岡部倫太郎「紅莉栖が好きだぁ!」牧瀬紅莉栖「私も倫太郎が好きだぁ!」 (8)

「岡部」
「む? なんだ、助手よ」

私、牧瀬紅莉栖は岡部倫太郎の事が好きだ。

「そこ、二歩なんだけど」
「なぬっ!? あっ……!」

何故私が岡部に対して好意を抱いたのかを説明するのは難しい。話せば長くなるし、捉えようによっては荒唐無稽なファンタジーに思えるかも知れない。しかもその根拠が岡部の主観に基づく別の世界線の話となれば、尚更信じることは困難である。それでも、私は。

「盤面全体を俯瞰出来ていない証拠よ。前にも言ったでしょ? 岡部は大局的視点に欠けているって」
「それをこの世界線のお前に言われるのは初めてだがな」

既視感は幻のようで岡部だけが知っている。

「しかし、助手よ。この手の盤上遊戯にはローカル・ルールが付きものでな。我がラボでは二歩は反則ではないのだ」
「そんなゲームの根底を覆すようなローカル・ルールがあってたまるもんですか」

ご覧の通り、岡部は捻くれた男である。
無精髭が生えていて年齢よりも老けて見える冴えない風貌に、よれよれの白衣姿。
学会から見放されて、ロクなスポンサーも得られない貧乏研究者にしか見えない。

しかし彼はまだ学生で近々私が籍を置くヴィクトル・コンドリア大学へ留学することが決まっている。意外とやれば出来る男なのだ。

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「さて、対局を続けるぞ」
「その前に駒台に歩を戻しなさい」
「ちっ。ガミガミうるさい奴め」

自分の間違いを素直に認めないのは研究者の性とも言える悪癖だろう。もちろん明らかな落ち度が露呈したならば即座に過ちを認めるべきなのだが、それをしないことによって得られる功績もある。最終的にはその正しさを証明出来るかも知れない。そのための執念。

「ねえ、岡部」
「今度はなんだ、助手よ」
「せっかくだし、何か賭けない?」

岡部倫太郎は別の世界線での出来事に関する記憶を忘却しない能力を持ち合わせているらしい。世界線とは様々に分岐する可能性のことで、例えば今対局している日本の伝統遊戯である将棋の勝ち負けは3通りの分岐が存在していて、勝つか負けるか、それとも指し直しになるかと言った具合に3パターンある。

勝った場合をα。
負けた場合をβ。
指し直しをγだとしよう。

対局終了後になんらかの手段を用いて時を巻き戻した場合、私にその対局の記憶は残らないが、岡部には残る。試行回数を重ねればα、β、γを網羅することも可能だ。その能力のことを彼はリーディングシュタイナーと呼んでいる。

「くっくっくっ。マッドサイエンティストたるこの鳳凰院凶真に賭けを挑むとは……いいだろう。望むところだぁ」
「ちなみに、別の世界線の私と将棋で対局した経験があったりする?」
「安心しろ、今回が初見だ」

たぶん、本当に初見なのだろう。もし別の世界線で対局していたのなら間違いなくその世界線の私も岡部の二歩を指摘していただろうし、同じミスをする可能性は低い筈だから。

「それで、何を賭ける気だ?」
「勝ったら敗者に何でも命令出来る権利」
「ぐぬっ! えげつない奴め」

さて、まだ序盤にも関わらず既に敗色濃厚な岡部がチキらないように軽く煽っておきますか。

「もしかして負けるのが怖いの?」
「ぬぁにを馬鹿なことを! マッドサイエンティストに怖いものなどない!!」

ちょろい。盤上でも盤外でもちょろすぎる。

「じゃあ、続けるわよ」
「どこからでもかかってこい!」

巷で天才と囁かれている私に立ち向かってくる者は少ない。かつて鎬を削り合ったライバルたちは今や話しかけてすら来ない。論破した父親とも疎遠となった。そんな私の孤独を埋めてくれる岡部に感謝しつつ、叩き潰す。

「12手先で詰みよ」

アメリカで盛んなチェスと日本の将棋との大きな違いは取った駒を使えるか否かである。
騎士道が重んじられる欧米諸国では仕える君主を変えることなど言語道断なのに対して、日本では戦国時代にそれが当たり前に行われてきた。どちらに正当性があるかはともかくとして、現実的な観点から考えれば敗北した時点で投降したほうが無駄な犠牲が減る。

「……参りました」

無論、君主や将軍が投降することが許されないのはチェスも将棋も共通していることだ。

「一応、投了図以下を確認する?」
「いや、二度も負けたくない」
「そう。岡部にしては賢明ね」

話は戻るが、取った駒を再利用可能な将棋はその分、チェスよりも戦略の幅が広がる。
単純に盤面に現れる分岐の数が増える分、ゲームとしてより複雑となり、そして運が介入しないことから純粋で深い頭脳戦となる。

「ふふっ……勝っちゃった」
「随分と嬉しそうだな、助手よ」

私はこのゲームが好きだ。
理詰めで相手を追い詰める過程が楽しい。
己の正当性が即座に結果へと反映される爽快感は、学会で不毛な議論を重ねることがいかに馬鹿らしいかを知らしめてくれる。

「何を命令しよっかな」
「さっさと決めろ。覚悟は出来ている」

将棋の棋士。プロの将棋指しは皆、研究者。
全ての盤面においての最善手を日々模索している。先の見えない試行錯誤の毎日だろう。

彼らは研究の過程で数日前の対局から数年前、数十年前、果ては百年以上昔の江戸時代の棋譜まで盤面に再現する。時を遡るのだ。

そして導きだした答えを現代へと繋ぐ。

タイムマシンなんてなくたって、彼らは時代を越えていける。遺した棋譜は未来へと。
それは途方もなく壮大で、ロマンチックだ。

「不思議だと思わない?」
「ん? なんのことだ?」
「将棋の棋士たちの目には盤面の駒たちがまるで違って見えていて、実際に動かさなくたってずっと先の景色が見えているのよ」

一瞬の閃き。論理の跳躍。才能の煌めき。
勝負手を発見した棋士の脳内に走る電流。
視覚や聴覚から送られてくる電気信号に感応して連鎖的に通電するシナプスの輝きを可視化出来るとしたら、とても眩しいのだろう。
それは未来視のようなもので、残念ながら私にはその能力はない。けれど目の前の彼は。

「未来など知らないほうがいい。その場その場で最善手を模索することこそ、醍醐味だ」

様々な可能性をその目で観測してきた彼にとって、今この瞬間の新たな分岐こそが楽しいらしい。それもまた、研究者らしい考えだ。

「決めた」

彼の言葉に従って、私もまたその場に応じた最善主を模索して、敗者への命令を決めた。

「もう一度、あの言葉が聞きたい」
「あの言葉……?」
「あんたがアメリカで言った言葉」

そこまで言うと察したらしく咳払いをして。

「俺はお前のことが好きだ」

岡部倫太郎は優秀な研究者になるだろう。
何故ならば、彼は勇気がある。私よりも。
運命は勇者に微笑む。まさにぴったりだ。

「……目を閉じろ」
「またか……」
「いいから、早く!」

うんざりした様子の岡部が渋々目を閉じたのを確認してから、臆病な私は念を押しておく。

「絶対に開けちゃダメだからね」
「わかったから、早くしろ」

岡部は恐らくキスを想定しているのだろう。
たしかにアメリカで私は岡部に返事代わりにキスをした。でも、今回はひと味違うのだ。

「その場に跪いて」
「何故この俺がそんなことを……」
「勝者の命令が聞けないの!?」
「わかったわかった! ほら、これでいいか」
「よっと」

すかさず跪いた岡部の肩に乗る。肩車だ。

「うわ! な、何をする、助手よ!」
「いいから、目を瞑ってろ!」

暴れる岡部の目を両手で塞いで足をクロスさせる。首を絞めない程度にガッチリと固定。

「岡部、苦しくない?」
「苦しくはないが、重……」
「それ以上言ったら絞め落とすからな」
「うぐっ!?」

警告をしてから軽く締めてやると岡部は沈黙した。素直でよろしい。彼の耳元に囁いた。

「このままおしっこするから」
「は?」
「なによ、嫌なのっ!?」
「い、嫌というわけでは……」
「どっちなのよ!? IQ170の灰色の頭脳でとっとと結論を導き出しなさいよ!!」
「わかった! いいから早くしろ!!」

まったく素直じゃないんだから。えへへ。
そうよね、やっぱり岡部も嬉しいみたい。
だって私もこんなに嬉しい。幸せだもん。

「岡部、好き」
「お、俺も好きだぞ」
「誰のことが?」
「じょ、助手に決まってるだろう」
「助手って誰? まゆりさん?」
「お前だ! 牧瀬紅莉栖!」
「苗字はいらん! 紅莉栖ってゆえ!」
「紅莉栖が好きだぁ!」
「私も倫太郎が好きだぁ!」

ちょろんっ!

「フハッ!」
「ふぉっ!」

すっごい。対局中溜めに溜めた尿が迸ったその瞬間、岡部の愉悦が骨伝導で恥骨に響いてきて脳細胞が一斉に歓喜するのがわかった。

ごめん。ごめんだけど、言わせて欲しい。
ちょっと自分でも何言ってるかわかんない。
わかんないかも知れないけど、察してね。

「フハハハハハハハハハハハハッ!!!!」

ちょろろろろろろろろろろろろろろろんっ!

「あ、ああ、ガクガクが止まんないよぉっ」

骨盤付近の筋肉が断続的に緊張と弛緩を繰り返しておしっこが強制的に排出されてゆく。
落っこちないように岡部の頭にしがみついて私は耐えた。離れたくない。離したくない。

「ごめん、ごめんね、岡部」
「紅莉栖……泣いているのか?」

気づけば私は泣いていて頬を伝うこの涙の理由を論理的に説明するならば、贖罪である。
私は大好きな岡部のことを自らの尿で汚してしまったことに罪悪感を覚えるのと同時に愉悦を感じてしまっている。二律背反の関係。

「好きなのに、こんなことしてごめんね」
「何を謝る必要がある」
「岡部……?」
「矛盾こそが恋だろう」

言われて納得する。研究者の悪い癖だ。
論文には、矛盾が存在してはならない。
けれど、この恋心には矛盾が許される。

「おしっこかけたけど、好きだからね?」
「ああ、わかっている」
「王手飛車取りみたいなものだからね?」
「もういいから黙ってろ」
「怒った? やっぱり怒ってる?」
「怒ってない」
「もしかして、助手クビにされる?」
「なにを馬鹿なことを」

かなりウザい自覚がある私に対して岡部倫太郎はまるで主任研究員のようにこう答えた。

「いいからさっさと着替えて論文を書け。タイトルは、『二律背反のエクスタシス』だ」
「ふふっ……はい、岡部主任」

素直に返事をして早速執筆を始めよう。
汚い内容だからこそ、なるべく美しく。
字数を揃えて見栄えだけは良くしよう。


【二律背反のエクスタシス】


FIN

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