【可愛そうにね、元気くん】「進まない」【SS】 (102)
ヤングジャンプの漫画『可愛そうにね、元気くん』のSSになります。
-変わらない-
-変わらない-
初秋の、長くて深い夜。昼夜逆転したヒグラシが、時間帯のおかしさに気づかないままどこか遠くで鳴いている。
昼との差が激しくなってきた室温は、半袖ではちょっと心許ない。だけど出来るだけ長袖は着ない。鉛筆やインクで汚れてしまうから。
「……ここ、ちょっとクドいかな……いっそ1ページにまとめて……いや、でも大きいコマ欲しいよな……」
思考を口からブツブツと漏らしつつ、勉強灯だけ点けた机で同人誌のネームをこねくり回す。独り暮らしだと独り言が増えるというのは本当らしかった。
高校二年生の頃――殴って、殴られて、壊し壊されたあの学校生活から10年が経つ。
高校が変わって、社会人になってからも、夏が来るたびに彼女の事を思い出していた。俺が壊した、たった一人の元恋人の事を、数多くの痛みと一緒に。
「あれ、トーンあったっけ……やべ……明日帰りに買わなきゃ……」
それをつらいと思わなくなったのは、ほんの数年前の事だった。乗り越えたとか、傷が癒えたとか、そういう心持ちではないと思う。単に時間のせいで薄れて、本来の痛みを忘れてしまっただけだ。
そんな否応のない変化を、人は『成長』とか『進歩』とか呼ぶのだろう。大事なことを忘れてしまう罪悪感から、目を逸らしたいがために。
「……ダメだ、まとまらなくなってきた……てか今何時だ――」
まあ、忘れかけていたところで、ラーメン屋での遭遇を果たしたわけだけれど。あれは本当にびっくりした。
「……三時!? ヤバ、明日ミーティングなのに……! ね、寝なきゃ……!」
けれど、今更俺が何を思っても――何を思わないようになっても、もう詮無い事だ。
だって彼女はもう、俺の手の届かないところで幸せになっているのだから。
******
翌日。
「元気くん、今日一日眠そうだったなー。マネージャーに睨まれてたのマジでウケた」
「うるせーよ……」
定時までの業務をなんとか乗り切って、帰り道を眼鏡の同僚と歩いていた。周囲も同じ方向に歩く人ばかりだ。帰りの電車も混むだろう事が容易に予想出来て、少しウンザリする。
季節の移り変わりはあっという間で、つい最近までは明るかった定時の帰路が、今では夕方と夜の間の薄暗さだ。夕陽の日差しはまだ暑いと感じるけれど、それが頼りなくなってくるのももうすぐだろう。
「昨日何やってたんだよ? 独り身なのにそんなに夜更かしすることあるか?」
「独り身関係ないだろ。あー、本読んでてさ」
本当の事は言えないので、これだよ、と言って文庫本を見せた。
うっしー先輩――もとい、牛島さきこ先生の新作だ。さすがに筆名は本名とは違うけれど。
本人には内緒にしているが、ちゃんと新作が出る度にチェックしているのだ。
タイトルだけが書かれたシンプルな表紙を見て、同僚はつまらなさそうに肩を竦めた。
「ふーん。似合わねー」
「知るかよ」
「あ、そういえば佐藤ちゃんがさ! 今日合コン誘ってくれたんだよね。いやほんと天使だわ~、脈あるってことだよなこれ!」
「……脈あるかはわからんけど、まあ、そりゃよかったな」
職場の飲み会には時々参加するけれど、恋人づくりのための合コンなんてものは、俺には遠い世界の事だった。俺の隙間を埋めてくれる相手は、少なくともそんなところには間違いなく居ない。
俺は自分の性癖を自分で背負っていくと、ピアスを捨てたあの夜に決めたのだ。
もうとっくに塞がったハズの耳たぶの穴が疼いて、ほんの少しだけ身震いした。
「なんだよそのテンション。元気くんは行かねーの?」
「俺はいいや。帰ってやる事あるし」
同人誌のネームの続きをしなきゃならない。興味を持たれると面倒なので何も言わないが。
高校の時の経験もあるし、絵が描ける事すら周りには秘密にしている。
「あ……あー……そうだよな」
すると突然、同僚は妙によそよそしい態度になった。……なんだその反応は。
……あれ? なんか既視感がある気がする。これ……いつの記憶だ……少し前の飲み会……? ダメだ、あの時は飲んでいたせいで何も思い出せない。急に不安になった。
「……な、なあ、もしかして俺、前の飲み会の時何か――」
その時だった。
胸の中で膨らむ俺の不安を、全て掻っ攫って上書きするみたいに――聞き覚えのある透き通った声が、俺を呼び止めた。
「――元気くん」
その声が耳に届いた途端、反射的に身体を捻っていた。
「――――え」
今しがたすれ違った女の人が振り向いて――猛禽類のような丸い大きな瞳を向けて、俺の名前を呼んでいた。
駅へと歩く人の波に逆らうように、空を泳ぐかのように自由な足取りを止めて。
俺を見咎めたその人は、屈託のない笑顔を見せた。
――どれだけ時が過ぎても、忘れる事はないだろう。
ぞっとする程に恐ろしく、底抜けに美しい、その満面の笑みを。
「久しぶりだね。元気くん」
少し短くなった、夜帳のような漆黒の髪。
相も変わらず心を射抜く鋭い視線は、さながら氷の矢。
そうやって俺を呼び止めたのは、俺の――最悪の理解者。
「鷺、沢……?」
夕陽の反対側で、夜の暗さを一身に背負うようにして。
そこには、二十七歳の鷺沢守が立っていた。
******
『えっ誰!? 元気くんの知り合い!? 嘘!? こんな美人さんが!?!?』とか何とか喚く同僚に鷺沢は、
「ごめんなさいお兄さん! ちょっと元気くん借りていきますね♡」
と言って半ば強引に俺を連れ去った。……明日出勤した後、根掘り葉掘り聞かれることは確実だ。
いや、今大事なのはそこじゃなくて。
「な、なんで、鷺沢……さん、が……」
「え? ぐーぜん通りかかっただけだよ。びっくりしちゃった」
明るく笑う鷺沢は俺の手を引いて、ぐんぐんと駅から離れる方向に進む。まるで夜に引き込もうとしているかのようで、不安を通り越して恐怖すら覚えた。
……こうやって、俺の都合を(あんまり)考えてくれないところは、変わっていない。
「いや、偶然って……てか、離して……」
指同士をがっつり絡められて逃げ出すに逃げ出せない。心臓が暴れるせいで顔が熱い。思いっきり振り払えばなんとかなるかもしれないけれど……それが出来た試しは、無い。
弱々しく引きずられていると、不意に、鷺沢が立ち止ってこっちを見た。
「? ……離して欲しいの?」
怪しく、甘い声が、耳から滑り込む。
そこにあったのは、舌なめずりをする肉食獣のような、『そっち側』の笑み。わずかな人間だけが理解している、彼女の奥底の歪んだ本性。
胸の中で膨らむ真っ暗な陶酔感に、身体の芯が熱く身震いした。
不意を突くように、鷺沢が俺をすぐ傍へと引き寄せる。繋いだ手を、手綱のように強くたぐって。そのわずかな痛みが、脳の奥の方に閉じ込めていた感覚を引きずり出した。
「……~~っ」
呼吸が止まる。ばくんばくん、と情けないくらいに激しく心臓が鳴る。
10人に聞けば10人が美しいと答えるであろう、誰しもの目を惹きつける美貌が目の前にあった。ほんの少し顔つきは大人びているけれど、人を虐める度に子供のように輝くその表情は、高校二年生の頃とまるで変わらない。
さらさらと流れるような黒髪が俺の首をくすぐる。俺を真っすぐ刺し貫くようなその目つきは、顔を逸らしたくなるほど暴力的なのに、それを許してくれない。
気づけば脚に力が入らなくなっていて、もはや立っているのがやっとだった。
「……っ、ぁ、離せっ、よ……頼む、からっ――」
「――ふうん?」
俺の手に絡んだ鷺沢の指が小さく爪を立てて、優しく愛でるように手の甲を撫でる。肌触りの良いしなやかな指が俺の筋張った手を滑り、なぞり、ゾクゾクと全身に甘い痺れを伝えていく。
ただそれだけで――俺は、何もできなくなった。
柔らかく皮膚を擦るその感覚が、血の味と、痛みと……あの頃に受けたあらゆる快感を、バチバチと激しくフラッシュバックさせる。
道行く人々が怪訝そうに俺たちを見ては通り過ぎる。耳も顔も焼けただれるように熱い。だけど鷺沢の指は止まることなく俺をくすぐり続ける。
「……っ!! ……さぎ、さわっ……や、めっ……」
情けなさを重ねるような弱々しい声で、必死に鷺沢へと懇願する。
「――あははっ!」
あっという間に屈服しそうになる俺を見て、鷺沢は今にも躍り出しそうな調子で笑った。ガラスの破片のように、きらきらと光って胸を刺す笑い声。
全部、あの頃のままだ。抗えない痛みも、恐怖も……それでもなお快感を覚えてしまう、自分自身も。
今この瞬間だけ、足元が、10年前に戻ってしまったかのような錯覚すら覚えた。
過去から這い出た感覚の洪水に囚われて突っ立っていると、不意にするり、と手が解ける。
「――っ! あ、っ、はあ、はあっ……!」
「ふふっ。手を繋いだだけでそんなになっちゃうなんて、元気くん――本当に変わってないね」
呆気ないほど簡単に手を離した鷺沢は、外向きの笑顔で俺に提案した。
「元気くん、晩ごはんまだでしょ? 今から食べに行こうよ。――私の行きつけの店だからさ」
俺はもうどうしようもなくって、力なく頷いた。
……結局のところ、俺が本当の意味で鷺沢に逆らえたことなんて、一度も無いのだ。
******
鷺沢に連れてこられたのは、ビルの地下にある小さなバーだった。薄暗いブルーのライトと小さな音量で流れるジャズが、俺の目をキラキラと眩ませる。壁際のボトルやテーブルの灰皿は光を過剰に反射していて、四人席のテーブルに腰かけた俺を余計に恐縮させた。
「あ、あの……鷺沢。俺、お金あんまり持ってきてないけど……」
情けない事に、座り心地の良い椅子に腰かけて、最初に出た言葉がそれだった。
別にぼったくりバーだとか疑っているわけじゃない――鷺沢がそういう方向の悪ふざけをするハズもない――けれど、一般論としてバーでの飲食が割高なのは知っている。
そんな俺を見た鷺沢は、半ば本気で呆れたように眉を下げた。
「甲斐性ないなあ。大丈夫だって。レストランも兼ねてる、庶民派のバーだからさ」
正面の鷺沢から、はいこれ、と渡された革張りのメニュー。そのしっかりとした重さだけで一瞬心が負けそうになったけれど、ここまで来てしまったのだから『ええいままよ』と意を決して開いた。
「…………ほっ」
常識的な値段と内容だった。
……しばらくして運ばれてきたのは、揚げ物と薄いピザ、そしてカクテル二つ。注文しておいてなんだが、ずいぶん胃に悪そうだ。
店員さんが離れると鷺沢は立ち上がって、天井からぶら下がる紐を引っ張る。するとスクリーンのような仕切りが降りてきて、隣のテーブルと簡易的な壁を作った。
「……そんなのあったんだ」
「本当は分煙用なんだけどね」
そう言って小さく笑うと、鷺沢はカクテルグラスをこっちに突き出した。
「それじゃ――元気くん」
一応周りから見られなくなっても、店の中だからか、鷺沢は人好きのする普通の笑顔だ。
こうして落ち着いて見ると……やっぱり、あの頃とは同じようで違う。仕草一つ取ってもどこかゆるやかで、大人びていて。
柔らかくなった……ようにも見えるし、余計に何か恐ろしいものを秘めているようにも見える。
それでも――やっぱり。
鷺沢がどれだけ恐ろしいままであっても、変わってしまっていても。
俺は、未だに鷺沢が好きだった。
その真っすぐな瞳に貫かれるたび、十年経った今でも俺の心臓は怪しく高鳴るのだ。
「ん……あ、ああ」
鷺沢に遅れて、俺もグラスを持ち上げる。
こうして偶然の再会を果たして、二人きりで酒を飲むからって、俺と鷺沢の何かが変わるわけではないだろう、となんとなく思う。
けれど――
「「――乾杯」」
二人で揃って口にして。
軽く触れさせたグラスの音色は、なんだか心地よかった。
「……鷺沢ってさ。今何やってんの……仕事とか」
「んー? ……内緒」
「何だよ、それ……」
「何だっていいじゃん。こうしてちゃんと生きてるんだから」
「まあ、そう……そうか……?」
「そうだよ。……あははっ」
「……ここ、よく来るの?」
「時々。付き合いとかでね」
「…………」
どういう付き合いなのか、訪ねてもどうせ答えないのだろう。聞くのを諦めて、ファジーネーブルに口を付けた。
「カクテルなんて飲んじゃって、元気くんったらかーわいい」
「うるさい……鷺沢だってカシオレじゃんか」
「わたしはいいの」
「あっそ……」
「元気くんはさ、まだ漫画描いてるの?」
「ちょっ……んんっ、まあ……うん」
「……ふうん。ちゃんと、一人で埋められてるんだ?」
鷺沢は、俺の左耳を見やった。視線が鋭く突き刺さって、再び穴が開きそうだ。
けれど、またピアスを付ける事はないし……そうしようとは、思わない。
「うん。……なんとかなってる……と、思うよ」
「……ふうん」
鷺沢はつまらなさそうな顔で、カシオレを一気に煽った。
「……だからげんきくんはさぁ、ぜんぜんれんらくもしないでぇ……わたしがどれだけぇ……ひっく、すみませぇーん。カシオレおかわりぃー……」
「……さ……鷺沢、飲みすぎじゃ……」
気づけば鷺沢はへべれけになっていた。
俺の倍くらいのペースでぐびぐび飲むものだから酒に強いのかと思ってたら、全然そうじゃなかった。どうすんだこれ。
……あまり見た事ないような鷺沢を見れて嬉しいと思う気持ちも、無くはないけれど。
「ううぅー……げんきくん……むにゃ」
項垂れる鷺沢が空き皿に顔を突っ込みそうになって、慌てて皿をどかす。すると鷺沢の顔はそのままゴツンと机に落ちて、小さく寝息を立て始めた。
完全に無防備な姿を見て、高校生の鷺沢との思い出が胸に去来する。
クラスメイトで、暴君で、俺のご主人様で、理解者だった、鷺沢守という女。
原稿を奪われた思い出――初めて殴られた時の痛みと、捕食者の笑み――血の味のキスと痣――ピアス――寝泊り――理解者であることを教えてくれた、最後の冬の射抜くような視線。
正直に言えば……記憶にこびりついた感情の強さなら、八千緑さんより鷺沢の方が少しだけ上だ。
「……鷺沢」
――鷺沢はきっと、俺と袂を分かった後も上手くやるだろうと思っていた。
俺の一番の理解者は鷺沢だけど、鷺沢はたぶん、俺じゃなくてもいい。八千緑さんなんてもう結婚してるんだから、鷺沢も結婚しているか、もしくは恋人くらい居てもおかしくない。
……もちろん、八千緑さんと鷺沢では歪みの方向もカタチも違う。とはいえ――順風満帆とはいかないかもしれないけれど――十年も経てば鷺沢なりに折り合いをつけて生きていっているんだろうって、心のどこかでそんな風に思い捨てていた。
「んん~……」
けれど、だらだらと話し込みながら酒を飲んで、気づけばもう九時前だ。
こんな時間まで誰かに連絡を取る様子もなく、偶然再会しただけの男と二人で飲んでいるのは、ちょっと普通じゃない。
それが、鷺沢を心配したり待ってくれたりしてる人がいないから、なのだとしたら。
「……鷺沢。おい、鷺沢」
肩に触れる。不安になるほど華奢な、針金の人形のような身体。均整の取れたスタイルの良い体が、なぜだか今は妙に心許ない。その奥に苛烈で加虐的な愛情が隠れているなんて想像もできないくらいに、その上半身は軽く感じた。
鷺沢は、どうして――何を思って、俺を飲みに誘ったのだろう?
「お待たせしました。カシスオレンジです……あら」
バーテンダーっぽい妙齢の女性が、鷺沢の注文を運んできた。通ってたのか、さっきの。
店員さんの視線は完全にオチてしまった鷺沢に向けられていて、俺は慌てて自分の目の前に空きスペースを作った。
「あっ、すいません……貰っておきます」
「あら、わざわざごめんなさい。……珍しいわね、守ちゃんがこんなに飲むなんて」
店員さんはカシオレを置きながら相好を崩した。そういえば行きつけの店なんだっけ。
「……そう、なんですか」
その柔らかい笑みを見れば、この人――よく見たら名札に『店主』って書いている――と鷺沢がそれなりに親しい仲なのは見て取れた。
店主さんに聞けば、鷺沢が普段何をしているのか知れるかもしれないけれど……さすがに本人の前では聞けない。実は起きてるかもしれないし。
「あなた、守ちゃんの彼氏?」
とか思ってたら爆弾を投げられた。本人に聞かれたらヤバいと思って、慌てて否定した。
「い、いや、違って……高校の時の同級生です」
「ふうん? でも、仲良しなのね」
「……なんでそう思うんですか?」
「だって守ちゃん――今まで誰と一緒に来ても、酔い潰れたところなんて見た事ないわ」
驚いて一瞬言葉を失った俺に、店主さんはクスクスと笑いかける。微笑ましいものを見守るような慈しみの笑顔だった。
「それだけ気を許してるって事でしょう? ……きっとあなたに会えて嬉しかったのね」
そう言うと、お水持ってくるわね、とだけ告げて店主さんは下がって行った。
「………………そう、なのかな」
実際のところは分からない。俺は殴る側の人間の気持ちが分からないから、鷺沢を理解しきれない。
鷺沢と過ごすこの時間が悪くない気はしてきているけれど、それが正しい感情なのかも自信がない。
理解できないモノを見た時、人は困惑する。そこから生じる不安は、言葉では表せないような曖昧な苦しみを与える。
その結果が、学園祭の終わり――励一くんが現れたあの時の教室であり、俺の退学だ。
「…………うっ、ぷ」
ドン引きするクラスメイト全員の視線にメッタ刺しにされたあの日の事を思い出して、胃液が込み上げた。さすがにアレは、消化するには重たすぎる経験だ。
フラッシュバックに苛まれる俺を気にも留めずに、鷺沢は幸せそうな寝息を立て続けていた。
「すぅー……すぅー……。……ふふっ……」
結局のところ、鷺沢はいつだって理不尽に俺を苦しめる。
暴君で、一度だって逆らえなくて……だからこそ、ご主人様で。
「…………っ……はぁ……」
うずくまった鷺沢をしばらく見つめていたけれど、結局俺は鷺沢の代わりにカシスオレンジを口にした。
それくらいなら、許される気がした。
-逃げられない-
……結局食事の料金は俺が払い、ついでに店主さんにタクシーを呼んでもらった。
潰れた鷺沢に肩を貸しながら地上に出る。ちょうど人肌くらいの生温い風が鷺沢の髪を揺らし、俺の顔をくすぐった。
「鷺沢……家の場所、言える?」
鷺沢を車の中に押し込むようにしながら、自分も一緒にタクシーへ乗り込む。余計なお世話かもしれないけれど、さすがにこの状態の鷺沢を一人では帰せないと思った。
水を飲んで多少頭が冴えている……はず……の鷺沢は、夢心地のように緩い顔で謡った。
「えー……? げんきくんち……」
「そういうのじゃなくて」
冗談になってない。特にこの歳だと。
「ん~…………――」
ぐらぐらと頭を揺らす鷺沢は、比較的近い距離の駅名を口にした。
「……すみません、そこまでお願いします」
「はいよー」
運転手は気のない返事をして、夜の街へと車を走らせた。
対向車と繁華街の煌々とした灯りの隙間を、タクシーがすいすいと抜けていく。鷺沢はさっきからずっと俺の肩にもたれて、静かな寝息を立てていた。
……さすがにもう、ドキドキするのにも慣れた。
「…………」
なんだかどっと疲れているけれど、まだ午後十時前。普段なら漫画を描き始めている時間帯だ。
さっきの酒が回ってきて、無性に頭が熱い。
「ん……」
不意に、右肩で髪がこすれる音がした。鷺沢が俺の肩を本格的に枕にしようとして姿勢を変えたようだ。結果として、肩と腕がぴったりと密着する。
その柔らかさに小さく身体を震わせた途端、追い打ちのように、華奢で無防備な右手が俺の脚の上に置かれた。
「…………っ」
ぞく、と小さな甘い刺激が脳の奥までを揺らす。さらに鷺沢は、わざとなのか無意識なのか、俺の膝を焦らすような弱い力で撫で始める。
時折差し込む外の光以外は暗闇に覆われた車内で、心と身体が快感の方へ引きずられていくのが、分かる。
「……っ、駄目、だ……」
思い出すな。興奮するな。
あの頃とは違う。青くて、幼くて、痛かったあの高校時代とは、もう十年もの隔たりがある。
ここで――心の中で首をもたげ始めた欲望に屈して、二十七歳のいい大人なのに情けなく鷺沢にすがりついて、気持ち悪くて弱いマゾヒストの俺を破滅するまで可愛がってもらうのは、きっと簡単な事だ。
だけど、それはしないと決めたんじゃないか。
誰も得をしなくても、誰にも理解されなくても、俺は自分で自分の欠落を埋めて生きていくんだって。
「…………っ、と……」
鷺沢の手を上から握って、その動きを止める。
「…………ん……」
ぐずる鷺沢。起きていないことを祈りながら、ゆっくりと鷺沢の手を俺の脚から退ける。慎重に、ずるずると、絡み合うナメクジのようにスラックスの上を這って、俺たちの手は二人の間に落ちて行った。
そこでようやく、人心地つく。
「…………はぁー……」
「…………んふふ」
「おい」
起きてんじゃん。
ちょっと気まずくなったけど、鷺沢は手を解こうとしなかった。俺もなんだかその手を離す気にはなれなくて、暗い車内で揺られている間ずっと、鷺沢の手の火照りを感じていた。
――何故か不意に、この暗闇がもうしばらく続けばいいのにな、と思った。
「――お客さん、着いたよ」
駅前でタクシーが停まり、運転手が車内灯を点ける。その寸前に、俺たちの手はするりと解けた。
さっきまで何もなかったかのような素振りで、俺は鷺沢の肩を揺すった。
「鷺沢。おーい、鷺沢! 着いたぞ」
「う~ん……げんきくん、おぶってよ……」
「えぇ……」
何故か鷺沢がまたぐずりはじめた。
ここで鷺沢を送っていったら俺はどうやって帰るんだよ。この時間に電車あるのか、この辺。
「こっからは一人で帰ってくれよ……」
「え~~、やだ~~~~!! げんきくんとかえる~~~~!!」
「なんだよそのキャラ……!!」
結局また鷺沢に肩を貸すことになった。……上下関係が染みついている事を再確認して、ちょっと泣きたくなった。
******
タクシーを降りて(さすがに代金は鷺沢が払った)、鷺沢が指し示す方向に歩いていく。
俺たちが降り立ったのは特急も停まるそこそこ大きな駅で、飲み会帰りのサラリーマンたちが騒ぎながらまばらに歩いていた。……駅の改札に入って行ったという事は、まだ電車はあるのか。
「……鷺沢。こっから歩いて何分くらい?」
「そんなにかからないよ~……五分かそこら……」
「そっか」
よかった。それなら終電には間に合うかもしれない。ていうか、良い場所に住んでんな。
気を取り直して、鷺沢を担ぎなおして、駅前の大通りを進む。流石に飲み屋とコンビニ以外は閉まってる時間で、局地的な騒ぎ声があちこちから棘のように耳に刺さる。結構な数のゴミや放置自転車が見受けられるあたり、あまり治安は良くなさそうだ。
……鷺沢、こんなところに住んでいるのか。生活してる中で危険はないのだろうか?
遠くから聞こえる陽キャの笑い声に内心で怯えながら歩いていると、鷺沢が不意に顔を上げた。
「あ……ここ、ここだよ。げんきくん」
「…………えっ」
そこは――家なんかじゃなかった。
ちょっと……いや、かなり品のない装飾の施された、背の高い建物。ケバケバしいのにどこか静けさもある、退廃的な雰囲気。安っぽく光る置き看板。休憩三千八百円、宿泊七千五百円。
作画資料以外では馴染みのない、そういうコトのための建物。
「え、いや、ちょ……ここ、ラブホ――」
慌てて後ずさろうとした俺の肩を、鷺沢はがっちりと捕まえて。
――あの頃に嫌というほどに見た、悪魔のような蕩ける笑顔で、はっきりと口にした。
「さ、入ろっか。元気くん♡」
******
「あー、汗でベタベタ。先にお風呂貰うね」
「いや待って、ちょっ、待てって!!」
結局入ってしまった。いやそんな軽く流していい事じゃないけど!
慌てふためく俺をほったらかして、鷺沢はテキパキと上着や装飾品を外していく。さっきまでの酔いどれが嘘のようだ――ていうか嘘だったのだろう。
「何、元気くん。あ、もしかして一緒に入りたいの?」
「ちが――痛っ」
鷺沢はまた頬を吊り上げると、俺の額を強めに小突いた。リズミカルにとん、とん、と酒で弱った脳味噌を揺らそうとしてくる。
「つん、つん、つーん♪」
「い、てっ、何っ――うわっ」
おでこへの執拗な攻撃に思わず後退すると、膝の裏がベッドの淵にぶつかった。二人用サイズのベッドに尻もちを突くと、スプリングが俺をあざ笑うように軋む。
恐る恐る目線を上げると――顔に影を落とした鷺沢が、悪趣味な暖色の照明を背にして、俺の視界を覆っていた。
「はっ……はっ……」
呼吸がにがくて、苦しい。目の前がぐるぐるする。渦潮に飲まれたように、鷺沢に引きずり込まれる。
俺の目を惹きつけて離さない口から発せられたのは、蕩かすほど甘く、切り刻むほど冷酷な命令。
「――『待て』」
「――――」
真っすぐな視線と、言葉。
ただそれだけで、さっきまで荒かった呼吸が冗談のように凪いだ。急に酸素を絶たれた脳がキィィンと鳴っている。
そんな俺を見て満足そうにうなずくと、鷺沢は鼻歌まじりでバスルームに入って行った。
……俺が呼吸の仕方を思い出したのは、シャワー室から水音が聞こえ始めてからだった。
「…………」
鷺沢と、ラブホ。
その現実を、感じちゃいけない胸の高まりを、ゆっくりと噛み締める。
そりゃあ俺の最大の理解者はいつまで経っても鷺沢で、鷺沢も……たぶん、俺の事をそれなりに好いているみたい、だけれど。
「俺は……」
俺は……八千緑さんが、一番に好きだ。ここで鷺沢に流されるのは、八千緑さんも過去の自分も鷺沢も、全部裏切る事になる。
けれど――今の鷺沢に、今の俺が求められているのもまた、事実だ。
鷺沢は俺が居なくても、理解者が居なくても上手く生きているのだろうと思ってた。けどそれが間違いだったら?
もしも……もしも俺があの日ピアスを捨ててしまった事で、鷺沢もまた、埋めようのない心の穴を抱えてしまったのだとすれば。
今、ここで鷺沢の行動に応えないのは――俺のワガママでしかないのだろうか?
……そんなことを延々と考え続けたまま、二十分かそこらの時間が経って。
シャワーから出てきた鷺沢は、『待て』と言われた瞬間の姿勢のままで固まっていた俺を目に留めると、嬉しそうに破顔した。
「……ふふ。ちゃんと待ってたんだ。偉いね」
――濡れぼそった髪。バスローブから覗く白い脚、胸元。メイクを落としてもなおこの上なく整っている、魔性の美貌。
それらがまっすぐに俺の方を向いて、俺を賞賛している――それだけで、天へ昇りながら底なし沼に落ちていくような、言い知れない情動の灯が胸の中で揺らめいた。
「っ、あ……!」
スリッパを履いた鷺沢が、ぱた、ぱたと俺に近づく。
舌舐めずりのような、既に賞味しているような、俺を咀嚼する目線。見えない歯が食らい付いたかのように心臓が痛む。
その痛みの出所は――弾けるほどに鼓動が跳ねる理由は――期待と、興奮だった。
自分でも誤魔化しようがないほどに、俺はもう、『その気』にさせられていた。
「っ、待――」
鷺沢がベッドに膝をつく。俺に向かってしなだれるようにかがみ込む。眩むような美貌が目と鼻の先にあった。垂れた髪は俺を食いちぎるかのように、顔の両側へと迫る。
漆黒の牙のように房になった髪は――そのまま、やさしく俺の頬をくすぐった。
「――っ、ぁ……」
さっきまで保とうとしていた理性がいとも容易く引き倒されるのを感じた。どんなに足元を踏ん張ったつもりでも、鷺沢の一挙一動は暴力的なほどに俺の心を惹きつける。
ぶるり、と全身を震わす俺の耳元で、鷺沢は熱い吐息を甘いナイフのカタチに変えた。
「かわいい……♡」
「〜〜〜〜っ……!!」
首筋を刃物が撫でるような危険なくすぐったさに、思わず身を竦ませる。
シーツを握りしめる俺の手を優しく上から覆うと、鷺沢は耳元でくすっと笑った。
「――お風呂、入ってきたら?」
******
「元気くん。こっちこっち」
足をぶらぶらさせる鷺沢が指差したのは、自分が腰掛けているベッドの上。鷺沢の隣、数センチの位置。
「…………」
シャワーで少し冷静さを取り戻していた俺はその場で足踏みをする。けれどその逡巡は意味のないものだと、半ば分かっていた。
「………………」
「……ふふ」
俺がベッドを軋ませると、鷺沢は洞穴の奥に吹く風のような声で笑った。
「……がちがち、だね♡」
「おいこら」
俺の挙動の話だ。……今はまだ。
「そんなに緊張しなくてもいいじゃん。そりゃ童貞の元気くんはこんなところ初めてかもしれないけど」
「いいいいや初めてじゃないしそもそもどどど童貞じゃないけど」
「なんで見え見えの嘘つくの?」
呆れたように鼻で笑われる。しょうがないなあ、とでも言うように眉尻を下げて。
鷺沢に隠し事はできない。全部理解されている。俺はただ性癖がこじれているだけで、底の浅い単純な人間だ。
けれど、そんな俺を見つめるとき。
鷺沢はだいたいいつも、笑顔でいてくれるのだ。
「…………ね」
不意に、鷺沢が俺のあごに手を添えた。
「…………ん」
俺は鷺沢を見た。
細められた目と、紅潮した頬と、振り上げられた手を見た。
俺が何か言うより早く、鷺沢が手を振り下ろした。
――ばちん!
「いっ……!!」
手のひらが爆ぜる音。頬へのフルスイング。首、頭、最後に頬と、痛みが循環する。
ぐらぐらと揺れる脳は、突沸したように心地よく膨れる。
「……あははっ!」
鷺沢が俺に跳びかかる。馬乗り。ベッドがぼよん、と波打つ。目を開けるより前に、二発目が来る。
「うぁっ」
情けない声を上げる。けれど彼女はそんな俺に失望しない。俺の弱いところを飲み干して、より激しく、より熱く、俺に痛みを注いでくれる。
「は――あはっ、ふふっ、あははっ!!」
「あっ、がっ、痛、っ――」
平手の雨。あの頃より強く、容赦ない顔への殴打。
俺の上に乗って、俺を押さえつけて、俺を支配してくれる、彼女の声が降り注ぐ。
「元気くん」
「ぎゃっ――い、い"っ、あ、がっ――!」
首への圧迫。
「元気くん♡」
「っ……! ぁ、ぎ……ぁ! っ! っっ!!」
殴打。殴打殴打絞首殴打殴打殴打殴打。
「元気くんっ♡♡♡」
「っ――ひ――ぁ、ぃ……ぁ……っ!!」
苦痛が綿菓子のように視界を覆う。痛みと快楽に喉が詰まって、意識を失うかと思ったその直前――鷺沢が俺の首から手を離した。
「かはっ!! えほっ、げっほ、げほっ……!!」
体を横にねじって咳き込む。鼻と口から血を吐いた。鼻腔が粘ついて、何もかも吐き出したい気分だった。
真紅の歪な水玉がぼたぼたとベッドに落ちる。それは俺たちの欲望の形をしていた。
「は、あはっ……ふふっ、元気くん……♡」
夏場の飴のようにどろどろに溶け切った声。その中を泳ぐように艶やかな所作で、鷺沢は俺の下半身をまさぐった。
「っ……!」
『ソレ』も――全部、バレている。
顔を背けようとする俺の髪をつかんで引き寄せながら、鷺沢は、再び怪しいフレーズを――正しく、淫猥な意味で――口にした。
「がちがち、だね……♡」
何もかも溶けていくような、熱い吐息が遠く聞こえる。その息を発した内臓は、どれだけ煮えたぎっているというのだろう。
鷺沢はゆっくりとバスローブをはだけながら、下半身を擦り付けるようにぐらぐらと揺らす。
柔らかい。熱い。痛い。気持ちいい。今にも逝ってしまいそうな甘い雰囲気が、俺をゆすって、溶かして、押しつぶしていく。
「――……待っ……て、鷺沢、さん」
心の奥底までやさしく握りつぶされた俺は、情けなく縋り付くように手を伸ばす。
手のひらを前に向けて、鷺沢の肩を押す。
鷺沢を……拒むために。
「……それは……しない。……ごめん」
「……は?」
「……ごめん」
谷間とヘソを――白磁のように艶やかな曲線美を――惜しげもなく晒す鷺沢は、俺の目をくり抜かんばかりの鉄の視線で俺を刺す。恐い……とかそれ以前に、ここまで来ていおいて申し訳ない、とは思う。
でも……その目線に折れてはいけない時が、ある。
「嫌だって、わけじゃなくて、でも……コレは……やっちゃいけない、と思う」
血の味が染み出す口で、可能な限りはっきりと拒絶する。越えてはいけない一線。いくら鷺沢に流されそうになっても、『これ』だけはしてはならないと、シャワーを浴びている間に心の中で決めていた。
……俺が確固たる意志を持って鷺沢を跳ね除ける時、一体何が俺の土台にあるのか、鷺沢はよくわかっていた。
「…………八千緑さん?」
無言で顔を背ける。鷺沢は呆れ切って、やけっぱちみたいな口調で俺を詰った。
「……はぁ。あの子、もう結婚してるんでしょ。操でも立ててるつもり? 今時誰も喜ばないよ、そんなの」
「わかってるよ」
ここで『八千緑さんに誠実であること』が、同時に『鷺沢に対して不誠実であること』になっている。それくらい、いくら馬鹿な俺でもわかる。
でも……これ以上は出来ない。こうすることで鷺沢が、もしかしたら……多少ショックを受けるのだとしても。
「……わかってるよ。でも、俺は……たぶん……こういう風に幸せになっちゃいけない、んだと、思う」
俺の性癖は――俺の生き方は、鷺沢以外の誰にも理解されない。今更普通になろうとしても無理だ。それは高校生の時にいやというほど思い知らされた。
だからこそ、自分で決めたことだけは曲げたくない。
だって俺は結局、漫画を描いているから。
漫画を描く俺でいいって、気持ち悪くて理解されない俺でいいって、あの日彼女が言ってくれたから。間違った形だったとしても、無残に砕け散ったのだとしても、彼女と過ごした日々だけが俺の中でいつまでも輝いて、後ろめたくも俺を照らしてくれるから。
だから、普通の幸せなんて掴まなくてもいいんだ。
高校であんなことになった後でも、俺はいまだに暴力を受ける女の子が好きだ。それは変えようのない性癖だ。
そして、それと同じくらい――八千緑さんへの思いは、強く俺の中に根付いているのだ。
彼女がくれた言葉や、耐え難かった痛み。当時の感情が薄れて行くのだとしても、『そういうことがあった』という記憶だけは失くしたくない。
無かったことには、したくない。
愚かでも、幸せになれなくても、一人で生きると決めたあの時の俺に出来るだけ殉じたい。
「……誘ってくれて、楽しかったし、うれしかったよ。でも俺は……一人で埋められるし、そうしたいから」
「……幸せが目の前にあるんだよ。手を伸ばさなくていいの?」
「うん。いい」
なんというか、幸せって――手を伸ばした先につかみ取る、みたいな熱いものじゃなくて。
一つの方向に歩き続けていたら、その途中で落っこちているのに気づいて拾う……みたいな、簡素なものなんだろう、きっと。そうであってほしいなと思う。
「…………そ」
鷺沢は、何を思ったのかまでは分からなかったけれど。
つまらなさそうにそれだけ言うと、ごろりとベッドに転がった。
「「…………」」
火照っていた体が、少しずつ冷めていくのを感じる。
行き場のない熱もいつかは自然に消えてしまうように、甘い空気が無味に乾いていく。二人分の無言がしばらく、天蓋のように俺たちを覆っていた。
……始発で帰れば、出社までに着替える時間くらいはあるだろうか。
離れた時間のことに思いを馳せていると、隣の鷺沢が不意に声を上げた。
「……元気くん。スマホ貸して」
「え、なんで……」
「いいからぁー」
俺ににじり寄って、肩をゴンゴンとぶつけてきながら鷺沢がゴネる。
しぶしぶ差し出すと、俺の顔で勝手にロックを解除された。
「はい、チーズ」
ぱしゃり。服をはだけさせた鷺沢と顔を腫らした俺、ベッドの上でのツーショット。
「はい、送信」
「待って待って待って待って待って」
他人のスマホを使った考えうる限り最低の行為を平然とやってのけないでくれ……!!
「誰に送ったの今!?」
「んー? さきこちゃん」
さきこ。
牛島さきこ。
うしじませんぱい。
……めちゃくちゃやばいじゃん!!
「待って待って待って待って待って待って待って待って待って待ってちょわあああ電話かかってきたけど!?」
「ふぁあ。おやすみー」
「ええぇ!?」
顔を伏せって本気で寝る体勢の鷺沢を尻目に、電話は鳴り続ける。呼び出し時間が切れても何度も掛けなおしてくる。数分間の葛藤の後、俺は恐る恐る通話ボタンを押した。
「……も、もしもし? せんぱい、お久しぶりで――」
『ヘイヘイヘイヘイヘイ後輩くんヘイヘイヘイなんだい後輩くんヘイこの写真はヘイヘイヘイヘイおいこらてめえ返事しろごらぁ』
「アッ」
だめだころされる。ここまでダイレクトに殺気を食らったのは励一くん以来だ。電話越しなのに圧が半端ない。
「すみませんすみませんすみません鷺沢が勝手に送って」
『てことはこの写真は事実なんだね今まさに君の隣で守が寝てるんだねラブホに居るんだねよろしくやったんだね?????』
「違っ……いやラブホなのは違わないん……アァッ……」
しまった墓穴を掘った。
『へーーーーそうかいそうかいそうかいそうかい、話を詳しく聞かせてもらおうかなヘーーーーイ?????』
せんぱいのテンションが壊れた。
さすが鷺沢、人を壊す事に置いては右に出るものがいないんだなぁ。
…………ひたすら謝り倒した後、『また今度根掘り葉掘り聞きに行ってやるから首をよく洗って待ってろ! あと手も! 風邪ひくなよ!』という宣告を最後に受けて、通話は切れた。
「っ、はぁあ~~……」
嵐のような電凸を乗り切って、今日一番のため息が出た。鷺沢は枕に顔をうずめたままくすくすと笑っている。
「あっははは……あー、おもしろい。ねえ、すぐに会う機会作ってあげなよ。みんなで飲み会とかさ」
「他人事だと思って……」
それに、俺が誘っても誰も来ないだろう。みんな忙しいだろうし、俺がそこまで好かれてるとは思えない。
「ふふっ」
そんな俺の考えを見透かして、それをやさしく否定するように。
「――楽しみにしてるね、元気くん」
顔を上げた鷺沢が、俺をまっすぐに見て嘯いた。
その目つきは――俺が殴るのも殴られるのもたくさんだと口にして、二人で歩いて帰った時の、無邪気な鷺沢のものだった。
……最後の最後に、そんな表情をするのはずるいだろ。
「…………じゃあ、誘うだけ誘ってみるけどさ。期待はするなよ」
「はいはーい。あ、私はいつでも大丈夫だから」
「ほんとなんの仕事してんの? 鷺沢……」
うだうだ言いながら、二人して枕に頭を乗せる。こうして並んで寝るのは二回目だっけ。
目の前には鷺沢の楽しそうな顔。少し目線を反らせば相変わらず素肌が覗く。匂いも吐息も体温も、目の前の世界の全部が鷺沢だ。
だけど、ドキドキして眠れない――なんてことは、不思議となくって。
他愛ない会話が不意に途切れた時、俺たちはどちらともなく心地よい眠りに落ちていた。
-進まない-
明朝。
半袖では少し肌寒い、夜明け間近の繁華街。二十四時間営業の酒場でもあるのか、遠くからわずかに騒ぎ声が聞こえる。
鳥肌を立てる両腕を擦りながら、鷺沢と並んで駅へと向かう。
「……鷺沢、家はこっちでいいの?」
「んーん。タクシー使おっかなって」
「ああ、まあ、それがいいよな」
明るくなってくる時間帯とはいえ、一人で帰るのは危ないだろう。
「心配してくれてるの?」
「そりゃ、まあ」
「やさしー。でも自分の心配したほうがいいよ? 顔、痣だらけだから」
「あー、うん。さっき顔洗ったときに気づいたよ」
数時間後には出社しなきゃならないのに。同僚への上手い言い訳を考えねば。
まさか正直に『久々に会った同級生に殴られました』と言うわけにはいかないしなあ。
……当たり前のことだけど。
『言い訳』なんてものを考えなきゃいけないくらいには、俺たちの性癖は多くの人には理解されない。
俺も鷺沢も――きっとどんな人も、生まれた環境やふとした出来事で少しずつおかしくなっていく。
その中で幸せになるためには、『自分は普通だ』と言い聞かせるか、鷺沢のようになるか、幸せを諦めるしかない。
俺が選んだのは、一番愚かで無意味な選択肢だったかもしれないけれど。
昨夜ホテルで過ごす中、どれだけ鷺沢の暴力に折れてしまいそうになっても、自分の選択を貫けた自分を。
その場で踏みとどまって、先に進まなかった自分を――今日だけは、少し褒めてやりたいと思った。
……せっかくの童貞を捨てるチャンスをふいにしたのは、まあ、正直、若干惜しくはあるけれど。
「ん……」
駅前のロータリーに差し掛かる。始発にはまだ少し時間があるのか、改札の前でシャッターが開くのを待っている人が何人か見受けられた。
一方鷺沢は、朝から客のためにドアを開けているタクシーに目をやっていた。
「……ここでお別れ、かな」
「……そうだな」
わずかな重さを感じる声に、一瞬、立ち止まる。
……何か言おうか。でも俺が鷺沢へ言うことなんて、今更あるだろうか。
思い悩んでいると、服が突然強く引っ張られた。
「――うわっ!?」
バランスを崩した途端、大きな瞳とばっちり目が合って、直後にやさしく呼吸が塞がれる。
俺の襟首を引っ掴んで、鷺沢が俺に口づけしていた。
思わずぎゅっと目を閉じる。が、しかし、鷺沢はすぐに俺から顔を離した。
「…………ぃ、っ」
思わず自分の口元を触る。自分より少しだけ低い体温の、柔らかい唇の感触だけが残っていた。
おろおろと目を泳がせる俺に、鷺沢は呆れたように苦言を呈する。
「……。キスくらいで今更照れるの?」
「いやっ、そう……じゃ、なくて」
怪訝な顔をする鷺沢に――どうせ耳まで真っ赤なのはお見通しだろう――正直に、理由を告げた。
「……血の味がしないキスなんて、初めてだったから」
鷺沢は一瞬ポカンとしたあと、盛大に笑った。
「…………うふっ、あはは! まったくもう……それは――」
「――可愛そうにね、元気くん!」
******
――あ、勝丸? うん。久しぶり。
――元気でやってる? ……そうなんだ、よかった。……はは、勝丸らしいな。
――……ところでさ、来週の週末って空いてる? 高校の頃の……美術部とか、鷺沢とかのメンツ誘って、飲み会とかどうかなって。
――うん……うん。わかった。
――ところで小柴川先生って今……え? 聞くな? あ、うん。はい。
――……うん。それじゃ、また。
――アッ……どうも、うしじま先輩……廣田です……。先日はどうもご迷惑を……ハイ……。
――あ、はい、帰ってる途中で半ば無理やり……はい……はい…………はい……………………スミマセン……………………。
――と、ところで話変わるんですけど! 今締め切りとかどんな感じですか? ……いや進捗どうですかとかそういうのじゃなくて。
――飲み会開こうと思ってるんですけど、来週の週末って、空いてますか。
――……あ……。
――八千緑さん。わざわざ電話ありがとう。メールでもよかったのに……忙しくなかった?
――うん。うん。そっか。……ありがとう。俺も会えて嬉しかった。……美味しかったよ。また食べに行くから。
――で、来週なんだけど……大丈夫そう? うん、わかった。
――うん。俺も、楽しみにしてるよ。
――あ、励一くん。……その、久しぶり。……うん、廣田元気だけど。
――ごめん、八千緑さんから番号聞いて……。
――……その、来週の週末って空いてる? 色々あったけど、高校の時の知り合い集めて飲み会でもどうかなって……。
――……そっか。まあ、忙しいよね。一応八千緑さんも参加する予定だけど――
――え、来る? あ、うん、はい。それじゃ……。
――もしもし。鷺沢?
――うん。来週の金曜日で決まりそうだけど、どう……行ける? じゃあ――あ、待てって――
「…………切れた」
……まあ、大丈夫だろう。
******
(――やべ、思ったより残業長引いた……!)
(一応幹事なのに遅れるの、申し訳ないな……みんなには先に入っといてって言ってるけど)
(……普段幹事とかしないし、よく考えたらうしじま先輩と励一くんや勝丸は初対面だけど)
(みんな、楽しんでくれてるかな。嫌々来てくれたとかじゃないかな――)
「……っ、着いた……!」
「いらっしゃいませー! お一人様ですか?」
「あ、待ち合わせです――」
「――あっ! 来た来た! 久しぶりー!!」
終わりです。
8巻の最後の飲み会ですが、うしじま先輩と励一&勝丸という初対面の組み合わせがいるので元気くんが幹事として呼んだんだろうなと勝手に思っています。
本当に本当に大好きな作品で、終わってしまったのが心の底から悲しかったのですが、半年ほど経ってようやく気持ちの整理がついたのでこうやって幻覚を形にしました。
作者様もおっしゃっていた通り色んな解釈があると思いますので、あくまでこれは私の解釈(妄想)としての文章ですが、元気くんファンの方に楽しんでいただけたなら幸いです。
古宮先生の次の作品も楽しみにしています。
過去作です
283P「歯医者のタオルってエロくないですか?」
【モバマスSS】志乃「Pさん、本当はお酒苦手なんでしょう?」
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