陛下「聖杯戦争、ですか」 (82)

代理

SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1550061871

 Fate/SN二次創作。UBWルートに似たご都合ルートエンド後。
 このSSの登場人物は全員18歳以上です。

◇◇◇

 一言で言えば、それは宮内庁のミスだった。

 宮内庁陵墓課は、文字通り全国に散らばる900近くもの陵墓を管理する部署であり、同時にこの極東の島国における唯一の公的な魔術・退魔機関の別名でもある。

 ことが起こった時、陵墓課の課長は庁舎の廊下をできる限りの早足で歩いていた。急ぐ理由はひとつ。陛下が自分の部署に足を運ばれたと耳に挟んだからである。

(不味い…)

 今上の陛下は早朝に散歩をされる習慣がある。とはいえ、普段足を向けられるのは自然あふれる御苑の方であり、わざわざ(少なくとも事前通告なく)庁舎に来られることなどありはしなかった。ましてや自分の部署になど!

 どうか自分の机の上を見てくれるな、と男は願った。

 男もこの部署に配属されて長い。つまりは、この国の神秘的な成り立ちについて造詣が深いということだ。

 この国の裏の歴史は、魔とそれを退ける者達との凌ぎ合いの歴史である。退魔を生業とする一族は、それこそ各地に点在している。浅神、巫浄、七夜――彼らは魔を正すことに血道を上げた。上げすぎた、と言ってもいいかもしれない。あの鬼種すらいまや絶滅種だ。

 積極的な退魔など、もはや必要ない。現代に残る混血とて、融和を望んでいるものが大多数だ。反転の危険はあるが、それとて内々に処理されることが多い。

 それこそ、陵墓課のように監視に留めるだけで十分な対応と言えた。たとえ退魔の家々から臆病者の事後処理部隊と言われようとも、だ。

 故に、不味い。

 最悪の予想が現実となれば、落ち着いている魔と退魔のバランスを壊す可能性がある。おまけに今回の件に限れば、"西の連中"も出張ってきかねない。

 冬木という土地は特殊だ。それは紛れもなくこの国の内部であり、しかし古くから外部――西洋に開かれていた土地でもある。

 軽く息を切らせて、男は陵墓課の執務室前にたどり着いた。重厚な黒檀の扉には、厳重な魔力避けの機能が付与されている。

 だからこそ、気づいた。手遅れであることに。

 部屋の中から恐ろしいほどの神秘が垂れ流しになっている。扉の魔力避けは、すでにオーバーフローして意味を失っていた。

 扉の修理予算と事態の推移に、男は退職願を残して失踪したい、という強い誘惑に駆られる。

 だが彼の職務意識がそれを許さなかった。悪魔のささやきになんとか打ち勝つと、いまやただ重くて開けにくいだけになった扉のノブを捻り、部屋に踏み入る。

 予測を裏切るものは何もなかった。部屋の中にいるのは1人の老年男性だ。おそらく齢80は越えているだろう。それなのに、老人からは弱々しさを感じない。

 感じるのは春の日差しの様な温かみと――全てを烏有に帰す、凶悪なまでの陽炎だった。

「陛下、」

「聖杯戦争、ですか」

 先んじて会話のペースを掴もうとした男の発声を、老人の呟きが圧倒する。

 老人の声には力があった。それは有史以来、人が抗えた例のない権能を持った声。神の告言葉。

 不味い、と男は再び胸中で繰り返した。老人――陛下は悲しみ、そしてお怒りであられる。なにより不味いのは、陛下の抱いた怒りの矛先が、陛下自身に向けられているということだった。

「第五次までで、判明しているだけでも被害者の数は四桁以上。第三次に至っては、帝国陸軍までもが加担している、と」

 何故、自分はまとめた報告書を机の上に放置してしまったのだろう――陛下が読み上げている書類束を恨めし気に見つめ、男は過去のうかつさを悔やんだ。

 冬木の聖杯戦争。"西洋の連中"がこの国に持ち込んだ中でも最大規模の魔術儀式。

 読み上げられた通り、あの聖杯戦争では多くの犠牲者が出ている。

 では何故、国の退魔機関である陵墓課が動かなかったのかと言えば、その犠牲が目を瞑れる範囲内で収まっているからだ――収まっていなかった場合、実際に対処できたかどうかは別として。

 魔術協会、聖堂教会という二大組織が監督役を務めている以上、下手に触れば藪をつつくことになりかねない。

 管理者の遠坂家は200年前からこの地を上手く治めている。西洋の術を使う――使うようになった家だが、その点ではこの国寄りの存在だと言えた。

 おまけに第三次では陸軍の暴走があり……とまあ、そういった様々な理由が重なり、結果として冬木の聖杯戦争はこの国にとってもアンタッチャブルとされていたのだ。

 この場合のアンタッチャブルとは、つまるところ陛下の耳に入れてはならない、ということである。何しろ、陛下は犠牲に目を瞑れない。

 堪え性がない、という意味ではない。それは法則だった。終戦の折、彼の大国と結んだ盟約により外に向けて振るわれることを禁じられた陛下の力は、その法則の下に根付いている。

 陛下が聖杯戦争のことを知れば、"慰問"に向かわれることは想像に難くない。

 そして、いまやそれを止めることが出来る者は誰もいないのだった。

◇◇◇

「遠坂、旅行にでも行くのか?」

 と、呑気な声を挙げたのは、機械に疎い凛に代わり、ネットで飛行機のチケット予約を済ませた衛宮士郎である。

 息も絶え絶えの魔術の師にしてパートナー――遠坂凛がセイバーと共に衛宮邸に飛び込んできたのが30分ほど前のこと。

 言われるがまま直近で三人分のエコノミークラスを確保している間に、凛は衛宮邸にある自室からいくつかの私物を持って来たトランクに詰め込んだらしい。

 そして戻ってきた凛に向けて放たれたのが冒頭の言葉である。事情を知らぬとはいえ、何とも呑気なその声音に、凛は心の平衡を維持する為に多大な努力を要した。

 それでも無理やりにっこりと微笑んで――何故か目の前の恋人は顔色を悪くしたが――首を縦に振る。

「ええ。衛宮君も、一緒に行くのよ?」

 ふむ、と士郎は頷く。いくつか疑問はあったが、どうやら目の前のあかいあくまの機嫌は斜めどころか無秩序に大回転しようとしている。慎重にならざるを得ない。

 実を言えば、三人分のチケット、というところで自分が頭数に入っているのは予測できていたのだ。

 行先は倫敦。卒業後、凛は魔術協会の本拠地"時計塔"に行くし、自分も同行することになっていた。パスポートも大河に付き添ってもらい取得している。

(分からないのは)

 士郎は胸中にいくつかの疑問を浮かべていた。まず、どうしてこの時期なのかということ。

 聖杯戦争が終わったのがおよそ一月前。あと数日もすれば学校も始まるという頃合いだ。

 チケットの具体的な日取りは指定されず、ただ直近を、と命じられていた。しかし海外に行くというのなら、ゴールデンウィーク辺りを待つべきではないだろうか?

 凛と共に戻ってきたセイバーを見やる。凛のお下がりであるいつもの平服姿だが、理由が分からないのは彼女も同じらしい。無言で首を振ってくる。

 下手な考え休むに似たり、と士郎は手っ取り早い方法を選んだ。訊ねる。

「なあ、遠坂。なんでそんな急いでるんだ? わざわざこの時期に……下宿の下見とかなら、もっと後でも」

「時計塔には学生寮があるの。入寮手続きなんか何の問題もなくスムーズに行くわよ。そうじゃなくて」

 もどかしげに首を振りながら、凛。

「逃げるのよ。この国から。可能な限り急いで」

「……」

「……」

 セイバーと士郎は互いに顔を見合わせた。無言での意思疎通。お互いに頷き合うと、再び凛に向き直る。

「遠坂、罪は償わないと」

「誰が国外逃亡を企ててる犯罪者よ!?」

 激昂する凛を、士郎はまあまあと両手を挙げて制した。

「まあ、待ってくれ。これは論理的に考えた結果なんだ」

「論理的?」

「ああ。だって遠坂にはセイバーがいるだろ?」

 ちらり、と再び隣に座る騎士王を見る。

 セイバー。アルトリア・ペンドラゴン。聖杯戦争で士郎が召喚したサーヴァント。紆余曲折あって今は凛と契約しており、聖杯戦争終了後も現界を果たしている。

 使い魔としては破格の性能。聖杯からのバックアップが無くなったため十全の力は発揮できないらしいが――

「セイバーに勝てる奴なんてそうはいない。そうでなくても、遠坂は優れた魔術師だ。下手に逃げるよりも、自分の工房で待ち構えた方がいいに決まってる」

「なるほど。それで?」

「ああ。でもそれをしないってことは、遠坂側に負い目があるんじゃないかなって」

「あははは。なるほどねー。良く考えたじゃない。けれど、その論理的な考えとやらにはふたつ欠点があるわ」

「欠点?」

「ええ。まずひとつめはね――あんた達が、私が犯罪に手を染めるような倫理観のない人間だって考えてるのがばれたことよ!」

 般若のような形相を浮かべて詰め寄ってくる凛に、セイバーと士郎は慌てて首を振って見せた。

「ご、誤解です、凛。私達は決して貴女のことをそのようには」

「そ、そうだぞ遠坂。ただ、うっかり魔術の実験に失敗して、協会に睨まれることくらいはあるかなーって思っただけで」

 言い訳を重ねる二人を、凛はしばらく睨みつけていたが、やがて溜息をついて一歩引いた。溜飲が下ったのか、あるいは、こんなくだらない言い争いをしている場合ではないことを思い出したのか。

「二つ目はね。その考え方は、セイバーより強い相手が敵なら成り立たないってことよ」

「……そんな奴いるのか?」

 間を置かれて紡がれた凛の言葉に、士郎は訝しげに眉を動かした。セイバーの力を間近で見てきたのだ。セイバーより強い存在、と言われてもすぐには信じられない。セイバーも似たような反応だ。

「信じられないのも分かるけどね。確かに、こと戦闘力という点において、セイバーは破格の存在よ。特に対魔術師戦闘ではほぼ無敵。クロンの大隊にだって勝てるでしょう」

 クロンの大隊、というのが何を示すのか士郎には分からなかったが、とりあえず流すことにした。無言で頷くことで続きを促す。

「けどね、世の中には例外染みた化け物がごまんといるのよ。衛宮君も、この国にいるなら知っておきなさい」

 そういって、凛はポケットから一枚の封書を取り出した。気品を感じさせる紫色の封筒。だが、奇妙なことに宛名も差出人も書かれていない。

「それは?」

「この国に住んでる魔術師にとって、一番見たくないものよ。今朝、うちのポストに入ってたの」

「何も書いてないじゃないか」

「ええ。けど、紫色の封筒ってだけで差出人は分かるわ。宮内庁の陵墓課よ」

「……宮内庁?」

 さすがに聞き覚えがあった。それは、この国唯一の公家を管理する機関の名前だ。

「なんでそんなとこから?」

「何でも何も、宮内庁陵墓課は現在この国で唯一の公的な神秘を管理する機関よ。知らなかった?」

「そりゃあ、知ってたらこんなに驚いてないぞ……」

 唸るように呟く士郎に、凛は追加で解説を行う。

「この国では色々な退魔機関が発達してきたんだけど、時代と共に大部分は廃れていったのよ。陰陽寮も神社庁も国から離れた。もとから国に属さず独自に退魔を生業にしてる家系も多くあったらしいけど、ほとんど衰退したか、それ以外の稼業で糊口をしのぐようになったのが大多数」

「退魔?」

「この国独自の、魔という歪みを正すって考えを実践する連中のこと。魔としては鬼種が有名だったけど、その退魔の連中に根絶やしにされたらしいわ」

「鬼種って、この国じゃトップレベルにやばいっていう幻想種だろ。それを絶滅させるような強い連中が遠坂を狙ってるのか?」

「いいえ。私だって詳しいわけじゃないけど、退魔っていうのは人を害するのはむしろ苦手。魔と人との混血にさえ後手を踏むらしいし、歪みの修復のみに特化した技術って話よ。陵墓課はその最たるものね。基本的に、彼らは事後処理専門。魔術師がこの国で好き勝手をやっても、実際に彼らが動くのは事態が終わってからになることが多いわ」

「……? じゃあ、どうしてそんなに慌ててるんだ?」

 セイバーでも勝てないような相手なら逃げるしかないかもしれないが、陵墓課とやらはそこまで強敵というわけでもないらしい。

 士郎の質問に、凛は教師のような顔つきで応えた。

「逆に聞くけど、衛宮君。そんな後手後手に回るしかない国が、魔術的な独立を保っていられる理由は何だと思う?」

「独立って、そんな戦争じゃあるまいし」

「あら、魔術師にとって好き勝手に実験出来る土地は魅力的よ? 人的資源、物的資源、霊脈――それらを自由にできるとしたら、この国は協会に睨まれるような非合法な研究をしたい術者にとって楽園みたいな土地よね? けれど、そうそう好き勝手をする無法者は現れない。死徒だってこの国に領地を築こうとはしないわ」

 言われて、士郎は考える。退魔と呼ばれるこの国の神秘に携わる者達は、魔術師にとってさほど脅威ではないらしい。だが、魔術師たちはこの国で好き勝手をしようとしない。その理由。

「――退魔以外に、何か不味いものがある?」

「正解。衛宮君、やるじゃない」

「先生が良いからな――でも、分からないことがあるぞ。遠坂が貰ったその手紙は、陵墓課からのものなんだろう?」

 凛が手にしたままの封書を指さして、士郎。

「それじゃあ結局、遠坂を狙っているのは陵墓課なんじゃないのか?」

「これが宣戦布告の手紙だったら、そうね――けど、違うの。これはね、一刻も早くこの国から逃げてくださいっていう嘆願書」

「嘆願書……?」

「実質的なね。向こうは警告文っていうでしょうし、書き方もそうなってるけど。けど、彼らは私に戦わずに逃げて欲しいと思ってる」

「セイバーがいるからか?」

「いいえ、仮に私がセイバーと契約してなかったとしても同じだったでしょうね。彼らは、彼らの"主"が力を振るうことを何よりも避けたがっているのよ」

「……待ってくれ、遠坂。主? 宮内庁の?」

 宮内庁。

 この国に残された、”唯一の公家"を管理する機関。

 その主とは、つまり。

「分かったみたいね。そう、天照大神の直系。現代における最高の伝承保菌者。三種の神器を伝える皇家――敵はこの国の神秘の根源を背負う化け物よ」

「……ということは」

 いままで二人の会話を静観していたセイバーが入ってくる。

「この国の王が相手である、と? 聖杯から得た知識の中にはありませんが」

「いや、王様ってわけじゃ……いまはただの象徴だし。というか、遠坂。悪い、かなり混乱してる。あれって、本当にそんな無茶苦茶なものなのか?」

「何よ、表沙汰になってる歴史だけ見ても分かるでしょ。あの家系は西暦以前から続く、本物の神様の直系よ? 単純な"古さ"ならあの血筋を凌ぐ保菌者もいるけど、"強度"に関しては間違いなく世界一――」

「いや、まずそこから分からないんだ。確かに神様の血を引いてるなら色々な力を得られるんだろうけど……」

 士郎の脳裏によぎるのは聖杯戦争で干戈を交えた数々のサーヴァントだった。ランサー、バーサーカー、金色のアーチャー。神性を帯びた存在は、それだけで高いステータスを得ることができる。

「でも血の濃さは世代を重ねるごとに薄まっていくだろ? 源平や南北朝でのごたごたもあったし、確か三種の神器の内、剣は海に沈んだっきりで今あるのは作り直されたものだった筈だ」

 あの家が伝える神器――剣、玉、鏡。それぞれの縁起はまさしく一級の宝具として相応しいものだが、そもそも真作が現存しているのかという点では疑問が残る。

 だが士郎の疑問に、凛は問題にもならないという風に手を振って見せた。

「形代、って言葉は知ってる?」

「知ってるぞ。代用物を使った憑代のことだろ? 投影魔術も本来はそういうのに使う術だって聞いた」

 わかりやすいのが人柱だ。時代が進むにつれ、それまで容認されていた生贄を紙や木で出来た人形で代用するようになった。

「じゃ、それが答えよ」

「……端折りすぎて訳が分からないぞ、遠坂」

 つまりね、と前置きしてから凛が語る。

「三種の神器については簡単な話。そもそも紛失したものからして形代――本物の代用物として作られた模造品だったってだけのことよ」

「それはおかしくないか? 必要がないのに模造品を作るなんて」

 神器はあの家の象徴でもあり、継承をすることが正式な皇として認められる要素のひとつだった。

 だからこそ、南北朝でその真偽が取り正され、争いのタネのひとつになったのだ。

「必要ならあったのよ。南北朝で争われたのは、"本物の形代"かどうかって話だし。真作は、常にその時代の皇が所持していたの」

「……? どういうことだ? 遠坂の言い方じゃ、南北朝の他に第三の皇がいたように聞こえるぞ。おまけに、まるでそっちが本物みたいな……」

「その通り。言ったでしょ、全部"形代"って言葉で説明がつくって。そもそも衛宮君が頭の中で想像している公家自体が"形代"なのよ。正確な年代は分からないけど、あの家は分化したの。政を取り仕切る形代としての表の家と、神秘の継承を担う裏の家にね。神器も本物を裏が、形代を表が奉った。そして、その仕組みは現代まで続いている」

「血の濃さは?」

「そんなの、いくらだって保つ方法はあるでしょう? というか、古事記なんかでは目白押しじゃない。それを表沙汰に出来なかったからこそ家を分けたんじゃないかしら」

「……頭が痛くなってきた」

 何ということもない、という様子の凛とは逆に、士郎は頭を抱えてため息をついた。

「凛。しかし、私にも解せないことがあります」

 頭の中でいままでの常識との折り合いを付けようとしている士郎をよそに、セイバーが質問役を引き取る。

「彼我の戦力差についてはひとまず置いておきましょう。しかしそもそも、どうしてその公家とやらが凛を狙うのですか?」

「それは、」

(……? 遠坂、少しだけ言い淀んだ?)

 師でありパートナーである少女の常とは異なる間の取り方に、士郎は一瞬だけ疑問を持つ。

 だが、所詮は一瞬のことだった。凛はすぐにいつもと同じ堂々とした雰囲気を纏い直す。

「聖杯戦争のせいね。今回の被害が向こうの目に留まったんでしょう。遠坂は御三家のひとつだし」

「すでに冬木の聖杯戦争は五度目になります。被害の程度でいえば、前回起きた大火災の方が凄惨だ。何故、今更?」

「詳しいことは私も分からないけど、陵墓課はあの家系が力を振るうことに否定的なのよ。この国にとって、あれは核の傘のようなものだった。程度を過ぎれば、抗いようのない最終措置がとられるっていうね。けれど、皇その人は被害を知ってしまえば動かざるを得ないという性質を持っている。だから、陵墓課の主な仕事は"事後処理"……被害を公家に対し露呈させないことだったんだけど――」

「今回に限って、それが失敗した、と?」

「そういうことなんでしょうね。綺礼の奴があんなことになったし、教会の隠蔽にも隙があった。その影響があるのかもしれない」

 とにかく、と凛は話を締めくくった。パソコンの画面に表示されているチケットの時間を一瞥すると、ポケット時刻表を取り出し、空港までの足の算段をつけながら。

「敵の目的は明白――聖杯戦争が二度とこの国で起きないようにすること。術式の解体、並びにその関係者への"対処"よ」

◇◇◇

 間桐慎二は病院のベッドに寝転がりながら天井を見つめていた。

 一月前に終結した聖杯戦争。その中で我が身に降りかかった災厄は思い出したくもないほど碌でもないものだったが、それでもこうして生きている。

 さすがに無傷とはいかなかった為、未だにベッドから起き上がれずにいたが――それでも五体満足で、いずれは元の様に動けるというのは破格の幸運なのだろう。

 目下、慎二にとって一番の問題はいまのような空白の時間だった。

 個室故に話をする相手はおらず、窓から見える風景も退屈を癒してはくれない。

 体はまだ満足に動かない為、部屋の外に一人で行くこともできないとなれば、慎二にとってこの時間はほぼ拷問に近いものだった。

「桜、早く来ないかな……」

 必然、慎二の意識は、ほぼ毎日のように見舞いに来てくれる少女に向けられる。

 間桐桜。血の繋がらない、慎二の妹。

 彼女には酷いことをたくさんしてしまったと、慎二は後悔している。かつては、自分が彼女を虐げるのは当然だと思っていた。マキリの業を、自分が受け継ぐはずだった魔術をよこから掠め取った女。自分に魔術の才能がないことからは目を逸らし、全ての彼女の責と逆恨みしていた。

 だが『この世全ての悪』に一度沈み、慎二は魔術への執着を失った。あんなものは、もう欲しいとも思えない。彼の性格を歪めていたコンプレックスの大元が取り除かれたのだ。故に、彼は間桐桜に対し、罪悪感のようなものを芽生えさせていた。

 もっとも未だ本人へ素直に謝罪ができないでいるのは、間桐慎二が間桐慎二である所以であったが。

 思考を断ち切る様に、がらり、と音を立ててスライド式の扉が開く。

 回診の時間ではない。ならば――と、慎二は喜色を胸の内に秘めて視線を向けるが、そこにいたのは桜ではなく、さらにいうなら既知の人物ですらなかった。

 そこに立っていたのはひとりの老人だ。齢は80を超えているだろう。仕立てのよいスーツに小柄な体を包み、花束を手にしていた。

 老人はためらうことなく、部屋に足を踏み入れた。背後でスライド式のドアが閉まり、外界と隔絶される。

「間桐、慎二さんですね」

「……そう、だけど」

 病室を間違えた、というわけではないらしい。老人は慎二の名前を呼んだ。

 老人とはいえ、見知らぬ男が病室に入ってきている。しかも、こちらは体を満足に動かせない。

 そんな状況でも、咄嗟に慎二が誰何の声を発しなかったのは、目の前の老人に対して、ある種異様なまでに敵意の類を抱けなかったからだ。

 老人の放つ雰囲気は、柔らかい春の日差しそのものだった。傍にいるだけで、気分が落ち着く。そんな奇妙なカリスマ性を感じさせる。

 そうして慎二が対応しあぐねている内に、老人はベッドの脇にまで歩みを進めていた。花束をサイドチェストに一度置くと、その場でゆっくりと一礼する。どれも、気品を感じさせるような動きだ。

「御無事で、本当に幸いでした。私は貴方を守るべき立場にありながら、貴方を助けて差し上げられなかった」

「……お爺様の、知り合いか何か?」

「いいえ。重ね重ね失礼を。名乗るべきなのでしょうが、しかし、我々は"表"とは違い個人の名前を持ちません――対外的には、スメラギ、と呼ばれることが多いのですが」

 スメラギを名乗る老人は、そう言ってベッドの上に投げ出されていた慎二の手を取った。見知らぬ男に手を握られるという、ともすれば怖気すら抱く出来事に、しかし慎二は動けない。肉体の損傷が問題なのではない。スメラギ氏がそうすることに、違和感を覚えられなかった。

「――そして、謝罪致します。せめて、これからの旅路が苦しみ無きものでありますよう……」

 次の瞬間、慎二の意識は途絶えた。

 最後に慎二が感じたのは、老人の手から伝わる膨大な熱量だった。聖杯など、『この世全ての悪』など、何の問題にもならない熱と神秘。

 この老人は、体の中に太陽を持っている。
 
 その事実を理解するよりも前に、熱は慎二の身体を余すことなく包み込み、その役割を終えていた。

「……安らかに、お眠り下さい」

 スメラギは呟き、花をベッドの上に置き直す。

 その時、病室の扉が控えめなノックされ、続けて少女の声が扉越しに響き渡った。

「兄さん、起きてますか?」

 当然、返事はない。だから、間桐桜は扉を開けた。同時、スメラギも振り返る。

「え、あの……」

 見覚えのない人物が部屋の中にいたことへの戸惑いに、桜の表情が一瞬だけ混乱する。

 そう、一瞬だけ。その次に浮かんだのは、呆然と疑念を足して二で割ったような表情。その原因は、目の前の老人の背後にある兄の現状を目にした為。

「兄さん……?」

「間桐、桜さんですね」

 スメラギは迷うことなく、再び歩みを進めた。必要なことをする為に。己が勤めを果たすために。

 聖杯に飲まれた少年と、聖杯の欠片を宿す少女。両者への対処を終わらせるために。

◇◇◇

 桜が死んだ。

 間桐臓硯はその事実の前に、己が願望を果たす為の道が閉ざされていく感覚を覚えていた。

 桜の身体に仕込んでいた刻印蟲は、その全てが一瞬で焼き尽くされた。状況を細かく検分する暇すら与えられなかったが、逆にそれが下手人を特定することになる。噂に違わぬ神秘の暴威。間違いなく、奴の仕業だ。

 臓硯は手の中にある紫色の封筒を見やる。今朝届いた、陵墓課からの手紙。儀式を放棄し、早急にこの国より退去せよとの訴状。

 陵墓課は腰抜け揃いだが、全国各地に拠点と人員を配置している。国内に限り、その情報収集能力は間違いなく一流だ。桜に聖杯の欠片を埋め込んだことも知られているのだろう。それ故の"対処"。

 この国に来た時から、『皇(スメラギ)』という脅威は知っていた。この国の神秘に纏わる最終安全装置。それが発動すれば、一切の容赦呵責なく狼藉者は死ぬと。

 その対象に冬木の聖杯戦争が選ばれるなど、夢にも思わなかった。そもそも、最初はここまで大規模なものではなかったし、近年では聖堂教会による隠蔽の為の介入もあったのだ。

 だから大丈夫だろうと――思っていたのは、甘かったと言わざるを得ないだろうが。

「……慎二も小聖杯を埋め込まれ、歪とは言え器となっていた。無事ではあるまいな……」

 そして、次は自分の番という訳だ――臓硯のいる蟲蔵。その天井の向こうから、迎撃に差し向けた蟲群の悲鳴が響いていた。

 病院で"処理"を終えてからすぐここへ向かったのだろう。臓硯が準備らしい準備をする間もなく、皇は間桐邸の前に姿を現し、そして進撃を開始していた。

 間桐邸は臓硯の工房だ。仮に一流の魔術師であっても、足を踏み入れれば生還叶わぬ死地となろう。

 だが、皇は問題なく歩みを続けている。大量の凶悪な蟲たちは、文字通り足止めにもならないらしい。

 いつの間にか臓硯の口からは、震えるような呟きが漏れ出していた。

「嫌じゃ……死にとうない……儂は、まだ、死しにとうない……!」

 だが台詞と裏腹に、彼の身体は具体的な行動を起こそうとしない。

 何をすべきか、何をすればいいのか思いつけなかった。おぞましいほどの神秘の重圧が頭上から降ってくる。既に生き埋めにされたも同然の現状。

 臓硯は薄暗い蔵の片隅で、着実に近づいてくる"死"に対し、震え続けることしかできない。

 ――そして、その"死"はこともなげに臓硯のもとに辿り着いた。

「マキリ・ゾォルケンですね」

 固く閉ざしていた蟲蔵の扉が、溶けるように消えた。ジュッ、という水っぽい音は、それが地上では本来有り得ぬほどの高温で蒸発したことを示唆している。

 蔵に光が差し込む。その光輝を連れ立つように、皇は蟲蔵の底へ続く階段を一歩一歩、踏みしめるようにゆっくりと降りてきた。

「聖杯を諦めると、ここに誓ってください。さすれば命までは取りません」

R版に立て逃げしておいて、何さらっとこっちで書いとんねんこの荒らし

 だが、臓硯にとってそれは命を諦めることと同義だ。

 だからこそ、臓硯は逃げられなかった。冬木から離れられなかった。

 聖杯による不老不死が達成できないならば、もはやこの肉体は、魂はこれ以上連続することに耐えられない。

「それと、起動式の場所も。この地の霊脈ごと轢断するのはいささか乱暴すぎるでしょう」

 それでも、この男の前に立つよりはましだったのかもしれない。

 こうして実際に見る皇は、臓硯ほどではないにしても小柄と形容されるだろう。

 だが、その矮躯から放たれる神秘の圧は、人が発してよいものではない。臓硯は都合5度、聖杯戦争を見てきたが、これまでに呼び出されてきた英霊の中にさえ、ここまで圧倒的なものはいなかった。

 "敵わない"。

 それは勝てないということではない。負けぬことができないのではない。その程度なら、英霊如きにさえこの身は届かない。

 敵わぬというのは、あらゆる希望が叶わないということ――完全な運命の遮断である。この男を前にしては、いかなる希望も抱けない。

 いつの間にか、恐怖から来る体の震えは止まっていた。恐怖とは、不明から来る感情だ。『どうなるか分からない』から怖いのであって、はっきりと未来が分かるのであれば恐怖はない。

 間桐臓硯の死は、ここに確定した。

 求め続けていた不老不死は、もう手に入らない。

(儂は――)

 臓硯はゆっくりと立ち上がった。返答を待ち続ける皇に、相対する。

 皇は凄むこともしない。ただ静かにこちらを見据えている。臓硯もまた、揺れぬ眼を向けた。

「大聖杯を、砕くつもりか」

「ええ。かの儀式で、我が民を傷つけぬようにするには元を断たねばなりません。起動式、ならびにそれを再現できる者達。その全てに適切な処置を行います」

「やはり、か。では……儂に出来る返事はこれだけじゃのう」

 呟いて、臓硯はその場に跪いた。交差させるように重ねた両手を床に置き、その上から額を擦りつけるように頭をさげる。

>>11
マジで? ごめん、何か間違ったっぽいな。そっちはあとで消去依頼出しとくわ

「――断る、と」

 冷たい石で出来た床材のひとつを押し込む。連動して組み変わった石材が魔法陣を形成した。

「перебiй(停止)」

 久しく口にしていなかった故郷の言葉を紡ぎ、ゾォルケンとしての魔術を行使する。普段は蟲の制御に魔力を費やしているが、過去の術を忘れたわけではない。ましてや、ここはマキリの工房だ。

 限定結界内にいる者へ令呪級の強制力を課す束縛の魔術。その性質は、臓硯の造り上げた令呪と同じく瞬間的な単一の命令であるほどに効果が高まるというものだ。

 故に、命じたのは一瞬の停止。更に機を合わせ、攻撃可能な全ての虫たちを投入した。

 数千の虫が部屋の中央にいた皇に殺到する。一匹一匹はさほどの脅威でもないが、多いということはそれだけで強みだ。魔蟲達は並大抵の守りなら突破して敵に喰らいつく。この状況なら、サーヴァントとて殺せる自信が臓硯にはあった。

 皇の姿は消えた。目の前にあるのは、蟲にたかられた人型だ。表面で蠢くおぞましい生命体が、内部に対して攻撃を続けているのが分かる。

(――攻撃を続けている、か)

 ゆっくりと床から立ち上がりながら、臓硯は口元に皮肉気な笑みを浮かべた。猛牛すら五秒以内に喰らい尽くす蟲たちの前に、人体程度の質量など一瞬で蟲の胃に収まるだろう。ならば、それがまだ続いているということは、

「……それほどまでに、聖杯が欲しいのですか」

 予想していた声が、蟲柱の中から聞こえる。次いで、目が眩むような光が蟲蔵を満たした。

 観測できるほどの経過は発生せず、ただ結果のみが臓硯の目の前に現れる。即ち、一瞬で残骸すら残さず消失した蟲柱の跡から、無傷の皇が。

「そのような身に成り果ててまで、何を願うのです?」

「不老不死――で、あったよ。貴様がここに来るまではな」

「いまは違うと?」

「貴様を前にして、死なずに済むと夢想できるほど子供ではなくてなぁ」

 そう。いまや不老不死という宿願は、臓硯から失われた。取り上げられた。剥がれ落ちた。

 故に――妄執によって魂の底におしこめられていた、本来の願いが浮上する。

「ひとつだけ礼を言っておこうかの。貴様がそこまで圧倒的であってくれたおかげで、儂は不老不死の先に求めたものを思い出せた」

 先ほど皇は言った。大聖杯を砕くと。それはつまり、かの貴き冬の聖女を砕くということ。

 ならば――この身は勝てぬ敵にすら立ち向かわなくてはならない。

 曲がっていた腰がすっくと伸びた。皺だらけだった肌が、空気でも入れたように充実する。

「――彼女を守る為に戦って死ねるというのなら、それはこの"私"にとって望外の結末だろう」

 呟いて、かつての姿を思い出したマキリ・ゾォルケンは、握っていた杖をレイピアのように構えた。

 相性は最悪だ。敵は光熱を操りし太陽の化身たる天照大神の直系。我が魔導の結実たる蟲は役に立たない。故に、マキリは命じた。

 蟲達が杖に群がり、そして自ら自壊する。汚らしい体液を撒き散らし――そしてその毒々しい液体は、やがて杖を覆い毒液の刃を形成した。

 マキリの属性は水だ。これで敵の熱にどこまで抗えるかは未知数だが、どの道これ以上のものは用意できない。

 皇はこちらの動きを待つかのように、無言でその場から動かなかった。慢心か、あるいは――

 どの道、先手を譲るつもりは無い。思考を打ち切り、マキリは死道を往く為、裂帛の気合いを吐いた。

「受けよ、我が五百年!」

 全力で踏み込み、突き出すは杖剣。この杖とて、マキリと同じだけを生きた業物のひとつ。楢に寄生したヤドリギの中から更に肥大したものを選別し寄り合せたもの。ひとたび敵を打てば根こそぎにオドを吸収し干からびさせる必殺の限定礼装である。

 だが、敵の領域に触れた瞬間、マキリは未だ敵の底を見通せていなかったことに気づかされた。

 敵を貫かんと突き出した杖は、当然の如く皇に届いていない。ここまではマキリも予想していた。されど、それは何らかの手段――先ほどまで見せていた暴力的な熱波等による障壁に阻まれるものだと予想していたのだ。

 杖の先は届いていない。ただ、届いていない。目測を誤った、という無様はない。何故なら、確かに踏み込んだ分の距離すらも縮まっていなかった。

 まるでマキリが踏み込んだ分だけ、皇が下がったようにも見える形。だが、両者の位置は最初から一切動いていないという矛盾。

(これは――)

 先を考えるよりも早く、いつの間にか掲げられていた皇の手が輝いた。

 マキリの頭と心臓にそれぞれ一発ずつ、不可視の何かによって風穴が空く。さらに続けて放たれる熱波が一閃し、それで500年を生きた魔術師の肉体は一欠けらも残らずに蒸発した。

 皇は掲げていた手を降ろすと、溜息をひとつついた。表情にははっきりとした憂いが浮かんでいる。責務とはいえ、命を奪うのは辛い――

>>13
すまん、そういやバグであっちに立つ事があるの失念しとった
荒らし呼ばわりしてご免なさい

 ――などと、思っているのなら。

(私はその慢心に、容赦なく付け込ませて貰おう)

 マキリは音もなく天井を蹴った。肉体を失った為、それは当然彼の"本体"である。

 皇の頭上より無音で迫るそれは、人の頭部ほどもある、蛞蝓のような質感を滲ませる化け物だった。マキリ・ゾォルケンの魂を現世に留める頸木である。

 自分が何を用意しようが、皇の防御を貫くことは不可能。

 ならば話は簡単だ。相手に自ら防御を解かせればいいだけのこと。

 愛と理想を叫べば勝利を呼び寄せられる、などという青臭い信仰を抱けるほど、マキリは若くなかった。全ては先ほどの一撃を、信念すら掛けた乾坤一擲と信じ込ませる為のブラフ。

 魂蟲から剥離するように一条の触手が伸びた。その先には人の小指よりも小さな、武器というにはあまりにも頼りない鉤爪。もとより戦闘用に設計された蟲ではない。だが、それで十分。狙いは首の頸動脈。一寸斬り込めば人は死ぬのだ。

 無音で触手が振るわれる。勝利を確信させた後の、完璧な奇襲。これに対応できる筈はない。

 一閃。

 凶器の威力は、余さずに発揮された。標的が真っ二つに両断され、蟲蔵の床に転がる。

(……ハ。やはり、こうなる定めか)

 別たれたマキリの本体は、感覚器のひとつで皇の姿を見ていた。いつの間にか、相手はその手に一振りの剣を握っている。紛うことなき三種の神器がひとつ。神代に造られ、現代にまで継承される神造兵装。それが、この身を両断したものの正体だった。

「――お見事でした、マキリ・ゾォルケン。歴代の皇が敵と見定めた者の中でも、最後まで抗うことを止めなかった魔術師は多くない。そして、我が身に届き得た者も」

 皇の額からは一筋の血が流れていた。マキリの触手が、両断されてなお振るわれ、掠めた傷だ。

 だが、当然ながら死にゆくマキリにとってそれは慰めになり得ない。

(呵呵――何が見事なものか。最後の奇襲には、ハナから気づいていたであろうに)

 咄嗟に気づいたのならば、準備の必要ない光熱波での迎撃になるだろう。わざわざ神剣を取り出してまで振るったのは、皇がこれから殺す相手を憐れんだからに他ならない。

(まったく、業腹よ。だがひとつ、意趣返しをしてやれた。そして救いもある……ユスティーツァ、我らは、共に……)

 それが、常世総ての悪を敷こうと決意し、五百年を生きた老魔術師の最期の思考だった。

「……」

 相手が完全に息絶えたのを確認してから、皇は左の人差し指の先で、額に付けられた傷をなぞる。まるで修正テープを使って文字を消すように、なぞった傍から傷は消え、健康な色の肌が残った。

 そうしながら、周囲を見やる。蔵に残された蟲達は、主を殺した怨敵を逃す気はないようだった。キィキィと耳障りな声を上げている。

 どの道、魔術師の制御を離れた使い魔を放っておくという選択肢は無かった。右手に握った神剣を意識しながら、言霊を紡ぐ。

「―― 一匹たりとも逃すことはできない。ならば、燃やすしかありませんか」

 口にした瞬間、蟲蔵を紅蓮が満たした。先ほどまで皇が放っていた光熱とは違う、荒々しいまでの炎。岩を溶かすほどの熱量が荒れ狂う。

 同時に、皇の姿はその場から消えた。後には炎に巻かれて断末魔を挙げる蟲の声だけが残る。

 ――仮に、その場に魔術師がいれば、一連の現象に目を丸くしただろう。

 炎。空間転移。文字にすればそれだけの現象。だが、カテゴリが違う。

 "それ"は魔術では無かった。"それ"は今の時代にあってはならないものだった。

 何故、この国が魔術的なアンタッチャブルとされているか――その端的な解答であった。

 かくして、マキリへの対処は終わった。既にアインツベルンは郊外の城を結界ごと根こそぎにしてある。外国に本拠を持つ彼の家に対し、根本的な処置にはなるまいが、それでも警告の代わり程度の役割は果たすだろう。

 残る御三家はあとひとつ。この地を管理する役目を持っていた遠坂家。

◇◇◇

 藤村大河からの電話が衛宮邸の静寂を破ったのは、士郎がちょうどスポーツバッグに最低限の荷物を詰め込んだ時だった。

 何しろ帰ってこられるかは未知数だ。電気水道ガスなどのライフラインの停止については、時間もないので向こうに着いてから各機関に電話しようと士郎は思っていたが、その他にも戸締りなどやっておくことは色々とある。

 けたたましく鳴り響くベルの音に、士郎はバッグを片手に自室から小走りで廊下にでた。途中、居間で士郎の準備を待っている凛とセイバーの姿が目に入る。凛はちゃぶ台の上で、何やら手紙のようなものを書いていた。霊地管理に関しては、後任の神父に丸投げするつもりらしい。この騒動の後、霊脈が無事ならばの話だが。

 受話器を取って、耳に当てる。いま思えば無視してしまっても良かったように思うが、結果的にここで電話を受けたことが命運を分けたのかもしれない。

「はい、衛宮で」

『士郎!? 桜ちゃんそっちにいる!?』

 電話機が爆発したのかと思うほどな規格外の音量に、士郎は顔をしかめて一度受話器を離した。一呼吸置いて、再び耳を近づける。

「藤ねえか。なんだよ、そんな声出して」

『だから! 桜ちゃん! いる!?』

「桜? 桜なら、今日は来てないぞ」

 壁掛け時計を見ると、時刻は昼下がり。そう言えば昼飯を食い損ねたな、と思いながら答える。

「確か、今日は弓道部にでるって話しだったけど、そっちに行ってないのか?」

『練習は午前だけだったから、お昼前には帰っちゃったの――って、そうじゃなくて! じゃあ、桜ちゃんがいまどこにいるのか知らないの!?』

「知らない。家にはもう掛けたのか?」

 士郎の台詞に、大河が沈黙を挟んだ。話すかどうか、決めあぐねている。そんな雰囲気。

「藤ねえ?」

『……あのね、落ち着いて聞いてね、士郎』

 電話の向こうで、すぅ、はぁ、と一度大きく深呼吸する音が聞こえた。

 自分もしておくべきだったのだろう。次に大河が発する言葉を聞いて、士郎は心臓を重く殴りつけられた心地を味わうことになった。

『桜ちゃんのお家が、燃えてるの』

「……え?」

『火事みたいなの! うちの若い子が桜ちゃんの家の近くに住んでるんだけど、連絡があって! 消防車は呼んだんだけど、中から誰も避難してきた様子が無くて、火勢が強くて助けにも入れないって――!』

「お、落ち着け。落ち着け、藤ねえ」

 どんどんまくし立てるような声音になっていく大河に、士郎は宥めるように声を掛けた。だが、その声すら上ずっている。

 ただならぬ様子を感じ取ったのか、凛とセイバーも居間から出てきていた。士郎にそれを認識する余裕は無かったが。

「桜が巻き込まれた、って決まったわけじゃないだろう。どこかに出かけてるだけかも知れない。ほら、同級生の友達とかと一緒に」

『桜ちゃん、友達いないじゃない!』

「い、いないわけじゃないだろ!」

 動揺しているせいか、二人ともどことなく失礼な物言いになってしまったが、確かに桜はどちらかと言えば内向的な部類に入る。交友関係は広いとは言い難く、休日や放課後は大抵衛宮邸で過ごしていた。

「そ、そうだ。慎二は? 慎二の見舞いじゃないのか? この頃はほとんど毎日行ってただろう」

『それが、そっちにも電話したんだけど……変なのよ。もう退院しました、って』

「いや、それはおかしいだろ。慎二はまだ当分動けない状態だった筈だぞ」

『私だって変だと思ってるわよ。ねえ、士郎。こっちはこれから病院に行って来るけど、そっちも心当たりがあったらあたってみてくれる?』

「ああ、分かった」

「藤村先生から? 間桐さんがどうかしたの?」

 受話器を置くのと、ほとんど同時に凛が声を掛けてくる。

 同時、凛の顔を見ることで、二つの点が繋がった。間桐邸の火事。凛を狙っているという皇は、正確には聖杯戦争の関係者を狙っているということ。

「遠坂、桜の家が火事らしい。これって、そういうことか?」

 士郎の言葉に、凛の顔が目に見えて分かるほど青くなるのが分かった。咄嗟に右手を壁について転倒を防ごうとするまでに。

「凛!」

「遠坂!?」

 咄嗟に二人が手を伸ばして支えようとするが、凛は気丈にもこれを手を振って断った。冷静になろうとしているのか、ぶつぶつと小声で自問自答するように呟いてる。

「……迂闊だった。狙われるのは臓硯、最悪慎二までだと思ってたけど……まさかまとめてってこと? でも……」

「やっぱり、例の?」

「……そうね。間桐の屋敷がただの失火で火事になるなんてことないわ。このタイミングで別件、ってことはないでしょう」

 凛の言葉に、瞬時に士郎の頭は沸騰した。桜。妹のような存在。衛宮士郎にとっての、日常の象徴。

 次に出た台詞は、思わず大きな声になってしまう。

「桜は……桜は関係ないだろう!?」

「私だってそう思ってたわよ! 聖杯に繋がった慎二はともかく、桜までは対象にならないって!」

 凛も同様の想いだった。士郎の誰へでもない問いかけを切り捨てるように、鋭く叫ぶ。

「慎二……そういえば、慎二にも連絡がつかないらしい。病院にはもういないって……でも、あいつはまだ満足に歩けない状態だった筈だ」

 それが意味することは、何か。

 同じ沈黙を共有する二人に、セイバーが声を上げた。

「凛、シロウ。ここで言い争っていても、二人の安否は分からない。確実なのは、どうやら敵が既にこの地にまで侵攻しているということ。道は二つ。敵に接触する危険を冒しても桜達の状況を確かめにいくか、それとも今すぐに冬木を離れるかです」

「……俺は、二人のことを確かめに行きたい。もしかしたら、桜が慎二を連れて逃げてる可能性はある。なら、助けないと」

「……そうね。ここで言い合っていても仕方ないわ。どの道、追いつかれてるっていうんなら逃げ切れる保証はない」

 意見は一致した。二人の瞳の中には不安と、そして怒りがある。間桐桜。士郎は加えて慎二も。二人を理不尽にも奪われたかもしれないという怒りが。

「でも、もしも接敵してしまったのなら、覚悟を決めなきゃならないわ。衛宮君、貴方だけなら逃げられると思うけど――」

「まさか。分かってて言ってるだろう、遠坂」

「一応ね。あんたが何て言うかなんて分かりきってたわ、士郎」

 通じ合うもの同士に共有される、不敵な笑みが交わされる。

 その横で、玄関の扉が開いた。

「はー、よっこらしょっと。ちょっと買いすぎちゃ……きゃっ、せ、せせせ、先輩! あわわ、遠坂先輩も!? い、いまの聞いてましたか!? ませんね!?」

 なんて、聞き覚えが有りすぎる、そしてこの雰囲気を轢断する少女の声。

 ばっ、とセイバーを含めた三人がそちらに顔を向ける。

 そこには話題の間桐桜がいた。商店街で買って来たらしい食材などが入ったビニール袋を片手に、なにやら右往左往している。

 士郎と凛の思考は、確かに一瞬停止した。

 そして、復帰する。復帰後の行動は、やはり同じものだった。

「桜っ」

 同時に叫び、同時に駆け出し、そして同時に玄関の少女を抱きしめる。

「ひゃあっ」

「桜……良かった、無事だったんだな」

「ほら、言ったでしょ。この子は大丈夫だって……怪我が無くて良かったわ、……間桐さん」

「あ、あの、これはどういうことなんでしょう……ちょっと苦しいです……」

 桜の言葉に、二人はぱっと離れた。何となしに漏れてしまった言葉だったのだろう。桜の方が、あ……、と名残惜しそうな表情を一瞬浮かべる。

 だが、安堵に包まれる士郎と凛はそれに気づかない。例外は二人の後ろで暖かい視線を向けているセイバーくらいのものだろう。

 士郎はほっと息を吐きながら、改めて後輩の無事を確かめた。

「本当に良かった、桜……家にも病院にもいなかったんだな」

「え? あの、それはどういう……」

 戸惑いの表情を浮かべる桜を遮る様に、凛が言葉を重ねる。

「間桐さん、落ち着いて聞いてね。慎二は死んだわ。でも、こればっかりはどうしようもないの。しょうがない奴だったししょうがないわよね? 野良犬に噛まれたと思って諦めて頂戴」

「遠坂! さすがにそれは言いすぎだ! 確かに慎二はたまにちょっとどうかと思うところもあったけど、それでも根は良い奴だったんだ!」

「どこがよ。良い点を言ってみなさいよ」

「分かった。五分くれ」

「いや、そこは即答しろよ!」

 と、ツッコミを入れたのは、桜に続いて玄関をくぐった間桐慎二その人だった。

 桜の肩ごしに二人が見やると、どうやら幽霊でもないらしい。桜と同様のビニール袋を両手に持ち、二つの足でしっかりと地面を踏み、肩を怒らせてずかずかと上り込んでくる。

「慎二!? 生きてたのか!」

「当たり前だろ。勝手に僕を殺すなよ。特に遠坂」

 慎二は凛を睨みつけるが、当の彼女はどうでも良さそうに枝毛など探していた。その様子を見て、さらに慎二の表情が引き攣るが、士郎が取り成すように間に入る。

「藤ねえが連絡がつかないって心配してたんだ……慎二、家のことは知ってるか?」

「藤村が? 家……?」

 しばらく考え込むと、慎二は顔を上げた。にやりと得意そうに笑い、

「火事にでもなってた?」

「慎二……どうして……」

 唖然とする士郎に、慎二は更に笑みを深めた。この名推理に驚いているのだろうと気分を良くしたのだ。

「ふふん、初歩的なことだぜ衛宮。まず、」

「放火は重罪なんだぞ、慎二……」

「僕が燃やしたんじゃないよ!」

 絶叫しながら掴みかかってくる慎二。病み上がりとは思えないその力強さに、士郎は今度こそ驚愕を浮かべた。

「うわ、ちょっ、待て待て……っていうか、何でそんなに動けるんだ。退院はもっと後って話だったろ?」

「……まあいいや。僕の身体は治してもらったんだよ。その様子だと、そっちにも話は伝わってるんじゃないのか?」

「どの話だ? それに、治してもらったって……」

「だから"陛下"の話さ。僕の身体を治したのも、たぶんお爺様ごと家を焼いたのもあの人だよ」

「陛下って……会ったのか!?」

 目を丸くする士郎に、慎二は今度こそ得意げに胸を逸らし、ふんぞり返って命令した。

「話してやってもいいけど、ずっと入院生活だったから点滴ばっかりで、碌なもの口にしてなくてさ――料理、できるんだろ? ちょっと遅いけど、何か食べさせろよ」

 戸惑いの表情を浮かべる桜を遮る様に、凛が言葉を重ねる。

「間桐さん、落ち着いて聞いてね。慎二は死んだわ。でも、こればっかりはどうしようもないの。しょうがない奴だったししょうがないわよね? 野良犬に噛まれたと思って諦めて頂戴」

「遠坂! さすがにそれは言いすぎだ! 確かに慎二はたまにちょっとどうかと思うところもあったけど、それでも根は良い奴だったんだ!」

「どこがよ。良い点を言ってみなさいよ」

「分かった。五分くれ」

「いや、そこは即答しろよ!」

 と、ツッコミを入れたのは、桜に続いて玄関をくぐった間桐慎二その人だった。

 桜の肩ごしに二人が見やると、どうやら幽霊でもないらしい。桜と同様のビニール袋を両手に持ち、二つの足でしっかりと地面を踏み、肩を怒らせてずかずかと上り込んでくる。

「慎二!? 生きてたのか!」

「当たり前だろ。勝手に僕を殺すなよ。特に遠坂」

 慎二は凛を睨みつけるが、当の彼女はどうでも良さそうに枝毛など探していた。その様子を見て、さらに慎二の表情が引き攣るが、士郎が取り成すように間に入る。

「藤ねえが連絡がつかないって心配してたんだ……慎二、家のことは知ってるか?」

「藤村が? 家……?」

 しばらく考え込むと、慎二は顔を上げた。にやりと得意そうに笑い、

「火事にでもなってた?」

「慎二……どうして……」

 唖然とする士郎に、慎二は更に笑みを深めた。この名推理に驚いているのだろうと気分を良くしたのだ。

「ふふん、初歩的なことだぜ衛宮。まず、」

「放火は重罪なんだぞ、慎二……」

「僕が燃やしたんじゃないよ!」

 絶叫しながら掴みかかってくる慎二。病み上がりとは思えないその力強さに、士郎は今度こそ驚愕を浮かべた。

「うわ、ちょっ、待て待て……っていうか、何でそんなに動けるんだ。退院はもっと後って話だったろ?」

「……まあいいや。僕の身体は治してもらったんだよ。その様子だと、そっちにも話は伝わってるんじゃないのか?」

「どの話だ? それに、治してもらったって……」

「だから"陛下"の話さ。僕の身体を治したのも、たぶんお爺様ごと家を焼いたのもあの人だよ」

「陛下って……会ったのか!?」

 目を丸くする士郎に、慎二は今度こそ得意げに胸を逸らし、ふんぞり返って命令した。

「話してやってもいいけど、ずっと入院生活だったから点滴ばっかりで、碌なもの口にしてなくてさ――料理、できるんだろ? ちょっと遅いけど、何か食べさせろよ」

 戸惑いの表情を浮かべる桜を遮る様に、凛が言葉を重ねる。

「間桐さん、落ち着いて聞いてね。慎二は死んだわ。でも、こればっかりはどうしようもないの。しょうがない奴だったししょうがないわよね? 野良犬に噛まれたと思って諦めて頂戴」

「遠坂! さすがにそれは言いすぎだ! 確かに慎二はたまにちょっとどうかと思うところもあったけど、それでも根は良い奴だったんだ!」

「どこがよ。良い点を言ってみなさいよ」

「分かった。五分くれ」

「いや、そこは即答しろよ!」

 と、ツッコミを入れたのは、桜に続いて玄関をくぐった間桐慎二その人だった。

 桜の肩ごしに二人が見やると、どうやら幽霊でもないらしい。桜と同様のビニール袋を両手に持ち、二つの足でしっかりと地面を踏み、肩を怒らせてずかずかと上り込んでくる。

「慎二!? 生きてたのか!」

「当たり前だろ。勝手に僕を殺すなよ。特に遠坂」

 慎二は凛を睨みつけるが、当の彼女はどうでも良さそうに枝毛など探していた。その様子を見て、さらに慎二の表情が引き攣るが、士郎が取り成すように間に入る。

「藤ねえが連絡がつかないって心配してたんだ……慎二、家のことは知ってるか?」

「藤村が? 家……?」

 しばらく考え込むと、慎二は顔を上げた。にやりと得意そうに笑い、

「火事にでもなってた?」

「慎二……どうして……」

 唖然とする士郎に、慎二は更に笑みを深めた。この名推理に驚いているのだろうと気分を良くしたのだ。

「ふふん、初歩的なことだぜ衛宮。まず、」

「放火は重罪なんだぞ、慎二……」

「僕が燃やしたんじゃないよ!」

 絶叫しながら掴みかかってくる慎二。病み上がりとは思えないその力強さに、士郎は今度こそ驚愕を浮かべた。

「うわ、ちょっ、待て待て……っていうか、何でそんなに動けるんだ。退院はもっと後って話だったろ?」

「……まあいいや。僕の身体は治してもらったんだよ。その様子だと、そっちにも話は伝わってるんじゃないのか?」

「どの話だ? それに、治してもらったって……」

「だから"陛下"の話さ。僕の身体を治したのも、たぶんお爺様ごと家を焼いたのもあの人だよ」

「陛下って……会ったのか!?」

 目を丸くする士郎に、慎二は今度こそ得意げに胸を逸らし、ふんぞり返って命令した。

「話してやってもいいけど、ずっと入院生活だったから点滴ばっかりで、碌なもの口にしてなくてさ――料理、できるんだろ? ちょっと遅いけど、何か食べさせろよ」

うわ、連投になってる。駄目だ。やたら重い。ちょっと時間あけます

面白い、続き待ってます

投下再開

◇◇◇

「上がったぞー」

 と、士郎が居間に料理を運んでくると、目に入ってきたのは、魔術刻印が燦然と輝く凛の手に首根っこを掴まれ、畳の上に抑え込まれた挙句、白目を剥いてびくんびくんと激しく痙攣している間桐慎二の姿だった。

 料理を手伝ってくれた桜も、士郎に続いて居間に入ってくるなり「わ」と口を丸く開けている。

 士郎は十数分前のやりとりを回想した。藤村家へ――すでに病院に向かっていた大河はつかまらなかったので――二人の無事を報告してから、料理のメニューを相談していたのだが。

 「慎二は病み上がりだから胃に優しいものがいいだろう」という士郎に対し、

 凛が「油でギトギトの炒飯とマーボーでも出してやればいいわよ、私が作るから」と反論。

 「流石にそれは可哀想だ、俺が作るよ」と士郎が提案し、「じゃあ私がその間、慎二を拷問……いえ、質問しておくわね」と凛が続け、最後に「炒飯でいい! 炒飯でいいから衛宮チェンジ! チェン……ああああああああ」と慎二の悲鳴で結ぶのだが、まさかこんなことになるとは。

 それはさておき、士郎はちゃぶ台の上に皿を配膳し始めた。お茶を飲んで待っていたセイバーも手伝いに入る。

「これ、慎二の分な」

 ことり、と客用の茶碗に入ったお粥を置く。全体的に昆布と鰹の出汁でまとめ、アクセントに刻んだ梅肉と練った少量の抹茶が添えられていた。薬味として刻んだ生姜と葱も用意してある。

 いまだ痙攣の痕跡を手足などの末端に残しながら、ゆっくりと慎二が起き上がる。凛も興味を失ったとでもいう風に、そつなく自分の席につこうとしていた。

「どう考えても料理の説明より僕の救助が先だろ!?」

「おお、慎二。元気じゃないか。メニュー、もっと重たくしても大丈夫だったかな」

「元気じゃないよ! 無理やり魔術で記憶を覗かれたんだぞぅ!? もっと僕をいたわって――」

「兄さん、座布団とお箸です」

「……っ、……っ!」

 慎二はまだ何か言いたげな様子だったが、桜に促されると顔の端をひくひくさせながらも、大人しく座りこんだ。

 間桐兄妹の対面に士郎と凛が、間に挟まれる形でセイバーが食卓に着く。

 いただきます、と挨拶が唱和され、全員が箸を取った。

 メニューは慎二の胃の状態を考慮し、全体的に落ち着いたものになっている。厚揚げと蕪の煮物にそぼろ餡を掛けた一品は今回の自信作だった。

「わ。先輩、お粥に抹茶って合うんですね」

「ああ、入れ過ぎには気をつけないとだけどな。少し入れると出汁の塩気と苦味が合わさっていい感じだろ?」

「……和食に関しては、やっぱり士郎には敵わないか。私だったら作っても卵雑炊くらいだろうし」

「梅の香りも素晴らしい。抹茶の僅かな苦みの後にこの清涼感。いくらでも入りそうです」

 セイバーがこくこくと頷きながらふうふうと粥を口に運ぶ。季節は三月末。まだ肌寒い頃合いだ。胃に落ちていく出来立ての暖かさが一番の調味料になる。

 慎二も周りに倣ってレンゲを取った。ぶつぶつと何やら呟いていたが、料理を口に運ぶとそれも止め、しばらく首を傾げては再び料理を口にする、という行為を繰り返していく。

「ふん。まあ、悪くはないかな……どうせ米を煮るんなら、僕としてはリゾットの方が好みだったけど」

「そりゃ作る前に言ってくれよ。また今度な」

「今度があればね……ところで、衛宮」

「うん?」

「察しが悪いね。おかわりだよ」

◇◇◇

 空の皿が目立つ頃合いになって、本題に入ることにした。

「……で、何、あの荷物。夜逃げでもするつもりだったわけ?」

 慎二が部屋の端に積まれた士郎と凛のバッグを見ながら、嘲るような声音で言う。そんな態度には慣れているとばかりに、士郎が肩を竦めた。

「そりゃあ、セイバーよりも強いって話だったからな。逃げるしかないだろ?」

「強い弱いは関係ないさ。別に、あの人は僕たちを殺すつもりなんてないんだから……ところで、なんでチケットが三人分?」

「? 普通に俺と遠坂とセイバーの分だけど」

「霊体化させておけばいいじゃん。なんでそんな無駄金」

「いや、セイバーは事情があって霊体になれないんだ」

「へえ。そんな弱点が……っていうか、パスポート持ってるわけ?」

「……あ」

「きちんとあるわよ。どうせ倫敦にはいくつもりだったから、新任の神父に偽造させてたの」

「へえ……って、話が逸れたな。ま、チケットは無駄になったわけだ。早くキャンセルしないと、キャンセル料取られるぜ」

「なあ慎二、それよりもあの人が俺達に危害を加えないっていうのは、本当のところどうなんだ?」

 慎二に訊ねながらも、士郎は凛を横目で見た。

 彼女は慎二の記憶を直接読んだという。慎二の所感が妥当なものであるのかどうか知りたい。そんな意味合いを含んだ視線だ。

 だが、凛は士郎からのアイコンタクトを黙殺した。なにか考え込むようにして口をつぐんでいる。

 代わりとばかりに慎二が口を開いた。

「本当だよ。ま、僕は身体を治してもらった後、寝ちゃったんだけどね」

「寝た? なんでまた」

「気絶した、ってほうが正しいのかな。よく分からないけど、単に治したんじゃなくて、聖杯の影響を排除したからとかなんとか……で、それも含めてあの人から詳しい話を聞いたのは桜さ」

 視線を向けられた桜が、こくりと頷く。

「ええ、私も――いえ、兄さんが治療された直後に。これから、お爺様に会いに行くと言ってました」

「桜の爺さん……ってことは、その人が間桐の当主だったのか?」

「それは……」

 口ごもる桜の代わりに、疑問に答えたのは凛だった。

「間桐臓硯。五百年以上生きてる化物みたいな魔術師よ。聖杯戦争の成り立ちにも直接関わってるらしいわ。気の遠くなるような年月を掛けて聖杯を狙っていたなら、諦めることもできなかったんでしょ。だから見逃されなかった、ってことでしょうね」

「……やっぱり、あの人に殺されたってことか」

 士郎の口調に苦いものが混じる。だが、それを馬鹿らしいとでも言う風に慎二がふんと鼻を鳴らした。

「お悔やみ申し上げます、なんて言葉はいらないよ。だいたい、僕らにとって優しい御爺ちゃん、なんて存在じゃなかったしね」

「でも、身内だったんだろ?」

「魔術師の家の、ね。たぶん、僕の母親を殺したのはお爺様だぜ?」

「……悪い。変なこと聞いたな」

「まあ、人ん家の事情に首を突っ込むなってことさ。別にいいけど。それより、話を元に戻せよ。もう逃げる必要はないってこと、理解したかい?」

「そう、だな……聖杯戦争のシステムに関わってると不味い、っていうんなら、遠坂は大丈夫だよな? 御三家って言っても、遠坂自身が深く関わってるわけじゃないし……」

 士郎の言葉に、やはり凛は口をつぐんだ。先ほどの視線の件も合わせて、どうも不自然に感じる。


「……遠坂?」

「……いえ、そうね。もう誤魔化しきれない、か」

 呟いて、凛は士郎に向き直った。真剣な光を瞳に浮かべている。

「ごめんね、衛宮君。私、ひとつだけ言ってないことがあったの」

「なんだよ、急に改まって……」

「あれが、自分の国の人間を殺せないことは知ってたの。むしろ自国の民を守る性質を持っている。臓硯が殺されたのもこの辺りが原因でしょう」

 マキリ・ゾォルケンはこの国に住んでいただけで、この国の民とは言えない。そういうことだろう。実際、慎二や桜と違い、彼にはこの国の血が混じっておらず、また縁も結んでいなかった。

「私に求められるのは、儀式の放棄。最悪、この霊地の管理権限を奪われるくらいだってことも見当はついていた」

 凛はポケットから紫の封書を取り出した。中身は入っていない。遠坂邸に置いてきたのだ――内容を、セイバーと士郎には見せないようにする為。

「じゃあ、なんで逃げようなんて……」

「……儀式の放棄。これって、どういう意味だと思う?」

「二度と聖杯戦争が起こらないようにするってことじゃないのか?」

「つまりそれって、この地のどこかに根付く儀式の起動式を砕くことと、砕いた後、それを修復・再現されないようにするってことよね。資料なんかの廃棄や、知識の封印。遠坂の家が供与したっていう技術はもう失伝してるし、なんならギアスの魔術を受けても私は構わなかった。もともと、聖杯自体には興味がなかったから」

 ますます訳が分からなかった。それでは、遠坂凛という人物が逃げる理由など――

「……まさか、凛。貴女は――」

「セイバー?」

 士郎が見やると、剣の英霊は何かに気づいたようで、驚愕の表情を浮かべている。そのまま答えを述べた。

「貴女は、私を殺させないために逃げようとしていたのですか」

「セイバーを? 何でセイバーが狙われるんだ。聖杯戦争の成り立ちには関わってないだろ」

「シロウ、私というサーヴァント自体が何よりの資料なのです。冬木の聖杯に刻まれた英霊召喚のシステム。効率的ではないでしょうが、この聖杯戦争の仕組みを、召喚されたものから逆算して解析できる可能性はある」

 それはつまり、いくらでも放棄できる知識とは違い、セイバーに関してはセイバーという霊体そのものを破壊しなくてはならないということになる。

 凛はその事実を肯定した。疲労の様なものを顔に滲ませて頷く。

「ごめんなさい、セイバー。騙すような真似をしてしまったし、貴女の誇りを汚してしまったかもしれない」

「何を言うのですか、凛。貴女の心遣いを、不快に思うことなど無い」

 首を振るセイバーに、しかし反発するものがいた。間桐慎二である。

「馬鹿かよ遠坂。使い魔のひとつを失うくらい、あれと敵対するのに比べれば何でもないだろうが」

「慎二……!」

 心無い言葉に、遠坂が鋭い視線を向け、士郎が取り成すように間に入ろうとし、

「……兄さん。たぶん、遠坂先輩がセイバーさんを庇おうとしたのは、それだけじゃないんだと思います」

「桜?」

 静かに言葉を紡いだ桜に、慎二を始めとする全員の視線が向く。


「セイバーさんが狙われるなら、先輩が放って置けるはず有りませんから。だから遠坂先輩は、先輩を戦わせないためにも事情を秘密にしたんじゃないでしょうか。でなければ、セイバーさんだけ連れて倫敦へ飛ぶ方法もあった筈ですから」

 士郎だけを冬木に残した場合、事情を知れば無謀にも首を突っ込みかねない。

 だからこそ、凛は士郎をも連れて行こうとしたのだろう。

「遠坂……」

「……何よ。仕方ないでしょ、事情を知ったら、あんた絶対無茶するし……」

 そっぽを向く凛に、感動したような視線を向ける士郎。

 けっ、と慎二が吐き捨てるように息を吐いて、その雰囲気を払った。

「どうでもいいけどさ。じゃあ事情も分かったんだし、サーヴァントは放棄するよな?」

 慎二の言葉に、当然の如く士郎は首を振った。

「セイバーを見捨てるわけないだろう」

「あのさぁ、衛宮。あの人は聖杯戦争で戦ったサーヴァントなんて屁でもないような化物なんだぜ? 僕は魔術師じゃないけど、それでもあれの異常さは理解させられた。そんくらいやばい相手なんだ。抗うだけ無駄さ」

「無駄なんてことはないだろ。それに、いきなり戦うつもりはないぞ。まずは話し合って、セイバーに危険がないことを知ってもらえば……」

「だから! そいつが危険だとかじゃなくて、存在してることが不味いんだよ! お前や遠坂がそいつから聖杯戦争の仕組みを研究しないって誓っても、他の魔術師がそれをしないなんて保証にはならないんだから!」

 慎二の言うことは正論だ。話し合いで穏便に決着を着けることなど、望むことは叶わない。

 その時、甲高い音が部屋に響いた。

 ガラスを引っ掻いたような、耳が痒くなる類のものだ。出所は凛のポケットらしかった。彼女がポケットから宝石を取り出し、顔をしかめる。士郎が訊ねた。

「遠坂、なんだそれ?」

「霊地管理の委託について、手紙だけじゃ心許ないから家に双方向のやり取りができる使い魔を残してきたんだけど……お客さんみたいね。本当に足が速い」

 つまり、その客人とは。

 全員が注目する中で、凛は食卓を片すと、未だに鳴り響く宝石を安置した。短く呪文らしきものを唱えると、宝石が光り輝き、卓上に映し出されたのは遠坂邸門前の風景だった。どうやら使い魔の視線らしいが。

 そこにはひとりの老人が佇んでいる。老人が口を開くと、その声も宝石から響いてきた。

『初めまして。遠坂凛さんでよろしいですか?』

 士郎が視線で間桐兄妹に尋ねると、やはりというか、この人物が皇で間違いないらしい。好々爺とした小柄の老人にしか見えないが、しかし話が本当なら、少し前に人を一人焼き殺すか何かしている筈である。それなのに一切そんな不浄を感じさせないというのは、ある種の不気味さを覚えさせられる。

 その横で、凛が堂々と対応を始めていた。

「ええ、間違いありません、陛下。わざわざ御足労頂き、恐縮の至りです」

『いいえ、勝手に押しかけたのはこちらですから――さて、手紙は届いていると思いますが』

 一度言葉を切って、皇は要求を告げた。

『貴女と契約している英霊の身柄を引き渡していただけませんか? それは、我が国にとって脅威となる可能性があるのです』

「……私の目が黒いうちは、セイバーを他の魔術師に解析させません。聖杯戦争という仕組みも、お時間さえ頂ければこの手で解体し――」

『既に被害は出ているのですよ、凛さん』

 責めるではなく、むしろ諭すような優しい声音で皇は続ける。

『都合5度行われた聖杯戦争。その度に我が国の民が犠牲になった。もはや待つことはできません』

 だが同時に、その言葉には有無を言わせない圧があった。

 これ以上は、実力行使になる――そう、言外に滲ませていた。


 僅かに思案する様子を見せた後、凛は溜息をつき、

「……分かりました。私もこの国に居を構える身。是非もありません。お引き渡ししましょう」

「遠坂!?」

 驚愕に目を見開く士郎を、しかし凛は無視して言葉を続けた。

「しかし、できれば僅かばかりの猶予を頂きたく思います。既にご存知であられるでしょうが、そも彼女を召喚した魔術師は別にいるのです。どうか、彼と別れを惜しむだけの時間を」

『……分かりました。それでは今宵、日付が変わるころ。冬木海浜公園にてお待ちしています』

 映像の中の老人がきびすを返し、術の範囲外に消える。宝石が光を失うと、ふう、と凛は息を吐いた。

「遠坂、なんで……」

「さすが遠坂。きちんと論理的思考って奴ができてるね」

 士郎と慎二。真逆の反応を示す二人を、しかし凛は呆れたように見返した。

「時間稼ぎに決まってるでしょーが」

「……はぁ?」

 理解できない、という風な慎二に、凛は言う。

「セイバーを引き渡すわけないでしょ。ただまともにやって勝てるとは思えないし、このままじゃ逃げるのも難しい。奇襲で手傷のひとつでも負わせて、その隙に逃げるわ。士郎、チケットの時間を変更して頂戴」

「遠坂……! ああ、任せてくれ」

 パソコンに向かう士郎。入れ替わりに、浮かない顔をしたセイバーが凛と相対する。

「しかし、凛……その、迷惑では。私は所詮、過去の亡霊に過ぎません。貴女達を危険に曝すくらいならば、この身など……」

「遠坂は常に優雅たれ――寄越せと言われてはいそうですかと従ったんじゃ、家の名も落ちるってものよ。それより、戦う覚悟を決めて、セイバー。結局、貴女には矢面に立って貰わなきゃいけないんだから」

「……了解しました。凛。貴女のようなマスターに仕えることができて、良かった」

「いや――いやいやいや! 馬鹿だろ! 馬鹿なのぉ!?」

 慎二が絶叫した。士郎、セイバー、凛と順番に指を差しながら頭を激しく横に振る。

「お前らほんとに馬鹿! 勝ち目なんてないし、戦ったところでお前のサーヴァントが負けるのは目に見えてるだろ! 結果は一緒だ! なんでわざわざ無駄なことをするのさ!」

「無駄じゃないからだよ、慎二」

 士郎が応えた。

「どんなに強い相手でも、退けない時はある。それに強い弱いで言えば、俺はあのギルガメッシュの足元にも届かなかった」

 だが、勝利した。

 諦めなければ、どんな敵にも勝てる、とは言わない。だが、諦めたら絶対に勝てない。

「だから、俺は最後まで抗うことを止めない。セイバーを、守る」

「……っ! ああ、そうかよ、くそっ! 付き合ってられないね! 折角、忠告しに来てやったって言うのにさ!」

 吐き捨てるように告げて、慎二は立ち上がった。隣に座っていた桜に告げる。

「帰るぞ、桜! こんな家にいられるか! 新都で適当にホテルでも探す――」

「……いいえ、兄さん」

「桜?」

 慎二は軽く混乱する。久しく、いや、いままで聞いたことのなかった、桜の――自分に対する、否定。

 ぽかん、と慎二が改めてそちらに向き直ると、桜もまた、揺れぬ視線を慎二に向けていた。

「私は、先輩たちに協力しようと思います」


「……はぁ!? 桜、お前まで衛宮に毒されたのかよ!」

 叫ぶ慎二をよそに、だが士郎と凛も目を丸くしながらその少女を見た。

「間桐さん。その……いいの?」

「そうだぞ、桜。気持ちはありがたいけど、お前まで付き合うことは」

「いいえ。何よりも、私がそうしたいんです、先輩」

 断言ぶりに、士郎がたじろぐ。この後輩がここまで強く意志を見せることなど、いままでにそうはなかった。

 桜の胸中には、数刻前のやり取りがある。病院で、皇と出会った時のこと。

 あの老人は、桜の体内に巣食っていた刻印蟲を焼き、全ての傷を癒した。

 ――貴女の辛い過去を消すことは私にもできません。しかしこれからは、貴女がその蟲に縛られることはない。

 光もたらす天照大神の直系。その影響は、桜の心に蟠っていた影を、ほんの僅かに薄くした。

 ああ、だから――私は、先輩の為に、あの人と戦おう。桜は迷うことなく決断する。例え、恩を仇で返すことになっても気にしない。

「それに私は魔術師としては落ちこぼれですが、こう見えて回路の数だけなら豊富です。後方支援くらいなら十分できると思います」

 魔術回路を全て起動する。本来、数と質は凛と遜色ないものをもっているのだ。魔力を喰らう蟲を駆除し、その痕跡を癒すなどという奇跡があった今、桜の回路は万全の状態を取り戻していた。

 唸るような魔力の量と、強い意志を秘める彼女の瞳に、士郎は頼もしさのようなものさえ感じていた。

「――分かった。頼む。力を貸してくれ、桜」

「はい、先輩! ……それで、その。兄さん。兄さんも、できれば……」

 向けられた桜の言葉を、しかし慎二は手で遮った。絶叫で乱れていた呼吸を整えるように深呼吸すると、呆れたように呟く。

「……いいよ、勝手にすれば。どうせ結果は変わらない。あの人はこの国の住人を傷つけないし、お前ら全員が束になってかかってもそれを貫くだけの力があるんだから」

 そう言って、慎二は玄関に向かった。士郎は呼び止めようか僅かに逡巡したが、何と言葉を掛けたものか。迷っている内に、玄関が乱暴に閉められる音が響く。

「……悪い、桜。慎二と喧嘩させるようなことになって」

「気にしないでください、先輩。兄さんも分かってくれてると思いますから」

 屈託のない笑顔で桜はそう告げて、士郎の袖を掴んだ。

「それより、先輩。さっきも言いましたけど、私、まともな魔術はほとんど使えなくてですね。できるのはバックアップが精々で……」

「ああ、それでも助かる。それに、桜を矢面に出すわけにはいかないだろ」

「じゃ、じゃあ、先輩。魔力のパスをですね、その、繋がないと。いえ、違うんですよ? これは仕方のないことで、決して下心とかは――」

 何やら後半はごにょごにょと尻すぼみになって聞こえなかったが。

 どの道、桜が台詞を最後まで言い切ることは無かった。にっこりと笑った凛が、桜の頬を摘まむ。

「いひゃいいひゃいいひゃい!? ひ、ひろいれす、とおはかへんはい!?」

「んー? 聞こえないわねー? それより、間桐さん。パスを繋ぐならセイバーと契約してる私の方が効率良いわよ? 貴女と私なら、ちょっと回路の波長を合わせるだけで済むでしょうしねー」

 そのまま引きずられていく桜。その光景を見送りながら、士郎はぽつりと呟いた。

「でも驚いたな。桜が魔術師だったなんて……」

「正式な魔術師ではないのでしょう。聖杯戦争でも、ライダーを随えていたのはあの慎二という方だった。どう見ても才能がある桜の方に魔導を継がせなかった理由は分かりかねますが」

「まあ、よその家の事情だしな……そうだ、セイバー」

「なんでしょう、シロウ」

 向き直るセイバーに、士郎は手を差し出した。

「また、セイバーと一緒に戦うことがあるなんて思わなかったけど……よろしく頼む。今度は、きっと俺がセイバーを守るから」

「……ええ、シロウ。貴方と共に戦えるなら、1000の援軍を得るよりも頼もしい」

 あの夜を思い出しながら、二人は再会を果たした戦友の如く握手を交わした。

◇◇◇

 夜。冬木中央を流れる未遠川の傍にある海浜公園。

 昼間は大勢の人で賑わう憩いの場ではあるが、今宵は異様なほどに人影がなかった。

 その中で、遠坂凛がただひとり佇んでいる。いつもの赤いコートに身を包み、訪れるその時を待っていた。

「――お待たせしてしまったようですね」

 夜を切り裂く様な、声。文字通り、それは太陽の発した音である。

 視線を向ければ、数メートルほど離れた街灯の下に老人の姿があった。皇。この国の神秘を背負う、最強のゴッズホルダー。

 その神秘の濃度に、凛は僅かに気圧される。こうして実際に会ってみて分かった。なるほど、慎二の言もあながち的外れではなかったらしい。

 人が発していい神秘の"格"ではない。紛れもなく、神霊クラスの強度だ。

 反射的に、じんわりと嫌な汗が背に浮かぶ。だがそれを表に出すことなく、凛は優雅に一礼した。

「いいえ。待って頂いていたのはこちらですから。それよりも、初めてお目にかかります、陛下。この地の霊脈を治めております、遠坂家6代目当主、遠坂凛です」

「これはご丁寧に。では、凛さん。御辛いでしょうが契約している英霊の引き渡しを」

「……」

 皇の言葉に、凛は微笑みを浮かべながらも返事をしなかった。代わりに、問う。

「陛下は、既に分かっておられるのでしょう? このような場所を指定されたのですから」

「……それでも、あるいは、と願いたかったのですが」

「申し訳ありません。しかし、彼女を見捨てるのは信条に反しますので。こちらからも請い願います。どうか見逃してはいただけませんか?」

「同じく、信条に反します。国民を傷つける可能性は排除しなければなりません」

「では――仕方ありませんね。卑小の身ですが、陛下へ弓を引かせていただきます」
 
 呟くのと同時に、凛の腕に刻まれた魔術刻印が輝き、唸りを上げる。

 それを合図として。

 士郎は限界まで引き絞っていた矢を解き放った。海浜公園を見下ろすような位置にある、冬木大橋の欄干の向こうから、強化した弓と矢により狙撃を行う。

 どう見ても小柄な老人にしか見えない相手に向けて矢を放つのは心が咎めたが、手加減が出来る相手でないのはこの距離を隔てても理解できる。

 狙いは右足の腱。深く削いで機動力を奪う……!

 背後から高速で飛来する矢。それに対して、皇の対応は大した動きを伴うものではなかった。

 どこか陰のある笑みを浮かべて、その場から動かず、ただ手を御振りになったのである。

「な、ぁ――?」

 動作の小ささに対して、変化は劇的だった。

 放った矢が空中で停止している。その場に縫いとめられたかのように、皇まであと5メートルという位置で動きを止めていた。

 数秒後、力を失ったように、矢がぽとりと地面に落ちる。強化された士郎の視力は、その理不尽をはっきりと捉えていた。

 そして皇の視線が凛を捉える。舌打ちをしながら、凛は後ろに飛び退った。魔術刻印を過剰回転させ、片っ端から役立ちそうな呪文を詠唱させる。

「Fixierung EileSalve――!」

 凛が伸ばした指先に呪いが宿った。それを無数に乱射する。掠めただけで肉体を砕き、直撃すれば心臓を停止させるであろうフィンの一撃である。

 同時、公園の各所に仕込んでいた宝石が並列して作動。単なる魔弾として皇を狙うモノ。凛の魔術が通りやすくなるように場を整えるモノ。逆に、相手が用いるであろう概念に干渉して妨害するモノ。

 数十の魔術を組み合わせて必殺を狙う。戦力を小出しにしても仕方ない。凛はここに、所持する全宝石を投入していた。

 聖杯戦争の時に用いた10年宝石よりもひとつひとつのランクは下がるが、総じた威力はこれまでの生涯で凛が使用した魔術の中でも間違いなく最上のものだ。

 だが――やはり、皇は避けようともしない。

 矢と同じく一定距離に達した魔弾は停止させられた。そして僅かなラグのあと、溶けるように消失してしまう。

(どういう仕組みよ!?)

 手応えが無さすぎる。おそらく、単に障壁を張って防いでいるのではない。強度で弾くのではなく、攻撃力そのものを無効化するような手管。

 内実を見定めようとして――だが、その時間が与えられないことを凛は悟った。

 皇が掲げた右手に、凶悪なまでの魔力が収束している。第五次のキャスターが高速神言で組み上げた大魔術と同等か、あるいはそれ以上の出力。

 撃たれれば、死ぬ。それを直感し。

 ――直感したが故に、剣が奔った。

 未遠川を挟んで、対岸の水面が爆撃されたかのような水柱を上げる。凛の魔術によって姿を隠していたセイバーが、不可視の剣を携えて結界から飛び出してきたのだ。

 一足目からトップスピードに乗った剣の英霊はもはや常人の目には移りもしない速度で水面を駆けた。凛と桜からの十分すぎる魔力供給によって、常時最大出力での魔力放出が可能となった故の高速移動だ。

 精霊の加護により水上を疾駆するセイバー。足場となる水面が蹴りつけられる度、反動によって数十メートルまで水が吹き上がった。

「そこでしたか」

 だが、皇は迫ってくる暴威に怯みもしない。如何なる御業か、猛速で迫る人外へ正確かつ迅速に対応した。

 静かに呟き、収束した魔力を解き放つ。皇の身体から離れた瞬間、それは光り輝き、全てを焼き尽くす熱を持った。

 光条がセイバーへ向けて放たれる。剣の英霊が轟音を伴って突貫するのに対し、皇の光は静謐に、だが比べようのない速度で飛来した。それは、文字通り光速の攻撃である。

 見てからの回避は不能。事前情報でもなければ、初見で対応することはできない。


 ――されど、その条理を覆してこそ騎士王。

「ほう……?」

 皇が感心したように吐息を漏らす。

 光の矢はセイバーの頬をかすめるだけに留まっていた。

 セイバーの未来予知染みた直感スキルのみが可能とする回避方法だった。つまり、発射される前から軌道を予測して身を躱したのである。

 皇はさらに数発、光を放ったが、騎士王もまたさらに転進を繰り返すことで光の線を躱し続ける。

「偶然ではありませんか。良い勘と足裁きです」

 呟いて、皇は光の出力を強めた。

「――では定石通り。まずは足を奪わせて頂きます」

「!?」

 言葉と共に放たれた光が、セイバーの足元――水面に吸い込まれる。次の瞬間、水面が爆発的に盛り上がり、弾けた。

 6000度の熱源を撃ちこまれることで発生した大規模な水蒸気爆発が、十数メートルの高さまでセイバーを撥ね上げたのである。

 強大な衝撃に体が軋む。これが人の身であれば粉々に砕け散っていただろう。

 だが爆発そのものは問題ではなかった。少なくとも、空中で身動きの取れないセイバーへ向けられている、光を蓄えた皇の手よりは。

「しまっ――」

「御無礼をお許しください。ですが――これで御然らばです」

 射出される二条の光。狙いは頭部と心臓。サーヴァントの急所である霊核が宿る位置。

 皇が自在に操る、マキリ・ゾォルケンすらも一蹴した輝き。その正体は、天照大神より受け継ぎし力――放出した魔力を光と熱に変換する、いわば神秘を用いた高出力レーザーである。

 この魔力放出によって生み出された陽光は、害あるものを焦がし、庇護すべき民を癒すという特性があった。昼間、間桐桜の体内から蟲を焼き払い、同時にその痕を癒したのもこの力によるものだ。国内であれば無機物に対する作用は調整できるため、最大出力で撃っても周囲一帯を焼き尽くすというような心配はない。

 そして当然の如く、この国に害をもたらす可能性を持つセイバーに対しては必殺の槍として機能する。

 宙より落下する騎士王に、何らかの動作を行う隙さえ与えず、光はセイバーを通り抜け夜空へ抜けた。

「セイバー!」

 認識がようやく現実に追いついた凛が叫ぶ。

 だが、その声に悲痛さは無い――あるのはマスターとして命令を下す厳然さのみ。

 同時、皇も口を開いた。そこには隠しようのない驚きが滲んでいる。

「なるほど――その剣は、光を曲げて」

 風王結界。

 この風の宝具は、光を屈折させることでセイバーの剣を不可視とする。

 体の前で構えていたのが幸いした。頭部と心臓を目指した光は進路を歪められ、掠めた具足を融解させるに留まったのである。

 無論、狙ってやったわけではない――それは偶然か、あるいは単なる幸運か。

 どちらにせよ、脅威を防ぎ、脅威を防ぐ方法も知れた。凛が命じる。

「河を斬って!」

(……なるほど、そういうことですか!)

 歴戦の英霊は、即座に主の意図を汲み取った。全身から最大規模で魔力を放出する。背部からの放出は落下速度の加速へ、そして腕部より爆発させた魔力は振るわれるその一撃を強化した。

「あああああああっ!」

 水面に触れる直前、セイバーは掬い上げるように不可視の聖剣を切り上げた。腕に凄まじい負荷がかかるが、大量の魔力によるごり押しで通す。

 剣に纏わせた風が多量の水を巻き込み、大瀑布を造り上げる。その状態のまま剣を振りぬけば、さながら水平に流れる滝の如く。岩塊さえ砕くであろう水撃が、岸にいる皇へ殺到した。


「っ!」

 閃光が夜を切り裂く。陽光による迎撃。腕からではなく、全身からの発光。精度よりも威力を重視して放たれた熱波が、向かってくる水流に触れ、再び水蒸気爆発を起こす。

 河に接していた海浜公園の一部が見るも無残に砕け散っていく。その破壊の中で、しかし皇は敵の狙いを看破した。

 皇の放つ天照の光熱は、物理現象の――屈折率の影響を受ける。

 つまり水中に入った光は屈折してしまい、正確に狙えば狙うほど目標に命中しなくなるのである。無論、同時に起こる水蒸気爆発は凄まじく、そんな状態で近づける者はいない――生身の人間ならば。

 全身に魔力を防護壁として纏わせたセイバーが、荒れ狂う蒸気の帳を強引に突き抜けた。そのまま皇の眼前へ飛び出す。

「取った――!」

 セイバーは容赦なく首を撥ねた。

 小柄な老人に見えるが、その能力はトップサーヴァントをも凌いでおり、何より対応の仕方も一流の戦士と遜色ないものだ。

 加減できる相手ではない。地を砕く踏み込みと共に、即死させるつもりの一撃を見舞う。

 何に阻まれることもなく、聖剣は振り抜かれ、

「な……」

「流石は音に聞こえしアーサー王。その鋭さ、身が竦む思いです」

 無傷の皇と、目が合った。

 有り得ない、とセイバーは逡巡する。疑問は自分と皇を隔てる距離について。

 確かに、剣の届く間合いにまで踏み込んだ筈だった。この身は剣の英霊なれば、目測を誤ることなど有り得る筈もない。

 それなのに――現在、皇との距離は5m以上も開いている。

 皇が剣裁に合わせてバックステップをした、などということはない。視線は一瞬たりとも離さなかった。皇は対応の為の動きをなにもしなかった。

 だというのに、必殺の一撃は回避され、無傷の皇は再び手に光を溜めている。

「くっ!」

 警告を発した直感に従い、咄嗟に身を翻して放たれた光の線を避ける。

 距離を取っても射出から到達までの時間はほぼ変わらない。単純な運動能力だけならばこちらが有利な以上、近距離にいた方がむしろ避けやすくはあるが――

 永遠に回避し続けられるものではない。そして、神代の神秘を宿すこの光線は喰らえば終わりだ。

 再び防戦一方に陥るセイバーを見て、凛は歯噛みをした。当初の予定では、士郎と凛の攻撃で敵を見定めた上で、セイバーが奇襲をかけることになっていたのだ。

 だが目論見は崩壊した。敵の防御の正体は未だ見抜けず、セイバーの一撃は掠りもしない。


「遠坂、大丈夫か?」

「士郎?」

 背後から掛けられた声に、凛は振り向く。そこには声の主である衛宮士郎が軽く息を弾ませながら立っていたが、

「橋から降りてきたにしては早すぎない?」

「ああ、ワイヤーのついた矢を投影してな。地面に撃ちこんで、ワイヤーを滑ってきた」

 見ると、士郎のさらに背後。海浜公園の石畳に深く突き刺さった矢の尻から冬木大橋の方へ、鋼鉄らしいワイヤーロープがピンと伸びている。どうやらワイヤーに通した弓を滑車代わりにして降りてきたらしい。

「ジップラインだっけ? 映画みたいなことするわねー……」

「それより、どういうことだ? 俺の矢も遠坂のガンドも、セイバーの剣も防がれた。けど……」

「反応がばらばら、っていいたいんでしょう? 矢は停止した後落ちて、ガンドも止まった後に消失。聖剣は振り抜けたけど、空振り」

「ある程度以上の神秘がないと止められるってことか?」

「いえ、セイバーの剣だって結局は無力化されてるわけだし……でも、それぞれに別の方法で対処をした、って風でもないのよね」

「どれも共通点は届いてない、ってことか」

 士郎は焦る様に戦場を見る。セイバーはサーヴァントらしい疲れ知らずの運動量を見せているが、それでも長くはもたないだろう。向こうの攻撃は一撃必殺。対してこちらは通用する手管すら見いだせない。手合い違いにも程がある。

「届かない……」

 士郎の台詞を、凛は口の中で繰り返した。届かない――到達しえない。敵は太陽の化身たる天照大神の直系。

(もしかして)

 凛は再び指先を皇に向けた。ひたすら動き続けるセイバーに対して、皇はその場からほとんど動いていない。狙いを付けるのは簡単だった。

 ガンドを一発だけ放つ。黒の病魔は再び皇から5mの地点で停止後、僅かな時を置いて消滅した。

 それを見届けてから、さらに続けてもう一発だけ放つ。ただし、今度は込める魔力を少なくした。

 5m地点で停止、消滅――その結果は変わらない。だが、予想していた僅かな差異を見て取ることができた。

「……ああ、なるほど。そういうこと? インチキにも程がある……」

「何か分かったのか?」

「多分ね。士郎、やって貰いたいことがあるんだけど……」

◇◇◇

 皇は12発目のレーザーを撃ちだした後、そこで一度魔力を回すのを休止した。不可視の剣を正眼に構える目の前の英霊を、改めてもう一度観察する。

 人形のような端正な造形。反して全身から放たれる魔力・剣気は阿修羅の如く。報告書を信じるなら、真名はアーサー王。円卓を総べるブリテンの王。

 彼女自身に罪はない。ただ、その存在はこの国にとって有害と成り得る。ならばそれを取り除くのが己が役目。

 戦力差を分析する。剣技においては自身の完敗。運動能力も同じくだ。寄る年波には勝てない。皇は神道、修験道をも修めていたし、その中で学んだ剣の心得もあった。それでもなお、真正面から斬り合えば自分は容易く一本を取られるだろう。

 こちらの停止を誘いと取ったのか、セイバーは距離を保ったままじり、と右回りに立ち位置を変え続けている。

 まともに近接戦闘を行えば勝てないだろう――だが逆に言えば、それ以外ではこちらの勝利は揺るがない。報告書を読む限り、敵は<天岩戸>を突破できるような手段を持っていない筈だ。

 このまま光線を撃ち続ければ、いつかは当たる。敵は神懸った勘働きでこちらの攻撃を射出前から回避するが、所詮は勘働きだ。100回、1000回と試行すればいずれ綻びは出る。

(しかし……長くかけるのも良くはない)

 皇は心中で溜息をついた。いまも陵墓課の面々は、おそらく遠巻きに自分を見守っているのだろう。直接の介入は勅令で禁じた。英霊が相手となれば被害が出るだろうからだ。

 それでも陵墓課は戦力をここに集中している。結果として、現在この国の霊的防備に揺らぎが生じているというのは皮肉であった。

 結論として短期決戦を狙わなければならない。皇は右腕を眼前に掲げた。何を掴み取ろうとするように手を伸ばし――そして、その途中で動作を取りやめ首だけで背後を向く。

「ほう?」

 視界に映った光景に、皇は感心したように吐息を漏らした。先ほどから何度か試すような呪い礫を放たれたのは分かっていたが、まさかこの短時間で<天岩戸>の秘密に辿り着くとは。

 皇の視線の先には宙に縫い付けられている――ように見える矢があった。しかし、最初に放たれたただの矢とは違う。

 矢筈の辺りからワイヤーが伸びていた。ワイヤーはそこから射手である少年、衛宮士郎の足元に続き、そこに輪束になって置かれている。

 その束から、続々とワイヤーは送り出されていた。少年の目は驚愕に見開かれ、送り出されるワイヤーと停止しているように見える矢に向けて交互に視線を飛ばしている。

 矢は静止している。それなのに、矢に結ばれたワイヤーはまるで矢が飛び続けているように送り出されているという異常がそこにあった。

「やっぱりね」

 遠坂凛が頷いていた。皇は完全にセイバーから視線を外し、少女へと向き直る。素晴らしい洞察力だ。彼女の様な人材が多ければ、この国も安泰なのだが。

 微笑みを浮かべて、皇は続きを促すように凛の言葉を待った。

「矢もガンドも停止してるんじゃない。それは見せかけのことで、実際は目標に向かって飛び続けている」

 矢が落下したのも、ガンドが消滅したのも、なんのことはない。与えられた推進力や魔力を使い果たしたからに過ぎないのだ。その証拠に、さきほど試し撃ちしたガンドは、魔力を少なくした2発目の方が消失までの時間が短かった。

「つまり、"距離"の問題――見せかけはそのままに、空間を引き伸ばしているんでしょ」

 停止しているように見えていた矢が、さきほど同じように落ちる。同時、送り出されていたワイヤーの大部分が、放り投げられた蛇のように宙で踊りながら士郎の方へ戻ってきた。凛はそれをちらと見やり、続ける。

「セイバーの剣が届かなかったのも同じ理由。見せかけ状は剣の間合いに入っていたけど、実際に踏み込んだのは圧縮された長距離空間の中。一見届きそうに見えるけど、実際の距離はそれを許さない。だからその矛盾が修正されると――こうなる。いかがです、陛下?」

「概ねはその通りです。代々の皇は<天岩戸>と呼んでいます。では、実際にどの程度の距離が圧縮されているかも分かりますか?」

「天岩戸……確か、スサノオの横暴に呆れ果てたアマテラスが洞窟に立て籠もった逸話か」

 士郎の呟きを背に、凛は挑む者にとっては絶望的となる推測を告げた。

「おそらく、名前の通りなのでしょう。岩戸隠れの伝説では、天照大神が隠れると太陽もまた姿を隠した。それはつまり、天照大神と太陽の関連性を示す伝承に他ならない」

 太陽神は世界中で見られる神性だが、ケルトの太陽神であるルーのように太陽に関連する逸話をほぼもたない柱も存在する。対して天照大神は岩戸隠れの神話から見て取れるように、太陽との関連付けを強くされた神性だ。太陽を擬人化したものだと言ってもいい。

 ではそれが"距離"に纏わる防御を用いるとすれば、その長さは――

「太陽は手に届かぬ物という概念を利用した防御。つまり、圧縮された距離は地球から太陽までの距離、一天文単位――約一億五千万キロメートルを踏破しなければ、陛下には辿り着かないことを意味します」

◇◇◇

「な……」

 と、絶句したのは士郎とセイバーだった。

 当然だ。目の前いる老人との間が、実はそれだけの超超長距離で隔てられていたなど言われてもピンとこない。

 だが老人は感心するように凛に頷いて見せた。そして、言う。

「満点の解答です、凛さん。いままでこの<天岩戸>が突破されたことはありません」

「でしょうね。直接攻撃は言うに及ばず、魔眼や空間転移でさえその距離は越えられない。逆ならともかく、現代においては地球の"外"に飛び出すことを想定した神秘なんて聞いたこともないもの」

 天体の運行からなる地球への影響を利用する神秘はごまんとあるが、その逆――地球から星の海へ干渉するような神秘は、天動説が廃れてこの方ほぼ死に絶えた。

 凛の台詞に、士郎も納得するほかない。そんな距離を飛び越え得るような武器は思いつかなかった。長距離を射抜いた英雄といえばアーラシュが有名だが、彼の希代の弓取りでさえその身と引き換えに放った矢の飛距離はおよそ6000kmだ。必要な距離の二万五千分の一である。

 太陽落としで有名なゲイなど、一部の対太陽特攻とも言える特性を持った神霊ならば可能かもしれない。だが神霊そのものの召喚などそれこそ現代の魔術理論では絵空事。

 神霊級の神秘を、現代まで継承した家系――改めて、その出鱈目さを理解する。

 そして同時に、士郎は気づいた。隣に佇む相棒の瞳に、諦めが見えないことに。

「遠坂、何か手があるのか?」

「倒す為の方法は二つあるわ」

 凛は指を二つ挙げ、すぐにひとつを畳んだ。

「一つ目は、向こう自から防御を解除させること。といっても、これは難しいけどね。セイバーが現界している内は、絶対にあの防御を解くことはない筈。令呪が残っていれば、自害したように見せかけることも出来たかもしれないけど……」

 それは間桐臓硯が行い、そして失敗した方法だった。

 故に、凛は別の手を取る。確実性は、ひとつめの手段よりも低いくらいだが。

「二つ目。覚えてる? セイバーの風王結界の仕組みを、あの人は理解していなかった。陵墓課からの報告は上がっている筈だけど、それだって何でも御見通しってわけじゃない。私達の表面的なことしか調査できていない筈」

「だから?」

「知られていない切り札を使う。士郎、例のあれの準備をして。私の合図で展開。いいわね?」

「いや、待ってくれ。あの防御を突破できるような武器は――」

「足りない部分は私が補う。本当はやりたくなかったけど……」


 話し合う二人を余所に、皇は再び振り返り、セイバーへと向き直った。

「さて。もう一度、願います。遥か過去を生きたブリテンの王、アーサー殿。この地で再び得た生を、諦めては頂けませんか?」

「……断る。我が主とシロウが、御身という脅威と天秤に掛けたうえで"生きよ"と言ってくれたのだ。その厚情を無為には出来ない」

 不可視の聖剣を構え直す剣の英霊に対し、皇は残念そうに頭を振った。

「その忠節を貴く思います。しかし――ならば、私はこうせざるを得ない」

 先ほど停止した動作――虚空を掴みとるような動作を、再度行う。

 瞬間、皇の手の中に剣の柄らしきものが現れた。

「……! セイバー、離れて!」

 凛の声に、セイバーは即応した。凛と同じく、セイバーもまた感じ取っている――現れた"柄"から、息苦しくなるほどの神秘が放たれていた。同時に、周囲のマナがその一点に向け、吸い込まれるように流入していく。

 バックステップで距離を取る剣の英霊に、だが皇は構わずに動作を続けた。

 皇の手が右へ。それこそ剣を鞘から抜き放つかのように、柄を掴んだ右手を横に引いた。虚空から――まるで空間そのものを鞘としているかの如く、直剣の刃がゆっくりとその姿を現す。

 日本刀とはまるで違う、柄と刃が一体になった、ともすれば原始的とすら言える剣。

「あれは――」

「……それは」

 その刃を見て、違和感を覚えたのは二人。士郎とセイバーである。

 士郎はその刃を見て、ほぼ無意識の内に解析を行おうとしていた。だが、通らない。

 英雄王の携えた乖離剣のように全く読み取れないのではない。部分部分が、虫食いにでもなっているかのように不明となっていた。

 それは■が人にこの■■を明け渡す際、■■を材料に創り上げた■■を留める為の――

(駄目だ。解析しきれない)

 だが、その真名は予想できる。皇が手にする剣と言えば、それはつまり。

「天叢雲(アメノムラクモ)」

 解放された真名は、何ら予想を裏切るものではなかった。

 天叢雲。三種の神器の内のひとつ。伝承においては八岐大蛇の尾から発見されたと言われる武具である。

 それは紛れもなく、この国由来の剣。

 だが――否。だからこそ、解析を続ける士郎の隣で、セイバーは違和感を覚えずにはいられなかった。

 あの剣とよく似たモノを、自分は知っている。

 その疑念を、真名に次いで発せられた言葉が氷解させた。

「――神剣、抜錨」

◇◇◇

 それは、本来武器ですらなかった。

 世界が神代から人の世に移行する際、世界は人間の為の『物理法則』というテクスチャで覆われた。そして、そのテクスチャを留める為、世界には幾つかの『錨』が沈められたという。

 この神剣は、その内のひとつ。神代を地球の裏側に縫い付ける楔。そして天津国という世界の裏側へ去ったこの国の神性の置き土産である。

 後世においてその残り香が伊吹大明神として崇められることにもなる、古い神の一柱を贄にその剣は鍛えられた。その神は万象に通じる数字を名と体に表し、世界を留める剣の材料として最適だったからだ。

 故にその銘を天叢雲。天(あまつくに)を覆う雲の意を冠したその剣は管理者たる天照大神に献上され、その役割と共に彼の貴い血を引く家系に受け継がれていくこととなり――

◇◇◇

「そうか。御身のそれは、最果ての塔と同じ――!」

 セイバーは叫ぶ。人理を人理足らしめる『錨』のひとつ。かつて自分が手にした聖槍と役割を同じくする兵装。

 違うところがあるとすれば、その剣は正しく現代まで継承されてきたという点だ。

 天照大神からその孫である邇邇藝命、さらにその子孫へ代々伝えられてきたそれは、世界を留める楔であり、同時にこの国の神性を総べる大御神の証でもあった。

「高天原に神留り坐す、皇親神漏岐神漏美の命以ちて――」

 "それ"を命じながら、皇が神剣の切っ先を頭上に掲げた。

 剣を担う当人を除いた全員がそれを見て、そして凍りつく。

 星々を湛えていた筈の夜空が、見渡す限り白く染まっていた。まるで昼日中の如く輝き、地上を照らし始める。

 唖然と開かれた凛の口から、漏れるように言葉が零れ落ちる。

「嘘でしょ……神代の神秘とか、そんなレベルじゃない。それって権能そのものじゃない!」

 権能とは、かつての神代において神が振るった法則である。

 現在の地球を満たす物理法則とは違い、神代の幻想法則は全てが神の御心のままに決定されるという理不尽極まりないものだ。

 例えば火ひとつをとって見ても、その違いはありありと見受けられる。通常の火が酸素・温度・燃料を必要とするのに対し、権能の火は【ただ神様が燃やしたいと思っているから】燃えるのである。つまるところ、水中や真空中でも発火するし、物理的な手段では消火できない。消すには同等以上の神秘が必要になる為、別の権能か、もしくは一部のサーヴァントが持つような最高位の宝具が必須となる。

 例えば、セイバーが携える聖剣エクスカリバー。それは神霊級の魔術行使を可能とする最上級の幻想。皇が天に収束させつつある白光と同等の威力を放つだろう。

 故に、皇はそれを八百万に用意する。

 八百万(やおよろず)――それは文字通りに8000000の数を指し示すものではなく、有限の無数。ただ多きを表す言葉である。

 用意された破滅は1億2632万。そこには万象を焼き祓う炎があり、万象を吹き祓う風があり、万象を切り祓う刃があった。

 この神剣はテクスチャの一部を解放し、限定的に呼び戻した神々の権能を自在に使役する神造兵装。天照大神が、人の国を総べるべしと遣わした天孫に与えた3つの恩恵のひとつである。

 莫大なマナが神剣に吸収される。凛は顔を青褪めさせた。自身に感知できる範囲の全てのマナが流動している。

 その勢いはクジラが海水を飲み込むよりも膨大で、夜空を星が流れるよりも短い瞬きの間に完了した。

 神剣が振り下ろされる。皇の厳かな宣言と共に。

「――降罰」

 瞬間、天が落ちた。

 権能の発露。空に収束したその光は、冬木を丸ごと覆ってなお余りある広範囲に切れ目なく降り注いだ。

 仮に、陵墓課からの報告にあった最高の俊敏性を誇るランサーやライダーであっても逃れ切ることは不可能。

 視界が白く染まる中、皇の視界の端で、少年が動く。

 剣の英霊に駆け寄るその姿。それを見て、皇は報告書にあった少年の名前を思い出した。衛宮士郎。第4次聖杯戦争の終幕と同時に発生した大火災の唯一の生存者。それが、使い魔であるサーヴァントを救うために、我が身を投げ出さんとしている。

 それはとても尊い行動であり、だからこそ、その結末を知っている老人の表情に陰りがさした。

 仮に少年が騎士王に覆いかぶさったところで、結果は何も変わらない。権能の真に恐るべきところはその出力ではなく、抗い難い力であることだ。天より降る神威は、他の何物をも傷つけず騎士王のみを消滅させる。この場に居て権能の発動を知ったもの以外には、この光は見えてさえいない。

 光は地上へ到達した瞬間に無音で消えた。僅かな振動すら起こさない。それを知覚できる者なら、余波だけで目を回すほど濃密な神秘が撒き散らされただけだ。吐き気をこらえて膝をついた、遠坂凛のように。

「セイ、バー……」

 途切れ途切れに呟く。いまの一撃を防げたとは思えない。準備していた奥の手も無駄になった。

 それでも、臓腑の奥からこみあげる何かをこらえて、前を見る。

 ――そして、有り得ざるものをその視界に認めた。

◇◇◇

 天から滅びの光が降ってくる。

 だがそれには目もくれずに、士郎はセイバーのもとに走っていた。

(何の為に?)

 自問自答。衛宮士郎という三流の魔術師に、一体何ができるというのか。

 理解していた。自分如きに、あれは防げない。頭上のそれは、文字通り神によって用意された抗えぬ運命だ。

 衛宮士郎に、それは覆せない。

 ――だが、それが駆けない理由になるか?

「ああ、なるもんか――!」

 吼えて、己の内側に埋没する。世界の外側に、己の戦うべき場所はない。

 衛宮士郎にあれを防げぬというのなら、防げるものを探せばいい。

 灼熱を帯びて回転する魔術回路。焼き切れることすら覚悟して、さらにその深奥――己が起源と呼べる部分まで決死の潜行を行う。

 暗闇の中で、士郎の手が伸ばされた。撃鉄を落とすイメージと共に、己が知る最高の守りを手の中に表現する。

 不可能な筈はない。何故ならそれは、この身が初めて触れた貴き幻想――!

◇◇◇

「それは……」

 展開した奇跡を前に、凛が呆然と呟く。光が地に届く寸前、セイバーと士郎がいた地点。

 そこに、届き得ぬ理想郷が広がっていた。

 セイバーを消滅させる筈だった神光は、その威を果たすことなく消滅している。全ては、セイバーの身体を包む数百の光点――分解した"鞘"の欠片によって遮断されていた。

「エクスカリバーの、鞘……」

 神剣をおろした皇もまた、小さく口にする。想定外の事象を前にしていたのは、神すら総べるこの老人も同じだった。

 だが理解する。全て遠き理想郷。聖剣の鞘。6次元までの干渉を遮断する、アーサー王から失われた筈の宝具。

 何故、それがいまここにあるのか――否。

 横道に逸れた思考を戻す。いま考えるべきは、この国にとっての障害を絶滅させることのみ。

 敵は伝承に名高い至高の守りを取り戻した。自身の纏う<天岩戸>など比べ物にもならない神秘。使用者を妖精郷に退避させる、死なずの鞘。

「……ならば、それを超えるものを産みだすまで」

 6次元までの干渉を防ぐというのなら、それ以上の次元から干渉すればいい。

 だが己が操る権能の中にも、それを可能とするものはない。

 だから、増やす。

 皇はスーツの首元から内側に指先をねじ込んだ。一寸の後、摘まみ出されたのは革紐で首に通されていた勾玉だ。

 それを口に含み、一息に噛み砕く。貴石の強度を持つはずのそれは砂糖菓子よりも柔らかに砕け、一瞬で細かな粒子と化し、老人の周囲に滞留した。

「誓約をここに――八坂五百津之美須麻流之勾玉(ヤサカイオツノミスマルノマガタマ)」

 3種の神器がひとつ、勾玉――その力により、新たな神性を芽吹かせた。

 真名解放により、望む力を持った神性を構築する権能。7次元以上からの干渉を可能とする法則を新たに定め、鞘の守りを突破する。

 粒子として滞留する、無限の可能性を持った架空元素から爆発的な勢いで増える神秘の気配に、凛はもはやひきつるような笑みを浮かべるしかなかった。

「ああもう、なんて出鱈目……! 神産みなんて、それこそ国造りを凌ぐ原初の創造神クラスの大権能じゃない!」

 凛は全力で回路を回し、オドを絞りだした。依然、周囲のマナは皇の真剣に凄まじい勢いで吸収され、自分が取り込むことは困難。

 次に神剣を振り下ろされれば、あの"鞘"を以てしても防げない。

 それでも凛に諦めはなかった。何故ならば、

『――ならば我が生涯に意味は不要ず』

 遠くから、彼の声が聞こえる。

 鞘の展開を終えるセイバーの横で、集中状態に入った衛宮士郎が十小節にも及ぶ大詠唱を終えようとしていた。

 彼は、信じたのだ――自分を、遠坂凛の言葉を。

『この体は、無限の剣で出来ていた』

 ならば、その期待に応えよう。凛は小さく笑う。例え、この身が滅びることになろうとも。

◇◇◇

 詠唱の末尾が結ばれる。同時、世界に炎が走るのを、士郎は視界に捉えた。

 パスを通して送られてくる魔力は濃厚にして潤沢。その大部分を喰い尽くしながら、己が心象風景を展開する。

 無限の剣製。アンリミテッド・ブレイドワークス。魔法に最も誓い魔術、固有結界の一種。衛宮士郎に可能な、唯一の異能。

 公園の石畳は無数の剣が突き立つ荒野へと変じ、夜天は燃えるような赤へ塗り替えられていく。

「なるほど……」

 目の前に佇む老人が、感心したように呟いた。その手に携える天叢雲から放たれていた恐ろしいほどの神秘の圧が、いまは感じられない。

「第五次の終盤、英雄王と共に姿を消した時間があると報告にはありましたが……まさか、己が心象風景で世界を塗り潰す秘法とは」

 神剣の能力は、テクスチャに穴をあけ限定的な神代への逆行を引き起こし、それを制御・使役するもの。

 ならば新たに世界(テクスチャ)を上書きされれば、その能力は発揮されない。操るべき神性が、ここにはない。

 天叢雲の、天敵。

(ですが)

 衛宮士郎が指揮するように腕を振るう。音もなく、荒野からひとりでに引き抜かれた剣群が宙に浮き、その切っ先を皇へ向けた。

 一斉掃射。文字通り無限の剣戟が老人を貫こうと迫る。

 迫る鋼の殺意を前にして、しかし皇はその笑みも僅かにも崩さない。

「いささか、決定力に欠けると見ます」

 陛下が手を御振りになる。それだけで全剣群が停止した。否、正確には停止したように見えて、飛び続けてはいるのだが。

 <天岩戸>。1天文単位の距離を障壁として纏う、皇の絶対防御圏。

 仮にこの距離を踏破する性能を持ち、光の速度で迫る一撃であったとしても着弾まで8分以上かかる。命中を望みたいのなら、最低でも光速の1000倍以上の速度が求められた。

 皇の全身から熱波が放たれ、差し向けた剣が全滅する光景を前に士郎は唇を噛み締める。

(どうする気だ、遠坂。桜からの補助もあるとはいえ、そう長くはもたないぞ)

 神造兵装である天叢雲の完全な読み取り、模倣は不可能。こちらからの攻撃は悉く撃墜される。

 セイバーは不可視の剣を構えて機を伺っているが、自分では攻撃のチャンスを作れない。

 千日手になればこちらが不利――その不安を視線に込めて、士郎はセイバーと共に結界に取り込んだ凛の方を見やり、

「……遠坂、お前、それは一体――」

 己がパートナーの持つ"異物"を認めて、背筋を怖気が蝕む。

 遠坂凛がコートの内側より取り出したのは、一冊の冊子だった。飾り気のない白い装丁。厚さだってそれほどはない。

 だが、それは確かに存在してはならないものだと分かった。冒涜的で、名状しがたい何か。そんな雰囲気がにじみ出ている。

 あれを使わせてはいけない。何故かは分からないが、そんな思いが強烈に湧き上がる。

 だが声を上げようとした士郎を制するかのように、凛は場違いなほどに儚げな笑みを浮かべて懇願した。

「衛宮君――後のことは頼むわね。もしも私が私でなくなったら、悪いけど貴方の手で始末をつけて頂戴」

「遠坂、やめ――」

 そして、遠坂凛はその呪文を唱えた。

 本来ならば彼女が自ら唱えることなど有り得なかった悪徳。

 それが、本来有り得ぬ再会を呼ぶ。

 遠雷の音と共に、哄笑が響いた。

「ハ。ハハハ。クハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!
 呼んだな! 確かに呼んだな! 此処は、何人も希望を求めぬ流刑の地。人々より忘れ去られた人理の外。だが―――」

 それは、恩讐の彼方に忘れ去られた復讐者。

 空気が切り裂かれる音。煌々と燃え盛るような光を発し、高速でここまで飛来する。


「私を呼びましたね! 我が名は愉快型魔術礼装カレイドステッキ付き人工天然精霊マジカルルビー! 宝石箱の奥底より、我が契約者を笑いにきましたよー!」

 ででーん! と、何か飛んできた杖っぽい形のナニカがそう叫んだ。

 時が、確かに停止した。その場にいる全員が、その珍妙な物体へ視線を集中させる。

 視線を露ほども気にせず、ステッキはふよふよと凛に近づいて行った。

「いやー、まさか凛さん自らが呼んでくれるなんて! どうやって(騙して)もう一度契約してもらおうか、ずっと考えてたんですけどねー」

 『カレイドステッキ取扱い説明書』と書かれた紙束が、凛の手から零れ落ちる。同時に、凛が家に残してきた留守番用使い魔へ声を届ける宝石も。

 封印用の箱の前へ使い魔を待機させ、それ越しに、凛は確かに呼びかけたのだ。開けシュバインオーグ、と。

 それは宝石爺ゼルレッチが遠坂家に残した魔術礼装のひとつ。限定的な第二魔法を可能とするパンドラの箱。

 ばっ、と左腕を延ばしながら、凛が叫んだ。

「ルビー! 貴女が必要なの! 私に力を貸して!」

「なんと! 凛さん、本当に切羽詰まってるんですね……って、相手はあのお爺さんですか! なるほどー、あれは確かに規格外です」

 ぴこぴこ、と羽っぽいパーツを皇へ向けて揺らすルビー。

「神代の神秘をそのままの強度で継承してるとか、マジパネー! 天の国よりこの国を総べよ命じられし王。略して、てんのお――」

「それ以上無駄口叩くと殺すわよ! ――じゃなくて、そういうことよ、ルビー! けど、私達のコンビならいけるでしょう?」

「不自然なくらいノリがいいですねぇ! でもそういうの嫌いじゃないです。ノったぁ! ええ、確かに性能はあちらが上。こちらの勝ち目は1%以下。でもそれって、魔法少女的には勝ちフラグ! では行きましょう、凛さん! マジカルパワーでミラクルチェンジです!」

「ええ、変身よルビー! コンパクトフルオープン! 最初から鏡面回廊最大展開で行くわよ!」

「ヤー!」

「や、やめろ遠坂――!」

 止める士郎の叫びも空しく、カレイドステッキが遠坂凛の左手に握られる。


 が。

「……? あのー、凛さん。どうして左手に対侵食用魔術結界がこれでもかと張ってあるんです? これじゃあルビーちゃん、(洗脳)合体できない――え、ちょっと、なんですかこの魔力!? 凛さんの許容量の倍近く――」

「Welt、Ende.Stil,sciest,Beschiesen,ErscieSsung!(事象崩壊。くたばれクソ杖!)」

 重なる様に二人の絶叫が響き。

 凛は決死の表情で、汚物でも払うかのようにステッキを皇へ投げつけた。

 かつて自分が呼び出した赤色の弓兵。その手管である壊れた幻想。過剰魔力によるオーバーロード・ブロークン。回路・刻印ともに最大まで酷使し、全魔力をステッキに注ぎ込む。

「MPSから魔力が逆流して……ぐ、ぐわぁぁああー!」

 魔力爆弾と化したカレイドステッキが爆発した。ケミカルにカラフルな煙が荒野を彩る。

 はぁ、はぁと荒い息を零しながら、凛は己の左腕を見つめた。

(危なかった……桜からの供給はやっぱり予想外だったみたいね。下手すれば魔法少女になってしまうところだったけど、上手くいった)

 代償として、魔術刻印は停止。下手すればこのまま壊死するかもしれないが、それに見合う成果は手に入れた。拳を握りしめる。

「あなたの犠牲は永遠に忘れないわ、ルビー……」

「おい、遠坂。いまのは何だったんだ。ルビーとか言ったか?」

「ルビー? 何それ、初耳。それより、いまがチャンスよ」

 近寄ってきた士郎の視線を、指で誘導する。煙が張れると、そこには腕を抑えて顔をしかめる皇の姿があった。士郎の目が、驚愕で見開かれる。

「あの防御を、抜いた――?」

「あれは限定的でも、第二魔法に届く魔術礼装だった。賭けだったけど、平行世界を経由して魔力的に"触れる"ことだけは出来たみたいね」

 言って、指先からガンドを放つ。飛来する黒の病魔――それを、皇は神剣で切り払った。

 <天岩戸>が、その効果を発揮していない。

「概念による防御は強力だけど、破り方は単純。一度到達してしまえば、強制終了させられる――セイバー、士郎!」

 号令と共に、二人が動いた。再び剣群が舞い、掃射を開始する。

「くっ――」

 皇は周囲に最大規模で熱圏を張った。太陽核と同等の熱量による防御幕。複製された剣の群れは、それに触れた瞬間に蒸発して消える。

 あの謎の杖による謎の爆発は、確かに<天岩戸>を越えた。ダメージ自体は大したものではないが、"距離を越えて触れられた"という結果により、その概念防御は一時的な機能停止状態に陥っている。

 復帰まで数秒。だが、それでは遅い。偽物の剣群は問題にならないが、あの聖剣は不味い。

 視界の端に、不可視の鞘を解き放ち、極光を放つ剣を構えるセイバーの姿があった。

「約束された――」

 マナが爆縮する。際限なく輝きを増すその剣の銘はエクスカリバー。人々の幻想が星の内側で結実したラスト・ファンタズム。最強の聖剣。


 だが、この一瞬にこそ皇の勝機はある。

「それを、待っていました」

 風の守りを、自ら解除する瞬間を。

 熱圏を維持したまま、皇は指先に魔力を集中させる。最大威力で天照を放ち、聖剣が振り下ろされる前に敵の霊核を穿つ。

 その動きを見て、凛と士郎に焦りが浮かんだ。まさか飛び交う剣を防ぎながら攻撃する余裕があるとは。

 セイバーは光を逸らすことのできる風王結界を解除した。おまけに宝具へ魔力を集中している為、動けない。

 二人はその攻撃を防ごうとするが、しかし光の速度に敵う筈もなく。

 光条が解き放たれた。射線上にある剣群を消滅させながら、それはセイバーに迫り――

「……え?」

 ――セイバーの身体の、ほんの数センチ横を飛び去って行った。

(外した?)

 疑問を持って、士郎と凛が皇を見やる。

 果たして、光を放った老人はふらつき、血に染まる自らの額を抑えていた。

 横一文字に斬られたような傷から流血している。流れ出した血が皇の視界を奪い、狙いを逸らさせていた。

 士郎の剣は当たっていない。では、この傷は――

「……マキリ・ゾォルケン――!」

 昼間、塞いだはずの傷。それが再び開いていた。

 それは単なる偶然か、あるいは全力で魔力を通し相応の負荷をかけた故の必然か。

 狡猾な老魔術師が込めた毒、或いは呪いが、この瞬間に――皇にとって、もっとも致命的な瞬間に発動したのだ。

 次の魔力を収束させようとするが、しかし、それよりも早く、荘厳なまでに圧縮された光の斬撃が放たれる。

「勝利の剣――!」

 真名解放。固有結界の中ならば、周囲への被害を気にする必要もない。

 極光が皇へ振り下ろされる。熱の防御を紙切れの如く斬り裂き、最強の剣はこの国のひとつの歴史に幕を降ろさんとしていた。

 対峙する皇は、頭上から迫る光の斬撃へ応じるように神剣を振り上げる。だが固有結界の中で、天叢雲はその真価を発揮しない。それを見て、凛とセイバーは勝利を確信した。

 ――たったひとり、その剣の隠された特性に気づいた、士郎以外は。

「……不味い! セイバー、剣を止め――」

「シロウ――?」

 だが、全てが遅い。老人の切り上げる剣は、光の爆流へ今まさに触れんとしていた。

 どうして気づかなかったのか、と士郎は自問する。

 天叢雲は、スサノオからアマテラスへ献上された後、この国へ降りたニニギに渡る。そして次にその剣を手にしたのは、ヤマトタケルノミコト。

 伝承に曰く、ヤマトタケルは火計に陥れられた際にこの剣を振るい、向かい来る火勢を逆転させたという。

 その際に、天叢雲は名を変えたのだ。その名を――

「草那藝(クサナギ)――!」

 真名が解放される。

 それはひとつの媒体に、二つの真名を持つ宝具だった。

 解放される真名毎にその力を変化させる限定礼装。草那藝と呼ばれた時、それは伝承通りにエネルギーのベクトルを変化させる力を持つ。攻撃を倍加して反射するカウンター型の宝具。

 極光の斬撃を、宝剣が迎え撃つ。光の奔流は逆流を引き起こし――

◇◇◇

 そして、固有結界は霧散した。

 軌道を変化させられた聖剣の一撃が、世界を断ったのだ。

 ほとんど魔力切れの状態で、士郎と凛は息も荒くその場に立ち尽くしていた。もはや固有結界の展開は不可能。

「セイバー……」

「……無事です。まだ、やれます」

 セイバーは、生きていた。

 ほぼ無傷と言ってよいだろう。マスターである凛からの魔力供給が減ったので、先ほどまでのステータスは発揮できないが、外傷はない。

 草那藝によってベクトルを捻じ曲げられた光の斬撃は、セイバーを襲わなかった。正確に言えば、軌道を変化させるだけで精一杯で、正確な反射にまでは至れなかったのだ。

 この場で唯一傷を負っているのは、三人の目の前で同じく息を乱している老人だった。神剣は切っ先を大地に埋め、力なくだらりと垂れさがった右腕はシルエットを歪めている。骨折は明らか。

「……さすがは、伝説に名高い聖剣。事前に報告を受けていなければ、負けていたのはこちらだったでしょう」

 流血に視界妨げられ、咄嗟に反射宝具を展開した代償。並の宝具であればそれでも反射に成功しただろうが、最強の幻想は事前にその速度、範囲、タイミングを知っていても逸らすだけで精一杯だったのだ。

「――まこと、御見事でした」

 だが、その上でもはや皇に敗北はない。

 セイバーが再び風王結界を纏わせた聖剣で斬りかかるが、その一撃は空を切った。<天岩戸>が再起動している。

 さらに老人は陽光の魔力を全身に纏わせ、急速にその傷を回復させていた。敵対者の排除と守るべきものへの慰撫を同時に行う大神の光。マキリの乾坤一擲が今度こそ完治し、反動で折れた骨が正常な位置へ戻り癒着する。

 試すように一度、掌を握り、そして開く。完治したことを確認して、皇は神剣を再びその手に握った。その切っ先をセイバーへ向ける。否――

「……衛宮、士郎さん」

 己へと立ちふさがる少年へ、老人は慈しむような視線を向けた。

 先ほどと同じように、権能であらゆる抵抗を無効化し滅ぼす手段もあった。だが、皇は思いとどまる。この少年の想いを無視したくはない。たとえ、結果的に踏みにじらなければならないとしても。

「諦めては、頂けませんか。彼女はもとより、現世に有り得ざる存在です。貴方との邂逅は、黄金の様な一時の夢だった。そう、納得しては頂けませんか」

「……冗談じゃない」

 トレース・オン、の一言と共に、士郎の両手に弓と矢代わりの捻じれた長剣が出現する。明確な反抗の証。

「俺がセイバーを見捨てることなんて、有り得ない。たとえあんたから守れなくても、最後まで抵抗してやるさ」

「何故です? 確かに彼女を召喚したのは貴方でしょう。しかし、その契約は終了しました。己の使い魔であるというわけではないのに――」

「関係ない!」

 老人の言葉を両断する叫び。士郎は物怖じもせず、断言する。

「契約とか使い魔とか、そんなの関係ない。ただ、セイバーが大切な存在ってだけなんだ!」

「……そう、でしたか」

 呟いて。

 皇は神剣を納めた。世界を鞘に、再び神剣が"錨"としての役目を取り戻す。

 疑問を浮かべる三人を前に、だが老人はさらに混乱させるような動きを見せた。その頭を深々とさげたのだ。

「士郎さん、それに、凛さんも。貴方達の想いを、低く見ていました。まことに申し訳なく思います。まさか、それほどまでに彼女のこと想っていたとは」

 だから、と老人は言葉を続ける。もとの位置に戻したそのかんばせには、あるひとつの決意が浮かんでいた。

「――これより、私も手加減をやめましょう」


 ぱん、と乾いた音が立て続けに二度、響いた。

 それは、柏手。老人の皺だらけの手が、打ち鳴らされた音。鋭い、刃のような音。

 たったそれだけで、士郎の背後にいたセイバーがその場に膝を着いた。

「ぐっ……」

「セイバー!?」

 突然の変化に驚きながら、士郎が振り向く。

 セイバーは急速にその存在を薄くしていた。既に鎧は分解し、風王結界は解けている。再び存在を顕にした聖剣は、その輝きを失っていた。

 魔力が、致命的なまでに尽きかけている。

 だが妙だ。確かに固有結界と宝具の使用によって、大幅に魔力は消費された。しかし現界を維持できなくなるほどではなかった筈。

「遠坂、どうなって……!?」

「……セイバーに魔力を送れない。パスが……切断された? 外から契約に干渉したって言うの!?」

 聖杯からのバックアップがない現状、魔力供給が途切れれば、単独行動ももたないセイバーが消滅するまで時間はかからない。

 士郎は弓を構えた。矢を弦に番え、切っ先を敵に向ける。

「今すぐセイバーを解放しろ!」

「……無駄ですよ、それは」

「ああ、そうか。つまり、こ――!?」

 言葉の後半は、驚愕に打ち消された。

 矢を引き絞れない。どれだけ力をかけても、弦は微動だにしなかった。

 老人が首を降る。神託の如き厳かな声が響いた。

「パスを切断したのでも、貴方の弓を固定したのでもない。大御神の名の下に、貴方達の抗いを禁じました」

 天照大御神。

 太陽の神格であるまえに、それはこの国に住む者の大氏神であるとされた存在。

 この国の民は、全て等しく天照大神の子である。その概念による干渉。それはつまり、

「国民への絶対命令権……!?」

 凛が悲鳴のような声を上げた。疲弊した魔術回路をフル稼働させるが、外部からの影響を排除できない。出力が違いすぎる。

 神秘はより強い神秘に敗北する。親から子への干渉は、原則的に跳ね返すことができない。

 歯を食いしばり、士郎が役に立たない弓を地面に叩きつけた。飛び掛かってでも止めたいが、足が動かない。敵対的な行動を完全に封じられている。

「ふざけるな……! なら、なんでそれを最初から使わなかった!」

「貴方達に自ら諦めて貰うのが、一番良かったのです。精一杯抗った上で、仕方なかったのだと納得して欲しかった」

 老人のその台詞に、士郎は愕然とする。

 なんという慈悲。なんという傲慢。

 その考え方は、確かに人よりも神に近い。

「……時間はありません。せめて、お別れの言葉を交わしては」

「くそっ……くそくそくそくそぉ……!」

「シロウ……凛……もう、いいのです」

「セイバー……!」

 地に突き刺した聖剣を杖にするように、セイバーは薄れゆくその体を起き上がらせた。

「我が身をここまで慮ってくれたことに、感謝を……貴方達と出会えて、良かった」

「……ごめんなさい。私は、至らない主だったわ」

「何を言うのです、凛。貴女ほどのメイガスは、私の時代でもそうはいなかった」

 主従が言葉を交わす。別離を受け入れた、最後の会話。

 セイバーの弱々しい視線が、最後に士郎へ向けられた。

「シロウ……貴方の剣であれたことを、私は――」

「……嫌だ」

「……シロウ」

 震えながら首を振るかつての主に、セイバーは宥めるような苦笑を浮かべる。

 抗いそのものを禁じられた以上、もはや手はない。

 ――本当に?

「投影、開始――」

 士郎は全ての回路に撃鉄を叩き込んだ。

 最後まで抗うことは止めないと誓った。残る魔力は投影一回分。

 上等じゃないか。たとえその先に破滅しかないとしても、進み続けてやる。

 手の中に、幻想が結実する。それを見て、凛の顔色が変わった。セイバーの顔色が変わった。

「士郎、あんた、それ……」

「シロウ、まさか」

 ――皇の顔色までもが、確かに変わった。焦るような口調で、士郎に制止をかける。

「おやめなさい、士郎さん」

 士郎は手の中の短剣を、自らの首筋に突き付けていた。奇妙に捻じれた刃を持つ、一振りの短剣を。

「それをすれば、貴方は私の敵になる」

 破戒すべき全ての符。

 裏切りの魔女が振るった短剣。それは契約を一方的に破棄する鬼札。

 親と子の関係から抗いを封じられたというのなら、まずはその系譜を破戒する――!

「やめてください、シロウ!」

「セイバーの言う通りよ。衛宮君、分かってるの? それをすれば、確かにセイバーの味方ができる。けれど!」

 それは目の前の現人神と敵対することを、確実な死を意味する。

 神剣どころか、ただの人間では放たれた光を防ぐこともできない。

 動きを止めようと老人が再び柏手を打とうとするが、牽制するように士郎は己の手に力を込めた。

 向こうの方が、速い。少年は本気だ。諦めたように、皇は手を降ろす。

「何故、そこまで……」

「……確かに俺はもうセイバーのマスターじゃない。けれど、だからせめて、セイバーの隣に立つのに相応しい奴で有り続けたい。それだけだ」

 告げて、士郎は真名を解放するために息を吸った。

「ごめん、遠坂。こんな馬鹿に付き合わせて」

「やめ――」

 最後に静止の声をあげたのは、果たして凛とセイバーのどちらだったのだろうか。

 だがそれに応える者はなく、短剣の切っ先が士郎の肌に浅く埋まった。

◇◇◇

 間桐桜は冬木大橋の上に居た。

 衛宮士郎と共に戦場に立ちたいという願いと、安全上の問題との妥協点がこの位置だったのだ。

(何が……起きてるんですか?)

 魔力で視力を強化しているとはいえ、詳細な状況は分からない。特に、固有結界の中の状況は全くの不明だったが。

 だが、どうやら趨勢が老人の側に傾いている、というのは理解できる。

 セイバーは膝をつき、遠坂凛は諦めたように力を抜く。

 しかし、その中で衛宮士郎だけが動いた。

 投影した奇妙な短剣を、自分の首筋に突き付けている。

 それがどういう効果をもたらすものなのか、桜には分からない。

 だが、パスを繋いでいた凛の焦りだけは伝わってきた。あれは、先輩にとって悪いものだ。

 髪を留めていたリボンを抜き取り、束ねて魔力を通す。簡単に強化したそれを士郎が残していったワイヤーに通した。

 失敗すれば落ちて死ぬかもしれないし、いまから下に向かって制止するのが間に合うとも思えない。

 けれど、止まっていることは出来なかった。

 が。

 視界の隅に人影を認めて、桜は欄干に足を掛けたあたりでその表情を困惑に切り替えた。

「え? あれ、なんで――」

◇◇◇

「何をやってるんだよお前はぁぁぁぁぁああああああ!」

 絶叫が響いて。

 士郎は勢いよく地面に転がった。背後からの衝撃。どうやら蹴られたらしい。

 ついでに契約破りの短剣の刃が、想定よりも深く首に刺さる感触がした。

「ぉぉおああああああ!?」 

 叫びながら慌てて短剣を手放し、代わりに傷口を抑える。結構な出血量だった。鞘が無かったら死んでいたかもしれない。

「なんでさ!?」

 立ち上がりながら、周囲を見やる。凛も、セイバーも、ぽかんとした表情で新たに現れた人物を見つめていた。

 士郎の背中に飛び蹴りを放ったその人物が、再び掴みかかってくる。

「はぁ、はぁ……お、お前! お前はなんでそうやって人の努力を無駄にするような行動ばっかり取るのかなぁ!? なあ、衛宮ぁ!?」

「し、慎二?」

 間桐慎二がそこに立っていた。ぜぇはぁと、みっともないほど呼吸は荒く、独特の質感を持った髪が汗で額に張り付いている。

 その姿を追うようにして、ワイヤーを滑り降りてきた桜も姿を現した。

「に、兄さん、何でここに」

「桜? あなた、橋の上にいるようにって」

「でも兄さんが走ってくるのが見えたので……」

 凛の疑問に答える桜。それを余所に、士郎は突然現れた旧友への対応を決めあぐねていた。

「慎二、なんでお前がここに……何しに来たんだよ」

「意味がない戦いをやめさせにきたんだよ!」

「あのな、昼に言っただろう? 勝てなくたって、抗うのは止めないって」

「それはそれで馬鹿のやることだと思うけど、僕がここに来たのはそういうあれじゃないよ」

 もどかしそうに士郎を押しのけると、慎二は老人と向き合った。皇もまた微笑を浮かべて応じる。

「間桐慎二さん。お元気そうで何よりです」

「お陰さまで。それより、陛下。矛を収めてよ。もう戦う必要はないんですから」

 走ってきた疲労からか、滅茶苦茶な敬語で慎二は停戦を訴える。

「ほう。どうしてでしょう? 騎士王がこの世に存在する限り、聖杯戦争が再現される可能性は残りますが」

「確かにね。けれど、陛下はそのサーヴァントを攻撃するべきじゃない」

 乱れた呼吸を整える為、一度大きく深呼吸してから、慎二は言った。

「何故なら、そいつの真名を陛下は知らないから」

「? アーサー王、でしょう?」

「それは王という役職を表す呼称であって、名前そのものじゃない」

 慎二の言に、セイバーの真名を知る者達は首をかしげる。

 アルトリア・ペンドラゴン。それがセイバーの真名だ。

 だが、それに何の意味がある?

「そいつの真名は、アルトリア・ペンドラゴン……」

 ポケットから折りたたんだ何かの用紙を取り出し、広げながら慎二はそれを叫んだ。


「――エミヤ。アルトリア・ペンドラゴン・衛宮。そこの馬鹿の妻。つまり、陛下が守るべきこの国の民です!」

 戸籍謄本、と記された紙を突き付けて宣言する。

 鈍器で思いっきり殴られた様な衝撃。思考が確かに一瞬、完全に途絶えた。

「え……えええええええええええええええええええええええええええ!?」

 果たして叫んだのは誰だっただろうか。

 凛がばっ、と己が従者へ確認するような視線を向けて、ぶんぶんとセイバーが首と手を振りまくり、桜があわあわとその場で右往左往し、士郎がなんでさなんでさと念仏の様に呟き続けている。

 その中で、ただひとり。老人が朗らかに笑った。

「そうきましたか。ははは、これは予想していなかった!」

 心の底から愉快そうに、皇は手を打って見せた。再び乾いた音が響き、入れ替わるようにセイバーがその存在濃度を回復させる。

「確かに、我が国の民であるのなら、私は戦う刃を持ちません――騎士王、いえ、アルトリアさん」

「え……あ、はい」

「貴女は、士郎さんの奥さんで間違いないのですか?」

「へ!?」

 呼気の塊をそのまま吐いたような声を出して、セイバーが混乱したようにあちこちを向く。最終的に、彼女の視線は夫とされる士郎の方へ固定された。

 目を向けられた士郎もまた激しく視線を彷徨わせたが、慎二が頭を叩いて無理やり頷かせる。

 それを見て、セイバーは混乱を収めたのか――あるいは混乱したまま流されたのか、同じようにこくこくと首を縦に振った。

 少女の肯定を認めて、老人は深々とその場にいる全員に頭をさげた。

「ならば此度のこと、まことに申し訳ありませんでした。この補償は、いずれ必ず――ああ、それと間桐桜さん」

「は、はい?」

「良い、お兄さんを持ちましたな」

「?」

 唐突な賛辞に桜は疑問符を浮かべるが、老人はそれ以上なにも語らなかった。

 混乱続く現場に背を向け、夜の闇に消えていく。取り残された状況に者達は、ただその背中を見送ることしかできなかった。

 かくして、この一件はここに終息したわけだが――

 実際にはむしろ、ここから始まることの方が多かった。

◇◇◇

 後日談。

 衛宮邸の居間。ちゃぶ台の前で、セイバーはぴしりと正座をしていた。そのこめかみからは絶え間なく冷や汗のようなものが流れており、視線はちゃぶ台の天板に固定されている。

 前を向けない。向こう側に座った、女神の様な笑みを浮かべるあかいあくまを直視できない。

「……聞いてるのかしら、衛宮さん?」

「は、はい……あの、いえ。凛。私のことは、これまでどおりセイバーと……」

「あら、私の呼び方に文句がお有り?」

「い、いえ! 決して文句など……」

「良かった」

 欠片も良かったとは思っていないような表情――笑顔だったが、笑っていないと断言できる――で、凛が続ける。

「さて。時計塔への留学は予定通り卒業してからになったわ。けど、どう思う?」

「……な、なにが」

「いえ、衛宮さんは使い魔としては破格の存在でしょう? 私もそれ込みで評価されていたと思うのだけど……でも、どうかしら? 使い魔に恋人を寝取られる主って、どんな評価になるのかしらね?」

「り、凛! わ、私は決してそのような……そ、それにシロウと寝所を共にしたことなどない!」

「寝所を共に、ね。お上品だこと……やっぱり、私みたいな下賤な平民とは違うってわけね」

「違います! 貴女は私の主に相応しい、清廉潔白な傑物だ!」

「あら、そう?」

「ええ、そうですとも!」

「じゃあ、私と同じような言葉使いも出来るわね? 寝所を共にする、ってどんな意味かしら? 私にも分かりやすい言葉で教えて下さらない?」

 あかいあくまは笑顔を絶やさず、声を荒げもしない。責めてくれなければ、謝罪もできない。

 針のむしろ。まさしくその言葉が相応しい。

 胃の辺りを擦りながら、セイバーは現実逃避するように遠い記憶に想いを馳せた。

(ああ、すまないランスロット卿。いま、正しく理解した。貴卿もこのような思いをしていたのだな……)

◇◇◇

「遠坂、またやってるのか……」

 締め切られた居間に続くふすまを見て、士郎は溜息をついた。

 数日前、あの事件が解決してからよく見られる光景だ。もちろん、遠坂も本気で自分とセイバーが一応の婚姻関係になったことを恨んだりしているわけではないのだろうが、面白がるように何度もセイバーで遊んでいる……いや、やっぱり多少は何か思うところもあるのだろうか。

 とまれ、こうして会話を交わすことができるのは幸運なことなのだろう。

(そこは、慎二の奴に感謝しないとな)

 あの日。どうやら慎二は自分達と別れてからしばらくした後、冬木教会に駆け込み、例の後任の神父に戸籍の偽造を依頼したらしい。

『パスポートもそいつが偽造したって言ってたろ? 本当に通用するようにしてるんなら、この国の人間にすることもできると思ってさ』

 ただ国籍を偽造するだけではなく、婚姻という形で『縁』を結ばせ、皇による征伐の対象外となる可能性を上げようというのは神父の提案だったらしいが。

 何はともあれ、賭けは上手くいった。いくつか変化はあったが、こうして日常が戻ってきている。

「あ、先輩」

「む、桜か」

 その変化の内のひとつである桜と、縁側ですれ違った。

 間桐邸が完膚なきまでに焼失した為、間桐兄妹は現在、衛宮邸に住んでいる。女性陣が離れに、士郎と慎二と母屋に、という部屋割りだ。

 新都にホテルを取ろうとしていた慎二だが、事件の後は『命を救ってやったんだから、これは当然の権利だ』と我が物顔で居座っている。

 ちなみに間桐邸の再建には1年近くかかるらしい。間桐臓硯が火災保険に入っていた為、手続きなどはスムーズに進んだという。

「遠坂先輩は、またセイバーさんと……?」

「ああ、飽きないよなあいつも」

「む。駄目ですよ、先輩。二人は先輩のことで争ってるんですから、そんな他人事みたいに」

「いやぁ、冗談みたいなもんだろう?」

「冗談みたいなもの、っていうのは、冗談じゃないから冗談みたいなものなんですっ」

 めっ、と怒ったように桜が人差し指をこちらに向ける。

 そう言われると、こちらも反省するしかない。ただ正直、どうすればいいのか自分自身、分かりかねていた。

「……確かに、俺が悪かった。でもさ、どうすれば……」

「まず、遠坂先輩を宥めないと……先輩、遠坂先輩のことが好きなんでしょう? もちろん、いまも」

「それは、そうだけど……」

 歯切れ悪く答える。

 確かに、衛宮士郎は遠坂凛のことがいまなお好きだ。

「でも、一応俺はセイバーと……その、結婚してるから」

「だから、遠坂先輩への好意を表に出しにくい、ってことですよね」

「ああ……俺自身、情けないとは思ってるんだ。でも、どっちに好意を表しても、それはもう片方への裏切りみたいで……」

「ふふふ、先輩は真面目なんですから」

 おかしそうに桜は笑った。そして「なら、ここは」と提案してくる。

「きちんと伝えるべきでしょう。二人とも、同じくらい好きだ、って」

「……いや、それは悪手じゃないか? 刺されても文句は言えないような……」

「でも、これしかないと思いますよ? セイバーさんとの婚姻は絶対に取り消せませんし――」

 何しろ、離婚したらあの神様系老人が再び襲ってくることは想像に難くない。

「――それに、先輩。遠坂先輩と、その……深い関係に、なってますよね? パス、繋がってましたし」

「あ、ああ、その……まあ、な」

 妹分に肉体関係をそれとなく指摘されるのはかなり気まずいが、それでも真実だ。何とか頷いて見せる。
 
「なら、先輩のことです。遠坂先輩をふっても後悔し続けるでしょうし、そもそもセイバーさんのマスターは遠坂先輩なんですから距離を置くこともできませんよ?」

「いや、でもなあ……」

「……こう考えてみてはどうでしょう、先輩」


 にっこりと微笑んで、桜。なにか、その笑みに見覚えがある気がしたが、思い出せない。

「皆を幸せにする。それが、先輩の責任なんです」

「俺の、責任……?」

「はい、そうです。"複数人"と付き合うのは、むしろとても大変なことですよ? 先輩は自分の為じゃなくて、皆を幸せにするために、それをしなくちゃいけないんです」

「……」

「もちろん、いますぐここで決めることじゃありませんけど。まずは三人で話し合って、きちんと思いを伝えることが大事です」

「……そうか。そうだよな。ありがとう、桜」

「いえいえ……それじゃあ、予行練習してみましょうか」

「予行練習?」

「ええ。というより、自己暗示といった方が適切かもしれません。遠坂先輩は圧が強いですから、話し合いの時にきちんと意見を言えるようにしましょう。先輩、私の後に続いて復唱をお願いします」

「え、あの、桜」

「はい、復唱!」

 有無を言わせず桜が先に進める。この奇妙な押しの強さも、事件後の変化のひとつではあった。

「二人を幸せにするぞー!」

「ふ、二人を幸せにするぞー」

「"複数人"と付き合うことは、何もおかしくありません!」

「複数人と付き合うことは、なにもおかしくない」

「深い関係になったら絶対に責任を取ります!」

「深い関係になったら責任を取る――いや、桜。それは関係ないんじゃ」

 桜はそんなこちらの言葉を無視するように、ポケットから取り出した薄い機械をいじっていた。

 なんだろう。ウォークマンに見えるけど、なんでいま操作してるのかな?

「桜、それは一体?」

「あ、なんか偶然電源が入りっぱなしになってたみたいで……」

「そっかー、偶然かー」

「はい、偶然です」

 桜の力説振りには納得するしかない。

 しかし、危うくげすの勘繰りをしてしまうところだったな。いまの言葉が録音されていて、それが遠い将来、何かの証拠として使われるような、そんな光景が浮かびかけたのだ。

 だけど、まさか桜がそんなことする筈ないしな!

「うふふふ。先輩、それじゃあ私はこれで……バックアップを取っておかないといけないので」

 ――これより未来の話。時計塔所属の多くの男性から、衛宮士郎はその命を狙われることになる。

 それについて、彼に付けられた『永遠の幼妻&姉妹丼の三刀流野郎』なる新たな仇名との因果関係は不明である。

◇◇◇

 間桐慎二は割り当てられた部屋の文机に向かっていた。

 何しろ、この家にはまともな娯楽物が存在しない。適当に買い揃えることも考えたが、引っ越しの際の手間を考えるとどうにも億劫である。

 なので、こうして受験勉強に精を出しているのだった。慎二の夢だった上京――間桐の家から出ていくことは、間桐臓硯が死亡したことで揺らいではいたが。

 不意に、とんとん、と廊下に通じているふすまが揺れた。

 慎二は胡散臭げな表情で振り向く。

「ふすまをノックするかな普通……入りなよ」

「――失礼します」

 と、入ってきたのは色濃い疲労を浮かべたセイバーだった。

「何だよ、遠坂との話し合いは終わったわけ?」

「話し合い……話し合いだったのでしょうか、あれは……」

 遠くを見るような目をするセイバーに対し、慎二はどうでも良さそうに肩をすくめた。

「で、何の用? 僕もさぁ、暇じゃないんだよね。愛しのダーリンのところにでも行って――分かった。これ以上は言わない」

「賢明な判断です」

 セイバーの手の中にあった、不可視の何かが消える。

「……本当に追い詰められてるんだな、お前」

「貴方にも責任の一端はあるかと」

「何だよ、あの人に殺されてた方が良かった?」

「その点に関しては、感謝をするより他ありませんが」

「要らないよ、言葉だけの感謝なんて。っていうか、別にお前の為にやったんじゃないし」

「――全ては桜の為、ですか」

「……」

 セイバーの台詞に、慎二が睨むような目線で返した。だが構わずセイバーは続ける。

「あの老人の最後の台詞の意味を、ずっと考えていました。慎二。貴方はシロウの為でも、ましてや私の為でもない。桜がシロウの力になりたいと願ったから――桜の為に、あんな行動をしたのでしょう」

「……だったら何さ」

「いえ。ただ、何か桜に伝えたいことがあるのなら、素直に伝えた方がいいと、そう思ったものでして」

「遠坂に何も言えない奴が、偉そうに――分かった。これ以上は言わない」

 騎士王が聖剣を収めて部屋を出て行った後、慎二は文机の上で頬杖を付き、呟いた。

「……まあ、いつかね。そう、その内にさ……」

◇◇◇

「――と、あの事件についてはこれくらいでしょうか」

 数年後、時計塔現代魔術科の学術棟。そのロードの私室にて。

 遠坂凛は君主のひとり、エルメロイⅡ世と対面していた。

 凛がエルメロイ教室に所属してしばらく経つ。本来は鉱石科に所属する筈だった凛が、現代魔術科に所属しているのは、概ね今話した事件のせいだった。

 アンタッチャブルとされてきたあの国の現人神とやりあった、なんて厄介者は、どの科も引き取りたくなかったのだ。

 一時は鉱石科どころか時計塔への所属も危ぶまれるレベルだったが、そこに口を出してきたのが元魔導元帥――キシュア・ゼルレッチ・シュバインオーグである。

 『あの性悪杖を騙くらかすとは見上げた奴よ』とのことで、ある条件と引き換えに、適当な教室に所属させるように口利きをしてくれたのだ。

 かくして各学部での押し付け合いの結果として、問題児の最終処分場であるエルメロイ教室に身柄は落ち着くことになったのだが、ここでもⅡ世から所属に当たっての条件を出されることになる。

 ゼルレッチから出された課題は『逃亡したカレイドステッキの回収』。どうやらあの爆発でも死んでいなかったらしい。柄の部分を尻尾切りに逃げ延びたのだという。ちなみにその柄に良心回路やら欲望抑制回路などが備わっていたという話だ。いまはなんか七つに分裂して好き勝手しているということで、出来れば二度と関わりたくない。

 それに比べれば、エルメロイⅡ世から出された条件は優しいものだった。時計塔の敷地内に、無断でセイバーを連れ込まないこと。なぜそんな条件を出したのかは教えてくれなかったが、どの道、セイバーにとって魔術の授業など退屈なだけだろう、と凛は二つ返事で快諾した。

「……その、お代わりをどうぞ」

「あら、ありがとうございます、グレイさん」

 新しい紅茶のカップをテーブルに配膳してくれたのは、エルメロイⅡ世の内弟子であるミス・グレイである。姉弟子にあたる人物に対し、凛がそちらに向き直ってお礼を言うと、びくり、と体を竦ませてそそくさとⅡ世の背後へ逃げるように退散してしまう。

(どうも、出会った日から避けられてるのよね……)

 深くフードを被っている上にマスクにサングラスという出で立ち故、凛は未だに彼女の顔を見たことが無かった。出会った当初はここまで重装備というわけでもなかった気がするが、きっとそれは出会った時が特別だっただけで、こっちが素なのだろうと納得している。それに、変人奇人揃いのエルメロイ教室の中では比較的常識人の部類だ。

「……協力に感謝する、リン」

 師である不機嫌顔の痩せぎす男が、そんな凛の視線から内弟子を庇うように声を上げた。

 エルメロイⅡ世――現代魔術科のロードであり、現在は凛の魔術の師でもあった。

「いや、聞きしに勝る化け物振りだな。全身からレーザーを放ちつつ天文単位の空間断層を常に付き従えて数多の権能を自在に操る? どこぞのゲームかという」

「本当に。セイバーを守れたのが不思議なくらいです」

「……」

「先生?」

「ああ、いや」

 誤魔化すように葉巻をふかしてから、Ⅱ世は眉間の皺を揉みほぐすように指で擦った。

「……情報封鎖という点で、陵墓課は強敵でね。当時の詳しい状況は、おそらく当事者である君たちを除けば、他のロードですら知らない情報だろう。貴重な話を聞けたよ。なるほど、確かにこれは触れてはならない類のものだ」

「ええ。もう二度と戦いたくはありませんね」

「……ふむ?」

 険しい目つきで、Ⅱ世は凛を見つめてきた。凛が訝しむように視線を返すと、ソファから立ち上がり本棚に向かう。

「君は、なぜあの国唯一の貴族が不可侵とされていると思った?」

「え……だから、化け物みたいに強いからでしょう?」

「それは本質ではない。20点、というところだな。ああ、あった」

 何かのファイルから数枚を抜きだし、Ⅱ世は再び凛の対面に座った。間を隔てるテーブルの上にその資料を乗せる。そこには折れ線グラフが記載されていた。

「……これってマナ密度のグラフですか?」

 周りに書いてある文字などから、凛がその意味を読み取る。

 大源――マナは世界に満ちる力だ。体内で生み出されるオドと比べて、その量は無限ともいっていいほどの隔絶がある。大魔術を使おうと思えば、オドよりマナを使う方が圧倒的に効率がいい。

 Ⅱ世が持って来たグラフは、どうやらマナ密度の推移についてのものらしかった。地上、水中、山頂など、様々な場所でのデータが記載されている。

 確かにマナは周辺環境、天体の運行などの影響を受ける。だが、この資料自体は大したものではなかった。入学したての学生に、レポートの書き方を教える為の教材くらいにしかならないだろう。

 そんな凛の言葉に、Ⅱ世も大仰に頷いて見せた。しかし、言葉を付け足す。

「それが、さっき君が話してくれた日のデータだとしてもかね?」

「はぁ、それがどうかして――」

 と、そこで凛が口を閉ざす。しばらく黙考した後、信じられないようなことに気づいた顔つきで、今度は真剣にグラフと向き合い始めた。

「ファック……」

 ぼそり、とⅡ世が口にする。たったこれだけのヒントで到達するとは、やはり彼女は優秀だ。他の弟子たちと同じように、易々と高い位階に辿り着くのだろう。

 やがて、凛がグラフを机上に戻した。紅茶のカップを一息にぐい、と乾し、ぼふりとソファに背を預ける。

「嘘……アンタッチャブルって、そういうこと?」

「どういうことか――答え合わせといこうか」

「……このグラフは、世界各地のマナの密度が記されていますが……」

 ぐったりとした声で、それでも気丈に凛は応じた。


「私達があれと戦った時刻、全てのグラフで同等の密度低下が確認できます……つまり、世界中のマナに影響が出ていた」

 数年前の、しかし今なお鮮明な記憶を引っ張り出す。あの老人のが振るった神剣は、確かに呆れる量のマナを喰らっていた。

 だが、ここまでとは思わなかった。当然だ。その場にいる一魔術師に観測できる範囲ではない。それこそ、神の視点で見るか、こうして後に各種データを突き合わせるしかない。

 Ⅱ世は凛の解答に頷いて見せた。短くなった葉巻の火を消すと、グレイの入れてくれた紅茶で口を湿らせる。

「そうだな。そもそも神の権能など、現代で扱えるはずはないんだ。そこには何らかの代償が存在しなければならない。この場合、特異なのはその代償を個人ではなく世界に押し付けているということだが」

 グラフの折れ線に指を這わせながら、Ⅱ世。

「君たちの戦闘は、実時間にして五分足らずというところだろう。それだけで彼の帝は世界のマナ総量の実に3%を消費した。単純計算で2時間半も連続戦闘を行えば、世界中のマナは枯渇することになる……いや、権能を一度振るっただけでそれだけのマナを消費したのだろうから、実際はもっと短時間になるだろうな」

「マナが枯渇すれば……」

 ごくり、と凛の喉元が動く。Ⅱ世はこともなげにその答えを口にした。

「オドが人間の精気であるように、マナはこの星の精気だ。当然、世界への多大な影響も出るだろうが……我々にとっては、もっと不味い影響が出る。何しろ神秘という神秘が死に絶えることになるだろうからな。多くの家系が滅亡し、各魔術基盤も大多数が壊滅するだろう。端的に言えば、この世界から魔術というものがほぼ消えてなくなる。
 ふむ、陵墓課が主の出陣に消極的なのもこの辺りが原因だろうな」

 魔術師にとって、あの国がアンタッチャブルであるとされる本当の理由。

 下手をすればあの日にそれが起こっていたという事実に、凛は背筋を凍らせた。

「……まあ、おかげで聖杯戦争の解体はスムーズに行くだろうがね。穢れているとはいえ、第三魔法由来だ。本来なら解体に乗じて式を手に入れようとする輩は確実に現れただろうが……あれに目をつけられたのではな。護衛を連れて行く必要すらないかもしれん」

「拙は、師匠と一緒に行きます」

「ああ、それは勿論だが……さて、復活したかね、リン」

「……ええ、どうにか」

 ソファからようやく背を離して、凛はぐったりと呻いた。


「言うまでもないが、この情報はみだりに口外しないように。それこそ君や君の……従者を狙う魔術師が出てくる可能性がある。全く、うちは問題児揃いだとよく言われるが、君もとびきりだな」

「それを受け入れる先生も先生だと思いますけどね……さてと、私はこれで失礼します。お茶、御馳走様でした」

「何か用事でも?」

「ええ、日本にいる妹が今日こっちに遊びにくるので、一緒に食事でもと。弟子が迎えに行ってて、そろそろここに着く筈です……ああ、セイバーは敷地の外で待たせてますからご安心を」

「……厄介事は勘弁してくれよ。君とルヴィアのファーストコンタクトで、ノーリッジ学舎の2割が全損したのは記憶に新しい」

「あれは人の弟子にちょっかいをかけてきたあっちが悪いんです。それに、今日来るのは妹ですよ? まさか二の舞なんて」

 ないない、と笑いながら手を振りつつ、凛は退室していった。

 それを確認して、グレイはマスクとサングラスを外しポケットにしまう。意気地のない自身に嫌気がさし、小さく溜息をついた。

「そう自分を卑下するものじゃない、レディ……ああ、それとその変装道具はまだつけておきたまえ」

「? どうしてですか?」

「……どうにも、先ほどから嫌な悪寒が止まらんのだ」

 そのⅡ世の言葉が切っ掛けだったように。

 窓から爆音が飛び込んできた。慌ててグレイが駆け寄り、外を見やると、先ほどこの部屋を出て行ったばかりのミス・トオサカと、見覚えのない女性が魔弾を撃ち合っていた。その中央では何度か見た覚えのあるミス・トオサカのお弟子さんが昏倒している。ベルトが千切れでもしたのか、ズボンがずり落ちていた。なぜベルトが千切れるのかは分からなかったが。

 地獄絵図の如き状況に、グレイはどうしたものかと師匠へと振り返る。

「あ、あの、ミス・トオサカが……」

「やはりか。そんな気はしてたんだ……フラットとスヴィンを呼んできて鎮圧させろ。二人とも、まだ補修を受けている筈だ」

「わ、分かりました!」

 ばたばたと部屋を飛び出していく内弟子を見送って、

「聖杯戦争の解体、か……当然、冬木の管理者である彼女の協力は必須だったが……あのトラブルメーカー振りは何とかならんものか」

 これから書くべき始末書の枚数に胃を締め付けられながら。

 エルメロイⅡ世はめっきり深くなった眉間の皺に指を当てて天井を仰ぐのだった

終わりです。事件簿アニメ化やったーーーー!
依頼して来ます

乙でした。良作。

おっつおっつ、良いものを読ませていただいた

おつおつ
面白かった

何だこの完成度高さは…乙

一発ネタ的なのかと思ってたら重厚だった
乙乙

さすがに陛下に勝つってわけにはいかないだろうし
かと言ってセイバーが消えるのでは話として微妙になりそうだと感じてたから
このオチは素晴らしいと思った

面白かったです

乙!

今上陛下で二次創作とか何考えてるんだ?陛下はお前のお人形じゃないんだぞ。それになんだこの乙レスは?俺がおかしいのか?

乙乙

>>72
文句言う前にちゃんと読もうね

もし最初から最後まで読んだ上でのレスだとしても、初手批判だけして内容に全く触れてないんじゃそう取られちゃうし
そもそも故人はよくて今の人物はだめってのはよくわからんし(Fate原作を受け入れてる前提で書いてるけど違ったらごめんね)
これが営利目的の作品なら一発アウトだろうけどそういうわけじゃないし

同意を得たいにしろ(正しい意味での)批判が目的にしろもっと論を展開すべきなのでは

こんなドヤってる陛下とそれに力貸したアマテラスも
ヴェルバーに総出で土下座したと思うと腐った生える

それはそれとして題材的にいかがなものかと思うので
宮内庁の窓口辺りに通報しておけばいいのかな?

通報したければすればいいけどたぶん期待するような事は起きないと思うぞ

まあ実在する皇族の他にも皇族が居たんだよってのは小説とかでもよくある設定な気が
俺が読み違えてなければこの話の”陛下”もあの方とは関係無いし

あんだけ天皇やら愛子やら眞子がネットでネタにされててもどうにもなってないんだからへーきへーき

乙乙
そういえば鏡は最後まで出てきていない?

>>80
ユーザーが選ぶ使えない宝具NO1だから…

不敬不敬不敬不敬ってどいつもこいつもうるさいんじゃぼけ
読めばリスペクトしてるのわかるやろ

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