芸能界がどんなところかってのがよく分からないからね。
 今こうして真ちゃんたちがウチに来るようになってもそれは変わらないさ。
 世間じゃ、私みたいに芸能界がどんなところか知らない人の方が沢山だろう。
 今流行りのステージママでもなけりゃ、好き好んでそこに自分の子供を預けようとはなかなか思えないよ」

真「じゃあ……どうしろって言うんですか。
  こうなった以上、父さんがボクがアイドルを続けることにそう簡単にOKを出すとは思えません。
  ボクがアイドルをやめるか、父さんと親子の縁を切るかでもしろって……」

「そうじゃないさ、まだ真ちゃんにはやれることが残ってるはずだ」

真「やれること……」

「真ちゃんがアイドルに向いてない、なんて言うのはね、きっと芸能界やアイドルのことがよく分からないからじゃないかな。
 親っていうのは、程度の差こそあれ子供の夢が真っ当ならそれに向かってそっと背中を押してやりたいと思うはずさ。
 だけどそれがどんなものか分かってもいないのに応援するだなんてのは、親としても無責任で出来ないよ」

真「父さんが芸能界のことが分からないだろうってのは理解できますけど……
  だからってアイドルに向いてないなんて断言しなくたって、もっと言いようがあったはずでしょう? だったらやっぱり本当は……」

「もっとやりようがあったのは真ちゃんだって同じ。言ったろう? さっきやれることが残ってるはずだ、って。
 最初から話しても無駄だって決めつけて話さえしなかったなら、アイドルは向いてないって決めつけたお父さんと根っこは変わらないよ」

真「でも、どうすれば分かってもらえるって……」

真ちゃんの顔には明らかに困惑の色が浮かんでいた。

「それは分からないよ……というよりも私よりも真ちゃんの方がどうすればいいかは想像できるはずだ」

別に突き放したわけではない。

何を言おうと結局は真ちゃんにとって私は他人に過ぎず、父親との間には決して越えられない壁が存在する。

その壁を無視して真ちゃんの全てを導こうなどというのはおこがましい話だ。

「今の学校へ行く時もそうだったんだろう? 最初は反対されたけど、話をしていくうちに最後は納得してもらえたんじゃないか。
 今度のことだって根本的には変わらない、真ちゃんがどうしてアイドルになりたいのか、それを真ちゃんの言葉で説明できれば納得してもらえるかもしれないよ」

すっかり押し黙ってしまった真ちゃんは、あてが外れたというような表情を見せながらも、分かりましたと呟いて店を出て行った。

真ちゃんくらいの年頃だと父親が疎ましく思えるのかもしれないが、結局は親子で何とか分かり合ってもらうしかないのだ。

まぁ、話を聞く限りではきっと似た者同士の親子なのだろうと私は考えたし、きっと最後はうまくいくだろうとも考えた。



真ちゃんが次に店に顔を見せたのはそれから二週間ほどしてからだった。

最悪の場合話がこじれ、アイドルをやめることになって二度と店に来なくなるかもしれなかったが、どうやら杞憂だったらしい。

何か憑き物が落ちたかのように晴れやかな顔で雪歩ちゃんとのおしゃべりに花を咲かすのを見て、私はしっかり話が出来たことを悟った。

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店にあるテレビは結構年季の入った古いものだ。

地デジだなんだと時に買い替えることも考えたが、このテレビそのものに愛着が湧いていたので結局チューナーだけを買ってしのぐことにした。

日中は取り留めのないワイドショーが、夜には野球中継が垂れ流し状態になっているのがたるき亭の常だった。

今日も今日とて画面の向こうは一山いくらの芸能人が、数時間もすれば頭に残らなくなるような話で盛り上がっているように見えた。

そして、店のカウンターではやよいちゃんが今日も今日とて野菜炒め定食に舌鼓を打っていた。

私はいつかやよいちゃんも画面の向こうで一山いくらの扱いを受けてしまうのかと考えると少しばかり寂しい気分になった。

ワイドショーも終盤に差し掛かるころにはランチタイムも終盤戦だ。

この時間になってオーダーもまず出ないので、私はやよいちゃんが食べ終わるのを待つようにしばし手を休めていた。

画面が賑やかなスタジオから報道センターのキャスターへと切り替わり、番組の最後に申し訳程度のニュースを伝えようとしていた。

ワイドショーでは流行のファッションがどうだとか、今話題の食べ放題がどうだとか、随分景気のいい話ばかりしていたような気がする。

場末の居酒屋を営む私にとっては別世界の話に思えたし、それはやよいちゃんも同じだったらしい。

やよい「すごいです……」

そう言って目を輝かせるでもなく、むしろ呆気に取られたような顔でボーっとテレビを見ていたのを覚えている。

だが、ニュースに切り替わったとたんに現実は非情にも押し寄せてくる。

今日もやれ原油の値上がりだ、物価は上がったが収入は横ばいだ、とさっきまでの景気のいい話が嘘だったかの様な話題ばかりだ。

今日伝えられたのは野菜の高騰というニュースだった。

とりわけ、葉物野菜の値上がりが激しいらしく、私にとっては頭の痛い話だった。

私は思わずため息をついてしまったが、そんな私の心中を悟ったかのようにやよいちゃんが切り出す。

やよい「あ、あのー、マスター……」

その顔は私を心配するかのようで、こんな小さな子に心配をさせるような顔を見せてしまったことを思わず私は恥じた。

やよい「私……少しくらいならお値段上がっても大丈夫です、アイドル始めてから少しは家の暮らしも楽になりましたし……」

やよいちゃんの言葉が全て嘘だとは思えなかった、少なからずやよいちゃんのおかげで家の収入も増えただろう。

だが、それとて恐らくは候補生か駆け出しに過ぎないやよいちゃんの収入など微々たるものだろうことも容易に想像できた。

自分が食っていけて、それにちょっとした蓄えが出来る程度の私の店ではあったが、張る見栄くらいはあった。

私は精一杯の笑顔を作ってやよいちゃんに返す。

「大丈夫だよ、そんなにすぐに値上げだなんて最終手段には出ないよ」

それでもやよいちゃんの表情は晴れない。

やよい「でも……お野菜が高くなってるのは私だって痛いくらい分かってます。
    スーパーにお買い物に行っても、今まで買ってたものに手を出すのをちょっと迷っちゃう時があるんです」

これは手ごわい相手だ、なまじ現場での実体験があるだけに上っ面だけの美辞麗句や見栄ではごまかせそうになかった。

やよい「あっ! ま、迷っちゃうと言っても別に家の生活がギリギリってわけじゃないんです、その……」

自分の言ったことに気づいたやよいちゃんが慌てて口ごもる。

内面は大人びていても、こんなところに不意に覗く子供っぽさがやよいちゃんが愛される理由なのかもしれないと私は思った。

「そうだな……確かに今のままじゃウチはいつか赤字になっちゃうかもね」

やよい「ですよね……だから」

そのやよいちゃんの言葉にかぶせるように私は続けた。

「だから、やよいちゃんにもちょっと手伝ってもらっちゃおうかな」

やよい「……え?」

中途半端に言葉だけ取り繕ってもやよいちゃんはきっと納得しないだろう。

それならば、形だけでも力を借りるという形にすればやよいちゃんでも値上げをしない心配をしなくなるかもしれない、私はそう考えたのだ。

やよい「手伝う、って……」

「やよいちゃんってさ、節約の達人なんでしょ? だったらお店に今あるムダを省けるような、そんなアドバイスを貰えたら私も楽になるかもね」

口ではこう言ったが、私とて小さいながらも自分の店を切り盛りする身だ、結構ムダは出していないという自負はあった。

それでも何か一つでもいい、ささやかでもいい、何か見つかって具体的な成果が出ればひとまずは安心してもらえるという思いがあった。

やよい「……分かりました」

やよいちゃんの目の色が変わった。

やよい「こんなにお野菜の切れ端を捨てないでください! 頑張ればもう少し食べられるところはありますっ!」

やよいちゃんの指南は多岐にわたった。

やよい「ここの隙間を何かで塞がないと、冷房や暖房の効率が悪くなっちゃいます! いっそ修理した方が長い目でみればお得ですっ!!」

思わず私の方が舌を巻いてしまうほどにやよいちゃんの節約術は徹底していた。

やよい「いっぱい仕入れて安く上げようとするのは分かりますけど、こんなに冷蔵庫がパンパンじゃ電気の負担が大きくなっちゃいます!」

口には出さなかったが、ほんのちょっぴりだけお手伝いを頼んだことを後悔したりもした。

だが、成果が確かな数字となって現れると、思わず私も目を丸くした。

やよい「うっうー! お野菜の値段が上がった分は節約でとりもどせましたー!」

かくして、たるき亭は値上げという事態を無事に避けることが出来た。

そればかりか、値段の据え置きをしたことであの店は安いと近所からの客が気持ち増えたような気がする。

もはや、私はやよいちゃんに足を向けては寝られないだろう。

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アイドルならば体型の維持をするために、私などは及びもつかないような努力を重ねているのだろう。

とはいえ、765プロのアイドルは育ち盛りと言ってもいい年齢の子も大勢いる。

貴音ちゃんあたりを代表格に、律子ちゃんだって見た目よりはずっと多くの量を食べる……まぁ、二人とも育ち盛りというにはちょっと語弊のある年齢かもしれないが。

それ以外のみんなだって、頼んだものはほとんど残さずに食べてくれる。

食事という行為に疎い千早ちゃんだって、春香ちゃんに連れられてきた時は乗り気ではないにしても決してものを残すことはしなかった。

だからこそ、そんな765プロの面々が何かものを残したのだとしたら、何かあるなということは私にだって容易に想像がついた。

響「ごちそうさまー……」

今日はそれが響ちゃんだった。

ラフテーを思い出す、と初めて来た時から贔屓にしている角煮も、半分以上残していた。

貴音ちゃんが一緒なら、「では私が」と言って平らげたのかもしれないが、生憎今日は仕事があるようで不在だった。

アイドルたる者体型の維持には気を使うことは私も重々承知はしていた。

だが、響ちゃんがこれといって太ったようには見えないし、それならばそもそも角煮など頼むはずはないだろうとも思った。

だとするならば、残した原因は別にあるのだろうと考えるのが自然だった。

そういえば、心なしか店に来た時の「はいさーい!」も今日は随分元気がないように聞こえた気がする。

「どうしたの? 具合でも悪いの?」

響「マスター……ううん、そうじゃないんだけど……残しちゃってごめんなさい」

いつも元気な響ちゃんが肩を竦めるのを見ていたたまれない気持ちになった。

しかし、響ちゃんの言うことを信じるならば、体の方はすこぶる健康だということになる。

だとすれば……心の方か、そう私は悟った。

そしていくつか頭の中に思い浮かんだ選択肢から、おそらくこれじゃないかと思ったものを選んでみた。

「……もしかして、ホームシックか何か?」

いつも頼むメニューが変わらないやよいちゃんや美希ちゃんとは違って、響ちゃんは角煮だけを頼み続けたわけではなかった。

頼んだ時のおしゃべりに耳をそばだててみると、今日はレッスンで頑張ったんだとか、新しい振付をマスターしたんだとか……

そういう特別な時に食べていたような、そんなことを私は思い出していた。

気分が沈んだ時にそんな特別なメニューを、それも自分の故郷を想起させるものを頼むには相応の理由があると推測した結果がこれだ。

一方の響ちゃんは小さく頷くと、概ね私の想定通りの答えを返してきた。

響「ウチナーが……恋しくなったんさー……変だよね、アイドルとしてビッグになってから凱旋しようって決めてたのに」

普段の明るく元気で、「自分、完璧だからな!」という自信たっぷりの響ちゃんに慣れているからすっかり忘れていた。

どんなに芸能界で大人たちの世界に触れてはいても、響ちゃんはまだ高校も出ていないような子供だ。

それが、故郷を遠く離れた地で独り暮らしをしている……家族だというペットに癒されることはあれど、それだけで足りなくなることもあるのだろう。

響「ここの角煮を食べればウチナーに帰ったつもりになれたかもしれないけど……でもやっぱりラフテーとはちょっと違うんだよね……」

故郷の味を求めてはいたが、どうやらウチの料理はその役目を果たせなかったらしい。

まぁ、それも無理のないことだ、ウチはあくまで大衆居酒屋が昼間に日銭を稼ぐのにランチをやっているだけの店にすぎない。

本場沖縄の味を再現しようたって無理があるというものだ。

かと言って、このまま何も出来ずに放っておくだなんてことも隣人としては出来なかった。

少なくとも響ちゃんはウチの店の料理に癒しを求めてきてくれたのだ、それに応えられなくては料理人の端くれとしても名折れというものだ。

「……響ちゃんにとって故郷の味……おふくろの味って何かな?」

響「アンマーの味……? うーん……」

しばし考え込んだ響ちゃんが、ベタかもしれないけど、と前置きをしてこう言った。

響「やっぱりチャンプルーかな、ゴーヤの。ラフテーも好きだったけど、ゴーヤは一年中取れるから……」

なるほど、聞いたこともないような沖縄料理を出されたらどうしようかと思ったが、それなら何とかなるかもしれない。

響「あー! マスター、ベタだな、って絶対思ってたぞ!」

何とかなりそうだという笑みを誤解されたか、響ちゃんが思わず頬を膨らませた。

「ゴメンゴメン、それじゃ、響ちゃんの故郷の味を出来るだけ再現してみようじゃない」

数年前に沖縄が舞台のドラマが流行ってゴーヤも身近になったとはいえ、響ちゃん曰く「ウチナーのとはちょっと違う気がする」らしい。

響「自分の家の近くのスーパーでもあまり置いてあるのを見たことないぞ」

家事全般も完璧だと豪語する響ちゃんとて、材料が手に入らないことにはお手上げだそうだ。

だが、仮にもこちらは一般家庭とは違うところにルートを持っているプロの店だ。

ツテを頼ってどうにか本場のゴーヤを手に入れることが出来た、あとは教わったレシピに沿って作れば完成だ。

響「でぇじ、まーさんだぞ!」

ようは「とても美味しい」ということだそうで、久しぶりに響ちゃんにも笑顔が戻ってきた。

響「でも、アンマーのと比べるとまだまだだぞ! マスターのはアンマー、自分の次の3番目だぞ」

まぁ、この際順番がどうとかは響ちゃんの元気の前では些細な問題だ。

そもそも愛情の深さで私が母親に敵うわけはないし、自分で作ったものは美味さもひとしおに決まっている。

試しに夜の部のメニューとして出してみたところ、この響ちゃん流ゴーヤチャンプルーは好評を博した。

私のところで仕入れが出来る時の限定メニューとしてめでたく仲間入りを果たすのは後の話となる。

さすがに遅くなったので今日はここまで
明日の仕事を終えれば明後日はまた休みのシフトなので、日付変わるあたりから再開予定で

うっかり爆睡しちゃってたけど、今日は休みだからまあいいか
のんびりペースで再開します

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客商売である以上、どうしても時期によって人の来る、来ないという波が存在するものだ。

こんな小さな居酒屋でも、金曜や土曜の夜となればそれなりに人がやって来るし、忘年会や新年会シーズンもまた然りだ。

そして、逆にいわゆる「給料日前」というものは人の足が遠のき、店もいつも以上にのんびりとした空気が流れる。

芸能界の給与体系がどうなのかは私の知るところではないが、そんな中にあって唯一の宮仕えと言ってもいい小鳥さんは世間の行動パターンにバッチリ当てはまる。

小鳥「すみません……今日はライスにおみそ汁だけでお願いします」

月末が近づくと、それまでの定食の値段がちょっとずつ下がっていき、最終的には野菜炒め定食かおにぎりセットに落ち着くことが多かった。

だが、盆明けのこの時は、いつも以上に苦しかったようで、頼んだ品から小鳥さんの懐事情がうかがい知れた。

「どうしたんです、今月は。いつも以上に苦しそうじゃない」

年頃の娘さんが、貧乏学生のような食事をしようというのだから心配にならないわけがない。

いや、最近なら貧乏学生でもこんな質素な食事はしないだろう。

ただでさえ、事務員として入ったはずの律子ちゃんはアイドルと掛け持ちする形で事務の人員が足りないだろうことは私でさえ想像がつくのだ。

今や十数人の女の子を抱える事務所の細々とした仕事を一手に担っているはずなのだから、エネルギーが要ることは間違いないはずだ。

「いやぁ……その、ちょっと今月はお金を使いすぎちゃいまして……」

小鳥さんが恥ずかしそうに頭を掻く。

そういえば、この夏の盛りに四、五日ほどのまとまった休みを小鳥さんが取ったと、他の子たちが話していたような気がする。

……なるほど、どこかに旅行にでも行ってきたのだろうか。

小鳥「お給料が出るまでは、ちょっとお酒も我慢しなくちゃいけないみたいで……」

「おやおや、それじゃウチの夜が寂しくなっちゃうねぇ」

多い時には週の半分くらいをウチで飲んでいくほどにイケる口の小鳥さんが、酒を控えねばならぬほどに財政状況は逼迫しているらしい。

さては、旅行の目的はショッピングか何かだろうか、それでお金を使いすぎてしまった、と。

少しばかり、バブルに沸いた頃の華やかさを思い出した。

「そういえば、休み取ったんだってね。どこか旅行でも行ってきたのかな」

小鳥「え、えぇ……ま、まぁ、そんなとこですかね……アハハ」

どうやら私の推測は当たっているようだ。

小鳥「さすがにツケなんて失礼なことは出来ませんので……しばらくはお昼もこんな感じになりそうです」

それにしたって、ご飯と味噌汁だけというのはあんまりじゃないだろうか。

野菜もしっかり摂らないとお肌に悪いよ、と言いかけてやめておいた。

ずけずけと年齢を聞くような野暮なことをしたことはないが、もうそのあたりを気にしていてもおかしくなさそうに見えた。

口は禍の元、ということもあるし、余計なことを口走って機嫌を損ねてしまっては客商売失格だ。

しかし、何もせずにそのまま頼まれたものを出すというのも、隣人としては気が引けるというものだ。

と、厨房を見渡してみると、私の視界に一つの鍋が入ってきた。

マンガ的な表現をするなら頭上に電球が灯った、高木風に言うなら「ピーン、ときた」、そんな状態になった。

小鳥「あの……これ……」

私が出した料理を前に小鳥さんが目を丸くした。

ご飯、味噌汁と付け合わせの漬物に加えて、ちょこんと鎮座する小鉢が一つ。

「あぁ、気にしないで。昨日の夜の余りものだからね。
 ちゃんと昼前までは冷蔵庫に入れておいたし、ちゃんとさっき火も通したから傷んでいることはないよ」

ウチのような大衆居酒屋には欠かせないといってもいいメニューがある。

小鳥さんの目の前にあるモツ煮もその一つだった。

小鳥「でもそんな……悪いですって」

「いいのいいの。無理して倒れちゃったら、それこそウチに来られなくなっちゃうしね。
 普段から贔屓にしてくれてる小鳥さんだから、ちょっとだけおまけしとくから」

ちなみに、モツ煮は栄養価もしっかりしている。

安い、上手い、体にいいと三拍子揃った、大衆居酒屋とお客様の強い味方だ。

小鳥「すみません……それじゃ、お言葉に甘えまして」

元々は酒飲みの小鳥さんだ、このあたりに抵抗がないであろうことも計算のうちだ。

以後、ウチではモツ煮に限らず、何か一つは日持ちのするものを少し多めに作り置くことが日課となった。

ランチに小鉢として出せば、その分の手間も予め省けるというもので、私にとっても都合がよかった。

一方の小鳥さんはというと、同じような窮状に陥ることが正月明けにもあった。

その辺りの事情を小鳥さんからあまり聞いたことはないが、旅行が趣味なのだろうか。

こういう商売をしていると、どこか遠出をすることなどなかなか出来ないものだ。

厚かましいかもしれないが、普段のおまけの見返りに今度はお土産でも頼んでみるとしようかな。

……と口にしてみたら、小鳥さんがものすごく焦っていたのはどういうことだったんだろうか。

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始まりがあれば終わりもあるというのは自然の摂理だ。

だが、その終わりを告げる言葉はあまりにも突然のことだった。

律子「アイドル、辞めることにしました」

今の765プロで誰よりも先に入って頑張ってきた律子ちゃんが、そんな報告をしてきたのは冬の寒さも厳しい頃のことだった。

律子「……あ、だからといって765プロからいなくなる、ってわけじゃないですよ」

律子ちゃんが慌てて取り繕う。

まぁ、部外者である私に話すくらいだから、この事は高木にもとっくに話しているだろうし、アイドルの子たちも知っているのかもしれない。

一番先にアイドルになったから、というだけではないのかもしれないが、律子ちゃんは結構いい線を行っていたと聞く。

店のテレビで見かけるようなことはまだまだ少なかったが、イベントでは結構な声援を受けていたんだと、他の子たちが話していたのを聞いたこともあった。

それだけに、

「もったいないなぁ」

そんな言葉が思わず漏れてしまった。

律子「ふふ、みんなと同じこと言うんですね」

もう決めたことですから、と律子ちゃんは苦笑しながら続けた。

その顔はどこか吹っ切れたように見え、最早止める言葉が意味を成さないであろうことを私に悟らせた。

律子「別に自分のことを卑下するわけじゃありませんが……
   このまま私がどんなに頑張っても、よほど運が良くない限りはトップクラスになれないと思うんです」

トップクラス、それでも十分じゃないかと言おうとした私を遮るように律子ちゃんが続ける。

律子「でも、トップ『クラス』では意味が無いんです。
   揺るぎないトップに立たない限りは、すぐに蹴落とされて人々の記憶からもすぐに消えてしまいます。
   それだったら、今のうちに身を引いておいても同じことじゃないかな、って」

芸能界というところは人気商売だ。

ウチのオンボロテレビが映し出した人々も、気づけば見なくなったような者が無数にいるだろう。

あれ、最近見ないな、と思う頃はまだましで、それもすぐに思い出すことさえなくなってしまう。

日々才能が発掘されてはすぐに消費されていく、飲食店ではないが飽食の文化はテレビの向こうでも極まっているようだった。

律子「正直言うと、ちょっと最初の分析は甘かったんです。
   しっかり自己分析して、自分の土俵でちゃんと戦えばそれなりのところにはすぐに行けるんじゃないか、って思ってたこともありました」

そこまで言ってから、律子ちゃんは一度お茶に口をつけ、ふぅっと一息ついてから続けた。

律子「当たり前の話ですけど、私たち以外にもトップになりたいアイドルは山のようにいるんです。
   その山を上り詰める、その険しさにはあの世界に飛び込んで初めて知りました」

遠くに仰ぐ山は、ともすれば頂を視界に収められることもあって、一見容易に登り詰められそうに思える。

だが、近づいてみれば決して一筋縄ではいかない、そんな厳しさが牙をむいてくるものだ。

律子「右も左も分からないなかで、私なりに色々と調べてがむしゃらにやってきたんですけどね。
   山の上り方も知らない私では、これ以上進むことは出来ませんでした」

思えば、今の765プロでアイドル以外のスタッフと言えば社長の高木と事務員の小鳥さんぐらいだ。

普通ならマネージャーの一人や二人いてもおかしくないだろうが、ウチの店にそんな感じの顔は見たことがなかった。

一番この世界が長いという高木にしても、社長という立場上誰か一人にかかりっきりになるわけにはいかなかったのだろう。

かなり歪な環境で律子ちゃんは奮戦していたことになる。

それでも、いい線行く程度まで登り詰めるあたり、きっと才能もあったのだろう。

事務員からの転身を打診した高木の目は、決して狂っていなかったのだろうと私は思った。

「これからは……どうするのかな?」

しばし流れた沈黙を破る私の問いに、律子ちゃんは晴れやかな顔で答えた。

律子「学校を卒業したら、プロデューサーとして765プロのみんなと頑張ろうと決めたんです。
   今から運転免許も取ろうと教習に通い始めているんですよ」

途中までとはいえ、アイドルという山を登っていた律子ちゃんが、山の登り方を他のみんなに伝えようとしている。

律子「アイドルに未練がまるで無いわけじゃありません……けど、今はどうやってみんなの魅力を引き出そうか……
   それを考えるだけでもう楽しくて楽しくて仕方がないんです」

もっとも、しばらくは修行の身ですけどね、と付け加えた律子ちゃんの表情に迷いは影さえも見られなかった。

「そっか。それが律子ちゃんの決断だって言うのなら、私はとやかく口を挟める身分じゃないさ。
 これからも、陰ながら応援させてもらうよ」

律子「いえ、こちらこそこれからもお世話になります」

アイドル・秋月律子ではなく、プロデューサー・秋月律子の門出だ、私なりに祝わせてもらうとしよう。

律子「これ……私が初めてここに来た時の……覚えて、いたんですね」

出したのは、律子ちゃんが小鳥さんに初めて連れられて来た時に出したメニュー、カレーコロッケだった。

律子ちゃんがまだアイドルになる前の話だが、もうずっと遠い昔のように思えてきた。

律子「覚えてます? あの時マスターが「別嬪さんだ」って言ってくれたこと。
   あれも、私がアイドルやってもいいかな、って思える一つの理由だったのかもしれないです」

「はは、そんなこと言ったかな」

覚えてはいるが、それを蒸し返されると私としても照れくさいので思わずとぼけてしまった。

律子「あっ、ヒドい。やっぱりお世辞だったんですね」

そう言ってアハハ、と笑い合った。

本当なら居酒屋を営むのだから、門出を祝うには酒の一献でも、と思ってはいたが未成年相手では仕方がない。

「早く律子ちゃんもお酒の飲める年になってさ、仕事の愚痴なんか零しに来なよ」

律子「ええ、そうさせていただきますね」

遅い朝飯兼早い昼飯のため中断

急用入って間隔空いたけど、こっから再開します

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店の引き戸が勢いよくガラガラッと開くと同時に「はいさーい!」という元気な声が聞こえてきた。

包丁を動かす手を止めた私が顔を上げ、「いらっしゃい、ひびk……」と口走ると……

亜美「やーい、おっちゃんひっかかってやんのー!」

大成功、と言わんばかりに白い歯を見せる亜美ちゃんがそこに立っていた。

相手の顔も確かめずに名前を口にしてしまった私も早計ではあったが、それを差し引いても今の響ちゃんの声は聞き間違うくらいに似ていた。

亜美「ねえねえ、どーだった? 今のひびきんのマネ、似てたっしょー?」

誇らしげに胸を張る亜美ちゃんに、私は素直に拍手を送るしかなかった。

「いや、スゴいよ。似てた似てた。モノマネなんて出来たんだね」

その褒め言葉に亜美ちゃんはもう鼻高々らしい。

亜美「ホント!? へへっ、やっりぃ~」

調子に乗ったのか、今度は真ちゃんの声真似まで披露してくれた。

それもまた驚くほど似ていたものだから、私はほぉ、と唸るばかりだった。

亜美「今、事務所のみんなのモノマネを覚えてるんだよ。今のまこちんもよかったっしょ?」

「いや、たいしたもんだ。声だけ聴いたら本当に勘違いしそうだよ」

亜美「真美とどっちが先にみんなのマネをマスターできるか勝負してるんだ。
   この前は真美がお姫ちんの声真似をマスターしててね、もう負けられなくって」

お姫ちん……たしか貴音ちゃんのことだったかな。

それにしても、イタズラっ子の二人がモノマネなんて覚えたらイタズラにも拍車がかかりそうだ……と思ったら。

亜美「お隣のラーメン屋さんにお姫ちんの声色でラーメン五人前頼んでも疑われなかったんだよ!
   届いたラーメンを見てお姫ちんは『はて……わたくしは頼んだ覚えなどないのですが……面妖な』って言ってたけどね」

……飲食店を営む者としてはシャレにならないイタズラを告白されてしまった。

うぅむ、ここは一つビシッと言わねばならないか……?

亜美「まぁ、お姫ちんがそれをあっさり平らげちゃったのを見て、仕掛けた真美もビックリしてたけどねー。あの顔、サイコーだったなー」

……ツッコミどころが多すぎて疲れそうなので、やめておくことにしよう。

「……ところで、今日はどうしたんだい? またルパンごっこかな?」

亜美「むー、違うよおっちゃん! 今の亜美はお客さんなの!」

頬をぷぅっと膨らました亜美ちゃんがカウンターに座ってバンバン、とテーブルを叩く。

はいはい、と私は呆れた笑顔を見せながら、亜美ちゃんにメニューを差し出した。

「……ところで真美ちゃんは?」

私としては何の気なしに聞いたつもりだったのだが、どうやらそれが地雷だったらしい。

亜美「……真美なら一人でオーディション受けに行っちゃったよ」

いつも一緒の二人が別々にオーディション?

疑問符が頭の上にともる私がよほど奇妙に見えたのか、亜美ちゃんがすかさず補足を入れた。

亜美「小学生対象のオーディションだったんだけどね、経費がどうたらこうたらで一人しか連れて行けないんだって。
   で、真美とジャンケンして、亜美が負けちゃった、ってだけだよ」

ふむ、喧嘩別れをしているというわけではなさそうで、その点だけは安心した。

亜美「モノマネもそうなんだけどさー……最近、真美と何かにつけて勝負することが多くなったんだよね」

食事を終えた亜美ちゃんがポツリ、ポツリと話し始めた。

亜美「今まではずっと二人で一緒に何かをするのが当たり前だ、って思ってたんだけどさ。
   今日みたいなことがあると……なんだかすごく悔しい、って思っちゃって」

デザートに、と頼んだアイスクリームを一口頬張って亜美ちゃんが続ける。

「つまり、真美ちゃんは亜美ちゃんにとってのライバル、ってことなんだろうね」

皿を食洗器に放り込みながら私が呟くと、「そういうことなのかな」と亜美ちゃんも呟く。

ふと目に入った亜美ちゃんの表情は、今まで私には一度も見せたこともないような難しいものだった。

亜美「ライバルがどうとかって、よく分からないけど……とにかく負けちゃいけない、ってことなんだよね」

芸能界という競争の社会の中で、それはきっと亜美ちゃんが初めて見つけた「負けられない相手」なんだろう。

私の心情としてはどちらにも負けてほしくない、競い合う中で高め合って、いずれは二人とも素敵な女性になってくれればいいんじゃないか、と思っていた。

亜美「よし、決めたっ! やっぱりあの話に混ぜてもらうことにしよっと!!」

何かを決心したのか、亜美ちゃんが勢いよく立ち上がった。

「……あの話?」

亜美「いやぁ、これは亜美が小鼻に挟んだ話なんだけどね」

「それを言うなら、小耳に挟んだ、ね」

私の些細な指摘などお構いなしに亜美ちゃんが話を続ける。

亜美「律っちゃんが社長と話してるのが聞こえてきたんだけどね、みんなの中から三人くらい選んでユニットを組もうとしてるんだって」

律子ちゃんがアイドルをプロデュースする側へ転身すると聞かされてから一ヶ月くらいが経っていた。

どんな風に魅力を引き出そうか考えるのが楽しい、そう言っていたが、ビジョンがだいぶ固まって来たのだろう。

亜美「あずさお姉ちゃんと、いおりんはもう律っちゃんから話を受けているみたいなんだ。
   でも、あと一人をどうしようかって。亜美か、真美か、やよいっちにしようかって迷ってるって……」

大人の女性であるあずさちゃんと、大人びた内面は持ちながらも子供らしい可愛らしさも併せ持った伊織ちゃんか。

この二人が組むのなら、大人の魅力は十二分に引き出せるかもしれないが、ややもすれば大人しくなってしまうのかもしれない。

そこで、天真爛漫な三人の子から誰かを加えることで、アイドルらしい元気の良さも足していこうということなのだろう。

亜美「最初は、面白そーだからって理由で入れてもらおうと思ってたんだけど……決めた。
   真美にも負けたくないし、ここはいっちょ本気で頑張っちゃおーかなっ!」

活力が漲って来たか、少々亜美ちゃんの鼻息も荒くなってきたようだった。

やるぞー、おー、と店の中で高らかに拳を突き上げる様は、なんだか微笑ましくも思えたのだが、私には一つだけ懸念があった。

「ところで亜美ちゃん……そういう大事な話ってこういうところでポンポンしちゃっていいものなのかな?
 一応、部外者……だよね、おっちゃん」

亜美ちゃんが、「あっ」と言いたげな顔で三度突き上げようとした拳を止めた。

亜美「お、おっちゃん……その、『とっぷしぃくれっと』でお願いっ!」

最後は貴音ちゃんの声色を真似て、私の前で両手を合わせて頼み込む亜美ちゃんだった。



それからほどなくして、正式に亜美ちゃんとあずさちゃん、伊織ちゃんがユニットを組むという話が耳に入った。

後に人気を博す「竜宮小町」の誕生であるが、その裏に負けず嫌いな亜美ちゃんの思いがあるのを知るのは私だけかもしれない。

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冬が過ぎて、春がやってきた。

新しい年度の歓迎会シーズンを越え、大型連休を迎え、そろそろ新茶の季節という頃のことだった。

「いやぁ、ありがとう! 最近、お客さんからお茶が美味しくなりましたね、って言われることが多くてね!」

雪歩「は、はぅっ……そ、そうですか、そんな、私、お礼言われるほどのことは……」

生憎、そこまで儲かっているわけではないウチの店では、出すお茶の銘柄などたかが知れている。

だが、それでもお茶の淹れ方一つで味というものはグッと変わって来るらしい。

お茶には詳しいという雪歩ちゃんが、ある時バイトの女の子に「淹れ方を変えるともっと美味しくなるんですよ」と話したそうで、

その子経由で伝わったやり方を試してみたところ、好評を博したというわけだ。

いい葉っぱに変えたのか、なんてことを言われたりもしたが、そんなことはなかったというわけだ。

雪歩ちゃんが初めて店に来た時は、真ちゃんの後ろにも隠れるくらい私に怯えていたものだが。

「いやいや、恥ずかしい話だけどこの年にもなってちゃんとしたお茶の淹れ方も出来てなかったわけだからねぇ!
 まだまだ勉強することはいっぱいあるんだなぁ、ってことが雪歩ちゃんのおかげで改めて実感させられたよ!
 もし雪歩ちゃんさえよければ、これからも色々とお茶のことでアドバイスを貰えると嬉しいなぁ!」

雪歩「そっ、そんな……私みたいにダメダメで、ひんそーで、ちんちくりんなのが何か教えるだなんて……」

こうして今では真ちゃんがいない時でもどうにか私とマンツーマンで会話が出来る程度には慣れてくれたらしい。

……もっとも、カウンターの端と端くらいに距離が離れていてやっと、という感じではあるが。

時にか細くなってしまう雪歩ちゃんの声をこの距離から聞き取るのには結構な神経を使うのだ。

これでも普段は私が声をかけてやっと会話が始まる、という具合だったのだが。

この日は珍しく雪歩ちゃんの方から話を切り出してきた。

「男の人が出入りしている……?」

雪歩「は、はい……さっきレッスンが終わって事務所に戻ったら、珍しく社長室から話し声が聞こえてきたんです」

「そこから聞こえてきたのが、聞き覚えの無い男の声でどうやら何度か事務所に出入りしているらしい、と……」

雪歩「私……怖くなっちゃって、慌てて事務所を飛び出してその人が帰るまで屋上に隠れてたんです」

隣人である私に慣れるまでにこれほどの月日がかかるほどに筋金入りの男性恐怖症の持ち主が雪歩ちゃんだ。

事務所に知らない男が出入りしているなんて知った日には、下手をすれば事務所に寄り付かなくなってしまうかもしれない。

雪歩「後で、社長や音無さんさっきの人は誰ですか、って聞いたんですけど……今はまだハッキリとしたことは話せない、って……」

ふむ……何か密着取材をしようというマスコミか、それとも結局小鳥さん一人で切り盛りしている事務周りを担うスタッフの面接か……

高木と直接話をしているからには、それなりに込み入った話をしているのだろう、私は推測した。

だが、事態はもっと深刻なものだった……少なくとも雪歩ちゃんにとっては。

雪歩「その……このことは社長には言わなかったんですが……私、聞いちゃったんです。
   その男の人が私たちのことをプロデュースするとかどうとか、って……」

思わず私はおぉ、と声を漏らしてしまった。

少なくとも私にはそれが朗報にしか聞こえなかったからだ。

律子ちゃんがプロデューサーに転向して竜宮小町の三人を主に見るようになって765プロを取り巻く流れは確実に変わり始めていた。

業界が長いらしい高木の人脈と、律子ちゃんの分析力、そして何より三人の努力の甲斐あってのことではあるが。

竜宮小町は後ろ盾の小さい事務所のユニットとしては、その船出を大成功させたと言ってもいいほどだった。

デビュー曲は、口コミでじわじわと評判が広がり、深夜とはいえ歌番組への出演も果たしたほどだ。

今まではセルフプロデュースをするしかなかった765プロの子たちが、指針さえ定まればのし上がっていける、そんなきっかけを掴んだのかもしれない。

そもそも、今までそうした人材を確保していなかったのは少なからず高木の落ち度なのだろうが……

とにもかくにも、ようやく道を示してくれる人が現れたことで少なからず私はホッとした……が、雪歩ちゃんの表情は暗いものだった。

雪歩「その……もしその人がプロデュースをしてくれるとして……
   私みたいなダメダメな子は、もしかしたら見捨てられちゃうんじゃないか、って……不安……なんです」

俯く雪歩ちゃんを見て、私は自分の考えの浅さを恥じた。

もしかすると、雪歩ちゃんは竜宮小町の成功を喜びながらも、心のどこかでは選ばれなかった自分への評価を下げていたのかもしれないのだ。

もちろん、駆け出しのプロデューサーである律子ちゃんに十数人全員をどうにかするのは無理だったろうし、メンバーを選ぶにしたって断腸の思いがあったのは想像に難くない。

それでも、先に選ばれなかった自分が、次のプロデューサーにも選ばれなかったら……厳しいレッスンで培ってきたはずの自信は脆くも崩れてしまいかねない。

雪歩「ダメ……ですよね。私……男の人と全然話すことが出来ないですし……。
   プロデューサーになる人とまともにお話しできないアイドルなんて、きっと……」

おまけに雪歩ちゃんは男性恐怖症というハンディを抱えているようなものだ。

先にデビューした仲間の成功、それと比べて結果の出ない自分、そこに降りかかる男性という不安要素。

このままではきっかけを掴むより先に雪歩ちゃんの心が折れてしまいかねない。

「……雪歩ちゃんは何でそれを私に相談したのかな? 私だって、しょぼくれかけちゃいるが、立派な男だよ?」

私の言葉に、雪歩ちゃんがハッとした表情へと変わる。

雪歩「その……マスターは何というか……知らない人じゃないですし……私にとってはもう一人のお父さんみたいな感じで……」

お父さん、か……私もそんな年かね……否定は出来ないだろうけれども。

「そんな私にだって、初めて会った時はまともに話すことさえ出来なかったじゃない。出来ないなんて決めつけちゃダメだよ」

なるべく押しつけがましくならないよう、言葉のトーンに気を使いながら、私はツカツカと一歩、二歩と雪歩ちゃんの方へ歩み寄った。

雪歩ちゃんはひっ、と声を漏らし体を強張らせるが……決して席を立って逃げようとはしなかった。

単に固まって動けなくなったのではないことを信じたいところではあるが。

「ほら、大丈夫じゃない。雪歩ちゃんは出来ないわけじゃないんだよ」

雪歩「は、はい……」

よく見れば小さく震えているのは見て取れるし、今の私との距離だって軽く大股二、三歩分だ。

普通に会話をするにはまだまだ遠い距離ではある……が、カウンターの端と端なんて距離に比べれば格段な進歩だろう。

一朝一夕に苦手意識は克服できるものじゃないが、あとは雪歩ちゃん自身が前を向いて進んでくれることを願うばかりだ。

雪歩「私……出来るでしょうか? 新しいプロデューサーさんに、嫌われたりしないでしょうか」

「そんな時はお茶の一つでも入れてあげればいいんじゃないかな」

そう言って私は手にした湯呑の中身を飲み下した。

「こんなに美味しいお茶の淹れ方を知っている子に悪い子はいないことくらい知ってもらえるはずだよ」

今夜はここまで
個別エピは一通りやり切りたいと思います
あとは春香、千早、伊織、あずさ、真美、美希、貴音、P、社長かな
最低限それだけはやりきります ネタが浮かべばもう少し

仕事&夕飯&風呂終わり
今夜も行き当たりばったりで再開します

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店に歓迎会の料理の注文が入ったのはそれから半月ほど経ってのことだった。

未成年の女の子を多く抱える765プロだけに、さすがにウチを会場にすることは出来なかったようだが。

そんなこともあって、私は大皿に山のように盛ったポテトフライを唐揚げを何皿か持って行かせた。

とりわけ、年少組には受けが良かったらしく、新入りプロデューサーの歓迎会は和やかなうちに幕を下ろしたようだ。

もちろん、部外者の私が顔を出す道理は無いので、いつも通りに店を開いていたわけだが。

会がお開きになったのは、何人ものアイドルたちがお喋りしながら階段を下りてくるのが聞こえたことで把握できた。

そのまま皆三々五々と家路に着いた……かと思いきや、少し遅れてカラカラと引き戸を開ける音がした。

小鳥「どうもごちそうさまでした、お皿、返しに来ました」

事務所の外にでも重ねておいてくれれば、店仕舞いしてからでも取りに行くつもりだったのだが、ご丁寧に皿を返しに来てくれた。

が、目的はそれだけではなかったようだ。

小鳥「それと……四人分、席空いてますか?」

かくして、小鳥さん、あずさちゃん、高木……そして私も初めて見る新入りプロデューサーの四人がテーブルを囲んだ。

ここからは大人の時間……有り体に言ってしまえば二次会をやるようだ。

あずさ「さ、社長、どーぞ♪」 トクトク

社長「おぉ、アイドルからお酌をしてもらえるとは有難いねぇ」

小鳥「社長、それいつもみんなで飲む度に言ってませんか……? それじゃ、プロデューサーさんには私から♪」 トクトク

P「あ、ど、どーもすみません、一番下っ端なのに……」

社長「何、気にすることは無い、今日の主役はキミなんだからね」

そう言う高木に背中をバシッと叩かれ、苦笑を見せる男が、件のプロデューサーのようだった。

初めて見た印象としては……特にどうということもない、ごくごく普通の優男のようにしか見えなかった。

年の頃は恐らく二十代だろうか……もっと芸能界の酸いも甘いも知っているだろう猛者を想像していた私は少し肩透かしを食らった気分になった。

プロデューサー、というよりは兄貴分のような存在になるんじゃなかろうか、そう思うほどだった。

ささやかに乾杯が行われてから、二時間が過ぎようとした頃だった。

小鳥「どーせあたしなんか、貰い手のつかない売れ残りれすよぉっ!」 ヒック

あずさ「あはははっ! そんなことないですってぇ~、小鳥しゃんは、とぉってもステキなお姉さんですよ~」 ヒック

P「あ、あの……お二人とも飲みすぎじゃ……」

あずさ「あらあら~? ぷろでゅーさーしゃん、グラスが空っぽですよ~?」 ヒック

小鳥「なんだとクルァ!? 主役が飲まなくてどーするんですかぁっ!」 ヒック

P「いや、ちょっ……しゃ、社長っ! お二人をなんとかしてくだ……!」

社長「ハッハッハ、いやぁ、愉快愉快!」 ヒック

P「助けてくださいよぉっ!?」

私にとってはまぁ見慣れた光景ではあるが、新入りの歓迎会にしてはちと刺激が強すぎたか。

いつしか主役が置いてけぼりの宴席がそこには出来上がっていた。

P「すみません、お冷四つ……いただけませんか?」

自分の歓迎会でここまでやられたら冷めてもおかしくないところだが、そうはいかなかったのだろう。

「お冷四つね……タクシーはどうする? 呼んでおこうか?」

P「お願いします……」

結局、最後の最後で尻拭いをさせられる格好になっていた新入りプロデューサーだった。

高木はまだ代金を出すだけの余裕はあったようだが、小鳥さんとあずさちゃんはもう手がつけられない状態だった。

甲斐甲斐しくプロデューサーが二人の介抱をしていた。

果たしてそれはこの男の地なのか、それとも下っ端であるが故の使命感なのか……私も最初は計りかねていたのだが。



P「昨日はご迷惑をおかけしました……」

翌日になってすぐに頭を下げに開店早々ウチに顔を見せてきた時には、いささか驚いた。

誠実そうだし、面倒見もよさそうで、これなら大丈夫かと、私はひとまず胸をなでおろすのだった。

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プロデューサーが入社した頃には、もう世間に名前が知れ始めていたのが竜宮小町だった。

今までのレッスン、レッスン、ごく稀に仕事という生活から一転して、スケジュールが次々に埋まっていくという状況だったらしい。

そんなこともあってか、少しずつあずさちゃんも、亜美ちゃんも、伊織ちゃんも、プロデュースする律子ちゃんも、店に顔を出す機会が減っていった。

今にして思えば、みんなが売れるということはこうなることを意味するわけで、私にはそれが嬉しくもあり、寂しくもあった。

そんなある日のこと、久しぶりに店に顔を出してくれたのが伊織ちゃんだった。

伊織「空いてるかしら?」

残念ながら埋まっていることの方が少ない店だ、私はどうぞ、と伊織ちゃんをカウンターへと案内した。

初めて店に来た時とは髪型を変えていた伊織ちゃんは、ふぅっ、と疲れたような息をつきながら席に腰掛けた。

「忙しそうだね」

伊織「おかげ様で。でも、今がこの世界に入って一番楽しいんだから」

そう言って笑う伊織ちゃんの笑顔は、テレビや雑誌で見せる笑顔とはまた一味違うもので、私はそんな「素」の笑顔を久しぶりに見たような気がした。

伊織「一気に階段を駆け上がっていくのって大変なのよ。
   最近は、律子の車の中でお弁当を流し込むのが精一杯なんだから、久々に落ち着いて食事がしたくなったのよ」

今や絶賛売出し中の竜宮小町にとっては今日が久しぶりのオフのようだ。

が、どうにも休み方を忘れちゃった、と苦笑する伊織ちゃんは、オフにもかかわらず事務所に顔を出したそうだ。

他のアイドルや小鳥さんと他愛も無い会話を楽しんでリフレッシュし、レッスンや仕事に出る皆を見送ってウチへ来たとのこと。

伊織「別に仕事そのものに疲れているわけじゃないのよ。
   こんな経験、したいと思ったってそうそう出来るものじゃないことは分かってるの」

そう話す声は充実感に満ち満ちたものであることが容易にうかがい知れるものだった。

聞いた話では、伊織ちゃんが765プロに入ったのは、さる巨大企業の総帥たる父親と高木が知り合いだったことも理由の一つらしい。

私のような者でも知っている大企業のトップと知己である高木がどんな人物なのか謎は深まるばかりだが、それはさておくことにしよう。

だが、そのコネを使えば、失礼な話だが765プロよりも充実した環境の事務所に入ることだって出来たのではないだろうか。

そんな疑問は私ならずとも持っていたようで、ある記者がブレイクした伊織ちゃんにその疑問をぶつけたそうだ。

すると、水瀬の家など関係なく、自分自身の力で欲しいものを手にしたかったから、という旨の答えを出したそうだ。

私は危うく伊織ちゃんのプライドを傷つける質問をするところだったのに気づき、大いに反省したものだ。

そういう意味では、今のこの忙しさはそれこそ伊織ちゃんの望むところ、ということなのだろう。

まだ十五歳という身にして、それほどの充実した毎日を遅れていることに、私は年甲斐も無く羨ましくも思ったものだ。

伊織「でもね、仕事でもレッスンでもなく、一番疲れる原因って何だと思う、マスター?」

出来上がったランチを出そうとしたその時に、不意に質問をぶつけられて私はえっ、と思わず言葉に詰まってしまった。

伊織「それはね……」

私が差し出したトレイに手を伸ばしながら伊織ちゃんが悪戯っぽく笑って見せた。

今風に言うのならば、小悪魔的なスマイル、とでも言えばいいのだろうか。

伊織「大好きな100%オレンジジュースをゆっくり飲む時間さえ取れないってこと♪」

伊織ちゃんが言外に匂わすものを悟った私は、はいはい、と苦笑しながら冷蔵庫にしまったオレンジジュースを取り出したのだった。

伊織「ふぅっ、久しぶりに落ち着いて美味しいお昼が食べられた気がするわ。ごちそうさま」

上品にオレンジジュースを飲み干した伊織ちゃんが手を合わせる。

ストローで欲張って吸いすぎて、ズゾゾッ、と下品な音を立てないあたりは流石だと思わせた。

その上品さを前にして、ついついこんなことをおふざけで私は口にした。

「お褒めに預かり光栄です、お嬢様」

どうやら伊織ちゃんにとっては不意打ちだったらしく、一瞬だけキョトンとした顔に変わる。

伊織「アハハ、何それ? ウチの新堂じゃないんだから。
   でもいいわね、それ。律子やあの新しいプロデューサーにも見習わせたいくらいだわ」

思いの外ウケがよく、私渾身のオヤジ?ギャグも捨てたものじゃないな、と思わず嬉しくなった。

が、それ以上に嬉しかったのはその後に起きた出来事だった。

伊織「そうね、出来のいいマスターには私からご褒美をあげちゃおうかしら」

そう言うと、伊織ちゃんは傍らに置いたバッグから、おもむろに色紙とペンを取り出し、さらさらっとペンを色紙に走らせた。

伊織「はい、これ」

差し出されたのは伊織ちゃんのサイン色紙だ、しかもご丁寧に『たるき亭さんへ』とまで書かれている。

伊織「にひひっ、感謝しなさいよ? 私のサインなんて今は欲しくてもなかなか手に入らないんだから。
   そんな何十年前のものか分からない、グラビアアイドルがジョッキ持ってるポスターなんか剥がして、それを貼っときなさいよ?」

確かに店の壁は、主に私の書いた手書きのメニューに、もう名前も忘れたキャンペーンガールの古いポスターしかない殺風景なものだった。

流行の店によくありそうな芸能人のサインなど、芸能事務所の階下にあるくせに一枚も無かったのだから。

「ははっ、どうもありがとう。それじゃ、このサインがもっとプレミアがつくのを願っておこうかな」

伊織「当然でしょ? 今よりももっともっとビッグになってやるんだから。
   駆け出しの頃のサインだってナントカ鑑定団に持ち込んだっていいわ、きっとその時には目の飛び出るような金額がつくでしょうね」

自信満々に胸を張る伊織ちゃんと私は互いに笑い合った。

こうして、伊織ちゃんの色紙が店の壁に貼られると、他の皆も我先にとサイン色紙を持ち込んで、あっという間に色紙は十六枚になっていた。

ドサクサ紛れに小鳥さんや高木もノリノリで色紙を書き、果ては新入りプロデューサーまで色紙を書かされていたようだが。

その中でも第一号ということで、伊織ちゃんの色紙は今でもど真ん中へと飾らせてもらっている。

短いけど今夜はここまで
個別エピは伊織しか消化できなかったか(Pは登場回なのでノーカン)

今日も今日とてのんびり再開
今月中に終わらせられるかな

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伊織ちゃんと同じく竜宮小町のブレイクで忙しくなったのがあずさちゃんだった。

その活躍は竜宮小町での活動にとどまらず、漂わせる柔らかな雰囲気からあずさちゃん個人での露出も増えつつあった。

雑誌で特集を組まれることも出たと聞いているし、先日は結婚情報誌でウェディングドレス姿を披露したとも聞く。

前者はともかく、後者はどうしたって場末の居酒屋にはそぐわないものなので実物を見られたわけではないが。

一緒にその仕事をしたという美希ちゃんや真ちゃんが口を揃えて綺麗だったと言うからには、世の男性諸君もさぞ魅了されたことだろう。

仕事が忙しくなったということもあって、あずさちゃんも伊織ちゃんと同様に店に顔を出す機会が減りつつあった。

お酒が入ればコロコロと笑うあずさちゃんは、ある意味店の名物と化しつつあったので、数少ない常連客が「今日もいないの?」と残念がる日がしばらく続いた。

そんなあずさちゃんが久しぶりに店に顔を出した……が、どうにも様子がおかしかった。

いつもよりもずっとゆったりとしたペースでお酒に口をつけ、時折物憂げな顔でため息をつく姿に私は戸惑った。

単純に今までのちょっと危ない飲み方を変えたのか、それともこのところの仕事に疲れているのか……

一緒に来ていた小鳥さんも戸惑っているようだったが、結局先に酔い潰れてしまっていた。

小鳥さん用にお冷を作って持っていくと、ついつい私はお節介を焼いてしまった。

「どうしたの? なんだか元気が無さそうだけど」

今日も店に客はまばらだ……というよりも、もうあずさちゃんと小鳥さんしか店には残っていなかった。

小鳥さんが潰れた今は、もうまともに話ができるのはあずさちゃんしかおらず、私に仕事も無かったが故のお節介だ。

私に気づいたあずさちゃんが、少しだけ寂しそうな笑みを見せて呟く。

あずさ「この前……親友が結婚したんです」

ほぉ、という私の相槌を受け取って、あずさちゃんが続けた。

あずさ「なんとかスケジュールの都合をつけて、式に行った甲斐がありました。
    すっごく綺麗で、すっごく幸せそうで……周りにいるみんなを幸せにするってこういうことなんだろうなぁ、って」

誰かを幸せにすることにかけてはプロと言ってもいいあずさちゃんをしてこう言わしめるのだからすごい話だ。

あずさ「嫉妬、っていうと違うかもしれませんけど……うぅん、単純に羨ましいって思っちゃったんです」

聞くに、件の結婚情報誌の仕事は親友の結婚式に前後してあったものだそうだ。

あずさ「純白のウェディングドレスに身を包んで、ちょっとだけでもお嫁さん気分は味わえたけれど……
    でも、やっぱり足りないんですよね……隣に運命の人がいないといけないんだな、って改めて知りました」

あずさちゃんの手元のグラスの氷が溶け、カラン、と音を立てる。

グラスの存在を思い出したかのようにあずさちゃんがそっと口をつけ、嚥下して小さくゴクリ、と喉が鳴る。

その艶かしい仕草は、あずさちゃんを普段以上に大人っぽく見せていた。

あずさ「私、お嫁さんになるのが夢なんですよ、アイドルになるず~っと前から」

もちろん、アイドルとして成功しつつある今でも変わってません、というあずさちゃんの口振りから、その夢はもう別格のものであることがうかがえた。

無二の親友の結婚を機にその夢を再認識させられ……という具合らしいが、年を食ってしまった私にはイマイチピンとこないところもあった。

周りのみんなが適齢期に遠く届かないから忘れがちだが、あずさちゃんだってまだ二十歳を過ぎたばかりだ。

大学に通ってそろそろ就職活動に頭を悩ませ始める子と同年代でありながら結婚を意識する……少しばかり焦ってはいないかと心配になった。

あずさ「マスターは……運命の人って信じます?」

私の心中を見透かしたように、あずさちゃんが何気ない問いを投げかけてきた。

「運命、ねぇ……どうとも言えないかな。そういうのがあったら素敵だとは思うけどね」

我ながら当たり障りの無い返事しか出来なかったのを歯噛みしそうになる。

あずさ「私……運命の人を探す為にアイドルになったんです。まだまだ見つかってはいないんですけどね」

噂に聞いたことはあったが、あずさちゃん本人の口からそれを聞くのは初めてだった。

「なるほどねぇ……でも、運命って言うくらいなんだから……きっといつ、どこでそんな人に出会えるのか……
 そういうところまで決まっているんじゃないかなぁ」

あずさ「それじゃ……ダメなんです。ほら、私って方向音痴ですぐに道に迷っちゃうじゃないですか。
    今から頑張って探さないと、道に迷っているうちに運命の人がいなくなっちゃうんじゃないか、ってつい思っちゃうんです」

なだめるつもりだった私の言葉は、あっさりと返す刀で切り捨てられてしまった。

答えに窮した私にあずさちゃんが続けざまに問いかけてきた。

あずさ「マスターは……道に迷ったりしないんですか?」

「迷う……ねぇ、それを言ったら私なんて迷いっぱなしだよ」

あずさ「本当ですか?」

「あぁ、今日のおススメは何にしようか、って毎日のようにあれやこれやと迷ってるよ」

あずさ「……もう、そういうことじゃないですっ」

一瞬呆気に取られてから、ちょっと怒ったようにあずさちゃんが頬を膨らませてみせた。

「まぁ、冗談はともかくとして、ね。私の人生なんてそれこそいつもどこにいけばいいのか見当もつかない中で探り探り迷いながらやってきたもんだよ」

あずさ「……焦ったりはしなかったんですか?」

「あずさちゃんくらいの年の頃はね。いつからかな、迷っていても何とかなるか、って境地に達したのは」

そう言って私は、小鳥さんのために作ってきたお冷に手を伸ばした。

気持ち良さそうに寝息を立てる小鳥さんには、また後でお冷を作り直してあげればいいだろう。

あずさ「……私はまだそういう風に何とかなるか、って思えそうにないです」

「それが若いって証拠じゃないかな。それに昔から言うじゃない、『急がば回れ』って。
 案外道に迷っていそうで、実は最短ルートを行っていたりするのかもしれないよ」

そうですかね、と呟いたあずさちゃんがくすり、と微笑んだ。

「それにしてもあずさちゃんの運命の人、ね……いったいどんな人なんだろうね」

あずさ「それが分かるならこんなに悩んだりしませんって」

「それもそうか」

迷いが晴れた、というわけではないだろうが、ひとまずは思考の泥沼から少しは抜け出せたような笑顔を見て、私はホッとしたものだ。

あずさ「もしそのうちそんな運命の人が見つかったら、マスターにも紹介しましょうか」

「ははっ、それは楽しみだ。そんな日が来るまで店を畳むわけにはいかなくなっちゃったな」

あずさ「あら~、それなら運命の人が見つからない方がいいかもしれないですね。
    たるき亭さんが閉まっちゃったらみんな寂しがりますもん」

こんな冗談が言えるくらいだ、しばらくは心配ないだろうと私は思うのだった。

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竜宮小町の活躍に触発されてか、少しずつ765プロの他の子たちの仕事も増えてきたようだった。

あずさちゃんがモデルをした時の美希ちゃんと真ちゃんの例に始まり、イベントに呼ばれる回数が増えていったり、雑誌のモデルになったり……

ラジオに出たり、テレビに出たり……どれもが単発の仕事だったようだが、徐々に765プロの知名度は上がっていたようだった。

そんな頃にちょっとした事件が起こった。

貴音「……ご馳走様でした」

浮かぬ顔をして貴音ちゃんが箸を置いた。皿の上は綺麗さっぱりに片付いている。

以前の響ちゃんのように、ものを残すことが心配になる……が、貴音ちゃんの場合は別だ。

綺麗さっぱりに片付いた皿がこの日は一枚だけ……おかわりをしない時点で大事件と言ってもよかった。

貴音「はぁ……」

深いため息をついてうつむく貴音ちゃんの様子は明らかにおかしかった。

私が皿を片付けに行くのも憚られるような雰囲気を漂わせ、普段からの神秘的な雰囲気を入り混じって一種奇妙な感覚を覚えたものだ。

「どうしたの、深いため息ついちゃって」

貴音ちゃんのかもし出す空気に呑まれそうになるのをどうにかこらえ、私は言葉をかけた。

貴音「ご主人……いえ、仕事で少々失敗を……」

搾り出すように声を出した貴音ちゃんは、その失敗の瞬間を思い出したかのように、くっと声を出すと私から目を逸らした。

実は貴音ちゃんは先ごろドラマのレギュラーを掴み取っていた。

レギュラー、といってもクレジットの七、八番目くらいに名前が載るような、回によって出番が有ったり無かったりというくらいの位置づけだ。

それでも、今までこの手の仕事があってもエキストラに毛が生えた程度、一話限りの使い捨てモブしか無かったことを思えば大出世と言えた。

ドラマでの失敗ということは、大方セリフをとちったのだろうことは想像に難くない。

その手の失敗など、貴音ちゃんに限らず誰しもあるものなのだろうが、そこに甘えようとしないのには理由があったようだ。

貴音「今のわたくしは、765プロを代表して仕事をしているのです。
   私がえぬじーを出してしまうことは、すなわち765プロの看板に泥を塗るにも等しい所業なのです」

高いプロ意識を持つというのは立派なことだが、これではいささか抱え込みすぎではないだろうか。

私がそう諭そうとしても、自分を責めるばかりの貴音ちゃんには届かなかった。

貴音「他の方がえぬじーを出すからといって、それがわたくしのえぬじーを許される理由にはなりません。
   ましてや、わたくしの出番は主役の方々に比べればはるかに少ないもの……そこでわたくしは失敗を犯したのです。
   意識の低さを指摘されたところで、何も反論することが出来ないのです」

ここまで高潔すぎると、場末の居酒屋の店主には少々眩しすぎて荷が重く感じられるものだ。

「若い頃の苦労は買っ……」

貴音「買ってでもせよ、その言葉なら存じ上げております」

「それなら話が早い、ただ私はちょっと違った考えの持ち主でね。若い時の失敗は買ってでもせよ、って思っているんだよ」

貴音「……何ゆえでしょう。失敗などせずに済むならそれでいいに決まっています」

怪訝そうな顔の貴音ちゃんを横目に、私は続ける。

「貴音ちゃんくらいの年なら、失敗したってまだまだ取り返しがつくからさ。むしろ、失敗して学ぶことだって沢山あるし、今後の人生の糧にもなる。
 失敗を恐れて若いうちから守りに入っちゃうようでは、いざ避けられない大事にぶつかった時にきちんとした判断が出来なくなっちゃうんじゃないかな」

まぁ、私の年で失敗などしてしまえば致命傷になりかねないがね、と付け足す。

貴音「しかしご主人、そうは言ってもわたくしがえぬじーを出した事実は消えません」

「頑なだねぇ、貴音ちゃんは」

「私なんか、765プロが上に越してくるまでは貴音ちゃんみたいな人たちはテレビや銀幕の向こうにいる、遠い世界の人たちだったからねぇ。
 そんな雲の上の人たちが、平々凡々な私みたいに、一つの失敗を気にして落ち込むのを見ると、なんだか親近感が湧いてくるもんだよ」

貴音「そういう……ものなのでしょうか」

「テレビでNGを集めた特番があったりするよね。あれは別に失敗を指差して笑おうっていう下衆な意味合いってわけじゃないんだと思うよ。
 完成品しか目にすることが出来ない私たちに、どんな大御所でもミスすることはあるって教えてくれるのだからね」

貴音ちゃんはどうすればいいのか分からずに押し黙ってしまい、私との間に気まずい沈黙が流れる。

沈黙を打ち破ったのは、くぅ、と小さく鳴く貴音ちゃんのお腹の虫だった。

たちまち顔が真っ赤に染まり、あの、その、今のは……と弁明する貴音ちゃんに対し、私は苦笑をしながら、

「失敗を恥じるなとは言わないよ。反省することは必要だけど、あんまり引きずっちゃあいけないんじゃないかな。
 美味しいものを心行くまで食べて、嫌な思い出は綺麗さっぱり忘れちゃおうか」

まだ頬を染めたまま、貴音ちゃんがコクリ、と頷いた。

貴音「もごもご」

料理人の端くれとしては、自分の作ったものを美味しそうに食べてもらえることこそ至上の喜びだ。

アイドルがこれほどの食べっぷりというのも心配ではあるが、いち料理人としてはこの食べっぷりは大歓迎だ。

それにしても、あの貴音ちゃんをここまで悩ませるNGがどんなものなのか、気にはなる。

が、それを今ここで聞くのは流石に憚られるので、そっとこの好奇心は胸のうちに秘めておくことにした。

貴音「ご馳走様でした」

「……結局いつもと同じ……いや、それ以上に食べたなぁ」

貴音「心行くまで美味しいものを食べて忘れなさいと言ったのはご主人ですよ?」

口元をナプキンで拭いながら、貴音ちゃんが返す。

この食べっぷりを見て料理人としてはありがたい話だが、いち隣人としてはどうしても解せぬこともある。

まだまだ駆け出しの身分で収入も限られているはずの貴音ちゃんがどうやって食費を賄っているのかというのもまた気になるのだった。

まぁ、NGのことにしても、食費のことにしても、尋ねてみたところでいつもの笑顔で「とっぷしぃくれっとです」と言われるのがオチなのかも知れないが。

せめて一人分だけでも、と再開

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夏も終わりに近づいた頃、小鳥さんがポスターを片手に店に姿を見せた。

今度、765プロのみんなが総出演するライヴがあるんです、と言ってインクの匂いも芳しいポスターを渡してくれた。

今や新進気鋭のアイドルグループとしてその名を轟かせつつある竜宮小町をセンターに、他のみんなが周りを固めるというものだ。

765プロ始まって以来最大の勝負です、と口にした小鳥さんの表情は期待と不安が入り混じったものだった。

無理もないだろう、ウチで食事をしている時か、テレビやラジオ、雑誌越しにしか姿を拝めない私と小鳥さんとでは置かれた環境が大違いだ。

日々の厳しいレッスンに耐えるみんなを励まし、みんなが気持ち良く仕事が出来るように雑用をこなして、みんなを支えてきたのは小鳥さんなのだ。

最近入ったプロデューサーもこのライヴの立ち上げには力を振るったと聞くが、小鳥さんは彼が来る前の長い下積みからみんなを見つめつづけているわけだ。

このライヴの成功如何で、みんなの今後が左右される、そんな状況を前にしてはいくらみんなを信じていても不安など隠しようがないだろう。

小鳥さんや私の不安をよそに、みんなは目の色を変えてレッスンに励んでいるようだった。

とりわけ、人が変わったように頑張っていたのは美希ちゃんだった。

かつては気分が乗らないと言ってウチでレッスンをサボろうとしていたのを知る私としては感慨深いものだった。

私のボキャブラリーではうまく表現しきれないが、美希ちゃんには人を夢中にさせる何かが確実に宿っていた。

だが、内に宿るその何かは美希ちゃん自身を磨かない限りは決して表に覗かないものだっただろう。

本気さえ出せば、美希ちゃんに魅了されない人なんているはずがない、765プロの関係者が口を揃えて言っていたことだ。

そんな周囲の期待などどこ吹く風で、マイペースを貫き続けてきた美希ちゃんが変わったのだ。

竜宮小町が世に出始めたあたりからその兆候は見え始め、今では自ら放り捨てた時間を取り戻すかのようにレッスンに打ち込んでいたようだ。

他のみんなと同じように、竜宮小町の活躍に刺激されて自分も頑張ろうと思ったのだろう。

……そう考えていた私が浅はかだと気づかされたのはそれから数日後のことだった。

ランチタイムの片付けを終え、夜の仕込み前に一息入れるか、と勝手口から外に出るとなにやら怪しい雲行きだった。

「……一雨来そうだな」

嫌な予感がして、外の空気を吸うのもそこそこにまた勝手口から店に戻ると、程なくしてバケツをひっくり返したような雨が降り始めた。

近頃流行りのゲリラ豪雨とでもいうのだろうか、オンボロテレビの音もかき消さんばかりの勢いで降り続く雨に辟易したその時だった。

雨音に混じってカラカラ、と店の引き戸が開く音がした。

いっそう大きくなる雨音に驚いた私がそちらを見ると……魂の抜けたような顔をして、びしょ濡れのまま立ち尽くしていた美希ちゃんがそこにいた。

美希「事務所……誰もいなかったの」

搾り出すようにして零れ落ちたその声は、雷鳴にたちまちかき消されてしまった。

何があったか知らないが、このまま放っておくわけにはいかない。

「と、とにかく早く入って。体も拭かないと風邪ひいちゃうから」

水も滴る何とやら、びしょ濡れの服でボディラインがくっきりと浮かび上がる美希ちゃんを前にして目のやり場に困った私は、半ば投げつけるようにタオルを渡したのだった。

カウンターの隅っこが美希ちゃんの指定席だったが、そこに腰掛けるのはいつもの美希ちゃんではない。

タオルを頭から被ってぼんやりとしているその姿は、私に目の前にいるのは別人じゃないかと思わせるほどだった。

あまりの出来事に呆気に取られた私の視線の先に、色鮮やかなポスターが入ってきたことで私は我に帰った。

燦然と輝くポスターが告知するライヴはもう間近に迫っていたのだ。

チケットの売れ行きも上々と聞いており、上々なのはみんなの仕上がり具合もだ、とも聞いていた。

そんな差し迫った時期に、美希ちゃんはこんなところで何をしているというのか。

「……いったいどうしたんだい?」

美希「ミキ、公園でカモ先生とお話してたの……そしたら、急に雨が降ってきて、カモ先生も帰っちゃったからミキも仕方なく帰ってきたの」

カモ先生なる謎の存在を明かされても私には何が何やら分からないし、そもそも私の聞きたいのはそういうことではなかった。

「そうじゃなくて……もうすぐライヴなんでしょ、いいのかい、レッス……」

美希「もうたくさんなの」

機先を制されてしまった私は黙る他なかった。

どうしていいのか分からなくなった私は、あることに気づいてしまったせいで余計に何をすればいいのか分からなくなった。

雨に濡れていた時は気づかなかったが、よくよく見れば美希ちゃんの瞳は涙で潤んでいるように見えたのだ。

店では泣き上戸の相手をすることだってあったし、恋や夢に破れて涙に暮れながら酒を飲む者など掃いて捨てるほどいた。

が、年端も行かない女の子が瞳を潤ませているのに出くわした経験など、記憶をどれほど辿れば見つけられるだろうか。

かける言葉も見つからずに、途方にくれた私までもが無力感に打ちひしがれそうになったその時だった。

小鳥「すみませんっ! 美希ちゃん来てませんか!?」

勢いよく引き戸を開く音と共に、息も切れんばかりに小鳥さんが駆け込んできた。

外はいくらか小降りになっており、うっすらと雲間から光も射し始めていた。

まるで後光を浴びるかのような形でやってきた小鳥さんを、この日ほど救世主だと感じたことは無かった。

小鳥さんの声に気づいた美希ちゃんは、一瞬だけ振り向き……また目を背けるように俯いた。

一方で小鳥さんは美希ちゃんを探していたようで、見つけられたことに安堵の息を漏らす。

小鳥「よかった……さ、美希ちゃん、みんなが心配してるわ、戻りま……」

美希「イヤなの」

美希ちゃんは今度は振り向きさえもしなかった。

美希「ミキがいなくたってどーにでもなるの。それに、ミキはもうあのプロデューサーを信じられないの」

何かが美希ちゃんとプロデューサーとの間にあったことを私は悟ったが、それが何なのかは知る術も無い。

だが、事情を知っているらしい小鳥さんの表情はそれを受けて少しばかり曇った。

小鳥「……すみません、たるき亭さん。何かあったら私が上にいますんで……落ち着くまで美希ちゃんを見ていてもらえませんか?」

どうやら、この場での説得を諦めたか、はたまた美希ちゃんが落ち着くには自分が不必要だと判断したか、私の方に向き直ってこう言った。

私とて、どうしていいかは分からないが、場所を貸して、どこかに行かないように見ていてやることくらいは出来た。

分かったよ、と私が返すと、深々とお辞儀をしてお願いします、と小鳥さんが言って引き戸を閉めた。

かくして、再び店には私と美希ちゃんの二人だけとなった。

小鳥さんのセリフを「……すみません、たるき亭さん」から「……すみません、マスター」に修正
即興はこういうところでボロが出る

何も分からなかったさっきに比べれば、少しは事情が飲み込めただけでもマシと言えた。

夏の終わりという時期にはまだそぐわない気がしたが、大事な時期に風邪をひいてしまっては困る。

美希ちゃんの好きなキャラメルマキアートなんて洒落たものは出せないが、熱いお茶を雪歩ちゃんに教わったやり方で淹れて出した。

お茶を淹れている間に雨はあがったらしく、美希ちゃんも多少は落ち着きを取り戻したらしい。

小さくふぅ、ふぅと息を吹きかけて冷ましてから少しだけ口をつけた。

「……何があったか聞く権利なんて私には無いだろうけれども」

美希ちゃんは黙ってお茶をすする。目は合わせてくれないが、話は聞いてくれているものだと信じたい。

「美希ちゃんがいなくてもどうにでもなるだなんて思っているなら、あんなに心配して探したりしないんじゃないかな」

美希「そんなこと無いの。きっと美希に何かあったら会社のせけんてー的に何かあるから心配してるだけなの」

……完全にへそを曲げてしまっている。本当に何があったのだろうか。

美希「ミキがいなくたって、竜宮さえいれば大丈夫だ、って思っているに決まってるの」

確かに、ライヴの目玉は竜宮小町かもしれない……が、緩やかではあるが上昇曲線を描いている美希ちゃんたちだって楽しみにしている人がいるはずだ。

まだ竜宮小町ほど世間への露出が無いというだけで、きっかけ一つさえあれば肩を並べることだって出来るかもしれないんじゃないか、そう思うのは私だけではないはずだ。

もしかすると、竜宮小町が売れたことで、美希ちゃんは焦りだしたのでは……? それを口にしかけて私はやめた。

それが正解であれ不正解であれ、美希ちゃんのプライドを傷つけるような気がしたからだ。

口にしかけた言葉を慌てて飲み込んだ私の戸惑いを知ってか知らずか、美希ちゃんが口を開く。

美希「悔しいけど、今の竜宮はとってもキラキラしてるの……でこちゃんも、あずさも、亜美も……プロデュースしてる律子だってそうなの。
   そんなキラキラしてる竜宮がいるなら、ミキ一人いなくたって大丈夫なの」

焦りではない、むしろ羨望にも似た憧れを持っているのだと私は悟った。

美希「でも、出来ればミキも一緒にやれたらいいな、って思ってたのに……あのプロデューサーはミキのじゅんじょーを弄んだの」

そう言って唇を噛み締める美希ちゃんを見て、事のあらましが大体予想がついた。

美希ちゃんの竜宮小町への思いを知ったプロデューサーが、悪い言い方をしてしまえばそれを餌に美希ちゃんにやる気を出させようとしたのだろう。

意図して言質を取られないような言い回しを使って煙に巻いたか、それとも単純に不用意な発言だったかは定かではない。

ただ、私の前で見せた面倒見のよさそうなあのプロデューサーが、悪意を持って美希ちゃんを動かそうとしたとも思えなかった。

いずれにせよ、頑張れば竜宮小町に入れてもらえる、それを信じた美希ちゃんが現実を知ってしまい今に至るということは間違いなさそうだ。

「……じゃあ、美希ちゃんはライヴに出ないのかな」

美希「何度も言わせないでほしいの。ミキがいなくたって……」

「それじゃあ、あのポスターがウソになっちゃうな」

ハッとしたように美希ちゃんが目を見開いた。

「あのポスターを見て美希ちゃんを初めて知って、この子はどんな子なんだろう、って思った人がライヴに行ったらがっかりするだろうなぁ。
 そしたら、ポスターの真ん中に陣取る竜宮小町……いや、映ってるみんなのことをウソツキって思っちゃうかもなぁ」

敢えて逆撫でするような口ぶりで言ってみた。

なんやかやで美希ちゃんは気持ちの強い子……言い方を変えれば我が強い子だ。

こんなおっさんの安い挑発にだって、挑発だと知りつつも乗ってこないことは無いだろう、そう思っていた。

美希「……オトナってズルいの」

美希ちゃんが口を尖らせた。

プロデューサーへの怒りが心頭に発した結果、怒りに任せて向こう見ずな行動をとってしまった美希ちゃんではあるが。

竜宮小町をはじめ、他のアイドルみんなの足を引っ張るような結果になるのは本意ではないようだ。

普段のマイペースな行動からは分かりづらいが、美希ちゃんだって同じ事務所の仲間のことは大事に考えているのだ。

「あぁ、ズルいかもしれないね。
 でも、本当にズルいかどうかはきちんと話をしてからじゃないと見極められないんじゃないかな」

部外者の私が何を言っても直接美希ちゃんを説得するのは無駄かもしれない。

せめて出来ることは、美希ちゃんが耳をふさがずに話を聞くことが出来るように仕向けることくらいだ。

そこから先は件のプロデューサーをはじめ、765プロの役目だろう。

美希「……どんな言い分か分かんないけど、そこまで言うなら聞くだけ聞いてあげるの」

ゆっくりと腰を上げた美希ちゃんが、最後に頭のモヤモヤを振り払うように、タオルでわしゃわしゃと髪の毛を拭き上げた。

美希「タオル、ありがとうなの。今度洗って返すから」

「そりゃ大変だ、そのためには今日以外にもまた事務所に来ないとね」

美希「……宅配便とかじゃダメ?」

「ダーメ。ちゃんと返しに来るのが礼儀ってものだよ」

美希「やっぱりオトナってズルいの」

苦笑とはいえ、最後は笑って美希ちゃんは店を後にした。

あとは雨降って地固まるのを願うしかなかった。

再開 個別エピは春香・千早・真美・P・社長が残りかな

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「今日は独りかい?」

P「えぇ、流石にこんなに遅くまで律子や音無さんを残らせるわけにはいかないんで……」

時計の針がとっくの昔に頂点を過ぎた頃に姿を見せたのは、あの新米プロデューサーだった。

「腹減ってるんだろう? 賄いレベルでよけりゃ、何か腹に入れていくかい?」

P「すいません、いただきます」

結論から言えば、765プロの社運が賭かったライヴは紆余曲折はありながらも大成功を収めた。

その日を境に、竜宮小町はもとより、他のみんなも追いつけ追い越せと言わんばかりに、スターへの階段を何段か飛ばしで駆け上がっているようだった。

みんなの成長に伴い、プロデューサーとしてはこなさねばならぬ仕事が加速度的に増えたようだ。

このところはこんな時間になって店に顔を出し、次の日も何食わぬ顔で早朝から働いていると聞いている。

居酒屋店主の生活サイクルも、世間一般に比べれば大概なのかもしれないが、それを踏まえてもこの男の生活サイクルは異常に思えた。

無論、私が言うまでもなくプロデューサーの仕事ぶりに対して感心を通り越して心配するものは山ほどいたようだ……が。

P「なにぶん未熟者ですから……その分誰よりも頑張らないと、みんなに申し訳ないんで」

そう言ってまた仕事に戻るということだそうで、その傾向は先のライヴ以後さらに強まっているらしい。

それは、単純にみんなが売れてきたが為に仕事が増えたから、というだけが理由ではなかった。

P「……今回のライヴで痛いほど気づかされたんです……俺はみんなのことちっとも分かっちゃいなかった。
  ただがむしゃらに仕事取って来るだけじゃダメなんです」

ライヴの直前に美希ちゃんの機嫌を損ねて大騒動になりかけたことが、プロデューサーの中では尾を引いていたようだった。

P「……美希はたいした子ですよ。あんなアクシデントがあってもめげずに誰よりも頑張って会場を盛り上げてくれたんです。
  本当はみんな頑張ったから優劣つけるのもおかしな話ですが……あの日の美希を見たらそんな考え吹き飛びそうですよ」

メインディッシュである竜宮小町がアクシデントにより会場入りが遅れるという大アクシデントを、765プロは持ち前の団結力で切り抜けたと聞く。

その旗振り役だったのが、竜宮小町入りが叶わずにやる気を失いかけていた美希ちゃんだというのだから、たいしたものである。

P「その美希を……俺は軽率な発言で傷つけてしまったんですよ。この事実は消えようが無いんです。
  美希のフォローにしたって、律子と音無さんがいなければ出来なかったんです」

そう言ってプロデューサーが深いため息をついた。

P「ライヴの時だってそうでした。俺一人の力じゃどうにもならなかった。

  アイドルのみんなや音無さん、社長がいなければどうなっていたか……
  今が一番大事な時期なんです、未熟者が足を引っ張るわけにはいかないでしょう」

焦りを募らせながら、プロデューサーがお茶漬けをかき込む。

P「じゃ、ごちそうさ……」

「ちょっと待ってくれないか」

思わず私はプロデューサーを引き止めてしまった。

もしここで止めなければ、彼はまた上の事務所に戻って東の空が明るくなるまで仕事を続けていてもおかしくなかったからだ。

「765プロが新しいプロデューサーを雇う、って聞いた時はね。きっと百戦錬磨の凄い奴がやって来るんだ、そう思っていたんだよ」

P「はは……そしたら、やって来たのはこんな若造だった、と」

「まぁ、ちょっと拍子抜けしたというのが正直なところだったがね」

プロデューサーが、ですよね、と言いたげな寂しい表情になる。

「だが、今にして思えば、君みたいな若造だったからこそ、ここまでみんなはやって来られたんじゃないかな」

P「……どういうことです?」

プロデューサーが訳が分からない、と目を細めた。

「もしこれで、経験豊富な大御所だったとして、だ。みんなの中には、その権威の前に萎縮してしまう子もいただろう。
 もしかすると言われるがままに動くだけの、文字通りの偶像になってしまう子もいたかもしれないだろう」

それだけではない、765のみんなはそれぞれに信念を持ってアイドルを目指す子も多いと聞いている。

若さゆえにまっすぐな信念と、経験があるがゆえに揺るがぬ信念がぶつかり合えば、波風が立つこともあるだろう。

もちろん、経験豊かな者がみんなを導くことで享受出来るメリットも計り知れぬものなのだろう。

だが、その時に765プロは今のように団結して困難にあたることが出来ただろうかと想像すると、私の中では疑問符がついたのだ。

P「ですが、もしそんな人がついてくれたら、もっとみんなのしたい仕事が出来たかもしれないんですよ?

  美希の気持ちを踏みにじることもしなかったかもしれない。
  千早に歌の仕事を取ってくることだって、真にもっと女の子らしい仕事を取ってくることだって……他にもいっぱいありますよ。
  それをさせてあげられないのは全部未熟な俺の責任じゃ……」

「そうそう世の中なんでも思い通りにいったら、逆にみんなが勘違いしちゃうよ。あ、芸能界なんて案外どうにかなるんだな、って」

プロデューサーがきょとんとした顔つきへと変わった。

「確かに君は未熟かもしれないよ。だけど、そんな君になんで君よりも先に765プロにいたみんながついてきてくれるか考えたことはあるかい?」

P「それは……」

「これは私の推測だがね。君がみんなと同じ目線に立って一緒に悩み、一緒に戦ってくれているからじゃないかな。
 あれだけ拗ねていた美希ちゃんが、最後には君と仲直り出来たのも、そのことを分かってくれたからだと思うよ」

事務所の空気の成せる業なのか、あれだけの女の園に放り込まれたプロデューサーが疎まれているという話は聞いたことが無かった。

年が近いということもあったのかもしれないが、やはり面倒見のいいプロデューサーの性格が受け入れられたということなのだろう。

「君は自分一人じゃ何も出来なかった、もしも他の人がいなかったら……と言うがね。
 みんなもきっと、もしもプロデューサーがいなかったら……と思ってるんじゃないかな」

P「そんな……いくらなんでも俺を買いかぶりすぎですよ」

「まぁ、買いかぶりかどうかはともかくとして、ね。
 プロデューサーという立場である君無しに、今の765プロは成り立たないんだよ。
 そんな君が根を詰めすぎて倒れてしまったら、残された他のみんなはどうなる?」

P「う……でも、今のみんななら俺くらいいなくたってしっかりと……」

「はは、まるで言ってることが美希ちゃんと同じだ」

P「え?」

765プロはなんやかんや似た者同士の集まりなのかもしれない。

そんな集団が手と手を取り合ったら、そりゃあとてつもなく強くなるのも道理なのだろう。

「今の765プロに君がそんなことになって心配しない人なんていないことくらい、一緒に仕事しているなら分かるだろう?
 それでみんなが悲しむような……そんな顔は見たくないもんでね」

P「……どうしてそんなに気にかけてくれるんですか?」

プロデューサーがポツリと呟く。

「どうして……だろうね。まぁ、私も古い人間だ、隣人が放っておけない、というのもあるかもしれないが」

そうして私はこの店を訪ねるみんなの顔を思い浮かべた。

「今やみんなアイドルとして世間の憧れの的になっちゃいるがね。
 私の中での彼女たちは、いつもワイワイ賑やかにやって、ウチで飯食ってく姿しか知らないからね。
 どうしてもアイドルには見えないし、隣人……いや、もう娘のように思っているのかもしれないね」

実際に私に娘はいないわけだが、年の頃を考えればみんなみたいな娘がいたっておかしくないだろう。

「だからね、そんな娘たちを悲しませたくはないんだよ。分かるだろう?」

P「はは……まるでお父さんみたいだ、こんな父親に睨まれちゃ、たまったもんじゃないや」

「それを言えば、君だってある意味じゃ息子のようなもんだ。
 とにかく、無理をして君に何かあったらみんなが悲しむし、私だって悲しいからね」

P「わ、分かりましたよ……
  ただ、仕事だけはしっかりさせてもらいますからね」

そう言ってプロデューサーが席を立とうとする。

P「今はみんなが充実していて、楽しそうに仕事をしているのを見るのが何よりの薬なんですよ。
  マスターだって、みんなの幸せそうな顔は見たいでしょ?」

「それはそうだがね……」

P「ですから、これからもみんながなるべく好きな仕事が出来るように頑張っていきますよ。
  その為には今は少しだって時間が惜しいんですから」

みんなの幸せそうな顔、か。

それを持ち出されてしまってはこちらとしても立つ瀬はないというものだ。

「分かった、分かったよ。だが、何事もほどほどに、な。
 過ぎたるはなお及ばざるが如し、ってこともあるんだからね」

はいはい分かってますよ、と口にしたプロデューサーがお金を置いて店を後にした。

まったく、手のかかる「息子」を持ったようなものだな、と私は思わず嘆息してしまったのだった。

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真美「おっちゃん、おっちゃーん。お願い、ここ教えてっ!」

カウンターに座る真美ちゃんが、数学の問題集を広げてこちらに見せてきた。

学生の多い765プロのアイドルたちの中でも最年少の真美ちゃん・亜美ちゃん姉妹は中学に上がったばかりだ。

私とて勉強にそこまで自信があるわけではないが、さすがに中学一年くらいの内容ならば……

「……さすがにおっちゃんも、扇形の面積の求め方なんてもうほとんど忘れちゃったよ」

真美「えー、そんなー!? 今度のテストがヤバかったら、パパにげーのー活動休止させられちゃうよー!?」

真美ちゃんの家はお医者さんだそうだが、肝心の真美ちゃんは亜美ちゃんともども勉強がそれほど得意でもない様子だ。

今までならアイドルとしての仕事もさほど無かったようで、勉強の時間も何とか確保できていたようだが。

爆発的に仕事が増えたこの時期はなかなか勉強に時間を費やせずに、先日のテストでは散々な結果だったらしい。

ただでさえ、中一の二学期あたりなんて勉強についていけなくなり始めるような時期だ、何とか助けてはやりたいが……

義務教育など遠い昔になってしまった私もまた、真美ちゃんと頭を並べて首をひねるという情けない事態になっていた。

真美「あーあ、亜美はいいなー。律っちゃんもあずさお姉ちゃんも、いおりんもみーんな頭いいし。
   教えてくれる人がいつでもいるんだもんねー。それでも真美と大して点数変わらなかったけどさー」

亜美ちゃんもテストの結果は散々だったようで、竜宮小町が総力を挙げて亜美ちゃんの勉強のサポートをしているらしい。

移動中でも勉強をさせられて心が休まらない、と亜美ちゃんは嘆いているとか。

真美「真美も兄ちゃんと仕事してる時は勉強見てくれるけどさー。
   いつもいつも兄ちゃんが一緒とは限らないし、他のみんなとも別々の時も多いしねー」

「小鳥さんに聞いてみたらどうかな」

真美「ピヨちゃん? うーん、ピヨちゃんはいつもお仕事しているからなんだか聞きづらいんだよねー」

「……おっちゃんも仕事してるんだけどな」

真美「細かいことは気にしない! ハイ次! 次は英語だよー」

そう言って真美ちゃんは英語の教科書を広げ始めたのだった。

私の学生時代とは違って、最近の教科書は随分と挿絵やら写真やらが多くなったものだ。

「おぉ、三単現のsとか、懐かしいなぁ」

真美「おっちゃーん……そんなエコロジーな気分に浸ってないでよー」

「……もしかして、ノスタルジーって言いたかった?」

真美「そーそー、それそれ」

私は小さくため息をつきながら、改めてまじまじと教科書と真美ちゃんに目を遣った。

ちょっと前までは小学生で、イタズラ好き……これは今でも変わっていないか。

ともかく、まだまだ子供だと思っていたのに、もう学校で英語を勉強するような年になり(小学校でも英語が必修になったのを知って驚いたのは別の話だ)、

そしてこの一年ちょっとの間にずいぶんと大きくなって大人びてきたものだ、私は改めてそう感じた。

そんな私の視線に気づいた真美ちゃんがまたイタズラっぽい笑みを浮かべる。

真美「おっちゃーん、いくら真美がせくちーだからって、そんな目で見つめちゃダメだぞ? 犯罪だからねー?」

「そういうこと言うなら、教えてあげるのはやめようかな」

真美「うあうあー! おっちゃんズルいよー!」

冗談はさておき、成長期とはいえ本当に大人っぽくなってきたものだと思ったものだ。

と同時に、たかだか一年ちょっと前の真美ちゃんの姿がもう遠い過去のもののように思えて、ちょっと寂しくも思ったわけで。

「亜美ちゃんと一緒に勉強したりはしないのかい?」

真美「亜美もねー……仕事が忙しくて家でも学校でも顔を合わせる時間が減っちゃったんだ……
   たまに二人で仕事があった時でも終わったらすぐに次の仕事、ってなっちゃうから一緒に勉強なんて無理だよ」

真美ちゃんがつまらない、とでも言いたげに頬を膨らませた。

いつだったか、まだ竜宮小町が結成される前に亜美ちゃんがウチで話をしていったことを思い出した。

姉妹でありながら、負けられないライバルでもある二人だが、それでも二人で手を組んでする仕事は格別なのだろう。

真美ちゃんも竜宮小町に、そして亜美ちゃんに負けられない、という思いは恐らく持っているのだろう。

だが、今までずっと一緒だった二人が、忙しさを理由にすれ違いになってはいまいか。

真美「色々教えてくれてありがとね。じゃーまたねー」

店を後にする真美ちゃんの笑顔にはどこか寂しさも見え隠れするものだった。

それから数日後のことだった。

私がいつものように夜の仕込みを進めていると、ビルの階段を駆け下りてくる音が聞こえた。

誰だろう、何があったんだろう、そう思う間も無く、店の引き戸が勢いよく開かれた。

真美「おっちゃんおっちゃんおっちゃん! 聞いて聞いて聞いて!」

飛び込んできた真美ちゃんは明らかに興奮状態だった……が、その表情は明るく、悪いことが起きたわけではないことはすぐに分かった。

「どうしたんだい、そんなに興奮しちゃって」

真美「これがテンション上がらないわけないっしょー!? 生放送! 生放送のレギュラーが決まったんだよっ!」

弾けんばかりの笑顔を振りまき、両手を高々と突き上げる真美ちゃんを見ているとこっちまで幸せな気分になってくるから不思議だ。

「おぉ、それはよかっ……」

私はてっきり真美ちゃん単独でのレギュラーが決まったのだと思っていたのだが、事態は想像をはるかに超えるものだった。

真美「し・か・も! 765プロみーんなでやる番組なんだよっ!
   真美と亜美が二人だけでやるコーナーもあるんだってっ!!」

これには流石の私も目を丸くせざるを得なかった。

いくら日の出の勢いと言ってもいい765プロとはいえ、事務所総出で生放送番組を持つだなんてことがいかにとんでもないことか。

私のような素人でもそれくらいはすぐに分かった。

そして真美ちゃんが何より嬉しいのは、765プロのみんなでやる番組、というよりも亜美ちゃんと二人でやれるというところにあるようだった。

肝心の生放送は日曜の昼下がり、店はランチタイムも終え、夜の仕込みの前の休息タイムだった。

店のオンボロテレビで765プロ全員が勢ぞろいするのを見るのはなかなかに感慨深いものがあった。

司会の春香ちゃん、千早ちゃん、美希ちゃんを筆頭に、みんなの魅せる楽しそうな笑顔は、この時間にまったり見るにはうってつけのように思えた。

そして、真美ちゃんが何より楽しみにしていた亜美ちゃんとの二人だけのコーナーは、さすが双子と思わせるほどの息の合ったものだった。

真美「しっかり亜美とネタ合わせしとかないとねー」

……などと聞いた時には、アイドルがネタ合わせ?と一抹の不安もよぎったものだったが、それは杞憂だったらしい。

売れっ子アイドルがやるにはあまりにシュールなそのコーナーは、どういうわけか私の琴線に触れたらしく、一番面白かったように感じたのだ。

心なしか、真美ちゃんの表情は誰にも負けないほど明るいもののように見え、それが亜美ちゃんにも伝播しているようにも見えた。

やはり、二人は互いに負けられないライバルでありながらも、手を取り合って一緒に仕事をするのが一番お似合いなのかもしれない。

まだまだ若い真美ちゃんと亜美ちゃんはこれから困難に直面することもきっとあるだろう。

だが、きっと二人なら苦しいときにこそ助け合ってそれを乗り越えてくれるに違いない、改めてその将来を楽しみに思ったものだった。

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ただでさえ飛ぶ鳥を落とす勢いだった765プロは、生放送番組の開始を機にカタパルトを使ったかの如くその勢いを加速させた。

今や、その姿をテレビで見ない日は無く、その歌声を耳にする日も無い、そう言っても過言ではないくらいだった。

そして、その事実は逆に彼女たちがウチに顔を出す機会を反比例するかのように減らしていったのだった。

とはいえ、それを寂しいなどと感じる余裕は私には無かった。

というのも、どこから話題になったかは知らないが、ウチの店が765プロ御用達?であることがファンの間で広まったらしいのだ。

曜日の別を問わず、ファンがやって来ては「これがやよいちゃんがいつも食べてる味か」とか、「響ちゃんのゴーヤチャンプルーください」とか……

「見て見て、あそこにみんなのサインまで飾ってあるよ」とか、「これが雪歩ちゃん風に淹れたお茶の味……!」とか……

ちょっとした特需にたるき亭が潤っていたのは間違いのない事実であった。

よからぬファンの暴走も危惧してはいたのだが、たいていは節度を守っていたようだったし、たまにおかしいのがいればやんわりとお引取り願えばそれで済んでいた。

そんな忙しさにかまけ、私はまるで気がついていなかった。

ファンの中に入り混じって飯を食う、やけにギラギラと何かを狙うような目をした男の存在に。

私が異変に気づいたのは、店にやって来たファンのひそひそ話を耳にしたからだった。

「それにしても、千早ちゃんのあの話、本当かな」「ハァ? お前、あんなゴシップ信じんのかよ?」
「でも、あの記事が出てから千早ちゃんがテレビにもラジオにも出なくなったじゃん」「じゃあ、本当のことだって?」

元々、それほどウチに顔を出すことの多くなかった千早ちゃんに何かあったらしいことを、私は事態が深刻になって初めて気づいたのだった。

一瞬、我を忘れてそのファンの胸倉を掴んででも全てを聞き出そうとしたが、それはどう考えてもご法度だった。

逸る気持ちを抑え、ランチタイムを終えてから事の詳細を確かめようと、慣れないパソコンを使って調べ始めたのだった。

目を覆いたくなるようなことが書かれていることは、すぐに私にも理解できた。

弟さんを既に亡くしていたこと、それを機に千早ちゃんの両親の仲が険悪になりついに離婚をしてしまったということ。

そのことが、あたかも千早ちゃんにも責任があるかのようにスキャンダラスに書かれていたのだった。

千早ちゃん自身が自分のことを決して積極的には語りたがらない子だっただけに、それが真実か、根も葉もない嘘っぱちなのか、私には確かめる術は無かった。

ただ、責任の所在はともかくとして、弟さんを亡くしたこととご両親の離婚という事象そのものが真実の場合どうなるか。

まだ十六歳の女の子が背負うにはあまりに重すぎる過去を、無慈悲にもほじくり返されたことに他ならない。

たとえ千早ちゃんがどんなに芯の強い子であったとしても、あえなく打ちのめされてしまうであろうことは容易に想像できた。

事ここに至って、ようやく私は店に出入りしていたあの怪しい男こそがこの記事を書いたのではないか、と推測した。

記事が世に出たらしい時期と前後して、その男はパッタリと店に姿を見せなくなっていたことがその推測をさらに補強した。

その男を見つけ出して怒鳴りつけてやりたい気持ちが込み上げてきたが、それをする訳にはいかなかった。

怒りを胸のうちにグッと抑えつつも、私は千早ちゃんの為に何か出来ることが無いのかを必死に考えた。

……だが、所詮は部外者である居酒屋の主人に出来ることなど何一つとしてなかった。

まさか765プロに顔を出してプロデューサーや小鳥さんにどういうことなのかを聞く、そんな不躾な真似など出来るはずもなかった。

下手なことをしでかせば、余計に千早ちゃんの傷を抉りかねなかっただろうし、765プロとしても軽々に手を出してもらいたくはないはずだ。

どうにもならない状況に気を揉みながら、私は日々を過ごさざるを得なかったのだった。

そうこうしている間に、千早ちゃんが定例ライヴの場で復活したことが報じられ、程なくして事態を収束させるようなインタビュー記事も世に出た。

私が特に何をするでもなく、騒動は終結し、安堵のため息を漏らすファンに釣られ、私もまたホッとしたものだった。

千早ちゃんが一人で久しぶりに店に姿を見せたのは、全てが落ち着き、また元の日常が戻った頃だった。

「いらっ……しゃい」

せめてまたウチに顔を出してくれた時は、いつもと同じように迎えてあげようじゃないか。

……そう思っていたのだが、いざ実際に千早ちゃんを前にした私は思わず言葉を詰まらせてしまった。

そんな私を気に留めることもなく、千早ちゃんは、春香ちゃんと二人で来る時の指定席に腰掛けた。

私は少しばかり逡巡しながらも、なんとか平静を取り戻そうとお冷を持ってテーブルまで赴いた。

「……久しぶりだね」

千早「ご心配……おかけしました」

その時はその一言で十分だった。

初めて会った時に感じた、どこか影を感じさせる雰囲気が少しばかり薄れているように私は思えた。

騒動の顛末など断片的にしか知らない私ではあったが、もうすっかり大丈夫なのだと悟ったのだった。

前のように慎ましやかに食事を済ませた千早ちゃんの元に、空いた皿を下げに行った時のことだった。

千早「音無さんから聞きました……私があんなことになっている間、ずっとマスターは仕事が手についていないみたいだった、って」

思わずドキリ、とさせられてしまった。

気を揉んでいたのは確かだったが、店に来るお客様の前でそれを気取られるわけにはいかない、と普段通りを装っていたつもりだったのに。

見る人が見れば分かってしまうものなのだな、と急に気恥ずかしい思いになってしまった。

千早「いえ……今日もそうでした。私がちゃんとものを食べられるかどうか、心配そうに見ていらっしゃいましたよね」

どうやら完全に見透かされていたようだ。

食事は健康のバロメーターだと思う、それは身体の方も、そして心の方でも、だ。

千早「きっと、今までもここでご飯にする時はマスターがそうやって心配してくださってたんでしょうね。でも、それに私は気づいてこなかった」

「千早ちゃん……」

だが、顔を上げた千早ちゃんのその表情は、どこか吹っ切れたようなものだった。

千早「今回のことで、春香やプロデューサー、それにみんな……どれほどの人たちが私のことを気にかけてくれているのかということに気づかされたんです。
   私が歌を歌えるのも、そんな周りの人たちの支えがあってのものだったのに、私はそれに気づこうともしなかったのかもしれません」

千早「もう事務所のみんなにはお礼をしてもしきれないくらいです。
   でも、事務所のみんな以外にも、こうして心配してくれた人がいると聞いて……」

そう言って、千早ちゃんがペコリ、と頭を下げた。

千早「本当に、ありがとうございました」

「そんな、私なんぞにお礼なんていらないよ」

千早「ですが……」

「それに、心配なら私以上にしていた人たちがいるんじゃないかな」

私の言葉に、何か気づいたような千早ちゃんが、あ、と小さく声を漏らした。

千早「そうですよね……あの時のライヴ会場でもそうでした。
   あんなことになっても、私のことを待っていてくれた人たちにも、私はお礼をしなきゃいけないですね」

「そいつは大変だぞ……なにせ、千早ちゃんのことを心配していたファンは全国津々浦々にいるだろうからね」

千早「ええ、ですから私なりのやり方にお礼はしていきますよ」

その私なりのやり方、が歌であることは私でも容易に理解が出来た。

それからの千早ちゃんの歌は、素人の私が聞いても分かるほどに一段上のレベルへと上がったように思えた。

騒動のことを思えば虫唾の走るような思いはするが、千早ちゃんの一皮向けた歌声を聴くと全てを許してしまえそうになるから不思議なものだった。

寝落ち・昼寝等々挟みながらのんびり3人消化
明日、明後日中には終わらせられるかな

再開
今夜はどこまでいけるかな

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また新たな年がやって来た。

年が明けても765プロの勢いは衰えることを知らなかった。

年末年始もチャンネルを変えればそこに誰かが映っていると言っても大げさではない状況だった。

皆が皆、それぞれの夢に向かい歩を進めていることが、みんなの来店頻度がさらに低下したことからもうかがい知れた。

そんな765プロが、春を待ってまたしても合同ライヴを行うというセンセーショナルなニュースが流れた。

昨夏のライヴと同じく、小鳥さんがウチに持ってきてくれたポスターは、例によって十二人が勢揃いしたポスターだった。

前回は一足早く知名度を上げていた竜宮小町が主役のような構図だったが、いまや十二人全員が主役を張れる実力を持った事務所だ。

誰がメインでも、誰が脇役でもない、そんな誰のファンが見ても納得のいくようなポスターになっていた。

思えば一年前の今頃は、みんながまだまだ燻っていたのだということがもう信じられなくなるような大躍進である。

そんなライヴが日一日と迫ってくるある冬の日のことだった。

前日に少々変わった客を迎え、珍しく酒が入った結果翌日まで引きずることになった私が、ぼんやりとランチタイムを切り盛りしていた時だった。

春香「こんにちは……」

カラカラと力なく音を立てて店の引き戸を開けてきたのは春香ちゃんだった。

だが、普段なら階段から落ちてもすぐにケロリとした笑顔を見せる春香ちゃんのかもし出す雰囲気がどうにも重たかった。

なんやかんやでまだ十七歳の女の子だ、毎日押し寄せる仕事にライヴの準備で心も体も休まる暇がないのだろうか……と一瞬考えてすぐにその考えを捨てた。

なにせ、春香ちゃんは他の誰よりもアイドルという仕事に憧れ、艱難辛苦を乗り越えて今に至るような子だ。

そんな春香ちゃんが激務に疲れたと考えるのはあまりも不自然だった。

店に入った春香ちゃんは、周りをキョロキョロと見渡した。

そして、他のアイドルの子が誰も来ていないのを確認すると、小さくため息をついてカウンターへと腰掛けた。

「どうしたの、ため息なんかついちゃって」

お冷を出しながら私が聞いてみるが、上の空のようだった。

春香「誰も……来ていないんですね」

「みんな売れっ子だからねぇ。春香ちゃんもそうだろうけど、最近はなかなかみんなの顔を生で拝んでないね」

もっとも、それはめでたい事なのだということは私は重々承知しているわけである。

だが、春香ちゃんはそうではなかったらしい。

春香「私も……最近みんなにあまり会ってないんです。仕事で一緒になっても、それが終わればすぐに次の現場。
   たまに集まっても生放送やライヴの打ち合わせでミーティングするくらいで……一緒に歌ったり踊ったり、ってずいぶんしてないんです」

致し方のないことであろう。今やみんながトップアイドルとなっただけに、スケジュールの都合をつけることだけでも困難なのは想像に難くない。

それでも、ライヴに向けてみんなで合わせる機会がない……いや、ライヴなど抜きにしてもみんなと顔を合わせる機会がないこと。

それが、みんなで頑張るのが当たり前だと思っていた春香ちゃんにとっては次第にストレスになっていたようだった。

春香「いつまでもずーっと、みんなで一緒に頑張っていける、って思ってたのは私だけだったのかな、って思うと……
   なんだかお仕事に集中できなくなっちゃって……」

今にも消え入りそうな声で春香ちゃんが呟く、どうやら相当重症なようだ。

春香「最近はお仕事してても楽しいって思えなくなって来ちゃったんです……頑張れば頑張るほど寂しい、というか……」

「……春香ちゃんは、みんながバラバラになっちゃった、そう思ってるのかな」

春香「バラバラ……それもなんだか違う気がするんです。だって、それはみんなが望んだ結果としてたまたまそうなっただけなんですから。
   でも、このままもう二度とみんなで手を取り合って何かをすることが出来なくなっちゃうのかも、って考えたら……」

「……私も春香ちゃんたちが、どれほどタイトなスケジュールをこなしているかは分からないけどね」

部外者が軽々しく口にしていい問題かどうかは分からなかった。

ただ、二年近くもみんなのことを見続けてきて、私にだって確信できることはあった。

「スケジュールが噛み合わなくなったくらいで、心が噛み合わなくなるほど、765プロって事務所はやわじゃないんじゃないかな」

春香「……そう言われても、私には実感があまり」

「ちょっと私の話をしてもいいかな」

春香「……マスター?」

そう言って、私は昨日のことに思いを馳せようとした。

「春香ちゃんは、同窓会ってしたことあるかな? 中学校や小学校の同級生とかと」

春香「中学の頃の友達とは……えーと、お正月明けに休みもらった時に会いましたね」

「まぁ、私くらいの年になると同窓会、ってのも時々誘いが来たりするんだけどね。
 なにぶん、こんな仕事しているもんだからなかなか顔を出すことが出来なかったんだよ」

春香「なんだか寂しいですね」

「慣れっこだからね。それでももう昔の同級生とは十年、二十年単位くらいで会ってなかったかな。
 それがね、昨日は珍しく同窓会に出席することが出来たんだよ」

春香「お店、休んだんですか?」

「いや、そうじゃないさ。どこで聞いたか、私が店を持っているのを知った幹事の子がね。
 こともあろうにウチを会場にして同窓会を開いたのさ、そりゃもう驚いたよ」

春香「え、気づかなかったんですか?」

「幹事の子は結婚して苗字も変わってたからね。恥ずかしい話だが、まるで気づかなかったよ。
 それが昨日になって、やけに昔の知り合いの面影がある連中がゾロゾロやって来るもんだから、最初は偶然か何かかと思ったよ」

「何十年と同窓会に来ない私を、なんとかして出席させようとした結果がこれだったらしくてね。
 年甲斐にもなく、思わず感動してしまって、昨日はついつい一緒になって飲んでしまったよ」

春香「はぁ……」

「昔の同級生なんて、もうとっくにみんながそれぞれの道を歩んでいるわけなんだよ。
 そりゃもうバラバラどころか、最近は思い出すことさえほとんどしなくなっていたはずなんだが」

春香「それがいったい……」

「そう思っていたはずの相手が、実はバラバラでもなんでもなかったんだよ。
 それに比べれば、春香ちゃんたちはトップアイドルを目指すという根底では間違いなく繋がっているんだよ?」

春香「そういう……ものなんですか?」

「そういうものだと私は思うよ? 少なくとも、春香ちゃんたちは文字通り同じ釜の飯をウチで食べてる仲なんだからねぇ。
 そんな子たちが、ケンカ別れしたわけでもないのに心がバラバラになるだなんて考えづらいよ」

おそらく春香ちゃんは中学校や小学校でも卒業式では、もう会えないと寂しがって涙するようなタイプの女の子かもしれない。

誰よりも眩しい笑顔の持ち主である春香ちゃんは、誰よりもみんなのことを思うからこそ、今の状況に戸惑っているのだろう。

春香「ごめんなさい……今の私にはそうは思えそうにありません」

そう言って春香ちゃんがうなだれた。

「まぁ仕方ないよ。春香ちゃんがそれを心から理解するにはまだ若すぎるってものだよ。
 とにかく、今までみんなを信じてやってきたのが春香ちゃんじゃないのかな?
 だったら、今度だってみんなを信じて春香ちゃん自身も頑張らないと、みんなに心配されちゃうよ」

分かりました、と蚊の鳴くような声で答え、春香ちゃんが席を立った。

酷かもしれないが、ここを乗り越えていかない限りは春香ちゃんに未来は無いのかもしれない。

売れない下積みの時から時間を共にしてきたみんなと、そうそう心が通わなくなるものか。

それに春香ちゃんが気づけるかどうか、店を出て行くその背中を見送りながら、何とか頑張ってくれと願わずにはいられなかった。

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ライヴの日が迫ってくると、アイドルのみんなは愚か、プロデューサーや律子ちゃん、果ては小鳥さんまでもが店に来る回数を減らしていった。

それだけに今度のライヴに賭けるものがあるのだろうということは想像できたが、この前の春香ちゃんの様子を見ると心配でならなかった。

なにやら胸騒ぎがするような気がして……私はあるひとつの決心をしたのだった。

今やあまりの人気にライヴのチケットは即日ソールドアウト、という状態であった。

転売屋の思惑に乗せられているようで癪ではあったが、なんとかしてチケットを手に入れようと私はあれやこれやと手を尽くした。

が、その悉くは失敗に終わった。オークションも、チケットショップもどこもかしこも全滅だった。

765プロに頼めば一枚くらいは融通してくれたかもしれない……が、それをするのは自分が特別扱いされているようで気が引けた。

あくまで、他のファンと同じように見届けたかったのだ。チケットが手に入らなければ、同じように足掻いてみたかったのだ。

もっと効率のよいやり方などあったのかもしれなかったが、それでも遮二無二私はもがき続けた。

だが、現実は無常なもので、結局収穫の無いままライヴの当日を迎えてしまった。

全てを諦めて今日も通常営業だ、と考えていたその時だった。

店を訪れた客の一人が、一緒に来るはずだった友人が急な仕事で来られなくなった、チケットが余ってしまったというのだ。

店に来るファンの人で持っていない人がいたら譲ってあげてほしい、そう言われてチケットを受け取ったはいいのだが。

いくら一部ファンの間で有名になったとはいえ、チケットを持っていないようなファンが大挙して押し寄せるようなところでもなかった。

結局、昼の営業では我こそは、と手を上げる者がいなかったのだった。

私はポツンと残された一枚のチケットを手に、しばしどうすべきか逡巡した。

……そしてその夜、私は初めて店を臨時休業にしたのだった。

いざ店を閉めてやって来たはいいものの、果たしてこんなおっさんが一人でアイドルのライヴ会場に姿を見せたら不自然ではないかとの不安が私の頭をよぎった。

だが、そんな心配など無用の長物であったことを私は会場で悟ることとなった。

確かに観衆の大半はアイドルのみんなと同世代か、それに近い世代の若者たちだ。

しかし、よく見渡せばちらほらとアイドルたちの父親、母親世代の姿も見える。ともすれば祖父・祖母世代がいたっておかしくなさそうだ。

今やお茶の間の人気者となった765プロのみんなを、きっと娘や孫のように見守りたい、そういう人も多かったのだろう。

針のむしろにならなかったことを心から感謝して、私はン十年の人生で初めてアイドルのライヴ会場へと足を踏み入れたのだった。

一言で言ってしまえば、そこは幻想的な空間だった。

色とりどりのサイリウムが入り乱れ、アイドルのみんなの名前を呼ぶ声があちこちから上がっていた……まだ開演前なのに、である。

非日常的過ぎる雰囲気に私が戸惑っていると、程なくしてライヴの始まりを告げるブザーが鳴り響き、地鳴りのような歓声が上がった。

思わず私が体をすくめ耳をふさぎかけたその時、テレビから聞こえてくる歌声がスピーカーから響き始めた。

顔を上げた私の目に飛び込んできたのは、アイドルのみんなが大きなステージでいっぱいに笑顔を振りまいているその姿。

……そしてその中でもとびきりの笑顔を見せていた春香ちゃんの姿だった。

そこから先の時間は夢のようにあっという間に過ぎていった。

会場が一体となって同じ歌を歌い上げたかと思えば。

真ちゃんや響ちゃんのハイレベルなダンスに思わずどよめきが上がったり。

それが千早ちゃんのバラードになると一転してただ静かにサイリウムが揺れるという光景が広がったり。

ついには引退したはずの律子ちゃんがステージに登場するというサプライズなどもあったり。

そして会場から沸き起こるアンコールに応え、何度も何度もみんながステージに戻ってきたり。

数時間に及ぶ公演の全てをアイドルみんなが満面の笑顔と共に駆け抜けて行ったのを、私は全て見届けたのだった。

年を取ると涙腺が少々弱くなるらしい。

気がつけば、頬に涙が伝っていたのを私はそっと袖で拭ったのだった。

ライヴの翌日、まるで今までの自分たちの労を労うかのように、プロデューサーと小鳥さんが連れ立って店に姿を現した。

私はライヴを見に行ったことを言おうか言うまいか考え……結局は胸のうちに秘めておくことにした。

どの道、昼のワイドショーやスポーツ誌の芸能面では昨夜のライヴの盛り上がりが伝えられていた。

ライヴが成功したことを私が知っていても、特に突っ込まれることも無かっただろう。

私が酒を運んでいくと、ちょうど二人がこんな話をしていた。

P「それにしても、小鳥さんがまさか舞台袖で涙を流すなんて思いもしませんでしたよ」

小鳥「いいじゃないですか。あたしはプロデューサーさんよりもずっと長くみんなを見続けて来たんですよ?
   それこそ、律子さんがアイドルやっていた頃の姿だってずっと見てきたんです。
   そんな日々を思い出しちゃったんですよ、つい」

小鳥さんも涙を流したことを知って、私はついつい親近感が湧いたものだった。

思わず表情を崩しそうになるのを我慢して、グラスを置こうとしたところで聞こえた言葉に、私は思わず別の意味で表情を崩してしまった。

小鳥「でも……有終の美、ってこういうことを言うんですかね」

P「そうかもしれないですね……でも、最後にいいステージが出来たと思いますよ、門出には相応しいでしょう」

反射的に私は聞いてしまった。

「有終の美……? 最後? 門出? いったいどういうことだい? まさか誰か引退でも……」

小鳥「え……? マスター、社長から聞いてなかったんですか?」

P「実は……」

今夜はここまで
あとは社長の個別エピにED、明日の夜で終わらせられるかな

アニメ準拠とすると、25話のライブ当日はボロボロなのを無理して出てきたはずで、翌日も引き続きボロボロの筈なんだけどそのへんはスルーすべき?

ビールかけ見届けてたら遅くなってしまった というわけで再開

>>214
完全アニメ準拠にしちゃうと、P入社前に竜宮結成が描けなくなってしまうもので……
P入社前を書いてみたかったということもあったので、舞台設定的には(2+アニメ)÷2みたいな感じになっとります
という設定も即興でやってたスレですから完全に後付けですが

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「……おや、珍しい。今夜はお一人で?」

夜の寒さも幾分和らぎ始め、春の足音もはっきり感じられるようになってきた。

春は出会いの季節でもあり、別れの季節でもある。

大きな居酒屋では送別会などもひっきりなしにあるのだろうが、この店にはさほど縁の無い話だ。

今日も今日とていつも通りに店を回していたところに、珍客がやって来た。

社長「いや、ちょっと待ち合わせをだね。奥の席が空いていればお願いしたいのだが……」

小鳥さんやあずさちゃん、プロデューサーを伴って来ることはあっても、高木が一人で来るのは珍しかった。

……ともすれば、最初に引越しの挨拶をされて以来かもしれない、と私はその出会いを思い返そうとしていた。

何はともあれ、奥の席は空いていたので、高木をそちらへ案内した。

それにしても、待ち合わせか……いったい誰を待っているのだろうか。

待ち合わせの相手が誰なのかは気になったが、他の客の相手を放り出すわけにはいかない。

時折チラチラと高木の座る席に目を遣りながら仕事をこなしているうちに、日付が変わろうとしていた。

程よく酔って、外の木よりも一足先に桜色に頬を染めた客たちが肩を組んで店を後にした頃には、もう高木しか残っていなかった。

卓上には私が最初に持っていったビールとグラスが二つ、そのままに残されていた。

「待ち人来たらず、ですか?」

そんな私の言葉に、高木は苦笑交じりに返してきた。

社長「そのようだね……どうやらフラれてしまったのかな」

「おや、ご婦人との約束でも?」

社長「ハッハ、そんな相手がいたならよかったのかもしれないなぁ」

そう言うと、高木はすっかり気の抜けてしまったビールと一口、ちびりと口にした。

社長「かつての友と久方ぶりに話してみようと思ったのだがね……生憎向こうにその気は無かったようだ」

一つ小さくため息をついたその表情が、私にはたまらなく寂しそうに見えた。

社長「ご主人、もしよかったら一緒にどうですかね? せっかく持ってきてもらったグラスがもったいなくてね」

顔を上げた高木が手ぶりで私に席に座るよう促す。

「いや、確かにこの時間になれば普通は客もほとんど来ませんがね……いつもこのくらいの時間になるとプロデュ……」

今日も残って仕事をしているであろうプロデューサーの名前を出そうとしたところで高木が遮る。

社長「彼なら休暇を取ったよ」

仕事の虫と言っても言い過ぎではないプロデューサーが休暇……?と、私は一瞬耳を疑った。

社長「……と言うよりも、私が休暇を取らせたんだよ。私が命じでもしないかぎり、彼は休もうとはしないだろう?
   彼はこの大事な時に、と言っていたがね。これからはきっとさらに忙しくなるだろうからね。
   労働基準監督署がやって来る前になんとかしなければいかんじゃないか」

そんな冗談を飛ばして高木がまたビールに口をつけた。

だが、この後の唯一の客になり得る男がいないと言うのであれば、私としても断る理由が無くなってしまった。

「それならばいいでしょう、今日は看板にして御相伴に預かるとしましょうか」

それに、高木とは話してみたいこともあったのだ、そういう意味では私としても好都合であった。

乾杯、の声とともにチン、と小さくグラスを鳴らす。

小鳥さんやあずさちゃんに囲まれている時の高木とは違って、しんみりと味わうように酒を飲んでいるように見えた。

社長「プロデューサーを休ませている間は私や律子君たちと手分けしてアイドルの面倒を見てはいるがね……
   昔取った杵柄でどうにかなると思っていたら、いや甘かった。
   あのプロデューサーはこの何倍もの仕事をこなしているのかと思うと、雇い主としてはゾッとしてしまったよ」

寄る年波と疲れには勝てないよ、と言わんばかりにふぅっ、と高木がため息をついた。

「昔取った杵柄……やっぱり芸能界に居て長かったんですね」

社長「そりゃそうだろう、ずぶの素人が芸能プロダクションなど開けるわけないじゃないか」

「それもそうだ」

よくよく考えれば当たり前の事実に、今更気づかされた私は苦笑せざるを得なかった。

社長「今日待っていた男はね……私が駆け出しだった頃に同じ釜の飯を食った仲だった奴なんだよ」

「へぇ……でももう芸能界から去ってしまったと?」

社長「いや、今でも現役バリバリさ……ただ、ね」

そう言って高木は遠い目をした。

社長「あいつと袂を分かってどれくらい経つかね……この前のライヴの成功でようやく奴にまた会う決心がついたんだがな」

どうやら、私などには想像もつかないような深い確執が待ち人と高木の間にはあったようだ。

社長「あいつのやり方も間違ってはいないのだろう、実際それで今まで成功を収めてきたわけだしな。
   だが、あいつはそれ以外のやり方を決して認めようとはしなかった……いつからだったかな、そうやって意見が食い違うようになったのは」

私は黙って高木の話に聞き入った。

社長「でもね、芸能界というのは数学の問題みたいに一種類の解法しか持たないところではないのだよ。
   私なりのアプローチであいつに肩を並べるところまで上り詰めてみせる、そう啖呵を切ったはよかったが……
   はは、この年になって最高の部下と、最高の子供たちに恵まれるまで時間がかかってしまった、というわけだ」

「お友達は……どんな哲学を持たれていたんで?」

社長「一口に言ってしまえば、孤高、といったところかな。
   魑魅魍魎渦巻く芸能界において、自らの力以外に頼れるものなど無い、そういうことを言っていたな」

それを聞いただけで、おそらくは高木と真反対の哲学を持つのだろうということを私は悟った。

皆が皆、仲睦まじい765プロの面々は孤高という言葉とは無縁のように思えたのだ。

社長「その言葉に反発する私のようなものもいたがね……あいつはそんな声を実力で抑え込んできた。
   何せ、あいつの眼力と来たらこの世界でも随一のものだったんだ、あいつに見出されて成功した芸能人は枚挙に暇が無かった」

しみじみと話す高木の口ぶりから、反目はしつつもその力を認めていることがうかがえた。

社長「だが、あいつも頑固な男ではあったが、私も頑固だったのかもしれないな。
   あいつの考えに何十年もずっと反旗を翻し続けてきたようなものなのだからね」

そこまで言った高木が、グラスに残ったビールをぐい、と飲み干す。

空いたグラスに私が次の一杯を注ぎ、高木が小さく会釈した。

社長「……そう考えると、アイドルの皆にはすまないことをしてしまったかもしれないな。
   何せ、私とあいつとの代理戦争との道具にされたも同然なのだから」

「それは違うでしょう」

私が間髪入れずに返した言葉で、高木の目が少しばかり見開かれた。

「彼女たちは彼女たちの意思でアイドルを目指し、そして成功していったんです。
 その道のりの中で、他の事務所のアイドルと競い合うことこそあったかもしれませんがね。
 でも、貴方の哲学の為にライバルに勝とう、ではなく自分の為にライバルに勝とう、と思っていたはずですよ。
 それを道具として使われただなんて言ったら、きっとみんな怒っちゃいますよ」

社長「……それもそうか。すまない、今のは訂正させてもらうことにするよ」

数十秒前の自分を恥じるかのように、小さく頭の後ろを高木が掻いた。

「そういえば、私も貴方に話したいことがあったんですよ」

高木の話が終わったのを見計らって、私からも話をさせてもらうことにした。

その申し出に、ほぉ、と高木が身構えるような表情へと変わった。

「……事務所、今度引っ越すそうじゃないですか」

私の言葉に、高木が目をパチクリさせた。

社長「……おや、話していませんでしたかね?」

いいえ一度も、と私が返すと、それは失敬、と高木が申し訳なさそうに笑った。

社長「私としてもこの場所は愛着があったのだがね。
   みんなの頑張りのおかげで、さすがに手狭になってしまいましてね」

「いや、仕方ないでしょう。
 彼女たちの器は、こんなオンボロ雑居ビルに収まるようなものじゃなかった、ってことですよ」

もしもアイドルのみんなが売れっ子になったのなら。

いつかはこういう日が来るということは分かっていたのだ。

社長「思えばここにいたのも二年……あるかないかだったかな。
   言葉にすれば短いものかもしれないが、この時間は濃密なものだった気がするよ」

私と同じく、高木も私とのファーストコンタクトの時に思いを馳せているのだろう、そんな遠い目をしていた。

「……今だから笑って話せますがね」

苦笑交じりに私が口を開く。

「最初は、なんて胡散臭い輩がやってきたんだろう、なんて思ってましたよ」

社長「胡散……臭い? ハッハッハ、それは傑作だ」

少しばかり酔いが回り始めたか、高木が私の言葉を笑い飛ばしてみせた。

「だって、いい年した大人が、アイドル事務所を開くことにした、ですよ?
 何か裏がある、って思ったって不思議じゃないじゃないですか」

それもそうだ、と高木はもう一つ豪快に笑った。

「特に伊織ちゃんとやよいちゃん、亜美ちゃんと真美ちゃんに会った時は私も焦りましてね。
 すわ未成年者略取および誘拐罪の現行犯か、って危うく通報しそうになりましたよ」

社長「それは危なかった、何とか思いとどまってくれて助かったよ」

そう言って私と高木は大きな声で笑い合った。

「いやしかし、本当に通報しなくてよかったですよ。
 そんなことしてたら、今頃みんなの笑顔なんて知らないまま、居酒屋の主をしていたかもしれないですから」

偽らざる本音だった。

これまでの隣人に恵まれなかった私だけに、此度の隣人はアイドルであることを抜きにしても輝いて見えたものだ。

社長「……ふぅ、まったく、隣人が理解ある人間であったことを私は感謝しなければいけないらしい」

ようやく笑いが収まってきたはずの高木が、そう言ってもう一つだけ笑ってみせた。

社長「……だが、冗談は抜きにしても、たるき亭さんがお隣さんで本当に良かったと思っているよ。
   聞けば、アイドルの子たちが時々相談を持ちかけたこともあったそうじゃないですか。
   店には迷惑をかけたかもしれないが、大抵はジッと黙って話を聞いてくれていた、とみんなが言っていたよ」

「いやいや、私なんて何の力にもなれなかったですよ。
 ただ、普段から聞かされている酔っ払いの愚痴に比べれば、みんなの悩みなんて聞いていても苦じゃなかったのは確かですね」

もっとも、それもプロデューサーが入社してからは少なくなったような気がする。

みんなの仕事が増えてウチに顔を出す機会が減ったのもその理由の一つだろうが、やはり身近に相談できる相手が増えたのも一因だろう。

私がそんなことを口にしたら、高木が悪戯っぽい顔をしてこう訊ねてきた。

社長「なるほど、アイドルの子たちをプロデューサーに取られて、嫉妬しているのだね?」

「少しだけ、ね」

それもまた、偽らざる本音だった。

「……貴方はこの二年が濃密だった、ウチがお隣さんで良かった、って言いましたがね。
 それは私だって同じことですよ、765プロが来てからというもの、退屈しない日は無かったといっても過言じゃないかもしれない」

確かに、存在しないメニューをリクエストされたり、悪戯されたりと、迷惑をかけられたこともあったかもしれない。

だが、それを補って余りあるほどに、この二年弱の時間は枯れかけていた私の人生に確かな潤いをもたらしてくれたのだ。

社長「ふむ、困ったものだな……。
   そういうことを言われてしまっては、引越しをする気が薄れてしまいそうだ」

「いや、冗談でもそれはやめておきましょう。
 アイドルのみんなの為にも、もっといい環境がきっとどこかにあるはずです」

別れは寂しいものではあるが、私ごときの為に765プロが成長する機会を妨げてはならないのだ。

社長「しかしだね……みんなからもたるき亭とお別れするのは寂しい、という声も上がっているのだよ?」

今日ほどこの商売をやっていたことを誇りに思ったことは無い、私はそう思った。

油断すれば涙腺が決壊しそうになるのを、私はグッと押さえ込むのに必死だった。

社長「まぁ、二度と会えなくなる、というわけではないのだからね」

確かにその通りだ。

私の立場からすれば、テレビに目を向ければみんなの元気な姿を見られるだろう。

ラジオに耳を傾ければ、みんなの歌声やお喋りを聞くことも出来るだろう。

律子ちゃんや小鳥さん、プロデューサーに高木は例外だろうが……何もこれが今生の別れというわけでもないのだ。

社長「きっとまた、逢えるさ」

「そうでしょうとも」

短い言葉を交わした私と高木は、どちらからというわけでもなく手を差し出し……がっちりと握手をしたのだった。

「さて、こうなったからには、改めて765プロの門出を祝わなければなりませんね」

そう言って私は席を立ち、今度はしっかりと冷えたビール瓶を片手に高木の元へと戻った。

社長「それでは我が765プロの」

「新たなる門出を祝って……」



「「乾杯」」

---

それから程なくして、引越し業者のトラックがビルに横付けされ、事務机やキャビネットやらを運び出していった。

アイドルのみんなやプロデューサーはそんな引越しに立ち会っていられるほど暇ではない。

小鳥さんだけが事務員らしく業者に指示を出したり質問をされたりしながら慌しく立ち回っていた。

よほど忙しかったのだろう、小鳥さんも別れの挨拶もそこそこにトラックに乗り込んで新たな事務所へと向かってしまった。

その後は最初のうちこそ、「聖地巡礼」などと称してウチにやってくるファンもいたようだが。

765プロが移転したという事実がファンの間で広まるにつれ、徐々にその客足も引きつつあった。

……こうして私の元に、765プロがやって来る前の日常が戻ってきたのだった。

今生の別れなどではない、そんなことは分かっていたはずなのに、今の私はどこか魂が抜けかけたような状態になっていた。

今まではオンボロで狭いだけだと思っていたウチの店が、なんだかとてつもなく広く、そして空虚に感じられた。



お昼時に「はいさーい!」と元気よくやって来る響ちゃんも、「うっうー! こんにちはー!」と元気よくやって来るやよいちゃんも。

食事を待つ間少女マンガを読んでうっとりしている真ちゃんも、型落ちのプレイヤーで音楽に聞き入って心地よさそうにしている千早ちゃんも。

隙あらば悪戯をしようと悪い笑顔を見せる亜美ちゃんに真美ちゃんも、それに気づいて雷を落とす律子ちゃんも。

メニューを手に今日はどれにしようかな~と口ずさむ春香ちゃんも、常識はずれの量をペロリと平らげてしまう貴音ちゃんも。

食後にお茶を飲んで和んでいる雪歩ちゃんも、オレンジジュースを飲んで和んでいる伊織ちゃんも、カウンターの隅で気持ちよさそうに寝ている美希ちゃんも。

夜になってお酒が入って乱れ始める小鳥さんも、箸が転がってもおかしいかのようにコロコロと笑うあずさちゃんも。

そんな二人を前にオロオロするプロデューサーも、そんな光景を見て微笑ましそうな表情を見せる高木も。



……もう皆、たるき亭にはいない。

私の周りだけ時間が止まったような、そんな錯覚を抱いている間にも私を取り巻く環境は変わる兆しを見せ始めていた。

ある日のこと、ランチタイムの準備をしていると、上の階からドリルのような音、なにかを打ち付けるようなカン、カンという音が聞こえてきた。

その日の昼は、上の階からぞろぞろと足音がしたかと思うと、作業着に身を包んだ数人の男が店に入ってきた。

その姿を見るからに、どこぞの内装業者なのではないか、と私は推測した。

そんな業者が入る、ということは新たなる隣人が決まった、ということなのだろう。

はてさて、今度の隣人はどんな人になることやら。

私がそんなことに思いを馳せ始めたその時だった。

「はいさーい!」 「うっうー! こんにちはー!」
「お久しぶりです、マスt……きゃっ!」 ドンガラガッシャーン 「……ちょっと春香、大丈夫?」
「兄ちゃーん、真美もうお腹ペコペコだよー」 「亜美もお腹空いたー! 早くお昼にしよーよー」
「もしご主人、このめにゅぅのここからここまでを全部」 「アンタ、いつも思うけどどこにそんなに入るのよ……」
「ミキ、お腹も空いたけど、それよりも眠いの……あふぅ」 「あらあら、美希ちゃんったらしょうがないわねぇ」
「ねえねえマスター! これ見てくださいよ! さっきの撮影で撮ったボクのこの可愛い一枚!」 「真ちゃんはそういうのは似合わないと思いますぅ」
「あーもう! ちょっとみんな静かにしなさいっ!」 「ほらほら! 他のお客さんの迷惑になるからおとなしくしろー!」



ほぼ全員が勢揃いした765プロの面々がそこにいた。

呆気に取られ、「いらっしゃいませ」も言えなかった私をよそにみんながぞろぞろと席に着く。

律子「じゃーみんな、メニューは分かってると思うからあれこれ悩まずに早く決めちゃってねー。
   次の収録までそんなに時間は……」

P「いや、先方から連絡が入って、前の収録が押しているから後ろが全体的に遅れるそうだ。
  ゆっくりと昼を食べる時間くらい作れそうだぞ」

貴音「それは真ですかっ!?」

響「おーい貴音。ほどほどにしとかないと収録の時動けなくなっちゃうぞ」

春香「やったねっ! 久々にたるき亭さんでご飯が食べられるよー。ねぇねぇ千早ちゃん、どれにしよっか?」

千早「え……別に、なんでもいいけれど」

真「もー、千早はいっつもそれなんだから。ボクはもう決まったけど、雪歩は?」

雪歩「えっと……真ちゃんと同じのでいいかな」

いきなり舞い戻ってきたかつての日常に、まだ私は対応できずにいた。

「えー……ど、どうしてみんな揃ってこんなところに?」

やっとの思いで口を開くと、カウンターに陣取った子たちが口々にこう言った。

あずさ「さっきの現場と、この後の現場の道のちょうど間にたるき亭さんがあったんですよ~」

美希「だから、久々にたるき亭でお昼にしよう、ってことになったの」

亜美「最近ずっとロケ弁でいい加減飽きてきたんだよねー」

真美「それに、新しい事務所の近くってあんまり美味しいお店が無いんだ」

伊織「美味しくないだけじゃないわ、オレンジジュースを頼むのも私のイメージが崩れそうで気が引けちゃってたのよ」

事情はなんとなく把握できたが、それにしても驚かされた。

確かに、そういう事情があれば会えないなんてことも無いだろう、と自分を納得させようとしたその時だった。

カウンターに座ってたやよいちゃんが、何かを察したのか席を立って別のテーブルで食事をしていた内装業者の作業員たちへと駆け寄ると、こんなことを口にしたのだ。

やよい「もしかして、スタジオ作ってくれてる業者さんですか? よろしくお願いしますっ!」

思わずは?、と素っ頓狂な声を漏らしてしまった。

律子「あれ? 社長から聞いていませんか?」

首をふるふると横に振って、聞いていないことを私は示した。

P「まったく、社長はまた大事なこと言っていないんですか……」

呆れたようにプロデューサーがため息をついた……が、大事なこととはそもそもいったい何なんだろう。

律子「新しい事務所に移ったのはいいんですが……未だにスタジオはどっかのを間借りしてレッスンとかしてたんですよ」

P「いつまでもそれじゃ出費もバカにならない……かといって新しい事務所はオフィスビルの中だからそんな場所借りたくても存在しないわけですよ」

律子「そこで白羽の矢が立ったのがこのビル、ってわけです」

P「ほら、一つ上の階にもう閉まったカラオケ教室がそのままになってるじゃないですか。
  そこも借り上げてここから上のフロアをレッスン用のスタジオにしよう、って社長が決めたんですよ」

思わず口をあんぐりと開けてしまった。

そんな話、ただの一言だって聞いちゃいない。

律子「カラオケ教室の防音設備を生かしながら、二階はボーカルレッスン用のスタジオに。
   事務所があった三階はダンスレッスンを中心にビジュアルレッスンも出来るようなスタジオにするそうですよ」

P「それにしても、引っ越してからもこのビルとの契約を打ち切ってなかった、って聞いた時はビックリしましたけどね。
  ひょっとしてあの社長のことだから、最初からこうして自前のスタジオを作るつもりだったのかも……?」

……間違いない、高木は今度はわざとそのことを言わずにいたんだろう。

あの時の「きっとまた、逢えるさ」というのはそういう意味だったに違いない。

……まったく、食えない男だ。

P「そういうわけで、これからも色々とご迷惑をおかけするかと思いますが、何卒よろしくおね……」

そう言って頭を下げようとするプロデューサーを、私は手で制した。

「いや、今更そんな風にかしこまって頭を下げるような間柄じゃないだろう」

このままでは抜け殻のような余生を過ごすだけだった私に、また張り合いのある日常が戻ってきたのだ。

迷惑? むしろ大歓迎だ。

そして、私はみんなに聞こえるような大きな声でこう告げたのだった。



「こちらこそ、これからもよろしく頼むよ」



 おわれ

気づけば二週間近くもgdgdやってきたわけか……
とりあえずこの話はこれでおしまいです

細かい台詞回しとかはその場の即興でやってたので色々おかしかったかもしれないけど、
書き溜めとかやると変に妥協出来ずに一生投下できそうにない性格なのでご容赦を

今晩あたりにHTML申請出しておきます

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