渋谷凛「夕空とカレー」 (20)


 人混みをかきわけて、スーツ姿の男が一直線にこちらへ歩いてくる。

 「よっ」だとか「ほっ」だとか。

 そんな間抜けな声を上げ、私の目の前に到着した彼は歯を見せて笑う。

「お待たせしました」

「うん。待った」

「ごめん、ってば」

 言いながら、そのまま私の手を取って「じゃあ行こうか」と引いてくるので、「ん」と返事をして、されるがままに足を踏み出した。


SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1550590751




 数分ほど歩いて、先を行く彼の足がぴたりと止まった。

「どうしたの?」

「いや、カレーのいい匂いするなぁ、と思って」

 言われて、鼻を利かせてみると確かに、風に乗ってどこからか運ばれてきたカレーの匂いがした。

「そういえば、あったよな。カレーのさ、事件」

「カレーの事件?」

「ほら、事務所でさ、めちゃくちゃ怒られたやつ」

「あー、あったね。そんなことも」

「なー。あのときの凛の慌てようは最高だった」

「あれ、私は被害者みたいなものなのにね」

「そうだっけ」

「そうだって。そっちが言い出して、私は巻き込まれただけ」

「何を。凛だってノリノリでカレー作ってくれたクセに」

「私、アイドルになったばっかで言いなりだったし」

「嘘つけ。凛は最初からそれなりにフランクな感じだったし、何よりアレはアイドルになってから結構経ってた」

「そうだっけ」

「そうだって」

 もう何年も前の事件の責任のなすりつけ合いをしながら、歩く。

 もちろん悪事の比率的には、隣のへらへらしている男が九割九分くらいを占めるのは言うまでもない。

 はぁ、と吐いた白い息が蜜柑色の空へ立ち上ってくのを見送り、思い返す。

 そういえば、あの日もこんな寒くて、夕焼けが綺麗な日だった。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 スタジオを出て、ひんやりした空気を肺いっぱいに吸い込む。次いで、吐いた息は白く、ぼんやり宙に漂って消えた。

 今日も頑張った。軽い自画自賛の後に息が消えていった先を、何とはなしに眺める。一筋の飛行機雲が視界の端から伸びていて、続く先を目で追うと西の空がほんのりと蜜柑色をしていた。

 手首を返して時計を見ると、時間の経過に驚かされる。朝からずっとスタジオに籠っていたこともあり、今日という日が一瞬で過ぎ去ってしまったような感覚だ。学校が休みでもお仕事があるし、アイドルとなってからというもの、休みらしい休みはあまりなくなってしまった。もちろんそれは承知の上であるし、お仕事があること自体はありがたいことだから、文句を言うつもりは一切ないのだけれど。

 とどのつまり、ただのないものねだりだ。そして、いつまで経ってもないものねだりをしていても仕方がないし、帰るとしよう。

 目の前で私を待ち構えているタクシーに歩み寄ると、ゆっくりと後部座席のドアを開けてくれた。ぼすん、とやわらかい後部座席に腰掛ける。

 そういえば、どこかの誰かも「今週も休日出勤だ」ってぼやいていたっけ。なんていう、どうでもいい記憶が呼び起された。静かな事務所で一人パソコンのキーボードを叩く、自身のプロデューサーの姿を連想してしまう。

 思い出してしまった以上は確認したくなるのが人間の性というものであり、これは、ただ、それだけのことだ。などと脳内で言い訳をしながら「どちらまで」と問う運転手さんに「ちょっと待ってください」と返す。

 鞄から携帯電話を取り出して、事務所の電話番号を入力する。発信ボタンを押し、数コールの後に快濶な『お電話ありがとうございます』という声が返ってきて、止まることなく事務所の名前、部署が伝えられ、最後に声の主が名乗った。

「私だけど」

『もー、ケータイにかけてよ』
 
「ごめん。でももう用件は済んだから大丈夫」

『え、どういう』

「なんでもないよ。またね」

 ぶちり、と強引に通話を終了させて、携帯電話を鞄にしまい直す。

 私が行先を告げるのを待ってくれている運転手さんに「事務所でお願いします」と言った。





 車に揺られること数十分、目的地である事務所の前に、私を乗せた車は緩やかに停車する。運転手さんがメーターを操作して、料金を告げる。あらかじめプロデューサーから受け取っていた紙幣を手渡し、かわりにお釣りと領収書をもらって車を降りた。

 そのまま事務所の玄関へと進み出て、廊下をずんずん進んでいく。いつもなら事務員であるちひろさんであったり、他の子のプロデューサーの人たちであったり、アイドル仲間のみんなで賑わう事務所も、休日となると人も閑散としている。

 もちろん、私たちアイドルのお休みは決まった曜日にあるものではないから、常に誰かしらが事務所にいるとは思うけれど。

「え、凛」

 こんな具合に。

「お疲れ様。休憩中?」

「まぁそんなとこ。あと一息ってとこだな」

 こめかみの辺りを人差し指でなぞりながら、目の前のスーツ姿の男はため息を吐く。

「事務所、他に誰もいないの?」

「さっきまでは何人かいたんだけど、もう帰っちゃった」

「そっか。お休みなのに遅くまでお疲れ様」

「ん、ありがとな。凛もコーヒー飲む?」

「じゃあもらおうかな」

 うーい、と気だるげな声を上げて、給湯室へ引き返していくこの男こそが私の担当プロデューサーだ。だらしなくネクタイが歪んでいるところを見るに、事務所に誰もいないからって相当気を抜いていたらしい。




 まだ半分くらい入っているコーヒーデカンタからマグカップに並々と注ぐ。プロデューサーは私が何か言う前にシュガーとミルクを戸棚から出してくれる。それらを投入しマドラー代わりのお箸でくるくるとかきまぜ、まろやかな茶色が湯気を立てるカップに口をつけると、ほぅと息が漏れた。

「寒かったでしょ」

「うん。あったまるね」

「それで? 凛は何しに来たの」

「んー、用事っていう用事はないんだよね」

「あ、そうなの」

「強いて言うなら、安否確認」

「なるほど。まぁ、立ち話もアレだし座ってゆっくりしてったらいいよ」

「うん」

 そうする、と続けて、歩いていく方へついていく。ぺたぺたと廊下を抜けて入った事務所のなかは、プロデューサーの言葉どおり誰もいなくて、なんだか新鮮な感じがした。

「ホントに誰もいないんだね」

「そー。あとは俺だけ」

「ふぅん」

 プロデューサーは自分のデスクの上にコーヒーの入ったマグカップを置き、椅子へ「どっこいせ」という掛け声と共に腰掛けた。

「おじさんみたいだよ」

「もうおじさんみたいなもんだからなぁ」

「まだおじさんでもないのにおじさんを自称するやつはダメだ、って言ってたよ」

「誰が」

「お父さん」

「じゃあダメって言われないようにまだおじさんを名乗るのは控えよう」

「うん。そうしなよ」

 くすくす笑い合ったのちに、プロデューサーの隣のデスクから椅子を引き抜いて、私も腰掛ける。ティッシュを三枚ほど重ねてコースター代わりにしたものを敷いて、マグカップを置いた。

 何を見るでもなくぼんやり机上の様子を観察すると、デスクの上も結構性格って出るものなんだなぁ、と発見した。私がいま腰掛けさせてもらっているデスクの持ち主は、うちの事務所の辣腕事務員と名高い千川ちひろさんで、ナンバリングされ順番に並べられたファイルをはじめ、整然としている。事務員のお仕事についてはまだあまり詳しくなく、こういうことをやっているらしい、程度の知識しかないけれど、それでも千川ちひろさんという女性の人となりがなんとなくわかるようで面白かった。




「どしたの。ぼーっとして」

「あ、うん。ちょっとね。ちひろさんの机の上見ててさ、整頓されてるな、って」

「あー。まぁ、そうだよな。俺も綺麗にしてるつもりなんだけど、千川さんには勝てないなぁ」

「そうだね。けど、プロデューサーが快適に使えるなら今のままでもいいんじゃないかな」

「そう。まさにそこなんだよ。俺の机は俺が使いやすければいいけど」

「あー、ちひろさんの机の上のものは他の人が必要なものもある、ってこと?」

「正解。だから千川さんには頭上がんないよ」

「ふぅん。ちひろさんってすごい人なんだね」

「そうだぞー。凛は千川さんと話したことあんまないんだっけ」

「んーん、それなりにあるよ。会えば挨拶するし、時間あるときは雑談もするし。でもそんなに深い関わりはなかったから」

「なるほどなぁ。今度ご飯でも誘ってみたら? 案外ノってくれると思うぞ」

「え、なんで?」

「凛のこと、よく褒めてるから」

「そうなんだ。じゃあ今度誘ってみようかな」

 こんな調子で雑談に花は咲き続け、事務所には私たちの声とプロデューサーがキーボードを叩く音だけが響いていた。




 やがて、プロデューサーが強めにエンターキーをたーんっと叩いて「よし」と言った。私が「終わったの?」と聞くと、プロデューサーは「あとは確認したら終わり」と親指を立てる。それと同時に、プロデューサーのお腹がぐぅと音を上げた。少し照れ臭そうに親指を立てたまま笑うプロデューサーの姿がなんともお間抜けで私はつい吹き出してしまう。

「恥ずかし」

「ぷっ、あはは。でも、仕方ないよ、ほら、生理現象だし」

「そんな笑うことないだろ」

「ごめんごめん。でも、おかしくて。お昼ご飯食べてなかったの?」

「忙しくてさ、昼夜兼用でいいか、みたいな」

「もう。そんな生活してたら体壊しちゃうよ?」

「んー。気を付けます」

「夜ご飯はちゃんと食べること」

「はい。……でもちょっと眠いから仮眠取ってから」

「もう」

「凛も俺に付き合ってないで遅くなんない内に帰りなよ」

 言って、プロデューサーは椅子から立ち上がる。のそのそとした足取りでソファまで歩いて行き、重力に身を任せるままに倒れ込んだ。その様を見て、私は聞こえないようにため息を吐いた。

 実は今日事務所に来た理由は、一緒にご飯でも行けないだろうか、なんて希望的観測が元だ。だから、どうやら今日はプロデューサーはそんな気はないらしいことを知り、ちょっとだけがっかりしたのだった。勝手な期待をして、勝手に落胆して、ばかみたいだけれど、こういう日もあるだろう。仕方ない。

 私も椅子から立ち上がって、二人分のマグカップを持ち、プロデューサーのいるソファにもたれかかる。

 上から覗き込むようにしてプロデューサーの顔を見ると、目の下のクマがよくわかる。

「マグカップ、洗って帰るよ」

「え、俺やっとくからいいのに」

「ううん。プロデューサーは寝てていいよ」

「んー。ありがとな」

「気にしなくていいよ」

 んー、と生返事をして、プロデューサーはゆっくり瞼を閉じる。本当に眠いのだろう。


 半分くらい残った、既に冷めてしまったコーヒーを一息に飲みほして、ふぅと息を吐く。下の方に沈殿した砂糖がじゃりじゃりした食感と甘ったるさを口の中に残した。

「コーヒーのいい匂いした」

 ぱちり、と目を開けてプロデューサーが言う。

「今残ったの全部飲んで……あ、ごめん。息かかったかな」

「大丈夫。寧ろ大歓迎ってくらい」

「気持ち悪いこと言ってないで、早く寝なよ」

「気持ち悪いこと言うつもりはなくて、なんだろ、今の、アレに似てるなぁ、って」

「アレ?」

「ほら、恋人の作る味噌汁の匂いで目が覚める幸福な朝、みたいな」

「全然違うんじゃないかな」

「そうかなぁ」

「そうだって」

「でもさ、やっぱりそういうの、良くない?」

「よくわかんないけど、そうなの?」

「そうなの」

 食い気味に言うプロデューサーに「よくわかんないよ」と返す。

 あんまりお邪魔しても申し訳ないし、そろそろ帰るとしよう。そう思って、まずはマグカップを洗うべく給湯室へ向かおうとしたところで、一つの考えが頭に浮かんだ。そして、浮かんでしまったら実践せずにはいられない。

 だから、わざとらしく「あ」と声を出して、百八十度回転し、プロデューサーを見る。

 プロデューサーも私の声を受けて、目を開けて「んー」と視線を投げてくれる。

「じゃあさ、さっきのやつ、私がやってあげよっか」




 数拍置いてプロデューサーから返ってきたのは「え、まじで」というものだった。

 私は努めて平静を装い「うん。私もお腹空いてたし」と歯を見せる。

「ホントに? いいの? おうちにご飯は?」

「いいよ、って。お母さんには今日遅くなるから外で食べてくる、って言ってあるし」

「……お言葉に甘えてもいい?」

「うん、いいよ。作るの、お味噌汁でいい?」

「んー、めちゃくちゃ嬉しいんだけど……」

「だけど?」

「お味噌汁の匂いで起きれられるかどうか不安」

「別に、起きる起きないはこの際よくないかな」

「いや、こんな機会めったにないし、だめ」

「そこは譲れない、と」

「そう」

「なら、もうちょっと香りが強い料理にする、とか」

「天才」

「それで、リクエストは?」

「香り……香り……カレーとか!」

「うん。カレーなら私でも作れるし、いいよ。食べられないものとかある?」

「ない! お任せで」

「ん。じゃあ任された」

 プロデューサーはジャケットの内ポケットから財布を取り出し、お札を抜いて私に差し出す。

「え、カレーにこんなかかんないよ」

「大きいのしかなかったから、とりあえずそれで」

「ん。領収書とかは?」

「いらない。ってか、なんの経費だー、って千川さんに怒られるし」

「それもそっか」

「お菓子とかアイスとかも好きなだけ買っていいからな」

「ん。行って来るね。お米はどうする? 炊飯器ないけど」

「チンして作るやつでいいかなぁ」

「わかった」
「気を付けてな。それでは、よろしくお願いします」

「お願いされました。じゃあ、おやすみ」

「おやすみー」




 事務所から出ると、入る頃には蜜柑色だった空が、もう薄ぼんやりとした紫色に変わっていた。ひゅうっと吹いた風に身を縮めながら、コートの前を締めて一歩を踏み出す。わざととローファーを強めに地面に当てて、こつんと鳴らしてみる。ただスーパーに行くだけだというのに、どうしてかうきうきしている自分がいておかしかった。でも、まぁ、悪くないかな、なんて控えめに舌を出して、路上駐車している車の窓ガラスを覗き込むと、にやけた私の顔が映った。

 鞄からニット帽と伊達眼鏡を出して、つける。これだけの変装でもファンの人たちに声をかけられる頻度はぐっと減るから不思議なものだと思う。

 声をかけられること自体は、それほど嫌ではないが、今日ばかりは事情が異なる。早く材料を調達して事務所に戻る必要があるのだ。

 ローファーとコンクリートとが奏でる調べのテンポを速めて、最寄りのスーパーへと急いだ。




 軽快な入店音をよそに、出入口そばのカゴを片手に取り、まっすぐ青果コーナーに進む。道中、脳内で組み立てたレシピに従って、中学生の時に母から教えてもらった良い野菜の選び方を必死に思い出しながら野菜を選んでいく。にんじんと玉ねぎを一つずつ、それからじゃがいもを二つカゴへ放り込み、続いては精肉コーナーへ。

 牛肉のパックに手が行きかけ、表示されている値段の前で止まった。お任せで、とは言ってもらっているものの、あまりに高額な食材はプロデューサーのお金である手前、使いにくい。少し悩んだ末に、豚肉をカゴへと入れる。

 カレーのルーはどうしようか。甘口か、中辛か、辛口か。そういえば、これも聞くのを忘れてしまった。

 もう一緒にお仕事をするようになってからそれなりに経つけれど、味の好みなんかもあんまり知らないなぁ、と思い知らされるが、めげていても仕方がない。これは次の課題にするとして今日は無難に中辛にしよう。

 そして、さらに申し訳ないけれど、味は私が好きな種類のものを選ばせてもらおう。




 それからローリエの葉っぱとインスタントのご飯をカゴに入れて、全てのものが揃ったことを確認する。あとは何か必要だろうか。数秒思案して、そういえば事務所の冷蔵庫にお茶はあっただろうか、と思い当たる。

 もしなかった場合は沸かさないといけないし、買っておこうか、と手頃なものを手に取って、レジへと向かう。

 できるだけ空いているレジを選んで、足早に会計を済ませる。もらったビニール袋へと食材をつめて、スーパーを出た。

 もうすっかり暗くなった通りを、街灯が照らす。

 私はそのなかを、ずしりとのしかかる食材たちの重さを右手に感じながら、駆けた。




 別に急ぐ必要なんてないのに、ばかみたい。

 どこか自分を俯瞰してみている自分がいて、冷静になりそうになる。

 別にいいでしょ、私が急ぎたいから急いでるんだし、と自分で自分に反論をして事務所の扉を開けた。

 肩で呼吸をしながら廊下を進み、ソファを覗く。そこには穏やかな寝息をたてているプロデューサーがいた。なぜだかわからないけれど、不思議と笑みがこぼれてしまう。

 続いて自分の右手に視線を落とす。

 買い込んだ食材たちが入った袋を握りしめ、翻って給湯室を目指した。




 給湯室の手狭なシンクの上に食材を並べる。使えそうな調理器具を探したところ、お鍋とフライパンに包丁とまな板、それからおたまはあったため、かろうじてカレーは作れそうだった。しかし、当然だがピーラーのようなものは存在しない。これは骨が折れそうだ、とシャツの袖をまくり手を洗った。

 ご飯はインスタントだから最後にチンしたら十分なので、一旦邪魔にならないところに避難させ、じゃがいもとにんじんの皮むきから始めることにする。

 普段はピーラーを使ってむくことがほとんどだから、面倒ではあるが、たかだかじゃがいも二つとにんじん一本に時間をかけてもいられない。手早くくるくると皮をむいて、じゃがいもの芽には包丁の刃元で円を描くように削っていく。

 むき終えたそれらを一口大に切り分け、じゃがいもはアクを抜くために水に晒しておく。次は玉ねぎだ。皮をむいて、これまた食べやすいサイズに滲む視界で切っていく。頬を伝った水を服の肩口で拭い、切り終えた玉ねぎをさっきのにんじんと一緒にを油を敷いたお鍋へと投入した。

 ぱちぱちという小気味の良い音を立てて、玉ねぎが綺麗な色に変わっていった頃合いで、満を持して豚肉を入れる。ぱちぱちという音から一転して、じゅーという盛大な音に変わり、匂いも一層食欲をそそる香ばしいものとなった。

 その証拠にというか、なんというか、私のお腹までぐぅと音を上げだす始末だ。

 これはプロデューサーのためだけではなく、私のためにも早く作る必要があるな、と謎の気合を入れて、お鍋に水を注ぐ。さらにローリエを加え、浮いてきたアクを取り除きつつ沸騰するのを待った。

 沸騰したことを確認し、水に晒しておいたじゃがいもをお鍋に合流させ、火を弱くして蓋を閉じた。

 これからは待つだけだから、先に使い終わった包丁やまな板を洗っておいたけれど、それでも時間が余ったため、忍び足でソファの様子を見に行くことにした。




 こっそりと近付いたソファでは、相変わらずプロデューサーが間抜けな顔で寝息を立てていた。一定のリズムで上下するお腹をひとしきり眺めて、起きる素振りすらないことを確認し、再び給湯室へと戻ることにした。

 しかし、これだけ熟睡しているとなると、どれだけ寝不足であったのか。ちょっとは休んで欲しいものだが、あの男が誰のために身を粉にしているか知っているため、諌めにくい。というより、どうして私なんかのために一銭の得にもならない努力を重ねられるのか甚だ疑問である。

 などと、考えても仕方ないことを考えながらお鍋の蓋を開け、ルーを溶かし込んでいく。お玉でくるくると混ぜるたびに、カレーの強い香りが給湯室に満ちていく。あともうちょっと煮込んだら完成だ。

 これはなかなかのものと言えるだろう。と、出来栄えに満足する私だった。

 そんなさなかのことだ。廊下の向こう側、プロデューサーのいる方の反対すなわち、玄関方面からばたん、とドアが閉まる音が響いた。




 想定外の事態に、一瞬、体が硬直する。事務所に戻った時にドアはきちんと施錠したはずだ。となれば来たのはここの社員の人に他ならない。不意に冷静になって、現状を顧みる。

 カレーの匂いに満ちる事務所、給湯室に鎮座するカレーの入った鍋。いるのは私と眠っているプロデューサーだけ。

 どう説明するのが適切か、まったくわからなかった。経緯を説明しようにも、その経緯の意味がよくわからなさすぎる。カレーの匂いで目を覚ましたい、なんていう妄言を信じてもらえるかどうかすら定かではない。

 泣きだしたい気持ちでいっぱいになりながら、近付いてくる廊下をぺたぺたと進む足音を聞いた。




 廊下から、私のいる給湯室にひょいと人影が差す。

 もはや諦めの境地で、びくっと身を縮め、裁定を待った。

「……何してるんですか?」

 投げかけられたのは、優しい声と怪訝そうな顔だった。

 ベージュのコートを着た美人な女性が私の前で微笑む。やってきたのは、事務員である千川ちひろさんだった。彼女は私の返答を待ってくれているようで、その微笑みを崩さない。

 私が「……えっと、その」としどろもどろになっていると、ちひろさんは待ち切れなくなったのか「凛ちゃん、よね? またどうしてカレーなんて? それも一人で」と問う。私はまたしても「はい。その、えっと」と目を泳がせるほかなかった。

 そのとき、事務所の方から少し嗄れた声が飛来した。

「凛ー。できたー? すごい良い匂いするー」

 ちひろさんは私と目を見合わせたのちに、うんうん頷いて「なんとなく、察しました」と呟いてデスクの方へ歩いて行くのだった。




 ちひろさんの後を追い、プロデューサーのソファのもとへ行くと、プロデューサーはなぜか床に正座させられていた。

 状況が分からず「えっと、これは?」と尋ねると、ちひろさんはくるりとこちらを振り返り「凛ちゃん、さっきはごめんなさい」と本当に申し訳なさそうな顔で言う。

「凛、千川さんに泣かされたんだって?」

 からから笑って私を指さしてくるプロデューサーと、「泣かしてません!」と「泣いてないよ」という声が重なるちひろさんと私。状況は混迷を極める、といった様相でもはや何が何かわからなかった。

「凛ちゃん、プロデューサーさんにカレー作れ、って言われたのよね」

「えっと、まぁ、そんなとこです」

「え、凛が言い出したんですって! なぁ、凛」

 プロデューサーの呼びかけに、私は無言を返す。

「凛ちゃん、本当のこと言っていいわよ」

 ちひろさんと目が合う。

「作れ、って言われました」

「嘘だー!! ちょっと、一万円渡したでしょ!!」

 またしてもくるりと振り返り、ちひろさんは私にウィンクをするので、私は「半々にしますか?」と同じくウィンクを飛ばす。

「ちょっとー、そこ二人そんな仲良かったっけ!?」

 プロデューサーの絶叫が事務所に響く。プロデューサーが言っていたとおり、ちひろさんとはすごく仲良くなれそうな気がした。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆



 蜜柑色の空を見上げ、いつかの三人で食べたカレーの思い出が蘇る。

 そして、なんとなく、思ったままを口にする。

「今日、カレーにしない?」

「ん。俺もそう思ってたとこ」

「先に戻って寝とく?」

「もう一万円は渡さんよ?」

「けち」



おわり

じゃがいもなど根菜類は水から煮ないと味が染みない上に
内が過熱される前に外が煮えてしまい温度差で割れて崩れてしまいますよ

このSSまとめへのコメント

このSSまとめにはまだコメントがありません

名前:
コメント:


未完結のSSにコメントをする時は、まだSSの更新がある可能性を考慮してコメントしてください

ScrollBottom