ウタウタウ (10)

ヨウちゃんって歌うまいよね。

隣の家に住んでいた二つ年上のユリちゃんにそう言われたのが、歌い始めるきっかけだった。二人で遊んだ帰り道に何の気なしに口ずさんだ歌だった。

彼女に褒められたいということだけをモチベーションに歌い始めた。気がつけば楽器を弾くようになり、バンドを組んで、今ではちょっとした人気バンドのボーカルだ。何万人もが聞いて感動している歌は、ただ一人の彼女に届けば良いと思って作った歌だった。それなのに、果たしてそれが叶うことは無かった。

彼女は今日、僕ではない彼と結婚式を挙げる。

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結婚の報告を聞いた時は、予想していた時ほど落ち込むことは無かった。いつかはそんな日が来る気がしていたし、自分がその相手になることができないとは思っていた。

ユリちゃんは子どもの頃の僕が早々に気づいていた通り、とても綺麗な女性だった。

周りの男たちもそう言うことに気がつき始めたのは彼女が中学校に入学したあたりで、その頃から彼氏という存在がいない期間は一週間となかった。誰かと付き合っては別れ、また次の誰かとあっという間に付き合っている。その繰り返しだ。

悪女と言われてしまうと、それは否定できないのかもしれない。

実際、同性の友達といるところなんて数えられるほどしか見たことがないし、一方で男と一緒にいるところを隣の家に住んでいるがために見かけて落ち込んだことは数えきれないほどあった。

それでも俺は彼女のことを諦めることなんかできなくて、それは一種の呪いみたいなものだったのかもしれない。好きじゃなければそんな様子を見て落ち込むことなんて無いと思うことは何度もあった。しかし、そうであったとしてもそうすることはできなかった。彼女と歌うこと、その二つが自分の全てだったのに、そうしてしまうとどちらとも失ってしまう気がした。

自分の手に届かない高翌嶺の花であるユリちゃんを諦める理由が欲しかった。

いっそ告白を失敗してしまえば諦めもつくんじゃないだろうか。

後ろ向きな考えで前向きな行動を思いついたのは、そんな気持ちに耐えられなくなった頃だった。彼女は大学受験を終えて東京に行くことが決まり、お隣さんでいることができるのもあと数日というタイミングで俺は彼女に自分の気持ちを伝えることにした。このまま自分の中だけで気持ちを押し殺してしまうと、一生ユリちゃんのことを忘れられない気がした。

子どもの頃によく遊んでいた辺りを旅立つ前に回ってみようと誘ってみると、あっさりと承諾をしてくれた。荷造りなどもほとんど終わってしまい、あとは出発の日を待つだけだったらしい。あの頃は自転車を立ち漕ぎで駆けていた堤防を二人で並んで歩いた。

「こんなところ、ファンの子に見られたら怒られない?」

「ファンなんかいないから」

高校に入った頃から、友達の親が経営するライブハウスのイベントに何度か出演させてもらっていた。何度かユリちゃんも見に来てくれたことはあったし、その時は一層気合いが入ったものだった。

「照れなくていいから」

そう笑う彼女の表情に照れてしまって、僕はそっぽを向いた。

何と伝えよう。どんな言葉にすれば彼女に自分の気持ちを伝えることができるだろう。頭の中では何度もシミュレーションしていたはずなのに、彼女と向き合うとそれが正解ではなかったように思えてしまう。

失敗するつもりで来ていたはずなのに。だからこうやって地元を旅立つ直前に、自分の気持ちを整理させるために、自分を奮い立たせて来たはずだった。それなのに、彼女を目の前にするとそんなことは考えられなくなっていた。自分が楽になれなかったとしても、ユリちゃんのことを好きでい続けたいと思っていた。たとえそれが、報われることがなかったとしても。

こうやってたまに相手をしてもらうだけでも良いと。僕が多くを求めなければ、僕がこの苦しみから逃げなければ良いと。

「でも、東京に行ったらヨウちゃんの歌が聞けなくなるのは残念だな」

「もっと良い歌手がいっぱいいるよ」

「私はヨウちゃんの歌が好きだから」

上手いとか下手とかじゃなくてさ、と付け足された。それだけで、全てを認められた気がしてしまった。今までに歌ってきたどの歌も、その一言を聞きたいが為だった。

僕自身のことを好きだと言ってくれたわけじゃないのは分かっているけれど、それでも嬉しかった。涙が止まらないほどに。

「え、何で? 大丈夫? え? 何、え?」

久しぶりに彼女がこんなに慌てているところを見た気がして、泣きながら笑ってしまった。

「いや、嬉しくて、つい」

歌っていることが報われて、とは言葉にしなかった。それを言葉にすると、何だか嘘っぽくなってしまう気がした。

だから代わりに、飲み込んでいたことを口にした。

「ユリちゃんのこと、好きなんだ」

 泣きながら笑いながら、言葉にすると、何でこの一言を何年も言えずにいたのだろうかと思うほど簡単に音にできた。

「だから歌ってきて、よかったなって」

それ以上は言えないくらい感情が爆発して、どうにか声をあげずに泣くよう嗚咽した。感情が昂っていて、何か言われるとどうしようもなくなりそうだった。

ユリちゃんは、あの頃お姉さんぶりたい時によくしていたように、僕の頭に手を置いて撫でた。あの頃は僕より背も高かったけど、今では少し手を上げなければ届かない。それでもその手は懐かしい暖かさで、少し気持ちが落ち着いた。

数秒かもしれないし、数分かもしれない、はたまた数十分かもしれない。興奮状態から落ち着くまで彼女はそうしてくれていて、僕が潤んだ瞳で彼女と視線がぶつかるまで、黙ってそうしてくれていた。

「ありがとう」

それがどういう意味で出て来た言葉なのか分からなくて、僕はそのまま彼女を見つめた。

「ヨウちゃんの歌が好きだからさ、私はヨウちゃんのファン第一号だから」

そこで一度踏みとどまって、少しの間を置いて彼女は言葉を続けた。

「これからも楽しみにしてるし、ずっとヨウちゃんの歌が好きだよ」

結婚式の余興で歌ってほしい、というのは彼女からのリクエストだった。

残酷なことをさせるなとも思ったし、そう言われたことで救われたところもあった。

あの日の告白とも言えぬ僕の自白には何もなく、それまで通りの関係性だった。変わったことがあるとすれば、僕はより一層彼女のことと歌うことの呪いに深まったくらいだ。

結婚すると聞いてショックを受けなかったのは、もしかしたらこれで少しは踏ん切りがつくと思ったからかもしれない。

ユリちゃんのために、届いてほしくて褒められてくて認められたくて歌わなければならないという強迫観念が薄まるんじゃなかろうかと。

「それでは新婦の幼馴染、現在は人気ロックバンドでボーカルとしてご活躍されている深津さん、よろしくお願いします」

司会に呼び出されて、席を立ち、スタッフから使い慣れたギターを手渡された。形式上の挨拶をすると、マイクスタンドの前に立つ。壇上のユリちゃんと視線が合うと、冗談めかしてウインクを受けた。

それだけで、僕は歌わなければという気持ちになってしまう。

ああ、僕は歌うよ、これからもきっと。もうこの気持ちが届くことが無かったとしても。

何万人に届く、君のための歌を、これからも。

サブスクでチャートの上位に入るようなラブソングを聞くたびに、自分がここにいることを改めて自覚する。

世間一般で私と同じくらいの女の子がしている恋愛なんて、私にはできないから。歌詞の感情を理解できないままに聞き流すことしか私にはできなかった。

娼婦、という言葉の意味も理解する前から私はここに住んでいた。両親がお金に困って私を売ったのは、まだ両手で年を数えられる頃だった。

オーナーと呼ばれる彼が私を迎えに来た日から、私はここで生きてきた。お金に不自由することもなければ、苦しい思いをすることもない。

悪くない生活のはずだ。少なくとも、娘を売るような両親に育てられるよりは。

男の人の相手をして、春を売る。私の春はサブスクの音楽と同じで、有料サービスに過ぎない。

この世にあるラブソングは全て仮想の物語で、私に実体験として訪れることは無いと思っていた。

だからこそ、最近流れてくるこの歌がやたらと気になって仕方が無かった。歌っている内容はとても甘いラブソングで、ヒットチャートにある他のグループとも大差が無い。それなのに、歌い方なのか声なのか、それとももっと本質的なところなのか、果たしてその理由が何かは分からないけれど、私にはとても苦しそうに歌っているように思えた。

この歌のような甘い出来事は英語で言うところの仮定法のような。叶わないと知りつつも、そう願っていると伝わるような。そんな歌い方だった。

シュガーキャンディーというらしいタイトルにしっくり来るような歌詞なのに、とてもビターな響きの歌で、それが何となく生温い絶望を私に与えた。

こういうありきたりらしいラブストーリーに憧れが全くないわけではなかった。けれど、私にはそういう生き方ができないと思って割り切って、だから世にある少女漫画やラブソングを仮想の素敵な物語として受け容れることができた。

それなのに、この歌は私に改めて「お前にそんな体験は訪れないよ」と伝えているような気がして、分かってはいたはずなのに胸を締め付けられるような気がした。

彼はどんな気持ちでこの歌を作ったのだろう。誰を想い、どんな希望と絶望で歌っているのだろうか。悲しい気持ちになってしまうのに、気がついたときは私はこの歌の虜になっていた。

誰かに春を売った後、私は決まってこの歌を流すようになった。まだ見ぬ誰かに、こんな気持ちを抱くのだろうかと。誰かを好きになることは、果たしてあるのだろうかと。

そんな希望を持つことが、私にとっては絶望でもあった。

まだ幼い頃からこの娼館に住むようになって、オーナーにあてがわれた男の相手をしたのはもう数えきれないほどだ。子どもの方が良い、という趣味の人もいれば、子どもに手を出す気にはなれないとおしゃべりだけして帰る人もいた。

まだその行為の意味もあまり理解していないときから、私はそうやって生きてきた。それを理解したときは何度か吐いて、やがて生温い絶望と諦めが私を包んだ。

あんな親のもとから離れて、お金には困らない生活ができて良いと想う自分。

普通の生活をして、普通の愛情を注がれてみたかったと想う自分。

わがままなことなのかもしれない。ないものねだりと言われたらそれまでかもしれない。

それでも私は、普通の愛情というものを知りたかった。源氏名で売る春ではなく、私の本当の愛情を誰かに注ぎたかった。

そう思ってしまうことが、絶望だった。

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